コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~

第八話 青年インカ(2)

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【 第八話 青年インカ(2) 】

一方、敵地に出立するアンドレスの方を、まだ10歳の幼い皇子マリアノが、衛兵たちに守られるようにして少し離れた位置に立ち、一心に見つめている。

マリアノの瞳は大きく揺れながら――父上も母上たちも囚われた上に、今度は、アンドレスまでが、いなくならないで……!!――そう激しく訴えているのが、アンドレスには痛いほど伝わってくる。

だが、マリアノは唇をきつく引き結び、涙の零(こぼ)れそうになるのを、健気(けなげ)にもぐっと堪(こら)えている。

そんなマリアノに、アンドレスは誓いを立てるように、深く礼を払った。

(大丈夫です!

マリアノ様、俺は、何があっても、あなた様の元に必ず戻って参ります。

だから、ご案じなさいますな)

それから、周囲の兵たちに向き直って、力強くも真摯な瞳で礼を払うと、共に敵陣に乗り込むことを申し出てくれた十数名の護衛兵たちを従えて、逞しい黒馬に跨(またが)った。

「それでは…――!!」

手綱を握るアンドレスたち一行に、陣営に残るインカ兵たちが、一斉に、祈るような眼差しを向ける。

既に、時は、透明な茜色の空に染まる夕刻時である。

ソラータのスペイン側は、此度の和議の場として、敵将スワレス大佐の副官ピネーロの館にて、アンドレスを主賓とした晩餐の宴席を用意していることになっている。

果たして、如何なる夜が待ち受けていることか…――アンドレスは鋭い眼差しで、決然と前方を見据えた。

決意と覚悟からであろうか、あるいは、インカの地と民への真(まこと)の思いからであろうか、今、朱色の西日を受けるアンドレスの横顔は、そして、命をあずけて彼に従う護衛兵たちの横顔は、皆、非常に鋭利に研ぎ澄まされ、息を呑むほどに美しい。

精悍な掛け声と共に、その凛々しく秀麗な横顔の残光を見送る兵たちの心に深く刻み込んだまま、一行は夕刻の市街地に向けて駆り出していった。

勇ましい蹄(ひづめ)の音と共に、その軌跡に舞い上がる黄金色の砂塵を、マリアノもベルムデスも、そして、本営に残った兵たちも、皆、いつまでも、いつまでも、見守り続けていた。





かくして、アンドレスたち一行が馬を駆りながら、敵の立て篭もるソラータの市街地に到着する頃には、かなり日も落ちていた。

愛馬を疾走させながらも、アンドレスは、荒廃しきった周囲の状態に鋭い視線を走らせる。

既に薄闇に包まれて、街中の様子は鮮明には見えにくかったが、それでも、その殺伐とした気配は、肌に突き刺すほどに伝わってくる。

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殆ど無法地帯と化していると見られる街中に人影は無く、住人たちは、皆、隠れるように家に堅く引き篭もっているものと思われた。

人気(ひとけ)の無い夕刻時の中央通りに軒を連ねる建物群はすっかり荒れ果て、恐らく、かつては華やかな商店街を成していたと思われるが、今は、いずれも扉や窓が打ち破られ、外からも見える内部は大地震の後のごとくに家財が転倒し、商品らしきものは何一つ残ってはいなかった。

スペイン兵から強奪を受けたのか、あるいは、食糧の完全に尽きた住民たちが一揆のごとくに、それら商店を襲ったのか…!

ここでも、インカ族同士の非情な殺戮劇が展開したのかもしれぬ…――しかも、己の敷いた包囲網のせいで……!

アンドレスは、自分の心臓を鷲づかみにされるような胸痛と息苦しさを覚える。

しかし、今は、感傷に浸ってなどいる場合ではない。

彼は、敵将スワレス大佐に指定された館へと続く道程に、意識を集中させた。

その表情は、いっそう苦渋に満ち、だが、それ以上に非常に険しくなっている。

(このような悲惨な状態を、これ以上、絶対に、続けさせるわけにはいかない!

何としても、和議を成立させ、スペイン軍をここから即座に撤退させなければ!!

そして、俺自身も、ここにいる兵たちも、必ずや、生きて帰還してみせる…――!!)

今や、深く眉間に皺を寄せたアンドレスの、その張り詰めた厳(いかめ)しい面差しは、まだ18歳の若者には、到底、見えぬものだった。



やがて、スワレス大佐に指定された豪奢な館が、今は無残に荒廃した、そのメインストリートの突き当たりに見えてくる。

和議の会合場所に指定されたその豪邸は、敵将スワレス大佐の副官ピネーロが、本来の住人であるインカ族の豪族から強奪し、当地での仮住まいとしているものだった。

愛馬を慎重に進めながら、アンドレスたち一行は、いよいよ周囲の気配に神経を研ぎ澄ます。

館から出てきたピネーロは、鋭い眼光を利かせた十数名の護衛兵を従えたまま、アンドレスたちを出迎えた。

このピネーロは、40代前半と見える紳士的な雰囲気のスペイン人で、さすがに副官という高位の軍人だけあって、その風貌も態度も威厳に満ちている。

だが、それは、むしろ、どこか本質的には人を寄せ付けぬ威圧感と言った方がしっくりくる、そのような雰囲気でもあった。

ピネーロは、馬を降りて先頭を切って歩み来るアンドレスの方に、社交辞令の笑みを向ける。

「ようこそお越しくだされた」

到底、親和的とは言えぬ硬い声で、ピネーロが形ばかりの礼を払う。

そして、「あなたが、将のアンドレス殿か?」と、まるで値踏みするように目を細め、さらに、アンドレスの全身を眺め渡した。

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一方、アンドレスも、「お招き、かたじけなく思います」と、丁寧に礼を返しながらも、貫くように相手の方を見据え返す。

アンドレスもまた、相手の全身を上から下まで、鋭い視線で一瞥した。

彼は、一瞬、その目をハッと見開くが、素早く目を細めると、サッと感情を消した表情になった。

そのまま彼は、敵の死角に下げた己の片手で、俊敏にその指を動かし、味方の兵たちに何かの合図を送る。

彼の護衛兵たちはアンドレスの合図に息を呑むが、無言のままに、その瞳だけを僅かに動かしてそれを読み取った。



ピネーロは、大理石の飾り柱の聳(そび)え立つ豪奢な邸宅の中へと、アンドレスたち一行をいざないながら、彼もまた、自軍の護衛兵たちに何かの鋭い合図を目で送る。

恐ろしく緊迫した空気が張り詰めた。

奥の客間に通じる、だだっぴろい広間のような回廊に、硬い無数の足音のみが響く。

空間が軋(きし)みを上げそうなその緊迫感の中、回廊を歩みながら、口火を切ったのはアンドレスの方だった。

「ピネーロ殿、スワレス大佐はどこです?

館の奥でお待ちなのですか?」

そのアンドレスの問いに、少し先を歩むピネーロは、「いいえ」と、振り向きもせぬまま感情の見えぬ声で応える。

「スワレス大佐は、本日はご体調が優れず、会合には欠席なのだ。

そのかわりに、わたしが代理として、和議の話し合いに出させていただく」

「え?!」

即座に、アンドレスの表情が、非常に険しくなる。

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「スワレス大佐は、今宵の和議の話し合いに来ないのですか?!

それでは、話が違う!

ここまで我々が来たのも、総指揮官のスワレス殿が、直接、話し合いに応ずるとの約束があったからです!!」

そのアンドレスの鋭い声に、不意にピネーロが振り向いた。

振り向きざまに、ピネーロの豪腕が懐(ふところ)から銃を抜き取り、目にも止まらぬ敏捷さでアンドレスを狙った。

だが、そのピネーロの動きよりも、間一髪、アンドレスが足を蹴り上げる方が速かった。

彼の蹴り上げた鋼鉄のような長い足は、ピネーロの手にある小銃を、数メートル先まで叩きつけるように弾き飛ばした。

けたたましい金属音と共に、銃が回廊の床に落ちて激しく回転する。

それと同時に、アンドレスの後方に控えていたインカ兵たちが、ピネーロの護衛兵よりもいち早く懐から小銃を抜き、間髪入れずに、ピネーロ以外の、その場にいた全てのスペイン兵たちを撃ち抜いた。

それは、完全に、一瞬の出来事だった。



まもなく沈黙に閉ざされた屋敷の回廊一帯には、スペイン兵たちの亡骸が倒れ、その場の敵兵の中で生き残っているのは当のピネーロのみである。

アンドレスは、そのピネーロの額に己の銃口を突き付け、そのまま鬼のような形相で壁際に相手を押し付けた。

あまりの瞬時の出来事に、ピネーロは驚愕しながらも、さすがに戦歴豊富な軍人らしく取り乱すことなく、低く硬い声を漏らす。

「アンドレス…気付いていたのか」

「不自然に小銃を隠し持っていれば、俺は服の上からでもそれは分かる。

だが……何故、おまえたち白人は、こうも裏切りを繰り返すのか!!」

アンドレスは、ピネーロを壁に押し付けた腕に、獰猛なほど強く力を込めた。

その瞳に、憤怒の焔が燃え上がる。

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さらに、ピネーロの額に押し当てた、小銃に添えられた褐色の指にも、きつく力が篭(こも)っていく。

「ピネーロ殿…これは、総指揮官のスワレス殿が仕組んだことか?

和議の話し合いなどと称して、俺たちを殺そうと?

その後は、どうしようとしていた?

殺しておきながら、人質として捕えたなどとインカ軍を偽って脅し、生きてもいない俺たちの身柄と引き換えに、包囲網を解かせようとの見え透いた魂胆か?」

「…――」

アンドレスの怒りに震える指は、引き金に添えられたまま、その銃ごとピネーロの頭蓋骨を突き破るのではないかと見えるほどに、ますます激しく力が入っていく。

「ピネーロ殿、お答えになられぬか?」

この状態に及んでも取り乱すことなく冷静さを装うピネーロは、しかし、実際には、アンドレスの完璧に容赦無い目の色に晒(さら)され、その顔面の白い皮膚からは無数の冷や汗が滲み出し、横顔をジワリと伝って流れている。

「アンドレス…これは、わたしの一存でやったこと。

スワレス大佐の意図ではない」

「ふ…ん…そうか…――。

おまえたち白人にも、人を庇(かば)う良心があるとは驚いたな」

「……」

アンドレスは、いっそう強く、相手の額に冷たい銃口を捻(ひね)り込んだ。

彼はピネーロを蔑むような形相で睨んだまま、低い声で、凄むように続ける。

「ピネーロ殿、ならば、スワレス大佐に伝えよ。

おまえたちに、もう一度だけ、最後のチャンスをやる。

期日は、改めて、知らせる。

その時は、我々インカ軍の陣営で、和議の場を持つ。

今度こそ、スワレス大佐自身が来るように伝えろ。

もし来なければ、おまえたちは、ニ度と、生きてソラータから出る機会を失う。

たとえ人質にされた住民が巻き添えになろうとも、もはや、それも尊い犠牲としてやむを得ぬ。

もし、次こそ来なければ、おまえたちが最後の一兵まで死に果てるまで、俺はソラータの包囲を続ける覚悟だ」

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ピネーロが何か口を開きかけた瞬間、だが、アンドレスは鋭く相手の急所に肘鉄を打ち込むと、そのままピネーロは気を失って床に崩れた。

「アンドレス様、そろそろ…!

他の敵兵たちに気付かれる前に!」

彼の護衛兵がアンドレスに耳打ちすると、彼は俊敏に頷き、刃物のように鋭利になったままの、その目で撤退の合図を送る。



彼ら一行は素早くピネーロの館を出ると、獣のような敏捷さで夜闇に霞む裏道を抜け、インカ軍の本営へと急ぎ馬を駆った。

かくして、陣営に帰還したアンドレスたちの無事な姿を見て、皇子マリアノやベルムデスをはじめ、インカ軍の兵たちがどれほど安堵し、歓喜したかは言うまでもない。

しかしながら、またもやのスペイン側の裏切り行為に、皆、激しい怒りと落胆の表情に顔を歪めざるをえない。


しかも、こうしている間にも、時は砂が零(こぼ)れるように刻々と流れゆくのだ…――!

(トゥパク・アマル様…――!!)

アンドレスは、ますます険しさの増した表情のままに、今度こそインカ軍の陣営にて、スワレスと対峙する段取りを抜かりなく進めるため、即座に軍議を開いた。

軍議は深夜まで続けられ、そのまま夜明けと共に準備が開始された。



◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ 第八話 青年インカ(3) をご覧ください。◆◇◆








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