水野文博の『日々の思考』

水野文博の『日々の思考』

2006/05/03
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週末からののロシア出張に向けてロシア音楽家の伝記を読みまくっている。今日はレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団を一流に育てた名指揮者ムラヴィンスキー(1903-1988)の伝記を読み終えた。

彼の練習は厳しく、団員からはトスカニーニやカラヤンのごとく専制君主と恐れられた。ところが実生活は大変質素で、情に厚い方だったようだ。

印象として感じたのは、(武士道みたいな)貴族的な心性、質素倹約、厳しい音楽への献身。

彼は貴族の家に生まれるも家族はロシア革命で財産を奪われ、貧しい生活を強いられた。マリインスキー劇場のバレリーナ達のピアノ伴奏からキャリアをスタートさせた。自然を愛し、よく田舎で何日も放浪の旅をしたそうだ。終生、農民や修道院の方を友とした。自然を詠った詩も沢山残っている。

戦時中、レニングラード・フィルがノヴォシビルツクに疎開した際は団員の住居探しに奔走し、全ての団員の家が見つかるまで仮設住宅に残った。レーニンにより親友ショスタコーヴィチが弾圧された際は、積極的に彼の作品を演奏した。

当然、共産党に目をつけられ、投獄や退任への圧力にいつも直面していた。住居は狭いアパートをあてがわれ、外国講演のギャラも殆ど党が召し上げた。例えばフランス公演では彼には200ドル/コンサートしか支払われず、街の食料品店で簡単な食材を買って自炊することもあった。

70才代後半になってようやくダーチャという質素な別荘を購入できて、「ようやく長年の夢が叶った」と涙して喜んだそうだ。そこで彼はスコア(総譜)を読んだり散歩や釣りを楽しんだ。

生活は質素でオチャメだったようだ。作り置きした好物の魚スープを自ら温めて食べたり、ビールの飲みすぎを奥様から監視されて、空き瓶に水を入れてごまかしたりしたらしい(70代なのに…)。

そういえば、僕が始めてレニングラードへ行った1987年は彼の死の1年前であった。ムラヴィンスキーを聴けたらと密かな期待を持っていたが彼は現れず、若いヤンソンスがレニングラード・フィルを振っていた。

以下に、心に残った巨匠自身の言葉を引用する。個人の生き方や組織でのリーダーシプのあり方に参考にしたい。

「私はカラヤンや西欧の金持ちの指揮者を羨ましいと思ったことはない。私は今の生活で十分だからだ」

「いつだったか音楽を聴いたとき、まるで雷か稲妻に打たれたような戦慄が走った。音楽とは心を震わせるものだ。そうでなくては芸術ではない。芸術、音楽は、人の心、聴衆の、演奏家の心の炎を燃え立たせる。それこそが芸術のもたらすものだ」

「私にとってスコアとは人生のドキュメントだ。それは「作品自体」の"雰囲気"に浸透することだ。私の探索の中でシンフォニーの"雰囲気"の解明こそが演奏を決定する最大の課題である」

「指揮者は絶対に響きを創らない。音を紡ぎだすのはオーケストラだ。個々の団員が聴きとり、感じられる"雰囲気"を創りだすことが大切だ。私とオーケストラとの仕事は単純だ。不可欠なのは濃密な集中力、厳密な規律、稽古のシステムである。私はまず自分自身に、そしてオーケストラに戒律の絶対的遵守を要求する。オーケストラと指揮者は常に一心同体でなければならない」





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Last updated  2006/05/04 01:38:27 AM
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