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2023.06.28
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カテゴリ: 観照
入場券 です。6月25日で会期が終了しました。
終了間近の21日に出かけました。


三条通を西に進むと、 高倉通との交差点の北西角に特別展の案内 が掲示されています。
右折すると、西側に 京都文化博物館 が見えます。

正面玄関の手前にも特別展のポスターが。


この特別展のPRチラシ 。チラシに掲載の作品は後で引用します。
このチラシの背景に使われているのは、正伝永源院の 「蓮鷺図襖」 です。江戸時代の 狩野山楽筆 で、16面所蔵されていて会期中は前期・後期で入れ替えが行われた展示です。
この襖絵は、「正伝永源院の寺宝」の一つとして展示されていました。今回の展示品の中ではやはり見応えのある襖絵でした。

織田有楽斎を、大名茶人、茶室「如庵」を作った人、一時期は大坂城の淀君や秀頼の傍に居たという程度の認識でした。ほとんど何も知らないレベルです。 この特別展を鑑賞して、初めて織田有楽斎という人物を少し具体的に知り、イメージが膨らんだ次第です。

織田有楽斎という人物から始めます
有楽斎は茶人としての名前。本名は 織田長益 。織田信秀の11男として天文16年(1547)に生まれました。織田信長の弟の一人です。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三天下人に仕え、有為転変の激しい時流を乗り切りました。大名としてサバイバルした後、晩年に京都・建仁寺の塔頭・正伝院を元和4年(1618) に再興しました。隠棲し茶人として名を残し、75歳で生涯を閉じます。天文16年(1547)~元和7年(1621)という時代を生きました。 (資料1)

狩野山楽 は京狩野の祖で、安土桃山から江戸初期に活躍した画家です。1559年生まれで、1635年に没しています。有楽斎とほぼ同時代を生きたことになります。

この特別展は5章構成になっていました。
 第1章 織田長益の活躍と逸話-”逃げた男”と呼んだのは誰か
 第2章 有楽斎の交友関係
 第3章 数寄者としての有楽斎
 第4章 正伝永源院の寺宝
 第5章 織田有楽斎と正伝永源院-いま、そしてこれから-

第1章 の会場では、最初に 「織田氏系譜」 が展示されていました。その次に 『信長公記』巻15 です。前期は巻14が展示されていたようです。その隣りには 「本能寺跡出土瓦」 (京都市蔵)が一部展示されています。焼けて赤茶けた瓦片。本能寺が炎上したことが良く分かる瓦片です。「能」の文字を浮彫にした瓦片も出ています。

手許の『信長公記』を調べてみますと、巻15は天正10年(1582)の記録です。冒頭は「御出仕の事」を記述しています。正月朔日、夥しい群衆が集まったことで、「高山へ積み上げたる築垣を踏みくづし、石と人と一ツになりて、くづれ落ちて、死人あり」という崩壊事故が起こったという書きだしから始まります。その続きに、信長が自ら大名・小名を問わず、御礼銭(祝い銭)をとって、惣見寺毘沙門堂舞台をはじめ、城内を見物させたということが記されています。その中に、「・・・三位中将信忠卿、北畠中将信雄卿、織田源五、織田上野守信兼、此の外、御一門歴々なり。其の次、他国衆。・・・」という記述があります。ここに記された織田源五が織田長益、つまり有楽斎のことです。
また、3月の「信州高遠の城、中将信忠卿攻めらるゝ事」の条では、その末尾に、「御敵城、ふかしの城、馬場美濃守相拘へ、居城なりがたく存知、降参申し、織田源五へ相渡し、退散候なり」 (p360) と、長益の戦場での活躍を記録しています。
巻14は天正9年の記録。2月28日に行われた「御馬揃への事」の記録の「御馬場入りの次第」の中に、「同源五」と名前が明記されています。  (資料2)

一方、巻15の末尾には、「信長公本能寺にて御腹めされ候事」に引き続き、「中将信忠卿二条にて歴々御生害の事」の記録があります。明智光秀による本能寺の変の勃発です。織田信忠はこの時、二条新御所で自害します。長益はこの時、信忠に仕えていたので傍近くに居たはずです。『信長公記』はこの時の「御討死の衆」の氏名を列し挙記録しています。長益の名は載っていません。彼はこの場から生きのびたのです。  (資料2)
その結果、後に「逃げの源吾」という悪評が生まれました。16世紀末に成立した 『義残後覚』第5巻 (加賀中央図書館蔵)には、既にこの悪評の記述があるそうです。この書物も展示されていました。

図録には、悪評の発生・存在を事実としても、これだけで「逃げた男」と断じることは歴史学的態度ではないと問題提起しています。「戦の中、いかに子孫を残し一族を継続させるかと考えることはこの時代、極めて一般的な思考であったと考えられる」(p23)からと。信忠の配下の前田玄以もまたこの時生き延びています。この点は納得できますね。
長益はその後、武士の交わりにおいて、良質な人間関係を築き広げている事実がそれを裏付けているとも言えます。

この最初のセクションには、後期として、 織田信忠・豊臣秀吉の掛物二幅 (正伝永源院蔵)が展示されていました。


目を引いたのはこれです。 「短刀 無銘 貞宗(名物 寺沢貞宗)」 (国宝、文化庁蔵)です。豊臣秀吉の家臣であった寺沢広高(肥前唐津藩初代藩主)が旧蔵していたことにちなみこの名がつくそうです。 (資料1)

<第2章 有楽斎の交友関係>
まさに有楽斎の人間関係を示す事実が掛物のオンパレードで見えてきます。 有楽斎宛の書状 が掛物に 仕立ててあるのです。茶室で掛けられるのに使用されたのでしょうか。
後期展示で拝見した 書状発信者名を列挙 しましょう。桑山左近、松平陸奥守、福島正則、千道安、曲直瀬玄朔、谷衛友、武野宗瓦、徳川家康。名前の半数を私は知りません。
一方、 有楽斎が発信した書状も また掛物になっています。藤堂和泉守。土井大炊助。伊勢谷道七。梅岑軒。東心老。松庵老。中納言。古田織部。すぐわかるのは古田織部くらいです。
掛物は不案内でよくわかりません。哀しいかな書状文面がまず判読不能です。
これらの掛物が茶室で使われたのなら、当時の人々はこれをどのように鑑賞、あるいは受けとめたのでしょうか。一方、今これらが茶室に掛けられたら、茶人はどのように楽しむのでしょうか・・・私には想像がつきません。
結果的に、ここは一通り眺めて次のセクションへ、という次第。

ただ1点、このセクションの最初に展示されていた 木彫像「織田有楽斎坐像」 (正伝源院蔵蔵、通期展示)には、心惹かれました。生前の姿を写したと伝えられ、法体で、右手に中啓を持って坐す像です。会場で眺めたときには、柔和な顔をした物静かな印象を受けました。図録の写真からは、大きく開いた目から、強い眼差しを感じる雰囲気があります。眺める角度によっても印象が変化するのでしょう。

後期展示で拝見出来なかったのが、 狩野山楽筆 で上部に賛が記された掛物です。出品リストでは、第4章での展示だったようです。 PRチラシにはこちらが載せてあります。

木彫像とは少し異なりますが、部分図を引用します。
織田有楽斎のイメージづくりに役立つのではないでしょうか。

<第3章 数寄者としての有楽斎>

最初に展示されているのは、右側の、有楽斎が作った 茶室「如庵」の扁額 です。
この扁額は、 楷書体で書かれ、草冠の「菴」という字 が使われています。この扁額は正伝永源院蔵のもの。
現在茶室「如庵」は、愛知県犬山市の有楽苑内に 移されています。そこには現在、 大悔和尚の揮毫した行書の扁額 が掛けてあるそうです。


富岡鐵斎筆「如庵図」の掛物 が併せて展示されていました。
この図では、 楷書体で「庵」の字を用いた扁額 として描かれています。
つまり、如庵には複数の扁額が伝来している ことになるようです。

「有楽亭茶湯日記」 (慶応義塾図書館蔵)と題する有楽斎の茶会記の書写本が展示してありました。
有楽斎自身が記した茶会記そのものは現存しないようです。茶人と研究者にとっては残念でしょうね。

このセクションには、 有楽斎が愛用した数々の茶道具 が展示されています。
「緑釉四足壺」 (慈照院蔵、重要文化財)は平安時代、9世紀の作品です。
その形状に特徴があります。壺は広口で、胴が張っていて、横方向に太めの半円形の帯が3本、胴を巡っています。そして縦方向には4本の脚部としての盛り上がりがあり、先端部が足になっているのです。緑釉は緑褐色を呈しています。
どっしり安定している印象を受けました。こんな形の壺はたぶん初めて見る気がします。

茶杓 が展示されています。 武野紹鴎作が1本。有楽斎作が2本、これには初霜、落葉という銘 が付いています。 織田道八作が2本 です。順に眺めて行くとそれぞれに茶杓の幅も反り具合も微妙な差異があります。違いがあることはわかりますが、その良さがどこにあるかは私にはわかりません。茶杓を実際に使いこなしていないと感じられない領域なのかな・・・・、さらには、実際にこれらの茶杓を使ってみて初めて良さがわかるのかな・・・そんな気がしました。

上掲の扁額の左に写っているのは 玉垣という銘 が付いた 「唐物文琳茶入」 (遠山記念館蔵)です。 この玉垣文琳は、「大名物」「駿府御分物」「柳営御物」という3つの肩書を持つ茶入 だそうです。この茶入、他の茶入8つと併せて、大坂夏の陣の時、大坂城内の蔵の倒壊で破損し、茶入の陶片が発掘され、「漆屋の藤重藤元・藤巌親子によって漆で修復された」という経緯があるそうです。 (資料1)

「唐物肩衝茶入 銘 残月」 (文化庁蔵)と 「唐物茄子茶入 銘 宗伍茄子」 (五島美術館蔵)はその形と色合いがいいなぁ・・・と感じました


​「青磁輪花茶碗 銘 鎹 (カスガイ) 」​ (マスプロ美術館蔵)はおもしろい銘だなとまず思って、よく見ると、茶碗の外面に鎹が打たれています。茶碗のひび割れた箇所を修復しているのです。茶碗の内側を覗くと、ひび割れた箇所が線として見えるだけです。
茶碗の色合いと輪花の形が、ひびが入っても捨てがたい茶碗ということで修復したのでしょうね。それが一層風趣を加えたと感じたのかもしれません。

どこかで、古田織部は意識的に茶碗を割って、それを修復して、初めてその茶碗を茶会で使うという試みすらしたということを読んだ記憶があります。その事を思い出しました。


この 「大井戸茶碗 有楽井戸」 (東京国立博物館蔵、重要美術品)は、PRチラシと入場券に使われています。16世紀、朝鮮王朝時代のもの。朝鮮半島で作られた 高麗茶碗の一種 で、輸入品です。
井戸茶碗には「渋い色調でところどころ釉薬 (うわぐすり) のちぢれをみせ、竹の筒状の高台 (こうだい) がある」 (『日本語大辞典』講談社) という特徴があります。白釉のムラが茶碗の景色になっているそうです。

この茶碗の遍歴がおもしろい 。織田有楽斎⇒紀伊国屋文左衛門⇒・・・⇒仙波太郎左衛門(江戸)⇒伊集院兼常(薩州)⇒藤田家(大坂)⇒松永安左エ門(耳庵)⇒東京国立博物館(寄贈による) この茶碗一口そのものにも濃密なドラマが展開していたのかもしれません。

<第4章 正伝永源院の寺宝>
織田有楽斎が復興したのは 「正伝院」 でした。明治時代の拝仏棄釈の影響がここにも及んでいます。当時、 「永源庵」 は無住であったため即刻廃寺を命じられ、その敷地、堂宇へ正伝院が移されたのです。ところが、無住であったとはいえ、永源庵は細川家の始祖・頼有以後八代の菩提寺だったことから、細川伯爵家が関係してきたのです。 永源庵という寺名を「正伝永源院」として復興させること を条件に「保存資金」を提供するということになったとか。その結果、永源庵の敷地に移った正伝院は 「正伝永源院」 という寺名に改称されました。会場にもその説明が掲示されていました。 (資料1)

つまり、このセクションでは、正伝院時代の有楽斎所有だったものから枠が広がり、正伝永源院の総体としての寺宝を展示するという形に、次元が移っていました。

見所の一つは上記の 「蓮鷺図襖」 です。
加えて、現在は犬山市にある有楽苑内の茶室「如庵」の付属書院を飾る旧正伝院書院障壁画のうちの 「山水図」 (名古屋鉄道株式会社蔵)が展示されていました。 長谷川等伯と狩野山雪のそれぞれが描いた水墨の襖絵 です。長谷川等伯の襖絵を見られたのはラッキーでした。
伝徽宗筆「架鷹図」 (正伝永源院蔵)の掛物も見応えがあります。鷹が様々な姿態で描かれています。8幅が会期中入れ替えで展示されていたようです。図録には勿論8幅すべて収録されています。

印象に残るのは、室町時代の 「蛸足香炉」 (正伝永源院蔵)です。焼香の際に用いる道具ですが、香炉の台が12本の脚を持ち、6本は地につく脚ですが、6本は途中でくにゃりと曲がった状態で、手招きしている感じ、まさに蛸の足を即座に連想させ、おもしろい作品でした。
蒔絵で装飾された香炉、湯桶、箱、刀掛など の優雅な作品の展示もありました。

<第5章 織田有楽斎と正伝永源院-いま、そしてこれから- >
最後のセクションのタイトルに「いま、そしてこれから」というフレーズが付いています。
なぜ? と思いました。
織田有楽斎は有楽流茶道を創始した人。この有楽流茶道が現在も正伝永源院に継承されているそうです。2022年に有楽流茶道を継ぐ人々により、400年大遠忌が行われたと言います。ナルホドです。


通期で展示されたこの 「狸形壺」 (正伝永源院蔵)が形としておもしろいものでした。
明代、15~17世紀の作品と推定されています。高さが6cmにも満たない小さな蓋付きの器です。青銅製ですが表面に漆が塗られていて、落ち着いた風合いになっていて、狸の顔がカワイイ。墨を擦るための硯滴に使われたと推定されているとか。 (資料1)

ここには、 「有楽斎手造茶碗」 が一口展示されていました。赤茶碗です。


これは 当日購入した図録の表紙 です。
ここに使われている 「黒楽『正傳院』字茶碗」 (正伝永源院蔵)がこの最後のセクションに展示されていました。 ​伝仁阿弥道八作​ 。江戸時代、19世紀。
また、 仁阿弥道八作「御本立鶴写茶碗」 (正伝永源院蔵)が展示されています。
胴部に轆轤引きの筋目が見え、立鶴文様が象嵌印花されていて、胴部の一箇所を意図的に押さえて凹ませてあります。少し歪なところがおもしろい茶碗です。

「銹絵暦文茶碗」 が三口展示されていて、この文様が印象に残りました。暦をデザインに用いた茶碗です。 楽了入、楽旦入、仁阿弥道八 それぞれの作品です。三者三様でおもしろさがあります。
図録を読んでいて知ったのですが、茶室「如庵」には、暦を壁に貼りつけた「暦貼り」があるとか。有楽斎の美意識の一端がそこに表現されているのでしょう。

この最後のセクションにも、 「織田有楽斎像」の掛物 (大阪青山歴史博物館蔵)が展示されていました。大角南耕画、梧庵紹材賛。江戸時代、19世紀。
上記の有楽斎像とはまた少し雰囲気が異なる感じです。柔和さを感じる側面は同じです。


図録の裏表紙。 織田家の家紋 が中央にデザインされ、二羽の鳥が飛んでいます。
よく見ると、この鳥は 「蓮鷺襖」に描かれた燕 が使われているようです。

正伝永源院を一度訪れてみたくなりました。
2021年秋に約100年ぶりに 石造五重層塔 「武野紹鴎供養塔」 が戻ってきて、本堂に安置されている有楽斎像の目線の先の庭に設置されたと言います。関西財閥の藤田家の奉納によるものとのこと。
この供養塔自体にも変遷の歴史が刻まれているようです。当初は武野紹鴎25回忌の天正7年(1579) に堺の塩穴常楽寺内に建立された層塔。有楽斎が正伝院を再興した折に、当時の所有者、堺の難波屋に交渉して、石塔を移設したそうです。 (資料1)

本堂に安置されてる有楽斎像とともに、その石塔を眺めてみたいなと思いました。

ご覧いただきありがとうございます。

参照資料
*出品リスト「四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎」
1) 当日購入した図録『大名茶人 織田有楽斎』 発行 読売新聞社
    編集:京都府京都文化博物館 サントリー美術館 読売新聞社
2)『新訂 信長公記』 太田牛一  桑田忠親校注  新人物往来社 

補遺
正伝永源院 ​  ホームページ
日本庭園 有楽苑 ​ ホームページ
有楽苑(国宝茶室 如庵) ​  :「Aichi Now」
茶室「如庵」 ​  :「三井広報委員会」
織田長益  ​   :ウィキペディア
織田有楽斎の墓 ​ :「京都観光Navi」

  ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​





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Last updated  2023.06.28 10:00:10
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