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言語学では、言語を研究対象とした時点で詰んでいる。言語ではなく、人間を研究対象にする必要がある。だから、現在の言語学というのは、全て詰んでいるというのが私の見立てである。
2026.05.07
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動物言語学に関する考察をしていて、やはり最大の元凶は、知能が高度に発達すれば言語が確立されるという、知能から言語への連続的な移行という認識だと思う。そして、人工知能の開発者を私がずるいと思うのは、ある日、突然、シンギュラリティというものが起きて、知能が人間並みになるという、一種、離散的な捉え方をしている点である。つまり、人間並みの知能は動物の知能との連続性の上にあるという認識が元々あるのに、ちゃっかりと、シンギュラリティという離散的なイベントが起きる事を予言している。しかし、そのシンギュラリティに関しては、具体的な理論も根拠も提示していない。本当に、ずるいと思う。
2026.05.06
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もう、かなり前の話になると思うが「人間の視点を捨てて、記憶の視点を取る」という事を、毎日、自分に言い聞かせていた時期があった。当時の細かい考察は、かなりの部分、私のブログに記録されていると思うのだが、言語の主体を、人間ではなく、記憶に求めたという発想を持てた直接の理由は、ソシュールの「言語には、差異しか無い」という命題であった。この「差異」が生じる為には、「同じだけど違う/違うけど同じ」という関係性を持つ最低二つの相似体の存在が不可欠であり、これを、認知主体である我々人間が直接的間接的に制御しているとは思えなかったので、その主体が、先ずは、ソシュールの記号、そして最終的に「進化する自己記憶」であるという結論に達したのである。
2026.05.06
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鈴木俊貴先生の「動物言語学」という概念が、このまま世間に定着してしまうと、それを、ひっくり返すためには、より多くのパワーが必要になってくる。動物と会話ができる事を夢見ていた人達に対しては朗報であり、それを信じてしまう気持ちも分かる。でも、それは真実ではない。ジレンマである。手話を言語学の公式な研究対象とする為に作られたのが「手話の音韻論(Sign language phonology)」である。音声を使わない手話の音韻論というのは、非常におかしい概念であるが、これのお陰で、手話が言語学者によって研究対象として認識されたという歴史的な経緯がある。でも、今のなって、これが間違っていたと主張すると、それまでの研究を全て否定する事になりかねない。中には、それをライフワークにしていた学者もいるかも知れないし、一大事になるかもしれない。動物言語学という概念が定着し、世界に拡散し、多くの研究者が現れると、それを、後から修正する事は難しくなるだろうという事である。だから、今の内に、これを阻止したいと思っている。今、私が考えている、言語学に於ける修正は、ソシュールの記号の恣意性である。これこそは、音声言語こそが言語であるという多くの人が漠然と持っている認識を、なんか一種、ミステリアスな用語でソシュールが表現してくれて、皆、喜んでいるのだが、これは間違いでしたよと言われたら、皆、どう思うのだろうか。それでも、これをしないと、言語学の近代化は進まないので、私に選択肢はない。私も、動物が言葉を使うという点に関しては、大きな問題は無いと思っている。しかし、彼らの言葉は、人間の言語とは本質的に違う。この部分が、あやふやにされて、今後、動物言語学が定着してしまうのが、本当に怖いと思う。
2026.05.06
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TBS CROSS DIG with Bloomberg: 【「言葉は人間だけ」を覆した日本人】動物言語学者・鈴木俊貴/鳥も噓をつく/言葉を道具として使う/鳥に心はあるのか/AIの正解より自分の「違和感」を信じる/分からないことは面白い【FUTURECARD】私は、動物言語学という学問を想定する事は、非常に危険だと思っている。というのは、言語とは何かという問いが、非常に曖昧であり、その曖昧さを固定してしまう可能性があるからである。実際、鈴木先生も「鳥の言葉」という表現を使っているし、人間の言語とは決定的な違いがある事は理解しているのだが、この曖昧さをわざと残しながら動物言語学という造語をしている気がする。これは鈴木先生が、人間は、知能が高度に発達したお陰で言語を使えるようになったが、シジュウカラの「言葉」は、人間レベルにまでは至らないが、言語の萌芽として含めてもよいのではという知能と言語の連続性を大前提としているからだと思う。そして、シジュウカラが相互コミュニケーションを取れるという事は、彼らは言葉を使っているという事になり、それは、人間の言語に続く大きな一歩であると考えているのだろう。やはり、鈴木俊貴先生は、シジュウカラも人間も、同じ認知主体として捉えているのがよく分かる。やはり、認知的な意識(クオリア)と言語的な意識(価値観)の分離が出来ていないのが、一目瞭然である。鈴木俊貴先生が、これだけ世間で評価されるのは、ソシュールの「記号の恣意性」が爆発的に世界に広まったのと同じ理由だと思う。言語学者も一般の人達も、言語というのは音声言語であるという思い込みがあって、この偏見を肯定してくれたのが「記号の恣意性」という概念だったのである。私は、動物言語学と同じく、記号の恣意性は間違いであったと思っている。鈴木俊貴先生は、究極の所、シジュウカラになりたいと思っている。これは、科学者として、シジュウカラの心を推察する事しかできないという大前提があるからである。実は、人間の心に関しても同じ事が言える。この動画でも出てくるが、目の前の人が心を持っているかどうかは分からないという前提がある。これに反発して私は、心をブラックボックス化する事を拒否し、自分の心を生体解剖する事にした。そして出てきたのが「進化する自己記憶」という未知の主体である。動物言語学というのは、あくまでも動物行動学の一つの分野に過ぎないという認識が定着するように、私は今後も頑張ろうと思う。
2026.05.06
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これは、私の勝手な妄想であるのだが、日本人の中に、西洋哲学信者が多く生まれるのは、彼らの母語である日本語では、主観を相手に押し付ける形の主張が、文法的に難しいと言うのがあると思う。その為、日本語では自己主張できないと勝手に決めつけてしまい、主観で押し通す西洋哲学を居心地が良いと感じてしまうのだろう。私には、全く理解出来ない感覚であるが、前述した通り、これは私の妄想であり、間違っている可能性はある。西洋哲学が好きな日本の方が、どう考えるのか、是非、聞いてみたいと思う。私が、西洋哲学に疑問を持つ様になったきっかけは、フランス人の哲学科の学生に「哲学なんて単なる思想史に過ぎない」と言われた事だった。これで、私が哲学に対して漠然と持っていた幻想の様なものが、崩壊し始めた。その後。西洋の哲学者は、自分達が主観の存在をデフォルトとして哲学をする為に、言語学的な三つの人称の起源の問題を棚上げしてしまったと理解した事で、西洋哲学に関する私の評価は、地に落ちてしまった。
2026.05.06
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私は、ずっと前から、哲学を毛嫌いして来たのだが、最近になって、ようやく、自分が哲学を嫌いな理由が明確になった。以前の私が、哲学を嫌いな理由として挙げようとすると、私が求めてもいないのに、人生の意味とかを、押し付けがましく説いてくると言うのがある。しかしながら、そう言う答えを探している人達からしたら、哲学者の教えと言うのは、打ってつけのものらしい。これは、特に日本人の哲学愛好者に当てはまると思う。そんなこと、自分で考えれば済む事なのに、何故、哲学者、しかも西洋人を引用しなければならないのか、私は理解に苦しむ。しかも、西洋哲学と言うのは、彼らが文化的、伝統的に持っている「一神教信仰」に根差しているのに、「八百万の神々」を信仰する日本人が、何故、有り難がる必要があるのかと思ってしまう。他力本願と言うのは、こう言う事だろうか。では、私が、西洋哲学を受け入れられない具体的な理由であるが、それは、文法的な一人称の視点である主観が、全ての哲学的な思索の大前提になっているからである。つまり、西洋の哲学者は、人間がどの様なメカニズムを通して、其々が置換可能な三項目から成立する流動的な入れ子構造である文法的な三つの人称を獲得したのかを全く不問にしているのである。私から言わせてもらえば、これは、西洋哲学者の完全なる怠慢である。これに気がつかない西洋哲学者は、もっと勉強して欲しいと思う。私から見たら、完全に学者失格である。でも、一つだけ、面白い現象がある。意識(consciousness )の学際的な研究に、言語学者は呼ばれないのに、哲学者は呼ばれて、一緒に研究しているのである。この扱いの違いは、何処から来るのだろう。誰か、教えて下さい。
2026.05.06
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手話と音声言語にかかわらず、特定の言語を研究対象と考えている人は、言語学者ではなく、文法学者でしかない。また、自然言語を研究対象としていると言いながら、物理的な図像や文字で平面上に静的に記述されたコーパスを研究対象としている人は、自然言語ではなく、人工言語を研究していると言わざるを得ない。究極の所、世の中に、言語学者と言う職業はあっても、彼らは言語の本質を追究している訳ではない。では、彼らの目的は何か?私が知りたい。人間の言語には、先ず、大きく分けて、自然言語と人工言語の二つのタイプがあるのだが、これらに共通しているのは、ソシュールの記号の存在である。自然言語の場合、言語の胚となる記号は、その言語を操る認知主体の認知的な意識(クオリア)の上に構築されており、その記号が、特定の知覚運動チャンネルに特化する事で、視覚身振りチャンネルでは、手話、聴覚発声チャンネルでは、音声言語として確立される。これに対して、人工言語の場合は、物理的な媒体を通して「記録」され、それを、記号を構築出来た人間が、多くの場合、視覚を通して認識する事により、記号を使って言語として再現する事が可能になる。人工言語には、静的か動的であるかと言う基準で、二つのタイプが存在する。静的な人工言語と言うのは、物理的な図像や文字を使って視覚的なコントラストを利用して物理的な平面上に静的に記述されたもので、一般的に「コーパス」と呼ばれる。これに対して、動的な人工言語と言うのは、デジタル情報を扱う記憶装置(メモリ)を備えた演算装置(コンピュータ)を通して、記号の持つインデックスによる離散的な記憶喚起メカニズムを知能の発揮の為に模擬実験(シミュレーション)する事により、認知主体の発揮する知能を極限まで高めたもので、一般的に「人工知能(AI)と呼ばれる。
2026.05.06
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意識の研究の最大の問題は、認知的な意識と人間的な自己意識を分離する必要性を感じていない事である。しかも、二つの重なる意識を、人間の視点でしか記述しようとしていない。これでは、幾ら時間が経っても、何の解決も得られない。これは、西洋哲学に於いて、人間の一人称の視点である主観がデフォルトである事と大いに関係がある。西洋哲学は、最初から、ボタンの掛け違えをしているのだが、それを修正すると哲学と言う活動自体が成立しなくなるので、誰も何も出来なくなっている。
2026.05.06
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宇宙には目的が有るのかという問いがあるが、宇宙という存在が、進化する自己記憶の発動によって始まったとすると、その際に、混沌の中で、自分を知りたいと思ったことが、我々の存在意義に迄、続いているのだと思う。人間の自己意識の進化を推進する原動力は、好奇心であるというのが、これからも理解できる。
2026.05.06
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Closer To Truth:Is Human Consciousness Special?(人間の意識は特別なものなのか?)| Episode 709 | Closer To Truth動画の冒頭に出てきた「Personal consciousness(個人的意識、自己意識)」という表現。これは、人間の持つ「一人称の視点である主観を伴う意識」という事になるのだが、何故、これを定義しようとする前に、主観が確立する前の認知システムを定義しようとしないのだろうかと思う。そういう意味では、人工知能の父と称される Marvin Minsky 博士の発言は面白い。Marvin Minsky 博士は、人間の意識を論じる前に、記憶/記憶喚起に関して、様々なメソッドを選ぶ事ができる人間は特殊であると述べている。そして「Conscience(良心、価値観)」を持っているということが、人間を特別にしているとも言っている。人間に価値観があるという事は、ソシュールの記号の「其々が独立した二層の価値体系である」という定義に直接結びつく。私の解釈だが、博士は最後に「正しい心理学」の必要性を説いている。私はずっと、心理学というのは我々の心をブラックボックス化してしまうので、使えないと考えてきた。これは、心理学で扱う認知システムを、主観という視点で説明しようとしているからであるが、これを人間の主観という視点から、自己記憶という視点に替えることによって、記憶と記憶喚起を全く別の観点で定義できるようになる。Marvin Minsky 博士が、もう亡くなっているのは非常に残念なのだが、もし、ご健在だったら、記憶というのは認知主体の持つ機能であると同時に、記憶自身が主体であるという事を伝えたいと思う。より正確に言うと、それは記憶ではなく「進化する自己記憶」である。記憶というのは、特定の形を確立し、時間の流れに抗って存在を続ける。でも逆に、記憶がある事によって、時間が流れるという現象が成立すると言い換える事も出来る。つまり、時間というのは、自己記憶の進化の軌跡であるという事が出来る。自己記憶というのは、自分自身を知りたいと思う主体であり、それが、更に進化する事で時間を生む。これが私の目指す、記憶科学である。
2026.05.06
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言語学というのは、既に宗教の域に達していると考えたのだが、そこまでは行かなくても、一つの文化として定着しているは絶対にあると思う。それは、文献学とか文学、または文法学とか、言語学とパラレルな分野によって、言語に関して研究する文化が育まれてきたと思う。そして、今でも、これらの文化を更に推し進める事が盛んに行われているので、言語の本質から程遠い事をしていても、それは問題ないという事になる。誰かが「ガチ言語学」と言っても、実際のところは、単なる「ガチ文法学」であることが殆どで、こういう表現を聞くたびに、脱力感が半端ないのだが、そういう「文化」なんだと思うしかないのかと考えてしまう。もう誰も、言語の本質に興味などないのだろうか。元々、言語学など無くても、誰でも言語を使う事が出来るので、そんな学問など必要ないと言えば、必要なくなる。でも、私が言語学を究めようと思うのは、人間とは何か、宇宙の中の人間とは何かという問いに答えようとしているからである。でも、所謂、言語学者達は、そう言う事に全く興味が無いようである。このギャップは、絶対に埋まらないのだろうか。今の私の当面の目標は、言語や言語学に関して、面と向かって真面目に議論できる人を探し出す事である。30年以上も、ずっと本当に一人で研究を続けてきたので、そろそろ誰かと議論をしてみたいと素直に思う。でも、自分が確立しようとしている言語学が、普通の言語学者から見たら、完全に異次元・異世界であって、非常にとっつきにくいであろうことは承知しているので、あまり期待せずに、気長に待とうと思っている。
2026.05.05
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言語の謎、言語の本質、言語の真のメカニズムを解明しようと本気で思っているのは、どうやら世界中で、自分一人だけだと言う結論に達した。だからと言って、研究や考察をやめるつもりはサラサラ無いのだが、何故、他の人達は、言語の問題にこれ程、関心がないのか、その原因を突き止めたいと思う。私が、当たり前に考えている言語の特徴が、私以外の人達にとっては、全くそうではない現実を、具体的に説明出来たらと思う。これは、頭の良い悪いではない。言語の真実に気が付ける人と、そうでない人の二種類が要るという事になる。言語というのは、人間の自己同一性を構築する為の一種のデバイスであり、言語と人間を切り離すことは出来ない。だから、言語をあくまでも客観的な対象としている人は、言語の本質を絶対に理解する事が出来ないと私は言い切れる。この「言語を客観的な対象ととらえる」というのは、言語学をしよう、多分、言語を科学しようと思っている人に取ったら、当たり前の前提なのだと思うのだが、そういう考えを持っている人は、チョムスキーと同じで、いくら頑張っても、文法学者になってしまうという事を知っていて欲しいと思う。では、言語を科学する事は出来ないのか。方法はある。それは、言語を研究対象とするのではなく、記憶、この場合は「進化する自己記憶」を研究対象とする事である。言語というのは、記憶というあらゆる存在を支える媒体を通して実現しているという前提に立つ事で、記憶の視点で言語を研究する事が可能になるという訳である。
2026.05.05
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言語に関する誤解には、様々なものがあるのだが、最大の勘違いは「人類は他の生き物と比較して知能が高いから言語を扱う事が出来る」と言う思い込みである。それに、これに関しては、どうやら、私以外の人達は、全てそう思っている様であり、どうやって、彼らとの議論の糸口をつかもうとすれば良いのか全くわからない。例えば、中世ヨーロッパで、天動説を普通に信じている人に、我々の住む地球が太陽の周りを回っていると、幾ら説いても、暖簾に腕押しでしかないだろうと言う事と同じであろう。でも私は、本格的に言語学を学ぶ前から既に、言語が高度な知能の副産物であると言う考えは、持っていなかったと思う。そうしたら、どうして「知能が発達する事で言語が生まれる」と私は単純に思わなかったのだろうか。私は、それを「生まれつき」知っていたのだろうか。そう言う意味で、私は、生まれつき異常な個体であった可能性がある。やっぱり「ネジが三本、抜けた状態」で生まれてきたのだろう。人工知能が、高度に発達することで、今後、シンギュラリティが到来し「人間並み」の汎用人工知能が誕生すると考えている人達は全て、「高度な知能が言語を誕生させる」と信じてる「現代の天動説信者」である。ただ、問題は、私が見渡す限り、言語の本質を理解した「現代の地動説を説く人」が、何処にもいないと言う事である。誰か、私の絶望感を分かって欲しいと思う。
2026.05.05
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知能が高度に発達すれば、言語も誕生するし、全てが解決すると考える「知能万能神話」と言うのが存在すると、私は考える様になった。ところが、この神話の信者は、知能も言語も、その背後にあるメカニズムを全く理解出来ていないし、理解しようと言う意志もない。そう言う人達は皆、自分達の人工知能の開発ヘの投資を正当化する為に、後、何年後に、シンギュラリティが来ると、周りを煽りまくっているのが現状である。
2026.05.05
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西洋哲学で「客観」というのは、実は「非・主観」であり、文法でいう所の二人称になる。そして、この二人称の非・主観に、自分が対峙できる何かを想定する事で「神」の存在を創造してしまうのである。日本の神道の八百万の神々の視点というのは、完全な三人称の視点である。しかし、そこには、ちゃんとした主体がある。しかしそれは、人間の価値観を持つ主体ではなく、その価値観を持つために進化する主体、つまり「進化する自己記憶」である。自己記憶の進化は、三人称の「八百万の神々」の視点から始まり、次に、二人称の認知的な視点を通り、現在、一人称の人間の視点に至ったのだが、それがゴールではない。現在、全ての人間が、自己記憶の進化に貢献している。In Western philosophy, what is called “objectivity” is in fact “non-subjectivity,” which corresponds, in grammatical terms, to the second person.By positing something that one can confront within this second-person non-subjective space, the existence of “God” is effectively created.In contrast, the perspective of the countless gods (yaoyorozu no kami) in Japanese Shinto corresponds to a fully third-person perspective.However, there is still a proper subject there.Yet this subject is not one that possesses human values; rather, it is a subject that evolves in order to acquire such values—that is, an “evolving self-memory.”The evolution of self-memory begins from the third-person perspective of the “countless gods,” then passes through the second-person cognitive perspective, and has now reached the first-person human perspective—but this is not the end point.At present, all human beings are contributing to the evolution of self-memory.Dans la philosophie occidentale, ce que l’on appelle « objectivité » est en réalité une « non-subjectivité », qui correspond, en termes grammaticaux, à la deuxième personne.En postulant, dans cette non-subjectivité de la deuxième personne, l’existence de quelque chose auquel on peut se confronter, on en vient à créer l’existence de « Dieu ».À l’inverse, la perspective des innombrables divinités (yaoyorozu no kami) du shinto japonais correspond à une perspective entièrement à la troisième personne.Cependant, il y a bien un sujet à cet endroit.Mais ce sujet n’est pas porteur de valeurs humaines ; c’est un sujet qui évolue afin d’acquérir ces valeurs — autrement dit, une « auto-mémoire en évolution ».L’évolution de l’auto-mémoire commence par la perspective à la troisième personne des « huit millions de dieux », puis passe par la perspective cognitive de la deuxième personne, pour aboutir aujourd’hui à la perspective humaine à la première personne — mais cela ne constitue pas une fin en soi.À l’heure actuelle, tous les êtres humains contribuent à l’évolution de l’auto-mémoire.
2026.05.05
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私には、数学で測れる知能は全くないのだが、それ以外の「特殊な知能」が備わっていると思う。自分で言うのもなんだが、それは「折り紙的な知能」である。私は、色んな意味で非常に運がよかったと思うのだが、折り紙の世界では、折り紙の薔薇の考案者として知られている。実は、折り紙作家には、数学者が多い。折り紙と数学の関係を議論し合う世界的な学会があるくらいである。でも、折り紙の創作をする作家全てが数学の達人であると言う訳ではない。私みたいな数学を使わない折り紙作家が、結構活躍している。
2026.05.04
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テレンス・タオはIQ200以上、数学オリンピック史上最年少の金メダリストでフィールズ賞受賞者、ほぼあらゆる指標で現存する最高の数学者といわれている。人類は、現在、最高の知能指数をもっても、知能を発揮する為の認知システム自体のメカニズムを理解していないし、ましては、これが「進化」して成立した人間の自己意識も、それを育む自然言語のメカニズムも全く理解していない。私に与えられた最大の幸運は、数学の素養が無かった事であると断言出来る。この「幸運」のお陰で、私は、認知、知能、自己意識、そして言語の背後にあるメカニズム、つまり、宇宙の摂理を理解する事が出来た。私には、数学の素養は無かったが、宇宙の真理に関して鋭い洞察力は、生まれつき持っていた様である。でも、私の思考回路を再現出来る人が他に誰もいないかもしれないと思うと、やはり、少し絶望する。世界中の学者が理解していない、ただ一つの重要事項。人類の知能が高いから言語を使える様になったのではないと言う事。逆に、普通に知能が高い人には、こう言うことが、単に想定出来ないのだと思う。私は、数学の素養が無くて、本当に良かったと思う。でも、頭の良い人には、私の考えは理解出来ないのかもしれないと思うと、非常に複雑な心境になる。「ネジを三本くらい、外してみたら」と思うが、きっと無理だと思う。ジレンマである。高度な数学が難なく解けてしまう高い知能が備わっている人達は、そもそも、数学の基礎となる「自然数の1」を支える「人間の自己同一性」の解明など、思いつかないのだろう。彼らは、頭が良すぎるのである。頭が良すぎる故に、知能の本質が見抜けないと言うのは、皮肉な話であるが、残念ながら、これが真実である。
2026.05.04
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私が本格的に言語学を始めたのは、30年前にフランスに来てからであるが、ソシュールの「言語には、差異しか無い」と言う命題以外にも、一般の言語学者が常識として認識していない多くの条件を自分に課していた事に気がついた。その中でも「手話と音声言語に共通のメカニズムの追究」に関しては、言語学関係者に幾度となく伝えていたのだが、誰からも反応が無かった。そして「未知の発話を、特定の言語の発話として認識するメカニズムの追究」に関しては、殆ど全く、伝えていなかったと思う。これは、直接、物理的な図像や文字で記述されたコーパスを使った言語学の完全なる否定に繋がるので、躊していたと思う。誰も「あなたの実践している言語学は無意味である」と言われたら、いい気はしないだろうと思って、私は忖度したのであるが、もうその必要はないと言う結論に達した。そんなのは、私の知った事ではない。コーパス言語学が正統であると思うのなら、そのまま続けて下さい。
2026.05.04
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Dans la philosophie occidentale, ce que l’on appelle « objectivité » est en réalité une « non-subjectivité », qui correspond, en termes grammaticaux, à la deuxième personne.En postulant, dans cette non-subjectivité de la deuxième personne, l’existence de quelque chose auquel on peut se confronter, on en vient à créer l’existence de « Dieu ».À l’inverse, la perspective des innombrables divinités (yaoyorozu no kami) du shinto japonais correspond à une perspective entièrement à la troisième personne.Cependant, il y a bien un sujet à cet endroit.Mais ce sujet n’est pas porteur de valeurs humaines ; c’est un sujet qui évolue afin d’acquérir ces valeurs — autrement dit, une « auto-mémoire en évolution ».L’évolution de l’auto-mémoire commence par la perspective à la troisième personne des « huit millions de dieux », puis passe par la perspective cognitive de la deuxième personne, pour aboutir aujourd’hui à la perspective humaine à la première personne — mais cela ne constitue pas une fin en soi.À l’heure actuelle, tous les êtres humains contribuent à l’évolution de l’auto-mémoire.
2026.05.03
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In Western philosophy, what is called “objectivity” is in fact “non-subjectivity,” which corresponds, in grammatical terms, to the second person.By positing something that one can confront within this second-person non-subjective space, the existence of “God” is effectively created.In contrast, the perspective of the countless gods (yaoyorozu no kami) in Japanese Shinto corresponds to a fully third-person perspective.However, there is still a proper subject there.Yet this subject is not one that possesses human values; rather, it is a subject that evolves in order to acquire such values—that is, an “evolving self-memory.”The evolution of self-memory begins from the third-person perspective of the “countless gods,” then passes through the second-person cognitive perspective, and has now reached the first-person human perspective—but this is not the end point.At present, all human beings are contributing to the evolution of self-memory.
2026.05.03
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Closer To Truth:Peter van Inwagen - The Mystery of Existence「存在の謎」私は、この謎に対して一つの解答を持っている。それが「進化する自己記憶による存在論からの意識論」である。これを理解する為には、先ず「人間の主観」を捨て「自己記憶」という特殊な主体の視点を取る必要がある。西洋人にとっては、これは非常に難しいと思う。というのは、彼らの哲学は、主観がある事が大前提であって、それを排除してしまったら、そこで思考がストップしてしまうからである。この「進化する自己記憶」の視点というのは、日本の神道の「八百万の神々」の視点である。だから、日本人である私には、とてもすんなりと理解できる。西洋哲学で「客観」というのは、実は「非・主観」であり、文法でいう所の二人称になる。そして、この二人称の非・主観に、自分が対峙できる何かを想定する事で「神」の存在を創造してしまうのである。日本の神道の八百万の神々の視点というのは、完全な三人称の視点である。しかし、そこには、ちゃんとした主体がある。しかしそれは、人間の価値観を持つ主体ではなく、その価値観を持つために進化する主体、つまり「進化する自己記憶」である。自己記憶の進化は、三人称の「八百万の神々」の視点から始まり、次に、二人称の認知的な視点を通り、現在、一人称の人間の視点に至ったのだが、それがゴールではない。現在、全ての人間が、自己記憶の進化に貢献している。
2026.05.03
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Closer To Truth:Why You Are Every Conscious Being「なぜあなたは、すべての意識ある存在なのか」 | Arnold Zuboffこの哲学者は「Universalism(普遍主義)」を提唱しているとのことだが、のっけから「主観」や「客観」という区分を付けているのに、そういうカテゴリーがどうやって確立されるのかに関して全く言及がない。これは、この人だけに限った話ではない。西洋の哲学者達の間では「一人称の視点の主観」を哲学者自身が持っている事が、彼らの全ての議論の大前提になっているのだが、問題は、彼らが、それを全く自覚していないという事である。だから、主観や客観を議論の端々に挟んでも、それは全く意味を成さない。欧米の哲学者(後発の日本の哲学者も含む)が、主観という概念の起源を説明せずに、単独で使い始めたら、彼らの議論は、それ以上聴く必要はない。西洋哲学は、その出発点から、大きな矛盾を抱えているという事を、一般の人たちが認識する必要がある。
2026.05.03
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英語を勉強してフランス語を勉強すると、学術的な語彙が二言語間で、発音は違うが、綴りは、ほぼ一緒なのに気が付く。私が正に、そうだったのだが、その後にイタリア語を学ぶと非常に面食らう。語源が同じ単語でも、発音や綴りがかなり違うからである。例えば、英語:action (アクシュン)仏語:action (アクシオ゛)伊語:azione (アツィオーネ)でも、実は私は、既に韓国語を学んだ時に、漢字語の綴りと読み方に関する非常に似た現象に出会っていたので、それ程、違和感はなかった。この点でも、韓国に一年間語学留学をしたことは有意義だったと思う。仏語:action を(アクシオ゛)と綴るのは、フランス語の鼻母音には、子音の「n」が最後付かないので、苦し紛れの記述方法である。私は最近、イタリア語の音韻体系で非常に重要な事は、二重子音であると考えている。これは、下の例の様に、子音が1つと2つで意味が変わるというという単純な事ではなく、polo (極)pollo (鶏肉)イタリア語の音韻体系全体に関係する、音韻体系の根幹を成す部分だと考えるようになっている。イタリア語の二重子音に関して、重要な要素となるのが「s+子音」である。これは、フランス語の定冠詞の男性単数形に大いに関係している。単語の語頭が、子音が1つだと「il」になるが、「s+子音」の場合、「lo」になるというものである。il cane (犬)il gatto (猫)lo studente (学生)lo sbagliato (間違い)ここで面白いのは、「lo studente」の場合は、「s+t」で子音が2つ並んでいるのだが、「il cane」という場合も、「l」+「c」で、やはり子音が2つ並んでいる点である。
2026.05.03
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私は、ここでも幾度か、現在の言語学界は、中世のヨーロッパで、天動説を解くカトリック教会と同列に並べる事が出来ると考えている。つまり、言語学と言うのは、一つの宗教になってしまっているのである。だから、「象は鼻が長い」と言う新しい文法を提唱した三上章氏は「異端」とされたのだろう。中世ヨーロッパでは、地動説論者は、カトリック教会で異端裁判にかけられ断罪されたが、日本の言語学界では、三上章氏の文法に対して、どうやら「村八分」的な完全なる無視が発動したらしい。非常に日本らしいと言えるかもしれないが、えげつないと思う。
2026.05.03
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十何年か前に「言語学の嘘」と言うタイトルでブログを始めたのだが、今は「言語学を超えて」に改名している。ふと思ったのだが、再び改名して「言語学の闇」に変えようかなと考え始めた。闇に支配されている「ブラックな言語学」に新しい光を当てようと言う意気込みの下、新しい企画がスタートする様な感じになるかもしれないと思う。
2026.05.03
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私は、言語学者が頭が悪い人達だとは思わない。でも、従来の言語学が引きずっている古い価値観に支配されていて、新しい発想ができない残念な人達だと思う。物理学では、量子力学の出現、生物学では、遺伝子の発見によって、大きなパラダイムシフトが起きたが、言語学では、ソシュールの記号の発見は、不発に終わってしまった。私は、新しい言語学として、ソシュールの一般言語学から発想を得た「差異の言語学」として、記憶言語学と量子言語学を提唱する。
2026.05.03
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私は、人工言語である文字で記述されるコーパスを説明する時、「平面上に静的に」と言う説明を必ず入れるのだが、自然言語の未知の発話の可視化の場合、平面的でも、静的でもなくなる。そして一番大きな違いは、自然言語の場合、記憶の巻き戻し再生ができる点にある。人工言語でも、視覚的に全てを一瞥する事が可能な事から、これと似たような操作は可能であるが、本質は全く異なる。私は、かなり早い時期から記号と言うのは「時間軸上に前後に二極化している」と言う結論に達していた。これは。ミニマルペアの考察を通してであり、この二極性が無いと、ミニマルペアが実現出来ないのである。ところが、リアルタイムで流れてくる音波は、連続しており、記号が幾ら二極性を持っていようが、聴き手が、音声を恣意的に分節して、そこに二極性を見い出しているとは思えなかった。しかも、二極化と言う現象は、現在から過去の方向に向かって働く力が無い限り、実現出来ない筈である。そこで、聴覚も視覚も記憶であると言う発想に至った時、全てが解決できる糸口が掴めた。言語が記憶で出来ているのなら、時間を遡る事は簡単である。言語が記憶であるとすると、実は全ては一旦記憶された過去の世界で全てが展開している事になる。私は今でも「言語とは?」と言う問いを常にしているのだが、いつのまにか、実質的に「記憶とは?」と言う問いに置き換わっている。私の研究対象は、言語ではなく記憶、しかも自己記憶に移り、言語と言うのは、自己記憶の進化の単なる一工程に過ぎないと考える様になっている。私は今でも「言語とは?」と言う問いを常にしているのだが、いつのまにか、実質的に「記憶とは?」と言う問いに置き換わっている。私の研究対象は、言語ではなく記憶、しかも自己記憶に移り、言語と言うのは、自己記憶の進化の単なる一工程に過ぎないと考える様になっている。言語の誕生のメカニズムが、宇宙の誕生のメカニズムと同じであると気がついた事で、私の世界観が変わった。今は、この二つの誕生の中間に位置する「認知/知能の誕生」の考察をしている。
2026.05.03
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フランスの言語学者マルティネが提唱した「二重分節(la double articulation)」というのは、音素が(音声)言語の最小単位であるという前提の下に成立する概念であり、更に、これは、文字で記述されたコーパスという「もう道ではない人工言語」の観察を通して得られたものであり、リアルタイムで展開する自然言語の観察とは矛盾する点が多くある。未知の発話を聴き取ろう、つまり最終的に、記号のシニフィアンを構成する音素にまで分節しようとする場合、先ずは、アクセントや抑揚の層があり、これにより音節やモーラ(拍)などの音韻学的な単位に分節され、その次に、ミニマルペアによる音素同士の違いが弁別される状況が生成し、それを、特定の音声言語の音韻体系を構成する音素として識別するという過程を通るのであるが、ここには、記号のシニフィエ、つまり文脈から推測される記号の識別という過程も同時進行しており、シニフィアンとシニフィエの両側面からの、記憶操作が行われているのである。
2026.05.03
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やっぱり、言語学ほど、非常識な学問はないと思うのだが、何故、誰も疑問に思わないのか、本当に不思議である。そもそも、言語というのは非常に定義が難しい対象であり、しかも、言語を言語で記述すると言う方法的な問題も存在する。それでも、私が「言語学の非常識さ」に気付く事が出来たのは、私が何故、言語の研究をしようと思ったのかにあると思う。私は、言語学を通して言語の研究をしようと思ったのではなかった。自分の自己同一性、つまり、自分の人格を形成している言語の本質を知りたいと思ったのがきっかけだった。言語が変わると人格も変わるというのは、最近は、結構知られる様になっているが、多くの人が、この意味を体感していないと思う。私はアメリカで一年間のホームステイ留学を通して英語を学んだ際、自分の心の中に、英語の人格を別に作ってしまった。その後、大学で韓国に語学留学したのは、二つの人格をコントロールする為に、三つ目の人格を作る事にしたからである。自転車より三輪車の方が単純に安定する。日本人の多くが、英語を話したくても話せないと嘆くのは、元々の日本人としての人格を維持したまま、英語を話そうとしているからである。最近は、英語脳を身につけようと言う人も出てきたが、二重人格になりなさいとは言ってはいない。何故なら、それは多分、乖離性同一症と言う一つの精神疾患になってしまう恐れがあるからであろう。でも、バイリンガルと呼ばれる人達は、大なり小なり、こういう精神的な危機を掻い潜りながら、何とか普通の生活を送っているのであり、私もその一人である。擬似体験をしたいなら、NHKやテレビ東京でドラマ化もされた山崎豊子の「二つの祖国」と言う本をお勧めする。人格形成と言うのは、心理学や医学の精神科の範疇であると思われがちだが、私は、言語の持つ独自のメカニズムに原因があると考えた。そして同時に、言語は、人類が高い知能を獲得したから誕生したのではないとも考えた。つまり、何か特殊なメカニズムがあって、それを利用して人類は言語を発明したと考えた。こう言う心づもりが、既に確立されていた状態で、私はソシュールの「言語には、差異しか無い」と言う命題に出会い、これを自分の研究テーマに据えたのである。言語学の研究など、最初から考えていなかったのだが、最初から、フランス手話(LSF)を学び、手話言語学に触れる機会があったのは決定的だった。こう言う状態のまま私は、一般の言語学者達とは、全く違う時間線を生きることになり、現在に至る。気がついたら、完全な異次元、或いは異世界の住人になっていた。私の世界での常識は、言語学界の非常識であり、その逆も然りである。私は、時々、言語学者達の言語学を志した動機を知ろうと思って、ここX上で質問してみたりするのだが、反応が全く無い。昔、一応、言語学部の学生だった時に、周りの学生や先生に聞けばよかったのだろうが、何故か、当時、それは聞いてはいけない事だと無意識のうちに思っていたのだと思う。言語学を学ぶ理由を聞く事がタブーと言うのは、おかしな話だと思うが、もう私も歳をとったので、実際のところを聞いてみたいと素直に思う。
2026.05.02
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今、一度、言語学界の非常識を纏めてみようと思う。1.人類は知能が高いから言語を使えると言う認識。2.言語の定義は、コミュニケーションの道具であるという認識。3.自然言語には、手話と音声言語の二つの異なるタイプがあるが、音声言語が正式な研究対象であると言う認識。4.自然言語を研究対象とすると言いながら、物理的な図像や文字を通して、視覚的なコントラストを使って、物理的な平面上に静的に記述したコーパス、つまり人工言語を言語学の研究対象とする認識。5.手話と音声言語と言う二つのタイプの自然言語に共通するメカニズムを研究するのではなく、特定の言語の文法や発音、そして語彙を記述をする事が言語学であると言う認識。6.音素は言語の最小単位であり、音素には線状性があると言う認識。7.ソシュールの記号の恣意性の解釈が、シニフィアンとシニフィエとの間には必然性が無いと言う認識。まだ、他にもあると思うが、現在は、これぐらいかと思う。
2026.05.02
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私が言語の関して、非常識だと思うのは、人類は高い知能を持っているから、言語を使えると言う認識である。人工知能の開発者達は、人工知能の演算能力が高度に高速になる事で、人工知能が人間並みの知能を持つ様になるシンギュラリティが到来するとされているが、これに関する理論的な裏付けはない。人間は他の動物と同じく、認知的な記憶の自動生成と保存、そして自動喚起による反応行動への帰結と言う認知メカニズムによって、知能を発揮することが可能なのであるが、言語は認知的な意識上に自己意識という宇宙が誕生する事によって初めて可能になる。高い知能があるから我々は言語を使える様になったと言う一般常識を破壊しなくてはいけない。多分、これが最重要かもしれない。
2026.05.02
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私の言語の研究の出発点は、ソシュールの「言語には、正の項が無く、差異だけがある」と言う短い命題であるのだが、この「差異」と言う概念に対峙するのが「単位」と言う概念であり、一時期「差位」と言う造語をした事もあった。単位の場合、認知対象としての単位を認識する認知主体がいるのだが、差異の場合、違うけど同じ/同じだけど違うと言う相互関係を持つ二つの主体の存在が必須であるが、これは、単位の定義で前述のした認知主体/対象とは違うと考えている。言語が差異で成立していると言う認識から始まり、宇宙のあらゆる存在が差異で成立していると考えると全てが丸く収まる気がする。
2026.05.02
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「ネイティブの耳」のメカニズムを解析するのに、一番、障害になるのが「音素の線状性」だと思う。これは、完全に間違いである。音声言語の場合、先ず、音素同士の差異を弁別するミニマルペアという聴覚記憶操作が成立する為に、連続的な音声を、音節(日本語の場合は「モーラ(拍)」を含む)という音韻学的な単位に分節する必要があり、音素の連鎖への分節は、その後に来るからである。ところが、既にネイティブの耳、或いは、それに準じる聴覚記憶操作が出来る状態にあると、無意識に音素の連鎖を構成する一つ一つの音素を識別できる様になってくる。この為、その前に絶対に必要となる、音韻学上の聴覚記憶操作の考察が行われなくなってしまうのである。また、音素も線状性というのは、音素を構成する二大カテゴリーである子音と母音の成り立ちを無視している。子音と母音は、連続した音声が音節という形で分節された際、母音を核として、音節が時間軸に沿って前後に二極化することで、母音の前後に子音が付く事によって成立する。この前後への二極化により、一つの音声を構成する母音は一つであるが、子音に関しては、同じものが二つ現れる可能性も出てくる。こうして考えると、音節というのは、一種、入れ子構造を持っていると見做すことが出来る。中国語の様に、一音節だけで記号が成立する言語はあるが、それでも複数の記号を前後に組み合わせて、複数の音節を使う事がある。一つの音節が複数になる時、音節が持っている入れ子構造が、拡張されると考えたらどうだろう。チョムスキーの普遍文法の候補として、シニフィエに関して「其々が自由に置換可能な三つの項目からなる文法的な人称」を挙げたのだが、これのシニフィエ版が、音節の持つ「入れ子構造」という事になるとしたら面白そうである。この入れ子構造を研究する為には、ネイティブの耳を獲得する必要がある。私の場合、日本語ネイティブであるが、文字表記による影響を排除するのが本当に難しいので、結構苦戦している。だから、私にとっては未知の言語であるイタリア語のネイティブの耳の獲得に挑戦しているのである。また一つ、突破口が見えて来たが、誰にも分からないのだろうなと思う。ほくそ笑んでもいいですか。
2026.05.01
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MrFuji from Japan:【英語の闇】日本人なら間違えない英語をネイティブが間違えすぎたこれと似たような事が、フランス人の友人から受け取るメッセージにも結構ある。典型的なのは、on 三人称単数の主語代名詞の一つont 動詞 avoir の直説法現在の三人称複数形aimer 不定形aimé 過去分詞形動画でも言われているが、文法を文字を通して習う外国語学習者にとっては、間違える事が少なくなる可能性があるが、ネイティブのフランス人には、全く同じ発音なので、綴りを間違える事がよくある。だいじろーさんの「かっこいい」という発言も、よくわかる。何故なら、こういう事は「ネイティブの耳」を持っていないと起きないからである。今、私が挑戦しているのは、イタリア語の動画の聴き流しをしながら「ネイティブの耳」を育てられるかという事である。10年以上やって、最近、やっと成果が出てきた気がする。もう少し、字幕を見ずに頑張ろう。
2026.05.01
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最近、本当に真面目に思うのだが、言語学と言う学問に関する認識に関して、私が非常識なのか、一般の言語学者達が非常識なのか考えてしまう。というのも、「象は鼻が長い」と言う本を著した三上章と言う「野良言語学者」の独創的の研究を、完全に無視したと言う前科が、日本の言語学界にはあると聞いたからである。今は、日本語話者に向けて、基本的に日本語で発信しているが、時々は、英語とフランス語での自動翻訳も発信している。今後は、Xやnoteで、自動的に多言語に翻訳される様になるとの事だが、どちらにせよ、様子見をしたいと思う。皆さんの忌憚の無い意見を聞きたいです。実は今までも、同じ様な投稿をして、殆ど全く反応が無かったので、あまり期待はしていないのだが、時々、こう言うアクションを取らないと、煮詰まってしまうので、息抜きとしてやっているところがある。言語について、真面目に議論出来る人が出て来れば嬉しいのだが、気長に考えようと思っている。と言うのも、当面のラスボスである「認知/知能の起源の解明」には、まだまだ程遠いからである。
2026.05.01
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My approach to linguistics:1. Rather than focusing on the grammar of a specific language, I aim to uncover the underlying mechanisms of human language as a whole.2. What we call human language consists of Saussurean signs specialized into particular sensori-motor channels, giving rise to two distinct types of natural language: sign languages and spoken languages. I want to identify the mechanisms that are common to both.3. Traditional linguistics studies corpora that are statically represented on a physical surface through visual contrasts—using written symbols or diagrams. However, real-time speech unfolds dynamically, and something “special” must be happening during both production and reception on the part of the speaker and the listener. My goal in linguistics is to clarify this mechanism.I don’t believe I am making overly complex or esoteric arguments.I am simply raising what seem to me to be very common-sense questions about language, yet there appears to be an unbridgeable gap between my perspective and that of linguists around the world.Is something wrong with me, or is it linguists who lack common sense?Someone, please tell me.
2026.05.01
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Mon approche en linguistique :1. Je ne souhaite pas m'attarder sur la grammaire d'une langue spécifique, mais plutôt élucider les mécanismes du langage humain.2. Le langage humain, tel que théorisé par Saussure, repose sur des signes qui se sont spécialisés dans des canaux perceptivo-moteurs particuliers, donnant naissance à deux types distincts de langues naturelles : la langue des signes et la langue parlée. J'aspire à élucider les mécanismes communs à ces deux formes de langues naturelles.3. La linguistique traditionnelle étudie des corpus statiquement décrits sur un plan physique, à travers des images physiques ou des caractères, en s'appuyant sur des contrastes visuels. Or, le discours qui se déploie en temps réel implique, chez l'émetteur comme chez le récepteur, lors de l'émission et de la réception, qu'un « événement spécial » se produit pour générer le tout. Élucider ce mécanisme est précisément le but de mon travail en linguistique.Je ne pense pas me lancer dans des sermons particulièrement arides ou compliqués.Je ne fais qu'exprimer des interrogations très terre à terre sur le langage, et pourtant, il existe un fossé insurmontable avec les linguistes du monde entier.Est-ce moi qui suis anormal, ou bien les linguistes qui manquent de bon sens ?Quelqu'un pourrait-il m'éclairer ?
2026.05.01
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私の言語学のアプローチ:1、特定の言語の文法ではなく、人間の言語のメカニズムを解明したい。2、人間の言語というのは、ソシュールが提唱した記号が特定の知覚運動チャンネルに特化して、手話と音声言語と言う二つの異なるタイプの自然言語を成立させたのだが、この二つの自然言語に共通するメカニズムを解明したい。3、従来の言語学では、物理的な図像や文字を使って、視覚的なコントラストを通して物理的な平面上に静的に記述されたコーパスを研究対象としているが、リアルタイムで展開する発話と言うのは、発信者と受信者の双方で、発信と受信の際に、何か「特別な事」が起きて生成されているはずで、このメカニズムを解明するのが、私が言語学をする目的である。私は、特に小難しい説教を垂れている訳でないないと思う。言語に関する非常に常識的な疑問をもっているだけなのに、世界中の言語学者とは、埋まる事のない溝が存在する。私が異常なのか、それとも言語学者が常識的なでないのだろうか。誰か教えてください。
2026.05.01
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私の考える言語学の抱える三つの非常識。1、言語学の対象を音声言語に限定し、手話を同等の研究対象とみなさない事。2、自然言語を研究しようとする際、知覚的な記憶上にリアルタイムに可視化される発話ではなく、物理的な図像や文字を通して視覚的なコントラストを使って平面上に静的に記述されたコーパスと言う人工言語を研究対象とすしている事。3、一時期は、チョムスキーの普遍文法の議論が盛んになったが、これは失敗に終わり、現在では、言語の本質の議論が無くなり、個別の言語の記述に終始している事。私は、どれも、初めからおかしいと思っていたのだが、30年経って、ようやく自信をもって「非常識である」と断言する事が出来る様になった。継続は力なりである。
2026.05.01
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音声言語の発話の可視化には、二つの方法がある。一つは、物理的な文字で視覚的なコントラストを使い平面上に静的に記述する。もう一つは、発話を聴覚を通してリアルタイムで聴きながら、それを一旦記憶し、発話をシンタグマに分節し、更に記号に分節しながら、それらを全て、自らの聴覚の視野内に収める事で、その後に、それらを組み合わせる事で、全体の文脈を解釈する事になる。二つ目の、聴覚記憶の空間に展開する可視化と言うのは、所謂、ネイティブなら自然に持っている感覚である。
2026.05.01
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現在の言語学は、どんどん自分達が扱いやすい方に偏る傾向にある。1.先ずは、手話と音声言語という二つのタイプの自然言語の内、「音声言語のみを研究対象する」という選択をしている。2.更に、音声言語という聴覚記憶を操作してリアルタイムに展開する「自然言語の研究」を、物理的な文字で視覚的なコントラストによって平面上に静的に記述されたコーパスを基にした「人工言語の研究」にしてしまった。3.そして、「自然言語全体の本質を解明する事」は棚に上げて、「個々の音声言語を記述した人工言語の文法の記述」を言語学の目的としてしまった。こうやって、言語学は、少なくとも「三重の袋小路」に入ってしまっているのだが、言語学者達本人は、そういう認識は全くないので、私から見ると、もうどうしようもないというのが現実である。
2026.04.30
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私が提唱する量子言語学で扱うのは、単位でも差異でもある音素が中心になるのだが、勿論、それだけではない。音素と言うのは、ソシュールの記号の形態の側面であるシニフィアンに該当するが、記号の概念の側面であるシニフィエに関する考察も含まれる。そして、音声言語のみではなく、もう一つのタイプの自然言語である手話も考察の範疇に入ってくる。記号が「其々が独立した二層の価値体系である」事に関する総合的な考察をする事になるのでだが、この考察を量子物理学に応用する事も視野に入れている。私は、量子物理学の背後にあるメカニズムと同じものが、量子言語学にもあると考えている。それが、「離散分裂(再)融合更新循環ループ」であり、これが「混沌からの離散化」と言う過程を司っている。ただ、これが全てではない。このメカニズムは、宇宙の誕生の際に発動した「自己記憶の進化」を司っており、この進化の過程で誕生した生命と認知に関する総合的な考察も考えている。量子物理学の登場は、宇宙の誕生と進化の謎を探る序章に過ぎない。量子言語学が完成したら、また並行して、量子生物学や量子認知学が出てくる事になると私は予想している。
2026.04.30
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私は最近、言語学をディスることに専念していると自分でも思っているが、それは、自分が言語に関して知りたいと思っていた事と、一般の言語学者達が探している事が決定的に違う事に起因している。私も、言語に関する知識が蓄積される事には、ある程度の意義を感じてはいるが、それは、言語の本質の追求とは完全にズレているところで行われており、それが、言語の本質の解明の役に立つとは私には全く思えないのである。言語の研究をしようと思い立ち、フランスに来て30年余経ったのだが、いまだに、自分と同じ目的を持っている人に出会ったことがないというのは、一体、何故なんだろうと思う。私だけが、変わり者で、そんなことを考えている人は、きっと何処にもいないのだろうと思うと結構悲しくなる。ただ、唯一、世界に一人だけ、スイスの言語学者ソシュールだけは、私が師として仰ぐ言語学者である。
2026.04.30
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最近は、イタリア語の動画の聴き取りが、かなり早口でも出来るようになってきたのだが、なんだかんだ言って既に10年以上も同じ事をして、ようやくこの状態に達した事になる。外国語の聴き取り関して非常に重要だと言われているのが、「パスバンド」という其々の言語の持つ特定の周波数で、これは「トマティス・メソッド」と言われる聴覚訓練機関で使われている用語である。例えば、日本語やフランス語は、このパスバンドが非常に極端に偏っていて、その為に、どちらの言語のネイティブも外国語の聴き取りが難しいと言われる。ただ、ロシア語の場合、非常に幅が広く、多くの言語を軽くカバーするので、ロシア語ネイティブの外国語習得のスピードが速いというのがある。実際、ロシア人が、あっという間にフランス語を身に着けたという話は、聞いたことがある。この「パスバンド(其々の言語の持つ特定の周波数)」を訓練する方法というのは、トマティス・センターにはあるのだが、これを独学で習得する事は出来るのだろうかと考えてしまった。私が実践してきたイタリア語の動詞の聴き流しは、初級レベルの内容の動画ではなく、高度に科学的な内容のものを選んでずっと聞いていた。だから、数年間、殆ど何も分からない日々が続いたのだが、簡単なレベルの動画には、殆ど手を出さなかった。
2026.04.30
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言語学というのは、研究をする主体と研究の対象が同じであるという非常に面白い学問である。自分で自分を研究するのは、所謂「客観性」が無いという事で、記号の持つシニフィアンとシニフィエという離散的な二層の側面を、物理的な図像や文字で視覚的なコントラストを使って平面上に静的に記述されたコーパスが採用され、長らく言語学の研究対象とされてきたのだが、これは、あくまで人工的に記述された言語であり、純粋な自然言語とは言えない。つまり、コーパスを通す研究では、言語の本質を解明する事は絶対に出来ないという事になるのだが、現在、言語学者は、これに単純に気が付いていないか、無視しているのが現状である。言語学者は、物理学者が物理現象の背後にある物理法則を記述する様に、言語活動の背後にある文法規制を記述しようとするが、外国語学習界隈では、文法と言うのは必要ないと言われてしまう程、その存在意義が疑われている。最大の問題点は、ネイティブであれば、文法の知識など無くても、言語を何の問題もなく使えてしまうと言う事である。役に立つ物理法則と役に立たない文法規則と言う対比が出来てしまうが、それでも何故、言語学者は文法規則を記述しようとするのだろうか。しかし、社会の役に立つ物理法則の記述をする古典物理学も、量子力学/量子物理学の登場により、主役の座から落ちてしまう。ここで私は、役に立たない言語学に代わるものとして、量子言語学を提唱する。これは、ソシュールの一般言語学を出発点としているが、ソシュールが導入した共時態と通時態と言う二元論を踏まえて、この二つを統合する事を目的としている。「ソシュールの一般言語学講義」と言う本は、先ず本人が執筆したものではないし、完成された言語理論でもないが、私は「言語には差異しかない」と言う命題に注目し、そこから考察を始め、この本の内容の再解釈をするに至った。一時は、共時態の言語学は間違いであると考えたが、それはソシュールの失敗と言うよりは、言語学者が、その方が都合が良いと思ったからである。これは、記号の恣意性の解釈にも通じる。音声言語しか視界に入っていなかった言語学者にとっては、記号の恣意性は、非常に都合が良かったのである。
2026.04.30
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イタリア語の動詞の聴き流しというのは、未知の発話のシニフィアン(音素の連鎖)とシニフィエ(既に存在する記号の概念)を平行して特定しながら、発話によって構築される一つの文脈を解釈するという作業になる。イタリア語の場合、この過程で一番重要になるのが、アクセントだと思う。多分、息継ぎなどによる区切りも関係してくるのだろうが、アクセントによって、発話は「小さな意味の単位であるシンタグマ」に分節され、それが持つ小さな文脈を、連鎖的に紡いでいく事により、発話という大きな文脈の構築に繋がっていく。日本語の場合、ピッチアクセントと呼ばれる抑揚が重要であり、これが無いと、何を言っているか分からなくなる。10年以上も続けているイタリア語の動詞の聴き流しなのだが、ようやく最近になって、少しずつ聴き取りが出来る様になって来たのだが、どうしてそうなったのかに関して、今一度、考察をしておかないといけないと思う。というか、どんな形であれ、発話の聴き取りをする目的は、発話が持っている文脈を特定する事であるのであり、それが出来た時点で、目的は達成され、それ以上の考察は行われなくなる。私の場合、そこに至るまでの過程の考察をする為に、動画の聴き流しをしているのであって、これを忘れたら、意味が無くなってしまう。
2026.04.30
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イタリア語の音韻体系を記述するのには今、考えているのは、日本語の五十音図である。イタリア語の場合、日本語と同じで、基本母音が5個しかないので、子音をどう整理するかに集中出来そうな気がする。ただ、イタリア語の子音の場合、綴りと実際の発音にズレがある場合があるので、それを、どう吸収するかにかかっていると思う。例えば、「ca, ce, ci, co, cu」を仮名表記すると「カ、チェ、チ、コ、ク」となってしまう。「カ、ケ、キ、コ、ク」と発音させるためには、「ca, che, chi, co, cu」と綴る必要がある。更に、「チャ、チェ、チ、チョ、チュ」と発音させるには、「cia, ce, ci, cio, ciu」となる。とは言っても、かなり規則性があるので、その点は助かる。
2026.04.30
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イタリア語の聴き取りが出来るようになってくると、誰が話しているかが、聴き取りの効率に関わってくるのが分かる。しかし、誰が話していようと、イタリア語の音韻体系と文法を踏襲している発話であれば、全ては離散的な音素の連鎖という形になる。これは、手話でも同じである。手話をしているのが人間であれば、老若男女問わず、同じ手話サインをすることが出来る。ただ、手話サインを超える自由な手話表現というのは、個人差が非常にある。特に子供の場合、プロの通訳でも分からない場合があって、聾の大人の人が、通訳に対して通訳をする場面を見た事がある。ネイティブの耳、或いはネイティブの目を持つと言う事は、発話の主の持つ個性を完全に抹消して、離散的なシニフィアンを識別できると言う事であるが、文脈に関しては、記号の持つ共通な概念を基本としているが、場合によっては、発話を解読する人によって解釈が大きく変わる場合がある。
2026.04.30
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私の記号の定義で、一つ、解決していない問題がある。それは、シニフィアンとシニフィエと言う二層を成す価値体系の特定の座標である価値が、何故引き合って特定の記号を成立させるのかと言う事である。この「引き合う力」は、認知システムに起源があるが、元を正せば、物質同士に働く重力ではないかと考えている。認知/知能の起源を解明する事は、物質世界と人間の自己意識の間のミッシングリンクを探す事である。西洋哲学では、宇宙の説明をするのに、いつも何故か二元論になる。「物質対精神」とか「肉体と意識」とか、という感じである。私は、そうではなくて、宇宙/物質の誕生、生命/知能の誕生、言語/意識の誕生という三つの誕生によって構成される三元論を提唱する。
2026.04.28
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