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2017.05.15
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カテゴリ: 探訪 [再録]

祇王井川から別れ、県道2号に向かう途中、青空の下に近江の北から北西方向の山が見えます。
                                                                                       [探訪時期:2012年11月]
   「江部」の標識 県道2号にて
県道を横断すると、いよいよ目的地・祇王祇女の里に近づきます。
 南東の方向でしょうか。遠くに三上山が見えます。

現在、 浄専寺の門 になっているこの門は、永原御殿から移築されたものと伝えられています。
永原御殿の跡は後程訪ねることになりますがブックレットによれば、「家光以降は使用されず、貞享2年(1685)の廃止に伴って、建物は入札によって売り払われてしまい」ます。 (資料2)

浄専寺のあるところは野洲市北です。近江国野洲郡北村と称された土地。江戸幕府の歌学方についた北村季吟の生地です。

途中の建物の軒屋根の上に、小さな鍾馗さんの像が据えてあります。魔除けのお守りの意図でしょうね。京都の町屋の軒上にてよく見かけますので、目にとまりました。

浄専寺から少し先の北自治会館の通りを挟んだ反対側にこの季吟の句碑が建立されています。その背後は墓地の一角になっていました。
句碑には、
       祇王井にとけてや民もやすごおり
と刻まれています。句碑傍の説明板には、この句について、
「妓王のおかげで掘られたさらさらと流れる祇王井川を枯水に悩んだ野洲の民が田用水として使い心を安らかに暮らすことができるであろう」という解釈が記されています。

句碑の傍に、説明板があります。ブックレットとこの説明板の記載を参考にまとめてみます。

北村季吟は寛永元年(1624)12月11日、この地(現地名は野洲市北)に誕生。漢方医だった北村宗龍の孫です。医学を修める一方、松永貞徳らに俳諧を学び、飛鳥井雅章らに和歌、歌学を学んだといいます。国文学者であり、『源氏物語湖月抄』などの注釈書をあらわしました。
元禄2年(1689)に幕府歌学方につくことになり、幕府によばれ66歳にして江戸に下ります。我が子湖春とともに江戸に行ったとか。
松尾芭蕉も季吟の弟子だったのです。季吟は82歳で生涯を閉じます。


句碑から少し歩いたあたりに、この こんもりとした森 があります。
私有地で居住者もおられるようですが、 土塁の跡も残っている土豪の邸地 だったとか。
ここを半周した先に、

木立に囲まれた 「伝妓王屋敷跡」 が見えました。


この地には、 「妓王屋敷跡碑」 が建てられていました。 近江国野洲郡江部庄です。
この後、妓王寺を訪れました。この寺の所在地の現在の地名は 野洲市中北 です。


村人が祇王の威徳を偲んで建立したお寺と言われています。一時期は庵主が居られたようですが、今は住職のおられない寺で、地元の人々が守り続けておられるようです。
 境内に妓王・妓女の塔と呼ばれる供養塔


堂内の 本尊阿弥陀如来座像の両脇に厨子があり、その中に祇王と祇女、刀自と仏御前、が安置されています。 左厨子の扉上部、左扉に祇女、右扉に祇王、また右厨子左扉に刀自、右扉に佛、と名前が記されています。
「毎年8月25日には妓王の命日として、祇王井川に恩恵を受けている旧の10か村(現在の12の自治会で構成する大井十ケ村会)の自治会長や関係者が集まって、妓王らに感謝する法要がおこなわれます。」 (資料1)


堂内でのガイド・妓王さんの説明では、この日に祇王他の木像が拝見できるとのこと。
祇王・祇女のことや妓王寺のことを、訪問者をリラックスさせながら、わかりやすく説明してもらえました。テレビドラマに取りあげられてから、観光訪問が増えたためか、妓王寺紹介のプレゼン動画も短いものですが準備されていました。

横道にそれますが、このガイド・妓王さんの衣装は、 当時の白拍子の姿をイメージしたもの だという説明でした。
『平家物語』を見ますと、「そもそも我が朝に白拍子の始まりける事は、昔鳥羽の院の御宇に、島の千歳・和歌の前、彼等二人が舞ひ出したりけるなり。昔は水干に立て烏帽子、白鞘巻をさいて舞ひければ、男舞とぞ申しける。しかるを中頃より、鳥烏帽子・刀をのけられて、水干ばかり用ゐたり。さてこそ白拍子とはなづけけれ」という文章が「妓王の事」に出てきます。
この本の校注には、白拍子について、「中世の歌舞の拍子の名。転じて、その歌舞を業とする遊女」という注が載っています。 (資料3)

堂内欄間のところに、木像の写真が飾ってあります。


左から、祇女、祇王、刀自、仏御前のそれぞれの木像です。木像の前に置かれた筒状の袋地の前に名前が記されているので識別ができました。


木像写真の左手の 欄間には、妓王屋敷跡碑の碑文文章が全文掲載されています


妓王寺の門の屋根を見上げると、鬼板に部分に「丸に橘」と思われる紋章が付いていました。武家なら井伊家の紋章なのですが・・・・、手許の入手資料類には何も情報がありません。

当日、門の傍で、地元のご婦人方が地産品を紹介・販売されていました。

これで、妓王寺を拝見したいという第一の目的は達成しました。

『平家物語』には、妓王が清盛の寵愛を受け始めた歳を明記はしていません。しかし、「かくて三年と云ふに、又白拍子の上手一人出で来たり。加賀国の者なり。名をば仏とぞ申しける。年十六とぞ聞こえし。」と記しています。その仏が、清盛の別邸(西八条殿)に呼ばれもしないのに単独で推参したのですから、ある意味度胸のある女性だったのでしょうね。清盛が呼んでもいないのに勝手にくるとはと怒ったのに対し、妓王が「遊び者の推参は常の習ひでこそ候へ。・・・・」と取りなしてやるのです。しかし、それがいずれ仇になります。清盛の寵愛が妓王から仏御前に移っていくのですから。
三年間住み馴れた所を去るに際し、妓王は障子に歌一首を書き付けたといいます。
    もえいづるも枯るるも同じ野辺の草何れか秋にあはではつべき
そして、「妓王二十一にて尼になり、嵯峨の奥なる山里に、柴の庵をひき結び、念仏してぞ居たりける」と出家してしまいます。それは、清盛の許を去った翌年、清盛から「仏御前が余りにつれづれげに見ゆるに、今様をも歌ひ、舞なんどをも舞うて、仏慰めよ」という呼び出しを受ける立場になったからです。「身を投げん」とまで思った上で、母の言葉を聞き届けた上での選択でした。妓女19歳、母とぢ45歳で一緒に剃髪することになります。 (資料3)

この文脈から見ると、妓王は18~20歳の3年間、清盛の寵愛を受け、21歳で出家したのです。仏御前も17歳で後を追うようにして出家剃髪します。『平家物語』には、「今年はわづかに十七にこそなりし人の、それ程まで、穢土を厭ひ浄土を願はんと、・・・」と仏御前のことを記しています。
一方、 『平家物語』は妓王の没年には触れていません。いただいたリーフレットには、「建久元年(1190)妓王は38歳で往生を遂げました」と、記しています。 (資料1,3)
「妓王寺略縁起」にそういう記載があるのでしょうか。原典を確かめられる方法があればいいのですが・・・・

京都・嵯峨野の妓王寺の墓地入口にある碑には
  「妓王妓女仏刀自の旧跡明和八年辛卯正当六百年忌、 往生院現住、法専建之」
  とあって、此の碑の右側に「性如禅尼承安二(1172)年壬辰八年十五日寂」と刻まれ
  ているのは祗王のことと思われます。
という記載が祇王寺のホームページにあります。推定文になっていますので、多分それ以外に確たる資料がないということが想像されます。 (資料4)
もしこの推定通りならば、祇王の没年がまた調査研究課題になりますね。歴史のおもしろいところでしょうか。

祇王寺のHPの記載によると、「安永の祇王寺は明治初年になって、廃寺となり残った墓と木像は、旧地頭大覚寺によって保管された。」とあり、明治28年に当時の京都府知事の建物の寄付で現在の祇王寺が復興されたようです。
それを考えると、江部庄の妓王寺が廃寺になることなく連綿と維持され続けてきたということは、地元の人々の思いがそれだけ深いということでしょうか。

(資料1)
つづく

参照資料
1) 当日に資料として配付されたリーフレット
2) 『平家物語・妓王妓女・源義経の里を訪ねて -野洲・竜王をめぐる-』
       埋蔵文化財活用ブックレット14    滋賀県教育委員会
3) 『平家物語』 佐藤謙三校注 角川文庫ソフィア
4) 祇王寺について   :「祇王寺」(公式ホームページ)

【 付記 】 
「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。
ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。
再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。
少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。

補遺
1)『平家物語』の「妓王の事」は次の末文で終わります。
「されば、かの後白河の法皇の長講堂の過去帳にも、妓王・妓女・佛・とぢ等が尊霊と、四人一所に入れられたり。ありがたかりし事どもなり。」(p38)

2) 北村季吟  :「コトバンク」 
北村季吟  :本居宣長記念館 
北村季吟の句  :「俳句案内」 
新玉津嶋神社(京都市下京区)  :「京都風光」

3) 祇王井川探索マップ目次  :「写真ステージ 近江富士」
   祇王井川について、必見のサイトの再掲です。

4) 鍾馗  :ウィキペディア
鍾馗樣  :「我羅里ibudhi」
鍾馗の物語  :「SUZUKI collaboration」

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


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Last updated  2017.05.16 10:38:34
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