Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年06月20日
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カテゴリ: 霊魂論


ルドルフ・シュタイナー
ゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)
第17章 ゲーテ対原子論 佐々木義之訳 1-9項
第二項
 寸法、形、位置、動き、力といったものは、例えば、光、色、音、匂い、味、冷たさ、あるいは熱と同様に感覚的な知覚です。事物の大きさを考えるとき、それはもはや「現実の」事物を扱っているのではなく、知的な抽象化物を扱っているのです。感覚的な経験から抽出されたものに対して、感覚的に知覚可能な事物そのものに対して以上に、より高次の現実性を帰属させることに意味はありません。空間的あるいは数的な関連性を用いることのメリットは、ひと目でそれらを概観することができるという、更なる容易さと簡便性の付与にあります。数学という科学の確かさはそのような容易さと概観性とに由来しているのです。現代の科学は物理的なプロセスをいつも数学的、力学的な関係に還元しますが、それは容易さと簡便さとをもってそれらを取り扱うことができるからです。人間の思考はどちらかというと便利さを好むものなのです。そのことは上記で引用したオストヴァルドの講義でも表現されています。この科学者は物質と力をエネルギーで置き換えようとします。彼の言葉を聞いてみましょう。「我々の感覚のひとつが活性化するとき、その決定的な要因とは何か。どんなにそれを眺めてみても、見つかるのは”我々の感覚器官がその環境とそれら自身との間のエネルギーの差に反応している”ということだけだ。もし、我々が生きている世界の気温が我々の体温といつも同じであったならば、我々は決して暖かさについて知ることがなかっただろう。ちょうど我々がその下で生きている一定の大気圧を経験することがないように。圧力が変化したときにのみ、我々はそれに気づく。誰かがあなたを棒で叩くと想像してみなさい。あなたが感じるのは棒か、それともエネルギーか。答えはエネルギーにならざるを得ない。何故なら、振り回されさえしなければ、棒は世界で最も無害なものなのだから。しかし、あなたは応えるだろう、我々は静止している棒にぶつかるかも知れないと。その通り。しかし、我々が経験するのは、私が言ったように、我々の感覚器官とのエネルギーの差であり、この観点からすれば、棒が我々にぶつかるのも、我々がそれにぶつかるのも何ら変わりはない。もし、それらが同じ方向に同じスピードで動いていたとしたら、我々の感覚という観点からして、もはや棒は存在しない。何故なら、それは我々に接触することも、エネルギーの変化を生じさせることもないのだから。」。ここでオストヴァルドは、知覚の領域から「エネルギー」を、つまり、エネルギーでないあらゆるものからエネルギーを分離しているのです。彼はあらゆる知覚を知覚世界における単一の特徴。「エネルギーとしての表現」へと還元し、そして、それによってひとつの抽象性へと還元しています。オストヴァルドがいかに現在の科学的な習慣に捕えられているかは明白です。もし、私たちが彼のアプローチにおける正当性について彼に尋ねるとしたら、彼が見つけることができる唯一のものは、彼の因果論的な説明に対する必要が自然のプロセスをエネルギーの相互交換に還元することで満足させられるのは心理学的な経験上の事実であるということだけです。実際、ドイツの医師、生理学者であるエミール・ハインリヒ・デュ・ボア=レーモン (Emil Heinrich du Bois-Reymond/1818年 - 1896年)が19世紀の原子の力学に頼るのも、オストヴァルドがエネルギーの相互交換に頼るのも同じことです。いずれにしても、心的な便利さに対する人間の必要が満足させられることになるのです。オストヴァルドは彼の講義を次のように締めくくっています。「自然を理解するために、エネルギーがどんなに必要かつ有用であったとしても、物理的な世界を説明するのに十分なものであるのか。あるいは、現在知られているエネルギーの法則をもってしても完全には説明できない現象があるのか。・・・私は私の今日の発表におけるその他の部分に対してと同様の責任を持ってこの問いに答えることが必要であると感じているのであるが、強調したいのは、その答えは「ある」のであるということだ。私の意見では、物質的、あるいは力学的な説明に対してエネルギーの観点から世界を説明することの途方もない利点とは無関係に、既知のエネルギーの法則によっては説明することが「できない」いくつかの場合が既に存在している。それらはそれらを越えた原則の存在を示唆している。エネルギー論はそれらの新しい法則と共存しながら生き残るであろう。しかし、それは将来、現時点で我々が考えているような自然現象を把握するための最も包括的な原則としてではなく、恐らく、「今日ではその形態をほとんど想像することもできないような」もっと一般的な関連性の特殊な表現として理解されていることだろう。
参考画:エミール・ハインリヒ・デュ・ボア=レーモン



記:科学的知識の限界についての議論(われわれはしらない、しることはないだろう、ラテン語: Ignoramus et ignorabimus,/イグノラムス・イグノラビムス)は、人間の認識の限界を主張したラテン語の標語。
    (第17章 ゲーテ対原子論 第二項了)

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最終更新日  2024年06月20日 06時10分10秒
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