私の人生論 (思考が運命になる)

私の人生論 (思考が運命になる)

2023年06月12日
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カテゴリ: 認識の歩み


白藤江(はくとうこう)の戦いは、
陳朝ベトナム軍と元軍との戦いです。

第1次元越戦争(1258年)および第2次元越戦争(1258年)の
二度の遠征に失敗したクビライは、
1287年に第3次元越戦争を行いました。

クビライの息子の一人鎮南王トガン(脱驩)を総司令官として
9万の兵力に加えて何百にもなる戦船と、
張文虎将軍率いる数十万石の糧食を運ぶ船団も備えました。

1288年1月末、
軍隊を3つに分けて進軍したトガンは昇龍を占領したが、
住民は焦土作戦を実行して、抵抗しました。

元軍は、守勢となり危機的な形勢に立たされました。

トガンは、兵を萬劫に引き、
そこから水路と陸路の
二手に分かれて本国へ退却することにしました。

仁宗と陳国峻は元軍を全滅させ機会と決断しました。

陳国峻は白藤江の潮位の上下を調べさせ、
川底に杭を打ち伏兵を配しました。

1288年4月初め、元軍ウマルの船団は、
騎兵の護衛を伴いつつ白藤江を遡上しました。

戦船が杭を打ち込んだ地点に差し掛かると、
陳軍の軽舟が出撃し、すぐに負けを装って後退します。

追撃する元軍が伏兵のいる地点にたどり着くと、
両岸から何千もの陳軍の小舟がなだれ込んできた。

元軍の船団は慌てて退却しましたが、
ちょうど潮が引きはじめた時刻で
水位が下がり顕わになった川底の杭に退路を阻まれ、
多くの船が壊れて沈没しました。

さらに陳軍は火をつけた筏を潮に乗せて流し、
船団を炎上させました。

生き残った兵士は川岸へと逃げたが、
伏兵による奇襲攻撃を受け元軍の水兵は全滅し、
ウマルは生け捕りにされました。

トガンが指揮した部隊は萬劫より諒山の方向へ逃走し、
陳朝軍の追撃を受けつつ広西に逃げ帰りました。





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最終更新日  2023年06月12日 05時00分09秒
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