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15世紀なかばごろから現代にいたるまでの近代科学の発展は、どのような様相を示しているかを見るためには,近代科学の歴史をいくつかの時代に区分することが必要であり、またその区分を可能にするような様相の変化がおこっているのです。ある時期には研究が全体的にさかんになる、またある時期には多くの新分野がひらける、さらに他の時期には方法上の問題をめぐって哲学的な議論が活発にかわされる,といったふうである。
2024年06月20日
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西欧の回復がはじまってから一二〇〇年ごろまでの二世紀以上の期間、西欧は、アラビア、ビザンティンの高度に発達した科学や数学、天文学を食欲(どんよく)に吸収し、同時に大胆で精力的な創造に力を注いだため、中世文化は古代ギリシャが、古代中東の文化的模範から学びかつそれを超越した時代と同様に輝きを持つにいたりました。スペインと南イタリアの両方で、学者たちは、アラビア語からラテン語への組織的な翻訳を開始し彪大な文献が、教会的な文化しかなかったラテン世界の相続財産となったのです。アリストテレスのラテン語訳は、特に大きな影響をあたえました。アリストテレスの文中に、異教的ではあったが、理路整然として、完全で、説得的な全宇宙観を見出したのです。アリストテレスの学説をキリスト教の真理と調和させる仕事は、新しいアリストテレスの論理学であれ古いキリスト教の信仰であれ、自分たちの知的継承財産をすべて守りたいと願う人々にとり、必要欠くべからざることになりました。キリスト教の愛や希望や慈善と一致しなかった粗野な残忍さと暴力的な騎士の生活スタイルも、キリスト教の鋳型に統合されました。
2024年06月19日
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イスラームの時代が過ぎ去ったのちロマネスクとよばれる西欧のキリスト教文化が作られます。これは十一世紀のことです。イスラーム文明は、十字軍の頃、非常に高い文化をもっています。バグダッドには「知恵の館」というものがアッパース朝のときにつくられていますが、そこでは、古代ギリシャの科学書がアラビア語に翻訳され、インドの天文学や数学を取り入れた代数学や天文学などの著作が著されています。イスラーム世界では、十世紀から十一世紀にかけて、科学、数学、医学、天文学などが非常に発達します。球面幾何(きか)学や三次方程式など、アラビア数字を使った数学も発達します。グレゴリウス暦よりも正確なジャラリー暦もつくられました。イスラーム文明は高度な文化をもっていたのです。このようなイスラームの学問や科学が、西欧に流入しました。十三世紀以降、錬金術から化学が発達しました。レンズの発明から眼鏡や望遠鏡がつくられました。また、天文学や物理学の発達がうながされ、やがて、西欧にニュートンなどの科学者が生まれてくるのですが、そうした素地をつくつたのが、イスラームの高度な文化だったのです。
2024年06月18日
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日本に仏教文化が花開いた頃、世界では、イスラーム教が生まれ、その勢力を増していました。ローマ帝国の衰退の後、西欧はゲルマン民族の大移動によって、それまでの秩序が崩壊していく中で、イスラーム勢力が隆盛してきたのです。こうしたイスラーム勢力による侵攻に対して、フランク王国のカール・マルテルが、ようやくトウール・ポワティエ間の戦い(七三二年)で勝利し西欧がしだいに力をもつようになってくるのです。イスラームを撃退したフランク王国は、その後、ローマ教皇と結び付いて、八〇〇年にはカール大帝がローマで西ローマ帝国皇帝として戴冠(たいかん)します。その後、九世紀半ば以降になると、フランク王国は三分されて、現在のフランス、ドイツ、イタリアが生まれます。このように、現在のヨーロッパの原型が生まれてくるきっかけとして、イスラームの大征服運動は、大きな要因となったのです。
2024年06月17日
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15世紀後半には,たとえば天文学における新しい動きが生じたり,科学者としても大先覚者であるレオナルド・ダ・ゲインチ(Leonardo da Vinci 1452-1519イタリア)のような人物があらわれたりしています。そして、さらにそれらの先ぶれとなるような社会全体の気分がその前に見られる、だいたい15世紀なかばをもって(人によっては15世紀末ごろをもって)近代科学の誕生の時期とする見かたが成り立つのです。しかし,13世紀なかばをもってその時期にあてる考えかたもありますが、ここでは15世紀なかばごろとする説を採用しておくことにします。新しい科学の基礎となった船尾材舵・火薬・紙・印刷は、それら自身は西洋の発明ではなく支那から来たものです。支那の技術の発達が全世界にとって莫大な重要さをもち西洋のキリスト教文明の優越という考え全体は世界の他の部分に対するごう慢な無知にもとづいた考えなのです。
2024年06月14日
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徳川家康(とくがわ いえやす)の生涯は多くの困難と戦いに満ちていました。幼少期には今川家の人質となり、その後独立して織田信長と同盟を結びます。信長の死後は豊臣秀吉との関ヶ原の戦いで勝利を収め、天下人となりました。その後、1603年に征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開きました。家康は大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、日本全国を統一する幕藩体制の礎を築きました。三河国(現在の愛知県東部)の大名・松平広忠の嫡男として1543年に生まれ、1616年に亡くなりました。家康は天下統一を達成し、264年続く江戸幕府を設立した人物として知られています。彼は政治的な手腕だけでなく、文化や外交にも影響を与え彼の治世の間に、オランダやイギリスとの交易が始まり、日本は国際社会に開かれた時代を迎えました。また、家康は武家諸法度や一国一城令を制定し、日本の武士社会における基本的なルールを作り上げました。家康の死後、彼は東照大権現として神格化され、日光東照宮などに祀られ、江戸時代を通じて崇拝されました。家康の遺した政治体制は、その後の日本の歴史に大きな影響を与え、今日に至るまでその功績は評価され続けています。
2024年06月13日
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豊臣政権のとった外交方針は、統一政権の基礎を外国貿易と海外発展によって堅固にし、外国に対する威圧と征服とによって勢威の拡大をほかる封建的国家権力独得の方法であって、そこにイスパニヤ・ポルトガルの王権と海外発展との関係に共通せる性格をもちます。東洋及び西洋との貿易を自己の権力のもとに統制して、国交を開き貿易をさかんにしてその利益を収め、国力を外国にまで及ぼそうとするものです。秀吉は国際的な視野を持ち、朝鮮に対する文禄・慶長の役(朝鮮出兵)を行いましたが、これは成功とは言えず、彼の政権の終焉を早める一因となりました。一五九六(慶長元)年、土佐に漂着したイスパニヤ船サン=フエリペ号の船員が、「キリスト教の布教を領土獲得の手段としてイスパニヤは広大な領土を得た」と放言したことが、秀吉の疑惑を深め、ついに宣教師、信者二六名が長崎で礎刑に処せられ、わが国におけるキリシタン追放の第一歩となりました。
2024年06月12日
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豊臣秀吉による朝鮮出兵は、文禄の役(1592年~1593年)と慶長の役(1597年~1598年)です。これは、秀吉が天下統一を成し遂げた後に行われた大規模な軍事遠征で、 秀吉は、明の征服を目指し、李氏朝鮮に服属を要求しましたが、拒否されたため、遠征軍が朝鮮攻略を開始しました。この戦役により、東アジア情勢が大きく変化しました。最初の遠征である文禄の役では、日本軍は朝鮮半島を急速に進撃し、首都漢城(現在のソウル)を占領しました。しかし、朝鮮国王宣祖は明軍に援軍を要請し、日本軍との戦いを続けました。戦線が膠着したため、一時的な停戦が成立しました。1597年に再び慶長の役が始まりましたが、1598年に秀吉が亡くなり、日本軍は撤退し、戦争は終結しました。この戦争は、明と李氏朝鮮の国力を低下させ、日本国内でも豊臣家内の対立を招き、後の関ヶ原の戦いへの遠因になりました
2024年06月11日
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秀吉は1588年の刀狩令で武装解除を進め、農民から武器を取り上げることで社会の安定を図り、これによって兵農分離を行い、近世封建体制の基礎をつくりました。刀狩令の目的は、一揆を防ぐことで、安定した年貢の確保、応仁の乱の再来を防ぐこと、治安の維持、身分を明確に分けるため、そして京都の方広寺に大仏を鋳造するために金属を集めることなどが挙げられます。この政策は、日本の歴史において重要な転換点となり、その後の社会構造に大きな影響を与えました。刀狩令により、農民が武士になることはなくなり、明確な身分統制ができ、その後の江戸時代には士農工商が制定されることになりました。
2024年06月10日
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秀吉は織田信長の家臣として出発し、本能寺の変のあと、秀吉が光秀を倒して信長の後継者として認知され、織田家の実権を握り、天下統一を目指しました。天下の趨勢を決したのが「中国大返し」でした。この遠征は、天下を信長の支配下に置く決意を示すものでした。この途中で本能寺の変を聞いた秀吉は備中高松城から山崎までの高速行軍で、光秀を打ったもので、日本の歴史において重大な転換点となった出来事です。秀吉は大名たちに対する中央集権的な支配を強化しました。彼は大阪城を拠点にし、全国の大名に対して権威を誇示し、彼らを自らの政策に従わせることに成功しました。
2024年06月07日
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本能寺の変は、1582年6月21日に発生した、日本の歴史上非常に重要な出来事です。この事件で信長は、家臣の明智光秀による謀反に遭い、京都の本能寺で自害しました。信長は当時、天下統一に向けて大きな勢力を築いていましたが、本能寺の変によりその野望は終わりを告げました。この事件は、その後の日本の政治構造に大きな影響を与え、豊臣秀吉の台頭、そして後の関ヶ原の戦いへと繋がる歴史的な転換点となりました。明智光秀が謀反を起こした理由については、多くの説がありますが、信長公記にあるように光秀は、この好機会に乗じて天下の主となるべく、明巣狙いをしたのです。
2024年06月06日
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信長の世界観は、当時の日本における伝統的な価値観や宗教観とは一線を画すものです。彼はキリスト教を受け入れ、その教えに興味を持ち、日本におけるキリスト教の布教を保護しました。信長はキリスト教を政治的な道具としても利用し、仏教勢力の牽制に活用したのです。信長は、自身の力による「天下布武」を目指し、その過程で多くの革新的な政策を採用しました。彼は、日本の伝統的な社会構造や価値観に挑戦し、新しい文化や技術を取り入れることに積極的でした。また、信長は国際的な視野を持ち、外国との交流を重視しました。信長の時代には、南蛮貿易を通じて西洋の文物が日本にもたらされ、それによって日本人の世界観が拡がりました。信長自身も西洋の文物や世界観に強い関心を抱き、京都にキリスト教会の建設を容認するなど、宣教師たちがもたらした新しい知識や文化に対して開かれた姿勢を示しました。信長の世界観は、日本の伝統的な枠組みを超え、国際的な視野に立った革新的なものでした。彼の思想や政策は、日本の歴史において大きな転換点となり、後の時代に大きな影響を与えました。
2024年06月05日
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長篠の戦いは、織田信長率いる織田軍と武田勝頼率いる武田軍が対峙した大きな合戦です。この戦いは、天下統一のきっかけとなる出来事で、現在の愛知県新城市で行われました。織田信長は、鉄砲を積極的に取り入れ、戦術的に活用しました。彼は城の反対側の柵の後ろに鉄砲隊を3列に並べ、武田軍の精鋭騎馬隊を引きつけて砲撃を仕掛けました。この戦術により、わずか500人の兵で武田軍の包囲を応戦し、長篠の戦いに勝利しました。信長は近江に進出し、国友(現在の滋賀県長浜市国友町)を鉄砲の一大産地とし、大坂の堺を掌握して弾丸や火薬を入手するルートを確立しました。また、鉄砲隊の育成にも力を入れ、鉄砲足軽を養成しました。すでに兵農分離を推し進めていた信長にとっては、鉄砲の導入は容易なことでした。長篠の戦いは、新戦法対旧戦法ではなく、豊富な物流と物資を誇る西国(織田)と、それに乏しい東国(武田)の激突といえるものでした。信長の鉄砲戦術と物資の適切な準備が、彼の勝利の要因でした。
2024年06月04日
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新兵器、鉄砲の登場にすぐさま反応したのは、各地の戟国大名たちだった。最も早く実戟に投入したのが薩摩の島津氏。伝来から六年目のことです。中国地方の覇者、毛利元就は、敵の鉄砲に気をつけるよう、家臣たちに言い聞かせている。権力回復を狙う都の将軍、足利義輝も、密かに鉄砲の製造を始めた。その将軍家から火薬の調合法を聞き出した上杉謙信も、直ちに実戟に配備する。そして謙信の宿敵、武田信玄。戦国時代最強の騎馬軍団をつくり上げた甲斐の武田も、やはり鉄砲の配備に力を入れた。信玄は家臣に送った軍役状で、槍を省いてでも鉄砲を持参するように命じている。信玄は、鉄砲を旧来の武器よりも重く見ていたのです。
2024年06月03日
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守護大名の分国支配体制では、守護がおのおの分国の支配権を握っていましたが、その国内には大小種々の土豪が自立散居し、その上、荘園の遺制が残存し公家・社寺の所領が散在する土地も多かったので、領主権が土地に対して直接及ぶ範囲も、その力も弱かったのです。しかもその支配組織の基礎をなす農民階級では、隷属せる下人や披官の百姓を使役して、みずから農薬を経営する名主層が中心勢力をなしたが、この名主層の有力なるものは近隣の農民に対して支配力をふるい、武士として発展する勢を示しました。また土豪たちはこれら名主層をしたがえ、領地を拡げて勢力を張ろうとして争いました。このような在地勢力の活動こそ、室町時代封建制度が守謹分国制の上に安定し得なかった根本原因です。いいかえれば、武士階級は守護分国制よりも一層高度の土地領有形態をもとめて、室町幕府・守護大名の権力組椒を否定し、各自の武力の及ぶ限り領地の拡張をはかろうとしたので、戦国時代が現われたのです。
2024年05月31日
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応仁の乱の後、約百年の間続いた群堆割拠の戦国時代が、織田信長・豊臣秀吉の覇業によって治まり、彼らの支配のもとに新たな時代の幕が開かれたことは、封建制度史上に劃期的特色をなすものです。戦国時代は、室町幕府・守護大名を枢軸とする武士階級の統一組織が分裂したため現われた武力抗争の世ですが、その武力抗争は武士階級が室町時代の土地領有形態を打破して、一層高度の大領地を形成するため起ったものです。元来、封建制度の基礎は武士階級の土地領有にあり、土地領有制の上に階級の支配関係と政治の体制がつくられたものですから、土地領有制の発展が武士階級の性格、その農民に対する支配力、政治権力の性質などに変化をひき起して、全体として封建制度を発達させたのです。これより先、室町幕府による武士階級の統一組織の基礎は、守護大名の分国支配体制です。
2024年05月30日
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時尭は直ちに鉄砲の複製をつくることを命じました。鉄砲伝来のわずか半年前の天文一二年三月、種子島氏は、大隅半島の豪族、禰寝氏に攻め込まれ、領土であった屋久島を奪い取られ久島奪還をめざす時尭にとって、新兵器、鉄砲の製造は、何としても成し遂げたい願いだったのです。種子島は、質の良い砂鉄が採れる、鉄の産地だったのですが、鉄砲の複製に取りかかった職人たちは雌ネジの切り方がわからなかった。火薬の燃えかすを取りのぞくために、鉄砲の末端は、取り外しのきくネジで作られている。そのネジの技術が日本にはなかったのです。鉄砲製作を命じられた八板金兵衛は苦心の末、ついに砲伝来の翌年(一五四四)、ついに国産第一号が完成した。伝来した鉄砲を忠実に模倣した火縄銃だった。種子島の職人たちは、わずかな間に西洋の技術を自分のものにしたのです。
2024年05月29日
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日本人が初めて出会った鉄砲はどのようなものでしょう。天文一二年(一五四三)、種子島に漂着したポルトガル人によって、日本に初めてわずか二挺の鉄砲かが伝えられました。火縄銃は一五世紀にヨーロッパで生まれました。支那から伝わった技術が改良され、実用的な武器として飛躍的に発達したのです。しかし、種子島に伝わったこの銃は、ポルトガルではなく、マラッカで作られた可能性が高い。マラッカは、当時ポルトガルが行っていた、アジア進出の拠点のひとつでした。インドから支那南部にまで広かる貿易ルートを海賊などから護るため、マラッカは武器生産の基地となっていたのです。鉄砲を手に、東へ東へと向かうポルトガル商人たち。彼らの乗った貿易船が思いがけず漂着した地、それが種子島でした。遠く離れた的を、打ち落とす鉄砲の威力に、種子島の人々は驚嘆します。この新兵器の威力を見て、何としても自分のものにしたい人が当時一六歳の若者だった島主の種子島時尭(たねがしまとさたか)です。時尭は二千金、現在の一億円に相当する大金を支払って、二挺の鉄砲を買いました。
2024年05月28日
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アフリカ研究者の山口昌男(やまぐちまさお)氏によれば、「ポルトガル人は、東アフリカ沿岸(現在のケニア)にフォート・ジーザスなどの要塞を建設したが、一六世紀のおわりには、ジンバ人(アフリカ人)によって略奪され、ポルトガル人は、駆逐された。さらに、ポルトガルは(西インド洋の)制海権をアラビアにうばわれました。一六二二年にはベルノシア湾からも追いだされ……」という苦難の道をたどります。一時栄華をほこったポルトガル人も、一世紀もたたないうちに、東南アジアからアフリカをまわって、ポルトガル本国へいたる長いルートの全域で、イスラームの勢力により追放されたのです。西洋の歴史家たちは、「ポルトガルのアジアへの進出をもって、世界史が画期的な段階にはいった」とみなしてきました。たしかに西欧にとっては、一六世紀のポルトガル貿易は、はじめてみずからが直接東洋と接触した、という意味では画期的なものでした。しかし、世界史全体からみると、東西交流史のなかのほんの一こまのできごとにすぎなかったのです。
2024年05月27日
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ポルトガルは、その最盛期といえども、東洋貿易の一部分をになっていたにすぎず、主役はいぜんとしてイスラーム商人だったのです。やはり、アフリカ南端をまわる航海は、地中海ルートにくらべて危険が大きく、日数もはるかにかかったために、不利だったのだろうと思われます。また、ポルトガルの繁栄は長つづきしませんでした。一五七八年、モロッコ(アフリカの西北部)にさかえたイスラームのモロ王国との戦闘で、致命的な打撃をうけ、ポルトガルという国は一時消滅してしまいます。
2024年05月24日
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一六世紀にポルトガルはコショウだけでなく、アジアからシルク・茶・宝石などを西欧へ運送し、一時はいちじるしく冨みさかえました。しかし、東南アジア史の専門家である永積昭(ながづみあきら)氏は、「オランダの学者ファン=ルールの推定によれば、当時(一六世紀)モルツカ諸島ではチョウジを年平均三〇〇〇バハル(一バハルは約六〇〇ポンド)収穫していたがそのうち、ポルトガルが入手したのは、わずかに四〇〇バハル、つまり一三パーセントにすぎなかった。……このシェアのすくなさからみて、ポルトガルのこの香料貿易が思ったほどうまくいかなかったのは、あきらかである。」とのべています。
2024年05月23日
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つぎのパスコ=ダ=ガマの、インドへの航路ですが、さいわいにケニア沿岸のモンバサという港で、アラブ大のイブン=マージという水先案内大の援助を得て、ついにインド南端の貿易港カリカットへ到着できました。ガマの一行は、カリカットにしばらく滞在し、いろいろ苦労しましたが、ようやく売買の協定をむすぶことができ、大量のコショウを積んでポルトガルへ帰還しました。ヴァスコが交易で得た品は、胡椒、肉桂、蘇木、丁字、生姜などであったにもかかわらず、ポルトガル人は、一五一○年代に国際的な大商港マラッカ(マレー半島の西岸)を攻略し、つづいて香料の産地モルツカにも進出しました。さらに中国とも貿易をひらき、一五四三年には、日本の種子島へきて、日本に鉄砲をつたえています。
2024年05月22日
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インド、エジプト、イタリアの商人がコショウの貿易ルートによって、もうけていましたが、一六世紀はじめから、これにわりこんできたのがポルトガル人でした。ポルトガルは、一二世紀にイベリア半島の西端に建国された小さな国ですが、一五世紀はじめから、アフリカをまわってアジアへでるルートをめざし、ちゃくちゃくと計画をすすめていきました。イスラームの人文学・地理学・航粘術を吸収し、またいくたびにもわたる西北アフリカへの出航、西アフリカや南アフリカへの試験的航海を経て(約一世紀の努力ののち)、ようやく一四九八年に、パスコ=ダ=ガマが、アフリカの南端をまわり、東アフリカ沿岸まで到達することができました。
2024年05月21日
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西欧人は、長いあいだ牧畜に依存して生活してきた関係から、大量の肉をたべる習慣が今日までつづいてきています。そのために、西欧人は殺した家畜の肉を保存することについて、むかしから大きな関心をもっていましたが、当時肉の保存にもっとも有効な方法は、コショウをつかうことでした。そこで、西欧人は血まなこになってこのコショウをもとめました。一四~一五世紀には、世界最大のコショウの産地は、フィリピン南方のモルツカ諸島でした。イスラーム商人がモルツカで買いつけたコショウは、マレー半島のマラッカとインド南端のカリカットを経て、アラビア半島の南端のアデンへ行き、細長い紅海を北上して、地中海南岸のカイロとアレクサンドリアへはこばれました。そこから北イタリアの諸都市の商人によって、西欧各地へ売られていったのです。ほぼ地球を半周する大貿易ルートだったわけです。
2024年05月20日
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政治の混乱はありましたが一方では、新しい農業や耕作技術が発展しました。特に水田農業が重要で、水利施設の整備や灌漑技術の進歩が行われました。また農業土木の発展により、農地の拡大や効率的な農業が実現され、庶民の生活に大きな影響を与えました。陶器や漆器、鉄器などの工芸品が一般庶民の生活に浸透し、日常生活が豊かになりました。そして、金属活字の印刷機や新しい建築技術など、文化的な技術も発展しました。絹織・麻織の繊維工業、製紙業も盛んになりました。貨幣の需要も増大しました。技術の発達は、日本の社会や経済に大きな影響を与え、その後の歴史にも繋がっています。しかし農民が豊かになると要求も膨らんできます。
2024年05月17日
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倭冠は鎌倉時代にも見られましたが、西国の土豪が組織した海賊、いわゆる前期倭冠は、米と奴隷の略奪を目的として朝鮮半島から支那の北部、さらに南部にまで進出して猛威をたくましくし、倭冠の至るところ人民一空すと恐れられました。一三六八年、元に代って国を興した明の太祖洪武帝は翌年倭冠の禁圧をもとめ、朝貢をうながす使者をわが国に送ったが、当時九州にあった征西将軍宮懐良親王は、その書辞の無礼を怒ってこれを拒絶しています。義満は、一四〇一(応永八)年九州探題に命じて倭冠を取締らせるとともに、博多商人肥富某の献策により、彼を使節とし、僧祖阿とともに、明に派遣し、倭冠が略奪してきた支那人を返遺するとともに国書・方物を贈って通交をもとめました。義満は不安定な幕府財政を、貿易の利益によって補おうとしたのです。翌年使節の帰朝に際して、明の答礼使節が同道しましたが、その国書に義満を「日本国王源道義」としてありました。義満は翌年成祖永楽帝の即位を賀した国書に、みずから「日本国王臣源」と書き、明の年号を用いて、体面をけがすものとして非難されています。しかし、一四〇七(応永二)年、倭冠が略奪したシナ人を返還した時、成祖から義満に贈られたのが銅銭二〇、〇〇〇貫文であったところから見ても、彼にとっては、名分や体面よりも、貿易の益を求めたのです。
2024年05月16日
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室町幕府の財政は、外国とくに明との貿易による利益が、大きな財源となりました。蒙古の来襲後も、九州や瀬戸内海沿岸の住民は、さかんに支那や朝鮮と私貿易を行っていました。この貿易には莫大な利益がともない、尊氏も天龍寺創建の費用を得るために、一三四一(暦応四)年天龍寺船を元に派遣し、一隻につき五、〇〇〇貫文の利益をあげました。この支那との貿易関係は、その後南北朝の内乱期に入ると、倭冠の活躍のために乱されてしまいました。明は倭冠を恐れて日本商船の私貿易を禁止しましたが、わが商人のなかには、この利益の多い対明貿易が何らかの形で再開されることを望むものがありました。この商人の希望と貿易の利益が、やがて義満をして対明貿易を再開させることになりました。
2024年05月15日
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義満は室町幕府の最盛期を築くことに成功しました。明徳の乱で山名氏を押えたのは、その第一歩です。山名氏は、因幡・伯耆など五カ国の守護を兼ねており、一族合せて十一カ国の守護を領し、日本六十余州の六分の一をもっていたので、世に六分一家衆と呼ばれるほどの大勢力になっていました。義満は、その内託を巧みに利用し、一三九一(明徳二)年山名氏清を殺し、その守護職を奪いました。これが明徳の乱です。その翌年の明徳三年には、南北朝の和平合体に成功し、南朝が屈服したので、足利氏の全国的政権は一応確立されました。ついで一三九九(応永六)年には、周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊六カ国の守護を領して強大を誇っていた大内義弘を挑発して、応永の乱をおこさせ、義弘を倒して大内氏を押えたのは明徳の乱後一〇年もたたないときです。こうして強大な守護勢力のカを押え、南朝を屈服させた義満は、名実ともに最高の封建君主の地位にのぼり、明への国書にも、「日本国王臣源」と称しています。
2024年05月14日
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1467年(応仁1)から十一年間続いた内乱は、細川勝元と山名持豊(宗全)との対立に,将軍足利義政の跡継ぎ問題,斯波・畠山両管領家の相続争いがからんで,諸国の守護大名が細川方の東軍と山名方の西軍に分かれて戦われました。戦乱は地方に拡散し,戦国時代を現出しました。京都は荒廃し,以後幕府の権威は失墜しました。鎌倉時代末期まで、武士たちの社会では一族のボス(家督かとく)が持っていた所領は、その子供たちや兄弟に分割相続されるのが常識でしたが、鎌倉時代末期になると、次第に分割相続の制度が崩壊していきます。分割相続が崩壊すると、亡くなった家督の所領を次の家督が一人で総取りする単独相続が行われるようになります。室町時代に入って単独相続が行われると、所領はすべて次期家督が引き継ぐことになったので、一族内で家督をめぐる争いが起こりやすくなりました。応仁の乱は、元々は有力守護大名であった畠山家の家督争いだったのですが、そこから将軍家の跡目争いや細川家と山名家の覇権争いも交わったことによって一気に複雑化しました。
2024年05月13日
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日本の統一的支配者の座を獲得した義満は、その晩年、上皇になることに意を注ぎます。その証左は、夫人の日野康子を後小松天皇の准母としたことで明白です。夫人が准母なら、夫の義満は自動的に天皇の〝准父″となるわけで、その地位は事実上、上皇と変わりません。だが義満はこれだけで満足せず、最愛の二男義嗣(よしつぐ)を天皇の位につけ、名実ともに備わった上皇の座につこうとしました。義満は、天皇の北山第行幸の折、まだ元服前の義嗣を廷臣中の最上座に据えて親王並みに遇するなど、義嗣の尊貴化につとめました。その義嗣は、北山第行幸の翌月二十五日、内裏の清涼殿(せいりよう)において、天皇の面前で元服の式をあげました。この儀式はすべて親王に准じられ、事態がこのまま進行すれば、義嗣が即位する可能性はたかまります。しかし、野望達成を目前にひかえながら、当の義満が流行病にかかり、あっけなく急死してしまいました。
2024年05月10日
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足利義満(あしかが よしみつ)は、延文3年8月22日(1358年9月25日)の生まれで、室町時代前期の室町幕府第3代征夷大将軍です。明徳3年(1392年)、楠木正勝が拠っていた河内国千早城が陥落し、南朝勢力が全国的に衰微したので、義満は大内義弘を仲介に南朝方と交渉を進め、持明院統と大覚寺統が交互に即位する事(両統迭立)や諸国の国衙領を全て大覚寺統の所有とする事などの和平案を南朝の後亀山天皇に提示し、後亀山が保持していた三種の神器を北朝の後小松天皇に接収させて南朝が解消される形での南北朝合一を実現し、58年にわたる朝廷の分裂を終結させました(明徳の和約)。明徳4年(1393年)、義満と対立して後小松天皇に譲位していた後円融上皇が崩御し、自己の権力を確固たるものにした、義満は応永元年12月(1395年1月)には将軍職を嫡男の足利義持に譲って隠居しましたが、大御所として政治上の実権は握り続けます。同年、従一位太政大臣にまで昇進します。武家が太政大臣に任官されたのは、平清盛に次いで2人目であり、征夷大将軍を経験した武家が太政大臣に任官されたのは初めてです。南北朝合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治・経済・文化の最盛期を築きました。父は第2代将軍・足利義詮、母は側室・紀良子で、祖父は足利尊氏です。正式な姓名は源 義満(みなもと の よしみつ)。室町幕府第2代征夷大将軍・足利義詮の長男で足利満詮の同母兄にあたります。
2024年05月08日
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南朝軍で唯一優勢を誇っていた九州の懐良親王軍が、東上の軍をおこしましたが、途中で瓦解しました。諸国の直冬(ただふゆ)党も勢いを失い、天下三分の混沌状態は克服されつつありました。義詮が十三年ぶりに三条坊門の将軍御所を再建したのも、そんな状況を踏まえた余裕のあらわれでしょう。しかし、幕府内部は相変わらず混乱しており、管領斯波義将が失脚しました。将軍権力の強化に熱心すぎたことが原因です。管領として当然ともいえるこの行為が、有力守護の反発をかい、管領の失脚になったあたりに、室町幕府の命運が予兆されています。義詮の死にともない、僅か十一歳の義満が第三代将軍となり、細川頼之(よりゆき)が執事として補佐することになりました。『太平記』はこの頼之の登場をもって、「氏族モ是(頼之)ヲ重ンジ、外様モ彼命(かのめい)ヲ不背(そむかず)シテ、中夏(ちゅうか)無為(ぶい:平和)ノ代ニ成テ、目出(めでた)カリシ事共成」と筆を擱いているがはたしてどうなったでしょう。
2024年05月07日
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室町幕府は、足利氏の将軍による武家政治機構です。足利尊氏は、九州から東上して光明天皇を立てた直後、鎌倉幕府の遺老二階堂是円(ぜえん)らに政治の大綱を諮問しました。その答申が一七条から成る「建武式目」です。建武式目では第一の問題となっている、幕府を元のように鎌倉におくか、それとも他所に遷るかについて以外に諸国守護大名のこと、庶民や寺社の訴訟のことなど、武家政治の核心的な問題もとり上げられていてます。尊氏に幕府開設の意志があったことは、はっきりしています。尊氏は、このとき高師直を執事、太田時連を問注所執事として、政治の局に当るものを定めています。ついで一三三八(暦応元)年、光明天皇から征夷大将軍に任ぜられ、足利氏の幕府は、一応形式を整えられました。しかし、吉野には南朝があり、足利氏内部でも内紛が絶えず、なお全国的政権ということはできませんでした。
2024年04月26日
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南北両朝和平合体の時機が到来しました。これまでも、足利直義や佐々木高氏などが、吉野に和平の働きかけをしたこともありましたが、吉野では、北朝の解消、足利氏の帰順を条件としない限り、交渉に応じない態度を堅持したので、ついにまとまりませんでした。しかし、事態がここに至って、吉野方でも折れざるを得ず、一三九二(元中九)年義満の議を容れて、後亀山天皇は京都に還幸し、北朝の後小松天皇に譲位するという形式で神器を伝え、五七年にわたる対立は解消して、ここに両朝の合体が成立しました。和平の条件として、将来は両朝が交互に皇位につくことが定められましたが、これは実現されませんでした。この南北朝の内乱については、最近、南北両朝の対立、吉野朝廷と足利政権の抗争によって発生したものではなく、地方農村社会における、荘園領主の支配に反抗する農民や、独立した領主に成り上ろうとする地方武士たちの広汎な、革新的な運動によるものであったと考えられています。
2024年04月25日
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楠木正成の子正行(まさつら)が河内四条畷(なわて)の戦いで戦死したことは、吉野方には大打撃であり、天皇は一時吉野を出て大和の賀名生(あのう)に遷られたほどでした。九州では、征西将軍宮懐良(かねなが)親王を奉じて、菊池武光・武朝らが活躍しましたが、親王の薨去後、その勢いはおとろえました。このような頽勢にあって、吉野の朝廷が、後醍醐天皇の後、後村上.長慶・後亀山と五〇年にわたって存続したのは、吉野が要害の地であった上に、伊勢・紀伊を通じて、東国や四国・九州との海上連絡を確保し得たからであり、また吉野の朝廷が正統の天皇であるという、後醍醐天皇以来のかたい信念に支えられていたからです。それとともに、足利氏の内訌も、吉野の朝廷に対する圧力を弱める働きをしています。足利氏の内部では、尊氏.直義兄弟の争い、尊氏.直冬父子の争いに加えて、執事高師直(こうのもろなお)との争いがあり、一時とはいえ、吉野方に京都を回復されるという事態さえ生じました。しかしそれもしだいに解消し、尊氏から義詮を経て三代義満のころには、足利政権の基礎もかたまり、吉野朝廷に対する圧力も圧倒的になりました。
2024年04月24日
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吉野の朝廷では、恒良親王.尊艮親王を奉じて北国に下った新田義貞は、越前金ガ崎城で敗れ、ついで藤島に戦死し、北畠顕家は義良親王を奉じて陸奥から再び西上しましたが、和泉石津の戦に戦死し、頼みとする武将を次々に失いました。天皇は北畠親房・結城宗広らに、義艮親王・宗艮親王を奉じて東国に向わせましたが、途中暴風のため船隊が四散して、親房だけようやく常陸小田城に入ることができました。やがて後醍醐天皇が崩御し、後村上天皇が立たれたが、なお幼少で、吉野朝廷は日とともに頽勢に向いました。指導者としてはただ一人北畠親房で、彼は小田城を失ったのち、関・大宝の二城に移ったのですが、これもおちいったので、ついに吉野に帰り、京都回復に専念しました。
2024年04月23日
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尊氏は九州で菊池武時の子武敏を破り、少弐・大友・島津等の諸豪族をしたがえて東上の準備を整え、海陸両道から大軍を率いて京都に向います。楠木正成はこれを摂津湊川に迎え戦って死に、千種忠顕・名和長年らも京都で戦死したので、天皇は難を叡山にさけられた。尊氏は九州へ敗走の途中持明院統の光厳院の院宣を受けて朝敵の汚名を逃れる方策をとり、京都を回復すると光厳院の弟典仁親王の践詐をはかり、これに神器を譲られんため後醍醐天皇に和睦還幸を請いました。天皇は一且これを容れましたが、尊氏に屈服する意志はなく、一三三六(延元元)年逃れて吉野に遷られ、典仁親王に授けた神器は偽器であったとして、依然在位を主張しました。これに対して、京都には尊氏が立てた持明院統の光明天皇があり、二人の天皇が同時に並立し、二つの朝廷が存在するという異変が生じました。当時吉野方を南方、京都方を北方といったが、南朝.北朝とも併称しました。これから両朝の和平まで五七年間、両朝が対立し、内乱が続いたので、この間を南北朝時代といいます。
2024年04月22日
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尊氏は好機訪れたとみてとり、征夷大将軍に任ぜられて時行を討つことを請うたが、許されなかったので勅許を待たずに東下し、時行を討って鎌倉を回復しました。新政権に不平を抱き、幕府の再興を望む武士たちは、みなこれに従いました。護良親王を除いた尊氏にとり、次の相手は義貞です。義貞も尊氏と同じく源氏の名門で、天皇の信任も篤く、越後守で、上野・播磨介を兼ね、護良親王につぐ有力者です。尊氏は直義の名で義貞追討の檄文を諸国に出し、朝廷にもこれを請いました。朝廷はこの請を退け、尊氏追討のたに護良親王を奉じて義貞を東下させました。義貞の軍は竹下の戦いに敗れ、京都は義貞を迫って西上した尊氏の占領されました。しかし遠く奥羽から馳せ上った北畠顕家が到着して、京都の治安は回復され、尊氏は九州に敗走しました。
2024年04月19日
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中興事業に協力した武士の多くは、幕府に対して不平を抱く人々です。彼らは幕府を倒すことによって、自己の地位を安定させ、さらにそれがよりよくなることを期待したので。天皇の理想を理解し、それに協力しょうとしたわけではあえいません。期待に反して恩賞が少かったことに不平をもらし、訴訟の裁決がおくれることに不満の声をあげたのは、このような人々です。彼らはしだいに中興政権に望みを失い、彼らの要望をみたしてくれる人の出現を望みます。彼らの不平を利用し、それを結集したのが足利尊氏です。足利氏は義家の第三子義国から出た源氏の名門で、下野国足利荘に住んで足利氏を称し、高氏の代には上総・三河両国の守護として重きをなしていました。足利氏は、早くから北条氏に代って政権を握ろうとする野心をもっていたといわれ、それが高氏のときに実現します。建武中興の成功は、幕府に対する彼の寝返りによるもので、天皇は恩賞を授け、従三位に叙し、参議に任じ、武蔵守となし、天皇の譲尊治の一字を与えて尊氏と名乗らせたほどです。したがってその勢威には、断然他を圧するものがありました。これに対抗するものは、征夷大将軍護良親王と新田義貞でした。尊氏と両者との抗争は、まず親王と尊氏との対立となって表面に現われ、これは尊氏の勝利に帰し、親王は鎌倉に幽閉されました。たまたま北条高時の遺子時行が中先代(なかせんだい)の乱をおこし、鎌倉をおとしいれたので、直義は親王を殺して三河に逃れ、これを京都に報じました。
2024年04月18日
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新政権に対する信頼が失われていくときに、朝廷では、大内裏の造営を計画し、安芸・周防を料国に宛て、諸国の地頭にもその費用を課し、夫役を徴した上に、期日におくれるとそれを倍額にして徴収したので、新政に対する不満はさらに高まります。東寺領若狭国太良荘は、鎌倉時代の末、正安年間から関東御内領として北条氏の支配を受けていましたが、建武中興でその地頭職は東寺に返還せられました。太良荘の名主たちはこのような処置に喜悦の思いをしていたところ、その期待ははずれて、前代になかったような新税まで賦課され、農繁期にさえ苛酷な徴収を受けるに至ったので、その免除を東寺に訴えた文書が残っています。これは新政権に対する名字百姓等農民の期待と失望の様を如実に示しています。
2024年04月17日
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中央.地方の行政機構は整備されましたが、その施政には不手際が多く、中興政権はわずか二年で崩壊しました。新政の成否は、恩賞と土地問題の処理にありましたが、恩賞の給源としての土地には限りがあるのに、希望者はあまりにも多く、十分に行きわたらない上に、寺社や公家には厚かったが、武家には薄かったので、公武間に感情の疎隔が生れ、新政に不平を抱く武士も多かったのです。また従来の土地知行をそのまま認めないで、新たに勅裁によって知行権を安堵すると発表したので、従来の権利保持者の間に多大の不安をひき起しました。それで恩賞の申請や権利確認の訴訟のため、全国から京都に上る人々はおびただしい数にのぼったので、一三三三(元弘三)年七月、朝廷では、北条氏の党類のほかは、所領を安堵し、訴訟のための上洛を止める命令を出しました。すなわち北条氏の旧領以外は、原則としてその知行権を変更しないことにし、しかも恩賞方や雑訴決断所の言論は渋滞し、雑訴決断所では、一旦下した裁決を取消すような失態をしばしば演じたので、新政権に対する信頼はしだいに失われました。
2024年04月16日
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後醍醐天皇は伯耆を発し、途中光厳天畠の廃立を宣言し、京都に還幸するや、新政を開始しました。翌年改元した年号をとって、これを建武中興といいます。中興政治の理想は、天皇観政を中核とする公家一統の政治を奨現することです。文武の道は一つであり、公家も武家もともに一体となって、政治を振興すべきだというのです。後醍醐天皇は醍醐天皇の延喜の世の再現を目標として院政を認めず、関白を廃して、みずから記録所で政務を総轄されました。記録所はその権限を拡充して、司法・行政の中枢とし、所領問題処理のために雑訴決断所をおいて、おもに公家を出仕させ、中興事業に功労のあった人々の恩賞を取扱う恩賞方には公家・武家をあて、軍事・警察を担当する武者所には、新田義貞を頭人として、中央機関を整えました。また地方制度としては、従来通り国司と守護を並置し、公家・武家を問わずこれに任じました。さらに皇子も政治に与るべきであるとして、護良親王を征夷大将軍とし、奥羽・関東は京都から遠く離れているので、奥羽には義艮親王を下し、北畠顕家を陸奥守に任じてこれを輔けさせ、関東には成良親王を下し、尊氏の弟足利直義(ただよし)を相模守に任じてこれを輔けさせました。
2024年04月15日
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後醍醐天皇は隠岐に遷っても譲位の意志はなく、光厳天皇の在位を認めず、あくまでも討幕の志をすてません。護良親王も楠木正成も幕府に抑えられることなく、親王は近畿地方で活躍し、叡山の末寺を中心に悪党などの組織的動員をすすめ、さかんに令旨を発して兵を募り、正成も河内の金剛山に千早城を築いて、攻め寄せる関東の大軍を悩ませました。これを聞いて肥後の菊池武時、伊予の土居通増.得能(とくのう)通綱、播磨の赤松則村らも相ついで立ちました。この情勢を見て、ひそかに隠岐を脱出した後醍醐天皇は、伯耆の名和長年に迎えられて船上山に入り、諸国に討幕の輪旨を出しまた。幕府は足利高氏を伯耆に向わせましたが、高氏は輪旨を受けて丹波篠村八幡の社前で幕府に反旗をひるがえして、千種(ちぐさ)忠顕・赤松則村らと六波羅をおとしいれ、関東でも護良親王の令旨を受けた上野の新田義貞が鎌倉に攻め入ったので、北条高時は一族とともに自殺し、幕府はここに滅亡しました。一三三三(元弘三)年のことです。
2024年04月12日
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正中の変により、幕府の天皇に対する瞥或は厳重になり、皇太子邦艮親王薨去後は、天皇の皇子を皇太子に立てることを拒否し、量仁親王を皇太子とします。これで幕府を倒さない限り、天皇が皇子に位を譲って、その理想を実現する望みは全く失われました。正中の変の失敗にもこりず、再挙の計画は俊基を中心に推進された。諸社寺の勢力を利用するため、法勝寺の円観・醍醐寺文観に働きかけ叡山には第一皇子尊雲法親王(護良:もりなが)・第三皇子尊澄親王(宗良)を相ついで座主とし、天皇みずからも日吉社.延暦寺あるいは春日社・東大寺・興福寺に行幸して、僧徒の心を得ようとしました。また近畿の諸荘園の悪党とも連絡をとり、組絨的に動員することも考えました。しかし、この計画も、武力討幕を反対する吉田定房の密告により、一三三一(元弘元)年またもや未然に発覚しました。幕府は文観・俊基を捕えて、ついで天皇をも捕えようとしたが、天皇は京都を出て山城の笠置寺に逃れられた。河内の楠木正成は召に応じて立ち、赤坂城に拠ったが、関東の大軍を受けて、赤坂・笠置ともにおち、天皇は補えられて六波羅に押しこめられました。幕府は、量仁親王を立てて光厳天皇とし、後醍醐天皇の在位を認めず、承久の例にならって天皇を隠岐に遷し、尊雲・尊澄両法親王を土佐・讃岐に移すこととし、関係の公家.僧侶は多く遠流に処し、資朝・俊基を斬りました。これが元弘の変です。
2024年04月11日
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持明院統の花園天畠のあとを受けて皇位についたのは、大覚寺統の後醍醐天皇です。天皇は後宇多天良の第二皇子で、近臣とともに僧玄恵について宋学を学び、革新的思想を身につけられました。即位の初めに、御父後宇多法王が院政をとられたが、三年にしてこれを廃されたので、二百三十年来の慣例はここに絶え、天皇は記録所を復活してみずから政務にはげみ、広く人材を登用しました。ところが天皇即位の際、持明院・大覚寺両統と幕府の協定により、天皇の皇太子には甥の邦艮親王、そのあとには持明院統の量仁親王が決定しました。そこで大覚寺統のなかでも邦艮親王の即位を望むものがあり、持明院統の公家とともに幕府に向って天皇の譲位促進連動をおこしました。これに対抗し、天皇は近臣日野資朝・同俊基らと無礼講に托してひそかに討幕の計画を立て、資朝を関東に、俊基を紀伊にやって同志を募らせました。彼らがねらったのは、弱小御家人の零落にもかかわらず、しだいに強盛になってきた地方の有力御家人層です。一三二四(正中元)年、京都に集った兵で、まず六波羅を襲う計画でしたが、ことが未然に洩れ、関係した武士は殺され、資朝・俊基は捕えられて鎌倉に送られました。これが正中の変です。資朝は責任を問われて佐渡に流されましたが、俊基は許され京都に帰され、累は天皇にまで及びませんでした。
2024年04月10日
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幕府の対朝廷策の失敗も崩壊のきっかけの一つです。承久の乱後公武両政権の関係は一変し、治世の君として院政を担当する上皇の決定は、幕府の手に握られることになりました。朝廷では、後嵯峨天皇は、在位四年ののち一二四六(寛元四)年、第一皇子後深草天皇に譲位して院政をとり、ついで第二皇子亀山天皇を皇位に付けました。そして亀山天皇の皇子を皇太子としたが、院政の後継者は決定せず、それを幕府に一任して崩ぜられました。執権時宗は、後嵯峨法皇の后大宮院に諮って亀山天皇に決定しましたが、これに対する後探草上皇側の不満は、その子孫である持明院統と、亀山天皇の後である大覚寺統との間に、皇位継承をめぐるはげしい対立の糸口をつくります。幕府は一三〇八(延慶元)年両統鼎立の議を申し入れ、この対立を利用して、朝廷を操縦したが、問題の複雑化にしたがい、その立場が窮境におちいることを恐れ、一三一七(文保元)年使を京都に遣わして、幕府は今後皇位継承に関与しないから、践祚・立太子ともに両統の和談によって決せられたいと申し入れました。これが文保の御和談です。しかし紛争が解決されるはずはなく、幕府の案によって、両統交互に良太子を立てることになりました。
2024年04月09日
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御家人の所領を保護する必要に迫られた幕府は、一二九七(永仁五)年徳政令を発布して、御家人所領の質入・売買を禁止し、すでに売却された土地は無償でもとの持主に取戻させ、また金銭貸借に関する訴訟はいっさい受理しないことにしました。しかし、この徳政令も、翌年には廃棄せざるを得ない状態で、幕府の力は、とうてい御家人の窮乏・零落を救済することができないところまできていました。その反面、有力な御家人のなかには、弱小御家人をその支配下に吸収して、幕府との関係においては対等の立場にあるものを、自己の被官とするものが生れてきました。これには、南北朝・室町時代の守護制の出発点としての意義が認められます。
2024年04月08日
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得宗専制の強化と内管領の抬頭は、外様(とざま)と呼ばれた一般御家人との対立を生じ、時宗の死を機として、一二八五(弘安八)年の霜月騒動となって現われました。これは幕府草創以来の名家である安達泰盛と内管領平瀬綱との衝突ですが、泰盛は敗北し、その一族はことごとく滅ぼされました。これは単に泰盛と頼綱との衝突というばかりでなく、得宗勢力の興隆を意味し、他面、得宗が一般御家人から孤立し、その没落を早める一因にもなります。また、幕府存立の基盤をなす御家人の窮乏・零落が、幕府の衰亡をうながす大きな要因でもあります。当時一般に慣行された分割相続制は、代を重ねるごとに御家人の所領を狭小にしたが、蒙古の来襲と戦後の警備の負担は、御家人の経済状態をさらに窮乏に追いやりました。これまでの内乱とちがって戦功の恩賞を幕府に要求しても、没収地がないので幕府は、それに応ずることができません。また貨幣経済の進展は、荘園や名田の領有に基礎をおく御家人の経済生活を動揺させ、父祖伝来の所領を非御家人や高利貸に売却するものが多くなり、御家人の零落は年を追って著しくないました。
2024年04月05日
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1333年7月4日(元弘3年/正慶2年5月22日)に、元弘の乱で鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇が、7月17日(和暦6月5日)に「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した建武の新政でしたが、鎌倉幕府においては、蒙古の来襲を契機として、北条氏得宗(家督)の独裁専制が強化されていきました。時宗は、外戚や得宗の被官(御内人:みうちぴと)をその私邸に集めて寄合を開き、それを従来の評定衆の合議制に代る奨質的な幕府の政務決裁機関としました。それとともに、評定衆・引付衆あるいは諸国の守護職等の要職を北条氏一門に集中して、得宗の強い統制下におき、また侍所頭人・御恩奉行など、地位は低いが奨質的に重要な機関に得宗の被官を配しました。こうして、得宗専制は時宗から子良時、孫高時に至ってしだいに強化され、幕府の最高権力は、執権の地位よりも、むしろ北条氏の得宗たる地位に附随することになりました。それを背景とする得宗被官たる御内大の頭は、侍所頚人となって内管領と呼ばれ、大きな権勢を扱うようになりました。
2024年04月04日
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元の世祖フビライ・セチェン・ハーンがつくった北モンゴルから南シナ海におよぶ帝国は、元朝の中国に君臨した最後の皇帝である恵宗トゴン・テムル・ハーン(順帝)の治世にその組織が完戊し、一三六八年から元朝にかわって支那を支配するようになった明朝によって、その政治・経済制度が継承されました。明の太祖洪武帝(在位一三六八~一三九八年)は、社会の最下層の貧民、それも乞食坊主から出発して、白蓮教の秘密結社の内部の階段を一歩一歩のぼりつめ、四十一歳でついに皇帝になりました。明時代は、政治制度の発達でも重要な時期ですが、皇帝(国王)の独裁がしだいにつよまっていきまたう。つぎの清の時代には、皇帝の独裁がますますつよまっています。宋時代に生まれた市民社会の芽は、こうして開花することなく現代をむかえるわけですが、この点が、その後の支那を停滞させた一つの要因になっています。
2024年04月03日
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