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ありそうでなかったシリーズ第86弾は「3000万円の防音工事代を1000円で解決」した織物時代です。16年前まで祖父の代から60年近く営んでいた泉州の地場産業の織物業ですが、織物工場が集落の中で355日24時間エンドレス操業していたものですから、「防音と防振の対策」が必須の課題でした。1987年に新築した織物工場プランの段階で防音と防振対策を練りに練って施工するのですが、いざ実際に新しい織物工場が稼働すると想定外の問題がイロイロと出てくるものです。そんな中で、工場から直線距離で100mほど離れている自宅の2階のベランダから夜に新しい工場の方向を「やっと稼働したなぁ・・・」と感無量で眺めると、「グオーン」という村中に響き渡る異音が聞こえるではありませんか・・・(汗)。即座に夜の工場稼働を停止し、問題が解決するまで朝8時から夕方5時で工場稼働させ、以降は止める事にしました。1日9時間稼働では全く採算が合いませんので、早期に騒音問題を解決しなければなりませんし、これが本当の意味での死活問題だったのです。既に50代だった父親は自分で解決するのを既に諦め「おまえ、何とかせえよ・・・」と私に全てを振ってきました。私も自力ではできないと、早速専門の某大手建材会社の防音事業部に防音&防振の見積もりを依頼しました。1週間後に出た見積金額(3000万円)を見て腰を抜かしそうになりました。「これじゃ自分で考えるしかない・・・」と(汗)。本当に余りのプレッシャーに冷や汗がでました。しかしこの問題を絶対解決しなければ、24時間稼働が無理でしたので1年後には売上計画の半分以下で倒産・・・というイメージが私の頭を支配して、必死の思いで解決のための行動をしたのです。騒音計を持って工場の屋根に上ったり・・・コンプレッサーを2階に設置という同じ条件の織物工場に見学に行ったりもしましたが、外から「グオーン」という音が聞こえていましたので、そこの経営者は「色々やったけど音を消すのは無理や・・・」とさじを投げていました。旧知の保温屋さんと一緒になってイロイロと考え、自信を持ってコンプレッサー室の内部や吸気と排気のダクト内部をすべて断熱材で覆いましたが、それでも音が止まらなかった時には本当に落胆しました。一体どうすればイイのだろう?・・・と本当に途方にくれました。2週間眠れる夜が続いましたが、ついに2階に設置していた「コンプレッサー」の振動が建物全体を揺らす「共振」が原因だと突き止めました。何で解かったと言えば、ある時フッと2階のフロアに耳を当てると「グオーン」というコンプレッサーの振動が伝わって来たのです。そこでピンときました。オーディオ小僧時代のスピーカーの下に防振ゴムを敷いて床に伝わる振動を止めていたのを思い出したのです。コンプレッサーの下に防振ゴムを敷くと、「グオーン」という音がピタリと止みました。たった1000円の防振ゴムが、3000万円と言われた防音&防振工事に匹敵したのです・・・(涙)。一件落着とともに、疲れがドッと出てくると同時に、嬉しさと安堵感が込み上げてきました・・・(涙)。しかし泣くのは後にして、これから20年間355日24時間織物工場稼働という本当の苦労が待っていたのです。という事で、この時の「グオーンという音を止める」という難題で藻掻き苦しんだ2週間が、その30年後の音楽スタジオの防音と防振に役立つと夢にも思いませんでした。ある意味たった2週間で3000万円稼いだ(売上ではなく利益)計算になりますが、これまでに最高の労働生産効率でした・・・(笑)。そして工場稼働の翌年から始まったバブルの投資話(株、土地、ゴルフ会員権)に一切乗らなかったのは、こういった人に言えない苦労があったからで、当時取っていた産経新聞の社説下の「何ら生産行為をせずに儲けるの今の世の中は何かオカシイ!」という小さなコラム蘭に、変に納得していた当時の自分を思い出しました。と言うか、バブル前に新工場建設で何億もの借金を背負っていたので、そんなバブル景気を指をくわえて見ていたのが幸いしたのです・・・(笑)。人生、何が幸いするかワカランもんです。今でも悔しいのは父親がバブル前に100万円くらいで買った泉南カントリーのゴルフ会員権を、何でバブル期の相場が最高だった5000万円で売らなかったのか?・・・という事ですが(笑)。「トランクルーム貝塚」「スタジオ0724」「貝塚卓球センター」「テレワーク&スタディ貝塚」 「 貝塚不動産.com」 大阪府貝塚市名越661 tel:072-446-0798 mail: info@sasatani.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2022.05.28
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今1人で5つのビジネス(トランクルーム、音楽スタジオ、卓球場、テレワーク&自習室、不動産仲介業)を営んでいますが、振り返ると織物時代にその原点があったように思います。戦後40数年間、大手総合商社の伊藤忠と100%委託生産(賃織り)をしていましたが、バブル崩壊でその長年に渡る良き商習慣に終止符を打たれました。そしてどうしたか・・・?伊藤忠の紹介で伊藤忠浜松支店、浜松の産元商社、合繊メーカーを新規開拓をする事になり、それだけでは商量が足りず独自で新規開拓(飛び込みセールス)をせざるを得なくなりました。その中で最も力を入れて受注量が多かったのが、某大手合繊メーカー(東証一部上場)です。毎週金曜に大阪船場に営業に行ってましたが、朝一から繊維専門商社を回り、午後から合繊メーカーの各部門を渡り歩くのが当時のルーティンでした。そのお陰で、大阪船場界隈の商社や紡績の業界人の間で「ミスターフライデー」と呼ばれていました・・・(笑)。その為、現場の仕事もしていたので毎週金曜は朝2時か3時に工場に入り、毎回2本ほどタイイング(つなぎ)をしてから大阪への電車に乗り込みました。毎回ミナミの東心斎橋や宗右衛門町やアメ村で取引先と呑んで帰っていましたので、黒服のニーチャンによく「おはようございます!」と挨拶されるほどでした・・・(笑)。毎週金曜の帰りは遅くなるので、家内には嫌味で「ミナミの帝王」と呼ばれていました・・・(笑)。この時の接待は主にライブハウスやミュージックバーだったのが、その後の音楽スタジオ経営にプラスになりました。特に両方でトータル何百回も足を運んだのが、アメ村のセラーと鰻谷のアンコールでした。前者はソコソコ上手なミュージシャンがチャージ無料で、後者は吉本興業経営のニューヨークから来日の本格的なブラックミュージックのエンターテイメントを体験できた毎回感動のライブハウスで、3500円で飲み放題&食べ放題(料理が美味かった!)の聴き放題でした。単に私が音楽が好きだっただけで、取引先の人も「一緒に楽しもうよ!」と引き摺り込んだのです・・・(笑)。金曜はほぼ24時間起きていた計算になりますが、それでも翌日の土曜の朝は二日酔いでも5時には出社していました。今はとてもそんな事は出来ませんが、やっぱり30代40代は若かったんですね・・・まぁしかし合繊メーカーの部門は素材別と用途別の多岐に渡り、「シャツ」「婦人服(アウター)」「中近東向け輸出(民族衣装トーブ)」「寝装&寝具(羽毛布団、シーツ)」「通信販売への直販」「ユニフォーム(ワーキング、官需向け)」と6つの部門を順番に昼一から夕方まで営業活動するのです。同じ繊維(合繊メーカー)会社でも6部門の中身は全く違うビジネスなのでメーカーの営業社員は1つの分野しか知りませんが、6つの異業種の仕事を請け負っている弊社としては非常にオモシロいものがありました。同じ繊維業界なのに素材と用途が違えば無限の織物が出来て、それぞれ独自のルートで販売される事によって、請負側として「頭の切り替え」訓練を余儀なくされるのです。コレが良かったのです・・・この時の経験が、今の5つのビジネスの原点になっているのかと思います。営業と言っても1つの部門で1人の担当者だけでなく3,4人と話すケースもありましたので、時間が掛かりました。バブル前は伊藤忠の担当者一人だけでしたが、バブル崩壊後は商談をしている取引先担当者は合繊メーカーだけでなく在阪の繊維専門商社や浜松の産元など数社全て入れると30人を超えました。宅建資格(独占業務の国家資格)があれば自分一人で不動産屋を始められる(会社の定款を変更して業者免許も必要)というのを知ったのもこの頃です。繊維商社(2部上場)で不動産部門も持った取引先の事務担当の宅建資格を所持している若い女の子の「私がおらへんかったら、この会社不動産の取引がでけへんねん・・・」という一言に衝撃を受けました。会社の入り口の宅建業の業者表に、確かに彼女の名前が堂々と載っていました。宅建、正式名称は宅地建物取引主任者(現在は宅地建物取引士に名称変更)・・・この事件?でそんな資格があったんやと頭の中に入りましたが、その後自分がこの資格試験にチャレンジするなんて夢にも思いませんでした。という事で、幸か不幸か長年の委託生産(賃織り)という楽だった繊維ビジネスの関係を外的要因で断ち切られた事によって、色んな繊維の業界と関わらざるを得なかった経験が、10年20年経ってやっと生きてきました・・・(涙)。バブル崩壊当初は本当に大変でしたが、今回のコロナでもまだまだ戦いが長引きそうですが、過去の経験を活かしていこうと思います。「トランクルーム貝塚」「スタジオ0724」「貝塚卓球センター」「テレワーク&スタディ貝塚」 「 貝塚不動産.com」 大阪府貝塚市名越661 tel:072-446-0798 mail: info@sasatani.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2020.08.17
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今でも思い出して、自分でも驚くことがあります。それは2006年3月31日18:00の事です。この時間は正に弊社が祖父の創業から57年間織物業を営んできて、工場を完全に停止した瞬間です。何の式典もなく、ひっそりとした最後の幕引きでした・・・(涙)。この時に、工場内に残っていた在庫商品は「たった1反(タテ糸)のみ」です。このタテ糸は織機に掛かっていましたので、切って廃棄です。ガランとした工場内には、何も残っていなかったのです。昨日まで57年間ガチャガチャと織っていた織機音は全くないシーンとした工場なんて、だれが想像したでしょう・・・(涙)。さぞかし、天国の祖父や父も泣いていたかも知れません。まあしかし現実に戻ると、57年間の最終決算日に、在庫ゼロという事です・・・(驚)。それ以外の糸と織物は全て出荷済みで、その後100%資金回収しました。敢えて「損害」と言うなら、たった1反のタテ糸だけだったのです。金額にして、せいぜい2,3000円程度です。過去57年間で何十億の商いをしてきて、たった2,3000円の損害なんてゼロと同じです。過去20年間月産20万mの織物工場で、廃業日当日1反しか残っていなかったというのは、織物業界では奇跡に近い事です。私の知っている限り、廃業した同業他社の殆どは最後の在庫整理に苦労しています。酷いところになると、事務員を雇い何年も掛かってでも処分できないところもあります。そこには繊維業界や銀行との長年の複雑な取引関係や、同族企業内で兄弟が利害関係で揉めたり、コトはなかなか進まない事情もあったのです。弊社の場合、経営合理化の一環として廃業数年前から徐々に取引銀行と借金の集約化に手を打っており、廃業と同時に全額借金を返済して不動産担保を全て銀行から抜いたのが功を奏しました。アメリカと違って日本の中小零細企業は借金があれば銀行から経営者の個人保証を求められますので、無借金経営がこれほど身軽で自由かと・・・涙が出るほど嬉しかった事を昨日の事のように思い出します。個人保証をすれば会社の倒産イコール経営者の自己破産で、離婚や夜逃げ、一家離散、自殺なんて普通にあるのが悲しいかな日本の中小零細企業の現実です。日本の中小零細企業の倒産原因の殆どが借金過多なので、無借金なら倒産が防げて、誰にも迷惑を掛けないというのが私の日々の心の支えです。しかし一体何故、弊社がそんな事を出来たのでしょうか・・・?それは、1年前から緻密な計算をしていたからです。1年前というのは2005年4月で「廃業を決断した日」です。「1年後に廃業しよう・・・」と。それから緻密な計算が始まったのです。先ず、部品在庫整理から始まり、徐々に発注を減らしていき、最終的には残った部品を全てブローカーや同業者に転売しました。営業活動も、それまで毎週金曜に大阪本町に出向いていたのですが、4月から9月までのシーズンオフも回数を減らし、10月以降のシーズンインに入ってからは3月までの受注を早い目に取ってからは大阪に全く行かず、電話で営業を済ませ極力工場現場に張り付いていました。昼食は自転車で1分の自宅に戻っていたのですが、それも弁当持参で事務所で10分で済ませ、極力長時間工場に滞在する事によって営業、経理、現場の3つを完全にコントロールしていたのです。特に大変だったのが生産計画で、織物の難易度によってこれまでの自社の実績から回転数と稼働率を推測するのです。これが5%狂うと、工場全体の生産計画に大きく影響を及ぼし、再度計画を練り直さなければないのです・・・(汗)。なので、廃業前の1年間は私の頭の中で「生産、効率、稼働率、修正、受注、製品在庫、預かり糸、サイジング、経通し、ドロッパ、ヘルド、テンプル(修理)、入荷、出荷、検反、縮率、筬番手・・・」で夢の中はもちろん24時間常にグルグル回っていました・・・(笑)。それ以外にも、コンプレッサー室、電気室、空調室、結露対策(ダクト操作)、建て替え段取り、タイイング、織機修理(調整)といった現場の仕事や、営業、経理、受け渡し(パソコン入力)、銀行交渉、従業員送迎もしていましたか、自分の時間は殆どありませんでした。工場は24時間エンドレス(年間355日)操業で月産20万mも生産していましたから大変だったので、これが織機台数が半分だったり稼働時間が半分の1日12時間で月産10万mだったらだいぶ楽だったのですが、採算的には全く合いませんでした。そういった緻密な計算による努力が実って、工場が完全に停止した3月31日の1週間前まで織機全台がエンドレス操業していて、停止まで1週間切った日から1日1台、2台、3台・・・と止まっていき最終日で全台織機が停止したのです。この57年間の家業を完全停止した瞬間、何とも言えない寂しさと共に充実感が込み上げてきたのを今でも忘れません・・・(涙)。従業員から「明日から何か、残務整理手伝いましょうか?」と言われましたが、「有難う・・・でも何も残っていないので、その必要はないよ・・・自分の次の職を見つけてきて・・・」というのが精一杯でした(涙)。事実、翌日の4月1日から織機の売却先が来社して、海外への出荷作業が始まったのです。廃業1か月前の3月1日の「廃業宣言」した日から織機などの売却交渉をしていたのです。幸い2年後の2008年北京オリンピックを控えた中国が空前の好景気に沸いていましたので、売却交渉もスムーズにいきました。同じ2008年がリーマンショックでしたから、無理して織物業を続けていたらトンデモナイ事になっていたでしょう・・・(汗)。という事で、織物時代に「多品種小ロット+高品質+短納期+低コスト」という鼻血も出ない非常に厳しい要求を取引先からされて、それを熟してきたことが大きな自信となりました。ただ、その「下請け(賃織り=委託生産)」という経営体質が長年染みついていましたので、それをなかなか脱却できないのがトランクルーム転業後の大きな悩みでした・・・(涙)。織物業から離れて13年・・・前回の増税時は増税分を転嫁できませんでしたが、今回の増税はやっと伝える事が出来るようになりました。そして転業後の不動産仲介業以外の自社運営のトランクルームと音楽スタジオと卓球場とレンタル自習室の4つのビジネスは、織物時代に培われた「緻密な計算力」によって成り立っているのは言うまでもありません。にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2019.11.30
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13年前に57年続いた家業(織物業)を廃業して、今のトランクルーム賃貸業に転業した訳ですが、何も急に転業を思い立った訳ではなく、今思うとココに至るまでに20年間くらいジワジワと浸透してくる周りの環境の変化に大きく影響されたのです。34年前のサラリーマンから家業に転職した直後から、主力取引先の伊藤忠の課長から「もうシャットル(力)織機の時代ではないよ・・・」とアドバイスされ、同じシャットル織機でも中古のユニフル付き「自動」織機に全台の半分を入れ替えました。1週間浜松のエンジニアの自宅に泊まり込みで、ユニフルの技術を学びました。これからはユニフルの時代だ・・・と信じて疑わなかったのです。しかし、それから1年後にはこの信念がガタガタと崩れてしまいました。時代は杼で横糸を運ぶ方式の「シャットル織機」から、100年ぶりの大改革と言える空気で横糸を飛ばす方式の今主流の「エアージェット織機」に変わろうとしていたのです。当時100%委託生産(賃織り)をしていた総合商社の伊藤忠は機械部門もありましたので、機械部隊から日産自動車のエアージェット織機を売り込んできました。トヨタもスズキも祖業は織機メーカーなのは有名な話で、日産自動車もかつては織機を作っていたのです。織機の半分を「力から自動」に入れ替えたばかりなのに、今度はまた取引先のアドバイスで「これからはエアージェットだ!」と考え方を180度転換せざるを得ず、午前中は自社で働き、午後からは当時既にエアージェット織機を導入していた遠縁の織物工場で新しい技術(エアージェット織機の)を学ぶために働き始めました(もちろん無給で)。そこで半年間働いてある程度技術を学んだ後、自社でエアージェット織機を導入する計画を進めました。それから1年後に2棟あった織物工場のうち1棟を、エアージェット織機専用織物工場に建替えました。それがバブル勃発前年の1987年で、円高不況の真っ最中でした。私は株はしませんが、株の売買と一緒でどん底景気で安く織機を買い建物を新築したのです。これで2年後(1989年)のバブル期真っ只中にエアージェット織機を導入した同業者より、確実に30%くらいはイニシャルコストを抑えられた(安く機械と建物を買えた)でしょう。金額にして、ウン千万円・・・零細企業にしてはトンデモナイ節約金額です。これが目に見えぬ大きな競争力になったのです・・・(涙)。エアージェット織機を導入してから直ぐに、羽毛布団の側生地とダウンジャケットの側生地の生産に特化しました。当時シャットル織機では生産できないほど高密度の織物で、エアージェット織機でしか織れない織物でしたが、同業他社がエアージェット織機を雪崩のごとく導入してくるまで2年間ほどだけソコソコ儲けさせて頂きました・・・(笑)。バブル期に入ってから銀行融資が緩くなった関係で、同業他社が雪崩を打ってエアージェット織機に入れ替え始めましたが、弊社は既に他社より1,2年先行していたため、ソフト面(織物ビジネス)もハード面(織機の稼働状況)も完全に軌道に乗り、当初は100m走で既に10mほど先を走っていた感じでしたが・・・しかし、いくら他社に先駆けて参入しても、他社も出来るような「甘い技術」では値段勝負の消耗戦になってしまい、共倒れ・・・というのが身に沁みました。また取引商社に営業に行っても、オフィスの中は日々刻々と変わっていくのが分かりました。30数年前の伊藤忠の産地織物課という部隊と長年取引をしていたのですが、課の取引が日本国内だけだったのですが、ある時弊社担当の新入社員Aさんが電話で英語で商談しているではありませんか・・・(驚)。どうしたのかと聞くと、彼曰く「これからは産織と言っても、海外とも商売やっていかんと・・・」と。それから1年も経たないうちに、彼は中国語で電話商談しているではありませんか・・・(驚)。ゴルフも私と同じように120~140くらいで回っていたのに、いつの間にかスコアを40ほど縮めているではありませんか・・・(驚)。彼に理由を聞くと「仕事終わってから、毎晩ゴルフ場に通っていたのです・・・」と。当時の商社マンの激務は尋常ではありません。夜の10時11時までモーレツに働くのが普通で、それからゴルフの練習となると深夜になっていたはずです。案の定、彼はその後出世し、伊藤忠ファッションシステムの社長になりました。優秀な人間は、最初から同期の中でも全然違う(異質)というイイ見本です。毎週金曜日に大阪本町に営業に行って、その後よく伊藤忠の色んな社員と居酒屋や寿司屋やライブハウスで接待していたのですが、彼だけが私にソっと手土産をくれました。頭脳と体力に優れ、心遣いも天下一品・・・出世しないはずはないと思いました。彼に一番教えられた、ある「一件」が今でも忘れられません。いつものように大阪に織物の営業に行ってAさんから「ナンボでしますか(1m何円の賃織りで受注しますか)?」という非常に厳しいオファーの問いに対して、私が「チョット待ってください・・・」と答えた時に、「一体誰と商談したらイイのですか?」と強い口調で即答を求められました。当時はまだ社長であった父親も大阪に来て商談していて、私が専務として「二重の営業」をしていて、父親が最終決定していたのです。月産20万mも生産していましたので、一歩間違えば赤字に転落しますので、親父にすると「まだまだコイツ(息子)に任せられない・・・」と思っていたのでしょう。まァある意味、親父に甘えていたのです。彼の言葉に「これじゃ、イカン!」と会社に戻ってから、父親に「これから俺が営業するさかい、黙っといて・・・」と宣言し、多少揉めましたが、それ以降私が全責任を負って営業活動したのは言うまでもありません。この「一件」があったからこそ、その約10年後に父親が急死して一時窮地に陥った時も、私が営業も現場も100%把握していたので難を逃れることが出来ました・・・(汗)。零細企業経営では営業だけとか現場だけというのは通用せず、経営者が何もかも把握する必要があったのです。その為、会社経営で1番大事な「経理」だけが唯一不得手の分野でしたので、父親が亡くなってから必死に勉強しましたが・・・(汗)。まァある意味、Aさんに感謝しないといけませんねェ・・・(笑)。まあしかし、そんな伊藤忠社員の変化に応じて、オフィスに展示してある生地サンプルも、染色加工サンプルに変わり、パンツや上着といった製品サンプルに、5年、10年。20年と掛けて刻々ジワジワと変わって行ったのです・・・周りの環境や相手が変わっても、こちらは変わらずに済むというのはあり得ません。そんなジワジワ変化していく日々を20年ほど続けて・・・2006年に織物業を完全に廃業しトランクルーム賃貸業に「転業」したのです。伊藤忠の繊維部門はバブルの清算でリストラを決行し祖業の原料分野(糸、織物)から殆ど撤退し、川下分野(アパレル輸入)と3国間貿易の開発や投資といった分野にシフト変化して大成功を収めています。という事で、取引先にビジネスを学ぶという姿勢は、仕事が今のトランクルームや音楽スタジオという「B to B」から「B to C」のエンドユーザー相手に変わっても、何ら変わりません。ビジネスの基本は同じだからです。にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2019.10.07
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織物時代は取引商社から織物の原料である「糸」を支給されて、それを機械(織機)で織って(布にして)「1メートルいくら?」という工賃で対価を受け取っていました。これが「賃織り(委託生産)」という泉州エリアの地場産業だった織物製造業の一般的なビジネススタイルだったのです。同業者でも大手は糸を仕入れて布を売るという「売買」スタイルでしたが、大半の中小の織屋さんは弊社と同じ「賃織り」でした。「売買」だと安く糸を仕入れて高く布を売れば儲かりますが(逆に株と同じように高く糸を買ってしまい、安く布を売れば損をする)、「賃織り」は大儲けもしない代わり損もしにくいビジネススタイルです。伊藤忠の100%賃織りという他社も羨むビジネススタイルでしたが、努力の割に儲からないことに長年ずっと疑問を感じていたのです・・・土地を安く仕入れて家を建てて売る「建売り」の不動産屋に対して、弊社は現在リスクの少ない「仲介業」に特化しているのは、過去の「賃織り」織物業の経験からだったのです。やはり人間は、過去の経験から抜け出せませんし、過去の経験(実績や成功体験)を起点にして未来を模索すべきだと思います。決して何の努力もしないで、ある日突然儲かるなんて事は100%あり得ないのです・・・しかしこの「賃織り」スタイルでの収益(売り上げ)は粗利で、原価が丸見えです。何故なら、コストは人件費と電気代とサイジング代(糊付け)の3つが主だからです。この3つのコストは大体相場が決まっていますので、他社の半額にするなんて事は不可能です。普通に努力するだけでは、5%カットできるかどうか・・・?弊社の場合、工場を土日(祝)止めずに355日24時間エンドレス稼働(月産20万m)することによって、他社の20%くらいはコストを削減できたでしょうか・・・前提として経営者である私が営業と経理をしながら、早出の工員を兼務しながら工場全体を取り仕切り、正社員が休みの日曜に機織りという5人分くらいの仕事をする必要がありましたが・・・(笑)。事務員は誰も雇わず会社に掛かってきた電話はすべて私の携帯で受けていたのは(自動転送で)、今と全く一緒です・・・(笑)。そんな血の滲むような努力をしてやっと20%削減ですから、他社と大幅な差別化どころではありませんでした。25年前に伊藤忠社員の中国出張について行ったときに、現地の織物工場の工員の月給が5000円と聞いたときに、「こりゃダメだと・・」感じました。なんせ日本ならエアージェット織機20台に1人の織工さんしかつかないのに(オペレーション)、中国の工場では人で溢れかえり1台に1人ついているのを見て驚きました。夜行列車で早朝山東省ジーナン駅に降り立つと、駅前の広場で何万人という無戸籍のホームレスが野宿していたのが目に焼き付いています。真っ暗な中、ザワザワと何万人という人間が寝ているシーンは、ナンとも言葉に表せないような異様な雰囲気でした。当時の中国は一人っ子政策で、中国内陸部で2番3番目に生まれた人らは戸籍がなく(統計上ノーカウント)、仕事を求めて歩いてジーナンに辿り着いたという話を現地人に聞きましたが、とんでもなく恐ろしい国だと感じました。その無戸籍の人は一説によると、1300万人もいるとは・・・(驚)。まァそんな努力を20年続けても、自社の設備(エアージェット織機)が古くなるだけでなく、日本の繊維機械(周辺)メーカーがドンドン倒産廃業するようになり、自分の努力ではどうにもならないメンテナンスや修理に苦労するようになりました。ふと見上げると、世界の繊維業界のグローバル化が進み、日本のアパレルもユニクロを代表とするSPA(製造小売り)が勢力を増してきて、「もういくら努力しても(あがいても)無駄だ・・・他の分野で努力しよう・・・」と約60年続いた織物業の廃業を決断したのです。結局、「原価丸見え」の商売というのは一見リスクのなさそうな下請け仕事ですが、完全に取引先にコントロールされる(ほぼ相手の言いなり)、ある意味「ハイリスク」な商売だったのです。自分の努力以外のところで人生(自分の会社)をコントロールされるほど、男(経営者)にとって情けないものはありません。とにかく最終エンドユーザーからかけ離れたところで、いくら繊維商社とビジネスをしても儲からないし、このままズルズルと織物業を続けていれば損をするだけだと判断したのです。唯一織屋で残る可能性があるとしたらイタリアの織屋のように高級ファッションブランドを自ら所有し、妻がファッションデザイナー(テキスタイルデザイナーではなく)で経営者が工場運営をして、直営小売店を持つかネットでエンドユーザーに直接服(衣料品)を販売する方法しかない・・・しかし、これも日本では100%無理かと。まぁしかし、幸いバブル前年の設備や機械が安い円高不況時に設備更新をしていましたので、バブル期以降に設備更新をした同業他社より20~30%イニシャルコストが安いのが功を奏しました。そしてたまたまリーマンショックの2年前の中国が北京オリンピック好景気に沸いていた時と弊社の織物業廃業が重なり、高値で中古織機を中国に転売できたのです。私は株の売買はしませんが、結果的に何千万円も安く機械設備を買い、20年使ったその古い機械設備をソコソコの高値で売り抜いたのです・・・(笑)。製造業での下請けは儲からない典型ですが、単なる小売りや問屋やFCや代理店といった何のノウハウも持たない業態の入れ替わりが激しいのも、不動産仲介業を通じて痛感しました。四季報を見れば一目瞭然ですが、やはり儲かっているのは大手コンビニなどFC本部やユニクロやニトリなどのSPA(製造小売り)といったノウハウを考えたところです・・・当たり前の事ですが。という事で、いくら取引先が大きくても、エンドユーザーからかけ離れたところでビジネスをしていれば、業者にコントロールされて儲からないというのを思い知りました。ならばどうするか・・・?廃業の時に「転業後は業者を挟まず、エンドユーザー直の新しいビジネスを始めたい・・」と心の底から思い、トランクルームという全く新しいビジネスに方向転換したのです。更地からトランクルームの建物を建てたり他人の建物を借りたりして業者に任せれば原価がバレバレですが、自社所有の土地で織物工場を改造コンバージョンして業者に任せず自社運営すれば「その原価」は誰にもわかりませんから・・・(笑)。その味?を占めて、音楽スタジオ、卓球場、レンタル自習室へと広げっていったのです・・・(笑)。同業他社が大阪府に1万社もいる不動産屋の方は、ライバルが多すぎて10年経ってもサッパリ儲かりませんが。ただ、経営者が宅建資格(FPやコンサルも)を所持し従業員を誰も雇っていませんし事務所がトランクルーム内なので、そのコスト競争力と希少価値を持って、仲介業と並行してまだ「競合が少ない(まだマーケットが未成熟な)不動産コンサルティング」に徐々にシフトしていきたいと思います。にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2019.05.24
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弊社は昭和24年(1949年)から南大阪(泉州)の地場産業であった綿織物業を営んでいたわけですが、ちょうどバブル前年の今から32年前の1987年に「100年に一度の革新織機」という触れ込みで、それまで100年あまり駆動方式が変っていなかったトヨタの創業者である豊田佐吉(現社長の曽祖父)が発明した「シャットル織機」から、これまでとは全く駆動方式の違う空気で横糸を飛ばすという新しい方式の織物機械「エアージェット織機」に設備を全面的に入れ替えました。織機の性能を100%引き出すために、今の新工場(後のトランクルーム)を新築したのです。織機1台1000万円で、約20台導入しました。今考えると、恐ろしい投資金額です・・・(笑)。実際失敗したら、親父と「倒産やなァ・・・」と話していました。当時父親は60歳近く、私はサラリーマンを辞めて2年経った30歳で2人の子持ち。どう考えても、全プレッシャーは私の双肩に掛かっていました。新工場が完成してエアージェット織機が搬入され、工場稼働に2人のサービス員が1ヶ月ほど駐在したのですが、初日にサービス課長から「これから私があなたに織機の事を全て教えますが、私達が去った後は、あなたが従業員に全て指導して下さい・・・」と言われたのを今でも忘れません。ナンとも言えないような恐ろしいプレッシャーが私を襲ったのです・・・建物と織機に何億も投資して、全く知識も技術もない私が1ヶ月間必死に新しい織機技術を習い、その後は誰も面倒を見てくれない・・・というプレッシャー。そりゃ、サービス員は従業員ではありませんから、用が済んだら帰ります。実際サービス員が帰った後は、予想通り悪戦苦闘の日々が待っていたのです・・・委託生産(賃織り)ですから、取引商社から織物の原料である糸を支給されて、それを織物にして出荷する・・・という流れは同じですが、糸の種類も増え織物の難易度が上がり、それまで最も大事な「横糸の飛走」を見るのにシャットルの停止位置を目視していたのが、回転数が6倍になりましたので肉眼では見えず、ストロボで見なければならなくなりました・・・(驚)。一時が万事・・・全てにおいて、新しい事ばかりに面食らう毎日でした。労働時間も朝5時から夜10時までずっと働き詰めで、最初の2年間は男子従業員はいませんでしたので、糸の入荷から織物の出荷まで全て私が管理と作業しなければなりませんでした。こんな事を24時間フル稼働で年間355日(盆と正月のみ工場停止)で月産20万メートルも織物生産していましたので、1年間で体重が一挙に7,8キロも痩せました。過労で食欲が減退していたのです。今だったら死んでしまいますが、若かったんですねェ・・・(笑)。若いというだけで、体力も気力もあったんですねェ・・・とにかく、目で見える横糸を運ぶシャットルが左右にガチャンガチャンと1分間に120回動く方式から、全く目で見えない空気で横糸を1分間に750回も飛ばす方式に激変しましたから、何もかもが初めての事で戸惑いの連続でした・・・当時エアージェット織機の回転数はせいぜい500回転くらいでしたが、いきなり実動750回転にアップするというのは世界で初めてでした。50%も生産性をいきなり上げようとするのですから、今考えるとこれはもう無茶苦茶です。しかも、メーカーから800回転と850回転のプーリーが知らぬ間に織機と一緒に搬入されていましたから、メーカーの弊社への期待値が想像以上だったのが伺い知れます・・・(笑)。一度だけ800回転を試しましたが、10分も持たず回転ローラーとロープという部品が壊れてしまいました。結局、実働750回転をピークに設定して、織機全体の調整していき稼働率を90%以上に持っていくことがベストと考えました。まァ、それでも当時は織物工場としては実働では「世界最速」だったと思います。しかし、想定外の回転数でしたので部品もよく壊れました・・・織機メーカーや部品メーカーにしても未知の世界でしたので、弊社は協力して試作品を使ってみることもしました。しかしこういった回転数への執念も、3人の優れたエンジニアとの出会いがあったからこそ芽生えたのだろうと思います。一人は同じ織機メーカーを採用した隣村のメーカーの「実験工場」と呼ばれた同業の専務さんで、2人目はこれまた隣村の「織機の神様」と呼ばれたN織布の工場長、そして3人目は世界的に有名な別の織機メーカーの設計開発の顧問までされた織機エンジニアのN織布の常務さん。この3人の出会いによって、私は大いに感化され織機の回転数アップに執念を燃やしたのです。この出会いも父親からの紹介もありましたが、たまたま鉄工所で出会ったり、私が新規で押し掛け訪問したりで繋がりました。サラリーマン時代の新規訪問セールスの経験が生きた・・・と言えるかも知れません。取引先商社からの依頼で中国上海の公司が弊社に見学に来たり、パキスタンの大手財閥からの見学オファーもありました。まァしかし、そこで知恵が働きました。純正部品を買うと高いので、地元貝塚はワイヤーロープが盛んなので、ワイヤーを半額くらいで地元メーカーに頼み、それまでコンプリートで買っていたエアー部品を地元テンプルメーカーに依頼して20分の1くらいの値段で分解修理するようにしました。地元鉄工所を活用して、極力純正部品を買わず修理で済ませるようにしました。今でもシンバルの修理をこの鉄工所に頼んでいますから、昔のコネというのも大切です。織機の防振装置も一流メーカーを購入すると1台100万円しましたが、弊社は性能は同等かそれ以上にあるマイナーだった専門メーカーを選択して半額の50万円で済ませました。こういった知恵で、20年間でウン千万円は節約出来たのです。何の知恵も出さず、メーカーや商社の言われるままに普通に部品を買っていれば、倒産の引き金になっているかも知れません・・・今でもプリンターでフライヤー(チラシ)を何万部も刷っていますが、純正インクだとコストがかさみますが、写真ではありませんしソコまで高品質は不要で、互換インク(社外品)を愛用していますが何の問題もありません。織物時代は経営だけでなく「営業」「経理」「現場(機織り、検反、機械保全、タイイング、荷作り)」とオールマイティの仕事をしていましたので、トランクルームでも棚(ロフト)も全て自分で製作しています。これが、本職の大工さんに頼むと何十倍もコストが掛かってしまいます。という事で、織物時代は常に「何とか安くならないか?どうやったら効率化できるか?」と寝ても覚めても考えていましたので、その癖が未だに尾を引いているのです・・・(笑)。ある意味ファッション業界にいながら(川中業界)自らブランドを発信すること無く、長い間「賃織り(委託生産)」という下請け仕事に徹していた関係で、コスト意識が異常に発達した事が転業して吉と出たのか・・・(笑)。そしてバブル以降、貝塚市にはエアージェット織機が累計で約1000台導入され、機械商社から日本一の数量のエアージェットが導入された織物産地(地域)として、この辺の地域の呼称「水間街道」をもじって「エアージェット街道」と呼ばれた時期もありました。しかし残念ながらバブルの影響もあり、あまりにも短期間に同業者が一斉にエアージェット導入に走ったものですから生産量が急増してしまい、肝心の織物の相場が暴落してしまったので利益も急減してしまいました。更に、織機メーカーや販売代理店も日本での織機販売が一巡したら、そそくさと泉州営業所を閉鎖して海外に販路を広げた結果、その輸出された織機で織った織物や製品が逆にドッと日本に輸入されてきたのです・・・(驚)。考えてみれば、彼らも飯のタネを見つけなければなりませんし当たり前の事ですが、「そこまで」考え抜かなければ日本で織物業として生き残るには難しかったのです・・・本当に将来像を描くというのは難しいものです。結果、バブル絶頂期から10年を過ぎると多くの同業者が倒産廃業してしまいました。最盛期の昭和40年代前半は貝塚市から岬町まで織物業者(南部織物組合)は680社ありましたが(岸和田市以北の織物業者やタオル業者は別で)、現在は98%減の15社くらいしか残っていないようです。これほど激減した日本の地場産業は他にないでしょう・・・如何に1970年代前半の日米繊維交渉を含めたグローバル化の波に繊維業界が真っ先に飲み込まれたという証拠です(涙)。弊社も最後の5年間は、衣料向け高級品にシフトして多品種小ロットや試織で小回り効かせ死力を尽くしましたが、2006年のまだ余裕のあるうちに「これ以上はムリ」と断念して廃業を決断しました・・・(涙)。近隣の岸和田市や泉佐野市や熊取町に比べて貝塚市が元気が無いのは、実は貝塚市の主産業であった織物業のこういったバブルの後遺症の衰退にあったのです。たまたま弊社は、バブル1年前のプラザ合意の影響で円高不況だった安い時期(1987年)に設備更新(建物と最新エアージェット織機導入)しましたのでバブル崩壊後に耐えることが出来、リーマンショックの2年前(2006年)に北京オリンピック前の好景気に沸いていた中国に中古織機を高く転売できました。株の売買やギャンブルを全くしない私ですが「安く買い、高く売り抜いた・・・」事は全くの幸運としか言いようがありません・・・(涙)。そういった経験を通じて「みんなと同じ事をすれば必ず(絶対)失敗する(世間の風潮やブーム、マスコミや常識に騙されるな!)」というのを肝に銘じているのかも知れません・・・というか、それが私の「商売人」としてのスタンスの基本であり、全てだったです。プライベートでも62歳の今でも、40年間ウインドサーフィンを続けていますし、ボランティアで空手を教え、ドラムを40年ぶりに再開したなんて常識破りだと思いますが・・・(笑)。それが、織物業をやめてから今までの13年間で「トランクルーム」「コンサルティング不動産仲介業」「音楽スタジオ」「卓球場」「レンタル自習室」といったライバルが少なくマネのされにくいビジネスに向かわせたのです。にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2019.04.17
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大手スーパーのGMSの業績が悪いようです。GMSとまでいかないもっと小規模の3,40年前に出来た古い店舗が、泉州エリアのアチコチにあります。そんな店舗に行くと、駐車場のアスファルトが割れていたり、全体の印象が「汚い」という言葉に集約されます。掃除や整理整頓が出来ていなかったら(管理も)、仕事に悪影響を与えるのだと思います。子供の頃から織物工場に入り、まずよく掃除をさせられました。綿織物を織っていましたので、風綿(わたぼこり)がすごいです。それも、油が滲んだ風綿なので独特の臭いがします。これを毎日2時間かけて、60台あったシャットル織機周辺を中心に掃除するのが日課でした。特に、織機後ろの掃除をする時は、ホウキの金属部で縦糸を切らないように細心の注意を払います。しゃがんで縦糸を凝視しながらの掃除は、身体に堪えます。特に織機の後ろの糸を掻き分けて注油する最重要パーツのタペット(カム)の掃除には、念には念を入れました。ここを疎かにすると、出火の原因になるのです。しかし工場に丸1日入っていると、この臭いが身体に染みつきます。父親も油臭かったですが、若い自分も油臭かったので、大学には女子も多かったですし女の子とデートする時はどれだけ消臭に気を使ったコトか・・・(笑)。こんな事を夏休みなるともなると、室温40度湿度90%の工場で毎日やらされるのです。「2日に1回でイイのと違うの?」と親父に喉まで言いたかったのですが、ついに言えませんでした・・・掃除を半分にすると、体力的にスゴク楽になりますから。しかし親も睡眠薬を飲んでまで深夜に働いていましたので、一言も文句は言えなかったのです。昔から織物工場は火事がつきものでした。主に綿織物でしたので燃えやすく、織機の摩耗部分やベルト式シャットル織機のシャフト軸のオイルタンクからグリスや油が切れると火が発生し、油が染みついた風綿に燃え移るのです。その為、常に風綿を除去する必要がありますので、毎日掃除をしなければなりませんでした。今考えると、そんな家業の実体験から「ビジネスの基本は掃除(整理整頓)だ」と学んだような気がします。織物時代からトランクルームに転業し、音楽スタジオや卓球場にビジネスを広げていっても、このポリシーを貫いています。主にトランクルーム2棟(171室)と岸和田市東ケ丘の駐車場(22台)の管理を従業員を誰も雇わずたった一人で運営管理していますので、最近肉体的にも物理的にも限界を感じてきました。そこで、それまでトランクルームの掃除を3台の掃除機(+2台のスタジオ専用スリムクリーナー)に加え、ロボット掃除機(ルンバ)の導入し随分楽になりました。やはり一人で5つのビジネス(トランクルーム、スタジオ、卓球場、自習室、不動産仲介)をしていると、同時に2つの仕事をする必要に迫られます。人間というのは本来怠け者だからこそ、必要に迫られないと良いアイデアは生まれてきませんから・・・(笑)。今は風呂を沸かすのにボタン一つですが、子供の頃は風呂釜の下から火を燃やして沸かすのが子供の仕事でした。昔は農家は買ってきた柴や牧を燃やしていましたが、織屋はこの工場で大量に発生する燃えやすい油が染みついた風綿で風呂を焚いていたのです。織屋は風呂の燃料費がタダどころでなく、昭和20年代はこの原価ゼロの風綿を他所の家にも売っていたそうです。自分ちの風呂の原料にもなるし、他所にも売れるので一生懸命掃除していたのか・・・(笑)。布の原料の糸は大昔は段ボールではなくムシロやドンゴロス(麻袋)に入って入荷して、物不足の昭和20年代はこの糸の入ったパッケージであるタダ(無料)のムシロやドンゴロスで山1坪買えたと言うのですから、織屋というのは捨てるものが無くて原価ゼロで売れるものが沢山あったのですから笑いが止まらなかったのでしょう・・・良い意味で言い方を変えれば、今では普通のリサイクルというのを繊維業界では約70年前の昭和20年代から実践していた事になります。「原価ゼロで商売」「捨てるモノがない(リサイクルの精神)」という織物時代の精神が生きて、築70年と32年の「元織物工場」2棟をトランクルームやスタジオや卓球場や自習室にコンバージョンしているのか・・・(笑)。にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2019.02.17
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子供の頃からずっと織物業に携わっている両親を見てきたのを含め長かった織物時代から、身をもって零細企業の経営方法をはじめとする社会人としての生き方のノウハウなどイロンナ事を、長い人生の中で学んできました。その中でも、最も大事だと感じたことは「他人(他社)に期待しない」です。あくまでも「自力本願」「独立独歩」・・・自分一人で何とかする(しようとする)精神こそ大事だと悟ったのです。もちろん人間は社会を構成する一員ですし、「もちつもたれつ」という考え方がベースにありますが、根の部分で生きていく上で「他人(他社)に期待しない」考え方が大事だと思うのです。他人(他社)に期待するから、裏切られたときのショックは大きいです。ならば、最初から期待しなければ気分的にグッと楽になります・・・そうすると、自分で何とかガンバロウ・・・と背水の陣で臨む覚悟ができるのです。長年織物業を営んできましたが、ビジネススタイルは1つの商社だけの賃織り(委託生産)でした。所謂100%商社に「おんぶにだっこ」です。取引先は大手総合商社の伊藤忠さんでしたので、同業他社より取引条件面では格段に良く安心と言えば安心でしたが、実は内心「もし何らかの原因で、明日から取引中止と言われたら・・・オワリだな」と心配でした。この不安がバブル崩壊後の伊藤忠の大規模なリストラで的中したのです。幸い、明日から突然仕事はない・・・というのではなく、浜松支店を紹介してくれたり、合繊メーカーや紡績を紹介してくれ、段階的に直接の注文が減っていったのです。その辺が、40数年伊藤忠一本で商売してきたお陰と、未だに感謝しています・・・(涙)。ただ、その後はいくら支店や合繊メーカーを紹介してくれても、実際の受注活動は私の営業力に掛かっていますので、サラリーマン時代の新規開拓していた営業力が役に立ったのです・・・営業経験がなければ、その時点でアウト。この時ほど、他人のメシを食ってきて(サラリーマン営業経験をして)ヨカッタと、自分自身に感謝しましたねェ・・・(笑)。しかしこんな事って何も会社経営だけに限らず、一般サラリーマンも会社から突然首(解雇)を言い渡されたり、嫁さんから突然離婚を切り出されたり・・・世間に山ほどあるある。それに対抗するために、いつか起業するためにサラリーマンでいる間にスキルを磨くとか、もっと経済的に稼ぐ努力をすれば、会社も嫁さんも放っておきません・・・というか、他社からのヘッドハンティングや他の女からのアプローチを断るのに難儀します(笑)。まァしかし、この時ほど「営業力」の大切さを身に染みたことはありません。伊藤忠とは全く関係の無い大阪市内の業界では有名な某繊維専門商社から受注するのに、新規で飛び込み毎週1回用も無いのに訪問し、実際の注文を取るのに実に1年も掛かりましたし、二部上場の繊維専門商社も新規で飛び込んで注文を取ることが出来ました・・・(涙)。商社から受注(賃織り)するという事は、契約書を交わし代表である私が個人保証をするという、むしろ継続的に受注ができる「取り組み」に近いモノがありました。その頃から、地元信用金庫を織物創業前の昭和一ケタ時代の祖父の代から長年メインバンクにして信用金庫創業家理事長もうちの仏壇にお参りに来るという関係でしたが、金融機関もバブルの後遺症で大変な事になっているというのを冷静に考えると、「アテに出来ない」と判断しました。取った行動は、借金を全額返済して根抵当を抹消し、メインバンクをまだ安全な公的金融機関に変更した事です。クールと言えばクールですが、これも従業員と家族を守るための「決断」でした。経営者というのは目的(会社を倒産させない)を達成するために、常に頭をクールにニュートラルポジションにキープすることが求められ、一時の感情に走ったり流されたらダメなのです・・・一連の私の行動に、信用金庫の担当者は当然ビックリ仰天。取引が長かったので、貝塚支店長だけでなく、他の支店に転勤した支店長や理事までが「どうしたんですか?」という問い合わせが殺到しました・・・しかし、それぞれに事情を説明して分ってもらいました。分ってもらうと言うより、もう決断して行動に移していましたので、説明も何も無い訳ですが・・・(笑)。ビジネスで最も大事な一連の「vs商社」「vs銀行」の行動の根本にあるのは、「もうこれから頼りにしませんよ」というアナウンスです。強いて言えば「決別宣言」だったのです。しかし、この行動が結果的にイイ方向に向かわせました。ちょうどこの一連の行動の前に父親が急死しており、心身ともプレッシャーが私に集中しヘトヘトになりながらもこの難局を切り抜けたことで自分自身にチョット自信を持ちました。チョット自信を持つことによって、より「他人(他社)に期待しない」生き方に徐々にシフトしていったのです。それが織物業の「廃業」であり、トランクルームへの「転業」だったのです。そして転業を機に更に一歩進めて、銀行から借金をしない「無借金経営」にしました。これで完全に、銀行とはオサラバです・・・(嬉涙)。銀行に借金があれば自由に経営出来ず、あらゆる面で銀行のコントロール化に置かれます。織物業を「廃業」して、トランクルームに「転業」・・・そのあと無借金だからこそ、不動産屋、音楽スタジオ、卓球場、自習室と自由に経営できたのです。しかも、文字通り「他人に期待しない」という事で、5つの仕事を一人でこなしていますし、織物時代の教訓で、1社に依存しない危機分散化の徹底という意味合いもありますが・・・しかし天国の親父から「お前はオレが居なくなってから、一体何をやっとんのや?」と怒られそうですが・・・(笑)。まァ、これで誰にも頼らず迷惑を掛けずにメシが食えているのですから、ヨシとしましょう・・・(笑)。他人(他社)に期待しないというスタンスは、常に今の状況に満足せず「今後ドンドン見直していく」という考えがベースにあり、公私とも特定の顧客(友人)に依存せず新規顧客をドンドン増やしていこうという積極的で好循環的経営に自然と向かわせます。いつも同じ取引先や固定客のみだと安心感はありますが、知らぬ間に空気が淀んできます。気がつくと、浮き世離れしていた・・・なんていう例が世間には沢山あります。会社では倒産です。倒産にならないように、経営者としては公私とも「他人(他社)に期待しない」生き方を選んでいるのです。サラリーマンでも首にならないように一生懸命ガンバルというより、社会で生き抜く為に(どこでも通用するように)自分のスキルを磨くという「大きく広い考え方」で仕事をした方が長い目で見ると「柔軟性」があると思います。会社は決して一生面倒を見ませんし(むしろ50歳以上は要らない)、一般社会もドンドン変化しているからです。基本的に60歳で定年(65歳まで継続雇用可)、男の平均寿命が80歳で年金支給開始が将来的に65歳から70歳に伸びると予想すると(しかも減額される)、この「空白」の10年は長すぎます。要は仕事のゴールを会社と同じ60歳と仮定するのは非現実的で、FP的にトータルライフを考えれば70歳をゴールと考えなければ計算が合わなくなるのです。ココが正に人生の盲点で、今我々還暦オーバー世代がぶち当たっている壁であり、若者が想像したくない将来像です。という事で、織物時代に比べて売り上げは大幅に減りましたが、自分の目の届く範囲で商いできているという「気持ちよさ」があります。過去の12年間で5つのビジネスで、もう約6000人以上のエンドユーザー相手にビジネスしてきたでしょうか・・・イロンナお客さん(人)を見てきましたが、弊社独自の審査基準や私の経験上の勘があるものの、基本的には「来る者拒まず、去る者追わず」というスタンスです。今はパソコンやスマホといったIT全盛ですが、それだけに頼らない(期待しない)というの心にあり、一方で紙媒体でも保管するというのも決して忘れません・・・(笑)。というようなビジネススタイルでやってきましたが、まだビジネスとして成り立っている(客がついている)のを見ると、まだしばらくは仕事できそうです・・・(笑)。まァしかし、長い間たいした病気もせずに頑張って来れたのも(未だに入院歴無し)、丈夫に生んでくれた母親のお陰です。体格と知能は親の遺伝ですが、割と二枚目で背が高かった父に似たかったですが、今では三枚目で身長が低くても母に似てヨカッタと感謝しています。父に似ていたら病弱でしたが、私は母に似て内蔵も歯も丈夫で近視でしたが今ではメガネ要らずですから・・・(笑)。10代20代はルックスと学業で、30代から50代は経済力がモノを言いますが、50超えると体形も美貌も崩れ始め(経済力の低下も)、70代以降は歯とメガネ無しでちゃんと歩けてお漏らしをしない事がチャームポイントになってきますから・・・(笑)。にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2018.08.27
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昨日の読売新聞に「繊維深化」というテーマのオモシロい記事が載っていました。トランクルームの前は長年家業として織物業に携わって来ましたので、この記事を興味深く読みました。社会人になって過去約40年間一般社会を見てきましたが、そう言えばこの記事に書いているように、上場繊維会社で倒産したのはカネボウ1社だけで、他の繊維会社は本業を変えたり分社化したり異分野や非繊維に進出したりして、シブトク生き残っています。1番驚いたのは、ウインドサーフィン全盛期の1980年代の世界のセイル(帆)メーカーは100%海外ブランドでしたが、素材は日本の東レと帝人で世界シェア100%を二分していました。他業界を見渡すと、家電業界やAV業界の惨憺たる状況や、自動車業界の再編や外資が入ってきたりしている状況を見ると、まだ繊維業界は「ヘンに安泰?」なのかと思うのです・・・しかし、何故繊維業界がシブトク生き残っているのか・・・?それは記事にも書いているように、日本の産業界で「最も早く不況に陥ったから」だと。戦争直後の昭和20年代が全盛期で織機が1回ガチャンと動いただけで1万円儲けたと言うことで(誇張ですが)、「ガチャマン時代」と言われていました。弊社は祖父と父親兄弟が昭和24年に創業していますので織物業界としては後発でしたが、当時の話を聞くと恐ろしく儲かったようです・・・私はまだ生まれていませんでしたので、一切実感がありませんが・・・(笑)。しかし、そういった「良き時代」も昭和40年代半ばをピークに、家電業界と自動車業界と入れ替わりに一気に下降線を辿っていきました。所謂「日米貿易摩擦」です。その先頭を切って1972年の「日米繊維交渉」で、沖縄返還の見返りに繊維製品の日本の自主規制を行なったのです。自主規制とは確か1台25万円くらいで国が織機の買い上げをして、織物業者を減らしたのです。ちょうど第一次オイルショックと重なり、これで60~70%くらいの同業者が廃業したでしょうか。当時高校生だった私は、父親から「明日から風呂は2日に1回やど」「ジーパンは月に1回しか洗うな」と言われ、「この先一体うちはどうなるんや?」と不安で不安で仕方なく勉強や部活どころではなかった事を思い出します。当時の話を2年前の読売テレビ「かんさい情報ネットten.」から取材を受けて放映されました。早くから国から突き放され、グローバル化の波を1番最初に受けたのが繊維業界と言えるでしょう。別の側面から言うと、繊維ビジネスが儲からなくなり業界が政治団体に献金出来なくなったのも要因の1つのようですが・・・(笑)。泉州エリアでも岸和田市以南の山手地区は、農業と織物業が主力産業でしたから、補助金の充実などで国に長く手厚く保護されている農業と比べると、同じ町内でも織物業の衰退は目に余るものがあります・・・(涙)。日本で最も織物業が盛んだった弊社の所在地である貝塚市山手エリアの木島葛城地区は、昭和40年代前半に150社あったのが今はたったの5社です。という事で、「元織屋」としてトランクルームや不動産屋として頑張っているわけですが、結構「元織屋」さんが他業界に転業してシブトク頑張っています。同業の不動産屋、大規模病院、ショッピングセンター、貸しビル業、貸しテナント業、貸倉庫業、検品業・・・もちろん廃業した90%のうち、倒産は4分の1から2分の1という厳しい現実がありますが・・・言える事は、大手紡績も合繊メーカーも早く繊維から撤退し、織屋は早く織屋を止めれば止めるほど成功していますし、元織屋が集まって昔話に花が咲くのは決まって「早く止めてヨカッタ・・・」です(笑)。グローバル化で更に斜陽産業になった織物業を早く止めることによって、傷が浅くてすみ「次へのステップ(非繊維への進出)」がし易くなるのです。ただ資産に比べて借金が多すぎれば、銀行との交渉が難航しそうですが・・・まァ繊維業者が「打たれ強い」というのは、業界の歴史が長い(古い)事が大いに関係しています。長かった高度成長期に資産形成だけで無く、地元や業界の人脈や金融機関との関係を築いて、金では買えない「信用」を築いたのが大きいと思います。この資産と信用が無くならない内に、上手く「転業」できるか否かが勝負の分かれ目と言えるでしょう。私の場合はちょっと長く頑張りすぎたかなァ・・・あと2年早く織屋を止めていれば、もっと新たな展開が出来たかも知れません・・・(悔涙)。逆に2年遅かったら、リーマンショックの影響で倒産していたかも知れません。サラリーマンの転職と同じで、正にタイミングこそが生死を分ける・・・という事です。それと、繊維業界の中でも織屋は24時間工場稼働が普通の労働集約的な仕事で、弊社もそうでしたが賃織り(委託生産)は、親父からよく言われましたが「1メートル織ってナンボ?」という地味な商売の典型です。この考え方、このDNAが身体に染み込んでいるのです。今のIT長者のようなボロ儲け?が理解できないところが幸いして、地味にコツコツというビジネススタイルが「打たれ強さ」に繋がっているのでしょうか・・・(笑)。にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2018.08.22
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ジーンズメーカー「エドウィン」の社長と、ファッションマーケッティング情報会社の「伊藤忠ファッションシステム」の社長が一緒に働いていた・・・2氏がそれぞれ社長になった時期は違いますが、彼らが若い頃、伊藤忠商事の同じ繊維の産地織物課で働いていて、弊社が長年その課の委託生産(賃織り)をさせてもらっていたのです。もう25年以上前の話でしょうか・・・当時は100%伊藤忠の賃織り(委託生産)でしたし、バブルの頃でしたので仕事はいくらでもある非常に安定していた時期でした。社会人になって1番安定していた時期と言えるかもしれません今考えると、昭和20年代後半から40年以上も伊藤忠さんの100%賃織りオンリーで織物業を続けてこれた事に驚愕します。当時取引きのあった「産地織物課(後に、スパンテキスタイル課に改称)」の営業社員だった2氏をここ何年か前に新聞で見てビックリしました・・・2氏とも弊社の担当(発注)営業社員だったのです。1人は伊藤忠ファッションシステムの、もう1人はエドウインの社長になっていたのです(現在は別の会社へ)・・・(驚)。2人とも当時は同じ産地織物課のデスクに顔を突き合わせて仕事をしていたのです。それが、二人とも立派に伊藤忠子会社のソコソコ有名な会社の社長さんになっていたのです。そう言えば2人とも、若い頃から優秀でした。1人はゴルフコンペで一緒になった時に、それほど上手ではなかったのに、次のコンペでは目を見張るような上達ぶりにビックリしました・・・確か2,3カ月の間に、スコアを40くらいアップさせたと思います・・・「どうしたん?」と聞くと、エヘヘと笑いながら、毎晩仕事を終わった深夜にゴルフ練習場に行っていたと・・・驚きとともに、スゴイ努力家だと感心しました。また彼は英語に堪能で、当時産地織物課と言えば、国内の織物だけを扱っていたので英語が必要なかったのですが、彼の語学力によって海外との取引きを増やしていったのでしょう・・・英語だけでなく、いつの間にか中国語で電話商談しているではないですか!これにはホントビックリしました。これは正に、大物だなと感心したものでした・・・いつも伊藤忠さんに行くと商談デスクにいきなり座るのではなく、先ずは彼らの営業デスクの空いているイスに座って世間話をするような悠長な時代でした・・・(笑)。彼が20代の頃にこちらの接待で飲みに行った帰り、いつ買ったのか「これ、奥さんと子供さんにどうぞ・・・」と私に手土産をくれました。まだ20代なのに、そこまで気が付くのかと感心したものでした・・・デキる人間は、若い頃から放っておいてもデキるのだなァ・・・と。もうひとりは年が近かったせいで、よくサシで飲みに行きました・・・元甲子園球児でもあり、正に文武両道を地で行く素晴らしい頭脳と体力を兼ね備えた才能の持ち主でした。彼には織物業の将来性についてイロイロ学びました・・・本当の意味でのアドバイスを頂いた事に未だに感謝しています・・・2人に共通するのは、若い頃から「他の人と、何かが違う?」でした。5年先、10年先を見ながら(自分と会社の両方を)、一生懸命仕事をしている・・・という感じでした。超一流会社で出世しようと思えば、努力は当然の事で、更に頭1つ抜きんでるには、それ以外の「天性のモノ」を持っていたような気がします・・・という事で、知力体力を兼ね備えた社員が人一倍努力して出世して社長に上り詰めても、所詮サラリーマン社長で、一定期間勤めたらハイそれまでです。大会社ほど社長になっても自分の自由になりません。中小企業のオーナー社長の方がよっぽど自由ですが・・・(笑)。織物時代にある繊維会社の社員から「うち社長は会社が大赤字なのに、毎晩北新地で飲み歩いているで・・・」てなグチ話をよく聞かされました。サラリーマン社長は会社の将来なんかどうでもよく、社長在任の期間中に自分のやりたい事をやるんでしょう・・・まァ、過去にお世話になった彼ら2氏には会社人生を全うして欲しいと思います・・・にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2018.08.08
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ちょうど20年前の1997年に社長であった父親が持病の心臓病で急死し、それから9年後の2006年に織物業を廃業してトランクルーム賃貸業に転業しました。今振り返ると、親父に代わって私が代表になってから、知らず知らずのうちに着々と廃業準備していたような気がします・・・というのも、直ぐに経営の内容を一つ一つ見直しながら変えていきました・・・父親の死をゆっくり悲しんでいる間もなく、2週間以内に会社の代表取締役を変えなければ実印や小切手が通用しないという現実を考え、直ぐに行動に移しました。息子として泣くのは後にして、会社の新しい代表として直ぐに行動に移さなければ・・・と。そして多少落ち着いてから、取引銀行(メインバンク)と取引商社との内容の見直しに着手し始めました・・・どちらも4,50年「一社依存」でしたので、イイ意味で「一心同体(運命共同体)」、客観的に考えれば、こちらが勝手に「しがみついている」としか言いようがありませんでした・・・それをワザワザこちらから切り離しにかかったのです。何故か?親父が亡くなって「何もかも自分1人でやらなくてはならない!」というのが理由です。これまで事務員を雇った事がありませんでしたので、はなから雇うなんて頭にありませんでした。親父亡くなったというだけで、織物の生産能力(月産20万m)を下げる訳に行きません。「ならば、1人でどうするか?」が全ての出発点だったのです。その根本的な戦略は「出来るだけシンプルに!」という事だったのです。シンプルにして複雑でややこしい事を避けていかないと、1人でナカナカ物事が進みません。メインバンクとの取引内容を精査すると、幾口もの借金もありましたし、当然その為の根抵当権も設定されていました。バブル崩壊後の金融機関の倒産や合併が相次ぎ、メインバンクの信用金庫も経営が非常に厳しい状況でしたので、いくら長年取引があったとしても、この先融資を断られるかもしれないと判断しました。そこで、日々の取引の当座をそのまま継続し、借金を全額返済し根抵当権を抹消しました(担保を抜いた)。借金を潰れる心配の無い公的金融機関一社に集約(スリム化)したのです。これで、きれいスッキリです・・・経営者の大きな仕事の一つが「資金繰り」です。この一連の整理整頓も2,3年掛りましたが、どれだけ商売がやり易くなった事か・・・織物時代を通じて資金繰りの難しさと借金に頭と心を痛め、織物業を廃業と同時にトランクルームへの転業の際に「借金をゼロ」にしました。これで精神的にどれほど寿命が延びた事か・・・(涙)。ついでに取引口座の窓口も1つにしました。取引先は売り上げ何十兆円もある大手総合商社です。弊社のメインバンクは信用金庫。大手総合商社は信用金庫との口座がありませんでしたので、弊社はわざわざその為の口座を都銀の貝塚支店に開設していました。総合商社は弊社の都銀口座に入金し、そこからまた弊社のメインバンクの信金口座に親父がわざわざ移し替えていたのです。「こんな邪魔臭い事は無駄だ・・・」と私が判断して、取引先と交渉して「前例がない」という総合商社から信用金庫への振り込みを渋々了承してもらいました。「都市銀行に当座がある」というのはステイタスがあり、確かにカッコいいかも知れませんが、実質的にナンセンスと判断・・・家訓の「名を捨て実を取る」を思い出したのでした・・・続いて取引商社ですが、バブル崩壊で総合商社も大打撃を受け、繊維部門も川上から川下戦略へと大きく戦略を転換し、会社全体として世界的な投資会社の方向に大転換しようとしていた時期でした。織物業を取り巻く環境が大きくガラッと変わっていくそのような時期に、「1mナンボでっか?(賃織りなので)」と言ってる場合ではないと思いました。目の前で取引商社が大きく変わろうとしているのに、こちらが何も変わらず依然同じような事を言うのもオカシイというのはバカでも解ります。では、どうすればよいか?他に客を捜すしかないのです。恋人同士で長年付き合っても、彼女が心変わりして「あんたと別れるわ」と言われれば(言われそうな時は)、他の女を捜すしかないでしょう・・・相手も相当考え悩んだ上での話でしょうし、「イヤ、何とかもう一度取引(付き合い)を・・・」なんて女々しい事は男の意地として言いたくありません。私なら「そうか、もっとイイ得意先(女)を捜しますよ・・・」と心の中で叫びますねェ・・・(笑)。結局、取引商社と取り引きのある紡績や合繊メーカーを紹介してもらったり、浜松支店を紹介してもらい、課員の方と浜松の産元商社に同行セールスをしました・・・一方で、独自に繊維の専門商社や紡績や合繊メーカーに飛び込みセールスをしました・・・飛び込みセールスなんて、サラリーマン時代以来です。しかし、この経験が無ければ前に一歩も進めなかったのです。1年間に1000人と名刺交換というセールス三昧のサラリーマン時代の経験が、「対人耐性力」をつけたのでしょう・・・場数を踏む事によって、平常心を養えたというのは、どんな場合でも言える真理ではないでしょうか。それが特定の相手としか交渉しない織物業界から、不特定多数の一般ユーザーを相手にするトランクルームや不動産やスタジオのビジネスにプラスになるとは夢にも思いませんでした。「人生、無駄な事はひとつもない」というのは、やはり人生経験を積んできた50歳以上になってから初めてワカルものなんですねェ・・・まァ、幸い繊維業界(綿織物)なんて広いようで狭く、何処へ行っても弊社の名前は知られていたので、売り込む分には楽でしたねェ・・・しかし注文は取ったものの、これまでの「少品種大量生産」から「多品種少量生産」に切り替えるのに苦労しましたねェ・・・更に、100%高級衣料でしたので、これが苦労に輪を掛けました・・・(涙)。現場がひっくり返るというのは、この事を言うのでしょう・・・苦労しましたが、結局この新しい現場体制が整ったのも、4,5年掛ったでしょうか・・・まァ、ホントきつかったですが何とか乗り切る事が出来、これに大いに自信をつけました。本を読んだりセミナーに出たり自己暗示で自信をつけるなんていうのはナンセンスだと、自ら苦労したらよく分かりますねェ・・・という事で、アクシデント(父の急死)に直面し「ならば、1人でどうするか?」で、メインバンクと取引商社の両方の一社依存から脱却したのですが、その他長年取引のあった税理士や運送屋も当然見直しの対象になり、泣く泣く変えました・・・(涙)。変えなかったのは町内の親戚が営んでいるガソリンスタンドだけで、マシン油やガソリン、車検や火災保険はそのままにしました。変更の主因は勿論値段ですが、それ以外の事を考慮するのも地域社会で生きている限り大事な事です。取り引き相手からチョッと厳しすぎると思われているかもしれませんが、会社を存続させ家族と従業員を守るためには致し方ありません・・・ビジネスはボランティアではありません。競争であり、ある意味戦争なのです。本陣を守るために、前線で死力を尽くして闘うしかないでしょう・・・それでなくても、起業しても10年で95%が倒産廃業するというのが日本の厳しい現実社会です。まァ、見直しをする事によって、「これだけ無駄があったのか・・・」と驚きの連発です。自分が甘かったという事の裏返しで、大反省しきり・・・今だから言えますが、何人もの業者からダマされた事もありました。もちろん、その時は全く分かりませんでしたが、後になってワカッテくるのです・・・騙す方も巧妙です・・・後で分っても後の祭りです。こんな失敗も勉強です・・・経営に打撃を与えられれば問題ですが、デッドボールくらいで済んだのが幸いです。まァ、自分の不甲斐なさに呆れ、今度こそと心底身に染みただけマシでしょう・・・その私を騙した業者らも、風の便りに良い噂を聞きません。やはり、人を騙すと(悪い事をすると)自分にシッペ返しが必ず来るのです・・・親父が亡くなってから9年間は、決して転業(廃業)を目指していた訳ではありません。日々の仕事を黙々と9年間熟してきただけです・・・8年目に、フッと見上げると「転業(廃業)」という脳裏に浮かび、そして1年後に実行したのです。30数年前に茨城県日立海岸であったウインドサーフィンの全日本選手権(トライアングルレース)で、一辺が1キロメートルと長すぎて、目標のブイが外海なので波とうねりで全く見えないのに驚きました。地方のレースだとせいぜい一辺500mくらいで波もそれほどないので、目標のブイが見えるものでした。目標が全く見えない・・・こんな不安な気持ちは初めてでした・・・更に全日本選手権でしたので、関東勢の東京弁も不安な気持ちに輪を掛けました・・・ヨットレースと同じように、権利艇が非権利艇に「スターボー(右舷の意味)」とか「下(しも)」と声を掛けるのですが、これを彼ら関東勢は「スターボーだぜ!」とか「下だよ!」と大きな声で叫んでくるのです・・・(驚)。酷いヤツになると、「下だぜ!テメエ!何やってんだ!」・・・と。これって関西の人間にとって、結構きつく聞こえるのです・・・これに負けまいと、「スターボじゃワレ!」「下じゃ!」と言い返しましたが・・・(笑)。取り敢えず、自分のポジションから波と風向きを考えながら周囲のライバルも視野に入れながら、風上に上って行く・・・そして、100m手前でやっと目標のブイが見えてくる・・・みたいな。レースは強風なら1レース1時間で勝負が決まりますが、人生のレースは長いです。転業(廃業)するだけで、元を正せば9年も掛っていますが、実際は自分の「考え方」を日々確認しながら仕事をしているだけです・・・やはり、事を成すには時間がかかるものです・・・突然思いつき、即転身・・・なんて言うのはあり得ません。「スタジオ0724」も最初の構想の2室の防音室(2006年)から、実際のオープン(2016年)まで10年もかかっています。日々一生懸命織物業の仕事をしていて、ある日フッと「全部やり尽くした・・・これ以上は無理。将来性は無いし、余裕のあるうちに止めよう・・・」と決断したのでした。前もって廃業準備を万全にしましたので、2006年3月31日18:00の「工場全面停止」時には、余った在庫は「経糸半反」だけでした。結局、経糸を半反(55m)捨てただけの損害で済みました。倉庫内の糸や織物は全部出荷して、スッカラカンの在庫ゼロ。筬はすべて売却し、機械部品も在庫は殆んどゼロ。織物設計で培った綿密かつ緻密な計算が効を奏したのかと、自信をつけた次第です。翌日の4月1日は従業員は新たな職場へ出勤、織機などの設備機材も既に売却先が決まって出荷準備の業者の作業と並行にトランクルームへの改造工事も始まりました。廃業した2006年は北京オリンピックの2年前で中国経済は絶好調で、織機や金属関連は飛ぶように売れたのも幸いしました・・・リーマンショックの2年前でもあり、あと2年無理して頑張っていたら大不況の嵐に飲み込まれていたでしょう・・・正に、グッドタイミング。それが、ちょうど今から11年前でしたねェ・・・(涙)。まァ、正に私が厄年の20年前の親父の急死をキッカケに「ならば、1人でどうするか?」という根本的な生き方(仕事の仕方)と真摯に向き合わざるを得なかった経験が今の私を作っていると思います。それが、トランクルームと不動産とスタジオの3つを「1人でヤッテいる」事に繋がっているのでしょう・・・そして今回のテーマのように、廃業するだけなら9年もかかるはずもなく、廃業(転業)は単なる通過点で、その後のソフトライディングも含めての準備期間と捉えて欲しいのです・・・20代から50代のサラリーマンの「転職」で言うなら、在職中に社外でも自分の実力が通用するように何年もかけて実力を養うようにして、イザ「転職」したならその後スムーズに仕事が出来るようになる事です。もちろん会社側は、有能な人材が社外に流出(退職)しないように、社外で全く通用しない社内資格とかを取らせようと必死ですが・・・私と同年代の60歳「定年」で言うなら、60歳以降の収入激減に備えて、そのような事態に陥らないように何年もかけて定年後の「起業」や「転職」の準備をする事ですねェ・・・定年から平均寿命まで20年から30年と長く公的年金も65歳からなので、老後破産などの悲惨な老後を向かえない為の実践的な対策だったのです・・・にほんブログ村 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2017.04.08
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忘れもしません・・・今からちょうど10年前の2006年3月31日に、祖父の代から約60年続いた織物製造業を廃業しました。それから10年・・・アッと言う間でした。廃業宣言は、その1か月前の2月28日。それまでは一切その情報を家族以外漏らさず、まず従業員に知らせました。そして銀行、取引商社、仕入れ先の順に知らせました。親戚や友人や知人はその後でした。特に、従業員に廃業を伝えるのが一番辛かったですねェ・・・話しているうちに、感極まって不覚にも涙がこぼれてしまいました・・・大人になってから人前で泣いたのは、これが初めてです。一生一代の「宣言」ですから、色んな事が頭を錯綜し、前日の夜はなかなか寝れなかったのは言うまでもありませんでした・・・丸一日かけて、順次連絡をしていきましたので相当精神的に疲れました・・・廃業を決意したのは半年前の前年10月上旬で、それから順次受注量を調整し、機械の部品在庫を減らしていきました。廃業宣言日まで土日関係なしに24時間フル稼働していましたので、誰も気づきませんでした・・・実際、3月中旬までそのままフル稼働で、24時間稼働のまま残り2週間で、1台づつ織機がボチボチ止まり出して、最後の3月31日18:00に工場が完全停止した時は、タテ糸が半反残っていただけでした。自分でも驚くくらい緻密かつ計画的に計算した結果、最終的にたった縦糸55mだけしか残らなかった結果に大いに満足しました。倉庫には糸も織物も在庫ゼロで、文字通りスッカラカンの状態で、翌日の4月1日には従業員が誰も来る必要はなく、私ひとりでガランと音のしない工場で廃業の実感を感じたものです・・・子供の頃から、年中「ガチャガチャ・・・」という音で育ってきた者にとって、シーンとした工場なんて想像外でした。ちょうど、お百姓さんが台風被害で作物が全滅したのとよく似た心境です。この時の心理状態を何と表現すればいいのでしょうか・・・寂しいとか、情けないとか、悲しいとか、不安とか・・・体験したものでないと分らないでしょう・・・しかし、一方で苦しかった織物業から解放され、晴れ晴れ?した気持ちもあり、「イヤ、そんな事を考えてはダメだ!」というそれを打ち消そうと葛藤する心も反対にあり、何とも言えませんでした・・・いずれにしても、「トランクルーム」という全く新しい仕事にチャレンジすべく行動を起こさないといけませんので、廃業宣言をした翌日の3月1日から工場が全面停止した31日までの1ヶ月間、織機や設備関連の売却(輸出)交渉とトランクルームへの改造プランで工務店との細かい打ち合わせで忙殺されました・・・私が41歳の時に父親が急死した時と同じように、ユックリ想いに耽っている間もありませんでした。中小零細企業のオーナー経営者というのは親の子供であり、子供の父親であり妻の夫という立場ですが、会社が非常事態の時は全身全霊で会社経営に取り組まないと、現実問題トテモ難局を乗り切る事は出来ません・・・父親急死の時はまだバブルの余韻が繊維業界に残っており、今回の廃業時も幸い北京オリンピック前の中国経済が絶好調でしたので、そこそこの値段ですべて売却できました。これが2年後の2008年だと、リーマンショックですべてがパーでした。まァ、たまたま運が良かったんですねェ・・・(涙)。そして売却先が決まり、何億も掛けた機械設備が大きなフォークリフトで次々と運ばれていきます・・・織機に付着した微塵や油が、私の涙を誘います・・・(涙)。織機にそれぞれ番号が付けてあり、その番号を見ると、20年間の思い出が次々と浮かびます・・・そうなんです・・・人間と一緒で織機にも「クセ」や「特徴」があったのです・・・わが娘を嫁がせる父親の様に、「中国で頑張ってや・・・」「これまで稼いでくれてありがとう・・・感謝してます・・・」・・・地下ピットを埋め、空調機のファンの解体、コンプレッサーの搬出、高圧電気室(トランスや分電盤)の解体、検反器と梱包器の搬出、ワインダーの搬出、掃除ロボットとモノレールの取り外し、配管の取り外し、ダクト類の取り外し・・・新工場建設時に苦労して設計導入したものが次々と撤去されるのを見て悲しくなりました・・・(涙)。400枚もあった倉庫のパレットは、半分は知人に無料で引き取ってもらいましたが、半分は軽トラに積んで自分で岸貝クリーンセンターに何十回も運んで廃棄しました。2階の4.5mまで揚がる3段マストのフォークリフトは最後まで処分に迷いましたが、結局トランクルームでは邪魔だと判断して、業者にたった10万で売却しました・・・(涙)。フォークリフトを買うと同時に免許を取り、ほぼ毎日乗っていましたので、今でもコレで飯を食う自信があります・・・(笑)。これこそ、正に免許より実践です。先祖代々長年業者間ビジネスしか知らなかった織物オヤジだった者が、エンドユーザーとの直接ビジネスのトランクルームオヤジへの「転換」は、当たり前の事ですが、49歳という精神的肉体的な年齢的な事も重なって、当初相当苦労と痛みを伴うモノでした・・・(涙)。これまでの経験や実績を全否定されたようなもので、チラシやカタログをマンションの集合ポストに配布していると、警備会社や警察に通報されたり、目の前でゴミ箱に捨てられたりすると、人格まで否定されたような気がしました・・・(涙)。またトランクルーム開業後の3か月間は殆ど集客出来ず、ついに同業他社の織物工場で再び製造現場で働かなくてはならなかった時は(結果的には1年半も働いた)、ホントに「何でまた?」という気持ちで精神的にドン底でした・・・(涙)。しかし、下の子供がまだあと1年間学費が必要でしたので、授業料を支払う為に働かざるを得ませんでしたので、「よっしゃ!もうひとガンバリしよう!」となった訳です。人間、ある程度プレッシャーがなければ働かないモノです。まァ、そんな経験も今となっては笑い話で済んで、ほんまヨカッタです・・・(涙)。転業後しばらくはお客もなく収入もなかったので、仕方なく他社の織物工場で1年半働きながら、そのうち9か月間は朝2時に起きて宅建の受験勉強をしてシンドカッタですが、宅建に合格したらファイナンシャルプランナー資格も取り、1年後にコンサルティング的な不動産屋も開こうという「新たな希望」がありましたから頑張れたのでしょう・・・しかし、全く素人から始めたシンドイ宅建の勉強も一発で合格しなかったら自分の才能に見切りをつけて、「他の道」を探そうと心に決めていました。それほど、受験勉強がシンドカッタのです・・・(涙)。毎日12時間のキツイ肉体労働の後で実質4時間半の睡眠時間しかとれず、50歳で初めて耳にする専門用語に戸惑いナカナカ頭に入りません・・・何回読んでも理解できませんでした・・・(涙)。トイレの四方や食卓前に暗記事項を貼り、車に乗れば音楽ではなく宅建CDを聴いて、夢にまで宅建用語が出てきたのは言うまでもありませんが、家族は黙っていますが、さぞ迷惑していたのだろうと思います・・・過労と疲労でいつも睡眠不足の状態でしたので、早朝の勉強に目薬とガムが必須で、時には鼻から吸引する目覚まし剤も使ったり、平手で自分の頬を思いっきり叩いたり、痛みで目が覚めるように剣山を手の甲の下に置いたりしました・・・この時思い出したのは、極真会の大山倍達の山籠もりの経験談や、ウイッキーさんがスリランカら出てきて睡眠時間2時間で東大首席で卒業した話でした・・・(涙)。この話を思い出し、「これくらいの努力は、彼らに比べれば大したはない!」と自分に言い聞かせるのでした・・(笑)。受験勉強開始3か月後に方針を大転換して、「順番に理解して覚える事をやめ(時間が掛りすぎて試験日に間に合わない)、勉強範囲を狭くして過去5年分だけの問題を100回繰り返そう!」という戦略に賭けたのです・・・問題を読み、直ぐに解答を読む・・・100回は無理でしたが、3,40回は繰り返している間に自然と覚えてしまい、不思議と理解もできるようになりました・・・試験当日は、模擬試験を受けていなかった為、開始後30分も頭が真っ白になってしまいましたが、知らないうちに「地力」が出来ていたのか、ボーダーラインより2点オーバーで何とか合格できました。この経験で得たのは、最終目的からの「逆算」の重要性です。若い人でも時間は無限ではなく、有限です。ましてや、オッサンには残された時間が少ないのです。何をしたいのか(目標)? 自分の知力&体力&財力(資力)は? 残された時間は? この3つのベクトルは合っているか?努力している過程で、「このままでは試験(目標)に合格できるのか?」と逆算すると、おのずと今の行動(努力の方向性)を見直しをせざるを得ません。8年前に不動産屋を開業してからも、張り切って自分なりにイロイロと試行錯誤と努力を積み重ねてきましたが、今の貝塚市に絞った「狭く深く」というスタイル(仲介のみ)にしたのは、ここ3,4年の事です。そして、今年に入り「レンタル音楽スタジオ」を開業したのも、正に人生の「逆算」発想からでした。今年還暦を迎えますが、これまでの人生を振り返ると、もう充分に仕事をしてきました。子供時代からの家業の手伝いも含め、時間的にもう人の3,4倍は働いてきたでしょう・・・日本人男子の平均寿命の80歳で、この世を去ると考えて「逆算」すると、悔いに残っている事がいくつかあります。残り20年(しかし体力&知力はこれから増々下り坂で、病気も増えてくる)・・・たった20年と諦めるか、まだ20年と食らいつくか・・・事実は一つ、考え方は二つ。その中で「実現可能」な事として、音楽をヤロウ!と考えたのです。その手段として、レンタル音楽スタジオをトランクルーム内に作ろうというアイデアが浮かんだのでした・・・ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2016.05.26
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昨日は、織物時代にお世話になった伊藤忠OB社員らと大阪ミナミの心斎橋で食事会でした。伊藤忠・綿スフ部OBと取引先の織物会社の飲み会です・・・銘打って「第1回呑んダべ友の会」です。発起人は、元部長Kさんです。元々伊藤忠と弊社の関係は、私が生まれる以前の織物創業時代の昭和20年代に遡ります。今年3月期の決算で総合商社で三菱商事を抜いて純利益トップに躍り出る、日の出の勢いのある連結売上13兆もある日本を代表する世界の伊藤忠ですが、元々江戸末期に「糸商」から出発し、明治時代から糸や織物で大阪南部(泉州)の繊維産地(織物、紡績、毛布、タオル、ニット)と深く拘わってきました。弊社にとってキーパーソンに当たるのが、Kさんの上司に当たるS元本部長でした。1970年の私の実家新築の上棟式に駆けつけつけてくれたというのですから、相当古い付き合いです・・・そんなSさんが入社してから糸の販売だけでなく織物産地ともっと関係強化の為に、昭和40年代に「産地織物課」を作って、伊藤忠の売上に大いに貢献したのです。元々弊社は他の同業者と同じように「糸買い布売り」の売買スタイルだったようですが、これを機にリスクの少ない「委託加工(賃織り)」に徐々に変わっていったようです。また織物も終戦から昭和40年代の高度成長期にかけて、泉州の同業者の機屋が簡単な「平織」が多い中にあって、当時チョッと難しくあまり手掛けていなかった和布団向けの「サテン(朱子)」を早くから織り始めたり、西ドイツ向けの輸出用の幅広50ポリエステルローンを織るために、他社に殆んど無かった75インチ幅広織機を導入したといった話をSさんから聞くと、親父も先見の明があり研究熱心だったんだなァ・・・とつくづく思います。確かに、食事の際にそんな話を親父から自慢話として聞いた事がありました・・・子供の頃って、一番怖いのは父親なので、はやりイイ悪いは別にして、親父の言う事はよく聞いているんですねェ・・・小学生や中学生の頃に、親父に連れられ、親しい同業者の織物工場へよく行きました。当然、何の関心もない私でしたが、工場の機械の音や油や風綿の臭い、大人同士の会話ややり取りの中に、無意識ながら「うちは、これで生計を立てて(メシを食って)いるんだなァ・・・」と子ども心に思ったものです。これが親がサラリーマンだと親の仕事が全く見えず、「何故?ここで住んで、何で?飯を食べれるのか?」という素朴な疑問も湧くはずもないでしょう・・・睡眠薬を飲んで昼に寝て深夜に工場で働いている両親を見て、「お金は身を削って稼ぐものだ・・・」と早々と経済観念を植え付けられたのがヨカッタのかも・・・まァしかし、本当にお世話になったのは、私がサラリーマンを辞めて家業に戻ってきた昭和60年からで、その後の工場新設で同じ従業員数で生産量がいきなり4倍になっても、100%賃織りスタイルを維持してくれました。そして織機更新の機種(エアージェット織機)選定でも、当時伊藤忠機械部隊が代理店をしていた日本でシェア90%のA社製ではなく、ライバル関係にあるシェア10%しかなかったB社製のエアージェットを弊社が導入してもその姿勢は変わりませんでした。これにはホント、いくら感謝しても感謝しすぎることはありませんでした・・・伊藤忠と取引のある同業他社の多くはA社製を導入していましたので、100%賃織りの弊社だけがB社製を選んだというのを不思議がっていただろうと思います・・・弊社の織物製造の基本である「品質第一」という理由で「バックローラーが2本で綾枕というクレームが出にくい」と見抜いたB社製を選んでも、何も商売に影響はなかったのはSさん懐の深さのお蔭でした・・・(涙)。同じ会社でも、織物は織物、機械は機械だ・・・と。実は弊社もA社製の契約寸前までだったのですが、最後の最後まで織機理論から考えて「バックローラー1本は品質に問題あり」と睨んでいたのです・・・その証拠に、機械展(OTEMAS)でA社製のブースに行くと、綾織で綾枕(クレーム)の出やすい太番手ジーンズを織るエアージェットだけは「バックローラー2本」だったのです。メーカーも隠していたかどうかは知りませんが、見えにくいポジションで、「後ろ(バックローラー)を見せてください」というと断られました。それで、ピーンと来たのです・・・世の中多くの場合、真実は隠されているものです・・・本当の名門や金持ちは質素にして貧乏を装い、借金だらけの人間や成金は金持ちや名門を装い見栄や虚勢を張る・・・料理に隠し味があり、空手の「形」を分解すると、その中に隠し技があるのですから・・・そのギリギリのところを見抜くか否か、見抜かれるか否か・・・その辺が、厳しいビジネスの勝負の分かれ目です。異業種交流会やセミナーに参加しても得る事は少なく、代理店やフランチャイズも本部だけが儲かるのもそういう意味です。男と女の出会いにしても、私のように長い恋愛期間を経て結婚した場合はリスクがまだ少ないですが、若くしてデキちゃった婚や見合いで慌てて結婚した場合はリスクが高いというのも、そうかもしれません・・・まァ、普通に考えれば当たり前の事ですが、一番知恵を絞って「考えた」ところしか儲からないのです。だから、不動産屋でも10年で80%倒産廃業、一般でも起業すると95%が10年以内に倒産廃業すると言われますが・・・普通に考えればごく当たり前の事ですが、「普通の人が普通の事をすれば必ず失敗する」というのが厳しい現実だと思います。まァ、そんな理由でB社製のエアージェット織機を選び、今回もあの時の感謝を伝えました・・・親父も天国で喜んでいると・・・(涙)。100%賃織りという事は、営業が不要で、織物生産に専念できるというメリットがありました。私もこのエアージェット織機(新型機械)導入時期は人生で最もよく働いた時期で、最初の2年間は男子従業員も雇わず現場の主要な仕事を1人で全てこなし、朝5時から夜10時まで土日関係なく働き通しでした・・・(涙)。しかし残念がら織物業の最後の10年間は、時代の趨勢と伊藤忠の更なるグローバル化で、100%委託加工の維持も難しくなり、弊社も生き残りの為に専門商社や産元へ取引先を変更せざるを得なくなりました。工場稼働を100%キープする為に、サラリーマン時代の営業経験を思い出して新規開拓に必死になり、初めて世間の現実の壁(厳しい風)に当たっていた時に思ったのが、「如何に賃織りで守られていたか・・・」という事です。1回の発注量の少なさ、品質の厳しさ、多品種小ロット、支払い条件、織物の難易度・・・全てにおいて、これまで如何に「甘かった」かを思い知らされたのです・・・試行錯誤で悪戦苦闘しながらノウハウを体得するまで2,3年は工場現場が多忙と煩雑さでひっくり返り、糸と織物を管理する事務処理(受け渡し)も複雑すぎてパソコンを導入せざるを得ませんでした。しかし、従業員を増やすことなくキチンと対応できるようになると、大きな自信に繋がりました。と言うか、それまで私は昼食に近くの自宅に帰っていたのですが、1分でも時間が惜しいので、それをやめて弁当持参で工場に張り付くようになったのですが・・・そりゃ、従業員の2倍の1日15時間も休みなしに働き心身ともに疲れ切っていたので、自宅で昼食をとりユックリ昼寝でもしたいところです。社長がそこまで「覚悟」を決めたら、従業員も襟を正すしかないでしょう・・・(笑)。大事なのは、「ここが正念場だ!踏ん張るぞ!」という経営者の実際の行動で示す「覚悟」です。「みんな、頑張ってくれ!」と、口先だけなら誰でも言えます・・・大企業なら通用するかもしれませんが、零細企業はそうは問屋が卸しません。経営者の言動が伴って初めて従業員は動かされるものです・・・24時間稼働でしたから、深夜の従業員の管理が一番難しいところで、夜中に機械が故障したりタイイング(経糸繋ぎ)する必要があれば、深夜の1時2時でも工場に「出没」していましたから、従業員もさぞかし私の「覚悟」を悟って驚いていたでしょう・・・(笑)。家庭で子供が父親を見るように、会社では従業員が社長を見ています。それが今、トランクルームや不動産、これからスタジオ経営ですが、これもすべて独りでヤッテいけるベースになっていたのです。織物時代の苦労がなければ、せいぜいトランクルームだけで終わっていたでしょう・・・今から思えば「100%委託加工」というのは、「すべて面倒を見る」という事ですから、相当なプレッシャーだったろうと思うのですが、当時はそんな契約書もなく単なる口だけの話でした。今から考えると信じられませんが、糸を弊社に出荷するのも電話だけで、発注書も何もありませんでした。月産20万mも織って(生産)いましたので、相当な糸量です。そこにあるのは、互いの「信用」だけです。そこには単なる取引ではなく、公私含めた取引以上のものであったのは言うまでもありませんでした・・・昔の繊維ビジネスは、信用だけでそこまで出来たのです。子供の頃から親父から「信用第一や・・・」とよく言われていたのは、そういう事だったのです。厳密に言えば普通の織物取引と違い、昔の委託加工(賃織り)形態の商売は今の情報的機械的な与信管理ではなく経営者の人柄を見るという意味で、今は少なくなった浪花節的ビジネスだったのです・・・単に、売って買っただけではなかったのです・・・そこには長い歴史があり、今では忘れかけてきた義理人情といった浪花節があったのです・・・だからこそ、4,50年経っても、今回のような飲み会をやろうと言っても、大勢参加するのです・・・(涙)。また20数年前に、綿スフ部の若手男女社員ら20人くらいで日本海に旅行に行った際、私も誘われてウインドサーフィンを車に積んで行った思い出も蘇えりました・・・殆んど忘れかけていた思い出が蘇えったのです・・・不思議ですねェ・・・人間の記憶って・・・毎日、新しい事を追いかけるのもイイですが、たまに旧友と会って思い出話に花を咲かせるのも頭の活性化にイイのか・・・(笑)。という事で、久しぶりに酔っぱらってしまいました。ホントにお世話になったSさんとKさんだけでなく、みんなに会えて・・・(涙)。そして、SさんやKさんが立派な上司だったからこそ、その部下で「産地織物課」の弊社の歴代担当だった営業マンがその後、伊藤忠ファッションシステムやエドウインの社長になったのだろうと思います・・・やっぱり振り返ってみると、私の人生の中で織物時代が一番長く思い入れがあったからです・・・物心ついたころから、織物工場で遊び、女子寮や隣接する祖父母の家で女子工員さんや叔母さん達にとても可愛がられましたから・・・織物商売現役の頃は、毎週金曜日に行くとよく飲みに行ったものです・・・私についたあだ名が「ミスターフライデー」・・・本町界隈では、チョッと有名でした・・・(笑)。正に織物時代の経験なくして、私の人生は語れません・・・という事で、この会もこれから半年に1回するようで、また楽しみも一つ増えました・・・(笑)。ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2016.03.27
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年末に自分の部屋を片付けていると、織物時代の写真が出てきました・・・眺めていると、昔の思い出が蘇えります・・・写真は織物時代の後半に導入した新しい織機「エアージェット」で、何億という大きな借金を背負って導入しましたので、工場を止めるのは盆と正月のみで(年355日稼働)、それ以外は24時間稼働で動かしていたのです・・・年末は12月31日の朝5時まで従業員で稼働させ、従業員が帰った後、私ひとりで夕方6時まで機を織っていたものです・・・年始は1月3日の夕方から、また私ひとりで工場を4日の従業員の初出の翌朝まで稼働させていたのです・・・特に3日の始業時は、丸3日間機械を完全停止していましたので(0℃で完全に冷え切っている)、順調に動く事はまずなく、いつも機械トラブルに奔走していたのが懐かしく思い出されます・・・世の中がまだまだ正月気分に浸っている時に、油だらけで悪戦苦闘している自分が情けなく思ったものですが、1時間でも長く稼働させ織物生産を上げ、借金を早く返さないという思いだけで頑張っていたのです・・・誰からも強制された訳ではありませんでしたので、身体が自然と工場に向かわせました・・・モチロン、精神的にルンルンで工場に行ったと言えばウソになり、小さかった娘らともう少し遊びたかったのは言うまでもありませんでした・・・しかし、そういった欲望を断ち切れたのは、身体が弱かった親父に代わり「俺しかいない!」という強い想いだったのでしょう・・・親父が身体が健康で現役バリバリだったなら、ここまで強くなれなかったでしょう・・・個人的には「不幸中の幸い」という言葉では決して割り切れないのです・・・だから、今でもそれがトラウマになっているのか、夢でたまにうなされるのです・・・(笑)しかし、当時の機械設備は「世界最新鋭」でした・・・トヨタ自動車の親会社である豊田自動織機が開発したエアージェット織機で、当時実用運転で1分間に400~500回転くらいだったのが、いきなり「世界新」の750~800回転で運転しようとしたのですから・・・800回転はさすがに無理でしたが、750回転の常用運転には成功しました・・・これで一時期、大きな自信を持ちました・・・しかし、いきなり50%以上も機械スピードを上げたものですから、その後破損トラブルに見舞われました・・・勿論それらのトラブルは織り込み済みでしたので、機械メーカーと部品メーカーと一緒になって改善策を講じました・・・ある意味、織機メーカーの「実験工場」的な要素をもって工場稼働していましたので、メリットもスゴクありました・・・やはり、先行者メリットの享受というのは大きいです・・・他社に先駆けて、「新工場」建設から機械設備をすべて変えたものですから、機械性能を100%発揮できました(地下ピット全風量の空調設備と完全防音防振で)・・・これが、旧工場の改造だけで機械を入れ替えたら、投資金額が少なくて済みますが、機械性能を100%発揮できませんでした・・・この辺の「読み」も当たり、その後20年も生き残れたのでしょう・・・そして、バブル前年の円高不況に導入したというのも、絶好のタイミングだったように思います・・・日本全体が大不況の時に設備投資をしましたので、建物も機械もすべて安く買えました・・・同業他社は、バブル期に入ってから一斉に導入し始めましたので、弊社より高く買っています・・・バブル期に入ってALC壁も鉄骨材も機械設備も人件費も急騰しましたから・・・このウン千万円?のイニシャルコストの差はとてつもなく大きいと思いますし、それより他社がバブル期初期に設備でモタモタしている時に、高級羽毛布団の受注が完全に軌道に乗り絶好調だったのが大きかったですねェ・・・まァ、そういう意味で2番手以降というのはメリットは少ないですし、場合によっては命取りだったのです・・・この1年の差は、正に生死を分けました・・・イヤ、半年の差か・・・「タイミング」こそ、すべてか・・・家業に戻る前のサラリーマン時代に、同じような経験をしました・・・大卒後すぐに入社した建築建材金物メーカーで、私の学生時代の経験を活かしてウインドサーフィンのパーツ(アルミやカーボン製のジョイント、ブーム、マスト)の開発販売を試みようとしたのです・・・入社したての新入社員に全権を任せ、特許庁への調査や素材メーカー(アルミ、カーボン)や総合商社との研究や交渉をひとりで仕切り、業界の裏側を垣間見て恐ろしくなりました・・・これがニュービジネスの実態・・・ココまでヤルか、と・・・詳しくはトテモ言えませんが、ひと頃の太陽光発電に群がる海千山千の業者達のようでした・・・この間までウインドの一愛好者だったのが、業界人になると全てが見えてくる「恐ろしさ」・・・この経験が、ホント「イイ勉強」になりました・・・結局、開発段階で総合的に判断すると、断念せざるを得ませんでした・・・しかし、その数年後にウインドサーフィンのブームが去り、胸を撫で下ろすと共にビジネスの難しさを痛感したものです・・・そういった経験で、家業に戻ってからの新しい機械設備導入と、その20年後の廃業の「タイミング」をウマく出来たのかも・・・いずれにしても、サラリーマンか経営者か責任の大きな違いがありますが、「経験こそすべて」というのをこの年になって改めて実感します・・・という事で、今ノホホンと気楽そう?にトランクルームと不動産屋を営んでいますが、「土台」にはこれまでこういった経験があったのです・・・若い頃から不労所得とか言って、不動産投資や株式投資・・・働かずに苦労せずに稼ごうという風潮がありますが、一時的に成功しても人生最期まで続くかと言えば難しいように思います・・・古い考え方かもしれませんが、「若い時は、買ってでも苦労せよ」というのは、ネット社会になった今でも十分通用すると思うのです・・・若い時は肉体的精神的に苦労して、年齢によって「働き方」を変えていくべきものだと・・・ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2015.01.03
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人生を振り返って、「あの時、思い切ってヨカッタ・・・なァ」なんて事が、2つあります・・・この2つが無ければ、どうなっていたかと思うと・・・先ずは「織物工場の新築」です・・・サラリーマンから家業に戻って3年目で、織物機械(織機)を一新するに当たり、古い工場を壊して新しい工場を新築したのです・・・古い工場を改造して新しい機械を導入する事も可能だったのですが、「織物品質第一」に考えれば、どうしても新築して空調設備で地下ピットを掘って完璧にする必要があったのです・・・これが他社との差別化です・・・やはり、設備投資に何億もかかる「一世一代の大勝負」です・・・これに勝たなければ、倒産です・・・当時は、そこまで思い詰めていましたし、実際その通りです・・・そして新築して大正解でした・・・織機の性能を100%近く引き出すには、入れ物である工場がキチンとしていないのダメだったのです・・・建築コストが掛かりましたが、手前の事だけを考えるのではなく、ビジネスはある程度マクロに考えなければならないと思います・・・そして最も大事なタイミングですが、バブルの前年に設備投資したのが非常に幸運でした・・・これで、他社より設備コストが約3割は安くでき、翌年のバブルに入り織物の注文が殺到しました・・・ひょっとして、私の人生でこの「ベストタイミング」が生死を分けたかもです・・・また、この新工場があったからこそ、この工場を利用して、今のトランクルームビジネスが出来たのです・・・そう思うと、自分の強運に感謝です・・・2番目は「親との別居」です・・・田舎の長男は、親と同居するというのが世間の常識でした・・・まして、家業を継いでいる長男が親と一緒に暮らすのは、当たり前もイイとこでした・・・私も結婚して、何も考えずに私の両親と同居したのです・・・しかしイロイロありまして、9年目についに「別居」する事にしました・・・私自身、自分でも「まさか!」という思いでしたが、そういう思いを吹っ切って「これがベストの選択だ!」と決断したのです・・・そりゃ、周辺の名もない噂や憶測が飛び交っていたと思います・・・取引先の部長から「どないしたんや?」と直接電話がかかってきたりして大変でした・・・当時1社としか取引していませんでしたから、そこの跡取り息子に何が起こったのかと、青天の霹靂だったのでしょう・・・実は、直接私に「何でや?」と詰め寄る人間も何人かいました・・・しかし、そういったモノを全て自分で受け入れる事にしたのです・・・「ゴチャゴチャ文句あるなら、俺に言うて来い!」と・・・チョッと古い?かもしれませんが、それが、父親であり、主人であり、経営者であり、跡継ぎであり・・・男だと思うのです・・・そして家内とまだ小さかった子供3人連れて、町内の小さな賃貸マンションに引越しました・・・この「家を出て行く」時の表現を、何と言ったらイイのでしょう・・・もう一生、親と一緒に住む事はなく(家業と家を継ぐが)、自分の家族を守るために出て行く・・・無理して、敷地内に小さい家を建てる事も可能でしたが、中途半端になると思い止めました・・・そして別居する時に、下の子供が小学校に入学する2年後には別の場所に家を新築するという「覚悟」と「計画」を抱いていました・・・それが、家族をハッピーにする私の使命だと・・・会社の借金にプラスして、家の新築の借金が増えますが、それは頑張るしかないと・・・借金を抱えた者は強いです・・・まァ、そういう事で、織物工場を年間10日しか止めず(355日稼働)24時間フルのエンドレス稼働で、20年間は死に物狂いで働きました・・・今から考えると、身体と精神がよくモッタものだと感心します・・・結果、家業が上手く回る事によって、親世帯含めてファミリー全体にウマくいくようになりました・・・家の跡取りはある意味(チョッと、言い方が古いですが)、船の船長です・・・港に無事着く事が目的で、視線は近くと遠くと両方見ないと座礁してしまいます・・・そして、自分独りの判断がファミリーの存亡に大きく関わってきます・・・まァしかし、親父に似たら男前で背が高かったかもしれませんが、身体が弱かったでしょう・・・母親に似て背が低くても、身体が丈夫でしたのでヨカッタです・・・(笑)男は顔や身長とちゃまっせ・・・男のチャームポイントは、歯と目と内臓でっせ!と、いつものようにポジティブに考えています・・・(笑)ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2014.05.19
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今、日米TPP交渉で、豚肉の日本への輸入関税でまだ揉めているようです・・・思い起こせば、ちょうど40年以上前の中学生の頃、日米は日本の対米輸出繊維製品の事で揉めていました・・・日本の安い繊維製品がアメリカに輸出され、アメリカの繊維産業が窮地に立たされたのです・・・そこで1968年の米大統領選で、繊維製品の輸入規制を公約したニクソンが、米国と沖縄返還交渉を進めていた佐藤栄作首相は69年の首脳会談で、返還に合意すると同時に、対米繊維輸出を自主規制すると伝えたのです・・・繊維輸出と沖縄返還を絡めた交渉は「糸(繊維)と縄(沖縄返還)の取引」と言われましたが、繊維交渉は決裂し、71年6月の沖縄返還協定調印後、日本が輸出規制と引き換えに繊維業界に補償することで決着し、72年1月に日米繊維協定が調印されたのです・・・それまでは家業の織物業はイケイケドンドンで、設備の半分のシャットル織機を入れ替えてまで、主に西ドイツ(当時)向けの広幅ポリエステル短繊維織物を主力に織っていました・・・工場も24時間稼働で、日曜の昼まで工場が動いていましたので、子供ながら景気がイイのだなァと感じていました・・・ところが、この日米繊維協定の日本の輸出織物の自主規制と翌年に起こったオイルショックのダブルパンチで、家の中では大変な事になってきたのです・・・親父から「明日から風呂は2日に1回やどォ」「ジーパンは1ヶ月洗濯するな」等々・・・という具体的な節約指令が子供にも出たのです・・・これには、子供心に「エライ事になってきたなァ・・・」とショックでしたねェ・・・家に居ても、親父の顔色や言動が気になって仕方がないのです・・・この辺が、親父がどんな仕事をヤッテいるか?分からないサラリーマン家庭との大きな違いです・・・景気の浮き沈みが、地肌に伝わります・・・その頃から、親父は輸出織物からまだ競合の少ない国内の寝装向けのサテン(朱子)の生産に全面的に方向転換しましたねェ・・・まだ高校生であった私ですが、親父の「変わり身の早さ」に驚くと共に、商売の何たるか?をチョッと垣間見たような気がしました・・・戦後日本の復興に貢献してきた繊維産業ですが、織物産地として泉州は岸和田から堺を「泉州織物組合」、貝塚から岬町までを「南部織物組合」の2つに分けられていました(泉大津の毛布や泉佐野のタオルは別にして)・・・弊社は南部織物組合に所属していましたが、最盛期の日米繊維交渉前の昭和40年代前半では約680社ありましたが、今は約15社と98%も減っているようです・・・ナント、665社の織物工場が倒産や廃業です・・・そして繊維産業に代わって、家電産業と自動車産業が長らく日本の経済を支えてきましたが、ここに来てまた「大転換期」が来ているようです・・・これから、日本はどうなっていくのでしょう・・・?という事で、将来に向けての日本の舵取りは非常に難しい問題ですが、これからの高度成長は不可能と思いますので、100年先を見つめ、もう目先のGDPに拘らず「一時は2、30番目くらいまで落ちてもイイ・・・」くらいにドンと構えて、教育を中心に抜本的に国策を考え直して、100年後に10番以内くらいの国になっていればイイのではなかと思います・・・ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2014.04.25
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やっとパッチを履かなくてイイ、春を感じる今日この頃です・・・(笑)冷房も暖房も要らない、1年で一番好きな季節です・・・今でも思い出しますし、夢にも出て来るのが、長かった織物時代の事です・・・冬になると当然外気温も下がり、大阪でも0℃~5℃というのがごく普通ですが、織物工場内の温湿度は冬でも織物品質を確保する為にも「26℃、65%」を保っていたのです・・・織物時代は1日の労働時間は15時間くらいが普通で、そのうち12時間くらい織物現場に入っていました・・・工場内と外を1日に何十回と出入りしますので、冬になると、工場内はTシャツを着て力仕事で動き回りますので汗をかき、ドア1枚を開けて外に出ると、そこは0℃の寒い世界です・・・これって、身体にイイ訳ありません・・・特に私は高血圧なので、尚更です・・・こんな生活を、20年以上も続けていたのです・・・また織物工場内は100デシベルの騒音(織物機械のビーティング音)ですので、これも耳にイイ訳ないのです・・・1987年までは未だシャットル織機でしたので、シャットルの「金属チップの打撃音」がもっと耳に悪かったのです・・・工場内で従業員との会話もしなければなりませんでしたから、当然大きな声で喋らないと聞こえません・・・織屋さんの特徴は、難聴で声がデカいというのは、悲しいかな、こういった職場環境から来ているのです・・・また織物機械(織機)を使って糸から織物を作る際に、微塵(ミジン)という綿ぼこりが工場内に舞い上がるのです・・・これを弊社織物工場では地下ピットを掘って、工場内の空気を1時間に20回くらい総入れ替えするくらい、強制的に2基の直径150cmもするファン(プロペラ)で回して集塵していたのです・・・しかしマスクもせずに、こんな事20年もヤッテいれば、身体(肺)にイイはずもありません・・・特に廃業10年前からは、素材(糸)が綿に加え、ポリエステル、麻、ウール、シルク、レーヨン、ナイロン、アクリル、キュプラなど石油が元となる素材も「高級化」と「多品種小ロット化」で混じりだし、不安が一層増したのです・・・という事で、織物製造の「高温高湿度と騒音と綿ぼこり」という如何に過酷な現場で仕事をしていたのかと、改めて思います・・・今はそれから解放され、血圧にもイイ、一度は医者に見放された難聴も不思議と治ってきているようですし、綿ぼこりとは無縁の生活です・・・一度過酷な経験をすれば、一旦そこから解放されれば、どんな仕事でも天国に見えるのです・・・まァ、今考えると、49歳で「転業」してホント良かったと思います・・・今の57歳まで続けていたら、身体がボロボロになり気力も使い果たし、転業どころではなかったと思います・・・そして49歳の正にその時思ったのが、「6年後の55歳ではすべて遅すぎる・・・やるなら、今だ!」と・・・大きな決断の前には、経済学も評論家の意見も、コネも周囲のアドバイスも何もありません・・・あるのは、自分のこれまで積み重ねてきた「一種の感」だけです・・・それだけが頼りなのです・・・まァ、49歳と50歳の「差」はとてつもなく大きく、49歳は「まだ40代だ!まだイケる!」というココロの希望と余裕があったのです(50歳だと「もう50代!もうアカン!」となったでしょう)・・・ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2014.04.05
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定期的に、トランクルームの各部屋のドアについている「ドアノブ」の鍵穴に潤滑油スプレーを吹き付けます・・・これによって、キー(鍵)の開け閉めがよりスムーズになりますし、錆防止になります・・・全部で171室ありますので、移動時間も含めて1か所平均5秒かけて15分で済みます・・・実際スプレーを噴射しているのは、ほんの1,2秒です・・・しかし、この邪魔臭いメンテナンスをやるのとやらないの「何でもなさそうな差」が、長期的に見ると恐ろしい差に変貌するのです・・・織物時代に、この日常のメンテナンスの重要性を学びました・・・織機が「シャットル式」という古いメカニックな時代の頃に、毎朝一番に2時間かけて「油さし(注油)」をしていました・・・機械の油は人間の食事の米に当たり、油が切れると壊れたり火災を引き起こす原因になるのです・・・また、この「油さし」が若かった私にとって邪魔臭くて、汚くてイヤでした・・・織物機械(織機)には、ミジンという風綿が被っており、まずその油が滲んだミジンを手で取り(当然、手が油で汚れる)、それから機械に油をさすのです・・・毎朝2時間もこれをやると、手の爪に油が入って黒くなり、身体中が油臭くなり、帽子を被っても頭髪に油の匂いがつきましたので、デートの日には入念にシャワーを浴びたのも今となっては懐かしいですねェ・・・しかし、この油さしは織屋の基本中の基本だと、親父に叩き込まれましたので、シャットル式から最新のエアージェット織機に変り(油からグリスに変わり)、親父が亡くなって私が経営者になってからも、この方針は変えませんでした・・・シャットル式でもう一つの毎日の大事なメンテナンスが、シャットルの「停止位置」の目視でした・・・ガチャガチャと1分間に130回ほど左右に飛んでいく(往復する)シャットルの、右側のシャットルボックスに入った時のシャットル本体の「停止位置」が動いているかどうかを(一定かどうか?)、ミリ単位で肉眼で監察するのです・・・たったこれだけの事によって、織機全体の調子(コンディション)を推測できるのです・・・人間で言うと、かなりの部分が分る血液検査みたいなものです・・・毎日という点で、体重測定が健康のバロメーターというのと同じです・・・この目視によって、機械全体のいろんな箇所のパーツの減り具合、欠損、ネジの緩み等の不具合がある程度分かるのです・・・シャットル式織機は、殆んどメカニック的なパーツの組み合わせで、電気的なパーツが殆んどなかったので単純で分かり易かったですが、エアージェット式織機になると、メカトロニクス化が進み半分以上が電気的なブラックボックスでしたので、頭の使い方を180度変えないと、機械を扱う事が出来ませんでした・・・この毎日の何でも無さそうな油さしと停止位置の目視をするのとしない「差」が、長期的に見ると経営の根幹を揺るがすほど影響を与えるのでした・・・という事で、今57歳のオッサンが毎日元気で生きる為の基本として、早寝早起きはもちろん食事と運動が最も大事だと考え、どんなに忙しく心身の波があったとしても、毎朝のストレッチと1日2食ダイエットという基本を忠実に守り、週3,4回のジムと空手に励んでいるのです・・・ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2013.10.29
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今でもよく、織物時代の夢を見てうなされます・・・(笑)何なんでしょう、織物時代の後遺症か・・・まァ、特に織物時代の後半10年間が大変だったという事でしょう・・・多品種小ロットが極端に進むだけでなく、織工賃も下がり、言われのないマーケットクレームに悩まされたり・・・気の休まる時がありませんでした・・・少品種大量生産は輸入品に替わってしまい、残ったパイを国内業者の奪い合いになり、消費者の目が厳しくなりました・・・日本のグローバル化の洗礼を、織物業界が一番先に受けていたという事かもしれません・・・工場は土日関係なく24時間フル稼働で、月産20万mも生産していましたから、ちょっと「欠点」を見逃すと、それだけで何十万円の「被害」です・・・自分が寝ないで24時間工場で泊まり込みをしたい心情でしたが、そういう訳にもいかず、残念ながらある程度従業員に任せなくてはなりませんでした・・・実際毎日15,6時間仕事するのは当たり前で、心理的には夢でも本当に「仕事の計算」もしていましたので、24時間働いていた事になります・・・(笑)まァ、中小企業の経営者は誰でもそうだと思いますが・・・従業員は、注文を取ってくる営業の苦労や、製品を出荷した後のクレーム処理の苦労は知りませんし、けっして分りません・・・サラリーマンは、気楽な稼業というのを羨ましく思ったりもしました・・・しかしよく、夜中にパッと目が覚めるほど、自分独りで悩みましたねェ・・・新しい機械(エアージェット織機)を導入してからのほぼ20年間は、前半は社長である父親がいましたが身体が弱かったので、私が営業も現場も全て掌握していました・・・20年間、肉体的には限界ギリギリまで働きました・・・30代前半から40代後半でしたから、若く耐えれたのでしょう・・・お金儲けという事を考えれば、けっして効率的とは言い難いですが、自分の能力の「限界」を知っただけでも儲けモノです・・・しかし、身体的には重いモノを小学生の頃から持ったりしてヘルニアで腰痛が悪化し、工場の機械音が100デシベルでしたので、医者から「一生治らない」と言われていた難聴でした・・・心理的には、いつも受注の苦労や新規織物を織った時の気の遣いようで、精神疾患になる一歩手前だったかもしれません・・・正に、織物業に幕を下ろした7年前は、心身ともボロボロの状態だったのです・・・もし1年廃業が遅れていたら、自分が「壊れて」取り返しのつかない事になっていたでしょう・・・その「後遺症」が、未だに夢となって現れるのでしょう・・・しかしこの後遺症も、死ぬまで私を追ってくるのでしょうか・・・ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2013.09.16
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今、お中元シーズン真っ盛りです・・・織物時代は、大丸外商へのお中元の発注で忙しかったです・・・昔は取引先が大手総合商社1本でしたので、お中元の送り先も少なく楽でした・・・ところが、織物時代の後半10年は、専門商社や産元など取引先が増え、織物の注文も基本的に「営業マン単位」となり、取引先の各営業マンにお中元を送るとなると、ピークで20数人にもなりました・・・正に、織物ビジネスが「少品種大量生産」から「多品種小ロット」に転換したのと、時期を同じくしてお中元(歳暮)スタイルも変化したのです・・・人数に加え、現時点の発注量や将来の見込み(増減、新規、廃止)に応じて、お中元のグレードも一律ではなく、毎回変化(値段の上下)させました・・・これがまた、イチイチ考えなくてはなりませんので邪魔臭い・・・一仕事でした・・・しかしこういった事は、毎月トータルで20万mの注文を取るのに必要不可欠だったのです・・・特にお中元シーズンの7月は、織物ビジネスのシーズンオフ(4月~9月)で、注文を取るのに苦労しました・・・汗をかきかき、船場中心に本町をウロウロした頃が懐かしい・・・織物ビジネスは一発勝負ではなく(委託生産=賃織りは)、基本的には一度取引をしたら何年も継続性がありますので、単なる織物の品質向上に努めるという「本業」だけでなく、こういった日頃の贈答品や接待が必要不可欠なのです・・・繊維ビジネスは取引といった単純なものではなく、「取組」と言ったほうがいいほど複雑なのです・・・今は、そういった贈答や接待から解放され、「本業」以外の余計な気を遣う事もなく、幸せです・・・逆に今は、お客さんから頂くばかりです・・・中元歳暮だけでなく、事あるごとに何やかやと年中頂いております・・・「安く利用させて頂いています」という感謝の表れか・・・こちらこそ、有難うございます・・・どうも、立場が逆転したみたいです・・・オモシロいですねェ・・・仕事が変わると、周辺全てが変わる・・・当り前か・・・その「変化」に耐えれたのも、ギリギリ49歳だったからか・・・50代だと・・・という事で、今は織物時代はすべて「楽しい思い出」として語れますが、当時は毎日が必死の地獄だったのかも・・・しかし思い起こせば、まだ私が小学生の頃、当時はお中元を取引先の自宅まで親父が私を連れてよく持っていきました・・・嫌がる私をなだめる為に、「堺の高島屋で、みたらし団子こうちゃるさかい・・・」とか、当時まだ珍しかったみたらし団子を餌に、ウマい事を言って「子連れ」で行ったのです・・・得意先に「子連れ」で行って情けをかけてもらう為か、子供に自営業の現実を知らしめるためか・・という親父一流の「一石二鳥の策」だったのか・・・それとも照れ屋の親父が、単にひとりで行くのが恥ずかしかっただけか・・・?ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2013.07.24
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昨日地元三中地区(木島&葛城小校区の8町)の織物業者で作る「葛城綿友会」の最後の集まりがありました・・・ 昭和40年代の最盛期には150社を数えたそうですが(町内に11社あった)、今回集まったのは16社と10分の1に激減です・・・しかし多くの業業者は弊社も含めすでに転廃業し、実際に織物業を営んでいるのは、たった5社なのです(実質97%減)・・・ かつて織物業者は、戦後昭和20年代の衣料不足や朝鮮戦争の時の「ガチャマン景気(織機が1回ガチャッというたびに1万円儲かる)」で相当儲かり、高度成長期の昭和40年代後半まで結構良かったのですが、その後先進国の仲間入りをしてから、日本の自動車や家電に重点が移ってしまって、失速してしまったのです・・・ 時代の流れと言えば、それまでですが・・・「家業」で長年営んでいる私達にすれば、他人には絶対わからない複雑な思いがあります・・・ ガチャマン景気は、私の生まれる前なので知りませんが、物心がついた4,5歳の頃は、工場で働いていた多くの1,20代の若いお姉さんたちに囲まれて、大型バスを貸し切って社員旅行に行ったり、トラックの荷台にみんなで乗って二色浜に海水浴に行ったり、女子寮や食堂で遊んでもらったりした楽しい思い出が沢山あります・・・ 結構楽しい思い出が高校生くらいまでありましたが、高校生の頃に「第一次オイルショック」があり、それからおかしくなりだしましたねェ・・・ まァ、それも日本が先進国になる為のある意味「通過点」でしたから、軽工業から重工業に「転換」する時に伴う「痛み」として、仕方のない事でした・・・ 今の日本の不況と今後の更なる落ち込みを考えると、これまでイイ思い出をしてきて「幸せ」だったのですから、これから悪くなっても「ヨシ」とすべきでしょう・・・ 年内に葛城綿友会として「本当に最後」の親睦旅行に行きます・・・私が「幹事」として、これから「楽しいプラン」を練っていきます・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2012.10.21
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今から25年前の織物時代に、新しい機械(エアージェット織機)を導入した時に、織機の「回転数(1分間に何回横糸を打ち込めるかという生産性の目安)」で、世界一を目指したことがありました・・・ 当時の平均的な回転数(エアージェット織機)は1分間に350~450回転くらいで(古い昔のシャットル織機は130回転程度)、それを750回転で常用運転しようというものでした・・・ 織機メーカー(トヨタ自動車の親会社の「豊田自動織機」)がしっかりしていることもあり、導入当初から自信を持って、入念に準備をして回転数を上げていきました・・・ 織機メーカーも、実務運転でいきなり「40%アップ」は未知の世界です(開発段階の試運転では1000回転)・・・ そして実務運転で世界最速の750回転を1週間続けると、いろんな箇所のパーツの故障が出始めました・・・ 世界最速を「常用運転」にするために、2,3年間織機メーカーやパーツメーカーと協力しながら、「部品改造」を進めていきました・・・ それと並行して自社独自で 、パーツ部品を更に分解して、市販のベアリングに取り替えたり、純正のパーツを買わずに半額以下の地元のワイヤーロープ製造元に注文したりして、1円でも経費節減に努めました・・・ 地元の鉄工所に部品の溶接や修理に行くと、他社の織機メーカーの修理の多さに驚いたものです・・・ 弊社採用の「トヨタ」は、心臓部の肝心な部品はすべて自社開発で、市販品は一切使っていませんでしたが、他社はコスト削減のためか市販品のベアリングなどを使っていたようです・・・ 人間と同じで、機械を能力の限界以上に酷使すると「欠点」があぶり出しのように出てくるものです・・・ その点「世界一のトヨタ」は、スゴイの一言です・・・ 織機だけでなく、周辺機器のこれまでになかった「想定外」の故障や異変に頭を悩ます日々が続き、眠れない夜が続くことも多々ありました・・・ しかしお蔭で様で織機メーカーに恵まれた結果、20年間355日24時間エンドレス稼働という努力に充分反映でき、織物時代の「生産性」「品質」「値段」に関して、取引先を充分に満足させることができたと自負しております・・・ 当時は取引商社の依頼で、「世界最速」の噂を聞きつけて、ちょっとイヤでしたが中国・上海の公司やパキスタンの財閥からの工場見学も受け入れました・・・ また「導入タイミング」に関して、弊社の1、2年後のバブル期に雪崩を打って参入してきた同業他社の織屋と同じでは、経済的にもビジネス的にも同じ結果を残せたかは甚だ疑問です・・・ あの織機の導入タイミングで、世界一を目指したからこそ、今があるのだと思います・・・逆に、1年遅れの他社メーカー導入のバブルで適当にやっていたなら、ここにも住んでいないでしょう・・・ エアージェット織機 シャットル織機※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2012.08.27
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亡くなった父親が、子供の頃からよく私に言っていた言葉が「スパナを持って現場に入り、そろばんをはじけ!」でした・・・ 昭和ひとけた生まれの父親は、戦争直後の「ガチャマン時代(織機が1回ガチャンと動くたびに1万円儲かる)」を若い頃に経験し、日本経済は戦後30年も高度成長期に支えられ、それほど努力しなくても簡単に儲けられた「良き時代」をずっと経験していました・・・ という事で、父親と同年代の織物経営者は、織物現場に入る必要もなく、経営に専念していればよかったのですが、父親の場合は「現場に拘りました」・・・・ 異色と言えば異色の存在だったように思いますが、やはり「左甚五郎のDNA」の職人気質が騒いだのでしょうか・・・・ 子供の頃から、父親がスパナを持って織機を修理しているのを見たり、事務所でそろばんをはじいているのを見て、「両方やらんとアカン!」という事を自然と頭の中に組み込まれていきました・・・ 当然小学校低学年から、工場の手伝いをさせられるのも「当たり前」だと理解していましたし、中学高校大学と学年が上がるにつれ、掃除、管巻き、運搬(反物、糸)、検反、機織り、油さし、荷造り、つなぎ(タイイング)、織機修理と難易度が上がってきました・・・ 大学生の頃、結構難しい「つなぎ(タイイング)」というのを初めて親父から習いましたが、2回目は独りでやったところ失敗してしまったのですが、普段あまり怒らない親父にこっ酷く怒られました・・・ 普通は10回くらいでやっと半人前という仕事なのですが(本当は結構奥が深いのですが・・・)、2回目で1人前の仕事を要求されたのです・・・ 親父が恐ろしく、落ち込んだのは言うまでもありませんが、同時に「仕事の厳しさ」を身をもって感じましたねェ・・・ また織物製造業の基本である工場内の「掃除と油さし」を徹底的にさせられましたねェ・・・ もともと織物工場には火事はつきもので、掃除と油さしを徹底する事によって、予防しようというものでした・・・ しかし若い頃はイヤでしたねェ・・・いつも身体が油臭く、荷造りと機械いじりによって、手がゴツクなり、荷造りの藁のヒモで、ある部分だけ毛深くなっているのとかを、デートの時に女の子に見られるが恥ずかしかったです・・・ 現場のそれぞれの工程に細かい「コツ」が沢山あり、それを習得するのにかなりの時間がかかりました・・・しかしそれを乗り越えると「光」が見えてくるという、「職人冥利に尽きる」という味(感覚)を身をもって分かったのが大収穫でした・・・ このように人間生きていくには、ブルーカラー、ホワイトカラーどちらか一方だけではダメで、「両方同時に出来ないとダメ」という事を子供の頃から学んだように思います・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2012.03.24
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私がサラリーマンを辞めて織物業を継いだ1985年頃は、主に旧式のシャットル織機で和布団の生地である「サテン」を織っていました。 当時まだ泉州地区でもサテンを織れる所は少なかったのですが、寝装業界では和布団に変わって高額な羽毛布団がボチボチ出回わり始まっていましたので、将来性を考えるといつまでもサテンを織っている場合ではないと考えていました・・・ その2年後に新式のエアージェット織機に設備更新したと同時に、利益率の高い羽毛布団の生地に転換したのは当然の事ですが、それと同時に設備更新したお陰で、寝装分野だけでなく、難易度が高い衣料分野の織物も織れるようになりましたので、所謂「羽毛布団ブーム」が去った後の事を考え、異分野(衣料分野)の織物を徐々手掛けていきました・・・ 案の定、羽毛布団ブーム(日本での生産という意味)は3,4年で去り、その後は中国から大量の羽毛布団「生地」が輸入されるようになっただけでなく、羽毛布団の「製品」としても輸入され、日本の紡績(糸)、織布(織物)、染工場(加工)、メーカー(縫製)業界にとって大打撃を受ける事になったのです・・・ 当然利益率の良かった羽毛布団生地は採算割れに陥り、日本で生産する事は出来なくなり、他の分野の織物を生産しないと生きていけなくなりました・・・ 寝装分野が順調な時に、「リスク分散」として徐々に増やしていった衣料分野の織物のお陰で、何とか「切り替え」がスムーズに行きました・・・ その時思ったのが、仕事が順調な時こそ、将来の危機に備え、リスク分散を考え、「仕事の幅を広げる」事の大事さでした・・・ 今一生懸命、90%の力を注いでいる「地域密着型の不動産仲介業」も、トランクルームをより強化する意味と、万一トランクルームがダメになった時の事を考え、やっているのです・・・ 今の世の中、昔と違って物凄いスピードで回っており、ホント不透明で何が起こっても不思議ではありませんからねェ・・・ この「仕事の幅を広げる」というのは狭義の意味であって、広義の意味で「人間の幅を広げる」と言えるかもしれません・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2012.02.26
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本日読売朝刊2面に、大阪のIT会社のデータサーバー室を北海道に新設して、電力コストを40%削減目指しているというのがありました・・・ サーバー稼働にはそれと同等の冷却電力が必要だそうで、北海道の冷たい外気を室内に取り込めば、敢えて冷房は必要ないという事ですねェ・・・ タダのものを上手く利用する発想は、経営には絶対必要ですねェ・・・ 織物時代、工場内の冬場の結露に苦労した思い出があります。 当時織物工場で「ALC壁重量鉄骨造2階建て」というのは殆ど前例がなく、何処の工場も参考に出来ず、自分独りで考えなければならなかったのが辛かったですねェ・・・ 当初は排気用の換気扇をアチコチに付けたりしていましたが、一向に効果はなく悩み果てていました・・・ 毎日悩んでいたちょうどその頃、ひょんな事から、真夏のコンプレッサーの排気ダクトの排気ネットの掃除を思い出し、いつも高温のスゴイ勢いで外へ排出しているダクトに顔と手を突っ込み、必死で作業をしていた記憶が何故か?蘇えりました・・・ 「結露と排気」・・・「何かありそうや?」とピンと来た訳です・・・ それまで「湿った工場内の空気を外に出さなきゃ」という固定概念に縛られていたのですが、発想を変えて「10倍の量の低湿高温のコンプレッサーの排気を工場外に排気せずに、工場内の空調室、検品場、事務所、天井裏に流して空気を混ぜれば、結露も無くなるし暖房にもなり一石二鳥や」と発想の転換をした訳です・・・ そこで知り合いのブリキ屋さんを呼んで、コンプレッサー室と空調室、検品場、事務所、天井裏の5か所を縦横無尽にダクトを這わせ、「高温低湿(無害)」のコンプレッサーの排気を流して、結露を完全にシャットアウトする事をランニングコストがゼロで出来たのです(しかも冬場の暖房もタダで)・・・ しかしこのシステムは考えながら試行錯誤でやりましたので、完成までに「2冬」かかりました・・・ あまりにダクトが複雑すぎて、春夏秋冬の切り替えも手動でしたので、私しか分からないという欠点もありましたが・・・ しかし「ランニングコストがゼロ」というのが、どれ程メリットがあるかは計り知れません・・・ 今のトランクルームや不動産の仕事でも「限りなくコストゼロに近いインターネット」を上手く使うかが、今後の私の仕事の命運を握っていると言っても過言ではないでしょう・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2012.02.22
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中小企業経営に於いて、売りと買いの両方の値段交渉力が生命線だと思います 大企業の社員だと、売りと買いのどちらか一方しか経験できませんが、中小企業では両方必要なのです。 よく中堅大企業で部長役員までいった人が、独立してよく失敗するのが、この基本的な違いが解らなかったのが原因です。 往々にして売り先行で販売力がありますが(実は個人の能力ではなく、会社という看板で商売できていたに過ぎない)、買い(仕入れ、銀行からの借り入れ)の経験が乏しく、変なプライドが邪魔をして、安く仕入れる事も、銀行から自己資産を担保に5000万円の運転資金も借りる事も出来ずに倒産というパターンが多いですねェ 織物時代は売り(売上)に当たる商社との「織工賃」交渉や、買い(仕入れ)に当たるサイジング屋との「糊付け賃」交渉で、1円、2円の攻防どころか、今は一般では全く使わない「10銭」単位の粘り強い交渉の連続でした この攻防で負けたら(相手の言い値になったら)、終わりです この交渉の背景に、織物の難易度による1時間当たりの生産量(売上高)、材料の糸の相場や、円相場(輸入糸の動向と輸出向け織物)、同業他社の受注状況、1,2カ月先の業界の見通し、仕入れに当たるサイジング代(経糸の糊付)、織物変更経費(「縮率」の違いによる筬代、経通し代)、1時間当たりの固定費(電気代、人件費)がすべて頭に入って、その場で判断しなければならないのです 廃業5年前からは、客先からの要求で織物難易度がかなりアップし、織物マシン(織機)の性能限界ギリギリや耐久限度を超えた「高密度」織物の受注が増えましたので、これらに加え想定範囲の「破損部品」を見越しての交渉も増えたのでした・・・・ 月産20万mで常時15~20種類の織物を毎月変更していたものですから、この売りと買いが合わさった値段交渉という「訓練」を、ほぼ毎日していましたねェ しかし「アメリカの2倍」の日本の高い電気代に関しては全く交渉の余地なしで、辛うじてホテル業界と同じ24時間エンドレス使用タイプで、気持ちだけ安くなったくらいで、それでも年間2000万円も支払っていましたねェ(しかも早い回収の現金払い) 人件費に関しても時給は1円単位で交渉し、時間は極力無駄のないように短めに設定し、現場では何でも出来た自分が入る事によって、その「不足分」を埋めていましたねェ・・・・ この織物時代に毎日苦労して培った「奥深い」交渉力が、今の仕事に充分役立っているように思います※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2011.09.05
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昨日は父の命日でした。 もう14年経ちますが、亡くなった日の事を昨日の事のように思い出します 長らく心臓病を患っていましたので、その日突然心不全で亡くなったのですが、もちろん私の人生でこれほど「青天の霹靂」でショッキングな出来事だったことはありませんでした しかし意外にも冷静だった自分自身に逆に驚かされました まず考えたのは、葬式の段取りよりも「会社経営」でした 生活の根幹ですので、これが上手くいかないと生きていけません。 という事で、葬式と並行して進めた事は、登記簿謄本上の「会社代表者の変更」でした。 死亡した代表者の小切手の押印(実印)は「2週間だけ有効」というのを銀行から聞いていましたので。 案外冷静だった訳は、中小企業経営の3本柱(現場、営業、経理)の、すでに織物工場の現場と営業は親父は一切関わることはなく、すでに5,6年も100%自分がやっていたという「自信」からだったと思います あとは経理をするだけだったのですが、これがまたそれまで請求書を書く程度で、小切手を切る事も借入金の把握、銀行帳金銭出納帳の記帳や銀行との交渉も全くやったことがなかったので、その後こういった未知の分野を自分でするのに大変苦労したのでした・・・・ 「何とか自分が会社と家族を守って行かねば、泣くのは後にしよう」と、従来の現場の仕事と営業に加え、この3つの中でも「最も大事な経理」を銀行や税理士のサポートを受けながらも、どうにかこうにか自分でこなしていった事を思い出すと涙が出ます・・・・・ 世間では親父が死んで息子が後を継ぐと、銀行や取引先などの周りが豹変するものですが、もちろん一部衝突もありましたが、何とかこの人生最大のピンチを切り抜ける事ができ、本当に幸いでした 親父が生きているうちに全て100%出来ていれば、こういう苦労もなかったのですが、なかなか子供に任せるというのは出来ませんよねェ・・・・ このへんが「事業承継」の難しい所です うちは3人娘ですので、どうするか・・・・・・・・??? しかし今にして思う事は、この時「営業しか知らない(或いは現場しか)」のであれば、あとの2つ(現場と経理)を短期間でマスターしなければならないので、当然時間的に不可能で、自分の能力を100%超えていますし、心も体も壊れ失敗していたでしょう たまたま2つが出来ていましたので、残り1つだけでしたので、何とか自分の能力100%使い果たして、ギリギリセーフでした※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2011.09.04
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伊藤忠商事さんは、織物時代最も長らくお世話になった取引商社です。 弊社創業まもない昭和28年から廃業の数年前までの約50年間も長く、しかもそのうち45年間は他社との取引を一切しない伊藤忠オンリーの「100%委託加工(賃織り)」という取引で、親子以上の関係でした その伊藤忠さんの大阪本社が、現在の大阪本町の久太郎町からキタの梅田に移転というショッキングなニュースが出ていました 確か私が中学生だった70年代前半に、本町の別の場所から現在の久太郎町に立派なビルを建て移転した経緯がありました。 当時親父は竣工パーティに招かれ、記念品に世界中の時間が見れる置時計を頂いて、「これからは、うちの織物もドンドン海外に輸出するどォ」と訳の分からない私に自慢していたのを思い出します それから40年経って時代の流れでしょうか、祖業の繊維の「川上・川中」の原料部隊が縮小し、アパレル輸入などの「川下」分野にシフトして、繊維以外の分野に力を入れて、日本を代表する世界に通用する総合商社になりました 伊藤忠さんが創業してからずっと150年も大阪本町に本社機能を構えるのではなく、世界と戦うには本社を東京に移し、大阪本社も梅田に移転というのは致し方ない事でしょう。 町内の古老の口伝によると、まだ南海本線が出来ていない頃の明治時代は、町内の農家が米の閑散期に綿を作って、それを納屋にある手機(機織りの機械)で反物を作っていたらしいのです。 それを町内の産元(今でいうブローカー的な商売人)が、1軒1軒集めて牛車に積んで丸1日かけて本町まで歩いて運び、今の伊藤忠や丸紅に売っていたというのです 泉州地区が「織物産地」だったのは、戦後突然できたのではなく、実はこういう歴史があったのです 伊藤忠傘下の繊維取引業者で創る「籐友会」という親睦団体があり、そこでの伊藤忠を飛躍的に発展させた事で有名な越後正一元社長や瀬島龍三氏などの講演も目の前で聴き感動したものでした いずれにしろ、私が織物商売で伊藤忠さんと拘わった20年間は、非常に中身が濃く、今の基礎を築いた「非常に充実した20年」でした※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2011.08.26
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外食産業のゼンショーグループ(ココス、すき家、なか卯、ビッグボーイ、ジョリーパスタなど)の勢いがすごいです 躍進の理由は、店舗現場の徹底的なマニュアル化とオペレーション管理によって一人一人の生産性を極限まで高めた事のようです 私の織物時代の現場管理も徹底的にマニュアル化しました。 例えば機械のオペレーター(機織り)は、私も含め全員「色違い」のチャコを持ち、縦や横切れの時の修正に「責任明確化」を徹底しました。 また修正時にルーペと小型蛍光灯を各自携帯して、肉眼を信用せず、「道具」を必ず補助に使っていました。 私は80%は工場の現場にいましたので、このマニュアルを実行していない従業員には遠慮なく「理由を説明してから」注意して、納得して直させました 失敗(通し違い、欠点見逃し)した時やクレームが来た時は、一定期間掲示板に貼って(損害額も掲示)、失敗した本人に真剣に反省を促しました また一見生産性に関係のなさそうなワインダー(横糸巻き)のパートさんにも、これも他社では絶対やってなさそうな「糸の振れ」状況を定期的に肉眼で確認させ、「指の腹」で機械の傷を発見させるテクニックを身につけてもらいました タイイング(縦つなぎ)も私の大事な仕事で、もう一人の人にも私と全く同じ「手の込んだ邪魔臭い」やり方をやってもらいました。 しかし大事な事は、各担当部署のマニュアルはもちろん、「一人何役」もこなせるのが弊社の強みでした もちろん私が、現場はもちろん事務関係もすべて出来る(やっている)のが前提でしたが・・・・ ただ生産規模は月産20万mでないとダメで(経済規模という事)、10万mでは少なすぎて逆にコストアップになり、30万mでは「一人でフォローする」には多すぎてダメだったのです。 しかしここまで徹底的にやっても、不良率を0%にする事はどうしても出来ませんでした 例え不良率が0.1%出たとしても、織っている織物が「特殊な高級品」ばかりでしたので、原材料費だけでも高額で、それだけで利益が吹っ飛んでしまうほど「恐ろしい商売」になっていました 国内の織物製造業がそこまで「ハイリスキーなビジネス」になってしまった事が、廃業を決意する一因だったのは言うまでもありませんでした・・・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2011.07.14
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先日近所のオバちゃんに、タマネギを頂きました。 かつて泉南地区(泉州の南部)は「タマネギ王国」と呼ばれるほど、全国的に有名でした 昭和30年代の子供の頃、近所の殆どのお百姓さんはタマネギを作り、田んぼにある「タマネギ小屋」にはタマネギがギッシリ吊ってあり、各家の裏にもタマネギが吊ってあり、小学校の通学路の所々には作りすぎたタマネギが捨てられているといった光景で、周りはホントにタマネギだらけでした この時の「少品種大量生産」の反省か、それ以降泉南地区の農業経営も、イロンナ作物を作るようになったように思います。 ほぼ同時期の泉南地区の織物業も「スフの平織物」の世界的な一大産地で、よく親父は「西ドイツに全部輸出するんや」とか自慢していましたが、その後大量生産の相場の値下がりを見越してか昭和40年代に入ってすぐ、他社に先駆けていち早く少し高級な「綿のサテン織」に転向していったのを目のあたりにして、子供ながら父親に尊敬の念を抱いたものでした この時の親父の行動から、「現状に甘んじる事なく、ちょっと先を見るんや」という無言の教えを無意識のうちに教えられたように思います※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2011.06.17
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昨日は水間駅近くの料亭で、地元貝塚市山手地区の織物業者の飲み会でした 織物業者といっても、「元」織物業者の方が多く、メンバーは昭和40年代最盛期の150社から10数社に激減しています 子供の頃、「全盛期」を知っているだけに寂しい気もありますが、まだまだみなさん元気なのには勇気づけられます 殆んど私よりだいぶ年上の社長さん達で、いつものように昔話だけでなく、今後の不動産のオファーも沢山頂き、非常に有益でした この辺が、親父から受け継いだ金では買えない「地元での実績、歴史」に感謝する瞬間ですねェ 行き帰りは水間街道の「旧道」を自転車で、母校木島小学校の運動会の人混みをかき分けながら一生懸命こいで行きましたが、昼間なので真っ赤な顔をして恥ずかしかったです 途中何人も知り合いに合いましたが、その中で久しぶりに織物時代に世話になった人に会い、今は私と同じ不動産関連の仕事をしているとの事で、今後は互いに協力し合おうという事で別れました。 本当に「縁」というのは大事にしなければいけませんし、その為には「飛ぶ鳥、後を濁さず」という事をキチッと守っていたからこそ、「次の縁」に繋がったと思うのです※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2011.06.05
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24日に、織物時代の取引先の商社が民事再生法を申請したようです メインの取引先ではなく、スポットで取引していただけですが、誰に紹介された訳でもなく、私が必死の飛び込み営業で新規開拓しただけに、残念でなりません 約50年間父親の時代は、某大手総合商社の100%委託生産(賃織り)をしていましたが、バブルが弾けて業界が様変わりする時(少品種大量生産から多品種小ロットへ、寝装分野から衣料分野へ)に、新規開拓した取引先のひとつでした 2,3年かけて、総合商社との取り組みから脱皮し、商売の内容を100%変えていくには、今思えば既に他界していた親父に相談する事も出来ず、他の誰にも頼る事も出来ず、家族や人に言えない苦労があったと思いますが、その時は若さも手伝ってか?何とか切り抜けられたのでしょう いずれにしても、その時にお世話になった人達の今後の進路が上手くいくように祈るばかりです・・・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2011.05.26
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原発問題で、現状の電気代を値上げするという・・・・・ 織物業で、20年間「エアージェット」というバカほど電気を食う最新織布機械で、世界標準の2倍もするバカ高い日本の電気代にどれほど泣かされてきたか! たったエアージェット1台で、月額8万円も電気代を払わされていました(毎月160万円、年間2000万円) このバカ高い公共料金によって、アメリカや中近東への織物の輸出競争力を著しく削がれていました(逆に、輸入品にも値段で負けてしまう) 逆に世界標準の電気料金であれば、国内でも織物業は充分採算がとれ、同業者の97%も廃業倒産する事もなかったのですが・・・・ すでに意のある企業にとって、この日本の高い電気代を敬遠し、工場の海外移転の要因のひとつであった事は、一般の人にはあまり知らされていません 一般家庭であれば、毎月の電気代といっても、せいぜい2,3万円の事ですから、高いか安いか(他国と比べて)ピンときません しかし電気代だけでなく、高速道路代や役所関連の書類など日本の公共料金は高すぎます 原因は一言でいうと「競争がない」事で、民間では全く考えられない「人件費がかかりすぎる」事に尽きるでしょう このシワ寄せが全部国民にきているのに、デモすら起こせない平和な国民になってしまったというのも問題ですが・・・・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2011.05.19
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教育論ウンヌンを言う資格は全くありませんが、大多数の人は学校教育よりも父親から受けてきた教育が、その人の人生を「決定」づけると思います。 私の父親は、織物現場からの叩き上げの機(ハタ)大工職人でしたが、経営も人に任せず(経理事務も)自分で一人でやっていました その影響で、小学生の頃から織物現場に入り、出来上がった反物を検査場に台車を使って運んだり、「管巻」と言って入荷した糸をシャットルに収まるように巻き直したりしていましたね。 母親も現場で、「経通し」と言って、品種替えの作業もよくしていましたので、物心ついた頃からずっと織物現場に居たような記憶があります。 高校の頃は、力のいる「荷造り」もやらされ、大学の頃は、機織り、タイイング、機械の調整、伝票書きと、経理以外はすべて一人前で出来るようになっていました 一番困ったのは、大学生の頃に両親とも腰痛(重いモノをさげるので職業病)で入院してしまい、学校に行けずその間ずっと現場で走り回っていました 取引商社には、入院は内緒にしていましたので、商売の事はサッパリ解りませんでしたが、そうも言ってられませんでしたので、分からないなりにもそれなりに苦労して何とか切り抜けました そんな経験を通じて「商売のやり方とは、こうなんや」と自分なりに理解し、それが自信に?がったように思います 大学卒業後、4年のサラリーマン生活を経て(そのうち前半の3年間は早朝3時間織物現場で働いてから出社)、家業に戻ってきてから、取引商社に挨拶に行くときも、父親は一緒に行ってくれず、一人で行かされました 父親の口癖が「目と口があったら、行ける(できる)やろ」でした 父親は幼い頃から心臓病を患っており、自力で歩けないシンドイ時でも、自転車を杖代わりに工場に行っていた姿を幾度となく見ていましたので、その言葉も説得力がありました。 親父が頑張っている姿を子供に見せる事しか、「真の教育」は出来ないように思います※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2011.02.07
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(公益財団法人)日本生産性本部が12月20日に発表した、労働生産性の国際比較2010年版によると、 *主要産業の生産性対米国水準比 製造業 電気ガス 73.9% 55.0% 卸小売 飲食宿泊 44.1% 37.4% 運輸 郵便通信 52.3% 94.5% 金融仲介 ビジネスサービス 91.8% 50.0% 2009年の日本の労働生産性(就業者1人当たり名目付加価値)は、OECD加盟33カ国中第22位、主要先進7カ国では最下位だそうです。 明らかに日本の成長率が低い最大の原因は、労働生産性の低さにあるようです たしかに金融と郵便が頑張っていますが(それでもアメリカに負けている)、その他は全く駄目ですね 国内の規制とかが障壁になっているんでしょうが、これが日本の現状とは・・・・・・・ 製造業はまだマシですが、これも大企業を先頭にドンドン海外に移転していますから、日本に残るのは生産性の低いサービス産業だけになると、今後どうなる事でしょう 今から10数年前に、取引商社の紹介で中国上海の織物公司から、わざわざ弊社の工場見学に来られた事がありました。 趣旨は弊社の「生産性」を学びたいという事でしたが、ライバル関係に当たりますので、工場をざっと見せただけで(本当はそれもしたくなかった)、大事なノウハウは教えずに帰ってもらいました それほど製造業に於いて、「生産性」というのが生命線だという事ですが、織物業で経験した生産性をそのまま活かす事はできませんので、「考え方」だけをサービス業である今のトランクルーム賃貸業や不動産仲介業に活かしたいと考えています※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村
2010.12.27
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11月に入って繊維業界の老舗の専門紙「日本繊維新聞」と「センイジャーナル」が廃刊に追い込まれたそうです 繊維業界人にとって川下(アパレル)から川上(原料)まで、長い間馴染のある新聞でしたので非常に残念です。 インターネットの普及と、川上から川中業界の縮小の加速化が、紙媒体の衰退に繋がって行ったのでしょう。 この流れにいくら踏ん張っても、報われる事はありません。 織物製造現場や分断された繊維の一流通ポジションにドップリ身を置くと、得てしてこの「大きな流れ」が見えなくなり独善的になるものです。 空手の攻防で、攻撃される側の対処方法で「転身」という、相手の攻撃に対して後ろに下がって避けるのではなく、90度円を描いて方向転換して避けて反撃という技があります。 相手の手足のちょっとした動きやフェイントに騙されず、「相手の目」を見て、本当の行動(流れ)を見抜くというのが極意ですが、何かこれに通じるものがあるように思います※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村
2010.12.06
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今トランクルームで、お客さんに便利なように「ロフト(棚)」のいろんなシリーズを提案していますが、思い起こせば、織物機械(織機)でもイロンナ工夫の連続でした サラリーマンを止めて家業に戻ってきた時の最初の入替え導入織機は、ユニフル付シャットル自動織機の中古でした。 以前は太い糸を織っていたらしくクラッチ関係がガタガタでしたが、幸運にもたまたま近所の「織機の神様」と言われる人と知り合いになり、その人の指導のもとに毎日鉄工所に行き、1台ずつ織機を自分で分解してクラッチの溶接をしました。 その他、糸道を逆さまにするとか、マニュアルとは真逆の改造をしたりとか、使い勝手と品質のみを考えた数々のアイデアに驚いたものでした その他にも細かい改造をコストを考えずやっても、所詮中古ですから「限界」が見えてきて、2年後にはエアジェットという最新式の織機を導入するという、今振り返っても人生最大の決断をする事になりました。 「失敗すれば倒産」という何億もの投資でしたので、決断する時にその「甚大なリスク」に武者震いしたのも、今となっては懐かしいですねェ(笑)。 しかし導入機種は、前のモデルより生産性が40%増(高速回転)という気違いじみたマシンで(メーカーにとっても世界初、世界最速)、暫く無理な高速回転による部品の破損が続出しました 機械に慣れてくるようになってから、だんだん「機(ハタ)大工」としての腕がムズムズとしてきて、早速部品(パーツ)の改良に取りかかりました エアーを送るバルブはコンプリートでないと注文できませんでしたので、バルブを分解してよく消耗する特殊べアリングだけを替えたり、枠を上下するワイヤーロープは、近所のロープ屋(貝塚市の地場産業)に頼んで、メーカー仕様無視の使い勝手のイイ「二分割」の改造ロープを格安で作ったりしました 本来1、2年に1回しか替えない空調の集塵機のパット(不織布)も、クリーニング店に出すより、コインランドリー利用の方が10分の1で済みますし、2カ月に1回替える事によって工場内の湿度管理が非常に安定(綿織物品質に影響大)し一石二鳥でした。 マニュアル通りでは他社と同じですから、「どこかで差をつけないと!」という意識が常にあり、いつも「改良、改良」と必死のパッチで、イロンナ「沢山の小さい」改造、アイデアを、毎日毎日ウンウンと捻り出していました 今のトランクルームと不動産の仕事は、製造業とだいぶ勝手が違いますが、それなりにアイデアを捻りだしていこうと思います・・・・・イヤもうすでに頑張っているのですけど・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村
2010.11.13
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もう20年以上前に、フォークリフトの免許を取りました。 というのは、織物機械(織機)更新と同時に、生産量がいきなりそれまでの5倍の月産20万mになり、原料の糸や製品の織物を手で運んでいると間に合わなくなったからです。 また2階への搬入、搬出もありましたので、揚げる高さが4.5mありましたので、高所用の「3段マストタイプ」のフォークリフトを購入しました。 それまでフォークリフトなんて乗った事もありませんでしたので、早速教習所に行きその日のうちに免許を取得しました。 今はちょっと免許取得が面倒になっているようで、1日では無理のようです。 自動車と全く正反対で、前輪は固定で、後輪でハンドルを切るというシステムで最初慣れるのに苦労しました。 おまけに長い間乗っていなかったオートマではない「クラッチ式」でしたので、アクセルの微妙なタッチが必要でした。 また2階への荷物の移動では絶対ミスが許されませんでしたので、いつも緊張の連続で運転を覚えました。 しかし仕事の効率を考えれば「絶対必要」でしたので、それこそ毎日「必死のパッチ」でした。 こういうように「必要に迫られる」事が無ければ、何事も本気で取り組む事はなかったでしょう。 大事なのは、「プレッシャーに耐えれる程度に追い込む」という事でしょうか。 プレッシャーに耐えられなかったら、心身とも壊れてしまいます その辺の自分の能力、器の把握が一番大事でしょうね しかしこのフォークリフト免許、結構有益です。 トランクルーム開業3ヶ月後に、妻にトランクルームを任せ、私は職安に仕事を探しに行った訳ですが、「50歳、繊維の経験のみ、無資格」では殆ど仕事がありませんでしたが、最悪倉庫会社でのフォークリフトの運転士をする事が出来ました。 免許を持っているだけではダメで、即戦力の技能(テクニック)を持っている事が強みでした。 この時感じたのは「芸は身を助けるか」です。 本業(織物技術、繊維営業)一本ではダメで、「本業+アルファ」という、一見無駄に見えるような巾の広い経験が最後には強いかなと感じ、今でも何時もこういう考え方を意識しています※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村
2010.09.14
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本日のニュースで東証1部上場の靴下メーカーの「ナイガイ」が、従業員の3分の1をリストラというのが出ていました。 ここ2,3年上場の繊維業界のリストラ、M&A、撤退が止まりません。 懇意にしていた川中の繊維業界も例外ではなく、「縮小」が加速していて残念です。 いくら弊社が織物業を廃業したとはいえ、長らくこの業界に携わっていましたので愛着もあり、いつも気にしています。 もう20年くらい前になりますが、当時取引先の商社のある若手社員が、自分の本業以外にエンドユーザー向けに下着のトランクスを自動販売機で販売しようと試みていました。 当時飲料水の自動販売機が奥行きが長く通行の邪魔になるという事で社会問題になっており、多くの旧型(奥行きの長い)の販売機がタダ同然で出回っており、それを再利用してトランクスを透明のパッケージに入れエンドユーザーに直で販売していこうという、商社の発想からかけ離れた大胆な発想(非常に緻密な)でした。 結果的にいろんな要因で上手くはいかなかったようですが、彼はそれをバネに再度新しい事にチャレンジして、今は独立しトランクス業界というニッチ市場で成功しているようです。 振り返って織物業をやめていなかったら、小規模で繊維業界で生き残るには、「ちょっと川下」への染色加工販売したり、商社を飛び越えてアパレル直に販売する程度ではすでに時代遅れで、自社でエンドユーザー向けに企画し、生産を自社でしなくてもコントロール(管理)をして、店舗を持たず営業不要のタダ同然のネット販売するくらいの発想でないと無理だと思います 機械(織機)の稼働率ウンヌンでは、どうしても発想が委縮してしまいますし、その辺を如何に打破するか?が難しい、、、、※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村
2010.07.28
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昨日は織物業時代、大変お世話になった商社の方々と、委託生産(賃織り)先であった我々織物業者との久しぶりの飲み会でした。 委託生産といっても、4,50年100%その商社だけとの取引でしたので、通常の取引では無く、互いにあだ名やファーストネームで呼び合う「親子関係」にも似た関係でしたので、感慨ひとしおです。 参加したメンバーにはすでに現役の織物業者はなく、現役商社マンも2人だけで、私も含め多くが「新たに起業」されている方でした。 私の人生の中で、この20年余の織物時代が「ベース」になっていますし、今後のトランクルームや不動産の仕事に於いても、考える原点はここからです。 自営業者にとって、仕事は仕事として割り切れるものではなく、金融機関からの借り入れや商社との取引で、不動産担保を提供したり個人保証をしたりして、文字通り身体と全財産を賭けて仕事と取り組んでいましたので、20年間の中身が非常に濃かったですね いずれにしろ当時はイロイロありましたが、振り返ってみれば楽しい思い出ばかりです 今回は大いに盛り上がり、次回は秋の予定でシャンシャンとなりました。 その後何人かと心斎橋のHUBへ行き、終電間近まで飲んでいました※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村
2010.07.06
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一般的には不動産業界のイメージは、イケイケドンドンの強引な「大雑把」な営業のようですが、織物時代の生産現場は「地味」そのものでした。 地味というより、「緻密な生産予測」が全てと言った方がいいでしょう。 受注する時に、その場で生産計画を立てるのですが(その前に自社の能力でその織物が出来るかどうかの「判断」が先ですが)、その時に考えるのが、糸量計算、織機の回転数、稼働率、経糸の1回当り(サイジング=糊付け)の反数計算で、現場と営業と受渡し(糸、織物)の3つ全て熟知していないと、その場でジャッジできません。 この基本的な事が出来る営業マン(殆どが経営者)は少なく、皮肉にもこんな事が私の「強み」になり、商社から重宝がられていました この4つの数字(糸量、回転数、稼働率、反数)は、それまでの自社オリジナルの実績に基づいて算出される訳ですが、この予測をドンピシャに当てるのが至難の業でした。 しかし、この予測を5%内外のブレに抑えないと、信用が無くなりますので必死でした 特にこの4つの数字以外に、織物幅を決定する「筬(おさ)」の発注に於いて、「縮率何%(織物がどれくらい縮むか?)」の計算が、「ゼロコンマ小数点2位(%)」の世界でしたし、縮率計算を失敗するとそれだけで7,8万円の損害になりますので、非常にシビアでした こういった受注サイクルは、シーズンの時は長かった(1回のロットが多い)のですが、シーズンオフになると、ロットが当然小さくなり(小回りを利かさなくてならない)、多い時で1カ月に20種類くらいの織物の変更(ほぼ毎日)がありましたので本当に大変でした しかしこういった「訓練」のお陰で、織物業廃業の6か月前から緻密な計算をして、廃業日1週間前まで全台織機を24時間エンドレスフル操業していまして、廃業日までの1週間で徐々に織機を止めていき、最後廃業日当日の18:00に無駄になったのが、驚く事に経糸1反分だけでしたし(自分が最も驚いた!)、残務整理作業も全く無く、従業員全員に給料と退職金を支払い、何の心配も無く次の日からそれぞれの道を歩んでもらいました お陰でその後、織機を含め設備機器の売却交渉(海外輸出)、各取引商社との清算業務(糸、織物、金)、取引銀行への借入金完全返済(清算)、トランクルームへの改造(コンバージョン)計画と工務店への発注、トランクルーム営業計画(グランドデザイン立案)等を同時並行で進めましたが、スムーズに行った事は言うまでもありませんでした 不動産仲介の仕事でも、ドンドン実績を積んでいき、仲介の仕事で一番恐れている「損害賠償」にならないように、「緻密なハート」を持って臨みたいと思います 貝塚市の不動産情報サイト「貝塚不動産.com」※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚にほんブログ村
2010.06.08
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これは馬券ではありません(笑)。 ヨンロク(4月~6月まで)、ナナキュウ(7月~9月まで)という意味(業界用語で、昔は1回で3カ月分の商売を決めていた幸せな時代の名残)で、織物時代の「生産のシーズンオフ」の6カ月を意味します。 大阪の織物産地は、主に「後染めの綿織物」で、春から秋物の衣料(国内向け)という事になり、生産のシーズンは10月~3月となり(店頭に並ぶ直前までが生産時期)、従って4月~9月が生産のシーズンオフになります。(逆に愛知県一宮市あたりは、毛織物産地(秋冬物主体)なので、4月~9月が生産シーズンになる。) 思い起こせば、10月~3月のシーズン中は黙っていても注文が入ってきましたが、4月~9月のシーズンオフの営業が大変でした ちょうど今頃の暑い時期、毎週金曜日に朝から晩まで大阪本町の繊維街を汗水垂らしながら、駆けずりまわっていたのが懐かしいです(得意先からミスターフライデーと呼ばれ、、、www)。 なんでこれ程、オンとオフの差が激しいのかと嘆く暇もなく、この時期は国内衣料向けではない、あまりシーズン性のない「資材」「中近東向け輸出」「北米のSPA(製造小売り)向け輸出」に的を絞って営業をしていました。 真夏の本町は暑く、涼を求めて一日にドトールやスターバック、ベローチェ、サンマルク、プロントなどの喫茶店に少なくとも5,6回は入って、アイスコーヒーだけでは胃が持たれるので、アイスティ、アイスクリーム、時にはビールも飲みながら、街中を駆けずりまわりました しかし営業先も所詮、新規の部門や専門商社、生地問屋でしたので、エンドユーザーからは程遠く、繊維の流通が長すぎる為の「閉塞感」や「行き詰まり」「限界」を強く感じたのもこの頃でした 今のトランクルームや不動産の仕事は、シーズンの差は繊維ほどありませんし、エンドユーザーの顔を見ながらの仕事ですので、「まだ、やりようがある!」というのが魅力です※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚にほんブログ村
2010.06.04
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私の社会人としての人生で、織物業が一番長かった訳ですが、その中でも「織機(織物機械)の更新」が最大のポイントだったと、今振り返ると心底思います。 1985年にサラリーマンを辞めて家業に戻った時は、まだ子供の頃と同じ古い「シャットル織機」でした。 その頃、100年に1度とか言われている「織機の革新」時期で、横糸供給方式が、「シャットルから空気(エアー)に変る」というトンデモナイ変革でした。 1週間程悩んだ末、結局導入を決断した訳ですが、機種(メーカー)の選定で紆余曲折がありました。 当時織物の商売で、4,50年ずっと100%賃織り(委託加工)させて頂いたのは某総合商社でして、当然その商社の機械部門からAメーカーの導入を勧められていました。(その商社はAメーカーの代理店でしたので) Aメーカーは当時シェア90%(世界)で、同業の織物業者も「商社の商売絡み」で殆どAメーカーを導入しようとしていましたし、当社も当然の如く「仮契約」をしていました。 ところが、導入して失敗すると自己破産も免れないほどの設備投資金額でしたので、「技術的な面」で再検討をする事にしました。 再検討して分かった事は、「Bメーカーの方が、Aメーカーより織物の最大の欠点である綾枕が出にくい(バックローラーが1本か2本かの違い)」という決定的な差でした。(特許の関係か?後年Aメーカーも「綾枕対策」に、2本バックローラーを採用し経糸テンション安定化を図る) この欠点はもちろんAメーカーも商社も言葉にしませんでしたし(商社はむしろ知らなかった?)、Bメーカーも自社の優位性にあまり気づいてませんでした そこでAメーカーに断りを入れ、シェア5%だったBメーカーと、バブル前の円高不況だった事もあり、「破格の条件」で契約を結ぶ事に成功しました。 その後、織機だけでなく、コンプレッサー、空調、ワインダー、防振台、タイイングマシン、検反器、ビームキャリア、筬、工場建設の工務店、電気工事など「すべて」を見直し、当初の計画よりウン千万も予算が削減できました。 一番大変だったのが、「工場のレイアウト」でした。 エアージェット織機の2階建ての新築工場というのは、殆ど前例がなかったものですから、自分で製造過程を推測して、動線を紙で機械の模型を作りながら、工場のレイアウトをひとつひとつ決定していきました。 そしてその後「取引停止の覚悟」をもって、事情を取引商社の織物部長、課長に説明すると、当然多少難色を示していたものの、最終的には理解をしていただきました この一件の事は、亡くなった親父と共に、未だに涙が出るほどその当時の部課長に本当に感謝しています 長年の「互いの信頼関係」が、社内間のしがらみをも打ち砕いたということでしょうか。(繊維がその商社の発祥部門であったという事もありますが) 結果的に、その某総合商社とメインに取引している同業の織物業者らはAメーカーを導入し、Bメーカーを選択したのは弊社1社だけでした。 中にはその商社と取引したいばかりに、Aメーカーを導入しましたが、取引出来なかったという「気の毒な」織物業者もありました 世の中そんなに甘くないでしょう もしこの件で、Aメーカーを導入していたら、弊社の「今はない」と断言できます。 それ程、苦渋の決断でした※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚にほんブログ村
2010.05.25
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子供の頃から父親によく聞かされていたのが、「織り屋は、1m織ってナンボや!」です。 本業一本で地道に儲けよという事を言いたかったのでしょう。 お陰さまで、バブルの時は一切の投資話に乗らなかったのが幸いでした。 この「稼働率最優先」というのが身体に完全にDNAとして組み込まれていましたので、織物時代は常に頭の中は、織物の品種替えの「タイムロス」を無くすために、「次の織物」で一杯でした。現場では少しでも止まっている機械があると、飛んでいって動かしたものです。 この創業の「商売の心(基本)」を忘れないように、事務所内に60年前のシャットル織機のシャットル(杼=横糸をこの中に入れて左右に飛ばす)を飾っています。 仕事の内容が変わっても、基本(地道にコツコツ)は同じだと思いますし、モチベーションは下がるものなので、時にシャットルを見て思い出すように心がけています。シャットル(杼) ※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚にほんブログ村
2009.12.15
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どうしてもブログでの話が私の仕事の中で一番長い「織物製造」になるのは仕方がないのを御容赦ください。 織物業時代に自分が考えた「品質へのこだわり」の話を一部すると、月産20万メートルも織っていましたので、B級品を丸一日知らずに織っていると、それだけで10万円を軽く越えるクレームに繋がりました。 それを阻止する為に(限りなく100%近くA級品を織る為に)、マシンオペレーター(機織り人)が全員違う色の「マーカー」を持ち、「ミス」を誰が何日の何時にして、そのミスを誰が何日の何時に見つけたかを検反で徹底的に調査、責任を追及しました。 その結果を掲示(ミス当事者に恥をかかせて)し私が直接注意もし(容赦なく叱るのがポイント)、徹底的に反省を促しました。 時にはクレームで返ってきた生地サンプルを従業員全員に一人一人持って周り、反省と今後の対策を指示しました。 また、織機上での「織前点検」を出社時と帰社時の2回、マーカーをつける織機がミスで止まった時に、オペレーター全員に「ルーペと小型蛍光灯」を常時持たせて徹底的に見るようにさせました。(もちろん私も同じ) 極力私が「現場に張り付く」事が肝要と言うことで、それまで毎週金曜に大阪の本町に営業に行っていましたが、現場の暇な時に限定して行き、また普段工場近くにある自宅に昼食に帰っていましたがそれを止め、弁当持参で早朝から晩までずっと会社に張り付くようにしました。 しかしここまでしても、所詮人間のすることですから、99.9%までA級品でも、B級品をゼロには出来なかったのが非常に残念でした。 本当のエンドユーザーの顔を見ずに(流通が長すぎて見れない)商社とのやり取りだけで商売が進んでいましたので、「過剰品質」「過剰防衛」「見込生産」「仮需要」の膨大な無駄がコストを押し潰していったのでしょう。 仕事が変わっても仕事の基本は同じだと思いますが、今は「クレームを出さない」よりも、「いかにお客様に喜んでもらうか」に重点を置いてます。 この方が織物時代より100倍楽しいからです(笑)。 長い繊維の流通(歴史も)の真ん中あたりでボヤケタ目標しか持たずウロウロしていましたが、「エンドユーザー直」の目標の定まった今が非常に遣り甲斐があります。 ※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚
2009.04.06
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織物製造業時代はコスト削減の第一として「多能工化」をトコトン追求しました。 まずこれを従業員に求める前に、自ら経営者が「見本」を示すと言う意味で、私は何でもできる必要がありました。 80%が現場の機織り、タイイング、立替え(品種切り替え)、荷造り、織物設計、マシンメンテナンス、コンプレッサー室、高圧電気室、空調と地下ピットの管理、検反、フォークリフトの運転、、、。 しかし一番大事だったのが従業員への「具体的に細かい指図」だったように思います。 従業員に嫌がられる一歩手前まで、具体的に現場で口と手での説明(必ず納得する理由を付けて)と紙に書いて手渡しました。 このように徹底的に「ミスを未然に防がないと」すぐに何十万というクレームに繋がるほど高級品(原材料代が高い)を製造していましたので、日々戦々恐々としていました。 残り20%は月産20万メートル(シャツ換算で月産13万着)の商量の営業、経理、事務処理(糸と織物受け渡し)を一人でこなしていました。 特に大変だったのが、現在(今織っている織物と糸)、過去(過去に織って出荷待ちの織物)、未来(1ヶ月先に織る予定の織物の糸)の管理(受け渡し)が常に100種類以上(糸と織物あわせて)もありましたのでパソコンで管理しても気が狂いそうでした(笑)。 これを約20年間355日(盆、正月、だんじり祭のみ10日間休み)24時間エンドレス操業していたのですから、他人から見たら殆どバカですね(笑)。 ちなみに父親はすでに引退していましたが、死ぬ日まで毎日機織りやワインダーを巻いてフォークリフトにも乗っていました。 経営者がそこまでやっていましたので、自然と従業員もいくつもの仕事を兼ねて「多能工化」していったのが「競争力」強化に繋がっていったのだと思います。 トランクルームの「賃料が日本一安い」という理由の一つは、従業員は雇わずに私一人で「すべて」やっているということです(唯一外注はホームページのウエブデザインか?)。 もちろん私がいなくても、普段家事や別の仕事を持っている家族の誰もが出来るような体制もとっています。 このように不況になると、企業の「最大の重荷は人件費」なので、これを軽減するには、また乗り切るには「多能工化」しかないと思うのです。 ※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚
2009.04.01
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織物業時代はエアージェット(空気で横糸を飛ばす方式)という最新の織機を導入してから「多品種小ロット」が酷くなりました。 素材で言うと、綿、麻、ポリエステル、ストレッチ、静電糸(カーボン)、スフ、レーヨン、ウール、アクリル、テンセル、フィラメント、各紡績会社の特殊糸などありとあらゆる糸種に、殆どが2,3種の混合糸(或いはストレッチ糸のようカバーリング糸)か縦横糸違いの複雑な織物ばかりでした。 用途では、春夏向けの男女衣料(パンツ、シャツ)が中心でしたが、4月から9月までのシーズンオフは、輸出(北米のギャップ向けのカジュアルパンツ、欧州ブランド向け高密度綿織物、中近東のトーブ)、ユニフォーム(ワーキング、オフィス、スクール、官需関係)、資材(ガムテープの基布、研磨布)など過去20年間(毎年355日、24時間エンドレス操業)で600品種、1年で新しい織物を30品種こなした計算になります。 その他に「試織」と称して1,2反の極少ロット(大赤字)も受注していましたので、常に現場は目の回るような忙しさでした。 この月産20万メートル(シャツ換算で月産13万枚)の織物工場を、エアージェット導入当初2年間は男子社員を雇っていませんでしたので、私一人で朝5時から夜の10時まで現場で汗と油にまみれていましたので、太る暇が無く今より8キロくらいは痩せていました(笑)。 その忙しい現場で唯一嬉しかった(?)のが、中近東向けのトーブ(民族衣装)を受注した時でした。(当時世界的にこのマーケットは日本製の独断場でした) 流行があまり無く毎年同じ規格でしかもロットが長かったからです(笑)。 しかし織物業を廃業する3年前の頃にはこの「美味しかった市場」も工賃下落とロット縮小で全く妙味がありませんでした。 昨今の円高、中近東事情を考えると、この「懐かしい市場」は今はどうなっているのでしょうか? ※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚
2009.01.07
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来年は祖父が織物製造業を始めてから60周年です。 10年前の50周年の時も記念品としてボールペンを作成しましたが、今回もボールペンを1000本作成しました。 派手なパーティをするより、長く使って頂く為に信頼のおける国産のボールペンを、家族5人であらゆる機会を捉えて手渡しで「一言」言葉を添えて配ることにしました。 ボールペンには年始から開業します「宅地建物取引業(不動産屋)」「ファイナンシャルプランナー(FP)」「損害(生命)保険代理店業」も刻印してあります。 ※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚
2008.12.14
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織物屋からトランクルーム業に転身していろいろ今までの経験が役に立っています。 例えば「結露対策」。織物屋はまさに結露との戦いでした。 冬場は外が0度で工場内が27度、70%。当然結露します。 いろいろ試行錯誤の結果、外壁をALCにしたのは当然ですが、このALCの基礎のコンクリートの外側にブロックを硬質のウレタンをサンドイッチにしたのです。 それも地下60センチから。これで完全に結露が収まりました。最初織物工場でALCの建物というの前例がなかったので(19年前)、どうやったら結露がなくなるか考えるのに夜も寝れませんでした。 というのも得意先が新しい工場を見に来て、結露で階段から滑り落ち怪我をしてそれ以来注文がこなくなったからです。 これ以外にも2階のコンプレッサーの排熱(高温低湿)をうまく利用したりとか、ノイローゼになるくらい考えました。 そのおかげで建物の老朽化もおくれ、今回の改造で新築同様になったのだと思います。 いまのトランクルームでも「カビが大敵」ということで、いろいろ手は打ってます。まず各ドアには大きな換気口をつけています。 また8基の大型有圧換気扇と3基の換気扇をつけているのでカビ対策は万全です。コンテナのトランクルームとか、家財道具を置いているガレージではこのようなことはできないでしょう。 ※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚
2006.07.19
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