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こんにちわ。お酒の量を減らしたほうがいいと、真剣に考えている今日この頃です。79年にデビューした、素盞嗚氏の先輩バンドです。 スキャンダル 絶対知らないですよね。でもいいバンドだったんです。上田正樹バリのいかしたシャウト、竹田和夫も絶賛した、小気味いいギター!でもなぜか売れなくて・・・今でも音楽をやってるのは、ドラムの秋元清美さんぐらいです。コロンビアレコードからのデビューがよくなかったんでしょうね。さて今日はシラフで古代史いきます。古事記説話の考察です。初代神武天皇の長男坊、タギシミミのことが、神武記の最後に書かれています。以前書いたとおり、神武はもともと九州出身です。九州時代にすでにカミサン(アヒラヒメ)をもらって、子供もいました。その名、 タギシミミ。 アヒラヒメは正妻、タギシミミは長男ですね。その後神武は、一族を率いて大和盆地を侵入。神武は、大和の地で政略結婚します。その妻の名は、 イスケヨリヒメ。 第二妃ですね。第二妃のイスケヨリヒメは、3人の男の子を産みます。1.ヒコヤイ 2.カンヤイミミ3. カンヌナカワミミ ・・・もっとわかりやすい名前付けろよ!って感じですね。神武の没後、正妻の子、タギシミミは、父神武の第二妃だったイスケちゃんを娶っちゃうんです。父の没後に長男が、新たな後継者となって、父親が残した若い妻を娶る。うらやましい・・・いけない、いけない、現代じゃ考えられないけど、古代社会では必ずしも不自然なことじゃなかったんでしょうね。さて若いイスケちゃんを娶ったタギシミミは、イスケちゃんと神武の間にもうけた、3人の子供を殺そうとするんですね。その話を知ったイスケちゃんは、3人の子供に、そのことをチクリます。それを聞いた、末っ子のカンヌナカワミミが、上の兄貴と共に正妻の子、タギシミミを逆に殺してしまいます。で、末っ子のカンヌナカワミミが第二代の位につきます。綏靖(スイゼイ)天皇です。概略こんな説話が古事記に書かれています。どうです?ヘンでしょ?王者だった父神武の若い妻を娶った者が、どう考えても後継者ですよね。本来はタギシミミが、2代天皇についてるはずですよね。(わかりやすくするために「天皇につく」と 書きますが、実際は「中豪族の代替わり」 ぐらいのイメージです)本来の2代目はタギシミミだったんです。でも古事記では、その事実は抹殺されて、反逆者として、神武記の末尾に加えられたんです。この説話を作ったのは誰か?もうわかりますよね。綏靖が作ったんです。「オレは悪くない、あれはタギシミミ兄貴が悪いんだ」それを勢力圏内に公知させようとしたんでしょうね。仁徳の反乱とよく似てますね。これも綏靖の反乱だったんです。天皇家は2代目から、すでに「血塗られていた」んです。同類のケースでは、仁徳の次の17代履中の時代にも「墨江中王の反逆」ってのがありました。どうです?こうやっていくつか古事記説話を紐解いていくと、実にリアルな話だと思いませんか?定説では、この辺りの説話はすべて後代(6~7世紀)の造作だとされてます。要するに、まったくの作り話だと言っています。しかし、どうも定説は間違っているようです。古事記説話は後代の作り話ではなく、次代の権力者の都合で改ざんされた資料である。これが古事記説話の真実でしょう。いやいや長かった古事記説話考察、まだまだありますが、飽きちゃうとおもいますので、次回から新展開にします。埼玉県の稲荷山古墳のことを書きます。こいつぁ面白いですよ。ただうまく説明できるか、自信なしです。ではでは、SEE YOU NEXT TIME
May 10, 2005
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知ってました?一昨日、嬬恋で拓郎とかぐや姫が8時間のライブをやってたんですね。実は31年前、素盞嗚少年15歳、友達と見に行ったんです♪入場する時、係りのにーちゃんに、「未成年者だけじゃ入れませんよぉ」ゲッ・・・・さーどうする!ここまで来て、帰るわけにもいかん。ふと振り返ると、大学生らしきおねーさまがお二人・・・・ 「えーと、今日はおねーちゃんと一緒に来たんです、 ねー♪」 「え?あ・・・・、は、はい・・・・」 ちゅーことで入場に成功しました。 「あんたたち、なかなかやるじゃない♪」おねーさまにも褒められて、ずーと朝までなかよく過ごしました。素敵な人たちだったなぁ・・・・ ちゅーことで、7世紀っす。富本銭から始まった九州倭国の証明、いよいよ7世紀に入ったんだけど、あの「乙巳の変」で暗殺された蘇我入鹿とは何者だったのか?以前にもすこし書いたことあるけど、「蘇我氏は九州倭国の人間である!」これが素盞嗚氏の仮説です。まずはここから証明してみよう。その1:まずは「乙巳の変」の「変」。「変」とはクーデターのことなんですが、日本書紀に書かれたこの記事を読むと、確かにクーデターという感じがします。しかし、クーデターとは、「下位者」が「上位者」を倒すこと。要するに、中大兄皇子が下位者で、蘇我入鹿が上位者ってことです。中大兄皇子は時の大王(天皇)、皇極のセガレで、「大兄皇子」の称号は「時期天皇候補」って意味なんです。入鹿はその上位者だったということですね。時期天皇候補より上位者っていうと、一般論から言うと、もう天皇しかいないですよね。そんなところから蘇我氏天皇説ってーのもあるんだけど、素盞嗚氏は違うと思うんです。九州倭国説の立場から考えると、蘇我氏は九州倭国から派遣された、大和の統治者だった。その2:日本書紀を読むと、ちょっと不思議な記事があるんです。蘇我入鹿が大臣になった時に、その弟を「物部大臣」と呼んだって書いてあるんです。蘇我と物部は、仏教をめぐって戦争までした犬猿の仲だったんじゃないか・・・・で、物部氏の家伝「先代旧事本紀」をみると、物部系のソガ氏ってーのがいたらしい・・・・しかもその物部系ソガ氏の出身はどうも九州北部みたいなんですね。 その3:蘇我氏が日本書紀に登場してくるのは6世紀中ごろなんですが、これはどういう時代だったかっていうと、あの「筑紫の君、磐井」と継体天皇が戦った「磐井の乱」(素盞嗚的には『継体の乱』)のあとなんですね。これも以前書いたんだけど、磐井は継体にだまし討ちにあって殺されるんだけど、その後は形勢逆転して、継体は大和に押し戻されるです。九州倭国は倭国王を失ったけど、後継者の葛子が立て直して、大和が二度と反乱を起こさないように、監視の意味も含めて、蘇我稲目を大和に派遣した。鎌倉時代に京都が反乱を起こさないようと、六波羅探題を設置したようなものだったんじゃないか・・・そして、稲目、馬子、蝦夷、入鹿と4代に渡って、大王家(天皇家)を抑えて、大和を統治していた・・・・素盞嗚氏はそう考えています。その4:郡評問題。日本書紀では、7世紀の行政単位は「郡」である。そして「郡」を統治するのは「郡司」である。そう徹底して書かれてるんですが、昭和20年代に井上光貞氏が「それはおかしい。 行政単位は『評』だった! そしてその統治者は『評督』である」そう主張したんです。井上氏の師匠である坂本太郎氏はそれに猛反発!「日本書紀に『郡』とあるし、『評』とは一言も書かれていない!」 学界を二分する大論争になったんだけど、結局は井上氏の勝ち。地中から出土したさまざまな「木簡」から、699年までは「評」だったことが明らかになったんです。要するに7世紀の間、大和の行政単位は「評」だった。そしてその統治者を「評督」と言った。でも日本書紀は故意にそれを隠し、「郡」であり「郡司」だったと書いてるんです。なぜか?「評」という単位は大和が発令したものではなかったからだ。行政単位の発令者は、当然「時の最高権力者」だ。要するに大和より上位の権力者がいたからに他ならない。では、その最高権力者とは誰か?もう九州倭国王しかないでしょ♪そして、大和の「評督」、またはその上位者として大和に君臨していたのが蘇我氏だった・・・・・ うーん、カンペキ♪次回は、蘇我入鹿暗殺後のことを書きます。前にすこし予告した石原莞爾と鎌足をダブらせて考えていきますゾ! だいぶ「リキ」が入ってしまった・・・・さーてお仕事じゃ!SEE YOU NEXT TIME
Sep 25, 2006
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呑んだくれて、真面目なこと書こうと思ってもダメっすね。きっと、こんなちょーしだったんでぷ・・・昨日の日記・・・・大失敗だったッス・・・・さっこらさんのご指摘通り・・・・>1里=約450mだったんで、>百里=150mだったんですね。にゃ?猫にはよくわからないものその1>本来1里≒75mなんで、>この卑弥呼の墓の百余歩は>実は約25m前後なんです。んー、わかんないですよね。申し訳ねぇ・・・・素盞嗚氏は、呑むとダメダメ君になっちゃうんでぷ。 んで、今日は昨日に比べると80%ぐらいしか呑んでないんで、再度、書きます。過去の邪馬台国研究の中で、魏志倭人伝に書かれている「里程」は漢代に用いられていた「里」であると思われてたんです。それは、1里=450mだったんです。それで、1里=300歩だったんで、卑弥呼の墓の直径が「百余歩」と書かれてるんで、100歩は1里(300歩)の三分の一なんで、150mだって認識されてたんです。でも、考古学的にいうと、3世紀当時の直径150mという大型墳墓となると、九州ではあり得ないだろう、っていうのが大方の学者の言い分だった。ところが、ここの一連素盞嗚説で解いているように、倭人伝に書かれている「里程」は、定説でいう450mなどではなく、1里≒75mだということを証明しました。この素盞嗚里程で言うと、卑弥呼の墓の直径である100余歩は、定説でいう150mなどではなく、75mの三分の一である、25m程度である!ということなんです。この1里≒75mというのは、実は漢代の前、周代の度量衡なんですね。倭人伝が書かれた晋代は周代の単位を使っているんです。んで、次なる問題は、「大いに冢を作る」という文からいうと、25m程度だと、「大いに」という形容詞に当てはまらないじゃないか?という疑問なんです。ここは国語的解釈です。い、いかん・・・・トイレに行きたくなった・・・・も、もれる・・・・うううう・・・・再びごめんさい・・・・・続きは明日・・・・ぎゃーーーーーー!SEE YOU NEXT TIME
Jan 30, 2006
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