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一昔前まで高校や大学を卒業して就職したら、ずっとその会社に60歳定年までの約40年間を勤めるというのが一般的でした。途中で転職や離職するというのはタブーに近かったのです。転職というのは言わばリセットです。会社を辞めて何処か別に会社に転職するのは勇気が要ります。リセットには勇気が要るのです。人間関係でもリセット(絶交、離婚)には勇気が要ります。勇気が要りますが、リセットしないと前に進めないという現実があり、そこに葛藤が生じます。その葛藤を乗り越えたところに明るい未来があるのです。自分の人生にとって大事な事でリセットできる人と、ズルズルと何もできない人の差がここに現れます。と言っても、直ぐには結果は出ません。結果として差が現れ始めるのは1年後で、5年後にはハッキリ現れます。という事は、5年先を見つめてリセットの決断を下せるか否かが人生を決めるのです。ココです・・・人生のポイントは。私は29歳の時にサラリーマンを辞めて家業の織物業に戻り、31歳で旧式のシャットル織機から最新鋭のエアージェット織機を新工場を建設して導入し、49歳で織物業を廃業してトランクルーム業に転業しました。29歳の時にこのまま30代に突入すればサラリーマンを辞められなくだろう(安月給のまま人生を終えるのか?)と不安になり、31歳の時に100年前と同じメカニックなシャットル織機だと勝負にならないだろうと、49歳の時にこのまま過酷な355日24時間エンドレス工場操業を続ければ60歳まで身体が持たないだろう・・・と(汗)。まぁ67年間の人生を振り返ると、29歳、31歳、49歳の3回、人生を大きくリセットしたのです。その中で何と言っても人生最大のリセットは49歳の織物業廃業(トランクルームに転業)で、これまで祖父の代から57年間築いてきたモノを私の代でゼロにしたのですから・・・先祖に対する申し訳なさで一杯でしたが、母親と妻と子供3人を養い、今を生きるためには仕方がありませんでした・・・(涙)。ギリギリまで踏ん張っていたら、その2年後のリーマンショックで倒産していたでしょう・・・(汗)。私は株は長期保有で売買はしませんが、バブル前年の31歳の時にエアージェット織機20台を安く買い新工場を格安で建て何千万円も節約して他社に先んじて高級だった羽毛布団の高密度織物の生産を軌道に乗せ、49歳で廃業して使い倒したエアージェット織機を北京オリンピック前の好景気に沸いていた中国にソコソコ良い値段で転売でき、リーマンショックにも巻き込まれずにホンとラッキーでした。まぁそんな中で「小さなリセット」を何十回と繰り返したのは言うまでもありません。借金を全額返金して取引銀行との決別、織物業を廃業して取引先との決別、合わない人間との決別、入会する意味がなくなり商工会議所や経済クラブからの離脱・・・といった割と大事な事でのリセットです。こういった小さなリセットと大きなリセットが出来たからこそ、前に進め・・・今があるのです。1日24時間しかありませんから。なぜ人生でこれだけリセットが多いのか・・・?それは自分も変わり周りも変わるからで、自分自身が何も変わらず進歩がなければ、相手が知らぬ間に遠ざかってしまいます。世の中は毎日刻々と変わっていっている・・・という現実を直視しなければ(汗)。という事で、これまで大事な局面でのリセットを沢山こなしてきましたが、残り少ない人生で更にコレが加速してくるでしょう・・・何をリセットするかで、自分の老後が充実するかどうかの分かれ目です・・・(汗)。逆に自分がリセットされてしまうかも知れませんが・・・(笑)。「トランクルーム貝塚」「スタジオ0724」「 貝塚不動産.com」「貝塚卓球センター」「テレワーク&スタディ貝塚」 大阪府貝塚市名越661 tel:072-446-0798 mail: info@sasatani.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2024.03.17
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これまでの人生で「新しい!」と大興奮したモノが、ウインドサーフィンとエアージェット織機です。未だアメリカで発明されて間もないウインドサーフィンとの出会いは1979年の夏の泉南樽井ビーチで、まだ世界的に大ブームになる前で私は22歳でした。これもまだ発売されて間もないエアージェット織機(変形ガイド筬)との出会いは1987年で、この時私は31歳でした。22歳と31歳・・・今から思えばホンと若いですね。「新しい!」と大興奮し・・・そのあとに続くのは「是非ヤッテみたい!」でした。もう67歳ですが、もうそんな内から溢れ出る情熱は残念ながらありませんねェ・・・(笑)。若いからデキたのです。若い時に「これだ!」と思う事に全力を傾ける経験というのは一生の宝であり、その後の人生を大きく左右します。そしてウインドサーフィンは毎週日曜に海に通うスタイルが定着し、泉南フリート仲間らと模擬レースを始め、それがさらに凝りだして二色の浜や脇の浜、甲子園浜、琵琶湖、和歌山片男波、浜名湖、・・・へよくレースに行くようになりました。当時高中正義の「ブルーラグーン」が流行っていて、車のルーフキャリアにウインドサーフィンを積んでビーチでゲットした彼女(今の妻)を横に乗せ、窓を全開にして高中を大音量で聴きながらビーチに行くのがナウかったのです・・・(笑)。ドラ息子がバカみたいに新しい遊びにはしゃいでいる・・・みたいな感じで見られていたでしょう(笑)。そして関西予選を勝ち抜いて、憧れの全日本ウインドサーファー選手権にも1982年に出場しましたが、結果は総合92位、ライトクラス26位の惨敗(当時は体重別レース)。それでも嬉しかったですねェ・・・全力を出し切ったので。極めつけは「大学にウインドサーフィン同好会を作ろう」でした。文字通り大学に創部者として同好会を作り、全日本学生連盟にも加盟し、未だなかった関西学生連盟を他の5校と立ち上げました。ちょっと前まで空手やドラムにハマっていたのが、ウインドサーフィンと出会ってから、正に青春の全てをウインドサーフィンに捧げたのです。個人的にウインドサーフィンを楽しむだけなら単にそれだけの話ですが、わざわざ新しいクラブを大学に創部するというのがポイントで、この時の苦労した経験が後の起業(トランクルーム、不動産仲介業、音楽スタジオ)の垣根を低くしたのです。平たく言えば「起業の予習」といった感じで、学校の勉強では決して学ばないこの苦労するであろう事に、オモシロそうだと自ら飛び込んだのです。しかし就職や結婚で徐々にウインドサーフィンから遠ざかっていきましたが、完全にやめるともう二度と出来ないと、夏場だけでも家族と海に・・・という思いで、泣く泣く270cmのショートボードとサーファー艇を売却して340cmのオールラウンド艇(ファナティック・バイパー)1本に買い替えたのでした。そんなオールラウンドを15年ほど2台ほど乗り継いでましたが、40代になって3人の子供が大きくなってから、またショートボードに3台ほど乗り継いで20年経って今に至ります。67歳の今でもウインドサーフィンをやっていますが、周りのウインド仲間はだいたい平均60歳くらいで、3,40代の若手?は殆どいません・・・(笑)。エアージェット織機は、サラリーマン生活を4年で終止符を打ち、家業の織物業に戻ってきた時は昔からのシャットル織機でしたので、これをシャットルではなく空気で横糸を運ぶ(飛ばす)エアージェット織機を見て「新しい!これからのマシンだ!」と感じ、何億もかけて新工場を建設してまでエアージェット織機に全台入れ替えました。それから20年間、年355日24時間エンドレス稼働で月産20万mの織物工場を維持しましたが、洪水的な中国からの製品輸入に「もうダメだ!この大きな流れは自分個人では止められん(どうしようもできない)!」と57年続いた泉州の地場産業だった家業(織物業)を廃業する決断をしたのです。廃業と同時に今のトランクルームに転業したのが今から17年前です。まぁしかし、ウインドサーフィンもエアージェット織機も趣味と仕事で違いますが、やっている時はどちらも「最先端の事をやっているなぁ~」と優越感に浸りました・・・(笑)。特にエアージェット織機のメーカー(トヨタ)の実験工場が隣村の清児にあり、研究者の方と話す機会もあったりしましたので、「世界でも最先端をイってるなぁ~」と感じたものです。伊藤忠の紹介で中国上海の大手公司から弊社のエアージェット織機の集団稼働の見学に来られたり、伊藤忠で研修中のパキスタンの大手財閥の御曹司から是非見学をしたいなんて言うオファーもありました。まぁ学業はイマイチでファッションもダサかったですが、趣味と仕事が「世界最先端?」だったので何か自信めいたモノがあったのも確かです・・・(笑)。世界最先端が妄想だったとしても、ウインドサーフィンとエアージェット織機で私の人生に於いて大きな自信がついたことだけは確かですねェ・・・という事で、「新しい!」と言えば、正に私の大好きなファンクバンド「クール&ギャング」の「FRESH」を思い出します。曲にもあるように、新しい未来に文字通り大興奮したのです・・・(笑)。「トランクルーム貝塚」「スタジオ0724」「 貝塚不動産.com」「貝塚卓球センター」「テレワーク&スタディ貝塚」 大阪府貝塚市名越661 tel:072-446-0798 mail: info@sasatani.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2023.11.27
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ありそうでなかったシリーズ第57弾は「プライドを捨て社長から工員になった1年半」です。もちろん、これって16年前の私の事です・・・(笑)。16年前に織物業からトランクルームに転業(起業)した当初は、6か月間は殆ど集客できませんでした。織物業を廃業する時に借金を全額返金して、トランクルーム改造資金も相当資金を使ったため手持ちの資金が余りありませんでした。しかし妻と子供3人と母親の計5人を養っていかなくてはなりません。ならば、どうするか・・・?当たり前の話ですが、私が働いて稼ぐしかないのです。それも個人と会社の固定資産税などを考えると、最低月に手取り30万円稼がなくては生活が成り立ちません・・・(汗)。職安に行くと、夜警や宅配便の仕事はいくらでもありますが、深夜労働だったり拘束時間が15時間でも月15万円しかありません。思い悩んだ末、織物業の技術(機織り、タイイング、織機修理)を活かして、同業他社の社長に頭を下げて織物工場で仕事を見つけたのです。その時はプライドを捨てるとか全く眼中になく、ただただ明日のメシを食うために当時時給850円の12時間労働(4時間残業、月25日労働)の現場労働に飛びついたという感じです。他人から見れば「社長が工員になりカッコ悪ぅ!」と思っていたでしょう・・・(笑)。実際その通りですが、明日から6人飯を食って行くのにプライドもヘチマもありません。プライドを捨てる・・・なんて実際なかなか出来ませんから、会社を倒産させたり自己破産したら、誰も知らない遠方に逃げて二度と地元に帰って来れないのはプライドが邪魔をするからです。それほどプライドというのは捨てられないモノです・・・私の場合は倒産も自己破産もしていませんので逃げる必要もありませんが、ジッとカッコ悪さに耐えるだけで済んだと言えるでしょう・・・(笑)。この「なかなかプライドを捨てられない」という人間心理を利用して、「プライドをくすぐる(虚栄心を満たす)」をビジネスで高級車を買わせたり住宅(賃貸マンション)を建てたせたり高級ブランドファッション(グッズ)を買わせたり・・・と企業はアノ手この手で消費者にちょっとワンランク上のモノを買わそうと必死です。特に車は90%は駐車場の展示品(実働10%)と言われ、保険や車検でコストが掛かり普通に考えれば「動けばイイや」で身分相応で実用的な車で良さそうなものですが、これがメーカーの巧妙なプレゼンに多くの虚栄心を満たそうとする人達がハマって、高級車に群がるというカラクリも一つの大きなマーケットとして日本経済を回しているんですねェ・・・まぁしかし、それから1年半必死のパッチで頑張りました・・・(汗)。途中「こんな事をいつまでもヤッテいられない・・・トランクルームの仕事に戻ったら不動産仲介業も兼業しなければ」という思いから、毎日12時間仕事をしながら、朝2時に起きて宅建の受験勉強を9か月しました。睡眠時間5時間。日中は眠くて眠くて、織物工場の現場で機織りをしながら何回歩きながら眠くてこけそうになった事か・・・(笑)。常に目を覚ますために、ガムや目薬を多用して、拳骨でホホにフックをして脳ミソを横揺れさせて目を覚ませました。やはり、人間は睡眠時間は7時間は必要だと心の底から思いました。そんな20代のサラリーマン時代から30年ぶりに他社で働くサラリーマン(工員)を1年半送った訳です。久しぶりに他社で平社員ペイペイの空気を吸って、オモシロかったですよ・・・イロイロあって(笑)。もちろん身分(元社長)を隠してでの現場労働ですので、先輩の10代の女子行員から鼻であしらわれた時は一瞬カチンときましたが、そこはガマン、ガマン・・・(汗)。久しぶりの年は取っても新人の「下から目線」は新鮮でした・・・(笑)。まぁ65歳の今から思えば、当時49歳・・・まだ若かったんでしょうねェ。という事で、人生どんな環境に陥っても、腐らず目の前の自分がデキる事を淡々とする事が将来に繋がる・・・と言うのを身をもって経験したのが私の強みかも知れません。古い言い方かもしれませんが、やはり人間は経験を通じてでしかハートは強くならないと思うのです。本を読んだりセミナーなどで人の話を聞くだけでは、自分が変わるキッカケになるかも知れませんが、残念ながらハートは強くなりません。しかし後で考えれば、そんな事をしなくても不動産を担保に祖父の代から80年間も取引のある地元のメインバンクから金を借りたり、不動産を売ったらもっと楽だったろう・・・と思いますが、織物時代の借金の重圧から解放され無借金経営になった「清々しい気持ち」を手放すのは、絶対イヤだという気持ちが強かったんでしょうねェ~「トランクルーム貝塚」「スタジオ0724」「貝塚卓球センター」「テレワーク&スタディ貝塚」 「 貝塚不動産.com」 大阪府貝塚市名越661 tel:072-446-0798 mail: info@sasatani.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2022.03.31
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これまで65年生きてきて、ショッキングな出来事が2つありました。1つは「CDの出現」であり、もうひとつは「エアージェット織機(織物機械)の出現」でした。CDの前は中学生から一生懸命小遣いの範囲内でレコードをボチボチ買い貯め、大学生になってから聴く範囲の急拡大にレコード購入がついて行けなくなり(小遣い不足で)、一計を案じオープンデッキとカセットデッキの組み合わせでローコストで音楽を聴ける(FMラジオからのエアーチェック)工夫をしました。1000本以上の膨大な数のカセットテープを作りましたが、CDの出現でその何年か後に泣く泣くカセットを全て廃棄し、CDに完全に乗り換えました。この時の想いを何と表現したらイイのでしょうか・・・?CDに乗り換えてから、これまた膨大な数のCDをパソコンを使ってコピー(CD-R)しました。ウインドウズ95が発売されて直ぐですから、もう20年以上前の事です。しかし今はCDを買ったりCD-Rコピーもする事はなく、昨年から音楽サブスクのspotifyオンリーです。月額1000円で聴き放題です。起きている間は、大体spotifyを聴いています。私にとって、これほどCPが高いモノはありません・・・(涙)。過去50年でシングルレコード → LPレコード → カセットテープ(オープンリール) → CD(MD)→ CD-R → サブスクと目まぐるしい私の音楽変遷です。2つの目の織物機械の「エアージェット織機」ですが、その前は昔ながらの「シャットル織機」でした。1985年にサラリーマンを辞めて家業の織物業に戻ってきたときは昭和30年代から使っていたシャットル織機でした。子供の頃から織物工場から聞こえる「ガッチャン、ガッチャン」というシャットル音で育ち、それが戻って2年後に空気で横糸を飛ばす「エアージェット織機」にまるっきり変わったのです。今の自動車業界でEV(電気自動車)は「100年に1度の改革」と言われていますが、30年前の織物業界でもそう言われたのです。その証拠に、津田駒工業や豊田自動織機といったエアージェット織機メーカーの織機販売の代理店である伊藤忠と丸紅が子会社を作って、日本で最も織物業が盛んだった貝塚市内にその支店を開設したのです。これには驚きましたねェ・・・伊藤忠と丸紅のモーレツな売込みと当時バブル絶頂期だったため銀行はドンドン融資してくれました。その結果、貝塚市には県外の工場も含めると約1000台のエアージェット織機が導入されました。それも殆ど、清児から木積までの三中地区(木島&葛城小エリア)でした。1台1000万円と考えると、恐ろしい金額です。弊社は他社に先駆けてバブル前のプラザ合意後の円高不況だった1987年にエアージェット織機を20台導入しましたので(1986年に契約)、30%安い設備費や建築費で導入でき、当時最盛期だった羽毛布団(1セット20~30万円)の側地生産をいち早く軌道に乗せる事ができました。しかしこれまで身につけてきたシャットル織機の技術を捨てて、1からエアージェット織機の技術を習得しなければなりませんでした・・・(汗)。これが1番辛かったですね・・・しかし何億もの投資金額で、生まれて初めて連帯保証人になりましたので、必死になったのは言うまでもありませんでした。リスクを負うとは、こういう事なのか・・・と(汗)。特にユニフル付の自動シャットル織機(坂本式)を改造する為に、地元で大手のN織布の「織機の神様」と全国的に呼ばれる方が地元に住んでおり、たまたま地元の鉄工所で知り合って教えを乞う事になり、弊社にあった織機全台を毎日1台づつ改造していき、稼働率が飛躍的に上がったのです・・・(涙)。この時の経験で「織機とはこういう仕組みになって、こういう風に治すのだなァ・・・」と非常に勉強になりました。しかし時の流れは残酷で、弊社を含めて殆どの織屋は倒産廃業し、三中地区で残ったのはたった5社です(最盛期の1960年代は150社)。という事で、当時新しかった「CD」も「エアージェット織機」も何とか乗り越えられ、またその次の「spotify」と「トランクルームへの転業」に辿り着けたのは、その前段階の「カセットデッキ」と「シャットル織機」の経験があったからだと思います・・・(汗)。「音楽」と「仕事」という人生における2つの大きな課題に一生懸命取り組んできて否定されるほど情けない事はありませんでしたが、まぁそうやって長年マジメに取り組んできて「変化対応力」がついたのかなぁ・・・?まぁしかし、そんな歴史を辿ってきた音楽と仕事でしたが、何と約40年ぶりにレコードの音質とシャットル織機の風合いが見直されているではありませんか・・・(驚)。CDはノイズが少ないですが再生周波数特性がレコードより劣り、エアージェット織機の高速回転に耐えれるように縦糸テンションを限界まで上げて織られたペーパーライクの風合いよりシャットル織機でゆっくり織られた風合いの方が良いのは当然だったのです。しかしレコードもシャットル織機も商業ベースに乗るかと言えば、そうでもないところが微妙で、この辺がホンと商売の難しいところです。「トランクルーム貝塚」「スタジオ0724」「貝塚卓球センター」「テレワーク&スタディ貝塚」 「 貝塚不動産.com」 大阪府貝塚市名越661 tel:072-446-0798 mail: info@sasatani.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2021.04.19
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本日から5/31まで1カ月半、弊社リハーサル音楽スタジオ「スタジオ0724」を臨時休業しますが、長い目でバンドスタジオ経営というのを考えると、政府の緊急事態宣言を待っている暇はなく、今正に大阪のコロナ感染状況が大変になっているこのタイミングで休業しなければならないのです。ビジネスだけでなく人生で大事なのは、長期的展望つまりマクロ視点です。今、グッと辛抱、ガマンすれば、未来が必ず開けるのです。先日の読売新聞の「時代の証言者」というコーナーで連載されていた、すかいらーく創業者の横川さんの最終回に「83歳商売人 定年なし」というテーマが目に飛び込んできました。 商売人・・・しょうばいにん、あきんど。一般的にはキーワードとして「ガメツイ」「うさん臭い」「海千山千」といった良いイメージはありませんしイロイロと見方がありますが、この言葉が好きです。自分を指す言葉として、これがピッタリのような気がします・・・(笑)。現在5つのビジネス(トランクルーム、音楽スタジオ、テレワーク&自習室、卓球場、不動産仲介業)を展開していますが、私は高校オケ部でトランペットを担当しドラムを少しカジッタ程度でプロドラマーでもありませんし、卓球アスリートでもありませんし、イケイケドンドンの売買仲介専門の不動産屋でもありませんし、宅建士と不動産コンサル資格とファイナンシャルプランナー(2級FP&AFP)資格は持っていますが国際資格の1番難しい1級とCFP資格は持っていませんし、HTML言語を勉強してWEBサイトのSEO対策くらいしか出来ないプログラマーでもないタダの商売人です。青春を捧げたウインドサーフィンも大学に学連加盟の同好会を創ったと言っても最高位で全日本選手権で92位で、空手も二段しか取っていません。関西外大時代も毎朝5時から家業の織物工場に入っていて、空手、ウインドサーフィン、ドラム、ディスコ、ライブハウス、読書(年間200冊くらい)・・・と超多忙な青春を送っていましたので、英語はかろうじて卒業できる程度しか勉強できませんでした・・・(汗)。見た目もただの小太りのジイサンです・・・(笑)。大阪に1万社も同業者がいる不動産屋は別にして、他の4つはニッチマーケットに特化して大阪府下で1位ではありませんが、堺市を除いた南大阪(泉州)エリアでは、それなりのシェアがあると思います。ニッチマーケットでそれなりのシェア・・・というのがポイントです。企業秘密でも何でも無いですが、この裏に実は大きなコストダウン要因が隠されていたのです・・・(笑)。まぁイロイロやっていますが「極めていない」・・・中途半端と言えば、確かにそうですが(笑)。自分を100%近く活かすには、現在の自分の知力、体力、これまでの経験、人脈、資産(貯金、借金、不動産、株)をすべて棚卸して、客観的に戦略を組み立てる事が大事です。中でも一番大事なのは、もちろん目に見えない経験です。これまでの経験によって将来が決まる訳で、現在の自分は良し悪しは別にして過去の自分の経験(歴史)の「集大成」と言えば誰もが理解できるでしょう。まァ、無いモノを羨ましがっても仕方がありませんし、あるモノを上手に活かすしかないのです。医者や弁護士といったスペシャリストや有名プロミュージシャンを見ると社会的地位と責任があり影響力が大きいという意味で羨ましいですが、自分には自分の道がある・・・と(涙)。15年前まで「泉州の織屋の社長」として、ある時は繊維の営業で大阪本町を駆けずり回り、また毎朝5時から工場で繋ぎ(タイイング)や油だらけになって機械の修理をし、ある時は事務所で経理や受け渡し(糸と織物)管理でパソコンと格闘し、ある時は軽トラに重量オーバー近い糸や反物やビームを積んで走り、ある時は倉庫内をフォークリフトに乗ってパズルのように糸と反物を整理して、パートを含めたった10人の従業員で355日24時間エンドレス稼働で月産20万mの織物工場を経営していました。50歳まで「イロンナ事を一人でやってきた」経験が、60歳以降の定年なしに繋がっているのです。企業ならダイバーシティ的で多様な人材を確保する事が将来の社運を分けますが、弊社のような零細企業は経営者自身の多様性が問われるのです・・・(汗)。単純で楽な仕事ばかりして、体力や知力の衰えを計算に入れて仕事のスタイルを変えなければ60歳でオワリでした。50歳までの仕事術は、将来の自分(今の仕事をそのまましていたら右肩下がり)をイメージしながら、徐々に仕事を変えていかなくては60歳以降に繋がらないのです。言葉を変えれば、大多数のサラリーマンが60歳定年を目標にして働いてきましたが、それを60歳は「単なる通過点」で80歳を目標にするのです。こう考えると、仕事の質が全く違ったモノになり、これを5年、10年続けると恐ろしい差になってしまいます。今年私は65歳になりますが、サラリーマンだった同級生の多くは60歳からの継続雇用も終わり、半数以上は無職になり年金頼りになるのが現実です。しかし65歳で仕事を完全に止めて夫の年金だけで食べていける人はまだ幸せで、実際は夫の年金だけでは食べていけず奥さんも動員してバイトやパートの仕事に励んでいる人が多いのが実態だと思います。という事で、60歳が定年とするなら、すべては50歳までの2,30年の働き方が問題だったのです・・・一発逆転や起死回生は可能だと思いますが、それには最低でも5年は掛かると思います・・・(汗)。「トランクルーム貝塚」「スタジオ0724」「貝塚卓球センター」「テレワーク&スタディ貝塚」 「 貝塚不動産.com」 大阪府貝塚市名越661 tel:072-446-0798 mail: info@sasatani.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2021.04.17
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人生を振り返ると、「29歳」でサラリーマンから家業(織物製造業)に転職、「49歳」で家業を廃業してトランクルームに転業という大きな節目を乗り切ってきました。そして50歳で宅建資格を取得して52歳で不動産屋も兼業する訳ですが、「59歳」で3つめの大きな節目として音楽スタジオも起業しました。この「29歳」「49歳」「59歳」と不思議にもすべて大台(30歳、50歳、60歳)の前年です・・・(笑)。ここには、自分的には「30歳(50歳、60歳)までにはナンとか・・・したい」という想いがあったのでしょう・・・特に49歳での「廃業の決断」は人生最大の山場でした。自分が起業して自分が廃業するなら、誰にも迷惑をかけませんし何も気に留める必要もありませんが、戦後間もない昭和24年に祖父と父親兄弟で苦労して創業した織物業ですから、そこにストップをかけるには私自身ココロの中で人に言えぬ相当な葛藤があったのは言うまでもありません・・・(涙)。59歳のバンドスタジオ起業は49歳の決断に比べたらオマケみたいなものですが、「この先の残り少ない人生、仕事だけではオモロない・・・」と、40年以上前のドラムに燃えていた青春の日々をフッと思い出したのがキッカケです。という事で、これまでの人生の3つの節目で何とか切り抜けてきた訳ですが、60オーバーとなったコレからの働き方(と言うより「生き方」)は、生き甲斐を求めるのが中心になろうかと思います。そういう意味で、今はトランクルーム、不動産仲介、音楽スタジオ、卓球場、テレワーク室と5つの仕事を15年間一人で営んできましたが、昨年から入った後継者の娘に仕事を徐々にシフトし、これからの私の仕事は3室になった「音楽スタジオ」のパーセンテージを上げていきます。仕事というより音楽スタジオの「コト消費」で、お客さんの笑顔を見る事が「生き甲斐」になるでしょう・・・その笑顔をもっと広げるのと、自分自身もドラムをもっと練習して上手くなりバンド加入してイロンナところでライブ活動し、会員数が今の1600人から2500人になるであろう2023年2月頃に第4スタジオ(Dスタジオ)の増設・・・と夢と希望と可能性が広がります。不動産の売買仲介や建売り業者のように何千万円や億単位の商売をしている業界人から見ると「そんな1時間500円や1000円の儲からへん商売、ようやってんな?」と不思議がられる(笑われる)かも知れませんが、それでもイイのです・・・(笑)。まぁしかし、まだまだコロナで気が抜けませんし暗い話題が多い中、これくらい明るい話題の一つくらいあってもイイでしょう・・・「トランクルーム貝塚」「スタジオ0724」「貝塚卓球センター」「テレワーク&スタディ貝塚」 「 貝塚不動産.com」 大阪府貝塚市名越661 tel:072-446-0798 mail: info@sasatani.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2021.03.08
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日経新聞に女優・岸恵子さんの連載コラム「私の履歴書」の中の一節に「人生は短い!好きな事をやれ!」と学生時代に先生から言われたこの言葉が思い出として残っているそうです。私はもちろん若い時はまだまだ時間があると思っていましたが、50代半ばくらいからボチボチ「老後」を意識するようになりました。今年64歳になろうとする今は、もう完全に平均寿命(81歳)からの「逆算」で生きています・・・(笑)。あと17年しかない・・・と。17年後には、もうこの世に居ないのです。それも、だんだん弱っていってフェードアウトするのです。そんなこと誰も考えたくないですが、これは紛れもない事実です・・・(涙)。後半、苦しまないように亡くなっていくのだけが、せめてもの願いです。17年後には上の孫娘は23歳、下の孫は20歳の4人の大人の美人女性?に成長し、ひょっとするとそのうち誰かが結婚して曾孫ができているかも・・・と具体的に想像すると焦ります(笑)。もちろん100歳まで元気で生きたいのは山々ですが、今回のコロナウイルスもそうですが。これからの将来何があるか分かりませんから。なので、4年前の59歳の時に個人的に「40年ぶりにドラムを再スタートしたい」という想いから、リハーサル音楽スタジオ「スタジオ0724」を始めたのです。もう10年くらい前の企画当初は家族から反対され資金も無かったので、一度は計画を断念しました。しかし諦めきれずに、リスクを最小限に抑える為に、先ずは借金しないで長期計画でスタジオ資金を集める事にしました。何のことはない、不動産仲介業を一生懸命してお金を稼ぐだけの事です。そこまでして「自分の好きな事(スタジオ起業=ドラム再スタート)」を優先しました。他社の音楽スタジオ経営の多くは、都会のビルのワンフロアを借りてスタッフを雇っていますので、今コロナで大問題になっている「家賃」と「人件費」がのしかかってきますが、弊社の場合は自社物件でスタッフを誰も雇いませんので、全く初めてのスタジオ経営に関してでも「秘かな勝算」がありました。もちろん不動産仲介で稼ぐ事が出来なければ、一巻の終わりです。しかしエライもので、「一念岩をも通す」如く、思ったより短期間でスタジオ資金を稼ぐ事が出来ました・・・(汗)。この時ほど、一生懸命宅建(宅地建物取引士)の勉強して、業者としての免許も取ってヨカッタ・・・と(涙)。弁護士や医者は秀才が必死で勉強してもなかなか合格するのは難しく、めでたく国家資格を取得しても1人前に稼げるようになるのも時間が掛かり、この仕事を継続するには精神的にも肉体的にも相当タフでないとやっていけませんが、自己完結型の不動産取引が1人で出来て割と普通の人でもチョット勉強すれば誰でも合格できる「宅建(宅地建物取引士)」のコストパフォーマンスの良さを、改めて見直したのです。まぁ頭の中は、24時間「スタジオ、スタジオ、スタジオ・・・」の楽しみで溢れかえり、もうマーケッティングもクソも無かったのです・・・(笑)。客観的に見て「泉大津から岬町まで、2軒しかライバル(スタジオ)がいない」「過去40年間泉州エリアで出来ては潰れの繰り返しで、結局泉州の人間は便利な南海線や阪和線に乗って堺や難波や天王寺のスタジオに行く」という2つの相反する事実だけで、ある意味一種の賭けだったのです・・・(汗)。「最悪、スタジオをまたトランクルームに戻せばイイや・・」というのが、せめてもの救いでした。という事で、まだコロナウイルスの収束の時期は見えませんが、今臨時休業しているスタジオも再開した時の計画をすでに練っています。そして現在1400人の会員数ですが、2000人に達するであろう2022年頃には第3スタジオである「Cスタジオ」増設計画も短期間で再浮上させます。やはり「人生短し!好きな事やらんと!」です。「トランクルーム貝塚」「スタジオ0724」「貝塚卓球センター」「テレワーク&スタディ貝塚」「貝塚不動産.com」 大阪府貝塚市名越661 tel:072-446-0798 mail: info@sasatani.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2020.05.08
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1987年に弊社は「100年に一度の繊維機械のイノベーション(技術革新)」と当時喧伝されたエアージェット織機を工場を新築して導入しました。当時私は31歳。体力的にもっとも無理が利いて頑張れる年齢でした。それまでの100年間は「シャットル織機」と言って、木製のシャットル(杼=ひ)の中に巻いたヨコ糸を入れてが左右にシャットルが飛んで織物を作っていました。そのヨコ糸を空気で飛ばすという従来と全く違った新しい方法で織物を作るのが「エアージェット織機」だったのです。そりゃもう、その新しいエアージェット織機が搬入されたその日から頭の中を180度変えないと仕事が出来ないという状況に、実際身を置いたのです。2週間だけ織機メーカーのサービス員が滞在して新工場の立ち上げを指導してくれたのですが、初日にサービス員から「今日から2週間滞在している間あなたに全てを教えますので、私達が去った後は従業員にあなたがすべて指導してください」と言われ、恐ろしいプレッシャーで全身が凍り付きました・・・(驚)。事前に1週間研修したものの、たった2週間で織機の技術の全てを覚えなくてはならない・・・これほど大きなプレッシャーを感じたのは、私の人生で後にも先にもこの時だけです。何億も投資して新工場を建設したのですから、織機を使いこさなければ失敗して倒産というストーリーを想像すると夜も寝れませんでした・・・(涙)。それまでヨコ糸の状況(杼走)をシャットルの停止位置を肉眼で毎日見ていたのが、回転数がいきなり5~6倍になったのですから肉眼では見えないのでストロボの光で見るようになりました。これが一番オドロキました。シャットル織機の場合は杼走の状況によって、左右にシャットルを跳ね返すオイルバッファの中のオイルを入れ替えたりオイル漏れを防ぐために定期的にオイルシールを取り換えていたのですが、エアージェット織機になって当時最新鋭の8ビットコンピューター搭載のタッチパネルでエアーを噴き出す4~5個のバルブについた数本のノズルの噴き出し角度を入力するというスタイルに激変しました。まだ若かったんでしょうねェ・・・この大変革に何の躊躇もなく、逆に面白がって新しい機械の操作に夢中になりました。エアージェット織機を導入してから2年間は従業員は10人いたのですが、そのうち男子従業員はゼロでしたので、月産20万mの織物工場の現場の全てを重労働中心に自分一人で切り盛りしていました。幸い当時まだ父親が社長をしていて経理と営業をしなくて済んだので、現場に集中できました。朝5時から夜の10時まで日曜も工場を止めずにクタクタになって働いたお陰で、働き過ぎで食欲減退になり体重が8キロも減りました。糸から織物にするという織布業というのはメーカー(加工業)なので、基本は現場です。特に中小企業レベルでは、経営者が現場を熟知していなければならないのは子供の頃から父親の背中を見て学びました。徹底的に織物工場の現場経験を積み、100年に一度の織機のイノベーションを乗り越えた事が、後に大きな自信となったのは言うまでもありません。空手も最初に基本(突き、蹴り、受け、型)を徹底的に稽古することが、組手試合は別にしてイザという時に役立つのかと思います。という事で、今まさに我々は5G(第5世代移動通信システム)が始まろうとするイノベーションの入口にいます。どういう世の中になるのか・・・?不安と期待が入り混じった複雑な気持ちは、ちょうど33年前のエアージェット織機導入前と同じです。当時のような何億円という金銭的なプレッシャー(借金)が無いのだけが救いですが・・・(笑)。「トランクルーム貝塚」「スタジオ0724」「貝塚卓球センター」「テレワーク&スタディ貝塚」「貝塚不動産.com」 大阪府貝塚市名越661 tel:072-446-0798 mail: info@sasatani.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2020.03.29
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60オーバーになって、人生を振り返ることが多くなりました。イロイロ考えると、ちょうど高校入学の1972年(昭和47年)が人生の大きな節目だったと感じます。今現在、5つの仕事(トランクルーム、不動産仲介業、音楽スタジオ、卓球場、レンタル自習室)の中でも、儲からないのに音楽スタジオの仕事に結構な時間と手間を割いています・・・(笑)。たぶん、この先10年もそうかも知れません・・・一体何故・・・?そのカギを解く為には47年前の1972年まで遡らなければなりません。1972年と言えば、私の中でブラスロックバンドのシカゴの「シカゴ5」とハードロックバンドのディープ・パープルの「マシンヘッド」のアルバム(当時はレコード)発表が真っ先に思い浮かびます。「何じゃコリャ!」「カッコいい」・・・と衝撃的でした。得にシカゴの「Saturday in the park」「Dialogue 」「All Is Well」、ディープ・パープルの「Highway Star」「 Never Before 」「Smoke on the Water 」「Lazy」「Space Truckin' 」が好きですねェ・・・それ以外に洋楽では、レッド・ツェッペリン「Rock and Roll」、ドゥービーブラザーズの「Listen to the Music」、アメリカの「A Horse With No Name」・・・そして1972年の日本では歌謡曲、フォークソング、ニューミュージックと色んなジャンルが入り乱れて大変な事になっていたのです・・・私の好きな曲だけで言いますと、歌謡曲ではペドロ&カプリシャス「別れの朝」、青い三角定規『太陽がくれた季節』、 欧陽菲菲『雨の御堂筋』 、奥村チヨ『終着駅』・・・フォークソングでは、よしだたくろう『旅の宿』、ガロ「学生街の喫茶店」、ビリーバンバンの「さよならをするために」、猫「地下鉄に乗って」、泉谷しげる「春夏秋冬」・・・あとニューミュージック系では桑名正博が率いるファニー・カンパニー「スイートホーム大阪」や、キャロル「ルイジアナ」・・・と、1972年は世界の音楽業界は大変な事になっていたのです・・・その年は私は高校1年、つまり16歳の少年でした。13歳の中学1年から洋楽の影響を受け・・・高校に入学したそんな多感な年頃に影響を受けないわ訳がありません・・・最も好きなブラスロックバンド「シカゴ」の影響で、鳳高校入学と同時にトランペットを是非やりたいという事でオーケーストラ部に入りました。当時は軽音楽部なんていう部活はどこの高校にもなく、吹奏楽部(ブラスバンド)かフォークソング部くらいしかなかったのです。実はシカゴのブラスロックの影響がもちろん大きかったのですが、前年の1971年に世界中で大ヒットしたトランペット4本編成のブラスロックグループ「チェイス」の「黒い炎(GRT IT ON)」の影響も決して見逃せませんでした(全米チャート22位)・・・入部して半年くらい経った頃、フルート担当の1年先輩が突然「これからはジャズロックや!」とオケ部を飛び出しシカゴのコピーをするために「音楽愛好同好会」を結成しました。2年生バンドがシカゴの「Ballet for a Girl in Buchannon」という15分もある組曲をヤルという事で、フォークソング部からドラム、ホーンセクションはオケ部から、どこから集まってきたのかギタリストも?・・・という構成で練習をやりだしました。私はもちろん参加したかったのですが、まだトランペットを始めて半年も経ってなかったので中学からキャリアのある同級生2人に声が掛かりました・・・(涙)。同じ1年生バンドは何処からメンバーが集まったのか同時流行っていたキャロルの「ファンキーモンキーベイビー」をヤッテいました。当時の鳳は前年まで学園紛争(学生がゲバ棒を持って暴れる・・・)で大変な事になっていたようですが、学生運動が完全に終結した1972年はその反動で学内には自由が満ちていました・・・単車通学OK、遠足は自由な服装で各クラスが自由に決め現地集合現地解散、何故か同級生に美人も多く?、それまで丸坊主の貝塚の田舎の中学生だった私にとって、突然天国に放り込まれた感じでした・・・(笑)。中庭でガンガンとバンドの練習をしていても、音楽の女の新任の先生は「○○君、カッコイイ!」という始末・・・(笑)。音楽系部活だけでなく、一般の学生もフォークギターを持ってきて休憩時間や昼休みに弾いていたり、昼の放送時間も毎日誰かが持ち込んだレコードをガンガン流していましたねェ・・・放送部に友人がいましたので、私もよくシカゴのレコードを掛けてもらいました。学生集会でも毎回最後には、何故か?5つの赤い風船の「遠い世界に」をフォークソング部主導でみんなで歌っていました・・・そんな音楽に満ち溢れた高校生活が多感なハイティーンだった私に影響を与えていない訳がありません。翌年の1973年4月にシカゴのコンサートに1人で行きましたが、おそらく当時の音楽月刊誌「ミュージックライフ」や「ライトミュージック」からの情報で、1972年末あたりにチケットを買ったのだろうと思います。大阪の地下鉄を1人で乗ったことも無かったので、チケットを買いに厚生年金まで難波駅から迷いながら1時間掛けて歩いて行きました(当時はプレイガイドも無かった)・・・(笑)。1972年までのシカゴのメンバーの衣装はラフな格好だったのが、世界的に見てイギリスのプレグレスロックの影響か、73年の来日公演にはギンギラギンの衣装を着ていたのには驚きました。そんなことにもファッションが影響されるのかと。そんな音楽に浮かれていた高校時代ですが、一方で家庭内では大変な事になっていました。当時の日本の佐藤首相と米ニクソン大統領との間で交わされた「日米繊維交渉」で家業の織物業が岐路に立っていたのです。父親から「明日からは風呂は2日に1回やどォ・・・」とか「ジーパンは月に1回しか洗ったらアカン・・・」という具体的な節約命令が出ました。子供心に「一体どうなったんや?・・・・お金は大丈夫やろか?学校にいけるんやろか?」と不安で不安で仕方がありませんでした。これまでドンドン織ってアメリカに輸出するために染工場に出荷していたのが、輸出できないので倉庫に出荷先が変わったのです。日米繊維交渉が家庭を直撃していたのです・・・(涙)。当時の事情を読売テレビに取材され、2年前に安倍首相がトランプ大統領に会いに訪米したその日に「情報番組ten.」で放映されました。安倍首相に「45年前の二の舞を踏んだらダメですよ・・・」というメッセージを言外に伝えたかった(国民にも)のだろう・・・というディレクターの意図だと思いますが、大手民放のディレクターは「ソコまで考えるか!」という驚きの方が大きかったですねェ・・・(笑)。という事で、1972年というのは私にとって音楽的にも衝撃的な1年だった事もありますし、外部事情で生活が脅かされるという恐ろしい経験を高校1年生でしたことが、その後の人生観に大きく影響したことは言うまでもありません。それが、今のリハスタ経営に繋がったのかどうかは分かりませんが、「世の中の移り変わりは早い・・・好きなコトを出来るうちにしたほうがイイ・・・よ。」てな人生観を若いうちから持ち得たのかも知れませんねェ・・・にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2019.04.08
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先日のカンヌ国際映画祭で、是枝裕和監督の「万引き家族」が最高賞のパルムドールに輝きました。この関連番組で是枝監督の出演者のリリー・フランキー氏に対する人物像で「彼は欲が無いのが強み・・・」と評されました。ナルホド・・・俗に「無欲の勝利」というヤツとピンときました。リリー・フランキーさんの肩書きはイラストレーター、ライター、エッセイスト、小説家、絵本作家、アートディレクター、デザイナー、ミュージシャン、作詞家、作曲家、放送作家、演出家、ラジオナビゲーター、フォトグラファー、俳優・・・とマルチタレントと言われます。私が思うに、リリーさんが俳優業で演技をする場合、「別に失敗したってイイじゃ無い・・・他の仕事でメシが食えるんだし・・・」てな事を心の中で考えて、本番に臨んでもで緊張せずリラックスして本来のパワーを出せるのかと思うのです。この緊張せず(しない)・・・と言うところがポイントです。コレが実際なかなか難しいのです・・・しかしコレが出来るのは、一言で言うと「精神的余裕」だと思うのです。毎年5月の岸和田フェスティバルで空手の演武をするのですが、それまで一生懸命稽古を重ねるのですが、必ず本番で失敗してしまいます。一生懸命頑張らねば、間違わないようにしなければ・・・と思えば思うほど緊張し、失敗するのです。一体どうすりゃイイのか・・・と毎回泣きたくなります。リリー・フランキーさんのスタイルを真似れば、「別に空手でメシを食うわけでは無いし、間違ったらそれが新しい自分の技なんやと開き直ればイイやん・・・」てな具合に単なる練習で、観客はみんな幼稚園児やと思えば気も楽になりますし、相手(観客)を飲めばノビノビ堂々と演舞出来るはずです・・・(笑)。今一生懸命Led Zeppelinの「Trampled Under Foot」をドラムレッスンで練習していますが、あるフレーズを何10時間も練習しましたので、自信満々で先生の前でイザ叩くと・・・「あれ?叩けない!どういうこっちゃ?」という事態に陥りました(涙)。一体全体、どうなっているのか?・・・です。そんな単なる練習でも、先生(人)の前で緊張して実力を発揮できないのです。その裏には「先生の前で(これだけ練習してきたんだから)エエ格好をしてやろう・・・」という見栄が邪魔をして緊張を生み出し、脳から身体(手と足)に上手く伝達していないのだろう思います・・・(涙)。ゴルフでもイップス (yips) という精神的な原因などによりスポーツの動作に支障をきたし、突然自分の思い通りのプレー(動き)や意識が出来なくなる症状が有名です。優勝が掛かった最後のパットが、手が震えて出来ないとかよく聞く話がソレです。昔の弁護士(司法)試験会場に救急車が待機していたという話も、青春を犠牲にして長年毎日10時間以上も受験勉強している受験生が殆どで、たった年1回の試験に運命が分かれるプレッシャーに耐えられず会場で発狂するケースと同じような事だと思います。そこで問われるのは「精神的余裕」なのです・・・人に言えませんが、私も50歳の時に受けた宅建試験会場で、プレッシャーに押し潰されそうになり頭が真っ白になってしまい30分間全く何も書けませんでした・・・(汗)。不幸中の幸い後半意識を取り戻し、当時合格ボーダーライン(35点)ぎりぎりの37点で何とか1発で合格できました。ただ家でやみくもに勉強しただけで、模擬試験も何も受けずいきなり本番試験に臨み、精神的余裕が全くなかったからです・・・(涙)。特に試験本番前の1週間は仕事を休んで1日18時間も受験勉強していたため、こんな辛い事もう2度としたくない思いで、「今回の受験限りで、不合格なら別の道を歩もう!」と心に決め、背水の陣で臨んだ事が更に緊張に輪を掛けてしまったのです・・・(笑)。「ダメなら、また来年受けよう・・・」てな軽い気持ちで受けたら、最初からスラスラ書けたのでしょうけど。他人から見ても自分でも相当図太い神経をしているように思っていましたが、案外根は繊細なんですね・・・(笑)。振り返って仕事に関しても、今トランクルーム、不動産仲介、音楽スタジオ、卓球場、自習室と5つの仕事を1人でしていますが、みんな極めること無く中途半端と言えば中途半端です・・・(笑)。トランクルーム以外、それ単独だけでメシは食えません。しかしこれが、逆にメリットなのです。単独でメシが食えなくても全体でオーライですから、細く長く続けられるのです。この「細く長く」というのがメチャメチャ大事で、経費の掛かる大企業ならとっくに撤退しているようなビジネスでも、零細企業でも工夫次第で上手に「拾える」のです。まァどれか一つに集中せずに、バランスを取りながら満遍なくボチボチ仕事をやることによって、緊張せずそして客観的になれるのです。決してアツくならず、いつも冷静な判断を下すことが、案外ウマイ具合に?仕事が回っているのかと思うのです・・・音楽スタジオだけがドラマーですので、どうしても楽器機材にコダワリを持ってしまう自分に、ブレーキとアクセルを調整するのに苦労しますが・・・(笑)。まァしかしビジネスですから、精神的に乱高下しがちですが、それを上手くコントロール出来るか否かで経営者の器が問われます。その器が「精神的な余裕」だと思うのです。零細企業で借金が1億円もあれば、毎晩枕を高くして寝れないのが普通です・・・資産が借金の10倍の10億円があったり、利益率が高く儲かっていれば熟睡できますが・・・(笑)。1%の才能のあるスペシャリストは別ですが、例えば殆どのプロミュージシャンやサラリーマンにおいて「これ1本(一筋)しかない!」「会社に人生を捧げる」というのは他人が見たら確かに美しいかも知れませんが、自分や家族の「幸せ&メシが食える」とはまた別次元の問題です。冷静に考えたら「これに失敗したら、人生終わり・・・」では無く、他にいくらでも人生の選択肢があるのに思い詰める・・・コレだと悪循環に繋がります。まァチャンネルや選択肢を1つでも増やすべく、プロミュージシャンは著作権で稼げる(守られる)作曲や作詞の勉強をし、会社は一勝面倒を見てくれませんのでサラリーマンは年収アップの為に独立(違う道)の可能性がある副業にも勤しむ(別のスキルも磨く)べしです。ある意味、こういった「危機分散化」が心の安定や平安を保つのです・・・事実は1つ、考え方は2つ。ポジティブに考えるか、ネガティブに考えるか・・・それは自分次第だと思います。にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2018.06.03
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今年62歳になりますが、12年前に祖父の代から約60年続いていた大阪泉州の地場産業であった織物業を廃業し、織物工場を改造コンバージョンしてトランクルーム業に転業しました。その1年後に宅建資格を取り不動産仲介業も始めました。そしてトランクルーム(全171室)の空室対策として、空き部屋を改造して2016年にリハーサル音楽スタジオ(スタジオ0724)、2017年に卓球場(貝塚卓球センター)と自習室(レンタル自習室0724)を始めました。更に、毎週火曜日10:00~12:00はスタジオを無料で開放してで空手指導のボランティアをしています。夏は風が吹けば平日でも、関空近くのマーブルビーチでウインドサーフィンを適当に楽しんでいます。ウインド仲間の多くは(50代中心)寒い冬も白浜などでやっていますが、私は持病の高血圧症もあり、そこまで元気はありません。しかし出来るだけ健康寿命を延ばし、80歳までボチボチ楽しもうという細く長く気の長い計画です・・・(笑)。イロイロやっているように見えますが、実は恥ずかしい話、皆私の「青春時代の失敗談」から来ています・・・(笑)。来ていると言うより、引き摺ってきた・・・と言うべきか?もちろん、12年前の織物業からトランクルームへの転業も、家業を継続できず先祖に申し訳なかったの一言です。言い換えれば「織物業の継続に失敗」と言えます。倒産せずに上手く転業できましたが、あと2年無理して頑張っていれば2008年のリーマンショックで潰れていたでしょう・・・今考えれば、正にキワドイところだったのです・・・無理せず余裕を残して廃業した事がラッキーだったのです。バブル前年の1987年の円高不況時に安く設備一新したのもラッキーでしたが、廃業で中古織機を北京オリンピック好景気に湧く中国に転売できたのもラッキーでした。私は株の売買はあまりしませんが、株と同じように安く仕入れて高く売り抜いたのです・・・(笑)。設備には建物を2棟壊して工場を新築しましたので何億もかかり、単なる株の売買と違って正に死活問題だったのです(汗)。転業から2年後に始めた不動産屋(仲介業)も、従業員を1人も雇っていませんので大きな事はせずに、貝塚市に絞ったエリア限定の仲介オンリーというスタイルです。あくまでもトランクルームがメインなので、片道15分以内の物件に限定しているのです。片道30分なら時間のロスにもなり広範囲になってしまい、昔の細かい事は分かりません。片道15分以内なら、50年前は「どうだったのか?」というのが大体分かるものです。それがネイティブによる地域密着型不動産仲介の強み・・・と言えるかも。エリア内の自社の両手仲介だけでなく、大阪市内といったエリア外の同業者からの貝塚市内の物件の共同仲介依頼にも発展するところが弊社の強みと言えるかもしれません。案外、地元民は地元の不動産屋に相談すると中身がバレるのが恥ずかしいのか、弊社エリア外(岸和田、泉佐野、堺、大阪市)の不動産屋に相談しているケースもあり、そういう情報(オープンな)が弊社に流れてくるのも皮肉なものです・・・(笑)。もちろん不動産屋には守秘義務があり、クローズドな個人情報を漏らすと罰せられるので安心して欲しいのですが。まァ、無借金経営を貫き、仲介物件を一件一件積み上げていき、地元での信用を長年かけて創り上げていくというロングスパンの計画です。音楽スタジオを始めたのも元はと言えば、中学1年の時に洋楽ロックに目覚め、ブラスロックのシカゴに憧れ鳳高校オーケストラ部でトランペットを始め、大学時代は地元中学の同級生らとバンドでドラムをやったり、高校同級生のフォークバンドでボンゴをしていたのがキッカケです。しかし、いつもハモリ専門のサードトランペットで、憧れの旋律を吹くファーストは結局吹かせてもらえませんでした・・・(涙)。それどころか、3年になると優秀な後輩にトランペットを譲り、適当に指揮者やスネアドラムをやらされていました・・・勉強も低空飛行で、最初は工学部建築学科希望で理系の勉強をしていましたが、浪人になって私立文系に様変わりして、色んな科目を適当に勉強していました・・・(笑)。まァ一言で言うと、「暗く悶々とした青春時代」と言えるでしょう。関西外大(英語)では殆ど勉強しませんでしたが、片道2時間の通学時間を無駄にせず毎日1冊本を読むことを自分に課し、家業の織物業を朝5時から2時間手伝ってから登校し、空手やウインドサーフィン、ドラムを適当にして土曜の夜はミナミのディスコによく繰り出しました・・・当然、英語も仕事で使えるほどペラペラにはほど遠く、海外旅行でチョット使える程度のショボい英語力だったのです・・・(涙)。まァ空手でも同じ流派の全日本クラスの人達と一緒に稽古すると、彼らの鍛え抜かれた恐ろしいスピードと気迫に次元が違うと落胆し(こりゃ無理だと)、ウインドサーフィン全日本選手権でもトップクラスの人のテクニックとセンス(見えない風が見えるという)に圧倒され自分が情けなくなりました・・・空手もウインドサーフィンも小柄私にとって不利なので、体格(体力)差をカバーするには筋肉増強でパワーを付けるしかないと、和泉大宮駅近くにあったボディビルディングジムに通い始めました。周りはミスター大阪○位といかいう、マッチョばかりの本格的なボディビルダーばかりです。たまたま代表の方が叔父が経営する会社の元従業員だったため、甥だった私に対して親切に指導して頂き非常に良くしてくれました。当時は「筋肉を付けるのは25歳まで」という常識があり、焦って未だ日本でプロテインが発売されていなかったので、通販で買ったアメリカ製の不味いプロテインを牛乳で混ぜて鼻をつまんで飲んでいました・・・(笑)。元々マッチョが目的ではありませんでしたが、それなりに一生懸命通ったお陰で筋肉が多少付いて、スポーツタカハシカップというウインドサーフィンの大阪のローカルレースで優勝した事で大いに自信を深めました。筋肉という意味でこれも中途半端に終わりましたが、当時まだまだ未開拓なボディビルという体験と勉強によって、その後のコナミスポーツやジョイフィットの筋トレに大いに役立ちました。まァしかし実力ミュージシャンのライブで感動するのと同じように、トップレベルの競技者と同じ土俵で戦う体験ほど目を覚まさせるショックはありません・・・ドラムセットを中古で買って自宅の音が漏れくい土蔵で練習しましたが、我流だったため1年半で挫折してしまいました・・・(涙)。その他、オーディオにも懲りましたが、本当のマニアのように何百万も掛かるような事はせずに、オープンデッキ、カセットデッキ、スピーカー、アンプ、チューナー、レコードプレーヤー合計で5,60万くらいのソコソコの音質グレードに押さえ、それより車など何処でも聴けるようにFMラジオのエアーチェック中心にカセットテープにせっせとノイズリダクションを掛けてダビングしていましたねェ・・・今思えば感心しますが、毎週FMレコパルか週間FMを買って赤ペンでダビングする曲をマークしていた「芸の細かさ」が、その後の織物工場での「カイゼン」や多品種小ロット対応、171室もあるトランクルームや会員数700人を超えたスタジオの対応を一人で熟してイケているのかと思います。まァ、この一見無駄のようなオーディオの知識と経験が、その後織物業の防音と防振対策に、音楽スタジオの設計に大いに役立つとは夢にも思いませんでした・・・金額に換算すると、ウン千万円の節約(価値)です・・・(驚)。普通道楽は大損をするものですが、好きな道楽がウン千万円に変わるとは、私も先見の明があったのか(笑)。小中学生時代も図画工作が好きで成績はずっと5でしたが、これも中途半端で画家に成るほど才能はありませんでしたが、トランクルームに転業してから大いに役立ちました。何故なら、部屋の中にロフト(棚)を作ったり、床や壁にペンキを塗ったりするのに大いに役だったのです。まァしかし、当時自分なりに一生懸命頑張った結果、みんな中途半端に終わっていたのです・・・(涙)。若い頃はファッションも趣味や世相に影響されやすいものですが、当時のロッカーはロン毛にパンタロン、空手は硬派な角刈り、サーファーはアメリカ西海岸ファッションという完全に見分けが付くファッションをしていましたが、私はサーファーっぽいパンチパーマというこれまた中途半端なファッションをしていたのです・・・(笑)。まァしかし、本当に一生延命ヤリ続けたというのは家業の織物業だけ・・・という事になります。これには優勝も何もありませんが。一生懸命ヤッタと言うより、一生懸命しなければ学費も稼げませんし生活が掛かっていましたから。中高時代から工場の荷作りや掃除などの雑用をチョロチョロやらされ、浪人時代から本格的に従業員のように組み込まれました。大学時代は毎朝5時から2時間働き、長期休暇(夏、冬、春)となれば12時間働き、大学生とは名ばかりで工場従業員そのものでした・・・(笑)。夏の織物工場は一歩中に入ると汗が直ぐに噴き出るような、騒音100デシベル、室温40℃、湿度90%の非常に過酷な現場でした。お陰で、デートするときは身体の油臭さを取るのに苦労しました・・・(笑)。しかしそんな環境でも、人間というのは慣れるんですねェ・・・お陰で難聴(職業病)になりましたが・・・(笑)。織屋を辞めるとほぼ90%治りましたが・・・ここでも人間の順応性にビックリ。織屋の基本である「機織り」「つなぎ(タイイング)」「検反」「荷作り」「掃除」を徹底的に叩き込まれ、従業員の採用面接までしていました。そこまで長男の私にさせるのは、長年父親は心臓病を患っていたため、早く交代させたかったのでしょう・・・仕事だけでなく、若かった私もイヤだった村の行事や親戚の付き合いにも行かされました。これにはホント参りました・・・20歳ソコソコで、5,60代のオッサンとどんな世間話をすればイイんですか?話題に困り果てましたが、当時必死にアレコレ考え喋って切り抜けたのでしょう・・・(笑)。しかし、今思えばコレが良かったのでしょう。人間本来は怠け者で、イヤなことは避けたいものです。しかし、そんな事を続けていると人間として成長が無いどころかダメ人間になってしまいます。窮地に追いやられ、切羽詰まらないと「努力」しないものです。そんな環境に追いやられて、今では感謝しているのです(笑)。今、男性の定年退職後に孤立するのが社会問題化しつつありますが、60歳で地域社会デビューしても手遅れなのです。まァしかし、家業の手伝いと家の事だけシッカリやれば、後は男だから好きなようにせよ・・・と父親は何も言いませんでした。なので、だんじり祭に狂って他所のだんじりの太鼓を叩き荒らしても、ウインドサーフィンに凝って大学に同好会を創っても、空手の練習で顔を殴られ腫らしても、何も言いませんでしたし、私も反抗期だったので報告も何もしませんでした・・・20代のサラリーマン経験もそうでしたが、青春時代に自分のヤリタイ事を自分なりに一生懸命した結果「限界」を感じて方向転換した事がヨカッタのだと思います。また、それを経済的時間的に許してくれた20年前に亡くなった父親に感謝しかないです・・・(涙)。その青春時代の中途半端に終わってしまった経験があったからこそ、49歳の時に家業の織物業に「限界」を感じて、トランクルームに「方向転換」させたのだろうと思います。1つの事だけに拘らず、イロンナ事にチャレンジし自分なりに一生懸命ヤッテ、限界を感じる・・・この経験がイイのだろうと思います。限界を感じたら、「次はどうしよう??」と必死に自分の脳ミソを考えるのがイイのです。還暦を過ぎて言えることは、「人生、これ(限界を感じる)の積み重ねかなァ・・・」と(笑)。これまで周りを見ると、才能があって努力家でソコソコのところまで行っても、途中で身体を壊してしまう、或いは売れない(世間に認知されない)とか、ウインドサーフィンのようにブームが去ってしまって自分の努力ではどうしようも無いという境遇に追い込まれる・・・というシーンを多く見てきました。所謂1つの事に青春を捧げてきても、極々一部の人を除いて殆どの人は実を結ばない(それでメシを食っていけない)・・・という厳しい現実です。この事は、若い頃から1つの事だけをヤッテはいけない(2つ以上の事をせよ)・・・という啓示か?拡大解釈すれば、社会人になって1つの会社に縛られず、常に他の事(他社でも通用するスキルを持った仕事術)にも関心を持てと言えるかもしれません。昔と違って特に今の変化の激しいグローバル化した時代、定年まで3,40年ずっと同じ会社で同じ仕事というのはあり得ません。どこかで転職、転業、リストラ、起業せざるを得ない時代と言えるでしょう。そうなった時に、自分や家族を守る(収入を得る)スキルや経験や人脈がなければなりません。資格なんて独占業務の国家資格以外殆ど即戦力にならないと、その時始めて知っても後の祭りでしょう・・・という事で、もう最近年を取ったのか昔の回想ばかりです・・・(笑)。昔の回想をして、将来の妄想をしているのか・・・(笑)。今振り返って、空手も中途半端にやっていたお陰で身体も壊さずに今でも年齢に応じた空手の稽古に励んで(楽しんで)いますし、ウインドサーフィンもマイルドなボードに変えたお陰であと10年は楽しめそうです・・・ドラムも月3,4回弊社音楽スタジオのレッスンに通いながら、ボチボチロックを楽しみながら叩いています。ドラムも何とかこの年でチョット叩けるのも、若い頃に身体を壊すほど運動しなかった事も幸いしたのは勿論、祭りの大太鼓の練習や空手の基本稽古で正中線と体幹を拳立て伏せで手首を鍛えられ、身体の中心から手首への連動運動(振り)を身体で覚えたのがヨカッタのだろうと思います。ブラスロックのトランペットをしたくてオケ部に入って、家ではロックを聴きオケ部でそれまで殆ど興味も無く聴く事も無かったクラシックと映画音楽を中途半端に体験したことによって、音楽に対する許容範囲が広がった事もスタジオ経営にプラスに働いているように思います。ロック+クラシックが、その後ジャズ、ラテン、フュージョン・・・に広がっていったのです。今では、日本で発売されていないようなワールドワイドな曲をYOU TUBEでドンドン聴いていますし、スタジオの若い子らが演奏している今風な曲にも拒絶反応は起きません・・・(笑)。空手もウインドもドラムも中途半端に終わってしまったから、「いつか、もう一度・・・」という強い想いがあったのでしょう・・・しかし、20年前の今頃はまだ暗くて寒い朝5時に出勤し、クタクタになるまで夜遅くまで仕事をし、帰ってビールを飲んでバタンキューの繰り返しでした。血圧も高いのに、26℃の織物現場と0℃の倉庫をしょっちゅう行き来していましたので、身体に良いはずがありませんし、長年の過酷な肉体労働によって慢性腰痛(ヘルニア)になっていたのです。そこから解き放たれて、今はホント自由奔放か・・・(笑)。長年織物業で苦労した反動で、今は一人でトランクルームを主軸に不動産仲介業を加え、ここ2年の間に始めた「チョット遊びを取り入れた」スタジオと卓球場に力を入れていきたいと思います。特にスタジオは決して儲かりませんが、可能性は無限大にあると信じています。可能性というのはスタジオを始めたミッションで、「泉州に音楽を広める・・・」という事です。何でもそうですが、「自分にしか出来ない事」に人生の意義があり、そういう意味で広い音楽スタジオのオーナーである私しか出来ない事を考えました。その第一弾として、今年からスタジオのメインユーザーである高校生をバックアップするために、高校生バンド大会「0724ライブ」を毎年3回開催したいと思います。そして10年後には、4人の孫娘がガールズバンドを組んでいる・・・という勝手な夢を見ているジイサンがここにいました(笑)。にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2018.02.15
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先日テレビの音楽番組で、歌手の加山雄三さんを見ました。今年80歳になったそうです・・・(驚)。若い!・・・とても、80歳には見えません・・・せいぜい70歳くらいにしか見えません。正に、驚き意外何ものでもありません。と同時に、彼の未だに「現役バリバリ」で好きな音楽の仕事をしている姿に感動です・・・彼の姿に1ミリでも近づきたいですねェ・・・しかし、彼の若々しい「元気の源」は何でしょうか?明らかに、内面から迸る情熱をヒシヒシと感じます。その情熱の源は、「音楽」と「海」ではないでしょうか・・・音楽を愛し、海も愛する・・・ビーチでノンビリ音楽を聴く・・・なんて、もうサイコーというのがそれを証明してます。それって、チョッと・・・ボ、ボクと一緒じゃないですか・・・(笑)。次元もレベルも違いますが・・・方向は同じかも?まァ、いくつになっても好きな事を「現役」でヤッテいるんでしょうねェ・・・それがストレスフリーに・・・そして、この「現役」というのがポイントで、決して引退しないのです。もちろん、年齢を重ねると共に仕事量を減らす事はあってもゼロには決してしないという事で、死ぬ時にやっとゼロになるんでしょう・・・まだ「現役」でいる間は目的もありますし、毎日気を張って生活する事がイイんですねェ・・・これなんです。これこそが正に、生き甲斐なんです。特に我々60歳定年を向かえた人間にとって、これがあるか否かで今後の長い余生がウンと違ってきます。定年だから、遊びまくる・・・と言っても、いくら金があっても毎日遊びまくれるものではありません。ただ、虚しいだけです・・・去年サイパンに行った時、平均年齢70歳のウインドサーフィンのロングステイ軍団「サイパン少年隊」のひとりが、ポソッと「あんたみたいに、まだ現役で仕事を頑張っている内が花だよ・・・」と寂しく語ったのがとても印象的でした。仕事を引退してサイパンにロングステイして好きなウインドサーフィンを毎日しても、やはり仕事をバリバリしながらウインドサーフィンをやっていた時の方が生き甲斐があった・・・と言いたかったのでしょう・・・確かに・・・私も織物業を廃業する前年は本当に仕事が無くて、それまで19年間ずっと土日も工場を止めずにいましたが、その夏に1か月だけいきなり土日操業を止めざるを得なくなりました。週7日操業が、週5日操業に激減してしまったのです。工場を新設して以来の「一大事」でした。そのある土曜の朝、ウインドサーフィンに出かけましたが、心の底から楽しめないのです・・・心の中に仕事に関する不安があれば、何をヤッテも楽しめない・・・サイパンの仕事を完全引退した70歳ウインドサーファーでも、年金だけでは思う存分遊べないという不安・・・そして医療費高いサイパン(アメリカ)で病気になるのが心配・・・という事だったのでしょうか・・・?いずれにしても、音楽も海も人のココロを癒してくれます・・・私も早朝から新聞を読みながらBOSEのブルートゥースで静かなボサノバやジャズやクラシックを聴き、調子がノッテきた朝から事務所では仕事をしながらずっと好きな音楽をDENONのミニコンポで聴き、風呂とビーチはJBLの防水ブルートゥースで、軽トラではパイオニアのカーステでiphoneを聴き、ノッテきたら時にスティックでハンドルを叩いてます・・・(笑)。もちろん、スタジオ客の少ない朝に、大音量でハードロックを聴きながらドラムを叩いてますが・・・(笑)。リハスタ経営をしていますので、これって合法的?です・・・(笑)。去年今年と海になかなか行けてませんが、これまで散々海でウインドサーフィンしてきましたら身体中シミだらけです・・・(笑)。しかし、シミを遥かに超える爽快感や充実感を味わってきて充分お釣りが来ます。イヤ、あのウインドサーフィンの海上でのプレーニング(滑走)感覚は、爽快感を遥かに超えた陶酔や恍惚を伴う「快感」で、もはや病められない健康的な麻薬?みたいなものです・・・(笑)。もう、それに憑りつかれて39年にもなりますが・・・(笑)。今の日本のウインドサーファー像は、平均年齢50歳オーバーのオッサン達です。残念ながら、若者や女子は殆んどいません。では、何故50オーバーのオッサンなのか?それは、私の周りのウインドサーファーの多くが音楽(楽器)をヤッテいる、音楽が好きだ・・・と関連性があるのかもしれませんねェ・・・大阪のウインドサーフィン界のレジェンド、つまり42年前に初めて大阪でウインドサーフィンを始めた私のウインドの師匠(先輩)に当たる人達は(泉南フリートの創設者)、実はミュージシャンだったのです。※フリートというのはビーチにあるウインドサーフィンの愛好団体。泉佐野の貝田に40数年前にかつて「シンバル」というジャズライブハウスがあり、そこのハコバンを先輩らがヤッテいたのです。そして泉南フリートから別れた二色浜フリートの創設者Y氏が、今は岸和田駅商店街で中古ギター屋さんを営んでいるところが、やはり音楽と海は切っても切れない関係で、60半ば超えたY氏の未だ衰えないバイタリティの秘密なんだろうなァと思うのです・・・まァ人間って言うのは、インドア(音楽)とアウトドア(海)のバランスを取って生きるのがごく自然で、一番ココロと身体に優しいなんだろうなァ・・・と思う今日この頃です。にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2017.07.18
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これまでの60年の人生、結構中途半端でムダな?事ばかりしてきましたが、しかしそのムダも、60歳の今となって考えると、役に立っているのか?と思う今日この頃です・・・(笑)。社会人になってから3回転職、宅建&不動産コンサル&FPなど9つも資格だけ持っているが商売に活かせず、空手を35年ぶりに再開するも流派は3つ目、ウインドサーフィンは39年間もダラダラと、なんちゃって?ドラムを40年ぶりに再開、テキトーなオーディオ歴も50年、だんじり大太鼓は今でも毎年ダラダラ55年も、文法を無視したブロークンでテキトーな英語でも何故か現地で通じる・・・(笑)。私が子供だった昭和30年代は日本は戦後の復興期真っ只中の高度成長期で、どこの家庭の親も働くのに忙しく、また子供も多かったので放任のところも多かったように思います。せいぜいPTAがあるくらいで、今のような育成会とかはありませんでした。子供は外で同級生だけでなく年上や年下らと勝手に遊んでいました・・・今ならチョッと問題になるような悪い事でも、当時はみんな普通にヤッテいましたねェ・・・そういう大らかな時代でした。例えば、だんじり祭なんかは小学生の頃から朝から晩までだんじりに貼りついて、スキを見てだんじりに乗り込み、太鼓や鉦を手当たり次第叩いていました・・・(笑)。たまに綱を引っ張る事もありましたが、これがまたPTAからクレームが出そうな事を当時堂々とやっていました。青年団のニイチャンらと一緒に春歌を歌うのです。高校生くらいなると、チョッと酒を回し飲みしたり・・・たぶん、何処の村祭りもそういう雰囲気でした。今なら警察が出てきそうです・・・(笑)。今から思えば、顔から火が出ますねェ・・・自分の頃もそうだったし、そんな事を知っていた親父は、私が祭りに参加するのを「行くな・・・」と反対しました。しかし、その反対も自分も若い頃に行っていただけに、弱かったですねェ・・・(笑)。まァ、そんな太鼓好きが高じて、青年団の最後まで「鳴物(お囃子)」をヤッテいました。この鳴物というのは、大太鼓と小太鼓と鉦と横笛のセッションです。呼吸がピッタリ合わないと、いい演奏がデキなのです。この鳴物の経験で、楽器演奏で最も大事な「ノリ」を体得出来たように思います・・・小学生から早くも「ノリ」を覚えたというのは、その後バンド活動にプラスになったのは言う間でもありません。その後、中学1年で洋楽に目覚めました。特にブラスロックのシカゴに心酔し、高校でトランペットをする事になりました。当時どうしてもトランペットをしたかった為、仕方なくクラシック音楽中心のオーケストラ部に入ったのでした。部活でクラシック、家でロックをガンガン聴いていましたので、当時親父は「とうとう、トオルも気が狂ったか・・・?」と本当に思ったそうです・・・(笑)。しかし、小学校低学年からの民族音楽(だんじり和太鼓)や、高校時代のクラシックからロックまで幅広く聴いていたという中途半端で一見無駄のような音楽遍歴が、その後ジャズからラテン、フュージョン、R&B、ソウル・・・と広がっていったベースになったのかと思うのです。それが、色んなジャンルのミュージシャンが来られるリハスタ経営にプラスになっているのかと思うのです。そしてトランペットにしても結局、花形の旋律を吹くファースト・トランぺッターになれず、いつもハモリ専門のサード・トランぺッターに甘んじていましたし、大学時代バンドでドラムをやっていましたが、我流で1年半で挫折してしまいました・・・(涙)。自分なりに一生懸命しましたが、結果的に中途半端に終わってしまったのです。一流プレーヤーになれなかった事が、逆に音楽を趣味として楽しむ事と他の分野(経営サイド)に目を向けさせたのかもしれません。大学受験も失敗しました・・・(涙)。現役時代は工学部建築学科を目指していましたが、結局浪人して私立文系に進学しました。最初から私立文系受験のみを考えれば、無駄な数学や物理や化学を勉強する必要もなかったのですが、中途半端にイロイロ勉強して2年も回り道をしてしまいました・・・(笑)。お蔭さまで、孤独に強くなりました・・・(笑)。2年もの浪人時代は「孤独との戦い」でした・・・(涙)。勉強しなければならないのに、全くヤル気が出ない・・・この繰り返しで、悶々とした日々が続きました。同級生らが青春を謳歌しているのに、なんで俺がこんな状況に・・・心理的に、この時期が最も苦しかったかもしれません。しかし後で考えれば、2年も浪人が許されるなんて、経済的に恵まれていたからです。家が貧乏であれば、高校すら進学出来ないのです。親父に2年も迷惑を掛けた事を心から反省し、大学入学直後からサラリーマン2年間を通じて毎朝5時から家業の織物業を手伝ったのでした。そういう意味で「経営者は孤独」・・・というベースも浪人時代に養ったのか。大学に入ってから空手を始めましたが、これも自分なりに一生懸命練習しましたが、自分の限界を早い段階で知ることになりました・・・(涙)。おまけに父親の入院で、学業を中断して空手部も辞めざるを得なくなり、その後落ち着いてから流派を変えて地元で空手を再開したのです。それも3,4年で辞めて、数年前に30年ぶりに今の沖縄空手を始めたのでした。過去40年で3つも流派が変わったのです。空手は流派を変えると会社人生と同じで「一から白帯スタート」ですから、無駄と言えば無駄だったかもしれません・・・ただ3つそれぞれにイイ所があり、「違う3つの事を学べた・・・」とトータルで空手人生を考えれば、納得です。また大学時代、空手とオーバーラップしてウインドサーフィンも始めました。どちらかと言うと、ウインドサーフィンに比重がいつの間にか移ってしまい、地元泉南樽井ビーチで始めたのが、大学にも学連加盟のクラブを自ら創ってしまいました。これも、一生懸命頑張りましたが、「上には上がいる」という事を身に沁みました。就職試験もヤマハ発動機やミズノといったウインドサーフィンに当時これから新規参入しようという企業を受けましたが、すべて撃沈・・・「ウインドサーフィンをいつ発売しますか?」とか「米ウインドサーファー社のユニバーサルジョイントの特許をどう思われますか?」と他の受験生がビックリするような内部的にマズイ質問をした事が面接官の気に障ったのか・・・(笑)。まァ、全日本選手権で入賞するくらいでないと合格できなかったのですが。最高の戦績で全日本96位ですから・・・こりゃダメだと。死ぬほど頑張っても目が出なかったら、めげますねェ・・・(涙)。第一志望叶わず、第五志望くらいの建築建材メーカーに就職しましたが、そこで本業の営業の傍らウインドのパーツに参入しようとしましたが、これも特許の壁に阻まれ断念せざるを得なくなりました。右肩上がりのニュービジネスの業界の裏側を見れた事が、その後のビジネスマンとしての経験に非常に役立ちました・・・「美味しい・・・」と見れば、この全く新しいマーケットに原材料メーカー(合繊、カーボン、アルミ、樹脂)、有名スポーツメーカー、アウトドアメーカー、海外メーカー、輸入専門商社、総合商社、小売り、有名一流選手、強豪大学クラブ、個人の熱狂的な愛好者らがこぞって新規参入・・・それに群がる膨大な中小の海千山千の業者・・・正に驚き以外、何ものでもありませんでした。その4年後に家業に戻ってから、地元二色浜人工島にウインドの「艇庫」に参入しようと画策しましたが、これも途中で大手リゾート会社が参入するという事で断念。正に、四面楚歌だったのです。結局、断念して織物業に専念することになりました。その後まもなく、ウインドサーフィンブームが去ってしまい、軒並みこれまでの業者が撤退、倒産、廃業というエライ事になりました・・・業界がひっくり返るというのは、正にこの事を言うのでしょうねェ・・・「やらなくてよかった」・・・と、ホッと胸を撫で下ろしました・・・(笑)。途中で断念できたのも、本業の片手間でやっていたからです。背水の陣で100%それに注力していたら、引くに引けない状況に陥って失敗していたでしょう。ちょうど、空手の「猫足立ち」みたいなもので、軸足に80~90%体重を掛け、蹴り足で探るみたいな感じで・・・やはり、母体(本業)を守りながら、新規で攻めるなら10~20%に留めておけというスタイルがイイのか・・・?また、逆に一流大学に行けなかった事で、一流(大)企業に行けなかったのが幸いしました。自虐的ですが・・・(笑)。日本の学歴社会が、私にとって功を奏したのです・・・(笑)。頭で勝負できなければ、行動力で勝負と開き直ったのです・・・人材不足の二流企業で、色んな事(営業、企画)を経験させてもらった事が、その後家業の織物業でプラスに働きました。4年のサラリーマン生活で「飛び込みセールス」を中心とした営業を経験をした事が、その後家業に戻ってバブル崩壊後の「得意先を代える(100%賃織りからの脱却)」という難局を乗り切る事が出来たのです。いや、二流企業のサラリーマン経験が無ければ、織物業20年を乗り切れなかったでしょう。織物機械(織機)の更新では、工場を改造でよかったのを新築までした事で、トランクルームへの用途変更(転業)を可能にしました。織物工場を改造するだけでしたら、トランクルームに転業できなかったでしょう。何がプラスに働くか、その時点で分るはずもありません・・・いずれにしても、この工場新築だけが中途半端ではありませんでした。これだけは、思い切ってヤッテよかったのです。もし一流大に行って一流企業に就職しても、出世競争に巻き込まれ、長いサラリーマン生活の中で会社都合であちこち国内外をポンポンと転勤で飛ばされます。サラリーマンだから仕方がないでは済まされないと思います。家庭を犠牲にしてまで会社に尽くすという意味が外国人には理解できませんが、普通に考えれば日本のサラリーマン事情は異常だと思います・・・相当優秀な人だけ役員になって60歳以降も年収は下がりませんが、殆ど場合は55歳の役職定年で年収が減り始め60歳定年で更に年収がた減りです。そして、1年契約の継続雇用などで65歳まで働けても、65歳で年収ゼロというのが一般的なサラリーマン人生のシナリオです。まァ60歳まで本体に居れたらまだラッキーな方で、多くの場合は50歳までにどこかに消えてしまいます(出向、転籍、リストラ解雇)・・・というか、人材豊富な大手企業はホンネを言えば基本的に50歳以上の高給な社員は要らないのです。奇跡的に社長になれても、社長在任中に何らかの手を打つかオーナーでない限り殆ど70歳でサラリーマン人生終了です。自営業者やオーナー経営者が「70歳でも現役バリバリ」というのと大違いです。男の人生として、この「60歳から70歳まで」の過ごし方(仕事&プライベート)が最大の課題かもしれません・・・また、織物工場の防振と防音が20代前半に一時期凝った「オーディオ小僧」時代の経験が役立ちました。AKAIのオープンデッキ、ビクターのカセットデッキ、ケンウッドのスピーカー、テクニクスのチューナーとプリメインアンプ、サンスイのレコードプレーヤー、TDKのカセットテープ(AD,SD、SA)・・・凝ったと言っても、せいぜいトータル50万円程度で、マニアなら100万円くらいは当たり前でした。しかし、よく日本橋をウロウロしました。毎晩23時から始まる「クロスオーバーイレブン」をオープンデッキでエアチェックし(週替わりでFMレコパルと週間FMを買い)、それをセレクトしてカセットにダビングするのです。雑音低減システム(ドルビー:ビクターはANRS)を掛けるのは家用、掛けないのは車用と、同じ曲でも2つもカセットを作った凝りようです・・・(笑)。当時360CCの軽トラックにもカセットデッキを積んで、ガンガンロックを聴いていたのは私くらいのものでしょう・・・(笑)。今よりひと回りも車体が小さかったのでスピーカーをドアマウントではなく、天井と下のヒーター吹き出し口付近に無理やり取り付けました・・・(笑)。まァレコードは高価だったので、こうすれば沢山の曲を安く聴けるという発想だったのです。何より、コスパ・・・です。本当に凝ったのは、たったの3,4年ですが、その後30年間音楽CD、パソコンによるCD-Rコピーとずっと音楽を聴き続けてきました。これも、中途半端に凝ってヨカッタのです。レコードの針でも高価なもので10万円もしましたから、本当に凝っていればタイヘンな事になってしまいます。当時親父はクラウンでモノラルの8トラ(カセットの前世代)で演歌を聴いていましたが、ちょうどパイオニアが日本初のカーオーディオ(ステレオカセット)を発売し始めた頃でした。本格的なオーディオマニアでも、狭い自宅でボリュームを10分の1以下で聴いているのが現状でした。どちらも全くパフォーマンスを活かせていない事に、非常に勿体いなさとアンバランスさを強く感じたものです。この時の経験で何事も「コスパ」というのを更に意識したのでした・・・まァ単なるオーディオの経験で、防音&防振、コスパ意識、音楽性の拡大といった事を体得し、それが織物業の24時間操業、経営感覚、スタジオ経営の礎となったと言えるかもしれません。余談ですが、日本橋の裏通りも知っていた為、織機の細かい電子部品調達で随分と得をしました。何も知らなければメーカーにコンプリートで注文しなければなりませんが、知っていれば100分の1以下の値段で修理できます(買えます)。違法でも何でもありませんが、知っているか否かの差だけです。たぶん、こんな事が出来たのも日本で私ひとりだけだと思います・・・という事は、8ビットコンピューターが搭載された1987年以降のエアージェット織機を扱った工員さんで、1970年代に大阪の日本橋や東京の秋葉原をウロウロしていたのは、日本で私ひとりだったのです・・・(笑)。ニッチ過ぎますねェ・・・(笑)。まァ、同じモノだけど、業界が変わればその価値が100分の1になる。という事は、100倍にもなる。大事なのは、モノを見る視点を柔軟に変えるという事でしょうねェ・・・ある時は斜めから、同じ斜めでも東西南北イロンナ角度からモノが見えます。すると、考えてモノゴトを分析したくなります・・・「ナルホド、こういう事やったんか?」と。いつも同じ方向ばかりから見ると、モノの考え方が固まってしまい人生の選択肢が狭まります。また、去年から40年ぶりにドラムを再開しましたが、これも当時自宅納屋で我流でドコドコ一生懸命練習していましたが、1年半で挫折してしまったのです。「俺は何をヤッテもアカンなァ・・・」と自信喪失していたのですが、頭の中に「いずれ遊びで再開でもしたいなァ・・・」とボヤッと考えていたのが、スタジオ経営に結びついたのです。これが、本腰を入れてそこそこのミュージシャンになっていれば、損益分岐点を考えずに高価な楽器機材に拘ってしまい、リハスタ経営は難しかったでしょう・・・適当なドラマーで終わりましたから、楽器の経験も知識も余りありませんでしたので、当たり前ですが経営をポイントに置いたのが逆にヨカッタのでしょう・・・(笑)。大阪のウインドサーフィンショップで、プロやセミプロに近い技術を持ったウインドサーファーが経営していたショップは殆ど潰れてしまいましたが、未だに30年以上経営している某ショップ経営者はウインドサーフィンの素人です。この辺が、商売の難しいところです・・・また、ヒップホップダンスも少しカジッていました・・・(笑)。元々我々の世代はサタデーナイトフィーバー世代で、若い頃はミナミのディスコに時々通っていたものです・・・その「影響」で20年くらい前に、前ジャスコ貝塚店のスポーツクラブ「スペース」でヒップホップのスタジオプログラムを2年受けました。自分のセンスの無さに気落ちしながらも、楽しかったので週1回必ず受けていたのです。その後、コナミスポーツ、ジョイフィットとジムに通いましたが、ボディコンバットを中心にヒップホップも受講した事が、リハスタ経営で「広くしてダンスもOKにしよう」という発想が浮かんだのだろうと思います。ダンスに関わった事が無かったら、こういう発想も出来なかったでしょう・・・中学体育授業でダンスが必須化された事が、これからの追い風になるでしょう。という事で、60年の人生を振り返ると、この工場新築が人生最大のターニングポイントだったと思います。残念ながら人に自慢するほど「何かに一流だった」という立派な人生を歩んできませんでしたが、凡人が試行錯誤をしながらイロイロ中途半端な経験を積んできても(実績は残せませんでしたが)、それなりにオモロイ人生だったと人に言えるかもしれません・・・一流選手だった人が年取ってから結構身体があちこちガタガタというのは、1つのスポーツだけを突き詰めてヤルと、バランスを欠いた状態で同じ筋肉ばかりを酷使するので、それが身体にとって良くないのだろうと思うのです・・・一般人なら、適当に複数のスポーツをバランスよくイロイロやる事が身体に良く、それが応用力に繋がっていくのかと思うのです。点と点が、30年経ってやっと線になった・・・とスティーブジョブスが同じような意味の事を言いましたが、超一流を目指す人間は別にして、一般人が社会生活をする上で、それなりにイロイロ経験を積み重ねる事が大事だと思います。ただ、「点」と言っても3日坊主では全く意味は無く(むしろ逆効果で自信喪失に繋がる)、少なくとも自分の限界点が見えてくるまで1年くらい努力をする必要があるでしょうねェ・・・これからも全く新しい事は出来ませんが、自分の過去の経験を紐解いて「新しい組合せ」ならデキるかもしれません・・・よくビルボードライブへ往年のミュージシャン(外タレ)を見に行きますが、彼らは60代70代ですが、未だに現役バリバリです。何故か?若い頃に培った「基本」がしっかりしているので、年とってもブレナイ(今でも上手)のだと思うのです。もちろん、20代の頃のようにはいきませんが、マーケットに充分受け入れられる実力は未だ充分備わっているのだと思います。それと同じように、未だに空手やウインドやドラムを「それなりに」ヤレたり、英語を多少喋れてるというのは、若い頃に応用を効かすまでには至りませんでしたが(一流になれず)、基本をまだシッカリやっていたからだと思いますし、もうかれこれ30年続けている早朝の「15分ストレッチ」が今頃ジワジワ効いているのかかな?・・・にほんブログ村 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2017.07.09
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昨日ロックミュージシャンの元「BOφWY」のボーカリストの氷室京介が、ライブ活動からの引退宣言をしたようです・・・理由は年齢による体力の衰えだそうです・・・まだ、53歳のようです・・・残念ですねェ・・・しかし、同じ日本のミュージシャンの長渕剛が私と同じ58歳ですが、まだまだ現役でライブ活動を積極的に行っています・・・何でも、40歳頃から将来を見据え、本格的に筋力トレーニングであるボディビルディングに取り組んだようで(その他、極真空手名誉三段らしい?)、見た目も実際のスタミナやパワーもトテモ58歳とは思えないような肉体改造を成し得ています・・・けっして見た目だけでなく、本当にスタミナとパワーがつけば、心の底から自信が湧いてくるのも不思議な事だと思います・・・これで、あと10年は現役で頑張れるでしょう・・・長渕剛の姿が、何故か中高年のサラリーマンとダブって見えます・・・サラリーマンで40歳と言えば、正に現役バリバリの頃ですが、同時に自分の将来も見えてきます・・・このまま順調に出世するか、リストラ対象になるか・・・サラリーマンは誰でも「自分だけは出世する」と思いたいですが、残念ながら実際はそうではありません・・・私の周りでも、定年前の58歳で、民間で順調に出世コースに乗って、ソコソコの会社で役員あたりまでたどり着いたのは極々一部です・・・殆どは入社した会社に残っていません・・・入社して30数年も経てば世の中が激変して、自分の努力とは関係なく会社が倒産や廃業、子会社や関連会社への出向、M&Aで会社名そのものが消滅したりするのはザラです・・・万一、人生や家庭を犠牲にして社長になったとしても、定年になれば、オーナーではありませんから、ただのオッサンです・・・この辺が、サラリーマンの悲哀です・・・私も20代にサラリーマンを経験していますので、よ~くワカリます・・・しかし、その中でも役員になってバリバリ現役で頑張っている人間に共通するのは、すでに20代から異彩を放っており、別格と言えば別格で一般的にはあまり参考になりません・・・そう言う意味で、殆どのサラリーマンにとって、40歳くらいが人生のターニングポイントになるのではないでしょうか・・・その時に、長渕剛のように将来の為に「どう努力すればイイか?」を真摯に考えるか否かが、その後の人生の命運を分けるのでしょう・・・これが、40歳で何も考えずにダラダラと10年過ごして、50歳になってハッと気づいても少し遅いような気がします・・・何故なら気力も体力もすでにピークを過ぎ、定年(60歳)まであと10年しかないと思うと、そのまま10年ズルズルとイってしまう可能性が非常に高いと思うからです・・・この40歳と50歳の「行動力の差」は、トテツもなく大きいように思います・・・人生そのものを見つめ直すなら40歳くらい・・・ちょうど男の「厄年」です・・・何事も、けっこう時間がかかるものです・・・40歳で目覚めて行動に移しても、なかなか結果が出ないものです・・・「石の上にも3年」という諺がありますが、現実的にはそれほど甘くなく「石上10年」で、10年努力し続けてやっと結果が出るという意味で、「40歳スタート」が妥当な時期かもしれません・・・という事で、私の場合は29歳でサラリーマンを辞めて家業の織物業に「転職」して、49歳の時に織物業からトランクルーム業に「転業」した訳ですが、ちょうど私が41歳の厄年に社長であった父親が急死して、経営の事を何も分かっていなかった私に突然バトンタッチされ、会社の将来や人生を考え直さざる(見つめ直さざる)を得なかったのとよく似ています・・・そして、「仕事も頑張るが、趣味も充実させねば!」と決意して、長年の肉体労働でたたった腰のヘルニアや難聴といった持病や高血圧でボロボロになった身体を「立て直す」という意味で、その頃からプールやジムに通いだしたというのも長渕剛とよく似ています・・・親父が急死してから仕事のプレッシャーが全て私にかかり、半年間の精神的肉体的な過労がたたり、支払日にとうとう腰痛で立てなくなり、会社経営もそうですが、まだ3人の子供も小中学生でしたので、「これでは、本当にダメだ・・・」と身体を起こすことも出来ず、身体を横たえたまま小切手を切ったという苦い経験が自分を奮い立たせたのかもしれません・・・しかし、60歳を超えてまだまだ現役で頑張っている、私の好きなミュージシャンも国内外で多いです・・・国内では、矢沢永吉、山下達郎、高中正義、ユーミン、チャー、海外ではシカゴ、ディープパープル、フォリナー、ジャーニー、TOTO、ボストン、ビリージョエル、イーグルス、Doobie Brothers 、スティービーワンダー、ローリングストーンズ、アース、ウインド&ファイヤー、クール&ギャング、チャカカーン、インコグニート、シャカタク・・・外国の方が、はるかに元気なミュージシャンが多いですねェ・・・日本の音楽業界は戦後からずっと作曲作詞歌手と「3者分業体制」が長らく続き、70年代前半のフォークシンガーあたりからシンガーソングライター(全部自分でする)が徐々に増えだしましたが、外国ではシンガーソングライターはごく当たり前でそんな呼称すらありませんでした・・・更に外国では、自ら楽器を演奏するというのが(レコーディングやライブ活動も)、音楽性に一層の磨きをかけたのだろうと思います・・・日本の歌手は、「作曲・作詞・歌手・演奏=3者分業+1=4」の作品全体の4分の1しか担っていない訳ですから、ヒット曲が出ないとか、マネジャーに逃げられたとか、自分の努力以外の何かのキッカケで、途中で辞めざるを得なくなる場合が多いものです・・・そんな国内外の音楽の歴史的な大きな違いが、層の厚みの差に繋がっているのでしょう・・・フランチャイズや代理店、下請け、問屋といった他社に依存した商売は一見安全なようで実はリスクが大きく、「製造直売」という他人(他社)に依存しない自己完結型のビジネスモデルが、規模は小さいが長く続けるコツのひとつ・・・と言うのと、シンガーソングライターが何故かカブって思えるのは私だけでしょうか・・・(笑)もしビジネス(音楽)が好きなら、他人に頼らず、1から10まで自分(自社)で手掛けた方が長続きするかもですねェ・・・そりゃ、30年以上も音楽をヤッテいたら、普通の仕事と一緒でイロイロとあるでしょう・・・世の中の動向に左右されながらも、メンバーチェンジを繰り返しながら、自分の核とする音楽性を守る・・・相当大変だと察します・・・一般ビジネスも全く同じです・・・しかし、長年続けることによって、実績を積んで、「有形無形の財産」が増える事は間違いないです・・・単なる労働の切り売りと違うのはココです・・・紆余曲折や浮沈を超えながら、自分のポリシーを貫く意味がココにあるのだと思います・・・しかし毎日彼らの音楽を聴き、何時も元気を貰えます・・・俺も頑張らねばと・・・ ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2014.07.14
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私もそうですが、50歳代で小中高大の同窓会やクラス会が懐かしくなり、旧交を温めたくなるものです・・・20代で結婚して、30代、40代と家族を養うために一生懸命働き、50代になってやっと子供も大きくなり独立すると、ふっと我に返るのか・・・特にオッサンは、子供から煙たがられ、嫁さんは子供とベッタリとなると、家庭内で孤独感を味わうものです・・・(笑)そうなると、「何のために人生か?」と疑問を抱くようになり、当然仕事以外に目を向けるようになるのです・・・それが、過去の自分を追い求めるようになり、学校時代の友達に会う事や過去にヤッテいた趣味に辿り着くのかもしれません・・・新たな友達を作る事や新しい趣味にチャレンジするのはイイ事ですが、なかなか出来るものではありません・・・私はちょうど17年前の「厄年(41歳)」に親父の急死によって、織物会社の経営を引き継ぎました・・・その後、数年は大変でした・・・それこそ、同窓会や趣味どころではありませんでした・・・継承がやっと軌道に乗り始めた数年後、身体も心もボロボロになった自分を立て直すために、近所のスポーツクラブに入会し、ウインドサーフィンを本格的に再開する為に「ショートボード」を10数年ぶりに買ったのです・・・仕事に偏り過ぎた自分が危ないと無意識のうちに「危機」を感じ、バランスを元に戻すべく軌道修正をしたのでしょう・・・そうして今まで倒れないように、仕事とプライベートの比率とバランスを考えてウマくヤッテきたのだろうと思います・・・そして60歳まであと2,3年・・・ヤッテいる事は仕事は別にして20代の頃の空手やウインドサーフィン、音楽ばかりです・・・更に、正に20歳頃に夢中になっていたドラムを再開しようと企てているのです・・・私だけでなく、実際ウインドサーファーの平均像は平均年齢50歳のリバイバルのオッサンサーファーだったり、我沖縄空手「止揚会」の平均像は、若い頃に空手など格闘技経験のある平均年齢60歳のジイサン軍団というのがそれを物語っているのです・・・ただ私は若返ろうと思ってヤッテいるのではなく、ただ単に身体と心の奥底から「ヤリタイ!」と思っているだけなのです・・・年取ってから新しい事にチャレンジする事は、聞こえはカッコいいし話題にもなりますが、現実は頭も身体も拒否反応を示し、ナカナカ上達しにくいモノです・・・その点、学校の勉強はスッカリ忘れてしまいましたが、若かった頃の経験(体験)というのは、不思議と身体が覚えているものです・・・それだけ、スムーズに入れるのです・・・ただ炎天下でウインドをやれば、アンチエイジングどころか、逆にしわが増え余計にジイサン顔が加速します・・・それでもイイのです・・・ココロに青春が戻れば・・・真のアンチエイジングは、外見よりもココロに青春を取り戻す事だと思うのです・・・織物時代は仕事の絡みで、イヤイヤながらゴルフをやったりもしましたが、とっくの昔にゴルフを止めて、今でも不動産屋にはゴルフが必須にも拘らず一切しません・・・織物時代もそうでしたが、接待ゴルフで一時的に仕事は増えても、「本業」で勝負しないと長続きはしないと悟ったからです・・・もうこれからは、無理に余計な事をせず、好きな事に集中しようと思うのです・・・実際、今聴いている音楽の90%は10~20代に聴いていた曲ばかりです・・・しかしこれから60歳から80歳までの20年間は、考えたくありませんが、確実に老化がボチボチ訪れます・・・頭がボケ足腰が弱くなり、行動範囲が狭くなります・・・自分独りで行動できる「健康寿命」が70歳と言われていますから、それ以降は寝たきりになる可能性がグンと高くなるのです・・・車を運転する事もだんだん難しくなり、飛行機や電車に乗る事もおっくうになり遠出や旅行にも行きたくなくなり、行動範囲が家の周りだけになるでしょう・・・体力の衰えと共に、気力も萎えてくるのは仕方のない事です・・・そして80歳でちょうど生まれた時と同じように、オシメをして寝たきりになり、言いたい事もロレツが回らなくなり言えず、自分独りではニッチもサッチも行かなくなって・・・人生オワリというのが平均像です・・・今頃こんな事考えたくありませんが、ホント20年なんてスグです・・・これまでの人生を振り返れば分ります・・・20代から40代、40代から60代、20年単位で人生を振り返れば、ホントあっと言う間でした・・・しかも始末の悪い事に、その「体感速度」は年々加速しています(冷汗)・・・一生懸命努力しても、アッと言う間ですから、大した努力もせずにボーッと生きていれば、知らぬ間にジイサンになってボケて何も分らなくなる・・・イヤ、逆にこの方が幸せかも?・・・(笑)将来の「右肩下がり」のシュミレーションを頭の中に入れておき、最終的には「体力(健康)」と「金」が老後をハッピーにするという悲しい現実を受け止めて頑張るしかないのかなァ、と思う今日この頃です・・・ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2014.04.24
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人間は経験を積んで、少しずつ賢くなっていくのですが、それは自らの失敗を教訓にするからだと思います・・・しかし若くても年を取っても、経験を積まななければ、何も始まりませんが・・・トライあっての前進で、じっとして何もしなければ、停滞どころか後退です・・・サラリーマンでも経営者でも、自ら考え(PLAN)、資本を投下して実行すれば(DO)、おのずと失敗か成功か結果が出ます・・・失敗してもサラリーマンなら降格か首で自分の財産に影響ありませんが、中小企業なら失敗して自己破産すれば、経営者の多くは銀行に個人保証していますので、財産を奪われ一文無しになるのが普通です・・・そういった経済活動で、社会が徐々に変わっていくのだと思います・・・自らを振り返ってみて、20年間やってきた織物業からトランクルーム賃貸業に「転業」した49歳の頃が人生のターニングポイントでした・・・祖父の代から60年も織物業をやってきましたが、私自身の20年間の経験で「転業」を決断しました(父親はすでに転業の9年前に他界)・・・織物業をやっている時の反省点が(弊社に限って)、転業後の「教訓」になる訳ですが、列挙すると(2006年当時)、1.グローバル化に取り残された業種=長年国内だけの「水平分業」のリスク分散型(仮需マーケット型)の繊維産業が、ユニクロの登場と共にそれが崩れ、グローバル化した「垂直連携」のリスク型(実需型)に大きく転換してしまった。2.設備投資に金がかかりすぎる=エアージェット織機1台1000万円。3.世界一高い日本の人件費=20年前の中国内陸部は、たった20分の1の人件費。4.世界一高い日本の電気代=アメリカの2倍。弊社1年間の電気代が2000万円だった。今年の4月から更に約20%値上がりした。5.エンドユーザー無視=織物業は長くて古い体質の繊維業界(流通)のちょうど真ん中の「川中」で、エンドユーザーからかけ離れていて、業界間の情報が今と違って分断化されていた。6.円相場に左右されていた=北米やヨーロッパ、中近東への輸出割合が高かった。7.世界一安い日本のインターネット代を利用していない=アパレルのネット販売は多少あったが、織物業=布(川中)のネット利用は皆無。以上のように、ビジネススタイルそのものが、知らず知らずのうちに時代に「逆行」するように変化していったのです・・・それが、日々の仕事でいくら働いても努力しても報われない・・・年間355日24時間エンドレス操業で工場を稼働しても、何にも儲からないどころか損をするのです・・・こんなバカな事はやってられないと・・・先祖に顔向けできませんでしたが、家訓の「名を捨て、実を取る」で気を取り直し、廃業(転業)の決断をしたのです・・・という事で、織物業の経験で痛感した以上7つを、転業後は「真逆」をやろうと決意したのでした・・・ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2013.10.10
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先日の新聞に、ホームと電車の間に落ちた女性客を助けるために、その場に居合わせた見知らぬ者同士が力を合わせて電車を傾かせ、女性を救助したという感動的な記事が載っていました・・・この記事が、世界各国で称賛されたらしいです・・・日本人なら、ごく当たり前ですが・・・海外では、知らんぷりみたいです・・・確かに、日本では大勢集まって(ボランティアで)祭りや盆踊り、学校の運動会や文化祭をよく開催しますが、海外ではカーニバルなど多少ありますが、人が集まるのは「デモ」しか印象がありません・・・日本人にはまだまだ他人との協調性があり、海外は個人主義が強いという事でしょうか・・・これが世界に誇れる「日本人の素晴らしさ(良さ)」ですねェ・・・大いに、自慢したいと思います・・・日本人は元々農耕民族で、一定の場所でずっと暮らしていましたから協調性が大事でして、他方ヨーロッパ民族などは元々狩猟民族で、獲物を追い求めて住居は季節に応じて移動していましたので、我が強くなるのは当然です・・・貝塚市のような日本の地方都市にもマンションとかが増え、かなり希薄になったとは言え、まだまだ町内会や青年団、婦人会とかの「ムラ社会」があり、それがまだ一役買っているのか・・・しかし、もっと田舎へ行けば人口が激減している「限界集落」が増えているようで、日本の人口の約半分が3大都市圏に集中しているのが、気になるところです・・・殺伐とした都会で子供が育てば、本来の「日本人のよさ」が無くなってしまう・・・と危惧するのは私だけではないでしょう・・・長期的に見て、近代的な農業の振興や先端事業の拠点を田舎に創り雇用を生み出す事によって、人口が全国各地に散らばるような施策を考えるべきでしょうねェ・・・ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2013.08.07
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もう57年も生きていますので、これまでに何回も「死んでいたかも?」という、今思えば冷や汗の出来事があります・・・その中でもけっして忘れられないのが、高校生の頃登校する時に、道路を渡る時に「時間がなく(遅刻しそうになる)」横断歩道を渡らずに、何もない道(府道)を横切ろうとしました・・・右を見て、車がまだ遠くにありこちらに来そうにないのを確認し(手前車線が、車の左車線)、左を見て、車が来ないのを確認して渡ろうと一歩踏み出そうとしたその瞬間(身体の重心が前方に移動しかけていた)、目の前20センチを、さっき右を見て確認したはず(来ないと)の車が猛スピードで走り去ったのです・・・もう0.5秒、私の歩く動作が早かったら、確実に車とぶつかって死んでいたかもしれません・・・あまり突然のショックで、しばらく頭の中が真っ白でした・・・未だに、たまにこの夢を見て冷や汗をかきます・・・トラウマか・・・原因は今思えば、当時近視なのに眼鏡を掛けていなかった事や、急いでいるにせよ、横断歩道を渡るべきだったという事です・・・幸い、難を逃れましたので、冷静にこんな事を書いているのですが、最悪それで私の短い人生が終わっていたかと思うとゾッとします・・・ホント、命拾いしました・・・それ以来、歩行や自転車、車の運転に人より慎重になりました・・・頭の片隅にある「小さなトラウマ」がブレーキになっているのでしょう・・・車の運転でも安全運転です・・・制限速度を超える事はありません・・・家族は「お父ちゃんの運転、オソイ!」と文句言いますが・・・あの時私が死んでいたら、嫁さんも子供もありません・・・これが、お父ちゃんの生き方なのです・・・人の人生観やポリシーは、老若男女、善悪は別にして、それまで生きてきた「軌跡(経験)の集大成」です・・・原因があって、結果があるのです・・・会社経営にしても、人からイイ意味で「堅実」だと言われます・・・悪く言うと、ビビり、臆病か・・・まァ、このスタイルは変わりませんし、変われません・・・ウインドサーフィンをしていても、強風荒波でスリルがあって楽しい反面、ある意味このビビりとの戦いです・・・ビビり過ぎて、自分の能力以下のコンディションばかりですれば、技術が向上することはありません・・・自分の「限界能力+10%」のコンディションに挑戦して初めて技術が向上するのです・・・この考え方って、日々の仕事にも通じると思うのですが・・・しかしよ~く考えれば、人生って「偶然の積み重ね」で、ラッキーにも生き延びていると言えるかもしれませんねェ・・・私の周りでも、途中で若くして病気や事故で亡くなられた方も多いです・・・亡くならないまでも、途中で「意に反して」人生の舵を大幅に変更せざるを得なかった人も多いです・・・家内と知り合ったのは樽井の海ですが、これもたまたま当時サンケイ新聞を家でとっていて、樽井浜のウインドサーフィンスクールの記事が泉州版に載っているのを見たからです・・・朝日新聞をとっていたり、ヨット(ヤマハのシーホッパー=小さいシングルハンダーのヨット)をローンで買っていたら(納期で断念した)、この記事を見逃していて、全く違う人生を送っていたでしょう・・・人生って、そういうモンですねェ・・・まァ、幸運の女神がこっちを向いてくれるように祈る一方、頑張るしかないですねェ・・・ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2013.07.26
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高校、浪人と勉強が出来なかった為、「失意のどん底」で三流大学に進学しました・・・ 「親に迷惑をかけた!」との思い出で、片道2時間の通学時間にも拘わらず、毎日朝5時から3時間織物工場で機織りをしてから学校に行きました・・・ その為「1時限目」に間に合わず、受講科目のプログラムに苦労したものです・・・ また夕方から7時頃まで体育会の古武道部で空手の練習をやっていたものですから、帰りはいつも10時頃でした・・・ しかし翌朝4時半には起きなければなりませんでしたから、「大学生活を謳歌する」とは程遠いものでした・・・ 大学近くに下宿して、授業前に起きだしてくるヤツを、どれだけ羨ましく思ったか・・・ 夏休みなど長期休暇ともなれば、朝5時から12時間働いたものです・・・ まァしかし、単科大学の小さい大学でしたので、古武道部を辞めてから、学連加盟のウインドサーフィン同好会を「割と簡単に」創れたのだと思います・・・ これが有名総合大学だと「伝統と大規模」の為に、いろんな複雑な手続きや妨害などで、途中で挫折したと思います・・・ 単科大学でまだ20年ほどしか経っていませんでしたので、自由にデキたのだと思います 簡単に創ったと言っても、丸一日喋っても語り尽くせないほど、それなりの苦労がありました・・・ その「経験」こそが私の財産です・・・ 当時ウインドサーフィンという、まだアメリカで発明されて10年、日本に輸入されて7年(関西へはまだ5年)、関西では琵琶湖や甲子園浜でチョット流行かけていたものの、大阪では殆ど無名のスポーツでした・・・ サーフィンやヨットからは「ナンじゃ、そりゃ?」という蔑視に近いものがありました・・・ という事で、大学時代は勉強以外の「同好会創部」と言う経験がその後の人生に大きく影響したと思います・・・ 何とか卒業したものの、家業とウインドサーフィンと遊びに夢中になり過ぎ、また三流大学卒という学歴の壁に挟まれ、希望の大企業には就職できず、本意ではない中堅規模の建築建材金物メーカーに就職しました・・・ 家業の織物業をやり過ぎて嫌気が刺し、将来の希望もないと「判断」したことから、親父に「継がない!」と宣言してでのサラリーマン生活への「突入」でした・・・ 当時「一生サラリーマンで頑張るんだ!」との思いから、朝6時には家を出て、夜11時に帰宅という「夜討ち朝駆け」で懸命に働きました・・・ すでに学歴で負けていますし、守ってもくれませんから、「実力」で勝つしかない訳です・・・ 先輩も後輩もなく、とくかく全知全能を総動員して、売りまくりました・・・ また中堅規模で人材も豊富ではありませんでしたから、若手にいろんな仕事をドンドン任せてくれて、新しい仕事を自由にさせてくれたのが、逆にヨカッタのかと思います・・・ 大企業なら、絶対こうは行かなかったと思います・・・ 頑張ったお蔭で、短期間にある程度「業績」を残せましたが、逆に「サラリーマンの限界」を悟るのも早かったです・・・ そして29歳の時に、初めての「転職」を決意したのでした・・・ その10数年後に、その自分を育ててくれた会社が倒産したというのを、一方で自分の「判断」が正しかったのだという複雑な思いで聞きました・・・ まァ、人間、自分なりに一生懸命ヤル事によって、初めてその「チョット前」が見えるという事でしょうか・・・何もしない、努力しない者は、何にも見えない・・・当り前か・・・ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2013.03.29
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今、若者に決定的に欠けているのが「コミュニケーション能力」と言われています・・・ それが原因でいくら勉強が出来て有名大学を卒業しても、就職できなかったり、就職できても1,2年で辞めたりという「悲劇」が、あちこちで聞こえてきます・・・ そりゃ、そうだと思います・・・昔と違って、都会へ行くほど核家族化が進み、地域コミュニケーションが薄れ、コミュニケーションなんて、学校で習いませんから・・・ 社会人として最も大事なコミュニケーションが、学校教育や入試科目にないのが不思議です・・・ 日本の英語教育ですら、本来外国人とのコミュニケーションツールのはずですが、文法と解釈中心の歪んだ教育内容になっています・・・ しかしコミュニケーション力は自分でクラブ活動に加入などして、友達を増やし磨くしかないのです・・・或いは、親が意識して「家庭内」教育していくしかないのです・・・ 20代の3人娘がいますが、彼女らが子供の時は、家庭の教育方針として「ゲーム禁止」がありました・・・ ゲームを買う事はもちろん、家でゲームをさせませんでした・・・ やはり家では、家族間のコミュニケーションを大事にするためです・・・ 人生で一番大事な10代のこの時期に、ゲームに凝るというのは、あまりに悪影響が大きすぎますし、その後の人生を決定づけるような気がします・・・ もっと「他にすべき事」があるでしょうという事です・・・ そりゃ、ゲーム全盛の時代で、学校や友達間で気まずい思いをさせたかもしれませんが、長い目で考えれば、「教育によくない」という私の頑固な教育方針だったのです・・・ それより情操教育としてピアノを幼稚園から始めさせ、運動能力養成の為に幼稚園からスイミングスクールに通わせました・・・ また自然との触れ合いの意味で、夏は毎週海に連れて行きました・・・ウインドサーフィンの趣味も兼ねて・・・ また食事の間は、テレビをつける事も禁止して、極力家族の間でおしゃべりをする事にしたのです・・・ 中学生くらいの反抗期になると、自分の部屋にテレビが欲しいとか言ってきましたが、頑として絶対許しませんでした・・・ ここで妥協すれば、オヤジの威厳が一瞬にして崩壊します・・・ 今でも、テレビは家に1台しかありません・・・ 「孤立」する事を極力避けたのです・・・ 高校生になると、もう自主性に任せ、ゲームに関しては何も言いませんでした・・・ 今は私の目の前で、当てつけのようにスマホで一生懸命ゲームをしていますが・・・ という事で、今は3人とも普通に仕事を持って、海や旅行によく行って、姉妹とも友達ともウマくコミュニケーションを取っているようで、安心しています・・・ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2013.02.13
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「3倍働いて、2倍稼げ!」とよく言う友人がいます・・・ 確かに彼は、人の3倍働いて、2倍以上は稼いでいるようです・・・ 有言実行の人です・・・ 人(普通の)の3倍働くというのは、どういう事でしょうか・・・ 普通「8時間労働」ですので、3倍となると24時間労働?・・・寝る間もご飯食べる間もありません・・・ 多分、4時間残業をして毎日12時間働いて、仕事の中身を2倍に濃くすれば、3倍働いた計算になります・・・ あくまで、計算上は・・・ しかし彼は何を言いたかったのか?・・・ おそらく、12時間くらいは毎日普通に働き、更に土日関係なしに一生懸命働くことによって、やっと「人の3倍」くらいの労働になっているのか・・・ 報酬は、人の3倍働いたから3倍になるというのは、あまりにオコガマシイ・・・ 2倍くらいで、ちょうどイイくらいやろと・・・ サラリーマンには、この考え方は理解できないでしょうし、そこまでやれば身体を壊します・・ 私も彼も自分で「商売」をやっているから、可能かもしれません・・・ 基本的に仕事をイヤイヤすれば病気になりますし、喜んですればドンドンイイ方向に展開します・・・ 芸術家や音楽アーティストなんかがイイ例です・・・羨ましい限りです・・・ やってもやらなくても、自分に跳ね返ってくる・・・利益もリスクもすべて「自己責任」となれば、人間、どんなナマケモノでも頑張るものです・・・ 要は、そういったポジションに自分を追い込むことがデキるかどうかだと思います・・・ 一生安泰?を求めるなら、公務員か大企業かもしれません・・・しかし自由でオモシロい人生を送りたければ、自分で商売をやるのが一番です・・・ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2013.01.31
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年初に思ったのは、今年57歳になりますので「70歳まで、あと13年しかない!」という事です・・・ 35歳の同窓会で思ったのは、「35歳と言うのは20歳と50歳の中間・・・20歳からアッという間に15年過ぎたが、もっとアッという間に50歳になるんやろなァ・・・」でしたが、その通りになりました・・・ 年を取るごとに、時が過ぎるスピードが早くなります・・・ そして50歳の同窓会で思ったのは、「50歳と言うのは30歳と70歳の中間・・・30歳からアッという間に20年過ぎたが、もっとアッという間に70歳になるんやろなァ・・・」ですが、すでにアッという間に6年が過ぎました・・・ ホンマ、本当に時間が経つのは早い、早すぎる・・・ もうチョット、時間をユックリ刻んでほしいですが・・・ こんなナンセンスな事を考えるのも、年とった証拠です・・・ 若い頃は、時間はまだまだ「死ぬほどある」でしたが、もうこの年になれば、「先」が見えますし、「逆算」して賢く、効率的に行動しないと悔いが残ります・・・ そして残念ながら、「体力」や「気力」「知力」、そして「経済力」も年々減退していきます・・・ そういった環境の中で、実際やれることは限られると思うのです・・・ しかしまだまだ「やり残した事」がありますので、少々焦りながら、目的完遂するために、余計な事やモノを省いて、「時間」と「金」と「気」を集中させたいと思うのです・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.com※地域最安値!月額5250円岸和田市東ヶ丘町「月極駐車場」にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2013.01.08
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かつてウインドサーフィンのレース(ヨットのレースに酷似)に夢中になってた頃、どうしても勝てなかったライバル(向こうは何とも思っていなかった?)がいました・・・ ライバルと言っても全日本レベルではなく、「ローカルレース」レベルでしたが、自分にとってはそれが身の丈に合って、それが「主戦場」でした・・・ 私にはない、彼の「風に対するセンス」が全く違うのです・・・ 俗に「風が見える」というヤツです・・・ ウインドサーフィン歴は同じくらいでしたが、彼にはそれ以前に「ヨットのキャリア」が長かったのです・・・ ヨットで培った風に対するセンスは、1,2年やそこらの経験ではナカナカできないと思います・・・ ウインドとヨットのレースルールはほぼ同じで(当時は)、あとは「マストが固定されているかどうか(ヨットは固定で舵がついて、ウインドは360度可動で舵なし)」の違いだけです・・・風に対するセンスは応用できるのです・・・ 彼はウインドのレースで、上手くヨットの経験を活かしていたのです・・・ これではウインドだけの経験では勝てるはずもありません・・・ ウインドサーフィンにはイロンナ楽しみ方があり、レース、フリースタイル、スラローム、ウエイブの主に4つあります・・・ その中でウエイブ(波乗り)競技では、サーフィンの経験が大いに役立ちます・・・ 私は出来ませんが、沖に出るときには波を「発射台」に飛び、岸に戻ってくるときは波に乗って演技をするのです・・・ そりゃ波を熟知した「サーファー出身」のウインドサーファーには敵うはずもありません・・・ 格闘技である空手にしても、万一「実践」の場においてはルールはありませんので、「柔道出身者」には組まれたら負けますし、「合気道出身者」に手を掴まれたら投げ飛ばされるでしょう・・・ やはり本業の空手に、何かプラスがあった方が有利に決まってます・・・ 「勝負」という意味で、ビジネスもまたそういった考え方も当てはまるのではないでしょうか・・・ 「文系的な仕事」をしている人も理系の素養があれば有利でしょうし、「理系的な仕事」をしている人も文系の素養があれば有利だと思うのです・・・ 結局趣味でも仕事でも、「それだけ」、「これ1本」というより、浮気性的に本業周辺を「チョッと幅広く」やった方が有利に働くのではないでしょうか・・・ まァ、今年35年ぶりに再開する「ロックドラム」にしても、キャリア50年のだんじり太鼓の経験が「吉」と出るように願うばかりです・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.com※地域最安値!月額5250円岸和田市東ヶ丘町「月極駐車場」にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2013.01.07
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新年あけましておめでとうございます・・・ 昨日の大晦日に、毎年恒例になっている近所のオジサンから「鯛の塩焼き」を頂きました・・・ 今年もこの「鯛」にあやかって「めでたい」年にしたいと思います・・・ 正月休みは一応6日までとなっていますが、多少ゆっくりするものの、今日からボチボチ仕事です・・・ 自分で商売をやっていれば、頭の中は「1年365日毎日仕事」は当たり前ですし、何の抵抗もありません・・・ そういった考え方は良いか悪いかは別にして、ジムの壮年ボディビルダーと一緒で、2,3年やそこらで出来るはずもなく、若い頃から10年、20年、30年と毎日の地味な努力の上に「築き上げた」モノであって、身に完全に染みついたモノだと確信します・・・ という事で、今年も公私にわたる「8つの目標」に向かって、100%達成して「めでたい」年にしていきたいと思います・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.com※地域最安値!月額5250円岸和田市東ヶ丘町「月極駐車場」にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2013.01.01
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大学卒業後4年間の建築金物メーカーの営業職を経て、1985年に家業の100%大手総合商社の委託生産(賃織り)の安定した織物業に戻ってきた訳ですが、バブルが弾けて数年後大変なことになりました・・・ 創業当初の昭和20年代から50年近くほぼずっと委託生産(賃織り)で取引があった大手総合商社から、「仕事を発注できない」という宣告を受けたのです・・・ 正に青天の霹靂です・・・ 親父はすでに営業に関しては引退して、すべて商社とのやり取りは私がしていましたが、私は繊維の他の商社や紡績に営業に行った経験が全くありませんでした・・・ どうしようも、くそもなく、とにかく今日から仕事を「どっかから」取ってきて工場を回わすしかありませんでした・・・ 商社の方も長年の取引がありましたので、すぐに切るなんてことはせず、まず同じ会社の浜松支店を紹介してくれました・・・ 浜松地区も日本の大手の織物産地で、大阪より「高級な衣料関係」の織物を得意としていました・・・ あとその商社の取引先であった合繊メーカーも紹介して頂き、これまでやった事のなかった資材、ユニフォーム、通販、中近東向け輸出、合繊婦人衣料といった部門に売り込みをかけました・・・ これまで長年商社の「オッパ商品(大量生産の定番)」しか織った経験しかありませんでしたので、すべて「別注(バイオーダー)」というビジネススタイルは初めてでした・・・ 今まで如何に商社の「委託生産(賃織り)」という営業いらずの楽なビジネススタイルに、甘えていたかを知らされました・・・ しかし今思えば、ここからが本当の苦難の時代の「幕開け」でした・・・ 今までしたことがなかった「繊維の営業」をしなければならない事と、これまで「少品種大量生産」の定番生産だったのを、まったく逆の「多品種少量生産」の高級品生産に、工場を「大シフト(転換)」する必要があったのです・・・ しかし、まず営業です・・・仕事がなければ工場が回せませんから・・・製造より営業重視です・・・ ここで初めて、サラリーマン時代の営業経験が役に立ちました・・・ 家業に戻ってきたときに、4年間のサラリーマン時代は遠回りで無駄だったと、後悔したものですが、こんな時に役立つとは・・・ 「人生無駄なことはひとつもない」とよく言われますが、正にその言葉通りです・・・ 人生不遇な時も、けっして腐らずに、前を見て頑張っていれば、いつか報われると・・・ サラリーマン時代の営業といっても、半分は「飛び込み営業」でした・・・ 全く知らない相手(会社、個人)に対して、自社商品を売り込むという行為の難しさはやってみなければわかりません・・・「ゼロから有を生む」難しさ・・・ そりゃ誰でも、知らない人とは喋りたくありませんし、口説いて商品を売るなんてとんでもない・・・精神的なプレッシャーが相当かかりますし、100%の人はしたくないのは当たり前です・・・ しかし生きていくには、仕事をしなければお金を稼げませんし、たまたま選んだ仕事ですので、ポリシーはそのままで、あとは性格を変えてやるだけでした・・・ しかしこんな事も4年も繰り返しやれば、元々本当にシャイな私でも、1番最初の飛び込み営業で、喫茶店で2時間も悶々としていましたが、場数を踏み、瞬時に誰とでもしゃべれるようになり、ちょっと自信がつくようになったのです・・・ 「本来内気な性格を自分で変えた」自信とでもいうのでしょうか・・・ しかし当時の20代の自分としては、家業を継がないと親父に宣言して繊維と全く関係のないサラリーマンになり、結婚してすぐに子供もでき、扶養家族2人を養わななければならないし、サラリーマンで出世しなければならないというプレッシャーが、自分の背中を押したのでしょうねェ・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2012.10.04
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「証券業界の革命児」のネット証券大手の松井証券社長・松井道夫氏の語録に「過去を捨てる決断が成功した(逆に、過去の経験実績を引きずる決断は失敗)」というのがあります・・・ 確かに過去の私の拙い経験で、この言葉に賛同する節があります・・・ ひとつは、織物業で設備更新した時です・・・ 100年間変わっていなかった伝統の製造方式だった「シャットル織機」から、全く新しい革新的な製造方式の「エアージェット織機」に大転換した時です・・・ この時は、せっかく蓄積した「メカニック的」なシャットル織機の技術を捨てて、全く新しい「エレクトロニクス的」なエアージェット織機の技術を新たに学ぶ必要がありました・・・ 導入が決定してから、まだ設置してあったシャットル織機の事は忘れ、エアージェットのマニュアル本を一日中暇を見つけては、分からないなりに夢中で読みました・・・ 導入してからは、早朝から夜遅くまでずっと、現場で悪戦苦闘した事が、その後大きな自信となりました・・・ 二つ目は織物業からトランクルームに転業した時です・・・ せっかく20年間新しいエアージェット織機という新しい技術を身につけたのに、捨てる必要がありました・・・ そして60年間三代に渡って培った織物業界での信用・経験・実績・コネクションといった、決して金では買えないモノも捨てる必要がありました・・・ これをゼロにリセットする決断をするのに、1週間寝れないほど悩み抜きましたねェ・・・ しかし具体的に、トランクルームに転業せずに、工場をちょっと改造しただけで、織物業界の商社や紡績、同業者の糸や織物の「保管業」をシュミレーションすると、私一人でフォークリフトに朝から夕方まで乗っても、総売り上げが20万円にしかならないと分ると、織物業界から完全に決別すべきだと即断できました・・・ 結果、後ろを振り向くのではなく、前の全く新しいマーケット、顧客開拓・・・・・と考えると、人生を前向きに考える事ができましたねェ・・・ その考えのベースには、過去20年間織物業で「死ぬほど努力した・・・もうこれ以上苦しい事はないはず・・・何をやっても楽だろう・・・」という希望がありました・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2012.09.17
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サラリーマン生活を終え、家業の織物業に戻ってきた1年目に、機械(織機)のメカニック的な事で、同業の小学校の友人の織物屋さんに教えてもらった事がありました・・・ 彼は高卒からすぐに家業を継いでいましたので、すでに私より「10年先輩」でしたので、当然私より格段上の技術力を持っていました・・・ 私としては、友人に「ちょっと教えてくれや」という軽いノリで教えを乞ったのですが、親父はそれを重く見て、高そうなカーディガン(百貨店で買ったのでしょうか)を私に差出して「これを持って行って来い」と言いました・・・ 私も渡し辛かったですが、友人も「何で、そこまで?」という不思議な顔で受け取りましたが、社会人になれば「甘えは許さん!」という親父の姿勢に、20代だった2人の姿勢を「シャン」とさせたのは言うまでもありませんでした・・・ 親父は多くは語りませんでしたが、「他人から何かを与えて貰ったら、必ずその借りを返せ!」と言いたかったのでしょう・・・ 「借りたら返す」というのは当たり前の事ですが、これを身をもって認識させたかったのでしょう・・・ 借りっぱなしの人生は、ずっと死ぬまで尾を引きずるし、いつか必ずその「借り」を返さなければならないし、自分の人生は、あくまで「自分の力」で切り開かねばならないと言いたげでした・・・ 人生ずっとタダでは済まされないぞ、貰いっぱなしの人生は、いつか何処かで「ドスン」と崖から落ちてしまうと・・・ 織物業を廃業する時も、銀行に借金全額を返済し担保もすべて抜いて、銀行に頭が上がらない事から脱したのも、すべてこの親父の言葉からでした・・・ 中小零細企業の倒産の殆ど「借金」が原因ですが、いくら不動産があっても、借金があれば自分のものではないという「根本的な事」を理解しないで、見栄を張り続けて転落しているように思います・・・ 逆に言えば「見栄との闘い」かも・・・すでに他人から「その見栄」が見抜かれているのに・・・ そういえば、家業に戻ってから2年後に旧式の「シャットル織機」から新式の「エアージェット織機」に設備更新した訳ですが、導入前の半年間、親戚のエアージェット工場でタダ働きをしたことがありました・・・ これも本来は、新しい技術を学ぶだから金を払うのが筋だが、せめて1日中タダで働いて、技術を盗めという事だったのでしょう(けっして向こうから教えてくれませんでした)・・・ 今問題になっている尖閣諸島や竹島問題でも、日米同盟に頼ると「借り」を作るので、将来的な意味を含めて、ここは絶対日本の総力を動員して「自力」で解決して自国を守るべきでしょうねェ・・・そうすれば、日本に対するアメリカや世界の評価も変わるでしょう(逆に、腰砕けになれば、すべて悪循環になる恐れが・・・)・・・ そしてアメリカをあてにしない本当の意味の「独立国家」を早急に目指すべきです・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2012.09.16
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今、滋賀県大津市・中学生のいじめによる自殺問題が全国を騒がせていますが、新聞やテレビの報道を見ていると、先生や教育委員会、加害者の生徒や加害者の親の態度に腹が立って仕方がありません。 ひとりの人間が死んでいるのです。 被害者の親の心情を察すると、気の毒で言葉もでません。 とにかく子供の無念を晴らそういう親の気持ちは、当然です。 刑事告訴を徹底的に追及して、いじめた加害者の生徒を少年院に送ったり、場合によっては懲役刑に絶対すべきです・・・ 先生や教育長も、職務怠慢で懲戒免職にすべきでしょうねェ・・・ 罪名は専門家ではありませんので、よく分かりませんが、それくらい「厳罰」に処するべきです・・・ それと、全国に広がる「いじめ問題」にしても、何らからの法的「罰則基準」を設けて、生徒や先生にプレッシャーをかけるべきでしょう・・・ しかし一番シッカリしなくてはならないのは、「担任の先生」なのです・・・ いじめの被害者の生徒は、「親と担任の先生」だけが頼りなのです・・・ 全国からいじめが少しでも無くなるよう切に願います・・・ 子供の頃に「いじめられないように」、空手を学ぶというのも、「自衛手段」としてイイかもしれません・・・ 防具をつけて実際に殴り合うのもイイ経験ですし、相手を尊重する心や礼節を学びます・・・ ある意味、空手の普及が、いじめ減少に繋がるかもしれないと思うのです・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2012.07.20
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今朝の読売スポーツ欄に、88年ソウル五輪の女子水泳3冠に輝いた、アメリカのジャネット・エバンスが、15年ぶりに現役復帰してロンドン五輪を目指すという記事が出ていました・・・ 現在40歳ですが、水泳界の常識から考えれば、コーチどころか、もう完全に監督の年齢です・・・それを、「まだ現役で頑張るんや」と・・・驚きです・・・ 「勝負したいという気持ちは、誰にも奪う事は出来ない。ずっとそう感じていた。・・・・」と記事に書いていました・・・ 結婚し、育児に追われながらも、ずっとそう感じていたのでしょうねェ・・・ 解ります・・・その「思い」・・・ 心の底からやりたい事は、誰でも持っていると思います・・・普段の生活で、努力してできる環境に持って行くのが大事で、そのタイミングが来れば、「ダーッ」とやれる人は幸せです・・・しかし多くの人は、結局それをやれずに人生を終えるのが現実ではないでしょうか・・・ 仕事も家庭も無視して、自分の好きな事に突っ走るのは論外ですが、気持ちが冷めないうちに、仕事と家庭を両立しながら、好きな事の「やれる環境(金と時間)」を作り出す事が理想ではないでしょうか・・・ 逆に言うと、殆どの人は人生最期に「自分の人生はハッピーだった!」と思えるように、本当は夢を追いかけたいのではないでしょうか・・・ 今細々ながら、ウインドサーフィンを楽しんでいますが、この「超マイナースポーツ」を楽しんでいるのは、平均年齢40代後半のオッサンなのです・・・女性と若者は殆どいない・・・ 私も含めその大部分が、若い頃にウインドをやっていて、5年、10年、20年とブランクがあり「再挑戦」した人達だったのです・・・ 私も「再挑戦」当初、道具がすっかり変わってしまって、自分の「感」を取り戻すのに大変でした(まだまだジャイブとウオーターに慣れませんが)・・・ 空手も1年半前に「再挑戦」しましたが、流派が変わりましたので、「白帯スタート」でした・・・ サラリーマンと同じで、会社を辞めれば、新しい会社では「平社員スタート」と同じです・・・ いくら以前経験や実績があっても、「1からのスタート」というのは、プライドを捨てる必要がありますので、想像以上にメンタル面でキツカッタですねェ・・・ 織物業からトランクルーム業に転業した時も、当初お客がありませんでしたので、1年半同業他社の織物会社の製造現場に「新入社員」の正社員として働いたときも、相当精神面ではキツカッタですが・・・ それまで中小企業の社長で「社長、社長」と呼ばれていた人間が、20代前半の「先輩」に、「オイッ」とか「あんた」とか呼ばれる惨めさは、経験した者でしかわかりません・・・ こんな事で「キレたら」、すべてが「パー」です・・・キレない「強い精神力」が試されます・・・ まァ今思えば、そういった一連の経験で精神面を鍛えてもらったと考えれば、それも楽しい思い出か・・・ 今年から35年ぶりに「再挑戦」しようとする「ドラム」も、またチョット小さなプライドを捨ててやらなければなりませんが、何故かワクワクします・・・ 空手の場合も30年ぶりに「いきなり」再挑戦したのではなく、その前に10年ほどコナミスポーツでボディコンバットという格闘技系のスタジオプログラムで「助走」していましたので、割とスムーズに行きました・・・ ドラムも10年前にスクールに6か月ほど通ったり、有名な先生に少し習ったり、ちょっと自分なりに「準備」していますので、大丈夫かなァ・・・・と、チョット武者震いをしています・・・ 「再挑戦」というとカッコいいイメージが先行していますが、プライドを捨てなければならないという、実は精神面でスゴイ「プレッシャー」が一方であったのです・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2012.06.23
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もうこの年になると、「新しい出会い」というのは一般的に難しいものです・・・ サラリーマンなら、60歳定年の5年前という事で、2,30代と違って刺激的な仕事上での出会いもあまり期待できないでしょう・・・ 自然と交友関係が狭くなり、もう少しの6、70代になると周りの同級生らがボチボチ亡くなってきて、更に寂しくなる・・・ 寂しい老後を送りたくありませんので、旧友との繋がりも大事にする一方、今から「若い友達や、新しい友達を作る努力」をして脳内ホルモンを活発化させ、イキイキ寿命を1年でも伸ばしたですねェ・・・ そう意味で、仕事(トランクルームと不動産)で沢山のエンドユーザーと関わっているのも意味があると思うのです・・・サラリーマンとしてではなく、半分「個人的」な感情も入っていますので、顧客との距離はサラリーマンとの比ではありません・・・ また固定された関係ではありませんので、トランクルームの短期長期含め、不動産ではドンドンお客が増えて楽しみです・・・まさに「天職」か・・・ それと趣味のジム、空手、ウインドサーフィン、だんじり、旅行、そしてこうしたネットを通じても、新しい交友関係も築いていきたいと思います・・・今年後半からはドラムも・・・ そして先日、トルコ旅行で知り合った岡山県の方がファミリーで、関空からケアンズに行く途中家に寄ってくれました・・・ 旅行中、夫婦同士でイロイロと仲良くなり、私の知らないイロンナ事を教えて頂きました・・・そして住所を交換していたのです・・・ 飲食店をされているようで、特性の「メチャ美味しい」ハンバーグやお肉、きび団子をお土産に頂きました・・・ お返しに泉南特産の「水なす」を送りました・・・ まぁ交友関係を広げると言っても、こちらに「中身」がなければ誰にも相手にされませんので、今後も「自分を磨く」努力を怠ってはいけませんが・・・ 今では、大きな顔で不動産業界や一般エンドユーザー相手に「不動産屋をやっています」なんて言って、関係をドンドン広げてますが、そもそも5年前に、全く何も知らなかった宅建受験のテキストの1ページを開いたのが始まりです・・・ホント地道な努力の連続で、時間かかりました・・・ これから本格的に35年ぶりに再開しようとする「ロックドラム」も、まずスクールに入り、「年下」の先生に頭を下げて教えて貰う事から始まります・・・そして家でのドラミングの基本練習やレンタルスタジオでの自己練習・・・そして、2年後くらいにやっと何処かのオヤジバンドに入れて貰う(やっと玄関に入った)・・・そこから音楽関係の仲間作りが始まります・・・と、そんなシュミレーションを描いています・・・考えてみれば長い道のりですが、好きな事ですし、余生を考えればアッと言う間かも・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2012.05.10
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事実は1つで「変えようがない」ですが、それに対して考え方が2つあり、楽観的(ポジティブ思考)か、悲観的(ネガティブ思考)か? これまでの人生で、幾度となく窮地に立たされましたが、極力「いいように」解釈考えるように努力したものでした・・・ しかしそうは言っても、なかなか考え方を切り替えるというのは難しいものですが・・・ これまでの人生で、一番の窮地はやはり6年前の「織物業廃業」でしたねェ・・・ 日本国内の繊維の原料や製品は90%が輸入という事実に対して、いくら100%以上努力しても儲かるどころか、損するのが現実でした・・・ ならば、どうするか・・・・? 元々20年間土日関係なしに、織物工場を24時間年間355日エンドレスのフル操業して、やれる事はやり尽くしましたので、「転業」して、その努力を「違う方向」に向けた方が明るい未来が開けるのではないかと考えた訳です・・・ 他社はどうかというと、元々日曜日は工場を止めていますので、景気が悪くなれば、土曜日を止め、更に悪くなれば、週休3日や4日、24時間操業から16時間操業に変えればと・・・景気が回復すれば元に戻せば・・・という風に考えていたかもしれません・・・ もちろん祖父の代から、60年も織物業を続けてきた訳ですから、いろんな雑音もすべて受け入れなければなりませんでしたが、絶対避けなければならないのは「倒産」でしたから、その為には恥も外聞もありませんでした・・・ あるのは、この「決断」を気合で乗り切る事だけでした・・・ 今こうして呑気にブログを書いていますが、たぶんその時は、かなり「異常心理」だったように思います・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.26
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空手の教えに「基本が極意」というのがあります・・・ 基本のそれぞれ数種類の「立ち方」「突き」「蹴り」をまず徹底的に稽古してから、試合の「型」や「組手」の稽古をしないと上達しないという事です・・・ 20歳頃に中学の同級生らとバンドを組んでドラムをやっていましたが、これが個人練習や基本もしないで、いきなりスタジオなどで合同練習したのです・・・ もちろん上手に叩けるはずもなく、メンバーのひとりから「お前のドラム、だんじりの太鼓みたいやな」と言われたのがキッカケで、「これじゃイカン」と、天王寺の楽器店でヤマハの中古のドラムを買って、納屋でカセットテープに合わせて、一生懸命ひとり練習に励んだのです・・・ しかし楽譜も読めませんし(ドラムに楽譜があるとは知らなかった)、少なかった教則本を貪り読んだり、当時希少なドラムのソノシートを聴いたりして、それなりやったのですが・・・なかなか上達しませんでした・・・ 今のような「ドラム教室」もありませんでしたし、自分なりに試行錯誤でムチャクチャやっていたので、1年半ほどでケツを割ってしまいました・・・ この失敗体験で、「やはり基本からやり直さないと」という思いがずっと頭の中にありました・・・ それから25年後の40代半ばに、思い切って地元のマンツーマンのドラム教室に半年ほど通って基本から学ぶ事にしたのです・・・ しかししかし最初の1,2カ月で単調な基本に嫌気がさして、「先生、はよディープパープルのハイウエイスターやろよ」と言ってしまい、先生も生徒に辞められては困るので、私の我ままを聞いてくれました・・・ しかし基本が出来てなかったものですから、あまり上達もせず、それから4,5カ月で辞めてしまいました・・・ 再度の失敗でも、「また、いつか!」という想いが頭の中にあり、今度は3,4年前?に「キチンとした」島村楽器の体験ドラムスクールに参加しました・・・ アメリカでドラムを専門的に学んだという現役バリバリの先生に「理論」から2時間ほどバッチリ学び、目から鱗が落ちました・・・ やはり「我慢して一定期間」基本です・・・ これをどうしても乗り越えないと・・・・ という事で、昨年中に再開予定であったドラムを、今年こそは・・・ とは言うものの、私には6歳頃からドラム(両方均等)とは正反対の和太鼓特有のだんじり太鼓の「片利き」という癖が、身体の芯からこびり付いているのです・・・ この癖を、ドラムの基本の反復練習で、何としても矯正しなくては・・・ 島村楽器の先生は、それを「持ち味」にすればというアドバイスをくれましたが・・・ 同じような事が、実はウインドサーフィンにも言えるのです・・・ 今一番苦労しているのがジャイブのやり方で、昔の基本であった「後傾ジャイブ」が道具の進化で通用しないのです・・・ 若い頃の身体にこびり付いた癖を、今のボードに合わせた正反対の「前傾ジャイブ」に矯正するのに、ホント苦労しています・・・10年以上も悩んで、悩んで・・・ 周りの仲間に聞くと一様に、やはり「恐怖心を克服して、身体を前にもって行き、1000回ジャイブしないと」というアドバイスを受けますが、500回ジャイブしているうちに、70歳になってしまいます・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2012.03.28
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振り返ってみると早いもので、織物業を廃業してトランクルーム賃貸業に転業してから、この3月末で丸6年になります・・・ 廃業の「最終決断」は、前年の49歳の時でした・・・ 60年続けてきた「家業」を「自分でストップ」という決断は、正に脳天から身体全身に痙攣が走る様な不思議な感覚でした・・・ しかし一方で、行き詰ってどうしようもない仕事をやめれるという、晴々した「解放感」も有りましたねェ・・・ 曽祖父の代からの家訓で「名を捨て、実を取る」というのがあります・・・ 曽祖父は代々宮大工の家系の「次男」として生まれましたが、次男でしたので本来は日清戦争に行かなければなりませんでした。 しかし合法的に養子縁組して、旧姓を捨て長男になりましたので、戦争に行かなくて済みました・・・だから、その後子孫が増えて、私も存在しているのです・・・ しかも祖父、父とも次男ですが跡を継いでいます・・・長男に拘らなかった柔軟性(名より実)が、継続の要因でしょうか・・・ 「人間、どんな事をしてでも(勿論合法的に)、生き残らなければ意味はない」という事でしょうか・・・そのDNAが私の血の中に流れている・・・ またPTA会長や祭の年番長などの「名誉職」も絶対受けてはいけないというのもありますねェ・・・仕事以外の責任者を受けると100%仕事に悪影響があり、人間とは弱いもので、周りから祭上げられ、褒めちぎられると、浮足立って不安定かつスキが出来るようです・・・中小零細企業の経営者は会社の全責任を負っている「親方」でもう充分です・・・ 廃業決断した当時の心境は、「まだ40代、もうひと頑張り出来る!」でした・・・ その裏には、「このまま50代半ばまでズルズルと続けていっても、55歳で転業できる気力はないだろう」という思いがありました・・・ 今まさに55歳(今年56歳)になって思うのは、やはりその通りだったと思います・・・ 振り返ってみると、20代半ばのサラリーマン時代から40歳までは、小さな子供も3人いましたので、体力的にも気力的も一番ピークで、一番頑張った時期でもありました・・・ 厄年の41歳で親父が亡くなり、急きょ突然社長となった訳ですが、「ここが踏ん張り所や!」と49歳まで、正に精根尽き果てるまで織物業で「やれる事はやり尽くしてきた(究極の多品種小ロットに対応)」訳ですが・・・ 世の中の「大きな流れ」に逆らう事も出来ず、廃業と・・・ しかしもしこの年まで織物業を続けていたら、おそらく身動きが取れなかっただろうし、その後の老後の人生もきっと悲惨なものに・・ 49歳のサラリーマンなら、「転職」も、少しはスムーズにいったかも知れませんが、全く未経験の異業種への自営業の「転業」となれば、1年遅れの50歳ではダメで、40代最後の49歳がタイムリミットかもしれません・・・ 人間とは決断を迫られる非常事態には、案外そんなちっぽけな心理的な拠り所があると(まだまだ40代!と)、少しは強気になれるものかもしれません・・・右から2番目が私の父親(昭和6年)※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2012.02.27
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織物時代に「人真似は失敗の始まり」という貴重な経験を、身を持って体験しました・・・・ ちょうどバブル前の1985年あたりからバブルの1990年のたった数年間に、織物産地である貝塚市に、当時「エアージェット」という100年に一度の「革新的な」織物機械(織機)が1000台も導入されたのです(本社が貝塚市で県外工場も含む)・・・・・ たった人口9万人しかいない貝塚市の繊維業界に、金額にして1台約1000万円ですので、約100億円の設備投資金額にもなったのです・・・・ 大手総合商社系の織機販売代理店が、地元貝塚に2店舗も支店を開設して(今はない)、バブル景気も手伝ってか、今思い出してもスゴイ販売攻勢でした・・・・・ その結果1000台も販売されるようになり、水間街道ならぬ、「エアージェット街道」として全国的に有名になりました・・・ 最盛期には世界各国から、有名な織物工場にバスをチャーターして見学に訪れるほどでした(弊社にも中国上海から見学に来るほどでした)・・・ しかしバブルも崩壊して、繊維業界も淘汰されると、エアージェットを導入し過大な設備投資をした織物業者の多くの廃業や倒産が相次ぎました・・・・ 今から振り返ると、織物販売見込み(根拠)もないまま、「近所の同業者が入れるから、うちも・・・」という安易な人真似から、莫大な設備投資に踏み切ったところが多かったのではないでしょうか・・・・ やはり織機販売会社の甘言に騙されず、バブル景気に踊らされなかった「強い信念を持った」人が、結果的に「成功」だったように思います・・・・・ 結果的に革新エアージェット織機を導入せずに、古いシャットル織機でエアージェット織機が苦手な分野(ハンカチなどの超細番手)に特化したとか、全く違う分野に転業したところが成功だったかもしれません・・・・ しかしこの「確固たる信念を持つ」「経営理念を持つ」というのが、これがまた難しく、どうしても人の真似をしがちですが・・・・・・永遠のテーマです・・・・・ 相場格言に「人の行く裏に道あり花の山、いずれを行くも散らぬ間に行け(千利休)」という学校教育(みんなと同じ答えが正解・・・・)とは全く違う教えがありますが、実社会で生き抜くには、「人と違うことをする」のが正解なのです・・・・ 今の混迷した日本がそれをよく現しています・・・・・「学校秀才」の集まりである官僚の力では、このグローバル化した世界の中の日本の難局を突破することはできないかも・・・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2012.01.27
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亡くなった親父は、所謂「新しモン好き」でした・・・・・ 1964,5年の小学校2,3年くらいの時に、町内でも1,2番の早さで「カラー」テレビを買い(白黒テレビも早く、買った当初は映画館のように近所の人が夜な夜なうちに見に来ていた・・・・)、親父の趣味のひとつが車でしたので、トヨタのコロナを発売と同時に買い、日本初のカーエアコンやコロナ「ハードトップ」が出るや否や即買っていました・・・・ 話題の日産「シーマ」も年甲斐もなく、いの一番で買って乗りまくっていましたねェ・・・・ 私も若い頃から自分の小さな車ももっていましたが、親父のクラウンやセドリック、シーマもよく乗っていましたので、「反面教師」でしょうか、今の私は全く高級車には興味はなく、実際日頃ほとんど軽トラックに乗っています・・・・ 車に金をかけるくらいなら、ウインドサーフィンの道具にもっと金をかけて、もっとスピードを追求したいと(最新のレースセールとカーボン100%のマストとブームが欲しい)・・・ 親父の偉かったところは、本業の織物業の機械(織機)でも、新しい織機が発売されると同時に、小さく何も分からない私を必ず一緒に連れて見学に行き、その頃から「お前が織屋の後を継ぐんや」という洗脳を知らず知らずのうちに刷りこんでいったところです・・・・ そのせいか、親父が上手く商売しているのを見て「学校の勉強と商売の才能は、どうやら別モンやなァ」とボンヤリ思うようになり、勉強以外の事に精を出し、その感覚を自分で掴まないとダメやなァと若い頃からずっと思うようになりました・・・・・ ウインドサーフィンをするのにも、自分だけで楽しんでさえすればよかったのですが、「将来、会社経営に絶対プラスになる」と計算し、敢えて大学に学連加盟のクラブを創り、わざわざ自分を困難の中に放り込んだのでした・・・・ 全く新しいスポーツ(遊びといった方が正しい・・・・)という事で、「ヨットでもないし、サーフィンともちゃう、何じゃ、それ?」という白い目でいつも見られたり、「イカのお化けみたいなモン車に積んで、何処行くんやァ?」と近所の人にからかわれたり、案の定、クラブ運営での後輩たちとのトラブル、自分がレースでの実績を出さないといけないというプレッシャー、学内の他の同好会との連携、全日本学連加盟と関西学連設立で他校との折衝、大学学生課や顧問教授との折衝、レースのスポンサー探し(売りこみ)、ホームポイント(浜)との折衝、道具やレース理論の進化についていく事・・・・・・けっして学校では学べないイヤな事も沢山ありましたが、嬉しかった事の方がそれ以上に多く、私の人生にとっては二重丸でしたねェ・・・・・ 何も言わず、行動も抵抗もしなかったら、何も起こりませんが、ほんの「小さな自らの行動」ひとつで、これだけイロンナ経験を積めたのは、私の大事な「無形の財産」です・・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2012.01.26
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実は小学校まで学校の勉強で、「理科」が大の苦手で、ずっと劣等感を持っていました・・・・ 確か理科だけ成績が、「2」に近い「3」で(5段階評価)、たまに「2」であった事もありました・・・・ 中学校に入学してから、「これではイカン!」と自分なりに思うようになり、1学期は「理科」を一生懸命それなりに勉強しましたが、それでも「3」を取るのが精一杯でした・・・・・ しかし全く興味がなかった科目も、それなりに勉強すると、「ちょっとだけ解った」という事で、嬉しくなりました・・・・・ そして「もっと勉強しよう」と、生まれて初めて本屋に行ったのです・・・貝塚商店街の中野書店に・・・・今考えると、田舎のショボイ本屋ですが・・・・・・ 店員さんにチラチラ見られる中、3時間ほど粘って理科の面白そうな参考書を買いました・・・・買った後でわかったのですが、高校の「チャート式」化学と物理の参考書でした・・・・・ それから理科の勉強に力が入り、2学期にナント「5」を取ったのです・・・・ 天にも舞い上がるほど、嬉しかったですねェ・・・・・ 生まれて初めて、他人に言われるのではなく自ら「頑張ろうと考え(立案)」、「ウンウン悩みながら勉強して(実行)」、「成績が上がり(結果)」・・・・・ この「小さな成功体験」は、中1の私にとってスゴイ「自信」になったのは言うまでもありませんでした・・・・・ 今から考えると、本当に小さな事ですが、当時の私にとっては「天地がひっくりがえるほど」大変な事でした・・・・・ 元々優秀な人ならば、何でもない事ですが、私のように生まれつき頭が良くない人間にとって、この世で生きていくには「努力」しかないと、幼いながら思った「大きな、大きな」経験でした・・・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2012.01.18
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新年明けましておめでとうございます。 今年の元旦読売新聞の社説に、「危機乗り越える統治能力を」という題で書かれていますが、本当に今年は「大変な」年になるであろうと心底心配します・・・・ そこで個人ベースで「自己防衛」する意味で、今年は一丁「見えない所に力を入れよう」と思います・・・・・ 得てして人は、いい服を着、いい車に乗り、立派な家に住み・・・・と、見える所に力を入れるものです(世の中見栄っ張りが多いですから)・・・・ 企業の経済活動はマスコミも総動員し、全社上げてそれらを煽る(見栄を満足させる)事に血道を上げている結果ですが・・・・・ そんな手に乗らず、やっていこう・・・・と 去年リフォームの仕事で、如何に見えない所に、イイ材料を使い、耐震補強をする事が大事かというのを身をもって感じました・・・・ まず2台の車の車検と更新時期が来ていますが、買い替えずに乗り潰そうと思います 2年後には、今より格段に進歩したハイブリッド車や電気自動車できるはずです・・・・ そして服に隠された肉体そのものを鍛えることに、より一層励もうと・・・ それも前から見えない目立たない、「後ろ」のハムストリングス、ふくらはぎ、背筋、上腕三頭筋こそが大事かと思うのです・・・・ あとは外見から分からない頭の中身をもっと鍛えようかと思います・・・・しゃべれば、頭の中がバレるものですが・・・・ 家でとっている読売新聞をこれまでより15分「長く深く」読み、ネットで朝日、産経、毎日、日経をサラリと流し、毎月の宅建協会、FP協会の機関誌を精読しようと思います ごく当たり前の事のようですが、これを毎日継続することによって、目に見えない「力」が養われるように思います・・・・ 結局他人(企業、マスコミ)に惑わされず、自分が「当たり前」と思ったことを、真面目にコツコツとするのが1番か・・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2012.01.01
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織物時代の設備更新で、バブル前年の1987年にエアージェット織機という最新鋭の機械を社運を賭けて導入したのですが、全く新しい機械でしたので、もちろんその機械を使いこなすのに苦労もしたのですが、それ以前の工場を稼働させるのに絶対必要なインフラである「防音」「防振」「結露」という難問題に最初に苦労して解決した事が、その後20年間、土日祭日関係なく、年355日24時間エンドレス操業できた「気力」の源であったと思います・・・・ 「防音」「防振」「結露」の中で、防振は防振台という装置を織機の下に置けばほぼ解決するのですが、同業他社が使っている有名メーカーを採用すればかなりの費用がかかりますので、無名メーカーを研究することによって半額に抑えられ、それだけでも1000万円の節約になりました しかし失敗すれば命取りですので、両者の構造を分析し尽くして、無名メーカーでも「大丈夫」と判断し購入を決断したわけです。 次に近隣対策としての防音で、これに一番苦労した訳ですが、機械メーカーや設備メーカー、プラントコンサルタントに相談しても「前例がない」という事で、全く当てにならず、自分で考えるしかありませんでした・・・・ 当初2週間丸々ほとんど睡眠が出来ず、騒音計片手に工場のアチコチを測定し、時には真夜中に工場の屋根に登って測って「なんでや?」と騒音が下がらない事に涙が出そうになったりしましたが、何が何でも「騒音を消さねば!」という鬼の執念で粘りに粘って、なんとか打開策のアイデアを捻り出したのです・・・・ この時思ったのが「こんなけ苦労したんやから、後は死ぬほど働いても楽勝やなァ」でした・・・・ 自分の心の中の「サボり魔」を一蹴し、勝ったと・・・・ 今思えば、この時(新工場稼働当初)すでに20年間働き倒す「覚悟」(絶対儲けるぞという)が出来たのだと思います あとの結露に関しても、他社に前例がありませんでしたが(ほとんど対策していなく、ほったらかしの状態でした)、ここでも鬼の執念で、当時ほとんどやっていなかった「外断熱」というアイデアで乗り切りました(今はトランクルームで大活躍!)・・・・ 無事この3つを解決するのに半年間これまでの人生で最も壮絶に悪戦苦闘したと思いますが、文字通りその後20年間のうち最初の2年間は、男性社員を一切雇わず、月産20万mの織物工場を朝の5時から夜の10時まで自分一人で織物現場の「タイイング」「品種替え(縦替え)」「荷造出荷作業」「修繕(エンジニアリング)」をしましたが、さすがに体重は過労で4,5キロ落ちましたが、気力は充実していましたねェ・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2011.12.13
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先日テレビの「あの人は今」という番組で、私が高校生の頃に一世を風靡した日本の元アイドルの「今」を見て驚きました 53歳になった彼女は未だに「現役の歌手」として、全国を忙しく飛び回っているではありませんか(俗にドサ回りのようですが・・・)・・・・・ 一般的にアイドル歌手というのは、ほんの一時期売れたとしても、基本的な歌唱力が未熟な場合が多いので、競争が激烈な音楽業界ではすぐに消えてしまいます 歌というのは「作曲」「作詞」「歌手」の3部構成で、2部以上自分で手がける(所謂自作自演のシンガーソングライター)器用な人は結構業界でも結構長く生き延びますが、1部だけ特に「歌手オンリー」の場合、余程「何か」をもってないとすぐに消えてしまいます 彼女の場合歌手だけですが、50歳を超えても若い時の高音域をキープしている「高い歌唱力」を持ってるため、現役を続けれるだと思います しかし彼女の高い技術(歌唱力)だけでは現役を続けることはできず、もうひとつ大事なことは、「強いハート」を持っているはずです・・・・ 歌手だけでなく実業界でも、いちど売れた(儲けた)人というのは、その「頂点」の時が絶対忘れられません・・・・ しかし「再起」の時が、それが最大の障壁になるわけで、99%の人はそれが乗り越えられず、そのままどん底に落ちて・・・・・・ 殆どの人間はプライドを捨て切ることは出来ないのは、「落差」に耐えられない弱いハートしか持っていないからだと思います・・・ 唯一1%の強いハート持った人だけが、この歌手のように「浮上」出来るのだと思います 強いハートを持てるのは、頂点を極める前にコツコツと「地道な苦労」をしてきた人と、「限定」されるのでしょう 若いときに、苦労せず簡単に売れた(儲けた)というのは、「人生を舐めてしまう」非常に危険なことで、けっこう周りに沢山いると思いますので、「他山の石」として肝に銘じたいと思います まぁ、昔の人はよく言ったものです「若い時の苦労は買ってでもせよ」と・・・・・・・・若い頃の苦労だけが、そんな「落差」をブッ飛ばすパワーを得るのか・・・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2011.12.06
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私は睡眠中、昔からよく夢を見る方ですが、不思議に今でも時々織物時代の夢を見て困っています・・・・ いい夢であればいいのですが、未だに織物業をやっていて「織機の調子が悪い、どうしても直せない、どうしよう?」と悩んだり、「明日から仕事が無くなり、1台織機が止まってしまう」どうしようと悩んだり、「もうちょっと、工賃を上げてください」と電卓片手に取引先と交渉したりとか(本当に夢で計算するのです・・・・)、明日支払日で「当座残高足りるのか?」と心配したり・・・・・・ 時には脂汗をかいたりしますが、夢から覚めて本当に「ホット」するのです・・・・・ そして今の境遇に改めて感謝し、1日を頑張りぬくのです・・・・・ こんな夢を見ると熟睡できませんし、いつもこの調子で、この繰り返しです・・・ 織物時代の特に後半の「新しい設備」のエアージェット織機の20年間(月産20万メートルの織物生産)は、おそらく日本で最も酷使した工場(20年間、年355日24時間エンドレス稼働)で、その工場を100%稼働させるために、今思えばかなりの精神的ストレスと肉体の酷使が、自分の限界能力ギリギリで、よく自分の心と身体が壊れずに「もった」ものだと心の底から安堵します・・・・・ しかし考えてみれば、時々こんな夢を見るのも、時々「我が身を振り返れ」と反省を促す、ご先祖さまからの御教示でしょうか・・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2011.11.09
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先日の高校の同窓会の感激が、未だに冷めやらない心境ですが、55歳というのは微妙な年齢だとつくづく思います・・・・ 今回の参加者の半数以上は完全に「女子」で、「男子」の方が少なかったですね・・・・ もともと質実剛健を謳った旧制中学の校風でしたが、卒業して40年近くたてば「そんなの関係ない」ですねェ・・・・ 男子の場合55歳というと、サラリーマンなら管理職や役員というポジションが多く、「最後の御奉公」という大事な時期に差し掛かり、公私とも多忙さがピークになる時期で、なかなか時間が取れないという事情で参加が少ないという事ではないでしょうか・・・・ 女子の場合子育てが一段落して、孫もちらほら親の介護もちらほらですが、人生で一番余裕のある時期ですので、参加者が増えたのではないでしょうか・・・・ しかしみなさん、この同窓会の為にはるばる遠方から来られているのにはビックリします・・・・ 私の知っている限り、長野、千葉、東京、スペイン、三重、愛知、兵庫、和歌山・・・・・ もちろん泊りで、翌日ある女子グループなんかは神戸に遊びに行くとか・・・・微笑ましいですねェ・・・ 5年後の60歳の同窓会には、男子も定年で少し余裕が出来て、参加者が増えるでしょう・・・・ イヤ、仕事に完全燃焼し過ぎて、逆にもっと減っているか・・・・・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2011.11.08
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先日5年ぶりに運動靴を買い替えました。 古いナイキの運動靴は、特に思い入れがあります ちょうど5年前、トランクルーム開業3か月後に、お客が殆ど入りませんでしたので、他社の織物会社で働くことになった時です。 同業の社長に頭を下げて、現場の「一労働者」として雇ってもらったのです 当時の労働契約では、残業なしでは食べていけませんでしたので、「日曜のみ休日、毎日残業4時間(朝6時から夕方6時までの12時間労働)」にしていただきました 昼休みの1時間も惜しいので、30分にしてもらいました。 それまで自社での労働時間は15時間を軽く超えていましたが、現場の機織り、マシンの修繕、品種替え、検反、タイイング、荷作り、物流(糸、織物、ビーム)、ワインダーと何でもこなし、事務、営業、経理、織物企画設計とすべてを自分ひとりでやっていました ということで12時間現場労働なんて、「屁みたい」とタカをくくっていました ところが12時間労働といっても、「機織りオンリーの12時間歩きっぱなし」の過酷な労働だったのです 自社での毎日15時間以上の労働でも、イロンナ事をすれば全く苦になりませんでしたが、ひとつの事だけを毎日12時間連続するなんて事は経験したことがありませんでしたし、本当に苦痛でした。 やはり50歳初老?の肉体にとっては単純にこの内容の肉体労働はキツイですし、これまでの家業とは違って、「他社(他人)」の仕事ですので精神的にイヤイヤやっていたかもしれません・・・・ 機織りとは織物業の基本で、タテ糸切れや横糸切れで止まったマシン(織機)を修正して稼働さすのが主な仕事ですが、これを12時間歩きっぱなしで作業すると、1日約20kmも歩いたことになるのです 案の定2,3日で足にマメができ、それが潰れて、またその上にマメができて、またそれが潰れて、とうとう1週間目に歩行困難に陥ってしまいました 次の日、前日に新たに買っておいた「厚底のナイキの運動靴」と、情けなかったですが「今日歩けなかったら、会社を辞めよう」と決意し、辞表も持って出社したのです・・・・ という事で、非常に複雑かつ心配で胸が張り裂けるような思いで出社した訳ですが、本当に不思議な事に(99%諦めていた)、ナント!「歩けた(仕事に支障なく)」のです たぶん靴を替えた(普通の運動靴から厚底のナイキシューズに)ことによって歩行が正常に矯正されたかもしれませんが、その時は「神が救ってくれた(仏教徒ですが・・・)」なんて思い、本当に感謝感激で一杯でした それ以降1年半もその工場で働いた訳ですが、一度も足が痛くなったことはありませんでした もちろん毎朝の全身ストレッチに加え、入浴時の足のマッサージを毎日欠かさずしたというメンテナンス効果もありますが・・・・ その「事件」の3か月後に、朝2時に起きて「宅建」の受験勉強を開始できたのも、すべてナイキシューズのお蔭ですし、大袈裟にいうと私の人生を救ってくれたのもナイキシューズのお蔭か・・・・・ という訳で、今回新たに買った運動靴も「ナイキ」であるのは言うまでもありませんし、スポーツ用品はすべてナイキにしていますし、今後もナイキで・・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2011.11.03
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運動(技術)能力をアップする方法として、イレギュラーに能力を少し超えた状況で練習するという方法があります。 例えばだんじり祭りの太鼓の練習として、通常使う1番から4番(歩きのスピードから駆け足スピード)までありますが、通常実際使わない5番(かなり早いスピード)を練習するのです この5番のスピードをたまに無理して練習することによって、3、4番を叩くのが非常に「楽に感じる」のです 無理して練習するといっても、4番の2倍のスピードでは不可能ですから、だいたい4番の2,30%増しのスピードでちょうどイイかもです また大太鼓の人も小太鼓も練習することによって、スピードに対する慣れができてイイと思います 更に欲を言えば、和太鼓奏法ではしませんが、洋楽ドラムで使う「交互に叩く」練習をセッションとは別に個別の練習ですると、「連打に対する慣れ」ができてより効果が出ると思います 筋トレマシンでも最近やっているのが、最大2,3回くらいしか挙げれない重量をたまにやる事によって、重量を下げて8~10回揚げるが目一杯(筋力アップに最も効果がある)の重量が「軽く(楽)感じる」のです ウインドサーフィンでも、とてもセーリングできそうにない状況でも、「ちょっと無理して」沖に出ないとなかなか技術がアップしないのも事実です・・・・ ただ本当に無理な状況で海に出ても、遭難したら元も子もないので、その辺の「自分の能力との相談」し、「判断」する事が一番大事なところです・・・・ しかしそうしたギリギリの状況で一旦海に出たら、「弱気と強気」の両方のメンタル部分を持ってやらないと、一歩間違えば遭難、最悪「死」が待っているのです・・・・ そこまでやってもウインドに拘るのは、ウインドサーファーしか分からない「魅力」があるからだと思います 魅力というにはあまりに言葉が軽すぎ、1億円でも買えない「健康的な麻薬」と言ってもイイかもしれません・・・・・ まあこういったオーバー以上のオーバーに乗る事によって、ジャストでは余裕で乗れると思うのです このように人工的にギリギリ限界の状況に自分を放り込む事によって、「自分の能力の限界」を身体と頭で知る事が最も大事で、成功への「次の一手」を計画できると思うのです※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2011.10.24
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人生を振り返ってみると、3回大きな「見切り千両」の決断を下した事が、今何とかシブトク生き残っている原因なのかなと思います 1回目はサラリーマンを辞める時で、大卒後「家業の織物業を継がない」と親父に宣言して、「サラリーマンで一生やっていく」と心に誓い、敢えて繊維とは全く関係のない建築建材(金物)メーカーに就職し、営業職で夜の10時、11時まで「夜討ち朝駆け」で一生懸命頑張りましたが、頑張って営業成績を上げてもそれに見合った報酬が全くなく、子供2人(当時)を育てる事が出来ませんでしたので、サラリーマン生活に見切りをつけ恥ずかしながら親父に頭を下げて家業を継ぐ決断をしたのです 2回目は家業の織物製造に戻って3年目の時で、2年間従来の「シャットル織機」という旧式の織物機械で頑張って品質向上を至上命令として日々闘っていたのですが、どうやってもA品が95%にしかならず、5%がB品になってしまいロスが出てしまうのです このままではジリ貧になり5年以内に廃業しなければならなくなると判断し、旧式の「シャットル織機」に見切りをつけ、新式の「エアージェット織機」の導入を決断した訳です。 しかし何億という投資金額でしたので、もし失敗すれば倒産という事も覚悟していました この弊社にとって「生死を分ける」過大投資が、他社に先駆けてバブル前年の1987年に行われたというのがポイントで、円高不況の真っ最中の契約でしたので、建物設備機器が「底値」で買える事が出来ました(更に織機の回転性能が飛躍的に向上した年でもあり、ラッキーにラッキーが重なった) ※更に後で分かった事ですが、織機メーカーの選択を当時マイナーなA社にした事によって、抜群の品質の織物が生産でき(3大欠点のヒマ、厚段、綾枕問題)、取引先からの信頼度が更にアップしたというトリプルラッキーにも恵まれたのでした これが1,2年遅れて、多くの同業他社と同じようにバブル期の1988,1989年にメジャーなB社の織機を導入していたら、確実に3,40%高く買わされていて失敗していたかもしれません この時の「強運」を未だに感謝しています・・・・・・ 3回目はエアージェット織機で20年間頑張った後の、今から5年前の織物業からトランクルームへの転業の時です。 多品種小ロットの注文が限界を超えて酷くなり、それに見合った工賃がでなくなるという事は、日本の繊維業界の長い流通の中で、「自分で値段を決めれない」所謂「下請けの仕事」で、日本のグローバル化の中で織物製造というポジションの先行きに絶望を抱き、織物製造業に見切りをつけ、トランクルームへの転業を決断した訳です この2006年の転業時も、中国や東南アジアの景気がまだ良かったし、特に中国への鉄の輸出が絶好調でしたので、織機や設備機器の解体・売却交渉(輸出)、そしてトランクルームへの改装工事もスムーズにいきました その後やってくる2007年世界金融危機、2008年リーマンショックに、これまた自分の「強運」にホッと胸をなでおろしたものでした・・・・ しかしトランクルームも最初の6カ月間は集客に大苦戦し、200%の自信を持って始めたにも拘わらず谷底に突き落とされ、7か月目に「トランクルームを半分見切って」、他社の織物会社の製造現場で12時間労働をしながら、不動産屋も始めようと決断しその日から、全く知らない宅建の勉強を開始した訳です 幸い宅建の勉強を開始してから半年後には、トランクルームも順調に客が入りだし何とか目途が立つようになり、半分見切った事も撤回できるようになりました しかし宅建の受験勉強もすでに半年やっていましたので、今更止めるのももったいないので、取り敢えず1回だけ挑戦し、駄目なら再受験は諦める事にしました。 「2回目はない」と心に言い聞かせ、特に受験1週間前は有給休暇をとり、50歳の老体と錆びついた頭に鞭打って1週間毎日18時間「気が狂うほど」勉強をして、何とか一発で合格する事が出来ました 3回の自分にとって大きな決断をして思う事は、「ちょっと早い目(まだ少し余裕のある)」で好い加減でしょうか・・・・ 崖っぷちまで追い詰められたら、後は谷底に落ちるだけですが、崖から1メートル手前なら左右に逃げたり、前に飛んで逃げたり、地面に穴を掘って逃げて助かる事ができます・・・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2011.10.20
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孤独に耐える力の事を「孤独力」と言うなら、大学受験浪人時代に培ったこの孤独力というのは、強い方だと思います(笑)。 高校時代は本業の勉強は殆どせずに超低空飛行、かといって遊びもクラブ活動(オケ部)も中途半端な長期スランプだったにも拘わらず、志望だけは一人前というどうしようもないバカな生徒でしたので、当然大学受験にも失敗というコースで浪人しました 浪人といっても予備校には行かず、早朝は家の織物業を手伝い、昼前から図書館に通うといった「宅浪」でした しかし高校時代から長年続いた悪い習慣はすぐに直る訳もなく、ダラダラと勉強したり、フラフラと何処かへ気晴らしに行ったりと無為な時間を過ごしてしまいました・・・・・ 周りで同じ浪人仲間が遊びに逃げて行ったりしましたが、何とか踏みとどまったのは、朝から晩まで身を粉にして働いている両親の姿が脳裏から離れなかったからです・・・・ 予備校だと学校の延長で周りに多くの友人も居たでしょうが、宅浪なので友人と殆ど行き来がありませんでした 寂しかったですが、その寂しさを紛らわせるために、受験勉強をしに図書館に行ったのに、図書館にはいろんな種類の本が沢山あるものですから、1日中受験に関係のない本をよく読んでいました・・・・ 自転車で行ける貝塚や岸和田の図書館だけでなく、「天王寺の図書館だったら、よく勉強できる」とか親に嘘をついて、阪和線の定期券を買って天王寺まで行っていた時期もありました 天王寺公園や天王寺動物園、100円とかで映画が見れる天王寺シネマステーションとか道具屋筋のA&Pにもよく独りで行きました。 阿倍野筋の旭屋書店やユーゴ書店も大きかったので、時間潰しにはモッテコイでしたねェ 天王寺和歌山間を1日に何往復もしたり、環状線を半日乗ったりとか、途中知らない駅を降りてブラブラするとか・・・けっして「独り遊び」を楽しんでいた訳ではありませんが、「親に悪い」と思いながら、どうしようもなかったのです・・・・ そんな浪人時代で「独りで考えて行動する」というのが習慣に成っていたものですから、大学入学、社会人、家業を継ぐようになってからは「独りで決断」する機会が多いので、ちょうど浪人時代に培われた「孤独力」が役に立ってきました まぁストレートで生きてきた人には、絶対わからない、ある種「屈折した」心理かもしれません しかし小さな事も、大きな事も自分で「決断」しなければならない事が多い「中小企業の経営者」には、この孤独に耐える力というのは必須条件かもしれません※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2011.10.05
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サラリーマンの一般的な生活パターンは、月曜から金曜までは働いて、土日祭日が休日という事ですが、私の場合は今でも基本的には「年中無休」です 一般の人には信じられない事だと思いますが、泉州の多くの織物業者は今では多少変わっているかもしれませんが、昔から「24時間操業(3交代制)の日曜のみ休日(祭日も仕事)」なのです 確か私が小学5,6年までは日曜日も昼12時まで工場が動いていましたので、日曜の昼は親父は仕事で疲れているにも拘らず、家族揃って「ドライブ」に連れて行ってもらった記憶がありますねェ しかし私がサラリーマンを辞めて3年目の1987年に、弊社が「存亡をかけて」エアージェットという織物機械(織機)を全面的に導入してからは、借金返済の為に日曜日も24時間稼働という「エンドレス操業」に突入したわけです 約20年間24時間エンドレス操業で本当に頑張ってきた訳ですが、そこには頑張れる「コツ」があったのです それは最初から、24時間365日(実際には10日間だけ工場停止して、年355日操業)仕事に命を捧げると「諦める」事から始めるのです 中途半端に従業員が揃っている水曜日に休もうとか、日曜は昼の12時に工場を止めようとかちょっとでも考えたら終わりでした あくまでも夜中に機械の故障で工場が止まったり、深夜の従業員が予告なく休んで寝ていなくても自分が出て何が何でも工場を稼働させる「覚悟」が必要なのです しかし24時間四六時中、100%の力を出していたら、身体も精神も1カ月持ちません そこで「如何に力を抜くか?」を考え、常に70%くらいの力を出すように心掛けるのです つまり「脱力」です。 この脱力を「習得」すれば、誰でも可能と思います 子供の頃からだんじり祭で大太鼓を1日中朝から晩まで叩いていましたが、これにも「脱力」テクニックを上手く使っていました 100%力いっぱい叩いたら、1分も持ちません。 そこで先ず丸1日(トータル正味12時間くらいでしょうか)叩く「量(時間)」を頭に入れ、大太鼓を叩くテクニックを駆使するのです。 テクニックとは大太鼓は水平打面ですので、バチを振り下ろす時は引力法則で半分は全く力を全く入れずに、打面に到達する軌道の半分だけ90%の力を入れるのです 太鼓を叩いた反動で、バチは勝手に上に戻ってきますので、全く力はいりません。 つまり引力法則と慣性の法則を利用して(たぶん)、大太鼓を叩く往復の軌道の4分の3は力が要らないことになります。 実は音が大きい割に、コツさえ掴めば、それほどしんどくないのです 肉体的には上腕三頭筋、大胸筋、リストをよく使いますので、この筋肉を効率的に鍛える空手の稽古でもよくやった「拳立て伏せ」を広い目の手の幅で深くやると有効でしょう 小太鼓の場合は大太鼓と違って垂直打面ですので、大太鼓の場合と使う筋肉(メインは肩と上腕三頭筋)もバチの軌道も全く違いますし、音も小さく休憩も出来ませんので(バンドで言うと、ベースギターのような黒子的役目で、ずっと演奏し続けなければならない。大太鼓はリードギター的な役目で、アドリブ中心に間奏があり適当に休憩が出来るのが大メリット)、結構シンドイ「部の悪い」パートなのです このように祭の太鼓を例にとっても、織物業と同じように周りから見るほどコツさえ掴めば、実はそれほど大変ではないのです※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2011.09.12
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不動産の契約書や重要事項説明書を作成する場合、これまでホッチキスで2か所止めるだけでしたが、最近は「製本テープ」という便利グッズを利用しています 事務の仕事をずっとされている方からすると、「こんな事も知らんのか」と笑われますが、、現場と営業を中心に、事務員を一切雇わず、片手間に小さな事務処理もすべて独りでこなしてき私にとって、商品名もわからないほど無知でした ちょっと「違った分野」なんて、全く分からないものです しかし少しずつそういう分野に足を踏み入れる事によって、分かってくるものですし、「知る喜び」を噛みしめ、ちょっと嬉しいものです 今年に入ってからずっと8か月間、これまでほとんど未経験のリフォーム関係の仕事を集中的にやってきた訳ですが、この経験で学んだ建築に関する知識や実務に関し、自分でもかなり勉強になったと思います 住宅機器業界の実情、職人さん達の苦労、耐震に関する知識、木材や廃材に関する相場と知識などなど・・・・ また釘やねじひとつとっても、寸法、太さ、形状、固さ、材質がいろいろあり、「どういう場所に、どの釘を、どの金物と組み合わせ、どの工具で、どうやって打つか」というのを身をもって経験しましたねェ やはり「経験」に勝る勉強方法はありませんねェ~※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2011.09.11
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学生時代は普段、朝5時から8時まで(月曜~土曜)家業の織物現場に入って、それから大学に通って夕方からは武道拳法部での空手の稽古に励んでいましたので、帰宅するのはいつも9時10時でした しかも春夏冬の長期休暇は、ずっと朝5時から12時間織物工場の現場に入っていましたので、地元の人は私がてっきり家業を継いでいるのかと思っていたはずです。 大学では家業の事は一切言ってませんでしたので、「忙しいヤツやな」と思われていたはずです こうして同級生達が大学生活をエンジョイしているのを横目で見ながら、一生懸命「工場と大学の間」を黙々と往復していて、「食べていくには仕方がない」と割り切っていたのですが、土曜の夜のディスコと日曜のウインドサーフィンが楽しみでしたねェ これで1週間のストレスが吹っ飛んでいきました その後大学卒業後、建築建材メーカーに就職した後も、織物現場に出社前の2時間入って「2重生活」を続けました サラリーマン1本でやっていくのに不安がありましたし、子供の頃からやってきた「仕事」を断ち切るのも惜しかったかもしれません・・・・ しかし営業で帰宅がいつも10、11時頃になるし、同族会社で給料も安かったので、4年で退社して家業の織物業を継ぐことにしたのです 今思えばスムーズに家業を継げた(決断できた)のも、これまで「長年やってきた2重生活の努力のお蔭」だと思います もちろん誰でもひとつの事しかしないのは、楽に決まっています。 しかし将来の事を考えると、「何が起こるか分かりません」ので、極力余裕を作って、他の事もやるというのが大事だと思います。 織物業を継いでから約20年間は、「エアージェット織機」という最新の機械設備の時代で、年間355日24時間エンドレス稼働の私の人生で最も働いた時代でしたが、一方で1995年のパソコンのOSでウインドウズ95が発売されるやいなや、早速当時40万円もしたシャープのノートパソコンを購入し、「インターネットが何か変えるかも?」と、当時織物ビジネスと何も関係なかったパソコンに分からないなりにも一生懸命取り組んだのも、次のトランクルームへの仕事に大いに役立ちました 続いてトランクルームへの参入も200%の自信を持って臨みましたが、予想に反して当時最初は大苦戦し、「トランクルームはダメかも?」と一時弱気になり、他社の織物会社で働いたのも明らかに「2重生活」でした しかしそれから「これでは本当にダメになる!」と心底思うようになり、すぐにその日から宅建受験勉強(不動産屋も2年先にやるのだ!と考え)という「3重生活」が始まったのです 宅建受験勉強を始めてからすでに4年半経ちますが、今は仕事に於いてはトランクルーム以外に、今不動産の仕事を「深く狭く」掘り下げるよう一生懸命頑張っているのも、いつまでもトランクルームが良いとは限りませんし、趣味に於いてはいつまでも過激なウインドサーフィンや空手をやっている訳にもいきませんので、「次の」趣味を着々と準備しています・・・・ 何事も、上手くいくまで気が遠くなるほどの努力と時間がかかりますから・・・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2011.07.30
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先日知人が、子供の頃の趣味のプラモデルを「40年以上もずっと熱心に続けている」というのを聞いて驚きました 好きな事をやっていると、何もかも忘れて没頭できて、「生きている!」という充実感があるそうです 私も小学校低学年の頃にミヤタの戦車やロボットのプラモデルに凝り、よく自転車で1時間以上もかけて、岸和田本町の有名な模型店に行ったものです。 そんな熱心な情熱を40年以上も持ち続けるなんて、尊敬に値します 彼にはストレスとか鬱なんてのは、無縁なんでしょう・・・・ 子供の頃に病気で寝込んだ時に、よく親が「なに食べたいんや?」と言ってくれた時に、日頃食べたくても食べれない「バナナか桃、食べたい」と贅沢を言ったものです どん底の時でも、「世界で一番食べたいもの」を食べたのですから、すぐに治ったのは言うまでもありません 当時はバナナや桃は高価で、メロンなんかはとうとう小学生の時に食べれず、初めて食べたのが中学生になってからでした(笑)。 人生に疲れたら、子供の頃に好きだった事をやるのもイイかもしれません 大人になってから、仕事の絡みでいやいやゴルフを始めるなんて、余計にストレスを溜める愚かな行為ですねェ※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2011.06.08
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「荘子」の「山木篇」に「君子の交わりは淡さこと水の如し、小人の交わりは甘きこと醴の如し」という好きなことわざがあります。 一般的な人間関係(プライベート、仕事)で、あまりベタベタの甘い関係だと長続きしないよという教訓のような言葉だと思います かと言って疎遠すぎると、関係はそれまでという事になり、より人生を充実させる為にも、「つかず離れず」という微妙な間合い(スタンス)が、人間関係を長続きさせるコツだと思います またこの中でも、プライベートと仕事のバランスが最も大事なような気がします。 どちらに偏りすぎても、「何かあった時」は、片方がゼロになりますので、気を付けなければいけません 多くのサラリーマンはどちらかというと、仕事に偏り過ぎてしまうので、定年後の事を考えると、出来るだけ「バランス」を考えるべきでしょうね 女性は友達とキャピキャピウオーキングしているのに対し、独りトボトボうつむいて歩いている(ウオーキング?)初老の男性が目立って多くなり、とても気になります 仕事においては、トランクルームはネット中心に堺市や大阪市内などの遠方からの集客に重点を置き、不動産は地域密着で、地主、同業者との「狭くて深い」人脈をドンドン築いていきたいと思います 片方で、まだまだ出来ていない建築関連業者との取り組みや、不動産コンサルタントとファイナンシャルプランナーとしての「実務を通じての勉強」もやっていかないとも思います プライベートでも、私は地元に住んでいますので、どうしても小中学校、親戚などの地縁血縁がメインになってしまいますので、出来るだけそれに関係のない、高校、大学、趣味のジム、空手、ウインドの人間関係も重視していきたいと思います またこれはプライベート、仕事の両方にも言える事ですが、同年代以上の人達はこれからドンドン減ってきますし、「新しい感覚、刺激」を貰うには、同年代より若い(出来ればひと回り以上)人達との付き合いが絶対必要になってきます その為には、人としての魅力を持つために、「人間の幅」を広げるように努力しないといけないのですが・・・・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村
2011.05.30
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