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2016.06.30
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カテゴリ: 探訪

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冒頭の写真は、 JR長岡京駅 です。右の写真は駅前の広場に立つ モニュメント です。
この駅に集合して、4月中旬に 「粟生から奧海印寺を歩く」 というテーマの歴史散策講座を受講しました。今回は、その探訪の復習と整理を兼ねたご紹介です。

今回は時間と行程の関係から一旦、粟生 (あお) の光明寺前まで車で移動し、そこを起点とする 「京都の歴史散策」 となりました。粟生は長岡京市の北東端部になります。粟生の北が大原野になり、京都市西京区の南端部です。粟生から長法寺を経て奧海印寺に到り、そこから長岡京駅までという行程になります。

「京都の西方郊外、西岡の南部地域。長岡京段階では西京極外となる。山地・丘陵・扇状地であり、古代には古墳の造営が多くなされた」 (資料1) という地域です。 地図(Mapion)は、こちらをご覧ください。

別途詳細な地図をご覧いただくと、粟生の光明寺古墳、長法寺七ツ塚古墳、長法寺の南原古墳、稲荷山古墳群、走田古墳群などの名称が記されていると思います。

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     「総本山光明寺全景」 (色丸印を追記)
道路から総門までの参道の途中に、この案内図 (赤丸の位置) が掲示されています。
この案内図に丸印を追記した辺りを探訪しました。光明寺自体の探訪ではないために、今回は部分的なご紹介にとどまります。

IMG_0722 (400x300).JPG
まずは、総門までの参道近辺を眺めますと、

IMG_0724 (400x300).JPG

目に止まるのがこの掲示です。 光明寺は、報国山と号する西山浄土宗の総本山 です。
ここに 「西山浄土宗 われらの信条」 が総本山光明寺として高らかに宣言されています。
  「一.われらは苦悩を救いたもう阿弥陀仏に帰命し奉る
   一.われらは仏の大悲を悦びつねに名号を称え奉る
   一.われらは仏のみ心をうけて人の世の光とならん 」

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その傍に、 光明寺の案内板 が立ち、 各種の説明案内図なども 設置されています。参道の右側(北側)には、総門側に右の写真の 「閻地院」 があります。その右隣に 「安楽院」 と二院が並んでいます。

ここに立つ説明板は平成5年(1993)2月に長岡京師教育委員会が設置されたものです。
「寺伝によれば、建久9年(1198)に蓮生 (れんせい) 法師(熊谷次郎直実)により創立され、法然上人を開山第一世としています。境内は広く、洛西一の伽藍を誇り、主要な建物は山内に点在して廊でつながれています。応仁、元亀、天正の兵火にあい、江戸時代には享保19年(1734)の火災により焼失し、大半の建物はそれ以降の建立です。」 (説明板より)

寺伝では、法然の勧めにより蓮生がこの地に茅屋の庵を開き仏殿を造立した当初は、念仏三昧寺と名付け、阿弥陀如来坐像を安置したとされています。また、享保の火災の後、「江戸時代前期、32世倍山俊意の手によって聖廟などが整備された」 (資料1) そうです。

この説明板には、御影堂、鐘楼、御廟の写真が掲載され、江戸期の『都名所図会』に掲載の絵図も載せてあります。
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こちらが 『都名所図会』に載る当時の光明寺全景 です。 (資料2)

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各種説明案内図の一つに、「蓮生法師(熊谷次郎直実)と法然上人」と題する逸話の説明板もあります。

IMG_0729 (400x300).JPG 総門の前に立つ 「浄土門根元地」の石碑
光明寺が建つのは粟生広谷の里です。法然上人が承安5年(1175)3月、43歳の時に、初めて「南無阿弥陀仏」の念仏の教えを説かれた場所とされている地です。法然が承安5年(1175)に東山吉水に移る前に、この地に庵を結んだといわれています。
永禄6年(1563)、正朝町天皇から「法然上人ノ遺廟、光明寺ハ浄土門根元之地ト謂イツベシ」という綸旨を賜ったことが、この石碑のいわれだそうです。 (資料1,3)

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総門   (マゼンダ色の丸印のところ)
高麗門という形式で、天保16年(1845)の建造物です。

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木鼻なども簡素な造形です。総門は過剰な装飾彫刻などはみられずシンプルで、厳めしい雰囲気はありません。

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     総門をくぐり、 境内から眺めた総門の景色

IMG_0734 (400x300).JPG 総門を入ったすぐ左手にある 「閻魔堂」
ここにはもともと「閻地院」の本尊として祀られていた閻魔様が安置されえいるお堂だとか。 (資料3)

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紫色の丸印を付けた石段の 「表参道」 が始まります。
表参道にある石造小橋の手前傍には、大きな壺型石造物が奉納されているのがまず目にとまりました。

上掲の閻魔堂側に、緩やかな坂道・通称 「女人坂」 があり、こちらは秋になると鮮やかな紅葉で彩られ 「紅葉参道」 とも通称されるとか。 (資料3)

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石段を登りきった所の参道石畳の両側には礎石が規則的に並んでいます。

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左手を見ると、 「塩田紅果」の句碑 が建立されています。

     うつし世の 楽土静けし 花に鳥

脇道に逸れます。事後に調べて見ますと、松尾芭蕉の生誕地である伊賀上野で1894年に生まれ、沼波瓊音に師事した俳人(本名:塩田親雄)です。弁護士をされていた方でもあります。昭和2年(1927)京都で『蟻の塔』を創刊し、金沢蟻塔会を主宰されたそうです。 (資料4,補遺)
インターネットで入手した各地の句碑から、その句の一端をご紹介します。 (補遺)

  花やかに咲いてさびしき冬桜  伊賀市上野の愛染院にある芭蕉翁故郷塚の近くに

  白梅の一ひらにある陽のめぐみ 石川県金沢市山の上町 塩田紅果・塩田藪柑子親子塚 

  落ちて行く主従を偲ぶ松しぐれ 石川県小松市の安宅住吉神社境内の文学碑の一つ

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石畳の先、正面には 「御影堂」 が見えます。

紫色丸印を付けた辺りに佇んで正面、左右を眺めて見ました。
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左手には 「鐘楼」 があり、その右に 「法然上人立像」 が建立されています。

1949年に鋳造された梵鐘で 、「遣迎鐘 (けんこうかね) と称されています。「発遣の『遣』と来迎の『迎』。つまり、極楽をお勧めくださるお釈迦様と、お浄土から迎えに来られる阿弥陀さまが、鐘と撞木のように出会うことを象徴している」 (資料3) のだとされています。冬は6時、夏は5時の時報に合わせて、夜明けを知らせる鐘を撞くことが光明寺の小坊主さんの朝一番の仕事だとか。

右手に経巻を持たれる姿は、善導大師の『観経疏』中から専修念仏の教えを究極のものと選択されて、この地で専修念仏の最初の教えを説かれた立教開宗の姿を現しているといいます。法然上人生誕850年を記念して、昭和57年(1982)に建立されたのです。全体の高さは阿弥陀仏四十八願にちなみ4.8m。台座2.4m、像高2.4mで、これも西方浄土の「西」にちなんでいるという説も・・・・。 (資料3)

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石畳の右手の方には、 「観音堂」 があります。

光明寺は 洛西観音三十三霊場の第七番札所 です。ここは十一面千手観音像が本尊です。重要文化財の指定を受けて、京都国立博物館に寄託されているそうです。伝惠心僧都作。現在は 八番霊場粟生観音寺の「十一面千手観音」 がこのお堂にお祀りされているそうです。尚、粟生観音寺は、光明寺のすぐ近くにある「子守勝手神社」の境内にあるお寺で、明治の神仏分離後、無住寺となっているとか。 (資料3)
右の写真は観音堂の近くに立つ 五重石塔 です。

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観音堂の西側には白い壁・白い扉という白一色に宝形造りの瓦屋根の建物 「経蔵」 があります。その前に、 「法然上人袈裟掛の松」 という石標が立つ松があります。

「法然上人が初めてお念仏の教えを高橋茂右エ門夫妻にお説にならあれた後、しばらく西山広谷の地に留まろうと思い立ち、袈裟をおぬぎになって抱えられた松の木と伝えられていますもともとは本山の裏山の奥深く、小さな谷の斜面に生えていたものですが、昭和57年(1892)に株分けされて経蔵の前に移されました。いまでも、元の地に松と小さな碑が残っています」 (資料3) とのことです。

経蔵の手前には、棹の部分に雲竜がレリーフされた石灯籠があります。これも目に止まったものの一つです。

IMG_0781 (400x300).JPG 鐘楼と御影堂との間に、 手水舎 が設けられています。
この写真の石畳がV字形になっているのは、手前が御影堂の参道で、右側の石畳の先が石段になり、御影堂南の寺域にある釈迦堂、大書院、小書院などに繋がっているからです。丁度境内の分岐点にあることになります。 (資料1,3)

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御影堂 (みえどう) 黄緑色の丸印を付けた建物です。
現在の建物は、宝暦3年(1753)に再建されたもので、お堂には法然自作と伝わる 「張子の御影」 が安置されています。 光明寺では御影堂が本堂に相当する建物 です。
十八間四面(約33m四方)で、総欅 (けやき) の入母屋造です。

「張子の御影」というのは、弟子湛空の願いを聞き届け、法然上人が母親から受け取った手紙を水にひたして紙粘土のようにし、水面に映った自らの姿を見て、肖像を作られたといわれているものです。湛空はこの像を京都に持ち帰り、漆を塗って仕上げたそうです。それが長らく湛空が住職をしていた二尊院に祀られていたのですが、いつしかこの光明寺に移されたそうです。「建永の法難」がこの像が作られた背景となっています。 (資料3)
詳しくは光明寺のこちらのページを御覧ください (「張子の御影」) 。御影の写真も掲載されています。

IMG_0762 (400x300).JPG 阿弥陀堂
御影堂の右隣、北側にあります。 黄色の丸印の上にある建物です。
こちらは寛政11年(1799)の再建で、蓮生由来の丈六阿弥陀如来像が安置されているそうです。 (資料1)

この探訪ではいずれの建物内部も拝観していません。

実はこの歴史探訪での光明寺訪問の 主目的がこちらに あったのです。
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      「円光大師御石棺」  円光大師とは法然上人のことです。

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石の垣根で囲われた中に、石棺が置かれています。 黄色丸印を付けたあたりです。
石柱の間から小さな阿弥陀仏像が安置されているのが見えます。

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石棺の蓋には 綱掛突起 があります。

この伝法然石棺は「古墳時代後期の組合式石棺。聖廟の碑塔や台石も古墳出土の石棺材」 (資料1) だそうです。冒頭に述べていますが、粟生から奧法印寺にかけてのこの地域は古墳群が集中していますので、いずれかの古墳から現れていた石棺が、ひょっとすると荼毘にふされるまえの法然の遺体を安置するために使われていたのかもしれません。私の個人的な印象です。

伝承ではこの石棺そのものが、東山・大谷の最初の埋葬地から掘り出され、最終的にこの地まで運ばれてきたことになっています。
『都名所図会』はその経緯をこんな風に記しています。
法然が80歳で入滅した後も専修念仏は広がります。それに対し叡山の衆徒が大谷の地に埋葬された上人の墓を暴いて辱めようとしている企みが発覚したのです。このことに対応する経緯が説明されているのです。

「徒弟これを聞いて大いに歎き、御塚を他所へうつすべしと。夜に入りて人しらず石棺を掘り出し、その外上人所持の影像をそへて太秦来迎坊のかたに送る。その翌年安貞二年正月にいたりて、上人の石棺より光明かがやきしかば、来迎坊あやしみ、光のすゑを尋ぬるに、太秦より遙の南のかた、粟生野のほとりに至る。則ちこの所に住する幸阿弥仏のもとに来たり手その趣を語るに、幸阿弥も不思議の霊告ありて、互いに符号す。それより上人の徒弟、太秦より石棺を粟生野にうつしてこれを開きみれば、上人の面貌の存日の如し。則ち当寺の山腹において荼毘す。時に忽然として紫雲空にたなびき、異香四方に薫ず。則ち舎利を拾うて廟堂を造立し、浄土一宗の宗廟となす。」 (資料5)

手許の資料では、「安貞元年(1227)に東山大谷の法然墳墓が比叡山宗徒によって破却されたため、法然の遺骸は嵯峨などに転じた後、法然17回忌に粟生野幸阿のもとに行き、念仏三昧寺の仏殿前で荼毘に付した」 (資料1) という経緯をたどったそうです。法然17回忌は安貞2年(1228)ということになります。
幸阿というのは、幸阿弥陀仏のことで、念仏三昧寺の3世です。

境内で、案内図に色丸印をつけたあたりの範囲に限定されるのですが、そこで目に止まったものをご紹介しておきます。
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一つは、こんな可愛らしお地蔵様に出会いました。阿弥陀堂の近くです。

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同様に阿弥陀堂に近いところにあるこの樹木です。
長岡京市の 「保存樹木指定」 に登録されているという説明板が立っています。平成11年2月10日に第6番で指定された 「モミ」の木 です。

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そして、表参道を下っていく途中で目に止まった、これらの 墓塔 です。

時間がなくてすぐそばまで行き確認することはできませんでしたが、 「無縫塔」の形をしている石塔など から考えると、歴代の住職等の墓石かなと想像します。

右の写真の右側、細長い円柱状の石塔には、「故大教正廣谷哲空隆賢之塔」と刻されているのが読めます。調べて見ると、誓願寺の80世で、光明寺61世、浄土宗(合同)管長となった人の墓塔だということがわかります。誓願寺は浄土宗西山深草派の総本山です。 (資料6)

再訪する機会があれば、確かめてみたいところです。

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最後に、表参道の石段を仰ぎ見て、光明寺を後にしました。

長法寺の方に向かいます。

つづく

参照資料
1) 「京都の歴史散策31 ~粟生から奧海印寺を歩く~」 龍谷大学REC
   (2016.4.14 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成レジュメ)
2) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画
        第4冊の61コマ目です。  :「古典籍データベース」(早稲田大学図書館)
3) 山内案内図  :「光明寺」
4) 塩田紅果  :「mamearuki.info」
5) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫  p509,514

6) 誓願寺   :「神殿大観」

補遺
西山浄土宗総本山 光明寺  ホームページ
熊谷直実(1141-1207)  武士としての苦悩 :「浄土宗」
熊谷直実  :ウィキペディア
正信房(聖信房)湛空   その他の弟子たち  :「浄土宗」
伊賀市上野農人町愛染院の塩田紅果句碑 :「俳句のくに・三重」
塩田紅果・塩田藪柑子親子塚   :「碑像マップ」
文学  安宅住吉神社 :「安宅住吉神社」
『奥の細道』~小坂神社~  :「旅のあれこれ」
あいつぐ法難(67~75歳)  :「浄土宗」

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

探訪 粟生・光明寺から奧海印寺を歩く -2 長法寺七ツ塚古墳・長法寺・西山公園 へ
探訪 粟生・光明寺から奧海印寺を歩く -3 寂照院・走田古墳・開田城跡土塁ほか へ






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Last updated  2016.07.03 18:54:47
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