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2016.11.08
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カテゴリ: 山歩き

冒頭の写真は、小脇山城跡の続きです。割石の石垣が部分的に残っています。
小脇山の標高は国土地理院の地図では373.4mです。

山頂には、四等三角点があります。




小脇山 山頂からの眺め


この案内図が設置されています。眼下には小脇町から八日市駅あたりの町並、東には鈴鹿山脈を遠望できます。南東方向の風景が広がります。

ここから尾根道を進むと、標高372mの箕作 (みつくり) 山です。



この山頂にも、案内図が設置されています。



箕作山からの展望(北方向)


箕作山のすぐ前に、標高324.6mの清水山があります。この山に、観音寺城の支城として、 箕作城 が作られていたのです。箕作山・清水山から北西方向に 繖山( きぬがさやま 観音寺山) が位置します。佐々木氏の拠点・ 観音寺城 があったところです。観音寺城跡は幾度か探訪していますが、箕作城跡は未訪です。今回はすぐ傍から山容を眺めることはできました。
北方には 和田山 、その先に 荒神山 が見えます。快晴ならばさらにその先に、 横山岳・金糞岳・伊吹山 が遠望できるようです。



前回部分拡大してみた案内板の地図で、今回の山歩きのルートです。
赤丸が近江鉄道・市辺駅、マゼンダ色の丸が上掲の小脇山山頂、そして青丸がこの箕作山山頂です。この後、緑色の丸を付けた赤神山の山頂を経て、黄色の丸を付けた瓦屋禅寺に向かいます。
国土地理院の地図をこちらからご覧いただくこともできます。

箕作城と織田信長の関係に触れておきましょう。
永禄11年7月に、和田惟政が岐阜を訪れ、足利義昭の上洛への援助を要請します。信長はこの要請を受け入れる形で義昭を援助します。信長は先陣として近江に出陣し、8月7日佐和山城に入ります。そこから、佐々木承禎に義昭上洛軍への協力を求めるのです。しかし、佐々木承禎はそれを拒否したのです。『信長公記』巻一には、「天下の所司代申し付けられるべく御堅約候と雖も、許容能 (あた) はず。是非に及ばず」と記されています。 (資料1)
承禎に協力するれば天下の所司代職は保障されるぞと約束したのに、拒否されたのです。その結果、信長が観音寺城を攻めるという行動に出ます。義昭上洛の道を確保するためという訳です。

9月9日、信長は平尾村に陣取りし、8日に高宮に着陣。9.10日は人馬を休め、11日には愛智川に進み、佐々木父子三人の立て籠もる観音寺、箕作山の攻略にかかるのです。
「同12日に、かけ上らせられ、佐久間右衛門、木下藤吉郎、丹羽五郎左衞門、淺井新八に仰せつけられ、箕作山の城攻めさせられ、申の剋より夜に入り攻め落とし訖 (おわ) んぬ。・・・・其の夜は、信長みつくり山に御陣を据ゑさせられ、翌日、佐々木承禎が館、観音寺山へ攻め上らるべき御存分のところに、佐々木父子三人廃北致し、13日に観音寺山乗っ取り、御上り候」 (資料1) という顛末になります。
当時は、現清水山を箕作山と呼んでいたということでしょう。信長は箕作城を本陣としたのですが、佐々木父子はあっさりと伊賀に敗走してしまう結果で一旦戦は終わります。
「9月7日、信長は領国内の兵勢と同盟する徳川家康の援軍を合わせて、計4万とも6万ともいわれる大軍を率いて岐阜を出陣した」 (資料2) ということですから、佐々木父子は慄然としたことでしょうね。
箕作城は支城といえど、歴史に名を残しているのです。


箕作山の道標
箕作城跡に行きたい所ですが、今回は太郎坊宮(阿賀神社)がある 赤神山 (あかかみやま) の山頂に向かいます。赤神山は 太郎坊山 とも称されます。



山頂部はごつごつした岩場です。ここで昼食・休憩。




休憩時、ここから眺めた景色です。
南の方向には、三上山が望めました。

少し、脇道に・・・・。
赤神山のあるこのあたりは、かつては比叡山延暦寺(山門)領であり、799年最澄開基と伝えられる 「成願寺」 があり、天台宗の古刹です。全盛期には多数の坊があり、太郎坊山を管理していたとか。成願寺の奧の院として太郎坊宮が祀られていたといいます。
上記のとおり、織田信長が近江に侵攻したときに兵火で衰亡したそうです。江戸時代には成願寺が太郎坊宮を管理していたそうです。明治時代に入り、神仏分離が行われたことで、ここもまた 成願寺と阿賀神社に分けられた のです。現在、 成願寺は行万坊と石垣坊の2院のみに なっているとか。
山頂もそうですが、巨岩が露出するこの山は、修験者(山伏)の行場だったところと言います。「京都の愛宕山に棲む八天狗の筆頭、太郎坊天狗がこの山を守護しているとされ」ていて、ここから太郎坊宮の名が定着したそうです。
太郎坊宮は「勝運授福」の御利益 があると言われていて、参拝客が多いようです。 (資料3)

太郎坊宮にはかなり前に一度訪れたことがあります。 「夫婦岩」 と称される巨岩の磐座が印象に残っています。



ここから山を下り、瓦屋寺に向かいます。

下る時に撮った景色をパノラマ合成した写真
右側の手前の山の連なりの先に、指さすように見えるのが船岡山です。


途中に、瓦屋寺への道標が見えました。

つづく

参照資料
1) 『新訂 信長公記』 太田牛一 桑田忠親校注  新人物往来社 p87
2) 『考証 織田信長事典』 西ケ谷恭弘著 東京堂出版 p144
3) 『滋賀県の歴史散歩 下』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社  p88-89

補遺
小脇山城(滋賀県東近江市)  :「山城賛歌」
近江 小脇山城  :「近江の城郭」
箕作山城 別名箕作城  :「近江の城郭」
観音寺城の戦い   :ウィキペディア

太郎坊宮 ホームページ

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歩く 箕作山ウォーク -1 万葉の森船岡山・十三仏(岩戸山)・小脇山城跡ほか へ
歩く 箕作山ウォーク -3 瓦屋寺・瓦屋寺古墳群 へ





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Last updated  2016.11.10 16:44:30
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