Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年06月14日
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カテゴリ: 霊魂論
ルドルフ・シュタイナー
ゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)
第16章 思索家、そして研究者としてのゲーテ 佐々木義之訳 1-6
2.元型的な現象
 私たちは、感覚的な知覚が存在するときにはいつでも生じるはずの一連の事象全体を、たとえ感覚器官の周辺にある神経末端から脳に至るまでずっと追っていくことができたとしても、それでもなお、機械的、化学的、有機的な(時空間の)プロセスが終わり、私たちが感覚的な知覚と呼ぶところの何か、つまり、熱、光、音、その他等々の感覚が始まる地点にまでは至ることはできないでしょう。原因となる動きからその効果、つまり知覚への移行地点はどこにも見い出されないのです。これらの側面の間の関係を原因と結果として記述することはできるのでしょうか。ものごとを客観的に見てみましょう。私たちの意識の中に特定の感覚が生じると仮定します。それは私たちの注意をそれがそこに起源を有するところの対象に引きつけるというような仕方で生じます。私が赤という知覚を有するとき、私の赤という心象内容は直ちに特別な空間座標、すなわち、空間あるいは表面に結びつけられ、そして、私はその知覚をそこに帰属させます。そのようなことが起こらない唯一のケースは、目に対する突然の圧力に対応した光の知覚のように、感覚器官そのものが外的な影響に対してそれ自身の仕方で応答するときです。私たちはそのような事例に関わる必要はありません。何故なら、それらは通常の知覚に特徴的なものではなく、そのような例外はこの知覚の本質について私たちに何も示さないからです。もし、私が特別な場所に結びついた赤という知覚を持つならば、私の注意はさしあたり外的な世界にあるその知覚の源泉としての何らかの対象に向けられるでしょう。私は私がその赤い色に関連づけるものの中で生じる空間的・時間的な経過について問いかけ、そして、機械的、化学的、あるいはその他のプロセスが私の問いかけに対する答えとして提示されるということが明らかになるでしょう。私は私のために赤という色を事物から私の感覚器官に至るまでの途上で仲介するプロセスの探求へと進むことができます。ここでもまた、私が見出すことができるのは動きのプロセス、電流、化学変化といった媒体だけです。たとえ私がその伝達を感覚器官から対応する脳の中心部へとさらに探求できたとしても、結果は変わらないでしょう。この経過全体を通して伝達される「何か」とは赤という知覚です。この知覚が刺激から知覚へと続く道に沿ってたまたま横たわっているものの中で「どのように」自らを提示するかは、もちろんその横たわっているものの特性に依存します。知覚は、たとえそのようなものとして明確にというわけでは全くないにしても、最初の刺激から脳に至るまでのどの場所にも存在していますが、たまたまその場所にある対象の特性に対応した仕方で存在しているのです。これによって、物理学や生理学を理論的に基礎づけるもの全体に光を当てるのに適した真実が明らかになります。私が私の意識に知覚として入り込むプロセスに含まれる何かを調べることによって知ることになるものとは何でしょうか。私が本当に知ることができるのは、その特定のものが知覚から進み出てくる働きにどのように対応するかということだけです。言い換えれば、時空間世界におけるその特定の対象の中で、知覚がどのように「自らを表現する」かということだけです。時空間的なプロセスとは、決して私の内部の知覚を創り出す「原因」ではなく、時空間中に存在する事物の中で知覚が及ぼすところの「効果」なのです。刺激から知覚器官に至る道に沿って、いくらでも事物を並べることができるかも知れませんが、それぞれがそれ自体の特性によって決定づけられ、同時に制限される、というような仕方で対応することでしょう。こうして、「知覚自体」がそれぞれのプロセスの中で自らを表現するものとなるのです。音の伝達には長さ方向の空気の振動が、光の伝達には仮想的なエーテルの振動が含まれます。これらの形態は、単にそれらの特別な知覚が正にその特性から希薄化と濃縮化、言い換えれば、振動することしかできない媒体の中で顕現するその仕方であるに過ぎません。知覚そのものがその媒体中に見出されることはありません。それは「それがそこには存在し得ない」からです。そのようなプロセスが知覚の客観的な特性を体現していると言うことはできません。それらはむしろその特性がその中に顕現するところのひとつの形態なのです。さて、それらの媒介するプロセスの特徴とはどのようなものかと問うてみましょう。私たちの感覚を通すことなく、それらを探求する方法はあるのでしょうか。感覚そのものを除く何らかのものを用いて私の感覚を探求することは本当にできるのでしょうか。周辺にある神経末端や脳の渦巻きは感覚的な知覚とは異なる何かなのでしょうか。これらすべては主観的であると同時に客観的、もちろん、それらが区別できるとすればですが。そのことに対して、今はもう少し正確なアプローチができるようになりました。私たちが知覚を刺激から感覚器官にまで追っていくとき、私たちは実際にはある知覚から別の知覚へと継続する移行を探求しているのです。赤という知覚がさしあたりそのプロセス全体を開始させる原因となったのですが、それは私たちにその刺激を指し示します。私たちがそこを見るやいなや私たちは赤に関連するその他の知覚を見出します。それらは動きのプロセスであり、今度はそれらが刺激と感覚器官の間にある別の動きとして現われるという具合です。けれども、これらすべては感知された知覚でもあります。そのすべては他ならぬ感覚として、そもそもそれらが感覚的な観察にかかり得る限りにおいてですが―自らを現すところのものが変容したものなのです。「感覚の世界とは変容した知覚の集合体に他なりません。」便宜上、私たちの表現方法はこれらの結論とは完全には調和し得ないようなものとなりました。私たちは、刺激と感覚器官との間のギャップに自らをはめ込むそれぞれの「もの」はその特性に応じた感覚を引き起こすと言いました。もちろん、厳密に言えば、「もの」とはその外観を構成するプロセスの総体です。さて、人々は、これらの結論は現在進行中の世界過程からあらゆる永続性の感覚を排除するものであると主張するかもしれません。私たちの主張は、ヘラクレイトスと同様、唯一の世界的な原理とは事物の絶えざる流れであり、そこには永続的なものは何もない、というものです。確かに、すべての現象の背後には「物自体」が、つまり、この変化する世界の背後には「永続的な物質」があるに違いありません。ですから、私たちは「永続的な物質」、あるいは「変化における永続性」の問題に対して、別の見方をしなければなりません。私の目が赤い表面に向かうとき、私の意識の中には赤の感覚が現われます。私たちはその感覚の始まり、中間、そして終わりを区別することができます。この移ろいゆく感覚とは対照的に、私たちは持続的、客観的なプロセス、時間の中でも同じく客観的に限定されたプロセス、つまり、始まり、中間、そして終わりを持つプロセスを見出そうとします。けれども、このプロセスが生じるのは、始まりも終わりもなく、破壊不能で永続的な物質的基盤との関連においてであると考えられています。この物質はこれらの変動するプロセスの中で真に永続的な要素であると考えられているのです。このような結論が有効なのは、時間の概念が正しく感覚に適用されるときでしょう。けれども、恐らく私たちは感覚そのものの本質あるいはその内容とその表現とを明確に区別する必要があります。私の知覚にとってそれらはもちろん同じものです。何故なら、その本質がなければ、そもそも私にその感覚が現われることはないはずだからです。今、この本質という観点から見て、それがある特定の瞬間に私の意識の中に入り、次の瞬間にそこから離れるかどうかで何か違いがあるでしょうか。感覚の本質(その客観的な存在)はそのようなことすべてから独立しています。そのとき、もし、何かが(編注:永続的な物質が)その本質的な性質と何ら関係がないとすれば、それは知覚の存在にとって基本的なものであると主張することに何か意味があるでしょうか。始まりと終わりがあるプロセスとの関係で時間の概念を適用することもまた正しくありません。もし、何かが新しい特徴を獲得し、それがしばらくの間様々な仕方で発展し、そして、消え去るとしたら、その特徴の「内容」、あるいは特質もまたこの場合にはその本質と見なさなければならないはずです。この本質的な特徴は、それ自体、始まり、持続、そして終わりの概念とは全く何の関係もありません。私たちが「本質的な」と言うときには、実際に何かをそれがそれであるところのものにする何か、あるいは、それがそれ自身を提示する仕方について語っています。重要なことは、時間の中のある特定の瞬間に何かが現われるという事実ではなく、実際に現れるものとは「何か」ということです。この「何か」を通して自らを表現するあらゆる個別の特徴こそが世界の本質的な存在を構成しているのです。今、この「何か」が、様々な条件下で、多様極まりない形態を取って現われます。これらすべての形態は相互に関連しています。つまり、それらはお互いのお互いに対する条件を創り出しているのです。こうして、それらの関係の特質は「時空間」中における分離のひとつとなります。「物質」の概念は非常に間違って導かれた時間の概念により生じました。一般には、もし、私たちがつかの間のできごとの総体を、様々な個別の形態は変化するにしても、時間の中で継続する永遠不変の現実の中につなぎ留めなかったとしたら、世界は存在を欠く単なる幻想の中へと蒸発してしまうだろうと信じられています。しかし、時間は変化がその中で生じるための入れ物ではありません。時間は事物より「前」に、あるいは、それらの「外」に存在しているのではありません。それはできごとが、それらに固有の性質によって、逐次的な相互関係を形成するという事実の明らかな表現なのです。感覚知覚可能な事実a1、b1、c1、d1、e1の複合体、そして、内的な必然性によってそれに依存する別の複合体a2、b2、c2、d2、e2があると想像してみましょう。第2の複合体の特性は、それを最初の複合体から概念的に導き出すことによって理解することが可能です。ここまで私たちはこれらの複合体を、時間や空間とは無関係にそれらの本質にしたがって記述してきました。ここで、両方の複合体が実際に現れると想像してみましょう。もし、a2-e2が現われるとすれば、a1-e1も現われなければなりませんが、それは、それらの必然的な関連性が明らかなような仕方によってです。これは、現象a1-e1がまず存在し、現象a2-e2を準備するのですが、後者が現われることができるのはその後です。このことから、時間が生じるのは何らかの「存在」が「外的に現われる」ときだけであるということが分かります。ですから、時間は見かけ上の世界に属しており、事物の存在、あるいはその本質とは関係がありません。そのような存在はアイデアとしてのみ理解できます。自分自身の思考の中で見かけ上のものをその本質的な存在にまで辿っていくことができない人たちだけが、時間を事実に先立つものとして考えるのです。けれども、彼らはそのとき、ある種の存在を、つまり、あらゆる変化を通して持続し、破壊することができない物質という概念の中に彼らが見出すような存在を必要とします。こうして、彼らは、時間に浸透せず、変動によっても変化せずに持続する何かを作り出します。けれども、これによって強調されるのは、時間に拘束された事実の外観からその本質的かつ永遠の存在へと貫き至ることが彼らにはできない、ということだけです。私に言えるのは、その本質は他の何らかのものの本質と関連しており、その結果として生じる関係が時間的に連続したものとして現われる、ということだけです。事物の本質は破壊することができません。それは時間を超越し、実際、時間を決定づけているのです。ですから、ここに見られるのは、めったに理解されることのない二つのもの、すなわち、顕現あるいは表出と、存在あるいは本質的な特性です。ここでの説明が理解されるとき、事物の本質の非破壊性を証明しようなどとは考えないでしょう。何故なら、破壊は時間の概念を示唆しますが、それは事物の本質的な特性とは何の関係もないからです。ですから、「我々に自らを提示するような感覚知覚可能な世界とは、その根底に実質的な基盤を持たない変容する知覚の寄せ集めである」と言うことができます。ここで述べられたことによって、知覚の主観的な性質について語ることはできないということもまた示されました。私たちが何かを知覚するとき、私たちはその過程を刺激から中心的な器官まで追っていくことができますが、まだ知覚されていないものの客観性から主観的な知覚への飛翔を観察できる地点はどこにも見当たりません。このことは、感覚知覚可能な世界は主観的である、という考えを否定するものです。知覚世界はそれ自身に根ざすものであり、さしあたり、主観にも客観にも関係していないのです。これらの考察は、その古さと同じくらい不正確な物質についての形而上学的な概念と同様、物理学の基礎としての物質の概念にのみふさわしいものです。物質を現象の根底に横たわる実際の現実として見ることと、それを現象あるいは表出として理解することとは全く別のことがらです。私たちの考察は最初の見方にのみ向けられたものであり、後の見方には関係がありません。もし、私が物質を単に空間を占めているところの何かとして考えるとすれば、それは私にとって他のすべての現象以上の現実性を持つことのない現象のことを言っているにすぎません。物質のこの特徴を心に留めておくだけのことです。あらゆる科学の対象となるのは、知覚を通して、つまり、広がり、動き、休止、力、光、熱、色、音、電気、等々として、私たちに自らを提示する世界です。もし、知覚された世界が、その感覚的な外観によってその本質が完全に表現される、というようなものであったとすれば―言い換えれば、もし、私たちに現れるあらゆるものがその内的な本質の完全で阻害されていない表出であったとすれば―私たちは科学というものを全く必要としなかったでしょう。何故なら、理解する、ということは正に知覚という行為の中で生じるものだからです。確かに、本質的な存在と現象的な外観との間にいかなる相違もなく、それらが完全に一致しているということがあったかも知れませんが、そのようにはなっていないのです。要素Aが現実世界の中で要素Bに関係していると想像してみましょう。私たちの考察にしたがえば、両方とも現象であり、それ以上のものではありません。そして、それらの間の関係はまたひとつの現象として現われます。私たちはそれをCと呼ぶことにしましょう。私たちが現実の世界において確認することができるのは、A、B、及びCの間の関係ですが、知覚可能な世界には、ちょうどA、B、及びCのような要素が他にも無数にあります。第4の要素Dを無作為に取り上げてみましょう。それが加えられるやいなや、他のすべてがその存在によって変化させられます。Cを与えるAとBの代わりに、Dの存在はさらに別の現象Eをその出現へと導くでしょう。ここでの主要な点は、私たちがひとつの現象に向かうときにはいつでもそれが無数の条件によって変化させられているのを見るということです。それを理解するためには、これらの関連すべてを探求しなければなりません。あるものは近く、またあるものは離れた、あらゆる種類の関連があります。もし、現象Eが私に現れるのであれば、その他の多かれ少なかれ関連した現象が役割を果たさなければなりません。そのいくつかはその現象が存在するために不可欠なものです。つまり、それ以外のものがなくても、そのような現象のあるものが生じるのが妨げられるということはないかも知れませんが、それでも、それらはそれが生じる特定の仕方に影響を及ぼす可能性があります。したがって、私たちが区別しなければならないのは現象の必然的な条件、及び偶然の条件です。必然的な条件に基づく影響を通してのみ生じる現象は「主要な」現象、そして、その他の現象は「派生的な」現象と呼ぶことができます。それらの条件を知ることで主要な現象の理解へと導かれるとしても、その他の条件を含めることによって、派生的な現象もまた理解することができます。このように、必然的な条件のみに依存する現象を見出すことにより現象世界についての深い理解を得るというのが科学の使命であり、それらの必然的な関連の概念的な表現が「自然法則」なのです。私たちがある特定の分野の現象にアプローチするときにはいつでも、まずそれらを記述し、記録するとともに、どの要素が必然的な関連を有しているかを確定しなければなりません。それらの要素とは元型的な現象です。そのとき、私たちは、より遠隔的な方法でそれらの要素に関連づけられる条件を見出し、それらが元の現象をどのように変化させるかを発見しなければなりません。科学は、あらゆる現象は導かれたものであり、したがって、さしあたりそれを理解することはできないというような仕方で現象世界を見ます。科学は、現象間の相互関係を理解するために、元型的な現象を指導的なもの、派生的な現象をそれらから続くものとして見ます。科学が現象間の関係を確立し、それによってそれらを理解可能なものにする程度に応じて、科学的なシステムは自然のシステムとは異なってきます。科学は、現象世界に何ら貢献する必要はなく、ただその隠された関連性を発見しさえすればよいのです。知性はこの仕事に限定して用いられるべきです。知性やあらゆる科学的な努力がその正当な領域を越えていくのは、それらが知覚可能なものを説明するために知覚不可能なものに頼るときです。ゲーテの色彩論を理解するには、これらの概念の絶対的な正しさを理解していなければなりません。現象の特質、暖かさ、光等々をその外観上の本質以外のものであると推測するほどゲーテの考え方から遠いものはないでしょう。要するに、彼は思考の使命について適切な認識を持っていたのです。ゲーテによれば、光は知覚として与えられました。光と色の間の結びつきを説明しようとする彼の試みを可能にしたのは、思索ではなく、色が生じる前に光が出会うべき必然的な条件を探すことによって、つまり、「元型的な現象」を通してだけでした。ニュートンもまた色は光との関係で生じると見ていましたが、さらに進んで、どうすれば色は光から生じるのかと推測するに至りました。そうすることは彼の推論的な思考方法に根ざしたものであり、現象の中に自ら沈潜し、それ自体の使命を正しく理解していたゲーテの思考にではありませんでした。「光は色のついた光から成る」というニュートンの仮説はゲーテには不当な推論の産物のように見えました。
記:プリズムの発見 分光する透明な光学ガラスの原型が出来上がった時点を以てプリズムの発見と云うのであれば、紀元前5世紀頃だとされています。科学史に於いて、最初に分光が語られたのは、水晶柱での分光(元々には無い色の光が見える)を記したアリストテレスだと思います。(但し、虹の原理は屈折ではなく反射だと表明していますが・・・)プリズムとはギリシア語(=ラテン語)のprismaに由来し、原義は断ち切った・削るです。当時のギリシャには中国で発明された透明ガラスは入っていないので、水晶柱を断ち切ったモノでアリストテレスは太陽光の分光を見たのだと思います。そうするとプリズムの発見は、紀元前4世紀となります。
参考図:ゲーテのニュートン批判



 彼は、光と色の「関連」について語ることが正当化されるのは一定の条件が与えられたときだけであり、光そのものについて推論的な概念を導入しながら語ることは正しくないと感じていたのです。「光は私たちが知っているものの中で最も単純で、最も細かく分割され、最も均一化された存在である。それは本質的に複合体ではない。」という彼の言葉はここから来ていました。光の「複合」について語られる現象の論述はすべて知性によるものです。しかし、知性本来の領域は現象間の「相互作用」の論述に限られます。このことは、ゲーテがプリズムを通して光を見たとき、何故、ニュートンの理論を受け入れることが「できなかった」のかを、より深く明らかにするものです。プリズムは色の出現にとって「第一の条件」であるはずでした。けれども、別の要素、つまり闇の存在はそれが生じるためのもっと基本的な条件であることが証明されたのです。プリズムは第二の条件であるに過ぎませんでした。私は、これにより、色彩に関するゲーテの仕事を理解したいと思っている読者にとってのあらゆる障害が取り除かれるものと信じます。もし、人々が、これら二つの理論の違いには相矛盾する説明が含まれており、単にその相違の有効性が検証されればよいと繰り返し考えてこなかったとすれば、ゲーテの色彩論の偉大な科学的価値はずっと以前に認識されていたことでしょう。この問題に関して、現代物理学の観点を受け入れ続けている人たちは、知覚を知性による推論を通してその根底に横たわる原因にまで辿っていく必要がある、という基本的に間違った考えに捕らわれているのです。しかし、現象を説明する方法とは、理解することによって確立された文脈の中でそれらを「観察する」ことである、ということを理解する瞬間、人はゲーテの色彩論を「原理的に」受け入れざるを得なくなります。何故なら、それは私たちの思考と自然との間の関係についての正しい観点から出発しているからです。ニュートンにはこの観点がありませんでした。もちろん、私はゲーテの色彩論におけるすべての側面を擁護するつもりはありません。しかし、私が本当に擁護したいのはその「原理」です。とはいえ、彼の時代には知られていなかった色彩現象を導き出すためにゲーテの原理をここで使う、というのも私の使命ではあり得ません。いつの日か、ゲーテの理論に沿った色彩論を完全に最新の研究に基づいて書くための時間と方法に恵まれたならば、その仕事に取りかかるかも知れません。それは私の人生における最も価値ある仕事のひとつになるでしょう。この序論では、ゲーテの色彩論における彼の「思考方法」を科学的に正当化することに終始しなければなりません。次の節では、その内的な構造を明らかにするつもりです。
参考画:色彩論



    (第16章 2.元型的な現象 了)

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最終更新日  2024年06月17日 19時13分41秒
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