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コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~
第九話 碧海の彼方(7)
【 第九話 碧海の彼方(7) 】
ところで、この頃、インカ帝国旧都クスコの様相はどうなっていたであろうか。
クスコの地は、トゥパク・アマルが陣を張るサンガララの地から、そう遠くはない場所である。
かくして、インカ軍、スペイン軍、英国軍、それぞれの思惑が蠢く中、スペイン側の重要人物アレッチェと並ぶ、否、見方によっては、いっそう重要な人物であろうモスコーソ司祭もまた、その胃袋を激しく煮え滾(たぎ)らせていた。
モスコーソ司祭――クスコに本拠地を置き、この国のカトリック教会の頂点に立つ最高位の司祭である。
彼は、単に宗教的な意味合いで高位に君臨する存在というだけでなく、この植民地統治における絶大な発言力を有する政治的権力者でもあった。
そして、その彼は、今、サント・ドミンゴ教会の一角に設けられた豪華な司祭執務室で、苛立たしげに部屋の隅から隅まで、幾度となく行きつ戻りつを繰り返している。
ちなみに、このサント・ドミンゴ教会は、かつてインカ帝国時代に政治と宗教の中枢であった「太陽神殿(コリカンチャ)」のあった場所に建造されていた。
インカ帝国時代、この神殿には神々に捧げる黄金が満ち、燦然と光り輝いていたと言われる。
かつて、神殿内部には黄金の祭壇が供えられ、そこに黄金の太陽像が祀られていた。
そして、神殿の壁には黄金が貼られ、さらには、屋根にも黄金の茅が葺かれていた。
しかし、スペインの侵略によって太陽神殿は取り壊され、その上にこのサント・ドミンゴ教会が建てられたのだった。
インカの人々が神聖な黄金で埋め尽くしていた太陽神殿――それほどに重要な聖なる場所であったが故に、侵略者たちは、敢えてその上に自分たちの教会を建設することで、精神的にもインカ帝国を征服したことの象徴としたのである。
ただし、神殿の石積土台部はあまりに堅固で、スペイン人には取り壊すことができず、結局、その土台の上にコロニアル風の教会が建造されたのだが。
ともかくも、今、その教会の一室で、モスコーソ司祭は、この反乱がはじまってから蓄積し続けてきた心労もあるのか、いっそう肥満の増した恰幅の良すぎる全身を揺らしながら、落ち着き無く、ぐるぐると部屋中を徘徊し続けている。
宝石を散りばめた巨大な十字架が胸元で揺れながら、燭台の炎を反射して、ぬめるように光っている。
やがて、半ば放心して足を止めると、今度は足元の床を乱暴にギリリと踏み締めた。
まるで、スペイン教会の下敷きにされながらも、不動の堅固さで現存している太陽神殿土台部を踏みにじるがごとくに。
「おのれ――トゥパク・アマルめ……。
あの悪魔は、ついに乱心しおったのじゃ!!
英国艦隊の襲来は、あの悪魔の仕業に相違あるまいに……!」
肥満に膨れ上がった額に青筋を立てながら、血走った目をむき、ギリギリと切歯扼腕する姿は常軌を逸している。
かくも凄まじい形相で、執拗に床を踏みつけながら、司祭は独りで呻き声を放ち続ける。
「トゥパク・アマル、あの者は、我がスペイン軍を叩き潰すためなら、いかような手段にでも出ようとの魂胆なのじゃ。
おお…なんと、なんと恐ろしい……!!」
司祭は、いよいよ己の胸を苦しげに掻き毟りながら、よろけるように傍の柱に縋りついた。
「しかも…しかも、あのアリスメンディが、英国艦隊に乗り込んでおるなどと!!
国外追放までされたはずのあの者が…再び、この地に…!
なんたる…なんたることぞ……。
英国軍と共に我らをこの国から叩き出し、余に…余に取って変わって、この国のキリスト教会の最高位につこうと狙っておるのじゃ――!!」
殆ど妄想とも思えるほどの念に悶えながらも、モスコーソ司祭は、今にも卒倒しそうな巨体を、それでも懸命に柱に縋りついたまま支えている。
そして、胸の巨大な十字架を激しく鷲づかみにすると、荒い息の下で、恐るべき憎悪と執念に燃え上がる眼をいよいよ炯々と光らせた。
「おのれ…――トゥパク・アマル…アリスメンディ!!
これほどのことをしでかしおって、その結果がどうなるのか、必ずや、己らの身をもって思い知る時が来るであろう……!!」
かくして、数日後――。
クスコ中心部にあるアルマス広場は、モスコーソ司祭の参集令によって、ほぼ強制的に集められた住民たちでごった返していた。
広大な広場はコロニアル風の街並みで完全に取り囲まれ、まるで中世ヨーロッパの世界に舞い込んでしまったかと錯覚させられるほどである。
しかし、このアルマス広場もまた、サント・ドミンゴ教会と同様、本来はインカ帝国時代の重要な宗教センターであった聖域が取り壊され、現在の状態に造り替えられたものであった。
インカ帝国時代、この広場には、300kmも離れた海岸から運ばれてきた砂が敷き詰められ、神聖な金銀の像がいくつも置かれていたのである。
今、そのアルマス広場には、すっかりこの地の主のごとくの顔をしたスペイン人たちはもとより、インカの末裔たるインカ族の人々、そして、混血児の者たち、黒人の者たちなどの混成の大群集がひしめいていた。
このクスコの地の人々の間にも、英国艦隊到来の噂は――否、この時期ともなれば、もはや、それは噂の次元を超えて、恐るべき事実として――広がっていたため、人々の表情には、強い不安が見て取れた。
(註☆写真は、現代のクスコ市内のアルマス広場です。今も、当時のままの面影を残しています。)
標高の高いクスコの地は昼夜の気温差が激しく、まだ早春のこの時期、朝晩の冷え込みは尋常ならざるものであるが、昼時の今は晴天のためもあり、大多数の群集の熱気とあいまって、人々の額は僅かに汗ばむほどであった。
やがて、多数のスペイン人兵士たちが仰々しく隊列を成す中、教会の方から、軍服に身を包んだモスコーソ司祭が、いかにも逞しい黒馬に跨って姿を現した。
広場の大群衆は大きく息を呑み、普段の僧衣を脱ぎ捨て、武人に扮した司祭の姿に釘付けられている。
他方、モスコーソは、見るからに激昂も極みに達した鬼のごとく険しい形相で、額には青筋を立て、薄くなった頭髪をメラメラと逆立たせ、全身からは憎悪のオーラを燃え上がらせていた。
広場に参集したスペイン人の住民たちでさえ、その司祭の様子には身を縮めたが、ましてや、インカ族の群集たちは、激しく恐れをなして震え上がった。
穏やかな晴天の下にもかかわらず、冷え冷えとした緊迫した空気の流れる広場の中を、銃器を手にしたスペイン兵たちに堅固に護衛されながら、騎乗の司祭が進んでくる。
やがて、広場中央に組まれた壇の傍まで進み来ると、司祭は騎馬のまま壇上に飛び乗った。
そして、普段は聖書を掲げ持っているその手に、今は黒光りする重厚な銃を握り締め、群集を焼き殺すのではないかと見まごうほどの険しく炯々たる眼で、周囲を見渡した。
その姿は、かつて、トゥパク・アマルが率いるインカ軍とのクスコでの決戦を目前にして、大演説をぶっていたモスコーソ司祭のそれと重なるが、民衆の目には、今の司祭は、あの時にも増して暗澹たる鬼気迫るオーラを放って見える。
畏れをなす人々の前で、司祭は、太く、しわがれた声で、呪いの言葉を吐き出すがごとくに叫びはじめた。
「スペイン王陛下の忠実なる臣民たちよ!!
そなたたちも既に知っての通り、あの悪魔のごとく英国艦隊が、この我らが聖なる地へと迫り来ておる!!」
大群衆の間から、悲鳴にも似た叫びが上がった。
そのような民衆たちを、殊にインカ族の者たちを、氷のような眼で睥睨しながら、司祭は腹の底からヘドロを吐き出すように言い放つ。
「その恐るべき英国艦隊を呼び寄せたのは、他でもない――おまえたちが、『皇帝』と崇めるトゥパク・アマルじゃ!!」
民衆たちの間から、ドッと、地を揺るがすようなどよめきが上がった。
そのような群集の大半を占めるインカ族の者たちを、司祭こそが悪魔のごとく血走った眼になって、口角から唾を吹き飛ばしながら、叫び続ける。
「あの悪魔の化身のごとく謀反人トゥパク・アマルが、反乱でこの国を滅茶苦茶にしただけでは飽き足らず、今度は、英国艦隊まで呼び寄せたのじゃ!!」
広場の随所から沸きあがる褐色の人々の悲愴な叫び声。
その痛ましい叫び声を貫いて、モスコーソの冷酷なしわがれ声が、鉄槌を打ち下ろすがごとくに地に響き渡っていく。
「インカ族の者たちよ、よく聞け――!!
おまえたちの主(あるじ)は、己の保身と引き換えに、この国ごと、おまえたちを英国王室に売り渡したのじゃ!!」
司祭の叫びが続いている最中にも、既に、広場中のインカ族の者たちは大混乱と半狂乱に陥っていた。
そもそも、まだトゥパク・アマルの脱獄の事実さえ知らぬ彼らである。
ましてや、絶対的な信頼を寄せているトゥパク・アマルが、そのようなことをしたなどと言われても、彼らの頭も、心も、到底、それを即座に受け容れられるような状態にはなかった。
だが、モスコーソ司祭の狂気さえ帯びた鬼気迫る様相から、尋常ならざることが起こっているということだけは、強烈に伝わっていた。
一方、大混乱の渦中に呑まれパニック状態に陥った民衆たちを呪いがかった形相で睥睨しながら、モスコーソは、その口の端を不気味に吊り上げた。
しかし、その時である。
上方から、聞き覚えのある、低く、力強い、男性の声が、宙を切って決然と響き渡った。
「皆の者よ、落ち着くのだ!!
わたしが、そなたたちを売り渡すようなことなど、あるはずがあろうか!!」
その声音、その口調、そして、その言葉に、あれほどのパニックに陥っていたはずの大群衆が、驚異的とも思える鋭敏さで反応し、ハッと一斉にそちらを振り仰いだ。
「トゥパク・アマル様――!!」
まさしく、彼らの視線の先には、アルマス広場を見下ろす小高い丘の上で、凛然と白馬に跨るトゥパク・アマルの姿があった。
漆黒の長髪を風に吹きなびかせ、逞しい肩に巻きつけた黒マントを大きく翻し、トゥパク・アマルは鋭い手つきで手綱を繰りながら、丘の上を広場の方へと進み来る。
黄金色の覇光を纏ったその姿は、コンドルの舞う蒼穹に、眩いほどに映えている。
人々は、激しい驚愕と恍惚の表情で、そちらに吸い込まれるように釘付けられた。
今の今まで、トゥパク・アマルは獄中に囚われ、処刑の日を待つばかりと思っていたインカの民にとって、それは、まさしく夢を見ているような光景だった。
「ト…トゥパク・アマル様……!!
本物のトゥパク・アマル様が、あそこにおられる!!」
「陛下――!!」
トゥパク・アマルは、あの懐かしい包み込むがごとくの眼差しで、夢中でこちらを振り仰ぐ大群衆を遥々と見渡し、深く頷いた。
「皆の者よ、心配をかけた!!
だが、わたしは、こうして自由の身となり、かつてと変わらず、そなたたちの傍にいる!!
そして、この国が真の自由を勝ち取るまで、どこまでも、そなたたちと共に戦って参る!!
インカ族の者たちはもちろん、混血児の者も、黒人も、そして、この地に生まれた白人も、インカの地に生きる全ての民に、必ずや解放を――!!」
「おお…トゥパク・アマル様……!!」
広場中のインカ族の民衆たちは、突き上げる歓喜と感動に打ち震えている。
トゥパク・アマルの姿に触発されたように、広場全体から、歓声と共に強い「気」が立ち昇った。
そしてまた、インカ族の者ならずとも、白人に酷使されてきた黒人はもちろん、スペイン渡来の白人たちに虐げられてきた混血児や植民地生まれの白人たちも、大いに瞳を輝かせていた。
そのような広場の人々に紛れながら、ひときわ精気溢れる力強い表情で、鋭く丘上を見上げているスペイン人の若者がいた。
「やはり、トゥパク・アマル、姿を現したな。
おおかた、このクスコの動きを監視し、華々しく表に出てくる格好のタイミングをうかがっていたに相違あるまい。
こうなると、いよいよ英国艦隊到来も目前か」
興奮の滲む低い声で唸るように言う彼に、周囲にいた白人の男たちも、恍惚と頷いた。
「まさしく、シモン殿、あなたの言っていた通りだった…!
本物のトゥパク・アマルだ…!
白昼堂々、ぴんぴんしたまま現れてきやがった!!」
すっかり興奮しきった仲間たちの様子に、同じ集団の中にいた別の白人が、咄嗟に人差し指を口元に立てた。
「シッ!
こんなところで、呼び捨てになど、するものではない…!
インカ族の者たちに聞こえたら、半殺しにあいかねん!」
シモンは、その不安気な仲間の肩をぐっと握り締めると、その耳元に低声(こごえ)で囁く。
「心配するな。
インカ族の者たちは有頂天で、周りのことなど見えてはいない」
そして、その力強い精悍な横顔を、再び真っ直ぐに丘上へと向けた。
シモンの視線の先では、あのトゥパク・アマルが炎の燃え立つような眼で、まるで、無数にいる民衆一人一人の目と目を合わせていくかのように、くまなく眼下を見渡している。
次の瞬間、シモン自身も、己の目が、光の矢に射抜かれたかのごとく激しい感覚にとらわれた。
「――!」
思わず瞳を瞬いて、それから、素早く丘上を見据える。
視線の先では、神々しいほどの覇光を纏ったトゥパク・アマルの美しい目が、貫くように、超然と、己の方を見下ろしている。
錯覚だと思いながらも、シモンは己の全身に、瞬時に鳥肌が走るのを感ぜずにはいられなかった。
(トゥパク・アマル……!!)
しかし、シモンは、奪われかけた魂をすかさず己の中心に引き戻すようにして、我を取り戻した。
そして、インカの民たちの歓喜と興奮の渦中に呑まれかけている周囲の白人たちに視線を馳せると、鋭く合図を送る。
(ここに、これ以上の長居は無用!
今日のところは、ドンパチが始まる前に、退散だ!!)
(註☆16世紀にインカ帝国を征服したスペイン人たちは、太陽神殿(コリカンチャ)の堅固な土台部分を崩すことができず、やむなくその上に教会を建てました。
それが写真のサント・ドミンゴ教会で、インカとスペインの複合建築になっています。現代も行われている太陽の祭り(インティライミ)の一風景です。)
他方、モスコーソ司祭は、突然のトゥパク・アマルの登場に、さすがにギョッと目をむいて凝固していたが、ハタと我に返ると、いよいよ悪鬼のごとく憎悪に燃え上がる眼で、丘上を睨みつけた。
「トゥパク・アマル!!
自ら英国艦隊を呼び寄せておきながら、よくも、しゃあしゃあとそのような戯言(ざれごと)を!!」
しかし、トゥパク・アマルは、丘上から愛馬ごと真っ直ぐ司祭の方へと向き直ると、研ぎ澄まされた切れ長の目を、鋭く細めた。
そして、よく響く沈着な声で、決然と応える。
「モスコーソ司祭様、わたしが、そのようなことをしたという証拠がおありでしょうか?」
「お…おまえ……!!」
憤激のあまり身悶え、今にも泡を吹いて卒倒せんばかりの様相を呈している司祭を、周囲のスペイン兵が慌てて支えた。
今や、広場中のインカの民たちは、そのような司祭の姿にさえ、ひどく冷ややかな眼差しになっている。
それでも、モスコーソ司祭は、辛うじてスペイン兵たちに抱きかかえられながら、相変わらずの半狂乱で叫び続ける。
「何をしておる!!
捕えよ!!
あの謀反人を――…あの脱獄囚を、即刻、捕えるのじゃ!!!」
一方、丘上のトゥパク・アマルは沈着な表情を変えずに、広場の司祭を見下ろしたまま、俊敏に右腕を振り上げた。
次の瞬間、彼の背後から数十騎の武装したインカ兵が、ザッと、厳(いかめ)しい姿を現した。
ギョッとしたのはモスコーソ司祭だけでなく、アルマス広場及び、その周辺に参集していたスペイン兵も同様だった。
クスコの周辺は、現在もスペイン軍によって堅固に厳戒態勢を敷かれているため、トゥパク・アマルはもとより、インカ兵が集団であのような場所に現れようなどとは、スペイン側の誰もが想像もしていないことだった。
いよいよ憤怒と驚愕で泡を吹きそうな司祭の方を、トゥパク・アマルは涼やかな眼差しで見下ろしたまま、毅然と言い放つ。
「我々は、今、司祭様のお命を危険に晒すつもりはございません。
ですが、クスコの民に危害を加えることあらば、今度こそ、わたしは容赦はいたしません!!」
「ぬ…ぬぬ…何を…!!」
司祭や広場のスペイン兵が、ムラムラと激昂の炎で色めきたった瞬間、彼らを睥睨するトゥパク・アマルが、再び、鋭く右腕で宙を切った。
その動きに魔術をかけられたように、反射的に腕の振られた方向を振り仰いだ司祭たちは、次の瞬間、ググッと息を呑む。
トゥパク・アマルが指し示した先――そこでは、クスコの前面に聳え立つピチュ山の斜面に、無数のインカ兵たちの黒い影が蠢き、その間から多数の黒光りする砲身が、街の方角に狙い定めているさまが見える――!!
「ぐ…おのれ…いつの間に……?!」
呻き声を漏らす司祭の額には、さすがに無数の脂汗が滲みはじめた。
その場のスペイン軍将校や兵たちも、予測を超えた事態の急転に、険しい形相を引きつらせたまま、即座には身動きできずにいる。
しかし、さすがに戦慣れしている彼らは、すかさず我を取り戻すと、素早く身を翻して罵声と共に奔走しながら、臨戦態勢を取るべく隊列を組みはじめた。
しかも、彼らの手には、この瞬間も銃器がある。
だが、丘上のトゥパク・アマルの腕が、再び鋭く宙を切った。
それを合図に、アルマス広場の民衆の中に紛れていた私服のインカ兵たちが、その手に握っていた何物かを、一斉にスペイン兵たちめがけて投げつけはじめた。
「――!!」
何事かと民衆を振り向いた瞬間、スペイン兵たちの顔面や全身に、幾つもの握りこぶし大の玉がぶち当たってきた。
と思いきや、それが破裂して、たちまち白い粉煙が大気中にモウモウと激しく舞い上がった。
突如、白煙に視界を遮られ、しかも、その粉が目に沁みて、まともに目を開けていることができない。
朦朧とした視界の中で、スペイン兵が、己にぶち当たったものの欠片に、辛うじて目を凝らした。
「なに?
これは…!」
唖然として見渡す周囲には、卵の殻の破片と白い粉が散開しているだけである。
実際、インカ兵が投げつけたものは、乾燥させた鶏卵の殻に空けた穴から、小麦粉か何かの粉を詰めたものにすぎなかった。
「うぬっ…!!
こんな子ども騙しのようなもので……!!」
屈辱感に激しい憤怒を覚えるも、その瞬間も、数百という数を絶え間なく投げつけられて、轟々と立ち上る白煙の中で敵兵たちは完全に立ち往生している。
その間にも、平民に扮して紛れていた広場のインカ兵及び、この騒ぎに乗じて市内に雪崩こんだインカ兵たちが、広場や街中の市民たちを一斉に避難させていく。
そしてまた、市内の随所では、はやくもインカ兵とスペイン兵の小競り合いがはじまっていた。
他方、丘上から市民たちの避難する様子を見守りながら、トゥパク・アマルは、傍に控えていた兵たちに言う。
「今は戦うことよりも、まずは民を市外に逃すことに、全力を注ぐのだ。
混血児、黒人はもとより、スペイン人であろうとも、非戦闘員であれば、全て避難を助けよ。
敵方の市民であっても、兵士以外の者に手出しをしてはならぬ。
市民たちの避難が完了次第、クスコ奪還に向けて本格的な軍事行動に移る」
「はっ!!」
恭順を示す兵たちの前で、トゥパク・アマルの脳裏に、かつてのクスコ戦における苦々しい記憶が蘇る。
あの時、スペイン軍総指揮官アレッチェ率いる敵軍は――思い出すことさえ憚られるが、男女を問わずクスコ市内のインカ族の人々を拉致し、縛り上げ、彼らを生ける盾としたのである。
そして、スペイン兵たちは縛り上げたインカ族の人々の後ろに身を隠し、インカ兵たちを撃ちまくった。
言うまでもなく、トゥパク・アマル率いるインカ軍が、「人柱」として生ける盾とされた兄弟姉妹を犠牲にしてまで、敵軍に攻撃を続けることなどできようはずもなく、あの時は、勝利を目前にしながらも無念の敗退を余儀なくされたのであった。
(また同じ轍(てつ)を踏むわけにはいかぬ――!!)
トゥパク・アマルは、丘上から見張らせる長大な街道の方へと真っ直ぐ視線を走らせた。
遠からず、副官ディエゴの率いる大軍が、ここクスコの地へと到着するはずである。
そして、その軍勢の中には、かつて、このクスコでの戦いで、今は亡きフィゲロアが率いていた「リマの褐色兵」の軍団も交ざっているはずである。
あの時は、「人柱」を立てられたのみならず、やはり敵将アレッチェの差し金で、トゥパク・アマル軍と「リマの褐色兵」は、同じインカ族でありながら、敵味方として酷い戦いを強いられた――だが、此度は違う!
トゥパク・アマルやアンドレスの懸命な働きかけによって、そして、何よりも、褐色兵の将フィゲロア自身の命を懸けた決断と行動とによって、今や、褐色兵たちは、己の意志で、トゥパク・アマルの旗印の下に、誇り高きインカ軍の兵士として正々堂々と参戦していた。
鋭い手つきで愛馬の手綱を繰りながら、トゥパク・アマルは馬の向きを変えていく。
「英国艦隊の到来は目前だ。
わたしは次の作戦のために、すぐに沿岸部隊の陣営に参らねばならぬ。
それ故、このクスコでの戦いは、この後、ディエゴの指揮に従って行動してくれたまえ」
「はっ!!
トゥパク・アマル様!!」
トゥパク・アマルは、再び深く恭順を示す兵たちに精悍な横顔で頷き返すと、鋭い掛け声と共に、馬を駆り出した。
護衛のビルカパサ及び数名の厳つい衛兵たちが、素早くその後を追っていく。
その後、数分後には、トゥパク・アマルたち一行は、暗黒の地下道を疾走していた。
かつて、己がクスコの牢から脱獄する際に、その存在の有効性に気付いた地下道――インカ帝国旧都クスコから、国中に縦横無尽に張り巡らされた地下道は、その出入り口も、目立たぬ形で随所に備えられている。
トゥパク・アマルは、脱獄以来、この地下道の整備を果敢に続けてきた。
インカ帝国崩壊後、その存在を忘れ去られてきた地下道は朽ち果てており、実際に利用できるほどに整備できた場所は限られてはいた。
だが、此度のクスコ市内及びピチュ山に、敵兵の目をかすめて数百名のインカ兵先遣隊を配備するには、十分に役立ってくれた。
さらに、この地下道は、海岸近い街アレキパ方面へも延び、その道も彼の指示により既に整備されていた。
トゥパク・アマルたち一行は、地下道の漆黒の闇を照らして燃え盛る松明をかかげながら、アンドレスやロレンソたちが陣を張る沿岸部へと、怒涛の勢いで馬を駆り立てていった。
◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ
第九話 碧海の彼方(8)
をご覧ください。◆◇◆
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