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February 27, 2022
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遠澤 葆先生の「魏志倭人伝の航海術と邪馬台国」を読みました。
やっぱり、その道の専門家の先生はすごいと思う。
東京商船大学を出て大阪商船(その後合併により商船三井)に入り、
日本海事史学会で活躍しておられると本に書いてあるが、実際に船に乗る人は違うな。
書いてある内容が具体的で納得できる。
ちょっと説明不足な所も有るけれど、それは読む僕らが勉強不足。
色々と参考になった。

先生は船や航海術の専門家の立場で魏志倭人伝に書かれていることを分析し解明しているが、
いくつか重要な部分で、「わぁー僕の思った通りだ」と言う部分が有り、うれしかった。
一番目は「何故末蘆国から伊都国に海路を行かずに草木を避けながら不便な陸路を行ったか?」
僕の理由とは少し違うが、先生と「伊都国には港が無かったから」と言う部分では一致した。
当時は海水面が今よりも高く、糸島半島は本土部分と島部分に分かれていたと言う説があり、
仮につながっていたとしても「船越」と言う地名が残ることから分かるように幅は狭く、
海も砂浜で浅かった。
それ故に大きな船は相当に沖で停泊しないと座礁し、周囲は風を遮るものは無かった。
先生はこの風を遮るものも無く浅いと言うことから港を作るのは、
当時の水工土木技術では無理だと言い、僕もそう思う。
海には潮の満ち引きが有り、博多付近では最高2m位はある。
砂浜ではこれは100mを超える水平距離になり、
満潮時に船が停まれる桟橋は干潮時には座礁してしまう。
これを解決するには延々と長い桟橋が必要になるが、砂浜では支える杭が設置できない。
波や潮汐による洗掘が激しく、あっという間に杭は倒れて浮いてしまう。
下は通常の潮汐ではなく津波による洗掘により堤防が壊れたものであるが、
現代の技術によるコンクリート製の堤防でも壊れるので当時の水工土木技術では無理である。


その後、明治時代位になると粗朶による固定の概念が外国からもたらされ、
それにより支持された海底に基礎が撃ち込まれる技術が生まれ、今は大丈夫であるが。


上図の例は河川のものであるが考え方は同じ。

砂浜ではなく、例えば唐津の先の名護屋(呼子)辺りなら海底は固く、
自然の岸壁(と言うか崖)を加工して、可動式の桟橋を設ければ、
潮の満ち引きもクリアーでき、名護屋はリアス式海岸なので台風等の強風も防げる。




上の写真は名護屋付近だが、松の木の杭を組み立てて海底に重しで沈めるか、
浮き状にした木材で桟橋を支えれば、結構大きな船でも停泊できると思う。

ここで「大きな船」と言うと学者先生の中には当時の船は「準構造船」のはずだから違うと
ばかなことを言う先生もいるが、それは「倭人の舟」で、
遠澤先生も僕と同様に、中国の使者は「中国の船に乗って来ていた」と言っている。
当たり前だと思う。偉い中国の使者が「命がけで倭国に来るはずは無い」
魏志倭人伝では、
其行來渡海詣中國 恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人 名之為持衰
と書き、倭人の舟では命がけの航海になり「持衰」と言う人柱的な人間を乗せるほどだったが、
2019年夏に上野の東京博物館に「三国志展」を見に行った時に見つけた魏の船は「構造船」で
何と3階建てだった。
魏志倭人伝は中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称だから、
卑弥呼の時代に中国には既にこんな「構造船」が有ったのである。
まぁでも、帯方郡は僻地なので使者の船はもっと小さいかもしれない。


ただ、使者は偉い人なので命の危険はおかさないし、
魏志倭人伝の次の記述から、倭人の使者も(借りたかもしれないが)大きな船に乗ったと思う。
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 
貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹

丸木舟に毛の生えた「準構造船」で運べる量ではない。漕ぎ手は含まれていないし。
行きは奴隷に漕がせれば良いが帰りには奴隷はいない。
なので、通常の交易には倭人の準構造船を使った可能性はあるが、
使者や貢物を運ぶ時には大きな船を使ったのだと思う。

遠澤先生の書いた中で次に僕が参考になったのは「距離の算出」方法である。
僕は知らなかったのだが、卑弥呼の時代には中国では既に太陽や星を利用して
距離や位置を知る天文学が実用化されていたらしい。
先生はたくさんの本を紹介し、昼間の長さや時間・時刻の求め方等を紹介しているが、
特に紀元前2世紀にできた「周碑算経」による南北線の求め方等は衝撃的だった。
これを使えば確かに太陽高度や星の位置から距離が分かる。
先生の説明は専門家なので一般の人にはイメージしづらいので僕流にかみ砕いて、
魏志倭人伝における帯方郡から女王国までの距離12000里の測定の場合に当てはめると、
こんな感じである。
(魏志倭人伝が伊都国までは明らかに何らかの方法:歩数とか:で測り、
 邪馬台国や投馬國までを日数で書いているのに、
 最後に帯方郡から邪馬台国までをいきなり12000里と実数で書いているのは、
 他とは距離の算定方法が違うからであり、多分以下の方法で算出したのであろう。)
魏の使者は女王国には直接行っていませんが、
不彌國で女王国の識者に「一定の長さの棒と目盛の付いたろうそくを渡して」
測量方法を教えたと思います。
その識者は宮崎に帰って海岸線で日の出と日の入りの位置を覚えて、
指示通りに一番南側から日が出て沈む日(冬至)に棒を立てて
一番影が長くなった(南中)時の影の長さを報告します。
棒の長さと影の長さからその日の太陽高度が分かれば、
90度-太陽高度+地軸の傾き(測定した日により変わる)がその位置の緯度です。
次にその日の日没に火をつけたろうそくが一定の目盛になった時の星の位置から
経度が分かります(星座や星は1年で一周します=占星術の元です)。
星は明るいリゲルかシリウスでしょう。
緯度と経度が分かれば帯方郡の緯度と経度から地球の子午線の長さを知っていれば
距離が計算できます。
西洋でもギリシャの時代に既に地球が丸くて子午線弧長が約1万kmであることは
知られていたようです(単位はmじゃありませんが)。
ガリレオの時代は宗教的な理由から地球が丸い事は否定されていましたが、
中国をはじめ古代の天文学者は現代の天文学者に劣らない知識を持っていたようです。
ここまで書いた具体的な方法は私の想像の産物ですが、多分こんな感じでしょう。

と言っても信じられないだろうと思うので解説する。まずは緯度である。



上の図は難しいかもしれないが、
太陽の高度が地面に垂直に立てた棒の長さと棒の影の長さから計算できるのは分かると思う。
それが分かれば後は図の中の式に当てはめればすぐに緯度が求まる。

次に経度であるが、これは天体が1日に360度北極星の周囲を回ることを利用する。
つまり1時間に15度回る。下図は2022年1月1日の20時と21時の比較である。

僕が多分リゲルかシリウスを利用したと思うのは明るくて分かりやすいからである。
特にリゲルは特徴的な形をした星座(オリオン座)の一部なので見つけやすい。
(オリオンは中国では別の呼び方かもしれない)

同様に経度の違いも地球一周360度と2つの土地の差が星座や星の位置の差から分かる。

本当はもっと距離の有る宮崎と北海道の根室なら分かりやすかったのだけど、
宮崎と根室では経度だけでなく緯度の差も有るので簡便化してほぼ同緯度にした。

このように太陽の高度から緯度を知ることができ、
日没からの時間をろうそくの目盛から決めて星の位置を知れば、
(緯度の補正は必要だけど)経度も計算できる。
緯度と経度の両方が分かれば、帯方郡の緯度と経度との比較により距離が分かるのである。
現代人ならば地球儀の上で2点をそれぞれの緯度と経度で特定して、
2点の距離を測ればすぐに距離が出てくる。
(但し当時は北緯○○度や東経✖✖度と言う概念が無い=必要ない=ので、
 厳密には帯方郡のどれくらい南でどれくらい東と言う感じでしかなかったかも?)

ここでふと先生が本に書いていないけど重要なことに気がついた。
先生!邪馬台国の緯度と経度が分かるならば、邪馬台国の位置が特定できるのではないですか。
じゃぁ魏志倭人伝を書いた陳寿は結構正確に邪馬台国の位置を知っていたのでは?
それならば、「南と東を間違えた」邪馬台国近畿説なんてあり得ないじゃないですか。
近畿説論者は、中国の使者が乗って来た船にしても天文学の知識にしても、
古代の中国の知識と技術に関してなめていると思った。
三国志を書いた陳寿は、
歩数による距離の算出、日数による距離の算出、天文学による距離の算出を知っており、
しかもそれを使い分けるんだからすごいな。
中国の使者がその職務上実際に行っており実際の数字が出せる不彌國までは歩測や航海時間で、
行ったことはないが皇帝や中央政府が知りたい投馬國や邪馬台国までは倭人に聞いた日数で、
その邪馬台国までの距離が倭人の言った通りであることを確認するのは天文学でと、
見事に使い分けているのだと思う。
「魏志倭人伝がいい加減」とか言う人は、実際には魏志倭人伝を読んだことが無い人なんだな。

<後日追記>
たった1日だけど後日なので後日追記。
倭人が中国人の押し付けで太陽や星の観測をしたように読めるけど間違いかもしれない。
もしかすると進んで覚えたのかもしれない。
宮崎なんて野分け(台風)の通り道である。
種まきの日にちを間違えると稲の受粉時期や収穫目前に台風で全滅してしまい、
それこそ誰かを殺してしまいたいほど怒りが発生するだろう。
必然的に一年とその中の季節を、もしかすると日時を意識するだろう。
なので、冬至と夏至そして秋分の日や春分の日を元に種まきの日などを決めるのは、
集落の指導者にとっては最重要な知識だったに違いない。
なんせ名前を卑弥呼(日巫女=太陽の処女?)と言うくらいである。
もしかすると比古(彦)も「日子」が元で鬼道も初期の幼稚な天文学を利用した秘術かも?
なので集落の首長や指導者には大事な技術で、中国の渡来人が無理に教えたのではなく、
むしろ倭人が頭を下げて教えを乞うたのかもしれない。
YOUTUBEで「卑弥呼は天文学者だった!(鬼道は天文学だった)」ってやらないかな?






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最終更新日  February 28, 2022 02:21:47 PM
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