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昨日は暑かったのでアロハを着て夕方水間線に乗って、南海本線の貝塚駅前のジャズバー「スポット」に久しぶりに行ってきました。もうかれこれオープン当初から40年くらい通っているでしょうか。いつものようにビールを飲みながらマスターとグダグダ喋っていると、途中からWのお坊さんが参戦し、話がオモシロい方向にいったと思うと、次の飲み会の時間が来て終了。その足で駅前のいつも行く大阪庄やへ。貝塚三中の同級生2人と合流。この飲み会も、30代からもう30年以上も続いています。以前は年2回でしたが、今は会う回数が増えて盆と年末とGWの3回です。今年のGWは3人のスケジュールがなかなか合わず、今回となったのです。年末に会ったとこですが、イロンナ話が飛び出してきます。そんな楽しい話も、1人が飲み会の後に仕事で、明日は朝から夕方まで研修というハードスケジュールのようで、3時間で終了。67歳になっても100%頑張っている彼の姿に刺激を受けます。俺も頑張らねば・・・と(汗)。そんな関係がイイのです。次は盆です。という事で、継続は力なりとはよく言ったもので、これまでの山あり谷ありの人生で30年以上の3人の飲み会を通じて、多くの事を学びました。それが人生なんだ・・・と。「トランクルーム貝塚」「スタジオ0724」「 貝塚不動産.com」「貝塚卓球センター」「テレワーク&スタディ貝塚」 大阪府貝塚市名越661 tel:072-446-0798 mail: info@sasatani.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2024.05.19
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昨日は大阪ミナミで、鳳高校27期1年10組の1年ぶりのクラス会でした。もう鉄道ファンにとって全国区にもなった、元東急車両を使った水間鉄道経由でミナミまで行きました。昨年に27期学年同窓会をしましたので、昨日会ったという感じです。今年68歳なので、年を取ると時間が過ぎるのが早く感じます。「あと2年で70歳かぁ~」と思うと、何だか寂しい感じがします。まぁみんな一緒に仲良く年を取っていきましょう・・・てな感じで、これからも毎年クラスに参加してワーワー騒いで、楽しい時間を過ごしたいと思います。誰にも気兼ねなくワーワー騒ぐ・・・これですポイントは。今回はクラス45人中13人も参加しましたが、ボチボチ減っているような感じもしますが、顔ぶれもだいたい決まっています。確か初回のクラス会が50歳くらいの時で、その時の会話と今の会話は違っていました。高校の思い出話や世間話が中心ですが、明らかに病気や年金や孫といった話題も多くなり、仕事の話は少なかったですねェ・・・2次会は恒例のカラオケで、みんな思いっきり歌い日頃のストレスを発散しました。まぁしかし高校のクラス会なんて、だいたい3年生の時のクラス会が多いものですが、1年生というのがオモシロいですねェ・・・まだ中学を卒業して間もない52年前の思い出に、たまに浸るのもイイものです。ずっと地元にいると分かりませんが、久しぶりにミナミまで出ると、インバウンドで溢れかえりもう完全にコロナ前の状態に戻った感じがしますし、ミナミの街の変貌ぶりに驚き、日本経済の復調を予感させます。という事で、昼ご飯からクラス会が始まり、夕方までカラオケで遊び、私はそのまま地元貝塚に帰って、いつもの貝塚駅前の40年前のオープン時から通っているジャズバー「スポット」で酔い覚ましのコーヒーを飲みました。そこでたまたま音響エンジニアの方との新たな出会いがあり、これから音楽スタジオで「新しい何か?」が生まれそうです・・・1人ひとりの人生は、過去、現在、未来の出会いで成り立っていて、今の自分は良い意味も悪い意味も含めて過去の積み重ねによる集大成です。まぁ新しい出会いがない人生なんて・・・オモロないです。「トランクルーム貝塚」「スタジオ0724」「 貝塚不動産.com」「貝塚卓球センター」「テレワーク&スタディ貝塚」 大阪府貝塚市名越661 tel:072-446-0798 mail: info@sasatani.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2024.02.18
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昨日は堺のホテルアゴーラリージェンシー堺で、7年ぶりの鳳高校27期の学年同窓会でした。本当は65歳で開催される予定でしたが、コロナで2年延びてしまったのです。いや~楽しかったですねェ・・・一瞬で50年前の高校生に戻りますから・・・(笑)。もうビールを持ってテーブルを回るのに忙しく、ゆっくりテーブルで殆んど食べれませんでした・・・(笑)。なので悪酔いをしてはダメだと、飲む前にヘパリーゼを飲んでいたのです。あっと言う間の2時間半、そして2次会・・・3次会はスタバで酔い覚まし。まぁこんな楽しい会があるのは、やはり学年全体が仲が良かったのだろう思います。クラブ活動、学園祭、遠足、修学旅行、単車通学、恋愛・・・音楽愛好同好会の弁護士K君のキャロルのコピーバンドの練習秘話や、ハンドボール部が近畿大会出場(大阪ベスト4)のために修学旅行を休んだとは初耳だったり、久米田中学軍団との再会、同窓会が初参加で約50年ぶりに通学用にダックスホンダを借りていた元中学校長のT君との再会とか、元小学校長のG君とミナミのディスコ○○に行ったなんて全く記憶がなかったとか、今でも某大学少林寺拳法部で指導しているY君がよく廊下でブルース・リーの真似でキャッチャーミット目がけて後ろ回し蹴りをやっていたとか、高2のベッタ争いをしたS君が大阪府警のエライさんだったとは、三ツ松のミカン狩りが高2だったのか?、体育の柔道でケサ固めで口臭で負けたとか、東京のディスコに連れて行ってもらったT君が中学校長を経て今は某私立高校の先生でJKに囲まれて喜んでいるとか、テレビ主演もH君のお陰だったりとか、高2の文化祭の演劇で親子役で共演したTさんが今でもコーラスで頑張っているとか、私も含めた同級生4人が回りまわって遠縁だったりとか・・・まぁ結構、私のブログを見てくれている同級生が多いのに驚きました・・・(汗)。また、まだ現役で仕事をしている同級生が半数以上いるとは驚きましたが、これも実情でしょう。孫の数も私は6人で上位に食い込みましたが、最多が9人とは驚きです・・・(笑)。名刺も多い目に40枚ほど持っていきましたが、案外足らずに、すべてバラまきました・・・(笑)。やっぱり同窓会を老後の楽しみの1つにしていますので、来れるように健康(食事と睡眠と運動)に十分留意して日常生活を送りたいと思います。という事で、3年後の70歳で学年同窓会が開催される予定ですが、また山田耕作作曲の校歌を歌ってみたいと思います。最後に1年10組が幹事クラスだったのですが、私は事前の打ち合わせに全く参加できずに全く申し訳なかったのですが、他のクラスメートが必死になって頑張ってくれて今回の学年同窓会の大成功に結び付いたのです。本当にありがとうございました!そして今回も東北から駆けつけて、WEBサイトや写真に尽力をして頂いた川谷君にも感謝したいと思います。ありがとう!「トランクルーム貝塚」「スタジオ0724」「貝塚卓球センター」「テレワーク&スタディ貝塚」 「 貝塚不動産.com」 大阪府貝塚市名越661 tel:072-446-0798 mail: info@sasatani.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2023.11.04
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人生を振り返ると、子供の頃から「カッコいいなぁ~」と思った事は、周りを気にせず自由にヤッテきました。だんじり鳴物、トランペット、空手、ドラム、ウインドサーフィン・・・好きな事をする・・・という当たり前の事を、本能のまま自由に。と言っても止めるのは親くらいですが、両親とも昭和3,40年代の高度成長期の真っ只中で家業の織物業で忙しく、長男の私にかまっている時間もなかったようで、ほとんど自由放任主義だった事が功を奏しました・・・(笑)。当時の泉州の地場産業だった織物業はまだまだ盛んだったので、金銭的な面で苦労をしなかった事に親には感謝しなければなりませんが。まぁ保育園児くらいから親から「行くな」と言われているにも拘らず勝手にだんじりを曳きに行き、小学校2年ではもう宮入本番で大太鼓を叩いていました。暴走はそれだけに止まらず、その頃親に黙って岸和田南上町の親戚の家までイトコに会いに名越から歩いて行ったのです・・・(笑)。まだ小さな子供でしたので、近所の友達と一緒にペチャペチャ喋りながら3,4時間は掛かったと思います。今だったら、大問題になり新聞に載っていたかも知れませんねェ・・・(汗)。子供の頃からスゴイ行動力があった・・・と思えばイイのです(笑)。まぁしかし逆に言えば、当時の名越のだんじり祭りは木島五ヵ村で1番ショボかったのです。子供心に「名越も、もっと走ってほしいなぁ・・・(とにかくだんじりが動かない)」と悩んでいたのです。というのも、当時はアスファルト舗装していない道というのもあり、だんじり小屋から私の家まで100mほどしかないのに、夜中の2時にだんじりを引出しして家を通過するのが5時でしたから。名越の祭りは今は盛んですが、ショボかった名越を知っているのはもう60代以上の木島五ヵ村の地元シニアです。そして中学生でブラスロックの「シカゴ」に目覚め、鳳高校ではオーケストラ部でトランペットを始めました。そして高2の時に見た映画「燃えよドラゴン」で空手に憧れ、浪人時代は教育学部の体育学科も受験する事を視野に入れ自己流で身体を鍛え、東京池袋の極真会本部道場に内弟子になろうと見学に行きましたが(当時大阪には極真会の支部道場が無かった)、結局英語教師を目指し関西外大体育会古武道部で林派糸東流空手を始めました。小学生の頃からだんじりの鳴り物で宮入本番で大太鼓を叩いていましたので、その流れで大学時代に中学同級生らとのバンドでドラムを始めました。また父親の心臓病の手術で大学古武道部を辞めざるを得なくなり、地元貝塚の空手道場(沖縄本部流盛道館)に転向した頃に、コカ・コーラのテレビCMでウインドサーフィンを見て「カッコイイ!」と始めました。ウインドサーフィンは凝り過ぎて、大学に学連加盟のサークルまで創ったほどです。今振り返ると、高校や大学時代は周りに気兼ねせずに興味本位で好きな事を好きなように、自由気ままに生きてきたのです・・・(笑)。割と単純な性格で、「カッコイイ、やろう!」と思ったら、あまり考えずに実行に移すという行動力だけはあると思います・・・(笑)。そして、それから40年以上経った今でも、トランペット以外の鳴物やドラムや空手やウインドサーフィンを未だに細々と続けている自分に驚きます。しかし、逆に言えば新しい事にチャレンジしていないという事で、臆病者と言えるかも知れません・・・(笑)。まぁコレも私の性格ですし、今更性格を変える訳にもいきません。大事なのは自分にとって「カッコいい!やりたい!」と思える事を追いかけ、悔いを残さない事です。他人から勧められたモノは、どうしてもイヤですねェ・・・何もこういった趣味だけでなく、仕事や高校や大学を選ぶときや、恋愛や結婚や人間関係も・・・あくまでも自分の好き嫌いを基準や趣味嗜好に正直に生きてきました。これからも死ぬまでこのスタイルを貫くのは当然です。まぁそんな忙しい青春を送っていましたが、日曜を除いて毎日早朝5時から家業の織物工場に入って仕事をするのが基本で、忙しい合間を縫って土曜の夜はディスコやライブハウスに行きデートも楽しんでいたのです・・・(笑)。とりあえず目先の5年は、スタジオでのだんじり鳴物が泉州一帯に普及させて自分も孫と叩き、週1回のボランティア空手はそのまま続け、ドラムはロックバンド参加してライブに出て、平均60歳くらいのウインド仲間たちが「ウイングフォイル」に凝っていますので、それにチャレンジしたいなぁ・・・と。という事で、平均寿命では「あと15年」しか生きられませんが、そんなのを無視して100歳まで元気に生きるつもりで色んな事をアレコレ考えています。目標を持って計画的に、アレコレ考えながら試行錯誤しているうちに70歳になり、80歳になってしまうのです・・・(汗)。とにかく年を重ねるごとに時の経つのが早く感じられ、一回り上の人らがボチボチ亡くなっている事に焦りを感じ、「こりゃヤバイ、早くやりたいことをやらなねば・・・」とボーっとユックリ悩んでいる間もありません・・・(汗)。「トランクルーム貝塚」「スタジオ0724」「貝塚卓球センター」「テレワーク&スタディ貝塚」 「 貝塚不動産.com」 大阪府貝塚市名越661 tel:072-446-0798 mail: info@sasatani.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2023.09.06
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鳳高校27期の学年同窓会の案内のハガキが来ました。幹事は1年10組なので、私も幹事の一員ですがナンヤカヤと用事があって1回も出席できていないので、せめて私のブログやSNSで告知して多少なりとも力になろう・・・と考えて告知させて頂きます。コロナで学年同窓会も1年10組のクラス会も延び延びになってしまい、久しぶりに会う同級生との再会が楽しみです。今年67歳ですから、男子も女子も余生を楽しんでいる人も多いかと思います。今回の学年同窓会も、その楽しみの1つです。今回のハガキは住所が判明している同級生だけ発送していますので、このブログやSNSで今回の学年同窓会の件を見られたハガキを受け取っていない同級生はご遠慮なく私に連絡してください。連絡先:072-446-0798 info@sasatani.com (笹谷)まァ考えてみると1972年入学の1975年卒業ですから、50年前の青春の思い出がイッパイ詰まっている同級生の集まりなので、会うと一瞬にして当時の高校生に戻るなんてホンと不思議ですねェ・・・貝塚弁丸出しの丸坊主の中学生から一気に長髪になり(堺の中学生はみんな長髪)、憧れの革靴を履き、スマートな堺弁に驚き、時には単車に乗って通学し、生物の最後の授業で先生の涙ながらの授業に感動し、ロングヘアの美人が多いのに驚き、友達の家に遊びに行くとお父さんがニューヨークの取引先と電話で英語による商談している場面に遭遇して驚き、クラス単位で勝手に行き先を決め自由服で現地集合現地解散の自由な遠足を楽しみ、告白しようと学校帰りについて行っても告白できなかったり、派手で自由な学園祭を楽しみ、厳しい体育の授業(柔道、ラグビー)に鍛えられ、自由過ぎる美術の授業に戸惑い、学内ではフォークソングが溢れ、激しいラグビー部の練習について行けずオーケストラ部(トランペット)に転向し、学食の不味いカレーに辟易し、高3になっても受験勉強もせずに○○部の奴らとよく大阪千日前の100円映画館A&Pに通い・・・と何もかもが自由で驚きの連続でした。そんな楽しくほろ苦い青春の思い出が詰まった3年間でした。学業の方は低空飛行でしたが、この時のイロンナ経験がその後の長い、ホンとに長い人生にプラスになっている事だけは確かです。勉強なんてクソくらえ、人生なんてアソビも勉強も含めた「総合力で勝負!」だ・・・と(笑)。という事で、今「スタジオ0724」に多くの高校生がバンドや鳴物の練習に来ていますが、絶対イイ思い出になるでしょうし・・・コレこそが人生だと思うのです。「トランクルーム貝塚」「スタジオ0724」「貝塚卓球センター」「テレワーク&スタディ貝塚」 「 貝塚不動産.com」 大阪府貝塚市名越661 tel:072-446-0798 mail: info@sasatani.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2023.08.04
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今年11月3日(金)15:00~17:30に前回同様の南海本線堺駅直ぐの「ホテルアゴーラリージェンシー大阪堺」で、鳳高校27期(昭和50年卒)の7年ぶりの学年同窓会が開催されます。幹事クラスの我々1年10組が、4月からクラス会を兼ねてこれまで2回打合せをしてきました。残念ながら私は仕事の都合で欠席続きですが、私のブログやSNSで1人でも多くの同級生が出席するのに役立てればと、今回告知した次第です。「鳳高校27期」と検索すれば私のブログが上位に検索されますので、前回もブログを見たという同級生から電話やメールがあり、日本全国どころか世界中に散らばっている?相当数の同級生が見ていると思われます。かれこれ17年もブログを継続してトータル400万アクセス数を超えているメリットが、こんなところにも現れるとはホンと驚きです。コロナ前の前回7年前の学年同窓会は大盛況でしたので、今回もようやくコロナも終息しつつありますので、前回同様に集まってくれれば・・・と切に願います。1年10組もグループLINEで連絡を取り合い、他にも2年時や3年時のクラスのLINEグループでクラス会がいくつもあるようなので、そういった色んなルートで連絡が取れる時代になったので、前回以上に学年同窓会が盛況になる事でしょう。IT化社会・・・さまさまです。8月初旬に案内状を発送する予定で、返送は8月中にお願いします。転勤や引越で案内状の来なかった同級生や、同級生の不明者の連絡先の知っている方は私まで是非ご連絡ください(笹谷まで 072-446-0798 info@sasatani.com)。まぁしかし我々27期は、大阪府立高校の5学区制(9学区制の前)の最後の年で、堺市から岬町まで泉州全域から通っていたのでバラエティに富んだ同級生がいるのが何ともオモシロいです。また入学前年まで特に鳳は学生運動が盛んで、校舎にペンキで書かれた跡が活動の激しさを物語っており、その反動で我々が入学した1972年は学内には自由に溢れ、当時はバイクブームで一時期友人から借りたダックスホンダで通学していたり(バイク通学OK)、フォークソング全盛期でしたので学内はフォークソングで溢れ、普段は制服でしたが遠足は自由服で現地集合現地解散で好き勝手をしても自由で、鳳高祭も文化部門では1年時は喫茶店をやり、2年時はクラスの演劇で主役を演じ、3年時は映画を撮って音楽担当し、運動部門の開会式には屋上からファンファーレのトランペットを吹いて、学年を縦割りしたいくつかの団に分けて応援団では和太鼓を叩いたりしてかなり盛大だったのを思い出します。そんな自由を満喫した高校生活が、50年経ってスタジオ経営に繋がっているのかも知れません。勉強の方は低空飛行でしたが、そんな楽しい高校生活を共有してきた思いは生涯忘れる事は出来ませんので、この同窓会は毎回大いに盛り上がるのです。という事で、前回の学年同窓会はちょうどスタジオをオープンした年で、あちこちのテーブルを回って「スタジオを今年からやってるんや・・・」てな調子で、一生懸命名刺を配っていたように思います。振り返れば、アッと言う間の7年でした。まぁ今年は「だんじり鳴物(和太鼓)をやっているんや・・・」てな調子でテーブルを回ろうか・・・(笑)。そして、それまで4か月の間に5キロ瘦せよう・・・という目標ができました(汗)。鳳高校27期生同窓会ホームページ 「トランクルーム貝塚」「スタジオ0724」「貝塚卓球センター」「テレワーク&スタディ貝塚」 「 貝塚不動産.com」 大阪府貝塚市名越661 tel:072-446-0798 mail: info@sasatani.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2023.06.27
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昨日は大学時代の1番の友達が、わざわざ貝塚まで会いに来てくれました。彼とは同じクラスメートで、関西外大少林寺拳法部7代目主将です。実に40年ぶりです。長年年賀状とLINEのやり取りだけでしたが、今年大阪勤務から関東に戻るという事で、「これは今のうちに会わねば・・・」という事で会ったのです。前回最後に会ったのは私のサラリーマン時代に東京出張に行った時で、彼のアパートに泊めてもらい、風呂屋に行ったり、横浜や湘南海岸に遊びに行ったり・・・懐かしい思い出が蘇ります。大学時代も私が古武道部で空手をやっていましたので、互いに腹筋を鍛える為に腹の殴り合いをしたり、彼の下宿に泊まったり、互いの恋愛の悩みを打ち明けたり、○○に一緒に行ったり・・・・そりゃ、もう楽しい楽しい青春時代を一緒に過ごしたのです。私の現在の仕事に興味があるようで、トランクルームやスタジオも見てもらいました。学生時代に一度私の家に来たことがありますが「こんな田舎だったっけ?」と変わらぬ風景に郷愁を感じさせたようです・・・(笑)。それから近所の焼き鳥屋で、開店から閉店近くまで昔の懐かしい思い出を語り合いました・・・泉州名物「水なす」にエラク感動していました。イイですねェ・・・損得関係のない学生時代の友人というのは。何年経っても、途切れる事はありません。仕事絡みだと、どうしても互いの損得勘定や思惑が入りますので、仕事がなくなったり不和になれば、それで終わりで縁が切れます。こういった子供の頃から大学時代までの縁を大事にしたいと思います。という事で、いくら語り明かしても時間が足りませんでしたが、閉店間際の焼き鳥屋を後にしました。いつか私が関東に行った時に、彼に東京を案内してもらいます。「トランクルーム貝塚」「スタジオ0724」「貝塚卓球センター」「テレワーク&スタディ貝塚」 「 貝塚不動産.com」 大阪府貝塚市名越661 tel:072-446-0798 mail: info@sasatani.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2022.05.22
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昨日は貝塚駅前の大阪庄やで、貝塚三中時代の同級生との忘年会でした。もう年末も押し迫った29日ですので結構空いていると思いきや、帰る頃にはほぼ満席状態に驚きました。貝塚駅前周辺の飲食店では、どうも大阪庄やさんの一人勝ちのようです。年3回会っていますが、毎回イロンナ話題で4時間なんてあっと言う間に過ぎます。もう若い頃のようにビールジョッキ4,5杯も飲むなんてあり得ません。明日の体調の事を考え、テキトーに呑んでサッと切り上げます。しかし今回は病気の話題が半分くらいでしょうか・・・(笑)。仕方ないですねェ・・・もう3人とも63ですから。仕事の話はゼロで、その他モロモロの話ばかりです・・・(笑)。何はともあれ、3人とも元気にヤッテいるからこそ飲み会にも来れるのだと思います。会って存分に喋って、互いに元気を貰う・・・それが明日への活力になっているのです。飲み会に来る直前に、我々3人の恩師(中学3年時のクラス担任)である同じ町内で住んでいる三宅先生に、町内(名越)の墓地でお会いしたのが正に奇遇でした・・・(驚)。「今からT君とN君との飲み会やさかい、先生元気にしてるて言うとくで・・・」と写真を撮ってラインで2人に送りました。多くの貝塚三中卒業生が、この三宅先生の元気な写真を見て喜んでくれるでしょう・・・(涙)。という事で、3人ともこれまでの人生でイロンナ問題や課題を抱えながらもそれらを乗り越え、おおむね家族や仕事や健康にも恵まれ、ココまで来れた事に感謝したいと思います・・・(涙)。にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2019.12.30
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貝塚市立木島小学校を卒業してから、今年で丸50年です。半世紀前に小学校を卒業したという事実に、自ら驚きます。あれから50年・・・そう考えると、エライ長い事生きているなァ・・・と(笑)。電話ひとつとっても、3,4歳の頃は柱に取りつけている木の箱でした。大人たちは木の箱に向かって、誰もいないのに何か喋っているのを不思議に眺めていたものです・・・(笑)。今の電話は単なるスマホのアプリです。無料で海外と喋れますし、メールも送れ、テレビ電話も出来るのです。恐ろしい変化を目の当たりに、我々の年代の者は経験しているのです。これから先は来春から始動する「5G(第5世代移動通信システム)」を手始めに、どのような技術改革と社会変化が待っているのか・・・?もう電話という概念が無いかも知れません。もう、期待するしかないでしょう・・・戦後まだ10数年しか経っていなかった子供の頃は、戦後の日本復興をけん引してきた当時最先端ビジネスである泉州の地場産業の「綿織物製造業」を営んでいましたので、電話もテレビも車の購入が村でも早かったです。夜の7時か8時になると、近所の人達がゾロゾロと「テレビ見せちょう・・・」と、うちの居間にテレビを見にやって来るのです。当時は未だ水道も無かった井戸水の頃で、自宅前の小川(溝)で洗濯をして、電気冷蔵庫も無かったので木製の冷蔵庫に氷を入れていました。風呂は薪で沸かしていましたねェ(うちは織物工場から出た油の沁みた風綿)・・・車のウインカーも、手で紐を引っ張る手動式でした・・・もちろん、オートマ車もエアコンも自動ドアミラー(窓ガラス)も存在していません。しかし、振り返れば何でもホント早いものです。昨日の事は忘れるのに、50年前の事はよく覚えているというのは年取った証拠です・・・(笑)。イヤ、もう横を向いたら忘れてしまいます・・・(笑)。だから、その当時の思い出話に花を咲かせるのが楽しいから、小学校5,6年のクラス会をもう7年前から毎年続けているのです。今年も昨日泉佐野の料亭で開催しました。もう同窓会に来るメンバーは決まっています。昨日もクラスメートの訃報がありました。彼女はまだ一度もクラス会には来ていませんでしたので、亡くなる前に一度でも会いたかったです・・・(涙)。高校1年のクラス会も毎年やっていますが、これも来るメンバーは固定しています。同窓会に限らず、世の中に沢山ある○○会という任意の集まりというのは強制でも何でもないので、来て楽しい(メリットある)人は来るし、来ても楽しくない(メリットない)人は来ないだけの事です。残りの人生の「時間」「金」「情熱(パワー)」の3つをどう配分するかは、人それぞれの人生観で他人は関係ありません。私も残り少ない人生に於いて、本質的にもっと仕事に取り組むだけでなくプライベートもより充実させる為に、数年前に地元の商工会議所や経済クラブを辞めるだけでなく、その他の見直しも図りました。もう子供らも独立し60を超えれば、残りの人生は多少我がままを通しても誰も文句はないでしょう。というか、私は昔から世間の常識や旧習にあまり縛られず、割と自由に生きてきましたので、ただそれの延長です・・・(笑)。まァ年を取れば取るほど人間というのは頑固になり、行動力も気力も減退しますので、これから年々参加する人数は減って来るのは仕方のない事でしょう・・・たぶん私は、この小学校クラス会はオモシロいし、まだ気力が充実していますので、最後のメンバーに残っているでしょう・・・(笑)。2次会は、ちょうど佐野駅周辺で「泉佐野長者バル」というイベントがやっていたので、駅前の行きつけのショットバー・ロンスターに行き1杯吞み、3次会は二色浜駅前のドラムレッスン生がママのセッションバー「YUKAN CLUB」に行ってカラオケやドラムを叩きまくって遊びました・・・という事で、もう63歳になると、男は男性ホルモンが減少し女は女性ホルモンが減少して性差が縮まり、ちょうどこのクラス会の頃の小学校5,6年の頃に戻った感じです・・・(笑)。加齢によるホルモンの関係か、男はだんだん覇気や闘争心が無くなって大人しくなり、女はどんどん強くなっていく・・・全くその通りです(笑)。個人的にはウインドサーフィンやドラムでドーパミンを出しまくり、空手やストレッチや自重筋トレでテストステロンをキープする・・・仕事もまだまだ現役バリバリで、積極的に1人で5つのビジネス(トランクルーム、音楽スタジオ、卓球場、自習室、コンサルティング不動産仲介)を展開をする事によってボケ防止になります・・・(笑)。こういった「健全な手法」によって男性ホルモンの減少を防ぎ、仕事で脳ミソの活性化を促し、ストレスを極力貯めないようにして1年でも2年でも健康寿命を延ばす努力をするのです。しかし考えてみれば、こういった努力は無意識のうちに40代前半からボチボチ始まっていました。ちょうど会社社長だった父が急死した時と重なります。1番頼りにしていた父が突然亡くなった事によって、根本から人生を見つめ直したのです。従業員と家族を守るのを前提として将来を考え、健康(+趣味)と仕事の両立こそが長期的に人生を充実させると考えたのでしょう・・・何にしても、急に出来るものではありません。5年、10年、20年・・・と地味な努力を継続することによって、やっと効果が現れるというものではないでしょうか。まァしかし、女性や自営業者は別にして一般的にサラリーマン男性は60歳定年から、それまでの仕事中心の人間関係から如何に脱皮をして、これからの老後人生のプライベートを如何に充実させるかを模索しているのが我々の年代です。そして10年後には互いに小学校1,2年頃に戻り、20年後の平均寿命あたりで生まれた時の赤ちゃんに戻るのでしょうか・・・(笑)。80歳の時のクラス会には、全員オムツをしている事でしょう・・・(笑)。にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2019.11.10
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昨日は恒例の貝塚三中の同級生3人での飲み会です。毎年、年末年始とGWと盆の3回の飲み会ですが、今回は3人ともGWは忙しく時期を少しずらしました。もうこの飲み会もかれこれ30数年以上も続けています。考えてみれば長いですねェ・・・継続は力なり・・・(笑)。年のせいか結構同じような事も互いに話したりしますが、それも愛嬌です・・・(笑)。仕事、子供、孫、病気、怪我、体調、親の介護、将来、年金、地元の歴史、社会問題、医療問題・・・結構イロイロ話し込み、話題は多岐に渡って尽きません・・・もうそれほど呑まず、夕方5時スタートで8時には終了です。互いに健康第一です。次の盆に会うまで3人とも元気でいようと・・・そんな3人の飲み会が楽しみです。いつもこの飲み会では地元のレトロな水間鉄道を利用します。もうかれこれ60年近く乗っているでしょうか・・・ずっと東急車両の中古みたいで、吊革に東急百貨店や渋谷109の宣伝がそのままです・・・(笑)。今回は時間がありましたので、飲み会スタートまでの1,2時間を貝塚駅前のジャズバー「スポット」で過ごしました。いつものようにマスターとグダグダ言いながら・・・(笑)。このバーも古いです。私も20代の頃から通っていて、かれこれ40年近く経っています・・・これも、継続は力なりです・・・(笑)。あの地元貝塚出身の演歌歌手の神野美伽さんも、高校生の時のよく来ていたようですから。彼女は小さい頃から「演歌の天才少女来たる」とかいう垂れ幕を持って、お父さんと水間の盆踊り会場などを回っているのをよく見ましたが、あんな有名な演歌歌手になるとは夢にも思いませんでした。最近ではニューヨークのジャズライブハウスで定期的にライブを行っているようで、それも高校時代にスポットでジャズを聴いていたのが原点かも知れませんねェ・・・という事で、昨日はノスタルジーな時間を過ごし、日頃の疲れを癒してくれました・・・にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2019.05.19
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昨日は貝塚木島小学校6年3組と鳳高校1年10組のクラス会が、それぞれミナミの時間帯も場所も違うところでありましたので、2つの飲み会に参加してきました。所謂ダブルヘッダーです・・・(笑)。何年か前にディープパープルのコンサートが大阪のフェスティバルホールであり、その直後に割と近いビルボードライブ大阪でチャカ・カーンのライブに行ったのと同じダブルヘッダーです・・・(笑)。人間というのは身体はひとつしかありませんので、「1日に2回楽しめる」というのは非常にオイシイ1日でした・・・(笑)。昼12時から小学校クラス会、夕方6時から高校クラス会・・・メンバーは全く違いますが、どちらも私と同じ62歳です。小学校は5,6年前から年2、3回、高校は10年くらい前から毎年1回クラス会をしています。小学校クラス会のメンバーの約8割は木島保育所~木島小~貝塚三中と10年間一緒で、大体地元泉州で住んでいて、今でもだんじり祭にたまに会う幼馴染みです。一方高校クラス会は最も多感な青春時代を一緒に3年間過ごし、今は結構散らばって住んでいますが、1年に1回会うのもこれまた格別です。小学校は女子の参加が多く、高校は半々です。高校はクラスは違いましたがたまにこのクラス会にも顔を出してくれていたT君が先日亡くなったので、彼を偲んで黙祷から始まりました。小学校も高校も、これからの老後の話が増えました・・・やはり泣いても笑っても20年後には男性平均寿命の82歳なので、男性の半分がこの世にいなくなっているのです・・・(涙)。という事で、このクラス会に参加できるというのは、健康的にも経済的もまずまずという事ですので、クラス会に参加する事も老後の目標(楽しみ)のひとつとして励みにしたいと思います。そしてカバンに70周年記念ボールペンを満載し、バラ捲くのも忘れませんでした・・・(笑)。にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2019.02.10
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昨日は岸和田「季乃陣」で、貝塚市立木島小学校のクラス会でした。小学校5,6年生時(3組藤田先生)のクラス会で昭和44年(1969年)卒業ですので、来年で卒業50周年です。ちょうど昭和43年(1968年)が小学校最後の6年の1,2学期で、当時メキシコオリンピックがクラスでの最大の話題でした。教室の後の掲示板に、何やかやとグループに分かれてオリンピック関連の切り抜き記事を貼っていたように思います。今でも鮮明に記憶に残っていますが、男子走り幅跳びのビーモンが当時の世界記録を55㎝も上回る8メートル90センチという驚異的な大記録を出したり、男子100メートルでハインズが電動時計による初めての9秒台を出したり、サッカーで釜本率いる日本が銅メダルを取ったりしました。しかし、私的に一番印象に残っているのは男子走り高跳びのフォスベリーです。印象に残っているというレベルでは無く、全く新しい飛び方に度肝を抜かれました。と言うのは、当時私は学業もイマイチで体育も成績が3でしたが、何故か走り高跳びだけがクラスで1,2番だったのです・・・(笑)。自分では知りませんが、高跳びをする時に嬉しさのあまりワクワクドキドキするのです・・・(笑)。身長も低いしジャンプ力も無いのに、タイミングと身体の使い方だけで他人に勝てるコツを掴んでいたのでしょう。図画工作が6年間ずっと5だったのが私の唯一の自慢でしたが、「高跳びも得意やで」とアピールしたかったのか・・・(笑)。まァしかし当時の走り高跳びの主流はベリーロールでしたが、フォスベリーが世界で初めて「背面跳び」を披露しメキシコオリンピックで優勝したのです。もちろん当時はベリーロールの真逆の背面跳びなんて言葉は無く、「フォスベリージャンプ」とかマスコミは騒いでいました。その感動がキッカケで、中学では陸上部に入り走り高跳びと走り幅跳びを選びました。陸上部に入って直ぐに、家で自己練習にも励みました。母親のお越しの紐を拝借して、それをバーに見立てベッドで練習したのです・・・(笑)。当時はまだ高跳び用のマットなんてありませんでしたので、砂場での練習は危険と判断したのです。まァ2,3ヶ月経つと、自己流の飛び方が完成しました。後に、あだ名を取って「トンさん跳び」とか呼ばれましたが・・・(笑)。自分的にはオリジナルな跳び方としての自負がありましたが、何の事は無い冷静に見ると単なる「ベリーロール(向かって右からの)」です。所謂、ぎっちょのベリーロールです。まァしかし、校内の陸上競技大会の1年の部で優勝したくらいで、結局中学時代は大会に出るほどでも無く中途半端な記録に終わりましたが・・・(涙)。自分なりに一生懸命練習し結果、ついにベッドが壊れてしまい親父から練習のストップが掛かって終了です。そりゃ、家でドンドン暴れてベッドを壊したら、何のための陸上競技か分かりませんから・・・この一件で、気になるコトを自分なりに一生懸命考えて実践研究するクセがついたのか・・・(笑)。しかし5年前にクラス会を始めてから、結構何回も飲み会をしています・・・(笑)。回を重ねる度に、この会のオモシロさが加速するのは何故でしょう・・・?このクラスメートの80%くらいが「市立木島保育所 → 木島小 → 貝塚三中」の10年間一緒のエリートコースです・・・(笑)。高校や大学と違って、故郷で過ごした幼少からの10年間の思い出がイッパイ詰まっている証拠なんでしょう・・・そして10年も一緒で、未だに多くが地元周辺に住んでいますので結束力が強いのでしょう。この辺が貝塚市が世界の大都市「OSAKA(大阪市)」の近郊の地方都市という大きなメリットです。大阪府の「ツートップ」の大企業や大学が集積する人口270万人の大阪市と84万人の堺市が車でも電車でも1時間圏内にあり、地元泉南エリアではアジアの玄関口である関西国際空港がありますので、仕事的には非常に恵まれており、安心して生まれ故郷で住めるのです。海(二色浜海水浴場)や山(葛城山)といった自然に恵まれて未だにダンジリ祭りや盆踊りが盛んで、大都市にも近いという日本一素晴らしい泉州の環境が多くの地元民を魅了するのでしょう・・・更に地震発生率の高い「上町断層」が、豊中市から大阪市内の上町台地の西の端を通り岸和田市にまで40㎞続いていますが、貝塚市の手前で切れているところがチョット救いです。という事で、来年2月にはミナミでクラスメートが経営しているレストランでプチクラス会が、そして11月のクラス会の幹事も決まりバスでの日帰り温泉旅行と言うことになりました。老人ホームと同じように、このクラス会もだんだん男子が少なくなったので、来年の幹事は男女ペアではなく、初めて女子2人がやってくれることになりました。これも残念ながら、現実に即した対応です・・・(笑)。まァ1年ぶりにみんなと会えて、楽しい時間のひとときを過ごしたのは言うまでもありません。にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2018.11.18
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昨日は大阪ミナミで、毎年恒例の鳳高校(27期)1年10組のクラス会でした。今回は14人参加で、初登場にIさんです。彼女とは卒業から実に44年ぶりの再会です。1年10組のクラスメートでまだ20人くらい44年も会っていない子がいますので、来年以降1人でも多く再会したいモノです・・・(涙)。メチャメチャ愉しいですよ・・・でも、時空を超えてあの時と同じように普通に喋っている私達が不思議です・・・たった1年間同じクラスだけだったのに、イロイロ青春の思い出が詰まっているんですねェ・・・(涙)。クラス会をやろうと思っても、当時の思い出を共有出来なければ(少なければ)、クラスメートは集まりませんしヤレルものではありません。幸い、小6と高1のクラスが仲良かったのが人生に潤いを与えてくれました・・・(涙)。人生、勉強だけではオモシロくない・・・のか?学年同窓会は人数が多すぎ、たまにしか開催されませんのでユックリと喋れませんが、クラス会は少人数でこじんまりとして毎年でも開催できますので中身の濃さが違います・・・そして最終学年の3年生と違って、1年生というのがイイでしょう。3年だと受験勉強で忙しいですが、1年は中学を卒業したばかりで皆初々しく好奇心旺盛でキョロキョロしていたように思います・・・(笑)。私なんか頭が丸坊主の貝塚の田舎モンで、堺ガールの洗練されたファッション(ロン毛と皮靴)とキレイな大阪弁に毎日ドキマキしていたものです・・・(笑)。しかしこのクラス会も、もう10回くらい続いているのでしょうか。この10年でみんなそれぞれイロイロあったようです。50歳から60歳の間ですから、子供の教育と結婚、孫の誕生、病気、勤務先の倒産や廃業、リストラ、左遷、国内外の転勤、転職、転業、単身赴任、定年退職、再就職、起業、親族と死別、親の介護、別居、離婚、再婚、家の新築やリフォーム・・・と人生イロイロありました。ブログに書けない事も一杯アルアル・・・(笑)。そりゃもう、FP的にも色んなライフイベントが目白押しです・・・(笑)。それを乗り越えたり、乗り越え中だったり、一休み中だったり、これからだったり・・・それが我々昭和31年生まれの61歳のリアルだと思うのです。最も直面した課題が親の介護問題です・・・両親とも健在というクラスメートは殆どなく、どちらが亡くなっているか両方とも亡くなっているか、今正に介護中だというのが殆どです。昨年3月末でサラリーマンは一旦「60歳定年退職」でした。このクラスから府立高校校長や2人の副市長経験者という公務員やサラリーマンもほぼ全員一旦現役を引退しましたが、東京から駆けつけてくれた某超一流大手企業の現役役員のクラスメートは、私共々まだまだ頑張らねば・・・と意思を確認。60歳を境に、更に大きく人生が変わるのを目のあたりにします・・・これが人生かと。30代や40代は60歳定年はまだまだ先の事だと思い、実感とはほど遠いモノだと思いますが、50歳になると5年後の55歳の役職定年をピークに年収が減り始め・・・そして「その先」がハッキリと見えてきます。考え方は人それぞれですが、49歳で織物業からトランクルームに転業してきた61歳にして思うことは、「50歳から手を打つ(行動する)」事の重要性です。打つか打たないかで、60歳定年以降の10年どころか、死ぬまで(日本人平均寿命:男81歳,女87歳)の20年間の人生が大きく変わると思います・・・60歳からの20年・・・長いですよ。60歳で継続雇用になって、仕事量がそのままで給料が半減・・・というのはよくある話です。問題はその本質です。敢えてブログに書きませんが・・・しかし、この20年間はホント大きいと思います。しかし今回も大いに盛り上がりました・・・私のテレビ出演(となりの人間国宝さん)でも盛り上がりました・・・(笑)。話のネタにされただけですが。しかしクラス会の堺在住の1人が、家の建て替えでちょうど近所でトランクルームを探していたところ、私のテレビを見て「多少離れていても、安くて安全なら借りたい」というオファーを頂きました。この1件だけでなく、テレビに出てから親戚や友人、町内や行く先々で「テレビ見たで・・・」の嵐が・・・(笑)。やはり、テレビの力は新聞よりスゴイと感じた次第です・・・目だけの新聞より、目と耳からのテレビの方がインパクトが強いのでしょう。という事で、小学校のクラス会もそうですが、今回も少人数のクラス会の連絡は幹事さんの負担を減らすために基本的にグループLINEでした。これまで一々往復はがきで返事をしていたのですが、LINEで一発です。これで幹事さんの負担激減です。どこの会の幹事さんの責任とプレッシャーというのは相当なモノですから・・・まァ、便利な世の中になったモノです。スマホで写真を撮ってグループLINEに投稿すれば、一瞬にしてみんなで共有できますから。しかし、一昨日は先月生まれた4人目の孫のお宮参りに地元貝塚の感田神社へ行った後貝塚新地の料亭「この木」で夕方までお祝いの宴会、昨日は早朝から仕事を片付けその後孫の保育園の学芸会に駆けつけビデオを撮り、昼から先月生まれた孫のお祝いに新婚の甥や姪が新しい配偶者のお披露目を兼ねて駆けつけてくれ、ワイワイ楽しんでいるのも束の間、その後すぐに電車に飛び乗ってミナミへクラス会・・・と目まぐるしい2日間でした(笑)。昨日はカシスオレンジが合うのかビール2,3杯のあと10杯ほど呑んでほろ酔いで最終電車で帰っても、日曜の朝はキチンといつもの「ゲンキの時間」「がっちりマンデー」「報道2001」を見ているのでした・・・(笑)。イヤ、ヘパリーゼが効いたのか?にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2018.02.11
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昨日は、毎年恒例の木島小学校6年3組(昭和43年卒)のクラス会が岸和田城近くの料亭「五風荘」で行われました。11時半スタートで1次会が始まり、2次会はカラオケまねきねこ、3次会は貝塚駅前のジャズバースポット、4次会は大阪庄や・・・帰りは水間線終電近くなり、いつものように約12時間も楽しいクラス会が続きました・・・(笑)。朝型の私は、後半眠くて眠くて・・・(笑)。それでも、今朝は6時半に起床し仕事です。しかし、小学校のクラス会は楽しさ格別です・・・だいたい、木島保育所 → 木島小学校 → 第三中学校のエリートコースで10年間一緒でした・・・(笑)。今回も東京から三ツ松のD君が駆けつけてくれました。嬉しいじゃないですか・・・1泊2日で大阪まで来てくれるなんて・・・(涙)。彼は超大手企業の子会社役員をしていて、忙しいにも拘わらずほぼ毎回貝塚まで飛んでくるのです。この固く結ばれた6年3組の輪を今後も大事にしていきたいと思います・・・来年4月には大阪市内で不動産屋を営んでいるY君のレストランに、去年と同じようにみんな招待されています。なんやかやと、年に2,3回会ってますねェ・・・(笑)。来年の幹事は清児のO君と名越のIさんに決まりましたが、2020年東京オリンピックには、D君が幹事で東京新宿の泉州人が集まる居酒屋で1泊2日のクラス会をやろうという話も出ています・・・それまで、みんな元気でいようと・・・オモシロイですねェ・・・元気でいれば、いろんな話が次々と湧いてきます・・・(笑)。今回も〇〇君が、感極まって泣いていました。みんな茶化して、「おい!〇〇泣いたらアカンどォ・・・」と言うと・・・(笑)。彼に限らず、もう我々は涙もろい年になったものです。私も、娘の結婚式に号泣しましたし・・・(笑)。という事で、去年還暦を迎えましたが、これからも「元気な年寄り」でいるために、こんな会にもちょくちょく顔を出して、ストレス発散し刺激を受けたいと思います。にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2017.11.19
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昨日は、毎年恒例の鳳高校1年10組(27期)のクラス会が大阪ミナミでありました。昨年1月の「還暦」学年同窓会の幹事クラスでしたので、今回は慰労会的な意味も含めてのクラス会でした。今回集まったのは12人プラス1人の計13人です。プラス1人というのは、集合時間前に高島屋でウロウロしていると、高校の同級生に偶然バッタリ出会ったからです。世間話をしていると、「ほな、一緒に行くけ?」となった訳です。クラス会といっても、他のクラスでも大歓迎・・・今回は、3時間飲み放題付きで3500円です。さすが、激戦区ミナミでの良心価格です。しかもチェーン店と違いますから、味もソコソコでコスパ最高でした。学年同窓会では人数が多すぎて余り喋れなかったですが、10数人のクラス会ならディープな話も出来ますので、その辺が何と言ってもオモシロいですねェ・・・今回の飲み会で、何でも4月22日に2年5組のクラス会がJR鳳駅前で盛大に行われるそうです。盛大というのは関東からの遠征組も含めて、クラス45人中、ナント23人も参加するようです。そして、鳳高校見学ツアーも事前にするようです。大正時代に建てられた懐かしの古い鉄筋コンクリート校舎も松林もなく昔と殆ど変っているようですが、一度見たいということでしょう・・・昨年の学年同窓会で盛り上がった結果だそうで、更に他のクラスから3人加え26人にもなるようです・・・クラス会で26人というのは多いですねェ・・・(驚)。我々1年10組も仲が良く、昨年の学年同窓会では23人も集合しましたが、それでも毎回クラス会では12,3人程度です。これを機に、私は2年1組でしたけど、そのクラス会に乱入したいと思います・・・(笑)。学年同窓会を機に、3年次だけでなく、2年次や1年次の時の各クラス会が活発化しているようで何よりです。それが結果として学年全体が仲良くまとまっているのでしょう。そういう意味で、学年同窓会の幹事クラスを引き受けるという事は大いに意義があるのでしょう・・・昨日はクラス会が大阪ミナミで夕方からでしたので、昼過ぎに家を出て岸和田駅前商店街にある前から行きたかった中古ギター店「OSAKAギターセンター」に行ってきました。ここのオーナーの山元さんは、知る人ぞ知る元ウインドサーファーです。レジェンドと言ってもイイくらいです。お会いするのも30数年ぶりでしょうか・・・なんせ、あの泉佐野にあった伝説のサーフィン&ウインドサーフィンショップ「シーアンドスカイ」のオーナーで、二色浜フリートを作ったひとですから。フリートというのは「愛好団体」というような意味で、昔のウインドサーファーは今の風を求めてビーチを渡り歩くというスタイルと違って、ひとつのビーチに固定して「〇〇フリート」と地名やビーチ名を付けて遊んでいたのです・・・私の所属していた泉南フリート、ヤマゲンさんの二色浜フリート、泉南から分家した西村さんの脇浜フリート、よくレースを一緒にしたレーサー鬼木さんで有名な和歌山フリート、加太フリート、漁師軍団の泉佐野フリート、阪神フリート、六甲おろしで鍛えられた甲子園フリート、淀川でメインゲレンデのみなみかぜフリート、琵琶湖蓬莱浜のパフィナスフリート・・・学生が中心の関東と違って関西でのウインドサーフィンの流行りかけの30数年前は、学生フリートではなく一般社会人の団体がウインドサーフィン業界を引っ張っていました・・・樽井浜がメインゲレンデだった私が所属していたのは「泉南フリート」で、泉南フリートを作ったYさん、Mさん、Tさんらといった私のウインドの師匠(先輩)とヤマゲンさんが仲の良い地元の同級生だった縁で、磯ノ浦のサーフィンの帰りにたまたまウインドを始められたそうです・・・そして、まだ二色浜にウインドサーフィンを誰もしていなかったのでフリートを作ったといった当時の歴史やエピソードをイロイロ聞かせて頂きました・・・懐かしさのあまり、チョッと涙が出そうになりました・・・ウインドサーフィンが下火になり店を閉め、その後ハワイ・マウイ島に移住し、帰国してからギター店を始めたという波乱万丈の人生に驚きました・・・60代半ばの今でも夏はサーフィンを楽しみ、同年代の人らとバンド活動されているようです・・・4つ年上の本家の四男坊が40年前に沖縄に移住し、レストランを経営しながら今でも好きなサーフィン三昧というライフスタイルと何故かダブります・・・正しく、これがオレの人生や・・・という感じで感銘を受けました。人生悔いの無いように「好きな事をする」というのは言葉が軽いですが、その裏に隠れた努力の存在を忘れてはいけません。今年から心機一転、ウインドサーフィン用のニューボードを注文しました。今所有しているスラローム用の「2008年ファナティック・ファルコン104」は私にとってスピードが出過ぎるので、もっとマイルドでスピードはスラロームほど出ませんが、ジャイブのし易い(回転性の高い)フリーライド用の「2017年スターボード・FUTURA117」に買い替えるのです。ボードの買い替えは8年ぶりです。これだとボリュームも少し大きいですし、幅も10cm広く面浮力があり、沖で沈しても安心です・・・(笑)。10年で体力も落ちていますし、長年の課題であったジャイブとウオータースタートの練習がよりできるかなァ・・・自分の体力とテクニックに合った道具をベストチョイスするのが、残り少ない?ウインドライフをより充実させるために必須なのです。このウインドをする為に金も時間もかかります・・・しかし、それがあるからこそ仕事も頑張れるのだと思うのです・・・このボードに注文が殺到しているようで、納期が5~6月ですが楽しみです・・・しかし不思議と、ウインドサーフィンとミュージシャンというのは何故か?「繋がっている」ような気がします・・・周りのウインドサーファーを見ても、音楽をヤッテいる人の多いコト、多いコト・・・海と音楽が密接な関係があるのでしょうか・・・風待ちでビーチで休憩している時は、確かにBGMを聴いています・・・自然の中にいる時は、そのシチュエーションに合った音楽を聴くと心の底からリラックス出来ます・・・そして、帰りに店にスタジオのフライヤーを置いて頂きました。「宣伝しとくよ・・・」には心強い手ごたえを感じました・・・ヤマゲンさんは中古楽器販売と修理で、私はリハスタで泉州の音楽文化を微力ながら裏から支えようと・・・という事で、旧知のヤマゲンさんに30数年ぶりに会い、楽しい時間があっと言う間に過ぎた後ミナミに向かった訳ですが、せっかく大阪市内に行くのですから、いつもの様にミナミをウロウロしました・・・(笑)。日本第2の都市OSAKAの「今」を感じるのです・・・やはり、何処へ行っても中国人で溢れかえり、まるで正月のミナミのようでした。政治とは正反対で、一般の中国人は日本がよっぽど好きなんですねェ・・・(笑)。難波駅から心斎橋周辺からアメ村一帯まで歩き回り、途中アメ村のバーで生ビールを1杯飲んでチョッとリラックス・・・人の流れや店の移り変わりに躍動のミナミを感じます・・・もう五感は知らぬ間に、不動産屋目線になっています・・・(笑)。そして、高島屋でウロウロしているところを例の同級生と遭遇したのでした・・・しかし高1と言えばまだあどけなかった15歳、今は孫もチラホラいる熟年の60歳・・・45年前と同じメンバーと同じ空気を吸っているというのが何とも不思議ですねェ・・・そして、今回からクラス会の案内はハガキを止めて、ライングループでメールのやり取りをしていますので、幹事さんの負担が大幅に減ったところがポイントです。やはり今の世の中ITでも活用しないと、こういうのってなかなか続けられませんからねェ・・・ にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2017.03.12
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昨日は貝塚市堤の「たから寿司」さんで、毎年恒例の木島小学校6年3組のクラス会でした。2週連続の同窓会でも疲れません・・・(笑)。どちらも「還暦」同窓会ですが、まだまだ若い者には負けません・・・(笑)。今年も関東からD君が駆けつけてくれました。彼はJR東日本の関連会社の役員をされていて、多忙にも拘わらずこの日も3次会まで付き合ってくれました。毎年の事ですが11:30から始まり、3次会のお開きは22:00ですから、相当長い時間をワイワイ騒いで楽しく過ごしました・・・食べて呑んで、喋って騒いで、歌って踊って、2次会は弊社スタジオ、3次会はカラオケへ・・・かなり密度の濃い充実した時を過ごしたのです・・・やはり多くは、小学校6年間だけでなく、その前の木島保育所1,2年と、その後の貝塚三中の3年間と10年も一緒に過ごせば、楽しくないはずはありません・・・もうこんな事も早いもので、4年も続けています。今年は担任の藤田先生も90歳の御高齢で、残念ながら出席できませんでした。そして、この日は奇しくも先生の90歳の誕生日でしたので、みんなで色紙を書いて渡すようにしました。しかし、クラス会はイイものですねェ・・・高校のクラス会も毎年やっていますが、人数的に10~20人というのは継続するのは、ちょうどイイ感じです。これが学年となると、3~10倍に増えますので、一筋縄ではいきません・・・幹事が大変になり、目的が同級生を集める事になってしまい、本来の目的である「同級生との語らい」が、ないがしろになってしまいそうです・・・先週の学年同窓会もそうでしたが、物理的に百人とジックリ話すのは無理です。今年のクラス会は私がスタジオを始めたという事もあり、2次会はスタジオを無料で使ってもらう事にしました。元々22畳と広いので、音楽スタジオだけでなく、ダンスやパーティにも使ってもらう事を想定していました。スタジオではスマホのカラオケアプリでカラオケもしましたが、メインはドラムです。私以外、全員ドラムは生まれて初めてです。そりゃ、そうでしょう・・・音楽に合わせて簡単な叩き方を教えてやると、みんな結構楽しんでいました・・・ドラムを叩けばストレス発散になり、スッとします。こんなところにも、ドラムの効用があったのです。スタジオでまた呑んで食べて喋って、ドラム叩いて歌って踊って・・・そして3次会は市内のカラオケ店へ・・・いつもはカラオケ店で喋ってばかりいますが、今回は珍しくカラオケ大会です・・・(笑)。ここで3時間歌いっぱなしです・・・そして、お開き。前半スピードが早くなってしまい、1次会で完全にデキあがってしまいました・・・(笑)。やはり老体の事を考えると、もう無理は出来ませんので、2次会はペースダウンし、3次会ではアイスカフェオーレ1杯だけでした・・・(笑)。もう歳には勝てません。明日の事を考えると、ホドホドが一番なんです・・・ワァーワァー、テキトーに騒いでストレス発散デキれば、明日からの生きる意欲に繋がります。まァ完全に飲食のコントロール出来たお蔭で二日酔いもなく、今日は朝一番から気分スッキリ、仕事もはかどります。という事で、やっぱりクラス会というか、同じ時代の空気を吸った同級生同士の語らいは、ヤッパ楽しいなァ・・・(涙)。この「同じ吸気を吸った」というのがポイントで、趣味のウインドサーフィンや空手の仲間との語らいも、また格別です・・・スタジオを始めて一緒にドラムを40年ぶりに再開しましたが、新たに加わりそうな「ドラム仲間」との忘年会も楽しみです・・・ウインドサーフィン、空手、ドラム・・・と、結局20代に経験したモノに戻ってしまいました・・・(笑)。過去40年多少イロンナ事を経験しましたが、最終的には「本当に好きなモノ」に還ってきたという事か?20代半ばで結婚してから仕事を一生懸命し過ぎ、趣味や遊びがそれほど色々とデキなかったというのもありますが・・・中途半端に同じ事を長いことしてるなァ・・・「もっと、新しい事にチャレンジせんか!」と笑われそうですが・・・(笑)。まァしかし上手下手は別にして、この歳になっても仕事以外に自分が「本当に好きなモノ」があるという幸せを感じますねェ・・・(涙)。 >にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2016.11.20
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昨日はアゴーラリージェンシー堺で、鳳高校27期の「還暦同窓会」でした。我々1年10組が初めて幹事クラスとなり、何回も入念に準備をしたお蔭で、盛大かつ非常に楽しい同窓会となりました・・・(涙)。学年同窓会としては今回3回目で、これまで来れなかった人や新たに住所判明した人などの参加で、前回同様の約140名ほど集まりました。27期のホームページがある事によって、だいぶ集客に役立っているようです。また、私のこの拙いブログも多少なりともそれに役立っているのも、自分的にはチト嬉しいですねェ・・・今回の会場のテーブルは、1年のクラス別です。前回は1年のテーブルにして、途中から2年に変えて移動する形式にしましたが、結構混雑しますし、3年は文系理系別で理系に男子が集中しすぎたので、一番楽しかった1年次という事に落ち着いたのでしょう・・・テーブルを回っていると、結構「ブログ見てるでェ・・・」と同級生から直接言われると、恥ずかしい面もあります。途中、高校時代を思い出してフォークダンスを全員で会場を囲んでやりましたが、大いに盛り上がりましたねえ・・・若い人から見たら、チョッと気持ち悪い光景かもしれませんが、本人らにとって懐かしい青春を思い出しているのです・・・(笑)。女子が人数で上回っていましたので、余った女子が少し気の毒のように思いましたが、健康寿命と平均寿命を考えると、還暦のこれから増々男子が減り、女子が本領を発揮し増々しぶとく生き残っていくでしょう・・・(笑)。しかし、不思議ですねェ・・・同級生というだけで、喋った事もない、顔しか知らない、同じ組にもなった事の無いのに、思い出話で大いに盛り上がったりするのです・・・どういう事なんでしょう?その時の同じ「空気」を共有していたというだけで、不思議な絆が生まれているんでしょうか?女子から「あの時、笹谷君ともっと喋っていればヨカッタ・・・」なんて話されると、もっと積極的に女子と喋っておけばよかったと後悔しますねェ・・・(笑)。昔は、考えられない?ほどウブで、シャイだったのです・・・(笑)。当時はこっちも、丸坊主の中学生からいきなり堺にある都会?の高校に放り込まれた感じで、長らくショック状態だったというのが正直なところです・・・(涙)。言葉も文化も少し違う、「自分は田舎者か?」という劣等感みたいなモノが常に付きまとっていました・・・極めつけは、女子から「どこから通っているの?」という質問に、貝塚とは言えず「岸和田の方からや・・」と見栄?を張った自分が悲しかったですねェ・・・(笑)。当時堺の人間からすると、南の方は岸和田くらいまでは知っているけど、それより南の方は「あまり分からない」という認識だったのです・・・高3時の鳳高祭で、誠団の太鼓担当だったのですが、私が叩くのを見て「さすがだんじりの本場岸和田やなァ・・」と言われましたが、「イヤ、貝塚なんや・・・」と言い返す事がデキなかった自分が情けなかったですねえ・・・(笑)。まァ、そんな屈折?した思春期の心理だったので、ロン毛で革靴を履いて泉州弁とは違う大阪弁を喋る堺のシティガール(貝塚三中女子はロング禁止)と入学当初は喋れる訳もありませんでした・・・(笑)。その反動で、昨日は当時美人で名高かった女の子と当時は喋った事もありませんでしたが、美熟女となった彼女達と軒並みシャベリ倒しました・・・(笑)。食事を取るのも忘れ、あれだけ喋り倒しても美熟女が多すぎて、まだまだ時間が足りません・・・(笑)。女子だけでなく男子も42年ぶりで懐かしい面々にお会いしましたが、これを機に個別のクラス会でユックリ話したいと思います・・・ブログやフェイスブックをやっていたせいで、相手はこちらの事をある程度知っていたのも、会話をスムーズに運べたのかもしれません・・・27期ホームページの集客力もそうですが、ITの力、恐るべし!これが、時代の流れなんでしょう・・・今回、着物姿の熟女が4人いて、何かイイ感じでイロっぽかったです・・・やはり、日本女性には着物姿が似合いますねェ・・・男子は今年60歳定年で、多くの同級生は一応仕事に一区切り出来た年でもありますので、アチコチでクラス会の話で盛り上がっているようです。既に女子が多かった3年次の文系クラスでは、クラス会が活発に行われているようですが、私の理系は殆ど男子ですのでこれまでクラス会は一度もなかったのですが、女子が多いクラスと「合同クラス会(合コン)」しようかという話で盛り上がっています・・・(笑)。理系のオッサン(ジジイ)だけのクラス会をしても、オモロないという事です。そうやってアチコチでクラス会が活発になると、次回学年同窓会(3年後?5年後?)までに、学年全体かなり熟成して、同窓会も肉のように更に美味さ(良さ)が増すでしょう・・・(笑)。今回2次会は特に用意してなかったのですが、ホテル地階の居酒屋に一部流れ込みましたが、後から1次会に行けなかった人や色んなグループがドンドン流れ込んできて、部屋がヒトでヒトで大変な事になり、ここでも大いに盛り上がったのです・・・という事で、先輩や後輩で我々のようにここまで仲の良い学年はないようで、羨ましがれそうです・・・受験を控えた高3の鳳高祭で、我々高3が団結して後輩たちを引っ張っていき、一番楽しんでいた記憶があります。受験勉強をしないといけない秋なのに・・・受験を犠牲?にしてまで、二度とない青春を楽しむ・・・これが、60になってもみんな仲の良い原因なのか・・・ にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2016.11.13
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昨日はミナミ難波で、45年ぶりに鳳高校時代生物を習った恩師とお会いしました・・・(涙)。来週の学年同窓会には出れないという事で、その前に会おうという事で再会したのです。と言うのは、恩師の城田安幸先生は長らく弘前大学農学部で准教授をされて拠点も青森県だった為、今回たまたま沖縄に所用に行ったついでに大阪に一時帰って来られたのです。大学退官後も自ら「株式会社 医果同源りんご機能研究所」起業されたようで、多忙を極めまた直ぐに青森に帰らなくてはならないとの事で、学年同窓会には出れないようでした。城田先生と高島屋で待ち合わせ、オリエンタルホテルのパブHUBに行くまでの間、千日前の路上で偶然にも読売テレビの取材を受けました。先生の赤の半袖アロハとバンダナが目立っていたんでしょうねェ・・・(笑)。それにしても、70近い先生は元気です。元気がなにより・・・先生から元気を貰えます・・・しかし、この城田先生は我々1年10組と2組しか生物を教えていないのです。他のクラスは別の先生で、しかも城田先生は非常勤講師だったのです。もっと具体的に言えば、当時先生は大阪府大農学部の大学院生(博士課程)だったのです。まァ、大学院で学びながらアルバイトで高校生に生物を教えていたというのが実際のところでしょう。しかし、何で?たった1年しか習っていなくて、しかも殆ど大学受験に関係のない生物で、それも常勤の先生ではなくてアルバイトの先生なのか?一言で言うと、先生の授業はオモシロく印象に残っていたという事です。授業ウンヌン成績ウンヌンと言うより、チョッと大袈裟に言えばクラスメート全員のその後の人生に与えた影響が大きかったのです・・・単なる高校教師という枠組みを超え、人生の何たるかを伝えようとし、我々高校生もそれに共感しキャッチしたのか・・・本来の教育とはそういうものだと思いますが・・・まァ、それほど先生のインパクトが大きく、我々1年10組が割りとまとまっているのも、感動した授業を一緒に受けた事が大きいと思います・・・授業中よく脱線し、先生のこれまでの体験談や人生に関する雑談が多かったですねェ・・・確か最後の授業のテーマは直接生物とは関係のない「人生とは?」だったと思います。みんな当時テレビで流行っていた学園ドラマ風に、感動で泣きました・・・先生も・・・昨日の事のように思い出します・・・(涙)。その中で印象的だった「棺桶に入る時に、俺の人生はヨカッタ・・・と言えるように・・・」という言葉がずっと頭にの何処かに残っていたのも、スタジオを始めたキッカケかもしれません・・・もう60歳、このままだと人生悔いが残る・・・ならば、前々からヤリタかった音楽スタジオを是が非でもヤロウ!・・・となった訳です。少々の反対や抵抗も吸収できるように資金面で誰にも迷惑のかからないように(無借金)、何年もかけて着々と準備を進めてきました・・・確か1年10組は校内テストで上位50番に入る者は(450人中)、いつも1人いるかいないかというくらいクラス全体のレベルが最低だったように思いますが、私の知っているだけでもクラスで下位の者が府立高校の現役校長だったり、副市長経験者に2人、上場企業の役員(経験者含め)の2人・・・と、クラスの中だけでも結構社会人になって活躍している者が多いのに驚かされます・・・???これを見ても学業と実社会での出世?とは、それほど因果関係が密接ではないような気がします・・・まァ、そんな感じの半袖アロハで独特のオーラを持った先生にテレビ取材班が食いついたのも、自然な事かもしれません・・・実はこの先生、これまでイロンナ場面で全国のマスコミを賑わせてこられました。一番驚き、久しぶりに先生の存在を「発見」したのが、1998年長野冬季オリンピックでリンゴの繊維を使ったリサイクル可能な食器を使用するという先生の新聞記事を見た時でした。 リンゴジュースを製造する過程で出てくる搾りかすをパルプと混ぜて紙製の皿を作るもので、使用後は再生紙の原料や肥料、固形熱量として再利用でき、洗浄の必要がなくなることからも省資源・自然保護につながり、経費の面でも陶器製食器を使うよりは割安になるという内容でした。我々ともう一学年下のたった2年だけ高校教師をして、その後は学問に専念すると仰られていましたので、「城田先生、言ったとおり頑張っているんやなァ・・・」と感激したものです・・・この上が下に身をもって手本を示すというのも私の主義の一つになっていますが、これも知らず知らずの内に見習っていたのか・・・?自分が実際見本を見せないと、人は信用しないと・・・口先だけでは誰もついてこない。先生はその後、NHKテレビ番組にも専門分野で長年関わられたようです。先生は多感な高校生だった私達に言った通りの人生を歩まれていたのです・・・(涙)。しかし、先生の授業は何故か印象によく残っています・・・45年前当時から生物の授業で「エコロジー、エコロジー・・・」と、今から思えば高度成長期のイケイケドンドンの時代に反する?事をよく堂々と仰っていたのだなァ・・・と感心します。いくつかのグループに分かれて、「しょうじょうバエ」を飼って交配実験をしたり、餌をやり忘れてハエが死んでしまったグループが先生から雷を落とされたり・・・今はごく普通にある「高校生の大学訪問」も、当時先生(大学院生)の大阪府大での講義をみんなで聴きに行ったものです。高校生が大学の授業を受けるなんて、想像外です・・・こんな事がデキるのか?と。この間まで中学生だったのに、いきなり大学生の仲間に・・・(驚)。既成概念を打ち破るという発想を、知らず知らずのうちに意識下に沈着させたのか・・・府大の階段大教室の一角を我々高校生が占めて「シロタ先生~!」という黄色い声援に、大学生たちから奇異の目で見られた事が忘れられません。生物の授業も変わっていましたが、受験勉強に関係のない美術の先生の授業もチョッと変わっていました・・・小中学校図画工作の成績だけは、ずっとクラスで1,2番の5でした。それが高校生になってから、いきなり3に落ちたのです。このショックは相当なものです。授業内容は油絵の抽象画です。これまで具象画ばかりで自信満々だったのが、空想の絵を描けと言われたとたん、頭の中がカラッポだったのを露呈したのです・・・絵は小手先ではなく、ココロで描けという事か・・・絵は美術室に籠って描くだけではなく、頭をリフレッシュして広い校庭の何処でもキャンバスを持って行ってヨシという方針で、1学期に1回有名美術館巡りが必須でした。松林のベンチで昼寝していると、就業ベルを聞いて走っても広すぎて遅れそうになりました・・・(笑)。有名な絵を見ていると「ココロが奪われる、吸い込まれる・・・」というのを体感しました。60過ぎで初めて絵を見ても、あまり感動する事もないと思いますが、多感なハイティーン時代こそ、音楽や美術といった芸術に触れる大切さを学んだような気がします・・・高校では最初ラグビー部に入りましたが、その後オーケストラ部に入り直し、芸術は音楽ではなく美術を選択してヨカッタと思います・・・その美術の先生も、その後大学教授になられたと聞いています。やはり、学問を追求している本当に「偉い先生」というのは、文部省や受験に関係なく生徒の人生に影響を与え出世するのでしょう・・・当時の鳳は前年まで学園紛争が吹き荒れ、我々が入学した年から前年と打って変わって自由な雰囲気が満ち溢れていました・・・ヘルメットにゲバ棒を持って暴れた代償として、自由を勝ち取ったのでしょうか・・・中学までは丸坊主で厳しい校則でしたので、その自由に戸惑い、堺の同級生らの文化や言葉や情報の違いにカルチャーショックを受けたものです・・・(笑)。それ程昔は、同じ南大阪(泉州)でも、泉南エリアと泉北エリアはイロンナ面で違っていたのです・・・まだまだ情報化社会では無かった45年前は、エリアによって格差があっただけの事です・・・人生を振り返ると、節目節目で大きなショックや挫折がいくつかあるものですが、これを「自力」で何とか乗り越える事によって、本当の意味で「成長」というのがあるんですねェ・・・少し横道にそれましたが、そんな城田先生と私との接点はフェイスブックでした。確か、数年前に私がFB上でたまたま城田先生を「発見」して直ぐに友達申請をしました。しかし、全く返答もないまま、1年くらい過ぎた頃にやっと返事があり、それからFB上でイロイロとやり取りをしていたのです。それが、今回の再会に繋がった訳です。そういう意味で、フェイスブックの意義はスゴイと思います。FBがなければ、繋がる術がなかったのですから・・・という事で、昨日は外国人観光客の実態をこの目で確かめたいという想いから、待ち合わせ2時間前に難波駅の手前の新今宮駅で降りて、新世界~日本橋~黒門市場辺りをウロウロしてから先生と私と女子の3人で会い、懐かしの授業の思い出話や先生の過去から現在までのストーリーをパソコンで見ながら、本当に楽しい時間を過ごしました・・・これまでも何回もお呼びしましたが中々実現できなかった毎年行っている1年10組のクラス会にも、来年こそ是非城田先生に来て頂きたいと思います。今回テレビ取材を受けた訳ですが、12月24日(土)読売テレビ「土曜はダメよ!」の(クイズ!さんたくろう)で放映されるようです。 にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2016.11.04
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先日大阪市内のドラム専門店にスタジオの営業に行った帰りに、ホテルアゴーラリージェンシー堺で11月12日に開催される「鳳高校27期学年同窓会(還暦)」の第5回幹事会でした。今回は現地ホテルでの担当スタッフとの打ち合わせでした。あと1ヶ月切りました・・・1年10組のクラス会は毎年やっていますが、学年同窓会は過去9年で今回3回目です。今回の幹事クラスは1年10組です。という事は、今年に入ってもう5回もクラス会をやっているようなものです・・・(笑)。いずれにしても、芯になってやって頂いているのは女子?です。男子?は私も含めて未だ仕事をやっているので、なかなかお手伝いできなくて女子に対して申し訳ないと思っているのです・・・同窓会やクラス会が出来るのも共学校のメリットでしょうねェ・・・その証拠に、3年次は殆ど男子ばかりの理系クラスでしたので、クラス会のクの字も出ません・・・(笑)。我々27期は何故か?仲が良く、受験そっちのけ?で高3の鳳高祭は我々が先頭に立って異常に盛り上がり、後輩たちから仲が良いと羨ましがられたものです・・・(笑)。何なんでしょうね?大阪府立高校の5学区制の最後の年で(翌年から9学区制)、大和川近辺から岬町まで文字通り泉州一円から多種多様な生徒が集まっていて、入学前年まで学園紛争が激しく、その反動で我々が入学後は校内に自由が溢れていたからか・・・?今回の出席者予定数は130名程になるようです。卒業者数が450名でしたので、約3分の1か・・・9年前の第1回学年同窓会から段々減っていっていますが、仕方のない事でしょう・・・クラス会と違って学年同窓会となると準備が大変なので、将来的には最近流行の同窓会業者に任せるかしないと、継続は難しいかもしれません・・・そうなると、本来の同窓会の「手作り感」が無くなってしまうので、オモシロくなくなってしまいます。あくまで我々自身の手で同窓会を作っていくのが本意でしょうし、これから段々少なくなってきたら会場もコンパクトに出来ますし、今後余裕も出来てきますので、開催が2,3年毎とか決まっていれば、それなりにオモシロい企画も準備できます。出来れば80歳くらいまで学年同窓会が出来ればオモシロいと思います。私は100歳は無理ですが、90歳くらいなら何とか参加するつもりです・・・(笑)。学年同窓会は大げさですが、クラス会ならいつまでも、2,3人になってもやれそうです・・・1年10組のクラス会は毎年やっていますし、おそらく最後のひとりになるまでやるでしょう。木島小学校のクラス会も、3年ほど前から頻繁にやっています。オモシロい事に、ハガキ連絡は一切せず、手分けして電話連絡なのです。懐かしの同級生の声を直接聞くと、不思議と行きたくなるものです。これだと、幹事さんはハガキを出すより負担が少ないので継続しやすのです・・・みんな近いのでクラス全体は毎年1回で、今年も高校同窓会の翌週にありますが、その中の気の合った数人でもよく集まります。これも1年10組と同じように、「死ぬまでやろうよ・・・」と言ってます・・・(笑)。しかし、15歳で高校入学してから45年経って、今年60歳。もちろん、亡くなった同級生もいますが、日本人平均寿命からすると、あと2,30年は生きる計算になります。この余命を長いと考えるか短いと考えるか・・・男子の多くは今年60歳定年で、一応サラリーマンとしての「区切り」がつきます。法律上は65歳まで雇用保証されますが、一体どうなんでしょうね?私みたいに自分で商売を営んでいる者にとって60歳は単なる通過点ですが、将来的に不安が全くないと言えばウソになります。一番の心配は病気でしょうねェ・・・「100歳まで生きる(生きたい)!」と言っても、病気には勝てません。特に私はこれまで一度も入院経験が無く、身体的には健康に絶対的な自信を持っているだけに、もしガン宣告を受ければ、その場で倒れこむでしょう・・・(笑)。健康なだけに、打たれ弱いのです・・・今は高血圧の薬だけ飲んでいますが、これもあと体重を5キロ落として、何とか飲まなくてもイイようにしたいものです。頸椎症は生活習慣で少しマシになってきたように思いますので、来年から8カ月ぶりにボチボチ空手を再開したいと思います。師範から「口だけの指導からでイイよ・・・」と言われましたので、空手指導員として先ずは口の運動からリスタートです・・・(笑)。毎朝15分のストレッチは欠かしていませんので、170度開脚で頭がペタンと地面につきますので、まだ上段回し蹴りくらいは出来るはずです・・・(笑)。ただ心配なのは、パワーとスタミナが長期運動していませんので、確実に落ちているところです。せっかくスタミナ養成の為に買ったクロスバイクも、振動や首を反らさないといけませんので頸椎症には悪くて乗れません・・・(涙)。来年あたり、スタジオの横の階段下のスペースにオールインワンの筋トレマシンを買ってボチボチ身体全体のパワー養成をし、サンドバッグで様子を見ながらボチボチとスタミナ養成・・・いやいや、その前に拳立て伏せを・・・形の「平安」1~5、ナイハンチ、バッサイダイの復習ならスタジオでも出来ますし、軽めの運動量なのでリハビリにもってこいかも・・・なんて、妄想をしている今日この頃です・・・(笑)。同じくウインドサーフィンも今年は頸椎症の為、用心して国内では一度もしませんでした。来春は体力と技量に合わせて、今のスピードが出過ぎるスラローム用のファナティック・ファルコン104から、よりマイルドで大きく安定感のあるフリーライド用のスターボード・アトム114に買い替えようか悩んでいるところで、出来れば気分一新、長年の課題であったジャイブに再チャレンジしたいところです・・・最近SUPが流行っているようですが、セイル付きの「ウインドSUP」もあるようで、もっと性能が良くなって風のない時はSUP、チョッと風が出てきたらプレーニングも出来るウインドサーフィンなら、孫にも海(自然)の素晴らしさを教えたいですねェ・・・大阪湾でも出来ますが、娘らともよく行った綺麗な和歌山のシークレットビーチで、タンデムなんかで一緒に乗ったら楽しいでしょうねェ・・・綺麗なんで、スノーケリングや釣りも・・・出来ればサーファー艇のようなレイルライドが出来れば、ジイジの点数がアップ間違い無し・・・(笑)。まァ、ジイジに出来る事は、そんな事しかないのですが・・・(涙)。ドラムは今最も熱心に取り組んでいる趣味です。そりゃ、スタジオを営んでいますので毎日叩けます。殆んど100%のドラマーが自宅で練習できませんので、この「差」を活かさない手はありません。約40年ぶりのブランクを早急に埋めるべく、スタジオ契約しているドラム講師に月に何回か教えて頂き、毎日ドラミングの自己練に励んでいるのです・・・そして、1,2年以内にどこかの7,80年代洋楽ハードロック系がメインのオヤジバンドに加入し、ライブ経験を積み重ねる・・・ナンテいうのが当面の課題です。もちろん孫娘にも、スタジオを通じて音楽とダンスの楽しみを出来れば伝えたいですねェ・・・そんな事で彼女らが幸せになってくれれば、ジジイは安心して天国?へ行けます・・・(笑)。という事で、60歳の今、最大の関心事は当たり前ですが「健康」です。健康でないと、仕事も遊びも出来ません。子供の頃からあれほど自信のあった歯が最近急速に悪化しています。3週間前から虫歯予防の基本中の基本である「歯磨き」を、1日2回から「1日3回+ウオーターピック2回」に増やしました。つい10数年前まで1日1回だったんですが・・・(笑)。しかしこれを実践する事によって、ソコソコ改善しました。20年間花粉症に悩んでいたのも、2年前に「朝食抜きダイエット(1日2食)」でほぼ完治しました。「やれる事はすべてヤロウ!」精神で、仕事もプライベートも乗り切っていきたいと思います。特に今最も力を入れているのが、リハーサル音楽スタジオ「スタジオ0724」です。2月はプレオープンで1か月無料開放をして3月にグランドオープンし、7か月半が過ぎて会員数も200人を突破し、割と順調な滑りだしでホッとしているところです・・・このジワジワ増えている感じがイイんですねェ・・・地味な努力の積み重ねが、結果として自分の脳にジワジワと伝わってくる感覚が・・・何でも急に増えたりすると、原因がサッパリわかりませんので、急減しても対処のしようがありません。まァ、音楽で多くの人が幸せになってくれれば・・・と。そういう意味で、今はヤル気満々!今までの仕事で20年間のエアージェット織機(織物時代)や10年間のトランクルームも「本気」でしたが、それ以上に気合が入っています。60歳になって益々ヤル気が出てきたというのもヘンな話ですが、これまでやってきた織物業のような肉体労働なら無理ですが、ちょうど今の仕事が心身のコンディションがベクトル的にピッタリ合ったのか・・・やはり、音楽が好きだから(ダンスも)。それ以外に理由が見つかりません。好きな事が仕事・・・これ以上の事はありません。スタジオ経営はオモシロいし、何と言っても楽しい・・・色んなジャンルのミュージシャン(ダンサー)と知り合い、お客さんは中学生から60代のシニアまで老若男女で幅広く、毎日刺激を受けています・・・しかも、場合によっては生演奏(ダンス)が目の前で聴ける(見れる)のです。これって、感動以外何もでもありません・・・正に、経営者冥利に尽きます。逆にこっちが金を払ってもイイくらいです・・・(笑)。音楽と言っても私はプロミュージシャンではありません。あくまで私はアマチュアプレーヤーで、インフラ側の人間です。音楽的素養(芸術家)はありませんが、商売人という事です。それでイイんです・・・それが私ですから。3人娘も嫁ぎ、核家族一歩手前の家内と2人家族です・・・(寂)。家内は近くに住んでいる娘ファミリーらとワーワーやっていますが、一人取り残された私にはもう仕事しかありません・・・(笑)。いや、スタジオは仕事ではありませんねェ・・・半分趣味の世界です。儲け度外視?して、充実した設備を付けた22畳もあるスタジオを1部屋1時間1500円と大阪最安値に設定しました(1人利用は500円)。大手企業の下請け織物業の長年営んできた結果、「高品質低価格」が身に沁みた結果か・・・(笑)。まァ、ロングスパンで考えたらトントンであればイイ・・・トランクルームや不動産屋に波及効果が得られれば、それでOK!鳳高校27期同窓会ホームページ にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2016.10.21
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ハイティーンから20代前半(高校大学)あたりで影響を受けたモノは一生を支配する・・・なんて、大袈裟ですが、私の場合当たっています・・・(笑)。空手を始めるきっかけは、もちろん高校時代に流行った映画「燃えよドラゴン」の主演ブルース・リーです。そして、フルコンタクト空手の極真会の創始者大山倍達です。大山倍達に心酔し、彼の著書を全て読破しました。残念ながら当時大阪には未だ極真会の支部が無かったので、家から通える関西外大の体育会古武道部(林派糸東流)で空手を始める事にしました。しかしその後、親父の心臓病の手術で家業を今まで以上に手伝わなくてはならなかったので、途中で退部して地元貝塚の沖縄本部流盛道館(現・本部流盛道派)に転向したのです。「ブルース・リー」ブームの数年前の小学生の頃に、日本でキックボクシングブームというのがあり、毎週キックボクシングの実況テレビ中継があり、日本の剛柔流空手出身の「沢村忠」がスーパースターであり、タイのムエタイ選手らとエキサイティングな試合をして日本中熱狂していたものです・・・その沢村忠を題材にした「キックの鬼」というアニメもテレビで放映していましたので、小中高生も熱心に見ていたという「下地」もあったのです。まァちょうど、沖縄空手と並行してウインドサーフィンを始めました。元々昔、地元二色浜海水浴場の北隣の脇の浜(現・二色コスタミラあたり)でシングルハンダーのヨットをしたかったのです。家から近かったし、サーフィン全盛の頃でしたが、「みんなと同じ事をしたくない!」という意味もあって、「ヨット・・・オモロそうやな、女にもモテるやろ・・・」なんてミーハーな気持ちで、岸和田の岸田スポーツでヤマハのシーホッパーのローンを組んだのです。この持って生まれた「みんなと同じ事はイヤだ!」という私の性分は、ビジネスには向いていると思います。なぜなら「みんなと同じことをしたい!」「異端児はイヤだ!」では商売になりませんから・・・(笑)。日本の公教育や受験体制では実社会とは違う「ひとつの答えを導き出す」のを主眼としていますから、オリジナル発想が生まれにくいのは仕方のない事ですが・・・ビジネスにはニュービジネスやニッチマーケットを見つけるのが何より大事ですから、若い頃から集団行動(スポーツ)に慣れ親しむのはかえって邪魔な場合が多いのです・・・「一匹狼」的で誰にも毒されない感覚や嗅覚、覚悟が経営者には必要なのです。ちょうどそんな頃、サンケイ新聞の泉州版に「若者のニュースポーツ!ウインドサーフィン体験スクール」なる記事が目に飛び込んできたのです。「ヨットみたいで、オモロそうやな!」とピンときて、早速その週の日曜日に樽井浜へ行ったのがウインド人生の始まりでした。ヤッテみると、最初はなかなかセイルアップも出来なくて難儀しましたが、一度10メートルほど水上をスルスルと滑ると、今まで体験した事のない何とも言えないな気持ちよさで、すぐにこの「快感」にハマってしまいました。直ぐに地元樽井浜のウインドサーフィン愛好クラブ「泉南フリート」に入会して、ヨットのローンは直ぐに取り消しウインドサーファー艇(木製ブーム&木製ジョイント)のローンを組みました・・・(笑)。1979年当時、ウインドサーフィンブームが始まりかけ、ナント注文してから納期が1ヶ月もかかり、セイルの色も選べなかったのです・・・ウインドサーファーの値段がシーホッパーの半額くらいで、シーホッパーは1人で運ぶのは無理で、ウインドなら1人で出来る気軽さがヨカッタのです。「これはオモロイ!最高や!」と始めてから凝り始め、とうとう大学にウインドサーフィン同好会まで創ってしまいました。遊びでやるよりレースの方がオモシロいという事で、出来て間もない全日本学生連盟に加盟しました。関大の創部者の石田君と一緒に新幹線に乗り、東京の岸記念会館まで行って、関東学連の熱烈な歓迎を受けた事が今でも忘れません。「僕らと一緒に、日本のウインドサーフィン界を盛り上げていこう!」みたいなノリで、関東では信じられないくらい盛り上がっていましたねェ(関西ではまだそれほど流行っていなかった)・・・当時の関東は、情報や道具が関西より1,2年は進んでいて愕然としました。関西では一般人のヨット的なトライアングルレースが主体でしたが、湘南あたりでは学連中心のそれをもっと強化した上に、関西人が見た事もないジャンプやウエーブといった世界的な流行であったハワイアンスタイルもボチボチ広まっていたのでした・・・(驚)。そして、まだ結成していなかった関西学生連盟も他大学4校と一緒になって慌てて設立したのでした。会社の起業と同じで、全く新しいスポーツを大学に同好会や学連を創って世の中に普及させるというのは、想像を遥かに超えた充実感と快感がありました。先輩も誰もいなく「我々が1番最初」というのは多少の苦労もありましたが、それを超えた「作り上げる」充実感や快感の方が遥かに上回っていたのです。そして何より技術的に我々が日本のトップクラスで「我々が(業界を)引っ張っている」という自負が大きな自信の裏付けでした。当時は「家業が大変なのに(父親が心臓病)、こんな事をヤッテいていいのだろうか?」と「イヤ、今好きな事をやらないと・・・」いう心の葛藤に悩まされ続けていました・・・しかし「ウインドサーフィンという新しいスポーツを最先端でやって、クラブ(同好会)や学連を創った事が社会人(経営者)になればきっと役立つはずだ!」と勝手に落とし所を見つけ、自分を無理やり正当化し納得させていたのです・・・(笑)。顧問の部長にそれまで何の接点も無かった体育学の来栖教授に依頼すると「ヨッシャ!なったるで!」と、ひとつ返事でなって頂いたのも追い風になりました・・・(涙)。まァ、これが総合大学で野球や柔道といった沢山の先輩がいるような伝統クラブだったら、「何を言っているのや?アホか!」でシュンとなって一巻の終わりだったでしょう・・・人生を振り返ると、このウインドサーフィンと家業の織物工場の最新機械(エアージェット織機)に不思議と共通点がある事に気づきます。先ずどちらも、これまでになかった全く新しく「発明された新製品」です。そしてやり始めた(導入した)のが、爆発的ブーム(バブル期勃発)の前年です。この「前年」というのが最も大事かつ重要で、ブーム(バブル)の時は既にこちらは「軌道に乗っていた」のです。この「差」はとてつもなく大きく、こちらが絶対的有利な立場でした。ブームになってから始めたのでは、遅すぎるのです。人より先に始めたというのは、たまたま偶然の成り行きだったのです。「運」以外何ものでもありません・・・まさに強運だったのでしょう・・・(涙)。まァ、ともすれば自信過剰に陥りがちだったですが、その「勢い」のまま卒業してサラリーマン生活に突入し、新規開拓をバンバン出来たのだろうと思います。元々頭にそれほど自信がなく行動力で自己実現するタイプなので、大学時代の「体育会で空手」&「ウインドサーフィン同好会創部」というノリが自分に合っていたのでしょう・・・家内とは偶然にも樽井浜でウインドサーフィンをキッカケに知り合いましたが、もし家がサンケイ新聞を取っていなかったら、或いはサンケイの泉州版の記事を見逃していたら、そもそもウインドサーフィンスクール行かずヨットを始めていたら全く違った人生を歩んでいたでしょう・・・人生とは、運命とは・・・ホント、些細な事で変わるものです・・・1968年にアメリカでウインドサーフィンが発明され、日本(関東)に入ってきたのが1973年。関西では琵琶湖が1975年に1番早く普及したと、泉南フリートの先輩から聞いています。しかし当時のウインドサーフィンの世界チャンピョンは、当時まだ10代のロビー・ナッシュでした。確か13歳でワールドチャンピョンになり、その後何十年とチャンピョンだった伝説のウインドサーファーで、愛好者なら誰でも知っています。今52,3歳くらいでナッシュブランドの経営者で、大会には出ていないようで、ウインドよりカイトサーフィンに力を入れているようです・・・アスリートでありながら経営者という2つの顔をもったレジェンド。ミュージシャンでありながら自社レーベルをもった(経営者)ビートルズや矢沢永吉といったアーティストと同じです。趣味と仕事が一体。この過去に誰もが陥った「危険な間合い」を制した・・・正に、素晴らしい人生・・・この一言に尽きます。人気&実力がダントツで、賢かったから成しえた偉業だったと思います。殆んどの人は自分の「実力=ビジネス」と錯覚して、能力もないのに経営に乗り出して失敗しています・・・古いウインド仲間の多くがショップ経営に乗り出して、100%例外なく潰れてしまいました・・・未だにウインドを3,40年も続けているのは、趣味でヤッテいた者だけです。それほど一般の人間が、趣味を仕事にするのは至難の技だという好例です。日本チャンピョンどころか、世界チャンピョンだったロビーナッシュでさえ、ブームが去ってしまったウインドだけでメシを食うのが難しいのが現状かと思います・・・一般の人間が、才能(実力)とビジネス(能力)という相反する問題を、そのビミョウな「間合い」をどう取るか?この「間合い」を制する者だけが成功するのでしょう・・・私も残り少なくなった人生、考え方だけでも1ミリでも近づきたいものです・・・(涙)。音楽やウインドサーフィンと同じように、「それでメシを食っていく」なんて発想の無かった空手でも、フルコンタクト空手を最初に始めた極真会の大山倍達氏から始まったかもしれません。2020東京オリンピックの正式種目に決定した全日本空手道連盟の伝統空手(寸止め)では、今でもその発想はあまり聞いた事もありませんし、私が今学んでいる沖縄空手でもプロの空手家になるのは戒められています。あくまでも空手は趣味に留めておけ・・・と。ただ、世界中に広がった近年のフルコンタクト空手の目覚ましい発展と普及には、空手に本腰を入れた職業人としての空手家達の存在が大きいのは間違いありません。ドラムを始めたのが40年前ですが、直接のキッカケは大昔過ぎてもう忘れてしまいました・・・(笑)。今でも決して忘れないのは、高校時代にテレビの音楽番組でドラムの「つのだひろ」さんがスペースバンドというバンドを率いて、洋楽のコピーか何かを演奏していた時です。「何や!このドラムの音は!?カッコいい!!!カッコ良すぎる!」と脳天に衝撃が走ったのです・・・それほど、彼のドラムの音が衝撃だったのです。テレビの音でこれほど衝撃的だったという事は、生で聴いていたら失神していたでしょう・・・(笑)。これまでレコードで聴いていたロックバンドのドラムの「オト」とは明らかに違うのです・・・・この衝撃的な「出会い」以前にも、小学校に入る前からだんじりの和太鼓を叩いたりして、太鼓(ドラム)の音が好きだったという下地があったのは言うまでもありませんでした。小学校4年の時のビートルズ来日の記憶が鮮明に残っているというのは、元々音楽が好きだった証拠です。その頃GS(グループサウンズ)大ブームがあり、テレビの素人バンド勝ち抜き合戦をかじりついて見ていました。ちょうど決勝戦で「モージョVSオレンジペコ」というのがあり、これがまたアイドル的だったGSバンドとは一線を引き、その後現れたモップスやゴールデンカップス風な正に「ロックバンド」サウンドであり当時10歳の私にとって衝撃的でした・・・50年経った今でも充分通用するようなサウンドでした。素晴らしい芸術(音楽)というのは、時代に関係ないと思いますし、その音楽にスタジオ経営でほんのチョッとだけ関わっているというだけで、精神的にも休まる部分があるというのは決して小さくないですねェ・・・(涙)。それが2,3年後の中1から洋楽ロック(ブラスロックのシカゴなど)にハマった「下地」だったのです。何でも理由(生まれつき、才能、遺伝、生い立ち、教育)があり、下地(歴史)があるのです。何もなしで、いきなりボン!・・・というのはあり得ません。高校オーケストラ部でトランペットを始めたのも自然な成り行きです。ただ、当時エレキギター&洋楽の軽音楽部というのはどこの高校にもなく、泣く泣くクラシック音楽中心の部活に入らざるを得なかったのです・・・(涙)。今考えると、それはそれで集団(管弦楽団)練習の経験にもなりましたし、ロックとは真逆のクラシック音楽(一部映画音楽)にドップリ嵌った経験が、自分の耳とハートの許容範囲を広げるのに役立ったのか・・・とポジティブに考えています(笑)。トランペットをやったお蔭で「自分には管楽器は向いていない!」と才能の無さに目覚めさせてくれました・・・(笑)。「やっぱり、オレには打楽器しかない!」と。若い頃にイロンナ事に無茶にチャレンジするのは「自分に向いているか?」「楽しいか?」「才能(能力)があるか?」という刺激(経験)を身体の五感とハートに取り入れるという意味で、非常に大事だと思います。それが若者の特権です。年とってからでは遅いのです・・・イヤ、遅くはないですがイロンナ意味でリスクを伴います。そして、高校同級生の友人のフォークソングデュオにボンゴとしてサポートメンバーで入り、中学同級生のバンドでドラムを始めたのです。ドラムも天王寺の楽器店でヤマハの中古のドラムを2万5000円で買い、自宅納屋で古くて小さいレコードプレーヤーと小さいカセットプレーヤーを聴きながらドンドコ始めました・・・ちょうど納屋の2階にサンドバッグも吊っていましたから、もちろんエアコンもない納屋でしたので、汗だくになりながらドラムを叩き、それに飽きたら2階で回し蹴りをヤッテいました・・・環境は格段に良くなっていますが、40年後の今も全く同じ事をしています・・・(笑)。人間って、変わらない(変えれない)モンですねェ・・・(笑)。そして、大ブームの前年スタートしたウインドサーフィンとエアージェット織機と同じように、来年再びバンドブームが起きる事を祈っています・・・(笑)。これだけデジタル化社会が進んだ「反動」で、「アナログ」への回帰の一環としてライブハウスやリハーサル音楽スタジオへの見直しが必ず起こると思うのです。にほんブログ村 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2016.09.17
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昨日は貝塚駅前の居酒屋「大阪庄や」で、毎年恒例の小中学からの友人との盆の飲み会でした。3人ともまだ60になっても仕事中心でみんな忙しいですが、スケジュールを合わせて何とか駆けつけました。そこには、ただ「会って話をしたい」一心で、他に何もありません・・・毎年盆と年末の2回飲み会をしますが、もう30年以上も続いています。これが、5,6人ですとなかなかスケジュールが噛み合わず、ここまで続かなかったでしょう・・・それに5,6人だと大袈裟で一緒に話すのも難しいですが、3人だと話がシックリくるのです。今回も、他愛もない話からちょっとディープでシビアな話で盛り上がりました・・・やはり60ともなると、仕事の話より健康や病気の話が多くなるのは仕方のない事です・・・(笑)。そして3人とも、ボチボチ子供が独立して孫も出来ていますが、それと同時に年老いた親の介護問題といった話題も避けて通れません。一般的に60歳というのは、正にそういう年だったのです。そういう現実的なシビアな話になると、人の話というのは参考になるものです・・・年を取ってくると、誰でも増々頑固になり独善的になってしまうものです。とくにオッサンはこの傾向が強く、増々嫁さんや子供から煙たがられる・・・(笑)。それに待ったとストップを掛けてくれる人も少なくなり、最終80歳くらいになれば、誰も何も言わなくなります。自分では「これでイイ・・・こんなモノか・・・」と思っていても、今回の飲み会で、「これではいけない・・・こうしよう・・・」となってきました。急には出来ませんが、徐々に自分を変えていこうと思った今回の飲み会でした・・・(涙)。持つべきものは友だと思います・・・(涙)。そして自分で言うのもオカシイですが、60の割に結構「素直」なオッサンだったのです・・・(笑)。最近思うのですが、日本人の平均寿命は男性が80.79歳、女性が87.05歳(2015年)となってますが、「100歳まで生きる」事を目標にしたいと・・・別に世界長寿記録や日本記録を狙っている訳ではありませんし、100歳なんて親戚でもチラホラいますから、これくらいは目標にしても非現実とは決して思いません。これくらいを目標にし世間に告知して、自分のモチベーションを高めるという意義も大いにあったのです・・・100歳まで生きるというのは、平均寿命より20年長く生きるという事で、あと40年生きるという事になります。現在40歳の日本人男性と同じという事になります。言葉を替えれば「マイナス20歳(40歳)」のつもりで生きるという事になります。10年後の70歳で50歳のつもりで、80歳で60歳のつもりで、90歳で70歳のつもりで生きる・・・総じて、40歳レベルの「気力」と「体力」と「感覚」を持って、これからの40年を生き抜こうと考えています。同年代と同じような感覚で生きれば、それなりにしか生きれません。子供と同世代の30歳は無理ですが、40歳なら仕事と趣味(トランクルーム、不動産屋、音楽スタジオ、ウインドサーフィン、空手、ドラム)を同等に、あと20年くらいならデキそうです・・・だんじりの鳴り物の大太鼓や今年サイパンでウインドサーフィンした時や、今スタジオ経営などで青年団や高校生や大学生といった若者らと接してきた感じでは、「ついていけそう」「一緒にデキそう・・・」という手応えを感じました。人間対人間とのコンタクトで、「ダメだ・・・」「アカン!」「ムリ・・」というケースがあるものですが、それが不思議とないのです・・・無理をすればこちらにストレスも溜まりますし、ダメなら止めるだけだったのです・・・第六感というかフィーリングというか、自分の「この感性」を大事にしたいと思います。空手も蹴り技に関して、精度や強度は別にして、まだ上段回し蹴りもカッコだけは一人前です・・・(笑)。まァ、そういうこれまでの経験や今の地道な努力を考えれば、何とかデキそうという自信が芽生えてきたのです。もちろん、見てくれは毛も少ない「普通の60歳のジジイ」ですが、身体の外側の筋肉や柔軟性もそれなりに鍛え、これからの40年は食事と運動とビジネスと趣味の4つを通して内臓と歯とハートで勝負しようという事です・・・(笑)。特に高齢者は足腰が弱ると同時に気力も萎える傾向にありますので、足腰強化も課題でしょう。ウオーキングやランニングのやり過ぎは足腰と膝に悪いので、自転車による有酸素運動と筋トレマシンによる無酸素運動を上手く組み合わせる必要があろうかと思います。また高血圧、高コレステロール、頸椎症という持病がありますが、これも本当は完治したいところですが、治療しながらもロングスパンで上手く付き合っていくしかないですねェ・・・(涙)。自分の身体の筋肉や関節、内臓の隅々まで緻密に分析して運動と食事に配慮し、仕事と趣味のバランスも配慮すれば、病気を極力寄せつけずに100歳まで「なだらかな下りカーブ」で生きて行けそうです・・・(笑)。そりゃ、10年も20年も寝たきりで100歳まで生きても意味もありませんし、家族に迷惑をかけるだけです。あと40年もビジネスを現役で走るのは難しいかもしれませんが、その時代に合わせたスタイルを模索したり、また転業の可能性(チャンス)もあるのは重々承知です。今のトランクルームと不動産とスタジオがそのまま40年続く事は100%あり得ませんから・・・理想は100歳の誕生日の前日まで自立した生活を送り、誕生日当日人知れずポックリ亡くなっていた・・・ですが。そんな事99.9%無いと思いますが、それを願って生きたいものです・・・100歳まで生きれば、3人娘も70歳の立派なお婆ちゃんになり、孫娘も40歳のオバチャンになっています・・・(驚)。もちろん、ひ孫も誕生しているでしょう・・・(笑)。ひょっとしたら、玄孫(やしゃご)が出来ているかも?89歳の知り合いのお爺さんが、玄孫を見るのを目標(生き甲斐)に毎日元気にしています・・・人間って、そんなものだと思います。チョッとした目標があれば、張り切るモノです・・・如何に、目標や目的が大事かと。そういうロングスパンでモノを考えるようにすれば、小さい事や細かい事にクヨクヨ悩む事もありません。「事実は一つ、考え方は二つ」ですから、出来るだけポジティブに物事を考えたいものです。という事で、今日の妄想はこれくらいにして、身体の事を考え今日は休肝日にし、夜は盆踊りに孫を連れて行きたいと思います・・・(笑)。年のせいか、もう遅くまで飲めません。昨日は5時開始で、お開きは9時半で2次会なしです。明日の事もありますし、健康を考えればこれくらいがちょうどイイのです。友人と会って嬉しいのは分かるが、調子に乗って呑み過ぎない・・・疲れを翌日に残さない・・・これ鉄則です。もう無理は禁物、無茶はしないです・・・その時はオモシロくありませんが、人生をオモシロくするコツです。しかし、貝塚駅前周辺にも驚く事に中国人観光客が増えました。いくら南海本線の急行が止まる駅とは言え、駅前商店街はシャッター通りで今まで閑散としていましたが、2,3カ月前から観光客をチラホラ見かけていました。関空に近くてもインバウンド需要とは全く無縁と思っていましたが、いるんですね・・・(驚)。昨日の居酒屋にも中国人の団体客が押し寄せてきました・・・(笑)。また千石橋から三ツ松団地に抜けるカーブのところに(漬物工場跡)、いつの間にか宿泊施設が出来て中国人観光客を乗せたバスが何台も止まっているのはホント驚かされます・・・正に「こんなところにも!」という感じです。こういった日々の変化をも見逃さないのは、60歳ではなく40歳だからなのです・・・(笑)。ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2016.08.15
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先日、またまた鳳高校27期学年同窓会(11月12日 ホテル アゴラリージェンシー堺)の打ち合わせ&郵便発送の作業で、JR堺市駅近くの居酒屋の2階に1年10組のメンバーが集まりました。住所不明者を除いて、住所が分かっている同窓生約400名への発送作業はなかなか大変でした・・・宛先、送り先を前もってプリントシールに印刷し、それを1枚1枚手分けして手紙に貼りつけ、案内用紙、会場案内、返信用ハガキの3枚を入れ、最後は糊で封をする。これを1枚のミスもなく作業するって、ホント大変だと感じました・・・10人くらいでペチャクチャ喋りながら作業をするのですが、見直し見直しの連続で結局3時間近く掛ってしまいました・・・最近は同窓会代行業者もあるそうですが、解ります・・・学年同窓会の幹事がこれほど大変だとは・・・クラス会とは比べ物にならないほどタイヘンなんで・・・学年同窓会を開いて同級生に喜びと感動を与えられれば、それまでの大変な苦労も吹っ飛びます。なんか、音楽スタジオとカブってしまいます・・・10年かけて、やっとオープンさせた「スタジオ0724」。まだ5カ月ほどですが、お客さんに喜びと感動を与えて、これまでの苦労なんて吹っ飛び、益々ヤル気が湧いてきます・・・まァしかし、こういった他愛もない世間話や昔話を、ぺチャククチャ喋るのも楽しいモンです・・・しかしペチャクチャ喋る内容も、半分以上が病気や健康の話というのも還暦になった証拠ですねェ・・・(笑)。もう仕事の話なんか、話題にものぼりません・・・(笑)。人生、最後は身体(健康)か・・・60歳を超えると収入が減るにも拘らず、身体のアチコチにガタがきて病気が増えて医療費がかさみます。若いころまで歯が丈夫で自信があったのに、このところ歯医者通いが増えています・・・(笑)。信じられない事が身体のアチコチに起きているのです・・・同級生情報でも、誰それが亡くなったとか聞くと寂しくなります。泣いても笑っても、平均寿命から考えるとあと20年(日本人男性)。健康寿命まであと10年。たった10年しか健康的に動けないと思うと、逆に「出来るだけ好きな事を思いっきりヤッテやろうじゃないか!」と反発したくなります・・・(笑)。これって、ある意味アンチエイジングか?その表れが、今年になって始めたスタジオです。60になってからの起業なんて、普通に考えれば「バカじゃないの?」と思われそうです・・・(笑)。しかし、私的発想はそうではありません。これまでもう充分働いてきましたし、3人娘もそれぞれ結婚して独立。今は寂しいですが、夫婦2人だけ・・・すると、あと何するか?待ってました!・・・もう、好きな事をするしかないでしょう・・・(笑)。「もう、父ちゃんは自由になるのだァ~」です・・・(笑)。好きな事をすると言っても、もちろん制限もありますし浪費するだけなら何の意味もありませんし、海外旅行に行くためにもお金を貯めなければなりません。それと2人の孫娘の顔を見ると、若い頃仕事ばかりで娘たちとあまり遊んでやれなかった後悔もあり、不思議と今は「孫一番」みたいな感がチョッと情けないですねェ・・・(笑)。孫が出来て、ガクッと牙を抜かれたジイサンになったのか・・・(笑)。まァそんなデレ~となってしまったジイサンライフですが、好きな事、悔いのある事、やり残した事、夢に終わらず可能な事・・・出た結論が、「リハーサル音楽スタジオ」でした。この中に、自分の「40年ぶりのドラム再開」もチャッカリ含ませました・・・(笑)。これが、今回の誰にも分からない大きなミソでした・・・(笑)。そして、娘たちにそれほど伝えきれなかったコト・・・あわよくば、孫娘たちに音楽とダンスという人生の楽しみを知ってもらえればと・・(涙)。これが、ジイジのホンネかも・・・もうこれくらいしか、ジイジにはデキませんから・・・(涙)。まァ、40年前は自宅納屋で我流でドラムをヤッテいた為、基礎も糞もありませんでしたので、1年半で挫折してしまいました。普段は薄暗い納屋でカセットテープを聴きながら汗だくになりながらドラムを叩き、それがイヤになって気分を変える意味で、たまに2階の自分の部屋までドラムセットを運んで音響の良いオーディオを聴きながら叩いていたのです・・・まァ、それも防音も何もやっていませんでしたので、思いっきり叩く事は出来ず、当然遠慮して叩いていたのは言うまでもありませんでした・・・(涙)。そんな邪魔臭い事までしてドラムを叩いていましたが、まだ、家で叩けるだけスゴク恵まれていると・・・(嬉)。それでも、当時のヤマハの安物の中古のドラムセットと、今スタジオにある新品のパールのドラムセットとの音の違いには隔世の感がありましたねェ・・・当時は学生でありながら朝5時から家業を手伝い、学業以外に空手、ウインドサーフィン、バンド2つ、青年団(だんじり、盆踊り)、ディスコ、ライブハウス、デートと目が回るくらい忙しい青春を送っていましたので、ひとつの事に拘っていられなかったのです・・・(笑)。夏休みともなると朝5時から12時間も働いていた、入ると一挙にム~として汗が噴き出る40℃湿度90%にもなる冷房空調もない昔の織物工場には参りました・・・(泣)。それでメシを食っている家業なので、逃げ出すことも出来ないそういう環境が、そうとう忍耐力をつけたと思われます・・・(笑)。その反動かどうか知りませんが、空手は大学体育会空手部から地元沖縄本部流空手に転向したり、ウインドサーフィンは樽井の泉南フリートでやっているだけでは物足りなくなり大学に学連加盟のレース派の同好会を創部したり、青年団は団長になって祭りと盆踊りを引っ張っていましたし、夏は蕎原青年団と牛滝山で合同キャンプしたり、ミナミのライブハウスのハシゴとか・・・今考えたらもうムチャクチャな青春を送っていたなァと感心します・・・(笑)。まァ、そういう事があったりして再度初心にかえり、4月からヤマハのドラムスクールに通って基礎から学んでいます。「これが基礎なんだ・・・フムフム・・・」と基礎と並行して、好きな曲に合わせて自由気まま間にドラムを叩いています・・・(笑)。基礎も大事ですが、ドラムはだんじりの大太鼓と同じで「アドリブが命!」でセンスが1番大事です。そのセンスを磨くために、自分の感性にあった好きな音楽を聴いて、基本的にそのドラムコピーをしようとしますが、それとは違った自分オリジナルの叩き方も模索するのです・・・大太鼓はパワー重視でアドリブパターンも少ないですが、ドラムはパワーよりもテクニックです。今は便利な時代で、YOU TUBEでアーティスト名と曲名のあとに「drum cover」と検索すれば、出て来る出て来る・・・素人さんが撮ったと見られる上からドラミングを撮影した動画が。素人さんといえでも上手なのは言うまでもなく、どのタイミングでどれを叩いているのか一目瞭然です。ドラムは両手両足を使って、沢山あるタムやシンバルといったパーツを叩きますからヤヤコシイ、ヤヤコシイ・・・私みたいなド素人は譜面を見ただけでは分かりません。まァしかし、私には技術的に早すぎて出来ない場合が殆んどですが・・・(笑)。けど、将来的にはどこかの7,80年代洋楽ロックのコピーバンドに加入させてもらえれば・・・そんな夢を抱きながらドラム練習をしているのです・・・そして10年後には、ロン毛のかつらを被り、老人ホームへ慰問に行き、ディープパープルやレッドツェッペリンをガンガン叩いている自分を想像すると武者震いします・・・(笑)。妄想はこれくらいにして、学年同窓会を盛り上げるために1次会でフォークダンスを企画しています。当時フォークダンスをよくしていた・・・とみんなが言ってますが、残念ながら全く覚えていません。記憶にあるのは、「遠い世界に」という五つの赤い風船のフォークソングを学生集会の度にみんなで歌っていたという事だけです。入学前年まで学生運動が激しかったらしく、その反動で校内のそこらじゅうでフォークソングギターの音が聴こえたり、原付バイク通学もOKだったり、遠足は各クラス自由に決めて現地集合現地解散の自由服、美術の油絵は広い校舎の何処で描いてもよく、と当時の鳳には自由が溢れていました・・・一方、毎回誰かが寝技で首を絞められて落ちそうになる厳しい柔道や、土のグラウンドでタックルさせらて傷だらけのラグビーといった体育の授業には閉口しましたが、今思えば心身を鍛えるのにピッタリだったのか・・・(笑)。中学は丸坊主の厳しい校則でしたので、そのギャップの大きさに戸惑ったものです。まァ、もちろん部活のオーケストラ部で練習した曲は覚えています。新曲を仕上げるのに3ヶ月もかかりました・・・高校から始めたトランペットでしたので、みんなの足を引っ張らないように冷汗をかきながら吹いていました・・・(笑)。今となっては楽しい思い出ですが、当時は自分より上手な後輩たちからのプレッシャーに耐えていましたねェ・・・(笑)。その1つ後輩のうちの1人のM君が今、鳳高校の教員でオケ部の顧問をやっているようで、何とも心強いものです・・・そういう事で、同窓会本番の1次会はフォークダンスで大いに盛り上がり、2次会は近くのライブハウスで更に盛り上がるというプランを今考えているところです・・・ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2016.07.25
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先週、久しぶりに堺の友人がやってきました。高校からの友人で、仕事の都合で長らく長野県に住んでるようです。高校時代から彼は「タンクロウ」というフォークデュオを組んでレコードも出し、オリジナル曲も500曲を超え、精力的に音楽活動に取り組んできました。昔、高石市民会館を貸し切って演奏会をしました。私はボンゴで参加したのも懐かしい思い出です・・・今は彼も「指が動けへん・・・」という事で、ギターを弾く事もないそうです。残念ですねェ・・・しかし、昔それだけヤッタんなら、もしリスタートしたら必ず出来るはずです。10代、20代の経験は、4,50代からの経験と違って、身体の何処かに残っていますから、思い出せるものです・・・よく定年後「趣味がない・・・」とかマスコミの話題になりますが、何も新しい趣味を見つける必要もありませんし、60超えてから新しい事を始めると心身とも拒否反応で余計にストレスになります。そんな事をするより、若い頃熱中した事を「もう1回」やればイイのです。単純明快、これである程度「定年後のヒマ地獄」から解放されます・・・(笑)。その点、音楽なんかは裾野が広いので、趣味として応用がスゴク効きます。音楽を聴く、楽器を演奏する・・・今はタダ同然で何千万曲も聴け、楽器も実店舗やネットを含め新品中古品も結構安く沢山売っている時代です。カラオケ店は何処にでもあり、弊社のようなリハーサル音楽スタジオ(練習場)や、大小含めたライブハウスは東京や大阪にはいくらでもあります。アマチュアでもレコーディングが簡単にでき、ネットを通じてYOU TUBEやUSTREAMで自分たちの音楽を簡単に世界に発信できる時代です。もう溜息が出るくらい、今の音楽環境は整っています。音楽が趣味なら、可能性は無限に広がります・・・正に、最高の趣味と言えるかも知れません。そして、ネットで音楽を聴いてリハスタで楽器を演奏・・・とミュージシャンにとって、デジタルとアナログのバランスが素晴らしくイイのです。更に、音楽とダンスは密接な関係で、音楽を聴く(楽器を演奏する)人はダンスも好きと言う人も多いですし、ダンサーはほぼ100%音楽が好きでしょう・・・そうなると、可能性は益々広がります。音楽もダンスも楽しいし、人を幸せにします・・・海外旅行に行くと、音楽が身近にありますし、そこにはダンスがつきものです。バリやハワイでも、夜な夜なホテルのライブや小さいライブハウスをハシゴしました・・・リゾートに行けばライブハスがつきものというのは、人間というのはリラックスすれば音楽を聴き踊りたくなるものという事でしょう・・・スペインのフラメンコ、ハワイのフラダンス、インドネシアのバリ舞踊、アメリカのフォークダンス、ロシアのコサックダンス、イギリスのリバーダンス、バリのケチャ、中東のベリーダンス・・・日本でも各地にある盆踊り、阿波踊り、沖縄エイサーも有名です。身近なだんじり祭でも、太鼓など(鳴り物=お囃子)に合わせて屋根(大工方)で踊っています。しかし楽器でも、ピアノが出来る人は譜面を読めますので、ギターなどの弦楽器やトランペットなどの管楽器とか他の楽器を器用にこなす人が多いので、更に幅が広がります。またクラシックから聴き始めた人が、その後ロックやジャズ、R&B、ソウル、ファンクといったジャンルを広げる傾向にあるように思います。そういう将来「音楽の幅を広げる」という意味で、小学生からクラシックのピアノを始めるというのは、理に叶っていると思います。ある意味、ピアノは音楽の「基本」でしょうねェ・・・私が子供の頃は「男がピアノなんて・・・」という偏見がありましたら、妹だけ習って私の年代で男がピアノを習っていたなんて聞いた事がありませんでした。その反省もあって、自分の子供にはピアノと水泳は「必須」という事で習わせました。スポーツでも仕事でもそうですが、若い頃に基本を学ぶ事が、その後の人生において「その応用を効かせる」チャンスが多分にあると思うのです。という事で、古いアルバムを捜してみると、今回の彼が中心になって開催した高石公民館でのコンサートの写真が出てきました。タンクロウの2人が中心になって、兄さんや彼女やその友達、クラスメートとかサポートメンバーがイロイロで、楽器もアコースティックギターを中心に、トロンボーン、Eベース、ボンゴ、ピアノ、バックグラウンドボーカルと様々でした。青春の思い出です・・・(涙)。当時練習は、リハーサルスタジオという存在も知りませんでしたので、今回の彼の家でよくしました。今思えば、かなり広い家でしたので、近所から苦情も出なかったのでしょうねェ・・・(汗)。日曜にお邪魔すると、たまに彼のお父さんが家で居られ、私達に「学校の勉強も大事やけど、本当の勉強は社会に出てからや・・・」と、熱心に我々高校生におっしゃっていたのがトテモ印象的でした。たまに、国際電話をしているのか、英語で喋っているのを聞いた時はビックリしました・・・普通のオッサンなら聞き流していたでしょうけど、自転車の変速機メーカーで世界的に有名な会社の社長さんで、その後アメリカのマウンテンバイクに多大な影響を与えたとかで、米国の『MTB殿堂』入りで日本人唯一というくらいですから、さすが言う事が違うなァ・・・と熱心に聞いていたのでした・・・その後私が社会人になってから、たまたま彼のお父さんが「自転車業界の神様だ!」という大絶賛の話を複数の人から直接聞き、残した業績もそうですがその人柄の良さも含め、その「偉大さ」を再認識した次第です・・・(驚)。コンサートの写真の中で、Eベースを弾いているO君は、その後30代で急病で亡くなりました。オーケストラ部の同級生で、パートも同じトランペット。トランペットは3人いたのですが、3人とも同級生で、3人とも家業が織物業という共通点がありました。何とも、不思議ですねェ・・・私以外の2人は中学からトランペット経験者で、こっちはいくら頑張っても追いつくのは無理でした。なので、万年サードトランペットの「ハモリ専門」で、ファーストの旋律を吹く事はありませんでした・・・(涙)。一番情けなかったのは、1つ上の先輩が「これからはジャズロックや!」とクラシック中心のオケ部を飛び出して「音楽愛好会」なるロックとジャズ中心の音楽クラブ(同好会)を創り、当時世界的に人気を誇っていた全盛期のアメリカのブラスロックグループ「シカゴ」の曲(Ballet for a Girl in Buchannonという15分もある組曲)をやりだして、私以外の2人を助っ人で引っこ抜いたのです・・・私はまだまだヘタクソという事で、声すらかけられなかったのです(死ぬほどヤリたかったのに)・・・(涙)。まァ、6カ月やそこらでシカゴのホーンセクションが務まる訳もありませんでしたが・・・その亡くなったO君は、高校卒業後も付き合いがあり、ドラムの処分に困っていた私に、売却先を紹介してくれたりとイロイロ尽力してくれました。後輩からも「サブちゃん、サブちゃん」と羨ましいくらい慕われていました。あんなイイ奴が、小さい娘さん2人を残して30代で亡くなったのが残念でなりません。という事で、わざわざ貝塚まで来てくれたので貝塚駅前で一杯やり、スタジオを見たいという事で見てもらい、地元の焼き鳥屋で一杯・・・「もう泊まって行けよ」と引き止めましたが、明日予定があるという事で「じゃ、また・・・」と。次会うのは、11月の高校の学年同窓会。もう、みんな今年60歳。感無量・・・特に男は今年、多くが定年を迎えます。これまでの60年の人生、学校、恋愛、就職、結婚、子育て、教育問題、離婚、別居、転勤、脱サラ、起業、リストラ、転職、住宅問題・・・とみんな大いに悩んできたと思いますが、今年から「定年後どうする?」という新たな悩みを向かえる年代になりました。ある意味、人生のセカンドステージと言えるかもしれません。このセカンドステージを如何に充実させるか・・・???「まだ60歳」と言いたいですが、現実的には「もう60歳」で、平均寿命から計算すると20年後には「この世に居ない・・・」という悲しい現実が待っています・・・(涙)。20年後のチーンの前に、自立できなくなる10年後の健康寿命が待っていますので、この「悲しい現実」を直視して、人生を「逆算」して生きている自分がそこにあります・・・「逆算」と言っても、もう今更ジタバタしても仕方がありませんので、基本は「自分に正直に、納得の出来るように生きるだけ」です・・・(笑)。これまで、まあソコソコ好きなように生きてきましたが、ある意味、もう一段ワガママに「好きなように生きる」と言えるかもしれません・・・(笑)。海外旅行で現地の文化や日本人以外の外国人と接すると、「一体何のために?生きているのか(きたのか)・・・」という人間としての根本的な問題を、時々考えさせられます・・・それが、音楽業界「新規」参入の突破口である「スタジオ起業」に行きついたのかもしれません・・・(笑)。人生、60歳からオモロなるでェ・・・を地で行きたいと思うのです・・・(笑)。まァ、しかし、車で去る彼を見ると、年取った証拠ですかねェ・・・何故か人恋しく、そして寂しくなりますねェ・・・(涙)。ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2016.07.04
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昨日は堺市上野芝で、来る11月12日(土)にホテルアゴーラリージェンシー堺に於いて開催される「鳳高校27期学年同窓会」の幹事会でした。上野芝というのは、幹事クラス「1年10組」の幹事の1人の自宅だったのです。どこか会議室を借りるのもイイですが、経費も掛かりますし、幹事会を既に何回もしていますので、その幹事の厚意に甘えてしまいました。改めてこの紙面を借りてお礼を述べたいと思います。荒木(旧姓 川嶋)さん、いつも有り難う!彼女がいなかったら、毎年行われる1年10組のクラス会も、5年毎の学年同窓会も難しかったでしょう・・・何も考えず何もしなかったら、何も残りません。ところが、何かを企画して、実行に移す・・・には、必ず犠牲を伴うものです。犠牲以上に得るモノが大きければ、ヤル価値は十分にあると思います。クラス会も学年同窓会もそういう意味で、ヤル価値はあると思います。10年前の50歳の時に初めて学年同窓会をして、みんな大感激しました・・・そして、55歳の時も感激。その5年後の今回の「還暦同窓会」です。15歳で高校入学してから45年です。45年前の繋がりで、未だに会おうというのはスゴイ事だと思います。もちろん、全員が来る訳でもありませんが、卒業生約450人中、前回同様150人くらいは出席を見込んでいます。前回よりも1人でも多く来れるように、 鳳高校27期ホームページだけでなく、この私のブログでも集客?を図ろうと思います。同窓会ホームページには住所不明リストもありますので、判明情報があれば、是非連絡をお願いします。連絡先は同窓会ホームページの掲示板か、 072-446-0798 或いは info@sasatani.com 笹谷まで宜しくお願いします。しかし、60歳と言えば改めて言うまでもなく「還暦」です。私が20代だった頃の還暦のイメージは、もう完全にジイサンバアサンの「老人」でした。そして、晴れてその老人になったのです・・・(笑)。自分では「まだまだ、そんな・・・」という無駄な抵抗もありますが、孫を抱いて顔を近づけると、私の加齢臭に「臭い!」と言わんばかりに嫌がる孫を見ると、もう立派なジイサンかと悟らざるを得ません・・・(笑)。そんなジイサンバアサンの集まりも、同窓会では一瞬にして45年前の楽しかった青春にフィードバックします。今思えば「楽しかった」ですが、実際当時は勉強について行けずに悩み、部活も高校から始めたトランペットの上達の遅さに悩み、好きだった女の子に告白できずに悩み・・・・・・青春特有の多くの悩みに翻弄されました・・・(涙)。何をヤッテも上手く行かず、心の底からヤル気が出て来ず、誰からも褒められず、注目されずに、・・・全く自信を失っていた低空飛行の青春の日々でした・・・(涙)。そんな暗く情けない青春でしたが、45年経った今から思えば、不思議とそれらすべてが「楽しかった」に変わるんですねェ・・・当時は真剣に悩んだことも、落ち込んだことも、悶々とした日々も・・・すべて「楽しかった青春」の一言でオワリです。決して腐らず、グレず、真摯に自分と向き合って、もがき苦しんだ事が結果的にヨカッタのか・・・その背景には、深夜遅くまで綿埃まみれになって織物工場で働く両親の姿があったのか・・・一生懸命働く親の姿を見れば、普通の子供は非行には走る訳がありません。これがサラリーマンだと、親が何をヤッテいる分かりませんが、家業だと子供の頃からずっと見ている訳ですから(自分も手伝わされて)、仕事内容が肉体的にも精神的にも子供の頃から知りすぎてしまうのです・・・やはり、子は親の背中を見て育つというのは、いつの時代でも変わらないと思います。という事で、同窓会幹事会も3回目で具体的に細かい作業に入ってきました。手分けして、住所確認を個別に電話したり、印刷物の段取り、ホテルとの打ち合わせ、BGM、司会進行の段取り、恩師との連絡・・・クラス会と訳が違います。私の担当として、音楽愛好同好会やフォークソング部やギター部だった同級生を集めて、会場のホテルで「ライブ」するという事でしたが、諸事情があって今回見送る事にしました。しかし、「音楽担当」としての責任がありますので、「何とか、音楽で盛り上げたい!」というのがあり、ならば「2次会のライブハウスで盛り上がろうぜ!」という想いもあり、2次会用のライブハウスを物色中です。幸い、会場が堺という事もあり、住んでいる場所も堺市が多いです。この「堺」という好立地条件を活かさない訳にはいきません。南海堺駅や堺東駅周辺には、ライブハウスがいくつかあります。ミナミまで行けば沢山ありますが、1次会ホテル会場から徒歩圏内で行けないと意味がありません。これが結婚式や法事、宅建協会泉州支部でもよく使うスターゲートホテル(関空前)や岸和田グランドホールといった岸和田以南の泉南エリアだと、こういう訳にはいきません。周辺に2次会するところが無いのです。せめて、地元の2次会用と言う狭い視点ではなく、りんくうタウン駅内の商業施設をインバウンド需要向けも視野に入れて再開発し、バーやライブハウスといった外人受けするテナントも導入すれば、ミナミに直行する観光客を阻止できて地元に留める事ができるのでは・・・先日弊社スタジオに来られた老舗ライブハウスの「三国ヶ丘FUZZ」さんにも打診しておきました。考えているのは、2次会で何処かのライブハウスに100人くらいが雪崩れ込んで(貸し切り?)、ディスコミュージックをガンガン掛けてもらい踊り狂う・・・踊り疲れたら、バラードを掛けてもらいチークタイム・・・そして、フォークソング部の同級生を中心にフォークソングの数々を演奏・・・体力が回復してきたら、ラストは音楽愛好同好会にキャロルの「ファンキーモンキーベイビー」でライブ会場が一層盛り上がって惜しまれながら締めくくる(楽器機材はライブハウスから借りる)・・・なんて、シナリオに賛成してくれる人、いるかなァ・・・(笑)。練習場所は弊社スタジオを無償で提供させて頂き、何時間でも何日でもOK! 鳳高校27期ホームページ ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2016.06.26
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先日、高校の学年同窓会の打ち合わせがあり、久しぶりに阪和線に乗って上野芝まで行きました。20年ぶりの和泉橋本駅でしょうか・・・高校と浪人時代に阪和線をよく利用しましたが、和泉橋本駅は基本的にあまり変わっていませんが、車両が格段に良くなっていました。当時は木製の床で、車両にトイレもあり、走行時はガタガタよく揺れました・・・南海線に乗った時、何と揺れが少ないのかと感激した程です・・・(笑)。民営化になって、阪和線も努力したんですねェ・・・5年毎に行われる鳳高校27期の「学年同窓会」で、今年は1年10組が幹事クラスです。そして今年は記念すべき?「還暦同窓会」です。日程は、2016年11月12日(土) 15:00~18:00(14:30より受付開始)場所は、ホテル・アゴーラリージェンシー堺(旧リーガロイヤルホテル堺)の4Fです。今回の打ち合わせに、12人も集まりました。毎年クラス会をしているので、息はピッタリです・・・(笑)。本番まであと3,4回集まって、決めていかねばならない事や送り状の発送やらで忙しくなりそうです・・・前回は55歳の年でしたので、男は仕事の都合で来れなかった者も多かったと思いますが、今年は60歳定年で時間的な余裕も出来ますので、参加が増えるように思います。ただ、親の介護の時期と重なりますので、集計するまで何とも言えませんが・・・まァ、60超えれば、仕事の時間が減ってもそれ以外の用事が増え、アっという間に70歳に・・・70と言えば健康寿命で、男は平均寿命の80歳まで一気に下り坂・・・そして、チーン・・・そんな事を考えたくもありませんが、現実を直視すれば、当たらずとも遠からず・・・ちょうど25年前の35歳の時に、中学卒業20年目という事で三中の学年同窓会がありました。その時、フッと思いました「35歳というのは、20歳と50歳のちょうど中間やなァ・・・」と。「20歳からアっと言う間に15年経って35歳になったけど、もっとアッという間に15年経って50歳になるんやろなァ・・・」と。そして、実際その通りでした・・・(笑)。35歳から50歳までの15年間は、家族を養う為に脇目も振らず人生で最も必死に働いた時期です。そして、その50歳から10年・・・もっともっとアッと言うまでした。という事は、もっともっと、もっとアッと言う間に70歳になるのか・・・?イヤですねェ・・・こんなネガティブな事を考えるの・・・(笑)。人から何故か?お前はポジティブとか言われますが、実は現実主義派のネガティブだったのです・・・(笑)。しかし、この間孫が生まれたと思っていたのに、もう歩いて喋っています・・・(驚)。孫の成長に、自分の老化を客観的に感じざるを得ない今日この頃です・・・(笑)。60歳を目の前にして思う事は、3,40代の頃は全く考えも想像もしませんでしたが、「人生のゴール」を意識し始めるという事です。そう、400m走でいうと、第4コーナーを回って直線コースに入ったところです。もうゴールが見えていますので、あとは転ばないように走るだけです・・・(笑)。イヤ、もう歩いてもOKです。そんな心境ですねェ・・・アカン!こんな事、書いているうちにダンダン暗くなってきました・・・(笑)。という事で、学年同窓会は思いっきりハシャギ、楽しみたいと思います・・・青少年期の同じ時代を共有した(過ごした)という意味で、同い年というのは格別です・・・人間の成長過程で最も大事な時期で、イロンナ意味を含んで、その後の人生を左右する基本だと思うのです・・・そして残り少ない人生をより充実させるために(したい事をする為に)、先ずは生活のベースとなる健康に気をつけたいと思います。10時就寝4時起床の早寝早起き・・・ストレッチ、有酸素運動、無酸素運動、朝食抜きダイエット(プチ断食)。体調が整えば、仕事も頑張れます。そうすれば、趣味もできるかも・・・イヤ、スタジオすること自体、仕事か趣味かボーダーラインがワカラナクなってきたかも・・・(笑)。ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2016.04.18
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先日大阪ミナミで、いつもの貝塚市立木島小学校5,6年時のクラス会(藤田会)でした。今回はクラス会というより、食事会と言った方がイイかも・・・年1回のクラス会は今年も地元貝塚で11月にありますが、今回は大阪市在住のクラスメートの計らいで、ミナミで集まる事になったのです。初の「遠征」です・・・(笑)。クラスメートには、もちろん地元泉州だけでなく、大阪市内や遠い人で明石から駆けつけてくれた人もいますので、ミナミで会をするというも当然と言えば当然ですが・・・集合場所の難波タカシマヤ前では、既にワイワイガヤガヤと泉州弁炸裂の小学生モードです・・・(笑)。同じ大阪弁でも、大阪市内弁と泉州弁はチョッと違うのです・・・平たく言えば、大阪でも南へ行けば行く程、和歌山弁に近くなるのです。大阪市内弁と和歌山弁との中間が、泉州弁だったのです。定住型の農耕民族である我々日本人は、歴史的に見ても地政学的に見ても当たり前と言えば当たり前の事ですが・・・そして、ちょっとシャレた今流行の「バル」レストランを昼から貸し切って、飲んで食べてワイワイあっと言う間に3時間過ぎてしまいました・・・小学校5,6年だけ一緒と言っても、1学年3クラスしかなく、お互い屋号や下の名前で呼び合うほど同じ苗字が多く3,4代辿れば殆ど親戚のような田舎で、多くが「木島保育所」出身、そして殆ど貝塚三中に進学しましたので、10年間一緒に学んだ計算になります。この絆は相当濃いと思います・・・しかしもう60歳になると、女子が大胆不敵になり、男子が大人しくなり、ちょうど思春期前半の小学校5,6年といったところでしょうか・・・(笑)。人生・・・45歳くらいがピークで、60歳でチョッと芽生えかけた小学5,6年に戻り、80歳で殆ど男女差がない赤ちゃんに戻るという事か・・・(笑)。まァ、10数人だけなので、みんなと喋れます・・・これがクラス会のイイとこですねェ・・・高校のクラス会も同じような人数なので、イイ感じです。これが学年同窓会となると、こうはいきません・・・人数が多すぎて、誰が誰だか分らないうちに、知らぬ間にまとまりもなく終わってしまう感じです。人数が多い分幹事さんも大変で、会の後味もイマイチで、続くはずもありません・・・どんな飲み会や集まりも、せいぜい10数人までがベストでしょうね・・・しかし、これからだんだん身体の自由が利かなくなり、亡くなる人もボチボチ出てきます・・・外に出て行くのも億劫になりますので、20年後の80歳くらいになれば学年同窓会もオモシロいかもしれません・・・(笑)。その年になって急に集まるのも無理な話なので、ボチボチ今から学年同窓会をヤルのもイイかもしれませんねェ・・・そして2次会のカラオケには、歩いて行きました。この辺は、車で移動する貝塚と違って、ミナミは都会と感じました・・・(笑)。そして、3次会は鰻谷のシャレたバーへ・・・プールバーが流行っていた30年くらい前の若い頃から、この辺界隈よく来ました・・・特にバブルの頃、吉本興業が経営していたライブハウス「アンコール」が1番のお気に入りで、一時毎週金曜日の大阪本町への営業日(商社や紡績への織物の売り込み)には通っていましたので、年間60回くらいは行っていた計算になります・・・(笑)。確かライブチャージ込の飲み放題食べ放題で、1人3500円くらいだったように思います。これがまた料理が美味しく、3ヶ月ごとに替わる黒人のミュージシャンの歌(ソウル、ディスコ、R&B)が痺れるほど上手い!おそらく、当時為替が1ドル80円の頃で、日本で全く無名のニューヨークの三流?のミュージシャンを安く雇っていたのでしょう。しかしニューヨークでは三流でも、日本に来たら超一流です。彼らはどんな客のリクエストにも上手に応え、彼らの客と一体となってみんなを楽しませるパフォーマンスやエンターテイメントにはホント感心させられました。ホンモノの音楽を、毎週カブリツキで聴いていたのです・・・これがニューヨークスタイルのホンモノのミュージシャンかと・・・大阪に居ながら最高のコスパで、日常的に毎週彼らの音楽を触れられた幸せをシミジミ感じました・・・(涙)。しかし、毎回満員御礼で、何故3年ほどで閉店になったのか不思議でなりません・・・?その辺が、音楽バー&レストランの経営の難しいところです。この経験が、今のリハスタ経営でも最初からフンドシの紐を締めている原因かも・・・(笑)。3,40年前からミナミやキタのあちこちのライブハスに毎週ほど通いつめましたが、まさか自分がその関連の「リハーサル音楽スタジオ」を経営するなんて事は、当然夢にも思いませんでした・・・それが、実際ヤッテいる自分を考えると、人生の不思議な運命を感じざるを得ません・・・遊んだことが役に立っているのです・・・(笑)。学校で習った事の「逆」をして、正解?だったのです・・・(笑)。小学校時代は勉強がデキた記憶はなく、中学でチョッと頑張っただけで、高校から再び低空飛行のまま・・・大学も浪人も留年も経験しヤット卒業出来た程度で散々でした・・・(涙)。親がサラリーマンだったら、こんな体たらくが許されるはずもなく、ラッキーな事に家業(地場産業の織物業)でしたので、勉強せずに好きな音楽を聴いたり、だんじりに凝ったり、ウインドサーフィンや空手に勝手にハマっても、毎朝5時から家業を手伝っていれば、私には何も言いませんでした・・・ホッタラカシ・・・と言えば、そうかもしれませんが・・・(笑)。息子を信じて、ホッタラカシ・・・ホッタラカシにされた息子は、自由奔放とは言いながら、「こんな事をヤッテいいのか?」と常に、それなりに考える・・・???このサイクルが、逆にヨカッタのかと、イイように考えていますが・・・(笑)。19年前に亡くなった親父は、私が高校生の頃に納屋でロックを大音量でガンガン聴いていた時「トオルもついに気が狂ったなァ・・・」と母親に漏らしていたそうですが、音楽スタジオをやりかけた今の私を見て、天国から「トオルも、ホンマに狂ったなァ・・・」とボヤいているかもしれません・・・(笑)。人生って、この年になって改めて考えてみると、ある意味・・・そんなモンかもしれません。という事で、メッチャ楽しかったクラス会も終わりましたが、11月の幹事もケイスケとべトに決まり、次は何をして遊ぼうかと考えているところです・・・(笑)。取りあえず、うちの「スタジオ0724」で梶やんのアコースティックギターのミニライブをヤロウという話が出ました・・・ついでに、やっちゃんとヒトミちゃんのフラダンスと、ユミちゃんのよさこいも・・・あと、能の踊りも誰かやっていました・・・けっこう身近でも、音楽とダンスが趣味だという人がこれだけいるのに驚きです・・・別にスタジオは、バンドの練習だけではないのです。こういったミニライブにも使ってもらってもOKです。発想は自由です・・・もちろん、常識の範囲内ですが。ミニライブだけでなく、カラオケも出来ます・・・締めはディスコか・・・(笑)。ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2016.03.21
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先日、毎年恒例の高1(鳳27期1年10組)のクラス会が大阪ミナミでありました。今回も10数名の出席で、ほぼ毎回固定のメンバーです・・・(笑)。同窓会やクラス会というのは、好き嫌いに左右されますので仕方のない事です・・・今回、バスケ部だったM君が初参戦です。40年ぶりです・・・185cmくらいの長身は変らず、毛もフサフサで一発で分りました。このクラスの男、私以外みんな毛がフサフサで頭にキマス・・・(笑)。今年は「60歳定年」の年で、サラリーマンが殆んどですので、みんな戦々恐々です・・・女子の中には「老人ホーム」に入居する事を、もう検討しているのにビックリです・・・女子の配偶者の多くはリタイヤしており、中には70歳近い旦那さんがおられるのも不思議ではありませんので、まァ普通に考えられる事かもしれません・・・男女同じ年でも、配偶者の年齢によって夫婦の人生が大きく変わる事を再認識させられました・・・もちろん今の時世、離婚によってシングルの人(元々未婚の人)も珍しくありません。既婚未婚に関係なく、もうこの年(還暦)になると余生も長くはありませんので、「自分らしく」生きるという我が儘をそれなりに通すのもイイのでは・・・そうしないと、人生悔いが残ります・・・まァ、そうした中で、クラスで勉強が常に1番だったN君が、超一流上場企業の役員でしたので一番元気だったようです・・・ただ、彼も海外生活が長く拠点も東京に移してしまったので、郷愁の念が人一倍強く、当時あまり勉強が出来なかった私が地元に根付いた安定した生活をしているのを見て、羨ましく思っていたような気がします・・・(笑)。「賢い人は故郷から離れていく」とはよく言われますが、どちらが幸せかと問われますと難しい問題ですねェ・・・人はみな生い立ちや家庭環境や能力も違い、不平等に生まれます。そんな生まれ持った違いや差、その後の運命も乗り越えて、棺桶に入る時に「オレの人生はオモシロかった!」と言えるかどうか・・・だと思います。この私の人生観は、正に高1の生物の城田安幸先生から教わったものです・・・最後の授業の時は、先生も我々も泣いたものです(丸で青春ドラマのように)・・・この授業、昨日の事のように覚えています・・・(涙)。昨年末に亡くなった義父や、18年前に亡くなった親父の死顔を見ると、ホント不思議に穏やかな笑顔に徐々に変わっていくのです・・・(驚)。特に私の親父の場合は、孫にあたる私の子供らが一晩中親父と同じ部屋で過ごし、親父の顔を触ったり頬ずりしていたのに驚いたものです(私は怖くて、とてもそんな事出来ませんでしたが)・・・まァ、2人の人生を子供である私なりに振り返ると、オヤジもイイ人生を送ってきたなァ・・・と羨ましく思います。私も子供や孫たちに羨ましがられるような人生を送りたいと思います・・・(笑)。サラリーマンだと自分の人生を他人にコントロールされがちで、自分の思うような事も出来辛いです。59歳で今回の「音楽スタジオ」起業なんかも、20代のサラリーマン時代からトテモ考えられません。最終的に成功とか失敗とか関係なく、自分で考え実行し結果が出たという「ヤッタ!」という事実が「自分史」に残り、それが人生の充足感になるのです・・・もちろん、それが成功すれば、自分が創った「満ち足りた人生」に繋がり、言う事ありませんが・・・人生、そんなに甘くはありません・・・という事で、今回のクラス会が幹事となる11月に行われる「学年同窓会」で、私が「音楽担当」になりました。これまでの学年同窓会と違って、今回はバンド出演が目玉です・・・やはり、どんなシチュエーションでもそうですが、音楽がなければ味気ないです・・・ウインドサーフィンでも、行きの車の中でEW&Fの曲でモチベーションを上げ、ウインドをヤッテいる時は高中正義のギターをイメージしてハイになり、ビーチの風待ちではボサノバを聴いてノンビリとリラックス、そして帰りの車はイーグルスの曲でクールダウン・・・(笑)。まァ同窓会でも、ディナーショーのようにプロのミュージシャンを呼んでもコストが高くつくだけです・・・というか、みんな懐かしさの余り、喋るのに忙しく誰も聴いていないです・・・そうなんです・・・我々学年同窓生のミュージシャンの出番なんです。同窓会場全体の雰囲気は一時的に「青春時代にフィードバック」の興奮状態ですから、青春時代に聴いた(ヤッタ)音楽しかない訳です・・・1970年代前半当時、日本の高校生や大学生の間でフォークソングを筆頭にイロンナ音楽が流行っていましたし、学内ではオーケストラ部、フォークソング部、クラシックギター部、コーラス部、音楽愛好同好会と音楽系のクラブが沢山ありましたし、個人的にも沢山のグループが活発に活動していました・・・休み時間ともなると、廊下や広い校庭などそこら中でギターの音が聞こえていました・・・それを今回、学年同窓会の場でヤッテもらおうという魂胆です・・・(笑)。特に期待しているのが、弁護士のK君ら音楽愛好同好会のキャロルの「ファンキーモンキーベイビー」です。今は真面目そうに?弁護士をやっているようですが、高校の時はリーゼントで皮ジャン姿で「君はファンキーモンキーベイべェー♪♪~」なんて、ヤッテたのです・・・(笑)。男の私でも「カッコエエな~」と思ったくらいで、その後のクラシック楽曲の我々オケ部の出番が出にくかった事、出にくかった事・・・半分観客白けていましたねェ・・・(笑)。当時の学内音楽祭でも、K君らのキャロルに真面目そうな女子も仰天するくらいキャーキャーワーワー言ってましたから、盛り上がる事間違いなしです・・・(笑)。3,4回はアンコールの嵐でしょう・・・(笑)。これから当時のメンバーを探す事(連絡先)から初めて、ひとりひとり出演交渉をしていくのですが、練習場所は弊社「スタジオ0724」を無償提供します。各バンドの練習場所を捜すのに困らないように、一手に引き受けるのです。これだけでも違うと思います。まァ、私の「音楽プロデューサー」としての初仕事です・・・(笑)。しかし、大阪のリハーサル音楽スタジオ業界の「ツートップ」と言われるのは、神戸や名古屋や東京でもレコーディングスタジオやライブハウスを含めて多店舗化されている「studio246」さんと「ベースオントップ」さんですが、246の創業経営者は歌手の円広志さんというのは有名で、ベースオン創業経営者の水守さんが、まさか鳳の先輩とは思いもよりませんでした・・・(笑)。貝塚の音楽業界の重鎮である中野ひろしさんも鳳の大先輩というのも、なにか不思議な縁を感じますねェ・・・ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2016.02.22
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日本は今、五郎丸選手の活躍によって、チョッとしたラグビーブームです。このラグビー、堺市にある鳳高校時代に経験しました。実はオーケストラ部に入る前に、2週間ほどラグビー部に在籍していたのです。そしてナント、当時は鳳高校の体育の授業で男子は柔道と共にラグビーが必須だったのです。友人に誘われてラグビー部に入ったものの、最初運動部室棟に入った時に驚きました。まるで豚小屋?のように雑然として汚かったのです(失礼!)・・・「ホンマかいな?これ着るの?」というくらい、もう何日も洗っていなくて、汗と泥にまみれたジャージを着せられ時は、これが旧制中学の伝統か?と変に納得したような自分がいました・・・(笑)。当時流行っていたテレビ青春ドラマシリーズの「青春とはなんだ」「これが青春だ」で、これまでラグビーだったのが「飛び出せ!青春」の村野武範からサッカーに変ってしまい、先輩らが「何でラグビーなくなったんや!」とぼやいていましたねェ・・・「われら青春」の中村雅俊からまたラグビーに戻りましたが・・・ラグビー部の練習や授業でタックルをするのですが、これがナカナカ勇気がいるんですねェ・・・運動場はもちろん芝生ではなく、普通の土です。腰から上を狙えば倒れる事も少ないですが、先輩や先生は「足を狙え!」と叫びます。膝から太ももを狙えば、確実に2人とも倒れますし、場合によってはタックルした方は相手の踵で胸や顔を蹴られます。柔道のヘッドギアを付けてしますが、毎回何処かケガをしたものです。このテレビ青春ドラマシリーズの1960年代の最初の「青春とはなんだ」と「これが青春だ」に準主役として、鳳OBの俳優の故・藤木悠さんが出られていたのも懐かしいです・・・藤木さんはラグビー部ではなく野球部で、戦後の学制改革で旧制鳳中学の野球部員の殆どが泉大津高校(旧制女学校)に移ってしまい、彼らが主体となって甲子園に出場したという話を聞いた事があります・・・また、柔道の授業も厳しかったですねェ・・・もう2回目の授業から、さっそく体重別で座って寝技の乱取り(試合)を始めました。毎回試合を行い、勝敗によって成績が決められ級もくれましたので、みんな必死です・・・よく試合中に、首の絞めあいで気絶(おちる)する者もおりましたが、先生が柔道の達人でしたので活を入れると直ぐに元に戻りました。2年間で殆んどの投げ技と絞め技を学びましたが、やはり体重の重い奴や腕力の強い奴には敵いませんので、小柄な私には接近戦は不利だと悟りました。その経験が、その後相手との間合いをある程度取って戦う空手に向かわせたのかもしれません・・・柔道とラグビーの授業でかなり鍛えられましたが、水泳も厳しかったです。100m泳げなければ卒業できなかったのです。私は水泳はどちらかというと得意でしたので問題はありませんでしたが、泳げない生徒は夏休みに泳げるまで補習、補習でした・・・という事は、鳳OBやOGにはカナヅチがいないという事です。まァ、当時の男子の柔道やラグビーでの厳しい体育の授業が、男が実社会に出た時に絶対必要な「闘争心(イイ意味での)」を養う上での下地を作ったと言えるかも・・・そんな体育の授業が厳しかった半面、他はノビノビと自由でしたねェ・・・私が入学(1972年)する前年まで鳳では「学生運動(学園紛争)」が激しかったようで、校舎のアチコチに落書きを消した跡が沢山見受けられました。当時大学紛争の影響を受けて、全国的にいくつかの高校で高校生がヘルメットを被り、反戦や学生自治会体制の改革を求めたりしてデモをやって暴れたのです・・・そんな社会的現象が地方のだんじり祭にも影響して、中学生だった私達はヘルメットを被ってだんじりを曳いていたのです(ファッション的な意味あいが大きいですが)・・・当時の高校生や大学生がそんな元気があったなんて、信じられますか?ある意味、そんな元気な世代だったから、バブル期に日本経済を引っ張っていったのかも・・・?まァ、高校の学園紛争が完全終結した代償として、生徒側は自由を勝ち取ったのです。大阪の高校で制服がない(自由服)ところが多いのも、そういった事が原因です。鳳は残念ながら自由服になりませんでしたが、その他では自由な雰囲気が渦巻いていました・・・今では信じられない事ですが、まず単車(原付)通学が許可されていたのです。大阪一広い校舎には、自転車置き場と同じように単車置き場があったのです。私も阪和線で通うと4,50分かかったものですから、一時期、当時流行のダックスホンダで13号線を走って20分で通ったものです。もちろん高校生ですから、原付に乗れば次は250CC・・・ナナハンに興味を持つのは自然な事です。デカい単車で通学してくる生徒は、校内に入れませんので、裏門前の店の前に停め、昼休みともなると、バイク談義に花が咲いていました・・・(笑)。当時は大らかな時代で、先生も黙認していたかも・・・?誕生日が早い者には、夏休みに自動車の免許を取って、2学期から車で通学してきて近所の田んぼに駐車している奴もいたようですが、それでも停学や退学という話は聞いた事はありませんでした。遠足も各クラスが自由に決め、自由服で現地集合現地解散です。美術の授業も、教室で油絵を描いている者は少なく、多くは広い校庭のあちらこちらで自由に描いていました。当時あった松林のベンチで瞑想と称して昼寝していると、就業ベルを聞いてから走って教室に戻るのですが、校庭が広すぎるので走るのも必死でした・・・(笑)。校庭が広すぎて、当時何も使っていない?第2グラウンド(今の本校舎辺り?)というのがあったのですが、結局卒業まで一度も行かず仕舞いでした・・・(笑)。美術を専攻した生徒は、1学期に1回各自で美術館巡りが義務づけされていましたが、イヤイヤ行ったとしても、行くと必ず感動するんですねェ・・・これが。感性を磨くという意味で、ホンモノの芸術品を見る重要性を高校生ながら感じたものです。当時はフォークソング全盛で、校舎や校庭のアチコチで昼休みともなるとギターの音が聴かれ、学生集会では最後には必ず「遠い世界に」をみんなで歌っていましたねェ・・・私が所属していたクラシック中心のオーケストラ部を飛び出して音楽愛好同好会なるものを創った先輩が、私の好きなブラスロックのシカゴのコピーをやりだしたり、同級生らがキャロルのコピーをヤッタリして、教室や校庭でドラムをドンドン叩いたりエレキギターをガンガン鳴らしても何も問題がないどころか、声楽の先生が逆に「〇〇君、カッコええわ・・・」と言い出す始末です・・・(笑)。当時ロックをヤッテいる事が、不良っぽく反社会的な時代背景もありましたが、そのリードギターの同級生が今は真面目に弁護士をやっている事を考えれば、何がイイのか悪いのか?・・・青春時代は勉強だけでなく、大いに悩むべしというのが正解だと思うのです・・・鳳高祭も盛大で、体育祭では学年を縦割りにして団をいくつか作って、学年に関係なく楽しんでいましたし、文化祭では喫茶店や劇、3年時には映画を作りました。2年の劇では主役を演じ、3年の映画では音楽担当(BGMの選曲)でした。もちろん、全曲シカゴです・・・(笑)。当時のミキサー担当もシカゴの大ファンで、誰も文句を言いませんでした・・・(笑)。「卒業」という題で、先生や後輩から心配されるほど受験勉強を忘れて、クラスみんなで映画製作や体育祭に没頭したものです・・・(笑)。その甲斐あって、何度も何度も再上映を繰り返すほど人気を博しました。残念ながら、その16ミリテープが何処へ行ったか分りません。もし見つかって、もう一度見れれば多分みんなで笑って大いに泣くでしょう・・・(笑)。そんな、みんなの思い出が詰まった作品だったのです。そのミキサーくん、それがキッカケで、その後某有名テレビ局の本物のミキサーになり、今はそのテレビ局の制作部長です。人生って、ホント分らんモンですねェ・・・まァ、高校時代は自由の裏には責任が伴うのだと学びましたねェ・・・という事で、高校のラグビー部も少ないようで、大阪南部の大和川以南の泉州地区(第4学区)では鳳しかラグビー部が無いようです。泉州でラグビーをやりたければ、鳳しかない訳です。ラグビーブームが、鳳の追い風になるか?新聞のスポーツ欄やスポーツ紙は野球とサッカーの記事ばかりです・・・世の中、チョッと野球とサッカーに片寄りすぎでは?高校の部活でも、運動神経の良い子は野球とサッカーに集中しがちです。もっと分散して、他のスポーツにも目を向けて欲しいものです。そういう意味で、今回五郎丸さんのお蔭で、世の中ラグビーにチョッと関心がいったのは歓迎すべき社会的現象です。ビジネスと同じにしてはいけませんが、やっぱり、「100m走より800m走です」・・・競争の激しい分野より競争の少ない(ニッチ)を狙う方が実りが多い(成功率が高い)と思います。個人的には、世界的に人気がありますが、日本ではマイナーでオリンピックと国体種目でもある空手とウインドサーフィンにもっともっと関心をもって欲しいのですが(空手は2020東京オリンピックからほぼ確実)・・・(笑)。今は少子化で、公立高校でもPRしないとナカナカ生徒も集まりにくいようですし、学区も撤廃され、来年から前期も後期もなくなるようで、私立高校も入り乱れて各高校が淘汰されないように必死のようです。少子化で生徒が減っているのですから、経済の原則から考えれば、パイの奪い合いになるのは当たり前の事ですが・・・そういう意味で、大阪に3校しかない私の在籍していたオーケストラ部と、「泉州唯一」のラグビー部がセールスポイントになるのではないでしょうか・・・高校は社会人になる単なる通過点に過ぎませんが、多感なハイティーンにとって人格形成という意味で最も大事な時期であろうと思います。勉強+アルファがあってこそ、将来有能な社会人となり、充実した人生を送れるのだろうと思います。もう一度高校生に戻るなら、富木駅からの通学路途中にあった三原流の空手道場に通って、高校に空手同好会を創っていたでしょう・・・1年生で創っていれば、2年でブルースリー・ブームでしたので、モテ過ぎて困っていたでしょう・・・(笑)。不動産の事業用不動産の仲介で、塾のオファーも多いですが、どこも進学実績ばかり売り文句にしているのも分りますが、塾の方も高校の中身をもっと知る努力をすべきだと思います。そりゃ、成績順に受験高校を振り分けるだけなら、そんな楽なことはありません。しかし高校受験だけでなく、その子の将来の人生を本当に考えるなら、どこの高校がどんな特徴があるのか?その子の性格に相応しい最適の高校がドンピシャで選べるなら、そんな素晴らしい塾はないでしょう・・・それが少子化で競争が激化している塾業界での、塾の本当の差別化かもしれません・・・
2015.12.26
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先日、貝塚のお隣にある泉佐野の犬鳴山温泉郷にある旅館「み奈美亭」で、毎年恒例の木島小学校5、6年のクラス会でした。今回は残念ながら、担任の90歳の御高齢になる先生は足腰が不調という事で出席できませんでした。しかし2次会のカラオケに行く途中で、先生宅にお土産を届けに行った際、元気なお顔を拝見して安心しました・・・(涙)。今回4回目で16名の参加でした。来年とうとう還暦です・・・来年も11月のクラス会の予定ですが、その前に3月に大阪心斎橋近くのクラス仲間がオーナーをしている南船場のレストランでヤル事に決まりました。今回も「み奈美亭」 → カラオケ → ライブハウス となりましたが、ミナミは夜の遊びに事欠きませんから、終電に間に合うでしょうか・・・(笑)。今から楽しみです・・・しかし、こんな全国的にも有名でない犬鳴山温泉郷にまで中国人観光客がいるのには驚きです・・・おいおい、こんなところまで来るんかい・・と。ネットの力に驚きを隠せません・・・考えてみれば、不動産の電話でのオファーも、中国人らしき人からたまにかかってくるのが気になります・・・外国からの観光客が増えたからと言っても、中国人の比率が多すぎます。世界中に日本の悪口を言いふらし、日本でも尖閣諸島で揉めて、南沙諸島でも周辺国と問題を起こしている中国です。そんな中国人が日本のあちこちに、観光客や留学や仕事で日本に滞在しているなんて、普通に考えればちょっとオカシイのではないかと思います・・・外務省は今年1月に中国人に対するビザ発給要件緩和したのが中国人急増の要因のようですが、もう一度元に戻すべきでは?先日のフランスでのテロ事件や尖閣諸島や南沙諸島での中国の実際の行動を考えれば、中国人の爆買いを手放しで喜んでばかりはいられませんし、我々日本や日本国民を守るために入国審査をもっと厳しく制限し、不動産取引も外国人をある程度規制すべきだと思います・・・という事で、「み奈美亭」で美味しい料理を頂き、大いに盛り上がりました・・・どんな集まりもそうですが、クラス会みたいな20人くらいまでが、「ひとつ」になって一番盛り上がりますし、オモシロいですねェ・・・50人を超えるような学年同窓会や祭の寄合い等は、結構バラバラになり全体として盛り上がりに欠けるのは仕方のない事です。このクラス会も今回で4回目、分科会?も含めると結構頻繁に会っていて、イロイロと親密になってきています・・・5,6年同じクラスですが、基本的に、木島保育所 → 木島小学校 → 貝塚三中と10年間一緒の幼馴染ですし、社会人になってからも地元で住んでいますので、高校大学は違っても、仲の良いのは当たり前と言えば当たり前かもしれません。この辺が大人になってからの付き合いと決定的な違いで、良い面もありますし悪い面もあるところなのですが・・・かなりディープな近況報告で、もう互いにプライベートな事も知ってしまいました・・・(笑)。まァ、何だかんだ言っても、人生あと残り20年くらいの付き合いです。20年なんて、あっという間ですし、考えたくもないですが、これからだんだん減ってきます・・・(涙)。それまで仲良くいきましょう・・・人生楽しい方がイイに決まってますから・・・(笑)。2次会は、いつもの様に大半がカラオケ「まねきねこ」に雪崩れ込みました・・・ここで3時間もいましたが、誰も1曲も歌わず喋りっぱなしです・・・大勢のオッサンとオバハンがカラオケで、歌わずに喋り通しって、異様かも・・・(笑)。イヤ、本来の同窓会とはこういうモノで、会ってワイワイ喋るだけでイイのです・・・3次会は、泉佐野のライブハウス「音楽倉庫」へ。この日は「泉佐野長者バル」というイベントで、泉佐野駅周辺の飲食店街がたいそう賑やかでした。音楽倉庫も満員御礼でしたが、もう友達でもあるオーナーの計らいで、我々にど真ん中のイイ席を取っておいて頂き感謝です・・・(涙)。この日は2バンド+αのライブ演奏を聴きました。やっぱり、生演奏はイイですねェ・・・たまたまFBで知り合ったミュージシャンの方の演奏を聴く事ができてとてもヨカッタですし、プロのテナーサックスのジャズにウットリ・・・音楽は人を幸せにします。もちろん、これから開業しようとする「音楽スタジオ」の件もミュージシャンの方にキッチリ営業してきました・・・(笑)。私にとってリハスタは全くの新規事業ですし、音楽業界は未知の世界ですから、スタート前に充分なリサーチとプレゼンをやっておかないと不安で仕方ありません・・・鳳高校時代はクラシック中心のオーケストラ部でトランペット、大学時代は中学の同級生らと桑名正博のコピーバンドでドラムをしながら高校の同級生のオリジナル曲中心のフォークデュオにボンゴの助っ人をしていました。今母校のオケ部の顧問の先生が1つ後輩がやっているようですし、各大学のオケ部に鳳OBが沢山いるようですし、堺フィルハーモニーのメンバーの多くもOBのようで、オケ部の同級生が某有名音楽専門学校の管理職をやっていますので、彼らに声を掛け是非スタジオを利用してもらうように営業活動をするつもりです・・・使えるコネは使い倒さないと・・・(笑)。また、ジムで私も実際ヨガやズンバやヒップホップといったスタジオプログラムに入っていますので、スタジオを利用したいというヨガ&ダンス系インストラクターに声を掛けられたり既に声を掛けています。他社には殆んどない22畳の大型スタジオの計画なので、バンドやダンスでパフォーマンスの練習も出来ますし、他社にない15畳の楽器「保管庫」を併設するのがセールスポイントです。楽器をイチイチ家から持ってくるのは邪魔臭いものですし、ウインドサーフィンの道具と一緒で、他人の道具と違ってミュージシャンは自分のギターアンプやスネアドラムやシンセサイザーで音を出したいものです・・・地元の青年団のだんじり祭の練習のオファーで、直径2尺5寸の大太鼓が入るように、防音ドア巾も別注で90cmにしました。また器材関連でも、偶然アドバイザー的な人との出会いも複数ありました。その他、高校の大先輩が地元貝塚の音楽業界の重鎮だったり、友人知人の仕事やプライベートを含めたバンドや、ブログやFBでの告知も以前からやっていますので、未知のカテゴリーや練習方法の音楽バンドやダンス系の電話やメールでの問い合わせが驚くほど多いです・・・そんなこんなで、そこそこ手応えを感じて未知のスタジオ経営に自信を持ちつつありますが、まァ、そこはヤッテみないと何とも分かりません。それがビジネスのオモシロいところで・・・それに、スタジオ運営が落ち着けば、私自身ドラムスクールに通ってもう一度基礎からやり直し、37,8年ぶりに念願の「ドラムの再開」を果たしたいと思います。そして、多少カッコがつくようになれば、何処かのバンドに加入させてもらおうと・・・どっちか言うと、こっちがメインか・・・(笑)。まァ、今後のリハーサル音楽スタジオ経営にも、これで少しは弾みがついたかも・・・(笑)。毎回この会で、昼前から集まって3次会まで12時間も遊び倒しますが全く疲れません・・・(笑)。しかし、泉佐野駅界隈の人の賑わいや粋なショットバーなど夜の雰囲気を見ると、それに比べ地元貝塚駅周辺の落ちぶれ感に情けなくなります・・・昔から佐野は貝塚に比べて、当時のナウいヤング受けする粋なライブハウスやショットバーやが多かったのです・・・(笑)。30数年前に貝田にジャズのライブハウス「シンバル」があり、地元ジャズファンの憩いの場でもありました。ちょうどその頃、貝塚駅や岸和田駅近くにジャズバー「スポット」や「ピットイン」がありましたが(今でも)、佐野は一歩進んでいて、「漫画屋」「摩天楼」「ブレイクダウン」「レモンイエロー」「ロンスター」といった粋なバー&レストランやカフェが多かったのです・・・貝塚のDNAはコンサバで、佐野はアグレッシブか・・・?私は貝塚と熊取のハーフで、母親は熊取と泉佐野のハーフなので、さしずめ私は泉佐野のクオーターという事になりますので、多少はアグレッシブか・・・(笑)。
2015.11.16
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昨日はミナミで、毎年恒例の鳳高校(27期・昭和50年卒)1年10組のクラス会でした・・・学校の同窓会というのは、大人数の学年単位でするのもイイですが、少人数でやるクラス会の方が大いに盛り上がりますし続きます・・・小学校のクラス会もよくやって毎回大盛り上がりですが、これが学年(3クラス)となると規模の問題で毎年するのはチョッと難しいでしょう・・・高校も45人クラスで10クラスもあり、5年毎の学年同窓会には200人弱来ますから、まとめるには大変だと思います・・・そしてクラス会と言っても、だいたい高3のクラス会が多いものですが、「高1」のクラス会というのがオモシロいところです・・・それだけ、みんな仲が良く、思い出深いクラスだったのです・・・多感なティーンエイジャーのど真ん中である中3から高1への「変化」というのは、人生にとってかなりショッキングなものです・・・子供からチョッと大人になり、急に目の前が「パーッ」と開いたとでも言うのでしょうか・・・その同じ時代に一緒に過ごしたのですから、忘れろと言っても忘れられるはずもありません・・・勉強、部活、恋愛、学園祭、キャンプ、遊び、単車、富木駅、遠足・・・思い出が一杯詰まっています・・・夏に担任の先生家族と槙尾山にクラスでキャンプに行った時、夜の肝試しで誰かが川に落ちて病院に運ばれたというのも全く忘れていましたが、言われてみて記憶が蘇ってきたのには驚きです・・・10代の時の記憶や体験は、自分では分かりませんが、身体の何処かに残っているのでしょうねェ・・・思い出を語って楽しく時を過ごすという意味で、同窓会というのはホンマいいですねェ・・・このクラス会も、もちろん「最後の2人になるまで、死ぬまでやろか!」という意気込みです・・・(笑)今回は、1年10組以外に4人飛び入り参加です・・・1年のクラスが違っても、何の問題もありません・・・むしろ同じ学年であれば大歓迎です・・・そうやって、27期全体が他の学年から羨ましがられるほど盛り上ってくれればイイのです・・・事実、我々27期の1年時、2年時、3年時の何クラスかは、定期的に何処かでクラス会をやっているようです・・・それに加え、部活の4~5学年を横断した飲み会もチョコチョコあるようです・・・自分的には、2年1組と3年9組のクラス会があればオモシロいと思いますし、オーケストラ部も在籍していた当時の集まりがあれば飛んでいくのですが・・・(笑)大阪府で3校しかないオーケストラ部も、今は全国大会にも出て大変盛り上がっているようで何よりです・・・私が在籍していた当時(S47~49年)、オケ部を創設した顧問の先生が御病気で長期休んでいたため、部員不足で廃部か弦楽器を切り離してブラスバンド部で再スタートするかどうかの瀬戸際だったのです・・・昭和20年代はテレビ出演したり、日本で最も有名な指揮者である故・朝比奈隆氏が来校されたりして大変盛り上がっていたにも拘らず、その20年後の我々の世代ではどん底だったのです・・・3年生の先輩らが「引退」することなく卒業ギリギリまで活動してくれるだけでなく、卒業後大学生や浪人生になってでも学生服を着て演奏会に助っ人で出てもらって、何とかこの危機を切り抜けたのです・・・今ある鳳オケ部も、彼ら先輩(S48年、49年卒)のお蔭だったのです・・・そういう意味で、卒業後2,3回しか会っていない先輩らと一杯飲みたいものです・・・という事で、今回のクラス会も近況報告が1人目で脱線してしまい、そこらじゅうで昔話で「ワー!」という盛り上がりで、何が何だか分からないほど「アッと」いう間に時間が過ぎてしまい、2次会はいつもの様にカラオケに突入です・・・土曜のミナミは外国人観光客と若者で溢れかえり、満員御礼のカラオケではだいぶ待たされました・・・カラオケでは昭和音楽のバトルです・・・松山千春、野口五郎、アリス、ユーミン、石橋正二、五つの赤い風船、井上陽水、吉田拓郎、EW&F、昭和演歌・・・昔話で大いに盛り上がる一方、現実直面している老後問題である年金や退職後の事や孫や親の介護の話題という真剣な話も・・・来年還暦60歳を迎える我々昭和31年生まれならではの会話です・・・昨日は久しぶりのミナミでしたので、4時間前に難波駅に到着して独りミナミを徘徊しました・・・(笑)まず高島屋と大丸で自分の好きな紳士服ブランドと鞄と靴をチェック、心斎橋からアメリカ村、飲み屋街の東心斎橋周辺を何回かカフェに入って休憩しながらノンビリと時を過ごしました・・・ノンビリとは言いながら、キッチリ地元の不動産情報を見たり、繁華街の変貌を実感する事によって、業者としてのセンスや嗅覚を磨く事を忘れません・・・泉州の田舎にずっと籠るのはNGです・・・たまには、都会の空気を吸って目を覚ますのです・・・(笑)こうして自分の五感を通して、「日本第2の世界の大都市 大阪」の今を感じるのです・・・まだまだ現役の商売人なら、当たり前の事ですが・・・普段なかなかこんな事は出来ませんが、この独り自由にブラブラというのはイイですねェ・・・浪人時代を思い出します・・・高校時代もずっと低空飛行でしたし、浪人時代も予備校をサボり勉強もせずにズルズルと、一生懸命に働く親に「悪いなァ・・・」と気兼ねしながらも阿倍野天王寺周辺をブラブラと・・・環状線を何周も乗ったり、JRで京都や和歌山へ当てもなく行ったり来たり・・・天王寺や中之島図書館で受験に関係のない読書を一日中したり、それはそれは寂しく辛く孤独で惨めな浪人生でした・・・グレず本当の非行に走らなかったのは、病弱な父親が一生懸命働いていた後ろ姿を見ていたからかもしれません・・・やはり父親というのは、子供にガミガミ言うのではなく、一生懸命働くのが教育だと・・・まァ、この浪人時代は長期スランプとでも言うのでしょうか・・・今で言う軽い「鬱」だったのかもしれません・・・同級生らは大学生や社会人になり、自分ひとりだけが取り残された感が強かったですねェ・・・まァ、失敗の経験が無く順調に人生を歩んできた人間には、この屈折した心情を本当に理解するのはチョッと難しいでしょうねェ・・・この浪人の経験で、自ら考える事が習慣になり孤独に強くなったのかも・・・(笑)その後も勉強に身が入らず不完全燃焼のまま、本来第一志望だった建築学科とは程遠い大学へ・・・ここで、完全に自分の気持ちを意識的に切り替えましたねェ・・・ここで切り替えねば、一生ダメだと・・・数年のサボり癖が一生を台無しにすると・・・しかし我々27期、他の学年から羨ましがられるほど仲が良いそうです・・・ちょうど大阪府立高校の学区が9学区制(今は4学区制)に移る前の5学区制「最後」の学年で、通学区域が堺から岬町までと広く多種多様な生徒が集まって刺激があり、大学受験は旧課程「最後」の学年だったからか(理系受験に必須の数学と理科が浪人すると不利)・・・それと鳳高校は入学前年までヘルメットにゲバ棒で暴れた学生運動が激しく、校舎がペンキの落書きの跡形だらけで、その反動で校則があってないようなもので、単車通学OK、遠足は各クラス単位で自由に決め私服で現地集合解散、当時全盛だったフォークソングをギターを持ち込んで何処でも歌っていたり、授業は出席さえすれば成績が悪くても落第しなかったり、学園祭は何をヤッテも自由・・・と、昔は「三国地獄」「泉陽牧場」「鳳監獄」と呼ばれていた時代もあったようですが、鳳がイメチェンして自由が満ち溢れていた「最初」の学年だったからか・・・(笑)という事でカラオケの最後は、学生集会でよく歌っていたフォークソングの五つの赤い風船の「遠い世界に」と、日本の偉大な作曲家「山田耕作」作曲の「校歌」をみんなで合唱です・・・「遠い世界に」の最後の歌詞で これが日本だ私の国だ 若い力を身体に感じて みんなで歩こう長い道だが 一つの道を力の限り 明日の世界を探しに行こうこれって、今の政治経済が混迷した日本の状況にピッタリで、我々日本人へのひとつのメッセージになるのでは・・・まァ、40年前に戻ってチョッとしんみり、何人かは泣いていたのかなァ・・・(笑) ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2015.02.22
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昨日は南海貝塚駅前の「大阪庄や」で、恒例の貝塚三中の仲の良いツレの3人だけの忘年会でした・・・会うのは8月以来です・・・祭の「寄り合い」もそうですが、この三中の飲み会も特に話題も決めずに会って無駄にグダグダ喋るというのは、都会の人にはなかなか理解が出来ないようです・・・会うのが目的で、それ以外の目的はなのです・・・仕事絡みだと、表面上に出さなくとも、心の奥底に「お金」を含めた損得勘定が絶対あるはずです・・・そういう感情を乗り越えた関係が「本当の関係」だと思います・・・生活する上で、そんな仕事絡みの関係ばかりだとココロが疲れてしまいます・・・多くのサラリーマンが定年後元気が急に無くなるのも、残念ながら「仕事一筋」だった事が大きな要因です・・・定年(或いは途中で退職)で仕事関係がリセットされ、一斉に自分の周りから人間が離れていきます・・・仕事だけで繋がってきましたから、当り前と言えば当たり前ですが、人生最大のショックと言えそうです・・・まァ、そんな当たり前すぎる事を定年後に気付いても、後の祭りです・・・やはり、現役時代から仕事以外の関係を「努力して構築して」いく事が、実りある人生を全うする道だと思います・・・朝から晩まで家族を養う為に一生懸命働いて、休日は家庭サービス・・・30,40代は特に多忙を極めます・・・しかしそんな時こそナカナカ大変ですが、将来のために「自分自身」のプライベートを少しでも充実させる努力をするのです・・・学校の勉強で言うと、受験勉強ばかりせず(或いはゲーム等遊んでばかりせず)、受験とは関係ない芸術や体育といった部活にも、合間を縫って一生懸命するようなものです・・・要は一方に偏るのではなく、人間として「バランス」をとる事がスゴク大事なのです・・・偏った生き方をすれば当然モノの考え方も偏り、行き詰った時に逃げ道がありませんので、悪循環に陥って手の施しようもありません・・・その点バランスの良い生き方、悪く言えば中途半端で八方美人的な生き方をする方がモノの考え方もある程度柔軟で、困難に陥った時もリカバリー出来る可能性も高くなり好循環できそうです・・・まァ、そんな生き方を目指したいですねェ・・・地元のだんじり祭、地元自治会(町内会)、親戚付き合い、小中高大の同級生の会、部活OB会、ウインドサーフィン、空手、ジム・・・純粋にプライベートに徹し、けっして仕事関係の人間と一緒にしない事です・・・バブルの頃にゴルフを取引商社や銀行の仕事の絡みで仕方なくしていましたが、これなんか最悪でした・・・本業の織物製造に絶対の自信を持っていれば、黙っていても(ゴルフなんかしなくても)仕事はついてくるはずです・・・今の不動産屋稼業にはゴルフはつきもので、そういった理由でお誘いを一切お断りしていますが、何の支障もありません・・・若い時はいざ知らず、もうこの年になって、したくないものをイヤイヤするのも馬鹿げていますし、堂々と断っているだけの事ですが・・・(笑)年を取ると残された時間が気になり段々我儘になるもので、ゴルフだけに限らず、キライなモノや人には距離を置いて、好きなモノや人に集中しようという「ストレスを減らす」知恵が働くものです・・・(笑)しかし、私はプライベートや趣味の飲み会でも、仕事の名刺を配ります・・・「公私混同するな!」と言われば、それまですが、自営業者も含め我々オーナー企業経営者は、サラリーマンと違い「仕事=自分」ですので、公私混同すべき!だと思います・・・この辺がサラリーマンとオーナー経営者との大きな違いです・・・仕事とプライベートが明確に分けれない・・・織物業を廃業してトランクルームと不動産屋も営んでいますが、不動産に関しては織物時代や地元地域のコネクションを大いに利用させてもらっていますから、サラリーマンには絶対マネの出来ないオーナー経営の大きなメリットと言えるでしょう・・・この辺が身体が健康で仕事が順調であれば、退職すれば翌月から無収入になるサラリーマン定年(60歳~65歳)に関係なく、70歳でも80歳でもまだまだ稼げる可能性のある大きな要因で、人生「最終戦」をウマく乗り切る切り札かも・・・売上何兆円のサントリー社長だった佐治敬三さんでも、どこへ行っても「ビールはサンサン、サントリーをヨロシク!」と言ってたくらいですから、零細企業のオッサンは見習って、何処へ行くのも企業名を書いたTシャツや服を着て出歩かなければオーナー企業の「本当の覚悟」とは言えません・・・(笑)だから私は佐治さんを爪の垢ほど見習って、何処へ行くのも名刺くらいは配れるようにしなければならないと、いつも名刺を持ち歩いているのです・・・また、デカデカと宣伝を書いた軽トラックを極力乗るのも、そういった精神です・・・一枚の名刺と軽トラで、「1日1人でも」トランクルームと不動産を知ってもらえれば・・・ただただ、それだけの想いです・・・いくらネット社会と言っても、こういったアナログ戦略もバランスとして重要なのです・・・まァ、しかし名刺を配ったからといって、本質的な期待はしない事です・・・そんな事で仕事がもらえる程、世の中甘くはありません・・・私を含め一般消費者はインターネットの普及で情報量が格段に増え「モノの値段の比較が容易になり」増々賢くなり、企業のグローバル化も含めて、友達や親戚関係だけや長年の取引関係だけでモノを選ぶほどバカではなくなりました・・・ある意味、従来の古い旧習や商習慣やシガラミから解放されたのです・・・逆に、友達や親戚関係や長年の取引だけでモノを選択する人間(企業)は、チョッと考えものです・・・という事で、4カ月ぶりに会っての話はいつものように盛り上がりましたが、何回も同じような話にも苦笑いです・・・(笑)小中学校からもう半世紀の付き合いで、こんな飲み会ももう30年以上も続けていますが、ナカナカ飽きませんねェ・・・(笑)三者三様の仕事で立場も境遇も違いますが、毎回イロンナ刺激をチョッと受けて、「俺も頑張ろう!」と思うのです・・・決して馴れ合いの関係ではない、こんな「男子三日会わざれば括目して見よ!」的な男の友情って、素晴らしいと思います・・・こういう「前向きな関係」というのは明日への活力にもなり、空手やウインドサーフィンの仲間にも言えますし、今後もこういった関係を維持したいと思うのです・・・モチロンこの関係を維持するためには互いに努力が必要で、男として一番大事な仕事を中心にガンバリ、空手に関しては取手と形と約束組手を中心に稽古に励み、ウインドはジャイブとウオーターを・・・イヤ、もうジャイブを諦め、更なる快楽?を求め、フィンとストラップをいじってヘルキャットでスピード勝負か・・・(笑)ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2014.12.29
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昨日は貝塚市地蔵堂の「たから寿司」で、恒例の木島小学校6年3組のクラス会(昭和44年卒、藤田学級)でした・・・第1回目の昨年から、これから毎年死ぬまでやろう?という幼馴染の会です・・・今回も21人と、クラスの約半分も集まってくれました・・・多くは、木島保育所 → 木島小学校 → 第三中学校 と、10年間一緒ですから絆も深いのでしょう・・・中には、関東から46年ぶりに駆けつけてくれたクラスメートもいました・・・卒業直前の3学期で、家庭の都合で遠方に転校せざるを得なくなり、その後居場所がなかなか掴めず苦労しましたが、やっと連絡がつき、快く大阪まで来てくれました・・・やはり、田舎特有の血縁や地縁を辿る地を這うアナログ的なネットワークがモノを言いました・・・都会の小学校では、決してこれだけ集まらないでしょう・・・担任の先生も88歳ですが、昨年からのクラス会でチョッと元気を取り戻したようで何よりです・・・このクラス会に出る事がひとつの張り合いになっているようで、人間「気持ちの持ちよう」というイイ例です・・・今回も2次会のカラオケまでつき合ってくれました・・・先生の元気さが、我々教え子の元気さを支えてくれます・・・すでに来年のクラス会の日程も幹事も決まっており、先生はもちろん、もう我々の楽しみにもなっています・・・しかし、今回も盛り上がりましたねェ・・・たからの1次会でしゃべり通しで、2次会のカラオケまねきねこでは歌いまくり踊りまくり、3次会の泉佐野のライブハウス「音楽倉庫」でも、ベテランフィリピンバンド(ターディーボーイズ)の70年代のロックやディスコにノッテ、踊り狂いました・・・(笑)本来ならライブは、いつものハコバンでしたが、ミナミのライブハウスではチョッと有名なターディーボーイズを我々のために特別にブッキングして頂き、この場を借りて社長さんにお礼を述べたいと思います・・・12月14日(日)には、「大阪で生まれた女」の大ヒットで有名なBOROのライブがあるそうです・・・みなさん、行ってやってください・・・そして、3次会まで半分以上がなだれ込みました・・・11時半から夜の11時までほぼ12時間、飲んで食べて、歌い疲れ、踊り疲れてもうヘロヘロです・・・(笑)このクラス会は、けっこう体力もいるのです・・・(笑)しかし、このクラス、ホント仲がイイです・・・12時間遊んでも、まだまだ足りません・・・(笑)私だけでなく、担任の藤田先生に習ったお蔭で、ちょっと大袈裟ですが「人生が変わった!」というクラスメートが何人もいるのです・・・やはり、エエ先生だったのでしょう・・・私の小学校3,4年の成績は悪く、図画工作を除いてオール3だったように思います・・・それも2に近い3でした・・・クラスの下から3分の1くらいだったでしょうか・・・そんなどうしようもない成績が、先生のお蔭で5,6年の2年間で上から3分の1まで上がりました・・・というか、勉強嫌いが「チョッと勉強が好きかも?」に変わったのです・・・この変化は、人生を揺るがすほど大きいと思います・・・その後、中学に入学してから更に成績が伸びたのも、5,6年生の「下地」があったからだと思います・・・成績上位3分の1は勉強が好きで、下位3分の1は勉強が嫌いなのです・・・上位になれば放っておいても勉強しますが、下位は放っておいたら増々勉強しなくなります・・・この「差」が増々開き、とてつもなく大きくなると思うのです・・・このキライからスキに変えてくれた先生の功績は、トテモ大きいと思います・・・この劣等生の気持ちは、元々賢く成績上位の優等生にはけっして分からないでしょうねェ・・・ある意味、私の人生を救ってくれたと言っても過言ではありません・・・これこそ正に、教師のあるべき姿だと思います・・・少なくとも私のこれまでの人生で、この小学校5,6年の2年間ほど大事で思い出深い時期はありません・・・成績が上位も下位も社会人になればリセットされて、同じスタートラインになるはずもなく、人生の荒波を超えるには9教科でも足らないぐらいですし、けっして学校の勉強だけで人生は決まりませんが、小中学校の成績がその後の4,50年の人生に、何らかの形で大きく影響を及ぼすのが現実です・・・という事で先生に、「100歳まで頑張って生きて、クラス会に来ちょうや!」と言って2次会で別れを惜しんだのでした・・・そして3次会のあと、深夜の泉佐野駅までこだまするオッサン&オバハンのいつもの万歳三唱で、来年の再会を祈願して締めくくったのでした・・・しかし、小中学校の幼馴染の同級生というのはイイですねェ・・・特に私の様に先祖代々生まれてからずっと同じところに住み地元で長く商売している者にとっては、高校や大学の同級生とは、チョッと意味合いが違います・・・それこそ物心ついた頃から思春期までの人生の一番大事な時期を一緒に過ごしていますし、高校からはバラバラでも、多感な青春時代も「同じ時代」を生きてきましたから、イロンナ意味で共有・共感する部分が多いと思います・・・この友情は無形の財産です・・・しかし人生第4コーナーに差し掛かって、昔の事を懐かしむというのは年とった証拠ですねェ・・・(笑)20年後の80歳近くになって、あの時(今の58歳)は若かったなァ・・・と、懐かしむのも言ってる間でしょうねェ・・・(笑)38歳から58歳までの仕事と子育てに追いまくられてきた20年間も、ホント「アっ」という間でしたから、これからの20年間(78歳まで)はもっともっと早く「ア」で来てしまうでしょうねェ・・・(笑)これからは気力も体力も更に「急降下」です・・・その為には、仕事と趣味を出来るだけ続けて「気力」と「体力」を充実させる事が何より大事でしょうねェ・・・イヤ、その前に病気で命尽きるか?・・・(笑)そしてこの年になって思う事は、「女は強い!」という事です・・・あの自分の命を賭けた大変な出産を経験すれば、「怖いもん無し!」になるのでしょうか・・・クラス会でも、女子はだいたい居場所が掴め元気にやってますが、男子の約3分の1は死亡、行方不明?、病気などで元気がないですねェ・・・ジムでも、オバサン達の元気さが目立ちます・・・子育てからの解放感と、男にはない順応性や協調性が彼女らの益々の元気さを支えているのでしょうか・・・私自身もチョッと冷静に考えると、20代の頃の半分以下の行動力と意欲しかないように思います・・・今、空手やウインドサーフィン、これからドラムと・・・そして聴く音楽にしても・・・イロイロやっているように思われるかもしれませんが、すべて10代から20代に経験したものばかりで、「新規」のものがひとつも無いというのがそれを表しています・・・まァ、女はドンドン元気になり、男は増々元気を失っていくとでも言うのでしょうか・・・これが、平均寿命の「10歳差」か・・・この「差」をよく考え、女子に負けないように少しでも長生きしたいと・・・(笑)ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2014.11.24
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昨日は早朝6時半からイオン泉南前のマーブルビーチでウインドサーフィン・・・開門が8時頃だと思っていましたが、早くから開いていてラッキーでした(盆からなのか?)・・・昼から天気が崩れるという事で、朝早く行って正解でした・・・案の定、1時くらいから雲行きが怪しくなって、落雷がありウインド終了・・・南南西から南西のチョッとガスティな風でしたが、アウトサイドでは6.7ジャストのコンディションで気持ち良く乗れました・・・この2週間で、もう5回も乗れて十分満足です・・・夏だけしかしませんから、イケる時に行っとかないと・・・休憩時に、本当はビールでも飲んでリラックスでもしたい気分ですが、そこはグッと気持ちを抑えて、ノンアルコールビールで乾杯です・・・(笑)充分ウインドを堪能して、行きはバンへイレンと高中正義で気持ちを高ぶらせましたが、帰りは心地よい疲れを癒すように、山下達郎とイーグルスでクールダウンです・・・音楽と共にウインドをするのは、気持ちだけでも30数年前の青春時代に戻れるからです・・・帰ってからチョッと休憩して、ローカル単線の水間電車に乗って南海貝塚駅前へ出陣・・・先ずは行きつけの地元駅前の老舗ジャズバー「スポット」へ・・・ここで初めてのビール・・・そしていつもの様に、マスターとアホナ話?を長々と・・・そして、駅前の大阪庄やで貝塚三中時代の仲の良いツレと合流・・・毎年、盆と正月前後2回の3人だけの飲み会です・・・もう30年以上続けていますねェ・・・何でも続ければイイというものではありませんが、大勢と違って3人だけですから、かなりディープな言いたい事も言えますし聞けるというのがイイですねェ・・・3人とも全く違った職業とポジションという事もあり、ある意味毎回イロンナ刺激を受け、人生にプラスに働いているかもしれませんが、会うこと自体が楽しみです・・・しかし年も取りましたので、もうそんなに食べたり飲んだり出来ません・・・明日の事や健康の事を考えると、ムチャをせずに一歩手前で止めるのがマナーですし、昼間のウインドで疲れ切った身体は正直です・・・生ビール2杯飲み、甘いカクテルを3,4杯飲んで終了です・・・これで2日酔いなしで、翌日もスッキリです・・・という事で、この3人の飲み会が明日への活力になっているのは確かで、次回の年末の飲み会まで楽しみです・・・ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2014.08.17
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親戚の家に、祖父が愛用していた火鉢があります・・・しかも、私の家の家紋(丸に三つ柏)入りの・・・以前、祖父の家を取り壊した時に、捨てるのは勿体ないからという事で、親戚の家に引き取ってもらったのです・・・「火鉢(ひばち)」・・・なんて、今の若い人は知らないでしょう・・・昭和30年代の子供の頃は、エアコンは未だありませんし、コタツも炭の掘り炬燵で、石油ストーブがボチボチ普及しかけた頃で、まだ何処の家でも火鉢が暖房器具のひとつとしてあったものです・・・未だ保育園に行く前の3,4歳の頃は、100mほど離れて住んでいた祖父母宅に毎朝行くのが日課でした・・・言って必ず、祖母に「おばあちゃん、紙と鉛筆!」と言って、当時近くに住んでいたひとつ年上の従兄と、戦争の漫画を描き始めるのです・・・2人で「ウイーン・・・」「ダダダッ・・・・」「バキューン・・・」とか言って、日本のゼロ戦とアメリカのムスタング戦闘機の空中戦をイメージして遊ぶのです・・・・未だ日本が戦争に負けて、15年ほどしか経っていませんでしたから、まだまだ子供にも戦争の影響が残っていたのです・・・戦争マンガに飽きたら、火鉢にあたってキセルの煙草を吸っている祖父のところに行って、「おじいちゃん、10円おく~(ちょうだい)」といって小遣いを貰うのです・・・そしてついでに、金平糖と氷砂糖(昔のお菓子)を口の中に入れても貰うのです・・・その10円をもって近所の駄菓子屋に行き、「ばあやん、売って!」と先ず第一声大きな声で店に入り(今考えれば、まだ30代だった店のオバチャンに失礼ですねェ)、何故かモノを買う前に先に10円を渡すのです・・・そして、何かを買ったら「何々こうたでェ!」と申告して店を出るのです・・・こんな買い方、多分親に教えてもらったのだと思いますが、合理的ですねェ・・・買いすぎもありませんし、絶対買うのですから選択眼が養われます・・・(笑)そして、駄菓子屋の横の昔の会館の前の会場(広場)で、紙芝居もよく見ました・・・特にお気に入りが、怖い怖いと言いながら見た「化け猫」でした・・・外で遊び疲れたら、「おばあちゃん、砂糖水!」といって、水道の水に砂糖を入れて、美味しい美味しいと飲んでいました・・・まだジュースやコーラのない時代で、その後「粉末」のジュースの元(渡辺のジュースの元)が発売されました・・・世の中に、こんな美味しいモノがあるなんて!・・・・と、感動したものです・・・今考えれば、「そんな程度の事で?」と言われそうですが、当時はまだまだ日本は物質的に貧しかったのです・・・そんな懐かしい思い出を、この火鉢を見るといつも思い浮かべます・・・父親は9人兄弟でしたので従弟の数も多く、従弟達もきっとこの火鉢でそんな思い出を浮かべるのでしょう・・・祖父は手先が器用で、いろんなモノを自分で作っていましたし、まだ小さかった孫の私にもノコギリの使い方やクギの打ち方、ネジの締め方などを教えました・・・ちり取り、鎌、ハンマー・・・その影響で、小学校1,2年で既に犬小屋や子供だんじりを自分独りで作れるようになりました・・・図画工作が昔から好きなのも、DNAもあると思いますが、祖父の影響も大きいと思います・・・まァ当時は、物質的にはまだまだ貧しかったですが、精神的には今よりもっと豊かだったように思います・・・田舎特有の隣近所とのお付き合いが今より密接で相互の助け合いの気持ちが強かったように思いますし、高度成長期に入りかけていましたので、何より将来への希望が満ちていました・・・という事で、今は便利な時代になりましたが、何か精神的にちょっと満たされない時代のような気がします・・・何なんでしょう・・・?時代の流れが速すぎてココロがツイテいけない・・・まるで私のスラロームボード(ファナティック・ファルコン104)のスピードが早すぎて、恐怖感を感じてしまっている(精神的にビビってしまう)のと同じです・・・(笑)このギャップは、良くないですねェ・・・このギャップを少しでも縮めるために、何か?しなければなりません・・・それが、これからの人生の最大の課題でしょうか・・・ ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2014.06.17
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昨日は大阪ミナミで、もう毎年恒例になってしまった鳳高校27期(1年10組)のクラス会でした・・・1年に1回、57歳のオッサンオバはんが16歳に戻るのです・・・みんなの顔を見た途端、一瞬で40年前の初々しい高校1年生にフィードバックするのです・・・大学受験を控えたチョッと擦れた高校3年生と違って、この間まで中学生だったこの高校1年生というのがイイですねェ・・・私なんか中学時代は丸坊主でしたから、堺の中学生のように長髪でオシャレで綺麗な?堺弁を駆使する同級生らに圧倒されました・・・とにかく坊主頭が田舎モンの証拠でカッコ悪かったので、髪の毛が伸びるのが待ち遠しく、中途半端に伸びた髪の毛を親父のチックで、一刻も早く無理やり左分けにしようとしたのが懐かしいです・・・(笑)また遠足が学生服ではなく自由服でしたので、それなりにカッコつけオシャレしようと、堺の中学出身の同級生らに負けまいと、遠足前の日曜に岸和田や難波のメンズショップ回りしましたねェ・・いつも集まるメンバーは毎回だいたい同じですが、今回新たに女子2名が加わりました・・・この調子で徐々に増えるとイイですねェ・・・思い出話に花を咲かせる訳ですが、キャンプに行った時に誰とカップルを組んで肝試しをしたとか、生物の授業の時に黄金塚に野外学習したとか、全く記憶に無かった事も徐々に思い出してくるのは何故なんでしょう・・・担任の英語の故・久保先生の授業の毎回暗記させられた最初の例文の"I met the boatman who had taken me across the ferry・・・"をみんなよく覚えていたのには、思わず吹き出しました・・・不思議ですねェ・・・こうやって小中高の10代のクラス会をするのは、記憶を蘇らせるという意味で、ボケ防止にイイかもしれません・・・まァ、大いに盛り上ったのは言うまでもありません・・・2次会は、いつものように7、80年代の歌謡曲や演歌、フォークソングのカラオケバトルです・・・「いちご白書をもう一度」「初恋」「夜明けの停車場」「卒業写真」「埠頭を渡る風 」「中央フリーウエイ」「私鉄沿線」・・・途中でロンT1枚になっても暑く、冷房ガンガンかけるほど、熱気ムンムンでした・・・とにかくよく飲み、よく喋り、歌いましたので(ダンスは無かった)、翌朝はチョッと二日酔いで声が少しかれていました・・・という事で、楽しかった青春時代のクラスメートと、次会うのを楽しみにしながら、夜の賑やかな心斎橋で別れたのでした・・・今回、生物のS先生が参加されるかもしれないという事でしたが(地方在住)、国立大学の准教授を退官されても、仕事が多忙を決めているらしく参加できませんでしたが、3月に関西に来られるという事で、その時に時間の都合のつく者だけで会う予定です・・・その時に、当時返し忘れたテストの答案用紙を返してくれるそうです・・・よく40年間も保管されていたと、驚きと共に感動します・・・しかも「わら半紙」だというのに・・・このシーン、感動モノですので、どこかテレビや新聞のマスコミ取材受け付けますよ・・・(笑)このS先生の最後の生物の授業で、テレビの青春ドラマさながら、先生もクラスのみんなも泣きました・・・先生の「棺桶に入る時に、自分の人生に悔いはなかった!と思えるような人生を歩みなさい!」という涙ながらの言葉が未だに忘れられません・・・それ程先生の言葉が我々16歳の胸に突き刺さったのです・・・そのあどけなさの残る16歳の少年少女が、まさか40年後にこんなオッサンオバサンになって再会するとは・・・高1から、高2、高3、浪人、大学、就職、同棲、出産、リストラ、結婚、離婚、海外生活・・・と、みんな其々様々な40年間のストーリーやドラマを積み重ねてきました・・・それが40年後にそれぞれの思いを込めて再会するなんて、夢にも思いませんでした・・・それがたった一点、高1の久保クラスで繋がっていたのです・・・不思議ですねェ・・・人生って・・・しかし23年後のクラス会に行くのも支障のある80歳になって、「あの頃は、俺も若かったなァ・・・」と57歳の自分を振り返るのでしょうか・・・そのこれからの23年というのも、今までの人生を振り返ると、ホント「あっと言う間に」来るでしょう・・・その前に3年後の還暦なんて、一瞬のうちにやってきます・・・(笑)しかし、ブログやSNS(ツイッター、フェイスブック)といったネットツールで、これまで殆ど不可能とされていた過去や遠方の知人や友人と連絡が取れるという事の凄さに驚きます・・・そのお蔭で、クラスメートや先生と繋がる事が出来たのですから・・・しかし一方で、この便利そうな?ツールを上手に使うか否かは、正に「諸刃の剣」ですので、如何に知恵を出せるかにかかっているように思います・・・ ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2014.02.23
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昨日はバレンタインデーという事で、今年は2つしかチョコレートを貰えませんでした・・・残念ながら昨夜は雪の為、ジムに行けませんでしたので、ジム仲間からはゼロでした・・・まァ、毎年ゼロですが、毎年「ひょっとして・・・」とワクワク期待して行くのです・・・(笑)しかし、バレンタインデーと言えば、最初に知ったのが忘れもしません、45年前の中学1年の時です・・・陸上部の練習が終わって、夕方教室に友達と戻ると、その友達の机の引き出しに大量の「包み」があるではありませんか・・・2人で「なんや、これ?」と不思議に思いながら、中を開けてみるとチョコレートが入っていたのです・・・その時は、何の事かサッパリわかりませんでしたが、あとでバレンタインデーの意味が分かった次第です・・・当時都会では、中学生でもバレンタインデーが普通にあったのかもしれませんが、昔は情報にタイムラグがどうしてもあり、田舎ではその程度だったのです・・・しかし、残念ながら私にはチョコはひとつもなく、皮肉にも陸上部のスポーツ万能の友達が学年一のモテ男だったから、あれだけ沢山のチョコを貰ったのです・・・当時、貝塚市の中学生の100m走の新記録を更新したくらいの男でしたから、「負けても、しゃーナイ」・・・と・・・しかし、45年前はチョコレートは、日常の小遣い銭で買えないほど、まだまだ高級品でした・・・家でチョコを作るなんて無理だったでしょうし、貝塚駅前の商店街でも売っていなかったでしょう・・・チョコを贈った女の子はどうしてそんな情報を仕入れて、どこまで買いに行ったのか(岸和田商店街か難波か?)、今思えば不思議と同時に彼女らの「健気な努力」に感心します・・・当時の中学生は私も含め、「おぼこい」の一言で、村下孝蔵の「初恋」という歌がピッタリで、小学生の時に好きだった女の子と中一で同じクラスになったにも拘らず、一言もしゃべれなかった自分がいたのです・・・ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2014.02.15
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昨日は貝塚市麻生中の「和幸寿司」さんで、木島小学校6年3組のクラス会(新年会)でした・・・昨年11月の45年ぶりのクラス会の興奮も冷めやらず内に、また新年会となった訳です・・・今回も半分以上の20人も集まりました・・・大阪府外からの参加者も2人もいました・・・11:30から和幸寿司さんで始まり、2次会は近くのカラオケ「まねきねこ」さん、3次会は私ご用達?の泉佐野駅前のライブハウス「音楽倉庫(おとらくそうこ)」さんへ・・・解散したのは22:00で、ナント!10時間以上も飲んで、喋って、歌って、踊って・・・十二分に楽しみました・・・最後はライブハウスの前で、11月の再会を祈って、夜空に響き渡るオッサンオバはんの万歳三唱で締めくくりました・・・まァ、歌って&踊っては、ホンマ身体中に力が入り、なかなかイイ発汗作用になります・・・(笑)小学校のクラス会と言っても、殆どが「木島保育所」と「貝塚三中」出身なので(当時は木島幼稚園はマイナー)、10年間一緒に遊んで学んだ事になりますので、かなり濃厚?なクラス会なのかもしれません・・・次の幹事さんも11月にする次の日程も決まり、2年後の還暦では泊りがけで行こうというプランも出ています・・・マ、元気なうちに「せいだい」集まっとかなければ・・・(笑)今回も今年88歳になる担任の藤田先生も、2次会まで参加してくれました・・・何故か?先生も前回に比べ元気になったような気がします・・・次回も呼びますので、このクラス会(藤田会)が先生の励みになってくれればと・・・もちろん、我々クラスの老後の楽しみでもありますが・・・しかし、3次会のライブハウスは若かりし頃のディスコ状態でした・・・(笑)踊り過ぎて汗をかき、真冬だというのに冷房を入れてもらったくらいです・・・(笑)ハコバンのフィリピンバンドの演奏も、リクエストに応じ我々をノリノリにさせてくれました・・・次回の3次会もココでキマリです・・・という事で、楽しかった、楽しかったクラス会も11月までお預けという事で、それまで元気にいられるようにヤルベキ仕事と体力作りに励みたいと思います・・・ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2014.01.20
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昨夜は南海本線貝塚駅前の居酒屋「大阪庄や」で、恒例の貝塚三中の同級生3人の忘年会でした・・・毎年盆と年末の2回会いますが、忘年会はどうしても毎回年末押し迫った日になってしまいます・・・3人とも結構忙しいですが、割とスムーズにスケジュールを合わせられました・・・これが5,6人になれば、毎回全員揃うのはチョッと無理かもしれません・・・3人だから、まだ簡単で、30年以上も続けてこられたのかもしれません・・・継続性という事を考えれば、多くの場合「出来るだけイージー」と言うキーワードが浮かんできます・・・会うのは盆以来ですが、何やかやと話す事は尽きません・・・仕事や趣味の仲間と違って、気の合う幼馴染というのもまたオモシロいですねェ・・・職種も趣味も違いますが、共有の幼い頃の思い出と同郷というDNAが全身を走り、なんか楽しくワクワクさせるものがあります・・・もう人生経験豊富なオッサン(ジイサン?)にとって、感動する事も余りありません・・・そんなオッサンも心から楽しくハシャイデいるのですから、不思議なものです・・・まァ、30年以上も続けてこられた裏には、仕事を中心に互いに切磋琢磨的な刺激があったのは言うまでもありません・・・ただ、のんべんだらりの傷をなめ合うだけの関係や主従的な関係では長続きしませんし、互いに成長できません・・・フィフティフィフティの関係で、互いに認め合う関係だからこそ、続けて来れたのだと思います・・・という事で、来年の盆の再会まで早くも待ち遠しいです・・・ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2013.12.27
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昨日は貝塚新地の料亭「この木」で、卒業してから45年ぶりに貝塚市立木島小学校6年3組のクラス会(昭和44年卒)でした・・・10月の地元のだんじり祭りで、約40年ぶりにクラスメートと会ったのがキッカケです・・・彼は長い間地元を離れていて、三ツ松保育所から貝塚三中までずっと一緒だった私と会った事によって、更に郷愁の想いが募ったのでしょう・・・担任の先生が、87歳という高齢にも拘らずまだ健在だったという事もクラス会を後押ししました・・・その日に、彼とクラス会の約束をしました・・・正直、小学校卒業してから45年も経っていますので、何人集まるか全く予想がつきませんでしたが、「最悪、ワイら2,3人でもやろかい!」と言って別れました・・・大阪市内に住んでいる彼との硬い約束で、私が男子の幹事になり、女子は地元に住んでいるクラスメートにお願いしました・・・その日から2人で手分けして、卒業文集に載っている名簿を頼りに探しまくりました・・・スマホの無料のLINEの電話とメールで、ほぼ毎日仕事の合間を縫って、まるで恋人のように連絡を取り合いました・・・(笑)文明に利器であるLINEを大いに活用しました・・・クラスメートの多くは地元貝塚市を中心に、岸和田、熊取、泉佐野といった近隣に住んでいましたので、割と楽に連絡がつきました・・・しかしただ何人かは、残念ながら全く手がかりがありませんでした・・・今後のクラス会もありますので、残された唯一の希望はこの私のブログです・・・本人か関係者が見る事に望みを託します・・・そして、クラス会には、ナント!42人中20人も集まってくれました・・・集まったみんなは「とにかく先生に会いたい!懐かしのみんなと会いたい!」一心だったと思います・・・木島小学校5,6年の2年間は、私にとっても余りにも思い出深い年でした、大袈裟ではなく私の人生を大きく左右したのでした・・・それだけに、先生に会って直接「本当に感謝しています。有難うございました!」と言いたかったのでした・・・それを言わないと私の人生に悔いが残ります・・・まァ、しかし、盛り上がりましたねェ・・・小学校5,6年同じクラスでしたが、殆んどのクラスメートが木島保育所から貝塚三中までの10年間一緒でしたから、同じ思い出を共有しているのです・・・昼前から始まり、夕方4時半まで「この木」で盛り上がり、2次会はカラオケ「まねきねこ」で夜の10時まで盛り上がりました・・・ほぼ半日、飲んで喋って歌って踊って?元気なオッサン、オバはん達でした・・・幹事の挨拶で「今日は、無制限1本勝負や!」と宣言してましたので・・・(笑)お蔭で、朝から喋り過ぎの歌い過ぎで喉がチョッと痛いです・・・そして、クラス会の名前を担任の先生の名前を取って「藤田会」と命名し、毎年クラス会をやろうと決めたのでした・・・今回をキッカケに名簿を作り、ハガキを出さずメールと電話で案内しますので、大幅に手間とコスト削減できる便利な時代になったものです・・・そして早速、忘年会をやろうという話になりましたが、結局新年会を1月にやる事になりました・・・クラス会発足の機会になり、最初の幹事としてみんなをハッピーにできた事が何よりです・・・1次会が終わって先生を家まで送って行ったのですが、「カラオケもお付き合いするよ・・・」という事で、2次会もお付き合いして頂いたのは、よっぽど嬉しかったのでしょう・・・という事で、これで老後の楽しみがひとつ増えたのでした・・・ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2013.11.17
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先日のだんじり祭に、約40年ぶりに会った小学校のクラスメートとの出会いをキッカケにクラス会をする事になりました・・・担任の藤田先生が元気なうちにやろうという事です(すでに87歳)・・・彼と「2,3人でもやろう!」という男同志の固い約束ですから、私が男子の幹事となって準備を進めています・・・女子の幹事と2人で、殆んど毎日電話やメールのやり取りです・・・こういう時は、LINEが便利ですねェ・・・彼女とは子供の幼稚園の行事以来20年くらい会っていませんが、電話では小学校当時と同じように喋っている自分が不思議に思います・・・すでに20人以上、出席という返事を頂いております・・・この勢いでいくと、42人中25人くらい出席でしょうか・・・小学校5,6年のクラスは、私のとって特に思い出深いクラスでした・・・担任の藤田先生は、毎日沢山の宿題を出し勉強に厳しかったですが、生徒ひとりひとりに目を配り、情に脆くよく泣いていた記憶があります・・・個人的には、小学校4年まで成績が図画工作が5以外、他は中位以下で散々だったのを、先生の影響で少しずつ勉強(4教科)の楽しみを教わりました・・・藤田先生と出会わなかったら、成績はずっと低空飛行のままで、全く違う人生を歩んでいたかもしれません・・・2年間自分なりに一生懸命勉強をしたように思いますが、成績はそれ程伸びませんでした・・・おそらく、中学校に入ってからの成績の伸びの「基本的な準備」を養えたのだろうと思います・・・しかし当時の名簿が見つかったとは言え、電話番号はなく、住所が変わっている人が殆どで、チョッとだけ苦労しました・・・やはり田舎なので半数以上は貝塚市内に住み、せいぜい熊取、岸和田、泉佐野どまりに住んでいますので苦労のうちに入りませんねェ・・・23年前に貝塚三中の同窓会の出席名簿を頼りに電話しても出なかったり(住所が変わって)、当時聞いていた勤務先が合併でなくなっていたり・・・逆に、2年前にフェイスブックで繋がって飲みに行ったクラスメートが、三中に行かずに二中に行った子の転居先をたまたま間接的に知っていて、遠方で見つかったラッキーな事もありました・・・また大病して松葉杖でないと移動できないリハビリ中の子にも、「生きてるんやったら、おいでやァ!先生に二度と会われへんでェ~」と言うと、最初は欠席の返事でしたが、出席を快諾してくれました・・・それ程、みんな会いたくて会いたくて仕方がない、心と心が繋がった素晴らしい思い出のクラスだったように思います・・・残念ながら既に他界したクラスメートもいますが、手を尽くしてもなかなか見つからない子もいます・・・高校の学年同窓会も同期のHPを作って、見つかった行方不明者が沢山いました・・・そのネットの力を利用して、このブログでも以下のクラスの行方不明者の情報をお願い申し上げます。「加藤文之」君・・・千石荘(その後、岐阜県?)「熊谷仁一」君・・・千石荘、ニックネーム「ジンチャン」(その後、麻生中 → 海外?)「行一弥」君・・・清児、ニックネーム「カーチン」「坂上真信」君・・・森団地「堂野琢磨」君・・・三ツ松(その後中学から、香川県坂出市谷町3丁目?)「平林清美」さん・・・三ツ松「森下圭子」さん・・・三ツ松西之町以上、宜しくお願い申し上げます。インターネットはどんな人が見ているか分かりません・・・と言うのが私の実感です・・・弊社トランクルームのHPやこのブログも、海外在住の大阪の人が見てたりして、メールや電話のオファーが来ます・・・このブログでも、旧知の人や趣味や名越に関わる人からの電話やメール、時にはお会いした事も何回もあります・・・ネットは素晴らしいモノだと、実感するのです・・・という事で、来月のクラス会は非常に楽しみです・・・ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2013.10.26
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早朝からIOCの2020年オリンピック開催地の選考会の模様を、テレビでずっと見ていました・・・東京に決まって、ホント良かったです・・・人生で2度、日本でのオリンピックを経験する訳です・・・前回の1964年の東京オリンピックは、小学校2年生でした・・・登校してすぐに、先生から「今日の宿題は東京オリンピックの開会式をテレビで見る事やでェ!みんな、はよ帰り!」と言われたのを思い出します・・・その後、先生は「家でテレビのない子は、〇〇室でみんなと見るさかい・・・」と言われました・・・当時は、家でテレビや電話のない子も珍しくなかったのです・・・もちろん、テレビは「白黒」で、カラーではなかったのです・・・こんな事を書きながら、「なんて、年を取ったのだろう」と自分でも情けなくなりますが・・・(笑)それが、今から49年前の日本の地方都市の現実でした(敗戦19年後)・・・特に東京オリンピックで優勝した大松監督率いる「女子バレー」の殆どのメンバーは、東洋の魔女とも言われた「ニチボー貝塚」でした・・・これで「貝塚」という地名が全国的に知れ渡ったのです・・・家から近い貝塚市半田にあった旧ニチボー(現ユニチカ)貝塚工場の女子従業員が金メダルを勝ち取ったのです(貝塚工場では紡績と織物生産)・・・当時のバレー部員は、「早出専門」で朝5時から昼の1時まで、うちの家業と同じように織機を織って(現場で働いて)、昼から夜の10時、11時まで血の滲むようなバレー特訓をしていたようです・・・今では珍しくない「回転レシーブ」も、彼女らが考案したと後から本で読みました・・・そういった特訓で、「根性」を養ったと・・・学校の先生から、このような苦労話をよく聞かされましたし、実際当時はそうだったようです・・・当時は戦後20年も経っていませんでしたので、まだ国民は貧しかったですが、かなり「復興」し、高度成長期の真っ只中でした・・・日本には希望があり、「勢い」に乗っていました・・・どんな場合でも、この「勢い」というのが大事ですねェ・・・オリンピックをキッカケに、更に高度成長をしようという雰囲気が国内に満ち満ちていましたねェ・・・昨年末に政権が変わっても、今一つ景気浮上の実感がない現状を打破するためにも、今回決定した2020年東京オリンピックをキッカケに、日本の景気が良くなることを切に願いますし、震災復興や原発問題も国を挙げて一気に解決するように全力を挙げて欲しいと思います・・・ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2013.09.08
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「藪入り」という言葉を聞かなくなって久しいです・・・昔は藪入りと言えば、ちょうど今頃のお盆の時期と正月に、嫁いだ女性が子供と一緒に実家に帰省する事を言いました・・・私が熊取の母の実家に行ったり、名越に父の姉妹(叔母)達が子供(従弟)達を連れて帰って何日か泊まりました・・・賑やかな昭和の風景を思い出します・・・母親の実家は農業と養豚業を営んでおり、牛や豚、アヒル、犬猫と動物が沢山いましたので、まるで動物園のようで子供心に嬉しかったですねェ・・・近くに川や池があり、従姉らと自然の遊びを満喫しました・・・特に私は、「男の初孫」という事で祖父に可愛がってもらいました・・・盆正月の藪入りではなく、だんじり祭になると、いつも祖父とだんじりの大屋根に乗って、他町のだんじりが来ると「あそこは、何々町で何々や・・・」とまだ訳の分からない私につぶやいていたのを思い出します・・・夜は、真っ暗な牛小屋の中にある五右衛門風呂に、祖父に抱いてもらって入りましたねェ(深いので溺れる)・・・他方、9人兄弟の父方の藪入りは従兄の数が多すぎて、全員が家に泊まるのですから、まるで戦争のようでした・・・私が従弟の一番年長でしたので、ゾロゾロと小さい従弟たちを連れて近くの駄菓子屋に行ったり、近くの千石荘病院に蝉を取りに行ったり、川や田んぼにザリガニやフナや亀を取りに行ったり、「接待」に忙しかったです・・・(笑)今はどこも兄弟の数が少なく、サラリーマン家庭が多く、そういった自然も殆んど無くなり、そんな昭和の風景がないのがチト寂しいです・・・という事で、昨日は早朝から近くの墓に、先祖をお迎えに行きました・・・そして、お坊さんやら親戚が自宅の仏壇にお参りに来てくれてます・・・そして今晩から、町内の青年団主催の盆踊りが始まります・・・お盆真っ最中ですねェ・・・ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2013.08.14
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昨晩は、南海本線貝塚駅前の「大阪庄や」で、恒例の貝塚三中のツレとの飲み会でした・・・2連チャンですけど、平気です・・・毎年3人で、盆と正月の年2回会ってグダグダ遅くまで飲んでいます・・・もう30年以上、この飲み会続いています・・・ひとりは保育所からの付き合いで、もう50年以上です(昔は幼稚園に行かず、三ツ松保育所から直接木島小学校にあがった)・・・考えてみれば、ホント長い付き合いです・・・親兄弟親戚に次いで、もちろん嫁さん達より長いですねェ・・・例によって、仕事や健康、病気、家庭、将来、老後、政治経済、趣味、人生観・・・まァ、いろんなディープな話で6時間盛り上がりました・・・最初の2杯はビールで、その後はカクテルと前日のパターンと一緒で、二日酔いなしです・・・このパターンは、どうも自分に合っているようです・・・そして最後は、握手をしてバイバイ・・・また、年末まで互いに元気でいよう・・・男の友情は、変にベタベタしていなくて、アッサリしてます・・・「君子の交わり」みたいな付合いが、長続きの秘訣かも・・・そして一方では、「男子三日会わざれば、括目して見よ!」と互いに刺激して成長する関係がイイように思います・・・そして今日も朝早くから、親戚のお寺の檀家さん回りのお手伝いをしてきました・・・という事で、今週もずっと暑いようですが、身体に気を付けて元気でいきましょう・・・ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2013.08.11
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木島小学校5,6年の担任のF先生からの年賀状が今年も届きました・・・ もう86,7歳になられたでしょうか・・・ 45年前の事を思い出されて、「・・・あの頃は楽しかったね・・・」と書かれています・・・ そう、本当にあの頃は楽しかったです・・・ とにかく毎日宿題を山ほど出され、ヒーヒー言ってましたが、反面夏休みには、先生宅にお邪魔したり泊まったりとか、楽しい思い出がイッパイありました・・・ 先生はよく笑い、またよく泣きもしましたねェ・・・ 小学校3,4年までは私は勉強が出来なくて、どうしようもない生徒でした・・・ しかし先生に、「読書」の楽しみを教えてもらってから、少しずつ勉強も好きになっていきました・・・ それまで本なんか読んだ事がありませんでしたが、夏休みに1冊の本を2時間で「一気読み」した時の感動が未だに忘れられません・・・ それから自分なりに一生懸命勉強もしましたが、それでも2年間ではあまり成績は伸びませんでした・・・ しかし今考えると、中学に入っていきなり成績が伸びたのも、この小学校5,6年の2年間の勉強が「下積み」になっているのかと思います・・・ そういう意味で、このF先生は恩師以上の「恩人」だと思うのです・・・ まァ、この先生に出会わなければ、今の自分はないと確信します・・・先生に、感謝感謝です・・・ このF先生と女学校の同級生の元気なオバチャンが町内に居まして、時々道で会うと「F先生、元気にやってんけ?」と聞くと「元気そうやけど、あんまり外へよう出てないわ」という返事もらってずっと気になっていました・・・ 小学校のクラスメートとはよく会って、「いつかクラス会をやろよ!」で終わってしまって、これまでやったためしがありません・・・ これを機に、何人かのクラスメートに声を掛けて、是非とも今年クラス会をやりたいものです・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.com※地域最安値!月額5250円岸和田市東ヶ丘町「月極駐車場」にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2013.01.07
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先日竹林の杭打ちで、イイものを見つけました・・・ トランクルームのバックヤード(織物時代の工具室)には、井戸設備、作業工具、一輪車、鍬、バイス、ペンキ、材木、長いす、ビニールシート、ホイスト、チェーン、ボルトナット、段ボール・・・過去60年祖父の代からのイロンナ物が詰まっています・・・ その中で、祖父が作った「斧(オノ)」を発見しました・・・ 祖父の名前の「焼印」がありました・・・ 木でできた柄も、鋳物もすべて自作です・・・ 杭打ちの際は、斧の反対側を力一杯振りかざしますが、ビクともしません・・・ おそらく作って5,60年は経っていると思いますが、相当頑丈に作ろうとした祖父の思いが伝わってきます・・・ 思い起こせば大学生の頃に、織物の荷造りの際に藁の紐を、これも祖父の作った「鎌」で切っていたものですが、よく切れました・・・ 祖父から「指だけは落とすなよ!」とよく注意されていたのを思い出します・・・ 指でも簡単に落とすくらいのつもりで、鎌を作ったのでしょう・・・ という事で、祖父はイロンナ物を器用に作っていましたが、私も含め男の従弟の殆どが小中学校で「図画工作が5」というのも、その遺伝子が孫にも伝わっていたのかもしれません・・・ しかし私も子供の頃から、いろんなモノを作るのが好きでした・・・ ミカン箱を潰して、だんじりや犬小屋・・・織物機械の油を使って「絶対ひっくり返らない」特製のベッタン・・・布と物干し竿を使って特大の蝉取りの網・・・モノがない時代でしたから、イロイロ自分なりに工夫して作りましたねェ・・・ 祖父からアレヤコレヤと教えられたことは殆ど無く、すべて見よう見まねでやっていて、ただ一言「トオルよ、ネジ締めるときは、のの字に締めるんや!」とだけ教えられましたねェ・・・ その時は、「おじいちゃん、何でも知っているんや!」と尊敬の眼差しで、子供ながら感動しましたねェ・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.com※地域最安値!月額5250円岸和田市東ヶ丘町「月極駐車場」にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2012.12.21
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旅行前日に、鳳高校27期1年10組のクラス会がミナミでありました・・・ 去年は学年同窓会がありましたので、クラス会は2年ぶりです・・・ 高1というのは16歳ですから、一瞬にして「40年前にフィードバック」です・・・ 高校3年間で、高1が一番思い出深く、楽しかったですねェ・・・ 田舎の貝塚の丸坊主の中学から、堺という都会?の高校に入学した時は、そりゃもう全てにおいてカルチャーショックでした・・・ 同じ中学からは私一人で、言葉も泉南弁とは違って大阪市内弁に近い泉州弁で「全く違い」ましたし、制服が同じでも、髪形や靴、ワイシャツといったファッションセンスの違いに、愕然としました・・・ まァジャブなしで、いきなり先制のストレートを顔面に食らったくらいのショックでした・・・ 知っている友達が一人でもいれば、勇気も100倍出たでしょうが・・・「気負け」が先走りして、まァ何をやっても空回りでしたねェ・・・ 楽しいクラスメートや、ソコソコ面白いオーケストラ部、けっこう面白い先生にも恵まれ、ドンドン成績が下がってくる勉強以外は毎日が楽しかったですねェ・・・ 文化祭も楽しかったですが、クラスで出店した喫茶店「山小屋」とかいう名前も、スッカリ忘れてしまいました・・・エライすみません・・・ ただ夜の11時ごろまで、みんなで制作に夢中になっていたら、当時の校長先生から「終電に間に合うように帰りなさい」とか激励された思い出がありますねェ・・・ また当時の生物の先生が大阪府大の大学院生で、クラス全員で府大の講義(先生の)を聴きにいった事がありました・・・ 当時高校生が、大学の授業を無料で聴講できるなんて、夢にも思いませんでした・・・ これって、最近流行の「高大連携授業」のハシリですよねェ・・・ この先生の授業はサイコーに面白かったですし、「最後の授業」には先生も生徒も共に大泣きして、正に青春ドラマそのものでした・・・ この先生はその後すぐに「エコロジー」研究に専念され、現在は某国立大学の准教授をされ、最近フェイスブックで繋がっています・・・ 来年のクラス会には、是非お呼びしたいですねェ・・・ という事で、2次会は全員カラオケに行き、途中から参戦する者も入れて、懐かしのメロディーのバトル大会と化し、大いに盛り上がりました・・・ 郷ひろみ、野口五郎、ドーン、青い三角定規、チューブ、井上陽水、アリス・・・ 来年も1年10組!・・・大いに盛り上がろうぜ・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.com※地域最安値!月額5250円岸和田市東ヶ丘町「月極駐車場」にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2012.11.28
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本日朝刊泉州版に「忠岡町長 和田さん3選」の記事がありました・・・ この和田さんは、40年以上前に貝塚市立第三中学校の時に、陸上部の顧問の先生で、お世話になったのです・・・ 確か1学年上の社会の先生で、私たちが勉強を習うことがなかったのですが、部活で「キチエイさん」の愛称で親しまれていました・・・ 練習初めに「今日はどこ走るんや?」と気軽に声を掛けられ、「三ヶ山から忠霊塔です」とか会話していましたねェ・・・ 中学入学当初は、2週間ほど野球部に在籍していましたが、その後陸上部に入って、その「落差」に驚きました・・・ 上下関係がそれほど厳しくなく、先輩を「ちゃん」付けで呼んだり、私もニックネームで呼ばれていました・・・ 練習メニューも自由で、私は「走り高跳び」が専門でしたが、倉庫から道具を出すのが邪魔臭くてその日は帰ろうとすると、「わい、道具出いしゃるさかい、練習やっちょうえ」と優しい先輩から言われるのも度々でした・・・ 当時テレビで「仁鶴と遊ぼう」という番組が大流行(関西だけか?)していて、小話や「~ちゃんちゃこ」というギャグが流行っていました・・・ 先輩のキャプテンが「きょうからクラブ内で、~ちゃんちゃこを標準語にするどォ」と冗談?で言われ、「先輩!それッ ホンマちゃんちゃこですか?」と早速ボケると、「そや! ホンマちゃんちゃこや!」と突っ込む、漫才みたいなクラブでした・・・ そういうアットホームな陸上部の顧問をされていた和田先生ですので、ユーモアを持ちながらも、上手に自治体運営をされる事でしょう・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2012.10.22
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昨日のテレビ「街かどトレジャー」は、「天王寺」特集でした・・・ 天王寺と言えば、浪人時代の一時期「天王寺予備校」に通っていたのです・・・ 私の人生で、一番不遇だったように思います・・・ 親父に泣いてまで頼んで行ったものの、殆ど予備校に行かず遊んでいました・・・ 何故か全く勉強する意欲が湧かず、かと言って遊びほうける訳でもなく、毎日ブラブラ、ふらふら、悶々としていましたねェ・・・ 天王寺公園に行って昼寝をしたり、天王寺図書館に行って受験と全く関係のない本を貪り読んだり、冷房のよく効いたユーゴ書店や旭屋書店での立ち読みや、天王寺ステーションシネマの150円の古い映画を見たり・・・自分の本来の意志とは反対に・・・ 友達はなく、いつも一人で行動していましたねェ・・・ 会話相手といえば、行きつけの中華料理屋のオバチャンとカレー屋のニイチャンだけでした・・・ 本当に暗い、暗い青春を送っていました・・・ しかしこの時期に、「孤独力」が養われたかもしれません・・・ 当時、天王寺予備校は歓楽街の近くにあり、環境は悪く、授業初日にグループ同士の大きな喧嘩沙汰があり、私も巻き込まれそうになりました・・・ 一歩間違えば、非行に走っていたかもしれません・・・ しかし親の一生懸命に働いている姿を見ると、とても非行に走る事はできませんでしたねェ・・・ やはり「親は子の鏡、子は親の鏡か」・・・ という事で、長い長いトンネルを抜け出すのに、ゆっくりボチボチと、ホント相当時間がかかりました・・・ 今から思えば、悩みながらも、希望を決して捨てず「努力した」というより「行動をした」という事で、出口を見つけたと言った方が正解かもです・・・ 後になって考えれば、「なんや?」というものですが、当時の青春の悩みは、けっして這い上がれることの出来ない、深く広いものでしたァ・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2012.08.30
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昨夜は久しぶりに、ちょっとだけ昔のビデオ鑑賞でした・・・ それはちょうど、1991年の夏の終わりですから、21年前の夏休み最終日曜の夕方でした・・・ 子供らにとって、幼稚園の夏休み最終の日曜でした・・・ 方や私は、工場は土日も24時間稼働していましたので、故障があれば直ぐにでも呼び出されるという気が気でない休日?でした・・・ この時ちょうど車のカーステレオから、山下達郎の「さよなら夏の日」が流れていましたので、私は「やっと夏休みの家庭サービスを終えた・・・」という安堵感と、きっとこの瞬間が彼女らにとって忘れられない日になるだろうと・・・すこし感傷的になっていたかもしれません・・・ 子供の成長は早いものです・・・あっという間に大きくなるものです・・・ということは、親もあっという間に年を取ってしまうということですが・・・ 実際その通りになってしまいました・・・ 子供がもっと小さい頃に、「毎晩子ども3人を、風呂に入れるのが、のぼせ症の私にとってしんどいんや・・・」と知り合いのオバチャンに愚痴ったら、「子どもはすぐに大きくなるさかい、噛みしめて育てらんとアカンでェ」という言葉が妙に頭に引っかかっていましたが、正にその通りになりました・・・ 当時は織物の新しい機械を導入してまだ4年目で、盆休みも3日しかなく忙しく働いていましたが、まだ30代半ばの若さでしたので、頑張り抜けたのでしょうねェ・・・ ※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2012.08.28
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昨夜は、貝塚駅前の「大阪庄や」で、中学校の同級生と飲み会でした・・・ 毎年2回、盆と正月の楽しみです・・・ この飲み会も、もう彼是30年ほど続いているでしょうか・・・ 半年に1回ですので、半年の間に変わった互いの現況や考え方やらを、グダグダ喋り倒すのも、刺激があって面白いものです・・・ しかし振り返ると人生は早いですねェ・・・ この間まで、3人中学生で勉強やクラブ活動で、何やかやと言っていたのが、もう子供も独立しかけて、オッサンからジイサンになろうとしています・・・ 酒もちょっと弱くなり、グテングテンになるまで飲めません・・・ 長時間チビリチビリ飲み、帰りはほろ酔い加減でちょうどよいのです・・・ まァ、3人とも仕事も家庭もボチボチで、何よりです・・・これがあと、10年、20年続くことを祈って、来年の正月の再会を約束して別れました・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2012.08.14
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