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大阪は都会だけにある程度、色々な映画は上映されるのだが、大都会のワリには、すぐに上映が打ち切りになったりして、こちらの注意不足や都合とあいまって、見そびれることが多い。ギリシアのアンゲロプロス監督の久々の作品「エレニの旅」も、封切り時には完全に見逃していたのだが、ありがたいことに、朝日シネマベストテンという催しで、昨日上映されたのを見に行くことができた。(正統派シネマファンからすれば、 「ベスト++」というのはお仕着せの邪道というとこもあるだろうが、 ただただ、観たかった映画を観る機会が出来る、というだけで、 とてもありがたい。)上映会場は、フェスティバルホールの地下にある、リサイタルホール(昔のSABホール)。フェスティバルホールで音響を発すると、かなりハッキリ聴こえてきてしまい、昨日も、静寂な場面や、風の音を聴きたい ような場面で、あたかも「遠方で、戦乱の大砲の音でも??」というような音が始終聴こえてきて、かなりハッキリと邪魔であった。もしこんど機会があるときは、フェスでの公演内容や予定時間を考慮して行く必要があると、真剣に思った。映画館でもコンサートでも、案外、内容そのものもさることながら、こうした環境は、大事な要素になるものだ。「隣の人」というのも案外大きい要素だったりする。(コンサートで微妙にズレつつ「指揮」したり、チラシをビラビラめくり続けたり…)また「前の人」(単純に坐高の問題というものもある)の影響を避けるためには、通路側が望ましい。昨日は幸い、舞台に向かって、左のブロックの右端通路側に座ることが出きた。また、僕の左隣には、上品な女性が単独で来られていて、2時間50分の間、マナー良く、ミネレルウォーターのボトルを手に、リラックスした雰囲気で座っておられたので、座席の条件としては最上であった。前から大体10列目くらいであろうか。真隣ゆえお顔もちゃんと拝見もしなかったが、ピンクのカーディガン(セーター?)を出掛けに羽織られたこの方には、とても感謝したい気持ちで一杯になった。(偶然、ふたりとも会場を出る仕度に少しかかったものの、突然誘ったり声かけたりする訳にも行かず・・・)人は、しらぬまに、人を傷つけたり悲しませたりしてしまうこともあるのだが、一方で、このように本人は知らず、自然に過ごすだけでも、人を幸せな気持ちにさせることもあるようだ。(もう2度と会うこともなく、そもそも顔もちゃっと観てないわけだが)エレニの旅を見て、ふと、その昔観た、ベルトルッチ監督の「1900年」(原題では「1900年代」)を思い起こした。時期と場所がやや類似する面はあるものの、撮り方も、ストーリーも、人物の描き方も、そしてもちろん、登場人物の立場も全く異なるので、個人的な感想にすぎないのだが。あえて言えば、どちらも、(これも全く別の形でだが)音楽が非常に印象的で重要な位置を占めている。(映像も息を呑むほど美しく、しかも安易なCGを用いず、象徴的な場面も、しっかり創り込んで撮っていて、まさに「これこそが映画だ」といえる映像になっている。(七人の侍 などの折の黒澤明のこだわりと工夫を思い出した。コレもまた全く異なる作風であるが。))「人」の内面からは映像的には距離を置いた撮り方になっていて(びっくりするほど、距離やスパンの変化があるシーンでもワンショットだったりする)、また恐らく余り個人的感情を説明的に描くシーンや、筋書き・経緯を細かく解説するシーンはカット(編集で削除)したのではないか、という気がするシーンもあった。説明的なセリフも極力抑えられている。登場人物はほぼ全て「難民」であり、このエレニは、「あらゆる意味で」「あらゆる面で」の「難民」の女性である。実の両親・家族とは幼少期に別れ(記憶すら?)、ロシア革命からの難民である帰還ギリシア人の「親」からも、養父の妻になるのを逃れるという過酷な断絶を強いられ、 (ロシア帝国の繁栄期には、多くの国からの移民が居たということになる。 経済・政治の興亡に伴う民族移動は、常に起こっているようだ。)それとともに、育った村からも断絶し、かつ、追ってくる養父の影から逃れ、別の戦争難民の集落(テサロニケの港町にあることになっている)の一員となり、養父の葬儀に伴い帰郷するも、村人の排斥と(地主への反発?)自然災害により、故郷を再び永遠に追われ、戻ったテサロニケの集落では、王党派(?)政権により、(普通の)労働者への弾圧から音楽を奪われそうになり、夫はアメリカへ渡り(ほどなく家族は呼び寄せるつもりで)、エレニは、恩人を匿った罪で投獄され、あらゆる家族から離別させられる。ギリシアの近代史を知らずに観たのだが、旧ユーゴと類似した面があるようで、王党政権・労働(戦線?)政権・王政復古政権(?…連合国側として参戦したのはこの時期?(確認中))・ドイツ・イタリア占領期に加え、1945以降に内戦があったらしい。エレニは、その変わり目毎に、監獄を変えられ、「制服」を替えさせられながら、ずっと自由を奪われ「抑圧されつづけた」。 註)(2月25日) 1919~1922年:希土戦争 1924~1935年:共和制 1935~ :王政復古 ~第二次世界大戦中はドイツに占領~ 1945~1949年:内戦 1952年 :NATO加盟 1967年 :アメリカ合衆国の支援下に軍事独裁政権が成立 (国王亡命) 1974年 :国民投票により、君主制廃止。共和制へ 1975年 :共和国憲法制定 1981年 :欧州共同体 (EC) 加盟 (wikipediaより…手抜きですみません。 エレニの時代には、王政→共和制→王政→ドイツ占領下→王政・内戦とたどったことになるようです。戦後も含め、戦争に苛まれた歴史なのですね。)1900年の方は、登場人物は全て主体的に動き、自らの行動の「結果」を受け止める存在であるが、エレニは違う。映画の中での「人」と「ストーリー」の描き方の大きな印象の相違は、この点も大きいようだ。 (自らの運命に対して、主体的に作用できない というのは、 多くの場合現実はそうなのだが、小説・映画などでは、「ウケ」にくい。先日のオリバーツイストも(映画では)そうであった。戦場のピアニストも宇宙戦争も同じくである。ただしこれらは別の「サービス」(ヤっつける場面とか、ドイツ人将校を感動させる場面とか…)で、「ニーズ」に応えてるが。 その対極は「司馬遼太郎」的な、 「この人のこの人格があったからこそ、コレが成し遂げられた」 「一般に、++人には??気風があって、この気風をもってして、 ##のこの快挙は成し遂げられたものであり、 まさに++人の総決算ともいえるべき存在が##なのである」 風な「気持ちのよい解釈付き、"結論"」であろう。)あらゆる意味で「逆境」のエレニではあるが、心から愛する夫が居て(居なくなる不安…は常に心に影を落とすが)、自らの子供も引き取ることができ、そして音楽を愛する仲間や恩人も居て…という「生活」があり、そこに喜びと幸せと自らの存在意義も見出している。逆境そのもので、恐らくは「一般国民」からすれば、差別される集団の中のさらにアウトサイドの位置に居るエレニたちにもごく「ふつうの暮らし」があることを描くのにあたり、「音楽」はとても重要で説得力のある縦糸となっている。そして、音楽は鼓動そのもののように、映画の「心拍数」をも表現している。それも多くの場合は、いわゆる劇伴音楽の枠を超えて、エレニの夫達や仲間自身が演奏している「映画の中の現実」として。エレニには、愛する人の声そのものでもあるのである。ただし、エレニ自身には音楽は全く奏でさせることもなく、軽く口ずさませることすら一切ない。「ママは(楽器は)何をするの?」と、子供と再会して問われる場面も、子供が始めてママと呼んでくれた感動の涙が溢れる場面となっている。過酷な生活の内、具体的な経済的な側面や日々の生活時間・家事労働などを写実的に描くことはあえて避けており「貧困でのかわいそうな苦労話」的な色は全く皆無であり、人との関係や、周りの状況の変化がどうしようもなく(ただし極めて静かに「知らぬ間に」)押し寄せてくる。そして、「ふつうの暮らし(家族と一緒に暮らすという)」の全てを、破壊しつくす。ギリシアが近代に経験した、何回かの戦争によって。そのたびに、多くの「難民」が生まれ、別れや喪失がもたらされ、それは「とりかえしのつかない」ことであり、なぐさめようすらないほどである、ということを、エレニという1人の女性を描くことによって、ほとんど静かに語りかけてくる映画であったとも言える。エレニが涙する場面はいろいろと多いのだが、たぶん、絶叫し痛々しく泣く場面は、最後の最後に凝縮されている。本当に全てを失い、全て取り返しのつかない・・・そういう状況が、幻想的とすら言えるほど美しい、水の上に浮かぶ廃屋の場面に映し出される。文字にすると、そんな「メッセージのための映画」みたいに読めてしまうが、そんな甘えた「宣伝映画」などではなく、本当に良い意味で「映画」である。なお、エレニの夫が戦死するのは、慶良間諸島でオキナワ戦だが、映画でも「地獄のようなところ」と言っている。オキナワも、多くのエレニやエレニの子供たちやエレニの夫が生まれた場所である。今は「オキナワのオバア」とかコミカルな扱いを、ヤマトではされてるが、(それもまた悪い面ではなく、いつも悲しみ眉をひそめるべきというのでは全く無いが)、本当の地獄を、その眼で見て、通り抜けて、「今」を生きておられる方が多いことを思う「想像力」を少しずつお互いに持ち合うことは、あってもよいように思う。このことは、なにも戦争・政治・歴史以前に、「普通の周りの人々・他人」を見る折にも、大事な視点=「その人、その人に、いろいろな苦しみや想いを持って、"今"まで生きてきている」という事実に対する敬意と洞察を持つことにもつながる話 と思う。歴史を見ること、「人」の話を聞くこと、「人」と接すること は、結局、「人」としての「お互い」を尊重すること、最低限の敬意を払いあうこと、につながるのだと思う。そんなことも、この映画を観終わって、いろいろ考えているうちに、思ってきたのだった。(「アイツら」「**のヤツら」よばわりして思考停止&理解停止することは、簡単であり心地良いことだろうが。「ボクらはアイツらと違うもんね」といいあう「仲間」どうしでは。これはどこでも起こりうる悲しむべき人間の性のようだ。職場では汚職にも背任にもイジメにもつながる・・・。「カルト化」とも言えるだろう。)
2006.02.19
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大阪の代表的なライブハウス「バナナホール」が、土地オーナー会社が替わった事から、閉鎖を迫られている。(ココで署名もできます。音楽家の方もご覧になっていて、賛同下さるのでしたら、よろしくお願いします。)「ここでしか聴けない」「ここで聴きたい」というミュージシャンを幅広いジャンルで選び抜いて、聞かせてくれるとても貴重な場所だ。沖縄音楽・琉球音楽はブーム以前から今に至るまで数々の人を聞かせてもらった。BIGINも初めの頃、ここでしか聴けなかったのではないか。僕が行き始めるより前の時代には、憂歌団やチェッカーズもそうだったらしいし、有名になってからもかなりの方は、ここで、本当に目の前で演奏をしに来てくれる。よそではつい聞き逃してしまうような、民族音楽から、ジャンル横断的なセッション、インストゥルメンタルまで、その音楽の「選球眼」のすばらしさは、全く大阪の宝としか言いようがない。いくら金があっても、出来るようなものでは全くない。自分の全く知らないジャンルの音楽 に、ふと、「好奇心」ででも行ってみよう、と思える場所・プログラミング・雰囲気、そして価格設定など、本当の「新たな出会いの場所」でもあった。ライブハウスとして、決して、停滞してるわけでなく、ずっと栄えてきたのに・・・である。このことは今の大阪にあっては、むしろ驚異なほどのことである。大阪ガス=扇町ミュージアムスクエア、近鉄劇場をはじめ、また大阪フィルからの大企業の資金引き上げなど、大阪の「民が支えてきた"わしらの文化"」は幻影となり、ほとんど消滅状態である。一部の人間は役所の「文化通」にタカっているようだが。大阪の数々の文化活動が停滞し、大企業が文化から金を引き上げてしまって、「地方公演を行っても、大阪はトバす」というジャンルが増えてきている中で、ずっと続けて評価されてきたのは、やはり「中身」の良さならではである。「業種」や「立地」のみではないはずだ、新しい土地オーナーとなった「IT企業」が利益追求のための「クラブ」にして「音楽配信」する、というが、仮にやっても、どこまで続くか…。数年後には、「ああ、当時、そんなこともしましたねえ」という程度だろう。なにしろ「他にもみんなヤってる"アタラシイ事"」を追うに過ぎないのだから。(お役所の「新しいコト好き」の方々などは「元気大阪!」とか言って飛びつくかもしれんが。年度内だけ。)どうか、良質な文化がちゃんと評価され、それが活動に結びつく街になるよう、願いたい。安藤忠雄氏が提唱し、お役所が盛り上げた「大阪に桜を植えよう」という募金はお金が集まりすぎて、実は困っているそうだが、安藤忠雄氏もお役所も、バナナホールには眼を向けない。たまたま、「文化通」のお役人が「仲良くなった」ら、ちょっとした、アングラにお金を出して、さらに「文化通」を気取ることはあるだろうが。クラシックで言えば、ベートーヴェンの交響曲は聴いたことないが、武満徹とシュトックハウゼンの全集CDを書斎に並べている・・・より、もっとイカサマっぽいか・・・。署名でどうにかなるのか、また、「天神天満繁盛亭」のように、募金を行うのかわからないが、大企業が出せないお金じゃないのに、それが出来ない「大阪」って一体何なん? って思ってしまう。お役所も、いろいろと、地道なサービスをたくさんしてるとは思うのだが、市長や知事が声高に宣伝したり、マスコミをにぎわしてるイベントって、どうなん? と思ってしまう。「今あるもの」を見極める能力がないのか?バラ会議も、サミット誘致も、ヒマと金が余ったら、ヤルことは悪ではないけど。。。あんまり、お役所に期待してもムダだろうし、実際、バナナホールのことについては、さすがに、税金を使うべき・・・というものではないかもしれないが、まあ、それにしても、ちょうど、お役所も、来年度予算を発表する時期だが、何にどれだけお金を使って、そのお金は「誰が受け取るのか」は注目すべきだと思う。・・といっても、よく判らんように出来てるから、誰が誰に何するのか、ワカランのだが。
2006.02.12
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古典の小説や戯曲を原作とする映画を見る場合、また、古典的名作とされる映画が既に在る映画を見る場合、それらを読んだり、見た事があるかないかで、印象は大分異なるだろう。きっとまた、創り提供する側も、同じことを考えるだろう。オリバー・ツイストは、いわずと知れた有名作品で、映画にもミュージカルにもなっているし、ディケンズの代表作の1つでもある。製作者の側も、恐らくは、それらをある程度体験していることを前提にとりくんだだろう。ただ、僕としては、そのどれも見たことがない。「孤児」の話である ということは知っていたものの。 (余談ながら、幼少期から、図書館で背文字を見かけたり、「目録」で見かけたりはしていたが、 端から「オリバー とんかつソース」を連想してしまって、 何故か、ブルドックソースのキャラが頭に浮かぶ、という始末である。 (そんな僕にはビル・サイクスが連れている猛犬はハマってしまう存在である…) 最も古典的名作を読む時期に、興味を向け損なったまま、今に至るという次第である。)そんな人間が、1回見ただけで感想を書く という限界はあるのだが、事物としても、また人物の描き方としても、「ドラマ」の持って行きかたとしても、興味深い映画だった。この映画で、圧倒的に一貫しているのは、階級社会であることだろう。ただし、封建的ないし専制君主的な階級社会ではなく、多分に経済システム・都市文化の中に、「しっかり」根付いた階級社会である。なので、個人ではどうしようもない、不平等ないし不親切な扱い、または、どうしようもない理不尽さ、絶望 が、様々な場面、ストーリー全体そして、各々のキャラクターの存在の根っ子に横たわっている。「富める者(貴族・教会職員・判事など)」が「貧しい者」を哀れむことはあっても、自分達と本来同じ人間 とか、貧しい立場そのものが変わるべき とは決して思わない。「貧しい者」が「貧しい」のは当然であり「仕方ない」ことであるのである。ちょうど、我々が、アフリカやアフガニスタンで餓死者が出ても「かわいそう」とは思っても、「自分達の今の立場と交換しよう」とか、自分達の「分け前」を全く平等に分かち合おう と「本当のリアルなレベル」では、思えないのと一緒で。 (実際に、そのレベルまで努力なさっておられる方、命をかけておられる方がおられることは否定しませんし、 また、逆に、そうした方々に対し、あたかも自らの「後ろめたさ」故か揶揄し、 タタく傾向があることは、本当に悲しむべきことですが。 イラクへのボランティアのことについても、ある程度あてはまる現象でしょう。 タタいた人は「何もせず批判している」場合がほとんどですから。 仕事でもそうですが「何もしなければ、批判する側にまわれる!」のは悲しいことです。)そして、この映画には、いろんな英国が出てくる。今行けば、これらの痕跡の、どこまでは、まだ現存するのだろうか…冒頭は、ロンドンから70マイル以上離れた(映画ではロンドンの西にあるようだったが)地方都市。英国国教会とはいえ、教区の色濃い都市のようである。救護院と葬儀屋が主な舞台であることによる印象かもしれないが。スラムらしいものは映らない。次に、田園地帯。農場があり、都市へ向かう馬車が行き交う道路は整備されており(舗装はされていない)、沿道に農家が離れて建っている。途中、行き倒れたオリヴァを助け一泊させてくれる農家の老婦人から見て、ロンドンは別世界のようである。翌朝、日の出とともに旅立つオリヴァの前に広がる風景は本当に美しい(孤独ではあるが)。この農家は働き手は失っているようにも見えるが、小作ではなく自作農のようである。(もう一度よく見たら、セリフの中で説明があるかもしれない…)そして、ロンドンである。ロンドンには行ったことはないが、初め、オリヴァが行き倒れているマーケットプレイスは、マイ・フェア・レディの冒頭出てくるコヴェントガーデン前の市場のようにも見えるが(オペラハウスらしきものは映らない)、いわゆる、市場が並び立つ街の中心街のようである。太い都市の幹線道路にあたる場所が、それになっているところが、自動車中心の今日とは全く違う街のあり方になっているが。 (ちなみに、馬車の通行は比較的多く、馬車に撥ねられる危険を思わせる場面がいくつかある(キュリー氏がパリで馬車に撥ねられて亡くなった事を思い出した。)スラムと裏通りと表通りも、際立った対照を見せる。スラムは、現在再開発されたドックランドのあたりだそうだが。窓から、汚水を捨てる場面も見られる。トイレの場面は無かったが。ロンドンブリッジを下りた川岸は、ホームレスが多く居るようだ。スラムまで行かないまでも、裏通りは、完全に「産業対応」していて、当時でいうところの「機能的」な建築構成になっている。「産業都市ロンドン」という印象。物品・原材料などの搬送・保管を行うための重機(人力)、恐らくは通りを挟んだ2区画で1つの生産ラインか保管と生産のラインになっているためであろう、通りの上空を「渡り廊下」がいくつか渡されている。「高度利用」であり、住工混在であるようだ。もちろん、当時の近代大量物流には不可欠の「運河」にも要所要所で接しているようだ。最後の方のアクションでも、運河沿いに立地する産業施設と、荷物の揚重機や施設が、重要な舞台になっている。ロンドンの街中の風景に限れば、「専用住居」のイメージのある場面は少ない。スラムは一応そのようだが。オモテどおりは、瀟洒な本屋などが並び、恐らくは「職住一致」のようだ。(ロンドンの都心の本屋であるが、個人経営で、店番は店主以外に咄嗟には居ないという経営規模。)専用住居は、貴族ブラウンロー氏の住む(ロンドン郊外?)の地域にある。こちらは邸宅と言ってもよいだろう。庭付き、恐らく農園も少しあるかもしれない。ただし、子供が「何分」かでロンドン都心の本屋にまで行って帰ってこられる場所のようだ。アフタヌーンティを楽しみながら、チェスをして、悠々自適の生活が送れるという生活水準である。(オリヴァが孤児であるにもかかわらず、上流階級と同じ英語をしゃべり、字も読めるか、ということは、原作では明白なのだろうが、この映画では恐らくは既知のこととして、説明は無い。)生活の描き方としては、スラムとこれらの対比は著しいものの、映画では、スラムの生活や服装を臭気漂う醜悪なもの、と感じさせる一歩手前で表現しているようだ。ネズミは走っているが。それにしても、孤児が多かったのには、理由があるのだろうか。 (イタリアでも、ヴィヴァルディで有名な捨子養育院があったが。)飢餓と常に隣り合わせ。「働く場所・生産手段(農地か、工場か…)」が無ければ死ぬのみ。という状態。善と悪についても、「裕福な環境」と「貧困と差別から逃れられない環境」という元々極めて不平等な状態がもたらす必然 という面を、強く感じさせる。「生き方」「良心」といった次元のものとは別の「善」「悪」。その意味で、フェイギン(ベン・キングスレーが熱演)はその狭間で「悪」側に身をおいている人間として描かれている。個人としての優しさや良心は持ち合わせながら、生きるため・死なないため には、ありとあらゆる方便と知恵を使い、自分より弱い者の上に座り支配することで自分を支え、生かしている。ビル・サイクスは、そうした位置に加え、加虐的・暴力的面を個人としても備えている人間として描かれ、それが他の人物達の「必然的な悪」「やむにやまれぬ悪」との差を際立たせている。良心と勇気と信頼の結晶であるようなブラウンロー氏であるが、常に餓死と絞首刑の恐怖と隣り合わせという条件下のフェイギンや子供たちが「善」でないことを、同等には比べようもない。「現時点」のみならず、「過去」から「未来(死ぬまで)」平等ではありえない条件であるのだから。このブラウンロー氏やその友人の「おっとりとした余裕に満ちた善」が、そうした「アドバンテージ」に支えられたものであることが、いささかの居心地の悪さないし、違和感を持って見えてしまう、のが、また、この映画の主題の1つであろう。もちろん「貧しかったら犯罪してよい」「貧しい者は犯罪者だ」ということでは無いのだが。これは、最近100年位の期間、経済的ないし軍事的に不利な状況に置かれている(または置かれていると思っている)イスラム教国の、欧米先進国への反感と相似したものを、感じようと思えば感じられるだろう。たまたま宗教に投射されることが多いが、「先進国」(これまでCO2も出し放題、核兵器(または原発)も持っている)と、「後進国」との関係とも…こうした社会的な面以外では、そして、これは映画ならではかもしれないが、「人を支配する手練手管」「相手よりも強い立場に立って相手を弱らせるズルさ」がよく表現されている映画とも言える。もちろんこれは、「初めから強い相手(例えば判事・警官)」には用いられない「弱いもの同士」のせめぎあいである。こうした人間心理は、現代の「タタキ誘導社会」や「会社内イジメ」にも通じる普遍的な人間描写であるようにも思う(社会描写でもある)。(ここからネタばれ注意)ドラマ全体は、オリヴァが主人公というよりも、「街」や「(個人ではどうしようもない)社会」そして、「フェイギン」が主人公であるかのようである。ハラハラドキドキ は結構多いし、どんどん、状況が悪化していくオリヴァ、それなりにためらいながらも、オリヴァを破滅させる側にまわっていく周囲の人達、という展開を、固唾を呑んで見ることは出来るが(原作も知らないもので…)、オリヴァ自身はほとんど「翻弄される存在」であり、深く心理描写すらされないので(感情の描写はなされる。この表情の演技がきっとこの俳優が(リアルな大した演技である)選ばれた理由だろう。)、特別に「感動」するような場面はなく、さりとて、周りの人間(オリヴァを心ならずも破滅させる側)へも感情移入がしにくい状態が、多分、最後の10分にいたるまで続くように思う。単純な感情移入が許される存在は、超悪役のビル・サイクスくらいであろう。(超善人のブラウンロー氏は「アドバンテージな存在」故に、好感はもてても、それ以上の感情移入はしにくい。登場場面も少ないし。)(ここから本当にネタバレ!)「ドラマ」「劇映画」として、うならされたのは、本当の末尾、フェイギンとの別れのシーンである。ここで、裸の人間としてのフェイギンが、人間オリヴァに接する。観る側も、フェイギンを「他者」としてでなく、「人間」としてこの場面で初めて、ためらくなく受け止めることができる。その場面を、130分の映画の中の、一点に凝縮させたのである。劇・ドラマ的には、この一瞬のために、他の130分がある、と言ってもいいように思えた。この一瞬で、思わず、涙があふれてきた。。。(ベン・キングスレーの過剰なまでの演技の理由と必然性も、ここまで見終えて、よく理解できた。)これも、原作を知ってる人が見たら、大分見え方が違うかもしれないが。前半に色々述べた、社会的なことや「古典」ならではの「現代における状況への"翻訳""解釈"」を除いても、この末尾の場面のために、この映画を(楽しむものとして)見ることは、充分にできたと思う。その後の終結部分のシーンも含め、映画全体としては、「現代から見れば、とても理不尽で不平等な状態」が確固として(当然)存在しており、「解決」するわけでもないのだから(「人間的」なフェイギンも絞首刑になる)、なにかカタルシスが存在する映画ではないし、「終結感」のある映画でもないのだが、それが、この映画の良いところであり、主題のひとつかとは思う。もちろん形式的には(準)ハッピーエンドではあるのだが。(原作ではもっとハッキリした終結間とハッピーエンドがきっとあるのだろう。)
2006.02.11
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予想通り、高速道路は全線建設だそうだ。都道府県などが出資した「民営化」企業が建設を進めるそうなので、これからは、皆さんの一人一人の地方税がたくさん投入されることになる。「地方」の利権や政治の力のバランスでは「我が地方への建設」を「要望!!」するしかない宿命にあるので、これからは全くブレーキ無しに「民営化」した企業が道路を作り続けることだろう。 (元々、国会議員(各地方&業界の代表を含む、これまでも国の役人の人事にまでも強い影響力を 持ってきた「国民の代表」)からなる組織(国幹会議)が 建設判断には関与することになっているので、 「民営化」した企業が独自の経営判断で、 路線を自由に建設したり、止めたりできない仕組みにすらなっているようだが)赤字路線・赤字会社が、出来てしまうだろうが、でも大丈夫!! 地方税を投入して支援してあげればイイんだから!!!自称改革派知事も、高速道路の「我が地方」への建設は、熱心に要望してることだし!!! もう止まらない・・・。地方自治体出資を前提とした「分割民営化」は、すなわち、「国の責任放棄」である、といえるようにすら思える。さて、石原元大臣は、民営化に反対する「藤井総裁」が最大の悪者ということで、「対決」なさり、「勝った」訳だし、マスコミも、おおむね、「旧制度のワルモノ=藤井総裁」「民営化=改革」という「記号」で、ニュースショーを盛り上げてきたわけだし、思い通りに民営化を果たして、道路建設についての「経営判断」を「誰か」のもとへと移管なさった訳だが、一体、「誰」へ移管なさったのか?そしてその「誰か」は、これまで判断が合理的に行われなかった理由や圧力を克服するほどの力と強さを持った「誰か」であるのか?そして、予想通りの「全線建設!!」に対し (さすがに「全線」とまで恥ずかしげもなく断行するとは、予想を実は上回っているが)どのような「改革の成果と責任」を関係付けて、考えておられるのだろうか?民営化反対のリーダー藤井総裁=ワルモノと定義つけた上で、 (そもそも、歴代の「総裁」が、与党議員の意に反しがちな人間が 就任してきたとは到底思えないが。 (与党議員に「気に入られて」無い人間がそんなに「出世」できるほど 「リベラル」な組織だったのか?国土交通省や公団は?)ワルモノ叩き、で鬱憤を晴らして、肝心の責務(利権の流れや、効果のリアルな判断など)を怠る隠れ蓑にする というのでは、「大衆扇動」と思われても仕方ない・・ (古くはHIV訴訟の「安部班長」1人だけの責任・・・というのも、 図式は似ている。あの場合は、彼に責任があったのは確かだろうが。 あれも他の委員の責任や、委員を任命した国の責任、 そして、薬の認可をめぐる「意思決定の仕組み」には眼が向かないようにするための、 噛ませ犬 にしていたようには思う。 明らかにビジュアル面でも、また当時の言動・立ち居振る舞いも 彼の場合には、後に裁判で「心神喪失(?)」と判断されるほど、 格好の存在だったし。)鬱憤晴らしに、大使館を焼き打ちしている人達(を扇動してる人)と、レベルは、余り変わらないのではないか。。。いや、給料と社会的地位を得ている者が、あえて行う行為である分、社会的な罪と影響は大きいだろう。「叩く」風潮を広める という意味でも。(ただ個人的な不道徳性という意味では、 もちろん、焼き討ちはもってのほかで、 ヒドいものの代表例として、挙げたのであって、 単純に「焼き討ちに理がある」など擁護する意味ではないので、 あしからず。 「それくらい、社会的地位のある人間の無責任な「タタキ」は罪深く、 不誠実である ということで。)責任ある政治家として、民営化に反対した総裁が、「1:道路建設そのもの」「2:道路建設の意思決定の仕組み」「3:建設の負担者の想定」をどう考えていたか?そして、それら3点について、当時の、政治家(改革担当の)が、どう考えていたので対立したのか?また、それ以前は、どういった政治家が、利害代表として、道路建設の意思決定に関与していたのか?また、今の仕組み「1~3」について、改革担当の政治家は、どう評価しているのか?そして、どのような問題点が考えられるのか?はっきりと、国民に説明すべきであろう。意思決定の「仕組み」「根拠」そして「責任者」および、意思決定が前提としている決定結果がもたらす「利害関係」 (キタない意味じゃなく、必然的に発生する利害のどの利害を優先するという経営判断&政治判断を行ったか? という意味で)を、国民に示すこと、納得いくようにすること、それが、信頼と尊敬を、政治や国家・行政にとりもどす、最低限の第一歩であろうと思う。そして、「次の判断」を正しく行う(修正含め)ためにも。
2006.02.07
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