嗚呼!哀愁の我が音楽人生

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2007.01.26
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カテゴリ: 私の音楽遍歴


 自分がk宅に着いたときは、情報が間違っていないことはすぐに判った。玄関で泣きながらお母さんと妹が出迎えてくれた。数日前の朝、会社に出勤するといって出かけたまま、行方が判らなくなっていたという。警察が動き、富山で発見されたときは既に遅かった。自家用車にホースで排ガスを引き込み、自ら命を絶った。ウィスキーの瓶が車内に残されていたという。
 東京にいるTに電話したのは、k宅へ行く前だったか後だったか記憶が定かでない。「えっ!・・・・(原因は)バンドの事かなあ?」と話す。「わからない」と答えるのが精一杯だった。数時間後、Tは車を飛ばして東京から帰ってきた。
 数日後、k君の葬儀は執り行われた。棺に眠るk。鼻の穴には白い綿が詰め込まれている。青白く人形のようだった。ただただ声をあげて泣いた。涙が止まらなかった。火葬場で御家族と一緒に骨を拾った。のど仏を見せていただいた。
 後日、お父さんとも話したが、kは勤務先で大きな営業のノルマを与えられていたらしい。様子はあきらかにおかしく、疲れているようだったとのこと。鬱状態であったことが想像できる。引き金はバンド脱退なのだろうか?kをバンドから辞めさせず続けていたら状況は変わっただろうか?正直それは判らない。遺書は無かった。
 葬儀の日の夜だったか、T君は言った。「3人でバンドをやろう!続けよう!やめちゃだめだ!」これが第2次THE BULLSHITSの始まりだった。
 我々は前に進むことを決意した。Voは私とTで分け合った。練習を重ね、ライブを重ねた。軽井沢で合宿も行い、オリジナルも数曲作成した。3人は決して卓越したプレーヤーではない。個々の技量は足らないが、不思議なもので、段々と3人ならではのグルーヴは出来上がりつつあった。ハードロック、メタル、コア、パンク、ガレージ・・・・轟音系のノンジャンル的なバンドサウンドが確立してきた。比較にもならないし比較しては申し訳ないようだが、あえて採り上げれば、MOTORHEAD、THE ALMIGHTYあたりの系統か。 ライブ回数は少ない。特にNは家業の建設系会社を継いでおり、サラリーマンの私とTに比べ、自由が効かなかった。日程調整をするのは大変で、結果、3ヶ月に1回程度のライブができれば良い方であった。しかしながら我々は回数を重ねる度にバンドとして向上していることが実感できた。実際、最後2回程のライブは、今になって記録映像を見てもなかなかのレベルに達したと感じる。
 バンドをとりまく小さな問題はいくつかあった。まずNについて。こう言っては申し訳ないが、私とTに比べ、技量不足であった。それも仕方ないことだ。Dr不在のため、未経験にもかかわらず始めたのだから。バンドとして、一応人前で披露しなければならないのだから、それなりの探求心、向上心が欲しいところだ。しかし、彼は明らかに練習していない。我々は向上心をもって自宅での練習や、一人でスタジオに入っての音作りなど、日々切磋琢磨を心がけたが、Nにはそれが見えなかった。Drへの愛着がないのだろうかとも思った。音のしない練習用ドラムセットの購入も勧めたが、とうとう買わずじまいだった。他にも好きなバンドのライブには時間を惜しまず、時間をやりくりして東京はおろか名古屋までも行ってしまった。「他人のライブには時間をつくって、自分のバンドには時間が作れないのはどういうことなのだ?」私とT君には不満が募っていった。
 もう一つ、観客動員について。友人へのライブのお誘いなどは最初だけは見に来てくれるが、回数を重ねればそうはいかない。しかし、Nは地元で某奉仕団体に所属しており、地元だけでなく、各地域に広いネットワークを持っていた。このメンツに声をかけると、あっという間に20人程度は集まる。バンドの貴重な動員力であった。しかし、弊害もあった。ライブの打上でいつも感じたこと。彼らはいつも固まって騒いでいた。それもライブに来ていない人間までぞろぞろと集まってくるのだ。対バンと一緒に打上をすることもあったが、これはバンドの打上ではなく、彼ら某奉仕団体の飲み会になってしまうのだ。すなわち彼らはライブなどどうでも良いと思っているのだ。百歩譲って我々のことなどどうでもよいと思ってくれて構わないが、対バンしてくれた連中に対しては失礼意外の何者でもない。ライブの打上なのだ。主役はバンドなのだよ。でも彼らの動員力に頼ってしまう私自身がいつも情けなく、歯がゆく感じていた。
 2001年が明けてバンドのミーティング。Nは仕事のために必要な資格をとらなければならず、この1年程は勉強に専念することになった。とてもバンドはやっている時間がないとのこと。したがってバンドを活動休止させることになった。同年1月、伊勢崎のCLUB LUVにおいて休止前最後のライブを行った。
 話は少し遡るが、2000年の春、私の勤務先で知り合った先輩にKさんがいる。昔はバンドをやっていたとのこと。私より年齢は10歳近く離れているが、クラシックロックから日本の若いバンドに至るまで見識が深く、交流を深めていた。FUJI ROCK FESTIVAL 00におけるBLANKY JET CITY解散ライブを一緒に見に行った。この当時は一塊のリスナーに落ち着いており、ギタープレーヤーからは引退状態であった。このKさんが後のThe AcceleratorSバンマスのKさんである。
 KさんがTHE BULLSHITSの最後のライブを見に来るとのことであった。午前のリハーサル時にKさんはひょっこりと顔を見せた。事件が起こった。リハが終わり、T君は愛器サンダーバードを壁に立てかけていたら、何かの拍子でこれを倒してしまった。ネックが見事に折れた。本番前だ。T君は伊勢崎市内の楽器店に新しいベースを買いに行くことを決心した。Kさんも一緒に行くとのこと。Nを残し、私の自家用車で3人は楽器屋に向かった。新しいジャズベースタイプを購入し、無事本番には間に合った。後日談だが、T君はライブ終了後、ニューベースをよく見たらFenderじゃなかったのでビックリしたとのこと。おいおい、よく見て買えよ(苦笑)!
 ライブは無事に終了した。ステージから活動休止宣言をした。事実上これでTHE BULLSHITSはその活動を終えることとなった。1年後Nが無事資格を取得し、1度3人でスタジオに入ったが、残念ながらもう私の心に燃えるものは沸いてこなかった。先述したような問題点も抱えていたし、私とTは新たなプロジェクトにのめり込んでいたこともある。新たなプロジェクト、それがKさんを交えてのニューバンド、The AcceleratorSである。思えばTHE BULLSHITSはk君を亡くし、ある種の使命感から続けてこれたようなバンドだった。3年程度の短い期間だったが、ものすごく長く活動していたような気がする。
 続きはk君を亡くしてから自分の中に起こったいろいろな出来事、出会いを書くこととする。自分の中で大きな転換期となった時期だ。               続く






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Last updated  2007.01.26 22:19:23
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