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コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~
第八話 青年インカ(19)
【 第八話 青年インカ(19) 】
重く長い沈黙の後、ベルムデスが苦しげに口を開く。
「お辛い事実ではありますが、アンドレス様のお察しの通りなのでございます。
お父上は、表向きは事故死とされておりますが…、真実は、スペイン側の策謀による暗殺であったろうとの見方が濃厚でございます」
額を押さえ込んで俯(うつむ)いたアンドレスの顔面と肩が、わななき震えている。
だが、彼は、苦しい息のままに声を絞り出した。
「それで……どうなったのですか…。
どうか…どうか、お話しください。
ベルムデス殿…!」
アンドレスの様子に、ベルムデスは苦悶の面持ちで顔を強張らせたまま、しかし、真っ直ぐに座り直した。
そして、ここは話し切らねばならぬ、と、まるで誓約を立てているがごとくに語りはじめる。
「アンドレス様のお父上が亡くなられてから、お父上と共に行動していらしたイエズス会の神父たちも、さすがに怯みはじめました。
ご親友のアリスメンディ殿は、最後まで当地に残っておられましたが、ですが、やはり、身の真なる危険を感じたのでありましょう。
最終的には、英国へと亡命されたのでございます。
そして、アリスメンディ殿は、恐らく、スペインに対するその激しい復讐心が、逆に、英国では効を奏したのでありましょう。
スペインに敵対する英国王室の覚えもめでたく、今や、英国では屈指の力を持つイエズス会の高僧となられたのでございます」
「なっ…?!
では…アリスメンディ殿はスペイン人なのに、今は、英国に住んでいるのですか?!
しかも、英国王室と近しい間柄って……!!
そ、そんな相手に…トゥパク・アマル様が書状を送ったって…そ…それって…――!!」
今、アンドレスの涙に霞んだ瞳が、カッと大きく見開かれていく。
「そう…か…!!
トゥパク・アマル様の書状は、つまりは、スペインに敵意を持つ英国を利用して、スペイン側に外圧をかける――そういう意図なのか…――!!」
ベルムデスは、深々と頷いた。
「その通りでございます、アンドレス様。
トゥパク・アマル様は書状の中で、当地にて大々的な内乱の起きている事実を伝え、独立闘争を行なう我がインカ軍の援護をアリスメンディ殿に依頼したのでございます。
もちろん、表向きは、かつてペルー副王領にいた時にアリスメンディ殿がインカの民の独立を支援していたことに鑑み、書面も、英国王室に対してではなく、アリスメンディ殿いち個人に対する相談という形をとっておられます。
ですが、当然ながら、アリスメンディ殿には、そのバックに英国王室があることを見込んでのこと。
アリスメンディ殿が動くときは、英国軍が動くとき、と見定めてのことでございます」
「な…なんという……!
なんという手に打って出られたのだ…トゥパク・アマル様は…―――!!」
「アンドレス様、どうか落ち着かれてくださいませ。
まだ重要なお話は続きます。
どうか、どうか冷静にお聞きください」
愕然と擦れ声を漏らすアンドレスの前で、鋭利な眼差しのベルムデスが、老齢にもかかわらず筋骨逞しい、その褐色の腕を、決然と組みなおした。
だが、アンドレスの混乱した擦れ声が、再び天幕の空気を振るわせる。
「いや…本当に、ちょっと待ってください!!」
彼は懸命に気持ちを落ち着けようと、暫しの間、ぎゅっと額を押さえた後、険しい眼でベルムデスに体ごと向き直った。
「英国軍なんか呼び寄せたら、もしスペイン軍を撃退できたとしたって、今度は、俺たちは英国の支配下に置かれるだけじゃないんですか?!」
ベルムデスは、誠実な瞳で深く礼を払う。
「アンドレス様のご懸念は、ごもっともでございます。
我がインカ軍への援護の依頼とはいえ、英国が何も見返りを求めずに援護などあり得ぬことは、トゥパク・アマル様とて百も承知。
書状の真の目的は、英国による我が軍の援護などではなく、反乱のためにスペイン側が手を焼いているという英国側の喜びそうな情報を流し、アリスメンディ殿を通して英国軍を動かして、スペイン軍と激突させ、両者を消耗させたいというのが真意でございます。
ですが……トゥパク・アマル様とて、さぞや苦渋の選択であられたことと思います。
スペインへの復讐心に燃えるアリスメンディ殿は、スペイン人でありながらも、今は英国王室と近しい間柄の高僧。
トゥパク・アマル様の書状を読み、この地で大規模な内乱の起こっていることを英国が知れば、今がスペインをこの地から叩き出す絶好の機会とばかりに、あの恐るべき英国艦隊が、大挙して当地に押し寄せてくる可能性が本当にあるわけです。
トゥパク・アマル様は、それを狙った一方で、今のアンドレス様と同様、大いなる危惧も抱いていたはず…――。
英国軍に当地のスペイン軍を叩かせ、外圧をかけさせるに留まればよいが、下手をすれば、我々の支配者が、今のスペインから英国に取って代わるだけ、という顛末にもなりかねないのですから」
「…――……!」
アンドレスは涙の滲む目を剥いたまま、わななく唇をきつく噛み締めた。
非常に深刻な面持ちで、ベルムデスは続ける。
「あのトゥパク・アマル様のことです。
大いなるリスクも、十分すぎるほど悟っておられたことでしょう。
ですから、本当に、ギリギリまで、この手ばかりは使わずにおられたのです。
ですが、トゥンガスカでの本陣戦の時、初日を終えてみて、まだ外面的な形勢は、インカ軍もスペイン軍も互角に見えましたが…――しかし、あの予見的な洞察の鋭いトゥパク・アマル様のことです……恐らく、初日の決戦を経て、あのままではインカ側に勝機の薄いことを早々に悟られたのでありましょう。
密かに、あの晩、ディエゴ様とわたしをお呼び出しになられ、書状を英国のアリスメンディ殿にお送りになられることを打ち明けられたのでございます。
もちろん、この国が、スペインの代わりに、今度は英国の属国になるなど、トゥパク・アマル様の真意でありようはずがありません。
トゥパク・アマル様のお考えは、この情勢に至っては、もはや英国の外圧を利用してでも、反乱を成功に導きたいというものであったということ……。
つまり、この国のスペイン側が外敵への対処にその意識を向けている隙に、植民地支配を内側から覆し、独立を達成し、当然ながら、英国の侵入も許さないという、壮大なるご構想とご覚悟の上でのご判断であったのです」
怒涛のようなベルムデスの説明に、もはやアンドレスは言葉も出ぬまま、完全に充血した目で、ただただ聴き入るしかない。
そんなアンドレスの正面で、ベルムデスは、なおも続ける。
「スペイン側と我々インカ軍との間の軍事力の差、特に、火砲の威力の差は、この反乱期を実際に経験してこそ、いかに策を練ろうとも、それがいかに超えがたい鉄壁であるかを徹底的に知らしめさせられて参りました。
もちろん、此度のアンドレス様の水攻めは、そのようなスペイン軍さえもを押さえ込んだという点で、我がインカ軍にとって、革新的な大いなる前進であったことは間違いございません。
ですが、大概においては、我々インカ側が、あれほどの敵の火砲を凌駕して勝利するのは、まだ非常に難しい。
ことに、あの総指揮官アレッチェ殿の指揮するスペイン軍主力部隊は、わたしも本陣戦では目を疑いましたが、無数の種類の大砲から銃まで、武器の博物館さながらの驚くべき装備ぶりでございます。
その上、スペイン本国では、さらに新たな武器の開発も進んでいるはず。
此度のアンドレス様の水攻めの際にも、ロレンソ殿が、敵の新型の高射砲を目の当たりにしたと申されておりました。
それほどの火器を大量に持つ相手に、いかに策を弄して戦闘を繰り返しても、そればかりでは、もはや埒が明きますまい」
話し込んでいるうちに、すっかり夜は更け、天幕の外では、ますます勢いを増しながら雪が舞い飛ぶ唸り音がする。
隙間から吹き込む冷気に、天幕内部も、かなり気温が下がっているはずなのに、アンドレスも、ベルムデスも、その頬を熱く紅潮させていた。
ベルムデスは、乾いた喉にチチャ酒を流し込むと、その老賢な慧眼を、石のように身動きできなくなっている眼前の若者に戻す。
「アンドレス様が驚かれるのも無理はありません。
わたしも、この話をトゥパク・アマル様から聞かされたときは、暫く頭が真っ白になりました。
ですが、今、こうして冷静に考えてみますれば、あのスペイン軍を押さえ込むには、我らインカ側にとって、時機を得た外圧を利用するという手段は――もちろん、陛下におかれましても、苦渋の選択ではありましたでしょうが……ここに至っては、むしろ、賢明な見極めであったと、わたしは思っております。
スペイン側とて、腹背の敵、つまりは、海の向こうからの英国軍と、内地で暴れる我々インカ軍と、両方共を、同時に相手にするのは難儀なはずでありますから」
「腹背の敵……!」
「はい。
それに、スペイン軍は……いくら、かつてのような海軍力の威光は薄れつつあるとはいえ、英国軍にとって、今でも強敵であることには変りはありません。
しからば、両者の戦いによって、スペイン軍も英国軍も互いに消耗し合うことは必定。
その間に、我らインカ軍が、この国の内側から植民地支配を瓦解せしめる、という策は、リスクも相当に大きいですが、決して非現実的なものではありますまい。
ただ、トゥパク・アマル様が英国側の僧侶との連絡を図ったという事実は、下手をすれば…、アンドレス様も危惧された通り、スペインの代わりに英国の支配を許すのか、という誤解を招きかねません。
ですから、あくまで内々に、ディエゴ様とわたしとにだけ、お打ち明けになられたのでございましょう。
もちろん、アンドレス様があの戦場にいらしたら、アンドレス様にも打ち明けられていたに相違ありません。
ですが、実際には、あなた様は、既にこのラ・プラタ副王領に遠征されていて、あそこにはおられなかった。
そのため、こうして事後報告となってしまったわけなのですが……」
ついにアンドレスは、決然と頷いた。
そして、腕で、ぐいっと、噴き出した涙を力強く拭き取る。
「ありがとうございます、ベルムデス殿……!」
父の暗殺の事実を聞かされ、まだ激しい衝撃を引き摺(ず)ったままのアンドレスに、トゥパク・アマルの秘策の内容は、さらなる衝撃の連打であった。
頭の中は非常に混乱していたが、しかし、自分に咀嚼させようと懸命に噛み砕いて説明し続けたベルムデスの言葉は、それこそ、決して把握し損ねるわけにはいかぬ種類のものだった。
そして、ここまで思い切った決断をせざるを得なかったトゥパク・アマルの覚悟も苦悩も、恐らく、彼と魂の本質をとても近しくするアンドレスに、分からぬわけはなかった。
(トゥパク・アマル様…―――)
ぎこちなく揺れ動きながらも、徐々に鋭利になりゆくアンドレスの視線は、暫しの間、風に煽られる燭台の炎を見据えていたが、やがて、ゆっくりとベルムデスへと移っていった。
「それで…叔父上は?
その書状の件は、叔父上も、納得されてのことだったのですか?」
「はい。
ディエゴ様も、最初はかなり戸惑われておりましたが、最終的には、納得されました。
あの時は、まだトゥパク・アマル様も捕われてはおらず、トゥンガスカの本陣での決戦の勝負もついてはおりませんでしたから、わたしも、トゥパク・アマル様のご判断には、少なからず驚かされました。
ですが、今、この情勢となりましては、トゥパク・アマル様の、あの思い切ったご判断は、誤ってはいなかったと感じております。
ただ……あの書状が、果たして、無事にアリスメンディ殿の元に届いたのか…――仮に届いていたとしても、アリスメンディ殿が実際に行動に移されるか否かは、全く、予測ができません。
それに、もし、本当に英国が攻め込んで来たときに、果たして、スペイン軍がどうなるのか、そして、何よりも、我々インカ側が、上手く事を運べるのか……全く、予断は許さぬ状態に代わりはありません」
そう言って、ベルムデスは、アンドレスの顔を真っ直ぐに、ひたと見据えた。
アンドレスも、また、非常に険しく真剣な眼差しでベルムデスを見つめた。
―――まだ見ぬ新たな大いなる波の到来に備えるのだ―――
先刻の使者が携えてきたトゥパク・アマルの言葉の意味が、今、アンドレスは、完全に理解することができていた。
(まだ見ぬ新たな大いなる波…――それは、海の彼方から押し寄せる英国艦隊のこと…!!
いや、正確には、その英国艦隊とスペイン軍との激突の機を捉えて、我がインカ軍が再び巻き起こす戦闘という大旋風、それら一連の事態のことなのだ――!!)
アンドレスは、ベルムデスの視線を真正面から受け留めながらも、己の胸の鼓動が速まるのを止めることができなかった。
ベルムデスも改めて畏まり、その年輪の刻まれた面持ちに深遠な光と険しさを宿して、しかと頷き返した。
やがて、ベルムデスとの話しを終え、どこか意識の飛んだような状態で、アンドレスは天幕の外へと出た。
外では、既に、夜明けを告げる山鳥の声が、遠く、甲高く、響いている。
今しがた、ベルムデスと過ごしたのは、ほんの数時間のはずなのに、めまぐるしく、長大な時が流れ去ったかのような感覚が、強い残光のように残っていた。
天幕の出口で立ち止まったまま、深呼吸なのか、溜息なのか、長く深い息がアンドレスの口元から漏れる。
辺りは、漆黒の闇の頃を過ぎ、透明な藍色がかった清涼な空気に満たされている。
ふと見上げる早朝の空には、明けの明星が白く清らかな光を放っていた。
気付けば、あれほど激しく吹き荒れていた雪も、今は、すっかりやんでいる。
(いつの間に、雪がやんでいたんだろう……)
美しい白銀の世界へと変わった大地の上で、降り積もった雪を踏みしめながら、アンドレスは朦朧としながらも、一歩、一歩、歩みはじめた。
時々、道で出会っては、「アンドレス様、お早いですね!」と、朗らかに礼を払って、早番の衛兵たちが過ぎていく。
そんな早朝から活動をはじめている兵たちの目を、今は、そっと逃れたい気持ちで、彼の足は自然に野営場のはずれに向いていた。
この先々の反乱の展開を思うと、まだ頭は激しい混乱の渦を巻くばかりだった。
(まさか…英国まで巻き込む方向に動いていただなんて…――!!)
深い息をつきながら見つめる空は、藍色から次第に透明な蒼色へと移り、徐々に白みが差してくる。
移りゆく空の景色の中で、明けの明星が、変らぬ清い光を放ち続けている。
その星を仰ぎ見るアンドレスの瞳から、一筋の涙が頬を伝って流れた。
(しかも…父上は暗殺……――)
これまでも、侵略者たちの非道な暴虐ぶりには、怒り心頭に発すること数知れず、彼の心は幾度となく憤怒の炎に燃え上がってきた。
だが、これほどに己の身近でも、その暴挙が行われていたとは―――!!
アンドレスは涙を流しながらも、強くその拳を握り締める。
今、彼は、はじめて、真にインカの民の舐めてきた苦汁を、己自身の血肉として、鮮明に理解することができる気がしていた。
アンドレスは、もう一度、天空を振り仰ぐ。
白みゆく空に溶けゆく、純白に輝く明けの明星……――見つめる彼の脳裏には、愛しいひとの姿が甦る。
(強制労働という名で両親の命を奪われた君の気持ちが、今、やっと本当に分かる気がする…コイユール……!!)
やがて彼の足は、知らず知らずのうちに、負傷兵たちの治療場界隈へと向いていた。
相変わらず、治療場では夜を徹して看護の女性たちが熱心に立ち働いていて、案の定、それらの女性たちに混ざって、コイユールの姿もあった。
アンドレスの先日の水攻め作戦では、街中での銃撃戦を伴う結果となり、それ故、負傷兵の数は再び増加していた。
それでも、献身的な従軍医たちの治療や、看護の女性たちの熱心な介抱により、それらの兵たちも、次第に快方に向かっているようだった。
そうした負傷兵たちに向けられるコイユールの柔和で繊細な眼差しも、静かに染み入るように嬉しそうに見える。
アンドレスは治療場外の木陰で足を止めると、熱く込み上げる胸を片手で押さえた。
(コイユール…――……!)
本当は、すぐにでも、コイユールの傍に駆け寄って、抱き締め、今の自分の気持ちの何もかもを話したい、聞いてほしい、そして、彼女自身の中に深く刻まれた心の傷つきの何もかもをも包みたい――そんな、強い衝動に駆り立てられる。
しかし、周囲は、朝の行動を開始した兵たちで次第に賑わいはじめており、アンドレスは、思いをぐっと堪(こら)えて足を止めた。
無意識に、彼の指先は、その胸元から光る小瓶を取り出していた。
小指サイズほどの、そのガラス瓶は、透明なオイルで満たされ、その中に、色彩美しい種子類や鉱石の欠片などが9種類ほど、ぎっしりと詰められている。
清々しい朝日を浴びてキラキラと眩い煌きを放つ小瓶――それは、コイユールが、彼のために作ってくれたグランデーロのお守りだった。
アンドレスは、暫し、手の平の中の優しい輝きを見つめた後、そっと、その小瓶に口づける。
そして、今一度、コイユールの姿を振り返ると、静かに踵を返した。
◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ
第八話 青年インカ(20)
をご覧ください。◆◇◆
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