ロシアでは3月15日から17日にかけて大統領選挙が実施され、有権者の77%以上が投票、ウラジミル・プーチンが87%以上の得票率で勝利した。さまざまな世論調査でプーチンが国民から支持されていることは明らかで、そうした事前の調査と同じ結果が出たと言える。西側の有力メディアは罵詈雑言を浴びせようと必死だが、犬の遠吠えにすぎない。
この選挙を撹乱するため、アメリカ/NATOはウォロディミル・ゼレンスキー政権を隠れ蓑に使い、ウクライナに面したベルゴロドなどの民間人を標的にした攻撃を繰り返し、破壊活動を試みたが、成功しなかった。
現在のウクライナ体制は2014年2月、ネオ・ナチのクーデターで成立した。その体制はアメリカ政府が支えてきたのだが、その一方、クーデター後に軍や治安機関メンバーの約7割が離脱、一部は反クーデター軍に合流したと言われている。クーデター体制の戦力を増強するため、西側が「ミンスク合意」で時間を稼がなければならなかった理由のひとつはここにある。
クーデターで排除されたビクトル・ヤヌコビッチが支持基盤にしていた東部や南部の住民はクーデターに反発、中でもクリミアは特に反クーデター感情が強かった。1990年にウクライナ議会がソ連からの独立を可決するとクリミアでは91年1月にウクライナからの独立を問う住民投票を実施、94%以上が賛成しているのだが、1991年12月にソ連が消滅した後、クリミア議会は住民の意思を無視してウクライナに統合されることを決めてしまった。「民意」は無視されたのだ。その民意が実現したのは2014年のことだ。
オデッサでは反クーデター派の住民がクーデターの主体だったネオ・ナチのグループ(右派セクター)に惨殺されたが、東部のドンバス(ドネツクやルガンスク)では戦闘が始まる。当初は反クーデター軍が優勢だったが、ミンスク合意で戦況は変化した。
オデッサの虐殺から1週間後の2014年5月9日にクーデター軍の戦車がドネツクのマリウポリ市へ突入し、住民を殺傷している。9日はソ連がナチスに勝ったことを記念する戦勝記念日で、街頭に出て祝う住民がいた。そうした人々を攻撃したわけだが、その際、住民はクーデター軍の戦車に怯んでいない。その様子はインターネットを通じて世界へ発信された。その後、ネオ・ナチを中心に編成された親衛隊のアゾフ特殊作戦分遣隊(アゾフ大隊)がマリウポリを制圧、住民を人質にし、地下要塞に立てこもった。
ドミトロ・ヤロシュや アンドリー・ビレツキーが組織し、クーデターでも重要な役割を果たしている。この組織が中心になり、2014年5月に「アゾフ大隊」が正式に発足したのだ。
ヤロシュは2021年11月2日、ウクライナ軍最高司令官を務めていたバレリー・ザルジニーの顧問に任命されたと公表、注目されたのだが、参謀本部は情報の開示を拒否、その一方でそのポストは廃止されてヤロシュは解任されたという。
ヤロシュはネオ・ナチであると同時に、チェチェンやシリアでロシアと戦ったサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)などイスラム系の武装集団と関係しているが、彼がネオ・ナチと結びついたのは大学時代だとされている。ドロボビチ教育大学でワシル・イワニシン教授の教えを受けているが、この教授はKUN(ウクライナ・ナショナリスト会議)の指導者グループに所属していたのだ。
KUNを組織したのはOUN-B(ステパン・バンデラ派)の人脈で、その指導者はバンデラの側近だったヤロスラフ・ステツコ。その妻にあたるスラワがKUNを率いていたが、ヤロスラフが1986年に死亡してからOUN-Bの指導者にもなった。スラワは1991年に西ドイツからウクライナへ帰国している。
スワラは2003年に死亡、イワニシンは2007年に死亡する。イワニシンの後継者に選ばれたのがヤロシュ。そのタイミングで彼はNATOの秘密部隊ネットワークに参加したと言われている。2007年5月にウクライナのテルノポリで開かれた欧州のネオ・ナチや中東の反ロシア・ジハード主義者を統合するための会議で議長を務めた。ジハード主義者とはサラフィ主義者やムスリム同胞団を中心とする人びとだ。
NATOの秘密部隊は第2次世界大戦の終盤にアメリカとイギリスの情報機関が組織したゲリラ戦部隊「ジェドバラ」を源流とする。大戦中、西ヨーロッパでドイツ軍と戦っていたのはレジスタンス。その主力はコミュニスト。ジェドバラはレジスタンス対策で作られたのだ。その人脈は大戦後も生き続け、西側連合秘密委員会(CCWUまたはWUCC)が統括していた。
大戦後、アメリカの情報機関OSSは解散になるが、やはり人脈は生き続けて極秘の破壊工作機関OPCになる。OPCで活動した重要人物のひとり、ジェームズ・バーナムはネオコンが誕生する際に重要や役割を果たした。1952年にはその機関を核にしてCIA内部に「計画局」が設置された。その後、この秘密工作部門は肥大化、CIAを事実上乗っ取る。
その一方、アメリカやイギリスの支配層は1949年4月、ヨーロッパを支配するためにNATO(北大西洋条約機構)を創設した。創設時の参加国はアメリカとカナダの北米2カ国に加え、イギリス、フランス、イタリア、ポルトガル、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、ベルギー、オランダ、そしてルクセンブルクの欧州10カ国だ。
NATOの初代事務総長に就任したヘイスティング・ライオネル・イスメイはウィンストン・チャーチルの側近で、NATO創設の目的について「ソ連をヨーロッパから締め出し、アメリカを引き入れ、ドイツを押さえつける」ことにあると公言している。ヨーロッパですでに作られていた破壊工作部隊はNATOの秘密部隊として活動し始めた。
秘密部隊は全てのNATO加盟国で設置され、それぞれ固有の名称がつけられている。イタリアのグラディオは有名だ。こうした秘密部隊は活動すべてが米英の情報機関、つまりCIAとMI6がコントロール、各国政府の指揮下にはない。
ウクライナの軍事組織に大きな影響力を持つ ヤロシュが所属していると言われているNATOの秘密部隊は各国政府の指揮下にはなく、ゼレンスキーが指揮しているわけでもない。米英情報機関の命令で動くということだ。
極秘だったNATOの秘密部隊が露見するのは1972年。イタリア北東部の森に設置していた兵器庫を子どもが発見、その 1週間後にカラビニエッリと呼ばれる準軍事警察の捜査官が近くで別の複数の武器や弾薬の保管庫を発見している。その中にはC4と呼ばれるプラスチック爆弾も含まれていた。
武器庫が発見された翌月、ペテアノ近くの森で不審な自動車が見つかる。その自動車をカラビニエッリの捜査官が調べはじめたところ爆発して3名が死亡、その2日後に匿名の電話が警察にあり、「赤い旅団の犯行だ」と告げている。多くの人はこの情報を信じた。
誰が容疑者であれ、当局は捜査しなければならないのだが、途中で止まってしまう。その事実をフェリチェ・カッソン判事が気づいたのは1984年のことだ。そして判事は捜査の再開を決め、使われた爆弾がC4だということが判明、イタリアの情報機関SIDと右翼団体のON(新秩序)が共同で実行したことがわかった。
SIDは1977年に国内を担当するSISDEと国外を担当するSISMIに分割され、情報の分析を担当するCESISが創設された。そのSISMIの公文書保管庫の捜査をジュリオ・アンドレオッチ首相は1990年7月に許可せざるをえなくなる。
その保管庫でグラディオという秘密部隊が存在していることを示す文書をカッソン判事は見つけ、アンドレオッチ首相はグラディオの存在を認めざるをえなくなる。そして1990年10月、首相は「いわゆる『パラレルSID』グラディオ事件」というタイトルの報告書を公表し、この組織が活動中だということも認めた。(Daniele Ganser, “NATO’s Secret Armies”, Frank Cass, 2005)
アンドレオッティ内閣の報告書によると、グラディオが正式な組織に昇格したのは1956年。幹部はイギリスの情報機関で訓練を受け、軍事行動に必要な武器弾薬は139カ所の保管場所に隠されていた。そのひとつが偶然、見つかってしまったわけだ。秘密工作を実行するのは独立した部隊だが、これらを統括していたのはサルディニア島のCIAで、活動資金を提供していたのもCIAだ。
ギリシャのアンドレア・パパンドレウ元首相もNATOの秘密部隊が自国にも存在したことを確認、ドイツでは秘密部隊にナチスの親衛隊に所属していた人間が参加していることも判明した。またオランダやルクセンブルグでは首相が、またノルウェーでは国防大臣が、トルコでは軍の幹部がそれぞれ秘密部隊の存在を認めている。スペインの場合、「グラディオは国家だった」と1980年代の前半に国防大臣を務めたアルベルト・オリアルトは言っている。(前掲書)
グラディオのような破壊工作部隊は全てのNATO加盟国に存在、アメリカやイギリスの情報機関からの命令に従い、活動している。その活動の中には米英支配層にとって都合の悪い政治家の暗殺やクーデターも含まれていると言われている。そのネットワークにヤロシュも含まれていたのであり、ウクライナ政府もそのネットワークに操られていると考えるべきだろう。そのネットワークがロシアに対するテロ活動を活発化させている可能性が高い。
米英支配層はウクライナ人とロシア人を戦わせ、共倒れにさせたかったのだろうが、ロシア軍の圧勝で彼らの思惑は崩れ、自分たちも厳しい状況に陥った。ジョー・バイデン政権を含め、少なからぬ反ロシア国の政府は敗北の責任をゼレンスキーに押し付けて逃げようとしているのだが、フランスのエマニュエル・マクロン大統領だけが自国軍をロシア軍と直接戦わせようとしている。