秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

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2023.10.15
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カテゴリ: 映画 Cinema
英国BBCニュースの英語版でウォルト・ディズニーの生涯が紹介されていました。

これまでその生涯はよくわかりませんでした。事業は簡単に成功したのではなく、その間、倒産やキャラクターを他人に奪われたりと、何度も困難に遭いながらも、それを跳ね返してミッキー・マウスが誕生したこと、また、大人も楽しめる施設としてディズニーランドをカリフォルニアに作るにあたってはTVを利用して成功をおさめたことなどアイデアマンだったことを、偉人伝アニメさんの「ウォルト・ディズニー(ディズニーの創業者)~失敗にくじけず、夢を実現するためのヒント~」やWikipedia等で知りました。

最近はオンライン動画の不振、政治的問題等もあり株価はさえませんが、CEOの復帰もあり、果たして復活できるのか?

■参考リンク

BBC: how the Walt Disney ompany took over the world

グーグルページ翻訳抜粋
基礎を築く
しかし、成功はすぐには得られません。観客が注目し始めたのは、ディズニー初の大ヒット作であり、音声付きの最初のアニメーション映画の 1 つである 1928 年の『蒸気船ウィリー』まででした。
新しいハイペリオン・スタジオで制作され、ディズニーの専門家トッド・ジェームス・ピアース博士によれば、この作品は「寛大さと元気の象徴」であるミッキーマウスをフィーチャーしていた。初期のキャラクター、オズワルド・ザ・ラッキー・ラビットに続いて、ミッキーは子供時代の主役となるだろう。世界中で。
ディズニー兄弟が次の大きな飛躍を遂げるまでには、さらに 10 年かかりました。『白雪姫と七人の小人』は、カラーを使用した世界初の長編アニメーションの 1 つです。1938年に公開されたとき、史上最高の興行収入を記録した映画となった。
地球上で最も幸せな場所
ウォルトさんにとってディズニーランドは、ロサンゼルスのグリフィス・パークでメリーゴーランドに乗る娘たちを見て以来の夢だった。脇のベンチに座り、「親子で一緒に楽しめる場所」を思い描いた。
建設資金が絶望的に​​不足したため、彼は実家を売却し、1954 年にテレビ ネットワーク ABC とディズニーランドと呼ばれるシリーズの契約を結び、建設中のパーク内の生活を紹介しました。ディズニーは大画面から小型画面への飛躍を遂げました。
このテレビ番組はヒットし、数か月後にはミッキーマウス クラブが誕生しました。しかし、1955 年 7 月中旬のディズニーランド パークの開園日は大惨事でした。うだるような暑さの中、数万人が集まり、その多くは偽造チケットを持っていた。乗り物や配管は壊れ、道路やレストランはパンクした。ハイヒールが新しいアスファルトにめり込んだと伝えられている。
それにもかかわらず、その日の生放送は全米で9,000万人に視聴されました。このパークはディズニーの年間収益を倍増させることになる。
1959 年までに、ウォルトは別のより大きな場所を探していました。そこには、彼の未来都市のビジョンが込められている。それは、国民がモノレールで通勤し、仕事中にディズニーのエンジニアがキッチン家電を新しいモデルにアップグレードしてくれるユートピアだ。もちろんテーマパークもあるでしょう。
フランスの首都パリよりわずかに広いフロリダ州に確保された2万7000エーカーの土地は、ウォルト・ディズニー・ワールドのオープンまで10年以上かけて開発が進められることになった。しかし、それはウォルトが決して完成することのないプロジェクトでした。
彼は 1966 年に肺がんのため 65 歳で亡くなった。すでに 73 歳になっていた兄のロイは、兄の名誉のためにディズニーワールドの完成を手伝うために引退を遅らせた。彼は1971年10月の開業の翌日に退職し、わずか2か月後に亡くなりました。
兄弟が亡くなったにもかかわらず、ディズニーの映画とテレビは依然として支配的であり、同社は米国の両海岸に公園を持っており、さらに多くのことが起こりました。







Wikipedia:ウォルト・ディズニー
ウォルト・ディズニー(Walt Disney、1901年12月5日 - 1966年12月15日)は、アメリカ合衆国・イリノイ州シカゴに生まれたアニメーション作家、アニメーター、プロデューサー、映画監督、脚本家、漫画家、声優、実業家、エンターテイナー
世界的に有名なアニメーションキャラクター「ミッキーマウス」をはじめとするキャラクターの生みの親で、『ディズニーリゾート』の創立者であり、兄のロイ・O・ディズニーと共同で設立したウォルト・ディズニー・カンパニーは数々の倒産、失敗を繰り返すも、350億ドル以上の収入を持つ国際的な大企業に発展した。
途中略
ユニバーサルによる引き抜き
1927年、興行師チャールズ・B・ミンツの紹介でユニバーサル・ピクチャーズと繋がりを得たウォルトは、自社キャラクターとして「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」を考案、オズワルドを主人公にしたアニメをユニバーサル配給で制作した。オズワルドはシリーズスタートと同時に子供の間で大ヒットを飛ばし、一躍ディズニー社躍進の切っ掛けを作った。ウォルトはカンザスフィルム時代の旧友達を次々に会社へと誘って、ディズニー社はアメリカでも屈指のアニメ製作会社に急成長した。
だが1928年2月、チャールズ・B・ミンツと契約料の取引に臨んだウォルトはそこで大きな悲劇に見舞われた。ミンツはユニバーサル社に法外な配給手数料を支払う様に要求、ウォルトがこれを拒否すると露骨な社員への引き抜き工作を仕掛けた。ウォルトを二重に落胆させたのは、この引き抜き工作にアイワークスを除く殆どのアニメーター達が応じてしまった事だった。(その例がハーマン=アイジングである)。契約書上、オズワルドが配給会社の管理下に置かれていた事も不利に働き、ディズニー社は配給元と自社キャラクター、そしてスタッフの大半を失って倒産寸前に追い込まれた。しかし、諦めきれなかったウォルトはその後も頑張って仕事を続けた。
ミッキーマウスの誕生
再建するにあたって、オズワルドに代わる新たな自社キャラクターを必要と感じたウォルトは、それまでにもうさぎのオズワルドやアリスコメディの中で、ライバルとして度々登場させていた「敵役のねずみ」を主役に抜擢することを決定する(デザインはルドルフ・アイジング)。アブ・アイワークスのスケッチでは、オズワルドそっくりのキャラクターとなった。カンザスフィルム時代に飼っていたマウスに思い当たり、幾つかのラフスケッチを制作したというのは権利処理の問題をクリアするために後年の後付け設定である。すでにアリスコメディには当時高い人気を集めていたフィリックス・ザ・キャットに似せたジュリアス・ザ・キャットも登場させており、フェリックス側のプロデューサーであるパット・サリバンから何度も警告されていた。
これに当時、監督や演出に専念し始めていたウォルトから作画監督を委ねられたアイワークスが、ウォルトの原案に動かす事を念頭に置いたアレンジを加えた。かくして世に知られる「ミッキーマウス」は完成した。後にディズニー社の従業員は「ミッキーの動きはアイワークスが、魂はウォルトが生み出した」と語っている。因みに当初名前は「モーティマーマウス」とされる予定だったが、妻のリリアン・ディズニーがモーティマーでは「Mortify」(屈辱を意味する言葉)に発音が似てると反対し、「ミッキーマウス」へと変更された[4][5]。モーティマーの名は後に初期作品でのミッキーのライバルキャラクターに用いられた。
ミッキーマウス・シリーズの初期作品において、秀逸な動きの描写をアイワークスが書き出す一方で、ウォルトは演出面で高い才能を発揮した。ミッキーマウスの登場第一作『プレーン・クレイジー』(『飛行機狂』)および第二作『ギャロッピン・ガウチョ』はサイレント映画として作られたが、第三作『蒸気船ウィリー』で効果音や声を吹き込んでトーキー映画の短編アニメとしての制作が行われると、場面の転換や物語のテンポに合わせて効果的に音や音楽を使用し、また自らもミッキーマウス・ミニーマウスの声を演じた。この演出技法は長らくディズニー映画の象徴とも言うべき手法となり、優れた作画と共にミッキーマウス・シリーズのヒットに貢献した。
対照的にウォルトの演出とアイワークスの作画を失ったオズワルドは次第に人気を失い、1930年代には完全にミッキーに取って代わられる事になる。ミッキーはオズワルドを凌ぐ人気キャラクターとなり、世界的な知名度を得てディズニー社の再建に大きな力を発揮した。
途中略。
ディズニーリゾート
ディズニーとヴェルナー・フォン・ブラウン(右)
ディズニーは1948年ごろから、テーマパークの建設を具体化させていく。ディズニーがいつからテーマパーク建設の意図を持っていたかははっきりせず、娘たちを遊園地に連れてベンチに座ったときに手持ち無沙汰な親の姿を見て、「大人も楽しめるテーマパークの建設」を思い立ったとも、趣味である鉄道模型の製作が高じて大規模なテーマパークの制作を思い立ったとも言われている[6]。いずれにせよ、このころからディズニーはアニメーションの制作に代わってテーマパークの建設計画に熱中するようになっていった。
1951年3月にはスタジオのあるバーバンク市にテーマパーク建設計画を提出したが、これは遊園地建設による騒音などの住環境悪化を懸念した市当局によって拒否された[7]。また、このころには計画は当初のものを大きく超えた大規模なものとなっていたため、ディズニーは広大な土地の確保できる代替地の確保に乗り出し、1953年9月にはカリフォルニア州アナハイムに160エーカー(730,000 m2)の土地を購入し用地を確保した。しかしこれほどの大規模な建設計画を行う資金はディズニーにはなかったため、彼はこの時期に登場した新たなメディアであるテレビとの連携を考え付いた。
こうして、新たなテーマパークの建設計画を各企業や市民に売り込むために、1954年には「ディズニーランド」というTV番組をABCで放映し、ディズニー自らが出演してアトラクションやアニメ作品の紹介などを行った。この番組は大好評となり、ディズニーランド建設後も変遷を経ながら2008年まで54年間にわたって放映され続ける長寿番組となった。ABCはこの成功によって業績を大幅に向上させ、またこの成功を見た大企業がこの計画に次々と資金提供や資本参加を申し出るようになった。
こうして無事に資金を調達したディズニーランドは、1954年7月21日に着工された。実際の建設においてはカリフォルニア州オークランドに1950年に作られた、最初の子供用遊園地「チルドレンズ・フェアリーランド」や、デンマークに1843年に作られた遊園地チボリ公園など既存のさまざまな遊園地を参考としていたものの、ディズニーはこの遊園地を既存のものとは全く異なる小さな新しい世界にしようと考えていた。彼はこのテーマパークの建設に熱中し、日夜建設現場に足を運んでは様々な指示を行った[8]。
1955年7月17日にディズニーランドは正式にオープンし、上記の「ディズニーランド」番組内で全米にその様子が中継された。ディズニーランドは瞬く間に大成功をおさめ、ディズニー社の経営の柱の一つとなり、現在まで続く多面的な経営の基盤を作った。
ウォルトはディズニーランド開設前に「いつでも掃除が行き届いていて、おいしいものが食べられる。そんな夢の世界を作りたい」と語っていた。無論これは現在のディズニーランドの土台となっている大事な思想であり、現に他のテーマパークでは何の変哲も無く行われている地面の掃除も、ディズニーランド内ではまるで1つのショーであるかの如く行われている。また、ウォルトはディズニーランドのオープン時のスピーチの中で、「私はディズニーランドが人々に幸福を与える場所、大人も子供も、共に生命の驚異や冒険を体験し、楽しい思い出を作ってもらえる様な場所であって欲しいと願っています。」と言った。その「誰もが楽しめる」というファミリーエンターテイメントの理念は、今も各ディズニーのパークで受け継がれている。
ディズニーランドの成功は、ディズニーに二つ目のテーマパーク建設を構想させるのに十分なものだった。二つ目のテーマパーク予定地にはセントルイスなどいくつかの場所が挙げられていたが、やがてフロリダ州の中心部、オーランドに目をつけた。ここに着目したのは湿地帯が広がっていて土地代が安く広大な土地が確保できたことや、アメリカ西端のカリフォルニアにあるディズニーランドに加え、ディズニーブランドを広める拠点が東部に求められたことによる。1965年、ディズニーはフロリダに二つ目のディズニーパークを作ることを公表した。この新たなパークはアメリカ都市の生活の質を問題とし、アメリカ産業の創造性を見せるためのエプコットという名のパークを中心としており、マンハッタン島の2倍程にもなる広大な土地を買い、エプコットの他、ディズニーランド、ホテル等を取り入れたディズニー・ワールドを作り始めた。
ウォルトの訪日が幾度か検討されたが、多忙のため実現しなかったという[9]。
『水鳥の生態』においてアカデミー短編アニメ賞の最優秀賞を受賞したウォルト・ディズニー
死去
墓地にはウォルト・ディズニーの名前が刻まれている。
1966年12月15日、肺癌による肺炎と急性循環不全で、ディズニー・ワールドの完成を見ないままバーバンク市内の病院で死去(満65歳没)。その後ロイによってディズニー・ワールドはウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートへと改名された。
ディズニーは第一次世界大戦の時からヘビースモーカーで、タバコとフィルターを使わず、若者のようにパイプを使った。禁煙を勧められても「ヘビースモーカーでも長生きした人はいくらでもいる」と言ってとりあわなかった。翌年、遺作となる『ジャングル・ブック』が公開された。
彼の遺体は死後二日後に火葬にされ、遺灰はフォレスト・ローン記念公園(グレンデール)に埋葬された。
直後に発行されたフランスの週刊誌パリマッチでは表紙にミッキーマウスを用いた。ミッキーマウスは誕生からこれまでの38年間滅多に見せなかった涙を流した[10]。
LIFE誌が1999年に選んだ「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に選ばれている。


Yahoo!ファイナンス ウォルト・ディズニー【DIS】:株価・株式情報


Forbes:2023.05.11ディズニーのDisney+加入者が400万人減少、株価下落Derek Saul | Forbes Staff





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Last updated  2023.10.15 16:53:18


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