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2005/06/09
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アティーシャの「心の訓練 七つの要点」をテキストに使っての私たちのトレーニングにおいての、瞑想とは、何を指しているのか?を定義しておきます。瞑想を習熟するには、瞑想とは何か?ということを、はっきり理解している必要があるからです。私たちのトレーニングでは、瞑想とは、「くつろぎ、判断も評価も下さずに、醒めて気づいている、この三つのそろった態度である」と定義します。この三つがそろっていることを私たちは「瞑想」と呼んでいます。だから「瞑想とは何ですか?」と聞かれると、簡単に「気づくことです」と説明したり、あるいは「リラックスして、良い悪いの判断をせずに、見守ることです」などとよく説明します。ハート瞑想と呼んでいるものは、いろいろなやり方がありますが、第四番目の微細な身体の中心でもあり肉体的には胸の中心あたりに位置するハート・チャクラのさまざまな状態に「気づく」ことです。以下に、Book of Wisdom からの引用ではありませんが、OSHOによる「瞑想の三つの本質」を紹介します。「瞑想の三つの本質瞑想には、それがどのような技法であれ、その中に共通した本質が、いくつかある。その本質的な要素はあらゆる瞑想法に必須なものだ。その第一は、くつろいだ状態だ。マインドと戦わない、マインドに対して統制しない。精神集中をしない、ということだ。第二に、くつろいだ気づきとともに見守ること。何が起こっていようと、妨害することなく。マインドを、静かに、判断も評価もせずに、見守ることだ。くつろぎ、見守り、判断を下さない。これがその三点だ。すると、次第に、ゆっくりと、大いなる静寂が訪れてくる。内側の動きがすべて静まってくる。あなたは存在する。だが、「私が存在する」という感覚はない。純粋なスペースがあるばかりだ。112の瞑想法がある。私は、その瞑想法をすべてについて話したことがある。それらは編成においては異なるが、根底では同じままだ。それは、くつろぎ、見守り、そして判断を下さないという態度だ。」OSHO 新瞑想法入門より
2005/05/16
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「ハートの教えの簡単な要約:五つの力」の二番目の力は、慣れ親しむこと。練習、習熟することです。例えば、ダイナミック瞑想も、最初は筋肉痛になりますが、定期的に続けると楽にやれるようになります。呼吸の仕方もジャンプも、力づくでないリラックスしたやり方でできるようになってきます。それがないと意味がないという「観照」しながらということも、起こるようになってきます。どんな瞑想でもだいたい三週間くらい続けてると、した方が良い感じなので続けられるようになるし、それで三ヶ月くらい続けると人生が確実に変化します。瞑想に関わらず、どうやら21日間というのは、何かが熟成するのに必要な期間なのかもしれません。ダイナミック瞑想などで、瞑想後に起こる痛みについては、この和尚の講話を読んでください。たくさんの瞑想の方法があります。例えば、チャクラ・ブリージング瞑想では、七つのチァクラのエネルギーをシェイクして、七つの異なったエネルギーの窓を開きます。あるいはダークネス瞑想(暗闇を見てくつろぐ瞑想)は、サイレントのスペースの窓を開きます。それぞれのいろいろな瞑想は、いろんな窓を開きます。しかしどの窓を開いても、アウェアネス(気づき)がないと、その景色を見れません。瞑想は、ゆっくりとそのアウェアネス(気づき)を習熟することです。気づきが広がっていくことは、果てしがないので、決して熟練して退屈するということはありません。
2005/05/16
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二番目の力は習熟することだ。自分が本当にやりたいことをやり、ありたいようにありなさい。自分が自分の周りに作り出した形態に応じて人生は生きられる。もしきみが本当は別の誰かになりたいなら、それに習熟することだ。もしギターを弾きたいなら、練習しなさい。踊りたいと思うなら、練習しなさい。何か人生で起こって欲しいことがあるなら、どんどんそれを吸収し、それに反対するすべてを落とすことだ。Osho, The Book of Wisdom
2005/05/16
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●どんなものまでもお腹のなかや頭のなかにしまいこまれているよりは、実際にそれを生きたほうが、それに「気づき」やすいといえます。日本人は、西欧人と違って、表現しなくても内側にあるものに気づく能力がある・・という噂を聞いたこともありますが、ほんとうかなあ、とも思います。もちろん気づきが大きくなれば、表現しなくても内側にあるものに気づくことができます。そして、OSHOは、ダイナミック瞑想など、たくさんの方法を紹介してくれています。カタルシス(発散浄化)のステージで、感情的な発散ばかりしなくても、だれかに命令したり、札束を数えたり、神に祈ったりしてもいいのです。やりたかったことをすべてやってもいいのです。また、通常の意識ではやりたいなんて思ってもみないようなことも、しっかりと第一ステージで呼吸していれば、思いがけない言葉が口から出てきたり、からだが動いたりします。そして、それが内側にあったことに始めて気づくのです。気づけは、否定的なものは消えていき、肯定的なものは育っていくという原則があります。だから、受け容れてトータルにそれになるだけでは、それになるだけですが、そこに気づきがともなえば、ずっとそのままということはありません。例えばダイナミック瞑想などは、最初にたっぷり呼吸をすればするほど、内側にあるものが顕わになります。酸素の少ない部屋にいて、「今何が内側にありますか?」と聞いても、頭がボーとしていて、「別に何も・・」とかしか答えられません。空気をたくさん取り込めば、自分が何を抱えているのかは、よりはっきりします。瞑想のなかでどんな否定的なものも体験し、それに気づいていくほうが、実際の生活のなかで抑圧されていたものを生きるよりも、新しいカルマを生まないので、安全で、誰にも迷惑をかけない方法です。●Osho ダイナミック瞑想 覚醒のための強烈な技法「目は閉じたまま、たえず 意識的で、観照者のままでありつづけましょう。」第1ステージ(10分間)混沌とした呼吸を鼻でします。常に吐く息を強調します。吸う息は、身体が自然に起こすでしょう。呼吸が肺の深くまでとどくようにします。できるだけ、速く、そして、深い呼吸をします。できるだけ速く、深く、さらに、速く、深く、あなたが呼吸そのものになるまで、努力します。身体が自由に動くにまかせ、その動きがさらに、エネルギーを蓄積するのを助けてくれます。エネルギーが、蓄積されて行くのを感じましょう。第2ステージ(10分間)爆発です。投げ出す必要のあるものすべてを表現します。徹底的に狂いましょう。叫び、大声を出し、泣き、ジャンプし、震え、踊り、歌い、笑い、自分自身を発散させましょう。何も抑圧せず、身体を動かしつづけます。起こっている事を、マインドに邪魔させてはいけません。あなたは、意識的に狂い、その観照者にとどまります。第3ステージ(10分間)両腕を高く上げたまま、「フゥッ!フゥッ!フゥッ!」というマントラを大きな声で発しながらジャンプします。踵を確実に地面に当たるようにして、声とともに、息が全部出し尽くされるよう、息を吐き出します。あなたのもっているエネルギーのすべてを投入させ、自分自身を完全に使い尽くします。第4ステージ(15分間)突然の静止<無音>ストップがかかります。あなたが、どんな姿勢をとっていたとしても、そのとき自分がとっていた姿勢で確実に静止してください。動かずに、何もしないで。この突然の静止によって、あなたは、自分の中心へと投げ込まれます。あなたは自分自身のマインドを観るもの、観照者となります。第5ステージ(15分間)祝祭のダンス すべてに対するあなたの感謝を表現しながら、音楽とダンスとともに、祝い喜びましょう。その活力を一日を通して持ち続けましょう(この瞑想のための音楽があります。)
2005/05/15
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セラピー・グループでも、瞑想でも、そしてたぶんどんな場合でも、何があってもそれを許すという受容的な環境があるとものごとの変化・変容のスピードは早いのです。例えば、インドのOSHOコミューンは、私の経験では、そこはとても受容性のある環境でした。集まっている人々が、というだけでなく、そういう空気、雰囲気のある特別な場所でした。ですから、例えばその人のなかの何かのエネルギーがどこかで止まっていたのなら、自然にそれを生きるということが起こっていたように思えます。例えば、子ども時代のどこかで何かのエネルギーが凍っているのならば、自然にそのエネルギーを生きるようになるような不思議な場所でした。OSHOコミューンからの帰り道、ガジュマルの木の蔦でターザンごっこをしながら帰ったことを、いま急に思い出しました。絵描きになりたかったのにならなかった私は、気がついたら毎日、何枚もの絵を描く日々か続いたりもしまた。だから、コミューンでは、セクシャリティーも、パワートリップ(エゴを満たす行為・権力闘争)も、トライハードで努力することも、野心も、欲望も、いわゆる瞑想的でない事柄が百花繚乱で毒々しく花開くことも起きましたが、OSHOと瞑想のおかげで、それを抑圧せずに「目覚めたまま生きる」ことができたぶんだけ、そういったものの変容が、起こりやすい場所でもありました。気づけは、否定的なものは消えていき、肯定的なものは育っていくという原則があります。聞いた話ですが、植物の成長も普通の場所よりもなぜか三倍早くて、植物学者が調査に来たそうです。
2005/05/15
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問題があったとしても、それを変えようとするよりも、少し誇張するというテクニックが、セラピーにはたくさんあります。セラピーも瞑想といっしょで、問題を受け容れるということをベースとしているからです。ハート瞑想の見地に立てば、受け容れることで生き生きとしたエネルギーがやってきて、変容を起こすともいえます。カタルシス(発散浄化)も、内側に在るものに表現を許すことによって、それにエネルギーをあげているということともいえます。問題をなくす、捨てるためではありません。だから、何にがあったとしても、現在そのままの状態でそこにいること。その瞬間にいることが大切です。もしエネルギーが凍っていたら、凍ったままでいること。それは、ただハートにいればいいということです。というよりも、そのままでいたらハートがやってくる、というほうが正確な表現かもしれません。そこにあることを許すということ。例えば傷みがあったとしても、それを許せば、エネルギーは流れだし、全体的になります。それが「もしあなたがアスホールならアスホールであることを許し、そしてアスホールネスになる。」ということです。これはまた、ほとんどのセラピーの基本でもあります。「マイトリー(慈):心理療法と瞑想の共通基盤」(ジョン・ウェルウッド)心理療法や瞑想はいずれも多くの発達段階を人に通過させるが、わたしはそれらが重なり合う最大の点は、仏教でマイトリー「自分自身に対する無条件な友情」として知られるものを育むことに手を貸すことだとみなしている。普通、われわれが人々(や自分自身の一部)と親しくなるのは、彼ら(あるいはそれら)がある意味で楽しかったり、賞賛に値するからである。マイトリーとは、いかなる意味でも条件がつかない、自分自身との友情を指す。それは自分の経験に対して、必ずしも楽しいからという理由によってではなく、(実際に、その経験は苦痛であったり、楽しくなかったりすることもありうる)単に、自分が経験しているものだからという理由で友好的になることを意味する。マイトリーとは、われわれがこうすべきだと思っているやり方に従って暮らそうとすることではなく、自分自身を無条件に受け入れ、自分が人間であることを全面的に認めることを指す。(ジョン・ウェルウッド)
2005/05/15
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セラピー的には、何があったとしても、それをなくそうとせずに、どうせ変えるなら、少し大げさに誇張するぐらいの方がプロセスが進みます。●「第一歩として、症状を受け入れ、余裕を与え、それまでさげすんできた症状と呼ばれる不愉快感に親しむことである。自覚をもって症状にふれ、できるかぎり心を開いて受け入れなければならない。これは自分自身が落ち込んだり、不安になったり、飽き飽きしたり、傷ついたり、困惑したりすることを許してやることを意味する。かつてあらゆる方法で抵抗してきたそれらの感覚の浮上を受け容れるのである。いや積極的にそれを推進するのだ。症状を招き入れて自由な動きと呼吸を許し、それをそのままの形で自覚しておくのである。これがセラピーの簡単な一歩であり、多くの場合、これで充分である。症状を本当に受け容れたとたん、その症状に隠されている影の大部分もまた受け容れるからである。そうなると、問題は消え去っていく。」●「第一は問題に関連した筋肉をさらに硬直させ、圧力や緊張をこいに高めることである。」(以上 いずれもケン・ウィルバー著 「無境界」より)ところで話は違いますが、よしもとばななが究極のラブ・ストーリーと呼んでいたケン・ウィルバーとその妻トレヤの闘病記「グレース・アンド・グリッド」のなかで、たしかトレヤは、痛みをハートに吸い込むといういわゆるOSHOの世界ではアティーシャ瞑想と呼ばれているトンレンをしていたように記憶しているのですが、これはほんとうにトータルなら愛の物語でした。「グレース&グリット―愛と魂の軌跡 春秋社」以下出版社からの内容紹介トランスパーソナル心理学の天才的理論家として彗星のように登場し、一世を風靡したケン・ウィルバーが、ようやく出会った理想の女性トレヤ。触れ合ったとたん恋に落ち、たちまち結婚した二人を待ち受けていたのは、トレヤの悪性の乳ガンと、悪夢のような闘病生活だった。5年後の彼女の死にいたるまでの愛と葛藤、女性としてのめざめ、さまざまなガン療法、介護のあり方、そして死の受容と超越が、トレヤの手記とケンの文章によって、息詰まるほどの生々しさで語られる、究極のラブ・ストーリー。
2005/05/14
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しかし、「何をするにせよ、強烈に、最高のところまでやり、お粗末にならず、怠けず、部分的ではなく、全身全霊でその中に入りこみ、完全な没頭が起こるにまかせる」ということは、体力を使うことだなあ、と思う人もいるかもしれませんが、体力なく、ベットから起きれなくて、寝たきりのように落ち込んでいるのなら、「強烈に、最高に、お粗末にならずに、怠けず、部分的ではなく、全身全霊でその中に入りこみ」その落ち込みに「完全に没頭」すればいいと私は考えます。「あなたがもしアスホール(尻の穴=ひどい奴の意)ならアスホールネス(ホールネス=全体性、つまりまるごとひどい奴)になりなさい」と変容の錬金術の先生のワドゥドゥが、めずらしくジョークをいったことを聞いたことがあります。「私は死んでるみたいです。」という人にOSHOが、「それだったら、死んでいなさい。時々、道で立ち止まったり、ベットで倒れて死んだように横たわっていなさい。」といっているのを読んだこともあります。どんな状態であれ、それとひとつになり分裂していないこと。それがトータリティーだと私は思います。しかし、落ち込んでいるときにほんとうに落ち込むためのエネルギーすら、私たちはけちります。
2005/05/14
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「何をするにせよ、強烈に、最高のところまでやりなさい。お粗末になってはいけない、怠けてはいけない、部分的ではいけない。全身全霊でその中に入りこみ、完全な没頭が起こるにまかせなさい。もし踊るなら、踊り手が消え、ただダンスだけが残るほどに、全一に踊りなさい。そして、それは変容となるだろう。もし愛するなら、全一に愛しなさい。あまりに全一で、愛する人が見あたらないほどに。愛する人が見いだされるのは、何かを押しとどめている時だけだ。あなたが押しとどめているものが、愛する人となる。もし何かを押しとどめているなら、その押しとどめているものが踊り手となり、歌い手となる。もしあなたが、ダンスの中、歌の中、愛の中に全一にいるなら、『私が愛する人だ、私が踊り手だ』と言うような誰が残っているだろう? 何も残ってはいない。 そして、全一であることは変容させる。ひとは、100度の強烈さにおいてのみ、物質性から精神性へ、大地から空へ、凡庸から非凡へと、蒸発する」Osho, The Book of Wisdom
2005/05/14
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強烈さ、生き生きすること、表現すること、それらは変容に必要な材料です。材料であって、それ自体が変容そのものとは違うのですが、まずは凍った氷のようになっているエネルギーが、水のように流れ出す必要があります。ワドゥダは、その水が、水蒸気になって、上に登って、ハート・チャクラを開く、といっていました。だから「どうか、エネルギーを惜しまずに、まずたくさんハートに呼吸をしてください」と彼女は、よくグループでいいます。私はその言いつけを守って、ハートに手を当てて、その胸のあたりに起こっていることに気づく瞑想(感じることを通してハートを開くという基本的なハート瞑想)をする前には、1kgのダンベルを両手に持って、手を大きく振り上げ、振り下げ、たっぷりと胸に呼吸をして、エネルギーを動かしてから行うようにしています。その方が、ただ手を当てて感じるよりも、胸のあたりで起こっていることが、生き生きとしているので、気づきやすいのです。居心地の良い感じも、そして居心地の悪い感じも、よりはっきりします。だから人は、呼吸をして、生き生きしたくないのかもしれません。しかし、時間がなくてただ静かに座るだけの瞑想をする場合でも、なるべくその前にほんの少しでも体をシェイクさせたり、少しダンスしたりしてから座ります。思考や感情、感覚、肉体、そして肉体の周りを取り巻く微細な身体(オーラ)やチャクラの隅々まで、気づくには、生き生きとしたエネルギーが必要なのです。例えば、ユニオミスティー・オイルやオーラソーマのポマンダーやクイント・エッセンスを使うときも、その前にエネルギーを動かしておけば、より微細な動きに気づくことができます。
2005/05/13
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ソーシャル・ネットワークの1000人目のキリ番を踏んだ人は、私の岩手の友人のプラヤスでした。私は彼とパートナーのプラダが大好きです。二人は昨年、カイラス/カン・リンポチェ巡礼に行ってきました。彼の了解を得て、アティーシャゆかりのお寺についての記事と写真を、ここに転載させいもらいます。写真だけ見ると、これはアメリカのセドナと見間違う風景ですね。 「アリ(阿里)地区ツァンダ(札達)県のトリン寺はチベットで最も古いお寺の一つとして知られている。しかし文革中にまともな仏像は一体も残らないくらい寺は徹底的に破壊されており、復興されるまで家畜小屋にされていたようだ。 仏塔も500以上あったようだが、サトレジ河の氾濫が続き大部分が失われている。何の対策も講じなければ、ここまま河の浸食により残りの仏塔も失ってしまうに違いない。いまトリン寺は危機に瀕している。 トリン寺はアティーシャ(阿底峡)が1042~44年に滞在して『菩提道燈論』を著した古刹だったが実際に訪れてみるとトリン寺のあまりにも破壊のひどさに涙を禁じ得なかった。 1024年ころグゲ国王イーシェ・ウーが戦争中に捕虜になり、莫大な身代金を要求されたが、国王は「自分の命はいらないからこの身代金をインドから高僧を招くように」と伝えて亡くなったと言う。 グゲ国王チャンチャヴ・ウーは莫大な黄金をインドのヴィクラマシラ寺院におくり1040年、61歳のアティーシャをトリン寺に迎えた。その後サムイェ寺に滞在後、1054年73歳でラサの東方ニェタンで入滅した。アティーシャはインド人だったがチベット密教に与えた影響は大きい。」 (プラヤス記)
2005/05/13
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その「強烈さの先生」のようなスッダのグループで、文字通りブットンだ私は、インドに行って、彼女の先生であるOSHOに、会いたくて会いたくてたまらなくなりました。当時は瞑想について何かわかっていたわけでもなく、とにかく生き生きとした強烈なエネルギーを生きること、それが瞑想のすべてだと思っていました。それでも私は、そのOSHOに始めて出会ってのハネムーンのなかにいたので、もうほんとうにノリノリの生き生きした毎日でした。一応瞑想も、それから何ヶ月か後に、インドのプーナのOSHOコミューンに行くまでの間、私は毎日、家の狭い台所でマンダラ・メディテーションという激しい瞑想をしました。それは、十五分間の「その場走り」から始まる一時間の瞑想で、とても強烈なものです。生き生きしたエネルギーを第三の眼にもたらし、沈黙を深める素晴らしい瞑想です。しかし、その頃の私にとっては、とにかくインドに辿り着きたい私の気持ちを表しているような意味で、その瞑想が大好きでした。そして何よりもそれをすると生き生きするのです。それは強烈に、トータルにやればやるほど起こります。いやいややっても筋肉痛になるだけのものです。私は、壁に貼ったOSHOの写真を見ながら、汗だくになって走りました。強烈に走れば走るほど、インドとOSHOが近づくかのようでした。ただインドに行くとだけ決めて、後はこんな瞑想を毎日する日々でした。数ヵ月後、片道切符でインドに行きました。それは変容の錬金術の旅の始まりでした。変容の旅ということは、まず内側にある卑金属気づくことから始まるということだとは、まだあまりわかっていなかったので、とにかく希望に燃えての出発でした。トータリティーは変容させる。人が、物質からスピリチュアルへ、地上から大空へ、ありふれていることから並外れたことへと蒸発するのは、100℃の強烈さにおける時だけだ。OSHO:BOOK OF WISDOMOsho マンダラ メディテーションTM 第1ステージ 15分間目を開けたまま、その場で駆け足をします。ゆっくりと走りはじめ、序々に速さを増していきます。ひざをできるかぎり高く上げましょう。深く規則的な呼吸が、エネルギーを内側に向かわせるでしょう。頭を忘れ、身体を忘れて、続けましょう。第2ステージ 15分間目を閉じて坐ります。口は力を抜いて軽く開きます。風に吹かれてそよぐ葦のように、身体を腰から穏やかにまわします。風が左右から、前後から、いたるところからあなたに吹いているのを感じましょう。これによって、目覚めたエネルギーが、へそのセンターへと導かれます。第3ステージ 15分間仰向けに横たわって目を開き、頭を動かさないようにして、目を時計まわりに回転させます。巨大な時計の秒針を追っているかのように、それもできるだけはやく、できるだけ大きく回します。大切な点は、口をあけたままにし、あごはくつろいだまま、柔らかく規則的に呼吸することです。これによって、中心に集まったエネルギーが第三の目に導かれます。第4ステージ 15分間目を閉じて、静止しています。
2005/05/13
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スッダが、私をこの旅に導いてくれたので、彼女は私の恩人です。そのスッダという人は、例えば、一緒に買い物をしたりするだけでも、こちらがへとへとになってしまうほど、トータリティーのある人です。子どものように、エネルギーをケチらずに、何も抑えずに、彼女は買い物に没頭します。来日時に、ハーバーランドに買い物に行って、遊園地のグルグル回るブランコのような機械の乗って、「手を離してバンザイ」をいっしょにしました。それは、その当時、にっちもさっちもいかない関係性にしがみついていた私に「手放し」の快感を教える彼女のなりの強烈な方法でした。彼女は人生にまったく手抜きをしません。セラピストとしても、仕事が終われば、それがおしまいになるわけでなく、そうやって困っている私に、夜中までつきあってくれました。といっても決して聖人のようにではなく、もう年だから「フー、フー」いいながら、彼女は人生を百パーセント、楽しんでいました。私にとっては彼女は、インナーチャイルド・セラピーの先生でもありますが、強烈であること、トータルであることの先生でもあります。
2005/05/12
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最初の力は、強烈さ、トータリティーだ。ケチになってはいけない。面倒くさがってはいけない。部分的ではいけない。ダンスするなら、ダンサーが消えうせ、ダンスだけが残るほど全身全霊でダンスしなさい。するとそれは変容になるだろう。OSHO:BOOK OF WISDOM四十分間、踊りのなかにトータルに巻き込まれるという「OSHOナタラジ瞑想」というものがあります。ほんとうに全身全霊でダンスできた時は、その後の沈黙は、すばらしく深まります。私は東京のOSHOイアという今はもうなくなった瞑想センターで、始めてこの瞑想をしたとき、終わったらなぜか、声を上げてオンオン泣いた憶えがあります。それは歓喜の涙でした。それはちょうど私が、OSHOに弟子入り(サニヤス)しようとコミットしたころのことです。その直前に、マ・ヨガ・スッダという黒人の有名なセラピストのグループを受けて、その時にも、「これが最後の、死ぬ前の踊りだと思って踊りなさい」といわれて、アフリカン・ダンスのリズムで四十分間踊るというナタラジ瞑想をしたこともよく憶えています。私はもうほんとうに狂ったように踊りました。瞑想が終わって、汗だくになって放心状態でしたが、目を開けたらスッダが立っていて、私を黙って抱きしめてくれました。とにかくわたしはその時は、ほんとうにトータルだったと思います。だからスッダは私を祝福してくれたのでしょう。ナタラジ瞑想のやり方第1ステージ:40分間目を閉じ、とりつかれたかのように踊ります。無意識の層が、完全に自分をのっとるのを許します。動きをコントロールせず、起こっていることの傍観者であってもいけません。踊りの中に、全面的に入り込みましょう。第2ステージ:20分間目を閉じたまま、直ちに横たわります。そして、沈黙のうちに静止しています。第3ステージ:5分間祝福のうちに踊り、楽しみましょう。(特にこの瞑想のために作られた音楽があります)
2005/05/12
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最初の力はトータリティー、強烈さだ。もしきみが本当に人生を変容させたいと望むなら、本当に自分自身への光になりたいと、本当に存在の究極の神秘と生きていることの究極の喜びを知りたいと望むなら、その時には最初の力は、強烈さ、トータリティーだ。ケチになってはいけない。面倒くさがってはいけない。部分的ではいけない。OSHO:BOOK OF WISDOMと、OSHOは、「ハート教えの簡単な要約:五つの力」の一番目について語ります。ダンスするなら、ダンサーが消えうせ、ダンスだけが残るほど全身全霊でダンスしなさい。するとそれは変容になるだろう。愛するなら、愛する人が見出せないほど全身全霊で愛しなさい。きみが抑えている分が「愛する人」になる。もし抑えるなら、抑えているそれはダンサー、歌手になる。もしきみが完全にダンスの中に、歌の中に、愛の中にいるなら、背後に「私が恋人だ。私が歌手だ。」と言う誰かが残されるだろうか?誰も残されない。OSHO:BOOK OF WISDOMチベットのアティーシャからの千年前からの、変容のためのインストラクションは、まず「強烈で、トータルでありなさい」ということのようです。
2005/05/12
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●Aさんから質問があったので、必要を感じることをここに書きます。●「心の訓練に関する七つの要点」の作者は、私たちの調べた限りでは、「ゲシュー・チェカワ・イェシェー・ドルジェ」(1101-1175)です。しかしチェカワは、アティーシャの弟子で、アテイーシャの教えを、短いフレーズとして書き表した作品なので、私たちはそれを「アティーシャの心の訓練 七つの要点」と呼ぶことにしました。●そして、ケン・マックロードによる「光明への直接の道」のなかのフレーズを取り上げてのOSHO(ラジニーシ)の講話「ブック・オブ・ウィズダム」をソース・テキストにして、実際のトレーニングと、このホームページはあります。●「心の訓練に関する七つの要点」は、日本語では、「ダライ・ラマ 他者とともに生きる」春秋社「ギャルツェン・ゴンタ チベット密教 心の修行」法蔵館「ペマ・チョドロン チベットの生きる魔法 はまの出版」などの本がそれについて書かれたものです。●英語では、トゥルンパなどたくさんのフレーズについての解説があり、それらも少しずつ翻訳して、参考にはしていますが、実はいずれの本も(日本語の本も英語の作品も)あまりにもOSHOが「ブック・オブ・ウィズダム」のなかで、「心の訓練 七つの要点」について語っている内容とは、驚くほど違っています。●またフレーズ自体も、チベット語から英語に翻訳される時点で、変化しているのか、それぞれの著者によって、違っています。(例えば、ある本は「牡牛の荷物を牝牛に乗せるな」だし、ある本は「馬の荷物をポニーに乗せるな」だし、またある本には「水牛の荷物を牛に乗せるな」とあります)そして、そのフレーズは何を言っているのかの解説も、それぞれが違うのです。●私たちの関心は、OSHOが「ブック・オブ・ウィズダム」で語っている内容です。●その内容から、そこで使われているフレーズを解釈すると、まるでOSHOが「変容への科学マニュアル」と呼ぶように、私たちには、瞑想の行程を最初から最後まで歩くための具体的な指示のように、その短いフレーズが解読できます。例え「牡牛の荷物を牝牛に乗せるな」でもです。●長い間、古今東西の成長のワークを学んできた私たちにとっては、今まで歩いてきた道と、今現在、歩いている道と、これから歩いてみたい道筋が、「暗号」によって示されているように感じれます。●探求の道の上で、何を大切にしたらいいのか、どんな落とし穴に気をつけるべきなのか?など、たくさんの知恵が示されているように感じます。●またハート瞑想を探求してきた私たちにとっては、具体的に、ハート瞑想を深めていくための指示としても読めるのです。欧米では多くのセラピストが、この講話を変容のための教科書のように大切にしています。●それに自分が選んだ生き方とはいえ、良いことばかりが起こるわけではない身の上なので、どんな逆境も瞑想に転化する道を歩むことは、私たちにとってはとても役に立ちます。●だから、この短い指示のフレーズを誰が作ったのかは、私たちは、そんなに関心がありません。実をいえば、OSHOによるアティーシャの解説は、OSHOがアティーシャの口を借りているのか、アティーシャがOSHOの口を借りているのか、どちらか私たちにはわからないぐらいです。●「ブック・オブ・ウィズダム」のなかで、OSHOは「アティーシャがこれを書い た時は・・・」などと、歴史的には間違ったことも言っています。しかし、、また例えば、アティーシャの師を「セルリンパ」と普通は呼ぶのが習わしですが、OSHOは彼を「ダルマキルティー」と、余り知られていない下の名前で呼んだりして、驚かされます。●OSHO以外の作者のものでは、ペマ・チョドロンと彼女の師のチョギヤム・ トゥルンパからは、「心の訓練 七つの要点」についての学べるものは学びたい と思っています。●アティーシャは、直接に「心の訓練に関する七つの要点」を書き残したわけで はないので、彼の著書「菩提道燈論」などの研究よりも、私たちにとっての原書(原典)は、OSHOの「ブック・オブ・ウィズダム」です。●その講話のなかでも、それを翻訳しながら、私たち自身が今までの瞑想の体験から理解できるものを、縁のある人に分かちあい、この短いフレーズの指し示すものを、実際の人生のなかで生きてみる実験をしています。そして、その実験をやってみたい人が、きっかけになるようにトレーニングを組み立てています。●また、その実験のなかからOSHOの解説がほんとうに正しいのかどうか?を共に探求する仲間を募っています。●チェカワ師が「心の訓練 七つの要点」としてまとめるまでは、長い間、秘密 の口伝とされてきたこのアティーシャからのこのインストラクションは、まずそ の意味することを経験することが大切であると私たちは考えるので、フレーズの みをコトバとして紹介することには、私たちはそんなに興味はありません。だから、このホームページの主な目的は、実際のトレーニングの補足説明として です。ですから、トレーニングの参加者でない方には、わかりにく内容の時もあ るかもしれません。●トレーニングは、今のところ、いつからでも参加できます。●しかし「The Book of Wisdom」は質疑応答以外は、ほぼ翻 訳しましたので、いつになるかわかりませんが完訳すれば、出版したいとも計画 しています。●「心の訓練に関する七つの要点」とは直接関係はありませんが、私たちがトレ ーニングの参加者の方にお勧めするOSHO以外の本は、いまのところ、いわゆ るチベット仏教の本ではなく、「シャンバラ 勇者の道 チョギョム・トゥルンパ めるくまーる」「心の治癒力 チベット仏教の叡智 トゥルク・トンドゥッブ 地湧社」「すべてがうまくいかないとき チベット密教からのアドバイス ペマ・チュードゥン めるくまーる」「チベットの生と死の書 ソギャル・リンポチェ 講談社」「悟りをひらくと人生はシンプルで楽になる エックハルト・トール 徳間書店」 などです。●OSHOの本は、どんなものもお勧めですが、瞑想については特に「新瞑想法入門 OSHO 市民出版社」がお勧めです。ハート瞑想については、「源泉への道 ヴィギャン・ヴァイラブ・タントラ 第 二巻 OSHO 市民出版社」がお勧めです。●なぜ私たちにとってハート瞑想が大切であるかは、私たちの瞑想の先生のひと りであるマ・デヴァ・ワドゥダの論文「瞑想による変容のプロセス」をお読みください。大変参考になります。またVIJAYの日記のフリーページをお読みください。OSHOについては知りたい方は、OSHO.COM がとても充実した内容で す。●トレーニングとこのホームページで瞑想と呼ぶものは、伝統的なチベット仏教 での、思いめぐらしたり(熟考したり)、視覚化したりする方法のことではな く、シンプルに「気づくこと」「見ること」「目撃すること」を指しています。リラックスして、良い悪いの判断なく、見守ることを私たちは「瞑想」のテクニ ックとしています。(フレーズのなかには、目撃するものを目撃するという項目もありますが)●トレーニングやこのホームページで紹介するフレーズは、「ブック・オブ・ウィズダム」でOSHOが使ったものです。またフレーズだけではわかりにくいので、私たちが簡単に、いまふうに、言いか えれるものは言い換えて紹介したり、トレーニングの参加者とも一緒に役立つも のを作り出したいとも思っています。 MYSTIC UNION
2005/05/11
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親しい人との関係を深めるにも、第一の力「トータルなエネルギー。コミットメント。」は必要です。愛するなら、愛する人が見出せないほど全身全霊で愛しなさい。きみが抑えている分が「愛する人」になる。もしきみが完全に、愛の中にいるなら、背後に「私が恋人だ。」と言う誰かが残されるだろうか?誰も残されない。OSHO:BOOK OF WISDOM自分と違うことを考えたり感じたりするもうひとりの人間に「慣れ親しむ」第2の力も必要です。「否定的性をハートに吸収して変容し、肯定性を育てる」第3の力があれば、問題や障害も乗り越えていけます。関係性が「エゴ・トリップ(エゴを満たす行為)にならないように気づく」第4の力を育むには、お互いが瞑想をする必要があるでしょう。良いことが起こったら、それをお互いのために「分かち合う」第5の力があれば、いまここがパラダイスとなります。
2005/05/11
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例えば、仕事を充実させるには、第1の力:トータリティーとコミットメントが必要です。第2の力:持続的に慣れ親しんで熟練しないと楽しめません。第3の力:問題が発生しても、それを無視しないで受け入れ、変容させれたら、問題からより良いものが育ちます。第4の力:そして、エゴイスティックに利害のみを追求していないか気をつけます。第5の力:利益があれば、ためこまず社会に還元します。もし、そうできたら、どんな仕事も仏教修行になるかもしれません。
2005/05/10
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仏教用語では、これらの五つのパワーを、例えばダライ・ラマは、1.決意(意思)の力、2.習熟・慣れ親しむ力、 3.善根の力、4.対治の力、5.廻向と祈りの力とそれを呼んでいます。この五つの力は、生涯にわたって仏教を実践する方法に関わっていると、ダライ・ラマは「他者とともに生きる」という本のなかで述べていますが、私は、仏教に関わらず、より良く生きようと願う人には、仏教徒に関わらず、必要な五つの力だと考えます。私たちが、自分の人生でエネルギーを注いでいること、それが仕事であれ、家庭であれ、恋人との関係であれ、何か創造的なことであれ、そしてもちろん仏教に関わらずどんな瞑想や成長のためのワークであれ、それを深め、前に進ませる力だと思います。
2005/05/10
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その反対のものを育てようとしないこと。ただ、自分の気づき全体をそこに注ぎ込むように。大きな気づきの焚き火を作りなさい。そうすればそれは燃えるだろう。(OSHO BOOK OF WISDOM)「パワー不足の時って、どうやってそのパワーをアップしたらいいんですか?」とターコイスさんが質問をしてくれましたが、私の場合だったらどうするか、ということを書いてみます。例えば、私が「習熟する力」が不足してることを知ったとします。まず素直に「よっしゃ!少しずつでも習熟することを育てよう。」とします。それが無理な努力でなく、理解してやりたいのなら、やることを試みます。でもそんな気が起こらなかったりした時は、それを受け容れます。そして、具体的に根気がなかったり、いい加減だったりするときに、それに気づくようにします。それに気づいたのなら、何故その力が不足しているのか?と分析したり考えたりしません。考えても千とひとつの理由が見つかるだけです。きっと何かの因縁のせいでしょう。考えることにエネルギー使うよりも、具体的に「習熟するパワーが不足している時」に、そのことに気づくようにします。そして、気づいたときは、「いい加減」「いい加減」とか、「根気がない」「根気がない」とか、心の中でつぶやきます。それを批判せずに、ただ受け容れます。それを変えようとはしません。ただ気づいて、それをそのままにしておきます。時には、「強烈さの力」を使って、「もう嫌だ!」とか「何もしたくない!」とか、叫んでみたりして、それをなくすのでなく、わざと大きく誇張して、エネルギーを動かして、よりはっきりさせます。そして「いい加減」だったり「根気がないこと」を誰かのせいや何かのせい(例えば親のせいやカルマのせい)にせずに、その責任をとるようにします。それが引き起こす否定的な感情があれば、それもハートに受け容れて、それを感じます。ふつうは例えば「習熟する力」がないと気づいたら、それを持つように努力したいと思うものですが、私なら、その努力に使うエネルギーを使って、「いい加減さ」や「根気のなさ」に気づくことにふりむけます。そうやって気づいて受け容れることで、変容する必要があるものは、自ずから変容するという道に、コミットしているからです。しかしまたセラピー的な手法を使うことも、時にはためらいません。例えば「スリー・イン・ワン・キネシオロジー」のテクニックを使って、自分にはどのパワーが不足しているかを筋肉反射テストで特定して、そのパワーに対する否定的な感情の負荷を軽くすれば、助けになるだろうな、とさっき思いつきました。もしそのパワーを、もともと持っていて、条件付けや信じ込みのせいで、それを使えないのなら、それらを解除するのに役立つ方法です。これは変えるためのすばらしいセラピー・テクニックのひとつです。しかし、「変容は可能だ。だが、それを欲することによってではない。変容は、何であれあるがままにくつろぐことによってだけ可能となる。無条件に自分自身を受け容れることが、変容をもたらす。」という私がとても大切にしているOSHOのことばがあります。もし「いい加減さ」や「根気のなさ」を消滅させるのでなく、そのエネルギーをもっと肯定的な質に(例えば「リラックス」とかに)変容したいのなら、最初のステップはそれを受け容れ、そのままにしておくことです。アティーシャのフレーズが、自分への新しい理想や、変容への欲望を作り出すことにならないようにしたいと思います。
2005/05/10
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「ハートの教えの簡単な要約、五つの力」とは、1.強烈さ、生き生きとして、トータルであること。コミットメント。2.根気よく練習し、慣れ親しむこと。3.否定的性をハートに吸収して変容し、肯定性を育てること。4.エゴ・トリップ(エゴを満たす行為)に気をづくこと。5.良いことは、分かち合うこと。の五つです。これらのパワーが不足すると、例えば1.変容に必要なエネルギーがなく2.長続きしなかったり、なじまないので、上達せず3.否定的な思いや感情にふりまわされ4.元気になっても人に迷惑をかけ5.良いことが起こっても、それをためこんで腐らせてしまうといったことになるかもしれません。この五つの力は「マハヤーナ(大乗)の教えの要約、五つの力」とも呼ばれています。
2005/05/09
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「ハートの教えの簡単な要約、五つの力」とは、1.強烈さ、生き生きとして、トータルであること。コミットメント。2.根気よく練習し、慣れ親しむこと。3.否定的性をハートに吸収して変容し、肯定性を育てること。4.エゴ・トリップ(エゴを満たす行為)に気をづくこと。5.良いことは、分かち合うこと。の五つです。参加者には、OSHOによる詳しい講話も渡されました。
2005/05/09
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無事、第一回目のトレーニングが終わりました。 急なお知らせにもかかわらず、神戸、姫路、京都、大阪、遠くは岡山、岐阜からも参加者の方が集まってくれました。ありがとうございます。この日は、存在に呼びかけるインボケーションから始まって、「ハートの教えの要約、五つの力」を使ってのワークを行いました。内容は、午前中が、「自己紹介」「エクササイズ」それから「ストップ・ダンス・メディテーション」。午後からは、「簡単な催眠」「ハート瞑想」「シェアリング」「OSHOクンダリーニ瞑想」「ハートからのシェアの練習」といった内容でした。こう書くと、シンプルな一日のようですが、参加者の一人の方は「とても盛りだくさんの体験をさせてもらいました。」という感想を送ってくれました。内容的に、普段のVIJAYのグループと別段、変わらないように思えますが、今回のテーマであるアティーシャの心の訓練の要点の4である「ハートの教えの要約、五つの力」を、順番にひとつづつ体験的に探求する一日でした。チベット仏教の核心はハートです。さて、その簡単な要約「五つの力」とはなんでしょうか?
2005/05/09
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しかし、あまりに凝縮され、簡潔過ぎて、実は、それだけでは、なんのことだかわからないフレーズもあります。例えば6約束-6「結果を出すことについてのすべての期待を捨てなさい」というフレーズは、瞑想者にとっては、とても意味があるわかりやすい言葉です。しかし、わかりやすい言葉ですが、このフレーズひとつでも、計り知れない価値があると思います。「結果を出すことについてのすべての期待を捨てなさい。エゴは結果志向だ。マインドはいつも結果を追い求めている。(中略)ビーイングは結果志向の中にはない。瞑想は、結果志向でない人々にだけ起こる。それなら、どこかへ行く必要はまったくない。神の方があなたの所へやってくるだろう。心の底で、「私はあきらめる」と言いなさい。すると沈黙が降りてくる。祝福が降り注ぐ。これらのスートラに瞑想しなさい。それらは瞑想者にとってだけ意味を持つ。アティーシャは哲学者ではない。彼は、シッダ、ブッダだ。彼の話していることは何か空論なのではない。これらは、旅をする準備のある人たち、道への巡礼へと出る人たちにだけ与えられたはっきりとした指示だ。」(OSHO BOOK OF WISDOM)このように瞑想者へのはっきりとした指示としてフレーズがありますが、先ほども書きましたが、凝縮され、簡潔過ぎて、なんのことだかわからないフレーズもあります。例えば、6約束-12 牝牛の荷物を雌牛に載せてはいけないとか7指示-6 三つの困難を学びなさいとか言われても、いったいなんのことなのか?私としては、少しずつですが、わかりやすく、現代語にフレーズを訳そうと思ってます。明日は、4-1 ハートの教えの簡単な要約、五つの力とともにワークしなさい。のフレーズをテーマにしたグループを行います。五つの力とは何なのでしょうか?OSHOの解説を基に、わかりやすい現代語訳を紹介して、それについて体験的に実験をする予定です。 5月7日(土)神戸・芦屋市民センター詳しいご案内
2005/05/03
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OSHOがスートラと呼び、チベット尼僧のペマ・チョドロンさんなどは、スローガンと呼ぶアティーシャの短いフレーズは、どうしてそんなに簡潔で凝縮されたものなのでしょうか?それについてOSHOは、興味深いことを語ってます。なるほどなあ、と思わせます。アティーシャがこれらのスートラを書いていた時、その頃にはかなりの必要性があった。本は手に入らなかったから、本当にとても短い、凝縮された、簡潔なものである必要性が大いにあったのだ。人々はそれらを覚えていなくてはならなかった。だから人々が覚えていることができるように、本当にとても凝縮されたスートラを作るほうがいい。現在、私たちが話し合っている七つのポイントだけがあり、だから簡単に覚えておくことができる。(OSHO BOOK OF WISDOM)
2005/05/03
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アティーシャの短いスートラのひとつ、ただしい実習2-6 送りだすこと、接合し、受け取ることを、ひとつにすることを訓練しなさい。これを呼吸に乗せて行いなさい は、OSHOトラスフォーメーション(タロット)カードを使っている人には、有名な瞑想です。その38番「変容」のカードの解説である「アティシャのエクササイズをただ試みてみましょう。世界のすべての苦しみを自分のハートのなかに取り込んで、祝福を注ぎ出します。それはすばやい効果をもたらします。今日それをやってみましょう。」という言葉を書いたのは、あのハート瞑想の先生のワドゥドダです。彼女は何十年もワドゥドゥと一緒に探求しています。彼らがディレクターをしていたインドのプーナのミステリー・スクールは、ハートの学校でもありました。そのころ彼らの指導するハートのグループには、この変容のカードが大きく拡大されたパネルが、壁に飾られていました。私は、その大きなパネルを運ぶ手伝いをしたので良く憶えています。絵の左下には、蠍や蛇や棘があり、まん中にブッダ、右上には、薔薇や蝶や蓮が描かれ、「この絵は、どんな否定性もハートに吸い込めば、肯定的なもの変容されるというシンボルです。」とワドゥダたちは、説明してくれました。さあ、彼は、慈悲心をもつことを始めなさい、と言う。そして、その手法とは、息を吸うとき――注意して聴きなさい、それはもっとも偉大な手法のひとつだ――息を吸うとき、自分は世界のあらゆる人びとの惨めさをすべて吸い込んでいると考えることだ。あらゆるところに存在するあらゆる暗闇、あらゆる否定的なもの、あらゆる地獄、それをあなたは吸い込んでいる。そしてそれを、あなたのハートに吸収させる。 息を吸い込むときは、世界の――過去、現在、そして未来の――すべての存在のあらゆる惨めさと苦しみを吸い込む。そして息を吐き出すときは、あなたがもっている喜びのすべて、あなたがもっている至福のすべて、あなたがもっている祝福のすべてを吐き出す。息を吐き出す――あなた自身を存在に注ぎ入れる。これが慈悲の手法だ。すべての苦しみを飲み込んで、すべての祝福を注ぎ込む。 それをやってみると、あなたは驚くだろう。世界のあらゆる苦しみを自分の内側に取り込んだ瞬間、それらはもう苦しみではない。ハートがすぐにそのエネルギーを変容させる。ハートは変容する力だ。惨めさを飲み込むと、それは至福に変容されている……。それからそれを注ぎ出す。一度、自分のハートはこのマジックを、この奇蹟を行うことができると学んだら、あなたはそれを何度も何度もやりたくなるだろう。それを試してごらん。それはもっとも実用的な手法のひとつだ――単純で、しかもすぐに効果が現れる。今日それをやってみるがいい。Osho THE BOOK OF WISDOM, Vol.1, pp.21-22 この方法は、アティーシャによる「心の訓練」の七つの要点のなかのふたつ目、「正しい実習」の六番目のフレーズによります。短い簡潔なフレーズは、それ以外にもありますが、この瞑想は、タロットカードを知っている人には「アティーシャ瞑想」と呼ばれています。チベット語では、それは「トンレン」と呼ばれています。
2005/05/02
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「否定的なエネルギーに気づいて、受け容れ、責任を取れば、理解が生まれ、変容し、感謝と慈悲が起こる」という公式を、OSHOの世界の錬金術師ワドゥドゥから教えられたことがあります。アティーシャの短いフレーズのなかには、これらのすべてが含まれています。「彼はどんな哲学的な真実について話しているのでもない。彼は、きみがそうである真実について話している。彼はきみについて話している。彼はまったく心理学的だ。彼は形而上学について話してはいない。そして彼はとても迅速に進む。一言も無駄にはしない。余分な言葉は一言もない。彼はとても簡潔だ。それがスートラという単語の意味だ。スートラはとても簡潔であることを意味する。」(OSHO BOOK OF WISDOM)
2005/05/02
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否定的なことに気づいて、それから距離をもち、抑制し、主体的に肯定性を選択するためのゲームとして、子どもの額に「一時停止停止ボタン」というものがあって、感情的になったらそのボタンを押すということを教えて、成功している小学校の先生の本を読みました。それはそれでおもしろい試みだなあと思います。前頭葉に血流が集まって、もっと「いまここ」で考えられるようになるのだと思います。子どもたちは、兄弟ゲンカが少なくなったと報告しています。このぐらいのことで脇に置いておける否定性ならば、これもひとつの良い方法だと思います。怒りについて悩んでいる人に対して、OSHOは「怒りと書いた紙を持ち歩き、怒りを感じたらその紙をポケットから取り出して読みなさい。」とアドバイスして、しばらくその方法を続けていた人が、怒りから距離を持てるようになったというエピソードを、催眠セラピストのゴパールから聞いたことがあります。「気づき」が万能薬である証拠になるような話だと思います。それからまた怒りについて悩んでいる人に対して、「手に輪ゴムをつけて、怒りを感じたら、それをバチンとつまみなさい。」とアドバイスしているニュウエイジの人の本を読んだことがあります。これだと痛みで条件付けれるかもしれないけれど、その感情は抑圧されてどこにいくんだろうと思いました。悲しみは喜びに変わる。怒りは慈悲に変わる。強欲さは分かち合いに変わる、など。これは、内なる錬金術の科学だ。どのようにして否定的なものを肯定的なものに変えるかという。(OSHO BOOK OF WISDOM) アティーシャの方法は、否定的なものを抑制して肯定的なものを選択するのでなく、それを変容させる方法です。
2005/05/02
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彼は奇跡の人だった。彼が触れたものは、どんなものでも金に変容された。彼は、知られている中で最も偉大な錬金術師だ。(OSHO Book of Wisdom)影を光に、鉛を金に・・怒りを慈悲に、悲しみを喜びに、強欲さを分かち合いに・・・否定的なものを肯定的に変容させる内なる科学をOSHOは、錬金術(アルケミー)と呼びます。西欧の魔法使いだけでなく、ブッデイスト(仏教徒)にも、錬金術師がいたということです。やはり、アティーシャの教えについて記したアメリカ人のチベット尼僧のペマ・チョドンは「チベットの生きる魔法」と、それを呼んでいます。彼女は、苦しみも怒りも「喜びに変えて、心安らかに暮らす知恵」と呼んでます。
2005/05/01
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アティーシャの教えで瞑想しなさい。彼のアドバイスを聞きなさい。それは哲学ではない。それは内なる変容のための科学マニュアルだ。それはあなたの内側の知恵の成長を助けることができるそれゆえ私はこの教えを「知恵の書」と呼ぶ。(OSHO BOOK OF WISDOM) 「セブンポイント・マインド・トレーニング」は、一般的には「心の訓練の七つの要点」と訳されています。チベット語では「ロジョン」と呼ばれ、仏教を学ぶ上での障害や邪魔、逆境のすべてを菩提への道に変える教えとして、たいへん大切にされています。菩提とは、ボーディーのこと。私たちの世界では、ボーディーといえば、英語でアゥアネス(覚醒・気づき)とかんたんに訳して、そう理解しています。つまり「ロジョン」(心の訓練)とは、心ある道を歩もうとする人が、心ある道を歩もうとするが故に、その人生で起こるかもしれない逆境のなかにあっても、それを使って、気づきの光を増やしていく、方法であるといえるでしょう。その「気づき」から「慈悲」が生まれます。
2005/05/01
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これらのアティーシャの七つのポイントの小さな教えには、莫大な価値がある。あなたは、声明のひとつひとつに瞑想しなければならないだろう。これらは種のようなものだ。たくさんのものを含んでいる。あなたがその声明に深く入っていく瞬間、熟考し、瞑想し、実験し始めるとき、あなたは驚くだろう。あなたは人生の最も偉大な冒険に乗り出していることだろう。(OSHO Book of Wisdom) ということで、5月1日(5+1=6は、数秘術でいうハートの真実)というこの吉日に、「アティーシャの心の訓練の7つの要点」を使っての古くて新しい冒険に船出します。
2005/05/01
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