Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2015年05月06日
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カテゴリ: 夢有無有
「思考と直覚」カント後の思想・フィヒテ(百十八)
 ドイツ哲学の境目の輝きカントに次いで、そのドイツの寒村ランメナウの農家の息子として生まれ、貧困のために修学さえ不可能事で、近くの教会で行われた説教や親族に聞かされたゲルマン神話などを糧に少年時代をすごす。教会で聞いた説教は、すべてほぼ完璧に覚えていたため、たまたま教会で説教を聴きそこなった、貴族ミリティツ侯にそれを聞かしたところ、侯から学資の援助をしてもらえることになったという逸話を持つヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte/1762年-1814年)が先行のイマヌエル・カントの哲学に大きく影響を受け、フリードリヒ・シェリングや後のゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルに影響を与えるが、後にニーチェやランケも通うことになるイツの名門校プフォルタ学院に進学するもののミリティツ侯が死亡し学資がストップ、自殺を決心するほど貧困に苦しんだが友人の紹介でスイスにおいて家庭教師の職を得、そこで、カント哲学を教材として扱い、カントの哲学に興味を覚え、1791年に70歳近くになったカントのいるケーニヒスベルク訪ね、そこでの体験を引き金に、カントの実践理性批判を元に宗教概念を論じた処女作「あらゆる啓示批判の試み(Versuch einer Kritik aller Offenbarung)」 をカントの仲介で出版。一躍著名に名を連ねます。ところが、フィヒテはカントの其の哲学を、自らの信念である観念論を徹底化するという立場から、カントの哲学に要素として含有する唯物的な「物自体」即ち、感官を触発して表象を生じさせることによって、われわれに現れた限りでの対象(現象)の認識を得させる起源とはなるが、それ自体は不可知である現象の背後にある真実在、現象の背後に仮定せざるをえない思惟の要請であるとした客観性の承認を観念論的には不十分なものと見做し、現象の背後に仮定せざるをえない思惟(しい・しゆい)の要請、思考を含みつつ感情なども包括した心の働きを自我の所産であるとする主観的観念論を「知識学」と名付け、理性の目的、理想の実現をもって一切の現実的なものを目的論的に倫理的観念論を展開します。然し乍ら、余りにも観念の主体を人間精神に負わすために、始めに外物ありきの観に違和感を持ちます。人間の精神の在処と其の根元を明確にはしていません。唯物論者に区分される傾向があるスピノザに、より観念的な倫理性を感ぜざるをえません。スピノザは人間の思考では届き得ない根源的存在を唯物論的に「神」と呼称しています。即ち、存在其のものを在らしめているのがスピノザの言わんとする「絶体有」です。当然に相対としての「絶体無」をも考えられますが、其処にはもはや言葉自体が存在しません。「有」は「有」であり、「無」は「無」であり続けるのは観念的には当然ですが、21世紀の科学は「無」からの物質存在の誕生を仄めかしています。其処で問題化するのは今までに通俗的に考えられていた「無」の再定義です。

Johann Gottlieb Fichte1
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最終更新日  2015年05月06日 06時27分48秒
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