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コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~
第八話 青年インカ(6)
【 第八話 青年インカ(6) 】
やがて、数日後には、アドベ(日干しレンガ)を接合している柔らかい土壁部分の幾つかが完全に削り取られ、数個のアドベが取り外せるまでの状態に達していた。
トゥパク・アマルは鏨(たがね)を足元に下ろすと、もろくなった土壁から、素手でアドベの塊を幾つか取り出した。
ついに、身を屈めれば、大人でもギリギリ潜(くぐ)り抜けられるほどの穴の完成である。
しかし、喜ぶのは、まだ早すぎる。
問題は、むしろ、壁向こうの状態だった。
彼は、その美貌に鋭い眼差しを宿し、蝋燭を掲げて、穴の向こうを眺めやった。
案の定、穴の向こうは、空間になっているようだ。
だが、その空間は、あまりに濃厚な暗闇で占められているため、小さな蝋燭の光程度では、その周辺が如何なる状態になっているのかを、殆ど、把握することができない。
彼は番兵の巡回時間までに間があることを確かめると、敏捷に、且つ、慎重に、穴を潜り抜けて、実際に、壁向こうに出てみた。
全く視界はきかないが、足元の感触を確かめると、足の裏に硬い感触が返ってくる。
彼は、その長い足を生かして、方々を這わせるように動かし、足裏に伝わる感触から周辺状態を探っていく。
どうやら、そこには、石か岩で固められた1メートル幅ほどの足場があるようだった。
やがて、彼は足場の上に立って瞼を閉じ、じっと耳を欹(そばだ)てはじめた。
耳が潰(つぶ)れたのかと思わせるほどの静寂の中、鼓膜(こまく)をくすぐるように、微かに聞こえくる水の流音…――。
(…――!!
やはり…か……!)
トゥパク・アマルは、その微かな流音を聞きつけると、暗闇の中で見開いた瞳を輝かせた。
(やはり、思っていた通りだ。
ここに、地下水路が通っているのだ……!)
本当は足場を越えて水路の存在を確かめに行きたかったが、さすがに鉄鎖に繋がれた身では、動ける範囲に、あまりに限界があった。
トゥパク・アマルは、その場に佇んだまま、再び静寂の中で聞き耳を立てる。
実は、この地下牢の傍らを地下水路が通っていることを、彼には概ね予測できていた。
それは、建物の構造上の理由もあるが、それ以外にもう一つ、インカの、ある秘密の事情によって――。
(もっとも、牢をうろついているネズミは、ドブネズミばかりだった。
その数多さからだけでも、十分、推察できることだが)
彼は穴を抜けて再び牢内に戻ると、今も、まるで己の行動を興味深げに見物しているがごとくに群れ集(つど)っているドブネズミたちの姿に、思わず苦笑する。
「さあ、おまえたち、そこをどいておくれ」
ネズミたちに囁きかけながら、彼は身を屈め、削り取られて足元に散った土を壁向こうの空間に素早く投げ入れた。
そんなふうにして、房内の壁際から綺麗に土をのけると、抜き取ったアドベも嵌(は)め込んで積み上げ、外見上は殆ど元の壁と大差無い状態にまで戻した。
当該の箇所は、牢の外から見れば、丁度、寝台の陰に隠れる位置にあり、また、日中でも全く光の射さぬ暗澹(あんたん)たる地下牢ゆえ、目ざとい将校たちでも、そう容易(たやす)くは変化に気付くことは無いであろう。
トゥパク・アマルは黒マントにかかった泥土を払い落としながら、鋭利な目元で薄っすらと微笑む。
(これで準備は、ほぼ整ったか)
全身に纏う黄金色の覇光が、漆黒の闇の中で、渦巻きながら静かに燃え上がった。
こうして、ついにトゥパク・アマルが破獄に向けた段取りを、かなりの線まで整えた頃、しかしながら、外界では、彼が抱き込んだ番兵リノが、犯してはならない失態を犯してしまう。
植民地生まれであるというだけで、同じスペイン人でありながら、本国渡来のスペイン人から蔑まれ、インカ族の者たちほどでないにしろ極貧の生活を強いられて生育し、今も、身分の低い端役の番兵にすぎないリノ。
そんな自分が、瞬く間に、驚くような大金を手にして、大金持ちになった!!
その夢のような事実は、ただでさえ単純な性格のリノを有頂天にさせるには充分すぎた。
もちろん、リノは、己の身の安全のためにも、彼なりにトゥパク・アマルの言葉を守って、一連の出来事を他言せぬよう懸命に堪(こら)えてはいた。
それでも、気心の知れた相手の前となると、ついつい気の緩みもあり、己の手にした「財力」を披露したい欲求に抗(あらが)えず、羽振りの良いところを見せずにはいられなかった。
そんなリノの様子に、リノの友であり同僚でもある、やはり貧しい端役の番兵セパスは、大いに疑念を持つようになっていた。
(こいつ、最近、妙に景気がいい。
絶対に、何かあったに違いねぇ…!)
リノに比して、ひときわ貪欲で小賢(こざか)しいぶん、勘も鋭いセパスは、そう確信する。
彼は、リノと共に非番の夜、数日前までとは別人のように、気前よく自分に食事を奢(おご)って酒に酔い潰(つぶ)れたリノを家まで送りながら、そのままリノの家に上がりこんだ。
セパスは、適当にベッドに寝かしつけたリノの様子を横目で窺う。
当のリノは、友に大判振る舞いして、すっかり気持ちよく泥酔し、無防備なほど深く眠り込んでいる。
セパスはベッドの脇から立ち上がると、鼻で嗅ぎ回るようにしながら、狭いリノの家中を物色しはじめた。
(リノの奴…何か隠しているに違いねぇ……!)
まるで家捜(やさが)しのごとくに、執拗に家の隅々まで覗き回っていたセパスは、ついに、あの大金を発見してしまう。
(――!!!)
まさか、家の中まで来て誰かが探し回るなどとは思っていなかったリノは、トゥパク・アマルに返礼金として受け取った大金を、大きな袋に詰めて、無造作に粗末なベッドの下に突っ込んでいた。
それでも、リノなりに、人目につかぬ場所に置いたつもりではあったのだが。
セパスは、想像もつかぬほどの、その、とてつもない金額に上るであろう巨額な札束を前にして、思わず、仰天して腰を抜かしそうになる。
(な、な、な、なんだ、この金は……!!!
本物か?!
にしたって、なんで、こんなもん、リノが持ってるんだよ?!)
セパスは乾き切った唇を舐めながら、興奮に震える手で、袋から札束を掻き出しはじめた。
(まさか、どっかで盗み…?!
いや、リノは、そんな大胆なこと、できるヤツじゃねぇ……。
じゃ、どこで…なぜ?!)
暫し、衝撃と大混乱に陥ったセパスだったが、夜明けまでの長い時間、あれこれ思い巡らすうちに、次第に、ある確信めいた答えに行き当たっていた。
(リノと接点があって、しかも、こんな大金を渡すことができるヤツがいるとしたら、思い当たるのは、ただ一人だ…!!
だけど、リノ…こいつが、そんなこと……?
まさか…?
いや、でも、それ以外、考えられねぇ。
きっと、そうだ!!
そうに違いねぇ!!!)
かくして、翌朝。
リノは、頬を何かに叩(はた)かれるような感覚で目を覚ました。
「え…?」
ぼんやりと寝ぼけ眼を開けながら、しかし、次の瞬間、リノはギョッとしてベッドの上で体を跳ね上げた。
「あっ――!!」
引きつるように目を見開くリノの脇には、すっかり袋から掻き出した札束に埋もれながら、鬼の首を取ったように眼を爛々と光らせているセパスがいる。
リノは、あまりのことに、愕然と凍りついた。
彼は、ショックに全身を強張らせたまま、ともかく身を起こそうとするが、気持ちとは裏腹に体はベッドに沈み込む。
その全身を、がたいのいいセパスの腕に押さえ付けられて、細身のリノは、本当に苦しそうに顔を歪めた。
そんなリノの上に覆い被(かぶ)さるようにして、札束でリノの頬を弄(なぶ)りながら、あのセパスが悪魔のような笑みを湛えてリノを見下ろしている。
「リノ、おまえ、大変なこと、やっちまったなぁ…」
「!!!…――セパス!!
お、俺は、な、な、何も……」
「リノ」
今度は咎(とが)めるように鋭いセパスの声に、リノは、身を縮めたまま震えだす。
蒼白になっているリノの上に圧(の)し掛かるようにして、セパスが冷ややかに目を細めた。
「リノ、俺には、全てお見通しだぞ。
いや、全く、おまえには驚かされるぜ」
「セ…セパス……」
既に涙目になってガクガクと震えているリノの頬に、セパスは札束をいっそう激しく擦(こす)りつけた。
そして、皮相な口調で、地を這うような声で言う。
「リノ…トゥパク・アマルに買収されたのか。
何をさせられた?
だいたい予想はつくぞ。
脱獄の手伝いか?
にしても、これだけの大金と引き換えじゃ、かなりのことをやらされたな?
いや、しかし、驚いたな。
おまえに、こんな勇気があるなんて」
「――!!!」
もはや身を起こす力を完全に失ったリノの背は、一気に噴出した冷や汗で、水を浴びたように濡れている。
セパスは、リノの鼻先まで顔を近づけて、凄むように低く囁いた。
「こんな大変なことは、すぐにも、アレッチェ様にご報告しなけりゃならないよなぁ。
ダチのおまえを告発するのは、涙が出るほど辛いけど、これでも俺は番兵の端くれだ。
放っとけば、あの重罪人のトゥパク・アマルが牢から逃げ出すってのに、このまま黙ってるわけにゃいかねぇ…!」
瞬間、さすがのリノも、飛び上がるようにして、体を起こした。
そして、セパスの両腕を縋(すが)るように掴む。
「まっ…待ってくれ!!!」
「…――。
リノ、このことを黙っていたら、俺の方も同罪にされちまうんだぞ!!」
セパスは、リノの腕を、鬱陶しそうに荒々しく払い除(の)けた。
リノはベッドから飛び降りて、セパスの足元に土下座すると、哀願するように叫んだ。
「後生だ!!
このこと、アレッチェ様に言わないでくれ!!
こんなことしたことがバレたら、俺、殺されちまう…死罪になっちまうよぉ!!!」
ついに涙を溢れさせはじめたリノの前で、セパスは、ニヤリと笑って顎を掻いた。
そして、氷のように冷ややかに言う。
「ふ…ん…――やっぱり、そうか。
おまえ、トゥパク・アマルに買収されたか」
勝ち誇ったようなセパスの冷笑に、リノは、口を押さえて凍りついた。
「そうだよな。
黙っててほしいよなぁ…。
俺が、あのアレッチェに言えば、おまえは死罪確定だもんな。
なんたって、あの重罪人の脱獄を手助けしたわけだからなぁ」
「――セパス……頼むよう……」
滔々(とうとう)と涙を流しながら子どものように懇願するリノを、セパスは、鉄面を被ったような冷徹さで見下ろした。
そして、おもむろに、一枚残らず全ての札束を袋の中に押し込むと、彼は、その袋を持ったまま立ち上がる。
「…――!!」
リノが目を見張る間にも、セパスは札束で膨れ上がった袋をしっかりと握り締めたまま、さっさとドアに向かって歩みはじめた。
「セパス?!」
「とにかく、この金は俺が預かっておく。
おまえが持っていたんじゃ、さすがのおまえも、証拠隠滅に走るだろうからな。
アレッチェ様には、俺から、お渡しする」
去りゆくセパスを愕然と見入るリノの視界は、真っ暗になっていく。
そんなリノを残して、今、荒々しく閉じられたドア――。
その自宅のドアさえも、リノにとっては、冷酷に遮断された地下牢の鉄扉も同然だった。
かくして、その後のリノは、すっかり気が動転して、暫くは、全く子どものように一人で自宅に篭(こも)り泣きじゃくっていたが、己の身に非常な危険が迫っていることに改めて意識が巡りくると、涙を拭(ぬぐ)って立ち上がった。
今のリノが身を寄せられるのは、もはや、スペイン側の誰の元でもなかった。
リノの足は、知らず知らずのうちに、先日、トゥパク・アマルの手紙を携えて訪れた、例の酒場へと向いていた。
重厚な扉を開くと、清(す)んだ、あの呼び鈴の音――。
あの時と変らぬ温厚な笑顔のマスターが、リノの姿に気付いて、すぐに駆け寄ってきた。
「あなた様は、あの時の…!
よくぞ、また、お越しくだされました」
「俺…俺……」
そう言う先から涙の溢れ出すリノの面持ちを見て、マスターは、瞬時に、何事が起きたのかを察した。
彼は、穏やかな声で「さあ、ご案じなさいますな」と、リノを以前と同じ奥まった静かな席へと誘(いざな)う。
彼はリノを宥(なだ)めながら事情を聴き出すと、思慮深い眼差しで深く頷き、それから、再び、柔和な笑顔を向けた。
「よく、お話くだされた」
「俺…どうしたら……」
マスターは、リノの肩を優しく抱くようにして支えながら、今一度、深く頷いた。
「皇帝陛下に…あのお方に、すぐに全てをお話なさいませ。
きっと、お力になってくれましょう。
それに、金のことなら、あんな程度は、あのお方にとっては、ほんの端金(はしたがね)にすぎません。
牢さえ出られれば、あのお方は無類の大富豪なのです。
いずれ、失われた返礼金も、しかと、あなた様の手元に満ちて戻りましょう。
今は、まず、此度の計画が露見したり、失策に終わることを、何よりも避けることが先決です。
あなた様のお命を守るためにも!」
温和でありながらも、断固たる口調で語るマスターの言葉に、リノは止まらぬ涙を拭(ふ)いて、何とか頷き返した。
その夜、リノは牢番の任務に戻ると、酒場で言われた通り、巡回の機会を見計らって急ぎ足でトゥパク・アマルの地下牢へと向かった。
トゥパク・アマルに、あれほど念を押されていながらも、大金を掴んですっかり有頂天になった挙句に約束を破った己を恥じ入る気持ちと、そして、差し迫った身の危険への恐怖とで、半べそをかきながらも、リノはセパスとの一件を何とか語りきる。
トゥパク・アマルは、相変わらずの沈着な面差しで、時々、リノを励ますように軽く頷きながら黙って聞いていたが、やがて、「状況は、よく分かった」と、低く応えた。
涙を流しながら、嗚咽(おえつ)と共にしゃくり上げるリノは、まるで本当に子どものようだ。
トゥパク・アマルは、鉄格子の間から伸ばした指先で、リノの髪に軽く触れ、静かに微笑む。
「リノ、よく話してくれたね」
「俺、どうしたら…――?
このままじゃ、セパスが、あのアレッチェに話しちまうよ。
そしたら、俺たち、何もかも!!」
「いや……」
トゥパク・アマルは、淡々とした横顔に冷静な眼差しを宿したまま、僅かに首を振った。
それから、少しの間、思いに耽った瞳で、じっと石床の一点を見つめていたが、やがて何か意を決したように、その目を鋭く細めた。
「それほどまでの執念深さと貪欲さをもつ男ならば、そのセパスという者、そう、あっさりと見つけた獲物を手放しはすまい。
いずれ、その件で、わたしに接触をしてくるであろう。
その時に、わたしの方で、セパスのことは何とか致しておく。
それ故、リノ、そなたは、あくまで何食わぬ顔をして、普通に生活し、通常通りに仕事を続けるのだ。
今は、仕事場から逃げ出したりしてもならぬ。
かえって、そなたに嫌疑がかかるゆえ」
「け…けど、セパスのこと…な…何とかするって…?
それって…ど、どんなふうに……?」
どもりながら震える声で問うリノの髪に、もう一度、しなやかな指先で触れるトゥパク・アマルの顔は、湖面のように静寂でありながらも、どこか非常に厳然たる冷徹さを湛(たた)えている。
「リノ、これ以上は、そなたは知らなくてよいこと。
わたしが何を仕掛けようとも、あとは、全て、セパスの心根次第のことだ。
そなたは、何も知らぬを、ただ貫きなさい。
よいね?」
そう言って、己の瞳の奥を貫くように見つめるトゥパク・アマルの漆黒の瞳は、先にも増して冷厳な光を強める。
リノは、己の全身に、悪寒なのか、鳥肌なのか、何かがゾクッと走るのを覚えた。
喉が詰まって、唾を呑み込むことさえできない。
いつしか泣くのも忘れて、全身の骨が抜かれたように、リノは石床にへたり込んだ。
かくして、トゥパク・アマルの脱獄工作が地下深くで進行する傍らで、地上ではリノやセパスの動向が微妙な状態になっていたが、それと時を合わせるようにして、トゥパク・アマルにとって新たな不穏な影が、にわかに蠢(うごめ)きだしていた。
どのような端役の番兵の素行ひとつにも、常に、あの鋭い眼光を利かせている彼らの上司たるアレッチェが、この期に至っても、何も感ぜずにいるはずはなかったのだ。
否、番兵たちの動き以前に、眼力も嗅覚も鋭敏なアレッチェは、この頃、既に、トゥパク・アマルの動向に、何やら怪しげに臭うものを敏感に嗅ぎつけていた。
此度の反乱鎮圧では、スペイン側の総指揮官という大任を務めたアレッチェであるが、彼は元から全権植民地巡察官として、その非常に鋭い観察力や、きな臭さを瞬時に察知する研ぎ澄まされた直観力、そして、冷酷なほどに非情で隙の無い采配によって、この不穏極まりない植民地で勃発する幾多の反乱や暴動を容赦無く抑え込んできた、実際に腕利きのエリート高官である。
それほどの彼が、いかに水面下で進行していることとはいえ、その気配を全く感じ取らずにいることなどあり得ない。
アレッチェは、地下牢の地上に建つ修道院の一角に設けられた豪華な執務室のソファに身を沈めながらも、非常に険しい眼で、トゥパク・アマルの訊問調書を読み返していた。
彼の苛ついた指先は、いかにも高価そうな葉巻を磨(す)り潰すようにして、幾度も執拗に灰皿に押し付けている。
このアレッチェの指示のもと、トゥパク・アマルたち家族への訊問や拷問は相変わらず続いていたが、ここ最近、トゥパク・アマルが、僅かずつなれど、微妙に反乱の情報を漏らす素振りを見せはじめていることも、どうにも引っかかる。
インカ軍や民衆の前に身を呈して立ちはだかる盾のごとくに、つい先日までは、死ぬほどの拷問の渦中でも、反乱に関する一切の秘密を漏らそうとはしなかったあの男が、いかに些細な内容と言えども、口を割り出したのは、いかにも、きな臭い。
実際、口を割り出したことで、くだらぬプライドだけは高い単細胞の訊問官マタは、すっかり気をよくして、加える拷問の付加も確実に減っている。
結果、トゥパク・アマルは、一時期ほどの疲弊ぶりも見せず、獄中にもかかわらず、次第に、かつての強靭さをその肉体に取り戻してきていることは、傍目にも明らかだった。
スペイン人らしい彫りの深い整った横顔で、あの獰猛なほどに冷徹な眼が光り、探るように宙を睨み据えている。
(体力を温存している?
だとすれば、何のために?
まさか――)
その瞬間、アレッチェの脳裏に、「脱獄」の文字が突如として浮かび上がった。
しかし、彼は、すかさず、己の想念を否定した。
(いや、それはあるまい!
トゥパク・アマルの性格は、知り尽くしている。
あの男は、愚かなほどに、徹底的な廉潔を貫いてきたのだ。
必ずや、正面切って、日の当たる場所でのみ動く。
いかに、この事態とはいえ、脱獄などという裏に回った行為に及ぶとは、到底、思えぬ……!)
そう考えることで、己の中に芽生えた不穏な芽を収めようと図りながらも、当の彼自身にも、それが己の希望的観測に他ならぬように思えてくる。
アレッチェは眉間に深い皺を寄せた。
妙に、胸がざわついている。
彼は机上に調書を叩(はた)き付けるように置くと、刃物のようになった険しい面持ちで、牢番たちの詰め所へと向かった。
何が、どう、という具体的な証拠が何かあるというのではないのだが、彼の鋭い嗅覚は、最近の番兵たちの様子にも、何かこれまでとは異なる不穏な気配を感じ取っていたのだ。
時は既に夕刻時で、丁度、日中の監視や訊問及び拷問の手配などを担当する将校たちが、夜間を担当する番兵たちへと勤務交代する時間帯である。
アレッチェは、荒々しい足取りで、詰め所に乗り込んだ。
ハッ!と、振り向く将校や番兵たち。
彼の全ての部下たちにとって、恐れ慄きの対象である厳しく目利きの上司アレッチェの突然の来訪に、詰め所にいた将校も番兵も誰もが、非常な緊張に強張った表情で、咄嗟に居住まいを正した。
その張り詰めた空気の中、アレッチェは鬼のような形相で、ぐるりと全員を見回した。
そして、鋭い声で問い質(ただ)す。
「最近、トゥパク・アマルの様子で、不審なところに気づいた者はいないか?」
その声音に含まれる責め咎(とが)めるような威圧感に、皆、ビシッと体を垂直に立て、硬直した面持ちでギクシャクと首を振る。
リーダー格の将校が気圧されつつも、皆を代表するかのように応えた。
「い…いえ、特には…!!
アレッチェ様!!」
アレッチェは吊り上った目で、その場の兵たち一人一人の顔を射抜くように見渡していく。
彼の視線は、自ずと、将校たちよりも端役の番兵たちの方へと動く。
トゥパク・アマルほどの重要人物を幽閉している牢だけに、選任されている正規の将校たちは、それなりに身分も能力もしっかりしており、自軍への帰属意識も高い。
愚かにも脱獄幇助などという浅はかな行為に及んで、本国からこのような最果ての地まで渡り来て苦労して築き上げたものを、全て失うような馬鹿げたことをする確率は低かった。
また、トゥパク・アマルを、これほどに厳重に幽閉していることの意味も、よく認識しているはずである。
(だが、端役の番兵ともなると……――)
その場には、その夜の担当であるリノも、セパスも、しっかりと居た。
アレッチェの視線は、自然、セパスの方へと蠢(うごめ)いていく。
彼は眼を剥(む)いて、この強欲な番兵の全身を、さらうように眺め渡した。
セパスの容赦無い狡猾さや攻撃性は、非情に徹するべく牢番に相応しい特質でもあろうが、一方で、その見境無い貪欲さは――相手が、いかに謀反人であろうが、大金やら財宝やらで買収されれば、いかにも一溜(ひとた)まりも無さそうだった。
アレッチェの低く凄むような声が、セパスに向かって響く。
「セパス。
最近、トゥパク・アマルのことで、何か気になることはないか?」
さすがのセパスも、厳しい上司アレッチェの前では、借りてきた猫のように大人しくなっている。
彼は震え上がるようにして、ガクガクと首を振った。
「い…い、いえ、アレッチェ様…!
と…特に、何も…変わったことは…ございません!
な、なあ、リノ?!」
セパスは、決して、リノを庇(かば)おうなどとは意識の欠片(かけら)も無かったが、突如、アレッチェに問い詰められるような状況に陥り、反射的に、そのような言葉が口をついて出ていた。
一方、突然、話題を振られたリノは、ただでさえ、アレッチェの来訪に怯えきって硬直していた矢先であっただけに、思わず、手に持っていた書類を落として、床にばら撒いた。
「すっ…すいません!!」
リノは泣きそうな声で平伏するようにアレッチェの方に謝罪すると、大慌てで床を這いながら、書類を拾っている。
その弱々しい背中を見下ろし、アレッチェは、チッと舌打ちする。
(この臆病なリノは、論外か……)
だが、妙に不穏な胸騒ぎがする――。
アレッチェは、冷徹な眼でリノの背中を眺めやった後、再び、セパスを射抜くように一瞥した。
咄嗟、セパスは身も凍るような戦慄にブルブルと震え上がり、堪(こら)えきれずに、アレッチェに慌しく礼をすると、トイレの方向に一目散に走り去っていった。
アレッチェは、辟易した顔をさらに歪める。
それから、再度、凄むような眼光で、アレッチェは蛇のように周囲を見渡した。
「よいか。
どのような些細な行為であろうとも、脱獄に加担するような振る舞いをした者は、死罪を免れぬ。
よくよく、心しておけ」
彼は冷酷に言い放つと、氷のような靴音と共に、その長い足の踵(きびす)を返した。
床に這って下を向いたままガタガタと震えているリノを背に、牢番たちの詰め所を去りながら、険しい表情のアレッチェは心の中で算段する。
(そろそろ番兵たちの人員を、総入れ換えする頃合いだ……)
他方、あまりの恐怖と緊張からトイレに駆け込んだセパスの頭は、今、めまぐるしく動いていた。
(あのアレッチェは、何かを感づいているに違いねぇ…!!
このままじゃ、俺の身すらも危ないぜ……!
早々に、リノがトゥパク・アマルに買収されたことをアレッチェに話しちまった方が、絶対、安全だ!!)
己の結論に独りで納得しながら、セパスは、うんうんと幾度も頷いた。
が、ほどなく、憮然とした表情で宙を睨み据える。
(…――けど、待てよ?
それで、俺に、たいして得があんのか?
アレッチェに本当のところを言えば、トゥパク・アマルの脱獄は防げて、リノは死罪で……まあ、どの道、俺には、そんなこと、どうでもいいことだが。
大事なのは、俺にとっちゃ、どっちが得かってことだぜ。
スペイン渡りの役人ばかりに贔屓(ひいき)してやがるアレッチェのこったから、俺がリノのことをチクッたところで、ちょっとは今よりマシなシゴトに回される程度が、関の山じゃねえのか?)
彼は、不満げに唇を尖(とが)らせながら、苛々とせわしなく全身を揺すった。
それから、セパスは、欲にまみれた両の手を、己の胸元で、いやらしく揉み合わせる。
(スペイン生まれでなけりゃ、結局、あのアレッチェだって、俺ら、この国生まれの白人になんざ、何ら、いい思いなんてさせてくんねぇんだ!
それに、アレッチェに言えば、せっかくリノから奪った大金だって、当然、返させられるだろうしよぉ…!!
だったら、トゥパク・アマルなら、どうだ?!
リノは、実際に、目ん玉、飛び出るほどの大金を掴んでる!!
あの謀反人め、脱獄のためなら、どんな大金でも積もうって魂胆が見え見えだしっ!
なら、俺だって、あのリノのような大金を狙った方が、賢いんじゃ?!
ふ…ん…ともかく、一度、トゥパク・アマルに掛け合ってみる価値は、ありそうだな。
いざとなれば、リノに罪を全てなすりつける方法なんて、どうにでもなるし。
あの謀反人と話して旗色が良くなければ、それからでも遅くねぇよなぁ――アレッチェに、あいつらのことを知らせるのは……!!)
その日の深夜、セパスは、他の番兵が周囲にいないことを見計らって、早速、トゥパク・アマルの牢に近づいた。
暗闇の中、鉄格子に背を向けて寝台にもたれて眠る素振りをしながら、外界から取り寄せた針金に細工を施していたトゥパク・アマルは、鋭く背後の気配に神経を研ぎ澄ます。
鉄格子の向こうから、絡みつくような執拗な視線で、じっとこちらの様子を窺う番兵セパス。
これまでも、牢を訪れる度に、何かに託(かこつ)けては鬱憤晴らしのごとくに攻撃的な言動を浴びせつつも、トゥパク・アマルに、あっさりとかわされ続けてきた彼は、今夜こそは己の前に平伏させてやる!!――とばかりに、炯炯と獰猛な眼を光らせながら鉄格子の直近に迫り来る。
(セパス…やはり、来たか――)
流れるような長髪のかかる俯(うつむ)き加減の横顔で、トゥパク・アマルは、切れ長の目を薄く細めた。
その間にも、当のセパスは、いかにも物欲しげな、且つ、残忍な目つきで、彼の後ろ姿に粘着的な視線を這うように走らせている。
やがて、セパスはドスを利かせた凄み声で、いきなり鉄格子ごしに、がなり立てはじめた。
「おい、謀反人!!
こっちへ来い!!
どうせ、寝たふりなぞしながら、脱獄の準備やらをしているんだろうがっ!!」
トゥパク・アマルは、しなやかな指先で、針金をつっと滑らすように寝台の陰に押し入れた。
それから、ゆっくりと身を起こし、足枷の存在など忘れさせるほどに優美な身のこなしで立ち上がると、黙って鉄格子の方に歩み来る。
トゥパク・アマルの、どこにあっても自然に湧き出す高貴な気配と、改めて直近で見る、ガッシリと逞しく引き締まったその長身に、瞬間、セパスは気圧され、鉄格子から数歩、思わず身を引いた。
他方、トゥパク・アマルは、その美麗な面差しに能面のような無機質な表情を宿し、僅かに瞳だけを動かしてセパスを見下ろしている。
闇に溶ける漆黒の長髪に、磨耗した黒マント、今は陶器のように体温の感じられぬ人間離れした美貌――さすがのセパスも、あの世のものと出会ってしまったような感覚に憑かれ、すぐには脅しの言葉も何も出てこない。
暫し、重い沈黙が流れた後、セパスは、不覚にも怯んでしまった己を叱咤するように歯を喰い縛り、先にも増して獰猛な形相になって、再び、吼えるようにがなり出した。
「俺は、おまえの企(たくら)みを何もかも、知っているぞ!!
ふふん…あの単純バカなリノを誑(たぶら)かすとは、おまえも、なかなか目の付け所がいいじゃあねぇか…!
だが、おまえも、リノも、もう終わりだ。
俺は、番兵の誇りにかけて、いや、誇り高いスペイン人として、おまえの企みも、買収されたリノのことも、明日の朝、全てをアレッチェ様にご報告する!!」
そして、冷ややかな声音になって、さらに続ける。
「ついでだから、いいことを教えてやる。
あのアレッチェ様は、おまえが脱獄を計画していることなんか、もう、とっくにお見通しだぜ!!
俺がアレッチェ様に何か言う前に、あの弱虫なリノが堪えきれずに、さっさとヘバッて、おまえのことを全てアレッチェ様に喋(しゃべ)っちまうかもしれないがな」
そう言い放つと身を乗り出し、いっそう炯炯たる黄色がかった眼をさらに光らせ、「勝利」を確信した表情に、醜く歪んだ笑みを浮かべた。
が、トゥパク・アマルは顔色ひとつ変えず、無感情な声で、ただ短く応える。
「何が望みだ?
金か?
財宝か?」
「!! 」
単刀直入なトゥパク・アマルの切り替えしに、セパスは、カッと顔を紅潮させた。
「…――おっ…俺は、そんな卑しい考えなんかっ…!!」
はなから腹の内を見透かされている苛立たしさと屈辱感で、セパスは頭から湯気を立てるほどに顔をカッカと火照らせている。
そして、興奮しながら口角から唾を飛ばし、いっそう激しく怒鳴り散らす。
「お…お、おっ、おまえっ!!
俺を舐めてやがるのか?!!
あのリノとはワケが違うぞ!!
俺は、金や財宝なんか……っ」
一方、トゥパク・アマルは涼しげな目元を細めてセパスを見下ろし、あの感情の伴わぬ淡々たる口調で応える。
「そうか…。
ならば良いのだ。
もし、そなたが望むのなら、と思ったまでだ。
いずれにしろ、わたしは遠からず、おぞましい方法で処刑される身だ。
そなたがアレッチェ殿に告発したところで、その処刑方法に多少色がついて、日取りが少々早まる程度。
わたしには、今更、さして痛くも痒くもない。
リノには気の毒だが、これも、あの者の天運。
仕方あるまい。
それ故、アレッチェ殿に言おうが、将校たちに訴えようが、そなたの好きにするがよい」
「…――!!」
セパスの、今しがたまでの、したり顔も思わず硬直し、「えっ…?ちょ……!」と、目を瞬かせている。
その間にも、トゥパク・アマルは黒マントを身に引き寄せて翻し、さっさと闇に霞む牢の奥へと戻っていく。
セパスは、咄嗟、縋(すが)り付くように、鉄格子を両手で激しく握り締めた。
獰猛に鼻息を荒げ、黄ばんだ歯を剥き、鉄格子を揺すらんばかりのセパスの姿は、がたいの良さもあいまって、まるで檻に囚われた猛獣のようにさえ見える。
「おいっ!!
待て!!……俺だって、血も涙も無いってわけじゃねえ!
リ…リノは、俺にとっちゃ、大切なダチなんだ。
できることなら、俺だって、口を閉ざしていてやりたいが…――」
そう言って、チラリとトゥパク・アマルの背に上目遣いの視線を投げた。
トゥパク・アマルは戻りかけた足を、つっと止めた。
そして、ゆっくりと振り返る。
「では、そなたの知ってしまったことを、黙っていてくれると?」
「……」
セパスは、すっかり乾いた唇を舐めながら、飢え乾いた腹の底から、欲にまみれた声を出す。
「まさか、タダで…とは、言わねぇよな…?」
「もちろんだ」
トゥパク・アマルは頷くと、鉄格子を隔てたセパスの傍まで戻ってきた。
「リノに渡した金は、ほんの端金(はしたがね)に過ぎない。
これほどのことを黙っていてくれると言うそなたには、もっと十分な…いや、無尽蔵な財宝のありかを教えよう」
「む…無尽蔵な財宝?!」
ゴクリと音を立てて生唾を呑み込みながら、セパスは、トゥパク・アマルの傍ににじり寄った。
「いい加減なことを言っても、どうせバレることだぞ?
その時こそ、俺は容赦しねぇ…」
「わかっている」
トゥパク・アマルは、静かな面差しで頷く。
「そなたは、このクスコにあるサント・ドミンゴ教会を知っているであろう?
あの教会のあった場所には、もともとは…つまり、インカ帝国時代は、『太陽の神殿』が建てられていたのだ。
だが、そなたたちの祖先であるスペイン人たちが帝国を侵略した後、太陽神殿は、土台の石組みだけが残されて全て取り壊され、その上に、あのサント・ドミンゴ教会が建てられた。
太陽神殿は、インカ帝国時代には、政治的にも宗教的にも、帝国の中枢を担う場所だった。
白人たちは、我がインカの聖なる場所の上に、敢えて教会を建設することで、精神的にも、我らを征服したことの象徴としたわけだ。
が、それはさておき、太陽神殿は、それほどのインカの重要な神殿だった。
それ故、インカ帝国時代、あの神殿には、想像を絶する黄金の山があったのだ。
しかし、スペイン人たちが神殿を襲った時には、当時のインカ皇帝の命により、既に黄金の大部分はインカの人間たちによって持ち去られ、秘密の場所に隠されていた。
神殿から持ち出しきれなかった黄金は、根こそぎ、侵略者に奪い去られはしたがな…。
だが、もっと大量にあったはずの黄金を手に入れることのできなかった侵略者たちが、どれほど地団駄(じだんだ)踏んだかは想像にあまりある。
しかも、未だに、それらの黄金は見つかってはいない……」
狡猾な分、勘の鋭いセパスは、これからトゥパク・アマルが言い出すであろうことを早くも察して、期待に目を爛々と光らせながら、息を詰めている。
極寒の中にもかかわらず、聴き耳を立てるセパスの鼻先には、いつしか興奮の汗がじっとりと滲み出していた。
トゥパク・アマルは、低い声で囁くように続ける。
「かつて、あの太陽神殿には、黄金の祭壇が備えられ、そこに巨大な黄金の太陽像が祀(まつ)られていた。
そして、神殿の壁には黄金が貼られ、屋根には黄金の茅(かや)がふかれ、さらに、広大な庭園では黄金の泉から水が湧き出していた。
その上、その庭には、砂のかわりに黄金の粒が撒かれ、黄金のトウモロコシが随所に飾られる中に、黄金のリャマを連れた黄金の人間像が置かれていたのだ。
もちろん、いずれも混じりけなしの上質な黄金製。
そして、実物大だ」
「ま…さか…幾らなんでも、そんな……!!」
「信じられぬか?
ならば、己の目で見に行けばよい」
「ど、どこにあるか知っているのか?!」
鉄格子を両腕で掴み、格子の隙間から懸命に身を乗り出すセパスを見るトゥパク・アマルの俯(うつむ)き加減の目元が、微かに閃光を放つ。
「神殿の財宝の正確なありかを知っているのは、インカ(皇帝)一族のうちでも皇位継承者のみ…つまり、直系のインカ皇帝末裔たる、このわたし…だけだ」
「…――!!」
恍惚の眼のままに声も失って息を呑むセパスに、トゥパク・アマルは、いっそう低めた声で問う。
「何か書くものを持っているか?」
セパスは慌てて己のポケットを探って、メモ帳のような紙切れと古びたペンを取り出した。
トゥパク・アマルはそれを受け取ると、セパスの脇に置かれたランプの僅かな灯りを頼りに、紙面に何かを描きはじめる。
くもの巣のような網目状の線が数本――セパスは、不審気な面持ちになって、「何だ、それ?」と不満そうな声を漏らす。
「これは秘密の地下道の地図だ」
「!――秘密の地下道?!」
「そなたたちスペイン人は知る由もなかろうが、インカ帝国の都であったこのクスコの地下には、インカ帝国時代に使われていた無数の地下道が、縦横無尽に走っているのだ。
それらは、神殿や王宮など、主要な建物につながっている。
太陽神殿に祀られていた莫大な黄金も、神殿につながる地下道から当時の皇帝の家臣たちによって持ち出され、地下道の一角にある秘密の部屋に全て隠されているのだ。
そして……」
トゥパク・アマルは、己の認(したた)めた線の二箇所に丸く囲って、それぞれ印をつけ、セパスに渡した。
「地下道の入り口は、クスコの郊外に連なる長大な石壁、あのサクサイワマン(註:Sacsaywaman,「満腹の鳥」の意味)の砦にある。
インカ帝国時代の砦だ。
知っておろう?
さして、ここから遠くはない。
そこに図示した位置にある岩壁を押してみれば、一部、地下に抜けられる入り口が現れる。
そして、財宝を隠した秘密の部屋も、その地図に記した位置にある。
首尾よくその通りに地下道を進むことができれば、行き着けるであろう」
セパスはメモをふんだくるように奪い取ると、興奮に膨らんだ鼻先に近づけて、まじまじとそれを見た。
それから、ギラギラとした強欲な光を宿して、トゥパク・アマルを凄むように睨み据える。
「おいっ!!
もし、偽りを言っているのなら、今度こそ、どうなるか…!!」
「信用できぬか?
だが、真実か否かを確かめるためにも、行ってみるしかあるまい?」
トゥパク・アマルは常の沈着静寂な面差しで、僅かに苦笑して言う。
「いずれにしろ、財宝は、この国には、まだ無尽蔵なほどに眠っている。
恐らく、それらインカの秘宝のありかを誰よりも熟知しているのは…――現存するインカ族の中では、はからずもインカ(皇帝)一族の末裔として生を受けた、このわたしであろう。
そなたが、リノやわたしをアレッチェ殿に売り渡しさえしなければ、今後も、幾らでも、そなたの恩には報いよう」
「――!!!」
もはや隠し切れぬ歓喜の表情で舞い踊らんばかりのセパスの脇で、トゥパク・アマルは闇を纏いながら、地底から湧き出すような声で言う。
「だが、予(あらかじ)め言っておく……」
彼は、ゆっくりと視線を移動して、完全に興奮の坩堝(るつぼ)にあるセパスの瞳の奥を、じっと見つめた。
「その地下道に無闇に入って、無事に戻れた余所者(よそもの)はいない。
地下道は、恐ろしく入り組んだ迷宮も同然。
しかも、当然ながら、光など欠片も射さぬ真の暗黒の闇。
まして、今は誰も使ってはいない地下道ゆえ、下手に迷えば、救出の可能性は、まずあるまい。
その末路は、気が触れるか、死か……いや、恐らく、その両者であろう――。
本当に行くのなら、それ相応の覚悟をして行くことだ」
やがて、牢から去り行くセパスの足音が深夜の闇に吸い込まれるように消えると、トゥパク・アマルは、先ほど、寝台の下に隠した針金を取り出した。
微かに灯した蝋燭の炎を頼りに、金鋸と鏨(たがね)を器用に操り、硬い針金の先端を鋭利に研ぎ澄ませていく。
そんな彼の横顔も、今は、冷徹なほどに鋭くなっている。
(あのセパスのことだ。
明朝、勤務が明ければ、先ほど伝えた地下道へ降りていくに相違ない。
そうなれば、そのままでは、もう再び、外界へは……。
そう…あくまで、そのまま放置すれば…だが……)
そこまで思い巡らせてから、トゥパク・アマルは、何か意味ありげな面差しで宙を見据えた。
(いずれにしろ、セパスがこの牢獄での、次の勤務に現れることはないであろう。
明朝の勤務が明ければ、セパスの次の勤務は明後日の晩のはず。
あの者が、突然、勤務にも現れず姿を消したと判明すれば、あのアレッチェのことゆえ、即刻、わたしとの関連を嗅ぎ付けるに相違ない。
そうなってからでは、これまでの計画が水の泡。
さすれば、脱獄を決行するのは、明日の深夜しかあるまい。
セパスの申す通り、あのアレッチェならば、そろそろ、わたしの脱獄を危ぶんでいてもおかしくない頃だ。
ならば、どの道、事を急がねばならぬ)
トゥパク・アマルは、先端を研ぎ澄ませた針金を蝋燭の炎にかざして、その細工具合を吟味するように、じっと目を凝らした。
針金の切っ先が、炎を映して閃光を放つ。
トゥパク・アマルの漆黒の瞳の中にも朱色の炎が反射し、静かに、激しく、燃え上がった。
(明晩、脱獄を決行する。
わたしがこのような行為に及ぶなどとは夢にも思ってはおるまいが、ミカエラも、イポーリトも、そして、フェルナンドも、わたしと共に、この牢を出る。
そして、インカの民の元へ、生きて、必ず――!!)
◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ
第八話 青年インカ(7)
をご覧ください。◆◇◆
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