コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~

第四話 皇帝光臨(2)

虹の立つ大地

【 第四話 皇帝光臨(2) 】

大人しくなった群集の中を、再び、代官アリアガを伴ったディエゴら一行は進みはじめる。

アンドレスの顔からは、まだ血が滴り落ちている。

コイユールは揺れる瞳で、事の成り行きを見守るしかなかった。

やがて、アリアガはトゥパク・アマルの立つ壇上の下に到着した。

トゥパク・アマルが、処刑台近くに組まれたその壇上から、静かな眼差しで見下ろしている。

アリアガは顔を上げることもなく、ただ身を震わすようにして頭を垂れている。

暫しアリアガを見つめた後、トゥパク・アマルは、手に握っていた豪奢な巻物を厳かな手つきで広げていく。

彼の一挙手一動を、広場中の群集が息を詰めて見守った。

トゥパク・アマルの群集に向ける眼差しは、再び穏やかなものに戻っている。

そして、彼は群集に向かってその目で深く礼を払い、その手にある巻物を高々と掲げ上げた。

「これは、スペイン国王カルロス三世からの勅令の書付である!!」

彼はよく通る厳かな声でそう宣言すると、その勅令の書を滔々(とうとう)と読み上げはじめた。

そこには、かつての強欲な代官、アリアガの罪状が記されていた。

とはいえ、実際には、その書付は、トゥパク・アマル自身が反乱の計略上、自らしたためたものであったのだが。

「スペインより派遣されたティンタ郡の代官アリアガは、次のようなスペイン国王に対する罪状を働いた。

それはすなわち、違法の輸出入税の取立て、売上げ税の取立て、移住労働(ミタ)の強制である。

然(しか)るに、スペイン国王カルロス三世の名のもと、それらの罪状を弾劾し、ここに死刑に処する!!」

トゥパク・アマルは厳かな声で読み上げると、その勅令の書を静かに巻いて元の形に戻していく。

今はやや伏し目がちなその面持ちに、群集には読み取りきれぬ微かな影がよぎる。

一方、頭を垂れたままだったアリアガは、その「勅令の書」を読み上げられ、はじめてトゥパク・アマルの方に顔を上げた。

憔悴しきったその顔面で、だが今は、眼だけがわななくように見開かれ、不気味な光を放っている。

「謀ったな…――!!

恐れ多くも、スペイン国王の名代などと!!」

そう言わぬばかりに、今やすべてを察したアリアガの血走った眼は、激しく呪い責めるがごとくの視線でトゥパク・アマルを睨みつけていた。

トゥパク・アマルも無言でそのアリアガの視線に応えた。

そう、この処刑は反乱の幕を開けるための段取りの一つにすぎぬ。

そなたは、その最初の犠牲者なのだ。

そして、反乱を成功させるためであれば、わたしは国王の名代にさえなりすますことも厭わない。

そう瞳で応えた後、トゥパク・アマルはアリアガの血走る眼に向かって、一瞬、己の瞼を閉じ、最後の深い礼を払った。

それから、処刑台の方向を右腕で鋭く指し示した。

「刑を執行する。」

トゥパク・アマルが抑揚の無い、低く響く声でそう宣言すると、側近たちがアリアガを処刑台に導いていく。

処刑台、すなわち絞首台に上るアリアガの姿に、群集の中から、再び興奮と緊張のどよめきが漏れる。

そして、間もなく、トゥパク・アマルの合図と共に、代官アリアガは落命した。

代官処刑の日 クロス

激しい高揚と、恍惚と、緊迫感の混在した空気が広場全体を呑みこんでいく。

その興奮の坩堝(るつぼ)のような波の中で、コイユールは微かに震える手を祈るように組んだまま、壇上の人を見守った。

壇上からじっと処刑台を見つめるトゥパク・アマルの瞳には、この時、いかなる色が浮んでいたのであろう。

壇上から遥かに離れた広場の片隅にいるコイユールには、それはわからなかった。

しかし、彼女の目に、その壇上の人は、何故だろうか、今、どこか非常に悲しげに、儚くさえ映るのだった。

だが、次の瞬間、同じその人は、まるで別人のように強い光を宿した激しい眼差しに変わり、広場の群集をはるばると見渡した。

そして、地底から湧き出るような厳かな声で、力強く話しはじめる。

昨日と同じように、美しいケチュア語と、流麗で澱みないスペイン語とを巧みに交えながら。

「スペイン国王の王命により、その名代として、インカ皇帝の末裔、このトゥパク・アマル2世はここに代官アリアガを死刑に処した。

しかしながら、非道な代官は、このアリアガだけではない。

この国のすべての代官は、インカ族や混血児の窮状、当地生まれのスペイン人の搾取、そして、黒人の者たちの酷使に対する責任を負っているのだ。

然(しか)るに、この国のすべての代官は、このアリアガと同じ運命に見舞われるであろう!!」

そう高らかに宣言すると、再び、あのインカ皇帝さながらの輝くばかりの炯炯とした眼差しで群集を見下ろした。

漆黒のマントが、風の中に、まるで巨大な黒い翼のように翻る。

トゥパク・アマルに向けて、群集たちは嵐のような拍手を送りはじめた。

そして、あの「インカ皇帝万歳!!」の熱狂的な歓声が、地を揺るがすような激しさで、再び高らかに繰り返された。

トゥパク・アマルは右手を高々と掲げてそれに応え、「従って…――!」と声を上げる。

群集たちが、再び、喰い入るような眼差しで静まりかえる。

トゥパク・アマルはあの燃え立つような瞳で、まるで、そこにいる民衆の誰一人たりとも漏らさぬとばかりの気迫をこめた真摯な眼差しで、広場の隅々まではるばると見渡した。

広場のほんの片隅に佇むコイユールさえ、その瞬間、はっきりとトゥパク・アマルと目が合ったと感じたほどだった。

それから、トゥパク・アマルは深く息を吸い込み、ゆるぎない決意を秘めた表情で、力強く訴えはじめた。

「これより、我らインカの父祖の地と、この地に生きるすべての民の真の自由を回復するために、制圧者との戦闘を開始する!!

我らインカの民は、かつて輝くような文明を築き、自然の力と共に生き、自然と調和して神聖な互恵の関係を結び生きていた。

かつて我々の父祖の生活は、そのまま自然の法則に則り、そして、人も自然も互いに支え合い、補い合って生きていた。

それ故にこそ、かつてのインカの民には、高潔な誇り高き魂が宿っていたのだ…――!!

侵略者たちのもたらした制度は、単に圧政を敷いたに留まらず、反自然的、且つ、利己的であって、この地の民を酷く苦しめ、そして、この大地を悉(ことごと)く汚してきた。

だが、そのような侵略者どもの暴威と支配にもかかわらず、我々の魂は、真に失われたであろうか?

死にたえてしまったであろうか?!

天空を見よ!!

太陽は失われたか?

月は失われたか?

星は?

そなたたちが知る通り、今も、変わらず、そこにあるであろう。

インカの民にとって、太陽はわが父、月はわが母、星たちはわが兄弟…――!!

では、天空を見るように、今、再び、そなたたちの胸の内を、深く省み、感じ取ってみよ!!

そして、その誇り高き、気高き魂が、今も、そなたたち一人一人の中に生きていることに、目覚めよ!!

今こそ、眠れる魂を呼び覚まそうではないか!!

そして、我々自身の手で、このインカの地を、この地の民を、己(おのれ)自身を解放するのだ!!

真の魂の輝きを取り戻すのだ!!」

風の中、翼のごとくに漆黒のマントが翻り、炎のような眼差しで訴え続けるトゥパク・アマルの全身からは、あの燃え立つような蒼い光が放射状に放たれているのが見える。

「これより進軍を開始する!

出立は明日。

我らと共に戦う者は、明朝、この広場に結集せよ!!」

虹の立つ大地

もはや、はるかに聳(そび)えるコルディエラ山脈までも届かんばかりの大歓声の中、トゥパク・アマルたち一行は、まるで凱旋さながらに広場を戻り、去っていく。

トゥパク・アマルたちが去っても、半ば狂気に近いごとくの興奮と感動の嵐の中で、群集たちは果てしない「インカ皇帝万歳!!」を、いつまでも、いつまでも叫び続けていた。



その後のティンタ郡一帯の集落は激しい興奮に包まれたまま、人々はまるで蜂の巣をつついたかのように慌しく動き回っていた。

インカ族の者たちは当然のことながら、混血児の者たち、そして、当地生まれのスペイン人たちまでもが、明朝の出陣に向けての準備を嬉々として開始した。

そして、一見、いつもと変わらぬ仕事に勤(いそ)しむ黒人の者たちの横顔にさえ、密かな高揚が滲んでいた。

スペイン人の圧政によって苦しんできたのは、決してインカ族の者たちだけではなかった。

当地生まれのスペイン人も混血児たちも、そして、はるばるアフリカより白人に連れてこられた黒人奴隷たちも、スペイン渡来の白人たちによって激しく蔑視され、搾取され続けてきた不平分子であった。

トゥパク・アマルは、もともとそれらの人々の窮状にも目を向けていたし、この反乱においても、単にインカ族の解放にとどまらず、それらの人々の真の自由を取り戻すことをも反乱計画当初からその眼目としていた。

ところで、このインカ軍の構成の特徴の一つには、多くの女性も参加したということが挙げられる。

実際、アンデスの女性たちは、織物や土器を作り家事を取り仕切るばかりか、身体的にも精神的にも強靭で、しばしば畜群を追って遠く旅をすることもあるし、また、農作業などにおいても、平素から男性顔負けの働きぶりを示す。

歴史上の資料に残る反乱軍の隊長たちの中には、実際に、複数の女性たちの名を見出すことができる。

そんな集落の喧騒の中を、人々の波をかきわけるようにしながらコイユールは自分の住む小屋への帰路を急いだ。

中央広場から集落のはずれにある彼女の小屋までは、軽く見積もっても1時間以上の距離があった。

集落の中心部を抜けるとき、教会の傍のアンドレスの館の前を通りかかる。

無意識のうちに、コイユールの足が、ふっと止まる。

門の傍でその美しい西洋建築をそっと見上げると、不意に自分の名を呼ぶ、あの少年の日のアンドレスの声が聞こえてくる気がする。

胸の前で握り締める彼女の手が、微かに震えた。

コイユールは揺れる瞳で、今は灯りもともっていないニ階のアンドレスの部屋の窓を見つめた。

アンドレスの窓

かつて二人で語り合った日々が、あまりにも懐かしく、切なく思い出され、彼女の胸をそっと締めつける。

その思いを振り払うようにして、コイユールは小屋への道を走りはじめた。



コイユールが、自分の小屋のある集落はずれに戻ってくる頃には、すっかり日も傾きかけていた。

前方の空にはそろそろ寝座(ねぐら)に戻るのだろうか、黒い影のような一羽のコンドルが、山脈の方へと滑るように飛び去っていくのが見える。

夕暮れの空

その瞬間、彼女の脳裏に、あの広場で見たトゥパク・アマルの姿が、その声が、その言葉が、ありありと甦ってきた。

『誇り高き、気高き魂が、今も、そなたたち一人一人の中に生きていることに、目覚めよ!!

今こそ、眠れる魂を呼び覚まそうではないか!!

そして、我々自身の手で、このインカの地を、この地の民を、己(おのれ)自身を解放するのだ!!』

コイユールは、再び胸の前で両手を祈るように硬く結び合わせた。

「トゥパク・アマル様…。」

彼方へ飛び去るコンドルを見つめる彼女の瞳の中にも、静かな炎が燃え上がる。

『たとえ皇帝陛下が生きていたとしても、スペイン人から闘って勝ち取らなければ、この国はインカの人々の手には決して戻ってこない!』

ずっと昔、アンドレスがそう語った言葉通り、今、まさにそれが動き出そうとしているのだ。

涼やかで清い、そのくっきりとした目元に、澄んだ光が宿りはじめる。

(私たち自身で、私たちを解放する…!!)

胸が熱くなり、鼓動が速くなる。

明日、進軍と…、明朝、結集と、言っていた。

コイユールは夜の帳がおりはじめた農道の片隅で、立ち止まったまま空を見つめ続ける。

しかし、その目には、もはや空の風景は映っていなかった。

彼女は、ただ、じっと自分の心の中を見つめていた。

自らの中に静かに燃え続けてきた炎。

その炎が、今、さらに激しく、強く、燃え上がっている。

そう、この日が来るのをずっと待っていたのかもしれない。

アンドレスに出会い、そして、トゥパク・アマル様に出会った時から。

きっと、もう何年も前に、あのビラコチャの神殿で、偶然にもトゥパク・アマル様を垣間見たあの日から…――!

私たち自身で、私たちを解放するのだと、トゥパク・アマル様は言っていた。

そのために、私たち一人一人の力が必要なのだ、と。

コイユールは思いつめたような眼差しで、再び空を見た。

既に、あたりは闇に包まれ、晩春の涼風が吹きぬけていく。

風の揺らす新緑の草木が、ざわめく音がする。

長大なコルディエラ山脈に囲まれた空には、次第に初夏の星座が瞬きはじめる。

そして、それを見上げるコイユールの瞳にも、煌く星々がくっきりと映し出されていた。

しかし、ただ一つ、コイユールをトゥパク・アマルらの軍に加わることを思い留まらせるものがあった。

それは、祖母のことだった。

ただでさえ最近はめっきり老けこみ弱ってきている祖母を、これからますます政情不安に陥りそうな当地に一人残していくことは、非常に心配なことであった。

これまで親代わりとなり自分を育ててきてくれた祖母に、言葉では言い尽くせぬ深い恩を感じてもいた。

それに、多くの人々が参戦するために集落を離れれば、農地を耕す者も減ってしまうだろう。

残った女性や年寄りで、この地を守っていかねばならぬのだ。

それはそれで、戦闘に加わることにも等しい難儀なことに相違ない。

コイユールは、どのような気持ちで、どのような顔で、祖母の待つ小屋に戻ったらよいのか決められず、まだ農道の端に立ち尽くしたままでいた。

吹き抜ける夜風の冷たさが増している。

冷え切った体を腕で抱くようにしながら、彼女は心の中で無意識のうちに呼びかける。

(アンドレス!

私、どうしたらいい…?)



そして、アンドレスもまた、トゥパク・アマルの館の広間の窓から、一人、風の吹きぬける戸外を見ていた。

すっかり夜の帳がおりた広大な庭の随所では、松明の炎が風に煽られ、上空に舞い上がっては夜闇を焦がしている。

館には、まもなくトゥパク・アマルの有力な同盟者の一人、インカ族の豪族オルティゴーサが到着する予定になっている。

それを待つほんの束の間だったが、トゥパク・アマルら館の者たちは、ひとときの一人の時間をそれぞれに過ごしていた。

トゥパク・アマルも、今は書斎に一人で入っている。

アンドレスは、窓の向こうのはるか集落の彼方まで、遠く視線を向けた。

それは、コイユールの家のある方角だった。

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アンドレスの瞳が微かに揺れる。

コイユールのことだ、きっと、あの広場に来ていたに相違ない…。

どう感じ、そして、今、一体、何を思っているのだろうか。

窓辺に添えられたアンドレスの指に、力がこもる。

馬を走らせれば、ここから30分もかからぬ距離にいるのだ。

今まではアリアガを見張っていたが、今なら…――!

アンドレスは思い切ったように、足早に戸口に向かいはじめた。

それをすかさず、トゥパク・アマルの腹心ビルカパサが制する。

「アンドレス様、どこに行かれます?」

アンドレスを見るビルカパサの目は、完璧なまでに感情の統制がなされており、決して冷たいわけではないのだが、目的遂行以外の情の挟む余地を全く与えぬ色である。

「まもなく、オルティゴーサ様がお着きになられます。

今暫く、お待ちを。」

まるで己の心を見透かすようなビルカパサの視線を、アンドレスは思わずそらす。

「すぐに戻ります。」

アンドレスの不可解な挙動にビルカパサはいっそう見据えるような眼差しで、「ならば、どこに行かれるのか教えてください。トゥパク・アマル様にお伝えしておきます。」と、婉曲的に牽制してくる。

アンドレスは、ぐっと言葉に詰まる。

アンドレスが返す言葉を探しているうちに、今度は、背後から明るい子どもたちの声が響く。

「アンドレス!アンドレス!!」

振り返ると、トゥパク・アマルの子どもたちが瞳を輝かせながら、やっとつかまえたとばかりに、アンドレスの方に駆け寄ってくるところだった。

トゥパク・アマルには、先に登場した末子のフェルナンドのほか、長男のイポーリト、次男のマリアノがいる。

それぞれ、現在、イポーリトが12歳、マリアノが10歳、そして、フェルナンドが8歳になったばかりである。

三人共、トゥパク・アマル似の、流れるような黒髪と澄んだ美しい切れ長の目をした、凛々しくも、天使のように愛らしい少年たちだった。

たちまち、まだ幼いフェルナンドは何の躊躇もなく弾丸のように飛んできて、アンドレスの足に巻きつくと、ニコニコした笑顔でまっすぐに見上げてくる。

すぐにイポーリトとマリアノもアンドレスを囲むようにして、「ねえ、アンドレス、お願いがあるのだけど。」と、まだあどけなさの残る、はにかむような輝く瞳を向けてくる。

アンドレスは、ドアの方に進みかけていた足を止めるしかなかった。

ビルカパサが、静かな眼差しで見守っている。

アンドレスは少年たちの目の高さに跪き、「願いとは、何ですか?」と、いつもの優しい眼差しで三人を交互に見渡した。

イポーリトが瞳できちんとアンドレスに礼を払い、「アンドレスがもっている、あのサーベルを見せてほしいのだけれど。」と、長男らしく三人を代表して、トゥパク・アマルそっくりの美しいケチュア語で話す。

残りの二人も頷きながら、強い期待感を込めた眼差しをまっすぐに向けてくる。

アンドレスは戸外の方に思いを残しながらも、しっかりと三人の少年たちに囲まれて観念したように頷く。

「わかりました。おいでください。」と、広間の一隅の壁に大切そうに立て掛けていたサーベルの方に三人をいざなった。

見えやすいように三人の中央にサーベルを置くと、少年たちは恍惚とした表情で喰い入るように見入る。

dragon soard free page

長男のイポーリトが、眩しそうな目をして、思わず溜息を漏らした。

「なんて綺麗で強そうな剣なのだろう…!

父上だって、こんなにすごい剣は持っていないのに。」

他の二人も幾度も頷きながら、次男のマリアノが利発そうな瞳をアンドレスに向ける。

「アンドレス、このサーベルは、どこで手にいれたの?」

アンドレスは優しい眼差しで応える。

「俺に武術を教えてくださった方から戴(いただい)たのです。」

不意にアパサのことが思い出され、熱いものがこみあげる。

その時、サーベルを囲む四人の若者たちの輪の中に、いつの間にか広間に戻っていたトゥパク・アマルがすっと入ってきた。

サーベルを前にして、子どもたちの目の高さに合わせて跪いているアンドレスの隣の床に、トゥパク・アマルも共に跪く。

「父上!!」

少年たちが、嬉しそうな声を上げた。

トゥパク・アマルは息子たちに微笑み返してから、自らも輝くような瞳で、そのサーベルを見つめた。

「確かに、見事なサーベルだ。

これはアパサ殿から?」

アンドレスはしっかりと頷きながら、「はい。」と力強く応える。

「アパサ殿は、厳しい師であったろう。」

トゥパク・アマルは静かな笑みを湛えた眼差しで、アンドレスを見る。

アンドレスは再び「はい。」と応え、それから、「そして、本当に素晴らしい師でした。」と、トゥパク・アマルの目に深く礼を払った。

「アパサ殿の元に行かせて頂けたこと、生涯無二の宝と感じます。」

アンドレスの言葉に、トゥパク・アマルはその目を細め、無言のまま、ゆっくり深く頷いた。



進軍前夜

その後、間もなくオルティゴーサが到着した。

オルティゴーサはインカ族の豪族で、トゥパク・アマルらの治めるティンタ郡に比較的近いアコビア郡のカシーケ(領主)であった。

トゥパク・アマルにとって、かのアパサ同様、最も有力な同盟者の一人である。

夜闇の中を勢い良く馬で馳せ参じたその男は、トゥパク・アマルの従弟ディエゴをも凌ぐ筋骨逞しい大男で、厳(いかめ)しい褐色の顔には、耳から顎一帯にかけて黒々とした髭をたっぷりと蓄えている。

全身からは強い気迫が漲り、いかにも戦場の似合いそうな武人という風貌だ。

出迎えたトゥパク・アマルとオルティゴーサは、共にがっちりと手を握り合った。

「トゥパク・アマル様、いよいよですな!!」

オルティゴーサが逞しい肩をいからせながら、興奮をかくせぬ様子で、太く、響く声で言う。

「ああ、いよいよだ。」

トゥパク・アマルも力強く頷き返した。

それから、トゥパク・アマルを中心に、オルティゴーサ、従弟ディエゴ、腹心ビルカパサ、義兄弟フランシスコ、相談役ベルムデス、甥のアンドレス、そして、妻のミカエラが参加し、明日からの行軍に向けて最終的な打ち合わせが行われた。

「兵の状態は、明朝の出陣に向けて万全ですぞ!!」

オルティゴーサはトゥパク・アマルの方にその身を乗り出すようにして、武人としての自信溢れる堂々たる声で言った。

トゥパク・アマルも、しかと頷き返す。

スペイン人の役人の嫌疑の目を逃れるため、トゥパク・アマルは敢えて自分のもとではなく、このオルティゴーサのもとに武勇に秀でた者たちを集め、専門兵として密かに訓練を行わせてきた。

オルティゴーサは、アンドレスの師であるアパサ同様、ペルー副王領の中では名の轟く腕の優れた武人であり、有能な戦術家でもあった。

この後、反乱本部の参謀として機能していくことになる男である。

燭台の下に広げた地勢図を前にして、トゥパク・アマルは力のこもった眼差しで集まった者たちを見渡した。

「本陣をここトゥンガスカに置き、まず、キスピカンチ郡の首府キキハナに向かって進軍を開始する。」

一同も深く頷く。

キスピカンチ郡はトゥパク・アマルらの治めるティンタ郡に隣接する郡であり、その地の代官は亡き当地の代官アリアガと結託して、永年に渡り当地に類する非道な搾取を続けていた。

いまや、迅速な行動によって極悪非道なスペイン人の役人たちを屠り、スペインの植民地支配の絆を断ち切り、一気にその瓦解を引き起こさねばならぬ…――!!

それぞれの者たちの表情に、険しい緊張と気迫が漲っていた。



sword for guy

さらに、出陣までのこの短期間に、トゥパク・アマルがしなければならぬことは多かった。

彼は予め反乱計画の根回しをしておいた諸郡の有力なカシーケ(首領)たちに早急に使者を送り、いよいよ反乱の火蓋が切られたことを告知した。

そして、各地において機を逸せずに蜂起し、代官を逮捕し、代官の職能を廃絶し、強制売付けや強制労働その他の非道な搾取を直ちに廃止に導くべく通告した。

もちろん、使者は、ラ・プラタ副王領の同盟者、あのアパサの元にも走った。

どれほど早急に使者を飛ばしても、交通手段が徒歩か、せいぜい馬かラバしかないこの時代、遠方の同盟者までトゥパク・アマルの言葉が届くには、何日間もの期間が必要だった。

一方で、トゥパク・アマルは、首府リマにも、そして、遠からず奪還せねばならぬ牙城クスコ――かつてのインカ帝国の首都である――にも、反乱の実情に関する情報が漏洩せぬよう、厳重な配慮を怠らなかった。

スペイン側の中枢部がこの反乱を知れば、すぐさま大量の火器を投入した討伐軍を組織し、躍起となってインカ軍の制圧に向かってくることは必定。

スペイン側の役人に気付かれる前に、いかにインカ軍の勢力を高められるかは、今後の命運を分ける重要な鍵となる。

先述の通り、通信手段はスペイン側にとっても、せいぜい使者による手紙か口頭による伝達しかなく、つまりは足だけが通信の道具であったこの時代においては、その通行路を押さえてしまうことが肝要だった。

そこで、トゥパク・アマルは、今後、反乱軍及び同盟者たちが押さえる地域には、通行許可証が無ければ通行出来ぬよう整備するように、各同盟者たちに指令を発した。

こうして、交通の要所を押さえ、銃後の守りを厳しく固めるべく采配を振るった。

なお、有能かつ勇猛な同志でもある妻ミカエラには、トゥパク・アマルらが前線で戦っている間、この本陣トゥンガスカにて、武器・食糧の管理及び補給を指揮するよう指示がなされた。

もちろん、ミカエラは、本来の男勝りの才覚を存分に発揮すべく、重責を伴うその要請に、麗しくも凛々しい眼差しでしかと同意した。



一方、その頃、コイユールは、やはり考えがまとまらぬまま、それでも、ともかくも小屋に戻り、祖母のために夕食の支度をすませた。

今日も昨日も、足腰の弱った祖母は、広場には出向いていなかった。

しかし、昨日からの広場でのトゥパク・アマルの一連の動向については、すっかり村中の噂になっていたから、事態のおおよその成り行きは祖母も知っていた。

だが、そのことには、祖母もコイユールも何も触れずに過ごしていた。

そして、今、やはり、そのことには触れられぬまま、窓もない薄暗い小さな一間の小屋の片隅で、いつものように質素な食卓を祖母と囲んでいる。

蝋の少なくなった小さな一本の蝋燭の向こうで、皺だらけになった顎のあたりを一生懸命動かしながら、湯で柔らかくした干したジャガイモの切片を歯茎で噛んでいる祖母を見る。

皿の傍に力なく添えられた枯れ枝のように痩せ細った、その祖母の指や腕が痛々しい。

そんな祖母を前にして、自分がこの家を出てインカ軍に加わりたいなどとは、コイユールにはとても言えなかった。

己の方に注がれる苦し気なコイユールの視線に、もう随分前から気付いていたように、しかし、まずは慎重にジャガイモを喉に流し込んでから、ゆっくりと老婆は顔を上げた。

突然目が合って、コイユールの鼓動が速まる。

老婆は皺だらけの目元に笑みを浮かべた。

そして、少し探るような眼差しになって、コイユールの瞳を覗く。

コイユールは、どんな色を浮かべたらいいのか戸惑いつつ、小さく笑い返した。

すると、ふっと老婆の眼差しに、いたずらっぽい色が浮んだ。

意外な老婆の眼差しに、コイユールは目を瞬かせ、「おばあちゃん?」と、思わず問いかける。

「おまえ、まさか、わたしのために、ここに残ろうなんて考えているんじゃあ、あるまいね?」

老婆は、いたずらっぽい微笑みを湛えたまま、しかし、探るようにコイユールの顔を覗いてくる。

不意の言葉に、コイユールの手から、もうすっかり錆付いたスプーンがこぼれ、小さな音を立てて皿の上に落ちた。

コイユールは、目を見開いて、祖母の顔を驚いたように見つめる。

老婆は相変わらず、いたずらっぽい笑みを浮かべたまま、コイユールの瞳に応えるように言う。

「おまえは、誇り高いインカの娘だろう。

今、皇帝様を助けないでどうするんだい。」

わざと大袈裟な表情をつくってみせる祖母に、コイユールの胸が熱くなった。

「おばあちゃん…!」

コイユールは、身を乗り出すようにして、祖母を見据えた。

老婆は皺だらけの顔に満面の笑みを浮かべて、何度も頷いている。

「わたしの事なら、心配しなくていいんだよ。

自分のことくらい、自分でできるさ。

それより、おまえは皇帝様と力を合わせて、はやくこのひどい生活を何とかしておくれ。」

相変わらず、おどけたように言う祖母の口調に、自分の不安を取り去ろうとしてくれているのだという祖母の思いが伝わってきて、コイユールの心はいっそう切なくなった。

コイユールの揺れる瞳から、思わず涙がこぼれそうになっている。

祖母は、優しい眼差しになって、コイユールの髪にそっと触れた。

「コイユール。

おまえは、おまえが生きたいように生きておくれ。」

老婆の目にも、うっすらと涙が滲む。

そして、再び、おどけたような口調で、「わたしがもう少し若かったら、一番乗りで、皇帝様のところに馳せ参じているところなんだけどねえ。」と言って、笑った。

『おばあちゃん、本当にいいの?!行っても、いいの?!』と、尋ね返しそうになる自分をぐっと抑えて、コイユールはその言葉を呑みこんだ。

そんなふうに聞いたら、祖母はまた気持ちをこらえて、大丈夫というだけだと分かっていた。

それに、そんなふうに尋ねてしまったら、祖母に決断を委ねるのに等しいことになってしまう。

これは、自分自身が、決断すべき問題なのだ…――!!

コイユールは、涙を浮かべながらも、意を決した瞳で祖母を見つめた。

私は皇帝様と一緒に行きますと、コイユールの目に浮んだ決意の色に、老婆もまっすぐな目で頷いた。

コイユールの瞳から、涙が一筋、頬を伝う。

「おばあちゃん、本当に…、どうもありがとう。」

今回のことも、そして、今まで育ててくれたことも…――。

コイユールは、涙の溢れる瞳で深く礼を払った。

祖母も目を細め、優しくコイユールの髪を撫でたまま幾度も頷く。

霞んだ視界の中で、いつの間にか、とても真剣な眼差しに変わっている祖母は、揺れるような瞳でじっとコイユールを見つめた。

「命だけは、大事にね、コイユール。」

コイユールは深く頷いた。

「おばあちゃんも…。」

祖母も深く頷いた。

いつの間にか、老婆の目からも涙が伝う。

涙の月

また必ず戻っておいで、とも、また必ず帰ってくる、とも二人は言葉にすることはできなかった。

もう二度と会えないかもしれない…。

コイユールも祖母も、この時、心の奥でそっと覚悟を決めたのだった。



翌朝はやくに、祖母と別れをかわし、コイユールは家を出た。

すぐに広場には向かわず、彼女は近所の親しい知人宅をめぐり、祖母のことを見守ってほしいと深々と頭を下げて回った。

山岳風景 25

それから、急ぎ足で、インカ軍の義勇兵として参戦すべく、村人たちが緊張と興奮の面持ちで馳せ参じている広場に向かった。

途中、まもなく集落の中心部にさしかかる辺りでのことである。

大通りへの脇道を走っていたコイユールの前を、突如、黒い影のようなものがよぎり、道端に積んであった藁の陰に潜り込むようにして身を隠した。

思わず、足を止めて息を呑むコイユールに、その藁積みの陰から押し殺したような声がする。

「頼む!!

大通りの方に走っていったと、言ってくれ!」

コイユールが訳の分からぬまま目を瞬かせている間に、背後からスペイン語の険しい男の罵声が飛んできた。

「おまえ!!

ここで黒人の男を見かけなかったか?!」

慌てて振り向くと、餓鬼のごとくの形相でこちらを睨みつけているスペイン人の中年男性が、仁王立ちになっていた。

いからせた肩で激しく息を切らしながら、見開かれたその眼は血走り、ギラギラとした強い殺気を帯びている。

身なりは貴族風だが、その男の手には、いかにも使いこまれたふうな、今にも血の滴らぬばかりの赤黒い鞭が握られている。

コイユールもまた、走ってきたので息を切らしながら、しかし、その男の手にあるものを見て、直観的に、瞬時に、事態を察した。

そして、意を決した目になり、男の脂ぎった顔面を見据えた。

「大通りの方に走っていくのを見ました。」

コイユールは心臓の鼓動が速まるのを悟られまいとしながら、先ほど藁積みの中から言われた通りに答える。

スペイン人の男は険しい形相で、「本当だな?!」と凄んで、コイユールの目を見据え返す。

「もし偽りを言えば、おまえがどうなるか、わかっているだろうな。」

凄みながら己の顔を覗きみる男の醜悪に歪んだ顔に、体の芯から凍てつくような悪寒が走る。

しかし、コイユールは恐怖を押しのけ、毅然とした、清い光を宿した目元を吊り上げ、まっすぐに男を見返した。

「本当です。

大通りの方に走っていくのを見ました。」

男はまだ疑わしげに斜めにコイユールの方を睨んでいたが、チッと地面に唾を吐くと、苛々と体をゆすりながら大通りの方に走り去った。

スペイン人が彼方に消えると、藁の中から、慎重に周囲に目を配りつつ、一人の黒人青年が姿を現した。

その手には、厳(いか)つい斧を持っている。

姿はコイユールにも増してみすぼらしいが、生気に満ちた明るい瞳が、黒い顔の中で輝いている。

青年は、「ふう!」と深く息をつくと、コイユールにウィンクを送ってきた。

「お嬢さん、ありがとう。

助かったよ!」

茶目っ気のある、親しみ深い笑顔である。

その瞬間、コイユールは急に安堵から足の力が抜け、ガクガクと両足が震え出すのを感じた。

が、すぐに状況を思い出し、何とか足に力を入れて、地面をしっかりと踏みしめる。

青年はそんなコイユールの方に、笑顔を返す。

「あはは、怖い思いをさせてごめん。

でも、スペイン兵は、あんなもん比じゃないぜ、きっと。

最初から、命を狙ってくるんだから!」

コイユールが複雑な顔になるのを見て、「ごめん、ごめん、冗談!…でもないか、あはは。」と、青年は再び明るく笑う。

それから、前方に視線を移し、「とりあえず、急ごう!君も、広場に行くんだろう?」と、大通りとは別のルートに向かって走りはじめる。

コイユールも頷くと、青年の後を追うようにして急いで走りはじめた。

老木

その黒人青年は、今しがたの一連の出来事に関する経緯については何も言わなかったが、恐らく、先ほどのスペイン人の家で酷使されていたところを脱走し、今回の義勇兵に加わろうとの魂胆なのだろう、とコイユールは察した。

かたや、青年は走りながら、コイユールが手ぶらなのをいぶかしげに見た。

「君は、何も武器を持ってこなかったの?」

そう言われて、コイユールは、はじめて武器を持参すべきだったのだということに気付く。

ハッとして「あっ!」と小さく声を上げる彼女の方に、今度は冗談めかした目をして、「素手で戦おうなんて、勇敢なお嬢さんだ。」と青年が笑う。

一方、コイユールは「武器を持ってくるなんて、私、全然、思い当たらなかった…!」と、自分で自分に驚き呆れたように呟いた。

青年の手には、当然のように、厳(いか)つい斧が握られている。

彼は少し真顔になってから、「俺たち、義勇兵として参戦するんだよ。君、わかってる?」と、彼もまた、半ば呆れたような、半ば心配そうな表情でコイユールの顔を覗く。

本当に、私ったら、大丈夫かしら…と、コイユールは自分が無性に頼りなく思えてくる。

ふっとコイユールの表情が曇ったのを見て、青年は、「まあ、何とかなるって!大丈夫、大丈夫!」と明るく言ってから、「さっきみたいに睨みを利かせれば、スペイン兵も逃げ出すって!ははは…!!」と面白そうに笑った。

励ましているのか、からかっているのか分からぬ素振りの青年に、コイユールは戸惑い、返す言葉を無くす。

他方、青年は、相変わらず、あっけらかんとした調子で、「急がないと!俺は、ジェロニモ。よろしく。」と、いっそう早足になりながら、もうすっかり意識は前方に向いている。

しかもジェロニモと名乗ったその黒人青年の足は、俊敏で、やたらと速い。

コイユールは戸惑いを抱えたまま、「私は、コイユール。よろしくお願いします。」とひとまず応え、青年の速さに必死で追いつこうと夢中で走った。



息を切らしながら広場に着くと、コイユールは改めて息を呑んだ。

斧や棍棒などの自弁の武器、あるいは武器になりそうな農具を手にした無数の村民が集まっている。

皆、興奮と緊張を滲ませた表情で、しかし、これまで村でみかけていた頃の人々の表情とは全く別の、己の魂を吹き返したような生き生きとした人間の顔をしている。

コイユールはそれら広場の人々皆が、とても眩しく思え、自らも胸の鼓動が熱く速まるのを感じた。

集う人種も、インカ族はもちろん、混血の者、当地生まれと思われるスペイン人、そして、少数ながらもジェロニモのような黒人もいる。

性別的には、やはり男性が圧倒的に多いが、女性の姿もちらほら見ることができた。

そして、集まった義勇兵志願の民衆を守るように、訓練された数百名の専門兵たちが広場の周辺を悄然と取り囲んでいる。

さらにコイユールが驚いたのは、これだけの大規模な人々の集まりにもかかわらず、広場の中はきわめて整然と規律が保たれていたことであった。

広場の入り口では、インカ軍の専門兵たちが、広場に続々と押し寄せる村人たちを台帳のようなものに登録しながら、幾つかの集団に手際よく振り分けている。

また、武器を持たぬ者には、予めインカ軍が用意していたらしき棍棒や戦斧などの武器を手渡していた。

それを見て、ジェロニモがコイユールを軽く小突き、「良かったね。」と、あの茶目っ気たっぷりの視線で合図を送ってくる。

コイユールも素直に頷く。



その時だった。

背後から、よく通る、凛とした女性の声が響いた。

「コイユール!!」

コイユールが振り向くと同時に、艶やかな黒馬に跨ったマルセラが、二人の前に勢い良く回りこんだ。

「やっぱり来てくれたのね。

あんたなら、来ると思ってた!」

マルセラは、馬上から、まるで青年のような闊達な笑顔を向けた。

彼女は金糸の刺繍が施された緋色の衣装に身を包み、逞しい黒馬を軽々と乗りこなしている。

髪はインカ族の女性には珍しい相変わらずの短髪だが、平素の無造作なターバンではなく、光沢のある真紅の絹のバンダナで優雅に巻き上げていた。

機動性を増すために丈を短くした衣装からは、あのカモシカのような美しい褐色の脚線美が見えている。

一見、男勝りな雰囲気でありながらも、内側から放たれる中性的な美しさをもつマルセラの風貌が、今日はこれまでにも増して眩しく輝いて見えた。

コイユールは、思わず感嘆の声を漏らした。

「マルセラ!

とっても、よく似合ってるわ。」

コイユールの隣で二人を見交わしながら、黒人青年ジェロニモが「知り合いなの?」と驚いたような顔をしている。

コイユールはジェロニモに笑顔で頷き、そして、改めて、眩しそうにマルセラの勇姿を見上げた。

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こうして高貴な衣装を身に纏い、優美に振舞うと、まさしく押しも押されぬインカ貴族としての風格がある。

その上、さすがに、あのトゥパク・アマルの側近中の側近ビルカパサの姪だけあって、ただの貴族では終わらぬ、群を抜いた毅然とした輝きを強く放っているのだった。

「もう、そんなに見ないでよ!」

いつもの口調で、マルセラは少し頬を紅潮させた。

「それより、コイユール、どこの連隊に入る?」と、手綱を俊敏に引きながら、少しまじめな顔になってマルセラが問う。

「連隊って?」

我に返って戸惑う頼りなげなコイユールの表情に、マルセラは頷き、「あんたのことだから、なんにも分かっていないと思うけど。」と、いつもの調子で説明をはじめる。

現在のところ、インカ軍は、オルティゴーサなど有力なカシーケ(領主)の元で強化された専門兵と、広場に集まった義勇兵との混成部隊から成るが、現時点で結集した総数は約2000人。

それらの兵を、一連隊約350人から成る6つの連隊に分け、各連隊の長をトゥパク・アマルの最も信頼できる側近たち、参謀オルティゴーサ、従弟ディエゴ、腹心ビルカパサ、義兄弟フランシスコ、相談役ベルムデス、そして、甥のアンドレスがつとめる。

なお、トゥパク・アマルは、それらの連隊全体を統率する総指揮官の立場にある。

マルセラの説明を聞きながら、コイユールは息を呑んだ。

アンドレスも連隊長をつとめると聞いて、はからずも彼女の鼓動は速まる。

ひとしきり説明した後、「私は、叔父様を手助けしなきゃなんないから、当然、叔父様の連隊に入っているの。」と、マルセラはコイユールの顔を覗き込んだ。

マルセラが、叔父であるビルカパサの連隊に入っているのは自然なことだろう。

コイユールは、納得して頷いた。

それから、マルセラは不意に、「あんたも、私と一緒に叔父様の連隊に入るのは、どう?」と、馬上から身を乗り出す。

コイユールは、瞬間、言葉に詰まった。

「はじめは、それぞれの連隊は一緒に行動すると思うけど、そのうち戦線が広がれば、分遣隊として、各連隊は別行動になると思うの。

そんな時、あんたが傍にいてくれたら、私も心強いから。」

マルセラは思いのほか真剣な眼差しで、コイユールを見つめている。

マルセラは気丈で男勝りのくせに、実は、とても寂しがり屋で繊細な一面をもっていることを、コイユールは長い付き合いの中で知っていた。

本当は少しでもアンドレスの近くにいたい…と、思ったけれど、目前のマルセラの顔を見ていると、コイユールにそれは言えなかった。

それに、実際、少しでもマルセラの力になれるのならば、それは嬉しいことだった。

コイユールは頷いて、マルセラの手配によって、ビルカパサの連隊に編入された。

他に知り合いも無いらしいジェロニモも、コイユールと一緒にビルカパサの連隊に入ることにした。



まもなく、群集の力強い歓声に包まれながら、逞しい白馬に跨ったトゥパク・アマルが広場に現れた。

豪華な金糸の刺繍が施された、いつにも増して厳かな黒ビロードのマントと黒服を身に纏い、膝と靴には朝陽を受けて鋭い閃光を放つ金の留め金が付けられ、彼の備える高貴な風貌にいっそうの輝きを添えていた。

胸元では、あの黄金の太陽の紋章が、眩い朝の光の中で、まさしく太陽さながらに煌いている。

そして、彼の周りでは、やはり美しい金糸の入った格調高い黒服に身を包み、艶やかな黒馬に跨ったいつもの側近たちが、トゥパク・アマルを堅く護衛しながら進み来る。

閃光

白馬に跨ったまま威風堂々たる身のこなしで壇に上り、トゥパク・アマルは、集まった大群衆を深い礼を込めた眼差しではるばると見渡した。

よくぞ集まってくれた!!

――侵略以降200年間の永きに渡り、徹底的に虐げられ、自尊心を奪われ、すっかり縮こまっていたインカの地の人々が、今、自ら立ち上がらんとしている…――!!

その勇姿が、彼の目には、どのように映っていたことだろうか。

トゥパク・アマルにとっても、その瞬間は、心に激しく迫り来るものがあったに相違ない。

彼は朝の瑞々しい太陽が輝く蒼い天空に向けて、高々と右腕を振り上げた。

「インカの地のすべての民の復権のために!!」

トゥパク・アマルの地底から湧き上がるような、厳かな、ゆるぎなき声が、天空に、大地に、力強く響き渡る。

それに呼応して、激しく強烈な気迫が、混成の軍団の間に嵐のごとくに波立ち、うねり、漲っていく。

「これより、進軍を開始する!!」

トゥパク・アマルの声に、「オオー!!」と猛々しく呼応する軍団の声は、遥かコルディエラ山脈までをも揺るがすほどの怒涛の力強さで響き渡っていった。

こうして、代官アリアガを処刑した翌11月11日、インカ族、混血児、当地生まれのスペイン人、そして少数の黒人たちから成る混成のインカ軍は、トゥパク・アマルの指揮のもと、一路キスピカンチ郡首府キキハナに向かって進軍を開始したのだった。



◆◇◆◇ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ 第四話 皇帝光臨(3) をご覧ください。◆◇◆◇









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