2009年01月30日
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カテゴリ: 漢詩 日記
            こ ごう    つぼね    まつぐちげつじょう
     小督の局  松口月城

          つき  きよ  さがの    ほと
       月は清し嵯峨野の辺り。

       き   え    こと   ね   と   へだ    つと
    聴き得たり琴の音の戸を隔てて伝うるを。

           むげん  あいしゅう むげん  おも
       無限の哀愁  無限の想い。 

        ひ か   いっきょく ひと      あわ
     非歌 一曲  人をして憐れましむ。

          詩文説明
嵯峨野の清らかな満月の夕べ 、、(高倉天皇が寵愛する小督が密かに中宮より姿を消し、悲しみに暮れていたが、ある日弾正大弼仲国に捜索を頼む) 高倉天皇から 命を受けた仲国は、小督を探し求め、京都嵐山嵯峨野の辺りにやって来ると、何処からともなく、聞き覚えのある素晴らしい想夫恋の琴の音が流れてきた。その悲歌は、帝を想い奏でる想夫恋の曲であった。その琴の音は、知る者の胸に響き、哀愁を帯びる切々なものであった。高倉天皇を偲んで奏でる小督の想夫恋の曲、胸中如何ばかりの思いであったことでしょう。

小督局  左右は仲国が小督を探しまわる絵。 
中央は嵯峨野にある歴史的風土特別保存地区と書いてある建物ですが、小督と関係あるかどうか解りませんが、それらしき感じを受けましたので、写真撮影してきました。
小督局
天竜寺近く小督が隠棲していたと伝えられるところで、小督塚がありました。 

小督局仲国が嵯峨野辺りを探し廻ったといわれる周辺の風景、手前に小倉百人一首の歌碑ありました、此処は、小倉山の麓なので至る所に百人一首歌碑があります。また、往年の時代劇大スター大河内伝次郎の立派な山荘がありました。

小督局嵐山渡月橋周辺 右写真は渡月橋袂にある「琴聞き橋」の石碑横に歌が刻まれてあります。

         小督局
父は桜町中納言といわれた藤原成範。生没年は不詳。容姿美しく、殿上中第一の美女とされ、琴の名手であった。小督は令泉大納言隆房が少将であった頃に恋しあって、隆房の妻になっていたのを高倉天皇が寵愛しておられた葵の前が亡くなり、非常に悲しんでおられたので中宮職の意向で、小督を天皇の御慰め役に差し上げることになり、小督は中宮へ上った。高倉天皇は非常に喜ばれ、小督を深く寵愛された。高倉天皇の正式な中宮は、平清盛の娘の建礼門徳子である。小督が天皇の側に上がるようになってからは徳子が疎んぜられるようになった。清盛はそれを知り、小督に辛く当たる

(清盛は権勢を握る為、天皇の外戚となり娘徳子の皇子誕生を待ち望んでいたので、天皇の愛情が小督に傾いていったのを恐れた。高倉天皇は小督と引き離された翌年に亡くなっています)

小督は自分の身に迫る危険よりも、天皇に危険が及ぶのを恐れ、そっと行方をくらましてしまった。それを知って天皇の嘆きはひとしおであったが、風の便りに小督が嵯峨野付近に隠れ住んでいると聞き、弾正大弼仲国に命じて、文を托し、小督を探し宮中へ再び連れて来るように遣わされた。仲国は馬を拝領して満月の灯りを頼りに嵯峨野の辺りを探しまわった。折しも草深い片折戸の向こうから、あの聞き覚えのある想夫恋の琴の音が聞こえてきた。たしかに小督に違いないと案内を乞い対面し、天皇の深いお嘆きを伝える。小督は感激の涙にくれる。小督は宮中に戻ることは天皇の為には良くないと断り、笛の名手だった仲国の笛の音と小督の琴とで、涙ながらに合唱し、また舞い、ひとときを慰めて仲国は一人で帰ったが、天皇はどうしても諦め得ず、後日再び宮中に迎え入れられた。清盛は怒って、小督を捕らえ、清閑寺に押し込め、髪を持って引きずり回したり酷い仕打ちをし、尼にして追い出してしまう。

小督のその後は、はっきり分りません、大堰川に身を投げたとか九州へ落ちていって死んだとか、嵯峨野で一生過ごしたとか。「平家物語」小督塚は嵐山にあり、小督の住んでいた家の跡が有り、高倉天皇の御陵の側にも小督の墓といわれる塔が有る。

(尼に身をやつし知人を頼りに九州大宰府を経て、現在の福岡県田川市香春町まで来た頃大雨に遭い伊田川を渡る途中激流に呑まれて成道寺の住職が助けたが、旅の疲れと重なり、病に付き、看護空しく亡くなったといわれ福岡県田川市白鳥町の成道寺に鎌倉から南北朝時代のものと思われるもので、田川市の指定有形文化財として小督の七重供養塔が有ります)
        高倉天皇〈11611~1181〉
第80代天皇。後白河天皇第七皇子。母は建春門院滋子。名は憲仁。清盛と後白河天皇との反目の間に苦しみ 安徳天皇に譲位後、名目的ながら院政を行った。陵墓は京都清閑寺陵。小督の供養塔もある。

作者松口月城  明治20年~昭和56年 (1887~1981) 福岡市安徳村今光、藤又四郎の4男として生る。本名榮太。号は、月城・筑紫山人。14歳で松口家の養子となる。熊本医学専門学校卒業。18歳にして開業医師の国家試験に合格。医師となり、時の明治政府・世人を驚かせた秀才。医業の傍ら、漢詩を宮崎来城に学び、詩・書・画に優れる。昭和44年「新体古詩格」を提唱され常に「判り易い詩を」唱え、昭和49年作詩を通じ吟詠の普及振興に尽くした功績により、文部大臣表彰を受けた。著書に『松口月城詩集』がある。

 ※今様 (歌謡吟として、峰の嵐かを入れて吟じます)
●峰の嵐か松風か尋ぬる人の琴の音か駒をとどめて聞くほ
  どに爪音しきる想夫恋。
●勅(みこと)かしこむ仲国がたたくや賤の片折り戸あわれ
  小督の侘び住まい月に声あり不如帰。






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最終更新日  2009年02月01日 11時50分24秒
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