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御影堂門と南の阿弥陀堂門との中間あたり、門側(東辺)に手水舎があります。 水の注ぎ口は龍像です。水盤の側面には清浄水と刻されています。コロナ禍の関係でしょうか、龍の口から水は注がれていません。 阿弥陀堂こちらも単層入母屋造本瓦葺で、間口15.6m、奥行21.25mの木造建物です。阿弥陀堂の屋根全体が張り出していて、正面に階があります。 南東角で、廻縁の下部の礎盤、縁束、木組の眺め。基壇の上面は敷瓦(甎)を四半敷にして舗装してあります。 南側からの眺め 階傍からの眺め 阿弥陀堂と大師堂をつなぐ渡り廊下、大師堂の南臆面 北東角から眺めた阿弥陀堂。木組を金網が覆っています。鳥害除けでしょうか。 象形の木鼻は見やすいですが、蟇股が金網に遮られて十分に見えないのが残念。 階前で、堂屋根の軒先を支える柱は礎盤上に建てられ、足元を保護金具で覆われています。その意匠はごくシンプルです。 境内南東隅に鐘楼があります。 鐘楼の欄間の透かし彫り、虹梁のシンプルな彫り、木鼻の獅子像を楽しめます。 境内からの阿弥陀堂門の眺め 木鼻は獅子像と花。開花の状態が彫刻されていて、立体感が見事です。 阿弥陀堂門の門扉御影堂門と同様に桟唐戸ですが、こちらの方は狭間の透かし彫りがなくて中央に宗紋が浮き彫りされているだけです。下部も、9つの枡形に対し4つの枡形とシンプルにしてあります。 虹梁上の蟇股と大瓶束それぞれの両側の透かし彫りは見応えがあります。 外側から眺めると、孔雀と鶴が透かし彫りにしてあります。 阿弥陀堂門もまた、築地塀から少し凹んだ内側に門が設けられているのは御影堂門と同じです。違いは築地塀の延長面に埓(ラチ)が設けてある点です。これは勅使門の所と同じ形式です。 道路から眺めた阿弥陀堂門。門の先に阿弥陀堂が見えます。境内に戻り、御影堂門に向かいます。 境内から撮った御影堂門。 屋根の先端近くに置かれた獅子像の留蓋 御影堂門前に佇み、東方向を眺めた景色。突き当たりは柳馬場通で、南北の通りになります。地図を確認しますと、御影堂門前の通りの南北両側は、すべてお寺の名前です。佛光寺の塔頭寺院なのでしょう。 柳馬場通側から眺めますと、突き当たりが御影堂門でその門の向こうに大師堂の大屋根を眺める景色になります。門に至る両側にお寺が軒を連ねているという景色になります。浄土真宗系としては、本願寺よりも古い時代から、教団を形成して活動してきたのが佛光寺派だったことを改めて今回認識しました。『都名所図会』や手元の書によりますと、文明年間(1469-1487)、経豪上人の時代に、教団としての大きな転換点があったようです。(資料2,3)日本史の年表を見ますと、「1461 蓮如、最初の『御文』を書く」、「1471 蓮如、越前吉崎に道場建立」「1496 連如、石山に御坊を建立」という史実が載っています。(資料4)写真を撮らなかった建物が2つあります。1つは鐘楼の西隣りにある「和合所」と称される建物。これは、もとは毎朝法話をされる方のための宿泊所として使用されていたようです。現在は、「ロングライフをテーマに地域の暮らしや観光をデザインする『D&DEPARTMENT』の京都店」として活用されています。(資料5)もう1つは、手水舎の東側、築地塀との間にある「茶所」と称する建物。この茶所は「茶所布教」として法話の会場に使われています。(資料6)また、昼は定食が人気の食堂(dd食堂京都)としても使われています。(資料5,7)が、私が訪れた時は閉まっていました。営業外の時間だったのかもしれません。いずれにしても、この本山佛光寺の探訪で、京都に本山を置く浄土真宗系4宗派の伽藍・境内を一応訪ね終えることができました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. 建物について :「本山佛光寺」2.『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫3.『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p338-3414.『新選 日本史図表』 監修 坂本賞三・福田豊彦 第一学習社5. 境内に素敵なセレクトショップも。仏光寺通の名の由来となった「佛光寺」 :「ことりっぷ」6. 本山佛光寺茶所布教 :「浄土真宗の法話案内」7. 佛光寺 :ウィキペディア補遺真宗佛光寺派 本山 佛光寺 ホームページ佛光寺 :ウィキペディア真仏 :ウィキペディア了源 :ウィキペディア経誉 :ウィキペディア[五十一]「経豪上人」~経豪上人、佛光寺を継ぐ~ :「真宗興正寺派 本山興正寺」真宗十派 :「真宗教団連合」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・下京 仏光寺 -1 御影堂門・大師堂・灯籠・しだれ桜 へ
2024.06.11
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風俗博物館と龍谷ミュージアムでの鑑賞をはしごした後、続きに運動を兼ねて仏光寺までウォーキングしました。粟田口にある仏光寺本廟は以前に探訪したことがありますが、この真宗佛光寺派本山・仏光寺は訪れたことがありませんでした。四条通の南が綾小路通、さらにその南が仏光寺通と、寺名が通りの名称になっています。更に一筋南が高辻通です。南北方向は仏光寺通と高辻通の間に仏光寺が位置します。東西方向は、烏丸通の東側の東洞院通が、寺域の西側境界になります。地図で確認して初めて気づいたのですが、高倉通と堺町通は高辻で一旦道路が途切れ、仏光寺通から北にこの2つの通り名が続きます。そして、高倉通(西)と堺町通(東)との中間に高辻通から仏光寺通を結ぶ南北方向の通りがあります。高倉通と堺町通が合流し、仏光寺の門前の通りとなり、その後再び元の通りに分岐しています。つまり、東側はこの門前の南北の通りが境界です。 御影堂門を正面から。逆光になり、門の石段近くから撮りました。 築地塀には、5本の定規筋がひかれています。北側の築地塀に凹みが見える箇所には勅使門があります。北から廻って下ってきた時、撮り忘れました。 南を眺めると、門前の通りは突き当たります。築地塀の角の所が高辻通です。 先に、寺域の南辺となる高辻通と築地塀の南東角を眺めておきましょう。築地塀の手前に、慶讃法会基本理念「大悲に生きる人とあう 願いに生きる人となる」が大書された掲示板が設けてあります。(資料1) 木鼻の獅子像 吊灯籠 龍が打ち出されています。 門扉門扉上部の狭間の中央には宗紋が透かし彫りにしてあります。 御影堂門は四脚門で、本柱と控柱の間には花狭間が嵌め込まれています。 御影堂門側から眺めた大師堂(御影堂) 北東側には寺務関連の建物。名称未確認 大師堂は、単層入母屋造本瓦葺で、間口26.5m、奥行33.1mという規模の木造建物です。正面に間口10.2mの向拝が付いています。(資料2) (資料3)これは江戸時代に出版された『都名所図会』に挿画として載る佛光寺の全景です。親鸞聖人が流罪から赦免された後、建暦2年(1212)40歳の時、帰京されて山科・東野に草庵を結ばれました。この草庵が佛光寺の草創となったそうです。当初は、興正寺と号したそうです。第七世了源上人の時、後醍醐天皇の元応2年(1320)、今比叡竹中庄汁谷に移転します。現在の京都国立博物館のあたりです。天正14年(1586)、豊臣秀吉が方広寺大仏殿建立を発願した折に、要請されて五条坊門通(現在の仏光寺通)の現在地に移転しました。(資料4,5)佛光寺という名称の由来を、『都名所図会』は次のように伝えています。「後醍醐天皇の御宇に盗賊寺内に乱入し、尊像(注記:阿弥陀仏象)を奪ひ逃ぐるといへども重くして詮方なく、二条河原に投げ捨て去りぬ。その夜より瑞光を放ちて帝闕を映照し、百官これをあやしむ。帝光の行衛を尋ねさせ給ふに弥陀の光明なり。勅使驚いて尊像を帝に奉り、宮中に安置す。その後、興正寺に遷座し、寺号を仏光寺と改めて勅願を賜ふ」(資料4)また、仏光寺のホームページには、「勅願により『阿弥陀佛光寺』略して佛光寺の寺号を賜ったと伝えられています」(資料5)と説明されています。 大師堂の柱と木組 向拝の木鼻と蟇股の彫刻 金網があるのが残念! 大師堂前のブロンズ製灯籠 格狹間には様々に躍動する獅子の姿 雨水槽の正面に宗紋が陽刻されています。その前、大師堂と阿弥陀堂の前方に3本の桜の木があります。しだれ桜です。知る人ぞ知る桜スポットになっているようです。3本の桜の木は昭和47年(1972)、秩父宮・高松宮・三笠宮のお手植だとか。(資料6)次回は阿弥陀堂似向かいます。つづく参照資料1. 御消息・基本理念 :「本山佛光寺 慶讃法会特設サイト」2. 建物について :「本山佛光寺」3.『都名所図会 6巻[2] 』秋里籬島著、竹原亞信繁画、天明6(1786)刊 :「国会国会図書館デジタルコレクション」4.『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫5. 佛光寺のご紹介 :「本山佛光寺」6. 佛光寺の桜 3本の紅色しだれ桜 :「ウォーカープラス」補遺真宗佛光寺派 本山 佛光寺 ホームページ佛光寺の桜 :「まいぷれ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・下京 仏光寺 -2 阿弥陀堂・阿弥陀堂門・鐘楼・手水舎 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・東山 仏光寺本廟
2024.06.10
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割拝殿の左(西)側に大神輿が2基収納されています。前回ご紹介した全景です。京都アニメーション制作の「響け!ユーフォニアム3」というアニメの4月21日放映の第3回にこの許波多神社の神輿を背景に写真を撮るシーンが登場したのだとか。架空の北宇治高校吹奏部を舞台としたアニメで、1年生部員・義井沙里の家という設定でこの許波多神社が登場するそうです。アニメファンには、大神輿が見られるなら関心が高まるかも知れません。(資料1)以前探訪した折、知らなかった大神輿が公開されて拝見できることは大いに有難いことなので、この大型連休中に訪れてみた次第です。アニメファンかどうかは判りませんが、私が訪れた時には、5~6人の参拝者に出会いました。 神輿に近づきますと、前面に「献燈」と墨書した提灯が一列に吊される中に「南」「北」と一文字だけ記された提灯が各神輿の正面に吊されています。前回ご紹介の神社の案内掲示に、北部・南部に分かれた氏子地域という説明がありますので、かつてはこの2基の神輿も、氏子地域に対応していたということでしょう。この大神輿は、「昭和30年代半ば以降は巡行することもなくなった」(資料1)とのこと。報道記事にある通り、各神輿の前には、獅子頭が置かれていました。獅子舞いに使う頭です。獅子舞いを見る機会などほとんどありません。獅子舞いを辞書で引くと、「獅子頭をつけて舞う民俗芸能。広くは鹿または竜などの頭をつけて舞うものを含んで呼ばれる。悪魔払いの舞として普及した。しし踊り」(日本語大辞典・講談社)と説明されています。余談ですが、ネット検索してみると、京都・八坂神社の節分祭で祇園獅子舞が奉納され、京都の中堂寺六斎会では、演目に「獅子舞い」を演じられています。(資料2,3)さらに、京都市伏見区にある御香宮神社の「神幸祭」には、巨大獅子舞「獅々若」の巡行が行われるようです。(資料4)それでは、正面から見える範囲で神輿を細見することにいたします。まずは、「南」の神輿から: 正面と南側面 神輿の四隅には、隅木から風鈴(風鐸)が吊されています。 神輿正面の朱塗りの鳥居。神輿の四面それぞれに鳥居が設けてあります。 鳥居には「正一位柳大明神」の扁額が掲げてあります。前回にご紹介した神社案内の掲示によりますと、「永禄12年(1569)正一位宣叙」とあります。(案内文より)明治9年に現在地に移転する以前、つまり、柳山の社殿があり、柳大明神と称された時代にこの神輿が造立されたことがわかります。額縁には、菊と葵の文様が装飾されています。 鳥居の柱の上部、島木の下には雲形文様、その下に、右の柱に昇龍、左の柱に降龍の浮き彫り金具が装飾されています。御堂には瓔珞が飾ってあります。 神輿の正面、屋根の下、虹梁の上に人物像が彫刻されています。随身像でしょうか、不詳です。 台輪中央の台輪紋には菊紋が付けられその周囲を桐文が装飾しています。台輪隅金物は鋲打ち金具で質実剛健、黒塗りです。 正面と北側面 神輿の屋根の頂点に据えられた大鳥(鳳凰) 棒先金具この金具の紋は何と称するのでしょうか?「北」の神輿に移ります。 神輿の基本スタイルは、双方同じです。 南側面 北東側から 正面の鳥居、右側の柱には、鳳凰の浮き彫り金具で装飾されています。片方だけ撮りました。 また、神輿・北面の鳥居の柱には虎の浮き彫り金具が装飾されています。神輿の屋根の四隅の蕨手(ワラアビテ)には小鳥が乗っています。 北西隅 南西隅 北東隅 南東隅対比して眺めますと、南の神輿の蕨手には小鳥がとまっていません。細見すると、いくつも違いがあることに気づきます。全く同じものは作らない、違いを盛り込むということが文化の根っ子にあるように感じます。 北東の隅木に吊された風鈴(風鐸) 棒先金具南の神輿とは文様が異なります。こちらは菊紋です。飾紐のかけ方は、南・北の神輿ともに同じスタイルです。この大神輿が作られた時期は正確にはわからないようです。神社の記録には、室町時代の末期に神輿が作られたとの記録があると言います。それに該当する神輿かもしれない・・・・という推測にとどまるとか。現時点では文化財の指定はないそうです。(資料1)想像するロマンは残されています。大神輿の公開は今後の連休にも予定されていると報じられています。6月1~5日、7月13~15日、8月10~12日、9月14~16日です。11月4日も追加されるとか。 参道を石鳥居に歩むと、こんな景色を眺めることに!木々の枝々が重なりあい、太陽の位置、光との関係から円環の中を抜け出るような様相です。「夏越しの祓え」として行われる「茅の輪」くぐりを連想してしまいました。 これで、大神輿のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. 朝日新聞社報道記事(2024.5.4) 京アニ作品の「聖地」宇治・許波多神社 2. 祇園獅子舞・祇園太鼓 八坂神社 節分祭 2024-02-03T14:00 YouTube3. [獅子舞い] :「京都 中堂寺六斎会」4. 京都伏見の獅子舞について :「獅子宿燻亭8」補遺神輿 :ウィキペディア各部の名称をご紹介 :「中台製作所」神輿の部分名称 :「宮本卯之助商店」神輿の部位の名称と解説。お祭り好きなら知っておくべき神輿の部品たち。 :「おらがまち」[本殿国宝奉祝奉納行事]八坂神社22.11.20祇園獅子舞奉納記録映像4K YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市五ヶ庄 許波多神社再訪 -1 境内と大神輿 へ
2024.05.07
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宇治川に架かる隠元橋付近は萬福寺を開山した隠元禅師の渡岸地です。この隠元橋から萬福寺に向かう道沿い、徒歩数分のところに、許波多神社があります。所在地は宇治市五ヶ庄古川です。5月4日(土)の朝日新聞朝刊の25面「京都」(地方版)に載った記事が目に止まり、昨日(5/5)久々に再訪してきました。「京アニ作品の『聖地』宇治・許波多神社」と題したけっこう大きな記事が目に止まったのです。この五ヶ庄古川にある許波多神社は以前に地元探訪の一環で訪れていました。しかし、その探訪の折には、大神輿のあることも知りませんでしたし、見ることもなかったのです。この報道記事で、大型連休にも神輿を追加披露するという対応を神社側がとられることにされたという報道でした。ということで、拝見していなかった大神輿を拝見に行きました。併せて、対応公開された神輿を眺めてきました。報道記事の見出しは、アニメファン向けの表現です。 響け! ファンへの「神」対応 登場した大神輿 公開日追加に歓喜の声という見出しが上掲見出しに併せて記されています。私は知らなかったのですが、京都アニメーション制作の「響け! ユーフォニアム3」という現在NHK・Eテレで放映されている作品にこの許波多神社と大神輿が出ているそうです。 参道入口に設置の「許波多神社略記」を載せておきます。 屋形石灯籠参道の両側に、このスタイルの石灯籠が奉納されています。 その先に、石鳥居があり、「許波多神社」の扁額が掲げてあります。 参道の奥には、朱塗りの鳥居が見え、参道両側には奉納された幾基かの石灯籠。 朱塗りの鳥居の手前左(西)側に、手水舎が見えます。 手水鉢へは龍像の口から水が注がれています。 手水舎の覆屋の傍に駒札「橋桁復元」が設置されています。「左右の石は旧鎮座地(現・宇治市黄檗運動公園)の宮川に架かっていた橋桁」を復元したものと記されています。 朱塗りの鳥居の手前に狛犬石像が奉献されています。台座の記銘からは何時頃のものか判読できませんでした。 鳥居をくぐると、参道の前方に「割拝殿」が設けてあります。参道の右(東)側方向に社務所があり、参道脇に 木柵囲いの中に「柳大明神」と記された襷を首に掛けた「神馬(シンメ)」が設置されています。「神馬とは神様がお乗りになる馬のことです。 許波多神社が創建された飛鳥時代のような昔には、神様に祈願する際、願い事が成就するように、馬を神馬として奉納されることがありました。許波多神社においても、昔には、神馬が奉納され、祭礼が行なわれたと考えられています。 江戸時代以前、柳山(現在の宇治市黄檗公園)に鎮座していた頃は、社前から西の大池(巨椋池)に逹する東西一直線の馬場道があり、北部・南部に分かれた氏子地域によって、祭礼が執り行なわれていたという伝承が残されています。 社宝として現存する二つの鞍と鐙(アブミ)は、二頭の神馬が馬場道を荘厳に駆けていた様子を想起させます」(駒札転記) 割拝殿は唐破風の屋根になっていて、唐破風の頂点部の鬼板を眺めると、「柳」という文字が陽刻されています。柳大明神の柳なのでしょう。 割拝殿の中央部は本殿への参道になっています。参道から見上げると、唐破風屋根を支える蟇股等はシンプルな形です。 参道の左(西)側の拝殿部分に、今回のハイライト、「大神輿」が2基公開されていました。大神輿の細見は次回にまとめます。 割拝殿を通り抜けた先には、本殿手前に拝所とその左右に本殿を囲む朱塗りの瑞垣が見えます。 拝所の手前はこんな感じです。 左側に回り込んで見ましたが、側面からも本殿は殆ど見えません。主祭神は、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(マサヤアカツカツハヤヒアメノオシホミミノミコト)で、 天津日子彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホニニギノモコト) 神日本磐余彦尊 諡 神武天王 (カンヤマトイワレヒコノミコト) を併せて三座が祭神です。 割拝殿の右(東)側には、当社の案内として、詳しい案内文が掲示されています。詳細は神社にご参拝いただき、お読みいただくとして、次の事項を要約します。*創建 孝徳天皇大化元年(645)、山背国莵道郡許畑、柳山に神殿を造営*創建当時、許波多神社あるいは木幡神社と号した。柳山鎮座の故に、後に柳大明神と称され、それが正式社号になっていった。*明治9年現在地に移転後、元の名称に復称した。*移転の理由は、明治8年、陸軍火薬庫建設のために、社地全域が社地全域が無償上地となった。つまり政府に接収された。*現在地は御旅所だった。ここに移転させられた。 この古地図も掲示されています。大神輿の公開は今後の大型連休にも予定されていると報じられています。6月1~5日、7月13~15日、8月10~12日、9月14~16日です。11月4日も追加されるとか。次回は、大神輿の細見をいたします。つづく補遺許波多神社 :ウィキペディア許波多神社[宇治観光] :「京阪宇治線 おけいはん」割拝殿 :「大阪文化財ナビ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市五ヶ庄 許波多神社再訪 -2 大神輿の細見 へ
2024.05.06
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京都国立博物館で特別展「雪舟伝説」を鑑賞した後、普段ならJR奈良線の東福寺駅に戻るのですが、大型書店に立ち寄るために、JR京都駅に向かうことにしました。七条通を西に歩むのは久しぶりです。そこで、「七条大橋」を西に渡った後、「松明殿稲荷神社」に立ち寄ってみました。この2箇所はかなり以前にブログ記事を載せています。詳細はそちらに触れていますので、ここでは簡略なご紹介にとどめ、覚書を兼ねたいと思います。冒頭の左の写真は、鴨川の下流方向です。南には塩小路橋、その先にJR琵琶湖線と東海道新幹線の鉄橋を遠望できます。鴨川左岸沿いの川端通は塩小路橋の地点を南端とし、鴨川の左岸堤防上は塩小路橋の地点を北端に「師団街道」が始まります。 七条大橋東詰に駒札が立てられています。 左の写真は鴨川の上流方向の景色。南側の歩道から摂りました。七条大橋から上流には、正面橋、五条大橋、松原橋、団栗橋、四条大橋が順次架かっています。正面橋を東に進めば、突き当たりは豊国神社。かつては突き当たりが「方広寺・大仏殿」であり、この橋は正面の通りに架かる橋ということになります。豊臣秀吉が平安の都に都市大改造計画を実施したとき、五条通を新たに設けて、五条橋を架けました。かつての五条通を松原通に変更しました。そのため、牛若丸と弁慶が五条橋の上で闘うという場面に登場する橋は、松原橋と呼ばれるようになりました。現在、牛若丸と弁慶のモニュメントは現在の五条大橋の傍に設置されてはいますが・・・・。五条大橋の名前に引き寄せられた結果でしょう。右の写真は、橋上の南側歩道で振り返り、東方向を眺めた景色です。 七条大橋の西詰、鴨川の右岸に「松明殿稲荷神社」があります。 七条通の南側歩道沿いに、石鳥居と石柵が設けてありますがここでは省略します。どちらの鳥居にも、「松明殿稲荷神社」と記す扁額が掲げてあります。江戸時代に出版されたいわば観光ガイドブックである『都名所図会』は「炬火殿(タイマツデン)」という見出し項目でこの神社を説明しています。(資料1) 石鳥居をくぐると、すぐ右側に地蔵堂と手水舎が見えます。右端に石柵が少し写っています。 お地蔵さまは楽しそうなお顔に描かれています。 神社境内に地蔵堂が融和しています。 「手洗水」と刻された手洗、その右には石井戸が見えます。手洗の傍に水道の蛇口がありますが、かつては右側の円筒形の石井戸から水を汲み上げて手洗水にしたのでしょう。手洗の斜め左前方に駒札が設置してあり、宝暦2年(1752)夏、石井戸と手洗が木食正禅養阿上人により寄贈された旨が記されています。石井戸の正面には太字で「養阿水」と陰刻されています。養阿は江戸時代中期の木食僧で、高野山で木食行を志した後、下山し、七条の梅香庵を住まいとして念仏聖の活動に専念したそうです。京都周辺を勧進しつつ、阿弥陀如来像の造立、多くの土木工事、五条坂の地に安祥院を復興するなど、様々な活動を実践しました。寛保1(1741)年に法橋上人位を授与されたと言います。(資料2) 手水舎の南側には、覆屋が設けられた「天満宮」が祀ってあります。角柱の石灯籠の正面に「天満宮」と刻されています。小社の屋根の形はあまり見かけないスタイルです。流造の変形でしょうか。 松明殿稲荷神社は、伏見稲荷大社の境外末社で田中社とも言われます。天暦2年(948)に創始され、天暦10年(956)、勅により燎祭(リョウサイ)が行われ、その時に「炬火殿}の号を賜ったそうです。(資料3)燎祭とは、「柴をやいて天地山川を祭る」(『普及版字通』)ことを意味します。『都名所図会』には「稲荷の祭礼の日、神輿臨幸の時、七条河原に於いて松明を照し神輿を迎ふるなり」とあります。(資料1)炬火殿がいずれかの時点で松明殿と称されることになったのでしょう。当初は黒門通塩小路下るにあったそうですが、その後幾度かの移転を経て、宝永8年(1711)に現在地に移ったとされています。 祭神は、倉稲魂命(ウガノミタマノミコト)をはじめ、大己貴命(オオナムチノミコト)、伊弉諾命(イザナギノミコト)、伊弉冊命(イザナミノミコト)、猿田彦命(サルタヒコノミコト)が祀られいるそうです。このほか現在、天智天皇像(木像)、大友皇子像(木像)を安置するとか。(資料3) 東側面に回ってみました。本殿は切妻造の瓦葺き。本殿を瑞垣が囲んでいます。拝殿の側面に連子窓が設けてあります。 向拝の柱の木鼻が目に止まりました。全体が朱塗りの中で、木鼻の獅子像だけがブロンズのような色合いです。これがワンポイントの押さえになっているように感じました。ここの地名は「稲荷町」です。余談ですが、ふと思って確認してみると、伏見稲荷大社の所在地は「深草藪之内町」です。地名の付け方って興味深い。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫2. 養阿 :「コトバンク」3. 松明殿稲荷神社 :「京都観光Navi」補遺七条大橋 :ウィキペディア松明殿稲荷神社 :「コトバンク」燎祭 :「コトバンク」木食養阿 :ウィキペディア安祥院 :「コトバンク」安祥院(京都) :ウィキペディア木食正禅上人と阿弥陀如来露仏 - 境内霊譚奇談集Ⅸ :「苦沙彌のINTERNET 僧坊」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 -10 京都 七条大橋 2020.09.03 掲載スポット探訪 京都・下京 松明殿稲荷神社 2019.11.22 掲載
2024.05.02
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3/27に車折神社を探訪したときに境内のこの桜が満開でした。桜の木の傍に駒札が建てられていて、「渓仙桜」と記されています。献木された人(冨田渓仙・宮下武一郎・長岡喜十郎)の名前に由来する名称のようです。冨田渓仙は日本画家。富岡鉄斎の日本美術院の同人で、鉄斎に私淑したそうです。鉄斎については既に触れていますが、明治21~26年に車折神社の宮司を勤めています。近代日本画の巨匠の一人です。(資料1) この渓仙桜は、社務所の南、大鳥居の西の位置に咲き誇っていました。今も咲き続けているでしょうか・・・・。 渓仙桜の南側にこの建物があります。 建物の正面に行ってみて、何が展示されているかわかりました。左側に「三船祭」の案内説明が掲示されています。Ah!ソウカ・・・です。嵐山・大堰川での「三船祭」を若い頃に一度だけ見物したことがあります。フィルム・カメラで撮った頃だったのか、デジカメの記録写真ファイルには見つけることができませんでした。当時はこの三船祭をどこが主催しているのか全く意識していなかったことを再認識しました。「昭和御大典を記念して、昭和3年より始められた。 毎年5月第3日曜日に、嵐山の大堰川において、御座船・龍頭船・鷁首船が 平安時代の船遊びを再現する」(説明文転記)昭和御大典とは昭和天皇の即位の大礼のことです。この時の中心儀式である即位礼は昭和3年(1928)11月10日、京都御所で行われました。(資料2) 龍頭 龍頭船の船首に設置されます。 鷁首 鷁首船の船首に設置されます。余談です。 これは、2023.5.24に「風俗博物館」(京都市下京区)の企画展を鑑賞した時に、具現化されていた龍頭船・鷁首船を撮りました。これは船が舞台の形式になっています。 2023.7.17の祇園祭・前祭の山鉾巡行の時に撮った船鉾。鷁が船首を飾っています。三船祭は一に船遊祭とも称されます。宇多上皇が大堰川に舟を浮かべ、詩歌管弦の遊びをされたという故事に因んで創始されたとか。「当日は午後二時から、嵐山渡月橋上の大堰川に御座船以下約30隻が参列し、詩歌・管弦・舞楽の奉納と流扇の神事が約2時間にわたって行われる」(資料3)祭りです。渓仙桜から社務所前を通り過ぎ、境内北側の裏参道に沿った境内社を巡ります。 裏参道の右側に2つの境内社に分岐する参道があります。 「神明神社」参道に近くて側面が見えるのがこの神明神社。祭神は天照大御神。切妻造・平入りで、神明造の形式の小社です。参道の奥に正面が見える境内社は、 「天満天神社(ソラミツアマツカミノヤシロ)」祭神は天満大神。雷除け、農業、園芸の守護神だそうです。 拝所 少し先、参道右側の拝所の傍に「滄海(ソウカイ)神社(弁天神社)」の駒札が立っています。 拝所から先に参道が延び、築地塀で仕切られた先に朱塗りの鳥居と小社が見えます。本殿は春日造の形式です。祭神は、市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)。文明5年(473)、室町時代の創祠だそうです。「車折神社近隣の寺院(天龍寺の末寺で、室町時代創建)の鎮守神が、廃寺の際、当社に移管された神社である。本来の祭神である、弁才天はインド神話の神で、仏教に取り入れられ『諸天』の一神とされ、智恵・長寿・財宝の神として信仰された。 日本に伝わると七福神の一神とされ、専ら福徳財宝の神として信仰されてきた。 明治時代の宗教政策に副い、日本神話の一神、市杵島姫が祭神とされ、今日に至っている。 因みに、『滄海』とは大海原の意で、渡来した『水の女神・弁才天』を象徴したものである」(案内文転記)駒札によると、社殿は改築され平成19年(2007)12月24日に竣工。大阪市の青井勇氏寄進と記されています。おもしろいのは、右となりに大きな案内板があり、そこには「弁天神社(滄海神社)」と題し、「弁天様(市杵島姫命)を祀る神社。・・・・・」と説明されていることです。弁才天(弁財天)の方が一般的によく知られているからでしょうか。 北門に一番近い所に「地主(ジヌシ)神社」があります。祭神は第52代嵯峨天皇。かつてこの付近に柳鶯寺があり、嵯峨天皇は行幸の折にこの寺で休まれたとか。その縁でこの寺に天皇が祀られたのですが、寺が廃寺となったときに車折神社境内に移されて、地主神社として祀られたと言います。なお、現在の神社は1961年に復興されたとか。(資料4,5)ここの石鳥居は明神鳥居の形式です。拝殿・本殿を拝見し、境内の境内社を一巡しつつ、案内の説明文を読み歩いて、「祈願」のテーマパークという印象を抱きました。「学業成就・試験合格」「約束を違えないこと」「人脈拡大」「金運・財運」「金脈拡大」「芸能・芸術の才」「昇運、運気」「良縁」「才色兼備」「金満美麗」等と、人々が祈願したいテーマに応じてくださる神々が、この神社に一堂に会されている。そんな雰囲気・・・・・です。 北門になる石鳥居から出て、JR嵯峨嵐山駅に戻りました。ここに立つ社号標の文字は富岡鉄斎の筆によるものと言います。(資料1)これで車折神社のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. 境内案内 :「車折神社」2. 昭和天皇の即位御大典 :「名古屋市博物館」3.『昭和京都名所圖會 4 洛西』 竹村俊則著 駸々堂4. 車折神社(京都市右京区) :「京都風光」5. 車折神社(くるまざきじんじゃ)(Kurumazaki Jinjya) :「京都通百科事典」補遺車折神社 ホームページ昭和3(1928)年の御大典の際、京都観光が流行ったと思われるが、その頃の状況や、観光ガイドを見たい。 :「レファレンス協同データベース」冨田溪仙 :ウィキペディア三船祭 船頭だより :「京都・亀岡 保津川下り」[三船祭]水上雅楽に胡蝶の舞、平安貴族の優雅な御船遊び :「まいまい京都」5月の嵯峨嵐山の風物詩~嵯峨祭・三船祭~ :「HOTEL BINARIO」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・嵯峨 車折神社 -1 まずは神社の社殿へスポット探訪 京都・嵯峨 車折神社 -2 境内南側の境内社巡り へ
2024.04.06
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前回ご紹介したこの石鳥居、大鳥居と称するそうです。ここを起点にして、まずはこの大鳥居より南側の境内地を巡ってみます。 大鳥居の南東方向にある「芸能神社」という社号標がまず目を引きます。こんな神社名は初めてです。 石鳥居の南側に駒札が立っています。 この芸能神社は「天宇受売命(アメノウズメノミコト)を芸能・芸術の祖神として祀る」つまり、祭神はアメノウズメです。アメノウズメは『古事記』神代篇基の二に出て来ます。アマテラスがスサノヲの行為に怒って、天の岩屋の戸を開き中に入るとしっかり戸を閉ざして籠もってしまいます。途端に外は闇の世界に!神々は困惑し、相談します。オモヒカネという賢い神がある策略を立てました。「常世の長鳴き鳥を集めて鳴かせたのじゃ。夜は明けたというわけじゃのう」その上で、諸準備をし、装身具と衣装をまとったアメノウズメに神懸かりを演じさせるのです。「天の岩屋の戸の前に桶を伏せて置いての、その上に立っての、足踏みして音を響かせながら神懸かりしての、二つの乳房を掻き出しての、解いた裳の緒を、秀処(ホト)のあたりまで押し垂らしたのじゃ」「すると、ほのかな庭火に浮かぶウズメの踊りを見ておった八百万の神がみは喜んでの、闇におおわれた高天の原もどよめくばかりの大声に包まれて、神がみは皆、ウズメの踊りに酔いしれてしもうたのじゃった」外のさわぎを聞きつけたアマテラスはあやしいことじゃと思い。戸を細めに開けて、内から声をかけ、少し戸のうちから歩み出てしまいます。「戸のわきに隠れておったアメノタヂカラヲが、そのアマテラスの御手をさっと握って外に引き出したかと思う間もなく、フトダマが、アマテラスの後ろに尻くめ縄(注:しめ縄のこと)を張り渡しての、『ここから内にはお帰りになれませんぞ』と申し上げたのじゃった」 (資料1)ということで、外界には再び明るい光が戻ってくるということになったとか。ここから、アメノウズメが芸能・芸術の祖神になるということでしょう。 朱の玉垣には、様々な名前が記されています、玉垣はプロフェッショナル・アマチュアを問わず、芸能・芸術・技芸の全ジャンルにわたる人々が奉納可能だそうです。 南隣りの石鳥居をくぐると、芸能神社の周囲を巡る玉垣とその続きが見えます。興味のある方は、様々な芸能人、芸術家、家元などの名前を見つけることができることでしょう。ドンドン増えたら・・・・掲載期間は申し込みより2年間と決めてあるとか。ナルホド!(資料2) 拝所からの眺め 拝殿の奥に本殿が見えます。 拝殿の正面には、おもしろい表情の面が奉納されています。この境内の周囲を巡ることができるようなので巡ってみました。 本殿の南側 本殿の北側 左右の脇障子本殿そのものは比較的シンプルな建物です。 芸能神社の南側に石鳥居があります。ここは駐車場と表参道を結ぶ出入口です。 石鳥居の南側に、木製鳥居に「大黒天」の扁額を掲げた「大国主神社」があります。祭神は大国主神。 大国主神社の南側は、稲荷鳥居に「稲荷社」の扁額を掲げた「辰巳稲荷神社」です。祭神は宇迦之御魂神。 表参道の自動車出入口に近いところに「愛宕社」の扁額を掲げた「愛宕神社」があります。ここでは案内板の掲示を見かけませんでした。後で、当社のホームページを参照しますと、この境内社のさらに南に社号柱(社号標)があるのですが、そこまでは表参道を下りませんでした。ここでUターンして、表参道の西側を巡ります。 まず、鳥居に「昇龍」の扁額を掲げた「水神社(龍神様)」があります。 祭神は罔象女神(ミズハノメノカミ)と案内板に記されています。「昔、大堰川がこの近くまで流れていた頃、氾濫を鎮める為に水神様(龍神様)に祈願していたことに由来する神社です」(案内板より) 社の屋根の上に龍が!!! 今年は辰年。ここで龍と出会うことができました。 芸能神社から参道をはさみ西側辺りに、「清少納言社」があります。車折神社の祭神は清原頼業。清少納言は清原氏の同族になります。清少納言の父親が清原元輔ということは前回触れています。一条天皇の中宮定子に仕えた才女で、『枕草子』の著者として有名なのはご存知の通りです。この小社、清少納言にあやかろうという主旨のようです。 大鳥居から南西方向、清少納言社の多分北西側だったと思います。鹿島鳥居形式の木製鳥居に「葵忠社(キチュウシャ)」の扁額が掲げた「葵忠社」があります。福田理兵衛を祀るそうです。福田理兵衛は嵯峨の材木問屋の長男として生まれ、下嵯峨の庄屋、総年寄、村吏として勤め、明治維新の時に、勤王家として活動した人だそうです。家産を傾けてまで長州藩の勤王倒幕運動を支援したと言います。(資料3,4)当神社のホームページの境内案内図には記載されていません。社号標等、見落としがありますが、境内南側のご紹介はこれで終わります。つづく参照資料1.『口語訳 古事記 完全版』 訳・註釈 三浦佑之 文藝春秋 p43-462. 境内案内 :「車折神社」3. 車折神社(くるまざきじんじゃ)(Kurumazaki Jinjya) :「京都通百科事典」4. 福田理兵衛 :ウィキペディア補遺車折神社 ホームページアメノウズメ :ウィキペディア大国主神 :「コトバンク」大黒天 :「コトバンク」ミツハモメ<罔象女神> :「名古屋神社ガイド」車折神社(京都市右京区) :「京都風光」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・嵯峨 車折神社 -1 まずは神社の社殿へスポット探訪 京都・嵯峨 車折神社 -3 渓仙桜・三船祭・境内北側の境内社巡り へ
2024.04.05
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嵐山公園亀山地区を探訪した後、JR嵯峨嵐山駅に戻りました。ふと「車折神社」は未訪だったことを思い出し、立ち寄ってみることにしました。嵯峨嵐山駅南口を起点にしますと、南への道路を200mほど下れば、JR線とほぼ平行に走る京福電鉄嵐山本線の嵐電嵯峨駅があります。この駅から東方向へ2駅目が「車折神社」です。駅のすぐ南側に車折神社があります。天龍寺の近くにある嵐電の「嵐山」駅からだと嵐電嵯峨、鹿王院、車折神社と3つ目の駅になります。嵯峨嵐山駅南口からだと、南への道路を下り最初の辻を東方向(左折)に進めば、徒歩900m程の距離です。運動不足の解消を兼ねウォーキングで探訪してきました。 嵐電・車折神社駅のすぐ前にこの石鳥居が見えます。地図で確認しますと、神社は線路の南側道路とさらに南の三条通(府道112号)との間に境内地が位置します。三条通には京阪バス「車折神社前」のバス停があります。石鳥居には「開運招福」の扁額が掲げてあります。この石鳥居、探訪してわかったのですが、この神社の拝殿・本殿などの社殿からみると、北側の背後に位置していて、北門にあたります。本殿は南面しています。まとめとしては、まずは神社の中核である社殿とその周辺からご紹介します。 参道の先にある仕切り塀 参道の右側に、「清めの社」と刻した石標の立てられた小社があります。この鳥居の右側に、「お勧めの参拝手順」として写真入りのパネルが掲示してあります。 少し先に「手水舎」があります。願い事・悩み事のある人は、「手水舎」で、手と口を清め(すすぎ)その後で、「清めの社」を参拝して、悪い運気・因縁を浄化し、心身を清めるという手順だそうです。 手水舎の近くに、東面する石鳥居があり社殿のある境内地への出入口になっています。 神社のご案内石鳥居の傍にこの案内板が設置されています。 手水舎前の参道をはさみ、東側には「社務所」上掲の案内説明文と手許の資料により、当社についてです。「車折」は「くるまざき」と読みます。それはなぜか?上掲案内には「後嵯峨天皇が嵐山の大堰川に御遊幸の砌(ミギリ)、この社前において牛車の轅(ナガエ)が折れたので、『車折大明神』の御神号を賜り、『正一位』を贈られます。これ以降、当社を『車折神社』と称することになりました」と記されています。江戸時代に出版された観光ガイドブックともいうべき『都名所図会』には、「車折社 は下嵯峨材木町にあり」と記し、「むかしこの所を車に乗りて行くものあり、忽ち牛倒れ車を折(サ)きしとぞ」と簡略に説明しています。(資料1)現在の所在地表記は、京都市右京区嵯峨朝日町です。 手水舎の南側に石柵で囲われた岩石があります。「車前石」です。上記由緒にある通り、この社の手前にあるこの石の前を通りかかったときに、牛車を引く牛が倒れて、車の轅が折れたという伝承です。石鳥居をくぐり抜け、本殿のある境内に入ります。 拝殿に向かって東側、石鳥居から眺めた回廊部分です。 拝殿手前の拝所 拝殿 奥に本殿が見えます。祭神は、平安時代後期の儒学者明経(ミョウギョウ)博士、清原賴業(キヨハラヨリナリ)です。天武天皇の皇子舎人親王の子孫であり、清原夏野の後裔。平安時代末期1189(文治5)年4月14日に逝去。大外記の職を24年間もつとめ、晩年には九条兼実から政治の諮問にあずかったそうです。現在の社地は、もとは清原家の領地であり、ここを頼業の墳墓地とし廟が設けられたそうです。清原一族には、三十六歌仙の一人である清原元輔がいます。元輔の娘が清少納言です。後嵯峨天皇(1242-1246)は後嵯峨上皇(1246-1572)となり院政を行った鎌倉時代の天皇。想像するに、当時は小さな祠が祀ってあることすら知られていない状況だったということなのでしょう。墳墓地が車折神社になったということのようです。(由緒、資料2) 拝殿前の格子天井には、花卉図が描かれています。拝殿の両側に出入口があり、本殿とその背後を巡ることができました。 拝殿の右側の出入口から反時計回りに巡ってみました。左手前が拝殿。 本殿手前の通路脇に狛犬像が置かれています。北門の傍の狛犬と同種の石彫像です。 本殿の東側 本殿の北東角から振り返った景色 本殿の背後には「八百万神社」が祀ってあります。八百万神社という社名は始めて見た気がします。あらあゆる神々を祀るとは気宇壮大です。案内板に興味深い文がありました。「八百万の神々の広大な繋がり(ネットワーク)にあやかり、『人脈拡大』の御利益を授かりましょう」。 本殿の西側にも対となる狛犬像が置かれています。 境内西側には、回廊が伸びています。 吊灯籠 「祈念神石」本殿・拝殿の手前、拝所として祈願する場所の南側に「神石」が盛られています。傍に祈念の仕方の説明板が設置されています。江戸時代には、『都名所図会』にて、次のような一文で、流布されていたようです、「今は遠近の商家売買の価(アタイ)の約を違変なきやうこの社に祈り、小石をとりかへり、家にをさめ、満願のとき件(クダン)の石に倍してこの所に返す」 (資料1)祈念が成就したら、石の倍返し! 倍返しの発想は江戸時代に既にあったんですね。おもしろい。江戸時代も、祈念神石の扱いは社務所を介して行っていたのでしょうか。その点をこの図会は明記していません。余談です。『都名所図会』には、案内文の冒頭に、「五道冥官降臨の地なりとぞ」という一文が記されています。案内文の末尾には、「五道冥官焔魔王宮の庁」という語句も出てきます。清原頼業が死後に冥官になったとされる伝承があったようです。この一文から小野篁を連想してしまいました。五道というのは、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)から修羅を除いた五道です。(資料1)手許の本に「一説に当社は五道冥官社と称し、閻魔王宮の官人が来臨するところ故、商売の取引きに違約なきことを祈誓したのによるとも伝える」と記しています。(資料2)調べてみますと、『山州名跡志』が五道冥官社の名称で当神社を載せています。(資料3,4)富岡鉄斎は、若い頃、車折神社の社司をつとめたことがあり、頼業の業績を顕彰するための「車折神社碑」を明治42年(1909)に建立したとか。(私の思いつきでの探訪では現地未確認)鉄斎は碑文に、「頼業が死後冥官といわれることを不審とし、また後嵯峨天皇御召の車の轅が毀損したのは、祭神の怒りによる旨を記している」と言います。(資料2)再訪する機会があれば碑文を確認してみたいものです。 拝殿前から正面参道方向(南)を眺めた景色神社の裏手から入ってきましたので、社殿の正面側を探訪してみました。参道を南に進み回り込むと、 社殿正面にはこの石鳥居が立ち、社殿側に高さの低い朱塗りの垣と門扉が設けてあります。石鳥居の下には、立入禁止を示す棒が参道を横切る形で設置されています。特定の行事のとき以外の普段は閉じられているようです。 ズームアップしたこの景色の右側に見える石鳥居が普段の出入口。上掲した石鳥居です。 こちら側の狛犬は、北門の石鳥居傍の狛犬とはスタイルが異なり、かなり昔に奉納された狛犬像のようです。 正面の参道を南下すると、この木造鳥居が正面にあります。台輪はありませんが、稚児柱を設けた両部鳥居の形式のようです。このまま南に進むと、三条通に出ます。次回は境内地の社務所より南にある境内社を巡りましょう。つづく参照資料1.『都名所図会 上』 竹村俊則校注 角川文庫 p4342.『昭和京都名所圖會 4 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p227-2313. 車折神社 日本歴史地名大系 :「コトバンク」4.『山州名跡志 自小倉山 至大江城 九』 pdfファイル20コマ目補遺車折神社 ホームページ清原頼業 :ウィキペディア富岡鉄斎 :ウィキペディア五道 :「コトバンク」五道の冥官 :「コトバンク」山州名跡志. 巻之1-22 / 白慧 撰 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・嵯峨 車折神社 -2 境内南側の境内社巡り へスポット探訪 京都・嵯峨 車折神社 -3 渓仙桜・三船祭・境内北側の境内社巡り へ
2024.04.04
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嵯峨天龍寺にある福田美術館での展覧会を鑑賞した後、ここまで来ているので、嵐山公園の亀山地区を散策し探訪してみることにしました。(2024.3.27 探訪)大堰川沿いの道路を上流方向に進みます。 嵐山吉兆の門の傍の桜が満開でした。この近くから、川岸沿いの道路側に移り上流方向に進みます。結構な数の観光客がこの辺りの川沿いにもいました。 この道路は「東海道自然歩道」の一部に組み込まれているようです。またその手前には、右の石標が立っています。法輪寺は渡月橋を南に渡った先にあるお寺です。京都では「十三詣り」で良く知られたお寺です。拙ブログでも既にご紹介しています。渡月橋は承和年間(834-848)に法輪寺の僧道昌により架橋されたのが始まりと伝承されています。往時は現在の渡月橋よりも100mほど上流側に位置していて、初めは法輪寺橋と称されていたそうです。夢窓国師が天龍寺付近の名勝地を「亀山十境」と題して漢詩を詠んだ中に渡月橋の名が出てくるのが初見と言われています。(資料1) 少し先で、「戸無瀬(トナセ)の滝」と刻した石標が目に止まりました。その裏面には、左側の案内説明板が取り付けてあります。 対岸の景色。右寄りの白い筋のみえるところが戸無瀬の滝。落差約85mの三段で落水する滝です。景勝地嵐山を象徴する名勝になっていました。歌川広重筆「六十余州名所図会 山城 あらし山」にも、嵐山の中腹にこの「戸無瀬の滝」が描かれています。また、鎌倉時代中期に藤原定家の息子の為家が歌を詠んでいます。 雲かかる山の高根の夕立に戸無瀬の滝の音まさるなり 藤原為家 室町時代の初期に、夢窓国師は上記「亀山十境」の詩において、この滝を「三級厳」と位置づけたそうです。現在、滝が見えにくいのは、明治に禁伐となり樹木が覆うようになったことによるとか。令和5年3月に最下部の伐採が行われたそうです。ごく最近ですね。(案内板より) 川沿いの道路をさらに進むと、観光客が減ってきます。先に見えたのがこの石標。公園の入口。 近くに「嵐山公園亀山地区案内図」が設置されていてます。(現在地は右下の赤三角印) この道標も設置されています。こちらの公園を経由して行ける観光スポットです。渡月橋を対岸に渡ると、中ノ島があります(嵯峨中ノ島町)。そこが嵐山公園で、こちらは公園の一部という位置づけのようです。余談ですが、手許の2003年5月発行本のマップには、亀山地区を亀山公園、中ノ島の方を嵐山東公園と明記しています。 公園に入って行きますと、この石標が目に止まりました。上面に「古今集と百人一首」と題する案内文が掲示されています。小倉百人一首と古今集の簡略な説明とその関係が記されています。百人一首には古今集から24首が撰ばれているとあり、その歌碑がこの公園に建立されているようです。歌碑の配置図が併載されています。 山道を登って行くと広々とした斜面に出ます。こんな東屋(休憩所)が中央に見えます。ここまで来ると、観光客はほとんどいません。わずかな人々とすれ違うだけです。東屋の周辺で、幾つかの歌碑が散在して建立されているのを見つけました。歌碑の近くには、歌碑案内の石標も設置されています。ここでは省略。 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも 小倉百人一首第7番 安部仲麻呂 夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるに 雲のいづこに 月やどるらむ 小倉百人一首第36番 清原深養父 山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり 小倉百人一首第32番 春道列樹 ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ 小倉百人一首第33番 紀友則 「小倉百人一首文芸苑 屋外展示施設 案内図」という地図も設置されています。休憩所辺りを散策し、少し離れたところからこの広々とした公園を眺めてみました。パノラマ合成した景色です。もう少しして、桜が咲き誇ると景色が華やかになることでしょう。 この中腹の広々とした斜面の先に分岐点があり、さらに山道が続きます。「頂上展望まで160m」の道標をガイドに、左の山道を登ります。 頂上展望台広場 この展望台からは、対岸の嵐山、保津峡と保津川の全景が見渡せます。 眼下の保津川をズームアップ! 対岸の川沿いに建つ建物は、ネットの地図で確認しますと、「星のや京都」ほかの建物です。所在地は嵐山元録山町。 山の中腹にぽつんと見える建物は「大悲閣」です。その背後に「大悲閣千光寺」の建物群があります。こちらは、嵐山中尾下町です。この大悲閣も拙ブログで既にご紹介しています。展望台沿いの道をさらに進んでみますと、 「嵐山公園はここまでです」という掲示が設置されています。 その先は「小倉山」です。「小倉山山頂」への表示と「小倉山再生プロジェクト 景勝・小倉山を守る会」の」看板が設置されています。これを見て、「小倉池」周辺を探訪して小倉山を登ったときの記憶とリンクしました。こちらも拙ブログに記していたと思います。小倉山の東南部を占める丘陵がこの亀山地区なのです。これで探訪地がリンクしましたので、公園を引き返し、まずは休憩所まで下ることに。この公園の下側エリアを通り抜けたことがあります。その時見過ごしてしまった箇所があったのです。今回はその箇所を確実に訪れたかったのです。 立像の傍に「大正元年十月十」までは判読できる日付の刻された顕彰碑が建立されています。 訪れたかったのはここ! 「角倉了以翁銅像」上掲の石碑により1988年に再建されたことがわかります。なぜ、再建なのか。当初の銅像は戦時中に金属供出により撤去されたのです。 「角倉了以翁の業績」と題する顕彰碑が、角倉了以翁像碑保存会により、昭和63年(1988)5月28日に建立されています。 顕彰碑に記されていますが、角倉了以は、京都に直接関連する事業として 慶長11年(1606) 保津川大堰川の開削を完成 慶長16年(1611) 高瀬川の開削を完成という偉業を為し遂げました。大悲閣千光寺は、保津川を開削し船や筏が通ることの出来る舟運のための工事に協力した人々の菩提を弔うために角倉了以が創建したお寺です。観音の慈悲をたたえて大悲閣と号したと言います。(資料1)角倉了以像から比較的近い場所に、 この詩碑が建立されていることをこの探訪で初めて知りました。 「周恩来総理詩碑」です。1978年10月日中平和友好条約締結を記念し、1979年4月吉日に建立されています。嵐山公園亀山地区は、歴史と文化の一端を学べる公園にもなっていることを再認識しました。 大堰川沿いの道まで戻ってきました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1.『昭和京都名所圖會 4 洛西』 竹村俊則著 駸々堂補遺嵐山と夢窓国師・夢窓疎石 :「京都 Kyoto」ブラタモリ・京都・嵐山(~嵐山はナゼ美しい!?~天龍寺十境) :「京都ヴォヤージュ(Kyotovoyage)京都・亀岡 保津川下り ホームページ 歴史角倉了以 :ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%80%89%E4%BA%86%E4%BB%A5高瀬川 都市史 :「フィールド・ミュージアム京都」https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi22.html大悲閣千光寺 公式HPhttps://daihikaku.jp/周恩来 :ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%81%A9%E6%9D%A5(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・洛西 嵐山 法輪寺 -1 法輪寺への道すがらに 3回のシリーズでご紹介スポット探訪 京都・洛西 大悲閣 -1 大悲閣道(渡月小橋~大悲閣入口) 2回のシリーズでご紹介探訪 [再録] 京都・洛西 天龍寺とその界隈 -1 天龍寺の境内(勅使門・中門・法堂ほか) 5回のシリーズでご紹介探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -1 愛宕念仏寺 12回のシリーズでご紹介 No.9で野宮神社、No.10で御髪神社・小倉山/小倉池、No.11で小倉百人一首文芸苑観照 京都・洛中 ふたたび高瀬川沿いに~四条から一之船入まで~
2024.04.02
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巨大な五輪塔の傍の道を進みます。 「大聖不動明王」と記された扁額を懸けた丹塗りの鳥居があります。ここが「杉山谷不動尊」の入口です。 石段道を上ります。 二ノ鳥居参道に、奉納された幟が林立しています。 参道の右側に、手水舎が見えてきました。その手前に数多くの石碑が建立されています。石碑群に近づき眺めると、左から源美大師、地蔵尊像、豊吉大明神、荒木大神、判読不可の石碑、稲玉大神、白米大神と判読できそうです。私は伏見の稲荷山山上にある御塚を連想しました。 「源美大師」碑の右隣りに安置された地蔵菩薩像 手水舎の左側には、小不動尊が祀ってあります。 参道の前方を眺めた景色後で調べてみると、この杉谷不動尊は「神應寺」の奥の院にあたるそうです。(資料1) 「厄除延命地蔵尊」の扁額を掲げた地蔵堂が参道の右側にあります。 少し開いていた格子戸前から眺めた地蔵菩薩立像です。 地蔵堂の近くに石造「不動明王立像」が祀ってあります。 その先に、朱塗りの手すりが見える分岐点があります。手すりの設置された道沿いに行けば神應寺に行けることがわかり、山を降りなくてもすむと、一安心。 この分岐点に地蔵菩薩像が祀ってあり、「南無地蔵菩薩」と墨書した提灯が吊されています。ここにはお地蔵さまが数多く集合されています。 隣には、小さな一石五輪塔が祀ってあります。 その先には、「神應寺稲荷 豊川拕柷尼真天」の幟が立つ稲荷社があります。 小社の前に、一対の狐像が置かれています。 もう一つこの覆屋があります。 近づいて拝見すると、石造「観音菩薩坐像」が安置されています。 「杉山谷不動堂」 ここは「奥の院」と呼ばれているそうです。拝所のところで堂内を拝見しましたが、撮影禁止でしたので、残念ながらこれ一枚です。本尊は不動明王(秘仏)です。脇侍として、善悪を掌る矜羯羅(コンガラ)、制多迦(セイタカ)の2童子が控えています。厄除け不動として、人々に信仰されているそうです。(資料1) 本堂に向かって左側の斜め奥に「観音堂」があります。十一面観世音菩薩が祀られています。お堂の回りに「南無十一面観世音菩薩」と記した幟が奉納されています。私は参道を上がってくる際に見落としたようなのですが、途中に、「ひきめの滝」と称される滝行場に至る分岐の道があるそうです。 参道を引き返し、朱塗りの手すりが設置された分岐点から神應寺への山道を辿ります。途中で谷間を跨ぐケーブルカーの軌道橋が見えます。 道はそのまま境内につながり、最初に「鐘楼」が目に止まりました。 境内の中央に、本堂に向かう参道があり、左右に建物が建ち並んでいます。 左側の建物の手前の角にも、豊川拕柷尼真天を祀る小社があります。 参道の右側には池があり、その傍の松の木が横に枝を伸ばしています。 参道の先には「本堂」が見えます。参道の手前に立入禁止を示す竹が参道を横切って置かれていました。こちらも残念ながら本堂には近寄れませんでした。本尊は薬師三尊仏。平安時代前期作と伝わる行教律師像、衣冠束帯姿の豊臣秀吉像も安置されているとか。(後掲の案内板説明より) 本堂の正面には、「大雄殿」と記された扁額が懸けてあります。デジカメのズームアップ機能で撮ってみました。 同様に、本堂右手の玄関口をズームアップで。本堂前の庭の様子が少しわかります。写真を撮っていた位置に近いところで、後で紀伊付いたのが、竹の柵で囲われたこの石です。「淀君茶室の庭石」という案内標識が立っていました。帰路は神應寺の表参道を降ります。 参道を降る途中にこの駒札が設置してあります。本来なら参道を上ってくる途中で見る駒札になります。 参道を降り終えたところで、表参道を振り返って撮った景色 神應寺の山門右の門柱には「絲杉山神應寺」の木札が懸けてあり、左の門柱には「道不可求可致」の偈が掲げてあります。「道は求むべからず、致すべし」と読み下すのでしょうか。 鬼瓦 留蓋 山門にむかって立ちますと、左側に神應寺の「由緒」が掲示されています。上掲の駒札と併せて、要点を箇条書きにまとめてみます。*八幡神を男山に勧請した行教律師が貞観2年(860)に応神天皇の位牌所として開創*法相・天台・真言の宗旨を経て、室町時代に曹洞宗に改宗*豊臣秀吉との関係が深かった。正室北政所が中興12世住職弓箴善彊に帰依*德川家康をはじめ歴代将軍から寺領が安堵されてきた*元禄3年(1700)多くの雲水が毎年修行する常法幢地の寺格を得、洛南有数の禅苑に*明治の神仏分離令の難を逃れ、行教像は明治6年に墓所のある本寺に移された*貴重な資料や文化財を多数伝承保存している 「曹洞宗 神應寺」の寺号石標が立っています。参拝としては逆コースを歩いてきたことになります。後は京阪電車の石清水八幡駅に引き返すことになります。 駅前の広場には、このモニュメントが設置されています。八幡の竹とエジソンの発明・白熱電球を象徴しているモニュメントです。全長6.35mの円形の塔です。夜になると明かりが灯るとのこと。(資料2)ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 杉山谷不動尊 :「八幡市観光協会」2) あれはなんだ!?京都・八幡市で目を引く3つの巨大モニュメント :「KYOTO SIDE」補遺杉山谷不動尊 :「枚方市」神應寺 :「八幡 STORY&FUIDE」神應寺(じんのうじ) :「八幡市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮周辺にて -1 相槌神社・泰勝寺・安居橋・五輪塔ほか へ
2024.01.09
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石清水八幡宮を昨年12月24日に探訪したご紹介は年末年始にかけてご紹介しました。裏参道を降りてきた後、ニノ鳥居(上掲の左)を通り抜け、表参道を再度上りました。上掲右の石段から下に降りてみる気になったのです。この石段道所から、お寺らしき大きな屋根が目に止まっていたからです。この石段道を降りれば、石清水八幡宮の周辺を探訪する起点にもなると思ったこともその一因です。 上掲の石段道を降りると、石垣の傍に「下馬」と刻された石碑と角柱の石標が立っています。石標の方は残念ながら刻字が判読できません。石清水八幡宮への石段道ですから、ここで馬から降りて、この後境内は徒歩にて進めということでしょう。 右の方に目を転じると、地蔵堂と神社が並んでいます。 地蔵堂の格子戸越しに拝見すると、ここのお地蔵さまもお顔に化粧が施されていました。京都市・宇治市と同様に、地蔵盆にい地蔵さまを浄めてから化粧するという風習があるということでしょう。隣の小さな神社は工事中のようでした。 石清水八幡宮への石段道とこの神社との位置関係が景色としておわかりいただけるでしょう。 ここは「相槌神社」。案内板が設置されています。 建物の右側には、「山ノ井戸」と刻した石標が立ち、この井戸があります。この井戸がこの神社の由来になるそうです。「山ノ井戸」は八幡五水の一つのようです。平安時代に活躍した有名な刀鍛冶、大原五郎太夫安綱が、山ノ井の水を使って刀を鍛造したとき、神がきて「相槌」をなしたために、ここに神社を建てて祀ったそうです。安綱が神と交互に作刀のために交互に槌を打ち合わせた「相槌」という名が付けられたとか。山ノ井は江戸時代に井筒などが整備されたそうです。江戸時代中期、1710年頃までは石清水八幡宮の管轄下にありましたが、その後は近隣住民が独自に修繕などを行い、神社との関わりが強くなったようです。(案内板より) 相槌神社前の道を東方向に進むと、 「松花堂 泰勝寺」の表札を掲げたお寺の山門が見えました。表参道から眼下に見えていたのはこのお寺です。 山門の左手前に「松花堂旧跡」と刻した石標が立っています。 山門の左の壁に案内板が掲示してあります。「天正18年松花堂昭乗は9才の時男山に入山滝本本坊の実乗に師事し阿闍梨となつた。特に書画茶道作庭に長じ、自らの草庵を松花堂と称した。小堀遠州、沢庵、石川丈山、林羅山等と親交があり、寛永の文化人として屈指の人物である。 当寺は昭乗の墓所を中心に建立俗に松花堂と呼ばれ境内の宝物館には昭乗、遠州、沢庵、光悦等の墨蹟を始め多くの寺宝が展示されている。又人々のえとの守り本尊八躰が泰安され難を転じ福を招くお守りが授与される。本堂前庭は各種南天を配し、三途の川を渡つて彼岸へ船出する石庭があり、茶席閑雲軒は日本百席の一つである。」(案内板転記) 山門の柵前から延べ段の先に唐門が見える境内を眺めるに留めました。参拝には寺務所にて予約が必要と上掲案内文の末尾に記されています。機会を見つけて、再訪したいと思いました。相槌神社前まで戻り、北方向に進みます。右(東)側には川が流れています。 この反り橋が見えてきます。 「安居(アンゴ)橋」という名の橋。 橋の北側にこの駒札が立っています。橋名の由来は諸説あるそうですが、駒札には2つ紹介されています。*鎌倉時代より八幡の町ぐるみで行われていた安居神事から名付けられたという説*かつてすぐ川下に「五位橋」があり、相対する仮の橋が造られ「相五位橋(アイコイバシ)」と呼ばれ、これが変化して「安居橋」となったとする説江戸時代初めの古絵図には、平橋が架けられている形で描かれていいるそうです。元禄7年(1694)には、「安居橋の月」が八幡八景の一つに選ばれました。慶応4年(1868)1月、橋は鳥羽伏見の橋で焼失。約150m川下にあった「高橋」という反り橋(太鼓橋)を偲ばせる形で、安居橋が再興されて現在に至るとか。 駒札の隣りにこの石碑「やわた放生の景」が建立されています。現在、ここが石清水八幡宮の「石清水祭(放生会)」の神事の舞台になっているそうです。 石清水きよき流れの 絶(タエ)せねは やとる月さへ くまなかりけり (石清水清き流れの絶えせねば宿る月さえ隈なかりけり)の歌碑もあります。調べてみますと、この能蓮法師の歌は、『千載和歌集』の「巻二十 神祇」1280 に採録されています。文治元年(1185)9月の石清水八幡宮での歌合せでの詠歌だそうです。(資料1) 川下を眺める 振り返った景色安居橋の所から、石清水八幡宮探訪の最初に訪れた頓宮殿の境内地を通り抜け、当初の起点まで戻りました。そして一ノ鳥居前から、境内地沿いに左(西)方向への道を歩いてみました。少し道沿いに進みますと、 竹垣と「神護寺」と刻した寺号標が見えます。 左方向に道を歩めば、左側に頓宮殿の西門と連子窓のある屏が見えました。 右側に見えたのが、この巨大な「五輪塔」です。そう、最初に頓宮殿の門越しにその一部を垣間見ていた五輪塔です。基壇が設けられています。 石段を上がると、 五輪塔より少し離れた右側手前に「航海記念大石塔」と刻した石標が立っています。 五輪塔の左側手前に駒札が設置されています。鎌倉時代(12世紀末~1333年)頃に建立された五輪塔。高さ6m、最下段の横幅は2.4m。中世以前の五輪塔では日本最大で、国指定重要文化財です。(駒札より)五輪塔は5つの石から構成され、下から「地、水、火、風、空」という物質の構成要素を象徴しています。小規模な五輪塔は全国的に分布しています。仏教思想に基づいて平安時代に創始されたと言われています。「多くが武士層によって造立された。元来は堂の落成、仏像開眼時の供養を目的のひとつとしたが、鎌倉以後は先亡者の供養や墓石としてつくられるようになった」(資料2)そうです。 正 面 右側面 裏 面 左側面 周囲を巡ってみました。どの面にも刻銘等が一切ありません。目的、製作者、年代など不明です。謎多き巨大五輪塔です。「言い伝えによると、平安時代末頃、日宋貿易の摂津尼ケ崎の商人が中国から帰国する途中、海上で嵐に巻き込まれ、あわや転覆かの時、石清水八幡宮に一心に祈ったところ、無事本土にたどり着くことができ、感謝してこの石塔を建立したといいます。この話から、『航海記念塔』とも呼ばれています」(駒札説明文、最後の段落を転記)この説明で、上掲石標の立つ意味が理解できました。石柵に囲まれた基壇から降りて右の側面をみますと、 「不動堂道」と刻した道標が目に止まりました。そこで、この不動堂と上掲に載せた神応寺を訪れてみることにしました。つづく参照資料1) 石清水清き流れの絶えせねば宿る月さへ隈なかりけり :「古代文化研究所:第2室」2)『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社補遺泰勝寺 :「八幡市観光協会」泰勝寺庭園 :「おにわさん」歌人等によって詠まれた八幡の歌 八幡を詠んだ歌 :「八幡散策」八幡八景 :「やはた走井餅老舗のブログ」勅祭石清水八幡祭 :「石清水八幡宮」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか 8回のシリーズでご紹介
2024.01.07
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中参道を降り、松花堂跡までの探訪のあと、この分岐点まで引き返して裏参道を降ります。平坦な参道の先で石段道になります。その手前に石灯籠があります。 屋形石灯籠の変形バージョンでしょうか。笠は屋形形、火袋は方形、そして中台までは屋形石灯籠と同じですが、普通は竿が円柱のところが、変わった形になっています。それに併せて基礎も円形から方形になっています。竿の形ですが、四面を撮ってみました。 竿は台形で外枠が蟇股の感じに見え、中央部が彫り込まれて、両開きの門扉が線刻されています。桟唐戸の形式です。そして、四面とも桟唐戸の意匠が異なります。参道側を正面とすると、右面に「明和九」という年号が読み取れます。その後は写真からは判読がしづらいです。明和(メイワ、1764~1772)の期間を考えると、明和9年は明和の最後の年になります。宿坊大西坊という刻字があります。左面には奉納者の住所と名前が刻されています。宿坊を仲介にして石清水八幡宮に奉納されたということでしょうか。長い歳月の経過が、竿が二枚の石材を組んだものであることを示しています。 ここにも、裏参道のどの地点かを示す表示シートが掲示してあります。 裏参道の傍に、石垣が築かれています。この上が坊跡なのでしょう。石垣の角は算木積みで、石垣は野面積みの形です。 石垣の下も、開平された空間が奥に広がっていて、「太子坂・萩坊跡」案内板が設置してあります。「二ノ鳥居の北に至る『裏参道』は、江戸時代まで『太子坂』といい、古くは約700年前、鎌倉時代の上皇が参詣の帰りにこの道を通った記録があります。 坂の途中を造成して造られた坊のひとつ、『萩坊』は、安土桃山時代の高名な画家・狩野山楽が、豊臣秀吉に追われ隠れ住んだことでも知られ、客殿は山楽が絵描いた金張付極彩色の図で飾られていました。山楽の子・狩野山雪の襖絵は八幡宮の北側にある神応寺に所蔵されています。 坂を下ると、聖徳太子3歳の像を祀った『太子堂』があり、室町時代には他に丈六(一丈六尺)という像高3m程の巨大な阿弥陀仏を安置した行願院もありました。 明治時代初めの神仏分離令ですべて破却されましたが、難を逃れた太子堂は、現在も滋賀県大津市の国分聖徳太子会で大切に守られています」(案内文転記)案内板に掲載の地図を切り出してみました。太子堂が存在した当時の状況が記されています。 石段道の反対側を眺めた景色 裏参道を見上げた景色 「京都府歴史的自然環境保全地域」の標識 裏参道はこんな少し急勾配の石段道を降ることになります。 参道脇にみた石枠の囲みです。「竹雨水」と右側に刻されています。 裏参道を見上げると・・・。 見下ろすと・・・・・。 参道を見上げて。右は参道脇の石積み。 振り返って・・・。 参道脇には、距離を示す石標が立っています。「一町」と刻されています。 いよいよ表参道が見え始めてきました。 振り返って。 「裏参道①」の表示シートが石柱に掲示されています。 裏参道の降り最後のコーナーになります。 石段道の曲がり角には、男山京都府歴史的自然環境保全地域がどの範囲かがイラスト表示されています。保全地域の中に、さらに特別地区・野生動植物保護地区が指定されているようです。二段構えの保全・保護です。最後の石段道を降ると、 表参道の二ノ鳥居の少し手前に設置されたこの案内絵図の近くに出てきます。 赤丸を追記したところが案内絵図の設置された現在位置です。中参道を上り直し、大凡青丸を追記したこの位置から裏参道を降ってきました。これで、石清水八幡宮の探訪を終わります。ご覧いただきありがとうございます。なお、この石清水八幡宮の周辺もこの時少し探訪しています。稿を改めてご紹介します。補遺石清水八幡宮 ホームページ狩野山楽 :ウィキペディア第38話 狩野山楽(1559-1635年) :「関西・大阪21世紀協会」【例大祭のお知らせ】国分聖徳太子堂 :「BIWAKO OTSU TRAVEL GUIDE」財団法人国分聖徳太子会所有の木造聖徳太子立像の概要を知りたい。 :「レルァレンス協同データベース」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -2 表参道(七曲がり・大扉稲荷神社・坊跡ほか)へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -3 三ノ鳥居、表参道の左(西)側エリア へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -4 御羽車舎・社務所・手水舎・竈神殿ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -5 ジャンボ御神矢、本社(御社殿)の外観 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -6 本社周辺の摂社・末社と信長塀 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -7 岩清水社・石清水井、松花堂跡、坊跡等 へ
2024.01.04
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南総門を出て、東寄りに歩き石段を降りると、左端に案内標識が見えます。 この標識の箇所で左に回り込むと「裏参道」に入ります。緩やかな石段道を下ります。 「男山京都府歴史的自然環境保全地域 観察ポイント3」として「シジュウガラ」の案内板が参道の脇に設置されています。 参道の左(西)側に、「宝塔院(琴塔)跡」案内板が設置されています。本堂に東側に、平安時代中期の万寿年中(1024~1028)には建てられていて明治まであった天台密教系の仏塔があり、方形の二重の塔で天台宗の「大塔」の様式だったと言います。軒の四隅に琴がかけられていたので琴塔と呼ばれたそうです。明治の神仏分離令で撤去されたのち、基壇の中央に参道が通されたそうです。つまり、この写真はその基壇の位置から撮ったことになります。(案内板より) 左側には東総門に至る急な石段道が見えます。この石段道は立入禁止です。この石段の少し先、左側に手水所が設けてあります。今は石造水鉢を見るだけです。 その先が分岐点です。右方向矢印付き「展望台、ケーブルのりば」の案内板が見えます。ケーブルカーで来た人は、裏参道の最後の径路を上って本社に向かうことになるわけです。右側の裏参道に進みます。 道沿いに進むと、左側に広い空き地があり、「護国寺跡」案内板が設置されています。既にご紹介していますが、神託を得て八幡神をこの男山に遷座させた奈良大安寺の行教和尚が、それ以前からこの地にあった石清水寺を「護国寺」と改称させて、石清水八幡宮の神宮寺としました。本殿と一体となり、全山を取り仕切る役割を担わせたのです。発掘調査により、江戸時代の文化13年(1816)に建てられた本堂の礎石跡がみつかっているそうです。この寺も明治の初めに破却されました。(案内板より) 男山に一年中住む野鳥をイラスト入りで紹介した案内板が設置してあります。キシ(雄)を中央に、左上から時計回りに、ヒヨドリ、エナガ、ハシブトガラス、シジュウガラ、ムクドリ、キジバト、スズメが実物大で描かれています。道沿いに下って行くと、この分岐点に至ります。 左は裏参道。右が岩清水社、松花堂跡を経由して表参道に出る参道に別れます。まずは岩清水社・松花堂跡を探訪することにしました。 右側の参道を下り始めると、「中参道」の表示シートが取り付けてあります。裏参道と表参道を連結する参道が中参道と称されています。幾度かご紹介してきた「石清水八幡宮イラストマップ」には、中参道という表記はありません。 中参道を下って行きますと、「岩清水社」(摂社)が右(山)側に見えます。石段の右側の石灯籠の傍に社名を記した駒札が立っています。 石鳥居の先にあるのが、「石清水井」です。方形の井戸に、四隅が石柱、切妻屋根本瓦葺きの覆屋が設けてあります。 頭貫、虹梁など覆屋は極彩色です。 虹梁の上に、屋根を支える蟇股。植物文様が描かれています。虹梁の正面には、金龍像と雲が極彩色で描かれています。 頭貫や桁の描画彩色も見応えがあります。 円柱頭部の木組みとその描画彩色もご覧ください。 「石清水社」の御祭神は天之御中主神です。 石清水社の前方、谷側には「瀧本坊跡」と刻された石標が立ち、その右傍に「東谷 瀧本坊跡」案内板が設置されています。石標の先に踏み込むと、坊跡は参道に沿う形で奥へと広がっています。「江戸時代初期に『寛永の三筆』の一人と称された松花堂昭乗(ショウカドウショウジョウ)が住職をつとめた坊です。現代では『松花堂弁当』の由来として有名ですが、書画だけでなく茶の大成者でもありました。江戸城など幕府の数々の建築を手掛け、将軍の茶道師範でもあった小堀遠州は昭乗の親友で、この瀧本坊には遠州と共に造った茶室「閑雲軒(カンウンケン)」があり、詳しい絵図面も残されています。」(案内文一部転記)2010年の発掘調査では、南に客殿の礎石、北には漆喰作りの瓢箪型の池、東の崖の斜面に30m以上に渡る礎石の列が見つかったそうです。茶室の北に懸け造りの書院があったことがわかったそうです。「茶室『閑雲軒』は7mもの柱で支えられ、床面のほとんどが空中に迫り出した『空中茶室』ともいうべき構造であったことが判明しました」(案内文一部転記)石鳥居前の石段道を下ります。 石段下から石清水社を見上げた景色 斜面沿いの石段道を下ります。 参道が左に屈折する突き当たりに至ります。角地にある石段を上がると、 「史跡 松花堂およびその跡」と刻された石標と「東谷 泉坊跡」案内板が設置されています。 参道付近には、この案内板設置されています。「男山 京都府歴史的自然環境保全地域」(京都府)を示すものです。松花堂昭乗のことと建物について触れています。 泉坊跡の案内板のところから、南方向にはかなり広く開平されているようで道が続き、石垣もあります。たぶん数多くの坊跡が南方向に存在するのでしょう。 中参道沿いの一段高い所に石敷の小径があり、 その先へ歩むと「史跡 松花堂およびその跡」案内板が設置されています。 石敷道から南方向にこの跡地が広がっています。この跡地の平坦面は三段になっているそうです。そのうち南の二段が泉坊跡であることが調査により判明しています。(案内板より) 方形に鉄柵で囲まれた場所は「庭(露地)の遺構」。中露地主要部だそうです。この鉄柵の傍にも案内碑が設置されています。 銘板が見づらくなっていますが、上部に載るのがこの図です。「八幡泉坊松花堂真図(東博蔵)」写真トレース図(斜線は発掘検出部) 上掲「東谷 泉坊跡」案内板から切り出しました。この図の中央部分の一番上から、草庵(緑色方形の箇所)、露地の遺構(四角の枠の箇所)、泉坊の書院(黄色い長方形の箇所)です。右端の黄色方形の箇所は泉坊の本堂と表記されています。松花堂昭乗は「瀧本坊」の住職でしたが、引退後、泉坊に草庵を建て「松花堂」(茶室)と名付けました。草庵松花堂と書院は、今はここから約2km南にある「松花堂庭園」(八幡市女郎花)に移築されています。移築先のこの2ヵ所とここが「松花堂およびその跡地」として国の指定を受けています。昭和57・58年(1982-1983)に整備のための発掘調査が行われたそうです。なお、発掘された庭(露地)の遺構は、昭乗没後、江戸時代後期に作り直されているそうですが、「絵図にぴたりと一致するもので、現地に露出展示されています」(案内文より)イラストマップを見ますと、この松花堂跡から石段道を降れば、影清塚・大扉稲荷社前に出て表参道に入ります。私は松花堂跡前から中参道を上り直し、上掲の分岐点で右折して裏参道を降りました。つづく補遺石清水八幡宮 ホームページ天之御中主神 :ウィキペディア万物の根源を示すといわれる三柱 :「Discover Japan」 「天之御中主神」「高御産巣日神」「神産巣日神」松花堂庭園・美術館 ホームページ 松花堂昭乗物語 松花堂弁当発祥の地-松花堂昭乗と松花堂弁当-松花堂昭乗とは 茶文化 :「八幡市」草庵松花堂 :「八幡市」和歌散書花鳥図屏風 松花堂昭乗筆 :「文化遺産オンライン」松花堂昭乗筆書状 :「Keio Object Hub」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -2 表参道(七曲がり・大扉稲荷神社・坊跡ほか)へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -3 三ノ鳥居、表参道の左(西)側エリア へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -4 御羽車舎・社務所・手水舎・竈神殿ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -5 ジャンボ御神矢、本社(御社殿)の外観 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -6 本社周辺の摂社・末社と信長塀 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -8 裏参道を降る へ
2024.01.02
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本社の周囲を半時計回りに巡るとき、左側に本社の外観を眺め、右側には「信長塀」を背景に、まず奉納された石灯籠が林立しています。一つ一つ石灯籠のスタイルが違います。これがおもしろいところ。この信長塀は天正8年に織田信長が寄進したと伝わる塀です。瓦と土を幾重にも重ねて作られていて、銃撃や耐火性、耐久力に優れていると言います。(資料1) 本社には東門がありました。信長塀には「東総門」(重文)が設けてあります。この門の外は裏参道に降りていく石段道です。現在の東総門は江戸前期に建造されたものです。 東総門の北側に「摂社と末社」の案内板が立っています。摂社は「本社の祭神と縁の深い神を祭った神社」で、末社は「本社に付属した神社。支社」です。(資料2)説明内容はご紹介の中に織り込んでいくとして、 摂社と末社の配置図を切り出しました。全体の配置状況がわかりやすくなることでしょう。 最初に目に止まるのがこの「水若宮社」(摂社、重文)です。本社北側の参道の突き当たり、東端に位置します。御祭神は宇治稚郎子命。我が地元宇治に縁の深い神です。江戸時代前期、寛永頃に再興された社だそうです。 格子戸の内部にはさらに扉があるようです。その前に金色に輝く一対の狛犬像が向かい合う形で配されています。 向拝の蟇股 頭貫には線刻が入り、木鼻は象を連想させるシンプルなデザイン。角柱の上部の木組みには、幾何学模様が極彩色で描かれています。 本殿の蟇股には、桃の実(たぶん・・・)が彫刻され、あざやかに彩色されています。 水若宮社の北隣りは「氣比社」(末社)です。この名称から、福井県敦賀の氣比神社から勧請されたものと推測します。 本社東側の参道の北端にこの「若宮殿社」(摂社、重文)。御祭神は応神天皇の皇女。女性の守護神として信仰されているそうです。 この社も朱塗りで極彩色に彩られています。 西隣りが「若宮社」(摂社、重文)で、御祭神は仁徳天皇。男性の守護神だとか。この若宮社は、日吉(ヒエ)造という珍しい形式の建物だと言います。日吉造は比叡山麓の日吉大社本殿だけにみられるの形式だそうです。母屋(モヤ)は切妻造、平入りが原型で、正面3間、側面2間の母屋が内陣となり、前方と左右にそれぞれ1間の外陣が設けられます。左右の側面は庇がつけられます。そのため外観は正面(桁行)が5間、側面(梁間)3間となり、前面の向拝が付けられます。そして、高欄付きの回縁がめぐらせてあります。(資料3)この若宮社と若宮殿社は、本殿創建から70年程後で、平安時代前期には創建されていたそうです。現在の建物は寛永年間(1624~1644)頃の建造だそうです。「御本殿での祈祷ののち、『浄め衣』に願いを書き、男性は若宮社、女性は若宮殿社に奉納します」と案内文に記されています。 若宮社の向拝の木組と蟇股、木鼻の景色 南西側から 「北総門」(重文)とその手前に勧請された「貴船社/龍田社」(末社)。江戸時代末期の建造とか。京都の貴船神社と奈良の龍田大社からの祭神の勧請によるものでしょう。 北総門の屋根の鬼瓦 北総門の西側には「一童社」(末社)とその西隣りに「住吉社」(重文)があります。住吉社は江戸時代前期、寛永頃の建築で、再興された社。一童社は江戸末期に建てられたそうです。住吉社の社の細部を眺めてみます。 一間社流造の社です、向拝の蟇股 木鼻は左右で異なる草花が彫り込まれています。 本殿正面の蟇股。蓮華座の上に宝珠が彫刻されています。 向拝の軒を支える手挟(テハサミ) 側面の蟇股 住吉社の西側、本社境内の北西隅に「校倉(アゼクラ:宝蔵)」があります。京都府指定文化財。この校倉は江戸時代中期からあり、類例の少ない校倉建築だそうです。(案内文より)西側の参道に回り込みますと、 西総門の近くにこの社があります。ここには、「広田社/生田社/長田社」(末社)の三社が一棟に勧請されています。三社漣棟です。広田社は、兵庫県西宮にある廣田神社、生田社は大阪の生田神社、長田社は神戸の長田神社からの勧請だと推測します。 「西総門」(重文)を通り過ぎ、少し先で振り返って撮った景色です。信長塀の姿がわかいやすいところです。 信長塀の傍に立つ案内板は、塀の外側に聳えている御神木「楠」の案内です。「楠木正成公が建武元年(1334))に必勝を祈願し奉納した楠と伝えられています。 樹齢は約700年、京都の天然記念物の指定されています。」(案内文転記)これで本社の周辺をほぼ一巡りしてきたことになります。この後は、裏参道と中参道の探訪をしました。つづく2023年も今日が大晦日。拙ブログをご覧いただきありがとうございます。2024年へと年を跨がりますが、このシリーズをあと少し続けます。お付き合いください。参照資料1) リーフレット「国宝 石清水八幡宮」2)『新明解国語辞典 第五版』(三省堂)3)『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社 p116補遺石清水八幡宮 ホームページ宇治神社 ホームページ宇治上神社 :ウィキペディア氣比神社 ホームページ貴船神社 ホームページ風神 龍田大社 ホームページ廣田神社 ホームページ生田神社 ホームページ長田神社 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -2 表参道(七曲がり・大扉稲荷神社・坊跡ほか)へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -3 三ノ鳥居、表参道の左(西)側エリア へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -4 御羽車舎・社務所・手水舎・竈神殿ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -5 ジャンボ御神矢、本社(御社殿)の外観 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -7 岩清水社・石清水井、松花堂跡、坊跡等 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -8 裏参道を降る へ
2023.12.31
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南総門を通り抜けると正面には、本殿を初めとする「御社殿」の全景が見えます。その本殿前に、新聞報道でみた「ジャンボ御神矢(ゴシンヤ)」が設置されています。報道された翌日24日に眺めた本殿前の全景です。 このジャンボ御神矢は、境内の竹で作られ、長さ8mです。2024年2月3日の節分まで、本殿前に飾られます。(資料1)初詣に向けた通路が仮説されていました。 この御神矢ですが、「鎌倉時代の元寇の際、亀山上皇が八幡大神に必勝祈願したところ、石清水の社から白羽の鏑矢(カブラヤ)が飛んでいき、その音を台風と勘違いした蒙古軍が退散したという故事にちなんでいる」(資料1)そうです。壮大なイメージ力!! 「石清水八幡宮イラストマップ」(資料2)から切り出した「御社殿」の部分図をまず引用します。南総門は修造中のため残念ながらその姿は全く見えません。本殿・弊殿(ヘイデン)・舞殿(ブデン)・楼門・回廊・竹内社を含む十棟が「御社殿」と総称されています。これらは国宝に指定されています。(資料2)正面に唐破風屋根の前部を持つ楼門があり、その左右に瑞籬と回廊が巡らされています。楼門の先には弊殿と舞殿が続き、その奥に本殿が位置します。この本殿は、「八幡造(ハチマンヅクリ)」という形式。2棟の入母屋造、平入りの建物が前後に接続した形になっています。前殿と後殿との中間には一間の相(アイ)の間が付いているそうです。その2棟の軒と軒の接するところには、「黄金の雨樋」が渡されていて、それは、天正8年織田信長の寄進によるものと言います(通常非公開だとか)。(資料2,3,4)イラストの建物の配置が大凡ご理解いただけることでしょう。御祭神は三柱です。 中御前 応神天皇(誉田別尊 ホムタワケノミコト) 東御前 神功皇后(息長帯比賣命 オキナガタラヒメノミコト) 西御前 比咩大神 (ヒメオオカミ) [多記理毘賣命(タギリヒメノミコト)・市寸島姫命(イチキシマヒメノミコト) 多岐津毘賣命(タギツヒメノミコト)] 楼門の西側の回廊と瑞籬。回廊に沿って、吊灯籠が列をなしています。 唐破風屋根のこの楼門の前が参拝所になっています。 屋根裏と虹梁との間の欄間には、龍虎が透かし彫りにされていて華やかに彩色されています。虹梁の上の屋根を支える束はシンプルな形です。 頭貫の上で虹梁を支える蟇股の形はシンプルですが、向かい合う鳩が浮き彫りにされています。鳩は”はちまんさん”のお使い。神鳩だそうです。第1回にご紹介しました一ノ鳥居に掲げられた「八幡宮」の扁額を思い出してみてください。「八」の文字は、この神鳩がさらにシンプルな形にデザイン化され「八」の文字として使われています。 頭貫の両端の木鼻には、胴体部分も含めた龍が彫刻されています。木鼻には獅子あるいは象を彫刻してあるのが一般的な例だと思います。 木組の姿が美しい。 楼門大屋根の大棟の先端には獅子口が置かれ、二本の綾筋の下に菊の紋が陽刻されています。 参拝後、右側に下りますと、回廊と瑞籬の石垣の前に、「国宝 石清水八幡宮 御本社」というタイトルの案内板が設置されています。上記したことと重複する部分がありますので、重複を避けて案内の要点を列挙します。*石清水八幡宮の本社は、国内で現存する最大かつ最古の八幡造の神社建築*石垣の上全体を『本社』と言う。十棟の建造物と棟札三枚が国宝に指定されている。*1634年、德川三代将軍である德川家光公により修造された。*正面の楼門からつながる丹塗の廻廊は神社建築として類例の少ない大規模なもの。*建物の主要部は朱漆塗。舞殿は石敷。*欄間や蟇股など随所に150点余りもの極彩色の彫刻が施されている。石清水八幡宮の由緒によりますと、平安時代の初め、清和天皇の貞観元年(859)、南都奈良の大安寺の僧・行教和尚(ギョウキョウワジョウ)が豊前国(現・大分県)の宇佐八幡宮にこもり日夜祈祷を続けていたとき、「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」という神託を得たそうです。清和天皇の命により、木工寮権允(モッコウリョウゴンノスケ)橘良基が、宇佐八幡宮に準じて八幡造の社殿を6棟を造営し、翌貞観2年(860)4月3日に八幡大神が遷座されたと言います。(資料2,5,6)遷座前、男山には石清水寺があったそうです。貞観5年に行教がこの寺を護国寺と改め、石清水八幡宮の神宮寺にしました。その実権は行教の出身氏族紀氏が握ることになったそうです。石清水八幡宮は創建当初から、八幡宮と護国寺が一体のものとして、神仏習合の形で明治に至ることになりました。(資料5,6)この男山に創建された石清水八幡宮は、都の裏鬼門(西南の方向)を守護する鎮護国家の神に位置づけられます。さらに武運長久の神として清和源氏をはじめ全国の武士が尊崇を寄せていくことになります。清和天皇の孫・経基が臣籍降下し源氏姓を名乗り、その系譜となある頼信が八幡宮を源氏の氏神とします。源義家が社殿前で元服して八幡太郎と呼ばれるようになります。武士の間に八幡信仰が広がる嚆矢といえるのでしょう。(資料2,5,6) 屋根の大棟の鬼瓦 石垣の近くから眺めた吊灯籠この後、本社の周辺を一巡して外観を拝見しました。本社の背後(北側)には、摂社や末社が祀られています。まずは、この本社の外観を眺めていきましょう。反時計回りに巡りました。 右は、正面(南側面)の廻廊・瑞籬の南東角部分。左は、東側面に1ヵ所設けられた石造の樋。石垣から少し突き出た形です。意図は不詳。 降棟の先端に置かれた鬼瓦 本社の周辺には、参道では見かけなかった石灯籠です。火袋と笠等が六面(六角形)、笠に蕨手が付き、竿が円柱等の特徴を示す春日燈籠の形式の石灯籠が奉納されています。 東側面には、本社の内部への出入口が設置してあります。「東門」が使用されています。 左は東側面の北半分の景色。右は北東角辺りを北から眺めた景色。ここで細部を一つ見落としていました。「鬼門封じ」です。 (資料2)東北角の石垣の形状です。リーフレットから引用します。現地でご覧ください。次回訪れる機会があれば、確認してこようと思っています。 本社の北側面。瑞籬と廻廊がよく見えます。通路を挟んで右(北)側には、摂社・末社が並んでいます。次回にご紹介します。 西側面に回り込んで廻廊沿いに半ばまで歩み、振り返って北方向を撮った景色です。 西門 蟇股。ここは正面とは異なり、透かし彫りの彫刻が施され極彩色に塗ってあります。 こちらの木鼻は象の頭部と脚部が彫刻されています。白象に彩色されています。 西門の北側置かれた石灯籠の向こう側に、東側面と同様に石造の樋が設けてあります。今、ふと思ったのは、八幡造の建物の屋根に設けられた「黄金の雨樋」に集まってきた雨水が左右に分流して導かれ、最終的にこの石造樋が排水口になるのかな・・・・という推測です。推測如何? 南側から西門の側面を眺めた景色これで本社の外観をほぼ一巡してきたことになります。つづく参照資料1) 朝日新聞 2023.12.23(土) 京都版「8メートル御神矢お目見え」2) リーフレット「国宝 石清水八幡宮」3) 石清水八幡宮について :「石清水八幡宮」4)『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社 p1155)『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p32-356)『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 p32-337) 清和源氏 :ウィキペディア補遺石清水八幡宮 ホームページ行教 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -2 表参道(七曲がり・大扉稲荷神社・坊跡ほか)へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -3 三ノ鳥居、表参道の左(西)側エリア へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -4 御羽車舎・社務所・手水舎・竈神殿ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -6 本社周辺の摂社・末社と信長塀 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -7 岩清水社・石清水井、松花堂跡、坊跡等 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -8 裏参道を降る へ
2023.12.30
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三ノ鳥居からの表参道の続き、前回最後に言葉だけで触れた社務所の一画から始めます。参道を北方向に進みますと、まずこの「御羽車舎」が見えます。(イラストマップより) このマップ部分図で言いますと、景色の右端の半ばくらいの参道沿いの位置です。 御羽車舎の北側に位置する門です。 門の左側の入母屋造りの屋根の建物の正面に「社務所」と記した木札が掛けてあります。 屋根の棟の端に獅子口が見えます。経の巻と軒丸瓦の瓦当(ガトウ)、さらに二本の綾筋の下の紋、すべて三頭巴紋が陽刻されています。 社務所前の石灯籠 参道の反対側の石灯籠 目に止まった石灯籠の中では、この石灯籠だけ、火袋が六角形です。それに対応して笠の形も六角形です。おもしろいのは、円柱形の竿の長さが極端に短い作りになっていることです。 社務所前を過ぎると、少し先に石段があり一段高い境内地にまずこの朱塗りの「手水舎」が目に入ります。 手水舎で手を浄めた時、気づいたのは普通手水に使われる柄杓(ヒシャク)がなくて細い径の竹筒の先から注がれる水で手を浄める形になっていました。これもコロナ禍の影響でしょうか。 手水舎のある境内地の東辺には、巨大なクスノキがあります。その傍に、「京都の自然二百選」の案内標識が立っていて、「選定植物 クスノキ林」と明記されています。 手水舎で手と口を浄め、「南総門」を通り、本殿のある境内地に入るのですが、現在この門はスッポリとシートで覆われていて、大修造中です。通路部分だけが確保されている状態です。 南総門の手前で、手水舎の北側には、イラアストマップに「供御所」と表記された建物があります。正面の門の柱には、「末社 竈神殿」と記された木札が掛けてあります。御祭神は、迦具土神(カグツチノカミ)、彌都波能賣神(ミズハノメノカミ)、奥津日子神(オクツヒコノカミ)、奥津比賣神(オクツヒメノカミ)。台所守護の神様です。 「御竈殿」の駒札が几帳の前に立てられています。まさに台所の守護神。 通路を抜けて、本殿側の境内から眺めるとこんな景色が現状、見られます。 そこで、一旦手水舎側に戻ると、東側には仮説のこんなスロープが設けてありました。最初は解らなかったのですが、後で気がつきました。たぶん、年末年始の参拝のピーク時には、本殿への参拝順路を一方通行にするための方策なのだろうと思います。(例年そうなのかどうかは未確認です。) 南総門を通り抜けて、右斜め前(北東方向)を見た景色です。 こちら側は、「祈祷受付所」の建物です。南の方には「絵馬・祓串」の表示が掲げられています。 反対に、境内地の西側には「厄除開運 八幡御神矢」の受付所があります。厄除まいりの方法の案内説明が大きく表示されています。 受付所の南側には、お札お守り・八幡御神矢の「納め所」が設けてあります。こんなところで、いよいよ本殿のある御社殿周辺を拝見することに。つづく補遺石清水八幡宮 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -2 表参道(七曲がり・大扉稲荷神社・坊跡ほか)へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -3 三ノ鳥居、表参道の左(西)側エリア へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -5 ジャンボ御神矢、本社(御社殿)の外観 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -6 本社周辺の摂社・末社と信長塀 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -7 岩清水社・石清水井、松花堂跡、坊跡等 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -8 裏参道を降る へ
2023.12.28
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真っ直ぐな参道には、「三ノ鳥居」があります。この参道のおもしろいところは、様々なスタイルの石灯籠が参道両側に奉納されていることです。 例えば、最初に撮ったこれらの石灯籠。基本型は同じですが、それぞれ少しずつ違います。宝珠と請花の形の差異。笠の蕨手(ワラビテ)の有無。蕨手のない笠の四隅の反り具合の差異。竿の部分の反り具合の差異。基壇の差異などです。着目してみるとおもしろい。 三ノ鳥居を過ぎると、表参道上のこの石が目にとまります。「一ツ石」と記した駒札が立っています。「かつては馳馬(ハセウマ)や競馬(キソイウマ)の出発点であり、『勝負石』とも呼ばれる勝運の石。お百度参りの地点ともされる」(リーフレットより)という石です。 参道の左側には、こんな石庭があり、傍に「鳩峯寮の庭」と題する駒札が設置されています。「この石庭は昭和を代表する作庭家である重森三玲翁により、昭和36年9月16日に当地方を襲った第二室戸台風で倒壊した三之鳥居(正保2(1645)年建立)の石材を用いて、昭和41年5月11日に作庭されました。 参道の石畳を含めた東西にわたり一貫する直線と斜線の繊細な組み合わせと、力強い石組との対比によって構成された珍しい石庭で、生涯にわたって月参りを続けられた翁の深い敬神崇祖の心が大変見事に表現されています。 石清水八幡宮 」(駒札転記)参道の斜め右側には、 「御鳳輦舎」があります。この傍にも石灯籠が数多く奉納されています。鳳輦とは、「屋形の上に金色の鳳凰を飾った輿(コシ)。昔、天皇の乗り物に使った」(『新明解国語辞典』三省堂)という意味です。輿を収めておく建物ということでしょうね。ここで、表参道から逸れて、参道の左(西)側エリアを先に探訪してみました。 これはリーフレットのイラストマップから切り出したご紹介エリアの部分図です。このマップを見ますと、余談ですが、このエリアの西端には3カ所の駐車場が明記されていますので、ここまでは車で来ることもできるようです。 御鳳輦舎の近くで、表参道から左折すると、この広い道に入ります。 まず目に止まったのが、この「御神木 大楠公手植えの楠」です。「江戸時代前期に著された『洛陽名所集』によれば、この楠は御本殿西側の築地(信長塀)外にある楠と同じく、<建武中興>の功臣。楠木正成(大楠公)が建武元年(1334)に戦勝軍利を祈り八幡山に植えた楠の一本と見られ、京都府の天然記念物に指定されている。 独特の芳香を発し樟脳の原料ともなるクスノキは、古来その防虫効果や薬効から、仏像・社寺建築・漆器等の用材として使われてきた。この大楠には正成公の尊皇敬神の真心が今も息づいていると言えよう」(駒札転記)このエリアの南辺には、この「清峯殿(セイホウデン)」(青少年文化体育研修センター)があります。背後に「藍峯館(アイホウカン)」(宿泊棟)があるようです。 清峯殿から北方向にニョキリと立つのがこの塔。「湧峯塔」と名付けられています。北側から撮った景色です。給水塔だとか。このエリアの中央部分にありますので、ランドマークにはなります。 この湧峯塔の傍に、「西谷・小塔跡」の史跡案内板が設置されています。「当初より、神仏習合の宮寺であった石清水八幡宮の御本社西側、『西谷』には、早くも平安時代中期から仏堂建立が始まった地区です。今から900年程前の平安時代後期、白河法皇が大塔の建立を発願したことをきっかけに、谷を埋めた大規模な整地が行われ、大塔に続き小塔、鎌倉時代には八角堂など、数々の仏塔や仏堂が建立されました。 小塔は鳥羽天皇の皇后である待賢門院(藤原璋子)の発願により、長承元年(1132)にこの付近に建てられ、文禄5年(慶長元年・1596)の「慶長の大地震」で倒壊したまま再建されませんでした。大塔より小型の『多宝塔』と呼ばれる形式の塔でした」(案内文転記) 湧峯塔の西側には、「エジソン記念碑」が建立されています。 記念碑の石の表面に前面の景色が映じています。ズームアップでエジソン像を撮りました。後で見ると、写真を撮る私の姿が部分的に映じていました。この記念碑の一画の前面右側に「エジソン記念碑」の案内駒札が設置してあります。これまた、駒札の表面に透明シートが貼ってあるため姿が映じてしまいました。掲載没!「この記念碑は、アメリカの偉大な発明家であるトーマス・アルバ・エジソン(1847~1931年)が発明した白熱電球誕生のゆかりの地に、エジソンとその業績を記念するため建てられました。 1878年、エジソンは白熱電球の実用化に取り組んでいましたが、点灯時間はまだ短く、長時間輝き続けるフィラメントを探すことが必要でした。エジソンは金属から綿糸、さらにはあごひげまで、何千もの素材を試し、竹が最適であることを発見しました。これを受けて助手たちは、京都を含め世界中を調査して竹の標本を集め、そのなかから1000時間以上燃焼する耐久性に優れたフィラメントが生まれ、白熱電球の実用化に至りました。そのときエジソンがフィラメントとして使用したのは、石清水八幡宮近くの真竹だったといわれています。八幡の竹は江戸時代には刀剣の留め具である『目釘竹』の名品として德川将軍家に献上されており、強くて質が高いことで有名でした。 最初のエジソン記念碑は、1934年に石清水八幡宮境内に建立されましたが、1958年に現在の場所に移転され、1984年にはデザインを一新し再建されました」(駒札案内文転記) エジソン記念碑の南側には、「鳩峯庵」の扁額を掲げた茶室があります。 茶室から東方向に少し離れたところに、「都山流 流祖中尾都山 頌徳碑」が建立されています。「中尾都山は1876(明治9)年、枚方に生まれ、幼少のころから当宮を守護神として篤く崇敬しました。 この碑は一代で尺八界最大の流派を築き上げた中尾都山の業績を讃え、七回忌にあたる1962(昭和37)年に建立されました。 碑文 『萬象尽蔵一管中』 <人生の喜怒哀楽や森羅万象全てを余すところなく、一管の尺八で表現する> 公益財団法人 都山流尺八楽会 」(駒札案内文転記) エジソン記念碑の近くで、この歌碑が目に止まりました。 湧峯塔の北側でまず目にしたのが、この「ボーイスカウト像」と北東方向にある「石翠亭」(食事休憩所)です。このブロンズ像の北側は広場になっています。広場を挟んでその北方向に、 「三女神社」(末社)があります。御祭神は宗像三女神です。運輸・流通・安全の神様。柱に木札が掛けてあります。 蟇股には波浪が彫刻されています。祭神からの連想でしょうか。 三女神社の北方向の景色 「西谷 八角堂跡」の史跡案内板が目に止まりました。位置は定かではありませんが。「鎌倉時代の初め、順徳天皇の御願により建てられた隅切り八角形の仏堂の跡で、堂内には像高約3mの金色に輝く阿弥陀如来坐像が納められました。その後、慶長12年(1607)には、豊臣秀頼により再建されました」(史跡案内文一部転記)明治の神仏分離令により、この八角堂は当時の正法寺の住職・志水円阿が所有地に移築されたことにより、廃仏毀釈を免れた唯一の仏堂として現存します。 三女神社とその北方向の通路を挟んで東側にこの建物が見えました。 近づいて格子戸から内部を見ると、井戸です。 後でイラストマップを確認沁ますと「供御井」と称するそうです。 三女神社の南の広場の一隅に「西谷 大塔跡」の史跡案内板が設置されています。「大塔は、天永2年(1111)に完成した巨大な仏塔です。平安時代後期、初めて院政を開き権勢を振るった白河法皇の御願により建てられました。 慶長10年(1605)には豊臣秀吉の子・秀頼が再建します。その絵図面によると、現存する和歌山県岩出市 根来寺の大塔とほぼ同規模の、日本最大級の真言形式の大塔でした。側柱一辺14.9m、高さ27.1mもありましたが、今から約150年前の明治の初め、神仏分離令のため取り除かれました」(史跡案内文の前半転記) 大塔の設計図に発掘調査区を合成した図です。赤丸を追記したところが上掲の「三女神社」の位置です。さて、表参道に戻ります。 参道の両側には、奉納された様々なスタイルの石灯籠が櫛比のごとく立ち並んでいます。 三ノ鳥居の方向を眺めた景色 立ち並ぶ石灯籠の一例です。気づいたのは、奈良の春日大社に見られる六角形の火袋と笠の春日灯籠形式の石灯籠を見かけないことです。ほとんど火袋・笠は四角です。 表参道を進むと、右(東)側に社務所があり、その先の左に手水舎が見えます。その少し手前に、この石段道が上掲のエリアへのもう一つの出入口として設けてあります。本殿に近いこちらには、参道脇に「エジソン記念碑」への案内標識が出ています。こちらの石段道に一番近いのが、上記の大塔跡と三女神社です。つづく参照資料*リーフレット「国宝 石清水八幡宮」*史跡に設置の駒札等の案内文補遺石清水八幡宮 ホームページエジソン記念碑 八幡ストーリー :「八幡市」エジソン :「ジャパンナレッジ」トーマス・エジソン :ウィキペディア公益財団法人 都山流尺八楽会 ホームページ都山流 :「コトバンク」2022_11「本曲 朝風」流祖 中尾 都山 作曲_都山流関東支部 第88回 尺八演奏会 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -2 表参道(七曲がり・大扉稲荷神社・坊跡ほか)へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -4 御羽車舎・社務所・手水舎・竈神殿ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -5 ジャンボ御神矢、本社(御社殿)の外観 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -6 本社周辺の摂社・末社と信長塀 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -7 岩清水社・石清水井、松花堂跡、坊跡等 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -8 裏参道を降る へ
2023.12.28
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二ノ鳥居を通り抜け、表参道を進みます。参道の両脇に狛犬像、 石灯籠や「神馬」と刻された碑が奉納されています。 緩やかな参道を歩みます。 平石を渡した橋が架かり、高欄の親柱には「神幸橋」と刻されています。参道左脇の手すりには、「表参道①」と表記したシートが取り付けてあります。正月の参拝に関わって、事故等の生じた際にそのエリアを特定しやすくするための手段として設置されているのかも知れません。 橋上で山側を見ると、 幅の狭い谷川が見えます。雨量が少し多ければ、小さな滝になりそうな景色です。 橋の少し先には、表参道の左側にこの地点まで上ってくる曲折した石段道があります。表参道に入れる枝道です。右の景色の緩やかな表参道を上ります。 比較的緩やかな石段道が曲折する「七曲がり」と称される参道を上がります。 参道の分岐点が見えて来ます。 この分岐箇所に、「旧跡 かげきよ」と読める石標が立っています。 前回ご紹介したリーフレットのイラストマップによりますと、「影清塚」と明記されていて、「参拝前に己の影を映し心身を祓い清める場所」(転記)だそうです。 この分岐点に右の参道への道標も立っています。右側の参道は少し急な石段道になっていきます。この道は後ほどわかったのですが、「中参道」の出入口になります。この道標には、中参道を上って行けば、「石清水社」に至ることを示しています。その先は、勿論山頂の本殿(御社殿)に通じています。 表参道の右側に影清塚がありますが、反対側(左側)には、末社として「大扉稲荷神社」が祀ってあります。御祭神は御食津神。覆屋の柱に木札が掛けてあります。 私には判読できない部分があるのですが、参道脇には目標と距離を示す道標が建てられています。ここからの表参道はしばらく真っ直ぐで緩やかな参道が続きます。そして、参道の山側には、各所でお城の石垣と同様の石垣が各所に出現します。 最初の石垣 「東谷 橘本坊跡」の史跡案内板が設置されています。橋本坊は室町幕府を開いた足利氏の祈願所だったそうです。足利氏は源義家の孫・義康を祖とする武家の名門です。源義家は、平安時代後期に、石清水八幡宮社頭で元服し「八幡太郎」称された武士。三代将軍足利義満の母・良子は石清水八幡宮寺の長官を務めた「善法寺家」の出身という縁があるそうです。この男山の麓、南へ約300mに「善法律寺」があるとか。 しばらくはこのような参道が続きます。 その先が少し角度のある石段道になります。石段道の右側にはまず 「中坊と椿坊の坊跡」の石垣があります。石清水八幡宮もまた、江戸時代末までは、神仏習合の宮寺でした。この男山の山内に数々の坊が林立し、「男山四十八坊」と呼ばれていたそうです。坊は鎌倉時代以降に数が増えたそうです。この周辺は「中谷」と言われていて、中坊は古くからあったと言います。 史跡案内板に載る絵図を切り出してみました。慶応2年(1866)に描かれた状況。「城州八幡山案内絵図」(木版墨刷)に着色した図だそうです。現在では通れなくなった通路が縦横にあったことがわかります。この絵図を見ていますと、高野山の宿坊のイメージを想起しました。「現在の社務所のあたりにあった『椿坊』には、平安時代末期の女流歌人で有名な小侍従が住んでいたといわれています。小侍従の父は石清水八幡宮第25代別当の光清(コウセイ)、姉妹は鳥羽天皇に嫁ぎ、八幡市の地名・美濃山(ミノヤマ)の由来として語られる美濃局(ミノノツボネ)。『待つ宵に更けゆく鐘の声聞けばあかぬ別れの鳥はものかは』の和歌は小侍従の代表作です」(一部転記) その先には、「南谷 豊蔵坊跡」が続きます。 豊蔵坊は德川家康が祈願所とし、将軍家の坊として栄えたと言います。石高随一の坊。豊蔵坊は、江戸幕府が直接修理や築造をおこなったので、詳しい絵図が残るそうです。文久3年(1863)に孝明天皇が攘夷祈願を行った場所でもあるとか。八幡市にある正法寺の開祖・清水家の娘が家康の側室となったお亀の方で、その子が初代尾張藩主となります。お亀の方(相応院)の菩提寺となる正法寺を厚く庇護したといいます。 こんな感じの参道が続きます。 パノラマ合成しましたので景色が歪んでいますが、全景がおわかりいただけるでしょう。 右の石垣の手前下に「愛染堂と南谷の坊跡」の史跡案内板が設置されています。この周辺は「南谷」と言われていたそうです。かつては坊や仏堂が建ち並んでいたと言います。この石垣の場所に愛染堂(盛林院)があったそうです。石清水八幡宮長官であった壇棟清により寛元1年(1246)に建立されたとのこと。愛染堂にあったと伝えられる愛染明王像は、愛知県蒲郡市の水向寺に安置されているそうです。 石段を登り切った上に見えたこのお堂には、「神馬舎」と記された木札が掲げてあります。 切妻屋根の棟には獅子口が置かれ、軒丸瓦の瓦当には三頭巴紋が陽刻されています。 拝の箇所にはシンプルな梅鉢懸魚が使われています、 神馬舍前で右折しますと、参道の少し先左側にこの表参道に上ってくる別の道が見えました。色々な地点からこの山頂に至る径路があることがわかります。異なる石灯籠のパーツを組み合わせたユーモラスな石灯籠の傍に、道標が立っています。私には正確な判読ができません。「右 なら かうや みち」と読めそうなのですが・・・。ならは奈良、かうやは高野・・・。正しいかどうかは不詳。 「走上りバス停 約20分」という簡易な道標も設置されています。 降りなら20分ほどで、主要道路まで出ることができるようです。この簡易な標識の付けられた柱には「男山散策路せせらぎルート」と表示されています。さて後は真っ直ぐの参道を進むだけ。標識によれば、約5分歩けば石清水八幡宮の社殿に至ります。つづく補遺石清水八幡宮 ホームページ男山ハイキングコース②せせらぎルート・表参道 :「八幡まるごとナビ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -3 三ノ鳥居、表参道の左(西)側エリア へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -4 御羽車舎・社務所・手水舎・竈神殿ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -5 ジャンボ御神矢、本社(御社殿)の外観 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -6 本社周辺の摂社・末社と信長塀 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -7 岩清水社・石清水井、松花堂跡、坊跡等 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -8 裏参道を降る へ
2023.12.26
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昨日(12/24)、石清水八幡宮を訪れてきました。そのきっかけは2つありました。一つは、23日の朝から、宇治市民大学の公開講座の一つを単発で受講に出かけた時、受付の傍に積まれていた複数の希望者配布資料の一つに、冒頭のリーフレットがありました。「国宝 石清水八幡宮」 参考にいただきました。帰宅後に新聞の朝刊を見ますと、京都版のページに、「8メートル御神矢お目見え 石清水八幡宮」の記事が報じられていたのです。「八幡市の石清水八幡宮で22日、『ジャンボ御神矢(ミシンヤ)』が設置された。境内の竹で作った長さ8メートル。来年2月3日の節分まで本殿前に飾られる」(朝日新聞朝刊)昨日は天気がよかったので、この2つが動因となりました。今なら混雑もしないだろうし、運動不足解消の一環として、男山の山頂にある社殿と境内を一巡するウォーキングをしてみようと。石清水八幡宮を訪れるのはたぶん何十年ぶりか・・・・・です。京阪電車の「石清水八幡宮」駅の改札口をでて、前の道路を右に行けば、参道ケーブルがあります。道を横断し、左方向に歩道を道沿いに進めば、石清水八幡宮の一ノ鳥居方向になります。 道路を横断して、最初に目にとまったのが、「エジソン」の胸像です。エジソンが八幡男山の竹を利用して、電灯を発明したのが1880年でした。八幡の名が世界に知られることになりました。 そのすぐ近くに「引窓南邸跡」の碑が立っています。この碑のことは今回初めて気づきました。 案内文によると、「引窓」が人形浄瑠璃の演目の場面で取り上げられて知られるようになったとか。この碑、もとは約50mほど西側の位置に昭和2年頃に設置されたと言います。 道沿いに進み、右折すると、「石清水八幡宮」の社号碑が見えてきます。左側に、周辺観光案内図と案内板も設置されています。 一ノ鳥居 石造鳥居に「八幡宮」と記された額が掲げてあります。「八」という文字の形にご注目! 鳥居の傍に、石清水八幡宮の「御祭神と歴史」の案内板が掲示されています。冒頭のリーフレットとこの案内文等は、後ほど要所要所で参照し、ご紹介に利用します。 一ノ鳥居傍の石灯籠。 左右に対で配置されています。 元文2年(1737)11月と彫り込まれた石灯籠の傍に、大きな「案内絵図」が設置されています。 境内要所にこの大きさの案内絵図が現在位置を付記して設置されていました。 石清水八幡宮放生池一ノ鳥居を通り過ぎると、右側に「放生池」が見えます。池面を眺めますと薄氷が張っているように見えました。 池の畔にこの案内板が設置されています。 参道の正面には、門が見えます。参道の手前には緩やかな弧を描く石橋が参道に架かっています。これは、たぶん一つの結界を意味するのでしょうね。 石段の手前、参道の左側に、この朱塗りの覆屋が見えます。建物の左側に「筒井」と刻した石標が立っています。 近づいて格子戸越しに内部を見ると、大きな井戸です。 覆屋の内部をを見上げると、蟇股様の木組みに三頭巴文様の彫りがあり、屋根を支えると球形状の束などの木組が見えます。 冒頭のリーフレットに掲載の「石清水八幡イラストマップ」から「頓宮」の部分図を切り出しました。「頓宮」とは、天皇の行幸の際に設営される仮宮で、行宮(アングウ)・行在所(アンザイショ)とほぼ同じ意味合いの言葉だそうです。(資料1)ここでは、山上の八幡大神が一時遷座される仮宮を意味するのでしょう。 緩やかな石段を上がったところにある最初の門です。四脚門の形式です。連子窓を供えた塀で囲われています。建物の配置から考えますと、いわば裏門に相当するようです。 桟唐戸の扉と蟇股には、菊花文が陽刻されています。 頓宮の内側から門と塀を眺めた景色 「頓宮殿」 正面から眺めますと、右(東)側が「頓宮殿」で、左(西)側が「頓宮斎館」です。 頓宮殿の傍に、この案内板が設置されています。かつては、現在の頓宮斎館の位置に、「極楽寺」があり、頓宮殿と並んでいたそうです。極楽寺は、石清水八幡宮初代別当・安宗(アンシュウ)が元慶(ガンキョウ)7年(883)に建立した男山の麓の中心施設だったと言います。この頓宮では、毎年9月15日に「石清水祭」という勅祭が行われます。その起源は「九州・宇佐神宮から八幡・男山への八幡大神の遷座より、4年後の貞観(ジョウカン)5年(863)、宇佐神宮に倣って始められた仏教的な儀礼『放生会』に遡ります」とのこと。儀式は午前2時、「神幸の儀」(御神霊の遷座)から始まって行きます。京都の葵祭、奈良の春日祭と並ぶ三大勅祭の一つだそうです。(案内文、資料2) 頓宮斎館側(西側)にも門があります。 東に離れて眺めると、門の外側に巨大な石造五輪塔が垣間見えます。 西の門の近くの頓宮敷地内から眺めた回廊 頓宮敷地の南側にこの朱塗りの門があります。頓宮の正門(表門)です。こちらも四脚門の形式です。一ノ鳥居から参道は頓宮を通り抜ける形で南方向に延びています。 参道を少し歩むと、右側に「高良神社」の額を掲げた石鳥居が東面して立っています。 この神社の参道傍に、手水所が設けてあります。 この境内地に「京都の自然二百選」に専定された植物「タブノキ」の巨木があります。しめ縄が巡らしてありますので、御神木のひとつのようです。 巨木の幹にできた洞の中に、榊が供えてありました。 境内地に拝殿と本殿が建てられています。摂社の一つで柱に木札が掛けてあります。御祭神は高良玉垂命です。 この案内板が設置されています。高良神社は、貞観2年(860)創建と伝わり、この周辺の古い地名「カワ(ハ)ラ」に由来するとも言われているとか。この神社には、江戸時代中期に郷民が高良大明神を氏神として始めた「太鼓まつり」が再興されて、夏の風物詩として受け継がれているそうです。「放生会」の儀式が頓宮で行われる際に、八幡大神が山上から頓宮殿に一時的に遷座されることから、この辺りは「宿院」と呼ばれてきたそうです。 高良神社から参道に戻り、数十m進むと、この道路標識があり、その近くに大きな「案内絵図」が設置されています。右折して右の参道を行くならば、「裏参道」です。急な石階段の道の連続で、山頂の本殿に至ります。真っ直ぐに進むと「表参道」です。まずは、オーソドックスに表参道を歩くことにしました。 石造の二ノ鳥居表参道には、少し先に「二ノ鳥居」が見えます。 リーフレットより、交通の案内図を切り出しました。序でに、兼好法師著『徒然草』第52段に触れておきましょう。短い段です。「仁和寺にある法師、年よるまで石清水を拜まざりければ、心うく覚えて、或る時思ひ立ちて、ただひとりかちよりまうでけり。極楽寺、高良などを拜みて、かばかりと心得て帰りけり。さてかたへの人にあひて、『年頃思ひつることはたし侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけむ。ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず』とぞいひける。 すこしのことにも、先達(センダチ)はあらまほしきことなり。」(資料3)大昔、古文の時間にこの段を採りあげられ、原文を暗記するという授業を受けた記憶があります。その目的は、どんなことでも、その道の先輩、良く知っている人がいるので、まず教えてもらうことが大事だよという点にあったのでしょう。なつかしい段です。石清水八幡宮に参ったことがない仁和寺の僧が年取ってから思いたち、一人徒歩で出かけたのです。しかし、上掲の頓宮と高良神社辺りを参拝して、ここが石清水八幡宮と思い込んだのが失敗のもと。参拝者は皆山に登って行く。その姿をみて不思議に思うだけ。神参りが目的だから山登りするまでもないとその僧は一人合点して、仁和寺に帰りました。自分の体験を身近な僧に語って、笑われたというオチです。思い込みってありがちなんですよね・・・。時折失敗を繰り返しています。嫌になる(笑)兼好法師(1283?~1352年以降)の時代に、極楽寺と高良神社があったことがこの一文からわかります。極楽寺が廃されたのは、1868年明治の神仏分離令が発端になった。廃仏毀釈運動が起こった結果なのでしょう。つづく参照資料1) 頓宮 :「コトバンク」2) 勅祭石清水祭 :「石清水八幡宮」3)『改訂 徒然草 -付 現代語訳』 今泉忠義註 角川文庫 p45-46補遺石清水八幡宮 ホームページ八幡総本宮 宇佐神宮 ホームページ明治元年(1868)3月 神仏分離令が出される :「公文書に見る日本のあゆみ」神仏分離 :「コトバンク」徒然草 第五十二段 :「徒然草(吉田兼好・吾妻利秋訳)双蝶々曲輪日記 :ウィキペディア双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)引窓 :「初めての歌舞伎を楽しもう」munakatayoko's blog拝見した演目は『双蝶々曲輪日記 引窓』 :「歌舞伎美人」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -2 表参道(七曲がり・大扉稲荷神社・坊跡ほか)へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -3 三ノ鳥居、表参道の左(西)側エリア へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -4 御羽車舎・社務所・手水舎・竈神殿ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -5 ジャンボ御神矢、本社(御社殿)の外観 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -6 本社周辺の摂社・末社と信長塀 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -7 岩清水社・石清水井、松花堂跡、坊跡等 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -8 裏参道を降る
2023.12.25
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知恩院の探訪から外れますので、一応別稿の形で知恩院新門から京阪三条駅までの帰路を点描でご紹介します。知恩院新門前の東大路通の交差点を横断して、西の通りを進みます。ここは「新橋通」の東端です。新橋通は東大路通と西の大和大路通との間を結ぶ全長約500mの東西の通りです。新橋通を西進して、花見小路通を横切り、その先の白川に架かる「新橋」を渡ります。新橋通という名称はこの橋名に由来するそうです。(資料1)その先に冒頭の岐路に位置する「辰已大明神」が見えます。 辰已神社(辰已大明神)は、芸妓舞妓さんたちの信仰を集めている神社です。辰已大明神の名の由来は、京都御所の南東(辰已)にあることだとか。御所の南東の方角を守る神社だったそうです。(資料2,3)ご祭神は狸(タヌキ)だそうです。「これは、かつてこの界隈に住んでいた狸がイタズラをして人々を困らせたため、狸を祀る祠を立てたところ治まった、という逸話によるそう」(資料2)だとか。また、辰已大明神は、辰已稲荷、祇園のお稻荷さんとも呼ばれているそうです。(資料1,2)左に行けば、白川沿いの「白川南通」で西の大和大路通まで全長約150mの短い通りです。現在は遊歩路になっていて、祇園エリアでの観光スポットの一つになっています。白川沿いに「吉井勇歌碑」が建立されていて、記念撮影スポットになっています。 かにかくに祇園はこひし寝るときも 枕のしたを水のながるる 吉井勇『祇園小唄』かつては、お茶屋が立ち並んでいた敷地跡で、終戦直前の昭和20年(1945)3月に疎開により立ち退きが命じられた結果生まれた空間だそうです。そこが現在の白川南通となりました。(資料1,4)歌碑のある位置は、茶屋「大友」跡。大友の女将磯田多佳女(イソダタカジョ)は文芸芸妓として名高い人だったとか。1915(大正4)年の春に来京した夏目漱石が、持病の胃痛で2日間「大友」で寝込み、多佳女の手厚い看護をうけたというのもよく知られたエピソードです。(資料4)右側が新橋通です。観光客を避けて、新橋通を進みます。四条通より北側のこのエリアは祇園新地と通称されるところです。正しくは八坂新地というそうですが。(資料4) 辰已大明神のすぐ先に、地蔵堂が目に止まりました。 証券の格子戸を覗くと、内側に金網が張られていて、堂内が見えませんでした。残念。「地蔵尊」と記した扁額が、頭貫の上に掲げてあります。 新橋通を東から眺めた景色。 この時点では16時10分頃でしたので、灯火もつかず通りは閑散としています。 通り抜けるのには靜かで便利。 東西の通りの両側に、格子と簾の京風の質の高いお茶屋が整然と建ち並んでいます。京の花街の一つ。祇園元吉町でこのあたりの中核となっている町です。昼間に通り抜ける以外には、私には縁のないところですが・・・・。昭和48年(1973)にこの町内に3階建てのビルを建てる計画が持ち上がったとか。それに対して、女将さんたちが「祇園新橋を守る会」を発足させ、景観を守る住民運動を開始して反対。その結果、最終的には昭和50年(1975)に「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されたという経緯がある街並みです。「家の増改築には、周囲の景観にあった二階建てで、日本瓦に格子の外観などが義務づけられた」(資料1)という次第。その外観の保存として、次のような説明があります。「1階は千本出格子・駒寄せと引き込み格子戸、本2階には座敷の外に縁側を設け、肘掛けつきのガラス窓とし、軒にはすだれをかける表の構え」「卯建(ウダツ)などを設けず、1階と2階の屋根の高さを揃えて、連続した、町並みをつくる」(資料3)こういう努力がこの景観の美を維持しているのでしょう。 西端の大和大路通に出るところに、道路標識が立っています。左折して大和大路通を南下して、白川南通のところで右折し、川端通に出ます。 川端通に出る手前で、白川との間の三角地がこの一画です。ここは弁財天町の南端。手前にある小社は「弁財天祠」です。 東側に「地蔵堂」が祀ってあります。 そして、一番手前の角にひっそりと見える石標は昭和40年(1965)に建てられ、「陶匠青木聾米(ロウベイ)宅跡」と刻されています。青木聾米とは、青木木米のことです。祇園のお茶屋「木屋」の一人息子で幼名は八十八(ヤソハチ)。放蕩三昧の後、「陶工奥田頴川のもとに通って、陶法を学び、粟田山の土を用いて窯をひらき、のちに幾多の名器をつくるに至った。また文人画に秀で、独自の境地をひらいた」(資料4)という人。お茶屋の屋号と幼名から「木米」と号したそうです。京阪電車の三条駅はほんのあと少し。帰路での探訪ご紹介を終わります。坂村真民さんの「念ずれば花ひらく」碑を見た余韻として、次の詩を序でに引用させていただきます。この詩、詩の題もまた真民さんの詩ではよく知られていることと思います。 二度とない人生だから 坂村真民 二度とない人生だから 一輪の花にも 無限の愛を そそいでゆこう 一羽の鳥の声にも 無心の耳を かたむけてゆこう 二度とない人生だから 一匹のこおろぎでも ふみころさないように こころしてゆこう どんなにか よろこぶことだろう 二度とない人生だから 一ぺんでも多く 頼りをしよう 返事はかならず 書くようにしよう 二度とない人生だから まず一番身近な者たちに できるだけのことをしよう 貧しいけれど こころ豊かに接してゆこう 二度とない人生だから つゆくさのつゆにも めぐりあいのふしぎを思い 足をとどめてえみつめてゆこう 二度とない人生だから のぼる日しずむ日 まるい月かけてゆく月 四季それぞれの 星々の光にふれて わがこころを あらいきよめてゆこう 二度とない人生だから 戦争のない世の 実現に努力し そういう詩を 一篇でも多く 作ってゆこう わたしが死んだら あとをついでくれる 若い人たちのために この大願を 書きつづけてゆこう (資料5)私にも、このブログをお読み頂いたあなたにとっても・・・・・・。「二度とない人生だから」ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『京都の大路小路』 [監修] 千宗室・森谷尅久 小学館 p272-2732) 辰已神社[辰已大明神] :「そうだ 京都、行こう」3)『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p131-1344)『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p229-232,p239-2405)『坂村真民全詩集 第五巻』 大東出版社 p90-91補遺駒寄せ :「八清」格子戸 :「つるた株式会社」千本出格子の画像素材 :「PIXTA」青木木米 :「コトバンク」青木木米 :「JapanKnowledge」青木木米とは?陶磁器の作品や特徴・文人とは何かについても解説 :「和楽web」奥田頴川 :ウィキペディア奥田頴川宅蹟 :「フィールド・ミュージアム京都」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・東山 -3 祇園・白川南通の桜、辰巳大明神、「かにかくに」歌碑、陶匠青木聾米宅蹟など観照 京都・東山 祇園白川の桜と火除地蔵探訪 京都・東山 白川沿いの散策
2023.12.17
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宝佛殿(番号7)と納骨堂(番号8)手前の池との間の小径を上って行くと、「大鐘楼」(番号13)に至ります。 知恩院境内の南東隅の小高い位置にあります。木々の間から、すぐ傍の納骨堂、その北にある経堂、御影堂などが見下ろせるくらいの高さです。 この鐘楼は延宝6年(1678)、知恩院第38世玄誉万無上人のときに造営されました。(資料1) 西面あと半月、大晦日にはこの大鐘が「除夜の鐘」で撞かれます。大学生の時に、友人達と除夜の鐘を聞きにここまで来た思い出があります。この大鐘楼のすぐ近くで眺めていました。その時と今も、たぶん同じ撞き方が伝承されていると思います。親綱1人、子綱を16人の17人で大きな撞木を引き、大鐘を撞くのです。(資料1)撞く瞬間に親綱を引く僧は綱に全体重をかけて背後へと宙を飛ぶかの如くに体を反らせて行きます。一瞬、両足が地を離れていたのではないでしょうか。そんな印象が記憶に残っています。 大鐘楼の基礎の木組みと大鐘楼を支える円柱。円柱は鉄輪で締められています。 北面 東面 南面釣鐘は高さ3.3メートル、直径2.8メートル、重さ約70トン。寛永13年(1636)、知恩院第32世雄誉霊巌上人の鋳造だそうです。(資料1) 風鐸大鐘楼を眺めた後、御影堂前に引き返します。 池を東辺から眺めた景色。池中央の反り橋の向こうに経堂が見えています。境内を一巡してきて、探訪の2つめの目的は未だ未達成。詩碑に出会えるとすれば、残るは三門の石段道かその南にある石畳道の女坂かのいずれかの道筋です。 この女坂を降っていくことにしました。 ふと坂道の右(北)側を見ますと、大きな石碑が目に止まりました。 三門の石段道と女坂とが合流する境内地点に近い位置にある「朱印所」の建物が見えるくらいの場所。女坂を降り始めてすぐの位置になります。 これが目的としていた坂村真民さんの「念ずれば花ひらく」碑です。この探訪の念願達成です。今までに知恩院を訪れる時は、この女坂経由で御影堂のある境内地に入りました。いつも通りなら、境内地の探訪をする前にこの詩碑に出会えていたのです。逆ルートで巡ったために、最後になってしまいました。お陰で、出会いの印象は一層深まりました。坂村真民さんの全詩集に次の詩が収録されています。 念ずれば花ひらく 坂村真民 念ずれば 花ひらく 苦しいとき 母がいつも口にしていた このことばを わたしもいつのころからか となえるようになった そうして そのたび わたしの花が ふしぎと ひとつ ひとつ ひらいていった (資料2)ここに由来する「念ずれば花ひらく」の詩碑。今や日本全国と一部海外にも建立されていることは、拙ブログの「雲がたり」でご紹介しています。ここでは真民さんご自身の「念ずれば」の思いについてご紹介しておきたいと思います「念ずる」という言葉に関連して、真民さんは次の題の2つの詩を詠まれています。 念ずる心 善根熟するまで 念々怠らず精進して 自己を作っておこう そしたら 春風吹き来った時 花ひらくことができ 春雨降り来った時 芽をだすこともできよう (資料3) 念ずる 念ずるのだ 念ずれば 花ひらく 八字十音の真言(シンゴン)を 一切衆生(シュジョウ)の胸に 点火することを 念ずるのだ 念ずるのだ あの人この人の処へ タンポポのように飛んでいって 慰め励ましてゆくことのできる そういう人間になり そういう詩をつくることを 念ずるのだ 念ずるのだ 大きな病気にもかかわらず 人に迷惑をかけず 世尊のように 涅槃(ネハン)に入ってゆける 自分になりたいと 念ずるのだ 念ずるのだ この家で あと二十年 詩精進のできるよう 諸仏諸菩薩 大詩霊さま 大詩母さまに 念ずるのだ (資料4)己が念じたこに対して行動/行為を積み上げていく。その営為があってこそ、念ずれば花ひらく時がいつか訪れる、チャンスをつかむことにつながる・・・・・。「求めよ、さらば与えられん」にも通じる詩句だと思います。こちらが動的なニュアンスが強いことに対して、八字十音の真言はコツコツと積み上げる静的なアプローチの様にも感じます。思いのこもったいい言葉ですね。 女坂の入口には、「智慧の道」と刻した石標が立っています。法然上人の廟堂へ至る径路の入口がここに示されています。 「三門」(番号14)を女坂の側、南東側から見上げた姿です。 左側は三門を通り抜け、東方向に真っ直ぐ御影堂を目指す急角度の石段道。「上る」よりも「登る」という感覚のちょっとしんどい石段道。右側は、今降ってきた女坂を入口側から眺めた景色です。 この「三門」(番号14)は、二代将軍德川秀忠の命により、元和7年(1621)に建立されました。「構造は五間三戸・二階二重門・入母屋造本瓦葺(いりもやづくりほんがわらぶき)で、高さ24メートル、横幅50メートル、屋根瓦約7万枚」(資料1)という門です。三門という表記は、三解脱門、悟りに至る三通りの解脱の境地を表していると言います。「空門」「無相門」「無願門」の三門だそうです。(資料1)桜が咲いた頃の三門の景色がいいですね。拙ブログでも別途ご紹介しています。 三門の南西方向、女坂から円山公園の方に歩み始めた位置に、今まで利用させていただいた「浄土宗総本山知恩院境内案内図」が設置されています。三門前から真っ直ぐに西方向に緩やかな下り坂になっている「知恩院道」を進みます。 東大路通より少し東に奥まっていますが、「知恩院新門」です。この門は、高麗(コウライ)門の形式です。城の門によく使われている形。ここから一筋北に、東大路通から距離が離れますが、白川の東側に「知恩院総門」があり、「華頂道」の坂を上っていくと、今回の探訪の起点とした「黒門」前に至ります。これで、久しぶりの知恩院探訪のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 知恩院の建造物 :「知恩院」2)『坂村真民全詩集 第一巻』 大東出版社 p2493)『坂村真民全詩集 第二巻』 大東出版社 p414)『坂村真民全詩集 第二巻』 大東出版社 p212補遺【LIVE】知恩院除夜の鐘2022 YouTube高麗門 :「コトバンク」薬医門と高麗門 :「信州まちあるき」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 久々に知恩院へ -1 黒門から入り御影堂へ探訪 京都 久々に知恩院へ -2 経堂、唐門、法然上人像、智慧の道ほか&一心院 へ探訪 京都 久々に知恩院へ -3 御廟・勢至堂・紫雲水・千姫の墓・濡髪大明神ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・東山 -2 知恩院三門の桜観照 諸物細見 -3 京都・東山 知恩院三門と桜
2023.12.16
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ここが「圓光大師諸国二十五霊場」の最後の霊場となります。この石標の立つ境内地から一段高く見上げる位置に「御廟(法然廟)」(番号11)が設けられています。左(北)側が「御廟」で右側が「拝殿」です。 門を入ると、すぐ右側に石段があります。上ると、踊場で左折してさらに石段を登ります。 石段の登り口に竿の正面に「大師御廟前」と刻した石灯籠が据えてあります。 拝殿 ここからは先は立入禁止となっています。 御廟の唐門 拝殿の向こうの廟堂入口をズームアップで。廟堂を囲む石柵の正面に唐門があり、その扉には三葉葵の紋が彫り込まれています。「現在の御廟は、慶長18年(1613)常陸国土浦藩主 松平伊豆守信一の寄進を得て改築されたものです。」(資料1)廟堂内には、五輪石塔が安置されていると言います。(資料2) 拝殿前から京都市内の西方向を眺めた景色 ズームアップで 石段を降りて、右折し境内地を北に歩むと、正面に「勢至堂」(番号10)があります。駒札に「勢至堂」と記されています。南面する建物の正面には、「本地堂」と記された扁額が掲げてあります。「現在の勢至堂は享禄3年(1530)に再建されたもので、七間四面単層入母屋造本瓦葺、桁行21メートル、梁行20メートルの現存する知恩院最古の建造物」で、堂内の正面には、後奈良天皇の宸翰による「知恩教院」の額が掲げられていて、この言葉が知恩院の名称の起源になっています。そして、この地が法然上人が念仏の教えを広められた大谷の禅房の故地でもあります。(資料1)霊元天皇皇女吉子内親王の宸殿を賜ったと言われる建物で、外縁には擬宝珠勾欄が付いています。(資料2)もともとはこのお堂に法然上人の尊像(御影)が本尊として祀られていたそうですが、御影堂の建立により移された後、このお堂の内陣の奥に本尊として勢至菩薩像が祀られています。そこから、「勢至堂」と称されるようになったとか。勢至菩薩は法然上人の本地身とされています。(資料1,2) 廟堂のある位置の崖下に、「紫雲水」と刻された石標が立っています。 そこに小さな池があります。法然上人が入滅される時、聖衆が来迎し紫雲が水面に現れ、芳香が漂ったという伝承が残っているそうです。(資料1,2) その少し北側、同じく崖下に、石柵で囲まれた石の傍に「影向石」と刻した石標が立っています。法然上人が入滅される時、この石の上に加茂明神が降臨されたという伝承があるそうです。(資料2)ここから北側の境内地は墓地になっています。 墓地への出入口に近いところに、石仏を集合させて祀ってあります。 この墓地の中央部に「千姫の墓」が安置されています。 石柵などはありませんが、基壇の上に設けられた大きな墓です。この墓の石塔の形式も私にはあまり見かけないものです。無逢塔に準じた形式でしょうか。塔身の正面には三葉葵の家紋が陽刻されています。千姫の墓は、小石川伝通院に納骨されているそうで、この石塔には分骨が納められているとか。千姫の戒名は「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」。(資料3) 千姫の墓の北に「濡髪大明神」の社(番号12)があります。この墓地域の北端です。石鳥居には「濡髪祠」と記した扁額が掲げてあります。 もともとは、火災除けの神、伽藍護持の鎮守として荼吉尼天(ダキニテン)が祀られていたと言います。寺伝によれば、御影堂が建立される時に住処を追われた白狐が、知恩院第三十二世雄譽霊巌(レイガン)上人にお願いして用意してもらったのがこの濡髪祠だとか。知恩院の守護神として祀られたと言います。白狐は童子に化けていたときその髪が濡れていたことで、「濡髪」の名の由来になったとか。(資料1,2)「『濡髪』が艶やかな女性の姿をイメージさせることから、祇園町のきれいどころの信仰を集め、今日では縁結びの神様『濡髪さん』として親しまれています。」(資料1) 傍にこの小祠が祀られていますが、不詳。 濡髪祠の傍からの京都市内(西方向)の景色 写真に撮ると樹木が目立ちますが、京都市内が展望できます。 見下ろすと、直下にも墓地が広がっています。 濡髪祠の少し南から東方向、華頂山を眺めた景色 すぐ傍の東方向には、整然と無逢塔が並んでいます。知恩院歴代の上人・僧侶達が祀られている墓所域なのでしょう。 鐘楼の向こうから射す日の光を眺めつつ、智慧の道を引き返しました。 知恩院境内案内図つづく参照資料1) 知恩院の建造物 :「知恩院」2)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p235-2423) 千姫 :ウィキペディア補遺浄土宗総本山 知恩院 ホームページ德川家と伝通院 千姫の墓所 :「伝通院」常総市: 弘経寺 :「茨城県:歴史・観光・見所」千姫 :「コトバンク」白狐,濡髪童子 怪異・妖怪伝承データベース :「国際日本文化研究センター」シロギツネ,ヌレガミドウジ 同上データベース :「国際日本文化研究センター」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 久々に知恩院へ -1 黒門から入り御影堂へ探訪 京都 久々に知恩院へ -2 経堂、唐門、法然上人像、智慧の道ほか&一心院 へ探訪 京都 久々に知恩院へ -4 大鐘楼、坂村真民さんの詩碑、三門、新門 へ
2023.12.15
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経堂 池の北側、御影堂の東側には「経堂」(番号9)。その北に宝篋印塔形式の「写経塔」があります。経堂は方三間単層・裳階(モコシ)付で、屋根は宝形造り本瓦葺き。元和5年(1619)建造。(資料1) 御影堂の東側の石畳道をそのまま北に歩めば、「唐門」があり、方丈の玄関前に位置します。「方丈」の入母屋造り桧皮葺の屋根が見えています。手前で右(東)に右折する道を進むと、 石段道に至る手前に、石灯籠が立ち、竿の正面に「大師御廟前」と刻されています。 石灯籠を東側から撮った景色前方に見えるのは御影堂の東側面。御影堂の右側には、集会堂と結ぶ回廊が見えます。 火袋の浮き彫りを撮って見ました。2面には鹿が彫刻されいます。他2面の文様は雲形の文様。 石段道の右側に「智慧の道」と刻された石標が見えます。 法然上人の御廟に至る道故のネーミングでしょうか。 石段道の左側に「法然上人像」が建立されています。台座の正面にはシンプルに「法然上人」とだけ刻されています。 この「智慧の道」の最初の石段道を上がった踊場の空間には、通路の左右、石柵の近くに大きな石造茶壺が奉納されていて、その先の通路の右(南)側には、 この碑が建立されています。私には判読できません。少し傾斜のきつい次の真っ直ぐな石段道を登り切ると、三方向に別れます。 正面の門から先は墓地になっていて、ここは関係者以外は立入禁止です。 門前の右側には名号を刻した墓石と阿弥陀如来石像が安置されています。背後に卒塔婆が立てかけてありますので、個人の墓所域かと推測します。 右側には、この山門があります。門の右側に、「浄土宗捨世派本山一心院」と記された大きな木札が掲げてあります。ここも門前に通行禁止の掲示がでています。知恩院は浄土宗総本山ですが、鎮西流(鎮西派)の領袖です。その境内地に隣接し「捨世派(シャセイハ)」という別派があることになります。これは江戸時代に德川家がこの地で鎮西派の活動を庇護し寺域の拡張と伽藍の整備に協力した結果、たぶんこういう現状の形になったのでしょう。捨世派は、「天文年間(1532~1555)の称念を祖とし、寺院の俗化や僧侶の形骸化に慨嘆し、法然の念仏思想に立ち返ろうと静閑な地に道場を設け、厳粛な清規のもとで専修念仏一行に励み、その興隆につとめた僧侶達のこと」をさすそうです。法然が叡山で黒谷に遁世したように、「念仏専修の為に隠遁生活を選んだ僧達」です。首唱者の称念が、念仏道場として、この法然御廟の畔に一心院を開いたことで本山となったようです。(資料2)経緯がわかると、私には興味深いところです。左(北)側にも築地塀と門があります。こちらの門を入ると、上記「法然御廟」のある境内地です。 門を入ると左(西)側に「鐘楼」があります。北東側から撮った鐘楼です。 右(東)側にはすぐに石段があります。これは石段入口の北側の景色です。 右側の石標には「圓光大師諸国二十五霊場」と刻されています。圓光大師は法然上人のことです。また、左側の石碑には、「南無阿弥陀佛」の名号が刻まれています。 句碑がありますが。これもまた私には判読できません・・・・残念。知恩院の境内地の一番奥まったところに、勢至堂と法然上人の御廟があります。この境内地辺りが、大谷禅房の故地と称されるところです。つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p235-2422) 捨世派 :「web版 新纂 浄土宗大辞典」 補遺浄土宗総本山 知恩院 ホームページ鎮西流 :「web版 新纂 浄土宗大辞典」 中世の浄土宗 西山派と鎮西派 :「備陽史探訪の会」法然上人二十五霊場 ホームページ法然上人二十五霊場 :ウィキペデキア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 久々に知恩院へ -1 黒門から入り御影堂へ探訪 京都 久々に知恩院へ -3 御廟・勢至堂・紫雲水・千姫の墓・濡髪大明神ほか へ探訪 京都 久々に知恩院へ -4 大鐘楼、坂村真民さんの詩碑、三門、新門 へ
2023.12.13
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黒門10日(日)の午後、四条に出る用事がありましたので、併せて久々に知恩院を訪れてきました。目的は二つです。一つは御影堂の内部を参拝すること。もう一つは知恩院の坂村真民さんの「念ずれば花ひらく」という詩碑が建立されていることを知り、どこにあるかを訪ねてみたくなったことです。一旦、三条に出てから四条に戻ることにしましたので、ウォーキングを兼ねて、三条から粟田口経由で神宮道の坂道を上りながら知恩院に行きました。そこで、冒頭の「黒門」から知恩院境内を歩み、御影堂に行くことにしました。以前に知恩院境内のご紹介をしていますので、散策径路の景観ご紹介を中心にまとめてみたいと思います。 この知恩院境内案内図は、三門(番号14)に近いところに掲示されているものです。案内図を切り出して、建物に番号を振ってみました。黒門は図の左下側、番号1の箇所です。 黒門を入ると、緩やかな石段の坂道です。正面に高い石垣が見えます。山の斜面が開削されて境内地が広げられているので、高低差ができるのが自然ですが、この黒門からのアプローチは、いつも興味深いところです。 左折して石段道を上ります。お城の中へ入っていく雰囲気を感じる坂道。 ふりむいて 次に右折して、正面に見えるのがこの景色 振り返ると、京都の街中が見下ろせます。 もう一度、右折して石段道を上ることになります。 時代劇の登城シーンに使えそうでしょう・・・・。 紅葉が綺麗でした。紅葉の先に見える鬼瓦 「北門」の木札が掛けてあります。(番号2)門越しに左(東)側に見えているのは「大庫裡」です。南に延びる石畳道を歩みます。番号3を振った「集会堂」辺りが、現在修復工事区域になっていました。もう一つの中門を通り抜けます。 歌碑のような・・・・。大石に刻まれた文字が判読できません、残念!さらに進むと、阿弥陀堂と御影堂を結ぶ回廊の下を通り抜けることになります。 石灯籠の西に「阿弥陀堂」(番号4)が見えます。 ここにも歌碑が建立されています。私には残念ながら判読できません。 手水舎の背後(西)に見えるのは阿弥陀堂とその南隣りの「多宝塔」(霊塔、番号5)です。 手水舎の屋根と空。 この碑はいい天気でした。 手水舎の西側から眺めた御影堂。御影堂は南面しています。 「御影堂」(ミエイドウ、番号6)の平成大修理が終り、落慶法要の時期にコロナ禍が問題となり始めました。そのため、落慶の儀式が終わった後も長らく堂内に入ることができませんでした。向拝の右(東)側には、スロープの通路が設置されています。バリアフリーへの配慮のようです。 ほんとうに、久しぶりに御影堂の堂内に入り参拝してきました。我が家の宗旨は浄土宗なので、大本山ということになります。子供の頃には、母親に伴われてお彼岸のお参りに来たものです。この御影堂内に入るのは数十年ぶりかも・・・・。堂内は撮影禁止。 御堂の大屋根からの雨受け槽の正面には「知恩院」と刻され、その傍に設置されたブロンズの蓮形水槽には「華頂山」と山号が陽刻されています。御影堂の拝見・参拝という一つの目的を終えた後、もう一つの目的をめざします。自由に散策できる境内エリアを一巡しつつ詩碑探しをしました。 御影堂前の境内地を挟み、南東方向には北面する「宝仏殿」(番号7)があります。 ここの雨受け槽の正面には、三葉葵の紋が刻されています。德川の家紋です。寺域の拡張、諸堂の整備など、德川家の庇護が大きいようです。逆に、京の都に事ある時には、江戸幕府はここを警備の本陣にする意図があったのでしょう。城構えの様相が頷けます。 納骨堂御影堂前の境内地を東に歩むと池があり、その先の小高い位置に「納骨堂」(番号8)があります。 石段の右(南)側傍に、この石仏像が安置されています。お地蔵さまではないのですが、涎掛けが掛けてあります。 蓮華座に半跏形式の観音菩薩像。その台座の下の六角柱は新しく設けられたもののようです。正面に「南無阿彌陀佛」と刻され、その右側の面には、「観音妙智力 能救世間苦」、左側の側面には、「生老病死苦 以漸悉令滅」と刻されています。調べて見ますと、「観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈)」の経文の一節です。以下、参照情報から、該当の経文箇所、訓読文と現代語訳を引用します。(資料1)<衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦> 衆生困厄を被りて、無量の苦身を逼らんに、 観音の妙智の力は、能く世間の苦を救いたまう。 生きていくには多くの困難がともなう。苦悩がある。 思いどおりにならないことばかりである。 それでも勇気をもって菩薩として生きることさえ忘れなければ、 その生き方は人々を苦悩から救い、自分をも救ってくれるだろう。<種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅> 種種の諸の悪趣、地獄、鬼、畜生と、生老病死の苦も、以って漸く悉く滅す。 欲や執着といった煩悩によって、人はストレスをかかえ苦悩する。 老いや病や死といった苦悩も、老いたくない、健康でいたい、死にたくない という思いによって苦悩となる。 望んだようになってほしいという願い、その願いの根本にあるのは 欲や執着であり、菩薩はその真理を説くことによって人々から苦を取り除く。 その傍に、一石五輪塔、板碑、小石仏が祀ってあります。 地蔵菩薩像でしょうか。 納骨堂の北隣りには、この多層石塔(十重石塔)が建立されています。上京区の千本えんま堂(引接寺)の境内西北隅に建立されている「紫式部供養塔」と言われている多層石塔(十重石塔)と同じ形式です。複製された多層石塔のようです。 基壇の周囲に龕を彫り込み石仏が浮き彫りにしてあり、一層目の軸部には、各面に金剛界五仏の内の大日如来を除く四仏が浮き彫りにしてあります。 二層目の軸部には、それぞれの種子(梵字)が刻み込まれています。境内地に降り、北方向を巡ります。つづく参照資料1) 観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈)の意味と現代語訳 :「禅の視点 -life-」補遺浄土宗総本山 知恩院 ホームページ 歴史と見どころ五仏 :「コトバンク」仏ならではの智慧を表す「五智如来」 :「Discover Japan」 空海が三次元化した密教の世界 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 久々に知恩院へ -2 経堂、唐門、法然上人像、智慧の道ほか&一心院 へ探訪 京都 久々に知恩院へ -3 御廟・勢至堂・紫雲水・千姫の墓・濡髪大明神ほか へ探訪 京都 久々に知恩院へ -4 大鐘楼、坂村真民さんの詩碑、三門、新門 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・東山 知恩院(大方丈・小方丈・方丈庭園) -1 3回のシリーズでご紹介スポット探訪 京都・東山 知恩院の境内を巡る -1 阿弥陀堂・大庫裏・黒門坂 2回のシリーズでご紹介スポット探訪 京都・東山 知恩院 ふたたび -1 名号松・納骨堂、層塔との出会い 4回のシリーズでご紹介観照 諸物細見 -3 京都・東山 知恩院三門と桜スポット探訪 京都・上京 千本えんま堂(引接寺) 閻魔法王・紫式部供養塔・地蔵供養池ほか
2023.12.12
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11月12日に中央公民館で講演会を聴講した後、この石鳥居を幾度も見ながら通り過ぎていましたので、帰路に訪れてみました。少し前にご紹介した白長神社のある丘陵地の西側になります。 石鳥居の傍に、「下居(オリイ)神社」の案内板が設置されています。内容は後で触れていきます。 鳥居を通り過ぎると、左側にこれらの案内柱が立っています。左は、この神社の森一帯が「下居神社文化財環境保全地区」であることを示す標識です。右は、この下居神社が、旧宇治郷(宇治町)の下居(シモイ)地区の住民によって管理されてきたこと、社殿は江戸時代の建立で京都府登録文化財であることを説明しています。 この神社に祀られていたこの写真の神像三体と狛犬一対は、現在歴史資料館に寄託されていることが併せて記されています。 この神社の案内と観光案内標識を兼ねたものも設置されています。 参道に沿って、東側に大木が植えられています。右は通り過ぎてから振り返った景色。 参道を進むと、先に石段が見え、右側は児童公園になっています。その奥に小堂が見えますので、傍まで行ってみました。 格子戸越しに、お地蔵さまが見えます。地蔵堂です。 ユーモラスなお顔が描かれています。おもしろい。 朱塗りの明神鳥居が建てられていて、額束のところに「権現」とあります。神社名或いは神名でないのが珍しいと思います。権現とは、「仏・菩薩が日本の神に姿を変えて現れること(たもの)。(昔の神の尊号の一つとして用いられる)」(『新明解国語辞典』三省堂)という意味ですので、この尊号だけでは一般的過ぎます。区域外の私にはわかりづらい・・・・。 石段を上がった後、境内地の参道を歩みますと、参道の先に社殿が見えてきます。ちょっとした小高い山の上が削平されて境内地になっているような感じです。左側の大木の手前に、 この歌碑と駒札があります。 秋の野のみ草刈り 葺き宿れりし宇治の 京(ミヤコ)の假廬(カリイオ)し思ほゆ「この歌は、皇極天皇の大和から近江への行幸につきそった額田王の歌と伝えられ、 『秋の野の草を刈って、その草で屋根を葺いて泊まった、宇治のみやこの仮小屋の ことがなつかしく思われる』という意味である。 平成4年10月 宇治市 」 (駒札転記) 皇極天皇とは斎明天皇のことでもあります。下居神社のあるこの地は、天皇が行幸の途中に行宮(アングウ)を営んだ趾地といわれているそうです。「宇治のみやこ」の場所だとか。『万葉集』を確認しますと、第7番目の歌として収録されていて、「額田王の歌 いまだ詳らかならず」と記されています。 (資料1)さらに、石鳥居傍の案内板には、「明日香親王別業地跡とも伝えられている」との説明も記されています。 朱塗りの瑞垣に囲まれた本殿です。 狛犬像の代わりに、石灯籠が一対、拝所の両側に配置されています。西之屋形風の石灯籠です。 ご祭神は、伊邪那美命 (イザナミノミコト) 創造神 速玉男命 (ハヤタマオノミコト) 水の神 黄泉事解男命(ヨモツコトワケオノミコト) 祓(ハライ)の神 です。当社の創祀時期は明らかでは有りませんが古社だそうです。本殿は、三間社流造桟瓦葺の建物。 本殿に向かって、右斜め前にこの境内社があります。流造の屋根の小社です。 近くで拝見しましたが、特に掲示がなく、祭神は不詳です。あとは社務所の建物があるだけです。少し寂れた感じすら受ける静寂な雰囲気に囲まれた神社でした。参道を戻るとき、 この句碑が建立されていることに気づきました。残念ながら私には判読できない文字があります。句碑のご紹介に留めます。 参道を引き返し、JR奈良線の宇治駅に向かいます。参道両側は紅葉した落葉が降り積もっています。幹線道路までの静かな歩みのひとときです。下居神社探訪をこれで終わります。序でに触れておきます。講演の中での話から、確かめてみたくなったこと。JR宇治駅前を通るとき、 これが郵便ポストであることは認識していました。お茶の宇治だから茶壺になぞらえてPRを兼ね創られたものか、それくらいにしか考えていませんでした。ポストの正面の下に、こんな銘板が設置されていることを、講演の中で宇治を意識するイメージの一例として聞き、初めてその由来を知ったのです。 「宇治市制施行50周年」を記念して、この茶壺型ポストを2001年3月23日に設置したとのこと。このポストの設置時点では、はや10年余の時を経た宇治市民になっていたのですが、知りませんでした。知らないことばかり・・・・。そこで、調べてみますと、この茶壺型ポストのモデルとなった茶壺が、ここから徒歩10分ほどの場所にある宇治茶の老舗「堀井七茗園(ほりいしちめいえん)」の店頭に並べられているそうです。今度はそれを序での時に見て来ようと思っています。(資料2)ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『新訂 新訓 万葉集 上巻』 佐佐木信綱編 岩波文庫2) 京都府内の珍しい郵便ポストーここから手紙を出してみたい!ー :「COCO-KYOTO」補遺神像と狛犬 下居神社 宇治史探検No.010 :「ええとこ発見うじ」堀井七茗園 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2023.11.23
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金堂正面の参道を入口(西)方向に進んで、金堂を眺めるとこんな景色です。参道の右側が、柴灯護摩道場で、「青葉まつり」の行われるところです。 参道を進む人の後ろ姿が写っている参道の左側に仏足石が建立されています。その傍から北方向への通路を歩めば、既にご紹介した宝篋印塔の隣りにこの戦没者供養塔が建立されています。 この参道の北側の少し奥まった位置にこの像が建立され、駒札が立っています。傍まで歩み、拝見します。 「玄宥僧正」[享禄2年(1329)~慶長10年(1605)]の坐像です。智積院中興第一世です。「豊臣秀吉の紀州根来攻めの難を逃れ、苦節16年、慶長6年(1601)德川家康の外護を得て当地に智積院を再興された」(駒札転記)坐像の背後に見える建物はかつての収蔵庫です。ここで長谷川等伯筆の障壁画等を拝見したと記憶します。現在の用途は知りません。 西に歩みます。旧収蔵庫の西側に拝観受付所があります。 拝観受付所の手前から北を眺めた景色です。ここが有料ゾーンへへの入口。五色の幕が見える唐門の先に、「講堂」その北に「大書院」「宸殿」があり、大書院の東側に「名称庭園」があります。南北に細長い池を設けた地泉観賞式の庭園です。このエリアは漆喰の白が美しい築地塀が西と南の境界となっています。 参道をさらに西に進むと、「延命子育地蔵大菩薩立像」が祀ってあります。この地蔵菩薩像は併せて水子精霊の供養も行われているそうです。 地蔵菩薩像を拝しつつ、金堂正面の参道から右折して、北への石畳道を進みます。 地蔵菩薩像の北側に、この井戸があります。井戸の覆屋の柱にしめ縄が張り巡らしてあります。少し先から、この石畳道の右(東)側は上掲の白亜の築地塀になります。 通路の正面には「本坊」への門が見えます。この石敷道をよく見ますと、中央は長方形の板石が真っ直ぐに敷かれていて、その両側は不定形の石がそのままに組み合わされた石敷道となっています。気にかけずに、この通路を歩いていますが、禅寺と同様に、中央を歩むことについて決まりがあるのでしょうか。 通路の西側にこの小堂があります。お堂前の石標には「大日如来」と刻されています。大日如来堂です。 大日如来石仏白い涎掛けが掛けてありますので、一見だけでは私にはお地蔵さまとの区別がつきません。 小堂の屋根の軒丸瓦の瓦当に三頭巴文が使われています。地蔵堂の場合は卍文が一般的だと思います。 大日如来堂の少し先で、右側を眺めた景色境内図で見ますと、大書院への玄関口の建物です。「大玄関」の南側には白砂が敷かれた枯山水庭園風の前庭になっています。 大玄関の前辺りの西方向を眺めると、緩やかな石畳の坂道と門が見えます。 両側に白亜の築地塀の建つ石畳道の先にあるのは境内から眺めた「総門」です。この総門は、東福門院より移築されたと伝えられているそうです。(境内図より) 総門の正面には、西に七条通が延びています。七条通の東の突き当たりが智積院です。 総門を入り、緩やかな石畳の坂道を上ってくると、この大玄関が見えるという景色です。この玄関口を入り、真っ直ぐに進めば大書院へ、手前で右折し廊下を歩めば講堂に至る配置のようです。 元の通路を北に進むと、門に突き当たります。右の門柱に掲げられた木札には、「本坊 法務所入口」と表記されています。門の右側は待機席が設けてあります。 「法務所(本坊)」。普通のお寺なら、庫裡にあたる建物になりますね。 本坊の前を通り過ぎ、そのまま通路を進むと、「北門」が見えます。この門は、東山七条交差点から東方向の坂道に向かっています。智積院と北側の妙法院との間にある坂道です。豊国廟への参道です。新日吉神宮、京都女子大学等のキャンパスへの坂道でもあります。京都女子学園(中学・高校・大学)への通学路になっていますので、親しみを込め「女坂」とも呼ばれています。(資料1,2)智積院への元の入口へ引き返します。 本坊の門を通り過ぎ、大玄関前辺りから石敷道を西方向に撮った景色です。こちらの方が石敷道の様子が分かりやすいでしょう。総門からの道とも対比して眺めてみてください。 通路を引き返し右折した角近くに、この「総本山 智積院の歴史」の案内板が設置されています。説明内容から、次の点に触れておきます。詳細は説明文をお読みください。*根来(ネゴロ)攻めの難を逃れた玄宥僧正は、苦節16年間の後この地に智積院を再興。*再興された智積院の正式名称は「五百仏山(イオブサン)根来寺智積院(チシャクイン)」*明治33年(1900)に、「真言宗智山派」の総本山と公称する。宗派に3000寺院が結集 ⇒ この時点で、真言宗は諸派に分立した。*智積院は現在も「修行の寺」として、信仰のよりどころとなっている。 毎回載せてきたこの境内図が上掲案内板のすぐ手前に設置されています。 探訪の起点である入口に戻ってきました。左に「総合案内所」が見えています。御朱印はここで取り扱われています。その右側に、境内図と歴史の案内の掲示板があることがお解りいただけるでしょう。探訪を終えての帰路は東大路通を経由して、東福寺駅に向かいました。蛇足になりますが、序でにご紹介致します。 東大路通の東側歩道沿いにまずは南進します。振り返って眺めると、右(東)側は智積院の石垣と生垣です。 境内の西南角が石垣と塀を境界として凹地となっていて、境外地ができています。その隅地に、「地蔵堂」が建っています。元々境外なのかどうかは不詳です。 地蔵堂の屋根の正面の瓦当と軒丸瓦の瓦当には卍が陽刻されています。地蔵堂のシンボルです。 蟇股 格子戸の内側、堂内には少なくとも五体の石仏のお地蔵さまが安置されています。智積院の周辺で気づいたのは、この地蔵堂だけです。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*境内図 :「智積院」1) 女坂 :ウィキペディア2) 女坂の桜が満開になりました :「京都女子大学」補遺総本山智積院 ホームページ真言宗 :ウィキペディア13宗派56派の宗祖・教え・教典・唱名など :「よりそうお葬式」 このページの説明では、真言宗は現在16派に分かれているそうです。大日如来坐像 :「文化遺産オンライン」大日如来 :「コトバンク」大日如来 :ウィキペディア【仏像の種類:大日如来とは?】密教最高の仏の梵字・ご利益・真言:「butsuzo link」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 智積院 -1 境内散策・鐘楼・明王殿・宝物館ほか へ探訪 京都・東山 智積院 -2 金堂・仏足石・太師堂・もう一つの鐘楼堂ほか へ探訪 京都・東山 智積院 -3 密厳堂・旧聞持堂・運敞蔵・光明殿・学侶墓地ほか へ
2023.11.16
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金堂近くまで戻りますと、金堂の北側に東方向への石段があります。この石段道を東側へと上ります。右は石段上の踊場から見下ろした景色です。ここで道が分岐します。 左(北)側に一段高い境内地への石段が延びています。勿論、石段を上がってみました。 登り切った先には、前回同様に修行中のため立入禁止の掲示が出ています。前回の修業エリアを正面側から眺めることになります。 西方向に鐘楼堂が見えます。 正面に参道が延び、その先には「密厳堂(ミツゴンドウ)」が見えます。真言宗中興の祖・興教大師の尊像を安置するお堂です。寛文7年(1667)に建立されたお堂。智積院7世の運敞僧正が末寺・学侶に寄付を募り建立されたと言います。(境内図より) 参道の途中、右(東)側にブロンズの立像が建立されています。手許の本の竹村俊則画を参照しますと、「興教大師像」です。(資料1) 北東方向に、宝形造の屋根の「求聞持堂(グモンジドウ)」が見えます。文殊堂または護摩堂とも呼ばれるとか。本尊は虚空蔵菩薩で、他に文殊菩薩と不動明王が安置されています。(境内図より) 北西方向を眺めると鐘楼堂の先に土蔵造りの「運敞蔵(ウンショウグラ)」が見えます。智積院第7世運敞僧正の著作、研究された書物、資料などが収蔵されている蔵。延宝元年(1673年)僧正自らの発願により建立されたそうです。現在は運敞僧正の坐像も安置されているとか。(境内図より) 運敞蔵の先には、鎮守社と思える小社が幾つか祀ってあります。 現在地から一番近い位置にこの建物がありますが不詳です。石段を下り、先ほどの踊り場に戻って、東に進みます。 「永代 常光明真言」と刻された碑がまず見えます。光明真言は大日如来の御真言で、一切の苦悩を解脱せしめる真言を意味するそうです。(資料2) 少し回り込んで、石柵で囲われた五輪塔の正面から撮った景色です。 地輪の正面には、「當山化主 不生位」と刻されています。「当山化主」にある化主とは「化は教化の意で、教化の主」を意味し、「後には高徳の僧や大寺院の住持を呼ぶようにもなり、新義真言宗では、管長または寺院の住持の敬称として用いられるようになった」(資料3)用語です。つまりここでは歴代の智積院の管長を意味するようです。智積院のホームページの「青葉まつり」の説明文に「当山では、総本山智積院化主御導師のもと」という表現が使われています。羅漢さんと呼び慣れている阿羅漢という言葉はサンスクリット語の音写語です。訳し方はいろいろあるようですが、その一つが不生(フショウ)。不生というのは、仏の涅槃の世界に入ってもはや迷いの世界に生まれないという意味だそうです。不生位というのは、「日常生活のすべてが法に適う仏の行になってくる。そういうことでもはや迷いの世界に戻ってくることはない、生まれないということ」(資料4)という次元を意味するそうです。 飛び石伝いにお堂を回り込むと、お堂の正面に「光明殿(コウミョウデン)」と記された扁額が掛けられています。上掲の石碑と照応しています。現在は納骨されたお骨を安置しているお堂だそうです。(境内図より) 屋根の降棟の先端に鬼板が置かれ、宗紋が陽刻されています。このお堂の先に歩むと、金堂の背後(東側)に出ました。 空地の先には、再び石段が見えます。この金堂の背後の空地は紫陽花が咲く所だとか。石段の傍まで近づくと、手間に香炉を置いた台が設けてあります。 右側のすく近くにこの「学侶墓地」と記された案内板が設置してあります。江戸時代に智積院内で修行し、その志半ばでなくなった修行僧を祀った墓地です。平成3年(1991)に地蔵山から墓石群を移転、整備して、この聖域が造られたとのこと。この説明文には、江戸中期の宝永年間に、全国からこの智積院で真言教学はじめ学問を学び修業する学侶がその数千六百余人に及んだと伝えられていると記されています。 傾斜地に階段状の列が設けられて、墓石が整然と並んでいます。 石段を上がって行きますと、少し空間を隔てて右手前方がこの墓域の東端です。石垣の前に真新しい感じのこの石塔が見ます。さらに近づいてみますと、「東日本大震災物故者供養塔」が建立されていました。 石段の先は、一段高い境内地の側面壁が境界となります。上の境内地の五輪塔が部分的に見えます。こちらは後ほどに。ここで折り返して、一旦石段を下ります。 学侶墓地を上から見下ろすとこの景色です。西方向に金堂が見えます。 飛び石伝いに南西方向に下り、 その先にある東方向への石段道を再び上ります。すると先ほどの学侶墓地の東端の一段上の境内地を北方向に眺める場所に至りました。 東西方向に、2つの五輪塔が建立されています。 それがこれです。手前(西側)には、「僧侶納骨供養塔」、奥側(東側)には「檀信徒納骨塔」と刻した石標が立ててあります。これらもまた供養塔。 通路に戻ります。その先を眺めると墓域が続く景色です。この辺で引き返すことにしました、通路を下って行くと、小川が横切り、石橋が架けてあります。 その先に、「境内整備事業祈念碑」が建てられていました。道沿いに下って行くと、金堂の南側に出ます。 左(南)側に明王堂と池を眺めながら、金堂の正面に戻ります。 金堂前の通路を西方向に歩みます。この後は境内地の北西域を散策することに。それで一通り智積院境内で自由に散策できるエリアを拝見したことになります。つづく参照資料*境内図 :「智積院」1)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p120-1212) 光明真言 :「永観寺観音院」3)『岩波 仏教辞典第二版』4) ○○不生位(お坊さんの戒名) :「本蔵院律良日記」補遺総本山智積院 ホームページ 真言宗と中興の祖・興教大師興教大師 :「真言宗豊山派」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 智積院 -1 境内散策・鐘楼・明王殿・宝物館ほか へ探訪 京都・東山 智積院 -2 金堂・仏足石・太師堂・もう一つの鐘楼堂ほか へ探訪 京都・東山 智積院 -4 玄宥僧正坐像、地蔵菩薩立像、大玄関、総門ほか へ
2023.11.15
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明王堂から北隣りのお堂に向かいます。 向拝は柱が4本と幅が広くとってあります。お堂の正面に金字で「智積院」と記された扁額が掲げてあります。「金堂」です。智積院の中心的な建物です。智積院再興の初期段階には、前回触れました祥雲寺法堂の建物を引き継いだときに、伝智証作の不動明王を本尊とする金堂がこの地にありました。しかし、天和2年(1682)の出火全焼により焼失。「元禄14年(1701)3月智積院第10世専戒僧正が発願し、桂昌院(徳川5代将軍綱吉の生母)より与えられた金千両を基に学侶からの寄付金を資金として、宝永2年(1705)春に」(境内図より)金堂が建立されました。その金堂が明治15年(1882)に火災により焼失しました。そして、この金堂は、宗祖弘法大師のご生誕千二百年の記念事業の一環として昭和50年に建設されたました。堂内には昭和の祈りを込めた本尊大日如来の尊像が安置されています。西村公朝師の指導のもとに藤原様式で作られた仏像とのことです。(境内図、駒札より) 鉄筋コンクリート造りの金堂です。智積院の伽藍は苦難の変遷を経ていることが偲ばれます。 向拝の木鼻:象 中央の蟇股 鬼瓦 本堂前の石灯籠竿の正面(西面)には「永代常夜燈」と刻され、北面には「文化六歳己己(ツチノトミ)十二月」(文化6年は1809年)、南面には「江戸真福寺二十八世観豪建立」と刻されています。この灯籠は二百年余の智積院の盛衰を見つめてきたのでしょう。 金堂の屋根からの雨水受け水槽は蓮の花形で、正面には明王殿の香炉と同様に宗紋が付いています。 近くに大きな宝篋印塔が建立されています。 金堂前から振り返って西方向を眺めれば、広々とした空間が設けてあります。 金堂前の南北の通路 南から撮りました。この通路の先で左折すれば、講堂・名勝庭園などの拝観受付所に至ります。 さらに一筋西側で、南北と東西の通路の交差する北西角に、「仏足石」が建立されています。 金堂前の通廊を西に歩んできて、北側から見ると、上掲の空間の意味がわかりました。 「柴灯護摩道場」として、ここで「青葉まつり」の行事が行われるようです。金堂前に戻り、北方向に進むと、 石段の先にお堂が見えます。 石段上は、一段高い境内になっています。お堂への参道の両側には、 左(西)側に「弘法大師空海像」右(東)側に「稚児大師像」 の両像が建立されています。 正面のお堂は「太師堂」です。 太師堂は、寛政元年(1789)に学侶の寄付で建立されたそうです。弘法大師空海像が安置されています。遍照金剛院とも呼ばれるとか。(資料1、駒札) お堂の正面に、「遍照金剛殿」と記された扁額が掲げてあります。 太師堂の屋根の正面には獅子口が見えます。経の巻の瓦当には、三頭巴文が陽刻され、綾筋の下には輪宝が、さらに軒丸瓦の瓦当もまた輪宝が象られています。 向拝は唐破風の屋根で、兎毛通の部分には瑞鳥が彫刻されています。 桁先端、破風板の下の桁隠は植物文です。 向拝の頭貫の中央には、束が見え、その回りを丸彫りの彫刻像が見えます。麒麟像でしょうか。 全体の姿 頭貫そのものにも彫刻が施されています。 木鼻には象の頭部 この獅子像は、頭部に大斗と肘木を載せて頭貫を支える形となっています。時折、この形式を見かけます。上掲の象の頭部上も、同様の形式です。 太師堂前の石段を下ります。 途中に東方向への石段があります。この石段を上がると、 石段の上には、「これより先は修行中につき立入禁止とします」となっています。この柵の前に立ち、この境内地を眺めてみました。静寂そのものです。東山七条の交差点からわずか数百メートルの距離とは思えない静けさです。 まず鐘楼堂が見えます。こちらは天和2年(1616)に造立されたものと言います。(境内図より) 鬼瓦 蕪懸魚 蟇股これらは鐘楼堂の細部です。 鐘楼の右側前方にお堂が見えます。駒札をズームアップしてみますと「旧聞持堂」です。 鐘楼の左側の先には、石灯籠やお堂が樹木越しに見えます。「江戸時代には教学の寺として諸国から学徒の雲集するもの三千人におよんだ」(資料2)と言います。また、「第七世運敞(ウンショウ)の時代は特に講学が隆盛で、全国より参集した学徒は1700名、学寮70余が軒をつらねた」(資料1)とも。 石段を戻り、一旦金堂近くに戻ります。つづく参照資料*総本山智積院 境内図 :「総本山智積院」 1)『続・京都史跡事典』 石田孝喜著 新人物往来社 2)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p119補遺総本山智積院 ホームページ仏足石 :「コトバンク」仏足石 :「三井寺」2023年6月15日 京都智積院 青葉まつり Walking around Kyoto Chishaku-in Temple 【4K】 YouTube(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 智積院 -1 境内散策・鐘楼・明王殿・宝物館ほか へ探訪 京都・東山 智積院 -3 密厳堂・旧聞持堂・運敞蔵・光明殿・学侶墓地ほか へ探訪 京都・東山 智積院 -4 玄宥僧正坐像、地蔵菩薩立像、大玄関、総門ほか へ
2023.11.10
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寺号碑泉涌寺道古道を歩く記事(11/8)で触れましたが、公開講座を聴講した日、智積院の境内を散策・探訪してみました。智積院は真言宗智山派の総本山です。七条通の突き当たりにあり、東山七条交差点の東側、東大路通に面しています。 智積院の入口は幅広い坂道で門がありません。坂道の南側から北を眺めた入口の景色。 この少し異質な印象の大きな狛犬石像(?)が門衛代わりに鎮座しています。詳細不詳。入口の坂道を少し上がると、南側に冒頭の寺号標が立っています。 その先に見える景色。 10/21時点の紅葉です。今なら紅葉はもっと進んでいることでしょう。 近づいて行きますと「総本山智積院寺誌」が建立されています。要点は以下の通りです。*五百佛山根来寺智積院と号し、弘法大師を宗祖とする智山派の総本山*同宗派の三大本山は、成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高野山薬王院。末寺は3,000*南北朝の頃(14世紀初)に興教大師開山の紀州根来山に学頭寺院として創建された。 天正13年(1585)に兵火により一山全焼 (付記:秀吉による紀州攻め)*慶長6年(1601)、学頭玄宥能化が德川家康よりこの地を寺領として賜り、寺を再興。 後の勧学院の濫觴として仏教研学の道場となる。元禄宝永の頃に学風隆盛を極めた。*1601年当初は豊国梵宇三区。元和元年(1615)に祥雲寺(秀吉の愛児鶴松の菩提寺)を 下賜された。 (付記:豊国梵宇三区というのは、この地にあった豊臣秀吉を祀る豊国社の三ヵ所の 坊舎を賜ったという意味です。1615年4月大坂夏の陣で豊臣氏滅亡。元和偃武。 家康は豊臣氏滅亡後に、祥雲寺を智積院に与えたことになります。)*江戸時代に伽藍が整備され寺運が隆盛。明治維新の頃に堂塔伽藍の焼失と荒廃で衰微。 (付記:幕末に、学寮の多くが土佐藩の屯所となり、講学が衰えたと言う。また、 明治3年には上地により、旧来の寺地2万7900坪が1万6800坪と約40%減に。資料1)*明治33年真言宗智山派を公称し、宗派の復興、伽藍の再建に努力し、現在に至る。 左に目を転じると、銀杏の黄葉が綺麗で、近くにはポールの先で旗が翻っていました。智積院の講堂・大書院・名勝庭園のエリアは、はるか昔に2度ほど拝見(拝観料必要)しています。それ以外の境内地を拝見した記憶があまりありませんので、どこまで探訪できるか、自由に拝見出来る境内地の散策を試みました。そのご紹介です。 この案内図が境内に掲示されています。案内図下辺が東大路通に面しています。下辺中央より右寄りに入口と表記されています。ここが上掲の坂道です。案内図の左が北方向。上辺が東方向です。境内地内の築地塀で囲まれた区画が、講堂や庭園のあるエリア。になります。それでは、境内地の南エリアから境内の拝見・散策を始めます。 上掲寺誌碑の傍から鐘楼堂の方向に進むとき、右(南)には、すぐ近くに「総本山智積院 宝物館」があります。「国宝 長谷川等伯 障壁画」の案内板が置かれています。現在はこの宝物館に保存・展示されています。「弘法大師空海ご誕生1250年」を記念する奉修事業の一環として建立され、今年、令和5年(2023)4月4日に開館したばかりです。宝物館の南西方向には、築山風の庭の向こうに、「宿坊智山院会館」が見えます。 鐘楼堂を右に回り込むと、この「智専之鐘」と刻された石碑が立っています。旧宗立智山専門学院同窓生の集まりである智専会が鐘と鐘楼堂を平成10年(1998)に建立・寄進されたものです。 梵鐘には「真言宗智山派總本山智積院」の寺号が陽刻されています。 蟇股 鬼瓦 鐘楼堂前の通路を南に歩みます。 振り返って眺めた鐘楼堂 通路の先には、お堂の屋根が見えて来ます。 緩やかな坂道の右(南)方向を眺めますと、普通の鋪装道路がカーブを描いて延びています。後で案内図で確認すると、この景色の左(東)にある建物が宗派の総務庁です。右(西)に下っていくと、宿坊智積院会館に至ります。 坂道の左方向を見ると、お堂が見えて来ます。 さらに進めば、北と南に2つの大小のお堂がはっきりと見え、両堂の間に小さめの池があります。 まずは、この「南無大日大聖不動明王」と墨書された幟が立てられているお堂から拝見しました。高齢化の趨勢は、石段に手すりを整備する形に反映しています。いずこの寺院も同様ですね。 お堂正面の石段手前に、大きな香炉が設置されています。お堂の向拝に張られた幕と香炉の正面には、宗紋の桔梗紋が見えます。 向拝に近づくと、お堂の正面に「明王殿」の扁額が掲げてあります。 お堂に張られた五色の幕が風にはためいていました。幟でわかりますがこのお堂は「明王殿」。不動明王が本尊として祀られています。 このお堂は、護摩道場、祈祷所であり、「不動堂」とも呼ばれています。本尊の不動明王は根来寺より伝来と言い、麦つき不動とも呼ばれているとか。智積院の旧本堂が焼失した時、浄土宗・大雲院の本堂の譲渡を受けた建物と言います。この明王殿は札所(京都十三仏霊場第1番、近畿三十六不動尊霊場第20番)の一つです。(駒札より)蛇足になりますが、覚書を兼ねその経緯に少し触れておきます。祥雲寺が智積院に与えられた時、同寺本尊棄君(鶴松)像は南化和尚ゆかりの妙心寺に移され、建造物や障壁画は智積院に引き継がれました。長谷川等伯一門による国宝障壁画は祥雲寺の遺物を継承したことになります。(資料1,2)昭和22年(1947)の火災により旧本堂を焼失しました。この時に譲渡を受けた建物を本堂として移築されたのは、現在の境内図で講堂がある場所です。昭和54年(1979)10月に著者が俊則画として自著に挿入している智積院境内図でそのことがわかります。(資料2)現在の講堂は「平成4年(1992)の興教大師850年御遠忌記念事業として計画し、平成7年(1995)10月に完成したもの」(智積院ホームページより)とのことですので、昭和22年後に本堂として使用されていた建物をこちらに移築したとすれば、それは平成年代の初期と推測できます。改めてホームページの境内図で明王殿の項を見ますと、このことが簡略に説明されていました。序でに、大雲院は、下京区寺町四条下ルに所在したのですが、昭和48年(1973)に東山区祇園円山町に移転しています。この本堂の背後に祇園閣が所在します。祇園閣というと所在地がわかりやすいかもしれません。(資料1,2) 屋根の雨を受ける雨水槽はごくシンプルです。五色の幕の翻る様子を眺めつつ、北側のお堂に向かいます。つづく参照資料*総本山智積院 境内図 :「総本山智積院」 1)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p119-1232)『続・京都史跡事典』 石田孝喜著 新人物往来社 補遺総本山智積院 ホームページ 360度VR境内画像玄宥 :「コトバンク」新義真言宗総本山 根来寺 ホームページ中世に花開いた一大宗教都市、根來寺 :「わかやま歴史物語」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 智積院 -2 金堂・仏足石・太師堂・もう一つの鐘楼堂ほか へ探訪 京都・東山 智積院 -3 密厳堂・旧聞持堂・運敞蔵・光明殿・学侶墓地ほか へ探訪 京都・東山 智積院 -4 玄宥僧正坐像、地蔵菩薩立像、大玄関、総門ほか へ
2023.11.09
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二つのお寺の築地塀の間に通路が東へと延びています。後白河天皇法住寺稜への参道です。三十三間堂の東に位置します。京都国立博物館で特別展「東福寺」を鑑賞した後に、久しぶりに立ち寄りました。博物館南門前の横断歩道を南に渡り、三十三間堂の東側の道路を数分歩めばこの入口が見えます。土・日は門が閉じられているようです。三十三間堂は観光客が大勢来訪し、入口付近はざわついていますが、こちらは森閑としています。一人だけ来訪者を見かけました。入れ違う形になりましたので、しばし静寂な空間を歩む形になりました。左側は養源院の築地塀。 右側はこの法住寺の築地塀で、法住寺表門の左(北)側に冒頭の門・参道があります。 参道の突き当たりに、御陵の案内板が設置されています。後白河天皇法住寺稜と冒頭に大きな字で記された後に、7法親王を祀られていることが明記されています。 松の木の根元に、「法住寺」と刻した石造水鉢が置かれています。 右折します。右側が法住寺の築地塀です、法住寺の背後(東側)に御陵が位置することになります。 参道の南端に、石の井筒を設けた井戸があります。 東に向くと、御陵の入口です。この稜域は周囲90間(約106m)と言います。 正面右側に、「後白河天皇法住寺稜」の石標が建てられています。 御陵の正面を北側から目を転じていくとこんな景色です。 門の向こう、御陵の中央に法華堂が建てられていて、堂内に後白河天皇法体の像が安置されていて、床下の地中に石槨(セッカク)が埋められていると伝えられているとか。この地は、後白河天皇が上皇となり、法住寺殿と称される御所を設けて院政を営んだ地です。後白河上皇が拠点とした法住寺殿は、南北約1km、東西約500mに及ぶ広大な地域だったと推定されています。東山七条から南は泉涌寺道近くまで、西は大和大路通あたり、東は東山山麓に及ぶエリアです。法住寺殿が設けられた同時期に、南には新熊野(イマクマノ)神社、東には新日吉(イマヒエ)神宮があります。ともに後白河上皇が勧請した神社です。 生垣を境にして、御陵の南隣には、「妙法院宮墓」があります。常胤・堯然・堯恕・堯延・堯恭・真仁・教仁と称された7法親王が祀られています。江戸時代に妙法院門主となった歴代天皇の皇子・皇孫です。墓石は無逢塔の形で建立されています。妙法院は、天台宗延暦寺派の別院で、蓮華王院(三十三間堂)は現在は妙法院の境外仏堂になっています。元は、後白河上皇が長寬2年(1164)法住寺御所内に発願し建立した仏堂です。その造営を担ったのが平清盛です。新熊野神社も造立したのは清盛です。 御陵前から振り返ると、法住寺のお堂の屋根が築地塀ごしに見えます。 参道を戻るその先には、三十三間堂の東大門が見えます。 参道の門を出て、南に歩むと、法住寺のもう一つの龍宮門があります。 「旧御陵正門」の石標が建ててあります。これで御陵との位置関係がお解りいただけることでしょう。ご覧いただき、ありがとうございます。参照資料*『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p107-108補遺後白河天皇法住寺稜 天皇陵 :「宮内庁」天台宗法住寺 ホームページ蓮華王院三十三間堂 ホームページ後白河天皇 :「ジャパンナレッジ」後白河法皇が辿った生涯と人物像に迫る:源平合戦の影の演出者としての姿とは? [日本史人物伝] :「サライ」新熊野神社 ホームページ新日吉神宮 :ウィキペディア洛東 養源院 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・東山 法住寺 -後白河上皇ゆかりの地- スポット探訪 [再録] 京都・東山 新熊野神社スポット探訪&観照 京都・三十三間堂 -1 本堂拝観、通し矢見物と回想 2回のシリーズでご紹介スポット探訪 京都・東山 新日吉神宮 -1 2回のシリーズでご紹介スポット探訪 京都・洛東 新日吉神宮ふたたび -1 楼門・拝殿ほか 2回のシリーズでご紹介スポット探訪 [再録] 京都・東山 妙法院スポット探訪 京都・東山 養源院
2023.11.01
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これは宇治市文化センターの施設全景です。中央の階段より左側が文化会館、右側に歴史資料館(手前)と中央図書館(奥側)があります。市の中央図書館に立ち寄った時に、掲記の神社を訪れました。この文化センターは折居台1丁目にあります。ランドマークとしては便利ですのでまず冒頭に。パノラマ合成した景色です。この文化センターの西側に、太陽が丘(山城総合運動公園)に至る宇治市の幹線道路の一つが通っています。この道路をはさみ西北側は大谷という地名です。文化センター前からは、T磁路の交差点を通って数分のところ、 民家の間に、「白長社」の扁額を掲げた一の鳥居が、道路から奥まってたっています。朱塗りの明神鳥居です。 鳥居の手前に、狛犬像ではなく一対の狐像が配されいます。稲荷系の神社ということでしょう。 二の鳥居 三の鳥居鳥居を3基通り抜けることになります。小規模なのに整備されています。本殿前から眺めると、 右(南)側に歳月を経た石灯籠が建ち並び、左(北)側には石灯籠と小ぶりな手水鉢が置かれています。 正面には、小規模な本殿が見え、覆屋が設けられています。近年再建されたものでしょうか。まだ新しさを感じます。 本殿本殿の傍にも、榊の供花の陰になっていますが、一対の白狐像が配置されています。手許に資料がなく、調べてみて、「宇治市政だより」(第832号)にコラムとして掲載された記事を入手しました。「宇治にもあるへびのお話」というコラム。「白蛇 宇治にも出現 -蛇騒動記-」と題した記事が末尾に載っています。この記事の冒頭に、この大谷の白長社(はくながしゃ)は、白蛇を祀る神社であることがまず紹介されていたのです。白、長・・・なるほどと思います。「蛇は池や沼に住む水の神様、また、弁天様のお使いで、財宝を守ってくれるのです。特に、白蛇は神様として祀られています。」(コラム記事より転記)「蛇は、地中から出てくると勢いが盛んになり、万物に力を与えます。そのため、白長社は蛇の出そうな、山深いところに建てられました」(同上)この地域の宅地開発が進展し、環境整備された故に、山深さを感じる場所とは程遠くなっています。面影は神社の境内からわずかに偲ばれます。このコラムには、この後に、貞成親王が書いた『看聞日記』という史料に記録された、15世紀初めの室町時代に宇治で発見された白蛇にまつわる騒動記の内容を紹介しています。ここでは省略します。上掲の本殿を撮った景色には、右側に小さな小社が見えます。 近くまで行って拝見しますと、不動明王石像が安置されていました。 不動明王が祀られています。 本殿の左側、すぐそばには、この「朝日大神」と刻した碑が建立されています。 一石五輪塔覆屋の位置から左方向には、石段のある参道が延びています。こちらにも朱塗りの覆屋が見えます。その手前にあるのが、一石を刻み込んで造られた五輪塔です。朱塗りの覆屋に進む前に、目に止まったのが更に左側の一画です。 傾斜地の一画を円筒状に開削し、周囲を石積みにして、石段を下りていく場所になっています。行者が滝水にうたれる修行場です。 石段を降りていき、近づくと、地蔵菩薩石像が祀られているようです。私の印象。 下まで降りると、正面に間近に見えます。 亀の石像は、石樋の滝口の上に鎮座しているのです。この亀もまた神亀なのでしょう。 不動明王像を浮き彫りにした碑が安置されています。 不動明王の現前で、滝の水を浴び、修行が行われてきたということでしょう。石段を引き返し、朱塗りの覆屋に向かいます。 覆屋の中には、石仏が整然と並べられ安置されています。お地蔵さまのご集合でした。 この石仏群からさらに参道を先に上ります。 山の傾斜地にこんな景色が広がっています。 一番手前に「□代龍王」(冒頭一文字不明)と刻された神名石碑 その先に、「荒木大神・高倉大神」と刻した神名石碑「二代龍王」と刻した神名碑が続きます。列としてはそこまでです。が、左側に目を転じますと、 「末廣大神」(左)と「八代龍王」(右)とそれぞれ刻された神名石碑が建立されています。 上掲神名石碑から、参道を戻ってくると、北面する形でこの神名碑があります。私には判読できません。不詳です。 さらに手前に戻ると、「白龍大神」と刻された神名石碑が建立されています。境内を巡って連想したのは、伏見稲荷大社の背後の稲荷山のお山巡りをして、山の峰々にの至るところに建立された驚くほど多くの「お塚」と呼ばれる様々な神名石碑です。この境内の神名石碑群は、お塚に通じるものに思えました。稲荷山に上れば、白長社も含めて、お塚の一つになりそうです。この境内、まさに神仏習合の状況が維持されている姿を感じとれるところでした。余談ですが、手許の一事典によりますと、蛇神を祀る神社に、奈良県の大神神社、藤沢市の諏訪神社境内の長虫神社、鹿児島県・頴娃町の無足大明神があげられています。呪術・医薬の守護神ともいわれています。また、屋敷の守護神、屋敷神として蛇宮を祀るという事例もあるそうです。インターネットで別の事例にも出会いました。これで、ご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*「宇治市政だより」昭和64年(1989)1月1日 第832号 新春特集号 *『日本の神様読み解き事典』 川口謙二[編著] 柏書房 p461-463補遺宇治市文化センター ホームページ蛇と水神のはなし 大平山だより :「大平山神社」長虫神社 :「鵠沼・昔砂丘の一本松」無足明神(むそくみょうじん)関連石造物 :「指宿まるごと博物館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 伏見稲荷大社細見 -5 四ツ辻・三ノ峰・間の峰・二ノ峰・一ノ峰観照&探訪 摂取院、稲荷山南辺のお塚、紅葉と奥社奉拝所への裏ルート探訪 京都市伏見区 伏見稲荷大社 補遺 -1 未訪のお塚2箇所と谷間の不動明王像探訪 伏見稲荷大社細見 -10 周辺(ごんだゆうノ滝・弓矢八幡宮・大橋家庭園・釈迦堂ほか)
2023.10.26
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御池通に面して、「史跡 神泉苑」の石標と石鳥居・石柵が見えます。二条城の探訪を行い、外堀の外周を巡りました。先日探訪記をご紹介したところです。押小路通の歩道を歩きながら南側の外堀の景観を眺めていた時に、見つけた石標をご紹介しました。 この石標です。これは平安京の時代における神泉苑が二条城の南側外堀傍の位置で示す東端線と西端線を表示しています。 こちらも既にご紹介した案内板から部分図として切り出しました。赤い線の枠が二条城の史跡指定範囲です。かつての神泉苑は北は平安京の二条大路まで広がっていたことを示しています。現在の二条城内とかなりの部分が重なる位置関係だったのです。この石標を見たことが動機となり、当初の予定外の「神泉苑」に立ち寄ってみました。 「史跡 神泉苑」の石標の近くに、この駒札が立っています。上掲の図とこの駒札の説明とを重ねていただくと、おもしろいかもしれません。駒札と手許の本(資料1)によれば、*平安京造営の折に、宮中の附属庭園として造られた。常に清泉が湧き出す地。*当時の境域は南北四町,東西二町という広大さ(13万㎡)だった。二条城は275,000㎡*天長元年(824) 弘法大師空海が勅命により善女龍王を勧請し祈雨の法を修した。 → 日本中の旱天への対策 『神泉苑絵巻』が描かれる。*貞観5年(863)3月 宮中内殿・中宮とともに神泉苑で三日間の大般若経の転読実施*同年5月20日、御霊会の執行 → 疫病の流行に対する対策 →祇園祭発祥の淵源*貞観8年5月、天台座主安恵によって七日間の祈雨修法執行。 → 貞観年間(859~877)以降、神泉苑は宗教的霊場として有名になっていく。この他のことは後記することにして、境内を探訪しましょう。 境内中央に池があります。朱塗りの反り橋が中島に架けられています。駒札には、「法成就池」と明記。この池が「御池通」の名称の由来になりました。二条城造営により、神泉苑の北側は大きく削られ、神泉苑は荒廃したそうです。慶長12年(1607)、筑紫の僧怪雅が官に請い現在の神泉苑を再興したといいます。それ以降真言宗東寺派の寺になりました。現在の境内は方一町の規模で、開創当時の三十分の一ほどです。(資料1,2)冒頭の石鳥居の左に少し見えていますが、境内の西南角に「臨泉閣」と称する建物(方丈)があり、 その北隣りに「本堂」があります。本尊は聖観音像が安置されています。手許の本の挿画(昭和59年8月、俊則画)には、本堂の北側に客殿が描き込まれています。(神泉苑のホームページでは平安殿と表記)今回訪れてみるとその場所は更地になっていました。かつて訪れた時の記憶では神泉苑平八という料亭として使われていた建物があった場所。ネット情報を検索してみますと、営業していたころの情報がたくさん残っています。更地になっていたという一記事がやはりありました。その変化は最近のようです。さて、その敷地部分が今後どうなるのか・・・・。 臨泉閣と本堂との間、本堂の南東側で目にとまったのが石仏の集合です。お地蔵さまとして祀られているのでしょう。 この石像が一番お地蔵さまのイメージに合いますね。 池側には、「鯉塚」「亀塚」と刻された供養塚が祀られています。「鯉塚」は台座の正面に鯉が浮き彫りにされていて、「亀塚」は、台座の上面が亀の形にです。 「法成橋」を中島に渡ります。 池を眺めると、鯉がたくさん泳いでいました。 夕月や神泉苑の魚躍(オド)る 与謝野蕪村 橋を渡ると、拝殿があり、その北側に社殿が見えます。拝殿の西側に、駒札が立ち「弘法大師御勧請 善女龍王社」と記されています。 池中の島ですので、瑞垣は、中門と左右の脇に塀が立つだけのシンプルさ。 社殿 アヒルがいました。つがいでしょうか。 拝殿の北西側に立ち、池の北西方向を眺めた景色 拝殿の西南側から眺めた法成橋 拝殿の南東側に「恵方社」があります。祭神は歳徳神。「歳徳神はその年の吉方(恵方)にあって、開運をつかさどる神」です。「社殿は円い石の上に置き、その年の恵方にあたる方角に向きをかえるため、自由に動かせるようになっているのが珍しい。むかし苑内で、属星祭などの星の信仰による祭事を行なった遺風であろう」(資料2)とのこと。島の南側に石橋が架けられていて、冒頭の石鳥居の前に至ります。この石橋が正面の石鳥居から善女龍王社への参道になっているのです。橋を渡って、池の東側を探訪しました。 目にとまった小社の傍には「洛中天満宮」の駒札が立っていました。 辨財天社 神泉苑のホームページの案内図には、「弁天堂」と記されています。池を反時計回りにさらに歩むと、 池端に宝篋印塔が建立されています。これ一塔だけ。 その先に見える朱塗りの鳥居 「鎮守稲荷社」が祀ってあります。ここから池の北方向は通行止になっていて、巡ることができませんでした。 池の東側から眺めた善女龍王社の社殿の側面の景色探訪できたのはこれくらいです。神泉苑の歴史的な経緯を補足しておきましょう。(資料1)延暦19年(800)7月19日 桓武天皇の行幸。在位6年間に27回の行幸平安時代初期には頻繁に行幸が行われた。 平城天皇 行幸13回 嵯峨天皇 行幸43回。 弘仁3年(812)に日本で初めての桜の花見を催す 淳和天皇 行幸23回。神泉苑内には、乾臨閣という左右に閣を配した三棟からなる正殿のほか、東西釣殿・滝殿・橋を配し、自然の森と池沼に囲まれていた。皇族・貴族の遊宴の地だった。だが、「9世紀中ごろには京外に遊興の地を移していった」(資料3)といいます、これと相前後して、上記のように神泉苑が消厄除災の地として注目を浴びるようになります。貞観の御霊会に関連してですが、9世紀後半の貞観年間は平安京に伝染病が流行した時期だったそうです。貞観3年(861)8月に赤痢が流行。貞観5年(863)正月に「咳逆(ガイギャク)」と称される咳を伴う病気、いまでいう流行性感冒とみられる病気が流行。これが同年5月の御霊会のつながります。貞観14年(872)1月に再び「咳逆」が流行したそうです。(資料4)この時代、貞観の大地震や、富士山の噴火など、全国的な災いが相次ぎます。平安京で悪疫が流行したことで、 貞観11年(869)に、町衆が全国の国の数に準じ、長さ2丈の66本の鉾を立て、 祇園社(現八坂神社)から御輿を担いで神泉苑に来て、厄払いとして疫病退散の神事を行ったのです。これが町衆の祭典となる祇園会(祭)の起こりと言われています。(資料2,5)神泉苑が御霊会を契機に消厄除災の地と知られていたことにより、町衆が厄払いを神泉苑で行うためにこの行動を生み出したということでしょう。さらに、「貞観17年(875)6月に真雅を中心とした神泉苑での請雨経法以来、神泉苑は祈雨道場としての位置を確立した。延長年間(923~931)以降、聖宝から仁海に至る真言僧の祈雨が相続き、仁海は雨僧正の異名をとるほどであった。」(資料1)という歴史をたどります。天明の大火(1788)で、二重塔・弁財天社・不動堂など焼失。その後歳月をかけ堂舎の再建が行われ、明治28年(1895)に境内が整備されるに至ったようです。(資料1) 御池通に面した石鳥居の東側に、この駒札「神泉苑と謡曲『鷺』由来」が立っています。「『源平盛衰記』には、醍醐天皇の時代、宣旨に鷺さえも羽をたたんで、かしこまった話がのせられており、謡曲『鷺』はこれをもとにつくられている」(説明文より)「五位鷺」といいますが、これは天皇が鷺に五位の位を授けたことに由来するそうです。神泉苑のホームページでは、次のように説明されています。「醍醐天皇が神泉苑に行幸になったときに鷺が羽を休めていた。帝は召使いにあれを捕らえて参れと仰せられた。召使いが近づくと鷺は飛び立とうとした。召使いが『帝の御意なるぞ』と呼びかけると鷺は地にひれ伏した。帝は大いに喜ばれ、鷺に「五位」の位を賜った」(資料5)これでご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『京都史跡事典 コンパクト版』 石田神泉苑孝喜著 新人物往来社2)『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p302-3063)『古代を考える 平安の都』 笹山晴生編 吉川弘文館 p2464)『平安京の災害史 都市の危機と再生』 北村優季著 吉川弘文館 p78-825) 神泉苑の歴史 :「神泉苑」補遺神泉苑 ホームページ 秋の大念仏狂言 神泉苑~宮廷の遊び場には別の顔があった! :「京都トリビア x Trivia in Kyoto」世の中、捨てたもんじゃない…「神泉苑」の怒涛の物語 :「T.M.OFFICE」演目 鷺 :「the能.com」曲目解説 能 :「銕仙会~能と狂言~」サギ :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都 二条城細見 -1 外堀・東南隅櫓・東大手門・番所 11回のシリーズでご紹介しています。
2023.10.18
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二条城東大手門を出た後、外堀周辺を反時計回りに探訪することにしました。観覧券の販売所を通り過ごして、少し先から外堀の正面を南方向に撮った景色です。東大手門が左遠方に見えます。光が反射して見づらいですが・・・。 正面の石垣と外堀を北方向に眺めた景色。石垣の上に土塁があり、今はその上に樹木が列をなしています。かつては屋根付き土塀が石垣上に立ち、真っ直ぐに延びていたことでしょう。 正面と北側の石垣の接する東北角です。かつてはここに東北隅櫓が建てられていました。石垣の東北角は外堀側へ石垣が一段張り出しています。隅櫓から東と北の両側面を監視・防御しやすくするためかと思います。 外堀の東北角の歩道から眺めた北側外堀の景色。外堀に沿って樹木が植えられて並木になっています。二条城の正面は堀川通に面しています。堀川通の東側では、このご紹介の一番最初にご紹介した二条城東南隅櫓の地点辺りが、東西方向の押小路通の位置になります。南側外堀沿いの道路が少しずれた形で押小路通として西への続きになります。東大手門より少し北、東南隅櫓と上掲の東北隅櫓の中間辺りが、二条通です。東北隅櫓は夷川通と北の竹屋町通との中間あたりになり、北側外堀沿いの道路は竹屋町通になります。つまり、この竹屋町通と押小路通は堀川通のところで、鍵形に折れ曲がっています。竹屋町通は道幅が広い道路です。北側外堀に左折して、竹屋町通の歩道を進むと、少し先で生垣が凹型になり、 「冷然院跡」と刻された石標が立っています。 この駒札の方が先に目に止まると思います。「ここは、平安前期~中期、冷然院があったところである。 弘仁年中(810~824)嵯峨天皇の離宮として造営されたのがはじめで、林泉を前に数十の建物が建ち、天皇はしばしば行幸になって、華麗な詩歌の宴を行い、譲位後は、後院(上皇の御所)として使用された。 嵯峨上皇の後、冷然院は皇室の重要な財産として伝えられ、代々上皇の離宮・後院として利用された。 建物は前後四回火災にあったが、そのたびに面目を一新して再建され、その間に然の字を改めて冷泉院とした。 天喜3年(1055)にとりこわされ、以後の状況は不明であるが、平安前・中期の200年以上にわたり、代々皇室に愛好され、林泉の美をたたえた文学作品も多く、平安文化の一中心でもあった。 京都市」(駒札説明文転記)手許『平安京』という資料では、改称された「冷泉院」で説明されています。平安京でいえば、左京二条二坊三・四・五・六町に位置し、4町を占地する規模でした。「平成12・13年(2000・2001)に二条城の敷地内(冷泉院中央付近)でおこなわれた試掘確認調査で、平安時代前期から後期にかけての庭園遺構を検出した」(資料1)とのこと。 この案内板は外堀の西北角近くに設置されている案内板の一つですが、ここでご紹介しておきます。この案内板では、赤字の冷泉院という名称で記載されています。四角の黒枠がその位置と規模。赤枠の区画が二条城の史跡指定範囲の規模です。左上の赤字の平安京は、平安時代の当初、平安京の北端中央において天皇が居住し政治を行う場所として造営された平安宮であり、黒線で南と東の境界が示されています。宮城、大内裏とも称されます。冷然院(冷泉院)の規模がイメージしやすくなることでしょう。 北大手門「北大手門は、道を挟んだ向かいに京都所司代屋敷が存在するので、その連絡門としても使われたと思われるが、正門である東大手門に対する控えの門として、それにふさわしい威容を整えている。慶長8年(1603)の築城時からこの場所にあるが、現在の建物がその時のものか、寛永行幸時(1603)に建て替えられたのかは分からない。規模は、長さが東大手門より3間(6m)短く、門構えも一回り小さいが、奥行きや高さは同じで、正面の出格子窓に『石落し』を備えるのも同じである。飾金物に金箔や座金を使わないことや、二階床梁(ユカハリ)が東大手門は角材であるのに対して、北大手門は丸太を使うなど装飾性に違いは見られるが、外観の構えに遜色はない」(城内に設置の案内板説明文転記) 北側外堀の石垣 石垣に設置の排水口 北中仕切門辺りの外堀の屈曲箇所の景色 北側外堀の東方向の眺め 石垣の屈曲部分。途中から歩道を逸れて、外堀沿いに西に歩める小径が設けてあります。 外堀傍を歩み、西側から眺めた景色 西方向を眺めた景色 北側外堀と西側外堀との西北角から眺めた景色この北西隅の少し手前に、二条城に関係した案内板がいくつか設置されています。上掲の案内板はその一つ。これらは、日本語・英語で表記されています。部分拡大図を併用。また、説明の要点を列挙します。 「二条城外堀北西部北側石垣の発掘調査」発掘調査で、石垣裏込めを確認できたとのこと。「『裏込め』とは石垣の後ろに石を詰め込み、排水を行なうためのものです。石垣上面に振り注いだ雨水は、裏込めから、石垣の基底部に流れます。そのため、裏込めの幅は石垣の安定性とかかわっています」(転記)北側石垣の裏込め: 石垣先端より3.2m~4.3m、直径10~20cm大の石(栗石)を詰める 裏込めの肩口には、少し大きめの石(裏栗巻石)を並べる 二条城の石垣刻印二条城の石垣には、約360個の石に、約60種類の刻印みられる。刻印には、大名の家紋などを刻んだと考えられ、持ち場を示す役割があったという。小赤丸追記のあたりの石垣に2種の刻印が見られる。本丸内堀の石垣にも多く見られる。 「二条城北西部の変遷」江戸・中頃、この北西部は空地で、外側を柵や木戸で囲い、番所を設置。(上・左)江戸・後期の花洛一覧図には、北西隅櫓や京都所司代の火見櫓が描かれている。(上・右)昭和初期の二条城北西部古写真: 空地で石垣がよく見える。(下) 石垣の角(隅)は算木積み、それに続く石垣は打込はぎの積み方です。算木積みの生み出す角の姿が美しい。西側の外堀に移ります。 西門 「寛永3年(1626)頃に建設され、江戸時代には二条城の通用門として使われた。 天明8年(1788)の大火で周辺の櫓門等が焼失し、明治以降には外堀にかかる木橋も失われ、今ではこの西門だけが残る。門の上に立つ土塀と石垣に囲まれることから『埋門(ウズミモン)』と呼ばれるが、屋根だけを見れば『高麗門(コウライモン)』である。高麗門とは、死角をなくすために屋根をできるだけ小さくした門で、柱の上にしか屋根はない。この門を突破されても、正面に櫓門が持ち受け、敵を2階や石垣の上から攻撃することになるが、その際、屋根が邪魔にならないように考えられた造りである」 (城内に設置の案内板説明文転記) 西門の傍に、青鷺が佇んでいました。外堀沿いに南進します。 西側と南側の外堀の角には、「西南隅櫓」があります。隅櫓は見張り台としての役割を担うそうです。普段は武器庫として使われていたと言います。「二重二階櫓、入母屋造、本瓦葺」(重要文化財)です。(資料2) 西南隅櫓の西面には唐破風の屋根が組み込まれています。屋根の鬼板には三葉葵の紋が陽刻されています。 西側の外堀から左折して、南側の石垣を眺めつつ外堀沿いに東に進みます。 まず目に止まったのが、生垣を凹形にして、建てられた石標です。「平安京跡 神泉苑 西端線」と刻されています。その左に縦に一本の線が彫り込まれています。左側面に説明文があります。「平成2年から同5年にかけて実施された地下鉄東西線建設に伴う発掘調査により、平安京造営当時の神泉苑の東西幅が確認されました。当該地はその西端線に当たります」(転記)最初に「冷然院跡」のところで先取りしてご紹介した案内板の説明図をご覧ください。二条城と平安京造営当時の神泉苑との位置関係を確認いただけます。 振り返って眺めた西南隅櫓と石垣 南中仕切門の位置辺りの外堀側は、北側と同様に外堀石垣が鍵形に屈曲しています。 南方向を見ますと、押小路通を挟んで南側に門が見えます。現在の神泉苑への北門です。平安京造営当時の神泉苑を想像すると、現在の神泉苑はかなり規模が縮小したことになります。 そして、さらに歩めば、神泉苑東端線の石標が建てられています。 二の丸御殿の南の外堀の位置に「南門」が見えてきます。 南門の屋根の上に、青鷺が止まっています。 南門を正面に眺めて。松の枝がちょっと邪魔ですが・・・仕方がない。既にご紹介した、江戸時代の「二条御城中絵図」を参照しますと、絵図に「南門は描かれてはいません。(資料3)この南門は、大正4年(1915)年に大正天皇の即位式が京都御所で行われた後、即位を祝う饗宴が当時離宮となっていた二条城で行われた折りに、築造されたそうです。饗宴のために新築された建物群は、その直後に移築または撤去されたと言います。その折り、この南門だけが残されたのです。参照した小冊子には、「大正天皇即位の大典」の説明文の中に「現在は南門だけが残っています」と末尾にさりげなく記されています。ホームページの方には、南門の説明の中に、「その時に天皇の入場口として新たに作られた門です」と記してあります。(資料4)二条城の建築様式にあわせて造られた門なので、今ではすんなりと景色に融けこんでいますね。南側外堀の東端近くまで戻ってきました。 東南隅櫓です。「二重二階櫓、入母屋造、本瓦葺」(重要文化財)。様式は西南隅櫓と同じです(資料5)異なるのは、西南隅櫓は唐破風を採り入れていますが、こちらは千鳥破風を用いている点です。外堀をほぼ一周してきました。二条城は、東西約600m、南北約400mの大きさです。外周は約2km。総面積は275,000㎡だそうです。 (小冊子、資料4) 城内マップ (小冊子より)これで二条城のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*観覧日に入手の小冊子「世界遺産 元離宮二条城」 京都市*『図説 歴史散歩事典』 監修・井上光貞 山川出版社1)『平安京 附第31回京都市指定・登録文化財』 京都市文化財ブックス第28集 p70・712) 二条城西南隅櫓 :「文化遺産オンライン」3) 二条御城中絵図 :「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」4) 二条城の歴史・見どころ~二条城の概要 南門 :「世界遺産 元離宮二条城」https://nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp/introduction/highlights/overview/5) 二条城東南隅櫓 :「文化遺産オンライン」補遺ページ06 石垣の分類 :「お城の大図鑑」石垣の分類 :「日本の城探訪」第41回【鑑賞】石垣って積み方に違いがあるの? :「城びと」岡山城の石垣「3種類の積み方を確認」 :「岡山市」第43話 城の石垣の積み方を紹介。小倉城の石垣はどんな積み方?:「小倉城ものがたり」平安京の地図 :「京都ガイドブック」平安京についてわかりやすく解説! 遷都の理由や関連スポットも紹介 :「HugKum」(小学館) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 二条城細見 -1 外堀・東南隅櫓・東大手門・番所 へ探訪 京都 二条城細見 -2 唐門 <1> へ探訪 京都 二条城細見 -3 唐門 <2> へ探訪 京都 二条城細見 -4 二の丸御殿とその周辺 へ探訪 京都 二条城細見 -5 二の丸庭園 へ探訪 京都 二条城細見 -6 本丸御殿(工事中)・本丸庭園・天守閣跡ほか へ探訪 京都 二条城細見 -7 番外編:本丸御殿(修理工事中)へ探訪 京都 二条城細見 -8 土蔵・西南隅櫓・南中仕切門・桃山門・梅林・桜の園 へ探訪 京都 二条城細見 -9 土蔵・北中仕切門・加茂の七石・清流園 へ探訪 京都 二条城細見 -10 内堀・鳴子門・清流園・北大手門・土蔵・収蔵庫ほか へ
2023.10.15
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清流園の和風庭園から一旦、内堀の方に向かいます。北側内堀の東北側から内堀を眺めた景色です。 東橋と本丸櫓門の北側面 ふと、内堀の水面に目を向けると、 内堀の上を風が吹き過ぎた結果でしょうか。小波を生み出し一種の抽象画を描いたようです。 内堀沿いに右折して、東側内堀に回ります。内堀の北東隅に立てば、松の木越しに本丸の正面(東側)の石垣と北側石垣が見えます。 少し南に移動し、北側内堀を西方向に眺めると、 内堀の突き当たりには、17間の長さの土蔵の白壁が見えます。背後の樹木と併せて視界を完全に遮る形にもなっています。強固な城壁のようにも見えます。 北側内堀の郭側の石垣に目を移せば、北中仕切門の内堀側に延びた石垣が見えます。かつてはこの石垣の上に、土塀が立ち、本丸の西橋、西櫓門の方への侵攻を防御する役割を担っていたのでしょう。 内堀沿いに南に歩めば、桃山門から見えていた「鳴子門」が、東橋、本丸櫓門への中門となっています。前回ご紹介した桃山門と比較すると、こちらの門はいささか軽量級の門構えという印象を受けます。大きなお寺の中門でも見かけそうな門という感じ・・・・。「脇戸付一間門、一重、切妻造、本瓦葺」(重要文化財)です。(資料1) 鳴子門前から、再び清流園に戻ります。左側に内堀の東北角辺りの景色を眺め、 右側には、二の丸御殿の北側境界となる屋根付塀と外(北)側の庭部分が見えます。 内堀のと東北角の東側には、休憩所が設けてありますが省略します。 正確な位置を記憶していないのですが、「大政奉還百五十周年記念植樹」と刻された石標が目に止まりました。 清流園の南側の空間で、東方向に広がる景色です。清流園前の東西方向の通路に戻り、右折します。 東方向に広がる並木の眺め 清流園前の真っ直ぐな通路の先が遠望出来ます。ズームアップで。一方、通路の左(北)側には、清流園が広がり、 こんな円柱が目にとまります。近づいて行き、通り抜けると 「清流園」と刻した石碑が立っています。円柱は清流園の正面入口になるようです。 石碑の西側から、清流園の東方向の眺めです。芝生の洋風庭園が広がっています。パノラマ合成した写真です。清流園前の通路を東に進みます。 広がる芝生の東端に、南北方向に大きな木が一列になって植樹されています。 その東側には、幅の広い道が北に延び、「北大手門」が遠くに見えます。 ズームアップしてみました。現在は、二条城運営の業務上の通用門の役割を果たしているようです。小型バンの車両が出入りしているのを見かけました。門衛所が設けられています。「櫓門、入母屋造、本瓦葺」(重要文化財)です。(資料2) 道路を挟んで東側にも芝生地が広がっています。城内マップに「緑の園」と表示されたエリアです。詳細不詳。 通路の傍に、これが置かれています。ひらがなで名称が陽刻されていますが、頭の文字が欠落しているようです。かつての建造物の一部を、モニュメントとしてここに保存されているのか・・・と想像します。なんとなく「□でうおほはし」と読めそうで、そうならかつての二条大橋の一部かな・・・・と。まったくハズレているかもしれません。この辺りで振り返ると、 南側には、立入禁止ですが、閉じられた門と腰板張りの白壁が見えます。二条城のホームページで入手した「将軍と巡る二条城」によりますと、ここは「土蔵」と表記されています。さらに調べると、建物は「土蔵造、門番所付、一重、入母屋造、本瓦葺」(重要文化財)です。(資料3)この地図によれば、この辺りは桜並木になっているそうです。桜の開花期に訪れると景観が華やかになっていることでしょう。順路はこの土蔵の東側へ右折して、真っ直ぐ南に進めば、東大手門に戻ることになります。南北の通路を南に進みます。東側には「二条城障壁画展示収蔵館」が建てられています。探訪した時は閉館中でした。写真を撮りませんでした。「障壁画(原画)収蔵し、展示する施設で、二の丸御殿の障壁画を間近で鑑賞することができます」(小冊子より転記)つまり、二の丸御殿のかなりの部分が、現在は模写された障壁画が使われていることになります。ホームページにはこの展示収蔵館の公開期間が開示されています。次回は季節を変えて、この公開期間に改めて探訪したいなと思っています。 通路の右(西)側は、振り返って眺めると、この景色。上掲の土蔵の外側壁面と同様です。この南北方向の建物は「収蔵庫」と称されています。 南端側はオープンな空間が出入口となっています。もちろん、右折して足を踏み入れました。収蔵庫はこんな感じの建物です。文化財登録の指定外のようですので、土蔵と同形式で整合させた後世の建造物ということでしょうか。詳細不詳。 北側の土蔵をズームアップして見ました。この土蔵の左(西)側が、上掲写真の門になります。 西側を見ると、屋根付き塀に通用門(埋門)があります。扉が開いていましたので、入れたのでしょうが、うっかりこの景色を撮っただけでスルーしてしまいました。城内マップの位置関係で考えると、門の先が「御清所」の建物のようです。 南方向を眺めると、築地塀と塀重門(塀中門)があります。 通路の左(東)側には事務所の屋根とその先に番所の屋根が見えます。二の丸御殿を囲う東側の築地塀の北端を正面に眺めていることになります。 築地塀に連なる屋根付き塀を指示する石柱と木柱の組み合わせ。 下部に石柱を組み合わせるのは、耐久性が考慮されているということでしょうか。 築地塀の屋根の破風板の各所と桁先に唐草文様の飾金具が使われています。破風の合掌部の拝、桁先の端面、蟇股には、菊の紋章が打ち出されています。また、拝の部分にたれさげた装飾彫刻として蕪懸魚が使われています。この後、塀重門を通り抜け、二の丸御殿の東側面に設けられた団体観光客対応の出入口傍を通りすぎて、唐門を再度眺めながら、東大手門に向かいます。二条城を出る前に、番所の背後辺りだったかと記憶しますが、 「被爆アオギリ」と題した案内板が目にとまりました。 「このアオギリは広島平和記念公園内に生息する被爆アオギリの子孫です。爆心地より1.3kmにあった被爆アオギリは、原爆の熱線と熱風で大火傷を負いながらも生き長らえました。その子孫は各地に植樹され、現在も命や平和の大切さを後世に伝え続けています。 平成25年10月、遊悠舎京すずめ、被爆アオギリ里子運動関西事務所の企画により、福島県立会津高校と京都市立堀川高校の生徒たちの交流活動の一環で植樹されました」(説明文転記) 被爆アオギリの向こうには、井戸があります。これが最後の細見一項目になりました。 城内マップ (小冊子より)二条城内の探訪は、これで一区切りです。このあと、二条城の外堀の周囲を反時計回りに一周してみました。こちらは初試みです。つづく参照資料*観覧日に入手の小冊子「世界遺産 元離宮二条城」 京都市*「将軍と巡る二条城」(元離宮二条城事務所オリジナルしおり)*『図説 歴史散歩事典』 監修・井上光貞 山川出版社1) 二条城鳴子門 :「文化遺産オンライン」2) 二条城東大手門 :「文化遺産オンライン」3) 二条城 土蔵(米蔵) :「文化遺産オンライン」補遺二条城二の丸御殿台所 :「文化遺産オンライン」二条城二の丸御殿御清所 :「文化遺産オンライン」【内覧会レポート】「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2023」にて、二条城 二の丸御殿 台所・御清所で高木由利子 「PARALLEL WORLD」開催中(4/15~5/14):「ONBEAT」世界遺産 元離宮二条城 ホームページ 二条城の紹介 二条城障壁画展示収蔵館 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 二条城細見 -1 外堀・東南隅櫓・東大手門・番所 へ探訪 京都 二条城細見 -2 唐門 <1> へ探訪 京都 二条城細見 -3 唐門 <2> へ探訪 京都 二条城細見 -4 二の丸御殿とその周辺 へ探訪 京都 二条城細見 -5 二の丸庭園 へ探訪 京都 二条城細見 -6 本丸御殿(工事中)・本丸庭園・天守閣跡ほか へ探訪 京都 二条城細見 -7 番外編:本丸御殿(修理工事中)へ探訪 京都 二条城細見 -8 土蔵・西南隅櫓・南中仕切門・桃山門・梅林・桜の園 へ探訪 京都 二条城細見 -9 土蔵・北中仕切門・加茂の七石・清流園 へ探訪 京都 二条城細見 -11 外堀の周囲を巡る へ
2023.10.14
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本丸西橋の景色一旦、この本丸の西橋傍まで戻ってきました。探訪結果を整理しつつ、この景色を改めて眺めて、気づいたことがあります。現地でここを歩いていた時には意識しなかったことです。この西橋の馬出しと虎口の枡形の空間に、門がないのです。東橋には本丸櫓門がありました。南側の郭を巡ってきたところには、南中仕切門がありました。それなのに、なぜ?先日ネット検索で得た「二条御城中絵図」(資料1)を再度確認してみました。この絵図は別タイトルで、「京都二條城絵図 四幅」「行幸御殿其外古御建物並当時御有形御建物共・二条御城中絵図」とも称される絵図です。絵図の部分拡大図にして引用します。 この絵図を見ると、西橋の馬出しの箇所と虎口の枡形の石垣の箇所に門が設けてあったことがわかります。どこかの時点で門が撤去されてしまったということでしょう。それで多少納得できました。順路として通過している時は全く門のことは意識にありませんでした。内堀沿いに通路を北側に進みます。 土蔵(北)(米蔵)の正面 「本丸西橋を挟んで南の土蔵と対になっている。寛永3年(1626)年頃の建築である。建物は長さが17間と長く、内部が2つに分けられている。内部に床を張り、天井はない。窓は土戸を外に開く開戸で、板庇を設け、内部の鉄格子に銅網が取り付けられている。このような窓の造りは、二条城では他にない。窓は南・東・西の3方向に設けられている。現在、城内には3棟の土蔵があるが、江戸時代には10棟存在した。城に土蔵が残るのはここ二条城だけである。土蔵は穀物類を収納するのが目的だが、武器をしまう蔵もあるのが城の特徴である。寛永期の絵図には、火縄銃で使う塩硝(エンショウ)用2棟、火縄用1棟が描かれているが、いずれも現存しない」(説明文転記)併記の英文説明には、17 ken の長さと記し、約33mと併記してあります。説明内容は、前回の南の土蔵とほぼ同じですが、こちらの方が長さが1間短いことと、窓の仕様とその配置が異なります。読み比べてみてください。こちらの土蔵も「土蔵造、一重、入母屋造、本瓦葺」で重要文化財に指定されています。(資料2) 土蔵の屋根の鬼板の中央には、三葉葵紋らしき紋が陽刻されていますが、少し違う印象も受けます。残念ながら定かではありません。 土蔵前から西方向に振り返ると石垣が見えます。 西門の虎口、枡形を造る石垣です。外堀に向かう「西門」へは、この枡形内に左折し、さらに右折する形の折れ曲がった通路になります。ここも順路からの西門への通路は立入禁止だったと思います。城内から西門自体を眺めることができません。順路脇に西門の案内板が設置してあります。「寛永3年(1626)頃に建設され、江戸時代は二条城の通用門として使われた。天明8年(1788)の大火で周辺の櫓門等が焼失し、明治以降には外堀にかかる木橋も失われ、今ではこの西門だけが残る、門の上に立つ土塀と石垣に囲まれることから「埋門(ウズミモン)」と呼ばれるが、屋根だけを見れば「高麗門」である。高麗門とは、死角をなくすために屋根をできるだけ小さくした門で、柱の上にしか屋根はない。この門を突破されても、正面に櫓門が待ち受け、敵をその2階や石垣の上から攻撃することになるが、その際、屋根が邪魔にならないように考えられた造りである」(説明文転記) 進行方向の北を眺めた景色 北側の土蔵を北西側から眺めた景色 順路を右折し、本丸の北西隅石垣と西側内堀を眺めた景色。 馬出し、西橋、そして内堀の外側に北側の土蔵の東面が見えます。 本丸の北側石垣とその北西隅 内堀の北西角と土蔵の景色北側の郭を東方向に進むと、通路を右折した先に「北中仕切門」が南側と同様に築かれています。 中仕切門の屋根の内側を見上げながら、通り過ぎました。傍に案内板が設置されています。「内堀の南側にある南中仕切門と対になっている。規模もほぼ同じで、寛永3年(1626)頃の建築である。本丸西櫓門への通路を塞ぐ、防護上重要な門である。門は小振りで西門より少し小さく、背面の屋根だけが延びるという変わった構造となっている。門の上に立つ土塀と石垣に囲まれていることから「埋門(ウズミモン)」とも呼ばれる。埋門の形はこの他に、石垣に囲まれて開口だけのものもあり、姫路城が有名で、高松城にもある」(説明文転記)この説明文から、本丸の西橋の所に、本丸西櫓門があったこと、またこの北中仕切門の上に土塀が立っていたことがわかります。 南面する門を東側から眺めた姿です。門の左側の石垣が内堀まで、右側の石垣が外堀まで延びています。南の門と同様で「一間門、一重、招造庇付、本瓦葺」です。重要文化財に指定されています。(資料3) 門を抜けると、順路の左(北)側は、枯山水風に作庭され、石が並んでいます。 この庭の東端に「加茂七石」の案内板が掲示されています。 では改めて、西側から眺めて行きましょう。 白砂を海と見立てると、西の島には大きな3石と小さな石が配されています。 左の石 :畚下(フゴオロシ)石 中央の石 :紫貴船石 右の石 :紅加茂石脇道に逸れます。畚(フゴ)とは、「竹・わらで編んだ籠(カゴ)の総称。もっこ。びく。飯びつその他幼児などを入れておくのに使うものなど」(『新明解国語辞典』三省堂)です。また畚下(フゴオロシ)について、「京都の鞍馬山で正月初寅詣の日に、土地の人が名産の燧石(すいせき)を売るのに、崖の上から畚をつりおろし、客がこれに代金を入れると、つりあげて相当の燧石を入れ、ふたたび畚をおろすこと。《季・新年》 〔京童(1658)〕」(資料5)という説明を見つけました。案内板には、「畚下」の漢字の下に、「ふごろ」とルビが付いています。 中央の島の2石は、糸掛石。糸掛石は通称で、「静原川で産出されていたこの石は、柔らかい部分が削り落ち、硬い部分が線状にに残り、それが蜘蛛の糸の様に見えることから」(資料6)そのように称されるといいます。賎機(シズハタ)石という名の石。背後の生垣に「光悦垣」(臥牛垣)が一部設けてあります。光悦寺垣とも称されます。「江戸初期、京都の鷹ケ峰に芸術村をひらいた本阿弥光悦の草庵太虚庵(死後光悦寺)の光悦好みの竹垣」(資料4)です。 東の島には3石 左の石 :畑石 中央の石 :鞍馬石 右の石 :八瀬真黒石加茂七石を調べてみますと、雲ケ畑石という名称が出て来ます。畑石=雲ヶ畑石でしょうか。序でに、七条通に沿って、京都国立博物館に行く時、七条通と大和大路通との交差点を渡ることになります。この交差点の北西角で、七条通に面する歩道の傍に、加茂七石庭が平安遷都千二百年の記念事業の一環として作庭されています。白壁の塀を背景にした幅の狭い帯状の小さな庭です。意識しないと見落として通り過ぎるかもしれません。加茂七石を身近に見られますのでご紹介しておきます。、石も関心を持つと奥が深そうですね。 東側から眺めた加茂七石の庭です。生垣の向こうに見える屋根は茶室「和楽庵」です。北中仕切門の北方向に延びる石垣を背にして、「清流園」の西端に位置します。この和楽庵は現在、茶房「前田」の和カフェの店舗として使用されています。営業店舗ですので、横目に眺めながら先に進みました。少し調べてみました。「『和楽庵』は、高瀬川一之船入にあった約300年の 歴史をもつ角倉了以の屋敷の一部と、その庭園の池石約800個を元にして作られた歴史的にも価値のある建物」(資料7)だそうです。 目に止まった石灯籠 少し先まで進み、その地点から和楽庵を含めた庭園の景色をパノラマ合成してみました。 庭園の続きを北方向に眺めた景色これらは「清流園」の一部になります。参照の小冊子では次の説明が記されています。「京都の豪商・角倉家の屋敷跡から建築部材、庭石、樹木を譲り受け、1965年(昭和40年)に作庭しました。香雲亭、茶室和楽庵がある和風庭園と芝生の洋風庭園からなる和洋折衷庭園です」(説明文転記) 北東方向を眺めると、横長の池の向こうに「香雲亭」が見えます。 庭園内の小径を歩み、池の先に進みます。パノラマ合成した和楽庵方向の景色。 景色の右下に見える石橋への飛び石道 香雲亭の西面に見える付書院の外観をズームアップしてみました。 おもしろい形の枠作りが施されています。 池を挟んで対岸に香雲亭を眺めた景色 池の南側を回り込み、池の東辺に移ります。清流園西方向の景色です。 石橋をズームアップした時の池の景観この庭園の順路寄りに、「醍醐の桜」が植樹されています。豊臣秀吉が「醍醐の花見」を行った真言宗醍醐派総本山の醍醐寺に「太閤しだれ桜」を住友林業株式会社が2004年3月にクローン技術で増殖した桜の開花に成功しただそうです。その1本が、2016年10月にこの清流園に植樹されました。「太閤千代しだれ」と名づけられています。(案内板より)春の季節には、「桜の園」と併せてこちらの太閤千代しだれを一緒に観桜したいものです。 清流園の東方向を眺めると、広々とした芝生の洋風庭園が和風庭園に連接しています。 獅子が臥すような印象を与える大きな岩が芝生の中に見えます。この辺りを守護しているような雰囲気です。和風庭園と洋風庭園の境界のようにも思える中間域にある置き石です。 城内マップ (小冊子より)つづく参照資料*観覧日に入手の小冊子「世界遺産 元離宮二条城」 京都市1) 二条御城中絵図 :「京都大学貴重資料二条城 北中仕切門アーカイブ」2) 二条城 土蔵(北)(米蔵) :「文化遺産オンライン」3) 二条城 北中仕切門 :「文化遺産オンライン」4)『図説 歴史散歩事典』 監修・井上光貞 山川出版社 p2305) 畚下 精選版 日本国語大辞典 :「コトバンク」6) 京都加茂七石 :「男のロマンは女の不満」7) 世界文化遺産 二条城内にひっそりと佇む茶房 茶房「前田」:「MAEDA COFFEE」補遺加茂七石庭(京都市東山区) :「京都風光」加茂七石 :「盆栽徒然草」加茂七石について知りたい。 :「レファレンス協同データベース」高瀬川開削400年―角倉了以と素庵 :「京の風物詩 鴨川納涼床への誘い」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 二条城細見 -1 外堀・東南隅櫓・東大手門・番所 へ探訪 京都 二条城細見 -2 唐門 <1> へ探訪 京都 二条城細見 -3 唐門 <2> へ探訪 京都 二条城細見 -4 二の丸御殿とその周辺 へ探訪 京都 二条城細見 -5 二の丸庭園 へ探訪 京都 二条城細見 -6 本丸御殿(工事中)・本丸庭園・天守閣跡ほか へ探訪 京都 二条城細見 -7 番外編:本丸御殿(修理工事中)へ探訪 京都 二条城細見 -8 土蔵・西南隅櫓・南中仕切門・桃山門・梅林・桜の園 へ探訪 京都 二条城細見 -10 内堀・鳴子門・清流園・北大手門・土蔵・収蔵庫ほか へ探訪 京都 二条城細見 -11 外堀の周囲を巡る へ
2023.10.13
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西橋を渡ると前方の通路傍に「城内案内図」が設置されています。こちらの案内図はかなり具体的です。案内図設置箇所の背後(西側)には、休憩所とトイレが設置してあります。二の丸と本丸を観覧して、西橋を渡ってきたところでの一休みは適度な感じです。観光客がけっこうたくさん休憩していました。 休憩所の近くから、北方向を眺めると、こんな景色が広がっています。パノラマ合成してみました。北の方向には西側外堀に西門が設けてあります。景色の左には西門虎口の枡形を造る鍵形の石垣が樹木の向こうに見えています。右側は、樹林と芝生が広がっています。自宅で城内マップを見ていて、休憩所の西南方向に「旧二条城石垣」が一部移設されて復元されている箇所があるようです。今回見落としています。再度探訪する機会には、現地を探訪してみたいと思います。ネット検索すると探訪情報は載っていました。まずは、外堀と本丸内堀との間の郭の南側ゾーンを探訪することから始めます。上掲の地図には、北側の郭を経由して、二条城の正面に戻る順路が赤い矢印で表記してあります。「梅林・桜の園」への案内標識が目にとまります。 通路を南に進むと、内堀側に「土蔵(米蔵)」があり、傍に案内説明板があります。土蔵(米倉)は、西側内堀沿いに、ここと、北側の二カ所に設置されています。 土蔵(南)(米蔵)の正面は内堀を背にして西に向いています。「西橋を挟んで北の土蔵と対になっている。寛永3年(1626)年頃の建築である。建物は長さが18間と長く、内部が二つに分けられている。内部に床が張られ、天井はない。窓には片引きの土戸が入っており、それを開けると土塗りの格子が現れる。このような窓の造りは、東大手門等の他の土蔵造りと同じである。窓は正面にしかない。現在、城内には3棟の土蔵があるが、江戸時代には10棟存在した。城に土蔵が残るのはここ二条城だけである。土蔵は穀物類を収納するのが目的だが、武器をしまう蔵もあるのが城の特徴である。寛永期の絵図には、火縄銃で使う塩硝(エンショウ)用2棟、火縄用1棟が描かれているが、いずれも現存しない」(説明文転記)併記の英文説明には、18 ken の長さと記し、約35mと併記してあります。「土蔵造、一重、入母屋造、本瓦葺」で重要文化財に指定されています。(資料1) 土蔵を通り過ぎ、振り返って通路の北方向を眺めた景色 二条城の西南方向を眺めますと、「西南隅櫓」が樹木越しに見えます。櫓への通路は立入禁止です。近くまで行けないのが残念。「西南隅櫓周辺について」と題した案内説明板が設置されています。「江戸時代、西南隅櫓の周辺には番衆小屋(警備の武士の住まい)が建てられていた。 番衆小屋は、1635年頃に建てられ、明治時代に撤収されたと考えられている。その後、この周辺は空地となっていたが、令和2年(2020)年に西南隅櫓までの通路整備とアジサイの植栽を行い、現在の姿となった」(説明文転記) 江戸時代の大工頭中井家が作成した『二条御城惣絵図』から、この辺りに番衆小屋が建っていた状況をトレースした図面です。案内板下部に併載されています。 通路を左折し、南側内堀を左に見つつ、東に向かいます。樹木越しに、西側内堀の水面が見えます。 西方向の眺め 本丸の西南隅にある天守台の石垣を「梅林」と南側内堀を挟んで眺めた景色です。 南側内堀沿いに、「梅林」が東方向の「南中仕切門」まで広がっています。 「南中仕切門」を西南側から眺めた景色「一間門、一重、招造庇付、本瓦葺」の門で、重要文化財に指定されています。(資料2) 門の南側から眺めると、本丸の石垣が見えます。 門を潜り抜けて、眺めた景色。 南中仕切門脇の石垣と本丸の石垣 手前の緑地に彼岸花が数本咲いていました。その一つです。 本丸の南側石垣の東半分を眺めた景色 南側の石垣にも排水口が設けてあります。さらに東に進みます。 内堀の東南隅の地点です。 本丸の東南隅と東側の石垣、本丸櫓門が視野に入ってきます。 手前に見えたのが、この「桃山門」(重要文化財)です。本丸正面に対する防御門の役割を担っているのでしょう。入母屋造本瓦葺きで、五間一戸、側面三間、一重の門です。(資料3)門を通り抜けた通路の先、北正面に「鳴子門」が遠望できます。 桃山門の東南寄りから本丸櫓門の姿がはっきりと見えます。 桃山門の前から振り向くと、右(東)側に二の丸の屋根付き土塀が一直線に延び、左(西)側には、通路の先に「桜の園」が広がっています。白亜の土塀の先を左折すると、その先は、外堀側の「南門」があり、その先は唐門となります。桃山門前から、往路を引き返し、城の北側に向かいます。 本丸櫓門に架かる東橋の東詰の向こう側に、「鳴子門」の屋根が見えています。 南中仕切門を境界として、東側で通路より左側、つまり外堀(南)側には「桜の園」があります。通路を戻り、途中で南に向くと、芝生の上に簡易な境界が設けてあります。東側の「桜の園」は立入禁止です。 南中仕切門の続きで南方向に延びる石垣の景色手前の芝生には、休憩できるベンチが設置されています。桜の咲く春には、一休みしながら東に桜の満開を楽しめるようです。 通路を西に進むと、石垣に突き当たります。門の出入方向は、左折して南になります。もし敵軍がここまで攻め入って来た場合、この石垣上からの鉄砲や矢による攻撃に応戦することになる門の配置です。 内堀側の道沿いのこの生垣はいつ頃からの作庭でしょうか。たぶん、江戸時代にはなかったでしょうね。そんな気がします。休憩所辺りまで戻る前に、南中仕切門の扉を撮ってみました。 この門は、帯状鉄板を鋲止めしてあります。やはり、これも堅牢な印象を与える門です。普段はおそらく小さく見える門扉だけが通用口になっていて、この大きな門扉は閉じられていたのでしょうね。この後、休憩所まで一旦戻ります。そこから北側の郭を巡ります。つづく参照資料*観覧日に入手の小冊子「世界遺産 元離宮二条城」 京都市1) 二条城 土蔵(南)(米蔵) :「文化遺産オンライン」2) 二条城 南中仕切門 :「文化遺産オンライン」3) 二条城桃山門 :「文化遺産オンライン」補遺お城の国ニッポンを作った男 伝説の棟梁(とうりょう)中井正清 :「NHK」中井正清 :ウィキペディア二条御城中絵図 :「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」 後水尾天皇行幸の時に建てられた時の建物群の配置がわかります。絵図に出会えました。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 二条城細見 -1 外堀・東南隅櫓・東大手門・番所 へ探訪 京都 二条城細見 -2 唐門 <1> へ探訪 京都 二条城細見 -3 唐門 <2> へ探訪 京都 二条城細見 -4 二の丸御殿とその周辺 へ探訪 京都 二条城細見 -5 二の丸庭園 へ探訪 京都 二条城細見 -6 本丸御殿(工事中)・本丸庭園・天守閣跡ほか へ探訪 京都 二条城細見 -7 番外編:本丸御殿(修理工事中)へ探訪 京都 二条城細見 -9 土蔵・北中仕切門・加茂の七石・清流園 へ探訪 京都 二条城細見 -10 内堀・鳴子門・清流園・北大手門・土蔵・収蔵庫ほか へ探訪 京都 二条城細見 -11 外堀の周囲を巡る へ
2023.10.12
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本丸御殿の建物を遠目に見ますとこんな景色です。本丸の北半分に本丸御殿があり、白亜の屋根付き塀が境界となっています。そして、本丸の中央部寄りに、大きな建物一棟が廊下でつながっているようですが、突き出している感じです。 芝生の間の園路を歩み、西側から眺めると中央部に突出した一棟はこんな感じです。広々とした芝生の中に悠然としている感じです。後掲の写真の文を読んで知ったのですが、この建物は「御常御殿」と称するそうです。 天守閣跡に上って、上から見ますと、こんな景色です。 左側に、本丸御殿の建物群の屋根が見えます。この景色だけなら、工事中とは思えません。 本丸内を順路沿いに進むと、中央部の一棟(御常御殿)の側を通ります。この時、工事中という感じ受ける位です。本丸御殿の敷地はかなり離れていますので、工事中とは思えません。天守閣跡から降りて、北方向に歩むと、そこに工事中のための仕切り塀が見えます。それで修理工事中と実感する程度です。町中で建物工事中によく見かけるような仕切り塀です。違うところは、建物を修復工事中の様子がPRを兼ね、その壁面に写真パネルを掲示してある点です。この番外編はその写真を撮りましたので、PRを兼ねてのご紹介です。 本文を読めば、2017年6月から約5年間を予定した保存修理及び耐震補強工事だったようです。それが現状では遅れていることになります。新聞報道では、2024年以降に再公開が遅れると報じています。天明の大火で本丸御殿が焼失した後、御殿の再建はなく、第15代将軍慶喜が仮御殿を建てたとか。その建物は1881(明治14)年に取り壊されました。1893年に桂宮御殿がこの本丸に移建され、1894年に完了しました。それが現本丸御殿。この建物は、1793(寛政5)年から1849(嘉永2)年までに建てられた建物だそうです。 本丸御殿の建物あるいは建物内部の写真が列挙されています。上から順に付記されたキャプションを転記します。 台所 内部 玄関 外観 御常御殿一之間 内部 御常御殿 外観 御書院四季之間 内部 御書院 外観 雁之間 内部 台所及び雁之間 外観 保存修理工事左側の写真:土居葺きの様子 瓦を葺く前の作業。板を一枚一枚竹釘で取り付ける作業 「今回の修理では、もともと瓦の下であり、野地板に敷いていた土を取り 除き、重量を軽くすることで耐震性を高めます」(一部転記) 右側の上 :小屋組における構造補強材の設置 「小屋組では素材が炭素のブレース(筋交い)を入れ、耐震性を高めます。 雁之間の小屋はとても狭い空間なので、柔軟な炭素繊維のワイヤーは効果 的です」(転記)右側の左下:屋根瓦葺き完成(台所及び雁之間)右側の右下:「傷んだ瓦は替えて、丁寧に瓦を葺きます。今回新しく補足する瓦は当時 の文様に倣って作成しています」(転記) 左が補足瓦。右が当初瓦 障壁画修理上段の左 :本丸御殿の障壁画(御常御殿一之間) 「四季折々の風俗を主題としており、なかでも狩野永岳が描いた松鶴図は 圧巻で、鶴の羽を一本ずつ捉えた精緻な描写と鮮やかな色彩が、金砂子を 散りばめた背景に浮かび上がり、格式高い空間を飾るに相応しい作品です。上段の中 :剥落止め 「修理前に絵具が剥がれないように、膠で絵具をおさえます」上段の右 :裏打ち紙の除去 「本紙に直接貼られた裏打ち紙(肌裏)を手作業で 丁寧に取り除きます。裏打ち紙の取替えにより、本紙を長持ちさせること ができます」(転記)下段の左 :本紙の解体 「引手金具をはずし、本紙(絵が描かれていた紙)と裏 打ち紙を建具より外します 」 (転記)下段の中 :本紙の汚れ除去 「表面のほこりを刷毛等で払い、その後、ろ過水を浸 透させ、吸い取り紙で紙の内部の汚れを取り除きます」(転記) 小屋根の状況 本丸御殿玄関 左上: 瓦の取り除きの様子 右上: 左官作業の様子 左下: 屋根野地の補修作業 右下: 柱の立て起こし作業 左上: 1 瓦の解体前の様子 右上: 2 土居葺きの状況 左下: 3 野木葺の状況 右下: 4 野垂木の状況 本丸御殿御常御殿 屋根の解体状況 本丸御殿玄関 屋根の解体状況 二条城の過去の修理 左側: 昭和25年(1950)頃 二之丸御殿 修理 右上: 昭和60年(1985)頃 本丸御殿 修理 「文化財の修理では、まず建物を覆う素屋根をかけます。終戦後の昭和25年 (1950)の二之丸御殿の修理では、丸太を使って組んでいました。木造建築 の場合、部分を解体し、悪い箇所を修理するだけで、もう一度組みなおすこ とができます。これは日本の建築の大きな特徴で、組石造の欧米建築とは異 なります」(転記) 右下: 本丸御殿玄関背面 控柱による応急措置 「平成7年(1995)の阪神淡路大震により、玄関の柱が折れるなどの被害を受 けました。今回の5箇年の保存修理工事は、今後も文化財として安全に活用 するたあめに、被害の修復とともに耐震補強を施すことが主な目的です。そ の後、腐朽した木部や障壁画の修理などを行います」(転記) 「世界遺産・二条城本格修理事業」と題するリーフレットが掲示してあります。第1期の本格修理事業は、唐門・築地・東大手門・番所が対象で、これは完了。第2期がここ、本丸御殿となっています。現在進行中ということになります。 こちらのページの中央には、本丸御殿の平面図が載っています。本丸御殿は「玄関」「御書院」「御常御殿」「台所及び雁之間」の4棟で構成されているそうです。黄色:玄関、オレンジ色:御書院、空色:御常御殿、黄緑色:台所及び雁之間と、建物が色で区別されています。この図の右側が北方向になります。 城内マップ (小冊子より)それでは、探訪を続けます。本丸を出た後、内堀と外堀との間に設けられた郭-本丸の背後(西)と南・北両側-の探訪に移ります。つづく補遺一口城主募金 二条城本格修理事業について :「世界遺産 元離宮二条城」修理中の二条城本丸御殿、再公開は2024年度以降に 追加工事で2年遅れ 京都 :「毎日新聞」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 二条城細見 -1 外堀・東南隅櫓・東大手門・番所 へ探訪 京都 二条城細見 -2 唐門 <1> へ探訪 京都 二条城細見 -3 唐門 <2> へ探訪 京都 二条城細見 -4 二の丸御殿とその周辺 へ探訪 京都 二条城細見 -5 二の丸庭園 へ探訪 京都 二条城細見 -6 本丸御殿(工事中)・本丸庭園・天守閣跡ほか へ探訪 京都 二条城細見 -8 土蔵・西南隅櫓・南中仕切門・桃山門・梅林・桜の園 へ探訪 京都 二条城細見 -9 土蔵・北中仕切門・加茂の七石・清流園 へ探訪 京都 二条城細見 -10 内堀・鳴子門・清流園・北大手門・土蔵・収蔵庫ほか へ探訪 京都 二条城細見 -11 外堀の周囲を巡る へ
2023.10.10
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二の丸御殿の出口を通り過ぎると、右の「二条城案内図」が掲示されています。左折すると、すぐに本丸櫓門が橋の向こうに見えます。「本丸御殿」の案内標識が橋詰に立っています。 本丸櫓門前の「東橋」に立ち、「内堀」を眺めます。右の景色は内堀の北方向。本丸前内堀沿いの通路の北、本丸の北東隅に近い位置に「鳴子門」が設けてあります。左の景色は内堀の南方向。本丸前内堀沿いの通路の南、本丸の南東隅に近い位置に「桃山門」が設けてあります。 本丸東面の石垣。左が南方向、右が北方向です。石垣は打込はぎの積み方だと思います。 本丸の正面は、東橋の先に、「本丸櫓門」があります。 門扉、柱、長押などの表面は銅板を鋲止めで覆い、周りは漆喰を塗り込めた、まさに堅牢な造りです。 櫓門を入ると虎口です。門の本丸側の側面には虎口の壁面でもある漆喰塗りの土塀が見えます。 門を入った正面は急な角度の石段になっています。 東方向の景色一段高くなった本丸の敷地内から眺めると、本丸石垣の上面に上るための石段が本丸の四周を囲む形になっているようです。本丸御殿は本丸の敷地の北半分側に位置し、現在修復工事が行われています。本丸の南側半分が「本丸庭園」です。通路は中央より少し南寄りで西方向への順路があります。 順路を歩むと、南側の石段寄りに樹木が繁り、一部築山ふうに盛り上がっています。そのため、南側の本丸石垣は背後に隠れてほぼ見えません。 西方向に向かい、本丸庭園は中央部が芝生、周辺部に樹木が並ぶという景観を形づくっています。右の写真にほんの少し屋根の先端が写っています。これは、本丸の中央寄りに立つ大きな一棟の屋根です。 敷地の中央部の順路を進んで行くと、木々の向こうに「天守閣跡」の石垣が見え始めます。天守閣は本丸の方形敷地の東南隅に配置されていました。 振り返って、本丸の中央部を眺めると、左側の白亜の屋根付き塀の北側に広がる本丸御殿とつながりつつも、この大きな建物が一棟だけ悠然としている姿が印象に残ります。内堀に囲まれた本丸は20.000㎡の広さです。本丸御殿は、1893(明治26)年に、京都御所の北東部にあった桂宮御殿を移築したものだそうです。貴重な宮家御殿建築の遺構として、重要文化財に指定されています。本丸御殿の南側に位置する「本丸庭園」は、明治天皇の行幸の際に、枯山水庭園から現在のように大改造されたとのこと。「東南隅に築山を配し、芝生を敷き詰めて曲線的な園路を設けた優美な造りが四季折々の風情を感じさせてくれます。」(小冊子より転記) 本丸の南西隅に位置する天守閣跡への石段 天守閣跡上部中央付近から北東方向を眺めた景色。高い山は比叡山でしょう。天守閣跡は、京都市内を360度見渡せるビュー・ポイントになっています。この天守閣跡の場所には、伏見城から移された五重六階の天守閣がそびえていたのです。伏見城は豊臣秀吉が築城しましたが、関ヶ原の戦い時点においては、德川方の鳥居元忠らが守っていました。大坂方(東軍)との攻防戦の末、1600(慶長5)年8月1日に落城します。翌年、德川家康は二条城の築城と並行して、伏見城の本格的な復旧工事で再建して、西日本支配の拠点にするとともに居城とします。家康と秀忠が将軍宣下式を行ったのは、伏見城においてでした。伏見城は1619(元和5)年、江戸幕府により廃城が決定されます。1623(元和9)年、家光が三代将軍の拝任式を伏見城で行うのを最後に取り壊されることになります。(資料1)翌1624年の2月30日に元和は寛永に改元されます。この年、秀忠は二条城に寛永の大改修を行わせるのです。幾度か触れてきた後水尾天皇の行幸への準備です。1626(寛永3)年に、本丸・二の丸・天守閣が完成し、二条城は、現在の規模となりました。伏見城の取り壊しの後、その天守閣はこの二条城の天守閣として再生したのです。しかし、1750(寛延3)年8月、雷火により天守閣は焼失してしまいます。さらに、1788(天明8)年1月、市中で発生した大火により、本丸御殿などが焼失したそうです。いわゆる「天明の大火」です。天守閣の再建はその後行われませんでした。江戸城の天守閣が消失後再建されなかったので、当然かもしれません。江戸時代はもはや天守閣を必要としない世に中に変わっていたということでしょう。 天守閣跡の北側から本丸内を見下ろすと、樹木の先に本丸御殿の屋根が見えます。右端が上掲の一棟だけ中央部に突き出ていた建物です。 南側の石垣の本丸側。石段が石垣の内側側面として延々と延びています。 天守閣跡の南東隅より東方向を眺めた石垣と内堀 東南隅から振り返って、南側内堀の西方向を見下ろした景色。 西南隅に移動し、内堀の西南角を眺めた景色。白壁と屋根の建物は米蔵です。 西南隅から目を北西方向に転じます。眼下に西側の内堀が見えます。 西北隅に立ち、内堀を見下ろすと、本丸の「西橋」が見えます。西橋と石垣との間の長方形の空間は「馬出し」と称される区画だと思います。 天守閣跡の北側から、眼下を眺めると、西側石垣の本丸内では、他と同様に石段が北方向に延びている景色が見えます。この景色の右端に、本丸御殿の一棟の屋根が見えています。 天守閣跡から内堀と西橋を眺めつつ石段を降ります。天守閣跡から降りると、北方向に進み、本丸御殿の西側の空間を経て、先ほど見た西橋に向かいます。この辺りには、現在修復工事に伴う仕切り塀が設置されています。二条城細見の番外編として次回、ご紹介したいと思います。 西側と北側の内堀に面した石垣の角にあたる箇所を、本丸内から眺めた景色です。西側と北側の石段が本丸内での北西隅の様子を示しています。 西橋に出る手前の坂道と石垣 西側内堀の北方向。本丸石垣の北寄りの伊菱垣が少し張り出しています。 西橋の欄干(北側、東詰) 振り返り、南側を眺めると、天守閣跡の上から眺めた、長方形の空間がこんな形で見えます。ここが、たぶん「馬出し」と称される空間だと思います。 西橋を渡り、西詰寄りから馬出しと本丸石垣を眺めた景色 内堀の北方向と本丸石垣 西側の内堀と西橋より南方向の本丸石垣これで、本丸のエリアを一通り拝見してきました。 城内マップ (小冊子より)つづく参照資料*観覧日に入手の小冊子「世界遺産 元離宮二条城」 京都市1)『続・京都史跡事典』 石田孝喜著 新人物往来社補遺虎口 :ウィキペディア解説!お城の馬出し :「日本の城」伏見城 :ウィキペディア伏見城 都市史 :「フィールド・ミュージアム京都」天明の大火 :「フィールド・ミュージアム京都」徳川家の繁栄と衰退を見つめた城-二条城の歴史 :「EDO→TOKYO」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 二条城細見 -1 外堀・東南隅櫓・東大手門・番所 へ探訪 京都 二条城細見 -2 唐門 <1> へ探訪 京都 二条城細見 -3 唐門 <2> へ探訪 京都 二条城細見 -4 二の丸御殿とその周辺 へ探訪 京都 二条城細見 -5 二の丸庭園 へ探訪 京都 二条城細見 -7 番外編:本丸御殿(修理工事中)へ探訪 京都 二条城細見 -8 土蔵・西南隅櫓・南中仕切門・桃山門・梅林・桜の園 へ探訪 京都 二条城細見 -9 土蔵・北中仕切門・加茂の七石・清流園 へ探訪 京都 二条城細見 -10 内堀・鳴子門・清流園・北大手門・土蔵・収蔵庫ほか へ探訪 京都 二条城細見 -11 外堀の周囲を巡る へ
2023.10.09
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二の丸御殿の西側に位置する二の丸庭園には、この塀重門を入ります。 門を入ると、大きな木が玄関口の衝立のよう前方に植えてあります。右の写真は、門に連なり北方向に延びる屋根付き塀の庭園側の姿です。漆喰で塗り込められています。正面の大きな木の前を左側に巡る通路がありますが、水平に渡した竹で立入禁止を示しています。 庭園の南側には、ゆったりと芝生が広がっています。 庭園内の通路は北西寄りの方向だけが観覧順路になっています。芝生の間の西方向への通路なども立入禁止です。北に見える手前の建物は「大広間」。その先に少し見えるのが「黒書院」でしょう。 通路を進みます。一本の石標が見えます。その正面まで進むと、石標の東面に「特別名勝 二條城二之丸庭園」と刻されています。 上掲の2枚の景色とこの景色で、芝生を横切る通路の方向がお解りいただけることでしょう。 通路の東側、二の丸御殿の大広間に近づいています。 庭園の池の方向を眺めて、左から右に目を転じていくとこんな景色です。少し先に歩み、 二の丸御殿を眺めると、大広間、式台、遠侍の3棟の外観の雁行形が見えます。大広間の一の間は、建物の北西角ですので、外側の戸が開かれていれば、一の間に座す将軍は、書院越しにこの二の丸の庭を眺めることができます。 大広間の西辺り、庭の通路から池を眺め、左から右に目を転じて行くと、 この景色が広がっています。池の西岸と南岸との間に、石橋が架かっています。 石橋付近をズームアップした景色。西岸の先には樹木が並び、建仁寺垣が庭と本丸側の通路との境になっています。竹垣には風情を感じます。德川家康の命により二条城が築城され、家康在世時にまず当初の作庭が行われました。寛永3年(1626)年の後水尾天皇行幸の前に、将軍秀忠が寛永の大改修を行いました。この時に現在の二条城の規模に拡大されたのです。池の西南に天皇を迎えるための行幸御殿が造営されました。その際に、大広間、黒書院、行幸御殿、それぞれに対して庭の正面が向くようにという創意工夫がなされたと言います。この時、小堀遠州ほか5人がそれまでの庭を改造する作庭の指導にあたったといわれています。その工夫配慮が諸葛孔明の八陣のようであるととらえて、俗に「八神の庭」と称されるそうです。(資料1,2)二の丸庭園は書院造庭園で、神仙蓬莱の世界を表した庭園と言われています。(資料2)現状でみれば、豪壮な地泉回遊式庭園とも言えそうです。(資料1)通路はあれど立入禁止の道があり、自由に散策できないのが残念ですが・・・・。 少し先に歩み、南西方向に池を眺めた景色。手前に立石が配置されています。 池の東岸の向こうに、黒書院が見えます。 樹木が繁り、僅かですが池の西方向に、本丸櫓門の屋根が垣間見えます。 ズームアップして撮りました。池の向こう岸に、滝組を眺めることができます。清冽な水が白い筋となり、池に流れ込んでいます。 後ほど、池を回り込んでズームアップすると、こんな感じの滝口の景色です。 池の周囲の順路をさらに進みます。南方向を眺めた景色 対岸をズームアップ。竹垣が連なっています。 池の北辺で左から右に目を転じていくと、こんな景色です。 池の西岸と池中の蓬莱島に石橋が架けられ、蓬莱島と手前の鶴島にも小さめの石橋が架けてあります。(資料3)後水尾天皇行幸時には、池の西南側から冒頭の東岸の芝生辺りに行幸御殿、中宮御殿、長局等の建物群が増築されていたようです。北東側に二の丸御殿がありますので、中庭的な庭園の様相になります。その時の庭は、「池の中に御亭を建て、池の中央3つの島、4つの橋を併せ持ち、二の丸御殿大広間上段の間(将軍の座)、二の丸御殿黒書院上段の間(将軍の座)、行幸御殿上段の間(天皇の座)・御亭の主に三方向から鑑賞できるように設計されていました」(資料2)と言います。つまり、寛永の当時には、書院造庭園の庭の姿はほぼ同じだとしても、周辺の景観は現在とは大きく異なっていたのです。「行幸の翌1627年(寛永4年)から四半世紀にかけ、二の丸庭園を取り囲んでいた行幸諸施設は移築・撤去され」(資料2)てしまったのです。「元離宮」を冠する通り、大政奉還後には、荒廃していた庭園に度重なる改修を加えて、「離宮的・迎賓館的な城として利用され」「特に離宮時代に行われた植栽工事は、幕末の庭園景が変貌する程の大規模な改修工事で、今日に至る基本的な景観が完成したと考えられます」(資料2)その結果が、現在のこの二の丸庭園の景観となるそうです。小堀遠州の作庭意図がベースとして残されている庭園と言えるのでしょう。 池の北辺から、池と大広間を眺めた景色 池に沿って景色を眺めていくと、池辺に数多くの石が配置された作庭になっていることが特徴的です。 庭園内を順路に沿って巡って行くと、本丸の方向に抜ける出口が見えます。これで二の丸庭園の細見を終わります。 城内マップ (小冊子より)江戸時代の二条城について、覚書を兼ね、小冊子ほか諸資料を参照して補足しておきます。1603(慶長8)年3月、二条城が竣工した後、家康はこの城に入城します。当時は、「京之城」とか「京都新屋敷」と称されたそうです。既述のとおり、当時は小規模だったのです。慶長8年2月12日に征夷大将軍に任ぜられる儀式は伏見城で行われました。家康はこの二条城に入った後に、拝賀の礼をしているそうです。1611(慶長16)年、家康は豊臣秀頼を招いて、ここで会見を行いました。家康は、大坂の冬の陣・夏の陣は、この二条城で軍議を行い、ここより出陣したそうです。この後は、秀忠による寛永の大改修、後水尾天皇の行幸が終わると、三代将軍家光が、1634(寛永11)年に、30万7000余人を率いて入京し、二条城に入城します。この後、将軍が入城してくるのは、14代将軍家茂です。第4代~第13代の将軍は京都には来なかったのです。そして、第15代慶喜が、この二条城で将軍職を継ぎ、1867(慶応3)年に、大広間で大政奉還を表明するに至ります。二条城は江戸幕府の初期と最後の将軍に使われた以外は、形式だけの城として、営々と幕府から派遣された「二条在番」の武士たちにより、常駐して警備、メンテナンスされるだけになったわけです。(資料4)余談ですが、使われない城を警備する武士はどのような気持ちで職務を遂行していたのでしょう・・・・。内心、気楽だと思っていたのか、虚しいと思っていたのか、無心に淡々と職務を果たしたということなのか・・・・。ちょっと気になりますね。それでは、本丸に向かいましょう。つづく参照資料*観覧日に入手の小冊子「世界遺産 元離宮二条城」 京都市1)『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p200-30012) ~二条城の歴史・見どころ~庭園 :「世界遺産 元離宮二条城」3) 二条城 二の丸庭園 :「庭園ガイド」4)『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社補遺 二条城庭園について :「おにわさん」二条城二の丸庭園 ~京都府京都市~ :「茶の湯的・建築 庭園 街並み観賞録」八陣 :「コトバンク」合戦の「八陣」は諸葛亮孔明の発案? 日本流の軍学が昇華させた「勝つため」の陣形とは :「AERA dot.」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 二条城細見 -1 外堀・東南隅櫓・東大手門・番所 へ探訪 京都 二条城細見 -2 唐門 <1> へ探訪 京都 二条城細見 -3 唐門 <2> へ探訪 京都 二条城細見 -4 二の丸御殿とその周辺 へ探訪 京都 二条城細見 -6 本丸御殿(工事中)・本丸庭園・天守閣跡ほか へ探訪 京都 二条城細見 -7 番外編:本丸御殿(修理工事中)へ探訪 京都 二条城細見 -8 土蔵・西南隅櫓・南中仕切門・桃山門・梅林・桜の園 へ探訪 京都 二条城細見 -9 土蔵・北中仕切門・加茂の七石・清流園 へ探訪 京都 二条城細見 -10 内堀・鳴子門・清流園・北大手門・土蔵・収蔵庫ほか へ探訪 京都 二条城細見 -11 外堀の周囲を巡る へ
2023.10.08
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唐門を眺めた後、二の丸御殿の正面の外観のほぼ全景を眺めて、御殿に近づいていきます。 二の丸御殿の出入口は入母屋造の妻側に唐破風造が付いた屋根です。この部分が玄関口。この建物部分は「車寄」と称されています。 唐破風造の屋根の上には獅子口が見えます。破風には菊の紋章を打ち出した飾金具が取り付けられ、唐門と同様に黄金色に輝いて絢爛さを示しています。江戸時代には、たぶん菊の紋章ではなくて、三葉葵の紋章が輝いていたことでしょう。 唐破風造の屋根の内側から眺めて行きましょう。 虹梁の中央部には屋根を支える蟇股が組み込まれ、その内側に唐獅子が透かし彫りにされています。虹梁の正面は草花文の飾金具で装飾されています。 虹梁と頭貫の間は、一枚の厚板に細密な浮き彫りの瑞鳥や草木で埋め尽くされています。今は退色していますが、極彩色の絢爛さを見せていたことでしょう。 右側 左側上掲正面の左右の欄間は、筬(オサ)欄間の中央部の州浜文様の枠の中に、樹木と鳥が透かし彫りにしてあります。こちらは黄金色で金泥塗りのようです。 これは受付窓口横の自動券売機で購入した「入場券/二の丸御殿観覧券」です。左側が表面になるのでしょう。車寄に入ったところで、この券の提示を求められました。係員が、このQRコードを個別にスキャンするのです。かなり昔に訪れたときはそんな手順はなかったと記憶します。この車寄から先、二の丸御殿の建物内は撮影禁止です。建物の外側の戸は全て閉められていますので、御殿から二の丸庭園の景色は見えません。 当日入手した小冊子からこの二の丸御殿の平面図を抽出しました。二の丸御殿では、北西方向に雁行形(ジグザク形)に配置された6つの大小の建物を廊下伝いに時計回りの一方通行で観覧していくことになります。車寄 ⇒ 遠侍 ⇒ 式台 ⇒ 大広間 ⇒ 黒書院 ⇒ 蘇鉄の間 ⇒ 白書院 と南側・西側の廊下から眺めて行き、そこで折り返して、黒書院 ⇒ 蘇鉄の間 ⇒ 大広間 ⇒ 式台 ⇒ 遠侍 ⇒ 車寄 ⇒ 外へと東側・北側の廊下を進んで行き、車寄に戻って、外へ出るということになります。 遠侍 来殿者の控えの間。最大の広さ。襖には竹林群虎図。威圧感があります。 北東側に「勅使の間」。「若松の間、柳の間」と観覧順路の最後です。 式台 南側:式台の間 将軍への要件や献上物を取り次ぐ間 北側:老中の間 大広間 将軍と大名や公卿衆との対面所。一の間(北西側)が将軍の座で上段 1867(慶応3)年、この場所で、大政奉還の意思表明がなされたとされます。 黒書院 江戸時代には「小広間」と称したとか。一・二の間は「桜の間」とも。 将軍と德川家に近しい大名や高位の公家などとの対面所 白書院 江戸時代には「御座の間」と呼ばれ、将軍の居間や寝室と推定されます。平面図には、黒書院と大広間の間の廊下と思える箇所に「蘇鉄の間」と表記されています。現在では廊下の機能だけに見えますが、幅が広すぎます。たぶん大広間と黒書院をつなぐ廊下と部屋のある建物だったのでしょう。この空間の東寄りに展示品が置かれていました。メモをしていませんので、展示品の名称を記憶していませんが・・・・。蘇鉄の間を含めて、6棟の建物が廊下でつながっています。一番下に載せた城内マップをご覧いただくとわかりますが、上掲の間取り図の建物群の他に、北東側に「台所・御清所」と記された建物があります。この二の丸御殿には、「江戸初期に完成した住宅様式である書院造の代表例として日本建築史上重要な遺構であり、江戸城、大坂城、名古屋城の御殿が失われた今日、国内の城郭に残る唯一の御殿群として、昭和27年(1952)に国宝に指定された」(屋外の案内掲示板より一部転記)のです。この御殿は6棟で、部屋数は33室、800畳余りになるとか。寛永期の障壁画を含む約3600面の障壁画が残されていて、そのうち、1016面が1982(昭和57)年に重要文化財に指定されています。「寛永期の障壁画は、1626(寛永3)年の後水尾天皇の行幸のために大改築された際、幕府御用絵師であった狩野派の若き棟梁・狩野探幽が一門の総力を挙げて制作したものです」(小冊子より転記)現在、二条城内には「展示収蔵館」がありますので、重要な障壁画の大半がこちらに収蔵されているのでしょう。探訪した時は残念ながら休館中でした。上記の順路で観覧する範囲で拝見する障壁画は、一部ということになります。なお、「模写を制作し、御殿内の原画と模写画をはめ替える事業です。修理では原画の画面に復元的な措置を一切講じませんが、模写では、江戸初期の姿を復元することを目的に、失われた部分を補い、後世の補筆を除くべく、慎重に検討を重ねて、形や色、筆法を決めています。また、伝統的な材料と技法を用いて制作するため、伝統的な絵画技術の調査、伝承という役割も果たしています。」(ホームページより)という事業活動が行われています。二条城のホームページをご覧いただき、あとは二の丸御殿を実見し巡ってみてください。 二の丸御殿を巡る最後に初めて見えた中庭の箇所。 建物内ではないので撮ってみました。 「遠侍」の廊下から見た東側の土塀 二の丸御殿を出て、車寄の東側に回り込んでみました。 ここで目に止まった屋根の鬼板。鬼瓦が好きなので一枚撮りました。 自宅でこの鬼板を眺めて文様の奇妙さが気になり、モニターの画面上で部分拡大してみました。 そして気づいたのは、鬼板の内側の造形の左側に蛇が首を持ち上げている姿になっていたことです。こんな鬼板は初めて見ました。不思議な意匠です。悪疫封止の意味合いを象徴しているのでしょうか。 「遠侍」の建物の東側面には、団体観覧客専用の張り出し空間が設けてあります。北東側から撮った景色です。この景色の左(東)側に、唐門から続く築地塀が二条城内での敷地の境界として南北方向に設けられています。元に戻って、車寄前から西側、二の丸庭園に向かいます。 遠侍の建物の南側は土塀の前に樹木が植えられて、一種の境界になっています。 二の丸御殿の南側空間と二の丸庭園との間には境界として土塀が設けてあります。庭園への入口の少し手前に、この2つの釣鐘が展示されています。「鐘は京都所司代屋敷で火事等の緊急事態を周辺に知らせるために使われていた。 京都所司代とは主に朝廷や大名を取り締まっていた江戸幕府の出先機関である。 京都所司代屋敷は二条城の北に隣接して3ヶ所あり上屋敷・堀川屋敷・下屋敷(千本屋敷と呼ばれていたが、これらは下屋敷で使われていたものである。慶応3年(1867)に京都所司代が廃止された後、二条城に移されたと考えられる」(案内掲示文転記) 釣鐘の側から南方向を見ると、この敷地内に井戸がありました。 城内マップ (小冊子より)それでは、二の丸庭園に向かいましょう。つづく参照資料*観覧日に入手の小冊子「世界遺産 元離宮二条城」 京都市補遺世界遺産 元離宮二条城 ホームページ 二条城障壁画 展示収蔵館書院造 :「NHK for School」書院造とは?床の間の特徴や寝殿造との違いも画像で解説【書院造のインテリア】 :「インテリアのナンたるか」狩野探幽 :ウィキペディア狩野探幽 :「美術手帖」京都所司代 :「刀剣ワールド」京都所司代 :ウィキペディア京都所司代跡 :「フィールド・ミュージアム京都」京都所司代跡 :「幕末トラベラーズ」「京都所司代」上屋敷跡、池底地中に木製導水管 出土例少なく、特異な流路構造 /京都 2020.6.25 :「毎日新聞」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 二条城細見 -1 外堀・東南隅櫓・東大手門・番所 へ探訪 京都 二条城細見 -2 唐門 <1> へ探訪 京都 二条城細見 -3 唐門 <2> へ探訪 京都 二条城細見 -5 二の丸庭園 へ探訪 京都 二条城細見 -6 本丸御殿(工事中)・本丸庭園・天守閣跡ほか へ探訪 京都 二条城細見 -7 番外編:本丸御殿(修理工事中)へ探訪 京都 二条城細見 -8 土蔵・西南隅櫓・南中仕切門・桃山門・梅林・桜の園 へ探訪 京都 二条城細見 -9 土蔵・北中仕切門・加茂の七石・清流園 へ探訪 京都 二条城細見 -10 内堀・鳴子門・清流園・北大手門・土蔵・収蔵庫ほか へ探訪 京都 二条城細見 -11 外堀の周囲を巡る へ
2023.10.07
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唐門の門扉の上は龍虎の透かし彫りです。その門扉を潜った先の控柱の頭貫の上を見上げますと 内側の部分には松の木が透かし彫りにされているようです。 頭貫の側面に取り付けられた飾金具は瑞鳥の意匠と思われます。左右2枚の合わせです。また、底面にも飾金具が取り付けてあり、草花の意匠です。 北西角の木組の端部は透かし彫りの飾金具を取り付けて、豪華絢爛さを示しています。 二の丸御殿前から唐門の唐破風を眺めた景色です。破風と虹梁、頭貫の中央部には、菊の紋章を中央に浮き出させた飾金具が取り付けてあります。 虹梁の上には、草花と蝶の透かし彫りが見えます。こちらは左側。 少し角度を変えると、蝶と花の立体感が際立ちます。 こちらは右側です。左側と照応して、蝶と花が彫られています。 同様に、少し角度を変えてとって見ました。蝶が飛ぶ様がリアルです。 虹梁と頭貫の間には、松の木と鳥の透かし彫りが見えます。こちらは左側。 少し角度を変えて撮りました。 中央部の蟇股の内側には、亀に乗る仙人が彫刻されています。調べてみますと、黄安と称する前漢・武帝の時代の仙人だそうです。通称、亀仙人。亀乗り仙人。この仙人、知恵の象徴であるとともに、長寿の象徴でもあるとか。(資料1,2)曾我蕭白が「亀寿老図(亀仙人)」を描いています。黄安仙人は『列仙伝』(巻之二)に登場すると言います。(資料3) この鳥は左右でやはり一対のつがいを表しているのでしょうか。鴛鶯。 角度を変えると、透かし彫りの立体感が際立ってきます。 唐門に少し歩み寄ると、本柱の頭貫の上の透かし彫りが見やすくなります。この唐門、一説には「鍮石(チュウセキ)門」と称されるそうです。(資料4) さらに近寄って眺めると龍の胴体の背面が彫り込まれています。部分図写真を撮り忘れたのですが、同様に左端には、竹の間に虎の背面が浮き彫りにされています。「雲に龍」、「竹に虎」という組み合わせで一体となった透かし彫りです。 内側の北西側から唐門の右(西)側の側面を含めて撮りました。 側面の外側には唐獅子が透かし彫りになっています。こちらは「牡丹に唐獅子」です。「牡丹に唐獅子 竹に虎」は取り合わせとしてよいものと考えられているようです。そう言えば、絵図でもよく見かけます。この取り合わせ、「あなたの依所は、何んですか。 あなたが安心して身を寄せられる安住の地は、どこに在りますか」というメッセージを投げかけているという解釈に出会いました。獅子には、獅子身中の虫が敵。この害虫は牡丹の花から滴り落ちる夜露にあたれば死ぬので、獅子は牡丹の下で休み、虎は象には勝てないので、象が近寄らない竹薮の中を安全な地とするそうです。興味深い話です。(資料5)「雲に龍」の取り合わせは同様なのでしょうか。 透かし彫りの飾金具の妙を各所で堪能できます。 桟唐戸のある本柱の頭貫が突き出た先端もまた飾金具で覆われています。余談ですが、京都にある両本願寺の阿弥陀堂門はこの唐門と同じ形式ですので、この部分は同様に飾金具で覆われています。 東側の側面を内側、北東側から眺めた景色です。 唐門に近づいて、側面を見上げた景色。 花の透かし彫りです。上段は桜の花でしょうか。 前回外側から唐獅子を眺めました。今度は内側から眺めた唐獅子です。ということで、下段のこちらは「牡丹に唐獅子」の牡丹の花です。 唐獅子の胴体の背面が彫られているようです。上半身は門の内側で見えるのでしょう。 鍵型に折れ込んだ築地塀の端面の屋根をアップで撮りました。唐門の東側を南面・東面を囲む築地塀は、南面の築地塀が少し手前で鍵型に折れて北方向に築地塀が少し延長されています。その北端の屋根部分です。この北向きの築地塀と唐門は唐門の脇の築地塀と連接しています。上掲の東側の側面の全体を眺めた景色をご覧いただくとお解りいただけるでしょう。 二の丸御殿の側から眺めた唐門です。 二の丸御殿の前を東方向に少し移動して、立ち位置を変えて撮った景色です。 城内マップ (小冊子より)つづく参照資料*観覧日に入手の小冊子「世界遺産 元離宮二条城」 京都市1) 黄安仙人 :「いこまいけ髙岡」2) 黄安仙人[すみ鬼瓦/和風置物] :「北川鬼瓦」3) 亀寿老図(亀仙人) :「東京富士美術館」4)『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p2985) 牡丹に唐獅子 竹に虎 大分県・長福寺住職 宇都宮玄秀 :「臨黄ネット」補遺【ことわざ】「牡丹に唐獅子」の意味や使い方は?例文や類語を元新聞記者がわかりやすく解説! :「Study-Z」江戸しりとり唄 牡丹に唐獅子 :「世界の民謡・童謡」境内と建造物 :「お西さん」世界遺産の【龍谷山 本願寺〔西本願寺〕】に参拝してきました。No.1:「KATSUMI」東本願寺境内案内図 :「東本願寺」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 二条城細見 -1 外堀・東南隅櫓・東大手門・番所 へ探訪 京都 二条城細見 -2 唐門 <1> へ探訪 京都 二条城細見 -4 二の丸御殿とその周辺 へ探訪 京都 二条城細見 -5 二の丸庭園 へ探訪 京都 二条城細見 -6 本丸御殿(工事中)・本丸庭園・天守閣跡ほか へ探訪 京都 二条城細見 -7 番外編:本丸御殿(修理工事中)へ探訪 京都 二条城細見 -8 土蔵・西南隅櫓・南中仕切門・桃山門・梅林・桜の園 へ探訪 京都 二条城細見 -9 土蔵・北中仕切門・加茂の七石・清流園 へ探訪 京都 二条城細見 -10 内堀・鳴子門・清流園・北大手門・土蔵・収蔵庫ほか へ探訪 京都 二条城細見 -11 外堀の周囲を巡る へ
2023.10.05
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東南隅櫓から唐門に向かいます。二の丸御殿と二の丸庭園のある区域は東南側の南面と東面が築地塀で囲われています。南面に正門として唐門が位置します。 近づいて行きますと、北東方向に東大手門と番所が見えます。 東側築地塀の南端です。 築地塀の側面。切妻の屋根の破風部分は唐草文様の飾金具で華やかに装飾されています。合掌部の拝(オガミ)には菊の紋章が取り付けてあります。元離宮の名残でしょうか。妻飾は蕪懸魚の形式です。屋根の鬼板はごくシンプルな形です。鳥衾(トリフスマ)と軒丸瓦の瓦当(ガトウ)は、三頭巴の文が陽刻されています。桁の先端もまた、飾金具で覆われ、先端部が保護されています。 唐門の屋根の棟の先端は獅子口が備えてあります、3つの経の巻の瓦当と綾筋の下は共に菊の紋章が象られています。 唐門ここが二の丸御殿の正門。切妻造の屋根の前後に唐破風が付いている形です。四脚門です。この唐門、2013(平成25)年の修復工事によって、往時の姿が甦りました。 この唐門は豪華絢爛な極彩色の装飾彫刻と飾金具で飾られています。ここで誰しも立ち止まり写真を撮っています。彫刻それぞれには様々な意味が込められているそうです。二条城細見としては、もちろんこの装飾彫刻をできるかぎりつぶさに眺めていきましょう。少々マニアックですが、お付き合いください。写真を数枚、パチリではもったいない!大手門とは違い、唐門は扉の付いた本柱が中央で、その前後に控柱が付いています。控柱が4本ですので、四脚門。それで、前の控柱の間、本柱の間、後の控柱の間、それぞれに装飾彫刻が施されています。 唐破風屋根の内側の垂木は要所要所が飾金具で装飾されています。虹梁の上部と屋根との間は花が透かし彫りで咲き溢れ、蝶々が飛び交っています。虹梁とその下の頭貫には菊の紋章が飾り付けてあります。 虹梁と頭貫との間には、松竹梅に鶴が彫刻されています。つがいの鶴なのでしょう。長寿を祈念し寿ぐという意味でしょうか。頭貫の中央に、蟇股が見えます。黒い部分が蟇股です。蟇股の上部、虹梁の前面には、瑞鳥の装飾金具が付けられ、虹梁の上には大瓶束(タイヘイツカ)が立っています。この大瓶束もまた装飾金具が付けられています。 扉の付いた本柱の頭貫の上部は、龍虎の装飾彫刻です。門に龍が彫刻されるのは定番のようなものです。やはり、龍虎の力強さにあやかるという気持ちの表れでしょうか。天井格子の部分にも飾金具が絢爛と輝いています。 全体像 龍虎の凄まじい睨み合いの場面です。 唐門の正面、右(東)側の控柱とその右側を眺めた景色 正面側の木鼻を南から撮ってみました。側面に草花文が彫刻され、正面側を装飾金具で覆った木鼻です。 南面の築地塀の西端です。上掲の東側築地塀の南端と同じ装飾になっています。 唐門の正面東側の側面 外側の装飾彫刻 側面には、唐獅子が彫刻されています。聖域を守護する意味が込められているとか。 唐門正面、前面の控柱の下部に付けられた装飾金具 右(東)側の側面の透かし彫り: 本柱と内側控柱との間の箇所の眺め 扉は桟唐戸の形式です。上部が菱狭間で、円形を浮かび上がらせる幾何学文様がきれいです。 左(西)側の側面の透かし彫り: 本柱と内側控え柱との間の箇所の眺め 門扉の装飾は上記と同じです。 唐門の正面、左(西)側の前面の控柱の周辺 左側の側面、内側の透かし彫りとその周辺 唐門の本柱の左に続く築地塀の側面の装飾彫刻。唐獅子が彫刻されています。それでは、唐門を潜ります。唐門の扉から内側の唐門の景色に移ります。 (小冊子より)つづく参照資料*観覧日に入手の小冊子「世界遺産 元離宮二条城」 京都市*『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社 補遺世界遺産 元離宮二条城 ホームページ二条城 二の丸御殿唐門 :「文化遺産オンライン」「菊」の下に「葵」紋 京都、二条城唐門を公開 2013.8.28 :「日本経済新聞」世界遺産二条城 修復応援プロジェクト~煌めく唐門(からもん)の完成へ!~ :「READYFOR」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 二条城細見 -1 外堀・東南隅櫓・東大手門・番所 へ探訪 京都 二条城細見 -3 唐門 <2> へ探訪 京都 二条城細見 -4 二の丸御殿とその周辺 へ探訪 京都 二条城細見 -5 二の丸庭園 へ探訪 京都 二条城細見 -6 本丸御殿(工事中)・本丸庭園・天守閣跡ほか へ探訪 京都 二条城細見 -7 番外編:本丸御殿(修理工事中)へ探訪 京都 二条城細見 -8 土蔵・西南隅櫓・南中仕切門・桃山門・梅林・桜の園 へ探訪 京都 二条城細見 -9 土蔵・北中仕切門・加茂の七石・清流園 へ探訪 京都 二条城細見 -10 内堀・鳴子門・清流園・北大手門・土蔵・収蔵庫ほか へ探訪 京都 二条城細見 -11 外堀の周囲を巡る へ
2023.10.04
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天気予報が晴れでしたので、何十年ぶりかで二条城を再探訪してきました。二の丸御殿と庭の印象を思い出すくらいなので、今回はできるだけ細見してみたいと思った次第です。地下鉄東西線の二条城前駅で下車し、二条城方向への出口から地上に出ると、押小路通(東西の通り)です。横断歩道を渡れば、二条城は目の前。冒頭の景色は、南側の外堀です。並木の左側が押小路通です。 東南隅櫓二条城のビュースポットの一つ。外堀の四隅には、かつて見張り台として隅櫓が建てられていました。1788(天明8)年の「天明の大火」で多くの櫓が焼失。現在はこの櫓と西南隅櫓が現存するだけです。 東側の外堀の先に、東大手門が見えます。ここが二条城の正面になります。 東からの眺め石垣の隅は「算木積み」で整えられ、石垣は「打込はぎ」という積み方です。1階の中央部が出っ張っているには、石垣面に対しての防御のためでしょうか。石落としとか、矢を射るとか・・・。隅櫓は、普段は武器庫として使われていたそうです。 「東大手門」を東南側から眺めた景色。外堀が石垣で遮断されて東大手門への正面通路が築かれています。 石垣に1箇所、排水口が設けてあります。 東大手門の外堀手前、南側に史蹟碑があります。この史蹟碑は、「二条城」より「旧二條離宮」を強調しています。 この小冊子は、東大手門を入ったところで入手しました。この表紙には、「元離宮」という語句を小さめに冠して「二条城」というタイトルになっています。二条城は、徳川家康が1601(慶長6)年に、西日本の諸大名に築城を命じたことに始まります。天皇の住む京都御所の守護と将軍が上洛した際の宿泊所とするためです。1603(慶長8)年に二条城は完成。当時は、後で訪れる二の丸御殿を中心とする規模だったそうです。現状から見れば小規模の城です。1624(寛永元)年、二代将軍秀忠が、寛永の大改修に着手し、1626(寛永3)年に、本丸・二の丸・天守閣が完成します。この時、現在の二条城の規模になりました。そして、同年9月に後水尾天皇が5日間、二条城に行幸されるという大イベントにつながります。徳川家の天下が京の町衆を始め、世間の人々に知らしめる公の契機となったのです。1867(慶応3)年10月、二の丸御殿で、徳川慶喜の「大政奉還」の意思表明が行われました。二条城は明治維新政府の管轄下に入ります。1868(明治元)1月、現在の内閣にあたる太政官代が、二条城内に置かれたと言います。その後、明治政府は東京に拠点を移します。1884(明治17)年に、二条城は皇室の別邸になります。管轄が宮内省に移され、大修理を経て、「二条離宮」となりました。「旧二條離宮」「元離宮」はここに由来します。1939(昭和14)年、宮内省が二条離宮を京都市に下賜。1940(昭和15)年2月11日から一般公開が始まったのです。1994(平成6)年、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。二条城は東側が堀川通に面しています。東大手門への通路を挟んで外堀の北東側に、二条城観覧のチケット販売所があります。建物側の出札口を経由して、外堀を渡る通路に向かいます。 東側外堀の北方向の景色。石垣の上は樹木が列をなしています。かつては、白壁や櫓が建てられていたことでしょう。徳川の天下になった後の築城とはいえ、やはり当時は白壁に矢狭間や鉄砲狭間は設けられていたのでしょうね。私の単なる推測ですが・・・・。 東大手門の北側の石垣と白亜の土塀。 東大手門正面から眺めた姿。2階が櫓となった櫓門です。二条城の正門にあたります。人の居ない東大手門を撮りたいのですが・・・・無理な話ですね。外国人観光客が多く目にとまりました。団体客もけっこう見かけました。「二条城の正門。築城時からこの場所にあるが、現在の建物は、寛永3年(1626)、天皇をお迎えした行幸に際して建てられ、寬文2年(1662)の改修で今の姿になったと考えられている。一階を門、二階を櫓とすることから櫓門(ヤグラモン)と呼ばれ、二階の櫓は『矢倉』とも書くように本来は武器庫であるが、正面の出格子窓には、門に近づいた敵を真上から攻撃するための『石落し』を備え、攻撃と防御の要となっている。金箔を貼った飾金物は、天皇を迎える正門であるための装飾と思われる。また、天皇をお迎えした時は二階の櫓が無かったことが絵図類で分かっており、天皇が門を通られることを考えて二階は不要と判断したのではないかと推測される。その後、寬文年間の改修で再び櫓が載せられたのは、築城時の姿が正門としてふさわしいとの考えと思われる。」(案内掲示板の説明転記)現在の門は、2017年3月に修理が完成した後の姿です。(資料1) 東大手門への外堀を渡る通路の途中から北方向を眺めた景色。 北側の石垣の隅。精緻な算木積みです。なぜか一番下の石の正面側が、上部と北隣りの石よりも少し凹んでいます。なぜでしょう・・・・・。 大手門の屋根の裏側は垂木や梁などの木造部分が漆喰で塗り固められています。帯状鉄板に鉄鋲が打ち込まれて門柱の表面が保護され、頑丈そのものです。上端と下端は装飾金具で覆ってあります。天皇行幸時に煌びやかさを備えることと併せて柱の上・下端の保護という目的もあるのかなという気がします。大きなお寺の門には普通に見られますので、観察して気づいたのは、石垣の傾斜に併せて斜めに柱が設けてあることです。端の防御も完璧という感じ。 北側の門柱と扉 南側の扉のほぼ全景 南側の柱下部 南側の扉を、城内から眺めた景色です。お寺でよく目にする四脚門・八脚門とは異なり、門柱は一番外側の柱に扉が取り付けてありますので、2階の櫓を支えるために、城内側に2本の柱が見えます。外から見ると、八脚門と同じような形にみえるのですが、内側から見ると、扉を支える門柱の内側には柱の列はありませんので、全体の柱は四脚門風になっています。ただ石垣に沿わせた柱があるので、本数は八脚門になっています。堅牢性と威圧感を抱かせる大手門です。それは考慮に織り込まれていることでしょう。 東大手門を入ると、右側に「番所」があります。「寛永3年(1626)の行幸を描いた寛永行幸絵図のこの位置に番所は描かれているが、現在の建物は、寬文3年(1663)に建てられたことが分かっている。平時の二条城は、幕府から派遣された『二条在番』と呼ばれた武士たちが宿直・警護していた。1組50人の在番が2組常駐し、この番所は彼らの詰所の一つとなっていた。城内にはこの他、唐門前、北大手門前、西門周囲等、計12棟の番所があったが、現在残っているにはここだけである。全国でも番所が現存する城は江戸城や丸亀城等わずかしかなく、貴重な建物である」(案内掲示板の説明転記)二条城は昭和15年(1940)から一般公開されました。この番所は、その受付場所であったり、管理施設や模写室等として改変されて使われたそうです。昭和40年代に現在の姿に復元され、江戸時代の姿に戻されたと言います。「平成29年度には本格的な保存修理工事を終え、令和元年度には、活用方法の見直しによる耐震補強工事及び小修繕を行いました」とのこと(案内掲示板の説明転記)。二条城では修理事業が継続的に行われ、維持管理が行われている様子の一端がうかがえます。 番所の屋根の降棟の鬼板には、徳川家の家紋が陽刻されています。鳥衾(トリフスマ)と軒丸瓦の瓦当(ガトウ)には、よく見かける三頭巴の文が陽刻されています。 東大手門を入った左側にはこの石標があります。 城内から東大手門の2階の櫓を眺めた景色 東大手門の南側の櫓に繋がる建物と櫓への石段です。この建物の石垣は、「切込はぎ布積み」という石垣の積み方で、上の石が下の石に均等にかかる積み方だそうです。石段はかなり急角度です。 ズームアップしてみました。 東大手門から南に連なる土塀を城内から眺めた景色。外堀に沿って白亜の漆喰土塀がきれいに見える景色のところです。城内側は比較的なだらかな傾斜地になっています。 その南に、東南隅櫓があります。 東南隅櫓に向かう石段の手前で、ここも立入禁止になっています。白壁の土塀の内側がどのようになっているかが、わかりやすいと思います。石柱と木材を組み合わせて土塀を支える構造になっています。東南隅櫓から振り返り、北西方向に進みます。「唐門」が見えます。 「二の丸御殿」への出入口になっているのが「唐門」です。この平面図は入手した小冊子から引用しました。城内にも案内図掲示板がありますが、この図が一番わかりやすいと思いますので。続く参照資料*観覧日に入手の小冊子「世界遺産 元離宮二条城」 京都市*『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p295-302*『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 *『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社 1) 「将軍と巡る二条城」 元離宮二条城事務所オリジナルしおり pdfファイル補遺世界遺産 元離宮二条城 ホームページ ガイドマップ寛永行幸絵巻 2巻 :「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」二条城 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 二条城細見 -2 唐門 <1> へ探訪 京都 二条城細見 -3 唐門 <2> へ探訪 京都 二条城細見 -4 二の丸御殿とその周辺 へ探訪 京都 二条城細見 -5 二の丸庭園 へ探訪 京都 二条城細見 -6 本丸御殿(工事中)・本丸庭園・天守閣跡ほか へ探訪 京都 二条城細見 -7 番外編:本丸御殿(修理工事中)へ探訪 京都 二条城細見 -8 土蔵・西南隅櫓・南中仕切門・桃山門・梅林・桜の園 へ探訪 京都 二条城細見 -9 土蔵・北中仕切門・加茂の七石・清流園 へ探訪 京都 二条城細見 -10 内堀・鳴子門・清流園・北大手門・土蔵・収蔵庫ほか へ探訪 京都 二条城細見 -11 外堀の周囲を巡る へ
2023.10.03
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京都市の地下鉄あるいは近鉄京都線の竹田駅で下車して、西口に出ます。 階段を下りると、歩道脇にこれらの案内板があります。 竹田駅の西南一帯は、院政の史跡「鳥羽離宮」が営まれた所です。 400m先 近衛天皇陵・安楽寿院 500m先 鳥羽天皇陵・北向不動院 800m先 白河天王陵 が所在します。 周辺案内の部分図。赤い長方形が現在位置。前の道路は南北方向になります。案内図に青色丸を付けた位置が今回の探訪目的、竹田の火の見櫓です。入手した情報では、現存する3箇所の火の見櫓の3つ目になります。現地を訪れて知ったのですが、火の見櫓の北隣りに「松尾神社」があり、南側は「中央緑地」と称する広場になっています。その南側に七瀬川(黄緑色の丸)が流れています。 歩道を南に進みます。 しばらく歩くと、西方向へ幅の広い道路が伸びています。「新城南宮道」です。竹田駅からは、「城南宮」(茶色の丸のところ)まで1.2km、さらにそこから500m先には、「鳥羽離宮跡公園・秋の山」があります。新城南宮道を右に見ながら、そのまま進むと、 道路は「東高瀬川」を横断します。 左側に竹田児童公園が見え、そのままさらに南進します。松尾神社の前を通り過ぎると、その南側が目的地です。 「竹田の火の見櫓」です。伏見区竹田狩賀町の中央緑地の一隅に所在します。 道路の西側には、「伏見消防団竹田分団 南部班器具庫」、 その南側に、「大慶山 西教寺」(浄土真宗本願寺派)が見えます。 歩道を進み、南側から撮った景色 真南から 火の見櫓の足元に、この案内碑が設置されています。この火の見櫓は、平成18年(2006)3月2日付で国登録有形文化財に指定されています。「竹田火の見やぐらは、京都市の南部に位置し、北は近鉄京都線、東は竹田街道、西は東高瀬川に囲まれた地域の中心部に、大正12(1923)年8月に設立した竹田村消防組織第二支部の装備品として建設され、以後、近隣町内の防火、防災活動に役割を果たしてきた。火の見やぐらは、江戸時代までは木造で作られていたが、近代に至り、製鉄技術の発展に伴って鉄骨造のものが建設されるようになった。しかし、都市環境の変化に伴い、現存するものは少ない。 竹田火の見やぐらは、鉄骨造としては初期の形態を残しており、また、構造部材も当時の国内の製鉄技術を知るうえで、貴重な文化財的建造物であることから、地域住民の保存要望を受けて、中央緑地内に移転、保存したものである。 構造形式 鉄骨造 台形平面 1.395m X 1.340m 高 さ 11.925m 構成部材 柱 山形鋼 (L-75x75x8mm) 横つなぎ材 山形鋼 (L-50x50x6mm) 斜め材 山形鋼 (L-40x40x5mm) 鋼材接合 普通ボルト及びリベット やぐら屋根 木造 塗装 コールタール塗り 平成17年7月 京都市 」(説明転記) 移設前の写真 南東側から 探訪の目的を達しましたので、北隣りの「松尾神社」を訪れてみました。 鳥居の背後に狛犬石像が見えます。 2つめの石鳥居 社殿は参道を左折して3つめの石鳥居の先にあります。 社殿前には、もう一対の狛犬石像が配置されています。 社殿 正面のガラス格子戸越しに拝見すると、室内に本殿が据えられて、その両側に随身椅像が安置されています。御祭神は木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)です。「当社の御鎮座の年代は詳らかではないが、当地を野田村と称せし頃野田村鎮守の神社であった。 伝えによると村の中心で一番高い所(現在地)に祀るようにとのご信託があって、当地に祀られて以来。近在近郷にいたるまで代々の崇敬の念篤く、広く信仰されることとなった。 ご神徳は火の神、水の神、安産の神として崇敬せられ、特に安産の神として、出産の御利益はあらたかで、女性の方々の信仰が篤く参詣の人が多い 松尾神社」(由緒転記) 社殿の唐破風屋根の正面に鬼板が置かれ、破風には、橘の紋章が装飾金具に使われています。 蟇股の意匠はシンプルです。 社殿にむかって、東側には境内社が二社並んでいます。左側は「久利加良辯財天」の扁額を掲げた弁財天社、右側は不詳。両者の中間前方に蝋燭立ての小祠が設けてあります。北東側には神馬像が置かれています。 社殿側から南を眺めた景色。左側の石碑には「忠魂」と刻されています。戦没者供養でしょう。手前の方形の窪みは、お火焚祭(11月18日)の行事が行われる空間のようです。 右側の小祠は地蔵堂でした。顔に化粧を施したお地蔵さまが安置されていました。 小さな池があります。 小規模な神社ですが、神社の参道は一筋東側の通りに出られるようになっています。東側の道路にも、入口に石鳥居があります。コンパクトな境内地ですが、整備された神社です。 火の見櫓は、この「中央緑地」の北東隅に位置します。南側も少し探訪してみました。 東西の道路を挟み、その南側に「七瀬川」(黄緑色の丸のところ)が流れています。川の傍に「七瀬川改修事業」の記念碑が建立されています。 もう一筋東の橋まで歩むと、こんな景色の川になっています。碑文を転記します。「七瀬川は、伏見区深草の大岩山に源を発して淀川一級河川東高瀬川に合流する河川で、東高瀬川合流点からから新谷の橋までの約3kmの区間が一級河川に指定されています。 その名の由来が、『七たびも流れを転じて瀬を作る川』とされるとおり、急激な屈曲を繰り返す七瀬川の線形は、下流の改進地区にたびたび大きな氾濫被害をもたらし、流域の住民を水との闘いの歴史を物語っています。 流域住民の強い要望に基づいて、国・府・市ではその抜本的な地水整備を図るため、平成4年に都市基盤河川改修事業として河道の改修に着手し、平成11年に東高瀬川合流点から国道24号線までの改修を完了しました。 七瀬川の改修には、全国的にも例の少ない上下二層式の河川形式を採用しており、下部のトンネル河川による治水能力の向上と上部河川による水辺空間の形式とを両立させています。 安全で水と緑の豊かな潤いのある生活空間の創造を目指した七瀬川改修事業は、改進地区における総合的なまちづくりと一体となって、地域の生活環境の飛躍的な向上を実現させました。 平成11年6月吉日 」七瀬川沿いの道を東方向に進めば、竹田街道に出ます。ここからだと近鉄京都線の伏見駅に近くなります。距離的な点で眺めると、中央緑地の位置は、近鉄京都線の竹田駅と伏見駅との中間辺りになるようです。これで、京都の火の見櫓とその周辺のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。補遺鳥羽離宮 :ウィキペディア鳥羽離宮 都市史 :「フィールド・ミュージアム京都」城南宮 ホームページ東高瀬川概要 :「京都市」七瀬川概要 :「京都市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市東山区 祇園の火の見櫓と観亀稲荷神社 へ観照&探訪 京都市東山区・下京区 雲・法住寺・京博の特集展示・下京の火の見櫓 へ
2023.09.01
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7月に山鉾巡りに出かけた時、序でに探訪してきた場所のご紹介です。四条大橋から四条通を東(八坂神社の方向)に進みます。川端通から一筋東が縄手通(大和大路通)です。ここで左折して、次の一筋目を右折します。そこは「富永町」。冒頭の情緒ある町家風景が見えます。四条通から一筋北のこの東西の通りは、四条通が混雑していても、昼間は半ば眠っている街並みのようなものですので、人通りが少なくて歩きやすい。通り抜けるのによくこの経路を使います。この通りを東に進みます。北方向への2筋を眺めつつ、3筋目になる花見小路通を東に渡ります。つまり、富永町を通り抜けると、東隣は「祇園町北側」。 道沿いに進むと、北方向へ抜けて行ける最初の筋が見えます。この筋の入口の景色がこれ。東角のビルに「げんすけビル」と表示が出ています。この辺りは、夕刻以降に華やかになる場所ですので、昼間は静かな佇まいです。勿論、営業中のお店は点在します。この通りを北に上り、少し進むとT字路があります。東方向に進む道があり、地図で確認すると「新橋南通」です。新橋南通は東大路通に抜けます。 このT字路、つまり新橋南通の西端から北東側のビルの隣に「観亀稲荷神社」の朱塗りの鳥居が見えす。後で触れます。 新橋南通の西端突きあたりにこの建物が見えます。入口が2つ見ますが、右側が目指す場所への表門です。序でに、左側はスィーツのお店「仁々木 祇園本店」。 南東側から撮った景色開放された門を潜り、中に入ると通路の前方にこの「火の見櫓」が見えます。門前の道路からは、樹木と建物があり火の見櫓は見づらい位置になります。新橋南通を東から西に進んでくると、火の見櫓の上部が見えることと思います。火の見櫓について、たまたまネット検索していて、京都にも火の見櫓があるというブログ記事(火の見櫓図鑑:京都市)に出会いました。それがきっかけで訪れた次第です。祇園という地域は知っているようでいて知らない場所。祇園町北側は今まで八坂神社の方向への通り抜けに利用するくらいでした。祇園町北側の少し奥まった所に火の見櫓や神社があることを知りませんでした。 ここは火の見櫓の周囲に飲食店の建物が並び、その共有の広場、中庭空間になっています。 北の方向に抜けるごく幅の狭い通路がありますので、この広場には北と東からアクセスできることになります。未確認ですが、西に抜ける通路もあるようです。昼間でも結構風情を感じる空間。夜になれば、店々の灯火が入り、華やかな彩りの中でしっとりとした空間になることでしょう。 それでは火の見櫓にフォーカスしましょう。 地上には、屋根付きのこの空間。中央にテーブルが置かれていて、低い柵囲みです。補遺に取り上げたような使い方が行われているそうです。 「樂宴小路」という表示板が見えます。 半鐘が吊り下げてあります。中に分銅が見えますので、半鐘を叩くのではなくて、綱を引っ張って分銅を揺らせて鳴らすという形のようです。祇園町北側は、祇園東部と呼ばれる花街。調べて見ますと、明治維新までここには江州(現滋賀県)膳所の城主本多主膳正の京屋敷があったところです。膳所藩は享保7年(1722)年から洛中火消しを兼務することになり、町の防火用として屋敷内に火の見櫓を建てていたそうです。(資料1,2)明治3年(1870)の廃藩で京屋敷が取り払われた後、青楼が軒を連ねる花街となり、俗に「膳所裏」、祇園乙部、祇園東新地と呼び名が変遷して、今は祇園東部と呼ばれるようになりました。地名は祇園町北側です。(資料1)「ぎおん楽宴小路」は、平成6年(1994) にオープンしたゾーンだそうです。(資料2)この火の見櫓はかつての歴史を踏まえて、いわばシンボルとして建造されたのでしょう。火の見櫓の上部に登る梯子の類いは見当たりません。 「観亀大神」の扁額を朱塗りの鳥居に掲げた「観亀稲荷神社」です。 社殿手前に石の鳥居が立っています。 社殿の手前に狐の石像が配置されています。お稲荷さんの神の使いは狐ですので当然ですね。通常は狛犬一対ですが。狐の耳が特徴的。午前10時過ぎに訪れたせいか、社殿全面にシャッターが降ろされたままでした。情趣を削がれますが、防犯としては仕方がないのかも・・・・・。 石鳥居の左手前に手水鉢が設けてあります。この観亀稲荷神社は、江戸時代に膳所藩が京都の火消を担当した折に、火防(ヒブセ)の神として勧請されたそうです。(資料2,3) 境内からの眺め 南東側からの全景知らなかったスポットをまた一つ、探訪できました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東ー下』 竹村俊則著 駸々堂 p236-2372) ぎおん楽宴小路の火の見櫓@祇園北町・観亀稲荷神社そば。 :「朝は知恩院でラジオ体操!(の気分):by行者橋 渡3) 観亀稲荷神社 :「京都風光」補遺京都市 :「火の見櫓図鑑」いまは忘れられた “ゼゼウラ” は、町の歴史を伝えてくる:「京都発!ふらっとトラベル研究所」京都祇園楽宴小路 「敷居はひくく、こころは熱く」 YouTube「楽宴小路」。祇園北にある安らぎの空間。毎月開催される茶席。立派なお道具で味わう茶の世界 :「ネコのミモロのJAPAN TRAVEL」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2023.08.26
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京阪電車三条駅で下車して、川端沿いに北に向い、御池通を西に向かいます。御池大橋から鴨川の上流側、北方向の景色です。7月17日(月)、熱中症警戒アラートが発令されていました。 御池大橋上から、鴨川の下流側、三条大橋を眺めた景色。山鉾巡行を河原町御池近辺から見物しようと考え、この交差点付近が10時20分頃の予定なので、それに間に合う位で出かけてきました。当初は、適当に場所を移動しながら巡行を眺めようと思っていたのですが、現地に到着して写真の撮りやすそうな場所を探していて、たまたま比較的良い立地を見つけました。河原町御池の北東側です。その結果、巡行の最初から最後まで、同じ位置から今年の前祭山鉾巡行を観覧することができました。定点で最初から最後まで観覧したのは久しぶりでした。 「祇園會」の幟につづいて、「長刀鉾」の幟が先頭を進みます。 長刀鉾は古来より「くじとらず」とされ、前祭の先頭をきる鉾という決まり事になっています。四条麩屋町での注連縄切りは山鉾巡行の始まり報道のハイライトの一つです。その長刀鉾が四条通と御池通の辻に入ってきました。 長刀鉾には、現在唯一の生稚児が鉾の舞台正面に乗っています。従者の稚児二人と共に。 ここから、辻回しの準備が始まります。鉾の車は軸が固定されているために前に回転するだけです。そのため、四条通を北に進み、御池通を西に進むには、この河原町御池の中央寄りで、車輪の下に竹を敷き並べ、竹の表面に水をかけて滑りやすくして、鉾の曳き手が結集して力を合わせ、いわば強引に鉾の向きを変えさせるのです。ほぼ30度くらいずつ、通常3回で、鉾の方向を90度回転させます。これが「辻回し」です。この熟練技と全員一致の引きにより、鉾が向きを変えるきしみと揺らぎ、ぎゅーっと鉾が動く瞬間のパフォーマンスが見せ場の一つになっています。裏方さんの活躍です。鉾の上、舞台では囃子方が変わらずにお囃子を継続しています。 鉾の曳き手が御池通側に移動していることがお解りでしょう。 1回目の辻回しを終えると、すぐに2回目の準備が始まります。車輪と竹の位置関係を次のズラシがうまく浮くように調整配置が行われます。水の供給のため、手提げ桶が行き来します。 回転作業をくり返すたびに、観客からどよめきが起こります。この「辻回し」が終わると、 胴懸は、中国玉取獅子図絨毯、十華図絨毯の復元品が使われています。下水引は緋羅紗地五彩雲麒麟図刺繍で、1755年製作の作品の250年ぶりの復元新調。計画的に全面新調され平成20年度(2008-2009)に新調完了したと言います。(資料1)長刀鉾は正面を御池通に向け、御池通を巡行する大勢に入ります。御池通には観覧席が設けられています。50有余年、祇園祭の山鉾巡行を見続けています。しかし、観覧席から巡行を眺めたことはありませんねえ・・・。 見送は伊藤若冲原画の「旭日鳳凰図」綴織です。若冲生誕300年を迎えた年(2016年)が、長刀鉾保存会設立五十周年であり、それを記念にこの見送が新調されたそうです。(資料2,3) 2番は「山伏山」です。 山は裾幕で下部が隠れていますが、小さめの車輪が付いています。巡行中の直線道路では山を押していく形で巡行しますが、各辻にかかると、担ぎ手が山を持ち上げ、辻のところでくるりと360度山を担いで回って見せます。そのパフォーマンスで、観客は山の四周、全体を眺めることができます。こんな具合です。 見送は龍波濤文様の綴錦。1999(平成11)年に復元新調。 前の水引は桐竹霊獣図刺繍。 側面の水引は養蚕機織図綴錦で、2020(令和2)年に復元新調。 山が回わされはじめると、観客は鉾の辻回し同様に自然と声を発し、どよめきが起こります。この観客の呼応が大きいと、山の担ぎ手も一段力が入ることでしょう。 御池通への向きが整いました。 3番は「白楽天山」です。 河原町御池の辻の手前で待機中。辻に入ると、山を担ぎ上げ、山を回すパフォーマンスの実施です。 観客の興奮が跳ね返ります。 右の胴懸は、18世紀ベルギー製のタペストリー「女狩人」。 見送は山鹿清華作「北京万寿山図」の綴織。 左の胴懸は17世紀のフランドル地方製ゴブラン織「農民の食事」。 1978(昭和53)年にフランスから輸入されたものだとか。 前懸はトロイアの戦争物語毛綴織のを今年(2023)復元新調。 2160年ぶりに新調された。 前水引は西洋唐草文様毛綴織。これも同時の復元新調品。(資料4,5)つづく参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*企画特集「祇園祭」 京都新聞*長刀鉾 :「祇園祭」*山伏山 :「祇園祭」*白楽天山 :「祇園祭」*山鉾の魅力細見 -長刀鉾- :「京都市下京区」*山鉾の魅力細見 -白楽天山- :「京都市下京区」1) 祇園祭・長刀鉾の幕を新調/下水引後面、250年ぶり :「四国新聞社」2) 長刀鉾の装飾品 :「公益財団法人 長刀保存会」3) 祇園祭・長刀鉾の見送を新調 伊藤若冲の「旭日鳳凰図」が原画 :「産経新聞」4) 祇園祭 山鉾「白楽天山」の飾り「前懸」160年ぶりに新調 :「NHK」5) 祇園祭 白楽天山 の 前懸・水引が完成しました 祭礼幕の復元新調 :「KAWASHIMA」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -2 芦刈山・函谷鉾・郭巨山・四条傘鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -3 木賊山・鶏鉾・油天神山・孟宗山・霰天神山 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -4 菊水鉾・保昌山・綾傘鉾・太子山・月鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -5 伯牙山・占出山・放下鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -6 岩戸山・船鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -7 番外編:新町通にて帰路の山鉾を眺める へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 へ 7回のシリーズでご紹介
2023.08.03
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扇形車庫の東端側の順路を進み、旧二条駅舎の背面、つまりホーム側から駅舎内部に入ります。最初に目にとまったのが、冒頭の展示ケースです。「お召列車」と前面上部に表示されています。お召列車は皇室専用の臨時列車です。「鉄道は開業以来、歴代の天皇・皇后の行幸啓に際して、主要な交通手段として用いられてきました」(資料1)というものです。ここには、お召列車を飾ったさまざまなパーツが展示されています。中央の大きな鳳凰図はお召し列車の除煙板に取り付けられた装飾です。左側の上段は、お召し列車用ヘッドマーク(梅小路機関区仕様)、中段はお召し列車用装飾(桐の御紋)、下段はお召し列車用煙室扉ハンドル(梅小路機関区仕様)です。一方、右側の上段は、お召し列車装飾用の菊花紋章、中段はお召し列車用煙室ハンドル(桐の御紋)、下段はこの写真ではわかりづらいですが、仕業札(しぎょうふだ)が展示されています。これは運転室の外側に表示する札で、「御召 梅」「先行」「豫備」という文字札です。「御召」はお召し列車、「梅」は所属機関区である梅小路機関区、「先行」は先行列車、「豫備」は予備機を意味するそうです。(説明より)また、床面の左側には機関車のナンバープレート、中央に説明パネル、右側には、お召し列車用旗棹装飾(梅小路機関区仕様)が展示されています。「梅小路機関区では1928(昭和3)年、昭和天皇の御大礼(即位の礼・大嘗祭)のさいに初めてお召し列車を担当し、その後も東海道本線の全線電化開業時まで数多くのお召し列車を担当しました」(説明パネルより転記)とのこと。 扇形車庫の展示蒸気機関車のご紹介で取り上げましたが、この機関車がお召列車の指定機関車の一機です。車体の前面に菊花紋章が飾ってあります。蒸気機関車のナンバープレートは赤地に金色文字で表示されています。「C51 239」は品川機関区での指定機関車です。展示品中の「C57 79」は「奈良機関区に所属していた1953(昭和28)年から約10年間に何度もお召列車をけん引しましたが、1968(昭和43)年に廃車されました」(説明転記)。その下の「C59 108」は梅小路機関区に配置されていた指定機関車です。その間に「何度もお召列車をけん引したことで有名です。除煙板(デフレクター)には『鳳凰』のマークが取り付けられていました」(説明転記)。 「C11形324号機」(1946/昭和21年3月26日製造、日本車輌)が展示されています。 「一般に”Cのチョンチョン”の愛称を持つこのC11形は、昭和7年(1932年)から昭和22年(1947年)の15年間に381台も量産され、全国のローカル線で大活躍し、小型タンク機関車としての性能にも優れた機関車でした。前進、後進が簡単にできる特性があり、力量感にあるれたスタイルとスピード感をかねそなえた、国鉄時代のタンクロコの代表格といえるでしょう。ここに展示のC11 324は昭和21年(1946年)に製造され、昭和47年(1972年)5月11日に和歌山機関区で廃車のときをむかえるまで日本各地で活躍しました。その後、京都府田辺町(現:京田辺市)の交通公園で静態保存されていましたが、今回この梅小路蒸気機関車館に移設しました」(説明転記) C11形機関車の傍に「投炭練習機」が展示されています。蒸気機関車の窯に石炭を投入する作業を練習するための設備だったようです。形式はD51が使われています。主な展示品はこれくらいです、駅舎内の半分くらいは鉄道グッズや鉄道書籍などを扱うミュージアムショップが設置されています。 旧二条駅舎の外観二条駅は、1897(明治30)年、京都鉄道の二条駅~嵯峨駅間開通に伴って開業した駅です。つまり、もとは二条城の南西側に位置する現JR嵯峨野線の二条駅の辺りにあったのでしょう。京都鉄道は1907(明治40)年に、国に買収され国鉄の一部になります。この建物は、1904(明治37)年6月に建設され、京都鉄道本社社屋を兼ねた初代の駅舎です。現役時代は日本最古級の木造駅舎といわれていたそうです。1996年に二条駅の高架化に伴いこちらに移築されました。1996(平成8)年に京都市指定有形文化財に指定されています。(資料3,4,5) 切妻屋根の玄関口 入母屋造瓦屋根で本体が平入りの二階建、左右対称形で両側には側面(妻)を前面に向けた平屋です。 棟の両端と降棟にはそれぞれ鬼板が見えます。鬼板の中央には民営鉄道として設立された京都鉄道の社章が陽刻されています。(資料3) 旧二条駅舎の正面に向かって右側に、京都鉄道博物館の建物のコンクリート造りの先端部が突出した形で並んでいます。 駅舎玄関の前庭右側には、大きな車輪がモニュメントとして設置されています。 旧二条駅舎の全景を最後にご紹介して、京都鉄道博物館の探訪を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 鉄路を翔けた鳳凰~お召列車と貴賓室~ :「京都鉄道博物館」 2) お召し列車 :ウィキペディア3) 京都鉄道 :ウィキペディア4) 旧二条駅舎(京都鉄道博物館) :「ニッポン旅マガジン」5) 旧二条駅舎 :「京都鉄道博物館」補遺京都鉄道博物館 ホームページ「お召列車」になった車両いろいろ 普段の通勤電車が実は「防弾ガラス仕様」なことも:「ReX」除煙板 :ウィキペディア煙室扉ハンドル YouTube【貴重】48年ぶり!!山北町D52煙室開扉 YouTubeタンク機関車 :ウィキペディア北海道を走り抜けた蒸気機関車 Vol.6 小型タンク機関車「C11」 YouTube国産の国鉄蒸気機関車 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -1 本館へのアプローチ へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -2 本館1階 車両のしくみ (1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -3 本館1階 鉄道のあゆみ (1) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -4 本館1階 鉄道のあゆみ (2) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -5 本館1階 鉄道のあゆみ(3)・しくみ(2)、施設 へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -6 本館2階・3階(スカイテラスからの展望) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -7 梅小路蒸気機関車庫(1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -8 梅小路蒸気機関車庫(2)へ
2023.03.29
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この扇形車庫を前回撮った位置から始めます。南東側から外観を撮った景色です。 少し南方向に移動します。20両の車両を駐留できる扇形車庫の前には、「転車台」の設備があります。このエリアはSLひろばと称されています。今度は扇形車庫の前面を、起点とした壁際の蒸気機関車「C11形64号機」まで戻ります。壁面の反対側の扇形車庫部分が未探訪です。壁面を境に東から西へと車庫を眺めて行きます。こちらのセクションは、運行できる蒸気機関車を駐留させてあるところという印象を持ちました。いわゆる動態保存という形です。こちらには説明パネルの類いを見かけませんでした。少し雰囲気が異なるので、車庫の前面から蒸気機関車を眺めるだけにしました。 最初に見たのがこれです。展示品ではなく実用機だと思います。詳細不詳。ここから順に左側を眺めていきました。 「C57形1号機」(1937/昭和12年製造、川崎車輌)「SLやまぐち号」として活躍する優美なスタイルの旅客用蒸気機関車です。「車両全長:20,280mm、車両全幅:2,936mm、車両全高:3,945mm」(資料1) 「8620形8630号機」(1914/大正3年製造、汽車製造)日本初の量産タイプの旅客用蒸気機関車だそうです。「車両全長:16,765mm、車両全幅:2,614mm、車両全高:3,785mm」(資料1) 「C56形160号機」(1939/昭和14年製造、川崎車輌)1935年から製造された小型の蒸気機関車で、旅客・貨物用で活躍しました。「車両全長:14,325mm、車両全幅:2,936mm、車両全高:3,900mm」(資料1) 左端(西端)は、「7100形7105号機」「義経」号 (1880/明治13年製造)本館の「鉄道のあゆみ」という展示ゾーンに模型が展示されているのは既にご紹介しました。その実物がここにありました。製造所はアメリカのH.K.ポーター社。 「北海道最初の幹線鉄道として建設された幌内鉄道に、アメリカより最初に輸入された機関車です。1号機として「義経」と名付けられました。1952(昭和27)年に鉄道開業80周年を記念して自走可能に復元されました。2014(平成26)年、梅小路運転区100年を記念し、石炭と水で走行可能な状態に復元されました」(資料1)「車両全長:11,600mm、車両全幅:2,133mm、車両全高:3,383mm」(資料1)車庫内で眺めたのはこれだけです。 扇形車庫の西端寄りの屋外の転車台に面した線路上に、この蒸気機関車が駐まっています。 別の位置(東側)から眺めるとこんな位置関係になります。転車台の向こうに蒸気機関車が見え、右側に扇形車庫の西端、左側に「SL第2検修庫」があります。扇形車庫とSL第2検修庫との間の奥に見える建物が京都鉄道博物館の本館です。 扇形車庫の西端前面から眺めた「C61形2号機」です。SL第2検修庫の前面に階段が見えます。これは本館2階との連結デッキになっています。さらに、このSLひろばを眺める展望所の機能も果たしているようです。 扇形車庫の西端から東方向を眺めた景色再び、転車台の周囲を回り込んで、連絡デッキの階段に向かいます。 連絡デッキからの展望扇形車庫の左端の梁から右方向に、10から16までの番号が見えます。番号12の車庫に、旧型客車が見えています。 こちらは番号15から20までの車庫部分です。一方、この連絡デッキから、「SL第2検修庫」の内部で行われている蒸気機関車の検査修繕に特化した作業風景を見学できるようになっています。 この角度からだと、扇形車庫の西端の番号1から17までの車庫が写っています。番号7と8の間に、上掲した車庫内の区切りの壁面が見えます。 改めて「C61形2号機」について。本機は1948(昭和23)年に三菱重工業で製造されました。C61形は自動給炭装置が初めて採用された大型の旅客用蒸気機関車です。「車両全長:20,375mm、車両全幅:2,936mm、車両全高:3,980mm」(資料1)最後に「SLのりば」の方に向かいます。 SLのりばには、「SLスチーム号」が停車していました。 「C62形2号機」(1948/昭和23年製造、日立製作所)日本を代表する旅客用蒸気機関車で、本機は特急『つばめ』で活躍しました。「車両全長:21,475mm、車両全幅:2,936mm、車両全高:3,980mm」(資料1)扇形車庫では、蒸気機関車20両が展示されていますが、そのうち動態保存車両は8両だそうです。そのうち、営業運転車両は3両と言います、(資料1)序でに、扇形車庫の背面・通路側を少しふれておきます。 通路側には、梅小路蒸気機関車庫の縮尺模型や、さまざまな機具類が展示されています。ここの展示品を見るのはスキップしてしまいましたので、写真紹介だけです。それでは、旧二条駅舎に向かいます。順路に沿って行くと、扇形車庫東端の外側を歩くことになります。 ここには「オハフ50形68号車」が設置されており、休憩所の役割を担っています。50系客車と称され、1977年に旧型客車の代替として登場しました。この時、自動ドア装備などの近代化が図られました。オハフ50は北海道を除く全国で普通列車に使用されました。しかし、ディーゼルカーや電車への置き換えにより、一部での使用を除き2001年までに引退したそうです。(資料2) 順路の反対側には、通路脇に車輪がオブジェ風に並べられて、フェンスの役割を兼ねていました。車輪も大小様々あり、なかなかいい眺めです。つづく参照資料1) 展示車両紹介 扇形車庫 :「京都鉄道博物館」2) 国鉄客車 オハフ50形 :「TOMIX」補遺京都鉄道博物館 ホームページ国鉄7100形蒸気機関車 :ウィキペディア国鉄7100形蒸気機関車 :「レイルラボ」国鉄50系客車 :ウィキペディア北海道第1号SL「義経」 京都鉄道博物館で現役<探る見る> YouTube復活運転!7100形蒸気機関車 義経 SLスチーム号 / 梅小路機関区100周年記念セレモニー 2014.10/10 / 京都鉄道博物館 YouTubeSLやまぐち号 タイムスリップ 蒸気機関車の旅 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -1 本館へのアプローチ へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -2 本館1階 車両のしくみ (1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -3 本館1階 鉄道のあゆみ (1) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -4 本館1階 鉄道のあゆみ (2) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -5 本館1階 鉄道のあゆみ(3)・しくみ(2)、施設 へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -6 本館2階・3階(スカイテラスからの展望) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -7 梅小路蒸気機関車庫(1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -9 旧二条駅舎 へ
2023.03.28
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本館を出ると、順路沿いに梅小路蒸気機関車庫に向かいます。これは順路の途中での景色です。生垣の外側に扇形車庫の建物の一部が見え、外灯の左先にみえる瓦屋根の建物が旧二条駅舎です。 車庫の背面から内部へ蒸気機関車庫が弧を描き、扇形であるイメージは伝わることでしょう。 扇形車庫に入ったところでは、まず客車の左右に蒸気機関車が並んでいる景色が見えます。見えるのは各車両の背面です。客車の左隣りには、C621、右側には1080, D511というナンバープレートがそれぞれ見えます。まずは右側方向に車庫の壁際まで車両を眺めて行きました。上掲客車の右隣りの景色を御覧ください。後で気づいたことなのですが、ここには前後に2種の蒸気機関車が縦列に並んでいます。 後側に駐まっているのは、「1070形1080号車」です。記録写真では説明パネルが判読できません。ネット情報を参照しますと、1901年にイギリスのダブス社で製造された蒸気機関車で、日本に135両輸入されたそうです。現存するのはこの一機のみとか。明治34年製造。(資料1,2)車庫の壁際まで行き、蒸気機関車の前面に回りました。前面を最初にご紹介してから、側面や背面を眺める方がやはりわかりやすくイメージしやすいと思いますので、編集してご紹介します。 この区画の端には「C11形64号機」(1935/昭和10年製造)が駐まっています。ローカル線や都市近郊短距離運転用で、旅客・貨物両用の中型タンク式蒸気機関車です。1932~1947年にかけて381両が製造されました。(掲示の説明パネルを参照しながらご紹介していきます。) 背面 「本機は湊町機関区に配置され、関西本線などで使用されたのち、1939(昭和14)年以降は北海道や東北地方で活躍しました。本形式は『シーのチョンチョン』の愛称で親しまれています」(説明転記)ここを起点に右方向に眺めつつ進んで行きます(扇形に沿い時計回りに)。 「9600形9633号機」(1914/大正3年製造)1913~1926年にかけて770両が製造された大正期の量産型蒸気機関車です。 「勾配線区や貨物列車けん引に威力を発揮しました。本機は甲府機関区や富山機関区に配置され、1941(昭和16)年以降は北海道で活躍しました。本形式は『キューロク』『クンロク』『山親爺』の愛称で親しまれています」(説明転記) 「D51形1号車」(1936/昭和11年製造).日本で最も多く製造された蒸気機関車 「1936(昭和11)年から1945(昭和22)年にかけて1115両が製造された。大量の貨物・勾配用蒸気機関車で、愛称の『デゴイチ』は蒸気機関車の代名詞になりました。本機はD51形蒸気機関車のトンプナンバー機(1号機)で、敦賀機関区などに配置され、北陸地方から東北地方にかけて活躍していました。なお、本機を含む初期に製造された95両は、ボイラー上の覆いの形状から『ナメクジ』の愛称もあります」(説明転記) 「B20形10号機」(1946/昭和21年製造) 入換作業用の小型タンク式蒸気機関車戦時中に規格生産された産業用機関車の一種で、第二次世界大戦末期から終戦後にかけて少数が製造されたと言います。(資料3) 本機は、姫路第一機関区に配置され、半年余り大和鉄道に貸し出された後、鹿児島機関区に移動し、1972年に梅小路蒸気機関車館に収められました。「豆タンク」の愛称で親しまれています。(資料3) 旧型客車この車両の説明パネルを見落としていました。ネット情報によれば「オハ4613」です。鋼製塗り屋根が整備されてこの車庫内に展示されたようです。(資料4,5) 「C62形1号機」(1948/昭和23年製造) 日本最大の旅客用蒸気機関車1948年から1949年にかけて49両が製造され、特急列車などのけん引に使用されました。 「ボイラーはD52形蒸気機関車から流用、シリンダーと走行装置はC59形蒸気機関車と同じものを新製、自動給炭装置(メカニカルストーカー)も取り付けられています。本機は広島第二機関区や宮原機関区などに配置され、山陽本線を中心に特急『つばめ』『はと』をはじめ、特急『かもめ』や急行列車などのけん引機として活躍しました。本形式は『シロクニ』の愛称で親しまれています」(説明転記) 「C55形1号機」(1935/昭和10年製造) 大型の旅客用蒸気機関車 C51形の改良機で、1935年から1937年にかけて62両が製造されました。 「スポーク動輪(車軸中心のハブからスポークが放射状に伸びている動輪)を持つパシフィック機(軸配置2C1)では最後の形式になっています。本機は苗穂機関区や小樽築港機関区などに配置され、おもに北海道で活躍しました。本形式は『シゴゴ』の愛称で親しまれています」(説明転記) 「C58形1号機」(1938/昭和13年製造) ローカル線で活躍した客貨両用蒸気機関車 1938年から1947年にかけて427両が製造されました。中型のサイズです。 「支線も走行できるように設計されており、北海道から九州地方までの全国のローカル線で活躍したあと、北海道での最終期には、寝台列車などをけん引しました。本形式は『シゴハチ』の愛称で親しまれています」(説明転記) 「D50形140号機」(1926/大正15年) 大型の貨物用蒸気機関車貨物輸送量の増加にともない、9600形蒸気機関車の後継機として開発され、1923年から1931年にかけて380両が製造されました。 「国産最初のミカド型(軸配置1D1)です。・・・本機は梅小路機関区のほか各地の機関区に配置され、四国を除く全国で活躍し、九州では石炭輸送の機関車としても使用されました。本形式は『デゴマル』の愛称で親しまれています」(説明転記) 「D52型468号機」(1946/昭和21年製造) 日本最大・最強のマンモス蒸気機関車 1943年から1946年にかけて285両製造され、「D51形蒸気機関車の1,000tを上回る1,200tのけん引力を目標に設計されました」(説明転記) 「本機は沼津機関区や姫路機関区、五稜郭機関区に配置され、強力なけん引力を誇る貨物専用機として、設計通りの性能を発揮しました。本形式は『デゴニ』の愛称で親しまれています」(説明転記) 「C51形239号機」(1927/昭和2年製造) おめし列車の専用指定機にもなりました。1919年から1928年にかけて289両が製造された大型旅客用蒸気機関車です。 「1,750mmの大型動輪が初めて採用された機関車で、1930(昭和5)年に運転が開始された特急『つばめ』をけん引したことでも知られています。本機はお召し列車の専用指定機として104回使用されたのち、直江津機関区などに配置され、北信越から東北にかけて活躍してきました。本形式は『シゴイチ』の愛称で親しまれています」(説明転記) 「C53形45号機」(1928/昭和3年製造) 大型の旅客用蒸気機関車 1928年から1930年にかけて97両が製造されました。国産では唯一の3シリンダー機です。 「本機は梅小路機関区や姫路機関区、宮原機関区に配置され、特急列車や普通列車のけん引機として近畿、中国地方で幅広く活躍しました。しかし構造が複雑で保守も困難であり、C59形蒸気機関車の登場によりその役割を終えました。本形式は『シゴサン』の愛称で親しまれています」(説明転記) 「C59形164号機」(1946/昭和21年製造) 特急列車をけん引した大型蒸気機関車 1941年から1947年にかけて173両が製造された最後のパシフィック機(軸配置1D1)です。 「東海道線が全線電化されるまで『つばめ』『はと』『さくら』『かもめ』などの特急列車をけん引し、山陽本線などでも活躍しました。本機は梅小路機関区と糸崎機関区に配置されました。本形式は『シゴク』の愛称で親しまれています」(説明転記) 梅小路蒸気機関車庫の前面を南東側から眺めた景色。扇形車庫であることがよくわかります。 この建造物は、鉄筋コンクリート造扇形車庫(電動天井走行クレーン及び引込線を含む)として、平成16年12月10日、重要文化財に指定登録されています。「梅小路機関車庫は、JR京都駅から約1.5キロメートル西方に位置する。旅客や貨物量の増加等に伴い、京都駅停車場改良工事の一環として、鉄道院西部鉄道管理局の設計、大林組の施工により建設されたもので、大正2年(1913)12月に起工、翌年11月に竣工した。 平面は、転車台を中心にしてほぼ東西に扇形を描く。内部は、機関車駐留場、整備や器械加工を行う器械場、職場に分かれ、20線の引込線を収容する。 当建造物は、小規模な改修工事は行われているが、ほぼ創建当初の状態を保っていて、わが国に現存する最古の鉄筋コンクリート造機関車庫として、鉄道建設史上大変重要である、また、機関車の展示施設、機関士の研修施設として日常公開活用されていることが、その価値をいっそう高めている」(説明転記)次回は扇形車庫内の展示の続きをご紹介します。[付記]京都鉄道博物館ホームページの「フロアマップ」にある「展示車両の配置を見る」をクリックしますと、PDFファイルをダウンロードできます。この配置図を見ますと、2023/3/6に扇形車庫で実際に眺めた配置とは異なっています。時折、配置換えされるのでしょうか・・・この点は不詳。参照資料1) 40年ぶりの梅小路蒸気機関車館 3 1070形 1080号機 :「B767-281のブログ」2) 国鉄6200形蒸気機関車(1070形:1080号機):「観光列車から!日々利用の乗り物まで」3) 国鉄B20形蒸気機関車 :ウィキペディア4) 梅小路機関車館 オハ4613・オハフ3348:「京都鉄道博物館扇形車庫」5) オハ46 13 :「新・たいすんの改造車紹介ブログ」補遺京都鉄道博物館 ホームページ フロアマップ国鉄D51形蒸気機関車 :ウィキペディア「SLの王者」D51形、日本全国を駆け巡った名場面 :「東洋経済 ONLINE」 地域ごとに個性豊かな国民的機関車「デゴイチ」【D51形蒸気機関車】 いわてDC デゴイチ SL D51-498号「SLイーハトーブいわて物語号」「SL銀河ドリーム号」 YouTubeD51 498力走! 釜石線 SL銀河ドリーム号2012 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -1 本館へのアプローチ へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -2 本館1階 車両のしくみ (1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -3 本館1階 鉄道のあゆみ (1) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -4 本館1階 鉄道のあゆみ (2) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -5 本館1階 鉄道のあゆみ(3)・しくみ(2)、施設 へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -6 本館2階・3階(スカイテラスからの展望) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -8 梅小路蒸気機関車庫(2)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -9 旧二条駅舎 へ
2023.03.27
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本館1階に入ると右端(西側)にエスカレータがあります。壁面には車両番号プレートをデザイン的に並べて飾ってあります。 これは本館入口の外壁に掲示されている2階のフロア案内図です。赤丸を追記したところがエスカレーターの設置された場所になります。ここを起点に位置関係を考えていただくとイメージしやすいでしょう。 建物の北東隅に「キッズパーク」が設けてあります。(追記した赤丸:エスカレータの左側) その隣り(水色の部分)には「Ⅴ 運行のしくみ」というテーマのもとで儲けられた「指令所の中をみてみよう」というコーナーです。 複数の列車の運行状況を掌握し、指令を出すセンターの内部が展示されています。 壁面には「指令の種類」を説明したパネルが掲示してあります。輸送指令・旅客指令・運用指令・施設指令・電力指令・信号通信指令という種類があるそうです。指示の内容を説明してあります。詳しくは会場でご覧ください。 指令所の内部展示室の手前、フロアー中央寄りには、「列車を安全に走らせよう」というコーナーがあります。模型列車を実際に走らせてみるというコントロールが体験できるようです。列車をコントロールできるブースがいくつか設置してあります。 指令所の内部展示室の南隣りには、「列車運転シュミレータ」のセクションがあります。ここは有料で列車運転のシュミレーションを体験できるところです。有料のため、内部に入れませんでした。けっこう予約で順番待ちのようでした。 2階フロアーの中央部分は1階からの吹抜け空間になっていて、1階の展示車両の全景を眺めることができます。(上掲フロアー図の黒い長方形・Xマークのところ) 吹抜空間の右側(西側)は、「鉄道ジオラマ」の展示セクションです(緑色のところ)。吹抜空間の反対側(南側)は「Ⅳ 生活と鉄道」というテーマでの展示です(黄色のところ)。 「列車運転シュミレータ」の南隣りは、「関西の鉄道」について、各鉄道の運行列車模型と写真付き説明パネルの展示により、概略説明が行われています。 片方の壁面には、「京都の交通」について、「町を知る」「つながりを知る」「交通を知る」という視点から説明パネルが構成されています。 「通勤・通学のために発達した近距離電車」に光をあて、「関西圏電化区間の移り変わり」を図解説明するとともに、各種電車編成の模型が展示されています。 車両模型の展示とともに、「さまざまな車内広告」を例示している説明パネルが展示されたセクションなどもあります。 一隅に、「オハフ33形客車(再現)」という展示もあります。 「1930年代後半から製造された客車です。2008(平成20)年に解体されていますが、その際に取り外した窓枠や座席等を使って当時の様子を再現しています」(説明文転記) 客車(再現)の隣には、レトロな駅舎の一部も再現されています。それでは3階に進みましょう。3階は各所に設置された階段かエレベータでの移動となります。 本館入口の外壁に掲示されている3階のフロアー案内図です。3階はホール(緑色のところ)と図書資料室(紫色のところ)、通路沿いの壁面の一部が「ギャラリー」として鉄道写真が展示されています。この箇所だけに撮影禁止の表示が出ていました。 通路沿いに設けられた吹抜空間の部分を見下ろせる窓からの景色です。フロアー案内図の水色のところは、3階の屋外になる「スカイテラス」です。テラスの出入口側には休憩所が設けてあります。テラスの先に出ると、 京都市内の東から南東の方向の景色がまず目に飛び込んできます。 建物の南東隅に一番近い箇所からの展望 JRの鉄道線路がすぐ傍の眼下を走っています。 東方向 ズームアップ さらにズームアップ 京都タワーが見えます。 南方向 南東方向には東寺の五重塔が見えます。 東から南東方向をパノラマ合成してみますと、少し歪んでいますがこんな展望が開けています。 スカイテラスの北端側には行きませんでした。こちらにも出入口が設けてあります。北東方向には、東山の山並みが見えます。一番高く見えるところが比叡山だと思います。これで、京都鉄道博物館本館を一通り巡ってきました。細見とは称しながら、見過ごした箇所が多々あることと思います。どこを私が見過ごしているかに気づいていただくためにも、現地現物をご覧ください。本館を出て「梅小路蒸気機関車庫」の見学に参りましょう。つづく補遺京都鉄道博物館 ホームページお客様を意識したチーム力で、安全な列車運行を司る 奥田望 :「Blue Signal」運転指令 :「日本民営鉄道協会」驚異の過密ダイヤを守るJRの心臓部――初公開「東京総合指令室」の秘密に迫る :「YAHOO! JAPAN ニュース」スマホ時代、難しさ増す鉄道指令所 24時間365日、列車を見守るJR東海総合 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -1 本館へのアプローチ へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -2 本館1階 車両のしくみ (1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -3 本館1階 鉄道のあゆみ (1) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -4 本館1階 鉄道のあゆみ (2) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -5 本館1階 鉄道のあゆみ(3)・しくみ(2)、施設 へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -7 梅小路蒸気機関車庫(1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -8 梅小路蒸気機関車庫(2)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -9 旧二条駅舎 へ
2023.03.24
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