HardDiskDriveの蘇生術と気まぐれ料理
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戦後64年記 親父の手記はじめに 今年初めて親父の軍隊時代の話の詳しい話を知りました。1年前のこと四国放送から取材がどうのこうのというのは聞いていました。今まで話したこともないのに、自ずから話をしたのも、あえて聞くこともないのですが。母もそうですが息子はまとまりはないですが、経験は理解はしています。今でも苦労をかけていますが、親孝行させて欲しいので親父には長生きをしていただきたいと思っています。息子だから知る親父の体験記は、断片的にはなりますが多分手記以上に感じております。少しは息子を信じて欲しいというということを親父に敬意して親父の手記を電子化して、親父の本意である戦争体験を皆様にお伝えできればと思い、タイプしました。決して文書は、手記として完成されている物ではございませんが、親父の意志を尊重し原文をそのまま載せます。ただ親父の字は汚く長年見ていますが解読不明はお許しください。 昭和16年12月8日、中学1年、いつもは自転車通学のところこの日は 何の理由があってか バス通学であった。午前5時麦発に乗った(中学生に許されていたバス乗車はこの時間だけであった、しかも立ち乗りでであった) 約1時間後 薬王寺の通りにある 日和佐停留所に到着した。降車し学校へ向かった。まだ夜明け字であった、禁じてられているので 入りたいのが 入ったことのない西村洋食屋の前にさしかかったとき「・・・・・・戦闘状態に入れり」のラジオ放送が少し開いたガラス戸越しに 耳に届いて左に曲がって *厄除橋を興奮を覚えながら渡った、学校に着いて、御真影奉安殿の前では いつもより深く頭を下げた。 この日最初に、1年から5年まで全生徒が行動に集められ 水も校長から米英との開戦に関し訓辞を頂いた。続いて和田先生(国語の先生 揮名:片手が不自由なので半馬力)から宣戦の招集について解説があった。 両方とも緊張して真剣に聞いたが、開戦について思索することはなかった。“天佑神助”は初めて知った。ボキャブリラリだったと記憶がある。厄除橋は木製のトラスト橋であった趣のあるある橋であった。戦争が激しくなった頃 橋板に橋幅一杯にの大きさでルーズベルトとチャーチルの似顔が墨黒く描かれていた。人々は足音高く踏みしめて橋を渡った。昭和18年8月、中学3年の夏、商売をやっていた乳が九州の炭坑に徴用されて不在であった。夏休みは 海士(あまし)のようになっていて鮑とりを楽しんだ、2学期が始まり 学校へは休まず通ったが活気がなかった。 母の勧めで 近くの篠原医院の診察を受けた。腎臓炎という診断で 運動禁止が宣告された。 水瓜を食べるよう勧められた。 体操の時間は見学を申し出て、仏頂面をして遠く離れてみんなを眺めるだけとなった。 放課後 体操の鎌田先生(揮名:アーム モーション)から教員室に来るよう言われた。何かやられるなと案じつ 入口で名前を宣告してから先生の前に立った。「お前は○○かいただろう ズボンを下ろせ サルマタも下げて 出してみせろ」ときた。逆らうこともできず 命ぜられるままにした。顔を上げられなかった。外の先生方も見ているような気配を感じた。ズボンを元通りにしたあと水を入れたバケツを両手に堤げて教員室前の廊下に30分程立たされた。母によく似た人だとかねがね思っていた文房具売店のお姉さんが通りかかった。顔が赤くなった。その後は何事もなく過ぎた。とある日の休みの時間海軍が予科練を募集していることが耳に入った。 そして応募資格のあることを確かめた。 何日かあたためたあと 母の了解を取るべきだろうと予科練の試験を受けたい旨 話してみた。「お父さんに手紙を出して相談しなければ。。。」と言っていたが「いけない」とは聞かなかった。「遅かれ早かれとられると思ったので行ってもええとも行くなとも言わなかった」と漏らしていたことを後日聞いた。どうやって願書を出したか記憶にない。試験の前日 「徳島城公園の中らしいが そこで試験があるのでその近くで泊まるつもりである」と告げて交通費と宿泊費を受け取った。母の気持ちを察するようなことも配慮するようなことも無かった。試験は先ず身体検査があり、これに合格すれば学科試験に進むことになる。学科試験も1科目ごとだったが、2科目ごとだったが、その都度判定され不都合があれば“お帰りください”となる。身体検査の尿検査で自己判定 腎臓炎が明確に現れていたのでインチキを働いたが そのあとは順調とはいかないまでも 何とか最後まで進むことができた。その後暫くして、適性検査を松井山航空隊で泊まり込みで行うから出頭するように通知があった。県外へでるのが初めてであり、しかも坊ちゃんと道後温泉の松山であることが嬉しかった。ここでは航空隊生活を実体験した。お客さん扱いを感じた。身体検査の尿検査では又もやインチキを働いた。適性検査は体力的とか能力的とかを色々やられた。うまくできたかそうでなかったかあまり気にならなかった。面白かった。ここでは1日の終わりにその日の判定があり、毎日何人か減っていった。検査が終わって航空隊から放免されたあと2日ほど松山城へ登ったりして遊んでから帰った。家では“何があったか?心配をさせて!!”と叱られた。学校には、こちらで勝手にいましんで、又もう航空隊へ入るのが決まったような気にもなって登校がいやになり掛かったようにであった。昭和19年4月1日に松山航空隊へ入隊せよという通知が町役場から届けられた。母は“何れとられる それが早くなっただけ”と言い聞かせながら 親戚に通知したり「○○○を賑やかしようね!!」と酒や砂糖など闇ルートから入手する手立てをせっせと取り始めた。*○○○は母が何と言ったか?思い出させない壮行会のことであるが戦国武士の出陣のニュアンスが感じられる言葉であった)
2009.09.19
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