Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

2015年12月21日
XML
カテゴリ: 夢有無有
「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-24(三百九)
 ルネ・デカルトの「我は精神なり」なりから始まるコギトエルゴスム(我思う故に我あり)も専ら、唯物主義、形而上学的な哲学から実証を基底とする経験主義への傾斜かと思いきや、彼は此等の思考を前面には押し出してはいますが、彼の複雑な性状から、もう一つの面を醸します。驚くべきことにはコギトエルゴスムを媒介として、再度の神への接近、それも信仰という形式を纏わせ、神的哲学は初めに「神は精神」なりから始まるのに対して、「我は精神なり」を門口とした神への到達を目指します。然しながら、彼の神学論は正教会の初めに信仰を前提にしているのではなく、我の精神をも懐疑したのちに神への信仰を再構築すし、世界の合理的秩序を神に帰す思考方法です。言い換えれば、人間の自己意識は、神の絶対意識の信頼において目覚めており、後の「神は死んだ」のニーチェの如く虚無主義(ニヒリズム/Nihilism)、とはいえ、ニーチェの説くニヒリズムに二種あり、現代人にも適用可能な、何も信じられない事態に絶望し、疲れ切り、時々の状況に身を任せ、生きるという弱さのニヒリズム、消極的・受動的ニヒリズムと、すべてが無価値で偽りあり、仮象ということを前向きに考える生き方。其処から自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度、つまり、強さのニヒリズムとも云える積極的で能動的ニヒリズムがあり、ニーチェは後者の立ち位置で、永劫回帰(Ewige Wiederkunft des Gleichen) 、終末を迎えることなく時を越えて同一である物にして、且つ万物を指すのですが、ルネ・デカルトは純粋マルクス主観的の立場にも立ち得ませんでした。とはいえ、「ルネ・デカルトの数学的志向の哲学がスピノザの「エチカ」に継承されたことには、無神論の立場に立つ人間からの批判はあろうとも「霊魂」完全滅却説でないことに霊性を求める人間に安堵感を與えています。
cap-hiroのプロフィール
uroboros1

哲学・思想 ブログランキングへ





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2015年12月21日 09時25分42秒
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

プロフィール

cap-hiro

cap-hiro

カテゴリ

キーワードサーチ

▼キーワード検索

バックナンバー

2026年05月
2026年04月
2026年03月
2026年02月
2026年01月
2025年12月
2025年11月
2025年10月
2025年09月
2025年08月

© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: