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コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~
第六話 牙城クスコ(10)
【 第六話 牙城クスコ(10) 】
さて、少々話は転ずるが、この頃、ラ・プラタ副王領で猛威を振るっていた猛将アパサの軍団にも、その勢いに翳(かげ)りの気配が生まれつつあった。
このペルー副王領でトゥパク・アマルが蜂起して以来、それと呼応して立ち上がったラ・プラタ副王領のインディオたち――かの猛将アパサを中心とする軍勢たち――の暴れぶりにすっかり手を焼いたスペイン中枢部は、徹底的な交戦体制を敷くため、この度、当地の副王ベルティスによってイグナシオ・フロレスという男が討伐軍の総指揮官に任じられた。
このことが、この後より、アパサの、そして、ラ・プラタ副王領のインカ軍の息の根を、ジワジワと止めていく契機となっていく。
このフロレスという人物は、かなりの有能な男で、副王の信任も篤(あつ)かった。
彼は、ラ・プラタ副王領生まれのスペイン人で、己の実力によって、当時、絶大な権力を誇っていた当地のアウディエンシア(最高司法院)の議長にまで選任された人物である。
スペイン渡来の白人たちが植民地支配の中枢のほぼ全体を牛耳っていたこの時代、フロレスのように現地生まれのスペイン人が、そのような要職につくなど極めて稀なことであった。
そのことからも、このフロレスという人物が、いかに有能な人物であったかがうかがい知れる。
しかしながら、その地位に至るまでも、そして、要職についた現在でさえも、彼は、「当地生まれのスペイン人(クリオーリョ)」というだけで、スペイン渡来の役人たちから何かと軽蔑され、「トゥパマリスタ(トゥパク・アマルの一味)」などと陰口を叩かれていた。
だが、フロレスは、そのようなくだらぬ陰口に、屈する男ではなかった。
陰口を言いたい者には、言わせておけばよい。
それより、己のなすべきことを、着実に成し遂げるのだ。
そんな彼は、年齢的にはまもなく40歳を超えようとしていたが、その若々しく端正な風貌には、どこか余裕と優雅さを湛えている。
肩にかかるほどのやや長めの黒髪は軽く自然なウェーブがかかり、スペイン人らしい彫りの深い顔立ちに柔らかな雰囲気を添えている。
その風貌には、ソフトで優美な雰囲気と共に、誠実さと道義心に貫かれた凛々しさが宿っていた。
今、そのフロレスは、ラ・プラタ副王領の戦時委員会にて、中央の席に堂々と座し、鋭い目で全体を見渡して言う。
「これより、あのインディオの首魁アパサに、徹底抗戦を行う!」
まるで中世の騎士のごとくの風貌をした、このフロレスなる人物は、最高司法院の議長も務めたほどの頭脳の明晰さをもち、副王から直々に討伐隊の総指揮官を任されるほどの武勇に秀でた武人でもあったが、それだけでなく、悉(ことごと)く偏見と二枚舌に印象付けられる当時のスペイン役人の中では極めて珍しく、濁りの無い公正な視点で物事を見極める眼力を備えた人物でもあった。
それは、彼が「当地生まれ」の白人であり、生まれてからずっと、スペイン渡来の白人たちによる偏見と苦渋を舐めさせられ続けてきたという、彼の生育暦的な事情もあったかもしれない。
特に、当時、スペイン渡来の白人たちに独占されていた植民地中枢部の要職への道を歩み出した時、その過程で彼がどれほどの苦労と屈辱に耐えてきたかは想像に余りある。
しかし、その強い意志と高い能力によって、己の手で道を切り拓き、彼のような生い立ちの人間としては全く前人未到の高みへと、着実に昇り詰めてきたのである。
その苦難のプロセスは、彼のような人物にとっては、むしろ、その人格的素養を磨きあげるための良き糧でさえあったに相違ない。
もちろん、彼はあくまでスペイン側の役人であり、且つまた、今やラ・プラタ副王領におけるインカ軍鎮圧のための討伐隊の長であり、この後、アパサとの対決を中心に、その有能な手腕によって、皮肉にも、インカ軍を次第に追い詰めていくことになるのだが。
それでも、彼の偏見に汚されぬ、物事の本質を見極めんとする公明正大な視点は、常に彼の行動の裏側に流れ続けていく。
だが、一方で、不幸にも、ペルー副王領の、あの偏見に満ち満ちた、且つ、血に飢えた冷酷極まりない植民地巡察官アレッチェが、このラ・プラタ副王領の巡察官をも兼任していたのだった。
そのため、道義心に貫かれたフロレスの動きも、この忌々(いまいま)しい巡察官の存在によってかなりの部分が封じられてしまうことになるのだが。
ともかくも、フロレスは、今、再び、ラ・プラタ副王領の戦時委員会の面々を鋭く見渡しながら言う。
「あのインディオの首魁、アパサに徹底抗戦を行う。
アパサの軍勢は、総勢1万と数千程度。
たいした規模でもない上、あの軍勢は火器も乏しく、装備も甚(はなは)だお粗末だ。
にもかかわらず、その勢いは、とどまるところを知らぬ。
あの首魁アパサの豪腕ぶり、不気味な統率力、しかも、よほどの智将なのか、ただの私利私欲にまみれた小物なのか、全く読めぬあの性格と行動…それだけに、かえって厄介だ。
あの者にこれ以上、当地で暴れ回られては、全てが手遅れになりかねん。
早々に、あの者の息の根を止めねばなるまい。」
委員たちは深く頷き、険しい眼差しで地勢図を広げた。
同様に地勢図を見渡すフロレスの視界に、ペルー副王領の『クスコ』の文字が入る。
彼の脳裏に、未だ見(まみ)えたことのない、この反乱の総指導者トゥパク・アマルのことが、ふと、よぎる。
(トゥパク・アマル…――果たして、いかなる人物なのか。)
フロレスの眼差しが、遠くなる。
できれば、一度会って、直接、話をしてみたかった。
だが、恐らく、もうそのような機会は訪れないのではあるまいか。
フロレスの心境は複雑であった。
(トゥパク・アマル…あの者が反乱行為なぞという違法な暴挙に出たことを、正当化する余地は無い。
とはいえ、トゥパク・アマルの蜂起には、それなりの理(ことわり)があるとも思える。
その上、インカ軍は、よくぞと思うほどに奮戦した。
しかし、今や、総体的に見て、戦況はそなたたちに厳しいものとなっている。)
そして、また、フロレスは、同じスペイン人である巡察官アレッチェの仕儀を、非常に苦々しく噛み締めてもいた。
(アレッチェ殿…クスコ戦では、インカ族の人柱まで立てたという…!
しかも、トゥパク・アマルは、未だに、褐色兵へは手をくださぬと聞く。
もはや、インカ側の犠牲は数万を超えるのだ。
いつまで、このようなことを続けるつもりなのだ、トゥパク・アマル!)
それから、フロレスは、その鋭い眼差しに悲愴な色を浮かべた。
トゥパク・アマル…そなたの清冽な心では、あの悪魔に魂を売ったがごとくのアレッチェには、恐らく、勝てぬ…――!!
果たして、その頃、ペルー副王領のインカ軍、すなわち、トゥパク・アマルの軍団の状況は、実際には、どのようになっていたであろうか。
かのフロレスの洞察のごとく、彼らは次第に苦しい戦いへと追い詰められていた。
トゥパク・アマルの懸命の説得にもかかわらず、「リマの褐色兵」の将、フィゲロアはアレッチェやモスコーソ司祭の命に従い、現在に至ってもインカ軍へ刃を向け続けていた。
クスコ戦以来、再び戦線はクスコ周辺の複数の郡へと拡散していた。
ペルー副王領におけるスペイン軍の総指揮官アレッチェ及び、総司令官バリェ将軍の指揮のもと、褐色兵たちの数は次第に増員されながらスペイン人の軍勢の中に組み込まれ、インカ軍と戦火を交える各地へ続々と派遣された。
褐色兵たちは、多くが傭兵として金で雇われた各地の貧しいインカ族の農民たちであった。
たとえスペイン側につくことが、その意に反していたとしても、スペイン人の役人たちからスペイン軍に加わることを強要されれば、決してそれを断ることなどできなかった。
インカ族の平民たちにとっては、永きに渡り絶対的権力者であったスペイン人の役人たち、いわゆる「お上(おかみ)」の恐ろしさは、彼、そして、彼女らの骨の髄まで染みていた。
今回のトゥパク・アマルの反乱が勃発して以来、それら「お上」の権威は少なからず失墜しつつあったが、それでも、直接的に恭順を迫られれば、それら白い権力者たちにこの青銅色の人々が盾突くには、今でも死をもって抗うほどの覚悟が必要だったのだ。
そのようにして狩り出された褐色の傭兵たちは、戦慣れもしておらず、また、当然ながら士気も低かった。
既に幾多の戦闘場面をくぐりぬけ戦い慣れた、しかも、非常に士気も高い、インカ側の義勇兵や専門兵が本気で討ちかかれば、彼らを殲滅(せんめつ)させることなど、さしたる難儀なことではなかったに相違ない。
しかしながら、トゥパク・アマルの指令のもと、インカ軍の兵たちは褐色兵――つまりは、スペイン側につくことを強いられたインカ族の兵たち――に、決して致命傷を与えぬという不殺の姿勢を崩さなかった。
そうした無謀な試みが兎も角も可能であったのは、その時点までに、既にインカ軍の占拠した地が相当な範囲まで広がっていたこと、及び、自ら義勇兵として名乗りを上げる者たちが、この時期に至ってもなお尽きることがなかった、という事実があった。
今やインカ軍の軍勢は全国的に見れば数十万の規模である。
トゥパク・アマルは、それらの兵たちの中から精鋭の者たちを厳選し、部隊を猛将ディエゴ及び豪腕の参謀オルティゴーサ、そして、若くして老練の剣士アンドレスの元に分遣隊として編制し、それぞれを各地に派遣して討伐隊との戦闘に当たらせた。
それら三名の将による軍団は、文字通り、インカ軍最強の精鋭部隊ではあったが、しかしながら、やはり、敵に致命傷を与えられぬ戦いは想像を絶する過酷なものであり、彼らの部隊の兵たちの多くの者が無残な、あるいは致命的な負傷を負った。
日増しに犠牲者の増え続ける状況下で、トゥパク・アマルの苦悩は深かった。
彼はこれまで通り、衆目の前面で毅然とした力強い態度を崩すことは決してなかったが、しかし、人目の無いところで彼の横顔にふとよぎる、思いつめたような苦しげな表情を、まるで影のごとくに常に護衛し続けるビルカパサの目は幾度かとらえていた。
これまでの戦線の中では、見ることのなかったトゥパク・アマルのその苦悶の表情に、ビルカパサもまた、深い心痛を覚えながら、いよいよこの反乱の戦況の厳しくなってきた現実を暗黙に突きつけられる思いを抱いた。
だが、この反乱の戦況の厳しさを感じていたのは、決して、インカ側だけではなかった。
スペイン側もまた、インカ軍の戦いぶりに、ひどく苦々しい思いを噛み締めていたのである。
クスコ戦の勝利にもかかわらず、また、必殺の褐色兵を差し向けているにもかかわらず、ますます拡がる反乱の野火をみて、討伐隊の中枢を為すリマとクスコの役人たちが合同で策を練る戦時委員会の面々もまた、非常な苦渋と焦りの念を募らせていた。
もはや、決定的な勝負は軍事的な行動だけではつかぬ!!…――彼ら、スペイン側の中枢部は、その意見で一致した。
ペルー副王領のこの戦時委員会の面々は、総指揮官アレッチェ、総司令官バリェ将軍、そして、かのモスコーソ司祭を中心に、クスコの旧イエズス会の教会に設置された本営の中で雁首を突き合わせ、今も眉を顰(ひそ)めて互いに目配せし合っていた。
総指揮官アレッチェが凍りのような低く、冷酷な声で言う。
「もはや、軍事的行動のみでは、あの反逆者トゥパク・アマルどもを抑え込むことは至難。
こうなっては、インカ軍を内部から崩壊させるしかあるまい。」
そして、黒々とした前髪から覗く、あの鋭い眼光で、まるで脳裏に描いたトゥパク・アマルを撃ち抜くがごとくに宙の一点を見据えながら、「なに…既に、わたしには策があるのです。」と、その口の端を不気味に吊り上げた。
この期に至っても、未だトゥパク・アマルに決定的な打撃を与えられぬこと、そればかりか、いっこうに反乱の勢いがおさまる気配のないことに、根っから「インディオ」をひどく蔑み、極めてプライドの高いこのスペイン軍総指揮官アレッチェは、かなりの苛立ちと焦りと、これまでにも増して激しい憎悪を燃え滾(たぎ)らせていた。
彼は、机上に広げていた書類を乱暴に握り締めた。
グシャリと紙面が音を立てて、その形状を無残に歪める。
それから、机上のグラスから荒々しく水をあおり、乾ききった喉にそれを流し込むと、改めて、司祭を、将軍を、そして、戦時委員たちを鋭く見渡した。
モスコーソ司祭は、反乱勃発以来、切歯扼腕させられる事態の連続のあまりに、今となっては、もはや怒り心頭も通り越して不気味に冷静になったその細めた眼で、探るようにアレッチェを覗き見る。
バリェ将軍は、最近の一連の戦線の中でいっそう逞しく日焼けしたその獅子のごとくの厳(いかめ)しい顔面を、真っ直ぐアレッチェに向け、毅然とした鋭い眼でじっと次の言葉を待っている。
そして、その他の戦時委員の面々たちは、皆、アレッチェの鬼気迫る眼光に、息詰めて固唾を呑んでいた。
アレッチェは、再び、全員を、凍てつくような冷酷な眼で見渡した後、地底から滲み出すがごとくの不気味に低く響く声で言った。
「あのトゥパク・アマルが訴えている要求を呑んでやるのです。」
「要求を呑む…――?!」
委員たちが、瞬間、眼を見開いた。
それから、気色ばんで、騒然となる。
「まあ、待て。
続きを聞こう。
アレッチェ殿、それはどういうことかな。」
そう言って委員会の面々を押し黙らせ、細めた瞼の奥から覗く眼を、いっそう炯炯と光らせはじめたモスコーソ司祭が言う。
その口元には、既に、アレッチェの言わんとすることを察しているがごとくの、不気味な笑みをうっすらと浮かべながら。
アレッチェは、戦場で日焼けした筋肉質の腕とその指でテーブルの表面を掴むようにやや前傾姿勢になりながら、噛み含めるように言う。
「代官による強制配給を全面的に廃止し、税関を閉じ、教会の課してきた十分の一税もすべて禁ずるのです。」
「なんと…――!!」
委員会の面々は、某然として、言葉を失っている。
だが、モスコーソは、えらく面白そうに、いっそう細めた目で「ほほう…。」と、ほくそえんだ。
暫く黙っていたバリェ将軍が、そのぶ厚い胸板を反らせながら、「それで…?」と太く響く声で問い、腕を組む。
アレッチェは、再び水を喉に流し込み、さらに説明を続けた。
「そのための条件は、トゥパク・アマル及び、その側近たちが、このクスコの我々戦時委員会に出頭すること。
その代わり、その他いっさいの反乱軍の将兵、及び、兵たちについては、今までの罪を全て不問に付す、と国中に宣言するのです。」
モスコーソ、バリェ、そして、委員たちが、ゴクリと固唾を呑んだ。
さらにアレッチェは、続ける。
「代官による強制配給が廃止され、税も著しく減免されれば、トゥパク・アマルが掲げるこの反乱の大義は明らかに薄れよう。
結果、トゥパク・アマルが民衆の心を掴むことは困難になるのは必定。
モスコーソ司祭様がトゥパク・アマルをキリスト教から破門して以来、既に、当地生まれのスペイン人の心は迷いはじめている。
そこに追い討ちをかけるのです。
さらには、トゥパク・アマル及びその側近どもと、他の兵たちを分断することもできましょうぞ。」
委員会の面々が言葉も出ずに、しかしながら、非常に深く頷く中、アレッチェはさらに付け加えた。
「強制配給なり、税など、一時的に止めようが、なに…トゥパク・アマルを捕えた後に、またいつでも再開すればよいのです。
それに、トゥパク・アマルがいなくなれば、もはやインカ軍など、ただの烏合の衆。
今回の反乱軍に加わった兵や民衆どもは、やつを始末してから、いかようにもできましょう。」
そう言って、血に飢えた獣のごとくの残忍なその眼を光らせ、あのどす黒いオーラを発しながら、まるで地獄の使者のような冷酷な笑みをありありと浮かび上がらせた。
そして、はやくもその日の夕刻、スペイン側の戦時委員会からの使者が、トゥパク・アマルのいるインカ軍本営へと遣わされた。
時に、1781年3月初旬のことである。
そのスペイン人の使者は、門前のインカ軍の兵たちに驚きと警戒をもって差し止められたが、すぐに使者の来訪はトゥパク・アマルに知らされ、本営の中へと通された。
使者との面会用にしつらえられた天幕で、トゥパク・アマルと使者は対面した。
使者は、一応の礼を払った後、アレッチェによってしたためられた書状を差し出す。
トゥパク・アマルも相手に礼を払った後、優雅な、しかし、素早い手つきで書状を開いていく。
中には、先刻、クスコの戦時委員会でアレッチェらによって取り決められたばかりの、あの内容が記されていた。
つまりは、代官による強制配給の全面的廃止、税関の閉鎖、教会の十分の一税の禁止、さらには、反乱軍の全ての将兵及び兵たちの罪を不問に付すこと、そして、その条件としての、トゥパク・アマル及び、その側近たちのクスコ戦時委員会への出頭…――。
その内容に目を通しながら、さすがに、トゥパク・アマルの眼は大きく見開かれた。
(代官による強制配給の全面的廃止、税関の閉鎖、教会の十分の一税の禁止…!!)
反乱を起こすまでは、血を吐くほどにあれほど幾十回にも渡り訴え続けてきたにもかかわらず、決して見向きもされなかったそれらの要求に、今、殖民地支配中枢部が許諾の態度を示そうとしているのだ。
もちろん、スペイン役人たちの二枚舌ぶりは、これまでの彼らとの交渉過程及び治世を見てくる中で嫌というほど思い知らされてきたトゥパク・アマルは、今もその白い役人たちが書き連ねたそれらの文言を、そのまま甘受してよいなどと思いはしなかった。
しかしながら――強制配給を全面的に廃止し、税関を閉鎖し、教会の十分の一税をも禁止すると、ついにそこまでスペイン人中枢部に言わしめたという、その事実は、少なからず心に迫りくる要素をもっていた。
且つまた、真にそれらが実現すれば、この国の民の負担はどれほどに軽減されるであろうか!!
わななくように見開かれたトゥパク・アマルの瞳も、この時ばかりは明らかに揺れている。
だが、彼はすぐに冷静な表情に戻り、再びそれらの全文に目を通すと、暫し、思慮深い、そして、やや鋭い眼差しになって、その目をすっと細めた。
結局は、その書状の内容の本質は、甘い餌をちらつかせながらも、暗黙にインカ軍の、そして、トゥパク・アマルの降伏を迫っているものであった。
彼は、しなやかな褐色の指先をその額に添えながら、もう一度、険しい眼差しでその書状を沈黙のまま読み返していく。
スペイン人の使者も、周囲に集まった側近たちも、息を詰めてその様子を見つめていた。
それから、トゥパク・アマルはゆっくりと書状から目を上げ、使者の方に視線を向けた。
「使者殿、此度(こたび)は誠にご苦労であった。
この書状、確かに、お預かりした。」
使者は、鋭く探るような目つきをしつつも、頭を下げる。
トゥパク・アマルも頷き、それから、改めて、真っ直ぐな眼差しをその白人の使者に向けた。
「貴軍の総指揮官アレッチェ殿と、直接二人で話したい。
この書状への返答は、その後に。
その旨、アレッチェ殿にお伝え願いたいのだが。」
そう言って、トゥパク・アマルは研ぎ澄まされた精悍な横顔に、静かな、しかしながら、決して否とは言わせぬ、との気迫を滲ませ、その目元を鋭利に細めた。
一方、使者は、はじかれたように目を見開く。
まさか、わざわざこのトゥパク・アマルと1対1の直談判などに、今更あの総指揮官アレッチェ様が応ずるはずがあるまいに!!…――と、やはり「インディオ」に侮蔑的な偏見を持っているに相違ないその使者は、瞬間、ありありとそんな色の表情を浮かべたが、しかし、トゥパク・アマルの鋭い眼光の前では、さすがに身を硬くする。
そして、兎も角もここは無難にかわそうと上目遣いで言った。
「わかりました。
総指揮官に伝えるだけはしてみましょう。」
「よろしく頼む。」
真摯な声でそう言うトゥパク・アマルに、その白人の使者は再び口を開いた。
「最後に…此度のご返答が定まるまで、一時的に戦闘を休止する方向で、と、総指揮官から承っております。」
トゥパク・アマルはゆっくり頷いた。
「わかった。
各地の兵を引こう。」
使者はもう一度だけ形ばかりの礼をすると、そのまま足早にインカ軍の陣営から立ち去った。
使者が去ると、この本営に残っていた側近の一人、トゥパク・アマルにとっては父親のごとくに相談役を果たしてきた老賢者ベルムデスが、深く礼を払いながらトゥパク・アマルの目を覗き込んだ。
「トゥパク・アマル様、その書状、果たして、いかなることが…?」
トゥパク・アマルは澄んだ眼差しをベルムデスに向けた後、思いに耽ったような伏し目がちな表情になり、「改めて、後日、内容をお伝えいたします。暫し、考えさせていただきましてから…。」と、深く礼を払って言う。
そんなトゥパク・アマルを、ビルカパサもひどく案ずる色を滲ませて、じっと見つめた。
その視線に応えるように、トゥパク・アマルもビルカパサの方に視線を注ぐ。
「ビルカパサ。
そなたは、ディエゴ、オルティゴーサ殿、アンドレスの陣営に伝令を飛ばし、一時休戦の旨と、それから、この本営に至急戻るよう伝えてほしい。」
ビルカパサは「畏(かしこ)まりました。」と俊敏な身のこなしで一礼すると、伝令の手配のために素早く立ち去った。
常に平静を崩さぬトゥパク・アマルの表情は変らず湖面のごとくに静かだが、いっそう研ぎ澄まされていく横顔には、今、深い影が射し、そのさまは、逆に、ゾクリと鳥肌が立つほどに美しかった。
しかし、それだけに、トゥパク・アマルの表情に浮かび上がる、その尋常ならざる氷のように鋭利な美しさは、彼を知る身近な者に、決して表には出さぬトゥパク・アマルの内面に渦巻く苦悩と葛藤の深さを激しく突き付けてくる。
そのまま書状を手に、ゆっくりと己の天幕に引き上げていくトゥパク・アマルの後姿を、ベルムデスが非常に強く案ずる色で見つめた。
(トゥパク・アマル様、彼ら侵略者の二枚舌は、かのピサロがインカ帝国を滅ぼしたあの時から、あの者たちの変わらぬ常套手段…!
決して、騙されてはなりませぬ…――!!)
ベルムデスの心が叫ぶように、トゥパク・アマルに訴えかける。
そして、トゥパク・アマルもまた、後姿のまま、しかし、まるでそのベルムデスの声に呼応するがごとくに、刃のように鋭利なその横顔で深く頷いた。
(わかっております、ベルムデス殿。
しかし、この書状の内容は、今、この戦況の中では、一考に値するもの。
安易に一蹴することはできませぬ!)
その晩遅く、トゥパク・アマルは己の天幕の中で、揺れる蝋燭の炎を見つめながら深い思索に耽っていた。
もし、代官による強制配給の全面的廃止、税関の閉鎖、教会の十分の一税の禁止が真に実現されるのならば、民の負担は著しく軽減することは明らかだった。
しかしながら、この反乱の究極的な目的――植民地支配の瓦解――は、もしこの書状に従うならば、もはや成し得ぬことになるのだ。
トゥパク・アマルは鋭い目つきで、揺れる蝋燭の炎を見つめ続けた。
彼の漆黒の瞳の中で、緋色の炎が不安定に舞っている。
(しかし、もし、この書状を撥(は)ね付ければ、強制配給や税は変わらず、結果として、民の負担は続いていくのだ。
もちろん、この反乱を成功させ、植民地支配を終焉させれば、そのようなものは根底から無くすることができる。
しかし、もはや、敵方から、このような妥協案が出された以上、それを一蹴すれば、一刻も早く楽になりたいと願う民衆の心に背くことになるであろう。
民が真に願っているのは、植民地支配下にあるか否かということ以上に、兎も角も、まさに今の目前の苦しみを少しでも軽減することなのだ!)
トゥパク・アマルは燭台の灯りを消した。
天幕が暗闇に包まれる。
辺りに蝋の臭いが、たちこめた。
(スペイン人の役人たちが、あそこまで我らの要求を呑むと言ってきた今、こちらがそれを撥ね付け、反乱を続行すれば…もはや、民意は、我々についてはこなくなるであろう!)
トゥパク・アマルは険しい眼差しのまま、すっと立ち上がる。
(ただでさえ、モスコーソ司祭によるキリスト教からの破門の一件以来、当地生まれのスペイン人の心は離れつつあるのだ。
これ以上、民意が離れれば、反乱の続行は不可能。
そうなった暁には、もっと酷い条件で、否、全く無条件に降伏を迫られることにもなりかねぬ…――。)
かなりのところまで敵方を追い詰めていたはずが、逆に、敵にいきなり王手を打ち込まれたがごとくの苦々しい思いが、渦巻きながら、彼の胸内にジワジワと広がっていく。
トゥパク・アマルは、傍に立て掛けてあった漆黒のマントを羽織った。
そして、ゆっくりと天幕を出た。
頭の中が熱くなっている。
夜風にあたりたかった。
秋近い夏の深夜の風は、幾らか日中の熱の余韻を残しながらも、さすがに高地だけあって十分に涼やかな冷気を運んでくれる。
トゥパク・アマルは、先刻、己の胸中にたちこめた苦い思いを吐き出すように、深く息を吐いた。
そして、すうっとその身に冷ややかな夜風を吸い込んだ。
夜露を含んだ野草のしっとりとした香りが、ゆったりと胸の中を満たしていく。
アンデスの森にそっと息づく妖精のように、ひっそりと咲く蘭の花の、甘い香りの余韻が心地よい。
足元で鳴く哀愁を誘う虫たちの声が、空に向かって響いていく。
その鳴き声に促されるように、トゥパク・アマルもまた、高い空を振り仰いだ。
涼やかな風が彼の纏うマントを、漆黒の翼のごとくに後方にゆるやかに翻す。
風の中に舞う長髪を、そのしなやかな指でゆっくりと掻き上げながら、彼は真っ直ぐに天空の月を見つめた。
月の清らかな光をその端に宿した切れ長の目は、今、ゆるぎない決意を秘めた眼差しに変わっていく。
(此度の書状の内容も、わたしや側近たちを捕えるために仕組んだあの者たちの罠であるかもしれぬ。
いや、その確率は、むしろ高い。
だが、あそこまではっきりと国中に減税を明約する以上、いくら権力を牛耳るスペイン人高官たちとて、わたしを捕らえた後に、即座にあっさりと手の平を返して約束を違(たが)えれば、それこそ、あの者どもから民意は離れる一方のはず。
とはいえ…、あの者どもたちのこと、どこまでも愚かなことを仕出かさぬとも限らぬ。
ならば、わたしが処刑された後も、あの者たちを厳しく監視する者が絶対に必要だ。
今、それをできるのは、わたしと共に反乱を率いてきた側近たち…ディエゴ、アンドレスを中心とした者たち以外にはあるまい。
ならば、側近たちをも、スペイン人の元にくだらせることなど、決してできぬ!)
月光を浴びるトゥパク・アマルの逞しい全身からは、今、蒼い覇光が、燃え上がる炎のごとくに立ち昇る。
(アレッチェ殿…そなたのスペイン軍に、わたしのこの身柄、引き渡そう。
だが、それはあくまで、わたし一人…――それが、わたしの出頭の条件だ!)
気迫を帯びた眼差しで月を見上げたまま、トゥパク・アマルはまるで誓詞を立てるかのように、一瞬、その引き締まった右腕を真っ直ぐ天空に向けて掲げ上げた。
それから、瞳を閉じて、まるで祈りを捧げるように月の方向に頭を下げる。
(わたしが亡き後は、インカの民の守護者として、ディエゴを、そして、あのアンドレスを、月よ、太陽神よ、大地と天空の神々よ、どうか見守り、力を貸し給え…。)
トゥパク・アマルは暫し、そのまま、じっと瞼を閉じて祈った。
それから、ゆっくりとその目を開ける。
月明かりがくっきりと浮き立たせる彼の横顔は、今や、己の命を投げ打つ深い決意のために、その凛々しく精悍な風貌をいっそう際立たせていた。
今、トゥパク・アマルの脳裏には、あのスペイン軍総指揮官アレッチェが、はっきりとその姿を現してくる。
彼は、その宿敵を射抜くがごとくの非常に鋭く険しい眼差しで、眼前を毅然と見据えた。
(側近たちをスペイン軍のもとにくだらせること、そのような要求は、絶対に呑むことはできぬ。
それだけは、あの男に、アレッチェに認めさせねばならぬ…――!)
今、再び天空を振り仰ぐ彼の瞳の中で、晩夏の夜空に、遠く、蒼い稲妻が光っていた。
まもなく数日後、分遣隊として各地に遠征していたディエゴ、オルティゴーサ、そして、アンドレスがトゥパク・アマルの召集を受けて、馳け戻ってきた。
トゥパク・アマルは、あのスペイン人の使者からの書状を手に、側近中の側近たちを己の天幕に集めた。
参集した側近たちは、従弟ディエゴ、参謀オルティゴーサ、相談役ベルムデス、そして、甥のアンドレス、腹心ビルカパサ、アンドレスの朋友ロレンソ、さらに、かの義兄弟フランシスコも、今は再びその場に加わっていた。
トゥパク・アマルは、冷静な声でスペイン軍からの書状の内容――つまりは、代官による強制配給の全面的廃止、税関の閉鎖、教会の十分の一税の禁止、さらには、反乱軍の全ての将兵及び兵たちの罪を不問に付すこと、そして、その条件としての、トゥパク・アマル及び、その側近たちのクスコ戦時委員会への出頭――を、集まった者たちに伝え、且つ、己の考えを丁寧に説明した。
そして、最後に、ゆるぎなき決意を宿した眼差しで、「然(しか)るに、わたしは、クスコの戦時委員会に出頭しようと考えている。」と、はっきりと言った。
えっ…――?!
あまりのことに、側近たちは、皆、暫し、何が起こっているのかわからぬままに、愕然を通り越した呆然の眼(まなこ)で、魂が抜けたようにトゥパク・アマルを見ている。
誰の頭の中も、ただ、ひたすら真っ白なままに、完全にその正常な動きを止めていた。
絶句したまま己を見据え続ける側近たちに、トゥパク・アマルは、あの包み込むような眼差しを向ける。
「アレッチェ殿と直(じか)に話をし、そなたたちの出頭は、何としても食い止める。」
そう言って、改めて全員を穏やかな瞳で見渡すトゥパク・アマルの方に、しかしながら、今、この瞬間まで完璧に固まっていたアンドレスが、ついに口火を切った。
その声には激しく案ずる色と共に、むしろ、強い憤怒の気配さえもが篭(こも)っている。
(何故、トゥパク・アマル様…あなた様は、そんなに重要なことを一人で勝手に決めて、しかも、そんなにあっさりと仰るのか…――!!
スペイン軍に出頭するということは…それは…それは…!!)
アンドレスは震える声で、呻くように言った。
「我々のことよりも、トゥパク・アマル様…!!
あなた様の御身こそが、決して失われてはならぬものではないですか!!
この…このインカのために…!!」
わななくように激しく揺れる瞳を見開き、まるで挑みかかるがごとくに身を乗り出して、喰い入るように見据えるアンドレスに、トゥパク・アマルはいつも通りの静かな微笑みを返した。
「ありがとう、アンドレス。
だが、此度ばかりは、わたしが行かねば事はおさまらぬ。」
そして、アンドレスの方に僅かに身を傾け、真剣な眼差しで、深遠な、響く声で言う。
「アンドレス、そなたこそ、生き延びるのだ。
そして、あのスペイン人の役人たちが、我らに誓った約束を果たすのを、しかと監視し、見届けよ。
もし、彼らが果たさぬ時は、再び立ち上がるのだ。
幾度でも!!」
胸が詰まって声の出ぬアンドレスに、トゥパク・アマルは再び、穏やかに、そして、力強く頷き返す。
「アンドレス、そなた自身の力を、信じよ。
確かに、そなたには、まだ未熟なところも多い。
だが、それは、これからそなた自身の力で事を進め、切り拓く中で克服してゆけばよい。
未熟であることと、潜在力のあることとは別のこと。
そなたは、もう、わたしの庇護なくとも、己自身の力で何事もやっていける。
いや、やっていくべき時がきたのだ。
この後は、そなた自身の力を信じ、自分の頭で考え、判断し、行動せよ!
そして、そなたの真(まこと)の力を己自身で引き出し、インカの地のために、民のために生かしきるのだ!」
厳然たる、しかし、まるで父か兄かのごとくの深い愛に貫かれた眼差しで、トゥパク・アマルに真っ直ぐ瞳の奥底まで見据えられ、アンドレスは先刻の身を乗り出した姿のまま、再び、微動だにできなくなっていた。
一方、その傍らから、深刻ながら、とても思慮深い声がする。
その声の主は、やはり、あの老齢な賢者、ベルムデスであった。
ベルムデスは身を低めてトゥパク・アマルの方に礼を払い、その深く刻まれた額の皺をいっそう深めながら、恭しく、静かに、しかし、はっきりと話しはじめる。
「トゥパク・アマル様のお考え、よくわかりました。
確かに、この期に及んでは、スペイン側の妥協案を撥ね付けてまでの反乱の続行は、民意に反するものとなる恐れはありましょう。
しかしながら、それは、あの役人たちが、その約束を本当に果たした場合のこと。
あの者どものやり口を、この年老いたわたしは、幾度となく見て参りました。
あの者どもは、守る気もない方便を駆使し、己に都合のよい目的さえ達すれば、あっさりと手の平を返して裏切るのでございます。
これまで、かのピサロに騙されたアタワルパ様のご時世から、果たして幾多のインカ皇帝たちが、その卑劣な手の内に落ちてきたことでございましょうか。」
そう一息に語りきると、ベルムデスは息をつぎ、その思慮深い表情をいっそう深刻気に歪め、激しくトゥパク・アマルを見据えた。
「なりませぬ。
トゥパク・アマル様、決して、あの者どもの言葉に乗ってはなりませぬ…!!」
己の命を絞り出すかのごとくに訴えるベルムデスに、トゥパク・アマルは、とても深く礼を払う。
「ありがとう、ベルムデス殿。
そなたの申すことは、恐らく、正しい。
しかしながら、わたしが出頭しなければ、民衆たちは、彼らの切望する減税、強制配給などを、わたしが撥ね付けたと思うであろう。
ましてや、あの褐色兵のために、インカ側の犠牲者も数知れぬ状態になっている。
このままでは、民意は離れ、犠牲者も増えるばかりなのだ。
その上、そなたたち側近以外の兵には恩赦まで発せられている。
もはやインカ軍そのものが分断されかねぬ危機なのだ。
完全に分断される前に、手を打たねばなるまい。
この先、必要な時には、いつでも反乱を再燃させるために。
わかってくれるね。」
深く、はっきりとした声で、滔々(とうとう)と諭すように語るトゥパク・アマルに、側近たちも、そして、ベルムデスも、にわかに言葉を無くす。
トゥパク・アマルは再び全員に頷きながら、見渡し、続ける。
「わたしが亡き者となり、結果、スペイン人の役人たちが、その約束を裏切り、再び、増税なり強制配給を開始したら、今一度、反乱の火の手を上げよ!!
その時には、さすがの褐色兵も、あの者たちの本性を目の当たりにするであろう。
そうなれば、褐色兵の将を、兵たちを、必ずや説得できるはず。
その暁には、彼らを我々インカ軍の味方として引き入れよ。」
そして、力強く言う。
「その時こそ、真に、植民地支配の鎖を断ち切るのだ!!」
トゥパク・アマルは、衝撃波を浴びたような表情で己を見据えている二人の片腕たち、あのディエゴを、そして、アンドレスを、改めて、暫し、真正面から見据えた。
それから、同様に、未だとても受け入れられぬという眼で固まったまま己に釘付けられている側近たち全員を、再びあの包み込むがごとくの眼差しで見渡した。
「わたしが亡き後は、そなたたちでそれを成し遂げよ。
そなたたちなら、できると信じる。」
そして、最後に、噛み含めるように言って、微笑んだ。
「案ずることはない。
たとえ、この身がこの世からなくなろうとも、わたしの魂は常にそなたたちと共にあり、そなたたちと共に戦い続けるのだから。」
他方、それから間もなく、かのスペイン軍総指揮官アレッチェは、クスコの戦時委員たちの驚愕をよそに、トゥパク・アマルの求めに応じて、インカ軍の陣営内にてトゥパク・アマルと会うことを承諾した。
此度の反乱鎮圧の総責任者である彼もまた、ここが正念場であることを深く認識していた。
インカ軍の息の根を止めるのは今しかない!!…――そのためには、何としても、トゥパク・アマルを捕えねばならぬ、と固い決意を噛み締めていた。
トゥパク・アマルとうい人物を、その性格も行動傾向も、今や、かなりまで把握し尽くしているアレッチェは、トゥパク・アマルが話したいというならさっさと話した方が事の進みの速いことを悟っていたし、また、己の来訪に伴い、トゥパク・アマルが何か危害を加えてくることなぞ絶対に無いことも確信していた。
然るに、それから間もなく、アレッチェは数名のスペイン人護衛官と共に、トゥパク・アマルの本営を訪れた。
トゥパク・アマルは深い礼をもって、このスペイン軍総指揮官、且つまた、植民地全権巡察官たるアレッチェを丁重に陣営に招き入れた。
面会用にしつらえられた天幕の中で、トゥパク・アマルは人払いをした後、全く二人きりで、アレッチェと対峙して座った。
あの護衛のビルカパサも、この時ばかりは天幕内部へ入ることを許されず、天幕の外側にて警護にあたった。
「アレッチェ殿、此度はわたしの求めに応じ、はるばるお運びいただき、誠にいたみいる。」
トゥパク・アマルが、あの流麗なスペイン語で丁寧に礼を払う。
アレッチェも、それに応じるよう、目だけで礼を払ってみせる。
たちまち重い沈黙がその場を支配する。
二人は暫し、互いの目を見据え合った。
かつて、トゥパク・アマルがインカ皇帝の子孫であることを承認させるために訪れた首府リマのアウディエンシア(最高司法院)で初めて二人が対面した時、そして、反乱幕開け直前に副王の言葉を伝え聞くために訪れたトゥパク・アマルが副王代理のアレッチェと接見した時…――それぞれの状況が、まるでフラッシュバックのごとくに二人の脳裏に甦る。
はじめて対面したあの時と同じように、今、二人の鋭い視線は宙を切り裂くほどの衝撃で完全にぶつかり合い、無言の火花が激しく散った。
アレッチェは、トゥパク・アマルに向ける、その射竦めるような鋭い眼をいっそう光らせた。
最初から、このインディオはひどく危険だと、直観していた。
そして、その直観通り、否、その直観をも凌ぐスケールで、大々的な反乱を巻き起こし、植民地支配中枢部を心底震撼させた。
アレッチェは、改めて、眼前のインディオ、トゥパク・アマルを見据える。
(実際、よくぞここまでやったものだ…――。
トゥパク・アマル!!)
己の人生において、恐らく最大の宿敵となったのが、よりによってインディオとは…。
皮相な感情と共に、全く奇妙なことではあったが、アレッチェの中に、妙な感慨に似た感情が込み上げる。
(だが、勝負はあった。
結局は、歴代のインカ皇帝のごとくに、今、おまえも制圧者の前に跪くのだ!!)
その冷酷な目が、氷のごとくに光る。
一方、トゥパク・アマルは、全く落ち着き払った態度で、彼にとっても、図らずも宿敵となった、その眼前のスペイン人の方に鋭くも静かな視線を注いでいた。
今や覚悟を決めた彼は――否、恐らく、この反乱を起こす前の、とうの昔から己の命など投げ打つ覚悟を決めていた彼は、澄んだ光をその切れ長の目元に宿し、思慮深い眼差しをじっとアレッチェの方に向けている。
まるで、相手の心の声をすべて読みぬくがごとくに。
(アレッチェ殿、そなたのもとにくだるのは、跪くためではない。
真に、インカの民が立ち続けるためなのだ。)
そして、その落ち着き払った美しい目を、すっと細めた。
それから、深く、低く響く声で言う。
「クスコの戦時委員会のもとに、出頭しよう。」
アレッチェは、瞬間、目を見開いた。
さすがの彼も、興奮からか、にわかに全身の血流が速まるのを感じる。
(ついに、この男を、トゥパク・アマルを押さえ込んだのだ…――!!)
「だが、わたしの側近たちを、そなたたちのもとにはやれぬ。」
「なに?!」
アレッチェは、再び、冷や水を浴びせられたように、険しい表情に戻る。
「側近たちは、渡せぬ。」
毅然とそう語るトゥパク・アマルの眼は、これまでの静かな眼差しを一変させ、あの青白い炎をメラメラと燃え上がらせはじめている。
アレッチェもまた、獰猛な光をありありと湛えた眼で、睨み返した。
「そのような勝手が通るか!!」
「それでは、わたしが出頭する話も、無かったことにしてもらうしかあるまい。」
「何…――!!」
改めて、激しい睨み合いの応戦となった。
本来は、少なくとも表面的には、かなりの冷静さを保ちうる性質(たち)のはずのアレッチェであったが、この時ばかりは、己の感情を明らかに露呈させはじめる。
アレッチェは非常な憎悪の眼で、あからさまに切歯扼腕しながら、「それでは、強制配給や減税の話も、全て白紙に戻してもよいのだな!」と、わななく声で言う。
「どうしても側近たちを差し出せと言うのならば、やむをえまい。」
トゥパク・アマルが無機質な声で言う。
「完全に、そなたたちの植民地支配の鎖を断ち切るまで、戦い続けるのみだ。」
そう語るトゥパク・アマルの全身からは、蒼い覇光が、その瞳の中の炎に呼応するがごとくに湧き立ちはじめる。
アレッチェは、傍目から見ても明らかなほどに、その目元をピクピクと引きつらせながら、歯をギリギリと摺り合せた。
「反乱の大義も無くしたおまえたちに、誰がついてくるというのだ!!」
吐き捨てるようにアレッチェが、がなり立てる。
トゥパク・アマルは相手を見下ろすようにして、その目を冷ややかに細めた。
「この国の民の苦しみは、強制配給や税の問題だけではない。
あの最悪な鉱山での強制労働、言語を絶する虐待行為、人とも思わぬ権利の剥奪…まだまだ挙げれば切りの無いほどの問題がこの国にはある。
十分に、我々が掲げる大義はあるのだ。」
「くっ…――。」
アレッチェは顔面を引きつらせたまま、言葉に詰まる。
さらに追い討ちをかけるがごとくにトゥパク・アマルが言う。
「そなたが編制した褐色兵の軍団も、時間をかければ、インカ軍に寝返らせることもできよう。
わたしには自信がある。
ましてや、彼らは多くが貧しき農民たち。
己の田畑を手放して戦線に参加はしているが、長きに渡って、己の農地を空けることが、彼らにとってどれほどの危惧であるのか、そなたにわかるか?
己の意志で参戦したわけではない彼らのことだ、すぐにも自らの農地に戻りたいと願っているはず。
端金(はしたがね)と脅しだけで、いつまで彼らを動かせるものか…そなたも、やがて思い知る時がくるであろう。」
アレッチェの握り締めた拳が、ワナワナと震えている。
あまりの侮辱的な状況に、にわかに言葉も失(な)くして、アレッチェは、ただもう白目を剥き出しにした鬼のごとくの形相で、額に油汗を滲ませながら、こちらを睨みつけている。
しかし、トゥパク・アマルは全く気圧される風情もなく、淡々と続ける。
「それでも、そなたが書状に示した通り、真に強制配給や税関を廃し、他の兵たち同様、側近たちにも恩赦を与えることを誓うならば、わたしはそなたのもとに出頭してもかまわない。」
トゥパク・アマルは、相変わらず冷ややかな目で見下ろしながら、「どうする?」と、完璧に落ち着き払った態度で問う。
(この下賤なインディオが…――!!)
煮えくり返る腸(はらわた)を押さえ込むように、アレッチェは、その手で己の胃の辺りをぐっと押さえた。
突き上げる嘔気と共に、今すぐにでも、眼前のインディオを絞め殺してやりたいほどの激烈な憎悪に翻弄される。
そんなアレッチェの様子を、冷静な目でじっと観察しながら、「すぐに答えずともよい。クスコに戻られて、皆でゆっくりと考えよ。そなたたちの返答次第で、この命、引き渡そう。」と、トゥパク・アマルが低い声で言う。
アレッチェは相変わらず鬼のごとくの形相でトゥパク・アマルを睨みつけながら、しかし、結局は即答することができず、「戦時委員会の会議にかけて、話し合い、返答する。」と、憎悪と憤怒と苛立ち故にすっかり上擦った声で言い残し、インカ軍の陣営を立ち去った。
かくして、切歯扼腕しながらクスコに戻ったアレッチェは、トゥパク・アマルの出した条件――すなわち、側近たちの引渡しの拒否――について、即刻、戦時委員会を招集して話し合いを行った。
結果、トゥパク・アマルを捕えることを最優先事項と定め、やむなく、形の上では、側近たちの引渡しの拒否を許諾する形とした。
だが、彼らの腹の内には、もちろん、インカ(皇帝)一族及びその側近たちの抹殺に対する激しい執念が渦巻いていた。
兎も角も、まずはトゥパク・アマルを捕え、インカ軍を弱体化させた後、順次、側近たち、及び、インカ一族を始末する、という方向で話し合いはまとまった。
側近や一族たちに関する情報は、捕えたトゥパク・アマルから、直接、拷問下で白状させることもできよう、とスペイン人高官たちは考えてもいた。
ただし、トゥパク・アマルという人物をよく知るアレッチェは、どのような目に合わせようとも、あの者から吐かせるのはひどく難儀であろう、と感じてはいたが。
いずれにしろ、トゥパク・アマル亡き後のインカ軍など、所詮は烏合の衆…――スペイン人中枢部の認識は、まだこの時点では、その程度のものだったのだ。
◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ
第六話 牙城クスコ(11)
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