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2022.06.16
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今回のプロジェクトXは昭和20年代の広島東洋カープ球団創設時の金銭的苦労のお話です。最近プロ野球は全然観てませんが、少し前の時代は広島は選手が一流になって年俸が上がると払いきれないといって、他球団に放出したニュースをみたような記憶があります。親会社のバックを持たない市民球団ゆえの悲哀かと思っていましたが、大昔はもっと大変なのを知りびっくりしました。

最初の監督の石本監督は阪神で2度優勝経験があったり、名監督だったそうです。新聞記者出身でもあり、創設期の広島で、グランド内外で大奮闘されたおかげで、チームは解散せず、今があるそうです。Wikiediaを見るとこの後もいろいろあり、球団史をドラマ化してもいいように思います。広島というチームについて再認識しました。文句なしに面白いおすすめの作品です。

広島カープの由来も面白いです。



2025.9.26リンク切れにより削除、内容の追加。








■参考リンク
NHKプロジェクトX:熱き心、炎のごとく 史上最大の集金作戦 - 広島カープ市民とナインの熱い日々 紀伊国屋書店
内容説明
広島カープ。県や市が出資する日本で唯一の“市民球団”として、昭和25年に誕生した。原爆で深い傷を受けた広島にとっては、復興への大きな希望の星だった。
 初代監督を引き受けたのは、石本秀一(52)。広島商業を3度の全国制覇に導き、その後タイガースの監督も務めた、野球の鬼だった。両親と兄弟を原爆で失った石本は、故郷復興へに役立ちたいと、広島に駆けつけた。
 しかし大企業の後ろ盾がない球団は深刻な資金不足だった。有名選手を集められなかった。石本は、高卒の新人や、喫茶店のマスターをしていた元プロ野球選手までかき集めた。合宿所の窓は閉まらず、雨が吹き込んだ。遠征の時は3等列車の床で寝た。シーズンが終了してみれば圧倒的な最下位 だった。
 そして、結成翌年の3月、資金難から、カープの解散が発表された。石本と選手たちは唖然とした。
 その時、立ち上がったのが広島の市民たちだった。路面電車の運転手、坂田政利(23)は私設応援団を結成。球場の前で一人一人に募金を呼びかけた。
 「復興への希望の灯を消すな!」。それを合い言葉に、全市民を巻き込んだ募金作戦が展開されていく。それは想像を超えた壮絶なものとなっていった・・・。
“市民球団”広島カープが、存続の危機を乗り越えていく感動のドラマを描く。

闘魂こめて、六甲おろし、燃えよドラゴンズ!、それ行けカープ 〜若き鯉たち〜、東京音頭、行くぞ大洋と、阪神タイガース バース、掛布、岡田 伝説のバックスクリーン3連発、昭和50年 広島カープ初優勝まで

Wikipedia:広島東洋カープ
広島東洋カープ(ひろしまとうようカープ、英: Hiroshima Toyo Carp)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属。通称は、「広島」「カープ」。
概要
特定の親会社を持たない市民球団を源流としており[注 1]、原爆に打ちひしがれた広島の街に希望の光を与えることを創設目的とする[5]という、他球団と比較して特異な歴史を有する[6][7][8][9][10][11][12]。地元・広島の自動車メーカーであるマツダが球団の3分の1以上の株式を保有する筆頭株主であり、球団名の「東洋」もマツダの旧社名「東洋工業」に由来する[13]。ただし、マツダは広島東洋カープを「持分法を適用していない非連結子会社」と位置づけており[14]、経営陣の派遣は行う[注 2]ものの、球団への資金提供(赤字補填など)といった積極的関与は行っていない。むしろ、マツダ創業家である松田家一族の所有株式のみを合計するだけで議決権ベースでは過半数に達する[注 3]。歴代のオーナーも松田家から出ていることから、実質的には同家による同族経営であるとの見方もある[15]。「市民が直接株式を保有する」という意味での市民球団ではないが「特定の企業に全面依存せずに経営を成り立たせている」という意味では今なお市民球団のイメージを有する[13][15][16][17][18]。
球団の歴史
球団創設
1949年
正力松太郎の二リーグ構想の前から広島に球団を作ろうという構想は存在していた[10][12][19]。広島は昔からスポーツが盛んで[20]、特に野球に熱狂的な土地柄[21][22][23]。戦前から広島商や広陵中、呉港中といった名門校があり、鶴岡一人や白石勝巳、藤村富美男などの名選手を輩出した野球どころという下地があった[9][10][24][25][26]。
正力の二リーグ構想が公に出た4月から[10][27][28]、4か月後の8月中旬、中国新聞社東京支社長・河口豪は、東京支社から広島本社に帰る車中で、郷土の有力者、広島電鉄専務・伊藤信之、広島銀行副頭取・伊藤豊、広島県総務部長・河野義信の3名と顔を合わせた[29]。四人の話題はプロ野球の話に終始。広島は被爆後の闇市時代が続き、青少年の心の荒廃が案じられる時代で、健全な娯楽を与えたい、それにはプロ野球が...と四人の意見が一致し、話が一挙に飛躍した[13][29][30]。河口は戦後、カープ誕生の前に広島でプロ野球の興行を手掛けた経験があり[注 4]、三人は河口に基本的な計画を立てるように依頼して別れた。3日後、銀座の東京支社に帰った河口のもとに広島二区選出の衆議院議員・谷川昇と金鯱軍代表の広島県人・山口勲が訪ねてきて、「谷川さんを中心に、広島にプロ球団を作ろうと思って相談に来たんですよ」と話した[30]。谷川は当時公職追放中で公務からは外されていた[12]。谷川は元々サッカー選手で野球とは無縁だったが[10]、山口に助力を要請され[31]、自身の名誉回復は二の次で、何より「故郷にプロ球団を創りたい」という情熱で動いていた[12][32]。先に伊藤らから賛同を得ていたこともあり、話はスムーズに進み、谷川を中心とした青写真作りを開始した[29]。谷川は実務は河口と山口に任せて、ニックネームの想を練った[29]。アトムズ、ブラックベア、レインボー、ピジョン、カープを有力候補としたが、鯉は出世魚であるし、鯉のぼりは躍進の姿、太田川は鯉の名産地で広島城が鯉城と呼ばれていること、広島県のチームなら「カープ」をおいて他になし、と「広島カープ」と名付けた(詳細は後述)。谷川の要望で、中国新聞社が近く生まれる広島カープの宣伝を一手に引き受けることになり、河口の打診したところ中国新聞社代表取締役・築藤鞆一が大賛成した[29]。
9月28日、中国新聞紙上に初めて「広島カープ (Hiroshima Carp)」という五文字が一般にお目見得した[29]。「チーム名は"鯉" 広島プロ球団誕生か」という見出しで、「チーム名はカープ(鯉)と決定した」と書かれた[28][29]。翌9月29日の同紙に「広島市にフランチャイズをおく広島野球クラブ・カープ(鯉)の創設は急速に進み、9月28日午後、谷川昇、築藤鞆一(中国新聞社代表取締役)、伊藤信之(広島電鉄専務)の3氏[注 5]連名をもって正式に日本野球連盟に届け出が行われた」と書かれた[28][33][29]。11月28日に谷川は巨人軍代表と会見し、正式にセ・リーグ参加承認の通知を受けた[注 6]。河口が早稲田大学出身のため、早大OBの伊達正男に監督を依頼するつもりでいたが[19]、中国新聞の記事を読んだ大陽ロビンスの監督・石本秀一が「郷里の球団で是非とも最後の花を咲かせたい」と河口に売り込みに訪れ[19][29]、郷土チームにうってつけの監督と、一も二もなく12月3日、初代監督に石本の就任が決定した[10][29][34]。この時、石本は「私が大陽の二軍選手をそっくり連れて行く。チーム作りに心配はかけません」と言うので[29]、チーム作りは石本に一任した[35]。石本の監督就任ニュースは大きな反響を呼んだ[29]。当時の既存チームの主力には広島出身者がたくさんいたため[9]、広島県民は「みんな帰って来たら強いチームが出来るだろう」ぐらいに考え、選手集めには楽観視していたといわれる[9]。設立資金は、広島県と広島市、福山市など県内の各市で出すことにした[35]。本拠地は広島総合球場とした。
核たる親会社がないため球団組織に関するバックアップが十分ではなく[注 7]、12月5日に広島商工会議所で開かれた球団発会式に参加し石本は、この時点で契約選手が1人もいない事実を知った。大陽ロビンスが松竹から資金援助を受け松竹ロビンスになるために、二軍選手の放出をストップしたからである[29]。球団幹部にはプロ野球に関わった者は皆無だったため、選手集めは監督・石本の人脈に頼る他なかった。石本は広島出身選手に「みんな、広島に帰って来い!」と呼びかけ[37]、既に引退した選手や以前の教え子まで声をかけ、12月29日、コーチにすると口説いて無理矢理入団させた灰山元治、投手では内藤幸三、野手では白石勝巳、岩本章ら23人を入団選手として発表した[29]。
1950年代
1950年
1月15日、西練兵場跡(現在の広島県庁一帯)でチーム結成披露式が行われ[38]、ファン約1万人が押し寄せた[30][注 8]。人気選手、前巨人の白石勝巳がまだ広島に到着しておらず、石本監督が一番有名であった[29][41]。この日は辻井弘ら7名の追加選手を発表している。翌16日には広島総合球場で新人採用テストが行われ[43][44]、この中にいた長谷川良平は即座に石本監督の目に止まり、21日に選手契約を結んでいる[8]。16日から合宿に入り、西日本重工業広島造船所(現・三菱重工業広島製作所、広島市西区観音新町)の社員寮を宿舎として借りた[19][30]。暖かいキャンプ地に行けるはずもないので、合宿所近くの広島総合球場を県の計らいで無料で2月1日からキャンプを張った[30]。石本監督は集金旅行(金策奔走)で忙しくて不在の日が多く、白石勝巳助監督が事実上の指揮官であった[30]。決して高額ではない合宿代も払えず、三菱重工から明け渡し請求を起こされ[12]、4月に合宿所は皆実町(現・南区)の「御幸荘」に引っ越す[10][30][32]。
3月10日に福岡市の平和台野球場でセ・リーグ開幕戦が行われ、西日本パイレーツとのこの年から加盟の球団同士の公式戦初試合となったが、5-6で敗れている[33]。3月14日の国鉄戦で打線が奮起して16-1と球団初勝利を挙げたものの、その後チームは著しく低迷する。11月13日の大洋とのダブルヘッダーで共に敗れ13連敗を記録するなど惨憺さんたんたるチーム状況で、この年優勝した松竹ロビンスには59ゲーム差をつけられた8位(最下位)に沈んだ[45]。さらに勝率.299で、両リーグで唯一3割に到達できなかった。白石勝巳が遊撃手としてベストナインを受賞した。
この当時は試合で得た入場料(1試合あたり20万円)を開催地に関係なく、勝ったチームに7割、敗れたチームに3割配分していた[43]。そのため当初1,100万円を見込んでいた入場料収入はチーム成績に比例して落ち込んでいった。さらに資本金調達については、県民から株式を公募する他、広島県や県内各市からの出資を見込んだ計画であったが、各自治体の予算執行が次年度に持ち越されたため、議会が金を出すのに難色を示した[35]。当初2,500万円を予定していた資本金は1950年4月の時点でわずかに600万円しかなかった。5月以降、ようやく各自治体からの出資が相次いだものの、最終的に予定額2,000万円の半分しか集まらなかった。このため「株式会社広島野球クラブ」が設立できたのは1950年9月までずれ込んだ[19]。
こうして開幕から僅か3ヵ月で経営危機説が流れるようになった[46]。5月の時点で早くも選手に支払う給料の遅配が発生、二軍選手にいたっては給料が支払われたのは4月のみだった。130~140万円相当のユニフォームや、グローブなど、野球用具一式を運動具店に納入させたものの代金が払えず、その運動具店を倒産させた[19] 
6月25日、セ・リーグ連盟は加盟金300万円の支払いを求めてきたが、これに応じることができなかったため、やむを得ず経営合理化策として給料の支払いが滞っていた二軍選手全員を汽車賃だけ渡して郷里に帰らせている[注 9]。さらに7月12日に竹原市出身の池田勇人大蔵大臣に「後援会会長」の名目で球団幹部に就任してもらうことで、ようやく連盟からの督促を回避した。リーグ加盟金300万円は足かけ3年間支払えなかった[19]。
12月7日、選手会は球団に対して「給料の遅配を解消すること」を旨とした要望書を提出し、受け入れられない場合は全選手退団も辞さないと通告した。これに対して12月26日、球団側は12月分の給料支払いとチーム再建策を選手会に提示し、ようやく選手会も了承した。
1951年
年明け早々、セ・リーグ連盟顧問に就任したばかりの鈴木龍二が、日刊スポーツ1月9日付け紙上で、2年目も資本の強化などの経営改善の見込みがないカープと西日本パイレーツに対して、「われわれは潰そうとしていない、何らかの形で残したいというのが希望だ。だから広島は大洋の傘下に入って"広島"とか"カープ"の名を残せばいい。西日本は今年どうしてもやっていけないなら"1年間休めばいい"」などと猛烈に批判した[46]。
球団は前年からの経済的苦境を脱するため親会社を持とうと、まずは寿屋(現・サントリー)に相談を持ちかけ、600万円で球団買収することで話がまとまったものの、「1年間の税金6,000万円のうち600万円を値切ること」を条件に求められ、後援会会長の大蔵大臣池田勇人に許可を求めたがもちろん「国家に仕える身でもあり、まかりならぬ」と却下されてしまった。続いて専売公社に話を持ち込み、こちらも買収に前向きな回答をもらったものの、「公社が球団を持つことに池田大臣の許可を貰うよう」条件を付けられ、結果「特例は認められない」と、またしても却下されてしまった。最後にはアサヒビールに売り込み、重役会では球団買収が承認されたものの、社長の最終決裁で却下されてしまった[48]。
こうして親会社が決まらないまま2月に入ると、遂に給料や合宿費の支払いができなくなり、3月16日から甲子園で開催予定であった準公式トーナメント大会の遠征費も捻出できないほど経済的に追い詰められた。白石助監督が「旅費がないなら甲子園まで歩いていこうじゃないか。ワシについて来い。軍隊時代を思えばできないはずがない」と意気盛んだったが[19]、3月に球団社長の檜山袖四郎、球団代表代理の河口豪、大平正芳(後援会会長・池田勇人の代理)はセ・リーグ連盟から呼び出され、「プロ野球は金が無いものがやるものではない」「早急に身売りしてはどうか」と厳しい叱責を受けた結果、3月14日、広島市の天城旅館で行われた役員会で当時下関市にチームがあった大洋との合併が決まり[45]、その日のNHKラジオが夜のニュースで「広島解散、大洋に吸収合併」と報じた[10][45]が、役員会に遅れて参加した石本らの説得で合併方針は撤回され、3月15日にナインは急行「安芸」で準公式トーナメント大会に出発。しかし旅館代がなく、選手は甲子園のアルプススタンド下の薄暗い部屋で雑魚寝した[19]。
石本は3月16日の中国新聞紙上で「いまこのカープをつぶせば日本に二度とこのような郷土チームの姿を見ることは出来ぬだろう、私も大いに頑張る、県民もこのさい大いに協力してカープを育ててほしい」と訴え[45][49][50]、3月20日には広島県庁前で資金集めの後援会構想を発表した[45][44][51]。
3月15日、前述の準公式トーナメント大会の上阪に帯同していた球団代表代理の河口豪、石本監督、球団監査役の横山周一は日本野球連盟関西支社において鈴木龍二セ・リーグ顧問と会談し、球団側は合併をせず継続させていく意思を伝えた。また、具体的な再建方策については、同月24、25日頃に池田勇人後援会長と永野重雄代表が連盟立会いのもとで協議することとなった。同15日に鈴木は甲子園球場の選手控え室を訪れ、チーム継続の了承を伝え、「セ・リーグとしては当初の予定通り7球団でペナント・レースのスタートを切る」と語っている[52]。こうして3月23日、鈴木龍二セ・リーグ顧問と河口豪球団代表代理との会談でチーム存続が正式決定した[33]。しかし数日後、連盟側は急遽先述の継続承認の内容を反故にした。球団側としては、連盟側がそれまでに要求してきた地元広島開催を除く過密なスケジュールを受け入れていたにも関わらず、チームとして安定的に試合を行えるようにさらに600万円の拠出金を要求してきた。この要求に対して球団側は、15日の鈴木談話と「全くくつがえっている」として、3月28日に開催された連盟の代表者会議にも出席しなかった。この代表者会議欠席がきっかけとなり、セ・リーグは第2節までのカープの公式戦日程を認めないという「日程延期問題」が発生した[52]。
連盟の通告を受けて、檜山袖四郎球団社長は3月30日に広島商工会議所において重役会を開き、「広島としてはあくまで既定方針通りにやってゆく。檜山社長が上京し連盟首脳と話合う」ことで決定した。翌31日に檜山は上京し、連盟当局者や在京の広島県出身の有力者にも積極的にあたり、4月2日に連盟の松島鹿夫セ・リーグ会長と会談し、球団側と連盟側の折り合いがついたことにより[52]、4月2日に棚上げしていた公式戦の開催を正式決定した[45]。これらの事情から、この年の広島の公式戦の開幕は他より9日遅れて、4月7日の広島での対大阪タイガース戦となった[33]。
石本監督が発案した後援会には職場単位、あるいは個人での入会者が後を絶たず、「おらがチームを潰すな」の純粋な思いで子どもはなけなしの小遣いを、大人は酒代、タバコ代を削って金を出した[9][45]。石本監督はシーズン中も試合の采配は助監督の白石に任せて、自身は球団の苦境を訴えるべく広島県内各地の公民館、学校を回って辻説法を行い、さらには中国新聞に資金調達の必要性を訴える投稿を続けた[8][32][34]。また石本や白石は試合後に選手を連れて県内へ出向いて講演会をしたり、歌をうたったり、カープグッズ第1号ともいわれる"カープ鉛筆"を売ったりした[12][35][38][43][53][54]。その結果、7月29日の国鉄戦直前にセレモニーが開かれ、カープ後援会は正式に発足した。この時、既にカープ後援会は1万3千人の会員数に達しており、本拠地の広島総合球場前での酒樽の中に募金を入れる「樽募金」[38]も合わせ1951年末までに集まった支援金は約440万円(当時)[54]。その結果、この年130万円の黒字を計上した[45]。この一件は、通称「昭和の樽募金」と呼ばれ、2001年5月1日放送のNHK『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』で「史上最大の集金作戦 広島カープ」として取り上げられた[10]。
しかし、前年度クリーンナップとしてチーム最多の21本塁打・72打点を記録した樋笠一夫が契約でもめた末オフに退団し、シーズン途中に巨人に移籍してしまうなど、前年に引き続きペナントレースは苦戦を続け、チーム成績は2年連続の最下位に終わった。この年は西日本パイレーツがパ・リーグの西鉄クリッパースに吸収合併されたことで、7球団による20回総当り戦の120試合だったが、秋にアメリカ選抜チームの来日(日米野球)があったため順位決定後の試合は全て打ち切られた。特に広島は最下位決定の後、一番多い21試合が打ち切られ99試合しか消化出来なかった[55]。
12月25日には、エースの長谷川良平が自由契約選手として名古屋ドラゴンズへの移籍を表明する[注 10]が、翌年3月10日のコミッショナー裁定により長谷川の広島復帰が決まっている[33]。





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Last updated  2025.09.26 07:48:00


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