秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

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2022.02.04
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カテゴリ: 政治
石原慎太郎元東京都知事が亡くなられました。

政策的には奇をてらった大衆受けするものが多いように感じ、また石原元知事の政策の影響で、都の職員だった家族が困ったこともあり、あまり好きではありませんでした。

ただ、ネーミングのセンスは結構好きでした。東京環状線(ゆめもぐら)になるはずだった地下鉄名も、大江戸線に変更されてよかったと思います。ゆめもぐらは可愛い名前ですが、日常大人が使うにはちょっとこっぱずかしい気がします。ビッグエッグとか、E電とか、一時Jリーグの発足の頃流行った名前にJなんちゃらとかつけるのとかと同じように、死語になっていたように思います。

自分の母校は東京都立大学でしたが、自分が通っていたころの目黒のキャンパスは狭く、学校名もあか抜けない感じで、愛着があまり感じられませんでしたが、南大沢に新校舎が出来て、その後校名も石原都知事が校名を首都大学東京に変更し、結構センスがいいなと気に入ってましたが、小池百合子さんが元に戻してがっかりしょんぼり

ご冥福をお祈りします。
2022.2.10リンク切れにより削除と内容の追加。



■参考リンク
2022.02.01石原慎太郎さんが死去 都知事として辣腕 「ゆめもぐら」却下し大江戸線に決定も著者:ENCOUNT編集部
作家で元東京都知事の石原慎太郎さんが1日午前亡くなった。89歳だった。
都知事として数々の手腕 アントニオ猪木氏も追悼
 抜粋
 68年に参院選に初当選し政治家に転身。環境庁長官や運輸相などを歴任した。95年の議員辞職後、99年に東京都知事選に出馬。有力候補を抑え当選を果たすと、4期目の2012年に辞職するまで約13年間都政を担った。
 ディーゼル車の排ガス規制や新銀行東京の設立、東京都立大学改め首都大学東京(20年4月に再度名称を戻す)の命名など、都知事として数々の手腕をふるった。
 また、現在の都営大江戸線の路線名を決める際、いったん公募で決まった「東京環状線」(愛称は「ゆめもぐら」)を却下し、「大江戸線」と決定した。実際の路線が「6」の字を描き、完全な環状線ではないことが理由だった。

Wikipedia:東京ドーム
概要
日本初の全天候型多目的スタジアムである[4]。後楽園球場の実質的な代替球場として後楽園競輪場の跡地に開場[5]。1988年3月17日にオープニングセレモニーが開かれ、3月18日にこけら落としイベントとして、巨人と阪神のオープン戦が行われた[4]。
愛称は「BIG EGG(ビッグエッグ)」[3] であったが、2000年の時点でこの呼称は公式に廃止されている[4]。

Wikipedia:E電
E電(イーでん)とは、1987年(昭和62年)の日本国有鉄道(国鉄)分割民営化に伴い、「国鉄(近郊区間の)電車」の略称である「国電」に代わるものとして、東日本旅客鉄道(JR東日本)が決めた愛称(造語)[1]。しかし一般にはこの愛称が定着することはなかった[2]。英語表記の場合は「INTRA-CITY AND suburban TRAINS」(「都市近郊区間列車」の英訳)[3]。
「E電」の「E」には「East、Electric、Enjoy、Energyなどの意味が込められている」と説明された[4][5]。現在もJR東日本の社内用語としては残存している[3][5][6]。愛称としては定着しなかったものの、現在においても「死語」として有名な言葉のひとつである[5][6]。
登場の経緯
「国電」、「中距離電車」、および「電車特定区間」も参照
都市部の近距離電車について、国鉄時代は主に首都圏で「国電」という用語が広く使われていた。鉄道省時代は「省電」、それ以前の鉄道院時代は「院電」であった。中距離電車(中電)に対する概念であり、JR発足後の電車特定区間におおむね相当する。
国鉄分割民営化により「国鉄電車」でなくなったため、意味上のずれが生じることになった。そこで「国電」に代わる新たな愛称を、分割民営化直後の1987年4月20日から5月5日に一般公募した[1]。その結果、59,642通(2,513案)の応募があった。応募では1位は「民電」5,311通となり、以下2位「首都電」2,863通、3位「東鉄」2,538通[5]、4位「日電」2,281通、5位「民鉄」1,786通と続いた[4]。
その中から小林亜星、沼田早苗、JR東日本副社長の山之内秀一郎はじめ同社役員6名による選考委員会により[4][7]、2位の「首都電」、20位の「E電」[5]の2つに絞り込まれた[4]。なお、8位までは1,000通以上の応募があったが、20位の「E電」は390通に過ぎなかった[1]。
5月13日には新愛称を「E電」と発表[1]、翌14日には「E電」のヘッドマークを装着した列車も走り出した。
以下略

Wikipedia:都営地下鉄大江戸線
路線名決定までの経緯
1991年(平成3年)12月の開業当初は都市計画路線名の「12号線」のままで営業を行っていたが[30]、1999年(平成11年)8月初旬、2000年(平成12年)4月20日の環状部一部区間(新宿駅 - 国立競技場駅間)の先行開業を発表するとともに、プロ野球セントラル・リーグ会長(当時)の高原須美子を委員長とする都営地下鉄12号線路線名称選考委員会によって路線名の公募が行われた。
その結果、同年11月末に、応募が多かった候補の一つである「東京環状線」(愛称として「ゆめもぐら」)が第一候補に挙げられたが、東京都知事(当時)の石原慎太郎は「寝てても何回まわっても同じ所に戻ってくるのを環状線って言うんだよ」「紛らわしくて山手線とか大阪環状線を使っている人に迷惑」などとして難色を示し、再選考を指示するとともに、「俺は『大江戸線』なんてのがいいとおもう」と第2位得票の案を推したため、交通局は委員会に陳謝の上、愛称案であった「ゆめもぐら」も含め選考を白紙に戻した上で改めて選考し直した結果、同年12月15日の委員会で大多数の支持を得て「大江戸線」に決定した。
委員会では当初、新宿などは江戸の範囲(朱引)の外部にあたる[注釈 7] として議論があったが、交通局では、路線がこれを囲むように走ることと、「大」を付けることにより地理的、経済的、文化的な広がりを表現できるとして委員会を説得し、決定にこぎつけた。なお、最も多かった名称は「都庁線」だった。

首都大学東京、再び都立大へ 小池知事発表、20年から斉藤寛子 2018年8月24日 19時36分 朝日新聞
東京都の小池百合子知事は24日の定例会見で、「首都大学東京」(八王子市)の大学名が、2020年4月に旧名「東京都立大学」に戻ると発表した。大学名をめぐっては、関係者から「知名度が下がった」など不満の声が相次いでいた。
首都大学東京は、石原慎太郎知事時代の05年に都立大など4大学・短大を統合して発足した。当初から学内では名称に不満があり、昨秋の学生対象のアンケートでも半数近くが「改善してほしい点」として「大学名・知名度」と答えた。
 小池知事は7月、都庁内の会議で「都立の大学であると分かりやすく発信するため、『東京都立大学』も一つの考え方」と発言。同大が今月22日に審議会を開き、24日に都に名称変更の方針を伝えたという。小池知事は会見で「成果を都に還元するという存在意義が明確になる」と話した。
 都立大と同時に、産業技術大学院大学も都立産業技術大学院大学に変更する。(斉藤寛子)

Wikipedia:石原都政
首都大学東京
設立前後の経緯と大学の詳細については首都大学東京を参照
「全く新しい大学をつくる」との公約により、2005年(平成17年)に設立された大学である。 一般の名称公募では「東京都立大学」が最多だったが、石原の意向で名称が「首都大学東京」となった[44]。





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Last updated  2022.02.10 23:43:09


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