コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~

第六話 牙城クスコ(11)

朱色の夕景

【 第六話 牙城クスコ(11) 】

一方、かの褐色兵の敵将、フィゲロアは、ひどく苦々しい思いと共に、今、非常に深い葛藤状態にあった。

彼は、その日、一時的な停戦のためにクスコの地に戻っていたが、事態がトゥパク・アマルの投降の方向に進んでいることを知り、内心、ひどく穏やかならざる心境にあった。

戦場では、今でも彼は、スペイン側の討伐隊の極めて重要な将として、インカ軍との戦闘を続行してはいた。

しかしながら、続々と貧しいインカ族の農民たちを傭兵として狩り集め、敢えて同族同士で殺戮をさせ合うスペイン側のやり口に、本来は非常に正義心の強く純粋な彼は、次第に不信の念を募らせていた。

一方、トゥパク・アマル率いるインカ軍の兵たちは、いかに厳しい戦況になろうとも、己の兄弟姉妹たるインカ族の者たちに――たとえ今は敵、味方に引き裂かれていようとも――決して、致命的な攻撃を仕掛けてくることはなかった。

また、スペイン側とインカ側では、その捕虜の扱いも完全に対照的であった。

スペイン側のもとに捕虜として捕えられたインカ軍の兵たちは、いかに酷い負傷を負っていても、皆、拷問にかけられ惨殺された。

他方、インカ軍の捕虜となったスペイン兵たちは、インカ軍の従軍医によって手厚く治療され、釈放された。

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フィゲロアはクスコの屋敷の一室で、その澄んだ瞳を揺らしながら、己の額を固く押さえ込んだ。

その部屋は、正体を隠すために女装に扮して己を単身訪れたトゥパク・アマルと、かつて直談判を行った、あの時と同じ場所である。

あの晩の話し合いの光景が、フィゲロアの脳裏に甦る。

輝くような威光を放ちながら、清冽な眼差しで、真っ直ぐに己を見つめて語るトゥパク・アマルの姿とその言葉の一つ一つが、幾度も彼の脳裏に、そして、心に、飛来した。

『今も、インカの地の民の、その身に深く宿る魂は、決して、いかなる民族にも劣るものではない。

我々の中には、まだそれが生きている。

いかなる者とて、それを押し潰し、息絶えさせてよいはずはない。

このまま植民地体制下の暴政が続くならば、民の命が果てるだけでなく、遠からず、民の魂までもが死に絶えるであろう。

そなたほどの者が、このままインカの民が死に絶え、あるいは、生きた屍となるのを見過ごせるか?

手遅れになる前に、ことを進めねば何も変らぬ。

今なら、まだ間に合おう。

だが、これ以上は、据え置けぬ。

時は今なのだ!

フィゲロア殿、我々、インカの民のために、そなたの力を貸してほしい。

我々インカ軍と共に戦おう!!』

フィゲロアは、額を押さえたまま、きつく瞼を閉じた。

「インカの地の民の、その身に深く宿る魂」…――たとえ敵方の傭兵に回されていようとも、白人たちに戦(いくさ)を強要された貧しい農民たちを決して討たず、今に至っては、己の命を呈して減税その他の民の負担を軽減させ、且つまた、側近たちを含め全てのインカ兵たちの命をも守り抜く――トゥパク・アマルは、あの時の言葉を、その身をもって体現しているのだと、フィゲロアには、そう感じられてならなかった。

(トゥパク・アマル…!!

本気で、スペイン軍のもとになど、くだるつもりなのか?!)

フィゲロアの瞼が震える。

(この俺が、あの時、トゥパク・アマルの言葉を信じてインカ軍に寝返っていれば、このようなことにはならなかったということか…?

それでは…俺が…?

この俺が…トゥパク・アマルを、処刑台に送る段取りをつけた、ということか?!)

彼の目が、はじかれたように見開かれる。

だが、即座に全てを振り払うようにして、激しく首を振った。

(い…いや…トゥパク・アマルとて、あのアレッチェが言う通り、腹の底では、インカ皇帝に返り咲いて独裁政治を敷こうとしていたかもしれぬのだ!!

俺は、それを喰い止めた、という見方とてできるのだ。

そうだ…そうなのだ!

今更、俺は何を血迷っているのだ!!

これで良かったのだ…!!)

フィゲロアは吹っ切るように、その顔を、きっ、と上げ、毅然とした眼差しをつくった。

が、すぐにそれは、苦渋と皮相の色に歪んでいく。

(ああ…だが、このひどく落ち着かぬ感覚は、一体、何なのだ…)

再び、フィゲロアは深く肩を落とし、テーブルの上で強く握り締めた褐色の拳を震わせた。

その時、部屋のドアにノックが聞こえた。

フィゲロアは、苦しげな表情のまま顔を上げる。

そして、「誰だ?」と、ドアの方に声をかける。

ドアの向こうから、「フィゲロア様、トバールでございます」と、太い声がした。

「入ってくれ」

フィゲロアの言葉に、重厚なドアが開く。

そこには、インカ族の戦士らしいガッシリと引き締った体格の、青銅色の肌をした中年の男が立っていた。

トバールと名乗ったこの男は、リマの褐色兵の将、フィゲロアの副官である。

彼は慎重にドアを閉めると、「何かわかったか」と鋭い眼差しで問うフィゲロアの方に近づいた。

そして、一礼を払ってから言う。

「裏の情報ではありますが…、やはり、総指揮官アレッチェ殿は、トゥパク・アマル様を捕えた後、側近やその他のインカ兵たちをも捕らえ、さらには、増税も強制配給も再開する心積もりのようでございます」

己の将、フィゲロア同様に、眉を顰(ひそ)めざるをえない様々なスペイン側の所業を、その渦中に身を置いて散々に目にしてきたこの副官トバールも、此度のトゥパク・アマルの投降については一方(ひとかた)ならぬ強い懸念を抱いていた。

「このままでよいのでありましょうか。

フィゲロア様…!」

既に皺の刻まれはじめた額を苦しげに歪めながら、己の方を激しく見据える、その腹心の部下を見つめるフィゲロアの横顔は、いっそう濃厚な苦渋の色に覆われていった。



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他方、その頃、インカ軍の本営でも、再び騒然たる事態が生じていた。

「アンドレスがいない?!」

不意に目を見開くトゥパク・アマルの前に、ビルカパサが困惑した声音で、深く身を屈めて返答する。

「はい。

今朝方からお姿が見えず、ずっと探しているのですが、やはり、どこにもお姿がありませぬ」

同様に探し回っていたディエゴも、トゥパク・アマルの天幕に現われると、非常に険しい眼差しのまま首を横に振った。

トゥパク・アマルが、考え深気にすっと目を細める。

「ロレンソ殿を呼んでくれ」

「はっ!」

ビルカパサが再び深く身を屈めて礼を払うと、素早く天幕を出ていった。

まもなく、アンドレスの朋友、ロレンソがトゥパク・アマルの前に現われる。

「ロレンソ殿、アンドレスのこと、何か存じておるまいか」

穏やかながらも鋭く問いかけるトゥパク・アマルに、ロレンソは深く畏まり、頭を下げる。

そして、ゆっくりと顔を上げて、その大人びた鋭利な表情をトゥパク・アマルの方に向けた。

じっと見つめるトゥパク・アマルの瞳の中で、ロレンソは微かに迷いの色を見せるが、すぐに意を決した目の色に変わった。

「アンドレス様は、クスコに向かわれました」

やはり…――と、トゥパク・アマルがいっそう鋭い表情になりながら、再び、目を細める。

「クスコのどこに行ったのだ」

「フィゲロア殿のお屋敷であります。

僭越(せんえつ)ながら、わたしが、先日トゥパク・アマル様をご案内した道をアンドレス様にお伝えいたしました。

そのルートで…」

思わず、トゥパク・アマルは言葉を失(な)くす。

傍に控えていたディエゴ、そして、ビルカパサも、息を呑んだ。

「アンドレス…何という勝手なことを…!!」

わななくようにそう言って、ディエゴは気色ばみながらも、しかし、彼もまた、アンドレスの心中がひどく察せれて、思わず深い溜息を漏らした。

険しくも、案ずる色を濃厚に漂わせはじめたトゥパク・アマルの方を、ロレンソは真っ直ぐに見上げ、きっぱりとした口調で言う。

「トゥパク・アマル様。

あなた様をお一人、むざむざ、あの悪鬼のごとくのスペイン役人たちのもとへ行かせるなど、アンドレス様には到底できぬことなのです!

アンドレス様なりに、道を必死で探っておられるのでございます!」

そう言って、跪いたその姿勢のまま、地につくほどに深く頭を下げた。

「何卒、アンドレス様のお気持ちをお察しください。

どうか、ご容赦ください!!」

友を弁護するために己の前に平伏(ひれふ)している若者の姿を見下ろすトゥパク・アマルの眼差しは、今は、もう、すっかり静かな色に戻っている。

そして、微かに溜息をついて、ロレンソに語りかけた。

「全く…そなたのように、よく出来た友をもち、アンドレスは果報者だな」

そう言って、ロレンソの傍に彼もまた跪く。

「顔を上げなさい。」と、穏やかな声で言うと、慎重に頭を上げた真摯なロレンソの瞳に優しい眼差しで頷き返した。

「ロレンソ殿、この後も、アンドレスのことをよろしく頼む」

「はっ!!」

再び、深く頭を下げて、しかし、力強い声で応じる若者の方に、細めた目でもう一度頷き返した後、トゥパク・アマルはゆっくりと立ち上がった。

そして、状況を見守っていたディエゴとビルカパサの方を順次見渡した後、トゥパク・アマルは思慮深い眼差しで、「まさか、迎えに行くわけにもいくまい。あのアンドレスのことだ。ここは信頼して、本人のしたいように任せるとしようか」と言って、ほんの僅かに、しかし、はっきりと微笑んだ。



その頃、既に、アンドレスは、ロレンソに教えられた裏ルートを通って、スペイン兵たちの目を逃れ、クスコのフィゲロアの屋敷の門前まで来ていた。

もちろん、己の身分や正体を隠すために、貧しい平民の服装に扮し、頭にターバンのような布を巻いて、さり気なく顔を隠しながら。

まだ、真昼の日が高い頃ではあったが、暑さのためか、かえって街の人通りは少なかった。

アンドレスは人通りの切れた隙を見計らうと、そのまま策を弄さず、屋敷の門前の護衛官たちの前に進み出た。

たちまち、数名の厳(いかめ)しい護衛官たちに取り囲まれる。

相手に嫌疑の質問をさせる間も与えず、彼は、素手のままに、しかし、その腕と肘を常のサーベルのごとくに鋭く振り翳すと、護衛官たちの急所目がけて俊敏に振り下ろした。

通りの人目につく前に、瞬時に事を片付けねばならない。

彼は集団で襲い来る敵をかわして幾度か中空に跳躍すると、確実に狙いを定めて敵の急所めがけて舞い降りては、次々と一撃で相手の気を奪った。

たちまち辺りには静けさが戻り、微かに汗を滲ませて立つアンドレスの周りには、気絶した護衛官たちの体がばらばらと横たわっていた。

気を失って、すっかり伸びている兵たちを、門柱の陰に運んで、素早く隠す。

門 (アンドレスinクスコ)

そして、急ぎ足で、屋敷のドアに向かった。

当然ながら、扉には硬く錠が下ろされている。

アンドレスは窓の外から屋敷の内部を覗きながら、褐色の敵将フィゲロアの姿を探した。

一階の窓からは、フィゲロアの姿は確認できない。

彼は庭先から屋敷の二階を見上げた。

人の気配を微かに感じる。

アンドレスは屋敷脇の倉庫の屋根に跳躍すると、そこから二階のバルコニーに、まるで鳥のような身軽さで易々(やすやす)と舞い移った。

そして、バルコニーに立ったまま、鋭い眼差しで窓越しに室内を見渡す。

果たして、目的の相手、フィゲロアの姿を硝子(ガラス)の向こうに見出した。

相手は、まだ、突然の来訪者、アンドレスの存在に気付かない。

そのまま、アンドレスはフィゲロアの様子を探るように見た。

戦場で、幾度か既に、相見(あいまみ)えている勇猛なその姿は、しかし、今は、一人、室内のテーブルにうつ伏せるようにして、まるで肩を震わせているかのごとくに見える。

アンドレスは、息を呑んだ。

何か、ひどく胸に迫るものを感じて、暫し、じっとその姿に釘付けられる。

(フィゲロア殿…、もしやトゥパク・アマル様のことで、あなたもお苦しみなのでは…?!)

窓硝子を隔てて瞳を揺らしながら見つめるその視線を鋭く感じ取ったのか、フィゲロアが、はたと頭をもたげた。

そして、視線の方向を探るように、ざっと室内を見回した後、窓の方にも視線を向けた。

その瞬間、窓の向こうのバルコニーに立ち、喰い入るように己を見ている混血の若者の姿が目に飛び込む。

フィゲロアは予測外のことに、さすがに驚きの眼で、はじかれるように椅子から立ち上がった。

そのまま、驚きを引き摺りながらも、窓辺の若者を素早く観察する。

(あの者、どこかで見たことがある?!)

フィゲロアは、険しい目つきのまま、貫くように窓硝子の向こうを見据えた。

貧しい平民の服装に扮してはいるが、凛々しくも華やかな気品溢れる、蒼い炎を纏ったような、その混血の若者の風貌には、確かに見覚えがあった。

そして、再び、はじかれたように目を見開いた。

(まさか、アンドレス…――?!)

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直接、言葉を交わしたことはなかったが、戦場で、実に鮮やかな剣裁きで先陣に立つ若武者を、否、インカ軍の若き将を、フィゲロアの目は幾度かとらえていた。

当然ながら、その敵将の名は、フィゲロアの耳にも入っていた。

いや、それ以前にも、かのクスコの戦場で、トゥパク・アマルにとどめの一撃を喰らわそうとした時、目にも止まらぬ駿足と剣裁きで己とトゥパク・アマルとの間に割って入ってきた剣士、それこそが、今、思えば、このアンドレスであったのだ。

フィゲロアの引き締った口元に、意図せぬ苦笑が浮かぶ。

一方、窓辺のアンドレスは、相手の表情から、己の正体が知れたことを悟った。

(フィゲロア殿…――!!)

アンドレスは、窓硝子を隔てたまま、頭を下げて深く礼を払った。

それから、軽く硝子をコツコツと指で叩き、「開けてください。危険なことは致しません」と、口を動かしてメッセージを送る。

フィゲロアは半ば唖然としながら、そして、半ば呆れたような眼差しで、まじまじとアンドレスの姿を見据えている。

(馬鹿め…!!

このような時に、敵中に一人で乗り込んでくるなど!

危険な目に合う立場にあるのは、おまえの方だろうが、アンドレス…!!)

軽く肩を竦めて、それから、フィゲロアは独り言のように呟いた。

「トゥパク・アマルといい、このアンドレスといい、インカ軍の将たちは、全くもって、いつもこのように破天荒な現われ方をするものなのか…」

一方、窓硝子を隔てたバルコニーから、アンドレスは両手を広げて、武器など持ってはいません、と身振りで示す。

その様子に、フィゲロアは、かのトゥパク・アマルの対面の際にも同じような情景を見たことを思い出し、苦虫を噛み潰したような表情になる。

そして、思わず、顔を歪めて苦笑した。

あのトゥパク・アマルの話し合いの際も、武器を持たぬあの者に、結局は素手で打ちのめされたのだ。

(おまえたちの場合は、武器の有無など、関係ないではないか…!)

そんなことを苦々しく思いながらも、フィゲロアはゆっくりと窓辺に近づいた。

それから、やむを得ぬという表情を浮かべ、バルコニーに面したその窓を開く。

バルコニー (inクスコ)

フィゲロアとアンドレスが直近の距離で、今、ついに対面する。

すぐにアンドレスは深く頭を下げた。

「突然の来訪、何卒、ご容赦ください」

「唐突な来訪は、あのトゥパク・アマルの時で、もはや慣れた」

皮相な口調でそんなふうに言い放つ眼前の敵将に、アンドレスは再び深く礼を払う。

「どうかお気を悪くなさらないでください」

「で、今度は、何用だ?」

いきなりの本題に、瞬間、アンドレスの方が不意を突かれた表情になる。

が、すぐに意を決した眼差しになると、真正面からフィゲロアに向き直った。

「トゥパク・アマル様のことで…!!

あのお方が、スペイン軍に出頭すると仰っているのをご存知でしょうか?」

澄み切った真剣な瞳で激しく見据えてくる眼前の若者の視線を、同様にとても純粋なフィゲロアの瞳は、しかし、今は、さっとそらす。

「フィゲロア殿!!」

アンドレスは、フィゲロアの視線の先に回りこんだ。

「トゥパク・アマル様をスペイン軍の手に渡すことなどできません!!

そのために…そのために、あなたのお力が必要なのです」

アンドレスの来訪以前から既に苦しげな色を浮かべていたフィゲロアの表情が、今、いっそう苦渋に歪みはじめる。

そして、回り込んできたアンドレスを避けるように、部屋の一隅に向かって、数歩、移動した。

「アンドレス、おまえの頭は、一体、どうなっているのだ?

俺は、おまえたちの敵であろう!

俺を当てにするのは、全くもってお門違いだ」

低く冷たい声で言い放つフィゲロアの前に、しかし、再び、アンドレスは回りこんだ。

「いいえ!!

あなたの率いる褐色兵が、この後のインカの命運を…、そして、トゥパク・アマル様のお命さえをも左右するのです!!

どうか、あなたの率いる褐色兵の軍団を…――!!」

「黙れ!!

しつこいぞ!!」

核心に触れてきそうなアンドレスの言葉を鋭く制し、フィゲロアは凍てつくような目でアンドレスを睨み据えた。

しかし、アンドレスは首を横に振りながら、再び相手の真正面に回りこむと、決然とした声で切り込むように言う。

「フィゲロア殿!!

トゥパク・アマル様が、どれほど…、どれほど、このインカのことを…このインカの地を、民を愛し、守り抜こうとしておられるか、お察しください!!

いや、あなたのことだ、きっと全て見抜いておられるのでしょう!!

だから、さっきも、あなたは一人で肩を落とされ、苦しんでおられた…!

フィゲロア殿、あなたは、やはり、我々と同じ…インカの民としての心をお持ちなのです!!

あなたなら…あなたなら、トゥパク・アマル様が囚われるということが、インカにとってどれほど破壊的な打撃になるかわかっておられるはずです!!

フィゲロア殿!!」

必死で訴え続けるアンドレスの澄んだ、純粋な瞳が、同様に、深く澄み切ったフィゲロアの瞳の中で揺れている。

唇をギュッと結び、フィゲロアは眼前の若僧をいっそう激しく睨みつけた。

が、その瞳も明らかに揺れている。

アンドレスは、そのまま、フィゲロアの前に飛び込むように深く跪くと、床に頭を押し付けて平伏(ひれふ)した。

「あのお方の御身を、お命を、今、この地から、この世から、亡きものにしてはなりません!!」

頭を床に擦(こす)りつけたまま、アンドレスの肩が震えている。

「フィゲロア殿、あなたが望むことなら、俺は、どんなことでもいたします!!

ですから…――!!」

アンドレスはそのまま暫く言葉も失ったように伏していたが、やがて思い切ったように頭をもたげ、再び、貫くようにフィゲロアを見上げた。

その目には、今、蒼い炎が燃え上がり、それと共に、光る涙が滲みだす。

フィゲロアは、思わず息を呑んだ。

「トゥパク・アマル様をスペイン人のもとに差し出すことなど、絶対に、絶対に、なりません!!

なんとしても、喰い止めねばなりません!!

鍵を握るのは、あなたなのです、フィゲロア殿!!」

挑むように鋭くなったアンドレスの目からは、涙が溢れ、とどまることなく頬を伝って流れ落ちていく。

「アンドレス…」

フィゲロアは擦れた声で相手の名を呼ぶが、彼もまた固まったように、暫し、言葉が出ない。

彼の目の前で、アンドレスはその肩を震わせながら、いよいよ止まらぬ涙を押し隠すように、己の逞しい右手でその顔面を押さえた。

そのようなアンドレスを直視し続けられず、フィゲロアは目をそらし、床の上に視線を落とす。

彼の呼吸も、不規則に乱れだす。

互いに言葉を発することができず、ただ、部屋の中には、もはや押さえ切れぬアンドレスの漏らす嗚咽のみが流れた。

数分の時が流れた後、苦しげな表情のままフィゲロアが低い声で言う。

「俺に、どうしろと言うのだ」

アンドレスが、押さえ込んだ指の間から、はじかれたようにその目を見開く。

彼は、そのまま、手で涙を押さえ込むようにして拭き取ると、呼吸を整え、あの蒼い炎の燃え上がるがごとくの激しくも澄んだ瞳で、再び真正面からフィゲロアの目を見据えた。

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「我々インカのために、共に戦いましょう!!

フィゲロア殿も、貴殿のもとにいる兵たちも、インカ軍に加わってください。

必ずや、スペイン軍を打倒することができるはずです!!」

そして、凛とした、毅然とした声で続けた。

「さすれば、トゥパク・アマル様をスペイン側に引き渡すことなど、全く、不要のこと!!」

まだ濡れたその目に煌々と炎を燃え滾(たぎ)らせながら、跪きつつも身を乗り出すようにして懸命に己を見上げるアンドレスに、しかしながら、フィゲロアはいっそう苦渋の表情で、再びその目をそらす。

「俺に…スペイン軍を裏切れと、そう言うのか?」

「フィゲロア殿…!!」

いっそう己の方に迫り来るアンドレスの眼光を避けるように、フィゲロアは反対側の窓辺の方に歩み去った。

そして、背を向けて、硬い声で呻くように言う。

「俺は、一度、これと決めてスペイン軍に加わったのだ!!

アンドレス…おまえもインカの人間だろうに、それが、裏切れなどと…よく言えるものだ…!

そのようなこと、俺には絶対にできぬ!!」

アンドレスは決然と立ち上がると、背後からフィゲロアの方にいっそう詰め寄った。

「真のあなたのお気持ちはどうなのです?!

今でも、本当に、スペイン側に加勢したいと思っておられるのですか?!

フィゲロア殿…インカ軍に加わることは、裏切りなどではない!!

本来のありかに戻るということではないのですか?!」

まるで暴き正すがごとくに険しくなったアンドレスの眼差しを避けたまま、フィゲロアは窓の外に視線を投げた。

外は、徐々に日が西に傾きはじめている。

濃い赤茶色の色調で彩られる落ち着いたクスコの街並みに、斜めに降り注ぐ朱色の陽光が、いっそうの深みと重厚さを与え、街全体が最も輝きを増す時間帯が訪れる。

その瞬間、フィゲロアのその背から放たれる刺々(とげとげ)しく殺気立った気配が、不意に変ったことを、アンドレスは鋭く感じ取った。

相変わらずアンドレスに背を向けたままではあったが、しかし、今、硝子窓越しに黄金色の西日を受けながら、フィゲロアは、低く、だが、はっきりと話しはじめる。

「よく聞け…アンドレス。

俺はスペイン軍を裏切ることはできぬ。

だが、事実は、事実として、おまえに教えてやる」

「フィゲロア殿…!」

ハッと息を詰めて、その彫像のような美麗な目を大きく見開き懸命に己を見据えるアンドレスの視線を背に強く感じながら、フィゲロアは続ける。

「スペイン人の高官たちは、トゥパク・アマルを捕らえた後には、再び、あの強制配給も増税も再開し、おまえたち側近も、果ては、恩赦を与えると建前上は宣言したインカ軍の兵たちも、一網打尽にする心積もりでいる」

「!!」

アンドレスは息を呑み、しかし、やはり!!…――と、まるで剣のごとくに鋭利になった横顔で、宙を激しく睨み据えた。

一方、フィゲロアは窓外に注いでいた視線をゆっくりと動かし、やがて、真っ直ぐにアンドレスに向いた。

そして、その表情に深い決意を秘めた光を宿して、続ける。

「アンドレス!

トゥパク・アマルの投降をやめさせるのだ!!」

「フィゲロア殿…!!」

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「おまえは、すぐに戻ってトゥパク・アマルの投降をやめさせ、そのかわり、国中に流言をばら撒け。

いいか、アンドレス、よく聞け。

トゥパク・アマルは、民衆の負担を減らすためにスペイン軍のもとに、その命を捨てて、出頭しようとした。

だが、スペイン側の裏切りの目論みを事前に知り、投降するのをやめたのだと…――そのありのままの事実を、民衆の間に広く流布させるのだ。

さすれば、たとえ、投降などせずとも、民の心は決してあの者から離れることはない。

今や国中の民は、誰もが、トゥパク・アマルが投降しようとしていることを知っている。

もう十分に、トゥパク・アマルの民への思いは伝わっていよう。

ならば、あの役人どもの宣言が偽りであるとわかりながら、出頭するなど、馬鹿げている。

そもそも、あの白人どもの二枚舌ぶりは、とうの昔から民の誰もが知るところのもの。

あの者どもの裏切りを事前に知って、トゥパク・アマルが此度の投降を取りやめたとて、何ら不自然は無い」

「フィゲロア殿…――!」

アンドレスは恍惚とした表情ながらも、圧倒されるように息を呑んでいる。

フィゲロアは無言で頷き返すと、その鋭くも真摯な視線で、アンドレスに「さあ、早く行け!!」と強く促した。

一方、アンドレスは興奮と驚きから顔を紅潮させたまま、動けずにいる。

「アンドレス、このようなところに長居は無用。

一刻も早く戻り、トゥパク・アマルに投降をやめさせるのだ!!

そして、言った通りに流言をばら撒け。

スペイン役人どもの二枚舌ぶりは相変わらずである、と!

そして、トゥパク・アマルが、いかに民を思っているかを示すのだ!!」

ついにアンドレスは、深く頷いた。

「フィゲロア殿、かたじけない…!!

本当に…何と礼を申してよいか…!!」

「ふん…礼など…!

俺は、事実を伝えたまでだ。

さあ、とっとと行け!!」

「しかし…フィゲロア殿…あなたは…?

このようなことを話して、あなたの御身が危険なのでは?!

もちろん、あなたから聞いたなどとは言わないが…、あのアレッチェのこと…流言の出所を探らぬはずはない…!

恐らく、あなたに嫌疑がかかるのでは?!」

アンドレスは、非常に深刻な眼差しでフィゲロアの方に身を乗り出す。

「フィゲロア殿!!

俺と一緒に行きましょう!

インカ軍の元に、共に参りましょう!!」

「アンドレス、何度も言ったはずだ。

俺は、スペイン軍を裏切れぬ…!」

「…フィゲロア殿…!!」

瞳を激しく揺らしながら苦渋の表情で己を見据え続けているアンドレスを、ついに、フィゲロアはその鉄棒のような腕で、ぐいと荒々しく窓外に押し出した。

「さっさと、行け!!

アンドレス!!

この屋敷には、あのアレッチェも出入りしているのだ!!

このようなところを見られたら、俺が迷惑なのだ!!」

「フィゲロア殿…!」

アンドレスは唇を強く噛み締め、深々と頭を垂れて礼を払った。

「本当に…かたじけない…!!」

そして、再び涙の滲みかけた瞳に、しかし、今は凛とした光を宿し、貫くようにフィゲロアを見つめた。

「俺たち側近たちの誰にも増して、きっと、あなたこそ、トゥパク・アマル様の軍団の将として相応しい…!!

いつの日か、必ず、あなたがインカ軍の一人として戦う日が来ると、俺は信じています!!」

そういい残すと、アンドレスはまだ涙の痕跡の残るその顔に、しかし、精悍で力強い眼差しを取り戻し、最後に再び深く礼を払った。

そして、トゥパク・アマルの元に急ぎ帰還すべく踵を返した。



月夜の虹

かくして、すっかり日も落ちた頃、フィゲロアの館から疾風のごとくにインカ軍に舞い戻ったアンドレスの元に、ディエゴとビルカパサが走り込む。

「アンドレス!!

何と勝手なことをするのだ!!

おまえは…!!」

ディエゴは思わず気色ばんで、その岩のような巨大な手の平をアンドレスの頬を目掛けて振り上げた。

一方、アンドレスは、平手打ちでも何でも、そのようなものは幾らでも甘受する覚悟の表情で、僅かに身を固めたまま、真っ直ぐディエゴの前に立っている。

今にも振り下ろさんとするディエゴの振り翳した腕を、即座に、ビルカパサが背後からガッチリと押さえ込んだ。

ビルカパサはディエゴの腕を固く押さえながら、「アンドレス様は、ご無事で戻られたのです。それが何よりではありませぬか!」と、常のごとくに感情を抑えながらも、きっぱりとした声で言う。

それからビルカパサはアンドレスの方に深い安堵の視線を向け、「アンドレス様、ご無事のお戻り、誠に何よりでございます」と、恭しく一礼をした。

そして、「トゥパク・アマル様もたいそう心配をしておられます。ここは、まずは、トゥパク・アマル様のもとに!」と、真摯な声で言いながら、「さあ、どうぞ、お行きください」と、ディエゴの前から逃すようにして目で合図を送る。

アンドレスは二人の方に、「勝手なことをして、ご心配をおかけしました!本当に申し訳ありませんでした!!」と深々と頭を下げると、「トゥパク・アマル様は、天幕に?」と早口で問う。

ビルカパサが頷くのを確認する間も惜しむように、彼はトゥパク・アマルの元に走った。

その後姿を、「全く、何たる無謀な…!!あれでは、あまりに先が思い遣られる」とブツクサ言いながらも、溢れ出すような安堵の表情を浮かべるディエゴと、そして、既に完全に冷静な面持ちを取り戻したビルカパサが追う。

一方、天幕の中には、目前へ迫ったスペイン軍への出頭準備のために、身辺整理を行うトゥパク・アマルの姿があった。

死に向かう準備であるはずなのに、あの波紋一つ無い湖面のごとくの、極めて静かな、落ち着き払った横顔である。

「トゥパク・アマル様!!」

息を切らしながら天幕に走り込んできたアンドレスの方を、トゥパク・アマルがハッと振り返った。

「アンドレス、戻ったのか!」

トゥパク・アマルも、さすがに大きく目を見開く。

常の時には全く冷静なはずの彼の瞳も、あまりに深い安堵からであろう、明らかに揺れていた。

トゥパク・アマルは、暫し、アンドレスの方を見つめていたが、やがて、またゆっくりと手元に視線を戻し、身辺整理の作業を再開する。

そんなトゥパク・アマルの傍に走り寄ると、アンドレスは地に跪いて真っ直ぐにトゥパク・アマルを見上げた。

「トゥパク・アマル様、此度は勝手なことをして、本当に申し訳ありませんでした!!」

そして、地に伏すようにして深く頭を垂れた。

そんなアンドレスの方に静かな視線を注ぎながら、トゥパク・アマルは作業の手を止める。

「何よりも、そなたが無事に戻って本当によかった。

アンドレス」

アンドレスが見上げた瞳の中に、トゥパク・アマルの偽りなき深い安堵に満ちた表情が映る。

アンドレスは、そんなトゥパク・アマルの様子に強く心に迫りくるものを感じて、熱くなった胸を拳でぐっと押さえた。

そして、凛と響く、決然とした声で言う。

「トゥパク・アマル様!!

スペイン軍への出頭のご準備は、今すぐに、おやめください!!」

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トゥパク・アマルは無言のまま、再び、その目を見開いた。

そんな彼の前に身を低めながらも、鋭利な横顔で、再び、きっぱりとアンドレスが言う。

「トゥパク・アマル様、此度のこと、全てスペイン役人たちの謀(はかりごと)でございます!

スペイン軍へのご出頭など、されてはなりません!!」

アンドレスの後を追って、ちょうどトゥパク・アマルの天幕に着いたディエゴとビルカパサも、思わず息を呑んでアンドレスを見た。

トゥパク・アマルは目を細めてアンドレスを見下ろしていたが、「何故、そのようなことを言う?」と静かに言葉を返すと、アンドレスの様子をうかがいつつも、再び、ゆっくりと荷をまとめる手を動かしはじめた。

その傍らで跪いたまま、アンドレスはフィゲロアとの一連のやり取りについて説明していく。

話が進むにつれて、いつしか荷を整理するトゥパク・アマルの手も止まりがちになる。

ディエゴ、ビルカパサは、まんじりともせず、じっとアンドレスの話に聞き入っていた。

やがて、荷をまとめるトゥパク・アマルの指が完全に止まった。

そして、「なるほど…。あのスペイン役人たちの二枚舌ぶりは、相変わらずというわけか」と、苦々しい声で言う。

それ以上は言葉にはせぬものの、トゥパク・アマルの眼光は、非常に鋭く、険しくなっていく。

当初から守る気も無いくせに、大幅な減税を謳って、いたずらに民を喜ばせ、偽りの恩赦を宣言して兵を安堵させて…か…――!!

荷に添えられていた指をぐっと固く握り締め、切れ長の目元を険しく吊り上げているトゥパク・アマルの傍らでは、同様に鋭く光る眼のディエゴが、正面からトゥパク・アマルを見据えた。

「トゥパク・アマル様…!!」

トゥパク・アマルも「あのフィゲロア殿が申すのであれは、間違いはなかろう」と、頷く。

ディエゴ、ビルカパサ、そして、アンドレスの喰い入るような眼差しがトゥパク・アマルに注がれた。

どうするのですか?!当然ながら、出頭は即刻、取りやめですね?!…――と、三人の目は激しく訴える。

暫し、思慮深い目になった後、トゥパク・アマルはゆっくりと頷いた。

「あの者たちのことだ。

そのようなところであろうと予想してはいたが、はじめから守られぬことが明らかな約束に従うことはできぬ」

側近たちは瞳を輝かせて、底知れぬ深い安堵の吐息をつき、そして、力強く頷き返した。

一方、今、トゥパク・アマルの精悍な横顔には、とても強い光が宿りゆく。

「此度のこと、アンドレスの申す通りであるならば、何よりも、フィゲロア殿が、我らインカ側を擁護するにも等しき言動をなされたことの意義は、非常に大きい」

側近たちも、再び深く頷いた。

ディエゴが素早くトゥパク・アマルの前に歩み寄る。

「トゥパク・アマル様!

フィゲロア殿が仰ったように、国中に此度のこと、広く宣伝いたしましょう。

すぐさま各地に伝令を飛ばします!!」

トゥパク・アマルも、ゆっくり頷く。

「そういたそう。

二人で手分けをし、各地に伝令を派遣せよ」

「それでは、早速!!」

力強く言い残し、興奮で顔面を紅潮させながら、ディエゴは大股で急ぎ立ち去った。

ビルカパサも輝くような目で再度トゥパク・アマルに一礼をした後、俊敏な身のこなしでディエゴの後に続いた。

それから、トゥパク・アマルは、跪いたまま己の方を、その澄み切った眼差しで眩しそうに見入っているアンドレスに、視線を向けた。

アンドレスは、ハッと居住まいを正す。

結果は兎も角、己の行動が、いかに逸脱したものであったかをアンドレスなりに認識している彼は、トゥパク・アマルからの咎(とが)めを受けることも当然ながら覚悟の上ではあった。

が、その鋭い眼光のもとに実際に晒されると、身の縮む思いを抱かずにはおられない。

一方、トゥパク・アマルは、案の定、険しい表情で真っ直ぐアンドレスを見下ろしている。

トゥパク・アマルは噛み含めるように言った。

「アンドレス。

確かに、先日、わたしはそなたに、この後は、そなた自身の判断で行動せよと伝えた。

だが、此度のような行動をしろ、と申したのではない。

現在のような非常時下での行動は、極めて慎重でなければならぬ。

今回は、全くの幸運にも、そなたは無事に戻ってくることができた。

しかし、もし敵方に捕らえられていたならば、果たして、いかなる事態になっていたと思う?」

トゥパク・アマルの言わんとすることを、疾(と)うに察しているアンドレスは、再び、深く頭を下げる。

「申し訳ございません…!」

「もし、そなたが捕らえられスペイン側の捕虜とされていたら、あの者たちのことだ、我々に無条件降伏を迫ってきたに相違あるまい」

トゥパク・アマルが厳しいながらも、諭すように言う。

アンドレスは深く恐縮しながら、「本当に申し訳ございません!!」と、いっそう平伏する。

それから、瞳を揺らしながらも、意を決した面持ちでトゥパク・アマルを見上げた。

そして、思い切ったように言う。

「万一、そのような事態に陥った暁には、どうか、俺のことはお見捨てください!!」

トゥパク・アマルの眼差しが、さらに険しくなった。

アンドレスは、思わず、身を縮める。

「馬鹿なことを言うな。

いかなることがあろうとも、そなたを見捨てることなどできようか」

低い声でそう言って、ますます険しくなりゆく表情のトゥパク・アマルの前で平伏しながらも、アンドレスは、澄み切った真摯な眼差しを、きっ、と投げ返す。

「それは俺とて、同じこと!

トゥパク・アマル様をお一人で、敵の手に渡すことなどできません!!

絶対に!!」

「アンドレス…。

わたしは私情だけで申しているのではない。

そなたは、インカ軍にとっても、インカの民にとっても、その精神的支柱となるべく特別な立場にある者なのだ。

もはや、そなたの命、そなただけのものではないと心得よ!」

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燃えるような、厳しくも、熱い眼差しで語るトゥパク・アマルの表情に、アンドレスは言葉を呑みこむ。

そんなアンドレスを見下ろしたまま、トゥパク・アマルは淡々とした声音に戻って言った。

「此度のそなたの行動は、本来ならば、少なくとも謹慎処分は免れぬほどのもの。

今はそのようなことをしている場合では無い故、実際には致さぬが、だが、それほどの事であったことをよく認識しておきなさい」

「はい…トゥパク・アマル様…」

アンドレスはガックリと肩を落として、「深く反省いたします…」と、先程までの勇姿はどこへやら、今は、すっかり落胆しきった声になっている。

だが、それから、トゥパク・アマルは瞳の色を少々和らげ、軽く肩を竦めた。

「とはいえ…兎も角も、今回は、そなたに助けられたわけだ」

そして、僅かに微笑む。

アンドレスはやっと顔を上げ、深く胸をなでおろして、息をついた。

「トゥパク・アマル様…!」

「ありがとう、アンドレス」

そう言って、次の瞬間、トゥパク・アマルは瞳で深く頷き、アンドレスに向かって、しっかりと礼を払った。

アンドレスは、あのブロンズ像のごとくの端麗な目を、はじかれたように大きく見開き、それから、深々と畏まった。

その胸には、熱いものが激しく突き上げる。

「トゥパク・アマル様…!!

そんな…勿体のうございます!!」

一方、トゥパク・アマルは、床に同化するほどに平伏しているアンドレスに、目を細めたままに静かな微笑みを送っている。

しかし、まもなく鋭い眼差しに戻って、トゥパク・アマルが再び口を開く。

「フィゲロア殿は、この後も、スペイン軍のもとで兵を指揮するおつもりなのか…」

呟くように言うトゥパク・アマルに、ハッとアンドレスが顔を上げる。

彼の表情にも、ありありと悲痛な色がよぎった。

アンドレスの指が、無意識のうちに、まるで床を激しく掴むように押し付けられる。

「はい…。

裏切ることはできぬ、と…!」

「そうか…」

苦しげなトゥパク・アマルの眼差しが、いっそう鋭くなる。

「此度のことで、フィゲロア殿の御身が案じられる」

アンドレスもにわかに苦渋の表情に変わり、深く頷いた。



そして、間もなく、トゥパク・アマルの早々の出頭を促しにインカ軍の本営を訪れたスペイン側の使者は、彼の出頭取りやめという、全くの方向転換を突き付けられることとなった。

スペイン側の激しい怒りと困惑は言うまでもなく、その態度はあからさまに脅迫めいていったが、もはやトゥパク・アマルの態度は硬かった。

さらに、それと時を合わせるように、国中の民衆たちの間に流言が広がった。

――我々、民の負担を軽くしてくださるために、強制配給の廃止、関税の撤廃、十分の一税の廃止、そして、全軍の兵たちへの恩赦と引き換えに、我らの皇帝陛下トゥパク・アマル様がスペイン軍に命を投げ打ち投降しようと決意されたが、白い役人どもがその約束を守らない心積もりであることを事前に知り、あわやのところで、投降を取りやめるに至った。あの白い役人どもは、これまで散々に歴代のインカ皇帝様を欺き、裏切りを行ってきたのと同じように、我らの皇帝陛下までをも、ついに騙し討ちにしようとしたのだ!!…――と、その事実だけならまだしも、多くの場合、噂にはさらにスペイン役人たちを悪し様に言う尾ひれまでついて、広く国中に流布していった。

朱色の夕景

結果、民衆たちは、これまで以上にトゥパク・アマルを深く讃え、その傘下に加わるものは再び増加していった。

スペイン側に強引に付き従わされていたインカ族の傭兵たちの中にさえ、逃亡し、インカ軍のもとに馳せ参じる者が出るほどであった。



だが、そうしたトゥパク・アマルの投降取りやめに、スペイン軍総指揮官アレッチェやモスコーソ司祭をはじめ、スペイン側の戦時委員会の面々がどれほど激昂し切歯扼腕したかは、想像に余りある。

かくして、トゥパク・アマルやアンドレスが危惧した通り、スペイン役人たちの矛先は、褐色の敵将、かのフィゲロアに向かった。

亡者のごとくに血走った眼(まなこ)のアレッチェは、執務室に配下の部下を呼びつけると、地を這うごとくのおどろおどろしき声で呻くように言う。

「フィゲロアをここに呼べ!」

赤黒いオーラを全身からメラメラと周囲に放ちながら、アレッチェは、その本性をあからさまにした獰猛な横顔で薄暗い窓外を睨みつけた。

我らスペイン側の思惑がインカ側に漏れた…――その出所として考えらるのは、インカ族でありながらも唯一スペイン側の裏事情を知り得る立場にあるフィゲロア以外には有り得ぬ。

アレッチェの指は、自動的な動きで拳銃に弾を込める。

拳銃とクロス

そして、再び、鬼のような形相で、窓の外を睨み据えた。

だが、この時勢に至ってもなお、数万人という大規模な「リマの褐色兵」を将として統率しうる器を持つ者は、あのフィゲロア以外には考えられぬということも、また、皮肉なことに、事実であった。

此度の件で民意がこれまでにも増して「白い役人ども」から離脱しつつある現況に及んでは、その勇敢さにおいても実直な人柄においても傭兵たちから人望の篤いフィゲロアは、いっそうスペイン側にとって必要不可欠なる重要人物であることには違いなかった。

且つまた、彼が裏の事情をインカ側に漏らしたという何ら具体的な証拠も無かった。

(取替えのきく人材であれば、銃弾一発で片付くものを…!)

アレッチェの顔面が、苦々しく歪む。

その時、ドアにノックがした。

「フィゲロアか。

入れ」

既に意を決しているのか、ドアは躊躇(ためら)い無く開かれる。

そこには、変らず真っ直ぐな眼差しに、しかし、今は、深い覚悟を宿した面相のフィゲロアが立っていた。

アレッチェは蛇のような目で、無言のままに手だけを動かし、フィゲロアを己の直近まで呼び寄せる。

そして、腕の届く距離に至るや、いきなりフィゲロアの頭に銃口を突き付けた。

外面的には毅然として平静を装うフィゲロアではあったが、意志の及ばぬところで、その体が、一瞬、硬直する。

そのまま、アレチェは氷のような声で憎々しげに言った。

「おまえ、まさか、トゥパマリスタ(トゥパク・アマルの一味)ではあるまいな?

あるいは、やつのスパイか?」

フィゲロアは、無言でじっと耐える。

アレッチェは、いっそう強く銃口を相手の頭に押し付けた。

銃口が喰いこんだフィゲロアの頭皮からは、血が滲み、やがて床に滴(したた)りはじめる。

一方、アレッチェは、ひどく汚らわしいものを見るかのように、床に落ちたフィゲロアの血を侮蔑的な眼で見下ろした。

そして、いかにも白人らしい長く引き締った脚を、その血をあからさまに避けるようにして移動すると、冷徹な声で続ける。

「フィゲロア…おまえに昔から目をかけ、おまえの一族にも特等の待遇を与え、一からここまでおまえを軍人として育てあげてきたわたしへの恩を、まさか忘れたわけではあるまいな?」

ぐっと唇を噛み締めるフィゲロアの頭に、アレッチェは拳銃をさらに強烈に捻(ひね)り込んだ。

その引き金に添えられた指には、いよいよ激しく力がこもっていく。

「おまえも所詮、下賤なインディオにすぎなかったとは、残念至極…」

呻くようにそう言い放つと、妖魔のような背筋も凍る形相で、フィゲロアを睥睨するように険しく見下ろした。

「もはや、次は無いものと思え。

万一にも、おまえが我らを裏切るようなことがあれば、その瞬間に、おまえの命は消え失せる」

わななくように見開かれていくフィゲロアの目を突き刺すように、睥睨するアレッチェの眼光がいっそう獰猛に光る。

そして、凍てつくような冷酷な声で続けた。

「それだけではない。

もし、この後、おまえが裏切るような真似を再び微塵でもしようものなら、リマに残してきたおまえの親族一同は当然、おまえの副官も、おまえの元にいる『リマの褐色兵』を成す傭兵どもも、全員を同罪とみなす。

傭兵など、金さえ出せば、この国に溢れる貧困農民から幾らでも掻き集めることができる。

おまえの下にいる今の軍団を総入れ替えすることなど、わたしには容易(たやす)い。

そのことを、よく覚えておくことだ」



◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ 第六話 牙城クスコ(12) をご覧ください。◆◇◆








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