Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年06月13日
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カテゴリ: 霊魂論
ルドルフ・シュタイナー
ゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)
第16章 思索家、そして研究者としてのゲーテ 佐々木義之訳 1-6
1.ゲーテと現代科学
 もし、真実を認識しているという感覚があるとき、正直に話す義務があるという感情が生じなかったとしたら、以下のページは決して書かれることはなかったでしょう。現在の自然科学の方向性を見れば、その分野の専門家たちによってそれがどのように評価されるかについて疑問の余地はありません。これらのページは、「内情に通じた」人たちによって、遥か昔に解決された問題を蒸し返そうとする学者じみた試みとして記述されることでしょう。その件について言うべきことを持っている人たちの軽蔑的な意見について考えるとき、あまり抗弁したいとは思わないと認めざるを得ません。とはいえ、そのような反論を予想して尻込みするわけにはいきません。と申しますのも、私自身がそのような反論をしようと思えばできるからです。それは、それらがいかに有効でないかを私は知っているということでもあります。現代科学の意味で「科学的に」考えることは、本当はそれほど難しいことではありません。その点で、どちらかというと注目に値するケースとして、最近、エドゥアルト・フォン・ハルトマンの「無意識の哲学」が出版されました。強健なこの本の著者はその不完全さを最後まで否認することでしょう。しかし、私たちがそこで出会う思考の質は事の真相に迫るものです。より深い洞察への必要を感じているすべての人たちの上にそれが強い印象を残したのはそのためです。けれども、概してそれに反対している、より皮相的な自然科学者たちにとって、それは苛立たしいものであることが判明しました。その攻撃がそれほど成功していなかったとき、ある匿名の著者が「哲学並びに降下理論から見た無意識(1872年)」を出版しました。その著者は現代の自然科学の観点からそれに反対するために使えそうなあらゆる主張を持ち出して、新しい哲学を強く批判したのです。その本は大騒ぎとなり、学者たちはすっかり満足しました。彼らはその著者もその主張も彼ら自身のものであると断言したのです。ところが、その後、彼らが大いに落胆したことには、その著者は他ならぬハルトマン自身であることが判明したのです。これによって、あるひとつのことの確かな証明が提供されました。つまり、真剣に努力する人々が最新の傾向にまだ同調できないと感じるとき、それは、彼らが科学的な探求に無知であったり、素人であったりするからではなく、それらの傾向は間違った道を辿っていると考えているからであるということの証明が提供されたのです。哲学にとっては、意識的に現代科学の立場を取ることは難しいことではありません。ハルトマンは、見ることに吝か(やぶさか)でない人にそれを示したのです。私がこのことに触れたのは、私が述べたことに対して提起される可能性がある反論そのものを私が定式化することは容易であるという私の以前のコメントを裏づけるためです。現在では、ものごとの本質に関して真剣な哲学的考察を行う人は誰であれ、学者じみている、と考えられる傾向があります。単に世界観を持っているだけで、機械論的な(あるいは、もっとましな言い方をすれば、実証主義的な)確信を持っている私たちの同世代人から、少し理想主義的な傾向があると見られるのです。この意見は、これらの実証主義的な考え方の持ち主たちが「物質の本質」、「認識の限界」、「原子の性質」等々について語るのを聞き、彼らの無知がいかに絶望的であるかが分かるとき、容易に理解できるものになります。そのような話によって、基礎的な科学的事象に対する彼らの素人的なアプローチを研究する機会が十二分に提供されるのです。私たちは、現代の自然科学により、技術の分野において達成された力強く見事な成果にも関わらず、これらのことすべてを認める勇気を持たなければなりません。そのような技術的な成果は、自然を理解したい、という真の願いとは関係がありません。それは私たちが評価し始めることすらできないような未来にとって意義のある発明を行いながら、深い「科学的な」あこがれに欠けている私たちの同時代人たちの中に見てきたことです。その力を技術的に用いるという目的をもって自然の過程を観察することと、それらの本質をより深く理解するという目的をもってそれらの過程を研究することは全く異なっています。真の科学は、探求する精神が「いかなる外的な目的もなしに」それ「自身」の必要を満足させることを求めるときにだけ存在します。言葉の最も高次の意味で、真の科学とは、客観的なアイデアを扱うものであり、「理想主義以外のものではあり得ません。」何故なら、それは結局のところ精神的な必要に根ざすものだからです。自然は解決を要求する問題を私たちの中に目覚めさせますが、自分ではその答えを与えることができません。自然が、私たちの認識への能力を通して、より高次の領域に直面するとき、そのような新しいチャレンジが生じます。このより高次の特質を有していない存在にとって、そのような疑問は生じることさえないでしょう。ですから、答えはこのより高次の本性そのものを通してのみ得ることができます。基本的に、科学的な疑問とは、問いを発する存在が自分で折り合いをつけるべき問題なのです。その精神が、それらの問題によって、それ自身の領域を超えたところへと導かれることはありません。そうではなく、その精神が安らぎ、生きて織りなす領域とは、アイデアと思考の世界なのです。言葉の最も高次の意味で、科学的な活動とは、考えることの中で生じた疑問を思考の中で思いついた答えを通して取り扱うということを意味しています。結局のところ、あらゆる科学的な試みは、このより高次の使命に仕えるという機能を持っているのです。科学的な観察について考えてみてください。それはそれ自体がアイデアの性質を有する自然法則の理解へと私たちを導く、と思われています。現象の背後で支配する法則を探そうとする衝動は精神から生じます。そして、精神的な存在だけがこの衝動を感じることでしょう。観察について言えば、私たちはそれで本当は何を達成しようとしているのでしょうか。実際、感覚的な観察によって、精神が作り出した疑問に答えを見つけることができるのでしょうか。それは全く無理です。結局のところ、もし、精神が本当にそれで満足するのであれば、どうして二度目の観察が最初の観察よりもさらに大きな満足を私たちに与えるのでしょうか。つまり、一度の観察で十分なのではないでしょうか。本当は、その観察が二度目であるかどうかが問題なのではなく、むしろ、それは観察のための理想的な基盤を見つけるかどうかの問題であり、観察が理想的な説明を与えるにはどうすればよいのかということが問題なのです。それを可能とするために、私はどのように「考え」たらよいのか。私たちが感覚の世界に出会うとき、私たちのところにやってくる疑問とはそのようなものです。私は私の精神の奥底から感覚の世界には欠けていると思われるものを引っ張り出してこなければなりません。私は、感覚的な領域に出会うとき、私の魂がそれに向けて奮闘するところのより高次の本質を私自身で創造しなければなりません。それを私のために行ってくれるものは他には何もありません。科学的な結果は精神からしかやって来ることができません。そのため、それらは「アイデア」でなければならず、それが生じるのはそれ自身の必然性からであるということに議論の余地はありません。あらゆる科学の理想的な性格がそれによって裏づけられます。現代の自然科学は、正にその本質から、認識はアイデアによって特徴づけられる、ということを信じることができません。それはアイデアを、最初の、最も原初的な創造作用としてではなく、むしろ、物質的なプロセスの最終的な「産物」として眺めます。これらの物質的なプロセスは、感覚を通して観察することができる世界に属しているけれども、より深く理解されるならば、自らをアイデアの中へと解消する世界である、ということに科学は気づいていないのです。観察されるべきプロセスとは次のようなものです。私たちは機械論的な法則にしたがって現われる事実、熱、光、磁気、電気、最後に生命プロセスやその他ものが現われるのを私たちの感覚を通して知覚します。それは生命という最高のレベルにおいて、人間の脳に担われた概念、あるいはアイデアの形成へと上昇するということが分かります。私たちは私たち自身の自我がこの思考の領域から現われるのを見ます。これは物理的、化学的、そして有機的なものにまでずっと続く一連のできごとを通して仲介される複雑なプロセスの最高の産物であるように見えます。しかし、私たちのアイデアの世界、それは自我の本質ですが、それを調べてみるならば、このプロセスの単なる最終的な産物「以上」のものが見い出されます。この思考世界の個々の側面は私たちが単に観察するだけのプロセスの各部分とは全く異なる仕方で関連しているということが分かるのです。ある考えが私たちの中に生じ、それによって別の考えが呼び出されるとき、それら二つの考えの間の関係は、例えば、私が一片の布の染色とその原因となる化学染料との間に観察する関係とは非常に異なる性質のものです。脳内の神経プロセスにおける一連の段階はその源泉を代謝系の中に有しており、私の思考を支えているのは正にその代謝系である、というのは全く当然のことです。けれども、ある思考が別の思考に「続く」理由はその代謝系の中には見出されないでしょう。これを見出すことができるのはただ思考そのものの間の論理的な関係性の中においてのみです。このように、思考の領域では、有機的な必然性だけではなく、「より高次の、理想的な性質」の必然性が支配していますが、精神はそのアイデアの世界の中に見出されるのと同じ必然性を宇宙における他の場所にも求めます。この必然性が私たちに生じるのは、私たちが単に「観察する」だけではなく、「考える」からなのです。言い換えれば、観察を通してだけではなく、考えることを通してものごとを理解するときにはいつでも、それらはもはや単にそれらの事実関係を通して私たちに現れるのではなく、内的かつ理想的な必然性によっても関連づけられることになります。このことに意義を唱えるために、もし、この世界の事物が、その本性から、そのような理解を許さないものであるとしたら、思考を通して感覚的な世界を理解しようとすることに意味はないのではないかと問うことはできません。この問いが可能となるのは、私たちがものごとの核心に到達し損ねるときだけです。アイデアの世界は私たちの内部で生命へと流出し、私たちが感覚を通して知覚する対象に出会い、そして尋ねます。私と私が直面する世界との関係とはどのようなものなのか。私にとってその世界とは何なのか?私は移ろう現実の上にそびえる私の理想的な必然性とともにここにあり、私の内には私自身を説明するための力があるが。どうすれば私が私の外で出会うものを説明できるのだろうかと。ここで私たちは、繰り返し持ちだされてきた重要な問い、例えば、それをあらゆる哲学的な思考の中軸として記述したフリードリッヒ・テオドール・ヴィッシャー(1807-1887)のような人によって持ちだされてきた問いに対するひとつの答えを見出します。それは精神と自然との間の関係についての問いです。互いに分離しているように見えるこれらふたつの形態の間の関係とはどのようなものなのでしょうか。それが正しい仕方で問いかけられるならば、その問いに答えるのは人が考えるほど難しいことではありません。結局、それは何を意味しているのでしょうか?その問いは精神と自然の両方を超えた優位な立場から理解しようとする第三者によって問いかけられるようなものではありません。そうではなく、それが問いかけられるのは、それらふたつの存在の内のひとつ、精神そのものによってです。精神がそれ自身と自然との間の関係を見出そうとしているのです。これは、私はどうすれば私が出会う自然との関係を確立できるのか、と問うのと同じです。私はどうすれば私の中に生きている要求と一致する仕方でこの関係を表現することができるのか。私はアイデアの中に生きているが、どのような種類のアイデアが自然に対応し、私が自然として思い描くものをどうすればアイデアとして表現できるのか。これはまるで間違った問いかけをすることによってしばしば満足のいく答えへと続く道を塞いでいるようなものです。しかし、正しい問いは半分の答えです。精神はいたるところで単に観察によって与えられる一連の事実を超越する道を追求し、「事物のアイデア」へと貫き至ろうとしています。科学は思考が始まるところから始まります。一連の事実として私たちの感覚に現れるものは科学の結果によって理想的な必然性として表現されます。それらの結果は上記の過程の最終的な産物として現われるだけですが、私たちは実際にそれらを全宇宙におけるあらゆるものの基盤として考えなければなりません。それらが私たちの観察においてどこに現れるかはどうでもよいことです。何故なら、それらの意義はそれらがどこで観察されるかには依存しないからです。それらの理想的な必然性は掛け値なしに全宇宙に広がっているのです。私たちはどこからでも始めることができます。もし、私たちが精神的な力を十分に有しているなら、最終的には「アイデア」へと至ることでしょう。現代物理学がこのことに気づき損ねる限り、それはあらゆる間違いの連続へと導かれることになります。例として、そのような間違いのひとつを指摘してみましょう。物理学者たちによって「物体に共通した特徴」のひとつとして典型的に記述されるものの定義、つまり「慣性」の法則について考えてみましょう。通常、それは次のように記述されます。外的な原因の結果としてそうなる場合を除き、いかなる物体もその現状における動的な状態を変えることはできない。この定義によれば、不活性な物体の概念は感覚の世界から抽出されたものであるという印象を受けます。そして、ジョン・スチュワート・ミル (John Stuart Mill)、彼はこの問題について探求することは決してありませんでしたが、ある人為的な理論を証明するために、あらゆるものをひっくり返してしまいました、その彼であれば、とりあえずそのように説明することをためらわないでしょう。しかし、それは正しくありません。不活性な物体の概念は純粋に概念的な構築を通して生じます。空間中に広がる何かを「物体」と呼ぶとき、私は、外的な影響によって変化を受ける物体と、それら自身の自発的な力によって動く物体とについて考えることができます。ですから、もし、私が外的な原因がなければ変化できない「物体」についての私の定義に合致する何かを外的な世界の中に見つけるならば、私はそれを「不活性なもの」、つまり、慣性の法則に従うものと呼びます。私の概念は感覚の世界から抽出されたものではなく、ひとつのアイデアから自立的に構築されたものであり、このアイデアの助けによってのみ私は感覚の世界の中で自分を方向づけることができます。したがって、その定義は次のように記述されなければなりません。その動きの状態を自ら変化させることができない物体は不活性であると。一度この定義に合致する物体を見つけるやいなや、私は不活性な物体に適用されるあらゆることがらをその物体に適用することができます。
参考画:John Stuart Mill



    (第16章 1.ゲーテと現代科学 了)

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最終更新日  2024年06月17日 19時12分17秒
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