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既に何回か同じことを書いたことが有るのだけれども、今までは言葉だけで読んでも分かりにくい表現だったので、今回AIを利用して絵で分かりやすく書いてみた。学者先生は「朝鮮半島から船で来たのに、何故伊都国に直接行かずに末蘆国(呼子)で降りたのか」をちゃんと説明できない。なので、相当にとんちんかんな仮説をたててしまう。例えば邪馬台国近畿説の人に多いのは、魏志倭人伝の次の部分を根拠に「南と東を間違えた」と主張するのである。<原文>又渡一海 千餘里 至末盧國 (途中略) 東南陸行 五百里 到伊都國つまり伊都国は末蘆国の東南のはずだ。なので方向感覚が完全に間違っている。そう言うのである。この学者先生は漢文を読んだことが無いのだと思う。この文章の「東南」は「陸行」にかかっており、目的地である「伊都国」にはかかっていない。それはすぐ後の邪馬台国や投馬國の部分を読めばすぐに分かる。<原文>南至投馬國 水行二十日 (途中略) 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月「南」は「投馬國」や「邪馬壹國」にかかっており、「水行」にはかかっていない。末蘆国から伊都国への文のように、主語(実際は分かり切っているので省略している)+方向+動詞+距離+目的地のような文は、行動形式である。つまり中国からの使者が実際に歩いて行った方法を報告した場合の書き方である。それに対して投馬國や邪馬壹國の場合は、方向+目的地+主語(実際は分かり切っているので省略)+動詞+距離のような文は、伝聞形式である。つまり、誰かに聞かれた時に(おそらく陳寿に説明している倭人)が答えた場合の書き方である。明らかに「構文」が違う。文法を勉強すればすぐに分かる話である。つまり末蘆国から伊都国の場合は、「東南」と言うのは目的地である伊都国の方向ではなく、行動、つまり歩き出す方向を示しているのである。地図に書くとこんな感じ。地図には書き忘れたが、「太古にはここは糸島水道」と書いた部分が糸島である。つまり地図を見ると、糸島は末蘆国の東に有るが、末蘆国に上陸した中国の使者は、「東南」の方向に歩き出すので、そう書いているのである。まぁ、それは簡単に分かることなので、せっかく末蘆国と糸島の地図を載せたので、次は本題の「何故壱岐から直接伊都国へ行かなかったのか」と言う疑問に対する答えである。地図だけ見ると確かに船で直接伊都国へ行く方が近くて速い。何故だろうか?それは地図を見ると、「虹の松原」、「姉子の浜」、「深江海水浴場(赤い四角)」とあるのですぐに分かる。この辺は砂浜でしかも潮の満ち引きが大きく、港を造れなかったからである。いや砂浜でも大丈夫だろうと言う人は学者先生と同じである。対馬海峡を小舟では渡れないのである。それを理解していない学者先生はひどいもので、なんと実際に西都原や三重の古墳から出土した埴輪の舟を参考に「準構造船」を作って、朝鮮まで行こうとして、見事に失敗している。例えば角川春樹先生の「野生号」すごいと思う。これで渡れると思ったんだ。さすがに恥ずかしかったのか、第2段は双胴船にしている。双胴船ならば確かに安定しているので、疲れれば休めば何とかなる。こんな船だったらしい。現代でも南洋諸島の人達が使っており、ちょっとはマシ。でもかなりの冒険だと思う。中国の中でも偉い「使者」がこんな冒険をするだろうか?同じような試みを「大阪市」もやっている。「なみはや号」である。うーん、船首の「くじらの口」は何なんだろう?波を受けると前に進まないのでは?野生号の方がまだマシだと思う。これは丸木舟のベースの船首部分に竪板を差し込んだ物なのかな?あれは沿岸や内水域なら波が弱いので使えるけれど、対馬海峡のように波が高いと抵抗が大きすぎて使えない(前に進まない)と思う。でも確かに沿岸用ならこの形も有ったかもしれない。あるいは埴輪なので、修羅に乗せた船なのかもしれない。修羅とはこんな物。修羅とは「そり」のことで、下にころを敷いて重い物を運ぶ道具。埴輪はお墓に使う物なので、長崎の精霊船のように陸上を進む船が有ったのかもしれない。長崎の精霊船。確かにそっくりだなぁ。九州では古墳の前で死者を船に乗せて引いたのかもしれない。でも作るのが大変だし、運ぶのも大変だから埴輪にしたのかも?あるいは絵に描いた船でよくあるように、水平線(船の海面上と水中のさかい)を表現した?そう言う感じかもしれない。いずれにしても実用的ではなく、何か事情が有ってこの形なんだと思う。実際には前には進まないと思う。結局言いたかったのは、学者先生の考える舟とは実用的ではなく対馬海峡は渡れない。ただ、倭人はそんな危険な舟でも対馬海峡横断にチャレンジしたのかもしれない。魏志倭人伝にそう書かれている。<原文>其行來渡海詣中國恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人名之為 持衰 若行者吉善 共顧其生口財物若有疾病遭暴害便欲殺之謂其持衰不謹つまり中国に渡って行く時には、乞食(仙人?)のような恰好をしてた者を1人乗せて、その者を「持衰」と呼び、うまく航海できた場合には色々と与えて、(嵐等で)失敗した場合には殺すと言うことをしていたらしい。航海が失敗したのは持衰が謹まないからだと言うのである。まぁ簡単に言えば生贄かな?つまりそれほど危険だったのである。中国の使者は偉い人なので、そんな危険は犯さない。中国ではもうその当時には結構大きな船を持っていた。船の構造の進化を考えると、だいたい、丸木舟→丸木舟に舷側や船首の竪板を加えた準構造船→構造船と言う感じで進化した。魏志倭人伝の当時、倭人は丸木舟か準構造船だったようだけれども、中国では既に大きな構造船を使っていた。それは魏志倭人伝を含む「三国志」を読めば分かる。特に有名な「赤壁の戦い」ではものすごい数の大きい船が出てくる。「赤壁の戦い」と言えば、映画つまりフィクションではあるけれども、映画「レッドクリフ」が参考になる。一場面をお借りして載せる。「野生号」や「なみはや号」とは全然違う。本当にこんな感じだったのか?AIに聞いてみた。今日のメインはこれ。AIによる検証である。自分でも調べてみたら、確かに後漢書や三国志には「樓船」が出てくる。20mの船と言うと、今でも通用しそうな大きな船である。これならば、中国の偉い使者でも「天気が良くて風のない日」ならば安心して乗るだろう。そして、その場合船を見ると分かるように、海面からの高さは結構ある。しかも水面下も結構深く、砂浜にはとうてい停泊できない。小舟に乗り換えるのは、波が有って大きな船の甲板と小さな舟では高さが違いすぎ無理。桟橋は、日本では相当に後世になるまで作れなかった。吾妻鏡によれば、源実朝は中国の技術者に大きな船を作らせようとしたが、できなかった。邪魔されたとか壊されたとも言うけれども、実際は鎌倉には港が作れなかったのだろう。北条泰時はそれをふまえて、金沢八景(六浦)の港への道を整備した。朝比奈切通である。また鎌倉付近で唯一船が停まれそうな場所に「和賀江島」を造った。けれども、それは魏志倭人伝の時代から900年後の鎌倉時代である。そんなに難しいのと思うかもしれないので、現代の船着き場の写真を載せる。潮の満ち引きや船への昇降を考えると、写真のような階段状の接岸施設が必要なのである。もちろんコンクリート製の岸壁が作れれば良いのだが、魏志倭人伝の時代には無理。また、砂浜は洗掘と言って、波によって砂が洗われて水底は安定せず柱が立てられない。(海水浴に行って岩の周りを見ると周囲が削られているのがよく分かると思う。)後世には「そだ」によって水底を安定化する技術ができるが、魏志倭人伝の時代には無理。なので、最初の地図に書いたように壱岐から伊都国へは船では行けずに、末蘆国の深い入江の崖に何らかの(例えば上の写真の階段のような)接岸設備を作って、末蘆国(呼子)で上陸して、東南の方向に歩き出して、500里歩いて伊都国に向かったのである。
May 27, 2026
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ダイソーに行くとブルートゥースピーカーを1000円(税込み1100円)で売っていた。ブルートゥースは使わないので最初は見過ごしていたが、ふと考えると「FMラジオに改造できるのではないか?」と気づいたので買ってきた。こんなの。昔のラジカセ風で可愛い。しかもブルートゥース5.0なのでステレオのはず---と思ったらモノだった。本来はステレオ可能のはずなんだけれども配線がそうなっていない。現にパソコンのブルートゥースにつなぐとパソコンではステレオ表示される。分解してみるとすぐに理由が分かる。基板表面はこんな感じ。えーなんで?左右のアンプIC2個の入力(+INで4番ピン)が並列につながっている。入力マイナス側は両方ともコンデンサー経由でGNDにつながっている。なので上の写真は改造途中なので基板の配線パターンを削って切り離している。アンプICはTC8002で該当部分を載せるとこんな感じ。回路図部分は見づらいので、画像を右クリックして出るメニューから、「新しいタブで画像を開く」を選択すると、別タブで大きく表示できます。つまり標準的な回路なので、入力さえ切り離してやれば別々に動作できる。FMラジオに改造するのに使うFMラジオユニットは愛天堂のM5807MAである。このDSPのFMラジオユニットは安くて感度が良く、しかも周波数表示できる優れもの。色々な物に仕込めるので、子供の夏休みの宿題にはもってこいである。但し、半田付けが必要なので半田付けはお父さんの仕事。そしてスイッチや電源への配線をピンソケットとピンヘッダーにしておけば、スイッチ等への接続は子供でもできるので、おもちゃなどにFMラジオを組み込める。ちなみにその際の回路接続はこんな感じ。ごく簡単なものだけれども、子供と一緒にやればお父さん株が爆上りだと思う。基板の裏面はこうなっている。各スピーカーやUSB-C端子及びSDカードスロットやリチウム電池への配線が有る。この基板はリチウム電池への充電回路がのっており、動作はリチウム電池が電源である。例えばアンプICの6番ピン(VDD)がつながっているのでC9やC14の右側で測ると、満充電状態ならば4.02V(規格上は3.7V)も有る。僕はここからFMラジオユニットの電源(3~3.3V)に、低ドロップ三端子レギュレーター経由でつないだ。安く作りたかったので、この3.3V用にしたけれど、普通は3.0V用を使った方がいいです。昔の三端子レギュレーターは入力電圧は出力電圧よりも3V以上高くないとダメだった。今の低ドロップタイプは1V未満でも十分OKなので使いやすい。3.7Vから3.0Vを作れるなんて奇跡である。そんな感じで何とか完成した。正面から見るとこんな感じ。写真の中の、84.7MHzはFM横浜の間違いですね。周波数表示部がちょっと斜めかなぁ。僕はぶきっちょだから仕方ない。愛天堂のM5807MAは76.0~108.0MHzで使える。その辺の中華FMラジオは87.0~108.0MHzなので、この方が良い。特に横浜の住民はFM横浜が聞けないと寂しい。我家はマンションなのでスピーカーを鳴らすと奥さんに怒られるのでイヤホン端子をつけた。でもヘッドホンを使う方が音が良い。上から見るとこんな感じ。ボタンが何か分からないのでマジックで書いた。上手く書けない。うーん、「f+」と書いたのに「チ」に見えるなぁ。孫に笑われる。本体用ボタンはOFFでもC9やC14の頭から電源をとっているので、ラジオ用の電源ボタンだけでON/OFFできる。裏側はこんな感じ。これが苦闘した。なんせスイッチや液晶そしてイヤホンの配線が多くてかさばって、フタが閉まらない。ねじどめしても真ん中が膨らんでいるような気がする。で、なんとかできたんだけれども、本体スピーカーが鳴ったり鳴らなかったりする。実はラジオをつける前のブルートゥースの時でもそうだったような気がする。僕はブルートゥースは使わずラジオだけで、イヤホンはラジオ直結なのでそれでも良いが、このスピーカー大丈夫なのかなぁ?もう一台買ったので、今度SoCのピン配列を調べてステレオ化してみようと思っている。
May 26, 2026
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邪馬台国の位置が定まらないのは何故かと言うことを考えると気づくのは、議論をする学者やアマチュアの研究者がほぼ原文を読んではいないことだと思う。たいていの場合、原文は読まずに誰か他の人が訳して書いたものを読んでいる。その為に、元となる訳された文が誤っていると、メチャメチャな理論が正しい物としてまかり通り、あげくの果ては、その理論を正当化する為に信じられないような理論を新たに追加し、結局それが堂々巡りをして、最後にはメチャメチャな理論になってしまうのである。例えば「箸墓が魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓の100歩と言う大きさに近いので、 箸墓は卑弥呼の墓である。」などと言うのが良い例である。もう何度も書いているように、「逆は必ずしも真ならず」と言う高校の教科書にも書かれているような基本的な論理さえ、歴史学者は理解していない。魏志倭人伝には卑弥呼の墓は100歩であったとは書かれている。しかし、その逆命題である、100歩の大きさの墓だから卑弥呼の墓であると言うのは成立しないのである。100歩の墓が狗奴国王の墓でも何の不都合も無い。単に100歩の大きさの墓だと言う事だけであり、それ以上でもそれ以下でもない。何でこの程度の簡単な、基礎的な論理が理解できていないのかといつも思う。しかもそれ以前に、100歩を150mだと考えるのさえも間違いなのかもしれない。古代中国の1歩は左右の足の進み両方をカウントして1歩とするので現代の2歩である。そして1歩は5尺なので歴史学者の先生は1歩=30cmと言う理論に基づいて、1歩=150cm=1.5mと考えている。なので100歩=150mと考えるのだが、そもそも1尺=30cmと言うのが間違っている。魏志倭人伝を含む三国志の中では、諸葛亮孔明の身長が8尺だったと書かれている。陳寿『三国志』蜀書・諸葛亮伝の冒頭に、諸葛亮の人物紹介として次の一文がある。「亮身長八尺」1尺=30cmなら8尺は2.4mにもなるので孔明はバケモノである。本当にそうなのだろうか?実は発掘調査により、1尺の長さが分かる定規のような物がいくつか見つかっている。いくつかをあげてみると、以下の通りである。・商代骨尺(河南安陽出土) 長さ約15.8〜16.9cm。最古の測長具の一つで、骨製の定規として使用された。・東周銅尺(洛陽金村古墓出土) 長さ約23cm。戦国期の「商鞅量尺」と一致し、度量衡統一の証拠となる。・西漢銅尺(複数出土) 長さ約23.2cm前後。鳥獣文様や幾何文様が刻まれた装飾的な銅尺があり、儀礼的要素も持つ。・東漢骨尺・牙尺 出土例40余。円形の刻印を「尺星」として目盛りに利用。長さは23〜24cm程度。・唐代銅尺・牙尺 約50例が現存。刻花銅尺や「拨镂牙尺」と呼ばれる精緻な象牙製定規があり、 外交贈答品としても用いられた。・明代嘉靖牙尺 長さ約32cm。精密な線刻が施され、官定の標準尺として使用された。・清代「康熙御制」牙尺 長さ約32.1cm。紫金山天文台の銅景表尺と一致し、建築や天文観測に用いられた。後世になるほど30cmに近くなるけれども、古い時代は23cm程度である。学者先生の主張する1尺=30cmと言うのは後世の物だろうと思う。魏志倭人伝を含む三国志の時代には23cm程度だったのだろうと考えられる。つまり孔明は8尺=23cmX8=184cmだったのである。長身ではあるが、ごく常識的な数値である。これに従えば100歩は120~130mとなり、箸墓は大きすぎることになる。(箸墓を卑弥呼の墓とする先生達は1歩=5尺=30cmX5=1.5mとしているので、 これに従えば1歩=23cmX5=1.15mなので115mとなるのだが、 秦の始皇帝が1歩=6尺とするように命じた例もあるので、 1歩=23cmX6=1.38mになることから若干広く見て120~130mとしている。)まぁどちらにしても、可能性は(小さくてもゼロではないので)あるが、証拠にはならない。本題に戻って、漢文を原文では読まずに誰かの訳したものを読んでいるだけと言うのは、次の説明=後漢書倭伝の「極南界」の解釈を読めばすぐに分かる。原文は「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也」なのだが、学者先生の解釈では、 建武中元二年(西暦57年)倭の奴国が貢を奉り朝賀してきた。 使者は自らを大夫と称した。 (自分の國である)奴国は倭国の最南端にある。何でこう読むのかが分からない。「倭國之極南界也」と言う部分の主語は何なのか?述語は何なのか?学者先生の解釈では主語は「奴国」で、述語は「~に有る」と言う事らしいが、原文の中には全く書かれていないので、訳した人が想像しただけである。同じように想像して訳すことが許されるのならば、「使人自稱大夫」の続きなので、「使人稱倭國之極南界也」と理解するのが普通だと思う。つまり使者は「私は倭国の南界(南の果て)まで極めた(征服した)のなり」と読める。こう読むのが普通ではないだろうか?学者先生は奴国を福岡県内におさめたくて、倭国の南の端だと主張したのではないだろうか?奴国が大きくなって九州全体まで広がっていた可能性はないのだろうか?魏志倭人伝には奴国の規模は2万戸と書かれている。同じ魏志倭人伝では、対馬=1000戸、壱岐=3000家、末蘆国=4000戸、伊都国=1000戸、不彌國=1000家と書かれているので、その2倍である。上に書かれた国は大陸に近く、開けていたと思われるので、大陸から遠い南九州はもっと人口密度は低いはずだと思われる。すると九州の南の果てまで征服してやっと2万戸と言うのは妥当な数字だと思う。原文「倭國之極南界也」の中の「之」を「の」と読むのは訓読みであって、中国人は「の」とは読まない。漢文を訳す場合は日本風に理解して「の」と解釈する場合もあるが、普通は「これ」と読んで前の名詞「倭国」を強調する場合が多い。その場合続く「極」は動詞である。つまり「極南界」と言う名詞ではありえない。そもそも「大夫」が「奴国って倭国の南の果てに有るんだよね」と言っても、それは金印をもらえる理由にはならないのではないかと思う。金印は簡単にはもらえない貴重な権威の有る物である。それは後世の倭の五王の倭王武の上表文を見ると分かる。倭王武は金印ではありませんが単に「安東大将軍」等の称号をもらう為に、「東では蝦夷の55か国を平らげ,西では熊襲の66か国をおさえ, さらに海をわたって朝鮮半島の95か国をしたがえました。」と主張している。そのくらい言わないと中国の皇帝には認めてもらえない。ましてや金印をもらうのだから、「俺んちって九州のど田舎に有るんだよね」と主張して金印をもらえるなどと考えるのは、学者先生の感覚はずれていると思う。この後漢書の一文は、「大夫」が中国の皇帝に自分を「倭の王だと認めてもらう」為に主張しているのだから、後世の倭王武の上表文の例から考えて「倭国の南の果てまで極めた」と読むのだと思う。つまり自分は倭国で一番偉くて倭国の中は自分が南の果てまで全部征服した。だから倭国の王だと認めろ」と言っているのである。例えば高市総理が私って北海道の北のはずれに住んでいるんだけど、北海道って日本の北の果てなんだよね」と言って、トランプが高市総理を認めてくれると思うだろうか?馬鹿にされるだけだと思う。自民党が選挙で圧勝したからこそ認めてもらえたんだと思う。ただ、自分がこう思うと言うだけでは説得力が無いので、AIを使って漢文を現代訳させてみることにした。そうすれば一般的な解釈が得られると思うし。信頼性が担保されると思うから。なお、その時に後漢書の原文のままでは、あまりに誤っていると思われる訳した文が世の中に広まって通説になっており、AIと言うのは情報の海の中から根拠を探して来ると言う性質が有るので、正しい答えを得られないと思うので、一部を変えて訳してもらった。「使者」を「男」に、「大夫」を「探検家」に、「倭国」を「米国」に変えてみたのである。つまり「使人自稱大夫倭國之極南界也」を「男自稱探検家米國之極南界也」として現代の言葉に訳させてみたのである。結果が面白かった。最初の答は「男は自分のことをアメリカの最南端まで行った探検家だ”と名乗った」だった。ほれ見ろと思った。学者先生の現代語訳から既に離れている。でも僕はさらに追及した。「極」は極めると言う動詞ではありませんか?また元の文には「行った」と読める漢字がありません。と追及したのである。するとAIは「確かにそうですね。」と言い、見直した答を出して来た。「男は自分を「アメリカの南端を極めた探検家だ」と称した。」もううれしくなっちゃった。AIも僕と同じように訳すじゃんと思った。つまり歴史学者の先生は間違っているのだと思う。後漢書原文の「使人自稱大夫倭國之極南界也」は、「(奴国の)使者は自分を倭国の南端を極めた大夫(偉い人)だと称した。」と読むのが正しい漢文の読み方なのである。歴史学者や研究家達が、自分では漢文の原文を読まないで、(意図的に誤って読まれた)他の誰かの訳した文を元に考えるので、邪馬台国の位置はいまだに定まらないのだと思う
May 24, 2026
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連休明けの5月7日は横浜市金沢区わの会のイベントで横須賀市の田浦に行った。ここはかっては海軍、今は自衛隊の基地が有り、近代化遺産の宝庫である。近代化遺産とは江戸時代末期から第二次世界大戦が終わるまでに、欧米の先進的な技術や材料などを用いて造られた産業、交通、土木の構造物などを言う。ルートはこんな感じ。集合は京急田浦駅付近には適当な広場が無いので、近くの南郷公園でスタート。ここから16号線を横切って長浦港方面に向かう。最初に言ったのは旧海軍工廠造兵部跡地である。現在は東芝ライテックになっている。ここは見ても面白くもなんともないのだが、実はすぐ裏に行くと面白い所がある。ここにはかって機銃を作る工場が有り、その工場で作られた機銃を地下の試験場で試射していたらしい。こう言うのはガイドさんしか知らないので感謝である。ちなみにここで作られていたのは「海軍」なので、航空機用の機銃である。ガイドさんの説明によると口径7.7mmだそうなんだけれども、九七式七粍七固定機銃だな。調べてみると96式艦上戦闘機や零式艦上戦闘機に使われていたらしい。えー!ゼロ戦の機銃じゃん!ちなみにゼロ戦52型戦闘機の操縦席の写真をネットからお借りして載せる。操縦席の中央に射爆照準器(ガラス板みたいなの=これで狙いを定める)が有り、その両側に九七式七粍七固定機銃の後尾が突き出している。つまらないなんて言ってごめんなさい。よく調べて見に来ていたら感動できたかも?せっかくなので呉の大和ミュージアムに展示されているゼロ戦を載せる。62型なので少し違うけれども、雰囲気は同じ。7.7mm機銃はプロペラの後ろから発射するが、プロペラの回転に同期しているので、弾はプロペラには当たらない。ゼロ戦は翼についた20mm機関砲で有名だが、弾が大きくて60発しか積めない。7.7mm機銃の方は700発積めたので、多分こちらの方が心強いと思う。だって60発だとあっという間に弾切れだから。ここの先に進むと長浦港に出る。偶然だけれども海洋観測船が停泊していた。これは「オタク」の僕じゃないと分からない部分でガイドさんは御存知ないと思うけれども、左側は今年3月に退役した「わかさ」である。右は「にちなん」。船首が面白い形をしている。わかさは「ふたみ形海洋観測船」の2番目の船で昭和の時代の船なので退役もやむをえない。海洋観測船はその名前からすると気象庁の船のように感じるが、その役目は海洋地形や潮流の観測と分析で、戦略的に重要なことなので自衛隊の船。特にソ連の原子力潜水艦を捕捉する為には不可欠なんだけれども、直接的にそれを主張できないので、名目上は商船や漁船などの安全な航行が目的である。見ると分かるように船首は変な形状をしている。ここは巨大な滑車が有り、海洋地形や潮流の観測用の音響ケーブルがその滑車を通して海に繰り出される。そのせいでこんな形をしている。上の写真ではその様子が分かりにくいので、ネットから拡大写真をお借りする。海の中では電波が使えないのでレーダーは使えず、音の反射を利用するソナーを使う。昔の潜水艦はディーゼルエンジンを使っていたので、その音を頼りにして、(今では蓄電池に充電して動くのでエンジン音は低いが、 それでもスクリュー音はするので、性能の良いソナーだと潜水艦の名前まで分かるらしい。)例えば10秒前にX=0,Y=0の位置にいた潜水艦が、今X=1、Y=1ならば、10秒後にはX=2,Y=2にいる可能性が高いので、その辺に爆雷を打ち込む。爆雷は沈むのに時間がかかるので若干の時間的余裕を見て、予想する水域に投下する。爆雷は直接命中しなくても、爆発する際の圧力で潜水艦をつぶすので、複数の爆雷を投下すれば効果が高い。音の検出はマイクだと範囲が狭く感度が低いので、音を圧力として検出する音響ケーブルは効果がある。なので音響ケーブルを広範囲に張り巡らせて潜水艦を探すのである。うーん見られて良かった。ちなみに「わかさ」はもう一つ有名なことがある。日本で最初の「女性艦長」が誕生した船だと言うことである。今回調べていて、そう言えば昔そう言うニュースが有ったなぁと思い出した。長浦港の奥にはかってガントリークレーンが有った。平成25年に本体は撤去されてしまったので基礎だけしか残っていないが、せっかくなのでネットから写真をお借りして載せる。このガントリークレーンは大正13年に旧横須賀海軍工廠砲台工場の物で、かっては戦艦の首砲などの組み立てをする工場の中への運び込みに使われていたそうである。本当は「日本遺産」だったんだけれども、平成25年に撤去されちゃったんだよなぁ。まぁ仕方ないか。でも「日本遺産」ってなんなの?長浦港の右手には旧鍛錬工場の事務所跡がある。レンガ造りって聞いたんだけれども、そうは見えない。レンガの上からモルタルを塗っているのかなぁ?先に進むと船越神社がある。でも時間の関係で中には入らなかった。左に曲がると景徳寺が有る。今日のメインで、三浦三十三観音のうちの二十一尊である十一面観音像が有る。この辺を船越と呼ぶのは、この御本尊が朱色の小舟に乗って入江に流れ着いたのをお祀りしたことが由来である。どこから来たのだろう?東京湾及び房総には漂着仏の伝承が多い。有名な所では、品川寺の観音様、浅草寺の観音様、穴守稲荷の漂着仏、川崎大師など本当に多い。何故なんだろうなと思う。いつか研究しよう。景徳寺の裏に旧田浦トンネルが有る。説明が無いと見逃してしまいそうなこのトンネルは、現在は廃道となっているが、地元の人達の手になる素掘りのトンネルで明治26年に開通したそうだ。写真の左には(写っていないが)現在は上下2本のトンネルが有り、こちらは大正12年と昭和23年に作られたものだそうだ。この辺は谷戸が多いのでトンネルは重要な交通施設なのである。さらに進むと自衛隊の第2術科学校が有る。旧水雷学校の跡地である。中には水雷学校の碑がある。草刈りくらいは自衛隊の訓練の一環としてやった方が良いのじゃないかと思う。少したるんでないか?自衛隊!たくさん歩いたのでJR田浦駅でトイレ休憩した。JR田浦駅はホームが短くて、11両編成の横須賀線では先頭車両がトンネルにかかってしまい、ドアが開かない。(写真は既に動き始めているのでドアが閉まっているが、先頭車両は止まっていても開かない。)また横須賀側の七釜トンネル手前には港への引込線が一部残っている。今は使われていない。後から行くのだけれども、かっては海軍の倉庫などの施設まで引込線が延びていた。その配置などが民間施設の案内板に書かれていたので参考に載せる。ここに書かれたF号倉庫や引込線の交差部や比与宇トンネルにこれから向かう。まずはF号倉庫。ツタに絡まれた古い倉庫。その右手に進んで行くと面白い場所が有る。引込線の交差部である。路面電車のT字路や十字路などではカーブを描きながら曲がる構造になっていることが多く、こんな風に完全に直角に交差している場所は滅多にない。路面電車の場合には系統乗り継ぎをする関係で、交差点付近の駅では2つの系統が並行するからである。ここを先に行くとかって地下工場が有った跡があるのだが、中には入れない。でも入口と言うか出口の跡が比与宇トンネルの中にある。今はブロックで塞がれているが、かっては地下工場と言うか火薬の倉庫が有ったらしい。ちょっと前までは見学できたらしいのだが、今回の行程には含まれていないので、ネットから写真をお借りして載せる。金沢区から横須賀市にかけては、かって海軍がいたせいであちこちにこのような壕が残っている。ここから最後の京急安針塚駅に行く途中で良いものを見つけた。潜水艦と潜水艦教育訓練分遣隊である。横須賀は海上自衛隊の第2潜水隊群の拠点であり、「たいげい型」や「そうりゅう型」潜水艦が10隻くらいいる。写真の潜水艦は艦橋が上にいくほど細くなっている。ソナーがあたっても跳ね返りにくく、探知されにくく、「そうりゅう型」の特徴。2026年最新艦の「ちょうげい」が配備されたらしいのだけれども、写真のは違うな。でもせっかくだから「ちょうげい」の写真をネットから写真をお借りして載せる。カッコいいなぁ。そんな感じで、最後は京急安針塚駅そばの長浦第2公園で解散した。
May 12, 2026
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3月5日はわの会のイベントで江ノ島に行くはずだったんだけれども、腰が痛いし、足が動かなかったのでお休みしたんだけれども、すごく残念だったので、2か月もたったのに一人で行くことにした。まぁ、回復記念ですね。わの会の記録書を見ながらルートを確認するとこんな感じ。弁天橋部分が長くて、1枚の地図にすると小さくなるので、縮尺の違う2枚の地図に分割した。けっこう歩いたんだなと思う。直線距離にするとそれほどでもないけれども、高低差がきつい。まぁでもエスカー(江ノ島のエスカレーター)があるから大丈夫かな?わの会では小田急片瀬江ノ島駅が集合地点になっていた。ちょっと趣味が悪い。何でイルカ?しゃちほこは元々は火除けのお守り、頭が龍、身体が魚の形をしている。それに江ノ島は龍宮とは何の関係もない。奥津宮の先には龍宮があるが、あれは「りゅうぐう」ではなく「わだつみのみや」である。また江ノ島の龍は天から舞い降りた天女(弁財天)に恋した五つの頭を持つ(元)悪龍で、弁財天と結婚する為に改心するお話が元になっており、龍宮とは無関係。さらに言えば、北条時政が出会った龍は龍宮とは関係ない。太平記を読むと、北条時政は、幕府草創の始めに江の島へ参籠して子孫繁栄を祈ったのだけれども、満願の夜、 赤い袴に裏が青い衣を着た天女(弁財天)が忽然と時政の前に現れて、「お前の前世は箱根法師である。 六十六部の法華経を書写して、 六十六箇国の霊地に奉納した功徳で、この世に生まれ変わった。 子孫は永く日本の主となって繁栄するであろう。 ただし、正しい行いをしなければ七代以上は続かない。 私の言うことに不審があるなら、国々の霊所を見てみよ」と言われた。天女(弁財天)は二十丈(約60m)の龍となって海中へと姿を消すが、その折、大きな鱗を3つ落としていった。時政は「所願成就した」と喜び、その3つの鱗を北条の旗の紋とした。そう書かれている。つまり龍宮とは何の関係もない。まぁでも観光地なので、おめでたいから良いか。そして僕はわの会とは違い、江ノ電江ノ島駅からスタートした。何故なら小田急線は金沢区は通っておらず、金沢区に住む僕は鎌倉駅が便利だから。わの会は集合するのにある程度広い広場が必要なので、片瀬江ノ島が便利なのだろう。江ノ電江ノ島駅には集合するスペースが全くない。雀さんがかわいいお洋服を着ている。どこかの優しいお姉さんが着せてくれたのかなぁ。江ノ電江ノ島駅から江ノ島入口までの通りは洲鼻通り。すばな通り石碑と湘南地名石碑が有る。「湘南」という地名は、かつての相模国(現在の神奈川県)の「相模の国の南部」を意味する「相南(そうなん)」に、中国の湖南省の美しい景勝地「湘江」になぞらえて「湘」の字があてられたことが主な由来。通りの途中には江ノ島弁財天道標がある。わの会で藤沢に行った際にもたくさん有ったけれども、これから行く江ノ島で管鍼術を起した杉山検校が寄進した道標である。その道標の多くが頂部が尖った角柱形で、正面の弁財天を表す「梵字」の下に「ゑのしま道」、左側面に「二世安楽」、右側面に「一切衆生」と彫られている。これは江の島弁財天への道をたどる全ての人の現世・来世での安穏・極楽への思いを込めている。134号線は車が多く、観光客が危険な横断することが多かったので地下道が造られている。また地下道には江ノ島に関わる浮世絵が描かれており、観光客の気分を盛り上げる。うーん、昔は潮が引くと歩いて渡れたのか。江ノ島へ渡る橋は弁天橋と呼ばれており、たもとに石の龍灯籠が建てられている。僕が初めて来た45年前の昔はこんなの無かったなぁ。江ノ島の縁起が書いてある。弁天橋を渡るとさすがに観光地。両側にはお店が並び、入口に青銅の鳥居が有る。これは昔からあるなぁ。扁額には「江島大明神」と書かれており、筆跡は弁財天の使いの蛇をかたどっている。鳥居をくぐると左に郵便局が有る。その前に面白いポストが有る。僕らにとっては、赤い郵便ポストの方が思い出が有って良いのだけれども、これはこれで一つの歴史。この郵便差出箱は明治20年頃の物。昔の文豪たちも、ここから家族に「江ノ島に来たよ」なんて手紙を送ったのかも?右手を見ると岩本楼が有る。中に入れないのが残念だが、岩本楼はこの後行く奥津宮の別当寺の岩本院の跡。鎌倉時代より時の将軍・勅使・大名などの宿坊として栄え、ローマ風呂や弁天洞窟風呂が有るらしい。そしていよいよ江ノ島の三女神の宮に入る。大きな門、瑞心門が有る。うわぁ、片瀬江ノ島駅は龍宮じゃなくて、この門をまねしたのか。立派!江ノ島の案内板が有った。うーん観光地だから仕方ないけれど、江ノ島って弁天様がメインなの?三女神がメインなの?みんながそう疑問に思うようで、案内板も大人の対応をしている。三女神は本来は九州の宗像の女神さまなのだけれども、「宗像の」を巧妙に隠している。だって弁財天は仏教の神様だから、日本古来の宗像三女神とは合わないもの。宗像三女神は天照大御神と素戔嗚尊の「誓約」の際に誕生した素戔嗚尊の娘である。仏教の伝来よりもはるかに昔から日本におられる神様。まぁ仕方ないよね。観光地だから。鳥居下からわき道に入ると杉山検校の福石が有る。杉山検校は本名を杉山和一と言い、ここでつまづいて転んだ時に、偶然触れた松葉からヒントを得て、管鍼術を考案したらしい。そして最初は辺津宮。すぐ隣に奉安殿が有る。奉安殿には勝運祈願の神の八臂弁才天(はっぴべんざいてん)と、音楽芸能の神の妙音弁財天が祀られている。八臂弁才天(はっぴべんざいてん)は8本の腕を持つ弁才天の姿で、インドの仏教経典「金光明最勝王経」に説かれる戦闘神・武神なので仏教の神様なので、そもそも日本古来の宗像三女神のそばに有るのは変なのですが、まぁ観光地なので仕方ありません。後ろを振り返ると銭洗いの池が有る。池の中はお金でいっぱい!。弁天様と龍神は夫婦で、江ノ島の伝説の元になった神様。そして江ノ島では財宝福徳の神としてあがめられています。そしてその先には宗像三女神のお父さんの素戔嗚尊が祀られる八坂神社が有ります。お父さんの神社もちゃんと有るじゃん!(説明板には忖度して、お父さんじゃなくて「縁の深い神様」と書いている。大人の事情)この八坂神社の御本尊の須佐之男命の木造は腰越の小動(こゆるぎ)神社に祀られていた物が、大波で海に流された物を江ノ島の漁師が拾い上げて江ノ島で祀るようになったらしい。過去に「宗教戦争が有った」のだなと思う。蘇我氏と物部氏の争いの時にも、仏像は物部氏によって捨てられたからなぁ。仏教と神道の争いはその後も続き、鎌倉時代や江戸時代にもたびたび争っているが、特に明治初期には「廃仏毀釈」と言う悲劇が起きて仏像は散々な目にあった。逆のことが奈良時代から江戸時代にかけて起こっている。神宮寺や別当寺がそうである。神社が寺に飲み込まれた。上の方に江ノ島入口付近の岩本楼が奥津宮の別当寺である岩本院の跡だったと書いたが、神仏混合とか神仏習合と呼ばれて、日本の国家宗教となった仏教が古来の神道を飲み込んだ。その際に神社の祭祀を行う為のお寺が神社内に置かれて神宮寺と呼ばれ、その中でも強い権限を持ったのが別当寺である。「廃仏毀釈」はその長い恨みが明治維新の際に爆発したもので、仏像や寺が焼かれた。川崎大師や品川寺のように東京湾沿岸に漂着仏と言うのが多いのは、恨みをかった寺の仏像が海に投げ捨てられて漂流した物だと思う。ここ八坂神社の須佐之男命の仏像は逆に神社の木造の神が仏教徒に捨てられたのかもしれない。すこし奥に行くと歴史の先生は、歴史には詳しくても経済には疎いので信じてくれないが、鎌倉時代が成立する際には頼朝達は宋との貿易を必死に考えていたような気がする。それ以前には平清盛が宋との貿易で利益を上げており、平家の財力の源になっていた。源氏もそれを見て、同じように宋との貿易を試みた。源実朝はNHK大河ドラマの鎌倉殿の13人を見ていると、中国の技術者を呼んで、中国と貿易可能な大きな船を作ろうとして、北条家の妨害に有って(三浦が妨害したと言う説もある)、船作りは失敗している。本当は鎌倉は砂浜なので、大きな船が停泊できる港が作れなかったのだと思う。比較的大きな船は、金澤の六浦や大船(柏尾川を利用)の港に停まっている。金沢文庫の金龍禅院の遺跡からは宋銭が出土しており、僕は金沢八景の弁天島のあの形状は、船が停泊して水揚げできる桟橋だったのだと思っている。江ノ島は低いとは言え、山なので頂上まで上るのはとても大変である。でも観光地なのでなんとエスカレーターが有る。500円とちょっと高い利用料がかかるが、年寄りは文句は言えない。絶対に必要だから。さすがに500円も取るので、多少は気を使っており、内部は凝っている。両側はプロジェクター。時間ごとにクラゲになったりイルカになったり面白い。次は中津宮につく。何故か「羽衣マーク」が有ったりする。さすがに観光地だなぁと思う。中津宮からエスカーに続く道には浮世絵がたくさん並ぶ。全部は載せられないので、一部だけ載せる。岩屋は江ノ島の西側に有るので、本当は富士山は背後になるような気がするが、なんせデフォルメがな浮世絵なので、工夫してねじまげて富士山を構図に入れている。歌川広重って商売上手!エスカーを降りると頂上の広場に出る。もうお客さんでいっぱい!奥の方に有名な江ノ島のタワー=江の島シーキャンドルが有る。避雷針まで含めた高さは59.8m(標高119.6m)もある。シーキャンドルとはうまい命名で、確かに下が細く上が太くなっており、上の方はガラス張りの展望フロアになっている。でも高いので登らない。ここから奥津宮に向かう。途中に一遍上人の島井戸や山ふたつ、群猿奉賽像庚申塔が有る。島なのに、さすがに霊験あらたかな一遍上人である。島人の為に井戸を掘りあてたんだ。山ふたつは江ノ島の「くびれ部」写真では分かり辛いが、ほとんど絶壁。その谷底に木食上人の行場窟と呼ばれる洞窟が有り、上人が修行した場所で石造阿弥陀如来像がある。群猿奉賽像庚申塔いつも思うのだけれども何故庚申塔に「お猿さんの山王神」なのか分からない。山王神は元は日本古来の神で大山祇の神のはずであり、仏教それも庚申伝説とは関係ないはずだし?何で?そうこうしているうちに奥津宮につく。入口の鳥居は源頼朝の寄進したものらしい。奥津宮。本当は中に入れたら八方睨みの亀の天井画が見られるはずなんだけれども、個人では無理。そばには亀石も有る。亀石は奈良の石舞台古墳の近くにも有るけれど、完全に日本の神様の石。まぁでもこの亀石は奈良の物とは由来が違うらしい。僕は三女神が傍に有るので、本当は江戸時代よりも以前からここに有って、三女神と縁が深いのじゃないかと思っている。奥津宮の奥には龍宮が有る。「りゅうぐう」ではない。「わだつみのみや」である。江ノ島の由来となった伝説を載せる。下の方が江ノ島の由来となった伝説で、上の方は北条時政の伝説である。北条氏の紋、ミツウロコはこの北条時政の伝説に基づいている。わの会はここまでで終わったらしいのだけれども、僕はせっかく来たのでさらに先に進む。龍宮の鳥居の反対側の坂を上ると江の島龍野ヶ丘自然公園が有る。公園にはカップルがたくさん訪れる。上の写真の龍恋の鐘があるからである。周囲にはカップルが結び付けた「鍵」がたくさん有る。カギを結び付けたカップルは分れないらしい。龍宮の先に進むと「も組鳥居」が有る。弁天様は水の神なので、火除けに御利益が有ったらしい。この先には「江ノ島岩屋」が有り、僕も九州から関東に来て48年になるけれども初めて行く。岩屋の入口は海に面していて、昔は岩を伝って海辺をたどらないと行けなかったので、潮の引いた時間限定で、しかも足場が悪くて行けなかったのである。でも今は橋が作られていて行ける。でも岩屋への登り降りはとても急な階段で、わの会が行かなかったのは正解だと思う。僕も帰りは頭がくらくらした。僕が初めて東京に来た時は、浮世絵のような状況だったのだと思う。料金を払って中に入る。入口付近には色々な説明が書いてあり、その中の「どのようにして江ノ島ができたか」を載せる。上の方が岩屋の生成過程で、下の方が江ノ島のできた状況の説明。えー!江ノ島ってできてたった7~8万年なの?若いじゃん!岩屋の案内図を載せる。昔は左の「岩屋橋」が無かったので、海岸沿いの岩棚を入口まで歩いた。すると中央から右の下の入口には潮が満ちると足元まで海水が来ると言う感じだった。なので潮の引いている時間帯しか入れず、岩棚は滑るので非常に危険だった。しかも奥津宮からは、ものすごく急な道(階段)を下るので大変だった。帰りは階段はものすごく急だったし。岩屋は第一岩屋と第二岩屋が有る。まずは第一岩屋。中に入ると洞窟なので当然真っ暗なのだが、今は入口から半分くらいは照明完備。しかも奥の方も照明は無いが、途中でロウソクを貸してくれる。結構明るくてある程度フラッシュ無しでも写真が撮れる。フラッシュは禁止。洞窟は元々お祈りをする場所なので、両側には仏様が有る。江ノ島は弁天様を祀る島なので、当然下の写真のように宇賀福神も並んでいる。宇賀福神は宇賀神ともよばれて、本来は身体は蛇で頭が人間の神様。古事記や日本書紀に出てくる食物の神様の「宇迦之御魂神」と同一神なのだから、仏教の神様ではなく、日本古来の神様なのだが観光地なので仕方ない。でもここの宇賀福神ってもろに蛇で、人間の要素が全くない。穴は途中で2手に分かれて左側は富士の氷穴につながると言う伝説の穴が有る。もちろん、相当に距離が有るので本当につながっているとは信じがたいが、ただ江ノ島のできた原理、つまり元は海の底で葉山層ができ、そこが隆起して島になったと言うのを考えると、隆起した原因である地殻の変動が富士山の活動に関係しているのならば、めくれた葉山層のすき間が、この穴の成立原因である可能性が有り、その場合、めくれたすき間は富士山につながっていてもおかしくはない。例えば横須賀の走水の湧き水が富士山の伏流水であると言う話と同じだからである。つまり葉山層の範囲がどこまであって地殻変動が富士山の活動にリンクしているかが大事である。地学的には可能性は有る話だと思う。ちなみに手前の日蓮上人の寝姿と言うのは観光地だから。いったん分かれ道まで戻って右側の奥に進むと、ここは江ノ島神社の発祥の地だそうだ。うーん。社殿の様式が比較的新しい。少なくとも鎌倉時代以降の形式だな。そして狛犬が金沢区の手子神社と同じで、子供の狛犬を抱えている。普通の神社の狛犬は天邪鬼を踏んづけているのが普通なので、関東の特色だな。(手子神社の狛犬はここの真似だな。手子神社には宇賀神も有るし。)第一岩屋はここまでで、一度入口付近まで戻って第二岩屋に向かう。洞窟なので特に変わったものは無いのだが、第二岩屋の最奥部には遊び心が有る。真っ暗なのだけれども、少しだけ照明が有って、実は暗いのには訳が有る。奥で手を叩くと龍が出現する。子供さん達は大喜びするんじゃないかな。観光地だなぁ。帰りは大変だったけれども、なんとか階段を登って江ノ島頂上部までたどり着き、冷たいコーラを飲みながら弁天橋まで降りて行った。一人だけなのは寂しかったけれども、わの会のみんなと同じルートを行けて良かったな。
May 8, 2026
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邪馬台国畿内説のキモになるのは、魏志倭人伝で陳寿が「東を南だと勘違いした」と言う仮定である。従って、これがちゃんと説明できなければ、近畿に有る纏向遺跡は「魏志倭人伝には載っていない邪馬台国」と言うことになる。魏志倭人伝によれば、冒頭には「倭国にはもと百余国が有った」と書かれており、そのうち三十余国は中国(魏)と交流が有ったと言うことになっているが、残りの七十余国は中国(魏)とは交流が無いので、たとえ邪馬台国よりも大きな国であったとしても、その様子は分からず、もし魏志倭人伝で陳寿が「東を南だと勘違いした」と言う仮定が否定されれば、纏向遺跡はその「様子が分からない国」の一つであった可能性が高い。例えば国譲り前、神武東征以前の出雲かもしれないのである。古代から中国では「風水」と言う概念が有る。これは約5000年前から始まったとされているが、後漢の時代には方位に関する研究は既に一定の域に達していたらしい。それは文献にもたくさん書かれており、例を挙げると(ちょっと怪しいかもしれないが)後漢よりも少し前のことになるが、紀元前4世紀頃に書かれたとされる「鬼谷子」を見ると、「鄭の人は玉を取りに行く時には道に迷わないように指南器を持って行く」と書かれている。またその頃には「指南杓(司南之杓(しなんのしゃく)とも書く)」が作られており、この盤面には方位を示す八つの文字が記されていた。指南杓はその名前の示すように四角い板の上にスプーン状の磁石を置いた物で、これは前漢の滅びた後の新王朝の王莽がAD23年に殺される時に、天文官がこれを用いたとされている。つまり倭人は方位を知る術は持っていなかったかもしれないが、少なくとも風水の知識を持つ中国の人達は何らかの道具を持っていたのだと思われる。指南杓はこんな形をしていたらしい。絵の中に書き忘れたので追記すると、「スプーンは大熊座を象徴する」と言うのは、古来大熊座=北斗七星は「ひしゃく星」と呼ばれたからである。念の為追記。要はこれが既に1世紀には有ったのだから、航海や測量に用いられていたかは根拠資料が無いので確かとは言えないが、少なくとも占いの分野では使われていたのだから、賢い人間、特に兵法を勉強していた人間は使っていたと思われる。その他にも例えば指南魚は既に3世紀には実用化されており、航海に用いられたと言う記録は残念ながら残ってはいないが、占い等には活用されていたらしいので、風水を信じていた古代中国人が「南と東」を間違えることはあり得ないと思う。風水を論じるには、方位を知る道具がなければ、そもそも風水は語れないからである。指南魚はこんな形をしていたらしい。上の方の指南車は少し資料に乏しく、実在がハッキリとしないが、指南魚の方は様々な書物に記されており、こちらは3世紀つまり魏志倭人伝の時代には確実に存在したようである。そこで、邪馬台国畿内説の方に、「古代中国では風水が重要だったのではないですか? 風水を考える際にはどのようにして方位を知ったのですか? それを考えれば南と東を間違えるのはとんでもない話ではありませんか?」と聞いてみたい。一般的に文献史学者は、自分達の得意な文献を暗記することにはたけているが、他の分野については全く知識が無い人が多い。ひどい話であるが、歴史を語る上では、両輪の輪ともいえる考古学についてさえ知らない。例えば纏向が邪馬台国の都だと考古学的に証明はされていません。纏向遺跡の有る桜井市の教育委員会でさえも、「可能性が有る」程度にしか言っていない。これは高校の教科書で習う写像や集合と言う部門ではっきりと誤りだと証明されている。論理的にはA→Bが正しくてもB→Aは正しいとは限らないからである。高校の教科書には「逆は必ずしも真とは限らない」と書かれている。魏志倭人伝には邪馬台国や卑弥呼が居た時代は確かに3世紀半ばだと書かれている。しかし、その逆命題である3世紀半ばの都市遺構だから邪馬台国の都だとは言えない。極端な例で申し訳ないが例を示すと、「お姉さんは女である」は正しくても、その逆命題である「女だからお姉さんである」と言うのは成立しない。この程度の初歩的な理論が何故文献史学者には分からないのかなと思うと残念である。魏志倭人伝には邪馬台国が有った時代の倭国には約100余りの国が有ったと書かれている。そして纏向はその百余国のうちのどの国の都でも構わないのだから、纏向が邪馬台国の都である確率は1/100つまり1%の可能性しかない。1%ではとてもではないが、証拠とは言えないと思います。よく学者先生が主張する、大きな古墳が有るとか鏡や土器が出土する等に至っては、まずその古墳や土器や鏡が邪馬台国の物であると言うことを証明しないと証拠にはならない。それらは狗奴国の古墳や土器及び鏡かもしれないからで、狗奴国の古墳や土器や鏡がいくらたくさん有っても、邪馬台国である証明とはならないからである。つまり邪馬台国近畿説の学者先生が「陳寿が東を南だと勘違いした」と主張するのは、陳寿が間違えているのではなく、単に彼らが勉強不足なのだと思う。と言うか、文献史学的にもおかしいことはたくさんある。例えば、魏志倭人伝以降に書かれた史書を読むと分かる。もし魏志倭人伝が間違っていたならば、後世の史書を書く際に修正したはずではないか?と言う疑問である。良い例が後漢書である。後漢書は「魏よりも前に存在した後漢について書いた本なのに、 後漢魏志倭人伝を含む三国志よりも後に成立している。」そのせいで、魏志倭人伝を参考にしていると思われる部分が多い。でも明確に魏志倭人伝をふまえて、それを検証し、間違えていると考えた場合にはそれを修正し、また加筆している。例えば以下の部分である。 建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見これは有名な記事で、建武中元二年(AD57年)に奴国の使者が光武帝の元を訪れて、九州の福岡で発見された「漢委奴国王」の金印を授けられた際のことを書いたものである。ここで安帝永初元年(AD107年)に倭國王の帥升が生口(奴隷)百六十人を献上したと分かる。この記事は魏志倭人伝には載っていない。つまり編纂者である南朝宋の范曄は、魏志倭人伝では不足していると考えて、より深く倭国のことを掘り下げて加筆しているのである。もう少し直接的に修正していることが分かる部分も有る。 自女王國東度海千餘里至拘奴國と言う部分である。魏志倭人伝の中には女王国の南に狗奴国が有ると読める部分が有る。(この部分に関しては僕はちょっと違う解釈をしているが、 女王国の南に狗奴国が有ると言うのが通説である。)後漢書ではこれを修正している。狗奴国は東に有り、しかも海を越えて千里の場所にあると書いている。これを見て、「東を南だと勘違いした」と学者先生は勘違いしたのかもしれない。でも、狗奴国は修正しているけれども、女王国に関しては全く修正していない。つまり女王国はやはり南に有るのである。道は横にそれるけれども、狗奴国が女王国の「海を越えた東側の千里行った場所」と言うのは、もし女王国が九州に有ったのならば、海を越えた東側の千里行った所とは出雲では?つまり神武東征以前に、邪馬台国と出雲(狗奴国)は戦って出雲が勝ち、出雲は越とも手を結んで国を広げて、近畿の纏向遺跡付近を手に入れて都を築いた。その後、一度は負けたけれども、勢力を回復した邪馬台国が、崇神天皇(多くの学者先生にも神武天皇と同一人物と言われている)の時代に東征して攻め上り、近畿の纏向遺跡付近を征服した時に、和解して合同で大和王権をつくったのでは?それが「国譲り」なのでは?日本書紀には崇神天皇は出雲の事代主命の娘をお嫁さんにもらい、事代主命を可愛がったと書いているし、また大国主命は殺されたのではなく、生まれ故郷の島根の出雲に大きな館を作ってもらい、そこで引退後の余生を過ごしたと考えれば、出雲大社が島根に有る意味が分かるから。(大国主命は自分が引退して崇神天皇に位を譲るのを条件に息子の事代主命や家臣を守った。)古事記や日本書紀には「出雲を滅ぼした」とは書いておらず、国を譲ってもらったと書いてあるから。話は戻って、もっと重要なのは次の部分である。 倭在韓東南大海中 依山為居 凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王世出傳統 其大倭王居邪馬臺國 (案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里 去其西北界狗邪韓國七千餘里( )の中は唐の高宗のとき、章懐太子李賢が学者を集めて施した注釈である。これについては色々な解釈が有るが、以下の解釈が通説である。概ね、訛は言葉が誤って変化したことを表す文字なので、より古い邪摩惟(ヤバユイ)音の伝承があり、(「惟」は中古音では「ユイ」で魏志倭人伝に書かれた「邪馬壹」と「邪摩惟」は似ている。)それが変化して今名(唐代)のヤバダイ(邪馬臺)になったのだと注釈を書いているのだと。でもこれは異論が多く定まっていない。それは「臺」は元の時代以降は近古音であり「タイ」なので「惟」と同じ音であるが、唐の時代には上古音であるから「ダイ」であって両者の間には関連が無いからである。なので、僕は全く別の解釈をして、魏志倭人伝に書かれた「邪馬壹國」は陳寿が倭人に聞いて書いたもので、当時の倭人は自身の文字は持たず漢字を使っており、これを倭人の固有の言葉を書き表す際に、現代の訓読みと同様に意味は漢字で表して、その音は倭人の音とした、いわば漢音や呉音と同じような「倭音」を開発しており、「邪馬壹國」は「ヤマトゥ國」と読んでいたと考えた。邪馬台国はどこにあったのか?(その85)「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのか?その2その証拠に現代でも「豆」の入った漢字は、「電燈の燈(とう)」や「登攀の登(とう)」や「頭(とう)」などのように「とぅ」と読む。また後漢書を編纂した范曄も同様に倭人に聞いて書いたのであるが、目の前の倭人の発音が、どう聞いても「やまとぅ」あるいは「やまたい」なので、魏志倭人伝を修正して「邪馬臺國」と書いたのである。(陳寿は倭人の発音が「やまとぅ」なのは分かっていたが、 その倭人が「邪馬壹國」と書いたので、それを尊重してあえて「邪馬壹國」と書いた。 つまり陳寿は「倭音」と言う自分達とは違う漢字の読みを尊重したのである。)もし現代の文献史学の先生が言うように「書写の際に間違えた」のであれば、李賢が注釈を加える際に修正するはずではないだろうか?でも修正はせずに、「訛った」と書いているのであるから、「書写の際に間違えた」のではなく、元々「邪馬壹國」だったのである。そう考えると魏志倭人伝で陳寿が「東を南だと勘違いした」と言う仮定はあり得ないのだと思う。<後日追記>ここまで考えると、どうしても「ヤマト王権」とは何かと言うことを考えてしまう。現在の所は何も証拠が無いので、答えは出せず、想像するしかないけれども、邪馬台国(やまと國)=ヤマト王権では無いような気がする。多くの学者はそう考えているせいで、纏向遺跡を邪馬台国の都と考えてしまうが、調べてみると、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国や女王国は纏向遺跡にまったく結び付かない。むしろ残っている伝説や地名から考えると出雲の方が纏向遺跡に結び付きやすい。ただ、出雲大社のせいで島根の方を出雲と、どうしても考えてしまうので、纏向遺跡を出雲と考える人はいないが、古事記にはちゃんと島根の出雲から纏向へ至る経緯を書いている。古事記によれば大国主命は兄神達に2回も殺されそうになり、母親から「木の國(紀ノ國)へ逃げなさい」と言われて逃げ出す。しかし兄神達はそこまでも追いかけて来て殺そうとしたので、さらに奥(恐らくは吉野)の須佐之男命の国まで逃げる。そこで大国主命は須佐之男命の試練に耐えてこれをクリアーして、須佐之男命の娘のスセリヒメをお嫁さんにもらい、新しい国を作る。古事記にはそこまでしか書いていないが、吉野の奥と言えば纏向だと思う。纏向遺跡は昔は「太田遺跡」と呼ばれていたが、これは出雲の太田田根子が居たからである。このことは日本書紀に書かれている。崇神天皇の時代である。また、三輪山は出雲の事代主命を祀る山であり、付近には「出雲村」が地名として残っている。その前に有る箸墓は事代主命の奥様であるやまとももそ姫のお墓である。国譲りに際して、大国主命は(生まれ故郷の)島根の出雲に大きな社を作ってもらい、そこに隠居して、息子の事代主命は崇神天皇の王権に参加して、家臣たちもそれに従ったのだと思われる。日本書紀には「崇神天皇は事代主命の娘を嫁にもらった」とか、「崇神天皇は事代主命を可愛がった」と書いているからである。なので、大和王権は邪馬台国が大和王権になったのではなく、邪馬台国と狗奴国(出雲)が一度は戦争して狗奴国が勝ち、狗奴国は丹波や越とも連携して西日本統一を果たして纏向に都を作ったのだと思う。しかし、一度は負けた邪馬台国も復活して、崇神天皇の時代に東征して大国主命に国譲りを迫り、両者は大国主命の引退を条件に結び付き、邪馬台国と狗奴国(出雲)が合同して「ヤマト王権」になったのではなかろうか?これが「東征」と「国譲り」真実だと思う。そう考えると、高円宮家の次女・典子さまが、出雲大社の宮司・千家尊祐氏の長男である千家国麿さんの元に嫁いだのは、とても意味が深いと思うし、めでたい事だなぁと思うのである。<さらに後日追記>後漢書が狗奴国の位置を修正しているのは、時間の経過によるのかもしれない。それは日本の古事記や日本書紀の神話から想像できる。僕は卑弥呼=天照大御神、狗奴国王(卑弥弓呼)=須佐之男命と考えているのだが、卑弥呼の死後、男王が立つと書いているのは、説明もなく男王と書いているので狗奴国王であり、それを受けて、「国中が服さず」「お互いに殺しあって千余人が死んだ」と書いているので、須佐之男命は認められなかったのだろうと思う。古事記等では財産を没収されて、ひげや手足の爪を剥がれて、高天原から追放されている。(朝鮮半島に逃げたらしい)なので、狗奴国は須佐之男命が居た頃は熊本から大分付近に有ったが、須佐之男命が追放された時に、出雲にその拠点を移したのだと思う。つまり卑弥呼は最初は福岡県あたりに居たのだと思う。ところが倭国大乱により、身の危険を感じて鹿児島の隼人の先祖達を頼って南九州に逃げた。魏志倭人伝が書かれたのはこの頃だと思う。なので、卑弥呼は邪馬台国に住んでいると書いた後に、以降は女王国と言う言葉を使い始めて、以降全て女王国と書いているのだと思う。卑弥呼が南九州に疎開しているので、「帯方郡より1万2千里」で「水行10日陸行1月」の位置にいるのである。しかしその後、須佐之男命は追放されて、壱与の時代には元通り福岡県付近に戻ったのだろう。但し、卑弥呼は独身だったので壱与は卑弥呼の娘ではない。宗女(親戚の娘)である。彼女は名前から想像するに「豊の國」を根拠地としていたのに違いない。(僕は「邪馬壹國」は倭人が自分の国の説明時に書いた字で、 「壹」は中国では数字の「壱」のことであり「タイ」とは読まないので、 呉音や漢音があるように、倭人としての読み方「倭音」が存在し、 後世の訓読みと同様に「とぅ」と読んだのだと考えている。 つまり「邪馬壹國」は「やまと國」である。 豆を部首に含む漢字は日本では頭や登や燈のように「とぅ」と読む場合が多いが、 この時代には既にその読み方が倭人の間に有ったのだと思っている。 従って壱与(魏志倭人伝では「壹與」と書かれている)は「豊」であり、 彼女の名前が後の天皇や皇族の名前に「豊」がつく人が多いことにつながっていると考えた。)なので、後漢書では狗奴国は島根県の出雲の位置に修正されているのだとおもう。
May 5, 2026
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「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのかと言うことについて、従来の通説とはまったく違う推論によって解決をはかる為に、4月11日には、現状の通説と反論の状況を調べて検討して、邪馬台国はどこにあったのか?(その84)「邪馬壹國」が正しいのか?「邪馬臺國」が正しいのか?その1魏志倭人伝に書かれた不彌国と一大國(壱岐)の規模を示す戸数の単位が、伊都国などが「戸」であるのに対して「家」であることから、それは不彌国等が渡来人が多く住む国で、住居が伊都国などと違い中国式であり、神功皇后のお産を助けた医師がいたり、奴国だとされる須玖岡本遺跡で発掘された青銅鏡などの製造の技術指導を行った技術者たちが、ここに住んでいたので、区別する目的で用語を使い分けたのではないかと書いた。そして4月12日には、実は倭国の人達は現代の人達が考えるよりもはるかに上手に漢字を使う人達で、(恐らくは魏志倭人伝や後漢書でほのめかしているように中国から渡って来た渡来人で)中国の漢字の読みに地域や時代により「上古音」や「漢音」及び「呉音」があるように、倭国独特の漢字の読みがあり、また、倭国には中国の使者が常駐するくらい交流が深かったのだから、(外交とは一方通行ではなく双方向であるはずなので)倭人も相当数中国に渡っており、魏志倭人伝を編纂した陳寿や後漢書倭伝を書いた范曄は、不確かな言い伝えではなく、それらの倭人を呼んで、聞きながら倭国の様子を書いたのだと書いた。(魏志倭人伝は不彌國までは中国の使者の復命書(出張報告書)を元に書いており正確なのに、 投馬國と邪馬台国は測量技術を持たない倭人に聞いて書いたので、 方角と距離を書いた不彌國までとは違い、日数で書かざるを得なかった。)邪馬台国はどこにあったのか?(その85)「邪馬壹國」が正しいのか?「邪馬臺國」が正しいのか?その2ただ、上記の仮説が成立するには、「倭音(僕の作った仮称)」が流通するほど人数がいないと、小人数では成立しない。それを今日は検討する。その前に本当にそんなことが有るのだろうかと思う人の為に、古来から日本には漢字を使いながら、中国人にはまずそうは読めない読み方が多いことを示す。それは固有名詞(特に地名や人名)に多い。陳寿に自分の国を漢字で書いてみせた倭人が書いた「邪馬壹國」=「やまと國」と同じである。例えば、「飛鳥」は中国人には全く「あすか」とは読めない。でも既に奈良時代にはこの読みが成立しており、急には普及するはずが無いので発生はもっと前?他にも斑鳩(いかるが)や隼人(はやと)なんかもそうである。「隼」=(はやぶさ)は訓読みである。古事記を読むともっとぞろぞろ出てくる。古事記は漢字を使っているけれども、漢文とは少し違う。歌なんかは万葉仮名を使う。「久羅下」を「くらげ」と読める中国人はいないと思う。こう言う文化は10年や20年でできるものではない。なので、倭人は神代文字を持たなかったのではなく、漢字を使えるので必要なかったのである。ただ、小人数では世の中には普及しない。ある程度の人数が共通認識をもって使う必要がある。なので、倭国には相当数の渡来人が居て、彼らは倭人の言葉を漢字で表す必要性から、こんな使い方、「倭音」を発明したのだと思う。その結果、「邪馬壹國」=「やまと國」と言う使い方が生まれたのである。じゃぁそんなにたくさんの渡来人が倭国に居たのか?記紀神話に証拠が載っている。「天津神」である。いやあれは神話ではと言う人は、頭が固い。「天」の反対語は「地」である。だから「天津神」の反対は「地」が付くはずなのに、実際は「国津神」である。ならば、天津神とは渡来人で、国津神とは倭人だと考えるのは自然な話であり、僕が勝手に思いついたものではなく、過去には偉い先生方も同じように考えている。それをちょっと調べてみた。 「天津神=渡来人」説は、近代以降の日本思想史の中で何度も登場してきたテーマで、学者・思想家・民俗学者・宗教家など、立場の異なる人々がそれぞれの理由で主張してきた。ここでは、代表的な人物とその論の特徴を体系的にまとめる。天津神=渡来人説を唱えた主な人物とその背景1.白鳥庫吉(しらとり くらきち)時期:明治〜昭和初期の東洋史学者主張の要点:(1)記紀神話の天津神は「外来の支配者層」を象徴すると考えた。(2)特に天孫降臨は、北方系(ツングース系)民族の南下・渡来を神話化したものと解釈。(3)天皇家の起源を「北方騎馬民族」と結びつける先駆的な議論を展開。白鳥は学術的に慎重な人物でしたが、天津神を「純粋な日本土着神」とは見なさず、外来文化の影響を強調した点で重要です。 2.江上波夫(えがみ なみお) ―騎馬民族征服王朝説時期:戦後の東洋史学者主張の要点:(1)5世紀頃、北方騎馬民族が日本列島に渡来し、支配層となったとする説。(2)記紀神話の天津神・天孫降臨は、この征服王朝の到来を神話化したものと解釈。(3)天皇家のルーツを外来のエリート層に求めた。江上説は現在では支持が減っていますが、「天津神=渡来支配層」というイメージを広めた点で非常に影響力がありました。 3.折口信夫(おりくち しのぶ) ―民俗学的アプローチ主張の要点:(1)天津神は「まれびと(客人神)」の系譜に属し、外部から来訪する神として理解できる。(2)これは必ずしも「渡来人=外国人」という意味ではないが、 “外から来る存在”としての天津神像を強調した。折口は民族移動よりも「神の来訪」という宗教的構造に注目したタイプ。 4.梅原猛(うめはら たけし) ―日本文化の外来性を強調主張の要点:(1)日本神話には大陸文化の影響が強く、天津神はその象徴。(2)特に天孫降臨は、大陸系の支配者層の到来を反映した可能性があるとした。梅原は大胆な仮説を多く提示した思想家で、学界の定説とは距離がありますが、天津神外来説を一般読者に広めた功績は大きい。5.古代史研究の一部(民間学者・新古代史系)「天孫族=渡来系」「国津神=縄文系」という二元論を唱える人々が多い。例:天孫族=朝鮮半島南部からの渡来人 国津神=縄文的土着勢力これは学術的には慎重に扱われますが、民間研究では根強い人気があります。つまり記紀神話における「天津神」を渡来人だと考えている人は多い。そして僕はもっと奇抜な説を思いついてしまった。ただ、これはあくまでも「思いつき」なので根拠は全くなく、ほぼ眉唾なので注意。でも、面白いので読んで欲しい。記紀神話には「国譲り」、「天孫降臨」、「神武東征」と日本成立までの流れを書いているが、この順番はどう考えてもおかしい。島根で国を譲ってもらったのに、わざわざ宮崎に天から下りて来て、あげくの果てに、その宮崎から奈良に向かって進軍して、奈良に都を開いて日本ができる。何でそうなるの?順番間違ってない?島根で国を譲ってもらったら島根に天から降りて来ればいいじゃん!国を譲ってもらったのならば、再度奈良に進軍する必要は無いじゃん?そこで僕が考えたのが、纏向遺跡は元々は「太田遺跡」と呼ばれていて、そこは昔は出雲の太田田根子が住んでおり、彼は目の前の三輪山に祀られた事代主命(大物主)を祀っていた。またそばにある箸墓は事代主命の奥様のやまとももそ姫のお墓である。じゃぁ、ここは本当は出雲の国だったのではないか?古事記によれば、大国主命は島根の出雲で兄神達に2回も殺され(そうになり)、母神に助けられて、木の国(紀ノ國)へ逃げる。そこでも兄神達に追いかけられて危なくなり、さらに奥の須佐之男命の元に逃げる。そこで須佐之男命から試練を与えられて、それをスセリヒメの助けを得てクリアーして、スセリヒメをお嫁さんにもらって新しい国を作り、兄神達を滅ぼす。うん?紀ノ國?和歌山県じゃん。その奥?吉野じゃん。そこから先には纏向が有るじゃん。地図を見ると、付近の山には「出雲」と書いてあるし。さらに少し離れた吉野川の流域には、宇陀市榛原石田があって、そこは昔は「伊那佐」と呼ばれたらしい。今でも伊那佐文化センターが有る。え?国譲りが有った場所は「伊那佐の小濱」では?昔は川の縁の砂浜も「小濱」と言ったらしい。国譲りの際に事代主命は魚釣りをしていたと書かれているが、日本書紀の一書では鳥を捕まえに行っていたと書かれている。もしかして国譲りの場所はここだったのでは?だって古事記には「稲佐の小浜」ではなく、「伊那佐の小濱」と書いてあるもの。そう考えると「国譲り」、「天孫降臨」、「神武東征」の順番を、「天孫降臨」、「神武東征」、「国譲り」の順番に変えれば、つじつまが合うのでは?ただ人名(神名)は少し変える必要があるけれど。天孫降臨とは倭国大乱で狗奴国=出雲の勢力に殺されそうになった天孫が、鹿児島あたりに居た強力な隼人達に助けを求めて、鹿児島と宮崎の付近に落ちのびたのであり、宮崎から攻めて行った崇神天皇が、吉野川のほとりで大国主命に国譲りを迫り、大国主命が、「まぁしょうがないから譲るけれども、生まれ故郷の島根に引退するので大きな館を作ってね」と言って、島根に出雲大社を作ってもらって引退したのなら、全部つじつまが合うじゃん。事代主命は国譲りの際に隠れた(死んだ)と言う人もいるけれど、日本書紀等には神武天皇に可愛がられた(重用された)とも書かれているし、何よりも神武天皇は「事代主の娘」である「媛蹈鞴五十鈴姫」をお嫁さんにもらっている。もし崇神東征が本当ならば、出雲を滅ぼしたのではなくて、臣下にした(国譲り)のだと思う。ただ、神武東征について考えているうちに違う可能性も見つけてしまった。上に宮崎から攻め上ったのを「崇神天皇」にしたのは、記紀神話では、「始馭天下之天皇(はつくにしらす-すめらみこと=最初に国土を統治した天皇)」が、神武天皇と崇神天皇の2人いるからである。そのせいで通説では神武天皇と欠史八代の天皇達は非実在の人物とされており、実際の最初の天皇は崇神天皇だろうとされているのである。じゃぁ神武東征とは何なのか?日本書紀をよく読んでみた。神武天皇が東征をするきっかけとなった塩土の爺との会話を書いてみる。<日本書紀原文>自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歲。而遼邈之地、猶未霑於王澤、遂使邑有君・村有長・各自分疆用相凌躒。抑又聞於鹽土老翁、曰『 東有美地、靑山四周、其中亦有乘天磐船而飛降者。』余謂、彼地必當足以恢弘大業・光宅天下、蓋六合之中心乎。(途中略) 是年也、太歲甲寅。<意訳>天孫が降臨されてから、百七十九万ニ千四百七十余年になる。しかし遠い所の国では、まだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長があって、境を設け相争っている。さてまた塩土(シオツツ)の翁に聞くと、東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟(いわふね)に乗って、とび降ってきた者がある』と言うのです。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。(途中略) この年は太歳の甲寅(たいさいのきのえとら )である。これが神武東征のきっかけなんだけれども、「まだ王の恵みが及ばず」と言うのは、ようは攻めて行って自分の支配下に置きたいなと言うのを偉そうに言っているだけで、理由にはなっていない。ただ、えー?と思ったのは「この年は太歳の甲寅である。」と言う部分。神武天皇の即位年を「辛酉年」と考えて明治6年に「紀元節」が設けられて、「紀元2600年」が祝われたのだが、さすがに神武天皇やその後の欠史八代の天皇が100歳を超える長寿であり、欠史八代の天皇は名前と系譜だけで事績がほぼ無く実在が怪しすぎて、現代ではよほどの変人でなければ、これを信じる人はいない。でも、この神武天皇の東征のきっかけになったエピソードもそうなのだろうか?実は僕は変なことに気がついてしまった。古事記や日本書紀の元になった、この辺のエピソードって「口伝」だよなと。「口伝」で代々伝わるうちに、いくつかのエピソードがこんがらがったのでは?だから「国譲り」、「天孫降臨」、「神武東征」の順番になってしまったり、100歳を超える人間ができてしまったのでは?じゃぁ、このエピソードは何なのか?もしかしてこれって神武天皇ではなく「秦の始皇帝」が言ったのでは?このエピソードの細かな部分は日本に合わせて多少変わっているが、塩土の爺とは徐福のことで、東の良い土地とは日本のことなのでは?日本書紀にする際に、そんなこととは知らない編纂者たちが日本に合わせて修正したので、いかにも宮崎から奈良に向かったように書かれているが、塩土の爺すなわち徐福で、神武天皇すなわち秦の始皇帝と考えると面白い。それは太歳の甲寅(たいさいのきのえとら )と言う紀年である。これって秦の始皇帝の即位年じゃん!もしかして史記に書かれた秦の始皇帝と徐福のエピソードそのままなのでは?ただ、口伝で代々伝わるうちに他のエピソード(崇神天皇の九州から奈良への進軍)等と混ざり、変になってしまってはいるけれど、天津神=渡来人が倭国に来たきっかけの話なのでは?また、そう考えると、奴国にあふれていた渡来人=天津神は秦から渡って来た人達の子孫では?奴国に居た渡来人は、徐福とその一行の子孫なのでは?子孫は倭人と交わり、多くなっていったと考えれば「倭音」が発生していたと考えられるなぁ。そして神武天皇の即位年の「辛酉年」はそれよりもずっと後のことになる。紀元前660年はまだ秦の始皇帝も居ないから。もちろんこれは「妄想」なんだけれども、面白い仮説を思いついちゃった。太歳の甲寅(たいさいのきのえとら )が秦の始皇帝の即位年だと気がついた人はいないと思う。でも考えたら、紀年に「太歳の」とわざわざ付けているのはここだけなんだよな。他の所ではつけていない。そう考えると、この「妄想」はもしかするのかも?ただ、太歳紀年は木星の周期が厳密には12年ではなく、干支の12年からは少しずれるので、漢以降には修正されており、太歳の甲寅が秦の始皇帝の即位年なのは古い紀年法なので注意。何の証拠も無いけれども。こう考えると夢が有って良いと思う。歴史って面白い。
April 14, 2026
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昨日は「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのかと言う論争について、現在の通説と状況を書いたのだが、最後に不彌國の規模を示す単位が、他の国たとえば伊都国が「戸」なのに何故か不彌国と一大國(壱岐)は「家」が使われており、もしかすると、ここが渡来人が多く住む場所で、住居の構造が他の場所のように竪穴式住居ではなく中国式の家だったせいかもしれないと書いた。そして、もしそうならば、倭国には従来考えていたよりもはるかに多くの渡来人が住み、それが、「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのかと言う答えにつながるかもと、自信はないけれども、今日のブログで書くと書いた。まずは「史書」に対する認識が邪馬台国研究家にあっては間違っていると書きたい。邪馬台国研究家の多くは、魏志倭人伝を小説のように考えがちだと思う。史書は国家事業であって小説ではない。例えば魏志倭人伝をその中に含む「三国志」は史書である。対して日本人が三国志と混同して読んでいる「三国志演義」は小説であり歴史書ではない。例えば「三国志演義」は蜀の劉備や孔明を正義として書き、魏の曹操は敵役である。でも三国志では比較的公平に書かれている。魏から禅譲されてあとをついだ西晋の皇帝の命令によって書かれた本なのにである。事実、三国志の編者の陳寿は父親が蜀の役人だったので、「魏を悪く書くのではないか」と疑われて、一時クビになりそうになっている。なのに比較的公平に書かれていると言うことは立派な歴史書だと言うことである。そのような「お役所の命令によって書かれた本」は個人だけではできない。僕はお役所に提出する報告書を書いたことがあるので、多少は知っている。お役所では、係長と部下が作った原稿が大臣の元に届くまでには、係長→補佐→課長→担当部長→総務部長→局長→審議官→大臣とチェックが続き、世の中に出るに際しては、さらにパブリックコメントの募集が有り、ものによっては(例えば予算や法律に関わるもの)は国会で審議・採決される。なので「間違った文章」が世の中に出ると言うのはよほどのことである。但し、書写の際の誤写は有りうる。でも有名な物は書写も複数あるので、比較検討すればまぁ間違いない。なので魏志倭人伝が「書かれた段階で間違っていた」と言うのはほぼ無い。その後、誤写によって変わったと言うことは有りうる。何故このようなことを書いたかと言うと、「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのかと言うような、誤写による間違いならば有りうるかと思うのだけれども、文章そのものの間違いなどはあり得ないと言うことを言いたいのである。例えば、世の中の学者先生には「邪馬台国」と「女王国」を同じだと考えている変な人がいる。これはあり得ないと思う。原文を読むとすぐに分かる。<原文> (前略) 南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次日彌馬升次日彌馬獲支次日奴佳鞮可七萬餘戸自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳次有斯馬國(後略)魏志倭人伝の中で「邪馬壹國」と言う言葉が使われているのはここ1回だけである。よく魏志倭人伝に書かれている特徴と○○地方は合致していると言う人がいるが、ウソである。たいていは「倭地」についての記載や「女王国」についての記載であって、「邪馬壹國」についての記載ではない。そのせいで都合が悪いから学者先生は「邪馬台国」と「女王国」を同じだと主張するのである。でも魏志倭人伝を含む三国志が史書つまり国家事業だと考えると話は変わって来ると思う。上の原文を読むと「邪馬壹國」と「女王國」はたった41文字しか離れておらず、恐らくは竹簡などに書かれた場合には同時に目に入るはずである。そして原文アンダーラインから、女王は邪馬台国に住んでいると読める。チェックするお役人は必ず質問するはずである。女王は邪馬台国に住んでいるのではないのか?何故邪馬壹國とは書かずに女王國と書くのか?お役人ならば当然の質問である。ぼくでもそう質問する。ここでちゃんと答えられないとクビである。なので、「邪馬壹國」と「女王國」はちゃんと理由が有って使い分けているのだと思う。僕は邪馬壹國とは、伊都国や奴国及び女王國とその傍らの国を含む連合国なのだと考えている。なので、上の原文は、まず女王は邪馬台国の女王であり邪馬台国に住んでいると書き、次に邪馬台国と言っても広いので、さらに邪馬台国の中を詳しく書くと、女王の直轄地である女王国と、伊都国などの女王国の北側の国及び女王国の傍らの国が有るが、伊都国などの女王国の北側の国は多少は戸数や道里くらいは書けるが、女王国の傍らの国については名前くらいしか書けないと書いているのだと思っている。つまり世の中の人達の言う「邪馬台国への行程」と言うのは実は狗邪韓国までで、ここで既に「邪馬壹國」には到達しており、(邪馬台国が日本中あちこちに候補地が有るのはこのせいかも?)実際はみんなが主張している卑弥呼の居場所への行程は、「女王国への行程」と言うのが正しいのである。そう考えると陳寿は倭国に関して相当に詳しかったと言うことが分かる。何故詳しかったのか?恐らくは魏志倭人伝を書いた陳寿や、後漢書倭伝を書いた范曄は、中国に居た倭人に聞きながら魏志倭人伝や後漢書倭伝を書いたのだと思う。なので、魏志倭人伝は、中国から倭国に実際に来ていた使者の復命書(出張の報告書)を元に書いたり、使者に実際に聞いて書いたので不彌國まではかなり詳しく、方向や距離が書かれており、使者たちが実際には行っていない投馬國や邪馬台国については,距離などを科学的に測定する技術を持たない倭人に聞きながら書いたので、行程の方法と日数で書くというみんなが疑問に思う書き方になっているのである。昨日書いた、倭国には従来考えていたよりもはるかに多くの渡来人が住んでいたと言うのが、正しいならばそう考えるのが普通である。もしそんなに多くの渡来人が倭国に居たのならば、当然交流と言うのは双方向性があるので、中国の中心部まで倭人が来ていてもおかしくはなく、倭人がそばまで来ているならば、陳寿や范曄は迷うことなく呼ぶだろう。想像をたくましくして書くよりも、本人に聞いた方が速いからである。そう考える理由が魏志倭人伝と後漢書には書かれている。両書とも「倭人の由来」について、中国から日本に渡った人達の子孫ではないかと書いているからである。恐らく、目の前で説明してくれている倭人が中国語を流ちょうに話し、その生活態度などが中国人そっくりだったのだろう。なので、陳寿や范曄は彼らが中国人の子孫だと思ったからだろうと思う。後漢書には下のように書かれている。<原文>會稽海外有東鯷人分為二十餘國又有夷洲及澶洲傳言秦始皇造方士徐福将童男女數千人入海求蓬萊神仙不得徐福畏誅不敢還遂止此洲出出相承有數萬家人民時至會稽市會稽東冶縣人有入海行遭風流移至澶洲者所在絶遠不可往來<意訳>会稽郡の海外に東鯷人がいる。分かれて二十余国を作っている。また、夷洲と澶洲がある。こう言い伝えられている。秦の始皇帝は方士徐福を派遣し子供の男女数千人を率いて海に入り、蓬菜神仙を求めさせたが出来なかった。徐福は罪に問われるのをおそれ、敢えて帰らず、ついにこの島に止まった。代々受け継がれて数万戸がある。その人民が時おり会稽の市にやってくる。会稽東冶県の人で、海に入り、風に流されて澶洲に着いた者がいるが所在地はあまりにも遠く、往来することはできない。つまり范曄は、目の前の倭人があまりに中国人に似ているので、秦の始皇帝に命じられて日本に渡った子供の男女数千人の子孫かもしれないと考えたので、わざわざ「史記」に書かれている徐福のエピソードを書いているのである。もし范曄の目の前に倭人が居て、その倭人が中国人に似ていなければ、伝説にすぎない徐福のエピソードをわざわざ後漢書に載せることは無いと思う。読んだお役人や皇帝が必ずそのことを質問するからである。そしてお役人や皇帝も、確かに中国に来ている倭人は中国人に似ていると思っているから、それを「面白い仮説」だと考えて、そのまま載せることを許可したのだろう。魏志倭人伝も同様である。<原文>男子無大小 皆黥面文身自古以來其使詣中國皆自稱大夫夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害今倭水人好沉没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以為飾諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差計其道里當在會稽東治之東<意訳>男子はおとな、子供の区別無く、みな顔と体に入れ墨している。いにしえより以来、その使者が中国に来たときには、みな自ら大夫と称した。夏后(王朝)の少康の子は、会稽に領地を与えられると髪を切り体に入れ墨して蛟龍の害を避けた。今、倭の水人は、沈没して魚や蛤を捕ることを好み、入れ墨はまた(少康の子と同様に)大魚や水鳥を追い払うためであったが、後にはしだいに飾りとなった。諸国の入れ墨はそれぞれ異なって、左にあったり、右にあったり、大きかったり、小さかったり、身分の尊卑によっても違いがある。その(女王国までの)道のりを計算すると、まさに夏后の少康の子が治めた会稽の東の地のその東にある。つまり陳寿も倭人は中国人と似ているが、特に夏后の少康の子が治めた会稽の東の地に住む中国人と似ており、そこの中国人は倭人同様に水に入った際におぼれたりするのを避ける為に入れ墨をしているので、彼らが夏后の少康の子が治めた会稽の東の地のその東から海を渡って行った人達の子孫だろうと考えて書いているのだと思う。そうでなければわざわざ三国志とは無関係なエピソードを(倭人の為に)書くはずが無い。当時の中国人にとって倭人は野蛮人だと考えられており、その倭人の由来に紙面を割く必要は無いからである。ただ中国人の子孫ならば、書くだけの価値があると考えたのだろう。そう考えると、倭国には相当な数の渡来人やその子孫がいたのだろう。その場合面白い仮説が考えられる。よく日本には神代文字が見つからないと言われる。これはもし渡来人が多かったのならば漢字を使っていたからではないだろうか?つまり日本独自の文字を作る必要が無かったからである。たださすがに日本古来からの独自の日本語を記すには不便だと思う。その時にはどうしたのだろうか?僕は古事記を読めばそれが分かると思う。古事記は漢字を使いながら、その音だけを使用して日本独自の言葉を記している。やがてその手法は発展して、後世には「ひらがな」や「カタカナ」が生まれている。また、日本人は「訓読み」と言うのを発明している。訓読みとは何か?調べてみると次のように書かれている。訓読みとは、*漢字の意味に対応させて当てた日本語固有の読み方(和語の読み)*のことで、音読み(中国由来の音に基づく読み)と対になります。例えば「山」の訓読みは「やま」、「川」は「かわ」で、単独語や和語の語彙の中で多く用いられます。なお、訓読みの発生した年代ははっきりとはしていない。もしかすると奴国の時代には既に「訓読みのような物」が発生していたのではないだろうか?それが「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのかと言うことの答えである。漢字の読みには「上古音」や「漢音」及び「呉音」など地域や時代によって違う読み方が有る。奴国の時代には「訓読み」はさすがにまだ無かったと思うが、中国から渡って来た人達の子孫が居たのならば、「倭音」とも呼ぶべき倭国独特の漢字の読み方がすでに発生していたのではないだろうか?そして陳寿に自分の国の名前を説明した倭人は、「邪馬壹國」と書いて説明しており、陳寿はそれを正確に(中国ではそうは読まないのに)「やまと國」として記録したのではないだろうか?中国では「壹」と言う字は数字であって、「たい」とは読まない。数字の「壱」であって、音は「い」である。(ちょっと今の日本のひらがなでは書けない)では何故現代の人達が「邪馬台国」と言うかと言えば、後漢書以降の中国の史書に「邪馬臺國」と書いてあるからである。<後漢書原文>倭在韓東南大海中依山為居凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王出出傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)楽浪郡微去其國萬二千里去其西北界狗邪韓國七千餘里其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同<意訳>倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住する。およそ百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイと言う音のなまりである)。楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里、その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地はおおむね会稽東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近いため法や習俗の多くは同じである。この後漢書の記載が諸悪の根源である。「邪馬臺國」と書いたのは後漢書が最初で、(上の原文中に(案今名邪摩惟音之訛也)と書いているのは後世の唐の李賢の書いた注で、 後漢書そのものの記述ではありません。 彼は魏志倭人伝の「邪馬壹國」と言うのは、 今(唐の時代)の日本の国名である「大和(やまと)と比べると、 「邪摩惟(やまい)又は(やまゆい)」としか読めず、 「邪馬臺國」と言うのはなまっているのではないか?と注を書いたのだと 多くの人は解釈しています。)僕は逆だと思っていますが、後漢書倭伝を書いた范曄は、目の前で倭国について話している倭人が「やまと國」と言っているのに、魏志倭人伝では「邪馬壹國」と書いているが、(後漢書は「後漢書なのに三国志より後に完成している」ので范曄は魏志倭人伝を読んでます。)これはおかしいと「邪馬壹國」を「邪馬臺國」に直したのだと思います。つまり范曄は魏志倭人伝の「邪馬壹國」と言うのは、書写の際の誤りのせいだと思ったのです。はたしてそうでしょうか?陳寿(233~297年)の時代と范曄(398空~46年)の時代はそれほど離れてはいません。150年くらいです。まだ三国志の原本や正しいと言える写本が残っていたのではないでしょうか?秦の時代には焚書坑儒と言って、都合の悪い本は燃やしていましたが、范曄の時代南朝宋にはそんな必要は無かったと思います。ではどうしてなのか?中国に渡った倭人の違いだと思います。倭国大乱のせいで、中国に渡る倭人に変化が有ったのだと思います。陳寿の前で説明した倭人は「邪馬壹國」を「やまと國」と呼ぶ立場の人で、范曄の前で話した倭人は「邪馬壹國」が狗奴国により滅ぼされた後の人だったのでは?つまり「邪馬壹國」を「やまと國」と読めない人だったのでは?そこで上に書いた「倭音」です。「倭音」は倭国大乱前後で大きく変化したのでしょう。と言うか後漢書に載っている「倭面土国」も「やまと國」なのだと考えるとそれ以前にも変化が有ったのかもしれません。本当に「倭音」があって、「邪馬壹國」は「やまと國」と読む人達がいたのか?それは現代に至るまで痕跡が残っています。日本では「豆」と書いて「とぅ」と読みます。中国では「上古音」でも「漢音」でも「呉音」でも「とぅ」とは読みません。いわゆる「訓読み」です。これは「倭音」が有ったとすると、その時代から続いているのではないでしょうか?例えば分かりやすいのが「納豆(なっとう)」です。また「豆」を含む漢字も、「とう」と読む字がたくさん有ります。「電燈(でんとう)」や「登攀(とうはん)」や「頭(とう)」などです。このように考えると、陳寿は倭人が自分達の国の名前を、「邪馬壹國」と書いて「やまと國」と読むのを、中国ではそうは読まないよとは思いながら、真面目な性格だったので、勝手に書き換えるのは許されないと考えて、倭人の書いたそのままで魏志倭人伝に記載しており、范曄の場合は倭人さえも「邪馬壹國」を「やまと國」とは読まなかったので、「邪馬臺國」と書いており、後世の史書も、既に倭人の間でも「山門」や「大和」と書くようになっていたので、「邪馬臺國」が正しいよなと言う話になっていたのだと思う。つまり、「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのかと言うことについては、「邪馬壹國」が正しく、ただそのことは「邪馬壹國」が滅んだ段階で消え去り、恐らくは日本側も「山門」や「大和」と書くようになったので、歴史の闇の中に消えてしまったのだと思う。(「邪馬壹國」=「やまと國」が滅びたのならば何故九州の「山門」と近畿の「大和」がある? 当然その疑問はわくと思います。 それは「やまと國」が狗奴国と戦って滅びた後にも、再度復活したり、 また滅びたりを繰り返したからです。 それは日本の歴史の中で記紀にも神話として記されています。 記紀には九州と近畿の戦いが複数出てきます。 元々「やまと國」は九州に有りました。 「山門」の地名はその時代からのものです。 神武東征と言うのは実は崇神天皇の時代の話で、 狗奴国に滅ぼされたのちに復活した「やまと國」が近畿に攻め上ったのだと思います。 そのせいで近畿も「大和」を名乗るようになります。 本家は九州に有ったとしても、 主力は近畿に移ったので漢字表記を「山門」から「大和」に変えて、 「やまと國」を名乗ったのです。 中国や朝鮮には「やまと國」のネームバリューが必要だったからです。 景行天皇の九州行幸は近畿の勢力による九州の「やまと國」の復活の阻止だと思います。 既に世代が変わり、九州の「やまと國」の生き残りも力をつけて来たからです。 その後、逆に神功皇后が近畿に攻め上って再び九州の「やまと國」が政権を取り戻します。 でも継体天皇の時代に近畿の勢力は九州を圧倒して「大和」は近畿の政権の名前になります。 つまり日本の歴史は「やまと國」の分裂と興亡の歴史なのです。 また、「邪馬壹國」=「やまと國」ならば「壹与」も「とよ」と読むはずであり、 これは後世の話にもつながる。 「壹与」の治めた国は「豊の国」であり、後に分かれて豊前と豊後になる。 近畿に行った「壹与」の子孫は実在の人物でも推古天皇=豊御食炊屋比売命など多数いるし、 神話の時代には豊受(トヨウケ)大神など枚挙にいとまがない。)ところで、本当に倭国に「倭音」が生まれるほどたくさんの渡来人とその子孫が居たのかと言うことは、次回のこの続きである「その3」に書こうと思う。そうしないとこの仮説が証明できないから。
April 12, 2026
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邪馬台国論争をする人達は面白くて、くだらないことを言い争う傾向がある。ただ、それが面白い結果を生むこともあるので、一応考えてみるのが良いと思う。その代表的な例が「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのかと言う論争である。Copilot(WindowsのAIに聞いてみる。「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのか教えて下さい。その答えは次の通り。学術的な通説では「邪馬臺國(邪馬台国)」が原文で、写本の過程で「邪馬壹國」に誤写されたと考えられています。ただし、「邪馬壹國」こそ原文であると主張する有力な少数説(古田武彦など)も存在し、論争は完全には決着していません。1. 史料の事実:現存する最古の写本はすべて「邪馬壹國」 南宋時代の最古級写本(紹興本・紹煕本)は、例外なく「邪馬壹國」と書いています。 これは確実な史料事実です。 そのため、「壹」が原文である可能性は確かに存在するというのが、古田武彦らの立場です。 2. しかし他の中国史書は「邪馬臺國」と記す。 『後漢書』倭伝や『隋書』俀国伝など魏志倭人伝以外の中国史書は「邪馬臺」と記しています。 特に『隋書』は「魏志にいうところの邪馬臺」と明記しており、 魏志の原文が「臺」であったと理解していたことが分かります。 このため、「臺」が原文で、写本の過程で「壹」に誤写されたというのが通説です。 3. 誤写説が通説となる理由 通説が「臺 → 壹 の誤写」と判断する根拠は次の通りです。(1)臺と壹は草書体で形が似ている 写本過程で取り違えが起こりやすい。(2)他の史書が「臺」を使う 魏志以外の史書が「臺」を引用している以上、原文が「臺」であった可能性が高い。(3)「壹」は数字で国名に使うのは不自然 「臺」は宮殿・高台など高貴な意味を持つ字で、国名にふさわしい。4. しかし「壹」こそ原文とする強力な反論もある 古田武彦らの「邪馬壹國」原文説は、単なるトンデモではなく、 次のような強い論拠を持っています。 (1)三国志全巻で「臺」と「壹」の誤写例が存在しない。 → ならばここだけ誤写とするのは不自然。 (2)「臺」は魏朝の王宮にしか使わない“至高の文字” → 蛮族の国名に使うのは思想的にありえない。 (3)注釈者が「壹」に何も注を付けていない。 → 原文が「壹」であると理解していた可能性。 (4)音韻学的に「壹」は“甲類”で九州の「山門(やまと)」と整合している。 → 畿内の「大和(乙類)」とは一致しない。 このように、「壹」原文説は学術的にも十分に成立する説です。5.結論「どちらが絶対に正しい」と断言できる段階ではない。ただし、史料批判の観点では「壹」原文説が強い文献比較の観点では「臺」原文説が強いという構造になっており、論争が続くのはむしろ当然です。おぉー!AIってその辺の学者先生とは違って、むしろ人間よりもまともじゃん!色々な学説を網羅しており、何故結論が出ないかまでちゃんと説明しており、最後に今の段階では結論は出ませんよとまで言っている。学者先生はもういらないじゃん!でも、ここで終わったら僕もつまらないので研究してみた。そうすると、ある観点から見たらまったく別の理論も出ることが分かった。それは魏志倭人伝の中で国の規模を示す家の数(つまり人間の数)の単位である。魏志倭人伝の中では伊都国や奴国及び対海國(対馬の事)では「戸」で表し、不彌國と一大國(壱岐の事)では「家」を使っている。何故使い分けているのだろうか?通説では、中国史料では一般に戸 … 行政単位としての「家族集団」で、戸籍・徴税・兵役の基本単位家 … 物理的な家屋、または家族そのものだと言う説が多いのですが、しかし、三国時代の史書では「戸」と「家」が人口単位として混用される例が普通にある。とくに異民族・外国記事では、現地制度に合わせて厳密に使い分けていないことが多い。また、伊都国などが普通に「戸」を使っているのを考えると、通説ではまったく説明がつかないので、「表記の揺れ」と考える人が多いが、どのような原因で「揺れている」のか、また記載する位置が近すぎて揺れる意味が分からない。何故不彌国と一大國だけの2国なのかまったく説明できない。なのでもっと合理的な説明が必要である。そう考えた時にふと思いついたのが、不彌國が今の宇美市付近ならば、日本書紀等に書かれた神功皇后伝説の場所と同じだと言う事。もちろん神功皇后は伝説上の人なので、証拠にはならないのであるが、伝説とは言っても根も葉もない架空のことは、なかなか言い伝えにはならないのだと思う。何かきっかけになるようなことが有ったのではないか?そう考えると、面白い仮説に達する。宇美市の名前の由来が、神功皇后がここで応神天皇をお産みになったことではなく、元々ここは不彌国だったから、その音が残っていて宇美市になったのではないかと思うのである。何故、神功皇后がここで応神天皇を産んだのか?それは、ここに有名な技術力を持った産婦人科医師がいたからではないか?神功皇后が腰に石を巻いて三韓征伐に行ったと言うのは、彼女の応神天皇のお産が難産だったことの比喩だからではないか?つまり宇美市=不彌國付近には中国からやって来た医師がいたからではないか?そう思いつくのである。そして何故そんな高名な医師がここに居たかと言えば、別に慈善事業で野蛮人(倭人)を助けようと思って来ていたわけではなく、ここには中国からたくさんの渡来人が渡って来ていた、渡来人の居留地が有って、その人達の要請が有ったからからではないか?つまり不彌国と言うのは中国からの渡来人の国だったのではないか?(事実、奴国の中心地である須玖岡本遺跡がすぐ傍に有り、 そこでは銅鏡の鋳型などが見つかり、また重さを計る秤なども見つかっており、 当時としては有力なテクノタウンが有ったことが発掘調査により分かっており、 技術を指導する中国からの渡来人がそこにいたことが容易に想像できるのである。)なので、倭人の竪穴式住居とは違い、中国式の家がたくさん有ったので、伊都国などの倭人の国の家の数は「戸」、不彌國の中国式の家の数は「家」と表現したのではないか?そう思うのである。ではその証拠は有るのか?実は、魏志倭人伝や後漢書を読むと、倭国には学者先生が想像するよりもはるかに多くの渡来人が居たと考えさせる記述があり、逆に学者先生の想像するよりはるかに多くの倭人が中国に渡っていたと考えられる根拠が、ちゃんと書いてあるのである。そしてそれがもし本当ならば、魏志倭人伝に於いて、不彌國までは方角と距離をちゃんと書いてあるのに、投馬國と邪馬台国からは日数で書かれている理由が分かるし、「邪馬壹國」と「邪馬臺國」のどちらが正しいのかが分かるのである。それは明日、その2で書く。
April 11, 2026
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トランジスタ技術の2026年4月号を見ていたら、面白いことを書いていたので、実験してみました。トランジスターにはNPN型とPNP型がありますが、どちらもエミッターとコレクターは同じ半導体で、ベースを挟んだ構造になっていますが、だれでも一度はエミッターとコレクターが同じ半導体ならば、入れ替えても動作するんじゃないか?と考えるものです。僕も中学生の頃にそう考えたのですが、当時はそれを確かめようにも測定器なども持っておらず、いつかはやってみようと思っていながら、時の流れの中で忘れてしまっていました。それがトランジスタ技術と言う権威ある雑誌の中で、堂々と書かれていたので驚きました。あれは中学生だから許される疑問であって、大人はそんなことは考えてはいけないのではと思っていたからです。でも、やっぱり試してみたいのですよね。なのでやってみました。昔の僕ならばブレッドボードに増幅回路を組んで、その入出力をオシロスコープで見るなんて考えるのでしょうけれども、そこはもう大人になって、ずるがしこくなっているので、もっと簡単な方法を考えます。そう、昔のテスターとは違い、今のテスターはHFEを直読できるのです。つまり、ただテスターの測定用の穴に差し込むだけ。さっそくやってみました。テストしてみたのは、2N3567とS8050と2SC1815のごくありふれた3つのトランジスター。まずは2N3567。フェアチャイルドの汎用トランジスター。おぉー!HFE=2だ。ただ正常につないだ場合の1/80しかない。でも、小さいけれどもちゃんと増幅機能が有る。トランジスター技術に書いてある通りだ。次はS8050。中華のラジオなんかでよく使われているトランジスター。えー!逆接続しても、HFEが20もある。昔の、僕が子供の頃のトランジスターとかわらないじゃん。うまく使えば使えるかも?最後は2SC1815。言わずと知れた東芝の世界標準と言える優秀なトランジスタートランジスター技術に書いてあったHFEの値とほぼ同じだ。それでもHFE=7ならばギリギリ増幅が可能かもしれない。ただトランジスター技術に書いてあったけれども、コレクターとエミッターは製造過程が違い、ベースは薄くて、高周波性能などを高める為に対称的にはなっていないので、どうしてもHFEは逆に接続した場合は小さくなってしまう。それはトランジスターの構造を見ると分かる。下にプレーナー型のトランジスターの構造概念を載せる。トランジスター技術にも、この図を載せれば簡単に説明できたと思うのだけれども、本の場合は著作権などの難しい制約が有るので無理なんだろうと思う。基本的にはN型やP型の半導体を作る場合に、シリコン(Si)の結晶にリン等の不純物を混ぜる必要が有るのだが、不純物をかき混ぜて作るのではなく、ガス状にした不純物をしみ込ませてつくるのである。例えば上の図であれば、N型半導体は真性半導体(Si)にリンのイオンなどを拡散して作る。拡散とは、ようはしみ込ませるのである。そうしてできたコレクター(N型半導体)の表面を熱酸化して固いシリコン酸化膜を作る。その表面にフォトエッチング(ようは写真のように焼き付けた部分を溶かして穴をあける)により、むき出しになった部分にホウ素イオンを拡散してP型半導体を作る。これがベースになる。そのベースの表面にまたシリコン酸化膜を作り、フォトエッチングで穴を開けて、またリンイオンなどを拡散してN型半導体を作る。それがエミッターになる。こんな感じである。当然図を見ると分かるようにコレクターとエミッターでは大きさもでき方も違うので、ベースとの間の性質も違っており、同等にはならない。なのでHFEは当然違って当たり前なのである。またトランジスター技術にはHFE以外にも諸特性、特に耐電圧なんかも違うと書いてあった。そりゃそうだと思う。上の図を見ると分かるようにエミッターは張り付けたわけではなく、拡散によりできた層。当然厚さも違うし、不純物の量なんかも違うはず。多分、かなり弱いのだと思う。なので、実験する分には面白いので良いのだけれども、実用にはならないのだと思う。(トランジスター技術には特殊な使用例ではわざと使う例もあると書いてある。)まぁ中学生時代の疑問と言うか、やりたかった実験が60年後にできて良かった。これからも色々と昔やりたかった実験をやるかな?
April 9, 2026
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愛天堂の店舗販売が今日(4月5日)までで終わるので行って来た。店舗販売が終わると言うことは、お姉さんの顔を見られるのも今日限りだから。お姉さんは相変わらず忙しそうに頑張っていた。お姉さんも年とったなぁ。と思う。僕が初めて愛天堂に行った時には、お姉さんは日本に来たばかりで、多分20代初めくらいの若くてちょっと細いお姉さんだった。お店はまだ小さくて、陳列棚も無く、ほぼジャンクと言える部品を箱に入れて、床に直接置いていた。確かここだったと思う。秋葉原の端っこで、末広町から神田明神に行く途中の蔵前橋通りから入った所。写真のように細長いお店で、一番奥にガラスケースが有って、お姉さんはそこにいた。僕は何故愛天堂に行ったかと言うと、ノートパソコンの冷陰極管が欲しかったから。ノートパソコンの液晶パネルの光源は、今はLEDだけれども当時は冷陰極管しか無かった。冷陰極管は簡単に言えば細長い蛍光灯のような物で、インバーターによって、これから発生した光を導光板で画面全体に導き、液晶のバックライトにしていたのである。多分、当時はと言うか今でも、日本で冷陰極管を売っていたのは愛天堂だけだった。と言うか普通の人は液晶パネルを分解する人なんていなかったと思う。(冷陰極管が切れた液晶画面は、光源が無いのでうっすらと見えるので分かる。 お金に余裕がある場合は2個1にして他のジャンクノートから液晶パネルを取って使い、 お金が無い場合は冷陰極管を外して取り換えていた。)冷陰極管はインバーターで点灯するので、また液晶パネルの大きさに合わないと入らないので、規格・仕様を合わせないといけないのだけれども、なんせお姉さんも若くて、(多分こわいおじさんに見えていたと思うので)上手く必要な冷陰極管を見つけるのは難しく、僕も結構苦労して必要な冷陰極管を探した。お姉さんもイヤな奴だなぁと思ったに違いない。でもお姉さんも日本に慣れて、扱う部品も増え、そのうちに末広町に店舗を移して、愛天堂は大きくなった。ここにはよく通った。と言うのも、会社の定期が使えるようになり、タダで通えたから。昔は定期券は必要な区間だけしか買ってはダメで、通勤以外に使うと怒られたのだが、この頃から差額を自分で払うのなら、通勤区間より長い区間を買っても良いと言う時代になり、地下鉄はうまいことに、同じ値段の最長区間で(つまり自腹無しで)買えたからである。このワイゼムビル時代に愛天堂は他の日本の電子部品販売店ではできないことをやった。DSPラジオのキットを安く販売したのである。当時秋月等の他のお店でDSPラジオのキットを買うと、「何だこれ?」程度の物でさえも6000円はしたが、愛天堂では2000円前後で買えたので、しかも僕らがラジオ作りを始めた頃には夢だった「海外の短波放送が聞けるラジオ」を自分で作れるのがうれしくてたくさん買った。当時は僕もまだ働いていたので、奥さんには内緒で買うお小遣いが有ったからである。出来上がったラジオでオーストラリアの放送が聞こえた時には本当に感動した。(もう今では放送していない。)だって僕らが子供の頃にはBCLと言って、短波の外国語放送を聞くのが流行っていた。でも外国語放送を聞けるようなラジオは高いし、貧乏な我が家では到底買えないし、裕福な友人たちはアマチュア無線をやっていて、その設備で聞けたのだけど、僕には買えないし、何よりもアパート住まいなのでアンテナが張れないし。まぁだから、大人になってやっと子供の頃の夢がかなえられた感じがしてうれしかった。そう言う意味では愛天堂は僕にとっては大事なお店だったのだと思う。なので4月5日に店舗販売を終えると聞いて、行ったのである。僕と同じような人が結構いたみたいで、お店は人でいっぱいだった。じーさんが多い。でも、若い人もそれなりにいる。お店の入口付近では、素性の良く分からない部品がたくさん並べられていて、「詰め放題199円」セールをやっていた。実は先週にも来て、その時には7セグLEDやラジオのIFTなんかを箱いっぱい詰め込んだんだけれども、今日はちょっといい物が有って、多分他の人は分らないようだったので、僕が独占的に買ったものが下の写真。特に良かったのがK-443Aの基板。(通販では現在売り切れて売っていない。)K-443AはフルバンドDSPなのだけれども、単体では使いづらい。なので基板があれば、(そのまま使っても良いのだけれども)基板を改造してオリジナルラジオが造れるので、ぜひやってみたいと思っていたのだけれども、もう今では売り切れてないし、有ったとしても高いので、199円詰め放題で入手できたのはうれしいのである。またトランジスターも安かったので目いっぱい買った。詰め放題なので。S9018はfTが800MHzもあるしHfeは300以上もある高周波用のトランジスターで使いやすい。S9014も感覚的には2SC1815とほぼ同じように使えるので用途が広いのでお得。そして青い小さなトランスは6石スーパーの低周波増幅部に使われているトランスである。(50%と書かれたビニール袋は手元に有った空袋を流用したもので、元々は袋無しだった。 つまりトランスはこんだけあっても、トランジスター等の他の物と合わせて199円)なので、簡単なアンプを作る際には使える。この写真の部品が「詰め放題」で199円なのだからお得だったと思う。まぁそんな感じで色々と買って、お姉さんに挨拶をして、帰途についたのだが、せっかく片道2時間もかけて来たので、途中駅の秋葉原に寄ったら歩行者天国をやっていた。かってこの付近の交差点で、痛ましい事件があって、しばらくは歩行者天国も中止されていたのだけれども、ようやく再開されて、今ではかっての賑わいを取り戻している。写真下の右手の三角形の外壁はドン・キホーテで、8階にはAKB48劇場が有り、僕は何回も入口までは行ったのだけれども、中には勇気が無くて入れなかった。最近のテレビを見ていると、前田敦子や板野友美などが「ママ」としてテレビに出るようになっており、時代の流れを感じるのだけれども、人間ってしぶといなぁ。愛天堂のお姉さんも幸せになって欲しいな。
April 6, 2026
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本当は3月5日にもわの会のイベントが有って江の島巡りをするはずだったんだけれども、腰と足が動かなくなって欠席したので、先月は書けなかった。なので久しぶりのわの会。4月2日のわの会は、京浜急行の逗子葉山駅に集合して、逗子と葉山のお寺や神社と名所旧跡を巡った。ルートは下の地図の通り。腰と足はまだ完全ではなかったので、この4.5kmは辛かった。最初は京浜急行逗子葉山駅を出てすぐの仲町橋。ちょうど桜が満開で、田越川の岸辺の桜は満開だった。体調が万全だったら幸せだったのに。葉山は保養地として有名で、ここでは徳富蘆花なども住み、ここで不如帰等を執筆している。その顕彰碑が有った。僕の頭の中の徳富蘆花は自由人で、若干反体制的な人で、大山巌の奥さんの捨松を勝手に悪者にした、ひどい奴な感じが有る。まぁ小説なんだから仕方ないけれど。この橋がかかる田越川沿いの道はかっては相模湾で採れた魚を江戸に運ぶ重要な道だった。ガイドさんがそれを上手に説明してくれた。魚荷の道と呼ばれる。三浦半島の折れ目的な地形で、山の間を縫うように東京湾に抜ける。海を大回りしなくても良いと言うメリットもあるけれども、魚は腐りやすいので、短い日数で江戸に届けられることが大きかったんだろうなと思う。少し下流に行くと田越橋が有る。この橋は欄干部分が湾曲したように変な形に曲がっているのだけれども、明治時代からそうだったんだ。さらに下流に向かう途中に六代御前の墓がある。入口に碑が建てられ、そこを中に入って行くと、一段高くなった所に欅に囲まれた墓がある。実は六代御前を殺したのは北条時政で、頼朝は文覚上人の嘆願を受けて許している。このように、一般には「源平の戦い」と言うのに、源頼朝は義仲や義経と言う同じ源氏を滅ぼし、壇の浦で平家を滅ぼしたのは(義経を除けば)ほとんどが坂東平氏つまり平氏である。だから「源平の戦い」と言うのは話を面白くするための脚色であって、内容は源氏同士、平氏同士の戦いも多くあり、単純な源氏と平家の戦いではなかったのだと思う。と言うか北条時政は、最後は源氏を滅ぼしてしまうんだよな。歴史って一部の人達の勝手な解釈で、事実とは違う見方が定着して、一般の人はそれを信じてしまうので、政治的な目的に利用されやすいのだと思う。田越川の河口には富士見橋がかかっている。富士見橋から河口に向かう途中に徳富蘆花が住んでいた柳屋跡があり、蘆花の碑が立っている。さらに河口を目指すと、現在河口付近は工事中で、付近には石原裕次郎の碑が有ったらしいのだけれども見当たらない。対岸には鳴鶴公園が有り、この付近は鐙摺(あぶずり)浜と言う。海岸沿いは険しい崖で、地名は、馬具の「あぶみ(鐙)」を「摺る(こする)」ような急斜面・崖地形に由来するらしい。近くには有名な鐙摺の不整合が有る。いわゆるプレートテクトニクスによる地殻変動による海側の地形の圧力によるもので、伊豆半島なんかはかっては太平洋上の海底火山が日本に押し寄せて来て、日本と合体して伊豆半島になったと言われているように、ここも長い年月の中で、かっての海底が押し上げられて、またぶつかってこうなったのだろう。でも有名なわりにメンテナンスがなされていない。逗子市は貧乏で、水道施設さえも困窮しているらしいから仕方ないと思う。脇を見ると旗立山が有る。知らないと見過ごしてしまうような海岸沿いの小さな山だが、三浦一族の歴史と言うか鎌倉幕府創成期を考えると重要な場所である。そして、実はこの付近には面白い場所もある。鎌倉殿の13年(NHK大河ドラマ)で、北条政子が頼朝の浮気相手の隠れた館を攻めて、壊してしまう「後妻打ち(うわなりうち)」と言うエピソードが有ったが、その舞台がここである。ガイドさんが説明してくれた。女って恐ろしいと思う。付近に小さなお寺と神社がある。海宝寺と須加神社である。海宝寺自体は小さなお寺さんで特に何もないのだけれども、脇に「脱衣婆」の像があり、三浦半島で有るのはここだけである。「脱衣婆」とは三途の川で「泥棒」の亡者の衣服をはぎ取るばあさんで、はぎ取った衣服は懸衣翁(けんえおう)によって衣領樹と言う大きな木に懸けられ、そのしなり具合によって罪の重さを計ると言う恐ろしい話に出てくる。また、三途の川の渡し賃「六文銭」を持たない者の衣装をはぎ取るとも言われる。なんでそんなお婆さんの像がここに有るのだろう?恐ろしい。すぐ隣に須加神社がある。同じ敷地みたいなんだけれども、バチがあたるといけないので、一旦出て、ちゃんと鳥居をくぐってお参りする。ちょっと南に進むと葉山マリーナが有る。金持ちの聖地である。思ったほどたいしたことは無い。千葉あたりにある○○センターみたい。これを建てた人は味の素の創業者らしい。像が外に有った。えー!京浜急行の社長もやっていたの?そしていまいちわからなかったのが、池田菊苗博士との関係。そもそもこの人のお母さんの鈴木ナカが葉山で採れる海藻からヨードを取りだして討ったのが、会社としてのスタートで、当時は鈴木製薬所と言い、池田菊苗博士が、四基本味である酸味(さんみ)、甘味(かんみ)、塩味(えんみ)、苦味(にがみ)とは別の成分として、うま味(グルタミン酸)を昆布から見つけたのが、学術的なスタートです。ちなみにグルタミン酸とグルタミンは名前は似ていますが別のアミノ酸で、グルタミン酸は小麦のグルテンを加水分解して得られた物から発見されたのでグルタミン酸と言う。博士はこれを何とか安価に日本人に供給できないかと模索していた時に、かっての友人の鈴木三郎助が協力してくれることになり、味の素がスタートした。うーん、博士ってやっぱり実業家には向いていないのね。次は清浄寺。清浄寺は三浦半島に多い浄土宗のお寺で、幕府の庇護を受けていたので、瓦等の紋は浄土宗の「月影杏葉」紋ではなく「三つ葉葵」である。境内には徳本上人の六字名号塔もある。次は相福寺。ここも浄土宗のお寺で、右側の本尊はガイドさんが見せてくれた秘仏阿弥陀如来(十夜仏)で、本山の鎌倉光明寺から賜ったものだそう。次は長徳寺。臨済宗のお寺で、本尊の毘沙門天像は行基の作だと言われています。三浦義澄の守護神だとされています。なお、ここは森戸六郎重行の城の杜戸城が有った所だと言われています。最後に森戸海岸から江の島や富士山を見て見たかったのですが雨で見えませんでした。森戸海岸から森戸神社に行くには、みそぎ橋を渡って行きます。この橋を渡れば、僕の汚れた心もきれいになるのであろうか?森戸神社に行きます。神社の裏手から海に出ます。少し離れますが、龍神宮遥拝所が有ります。遠く、葉山灯台や菜島鳥居も見えます。こうしてみると、三浦一族のエピソードは海や海沿いの山に関わるものが多く、三浦一族は海人族だったんだなと思います。きっと僕の考える通り三浦一族は、九州から四国を経て海沿いに北上して来た一族が、尾張に本拠地を構え、伝説ではあるけれど、ヤマトタケルノミコトのように東を目指して来た尾張の一族のうち、一部はこの地に残った(他のグループは鹿島へ進んだ)のが三浦一族の先祖なのだろうか?ならば三浦と言うのは本来は「御浦」であり、熱田神宮と縁が深いのだろうと思う。そのせいで、三浦一族は存亡をかけて、熱田神宮の宮司の娘の子である源頼朝を助けて、鎌倉幕府の元をつくり、源氏を滅ぼした北条氏に立ち向かって、逆に宝地合戦で負けて滅びてしまったのだろうか?だって、尾張(東海市)の砂浜と同じ名前の「横須賀」と言う地名が残っているんだもの。でも横須賀の人は尾張(東海市)にも横須賀と言う地名が有るのを知らないのだろうな。ヤマトタケルについてもっと調べなければ。
April 3, 2026
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3月24日に、愛天堂の水晶発振子周波数測定キット [K-XTAL628C]を改造して、40MHzで使えるSGもどき(周波数カウンター付き発振器)を作り、愛天堂やアリエクで売っているトランシーバー(中国ではインターホンと言う)を調整して、なんとか使えるようにしたいと挑戦したのだけれど、いまだに実用化に至っていない。3月24日に書いたように「蚊の鳴くような音」しか出ないせいである。愛天堂の水晶発振子周波数測定キット [K-XTAL628C]を改造してSGもどきを作りました。でも悔しいので、3月24日にはなんとかアンプを付けられないかと考えたのだが、ふと気がついたのが愛天堂に売っている超再生検波式のFMラジオのこと。あれは受信周波数範囲が広いので、コイルの巻き数を増やせば40MHzが受信可能になり、もしそれが大きな音で聞こえれば、40MHz受信の参考になるのではないだろうか?愛天堂に売っている超再生検波式のFMラジオと言うのはこれ。最低受信周波数が65MHzなので、現在3回巻きのコイルを4回巻きにすれば40MHzが受信可能になるのかな?と思った。さっそく作って実験開始!ちょっと古いのだけれども、手持ちのグリッドディップメーターを使って40MHzの電波発射!でもなんか音が小さい。FM放送の時は結構大きな音だったのに。もしかしてコイルはやっぱり3回巻きが良いのかも?そう思ってコイルを3回巻きに戻して、FM放送周波数帯から少しづつ周波数を下げていった。するとまぁマシになって聞こえる。さっそくSGもどき(40MHz)を接続してみた。バンバンに聞こえる。耳が痛いくらい。耳の悪い僕がこんなに聞こえるのだから、普通の人ならば「やっぱりボリュームが必要」と逆の意味でボリュームが必要かも?3月24日の記事で書いたトランシーバーの音が、「ピーポー」なのか何か分からない、もしかすると「ぴゅるぴゅる」かもと書いたのは、やっぱり僕の耳が悪いのが原因で、正解は「ぴゅるぴゅる」だった。トランシーバーの音を大きくする為に、この状態でコイルやトリマーや半固定抵抗をいじくってみることにした。オシロをスピーカー(実際はイヤホン)の出力につないで波形を見てみた。えー?1429Hzじゃないじゃん?何で?しかも矩形波じゃないじゃん?ここがまだ僕の良く理解できていない所なんだけれども、検波する際に、何らかの変換が行われているのかもしれない。超再生検波方式と言うのは「クエンチング発振」と言うのを利用して感度を最大限に保つ。検波をする前の高周波部分の波形はどうなっているのだろう?高周波部のトランジスターS9018のコレクター部の波形を見てみることにした。こんな感じ。うーん周波数が1/2だけれども、ちゃんと矩形波の面影があるなぁ。低周波増幅部を経由していないから出力は小さいし。3月24日の記事で載せたSGもどき(40MHz)と同じである。だからSGもどき(40MHz)の方に問題が有るのではなく、超再生検波式のFMラジオの検波の方に何らかの原因が有るのだと思う。まだ超再生検波式と言うのがよく分からない。まぁそれはそれとして、コイルとトリマーの影響を調べてみた。まずはコイルを縮めてLを増やしてトリマー(C)を減らして周波数を同じにして受信してみた。受信周波数=1/2Π√LCなので、LxCが一定ならば受信周波数は同じになるからである。ほとんど変わらない。逆にコイルを広げて(Lを減らして)トリマー(C)を増やしてみた。出力がちょっと増えたかな?でも大差ないかも?理論上はLのリアクタンスとCのリアクタンスが同じ時、つまりωL=1/ωCの時に出力は最高になるはずなので、そこからちょっとずれていたのかもしれない。でもトランシーバーの音の小ささはこれでは説明ができないと思う。差が小さすぎ。次に半固定抵抗を増減してみた。半固定抵抗を真中から右つまり最大値にしてみたら少し出力は減ったけれども大差ない。逆に左に回して減らしてみたら、有る点で波形が消えた。その時の波形がこれ。えー!感度がこんなに変わるの?1/40じゃない?じゃぁ、もしかしてトランシーバーの音が小さいのはクエンチング発振が起こってないのかも?なんだか原因が分かったような気がした。でも実際に改善するのはこれが分かったとしても、これがスタートだなぁ。頑張らなくては。<後日追記>本編には関係ない余談だけれども、ここで使った超再生検波式のFMラジオなんだけれども、愛天堂のホームページにある物と少し違って、電池ケースが基板に付くようになっている。改良版なのか、気分転換なのか分からないけれど、色々と「困ったちゃん」があるので注意が必要。まず、部品が違った物が入っている。また基板と回路図が微妙に違う。出力段のトランジスターが回路図ではBG3書かれているが、基板のシルク印刷ではQ2になっており、本来はS9012(PNP)なのに実際はS9013(NPN)が入っていた。極性が逆なので間違えると致命的。まぁでもよく使うトランジスターなので手持ちを使用した。回路図のC7(222)は基板ではC8(221)になっており、実際には222が入っていた。かなり数値的には違うけれども、まぁ222でも使える。ホームページにはアンテナ無しでもFMが聞こえると書いてあるけれど、アンテナ無しでは厳しい。ホームページの基板にはSMAコネクターが付くようになっているが、この基板には無い。仕方ないのでリード線を60cmくらいつけてやると劇的に改善する。そしてボディエフェクト(人間の影響)がかなり大きい。あちこちに触るだけで感度がめちゃめちゃ変わる。なので基板にはプラスティック製の足をつけて、直接アース部分などに触れないようにする。多分、変な所に触るとクエンチング発振が止まるのだろうと思う。ひどい時にはウンともスンとも言わなくなる。御参考に。
March 31, 2026
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前回、愛天堂の水晶発振子周波数測定キット [K-XTAL628C]を改造して、AMラジオの調整用のSGもどき作ったんだけれども、愛天堂の水晶発振子周波数測定キット [K-XTAL628C]を改造してSGもどきを作ってみました。その後に愛天堂などで売っているトランシーバーの調整用に、似たようなSGもどきを作る為に、コルピッツ発振回路の実験をやってみた。コルピッツ発振回路を実験してみました。その結果色々と分かったので、さっそく愛天堂の水晶発振子周波数測定キット [K-XTAL628C]の改造に取りかかった。改造と言っても既存の基板をちょっとカッターで削ってジャンパー線をつなぎ、40MHzと言う高い周波数に合ったコイルとコンデンサーに取り換えるだけである。但し、実験の結果から、高い周波数ではコンデンサーは発振周波数によってリアクタンスが変化しやすいので、低レベルアマチュアの僕にはコルピッツは荷が重いので、またコルピッツ発振回路ではコンデンサーが2つ有って、両方を変化させるのは難しい(片側がリアクタンスが小さくなるとアースに近くなる)ので、AMラジオ調整用SGもどきの時と同様にハートレー型発振回路にすることにした。考えた回路はこんな感じ。例によって、単なる発振回路だと、ラジオやトランシーバーで受信しても「ポコッ」となるだけで受信したのか分からないので、メロディICで変調をかけて、雑音などと区別できるようにしている。まずはコイルを自作した。ネットにCoil64と言う素晴らしいソフトが有り、これを使うと自由にコイルを設計できる。コルピッツ発振回路の実験の時の経験(データー)からコイルのインダクタンスは0.9µHに決め、Coil64で0.55mmのエナメル線で計算すると、100均で買ったボールペンに巻き付けてコイルを作る場合、約11回巻きになる。今回はハートレー型発振回路なのでその中間にタップを設けてやれば良い。ところが実際に基板につけるときに、11回巻きは直線的には「物理的に」つかない。なので、急遽作ったコイルを2つに切って伸ばしたり縮めたりして5回巻きコイル2個にした。そしたら概ね狙い通り40MHz近辺で発振した。写真でも分かるように、元が11回巻きだったので、5回巻きX2個のつもりが、5回巻き+6回巻きになってしまっている。発振周波数がちょっと低めだし、コイルは広げ気味なので、本当は5回巻きX2で良いのだと思う。また、発振周波数がカウンターで直読できるのが自慢である。これに変調回路(メロディIC)を付けたら、周波数がガタっと下がってしまった。変調回路の持つ静電容量成分のせいだろう。これでは40MHzのトランシーバー調整には使えない。なので巻き数を4回巻きX2に減らすことにした。これがメチャメチャ大変だった。なんせ1回半田付けした「コイル」を引き抜いて、再度巻きなおして、元の穴に突っ込むのだから。そもそも引き抜いたコイルはメチャメチャに変形していたので、上の写真のようにボールペンで再度巻きなおす必要があり、いっそ新規に作り直した方が良かったのかもしれない。まぁでも何とかなって、一応40MHz付近で発振するようになった。ただコイル広げすぎ!。本当は3回巻きX2か、4回巻き+3回巻きが正解かもしれない。そして出力波形もオシロで見てみた。けっこう綺麗に発振している。(出力0.01~0.015Vp-pと書いてあるのはよく見たら0.2~0.25Vp-pの間違いですね。 ごめんなさい)前回のコルピッツ型発振回路の実験時は電源電圧が3Vだったので、出力電圧に制限があり、どうしても上下に「棚」ができてしまって綺麗な波形にならなかったが、電源電圧が5Vになると上下に余裕ができて、結構きれいになるみたい。そして波形の上限と下限を見ると、ゆっくりと上下している。これはもしかしてちゃんと変調がかかっている?時間軸を変えてみた。以前はこの時間軸を変えると言うテクニックが下手だったので、変調のかかった搬送波の波形を見るのが難しかったのだが、いくら低レベルアマチュアの僕だって、何回もやっていれば多少はテクニックを覚えるもので、今では変調のかかった搬送波もオシロに映せるようになった。この写真を見ると、1429Hz(変調)が40.614MHz(搬送波)に乗っかっているのがハッキリと分かる。やったなぁ。40MHzトランシーバー調整用のSGもどきがちゃんとできている。さっそくトランシーバーに(電波として)つないでみた。最初、「えぇー聞こえない」と嘆いてみたのだが、何のことは無い。僕の耳が悪いだけ。補聴器をつけて聞いてみたら、「ぷーぽー」なのか「ピーポー」「ぴゅるぴゅる」なのか分からないが聞こえる。しかもコイルのコアを回すと、ある1点で聞こえるし、SGもどきの電源を切ると音が消えるので、あきらかにSGもどきの電波と分かる。できたよと思ったが、同時に課題も分かった。僕でも補聴器無しで使えるように改造しなくっちゃ。ただこれが難しい。なぜなら、トランシーバーはスピーカーを受信時にはスピーカーとして、送信時にはマイクとして使っているから。単なるラジオならばスピーカーを外してそこにアンプを挿入すれば良いけれども、トランシーバーなので、スピーカーの所にアンプを付けられない。どうすればいいんだろう?ちなみに愛天堂の簡易トランシーバーキットK-Q5DJの回路図はこんな感じ。ネットで探してみたら中国の製造元のホームページに動作原理の説明が有ったので載せた。愛天堂はここから買って、日本で売っているのだろう。中国は僕が中学生の頃の日本と同じ状態で、希望に満ちた少年たちが、ワクワクしながらこう言ったキットで勉強しているのだろう。なんとかしないと、今の日本の希望を持たない子供達は負けてしまうと心配になった。高市さん、なんとかして欲しい。
March 24, 2026
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愛天堂の水晶発振子周波数測定キットK-XTAL628B及びCを使って、AM用ラジオ調整用のSGもどきをいくつか作ってきたが、どうしても周波数の高い方や低い方で発振が止まる現象が発生して、いまいち満足がいかないけれども、コイルを取り換える方法や、コンデンサーを並列に接続して切り替える方法で、なんとか使えるようにしてきた。でも実は色々とやっても周波数が4MHzくらいまでなら何とかなるけれども、それ以上になるとコイルを変えたりコンデンサーを変えても限界があるみたい。ただカウンターが50MHzまで使えるので、なんとか40MHzくらいまでは発振させたいものである。実は愛天堂で売っているトランシーバー(愛天堂はインターホンと言っている)が、超再生検波方式で40MHz付近の周波数を使っているのである。これの調整に使いたい。このキットは元々が水晶発振子を発振する回路を内蔵しており、その水晶発振子をコイルに置き換え、並列につながるコンデンサーをバリコンに置き換えて、任意の周波数の信号を発振し、それにメロディICや無安定バイブレーターによる変調を加え、それを電波として飛ばして、AMラジオに与える信号にしようとしたのである。コルピッツ発振回路による、コイル交換型SGもどき。愛天堂の水晶発振子周波数測定キットK-XTAL628BでSGもどきを作りました。ハートレー回路による、並列コンデンサーの切替型SGもどき。愛天堂の愛天堂の水晶発振子周波数測定キット[K-XTAL628B]を改装してSGもどきを作りました。でも何となく発振が止まる原因はこうじゃないかなと思う理屈は分るのだが、なんとか実験的に解明してみたいものである。恐らくこうじゃないかなと言う理論は下の回路図に書いた、コンデンサーやコイルの周波数変化によるリアクタンスの変化により、トランジスターのベース電位が下がり、エミッターの電位との必要な差の約0.6Vを保てなくなるのが原因だと思う。愛天堂の水晶発振子周波数測定キットK-XTAL628Bの発振回路は、上の回路図のようになっている。コレクター接地型コルピッツは死因回路である。発振回路には他にエミッター接地型やベース接地型の発振回路があるのだが、水晶発振子は非常にインピーダンスが高いので、水晶発振子による発振回路はたいていこの回路である。この回路図を見ると、トランジスターのベースとエミッター間にCのコンデンサーが有る。コンデンサーは高い周波数ではリアクタンスが非常に小さくなる。つまりこの回路では高い周波数ではベースとエミッター間に必要な約0.6Vを保てなくなる。なので高い周波数では発振が止まるのである。それを防ぐにはどうすれば良いか?Cの値を小さくすると、周波数が高くなっても比較的リアクタンスは下がらない。グラフにするとこんな具合。グラフを見ると周波数が高くなるほどリアクタンスは小さくなるのだが、コンデンサーの値が小さいほどましである。ちなみに2SC1815等シリコントランジスターのベース-エミッター間電圧特性のグラフはこれ。動作するのはゲルマニウムトランジスターでは0.2~0.4Vと低いが、シリコントランジスターでは概ね0.6V以上。(逆に言えば動作している=IB(ベース電流)が流れている=場合のトランジスターのVBEは 0.6Vくらいになると言える。)同様に上の回路図ではLは周波数が低いほどリアクタンスが小さくなるので、トランジスターのベースの電位が下がり、アースとの間の電圧が低くなり、エミッター電圧との必要な差、約0.6Vを保てなくなる。コンデンサーとは逆にコイルは低い周波数ほどリアクタンスが低くなるのである。グラフにするとこんな感じ。すみません。グラフと表の中のµFはµHの印刷ミスです。このように使おうとしている発振回路は、周波数が高い方はコンデンサーが悪影響を及ぼして発振が停止して、周波数が低い方はコイルが悪影響を及ぼして発振が停止するのである。なのでまぁ理屈は分るのだが、実験して確かめた。まずはコレクター接地型よりもエミッター接地型の方がゲインが大きいはずなので、発振に必要なゲインを確保する為にエミッター接地型コルピッツ発振回路でやってみた。この回路でも、コンデンサーがベースとアース間に入るので、周波数が高くなるとベース電位が下がって行き、エミッター電位+約0.6V以下になると発振は止まってしまう。なので、Cの方は変えずにLを変えて40MHzをクリアーできないだろうか?実験してみた。Cは220pFである。うーん、C=220pFでは2.5MHzまでしか発振しない。なお、写真上から2段目左の中の「なんとなくC=200~300µFに発振出力のピークがある」と書いているのはL=200~300µHの印刷ミスです。ごめんなさい。印刷ミスではあるけれども、書いてある内容は大事で、どうもCだけあるいはLだけ変化させるのではなく、CとLの組み合わせが大事であり、最適な組み合わせの時に出力は最大になるみたいである。2.5MHzでは話にならないので、Cの方も限界まで小さくして見た。Lを10µHまで落とした際にCは5pFまでが限界だった。うーん、12MHzか。あと少しなんだけれども。じゃぁエミッター抵抗を1kΩから390Ωに減らしてみるか。すると何とか発振した。ついでにコレクター接地型にも挑戦してみた。上の写真のL=10µHは1µHの印刷ミスかもしれません。ごめんなさい。エミッター抵抗を小さくすると発振しやすくなるのは、ベース電位がコンデンサーのリアクタンスが下がってもエミッター電位が低くなっているから、必要なベースエミッター間の約0.6Vが稼げるからだと思うのだけれど、コレクター接地の方がエミッター接地型よりも発振しやすい理由が良く分からない。まぁでもコレクター接地型の方が、コンデンサーやコイルの値が小さくても発振しやすいのが分かったので、コレクター接地型にして、L=1µH、C=1pFでやってみたら、出力は1/10程度しか出ていないけれども、なんとか37MHzで発振した。(初心者の方はL=1µH、C=1pFだと計算上40MHzにはならないと思われるかもしれないけれども、 基板や配線の容量とトランジスターの入力容量等の静電容量が通常10~20pF程度あり、 仮にその中央値の15pFとすると1pF2個直列のコンデンサーを加えて総容量は15.5pFになり、 L=1µHとC=15.5pFから共振周波数=40.4MHzになるので参考に)でも波形を見ると、少し上下のピーク値が変動している。なんらかの別の周波数が含まれているような気がしたので、時間軸を変えてみると、なんと1/4の周波数が発生しており、それがピーク値を揺らしていた。うーん、ちょっと満足とは言えないけれど、約37MHzが発振できたならOKかもしれない。後は今の1µHはµインダクターなので、これを手巻きのコイルにして0.8µHくらいにすれば40MHzオーバーを達成できるかな?実験中の様子はこんな感じ。愛天堂の激安ブレッドボードを使っています。
March 16, 2026
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孫が恐竜が好きなので、アリエクで電動の恐竜の組み立てキットを買ってあげました。我家の孫は末恐ろしい奴で、幼稚園の頃からレゴを本格的に作り始めて、小1の今では相当に難しい宇宙船や未来都市のレゴを作ります。その時にふと見ると、子供向けの組み立て式のFMラジオが有り、RDA5807FPのスタンドアローンモードを使っているようなので、買って研究してみる事にしました。こんなのです。今は送料も含めると1300円弱するようですが、僕が買った時はセール期間中で、送料込みで764円でした。タバコ1箱程度の値段なので安いものです。たださすがに中華で、しかも電気屋さんではなくおもちゃ屋さんなので、ツッコミどころ満載でした。スイッチはC-(周波数サーチダウン)とC+(周波数サーチアップ)が逆でしたし、周波数範囲は本来87.5~108.0MHzのはずなのに、FM東京(80.0MHz)が聞こえてびっくりしました。でもまぁこれは良い方向に間違っていたので幸いです。だってFM東京が聞こえないと山崎怜奈ちゃんのラジオが聞けないから。ラジオのDSPラジオICはRDA5807FPで、これをスタンドアローンモードで使っています。従ってマイコンは無し。そのままでもイヤホン程度ならば聞こえるのですが、このラジオはスピーカーを鳴らすのに、8002Aと言う低周波増幅用ICを使っています。このICは外付け部品が少ないのにちゃんと増幅回路ができる優れもので、愛天堂などではこのICを使ったアンプ基板が安価で売られています。ただ、このラジオはスピーカーが一つなので、このICをBTL接続してモノラルで使っています。ラジオ基板は子供がねじ回し1本だけで組み立てられるように最初から半田付けしてあり、もう電池とアンテナとスピーカーをねじ止めするだけです。なので簡単なのですが、僕の場合は、我が家はマンションでスピーカーを鳴らすと奥さんに怒られるので、イヤホン端子を付けてヘッドホンで聞けるようにしました。内部はこんな感じです。基板に付いた2つの接続端子のうち、左がスピーカーに行き、右が電池につながります。僕はスピーカーに行く配線をイヤホン端子(写真ではヘッドホン端子)につなぎ、そこからスピーカーに新たに配線を伸ばしています。なお、組立説明書が有るのでちゃんと読めば大丈夫ですが、読まないで感覚で組み立てると、スピーカーの取り付け方向を間違えると配線が短くて届かなくなるので注意が必要です。完成するとこんな感じです。最初に書きましたが、このラジオはRDA5807FPをスタンドアローンモードで使っており、制御用のマイコンは有りません。RDA5807FPはRDA5807MPなどと違い、GPIO端子があり、このGPIO端子を使って色々な工夫ができます。その為にピン数が多くなっています。RDA5807FPは、本来はPIC等マイコンで制御して使うDSPラジオICなのですが、スタンドアローンモードとはこれをDSPラジオIC単独で使うモードで、安価なラジオ等ではよく使われるモードです。AI検索で探してみるとこう書いてあります。<AI検索>RDA5807FPは、スタンドアローンモードでマイコンなしに利用できます。スタンドアローンモードの詳細・別途マイコン不要・RDS/RBDS対応・受信周波数範囲:50〜115MHz・自動選局機能付き(回路図)今回作ったラジオとは少し違うが、AI検索で見つかった他社製のラジオ。参考に!つまりRDA5807FPは6番PIN(データシートではGND)をVDD(電源)につなぐと、内部の制御回路が働くようになり、元のSDAとSCLK端子(マイコンとの通信用端子)は使わないのでスイッチ用として使え、GPIO2及びGPIO3の入出力端子をスイッチ用端子として使えるようになり、これら4つの端子をボリュームの増減用と、周波数サーチのアップとダウン用のスイッチ用として使えるのです。なおこのラジオではイヤホンアンテナではなくテレスコピックアンテナにしているので、4番ピン(FMIN=アンテナ)はイヤホンではなくテレスコピックアンテナにつながっており、しかも上の回路図とは0.1µHと24pFのBPFの構成が違っているので、多少感度が上がっているようです。BPFの構成が違うと言うのは、AI検索で出てくる上の回路図ではBPFが変な感じがする回路になっていますが、感度のことを考えるならば、このラジオや愛天堂の同タイプのモジュールの方が正しいと思います。愛天堂の回路はこんな感じです。この愛天堂のDSPラジオモジュールは同じようにRDA5807Fpを使ったモジュールですが、J1部分とJ2部分のどちらをジャンパーするかだけで、I2Cモードとスタンドアローンモードが切り替わります。愛天堂って賢いと思う。中華ってある意味すごいと思います。だってこのRDA5807FPって、スタンドアローンモードで使えば安価なラジオに使えるし、I2Cモードで使えばデジタル表示の高級ラジオにも使えるものすごいDSPラジオICを、同じ値段で作っているのが信じられない。営業戦略として、インテルのCPUのように性能の違いで値段を変えて売ればもうかると思うんだけれど。まぁ貧乏人の僕達低レベルアマチュアにとっては良い事なのかな?
March 12, 2026
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アリエクでものすごく安いブルートゥース付きFMラジオを売っていたので勢いで買ってしまった。間違いだった。これです。税込みで480円と確かに安いのだけれども、ケースが無い。しかも中華にはありがちな「ウソの仕様」で、着いてみた時に「やられた」と落ち込んでしまった。上の写真とは物が違っていたのである。ブルートゥース付きFMラジオなのは本当なのだが、アンプが付いていないタイプだった。以前書いたアリエクのブルートゥース付きFMラジオは、FMラジオ部分の基板(表示器付き)とアンプ+ピカピカLED表示部分の基板の2枚の基板があって、両方をアクリルケース(スピーカー付き)の中に収めるブルートゥース付きFMラジオだったが、これはそのうちのFMラジオ部分の基板(表示器付き)だけを別売りしたものだった。参考に以前書いたアリエクのブルートゥース付きFMラジオのURLを載せる。ブルートゥース付きFMラジオじゃぁどうしようかと思っていたら、同じ悩みを持つ人は多いようで、その辺はさすがに中華は対応が早く、専用ケースを売っていた。この辺は本当に中華はすごいと思う。おかげで何とか目途がついてしまった。あとは電源とアンプである。12Vの電源は、もう使わなくなってジャンク箱に入っている、ブルーレィプレーヤー用ハードディスクの電源がちょうど12Vでプラグも合うので使える。アンプは愛天堂の福箱に入っていたヘッドホンアンプがちょうど良い。ただ心配なのはこのヘッドホンアンプは2.7V~5.5Vしか使えないこと。でも何の心配もいらなかった。このブルートゥース付きFMラジオは電源は12Vなんだけれども、基板を調べてみたら、なんと電圧をレギュレーターで5Vに落として使っているのだ。なのでちょうど良い。電源はレギュレータ端子に直接半田付けした。(5V)音声出力は、「ヘッドホンアンプ」なので、元のヘッドホンのラインに直付けしても良いかなと思い、直接つないだが本当はカップリングコンデンサーなどを挟んだ方が良かったのかもしれない。ちょっと音が割れる。元のVR値(最大50)に対して10~20倍の音量になっている気がする。アンプ接続前はボリュームを最大の50にしても「蚊の鳴くような音」だったのが、ボリュームを15程度までおとしても、ものすごい音量で聞こえる。耳の悪い僕でもそんな感じなので普通の人はカップリングコンデンサーなどを挟むべきだと思う。ヘッドホン信号ラインの接続はこんな感じ。簡単なものである。そしてFMラジオとしては感度はそこそこ良い。電波環境の悪い僕の部屋でも87.5~108MHzの中で5局入る。但し、87.5MHz以下が入らないので、FM横浜やFM東京が聞けない。実はこのラジオ、電源を入れた瞬間に「HI]と表示される。もしこれが何らかの方法で別の表示に変わるならば、もしかすると76.0~108.0MHzに変わるのではないかと思っている。ただ、今は方法が分からない。V+やV-やMODE等のボタンを色々と試してみるが変化はない。まぁ、色々とやってみるのも楽しみなのでゆっくりとやろう。
March 4, 2026
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水晶発振子周波数測定キット [K-XTAL628B]を改造してSGもどきを作ってみて、一応の解決をしたのだけれども、水晶発振子周波数測定キット [K-XTAL628B]を改造してSGもどきを作ってみました。及び、水晶発振子周波数測定キット [K-XTAL628B]を改造してSGもどきを作ってみました。(続き)その他に純粋なカウンターも欲しいなと思って、安いのをアリエクで探して作った。どうせ作るならケースに入ったカッコいいのをと思って。(愛天堂や秋月はケースが付いていない)すると手頃なのが有ったので購入した。これが間違いだった。中華の物なので、結構いい加減な商品が有る。このキットは作ってもウンともスンとも言わなかった。液晶は表示されないし。半田付けや配線をチェックしたけれども間違いは無い。もしかするとと思って、PIC(OIC16F628A)を外してみた。うわー!死んでるじゃん。多分書き込みに失敗したやつなんだと思う。MPLAB X IPEで調べてみた。えー!なんか変?一応Configration bitも調べてみた。えー!写真で言うと赤い四角の中、書き込み禁止になっているじゃん。この状態だと読めないし初期化もできない。一応念のためにEraseボタンで初期化してみたが、Blank checkボタンで確認すると、Erase completeと表示されるのだけれど、そのすぐ後にnot 〇〇〇と赤い字で表示されてcompleteではなくて失敗だと分かる。ネットで調べるとこのbitがONになっているとダメなようです。じゃぁ仕方ないので愛天堂のやつをケースにいれようかと思ったら寸法が合いません。じゃぁ削る?ここで悪知恵が働いて、良いことを思いつきます。PICが悪いだけならばPICを変えれば良いじゃん。でもプログラムはどうするの?調べてみました。すると実はこのカウンターはドイツの頭の良い人が開発した物でGItHubにプログラムが有り、恐らく中華の物はそのプログラムを無断使用しているだけなので、copy可能?ただ僕はくそ真面目なので、著作権的にまずいかなとおもい、HEXファイルを探しました。自分でcopyしたら悪いのは僕だけど、既にコピーした物ならば僕は善意の第三者であり、最初の人が悪いのだから。善意なのかな?(盗品であることを知らないで買った骨董品屋は罰せられないのと同じです。)まぁその辺は難しい事は言わずに愛天堂のカウンターからPICを外してコピーしても良いかな?ここは秘密。まぁHEXファイルが手に入れば、あとはMPLAB X IPEを使えば簡単です。まぁ最初に350円で愛天堂で買ったPIC16F628Aをチェックします。そしてHEXファイルはこんな感じです。メモリーの内容が「0000」や「3FFF]じゃない。ASCII形式で見ると何か意味が有りそう。それをPICに書き込みます。おぉー!書き込めた。大成功です。カウンターにつけてもちゃんと動いている。値段(350円)よりも作戦がうまくいって良かった。
February 27, 2026
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今日から確定申告がスタート。本当は2月15日からかもしれないけれど、2月15日は日曜日なので。電子申告なので1時間もかからない。便利になったよなぁと思う。昔は近所の税務署に2時間も並んだ。不備が有って書き直しが有ったりすると、もう一回2時間並んだ。地獄だった。でも今は電子申告なので、書類を準備したらパソコンの前に座ってキーボードを打つだけ。簡単。本来は年金収入だけで、しかも400万円未満なので確定申告の必要は無いのだけれども、やってみて「プンプン!」ってやりたいので、あえて確定申告する。「プンプン!」と言うのは税金って不合理だから。よく「減税」について議論されるけれども、僕らのように年金しか収入が無い人達には意味が無い。今回も計算してみて驚いた。所得控除つまり税金の対象となる「所得」よりも、税金の対象から引かれる「控除」の方が圧倒的に多い。僕の場合、「控除」ー「所得」が90万円にもなる。つまりあと90万円収入が増えても税金はかからない。まぁ年金は少ないから当たり前の結果だと思う。でもまぁ生活できるからまだまし。年金がさらに少なくて生活に困っている人は多いと思う。そう言う低所得者にとって、「所得減税」って意味が無い。元々税金を払うほど収入が無いのだから。だから低所得者にとっては「所得減税」よりも「消費税減税」の方が大きいのだと思う。消費税は「控除」なんて無いのだから。食品なんか、よほどの高所得者でなければ「必要経費」なんだと思う。まぁそんなことを考える為にわざと必要のない確定申告をして遊ぶジーサンである。
February 16, 2026
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アリエクで安いFM/AMラジオが有ったので買って作ってみた。ついでに周波数カウンターも付けてみた。だって中国製は中国とアメリカ向けなので、FMが87.5~108.0MHzであり、これを日本向けに改良すると、目盛が変になるので不便だから、AMはともかくFMには周波数が分かる何かが無いと不便だから。元のラジオはこれです。安い!なのでおじいちゃんの趣味には最適です。ただ、87.5MHz以下は受信できないので改造が必要です。似たようなので、愛天堂にもK-ZX2051と言うキットが有ったのですが、部品に不備が有って現在は売っていないようです。僕はその不備を改良して3台くらい作りました。またついでにFMは日本バンドに変更しています。愛天堂の★AM/FM2バンドラジオキット[ZX-2051]を作りました。及び、AM/FM2バンドラジオキット[ZX-2051]3台目を作りました。まぁ何とか鳴るようにはなったんだけれども、目盛を手書きで書いているのでカッコ悪い。なので今回はデジタル表示に挑戦したのである。まずは梱包を解くと、これってAMAZONや愛天堂のとまったく同じじゃん!そう思いました。ただ、改善されている点もあって、1番大きいのはAM用のバーアンテナと取付用具が格段に良くなっています。バーアンテナは、愛天堂のバーアンテナが900µHとメチャメチャな物だったのに対して、これは620µHと標準的な物になっています。アンテナコイルは1-2,3-4と1次コイルと2次コイルが別になっており、2番と3番を半田付けして連結する必要がありますが、ちゃんと説明書に書いており親切です。ちょっと計ってみました。そしてオォーッと思ったのは2次巻線がリッツ線になっている事。高級品の証です。コイルはたくさん巻くと、巻線同士が向かい合っておりコンデンサーと同じ構図になります。なので、コイル自身が分布容量を持っており、これが性能の低下をもたらすのですが、リッツ線はこれが発生しにくい素晴らしい巻線素材です。赤い1次コイルが100回、白いリッツ線が10回巻いてあり、これを連結してa-b-cの単巻線として使います。たださすがは中華品質です。バリコンが基板に刺さらないので、何故かなぁと疑問に思いました。そこでふと見ると、バリコンのカバーがC1,C2側とC3,C4側が反対になっていました。工場でお姉さんが反対にかぶせたんだと思います。見分け方はアースラグ(くの字に曲がった足)です。AM側は細くFM側は太くなっており、逆向きだと基板に刺さりません。無理すると壊れるかも?回路図はこんな感じですが、元になっているのがSONYのデータシートなので愛天堂のと同じです。SONYのデータシートではL1が3.5回巻き、L2が4.5回巻き、C3が18pF、C4が22pFと少し違いますが、これは線径やコイル径が少し違うので、その辺を考慮した物でしょう。なお、前回及び前々回はL1を5.5回巻き、L2を4.5回巻きにしたりして検討しましたが、SONYのデータシートから考慮すると、この回路図のままで良いようです。ただ、日本バンドにする為にC3とC4は30pFくらいにした方が良いと思います。回路図は87.5-108MHzを受信範囲にしていますので、C3とC4は少なくなっています。同調回路の周波数は√Cに反比例しますので、周波数を下げるには容量を増やします。そしてC4の方は10pFにしていますが、これはカウンターの入力容量が加わるからその分を差し引いているのです。カウンターの入力容量はおよそ15-20pF有るようです。よく自称ハイレベルアマチュアの方は、OSC回路にカウンターを結合コンデンサーで接続するのは良くないと言って、リード線などを沿わせてカウンターをつなぐ人がいますが、とんちんかんだと思います。リード線などを沿わせてカウンターをつなぐと言うのは、相互インダクタンスを利用しているだけなので、結合コンデンサーがタンク回路のコンデンサー容量に影響を与えているのと同様に、相互インダクタンスがタンク回路のコイルのインダクタンスに影響を与えるので、どちらも程度問題であり、原理的には同じです。ただ確かに周波数が高いハムなどの受信機ではコンデンサーよりも相互インダクタンスの方が、多少有利なような気がしますが、FM放送帯ほど高い周波数になると、もうどっちもどっちだと思います。(ちなみにカウンターは通常OSC側に取り付けます。 ただでさえ微弱なRF側の信号をカウンターの入力に使って減少させるのはダメですから。 OSCの発振出力はラジオが自分で作る電波なので、出力は思いのままですし、 上に書いたように変化するとしても、その変化の具合が分かっているならば、 その変化分を最初から計算に入れておけばすむからです。)じゃぁどうするか?割り切ることです。カウンターをつなぐ前の周波数は、結果的に使われません。受信に際して使われるのは、カウンターをつないだ後の周波数であって、つなぐ前の周波数がいくらであろうと、もうそれはどうでも良い周波数です。ましてやカウンターは「波形を数えている」ので、結構正確ですから、もうカウンターをつないだ後の周波数だけを考えれば良いのです。回路図のFMOSCは元々C4と言うコンデンサーが並列につながれています。この範囲であればC4でカウンターの入力容量を調整してやれば済む話なのです。と言うことで僕はC5(1pF)の足の部分のランドにカウンターの入力をつなぎました。なお、カウンターは愛天堂のK-M3610を利用した。なおFMだけしか使わない(AMは元々の目盛が使えるのでFMだけにした)ので、切替用のスイッチは使っていない。ラジオ本体にカウンターを付けてみた、上の写真は途中段階なので、1か所誤りが有り、カウンター電源のGND側は写真では電池のマイナス側の接続点につけているが、これだとラジオのスイッチがかんでいないので、スイッチに関係なくつきっぱなし。なので写真に書いたようにスイッチをかんだ後のGND部分にカウンターのGNDは接続する。するとFM周波数帯の上限は、下限は、のようになり、日本バンドは全てクリアーできます。感度はそれなりに良いと思います。よく言われるようにスーパーヘテロダイン方式ラジオは調整で感度が劇的に上がって行きます。ただ市販のラジオの調整は日本全国どこでも同じように聞こえなくてはいけないので、受信周波数帯全域にわたって平均的に感度が良いように調整しますから、自分の好きな周波数が最適と言うわけにはいきません。あくまでも平均的です。なので僕らは、例えばNHKは聞かないので無視して、FM東京やニッポン放送が最高になるように調整します。いまはニッポン放送を調整中です。だって松田好花ちゃんが好きだから。ニッポン放送中心に調整するしかないのです。その際にはこのカウンターが役に立ちます。カンター無しと有りとでは調整のしやすさが全然違うのです。なお、上の写真は既に完成していますが調整中はこんな感じです。FM東京も良く聴くのでここも大事です。調整はバリコン右下のトリマーで受信周波数上限を調整します。下側のコイルで受信周波数下限を調整します。片方を動かすと、もう片方も動くので、数回調整します。バリコン右上のトリマーが受信周波数上限の「感度」の調整です。上のコイルが受信周波数下限の「感度」の調整です。これも片方を動かすともう片方も動くので数回調整します。なお「感度」に関しては、既に書いたように、僕らは市販品を作るわけではないので、目的とする放送局で調整します。具体的にはニッポン放送でトリマーを、FM東京でコイルを調整するのです。まぁこんな感じで作りました。
February 14, 2026
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1月26日の記事で水晶発振子周波数測定キット [K-XTAL628B]を改造してSGもどきを作ってみて、おおむね満足の行く結果を出したんだけれども、実はAM放送周波数帯の低い方が若干クリアーできていなかった。ただ低い方は関東ではNHKしかないし、僕はNHKは10年に1度しか聞かないので、まぁいいかと思っていた。でも、ちょっとカッコ悪いなと思い、改善方法を考えた。一番簡単なのはバリコンの可変容量を増やすこと。それこそ有るならば600pFのバリコンが有れば一番良いのだけれども、世の中そんなのは無い。(エアーバリコンならば有るかも?)そう思っていたら、愛天堂のホームページを見ていたら、なんと270pFのバリコンが有る。1月26日の場合は160pFのバリコンだったので1.6倍くらい。455kHzをクリアーするのは無理かもしれないけれど、AM放送周波数帯くらいは何とかなるかも?そう思ってまた作ってみた。ただ今回はもう [K-XTAL628B]は古い機種なので無いので、 [K-XTAL628C]で作った。回路図は前回と同じ。と言うか、この回路図は実は [K-XTAL628C]のものなので、こちらがオリジナル。さっそく作ってみることにしたが、ハートレー型発振回路部分を作る前段階で変なことに気がついた。えー?5桁有るはずなのに4桁しか表示されない?回路図を見ながら追っていくと5桁目つまりLED5はトランジスターU3がONにならないと表示されない。その周囲を調べてみたら、なんとD4(回路図ではD5となっていますが基板のシルク印刷ではD4)のアースがつながってない。(この設計ミスは [K-XTAL628C]だけで、 [K-XTAL628B]はちゃんとアースにつながっています。)実はネットであらかじめ調べていたのでこの不良は知っており、半田付けする前に基板を加工していたので大丈夫なのでした。基板の改良は下の写真の通り。上の写真の通りD4のアース側はどこにもつながっていないので、周囲がすべてGND(アース)なのを利用して削って銅箔をむき出しにして、D4を半田付けする際に足を長めに出してアースとブリッジすれば簡単に解決します。そしてせっかく基板の改良点を説明したので、ついでにハートレー型発振回路にする為の改造。写真の中央下に書いているように、トランジスターのベースとバリコンを結ぶパターンを削って導通を切っておきます。セラミックコンデンサー102をここにつないで直流をカットする為です。ついでに表側の基板改造点も説明すると、写真中央下部分のように、バリコンやコイル(マイクロインダクター)をつなぎます。なるべく基板をいじくらないように考えたので、上の方に説明したようにパターンを削るのは基板裏側の1か所だけ。(設計ミス部分除く)他は元々ある(使わない)C3やC4や1kΩの穴を利用します。なので簡単。調整はマイクロインダクターとバリコンの組み合わせをカットアンドトライで変えていきます。1kΩは変えないので(発振出力を増減したい場合はこの1kΩで調整するので変えます。)、既に片側を基板の穴に差し込んで半田付けしていますが、マイクロインダクターは周波数範囲を見ながら変えていくので、穴には差し込まず、軽く仮半田をして、1kΩと接続する方は半田付けせずにクリップで接続。僕の場合は最初は330µHにしてみて、周波数上限が1200kHz位と低かったので、260µH、220µH、150µHと減らしてみました。その結果、150µHが一番良かったので決定して半田付けしましたが、実は455kHzはやっぱりクリアーできませんでした。なので1月26日と同様にスイッチで別のコンデンサーを並列に接続する方法を採用しました。455kHzを発振するのは難しい。その結果こんな感じ。まずはスイッチOFF。455kHzが必要なければこれで十分だと思います。写真にも書いてある通り、 [K-XTAL628C]は外部入力端子がついており、これを使えばラジオの局部発振回路から入力して、ちゃんと発振しているかが分かるし、局部発振回路の発振周波数の調整にも使えます。なんだったら中間周波数増幅回路の部分につないで、ちゃんと455kHzが出てるかもわかります。そして上の写真にはまだ変調回路(メロディIC)が付いていないのですが、1月26日の記事のように変調回路をつないでやれば、ラジオに電波として入力可能なので、受信周波数範囲の調整やトラッキング調整もできる優れものになります。さて455kHzですが、スイッチをONにすれば発振します。443kHzから635kHzまで発振可能なので、AM放送周波数帯の下の方も使えるし、455kHzも使えます。上手くいったのでは?愛天堂のお店としても [K-XTAL628C]の欠点(7セグLED5桁目の表示ができない)が改善され、たった950円+バリコン300円+マイクロインダクター100円で、ラジオの調整(局部発振回路の確認と調整、中間周波数増幅回路の確認と調整、トラッキング調整)場合によっては周波数カウンター、(このカウンターは低電圧でも動作する優れもの。 秋月の高い方のカウンターは低電圧でも使えるが、 安い方は1V以上でしか使えず、局部発振回路を表示できない。)全てに使える簡易測定器として売り出せるような気がするので、商品化してみると良いのではないかなと思います。<後日追記>せっかくなので、変調波回路も作ってつないでみた。でも回路図的には一番上の回路図のメロディIC部分を、NE555を使った無安定マルチバイブレーターに変えるだけなのですが、実際に使ってみると、AM周波数帯は雑音が多くて、無安定マルチバイブレーターで変調をかけると「単なる雑音と区別がつかない」ので、調整に使うのはあまり適切ではないのが分かりました。メロディICだと「ハッピバースデーツーユー」と聞こえるので、雑音とは区別がつき、安心して調整用のSGもどきとして使えるので、メロディICがお奨めです。NE555を使った無安定マルチバイブレーターはこんな回路です。もうありふれた回路なので、教科書にも載っているかもしれません。ただ実際に作ってみると自分で考えた通りには動きません。やっぱり僕は低レベルアマチュアだなぁ。320Hzで設計したのに737Hzになってしまった。でも実用上は差し支えないので、このまま使います。これをメロディICと同様に上の回路図の①~③の位置につけてみて一番良い所に決めます。その前に変調波をくわえない前の状態の①~③各部分の様子を見てみます。まずは①の部分。発振回路トランジスターのエミッター部分で、カウンターはここの周波数を測っています。あまりきれいじゃないし、ここに変調波を加えるのはあまりにカウンター入力に近すぎるので、搬送波(高周波)の出力と変調波(低周波)の電圧によって、カウンターがどちらを表示すれば良いか分からなくなって失敗する恐れが有ります。いや考えすぎかもしれないけれど、搬送波と変調波の割合によると思うのです。概念を絵にしてみました。上の絵の場合はたまたま波形Cが一番大きく、しかも波形Aと波形Bの合成波に現れる成分が小さく0点を交差しないので、カウンターは波形Cの周波数を表示すると思いますが、例えば波形Bの電圧が大きくなってくると場合によっては合成波と0点の交差は増えます。その場合、各波形の電圧の割合によっては波形Bの周波数がカウンターに表示されます。なので①はちょっと危険かなと思うのです。(実際には大丈夫かもしれない。搬送波が電源電圧に近いので)次に②の部分やっぱり僕は低レベルアマチュアだなぁ。ちゃんと電流や電圧の計算をしてエミッター抵抗の値を決めずに、元々キットに入っていた1kΩをそのまま使っているので、エミッター電圧が適切ではないので、ベース電圧との関係から波形の上の方が切れてしまっています。多分500~800Ω位が良いのかも?でもカウンターは波形なんか気にしないでカウントしてくれるし、電波になって飛ばす場合は、受信機のバーアンテナで波形が整形されるので気にしないでもOK.そのまま行きます。なお、ここに変調波を加えても良いのですが、前回やった際に書いたように、ここはオシロのプローブが触った程度でも周波数が変化します。オシロのプローブの入力容量がコンデンサーとしてタンク回路に加わるからです。変調波回路ならもっと影響が大きく、場合によっては振幅変調だけではなく位相変調(見方によっては周波数変調)がかかるかも?最後は③の部分。まぁここが一番良さそうだなぁ。実際に③部分に変調回路から信号を加えてみます。ただし前回やってみて分かったように直接加えるとベース電圧が劇的に変化しすぎてダメなので、メロディICの場合は12kΩを間に入れてあげましたが、今回は上のマルチバイブレーターのオシロの写真のように電圧変化が大きいので、22kΩを経由して信号を加えてみました。まずはオシロの設定を高周波領域に合わせて見てみます。(但し見ているのはアンテナから飛ばすので電波としての③の部分)ちゃんと目的の周波数の電波が出ています。しかし実はこれはほとんど瞬間的な一部分を切り取って、「AC」で見ているので、こんな波形ですが、実は時間軸を長く伸ばして(長い時間で切り取って)みると、この波形の中心電圧は、変調波の電圧により変化しています。なので低周波領域でオシロを見てみると、教科書通りなのが分かります。うん?でもなんか変調がかかっていると言うよりは発振が止まったり発振開始したりしてる?そうなんです。実は22kΩでも足らなかったようで、変調波に引っ張られて変調がかかっていると言うよりは弛張が感じられます。試しに上の写真は電波として見ているので②の部分で見ていますが、これを③の部分で見てみます。うーん波形の前半部分は発振が止まっているような気がする。でも後半部分はちゃんと発振しているなぁ。そして周波数は変調波の周波数が表示されている。②の部分つまり電波として見る場合は電波としての周波数が表示されていたのに、ここつまり③の部分は変調波によるベース電圧の変化つまり低周波が表示されている。面白いなぁ。勉強になる。まぁちょっと22kΩで良いのかどうかは気になるけれども、ラジオで聞いてみたら、ちゃんと「ぺー」って言う音が聞こえるので良いか?1kHzだと「ぴー」と言う感じで、440Hzだと「らー」と言うかんじだけれども、753Hzだと「ぺー」って聞こえるなぁ。まぁこれで使えそうだから(ちゃんとラジオで聞こえるので)良しとしよう。また、変調回路から信号を受ける部分はコンデンサー102と22kΩを経由してつながっているが、変調回路の静電容量が並列につながることになるので、つなぐと発振周波数が下がる。なので、150µH2本のうちの1本を100µHにした方が良いかもしれない。あるいは影響を少なくする為に接続用のコンデンサー102を100pFくらいにした方が良いかも?僕は上の方は諦めて1400kHzまでにした。最終的な変調回路の様子は裏側から見たこんな感じ。このままでは(実験する際はこのままが良いのだけれども)みっともないので、いずれ百均の樹脂モールドで固めて完成品にしよう。<さらに後日追記>変調回路をつなぐと、その回路の静電容量の影響で周波数が下がってしまう欠点を、マイクロインダクターを変更するか結合コンデンサーを絞ってやるか迷っていたんだけれども、とりあえず、面白いのでマイクロインダクターの変更をやってみた。元は150µH+150µHの所をエミッターとGND間のマイクロインダクターだけ100µHにしてみた。元の150µH+150µHの時の周波数範囲はこんな感じ。上の方は320kHzも下がってしまっているし、下の方も80kHzくらい下がっている。当然のことなんだけれども(最小容量が変調波回路の影響を受けやすいので)そうなる。これを150µH+100µHにしてみたらこんな感じ。うーん、微妙だけれどもなんとか1500kHz弱までは改善された。まぁこれでラジオ日本(1422kHz)まではクリアーできるかな?そしてこの時のスイッチ455KHz側はこんな感じ。455KHzとAM放送周波数帯の下の方をクリアーできる。まぁ一応何とかなりそう。でも検討の結果面白いことが分かった。本来、「変調波回路の静電容量が加わったことにより周波数が変わったのだから、 静電容量側で対応するのが筋では?」その通りだと思います。ただ実験的にやってみて別の効果が有るのが分かった。上の方の①の部分の波形を見ると矩形波の変調波を加えたのに弛張発振的にひずみ、部分的に発振が止まっているような気がしていたんだけれども、150µH+100µHにしたらこれがちょっと改善されているのが分かった。えー!前回は弛張発振的な波形だったのに良くなっている。③に変調波を加えた時と同じじゃん!何故?その答えは多分こうなんだろうと思う。エミッターとGND間のマイクロインダクターを150µH→100µHにしたことにより、エミッターの電位が下がりベース電位との間の電圧が取りやすくなって相対的にVbeが安定した?前回同様に③部分で、電波としてではなく③で見てみる。左上に前回の③の波形を載せたけれども、前回は明らかに弛張発振的な波形だったのに、今回は(右上に書いたように明らかに弛張発振的な電圧変化は残ってはいるけれども)発振が安定。改善されている。そう言えば発振のしやすさは、回路図の(ベース側のマイクロインダクター)/(エミッター側のマイクロインダクター)に比例し、gmに比例すると聞いたことが有る。つまり僕はお手軽に教科書通りに150µH+150µHと1:1にしたけれど、150µH+100µHつまり3:2の方が発振しやすいのかもしれない。なので150µH+150µHの場合は間欠的に発振がある周波数で停止・発振を繰り返していたのが。150µH+100µHの場合は発振しやすくなっていたのかも?つまり本来はコンデンサー102を変更して改善すべき所を、マイクロインダクターを変更して、一つ勉強になったのかも?教科書に頼ってばかりだと、マイクロインダクターは1:1にしがちだけれども、ちゃんと割合も検討すべきなんだな。<さらにさらに追記>最高周波数が1500kHz以上上がらないと言うのは解決しました。アンテナ(実際は15cm位のワイヤー)を②の位置につけていたのを、①の位置に変更するとなんと1600Khzで動作しています。最低周波数は540kHz位です。こんなことでも色々と変わるのだなぁと感心します。そして、やっぱり僕のような低レベルアマチュアの思いつきじゃダメですね。SGもどきとしては使えるようになったのですが、カウンターとしては使えません。と言うのはすぐそばで強い電波(SGもどきの発振電波)が出ているので、カウンターの入力がその電波により飽和してしまって受け付けないみたいです。なのでカウンターの外部入力は使えません。同様のことがSGもどきにも言えて、ものすごい強い電波が出ているようです。ラジオで聞くと1m以下の距離では調整に使えるほど綺麗な電波が出ていません。ちょっと離して弱めにしないと基本波以外の電波をあちこちで受信して、どれが基本波なのか分からないくらい強力な電波があちこちの周波数で出ています。でも感覚を覚えてしまえば、少し(2~3m)ラジオから離して使うと基本波以外の電波は弱くなるので大丈夫です。でもそれだけ離すと言うことは操作が面倒くさいです。なのでやっぱり測定器はお金を出してしっかりした物を買わないとダメだなぁ。測定器を作るのは難しい。
January 31, 2026
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愛天堂の水晶発振子周波数測定キット [K-XTAL628C]は水晶発振子の発振周波数を確認可能なカウンター付きの発振回路なんだけれども、 その前に売られていた[K-XTAL628B]とほぼ同じ回路構成で、 [K-XTAL628B]でも不便ながらも使えた外部入力を、便利なように入力端子付きにした物である。なので、本来は[K-XTAL628C]を改造すべきなんだけれども、昔買った[K-XTAL628B]がたまたま手元に有り、もったいないので[K-XTAL628B]を改造して、AMラジオの調整用SGもどきを作ってみる事にした。SGとは Signal Generatorの略で、高周波信号を発生し、例えば標準アンテナをつないで、指定された距離にラジオ受信機を置いて受信して、標準アンテナから発生した電波をどの位微弱な電波まで受信できるか測定したり、ホワイトノイズを加えてSN比がどのくらい取れるか調べたり、ごく近い2つの周波数を区別できるかと言う選択度を測れるような測定器である。でもそんな測定器はぼくら低レベルアマチュアにはとてもじゃないけど買えるわけがない。まぁそれでもラジオ受信機の不具合を調べたり、いくつかのラジオ受信機を同じ条件で測定して性能の比較くらいはしてみたいので、簡便な送信機は欲しい。でも、FMトランスミッター(簡単に言えばFMマイクのいい奴)は数多く売っているけど、AMラジオ用は極端に少なく、有っても意外に高い。そこに [K-XTAL628B]は必要な回路が初めから備わっており、何よりも値段が安い。950円。バリコンやコイルを加えても1500円くらい。ぼくらの研究にちょうど良い値段。なので、作ってみることにした。実はAMラジオ用のSGもどきは過去にも作っており、実際に使っていたのだが、いくつかの欠陥が有った。一番の欠陥は、回路の構成のせいで高い周波数側又は低い周波数側で発振が止まる事。原因は回路図を見ると分かる。(回路図は [K-XTAL628B]の物が無かったので [K-XTAL628C]を使用した。ほぼ同じ。左側がカウンターの回路で、PIC16F628Aを使って基準時間内の信号波形の数を数えて周波数を計算し、それを5桁の7セグLEDに表示している。この部分だけ使えば実際カウンターとしても使えるし、 [K-XTAL628C]はそれを前面に押し出して、わざわざ入力端子を付けている。回路図右側が水晶発振子の発振回路で、簡易なコルピッツ型発振回路である。個々の部分の2個のコンデンサーをバリコンにして、水晶発振子の代わりにコイルを使えば、右側のようなコルピッツ型発振回路になる。過去に作ったSGもどきはこのような回路を使っていた。この簡単なコルピッツ型発振回路でも、コイルを色々と変えればAMの周波数から短波帯まで様々な周波数の電波を発振できた。同様にコイルとコンデンサーの位置関係を入れ替えればハートレー型発振回路になる。今回はこのハートレー型発振回路を変形して(と言うかむしろ原点に返って?)つくった。コイルを差し替えて使えば今までの回路でも良かったのだけれども、何故イヤだったのかと言えば、バリコンを回すと途中で発振が止まるからである。特に低い周波数が止まりやすかった。(場合によっては高い周波数の方でも)色々と考えたのだが、バリコンを回して周波数が変化すると、コイルやコンデンサーのリアクタンスはものすごく変化するので、それによってトランジスターのベース電圧(Vb)が変化して、トランジスターのエミッター電圧(Ve)より低くなってしまう為だと思われた。そこで工夫に工夫をこらして考えてみて出た結果が下の回路。この回路の自慢すべき点はエミッター抵抗1kΩの位置。考え方によっては本来のハートレー型発振回路の「原点」に戻っている。基板の改造は極力少なくして、パターンの変更(削る所)は1か所にした。そしてエミッター抵抗を片側を浮かしてそこに回路図の2つのコイルを接続した。また、トランジスターのベースはコイルに直結するわけにはいかないのでコンデンサーで切った。C1及びC2の部分は当然何もついていない。空き状態。これだとVbとVeの値は変化するけれども逆転はしない。そしてうまく行ったかのように見えた。世の中は甘くない。バリコン1個の一つの電極だけでは到底必要な範囲(455kHzから1620kHz)はカバーできない。まぁ、話は始まったばかり。455kHzから1620kHzまで変化させるのは並大抵ではない。市販のラジオが520kHzから1620kHzなのがよく分かった。通常のバリコンではコンデンサー容量の変化量が少なすぎてカバーできない。どうするか?最初に思いついたのはバリコンを増やすこと。1つのバリコンにはAM用2個FM用2個、計4個の電極が有る。例えば僕の手元に有ったバリコンは40pF/40pF/100pF/180pFの4つがある。これを4つ並列にすれば良いのでは?やってみた。愛天堂は低レベルアマチュア向けなので、バリコンの容量を40pF/40pF/100pF/180pFなどと表記するが、プロやハイレベルアマチュア向けにはメーカーはこれを20pF/20pF/80pF/160pFと表記する。何故か?40pF/40pF/100pF/180pFと言うのはバリコンの固有の静電容量とトリマー容量が含まれるから。だから実際にコンデンサーの変化する容量は20pF/20pF/80pF/160pFなのである。つまり発振周波数の計算には使えないのである。ただ、低レベルアマチュアがバリコンの判別をする際には変化分ではなく最大値を測るので、販売する相手は誰かと考えるならば、愛天堂の表記も間違いではない。最高発振周波数はコイルと最小容量で決まるのだけれども、最小容量には上に書いたバリコンの変化しない容量+基板の持つ容量+トランジスター入力容量等が含まれる。つまり4つの電極端子を並列にすると最小容量が4倍に増えてコイルを選べなくなってしまう。ちょっとグラフに書いてみた。そりゃコイルを小さくして青のようにすれば理論的には大丈夫だけれども、600pFのバリコンなんて無理。今のは20pF/20pF/80pF/160p全部足しても280pFしかない。(緑の線は検討途中の仮の線なので無視してください。)どうするか?最小容量を減らすにはバリコンの電極を4つ並列にしないで、大きい180pFだけにするしかない。上の方は何とかなりそうだけれども、下の方は到底無理。じゃぁやっぱりコルピッツ型発振回路にしてコイルを切り替えるしかないのかな?でも455kHzって変化する必要は無く、固定でも良いじゃん。455kHz固定で良いのなら1個だけコンデンサーをスイッチでつなげば良いのでは?やってみた。大丈夫だった。これでだいたい目途が立ったので、次は音を加える。そう今回の一番の改良点はこれ。今までのSGもどきはコイルを切り替える必要が有るのと、バリコンを回すと発振が止まると言う欠点以外に、一番大きな欠点は音がしないと言うのが大きかった。電波は出ているので、受信すると「ポコッ」と持ち上がるような感じがするので、なんとか判別は可能なんだけれども、すごく大変だった。これを以前作ったFM用SGもどき(実はFMトランスミッター)のように音声付にできないか?それが大事だったのである。音そのものは愛天堂の30円?のメロディICを使うことにした。安いから。問題は変調波(メロディ)の入力箇所。上の回路図に「変調波入力箇所」として①、②、③の3ヵ所を記入しているがこれを実験した。まずは①つまりエミッターからの出力部分で、カウンターにつながる部分。これは最初に却下。理由は簡単。エミッター電圧を揺らすので発振が止まりやすいし、何よりも変調がかかりすぎると、カウンターが搬送波(高周波)を表示するか変調波(メロディ)を表示するか迷うみたいなので。次は②つまりタンク回路の頭の部分。一番変調が大きくかかるはずの部分。間違いだった。ここはタンク回路なので周波数への影響が大きすぎて使えない。二番上の写真はオシロスコープをつないでみた場合のカウンターの表示。本当は一番上の写真のように1816kHzで発振しているはずなのに、オシロのプローブをX10にしてもオシロの入力容量が並列に加わった分、周波数が下がる。一番下の写真のようにオシロのプローブをX1になんてしたら発振が止まる。結局③の部分に変調波(メロディ)を加えるしかないなと思ってやってみた。ダメじゃん!でもここで諦めないのが僕のいい所。ふと気がついたのが、過去の経験。メロディICの出力をコンデンサー(102)で直結しているので、その電圧が高すぎて悪さしているのでは?試しに直列にその辺に有った22kΩを付けてみた。発振が止まった。それを12kΩに換えてみたら、おぉー!なんと正常に周波数が表示された。ここでふと気がついてオシロで発振出力を見てみた。え?周波数はオシロの入力容量のせいで低くなっているけれど、発振はしている。そしてびっくりしたのがオシロの周波数レンジを変えてみた(低周波側を見てみた)波形。おぉー!なんか変調がかかっている。試しに別のラジオで受信してみたら、メロディーは聞こえないけれど雑音はする。あと少しで完成だ。ここで最初に戻って一番上の回路図を見てみたら気がついた。メロディICのトランジスターの負荷はイヤホンの代わりと考えて33Ωを付けてみたけれど、よく考えたらイヤホンやスピーカーは電流が流れて音が鳴るけれども、この場合は電圧を出力しなければいけないので、1kΩとか2kΩが必要なのでは?低レベルアマチュアの真骨頂である。プロやハイレベルアマチュアの人はこんなことなど考える必要は無い。さっそく2.2kΩに換えてみたらすごかった。高周波部分はもはや何を表示しているかが分からない表示になっているけれど、実はカウンターは1210kHzと表示されているので正常である。そしてこれを周波数レンジを変えてみたらすごかった。偶然なんだけれども、メロディの切れ目(無音部分)がオシロで記録できた。すごくうれしかった。とてもよく変調がかかっている。試しに別のラジオで聞いてみたら、ちゃんと同調できて「ハッピバースデーツーユー」が聞こえる。最終形はこんな感じ。頑張ったかいがあったなぁ。
January 26, 2026
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令和8年の最初のわの会は六浦付近の上行寺や嶺松寺跡を巡る行程だった。この付近はもう何回も見学しているので、よく知っているのだけれども、勉強していると新しく思いつくこともあって面白い。ルートはこんな感じ。地図の右側を見ると、青の斜線で区別された部分が分かると思うがここは埋め立て地である。後述するが昔はここまでは海で、地図上に「六浦の渡し場」と書かれた部分は船着き場だった。昭和25年ごろの付近の地図を参考に載せる。形が少し変形しているが、六浦の渡し場付近まで海が来ているのが分かる。金沢八景駅前に集合した後、最初は金龍禅院に向かう。ただ今回は中には入らず、裏手の瀬戸町やぐら群跡に向かう。瀬戸町やぐら群で大事なことは、ここには「やぐら」と横穴墓が混在していると言うこと。つまり「やぐら」とは何かということが分かる遺跡なんだと思う。「やぐら」は横穴墓と形状は似ているが埋葬方法が違い、どちらかと言うと横穴を利用して造った「法華堂」に近い。そのせいで中には宝篋印塔や五輪塔が有り、床に火葬した骨壺を納める穴などが有る。横穴墓は明らかにお墓で、恐らくは古墳時代から続く中間階級層のお墓である。そのことから想像できるのは、恐らくここ三浦半島には古くから横穴墓による埋葬文化が有り、それが仏教の普及に伴い法華堂等の文化と「融合した」ものだろうと思う。従って、中国に有る龍門石窟や雲崗石窟とは意味が違うのである。(かながわ考古学財団の人達は間違えて龍門石窟の人達と交流している。)龍門石窟や雲崗石窟は仏様を祀る石窟であり、お墓ではない。いや龍門石窟にはお坊さんも祀られていると言う人がいるが、勘違いである。現地に行くとちゃんと説明書に書いてある。龍門石窟に祀られたお坊様は「仏になったから祀られた」と書いてある。つまりお墓ではなく、仏様として祀られているのである。お墓は別にちゃんとある。(ただ「かながわ考古学財団」に行ってみて驚いたので文句は言えない。 なんと「かながわ考古学財団」の人達は上郷の閉鎖した小学校に間借りしている。 つまり神奈川県や横浜市は文化的なものの価値に疎く予算が少ないので、 職員はひどい扱いをされており、研究費が少なく、十分な研究ができないのだと思う。 だから彼らが悪いのではなく、県知事や市長が悪い=理解が無いのだと思う。)このやぐら群が大事なのは他にもある。「かながわ考古学財団」の調査報告書を見ると面白い出土品が出ている。昔の中国(北宋や明)のお金が出ているのである。鎌倉時代に書かれた吾妻鏡にも、ここには中国からの貿易船が3艘来たと書かれており、それがこの辺の地名に「三艘(さんそう)」として残っているのである。明は1368年から1644年まで、つまり日本で言えば南北朝時代から江戸時代の中国の国である。北宋は960年から1127年まで、つまり日本の平安時代頃の中国の国である。より重要だと思うのは北宋の方で、平清盛は北宋の後の南宋と交易している。この通貨がその頃の物とすると(お墓にあるのだから少しくらい後なのかも?)、この墓の主は前九年の役(1052-1063年)や後三年の役(1083-1087年)の時代の人で、源氏がこの2つの戦いで「武士の頭領」の座を得る元を作った人かもしれないからである。平家や源氏は元々は天皇の分家の子孫で京都の貴族なので、自分の家来や土地は持ってなく、単なる名誉しかもっていなかった。そこで関東に来て、地元の豪族と結びつき、いわゆる坂東八平氏などになる。その際に大事なのが源氏や坂東平氏を支えた地元の豪族で、この墓の主なんかなんだと思う。彼らの財力と兵力を味方にした坂東平氏(北条氏など)はなんと源氏を滅ぼし、あげくの果てには朝廷まで打ち負かして武士の世界を鎌倉に築く。つまり日本の歴史の中でものすごく大事な「お墓」なんだと思うのだけど、神奈川県や横浜市は奈良県や福岡県とは違って歴史文化には理解が無いので、その重要性が分かっていないのだと思う。まぁ愚痴を言っても仕方ないので次に行くと、次は六浦橋に着く。橋は国道16号線にかかっており、左が横須賀方面、右が東京に向かう道である。奥は六浦方面なんだけれども、今は暗渠になっており、先はどのようになっているのか不明。後ろを振り返ると六浦の渡し場跡が見える。渡し場は昭和の初めころまでは有ったので、今でも石垣の跡が残っている。上の方の昭和25年頃の地図を参照。色々な本を読むと、この渡し場は海軍がこの辺に進出してきた際にはおおいに活用されたらしい。元々たいした産業が無かったところに海軍が来て、雇用が盛んになったせいで人が増え、地元の人達も急にこの辺で仕事や商売を始めた人が多かったのだそうだ。京浜急行は前身の大師電気鉄道株式会社が1898年に創業して、1931年には湘南電気鉄道(現在の逗子線)と結びついている。つまり既に昭和の初めころにはこの辺は電車が通る便利な所になっており、それが海軍と結びついてここは結構栄えたのかなと想像できる。六浦橋を見学した後は浄行寺東遺跡に向かう。ここには前も来たのだが、今回は残念ながら工事中で外側から眺めるだけだった。なので、写真は前回のを利用する。これも説明文を見ると分かるように源頼朝が文治年間に創建した浄願寺跡だと言うのが本当なら、ものすごく大事な遺跡なんだけれども、危うく壊されてしまう寸前だったと言う遺跡。本当に神奈川県と横浜市は文化遺産に理解が無いと思う。そもそも源頼朝が何故金沢の六浦をこんなに大事にしたかを考えるべきなんだと思う。上にも書いたように、ここには頼朝をはじめとした源氏一族にとって大事な人か物が有り、頼朝はそこを訪ねて来ていたのではないだろうか?そしてそれが歴史に残っていないのは北条氏にとって都合が悪い事だったからでは?恐らくは北条氏よりも三浦氏の方が正統で、源氏は三浦氏と親しく、そのせいでここに来ていたのではないだろうか?北条氏の為の本である吾妻鏡には書けないと思う。まぁそれはそれとして次は嶺松寺跡。上の方の昭和25年の地図に書いたが、ここは嶺松寺谷戸の入口。お寺を作るには絶好の場所だと思う。(鎌倉の名の有るお寺は後ろに山が有り庭園の様子になっている。)そして鎌倉のお寺にはやぐらがつきもの。つまりやはり「やぐらはお墓」なんだと思う。ここを山の方に登って行くと千葉氏の墓が有る。説明板を読むと、これらのお墓は元はここ嶺松寺谷戸のあちこちに有ったらしい。そりゃそうだよな。谷戸自体が嶺松寺の境内なんだから。宅地造成のせいでちらばっただけ。説明板に書かれている「平胤通と妻」の墓その他を探してみた。比較的新しいので、意外に読める。そして大事なのが瀬戸神社の神主を代々千葉氏が務めていたと言うこと。千葉氏は坂東八平氏の中でも有力な氏族で、三浦氏と先祖を同じくして、源氏と縁が深い。源頼朝が石橋山の合戦で負けて三浦氏と共に千葉に逃げたのは千葉氏が居たからである。そして頼朝は捲土重来、鎌倉に戻って来る際に関東の武士達を集めて来るのである。その際に千葉氏が果たした役割は大きいのだと思う。その千葉氏が瀬戸神社の神主を代々務めていたと言う事実は本来ならば歴史上大事な事では?そして最後は上行寺。入口に舟繋ぎの松が有る。日蓮上人が富木五郎と船中問答をしながら千葉から渡って来た時に舟をつないだ松である。上の昭和25年の地図を見ると分かるが、ここは港そのものではなく、港に続く川のほとり。つまり潮の満ち引きが有って着岸しにくい砂浜部分ではなく、川まで舟で上って来て、そこで降りたのでここに舟繋ぎの松が有るのである。大船なんかと同じだなと思う。砂浜部分には船着き場は作りにくく、波の無い川まで上って来た方が安全なのである。最後は上行寺にお参りした。最後に横浜市の教育委員会に苦言を書こうと思う。横浜市の教育委員会に九覧亭の跡の場所が違うのではないかと質問したら、金龍禅院の方がそう言うのだから間違いないと言う返事を頂いた。横浜市の教育委員会の返事としてはダメだと思う。○○さんが言ったからと言うのは、その立場の人の返事としては適当ではない。専門家なのだから、ちゃんと調べて、自分の言葉で答えるべきだと思う。横浜市の教育委員会は現在金龍院の聖徳太子堂を九覧亭跡地だとしている。でも江戸時代の絵図を見ると、太子堂と九覧亭は別に有り、絵図によっては結構離れている。例えば初代広重の武陽金沢八景略図はこんな感じである。太子堂と九覧亭は別に有り、しかも結構離れている。そもそも宗教上の施設である聖徳太子堂と遊興施設である九覧亭を混同するなんてひどい。お線香をたく所とお酒を飲む所は別だろう。この絵図が正確ならば、恐らくは太子堂と九覧亭は下の写真の位置に有るのではないだろうか?絵の太子堂と九覧亭の間は「くの字型」に曲がっているが、現代の金龍禅院の裏山も絵の通りに九の字型に曲がっており、その両側に太子堂と九覧亭が有ったのならば、下の写真のような位置関係になるはずである。上の写真では分かりづらいと思うので、googleMapで見てみる。このgoogleMapの地図を見ながら気がついたけれども、聖徳太子堂がここに有るのは、ここに瀬戸町やぐら群・横穴墓が有り、それは北条氏や三浦氏の母方の御先祖様(父方は源氏や平氏)であり、聖徳太子堂はその御先祖様を祀る大事な場所(法華堂的なものが有った?)だったんだな。横浜市の教育委員会はちゃんと勉強して答えて欲しいものである。
January 13, 2026
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狗奴国が熊本であることの確認旅行の最後は宇土(と言うか松橋)の向野田古墳。女王の墓である。日本ではと言うか世界でも「女王の墓」は珍しい。ツタンカーメンの墓の奥にネフェルティティの墓が有ると言う噂があるけれど、早く見たい。大事な古墳なんだけれども、九州の田舎の古墳なので扱いがひどい。出土品などは近くの宇土市立図書館の1Fに置かれている。お調子者の研究者だったら、女王の墓だから卑弥呼の墓かもしれないと言うお墓である。何の証拠もない「箸墓=卑弥呼の墓」よりも女性の骨が出土しただけでも信憑性が有る。ただ時代考証が行われて、卑弥呼の時代じゃないと既に分かっているのが残念なんだけれど。図書館に行って見学すると、まず最初は轟貝塚の展示がある。この辺に縄文時代から続く人達がいた証拠である。まぁ、これだけでも地方の図書館の展示としては頑張っていると思う。向野田古墳の展示は奥にあり、前には荷物が置かれていた。扱いがひどい。まぁ仕方ないと思いながら見る。古墳の形状や石棺の状況等は後の古墳そばの説明板の方が綺麗なので、ここでは省略し、出土品を見る。九州の古墳からはよく「ごほうら貝」など南海産(奄美大島以南)の貝を使った腕輪が出土する。貝なんてどこにでもいるじゃんと思うかもしれないが、「遠くから運んで来た」のが大事。世の中の価値は希少であることが重要で、現代でも国産の化粧品と比べて品質がたいして良くないフランス製の香水がもてはやされるのは、女性の価値観とはそう言うものである。出土品には鉄製の刀なども多かった。この出土品が出ている時点で卑弥呼の墓では無いと分かるのだが、女性の墓なのに武具が出土しているのが興味深い。ちなみに旦那さんが居たのかどうかは不明で、他に男性の骨は出土していない。そう言えば古事記や日本書紀を読むと、天照大御神は武装して素戔嗚尊を迎え撃っている。だから古代の女性は武装して戦っていたのかもしれない。神武東征の記述の中でも男の軍と女の軍が出て来るなぁ。船の線刻がある石もあった。展示は実はこの程度でしかない。田舎なので仕方ない。さっそく現地に向かう。現地まで約3.3kmなんだけれども、熊本の田舎なので足が無い。バスを探したけれど、日中はほとんど無い。(朝夕は少しは有る)仕方ないのでタクシーで行ったが、それが正解だった。自分で行っていたら多分分からなかったと思う。山の中の小径で、しかも登り口が複雑で、目印がこんなに小さい。こんなの地元の人しか分からないよ。ここから道なき道を登る。距離はたいしたことは無い。でも滑る。古墳は頂上にある。元、石棺の有った場所は掘り返されて、もう窪みでしかない。もっとやり方が有ったんじゃないだろうかと思うけれど、田舎だから仕方ない。説明板を見ると発見時の様子や、女王の骨の出土状況が分かる。おぉー確かに見事な前方後円墳だ。けっこう初期の頃の前方後円墳の形状だな。箸墓古墳なんかにも似ている。4世紀末の古墳なので卑弥呼の時代ではないけれど、2~3代くらい後の女王だと言われたら信じてしまう。(卑弥呼の亡くなった3世紀半ばに次世代の台与は13歳だった。 彼女が長生きしたのなら37歳の時に4世紀になる。 僕は台与は「豊の国」の元になった人だと思っているので、 さすがに台与本人ではなく、その後の世代だと思うから。)この頃に既に埴輪も有ったんだ。日本書紀によれば、古墳で殉葬(偉い人が死んだ時に一緒に従う人も生き埋めにした)を止めて代わりに埴輪を置くようになったのは垂仁天皇の時代。つまりちょうどこの頃なので、本当に卑弥呼の2~3代くらい後の女王かも?一通り古墳を調べた後、次の宇賀岳古墳へ向かう。宇賀岳古墳は近くの岡岳公園の中に有る。登るのが大変。僕は一般の道を登ったけれど、階段状になった「若者の道」もある。近道だけれどもきつい。若い人ならばチャレンジしても良いかも?古墳はこんな感じ。立派な円墳。近畿の古墳は平地に有るけれど、九州や横浜の古墳はだいたい山の上に在る。ここにも装飾が施されていたんだ。無紫外線自然色蛍光灯を埋め込んでいると言うことは、見学する機会が有ると言うこと。見たかったけれども、地元に住んでなければ無理だな。次は大塚古墳。大塚古墳は比較的松橋の市街地に近い。それでも70mも有るんだ。最後は塚原平古墳。松橋駅の近く。おぉーっと思ったのは、説明板に「この古墳には約20体もの人骨が治められていた」と書かれ、耳環、勾玉や管玉が出土していること。つまり20体は家族や子孫だった可能性が高いんだな。現代で言う「○○家の墓」的な感じだったんだ。古墳も当初は亡くなった主の権威や威厳が大事だったんだろうけれど、次第に現代のお墓と同様に、御先祖様を大事に祀る場所に変わって行ったんだなと思った。そんな感じで狗奴国が熊本であることの確認旅行は終わったのだけれども、熊本空港で飛行機を待っている間に、熊本空港を見学していたら色々と面白かった。空港屋上のデッキ。ちょうど飛行機が真ん中に!最近は外国の方や若い人が多いから、空港も気を使っているんだなぁ。そしてすごい展示が。高津明美さんは僕は知らないんだけれども、陶板の立派な絵。地元の人なのかなぁ。地元の人と言えば、マンガのワンピースの作者の尾田栄一郎は熊本出身で地元を大事にしている。熊本地震で大きなダメージを受けた地元を応援する為に全面的に協力している。熊本にお客さんを呼び込む為に、熊本のあちこちにワンピースの仲間の像を作っているらしい。聖地巡礼のファン達が各地を巡っているのかな?こうして狗奴国が熊本である確認旅行は終わったけれども、本当に間違いないと思う。その理由は、1.近畿の高松塚古墳の6世紀末頃の壁画に書かれた人達が使っている、 翳 (さしば)や蓋(きぬがさ)と言った道具が、ここでは5世紀には使われている。 つまり中国からの文化の伝来が近畿よりも100年近く早い。2.近畿や福岡等に比べて古墳の量と質が圧倒的に多くて高い。 確かに天皇陵が近畿には有るせいで、個々の古墳は近畿の古墳が大きいが、 それも空白の150年(魏志倭人伝後150年間日本の記録が無い)が熊本から近畿への移動期間 だと考えれば近畿の天皇陵に祀られた天皇達は熊本出身の人達の子孫かもしれず、 そう考えれば規模が大きいのは熊本と言う地方から全国区になったせいで、 当たり前の話かもしれない。3.上記の天皇家の祖先が熊本から近畿に行ったと言うのは、神功皇后と応神天皇の話だけれども 継体天皇陵や推古天皇の元陵の石棺に熊本の馬門石が使われているのを考えれば、 神話ではなく本当に有った話で、御先祖様が信じた神様への信仰を持って行っただけ なのかもしれない。そう考えると、熊本は卑弥呼を滅ぼした狗奴国のその後の姿なのかもしれないなと思うのである。さらなる研究を続けようと思った。
December 19, 2025
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熊本県立装飾古墳館はお勧めな所ではあるが、アクセスがものすごく悪い。これが便利な場所に有ったら、今の100倍はお客さんが居て、全国的にも有名になると思うんだけれども、まぁ逆に言えば、そんな場所だから現地の古墳なんかも保存されて来たんだと思うので仕方ない。そう、博物館ではあるんだけれども、同時に古墳群の中に立っているのである。入口と言うか正面玄関がどこなのか分かりにくい博物館である。バスなどの公共交通機関が不便なので、車の駐車場から入るのだけれども、そのせいで「裏口みたいな小さな開口?」から入ることになる。装飾古墳館のパンフレットから訪問される方の利便を考えてお借りして載せた。写真右手「駐車場からの入口」が「裏口みたいな小さな開口?」である。でも、設計者の名前を聞いて納得した。安藤忠雄である。「立派な建築の為ならば利用する人も我慢するべきだ」と堂々と言い切る人である。まぁ、元々は建築家ではなく「ボクサー」なんだから仕方ない。もっとも、元々バスなどの公共交通機関の利用は考えていないのかもしれない。僕も訪問するのには、ものすごく苦労した。当日は江田船山古墳→山鹿市立博物館→チブサン古墳(他)→県立装飾古墳館と回ったので、ここまではタクシーで来た。時間をかせぐにはある意味正解で、1泊追加するよりも安いから。1400円だった。もしバスを使うならば、玉名駅-山鹿バスセンター間のバスが2系統有り、そのうちの1系統が通るバス停があり、そのバス停の名前が「装飾古墳館前」。名前に偽りが有ると思う。「前」じゃないから。バス停からここまで20分かかる。道に迷いやすい方には絶対にお勧めしない。バスも1日に3本しかないし。まぁでも、それだけ苦労しても来て良かったと思った。「裏口みたいな小さな開口?」をくぐって、さぁ入館しようかなと思った時に、左手を見たら、いくつかの遺跡が見えた。そしてその向こうに、たくさんの古墳群が有るのが見えたから。そう、ここに装飾古墳館を造ったのは、ここに岩原古墳群が有るからなのである。もうこれは装飾古墳館よりもこっちが大事だと思って、さっそく見に行った。まずは装飾古墳館の中にも、古墳館を造る際に見つかった古墳の跡が有る。上の地図で言えば装飾古墳館の左の壁の付近で有る。装飾古墳館は少しよけて作ったらしい。元円墳だった遺構もある。そして「向こうの方にも古墳が」と言うのが、本命の「双子塚古墳」その他である。大きい。上の岩原古墳案内図を見て頂くと分かるが、装飾古墳館の2倍以上ある。まずは、一番近い神原古墳。この円墳だって普通の場所だとメインをはれそうな大きさで興味深い。ここは後から行く双子塚古墳と言う前方後円墳をはじめ、めぼしい物だけでも8つほどの円墳が有り、地元では「四十八塚」と呼ばれていたらしい。岩原古墳と言う名前は単独の古墳名ではなく、それら全体の古墳群の名前である。寒原古墳の左手に谷間を通ってバス停に向かう道が有り、ここに元は他の地区に有った古墳を、九州自動車道の建設によって破壊されるので、保存していたものを、装飾古墳館建設に合わせて24年ぶりに移設復元した古墳がある。横山古墳である。いや出土品や石室なんかも立派で、他の場所なら立派なメインの古墳として展示できると思う。そしてここは装飾古墳館にお願いすると、担当者が案内して説明してくれる。(中も入れる?)元の道に戻って塚原古墳。目立たない古墳だけれども、これだって30-40mは有る。頂上に祠が有る。そして岩原古墳群で一番大きい双子塚古墳。全長107m、後円部直径57m、高さ9mの前方後円墳である。国指定遺跡。上に登れる。カップルやお姉さん達がみんな登っている。前方部から登って、後円部を眺めてみた。後円部に登っているお姉さん?と比べると大きさが分かると思う。子供達の遠足にちょうどいいなぁ。僕は古墳に登るのが一番の楽しみなので、もう大満足だった。そしていよいよ装飾古墳館に入る。入ってすぐに目につくのが中央吹き抜けに飾られた装飾画と好太王碑文。装飾古墳は意外にたくさんある。でも半分以上が九州で、その九州の半分は熊本。この辺(菊池川流域)だけで131もある。上の装飾画を見ると分かるのだけれども、何らかの実際の人間や景色等を描いたものと、抽象的な幾何学模様の物が有る。また装飾を施した場所も石棺や石室の壁など様々である。この説明文はちょっとわかりづらい場所に有って、もっと中心的な場所に置けばと思った。装飾画の持つ意味なんかも説明してあった。なお、写真を右クリックして出るメニューから「新しいタブで画像を開く」を選択すると、別タブで新しい画像を開け、右上の設定メニューから拡大率を選び拡大できるので字が読める。なお、見終わったら元の100%に戻しておかないとびっくりすることになる。そして好太王碑文なんだけど、何でここにと言う感じではある。説明文を読むと、山鹿市菊鹿町の古関三博氏と言う方が1996年に現地調査をされた際に入手したもので、装飾古墳と言う同じ文化を持つ高句麗と菊池川流域の文化を理解する上で役にたつと言うことで、ここに飾っているのだそうだ。そう言えば高句麗と百済は同じ民族の「扶余」の子孫だとされ、扶余と言う国が古代中国の東北部に有り、扶余の建国以前には濊(わい)族が住んでいたらしい。そしてこの濊の言語は非常に日本語によく似ていたらしい。その後の濊の行方は分からないのだが、その関係で高句麗・百済と倭(九州)は密接な関係に有り、例えば百済の武寧王は九州で生まれており、武寧王陵の木棺は朝鮮半島に自生しないコウヤマキ製で作られていた。白村江の戦いで滅びた百済からは多数の王族が日本に渡ってきており、桓武天皇のお母さんは百済の王族のお姫様である。だから高句麗・百済とこの菊池川流域に住んでいた人達には何らかの関係が有ったのだろう。もう一つ気になるのは神功皇后の伝説である。神功皇后は三韓征伐を行ったことで知られており、それが好太王碑の碑文に書かれた百済と新羅に倭が侵入し、「百済と新羅が高句麗に朝貢しなくなった」と言う碑文の記事に関係が有るとされている。なので、神功皇后はこの菊池川流域に居た人達と関係が有り、この辺を攻めようとした仲哀天皇とケンカになって、仲哀天皇を殺したのかもしれない。この辺は根拠のない僕の妄想だけれども、他にもこの説を支持する人達は大勢いる。神功皇后が日本に帰って来た後に応神天皇を生み、近畿に攻め上って仲哀天皇の子等(麛坂王、忍熊王)を殺して、天下を治め、応神天皇を天皇にして、以降応神天皇の系統が日本を治めることになったのを考えると、案外正しいのかなと思う。装飾古墳館のメインに入る。ここの特色は(レプリカだけれども)付近の古墳を再現しているところに有る。まずは鴨籠石棺。鴨籠古墳は不知火町長崎に所在しており、宇土半島の尾根から長崎地区の水田地帯に続く標高40メートル程の丘陵の南端部に在ります。盗掘を受けて原型を失っており、石室を構成する石材が露出しています。石室が残存する高台は、東西約23メートル、南北約13メートルの大きさであるため、墳丘を復原すれば直径約25メートルほどの規模を持つ円墳になるとされています。石室は、巨大な板状の砂岩4枚を組み合わせた長方形の竪穴式石室です。長さ約3.5メートル、幅約2.5メートル、深さ約1.5メートルの箱型で、入口は欠失しています。写真の石棺はくりぬき式の船形石棺で、石棺石材は、宇土市網津町で取れる阿蘇溶結凝灰岩、通称馬門石(まかどいし)です。長さ約1.64メートル、幅約0.66メートルの石棺の内部は、赤色顔料で赤く彩色されており、遺体の頭部が安置される位置は、枕になるよう一段高く加工されています。馬門石(まかどいし)は12月16日の記事にも書いている通り、応神天皇の話は事実であり、継体天皇は応神天皇の子孫であり、それは継体天皇のお墓である今城塚古墳の石棺が、この馬門石と岡山の竜山石及び二上山の3つからできていることから熊本の勢力が近畿に攻め上って皇室の祖先になったと言う僕の説の根拠になっている。それは継体天皇のお墓である今城塚古墳の様子を見ると分かるのである。邪馬台国はどこにあったのか>(その12)(中央付近)中の古墳のレプリカを順不同で載せる。順不同なのは順序を忘れてしまったから。申し訳ありません。まずは井寺古墳。詳細は分からないが入口付近は赤い装飾が施されている。次は永安寺東古墳。いつも思うのだが、熊本の古墳で使われている石はしっかりと加工されている。関東の古墳だとここまで綺麗ではなく自然石が多い。次は小田良古墳。ここは横穴ではなく堅穴。次は千金甲1号墳。この古墳は大きな石ではなく小さな石をレンガのように積み重ねている。韓国の古墳みたい。そして丸い紋が多用されている。うーん、そう言えば肥後(熊本)藩主の細川家は「九曜紋」だな。丸い紋が似ている。ただ細川家は、元々は清和源氏の足利氏系で、熊本じゃないはず。うーん、そう言えば高松塚古墳をはじめとした近畿の後年の古墳の天井には「星宿図」が書かれ、古代にはそう言う北極星や色々な星座を信仰する面が有ったらしいな。日光の陽明門も、近くから見ると夜は上部で北極星を中心に星が円を描くと言うし。装飾古墳の円の模様は魔よけの目の模様だと思っていたけれど、星の場合も有るのかも?次は大坊古墳。最後は弁慶が穴古墳。おぉー!入口付近に人の線刻が有る。右側の赤で描かれた絵は何だろう?近寄って見ると「船」だった。奥の絵は馬だ。そう言えば大伴氏や久米氏は海人族だったんだよな。中国の史記に書かれた徐福は1回目に日本へ来た時は「鯨に襲われた」と書いている。この鯨は実は倭人で、徐福は対抗する為に2回目の時は多数の若者を連れて行っている。古代の倭人は勇敢な船乗りだったんだ。そして魏志倭人伝には倭国には牛はいないと書いており、馬も居なかったらしいのだが、菊池川流域の古墳の時代には既に馬がおり、馬具なども出土している。色々な本で調べてみると、日本の馬は小さくて上に描かれているように体高130cm位しかなく、源平合戦で有名な畠山重忠がひよどりごえで馬を担いで降りたと言うのも、本当なのかなと思ったりする。装飾古墳館に飾られている展示は古墳のレプリカだけではなく、付近で発掘された石人なんかもある。有名な臼塚石人である。レプリカだけど。石人は筑紫の磐井の墓だとされる岩戸山古墳が有名だけど、熊本も多い。九州の石人の分布図が有ったので載せる。そして、時代がある程度進むと、古墳だけではなく横穴墓が増える。これは関東なんかもおなじで、吉見百穴などが有名である。熊本の場合は横穴墓にも装飾が施されている。これなんか文化や生活や戦争の歴史を知る上では大事なんだと思うな。鏡なんかも多数展示されている。中国鏡が多く、確かに三角縁神獣鏡は無い。三角縁神獣鏡は国産鏡なんだと思う。そして装身具。えー!卑弥呼や台与なんかもこの辺にいたのかも?いや魏志倭人伝によればここ熊本は狗奴国のはずだから、ここではなくこの南に居たはずだよな。最後に全国の装飾古墳の分布と、そのうちの熊本の装飾古墳の分布地図を載せる。その中の熊本部分の分布図。おぉーっと大事なのを忘れていた。ここにはチブサン古墳のレプリカも有ったんだ。こうして有意義な熊本県立装飾古墳館の見学は終わった。もう夜も更けて歩くのが辛い。足はマメだらけ。明日は「女王の墓」向野田古墳に行く。
December 19, 2025
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江田船山古墳とその周辺の古墳や出土物を見て、近畿では6世紀末から7世紀初めに作られたとされている高松塚古墳に描かれている壁画の色々な貴人の使う道具が、なんと江田船山古墳周辺から出た石製品と同じで、ここ熊本ではその100年前に既に使われていたことから、近畿に中国からの文化が伝わる百年前に既に熊本には伝わっていたことが分かり、近畿よりも熊本の方が「先進国」だったことが分かり、もう熊本が狗奴国で有るのは間違いないと思った。と同時に、それならばよく言われる魏志倭人伝後の空白の150年とは空白ではなく、九州から近畿に何らかの理由で政治の中心が移動している時代で、そのせいで遺跡や文化が空白になっているんだなと思った。それは継体天皇のお墓である今城塚古墳の様子を見ると分かるのである。邪馬台国はどこにあったのか>(その12)これは僕が奈良や京都に調査に行った際に今城塚古墳を見た際の記録だけれども、その中央付近に、今城塚古墳の中に納められていた石棺が3つ有り、その材質は、阿蘇のピンク石(馬門石)、岡山の竜山石、そして大阪の二上山の石である。つまり継体天皇の御先祖様は熊本の人で、数代かけて岡山に進出して、さらに数代後に大阪に進出し、それが継体天皇で有るのだろうと言うことである。熊本から大阪に至るまで150年かかっているのだ。継体天皇が筑紫の磐井を滅ぼした時に、磐井は継体天皇の部下である近江毛野に対し、「今こそ使者たれ、昔は吾が伴として肩を摩り肘を触りつつ、共器にして同食いき。 安ぞ率爾に使となりて、余をしてが前に自伏わしめん」と揚言し、抵抗に踏みきったという。え?これによると、磐井と近江毛野は昔は同輩として共同生活をしたこともあったらしい。近江毛野はおそらく近江の豪族であろうが、どうして筑紫の磐井と親しくした時期があったのであろうか。通説は、両者が若き日にヤマト朝廷に同じ時期に出仕していたのであろうとするが、むしろ磐井の揚言から考えると、熊本から近畿に攻め上った際に仲間として戦った?そう考えられるのではないだろうか?だから僕は学者先生の想像力は信用できないのだ。だって学者先生は「今城塚古墳が発掘されるまでは別の古墳を継体天皇の墓と考えていた」のだ。彼等は本当に信用できない。荒神谷遺跡や 加茂岩倉遺跡が発掘されるまでは、彼等は「出雲は神話の中の世界であって実在はしない」と言い切っていたのだから。彼等の主張は常に発掘によって根底から覆される。古代の熊本や宮崎もいつか、誰かが新しく発掘することによって根底から覆されると思う。それが僕ならばうれしいんだけれども、もう年だからなぁ。江田船山古墳からチブサン古墳へ向かうには一度山鹿のバスセンターに行かなければならない。車を持っている人は簡単なんだけれども、東京や大阪からは車で行くのは大変だし、バスではほぼ行けないからタクシーしかないのだ。チブサン古墳はあらかじめ山鹿市立博物館に連絡しておくと案内してくれて内部を見られる。常時そうなのかは不明だが、僕が行った時は10時と14時からだった。見学はおよそ(前段の10分程度の説明を含めて)40分かかる。現地まで約1km歩くからだ。山鹿市立博物館。入口は左側で小さい。入口付近に石人がいる。山鹿市立博物館の2回は展示室になっており、付近の古墳等から出土した遺物が展示されている。但し、ここも力関係が有って、めぼしい物は東京博物館や福岡に取られてしまっている。ただ地元なので詳しい。最初に説明板を見て驚いたのは、熊本の遺跡の多さを説明する地図だ。菊池川、白川、緑川沿いに無数の遺跡が有る。奈良や福岡の比ではない。多すぎ。そして気になるのは、熊本と鹿児島・宮崎の間の空白である。何故ここに空白が有って遺跡が無いのだろう?本当にないのだろうか?それとも見つかっていないだけ?日本書紀の景行天皇の九州巡幸を見ると、人吉付近で賊と戦っている。上の地図で言えば、鹿児島県の白い部分の中で、上向きに突き出た角のような所の熊本側である。つまり景行天皇と戦うくらいの勢力が居たのだから、古墳くらい有ってもおかしくは無い。だから見つかっていないだけなんだろうな。そして感心したのは石斧の作り方の説明が詳しかったこと。いや僕だって理論的には知っているんだけれど、こうして現物を使って説明をされると、なるほどなぁと感心する。家型埴輪の展示も有った。熊本はやっぱり先進的な地域だったんだなと思う。他の地域、近畿や福岡でもまだ竪穴式住居の時代である。こんな壁や扉が有る家なんて、他の地域だと平安時代にならないと無いと思う。NHKの「鎌倉殿の13人」を見ていたら、鎌倉時代になってやっと板葺きの屋敷だったんだから。先進的と言えば、使われていた土器がすごい。左側の土器は漆を塗っている。漆を塗った土器なんて初めて見た。漆を塗っていると言うことは火にはかけないと言うこと。他の地域の土器とは違うなぁ。この土器には鹿の線刻がなされていたらしい。他の地域ではそこまで工夫はされていない。この後の時代、つまり須恵器の時代にならないと、生活に使われる土器はここまで工夫されない。(新潟の火焔形土器のように儀式用のどきなら縄文時代から装飾はされているが生活用は無い。)さてチブサン古墳。ここ山鹿市立博物館は、熊本県の県北に広がる菊池川沿いの「肥後古代の森_山鹿地区」の中にある。市立博物館は下の案内図中央下部分である。(案内図は博物館ではなくチブサン古墳そばに有ったので「現在地」は博物館ではない。)この地図は東を上に描いているので、チブサン古墳へは「古代への道」を北へ進む。するとでっかい古墳が有る。チブサン古墳は6世紀(古墳時代後期)に造られた前方後円墳で、全長約45m、後円部の直径23m、高さ7m、石室は羨道から奥室まで約6m、前室は1.9mの方形、後室は奥行き、幅とも3.6mの隅丸方形で、後室の奥壁沿いに、長さ2.3m、奥行き0.9m、高さ1.4mの寄せ棟造りの家形石棺が置かれている。内部は普段は鉄の扉が閉まっており、見学時に開けてくれる。中は写真撮影禁止。羨道はまぁ普通に歩けるけれど、前室に入る補語扉からはものすごく狭い。そこ(前室)を張って行くと後室手前にガラス窓が埋め込んであり、ガラス窓越しに後室と石屋形を見られる。中の湿度が高いのかガラスは曇っているが、案内の方が綺麗に拭いてくださった。残念ながら中の写真撮影は禁止なのだが、外にレプリカの石屋形が有る。でもやっぱり綺麗な写真の方が良いので、ネットから発見当時の奇麗な写真をお借りする。装飾は直線と円を用いた幾何学模様で、綺麗に赤と黒で色分けされている。奥の目玉のような円形が古墳の名前の由来である乳型の絵である。この古墳は古くから開口し、地元ではこの乳型の絵から「乳の神様」といて崇められており、それが「乳房さん」→「チブサン」となまってチブサン古墳と言う名前になったらしい。でも僕は、右手の王冠をかぶった人物画と合わせて考えると、右手が埋葬者の頭側と考えられることから、これは「目」であり、埋葬者を「魔」や「盗掘者」から守る為の装飾だったんじゃないかなと思っている。よく古墳の石棺の周囲に鏡がばらまかれているのと同じである。古墳では埋葬者の頭の部分には大事な鏡、周囲には魔よけの鏡がばらまかれていることが多い。それと同じだと思う。説明をして頂いた方に奥の石の板が左側が無いのは最初からなのかを聞いたら、最初かららしい。そもそも奥の石2枚は扉かもしれないと思ってお伺いしたら、ここの奥はもう円墳の傾斜部分なので、奥はあり得ないと説明されたので、そうだなと納得した。レプリカの近くには出土した埴輪や石人も有った。円筒埴輪は古墳の外部(特に円墳頂部)に並べられる。儀式と結界的な意味合いが有る埴輪。石人は九州、特に福岡南部や熊本に多い。近畿の形象埴輪に近い物だと思う。近くには(古代の森と言うことで)他の古墳から持って来た石棺も有る。そしてチブサン古墳と並ぶ大事な古墳であるオブサン古墳。立派な円墳、と思って近くに行ったら手前の入口付近が広がって高い。多分前方後円墳の一種で、帆立貝型前方後円墳だと思う。(説明板には突堤付き円墳とあったが、 チブサン古墳が綺麗な前方後円墳なのでこちらも変形した前方後円墳だと思う)近くに説明板が有った。おぉー!ここも立派な羨道と石棺が有ったんだな。名前の「オブサン」とは「チブサン」が「乳房」から来たのに対して「産さん」から来たらしい。それにしても閉塞石は大きくて重そう。神話の天岩戸で、天手力男命(あまのたぢからおのみこと)はこれを開けたのか。僕には無理だな。こうして見学は終わったんだけれども、山鹿市立博物館に戻って来て面白い物を見つけた。通潤橋の模型である。通潤橋は熊本県上益城郡山都町(やまとちょう)にある。ここから近い。嘉永7年(1854年)に阿蘇の外輪山の南側の五老ヶ滝川(緑川水系)の谷に架けられた水路橋で、水利に恵まれなかった白糸台地へ通水するための通潤用水、上井手水路の通水管が通っている。完成当時は吹上台目鑑橋と呼ばれていたが、肥後藩の藩校時習館の教導師であった真野源之助により易経(易損卦程伝)の一節から、名前を通潤橋とつけたのだそうだ。石造単アーチ橋で、橋長は78m、幅員は6.3m、高さは20m余、アーチ支間は28mである。橋の上部には3本の石管が通っている。うん?通潤橋は単アーチ?そうじゃん!と言うことは山鹿市立博物館のこの通潤橋もどきはどこの物なんだろう?肥後の石工の技術レベルの高さを証明する歴史的建造物であり、国宝に指定されている。現在でも観光用に時間を決めて、中央付近から放水している。こうしてみると、熊本の石工のレベルは高かったんだなぁ。そう言えば日本書紀では斉明天皇の狂心渠(たぶれごころのみぞ)が有名である。斉明天皇は石造りの色々な遺跡を残している。斉明天皇は九州王朝のお姫様で、近畿の王朝に迎えられて天皇になり、そのせいで白村江の戦いの際は、唐に対する無理な戦いだと知りながら、九州まで兵を引き連れてやって来たんじゃないだろうか?石がそれを暗示している。次は熊本県立装飾古墳館へ行く。
December 16, 2025
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タイトルにある様に狗奴国が熊本であることの確認旅行が今回のテーマなんだけれども、それは僕の研究の中で狗奴国が重要な位置を占めているからである。一般的な邪馬台国研究家は、底が浅いので邪馬台国しか研究しない。でも魏志倭人伝を見ると、狗奴国のはたしている役割は大きい。そのせいで他の倭国の国に比べて書かれている内容が多い。その記述を読んでいると、ついつい須佐之男命を思い出してしまう。古事記の中で、イザナギは亡くなったイザナミに会いに行った後に三貴子を産む。天照大御神と月読の命と須佐之男命である。イザナギは天照大御神に高天原を、月読の命に夜の国、須佐之男命に海原を治めるように命じる。ところが天照大御神と月読の命は素直に従ったのに、須佐之男命は駄々をこねて従わず、母を恋しがる。通常の人はこれを読んで須佐之男命が甘えん坊だと理解するが僕は違う。恐らく、須佐之男命の母はイザナギの後を継ぐのは須佐之男命だと考えていたのだ。母親が違う天照大御神にその座を奪われた須佐之男命は、話が違うとイザナギに詰め寄ったのだろう。イザナギは須佐之男命を嫌って、追い出してしまったのだろう。それで須佐之男命は高天原の天照大御神の元に行って文句を言ったのだ。天照大御神は「誓約」を行って須佐之男命をなだめようとしたが、須佐之男命は聞かなかった。そして須佐之男命は高天原に攻め込んだ。田のあぜ道を壊し、くそをして馬の皮を剥いで投げ込む。さすがの天照大御神も怒って武装して、須佐之男命を迎え撃つが殺されてしまう。これが古事記に書かれた神話なんだけれども、魏志倭人伝に書かれた卑弥呼と狗奴国の男王の話に似ている。亡くなった卑弥呼(天照大御神)は天岩戸に葬られて、その後から宗女である台与が出てくる。台与は若い頃の天照大御神にそっくりなので、殯に服していた神々は、天照大御神が蘇ったのだと思い祝福する。そして台与は高天原の新しい女王として迎えられて、千人以上が殺されても倭国を平和にできなかった罪で、狗奴国王(男王=須佐之男命)は追放される。追放された男王は新羅の王となり、しばらく暮らすが、また日本に帰って来て紀ノ國に新しい国を築く。その後4世代を経て、島根の出雲で生まれた大国主命は兄神達にうとまれて、2回も殺されそうになり、その度に母親に救われるが、身の危険を感じて木の国(紀ノ國)に逃げる。そこでも兄神達の追及の手は伸びて、大国主命はさらに奥の須佐之男命の元まで逃げる。そこで須佐之男命の娘のスセリヒメを嫁にもらった大国主命は新たに国をつくる。この国の都が纏向遺跡である。纏向遺跡は、かっては大田遺跡と呼ばれていた。大国主命を祀る、大国主命の子孫の大田田根子が住んでいたからである。そこから見える箸墓は事代主命と倭迹迹日百襲姫命の墓であるが、同時に事代主命を祀る三輪山のふもとにあり、昼は人々が造り夜は神々が作った墓である。どう考えても、纏向は(新しい)出雲の都だと思う。大国主命は国を譲った後は、ふるさとである古い出雲(島根)に社を建ててもらって、後世をすごしたのである。こういう風に考えると魏志倭人伝は見事に古事記や日本書紀につながる。その様子を一覧に書いてみた。よく日本の皇統は数回途切れて、王朝交代が有ったと言う人がいる。特に応神天皇の時代と継体天皇の時代であるが、実は王朝の交代が有ったのではなく、卑弥呼の時代に2つに分かれた奴国の王朝が、別れたり、またくっついたりしながら、ほぼ交代しながら、血縁的には入り混じって、今日まで続いているのだと思う。それを確認しに行く旅行が今回の旅行なのである。江田船山古墳はそうとうに不便で、熊本県の玉名市と山鹿市の間付近の和水(なごみ)町にある。玉名市は九州新幹線が通るが、山鹿市はJRは通っていない。熊本から高速バスに乗ってくるしかない。僕は貧乏なので新幹線ではなく在来線の玉名市からバスに乗ったので、1日に数本しかない不便なバスを(1か月前から調べて)利用して行った。江田船山古墳は、埼玉県行田市の稲荷山古墳の国宝「金錯銘鉄剣」と同時代の、「銀錯銘大刀」が出土した古墳である。両鉄刀には文字が記されており、雄略天皇の名前と分かる「「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」の名前が記されている。鉄剣そのものは(九州の古代の遺物はみんなそうなんだけれども)現地には無く、東京博物館に納められている。でも現地を見るのは大事なことなので、今回見に行く。入口に石人(レプリカ)が立っている。楽しみ。中に進んで行くとまずは塚坊主古墳が有る。同じものが近畿や福岡に有ったならば大騒ぎになりそうな立派な古墳が、熊本や宮崎にはゴロゴロしている。多くは盗掘されたり、運よく残っていても東京や福岡の博物館に取られて現地には無い。「山」が有るだけである。ただ熊本は幸運にも「装飾古墳」が多いので、それだけは見られる場所が有る。宮崎の場合は道路開発でそれさえも壊されているんだけれど。そばには清水原古墳の石棺が有った。5世紀だそうである。よく幻の150年と言われる魏志倭人伝後の150年のものである。幻じゃなくて探せば有るんじゃないかと思う。さらに進むとお目当ての江田船山古墳が有る。この古墳は卑弥呼とは関係が無いのだけれども、僕は卑弥呼の墓はこの1.5倍くらいの大きさだったんじゃないかと思っている。よく箸墓を卑弥呼の墓だと主張する人は、一歩が150cmで魏志倭人伝に「径100歩」と書かれているので150m位のはずだからと言うが、間違いだと思う。彼等は魏志倭人伝が含まれる三国志を読んだことが無いのだと思う。三国志には有名な諸葛亮孔明は「8尺の偉丈夫」だったと書かれている。一歩は5尺だから、一歩を150cmとしたら1尺は30cmである。そしたら孔明は30cmX8=240cmの身長が有るバケモノじゃん。だから一歩150cmと言うのは眉唾なのである。多分一歩は現代の左右2歩のことなので、おおよそ1mだと思う。江田船山古墳から出土した大刀は東京博物館に有るがこんな感じ。ネットから写真をお借りして載せる。上に書いたように刀の持ち主と雄略天皇の関係が書かれており、埼玉県行田市の稲荷山古墳の鉄刀の銘文と合わせて、雄略天皇の生きた時代が分かる貴重な刀である。刀には字だけではなく絵も描かれていたらしい。魚と鳥。そして馬と花。花は少し薄くなっている。実は字も同様で、後世の刀の研師が研いでしまって薄くなってしまったのだそうだ。説明板を見ると復元模型が載っているが、ものすごく綺麗な前方後円墳である。特に儀式が行われたとされる「造出」部分が大きい。近畿や福岡の古墳ではこれが分からない。内部については、現在は完全に密閉されて中を見ることはできないが、写真が残っている。よほど有力な王(それとも既に大和王権に従属しており豪族だった?)だったのだと思う。そして驚くのは出土した鏡が、卑弥呼の時代の物が多いこと。お調子者の研究家ならば「ここが卑弥呼の墓じゃん」と言いそう。でもそうではない。鏡は製造年代と埋葬された年代は一致しないことが多いのである。えー!と言うことは三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡と言っている人達の「根拠」はどうなるの?そうなんである。いわゆる邪馬台国近畿説の人達の言う根拠はほとんどが根拠にはならず、彼等の言う根拠が正しいなら、邪馬台国は熊本に有ったと言える古墳がたくさん有るのである。近畿や福岡の古墳とは違い、ここ熊本の場合は「古墳群」であることが多い。(宮崎もそう)後ろには付近の古墳から見つかった石製品(石人など)が飾られている。そしてこの石製品から、当時の儀式や生活の様子が分かる。さしばの説明に有る「儀式用の屏障具の一つで団扇に長柄をつけたもの」ってこれじゃない?左の女の人が持っているのがそうである。これは高松塚古墳の壁画である。熊本ってこの時代は近畿の都会に匹敵する「高級地」だったのか。こんなのも有る。家は吉野ヶ里のような竪穴式住居じゃなくて高床式住居だし、都会じゃん。そして蓋(きぬがさ)ってこれじゃない?おぉー!高松塚古墳の壁画に書かれているような貴人の所持品がこの辺でも使われていた?しかも高松塚古墳の時代の100年前に?江田船山古墳は5世紀後半から6世紀初めの古墳である。高松塚古墳は6世紀末から7世紀初めの古墳である。つまり奈良に中国から壁画に書かれたような文化が伝わる100年前に熊本には同じ文化が伝わっていたのである。実は奈良よりもこの熊本の方が先に文明化されており、何らかの事情で、ここから移動して奈良の方に行ったんじゃないだろうか?だから継体天皇や推古天皇のお墓の石棺は、熊本の馬門石(まかどいし)でできているのじゃないだろうか?つまり継体天皇や推古天皇の御先祖様は熊本の人で、御先祖様の信じた神様を近畿に連れて行ったので石棺は馬門石だったのではないだろうか?(継体天皇と推古天皇だけではなく沢山の馬門石の石棺が近畿に運ばれています。)そして気になるのが石人達。石人や石馬は福岡の岩戸山古墳(継体天皇に滅ぼされた筑紫の君磐井の墓)が有名だが、磐井の親戚あたりがここに居たんじゃないかな?そして気になるのがもう一つ。ストーンサークルが有った。いわゆるドルメンである。実はこれには説明書が無かったので、出土品なのか、公園を作るに際して作ったものなのか、どちらかは分らない。でも、出土品ならば恐ろしいなぁ。日本にこんな物が有るとは。いや能登半島には木製の物は有るけれど石製は無い。秋田の大館などにはストーンサークルは有るけれど、小さな石を並べただけ。これは公園を造った人達のお遊びなんだろうか?出土品なんだろうか?気になる。最後は京塚古墳である。いや本当に集まっていると思う。まさに王家の谷(谷じゃないけれど)だよ。来て良かった。バスがもうすぐ来る。これに乗らないと夜泊まる宿が無い。次はチブサン古墳へ行く。
December 16, 2025
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叔父が昨年末に亡くなって1年たち、1周忌を行うことになり長崎に帰った。いやもう両親はとっくに亡くなっていないので「帰った」と言うのはおかしいのだが、やはり僕は九州人なので、「九州に行く」よりも「九州に帰る」と言う方がぴったりする。叔父(次男)は90歳ギリギリ1か月足らずに亡くなった。お袋(長女)も90歳ギリギリ4か月足らずに亡くなった。伯父(長男)は90歳過ぎてまだ生きている。下の叔母2人は80歳過ぎてもピンピンしている。下手すると自動車の運転もしている。危ないけど。なので我家の家系はみんな90歳までは生きるのだと思う。僕もまだ先は長い。せっかく高い飛行機代を出して行くので、熊本に行ってみることにした。JR在来線だけならば4000円もしないので、もう何回も九州には来れないのだから行きたかった。熊本は僕が、邪馬台国の敵の「狗奴国」だと思っている所だから。世の中の馬鹿な邪馬台国論者は証拠とはとても思えない事をまくしたてて邪馬台国論争をする。僕は面白いので、それを論破するのを趣味にしている。例えば「纏向遺跡は3世紀半ばの遺跡なので邪馬台国の都である」と言うのは証拠にはならない。魏志倭人伝冒頭には当時倭国には100前後の国が有ったと書いている。つまり3世紀半ばには倭国には100前後の国が有り、纏向遺跡はそのどの国の都でも良いことになるので、証拠にはならないのである。「いや邪馬台国が一番大きな国のはずだから邪馬台国の都だ」と反論する人がいる。卑弥呼は「共立された」のであって他国を征服して女王になったのではない。現に狗奴国に攻められて悲鳴をあげて魏に救いを求めて難升米を派遣している。つまり狗奴国の方が大きくて強かったのである。ならば、纏向遺跡が大きい国の都のはずだと言うならば、狗奴国の都である可能性の方が大きい。つまり何の証拠にもなっていないのである。それで熊本に行くのであるが、途中に面白い古墳が有るので、道すがら、まずはそこに行く事にした。今、邪馬台国九州論者たちが「卑弥呼の墓」だと大騒ぎしている「長田大塚古墳」である。白村江の戦い(倭国が百済を助けて唐と新羅の連合軍と戦って負けた戦い)の際に、斉明天皇が九州に作った「朝倉橘広庭宮」の跡の傍に有る古墳である。JR九州の筑後吉井駅の近く(と言っても歩ける距離ではないが)に有る。筑後吉井駅。九州の駅だなぁ。周囲には何もない。JRを利用する人の為に、念の為に言っておくと、駅員が居ないのは当然のことなんだが、スイカは使えない。パスモも使えない。なんとJR九州の「スゴカ」カードさえも使えない。福岡県南部の大分よりから熊本はそう言う駅が多い。ここは福岡県内なんだけれども、久大本線(久留米-大分間)なので仕方ない。最初にせっかく来たのだから卑弥呼には関係ないのだけれども有名な三連水車に行く。ここは筑後川沿いなので水の利用が盛んで、これは日本最古の実働する水車である。寛永元年(1789)に川面より高所の農地に水を送るため、自動回転式の重連水車が設置された。朝倉市には菱野の「三連水車」のほかにも、三島の「二連水車」、久重の「二連水車」の7基の揚水水車(水をくみ上げる水車)があり、今も現役で農地を潤している。昔の人の知恵の結晶である。さて長田大塚古墳に行こうとしたら、タクシーの運転手さんが知らないみたい。なので高速道路の山田SAのそばだと言って下の地図を見せたら分かってくれた。車で行かれる方は高速の長崎大分線に乗って、山田SAに車を止めて行くと便利で良い。SA裏の扉が開いていれば70mくらいなので近い。(googleMapを見ると分かる)この古墳、googleMapで見ると誰が見ても古墳だと分かる見事に綺麗な円墳である。上の写真(と言うかgoogleMap)を見て欲しい。自然の山はこんなに綺麗な円形では無い。よく前方後円墳以外は古墳では無いと言う馬鹿な学者がいるが、高松塚古墳や埼玉の稲荷塚付近の大きな円墳など有名な古墳は円墳である。高松塚古墳やキトラ古墳は古墳じゃないというのだろうか?学者とは変な人達である。前方後円墳は政治的な古墳で、大和王権が勢力を拡大するのに使った一形式であって、必ずしも前方後円墳だけが古墳ではない。特に大和王権が力を得る前の王や女王達の墓は円墳の可能性が高い。もし卑弥呼の墓が前方後円墳ならば、魏志倭人伝に「卑弥呼の墓は倭國の独特な形式」だと書かれるはずだが、単に径百歩の塚としかかかれていないので、恐らくは円墳だろう。前方後円墳が普及するのはもう少し後のことだろう。箸墓は卑弥呼の敵方の墓だと思う。魏志倭人伝に「前方後円墳」と書かれていないのだから。近くに行ってみると、邪馬台国九州説の皆さんが自説を看板に書いている。ちょっと無理があるなと思う部分も有るけれど、そうかもしれないと思う部分も有る。まず一歩の解釈は諸説ある。看板に書かれているのは通説だが、一歩が150cmも有ると言うのは一般の人には難しいと思う。実はこれは今で言えば2歩(右足+左足)を一歩と考えた時代の話である。なのでちょっと足が長いのかなと言う気もするけれど、2歩ならば150cmは有るかもしれない。ところが、僕は別の説を信じており、いまいち納得できない。Wikiによれば、上に書いた左右の1歩を合わせて一歩とするのは周の時代に始まった。そしてそれは5尺だったらしい。ところが秦の始皇帝の時代にはこれは6尺に改められ、漢まで6尺である。朝鮮でも一歩は使われたが、尺の基準が20㎝で一歩は120cmとなり実感に近い。普通に歩くのではなく、止まった状態で計るので一歩=150cmとされたが、実際に歩くとそんな大股では歩けない。と言うか一歩が5尺で150cmとすると、一尺は30cmになるが、三国志の中の有名な部分を見ると「あれ?」っと思う。諸葛亮孔明は三国志の中には「八尺の偉丈夫だった」と書かれている。えー!30cmX8=240cmってバケモノじゃん。実は一尺は後漢の時代には23cm、魏や西晋の時代には24cmだったらしい。つまり一歩は120cm前後が正しいらしい。ならば(現代で言えば2歩なんだから)大きな人の歩幅と思えば、そんなものなのかなぁ?そしてこの一歩=150cmと言うのは「長里」の元になっている。(九州説の皆さん、一歩=150cmならば長里だから九州説になりませんよ)長里では1里は300~400mになるが、魏志倭人伝に書かれた里程と実際の地図上の距離は1里70~80mである。魏志倭人伝の記述を元に地図をなぞってみればバカでもわかる。1里=300~400mで考えると、海や山を飛び出してしまう。1里=70~80mならば綺麗に地図に合う。つまり現実に合ってないのである。学者達は。だから魏志倭人伝はいい加減だと言う。でも、元になっている一歩を現実的な人間の状態である2歩=約60cm位にすれば、全ての記載が現実に有って来る。だから径100歩=150mと言うのは変なんだと思う。麻氐良布(まてらふ)神社がアマテラスに読み方が似ており、天照大御神を祀っているのでここが邪馬台国と言うのも無理が有ると思う。天照大御神を祀る神社で一番有名で大きいのは伊勢神宮である。単に天照大御神の神社だと言うのを根拠にするならば邪馬台国近畿説の方が正しいと思う。でも僕はこの辺が邪馬台国だと思う。それは世の中の人の多くが、邪馬台国と女王国の関係を勘違いしているからである。そのことについては過去に書いた。邪馬台国はどこにあったのか?(その75)世の中の学者先生や研究家が考えない事:その2女王国と狗奴国ここの最後の方に書いたが、世の中の学者先生や研究家は、邪馬台国=女王国と考えている人が多い。でも魏志倭人伝には「邪馬台国」と言う言葉は1回しか出てこないし、その41文字後に「女王国」と書かれている。明らかに使い分けているのである。そして女王国は、女王国の北側に奴国や伊都国が有ると書いているので、明らかに奴国や伊都国は女王国には含まれていないので、女王国、奴国、伊都国と女王国の傍らの国を合わせた連合国を邪馬台国と書いてると考えられる。つまり学者先生や研究者達の言う「邪馬台国への行程」と言うのは「女王国への行程」が正しく、伊都国も奴国もそしてここ朝倉も邪馬台国の一部なのである。だからここは邪馬台国である。僕は足元に注意しながら、頂上まで登ってみた。途中で急な傾斜と緩やかな部分が数回認められ、この古墳は単なる山ではなく、恐らく3段くらいの段の付いた古墳だろうと思われた。頂上には祠が有った。何と書いているかは分からない。地元の人は「宮地嶽」と言っているが最後の字は「嶽」ではなく「宮」に見える。ちゃんと調査すれば読めると思うけれども、今日は道具も時間も無い。<後日追記>調査時には何も持っていなかったので、どうしようもないが、せめてと思って画像を明るさとコントラスト調整だけやってみた。やっぱり3文字目は「宮」だと思う。1文字目は「秋」のようにも見える。2文字目は分らない。「尊」のような気もする。行けるかどうかわからないけれども、いつかもう一回行ったら見てみよう。仕方ないけれど、日も暮れるので帰ることにした。駅へ向かう途中に付近の看板が有った。そうなんだよなぁ。朝倉には斉明天皇が「白村江の戦」に備えて築いた「朝倉橘広庭宮」が有ったはずで、それは日本書紀にも書かれており、斉明天皇はここで崩御されている。僕はここには「九州王朝」の都が有り、斉明天皇はそこの出身で、だからこそ百済を助けて唐と新羅の連合軍と戦った倭国を助けざるをえなかったのだと思う。当日は行けなかったので、ネットから写真をお借りして載せる。ここに書かれた朝倉社と言うのは、現在は恵蘇八幡宮として残っている。(上の地図の「ここ」)あんがいと上の写真の場所(須川)ではなく、ここ山田に都は有ったんではないだろうか?倭国は白村江の戦で唐と新羅の連合軍に敗れ、筑紫の君つまり倭国の王以下は捕らえられて唐に連れ去られたと日本書紀に書かれている。日本書紀の持統天皇四年(唐から帰って来た)捕虜の博麻に詔して、「お前は唐の捕虜となった土師連富抒、氷連老、筑紫君薩夜麻、弓削連元宝の子の四人を助ける為、 自らを奴隷として売り、その金で富抒達は日本に帰ることができた。 それに報いて務⼤肆(むだいし)の位と褒美を与え課役は三代まで免じよう」 と言ったと書いている。つまり日本の相当の偉い人達が唐の捕虜になって連れ去られていたんだな。また、白村江の戦いの後に上に書いたように郭務悰以下2000人の兵が日本に来ている。よく天智天皇は唐が攻めて来るのをおそれて水城を造ったり、菊池に城を構えたり、都を移したと学者先生は言うけれど、水城や菊池の城は素通りしてしまえば、瀬戸内海に出て近畿まで行くのには何の効果も無く、近畿の都の防御施設にはなりえない。この2000人が攻めてきたらおしまいだったんだと思う。現に9月には郭務悰達は大阪まで来ており、天智天皇の歓待を受けている。水城は近畿を守るのにはやくに立たないし、鞠智城(きくちじょう)にいたっては熊本の山の中なので、大宰府防御の役にもたたない。近年の調査では大宰府よりも水城の方が先にできているし、何を守る為に造られたんだろう?(もしかして九州王朝の都を守る為?それは明日以降の熊本の調査で分かる。 この時代、熊本には近畿の奈良や京都に匹敵する王都があったみたいだから。 6世紀末に造られた高松塚古墳の壁画に書かれている貴人の使った、 翳 (さしば)や蓋(きぬがさ)と言った道具が熊本では5世紀末に使われていたことが、 石造りの遺物として残っており、それにより確認できるからである。 熊本は奈良や京都よりも約100年文化が進んでいたのだ。)そしてこれ以降歴史には「倭国」は出てこず、新たに「日本」が出てくる。僕は天智天皇が「日本」は「倭国」とは違い、唐とは戦いませんよとうまく唐をごまかし、あたかも「日本」は「倭国」とはべつな国のようにふるまったので、唐から派遣されてきた郭 務悰以下2000人の兵隊は日本を攻めず、日本は救われたのだと思っている。なので旧唐書には「倭国伝」と「日本伝」が別々に書かれており、「倭国はいにしえの倭奴国のことである。唐の都の長安を去ること1万4千里。 新羅の東南の大海の中にある。」とか、「日本国は倭国の別種である。 その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。 あるいは倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」と書かれているのだと思う。天智天皇は倭国を名乗って唐を刺激するのを避けたのである。筑後吉井駅に帰って来ると面白い列車が停まっていた。パノラマ風に合成すると変かな?上から見てみよう。おぉー!カッコいい。豪華かも?入口付近はこんな感じ。中は新婚さんだらけだった。高いんだろうなぁ。
December 11, 2025
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12月4日はわの会のイベントで横須賀市の中心地の寺社を廻った。ルートはこんな感じ。いつもに比べると平坦な道で距離も短い楽な行程だった。最初は京浜急行の汐入駅に集合して、まずは「どぶ板通り」を歩く。「どぶ板通り」とは米海軍横須賀基地から京浜急行・汐入駅にかけてのエリアである。大正時代のどぶ板通りには、川幅1m半位の下水が流れていて、その上に厚い板の蓋がしてあったことからそう呼ばれるようになったらしい。ドブ板通りはスカジャン誕生の地である。ある日、兵士が訪れ持参のジャンパーに刺繍を頼んだところ、あまりに汚かったため断るとベースに戻り落下傘の生地を持ち込んできた。その生地に刺繍を施しジャンパーに仕立てたのがスカジャンの始まりなのだそうだ。でも話に聞いていたほどはにぎわっておらず、ちょっと寂しい。通りの敷石にはあちこちに「手形」が有る。うーん、王さんはここの出身なんだっけ?墨田区の本所の出身だと思ったけれど?つまり手形はここの出身だからと言うわけではなく、何らかのゆかりがある人と言うことなんだ。阿木煬子なんかはここの出身だよな。上のルート図で言えば、左下の龍本寺に向かう道の途中を右に折れた付近に、「これっきり坂」と言うのが有って、山口百恵の「横須賀ストーリー」の中の「これっきり、これっきり、これっきりですか~」の歌詞の元になった坂だと言われているそうだから。でもガイドさんにそう言っても話が通じなかった。どぶ板通りにはちょっとだけ有名なお店も有る。下の写真は「横須賀ネィビーバーガー」の「TUNAMI]と言うお店。鉄人28号だ。美味しいのかなぁ?まだ食べたことは無い。角には潜水艦が埋まった?お店も有る。艦マニアと言うお店で、この日は閉まっていたけれど、海軍カレーなどの横須賀名物を売っているお店らしい。ようはお土産屋さんだな?どぶ板通りの中には延命地蔵尊もある。新編相模国風土記に載っていると言うことは江戸時代から有ると言うこと。ちょっとお地蔵さんの雰囲気じゃないな。途中ちょっと横道に入って、諏訪大神社へ向かう。ここでガイドさんが神々の系譜について教えてくれた。いつも思うのだけれど、何故、大国主がスサノオの息子になっているのだろうと思う。古事記では大国主命は兄神達にうとまれて2回も殺され(かけて)、出雲から逃げ出して木の国(紀ノ國=和歌山)へ向かい、そこからさらにスサノオの国まで逃げて、スサノオから試練(山の火の中から助けてくれたねずみの話が有名)を与えられて、それをクリアーして娘のスセリヒメを嫁にもらう。息子じゃなくて、娘の婿つまり義理の息子じゃん。しかもスセリヒメはスサノオの五代子孫なんだよな。どうなっているんだろう?上の資料には大国主命には奥さんが載っていないし。まぁ神様だから年齢は関係ないし、いいか。そして一番変なのは下の話。これは諏訪大神社の由来の所に書いて有ったんだけれども、古事記や日本書紀とは全く違う。タケミナカタと事代主は「国譲り」に出てくる神で、確かに大国主命の子供なんだけれども、タケミナカタは天照大御神が派遣した武御雷神に力比べで負けて、諏訪まで逃げて行き、「この地(諏訪)から外には出ませんから命だけはお助けを!」と命乞いをしたはずなんだよね。それが何故か上のように全然違う神様になっている。何を根拠にこんなことを書いているんだろう?よく「神社の由来書」に書いているからとか、「神社の古い書物に書いてある」のを根拠に、「邪馬台国はここにあった」などと言う人がいるけれど、神社に残っている書物って怪しいのが多いからなぁ。実は前にも書いたけれど、関東には天照大御神を祀った神社はほとんどない。摂社や末社として申し訳程度に祀った神社はあるが、ほとんどは素戔嗚命や大山祇命と大国主命(大国魂を含む)である。つまり天照大御神の敵方の出雲系の神様を祀っている場合が多い。なので、僕は国譲りと言うのは本当に有った話で有り、出雲の神様達(実際は人間)は尾張や諏訪そして関東に逃げたんじゃないかなと思う。だから鎌倉幕府や徳川幕府は、東国に逃げた出雲勢力の反撃で、一時期出雲勢力が実権を握り、明治維新はそれに対する大和勢力の反攻だったんじゃないかと思っている。だって薩摩や長州は西方の勢力だから。そう考えると、ここに諏訪大神社が有って、上に書いたような話が伝わっていてもおかしくはない。つまり諏訪の神=タケミナカタの正当性を主張する文なんである。まぁそれはそれとして次は良長院に行く。うーん龍がいる。曹洞宗のお寺で建長5年(1253年)に没した瀬尾重兵衛良長が横須賀郷泊浦に創建したのが始まり。見ることはできなかったが、本尊は「南蛮鉄製」の薬師如来で珍しい。脇には出世閻魔が有る。出世閻魔って何?調べてみたけど分からない。でも地元では親しまれており有名なんだそうだ。何故「出世」なんだろう?地獄で出世って???ここを出ると横須賀の中心街に出る。三笠ビル。三笠丸は他の地域の人には有名ではないが、横須賀では親しまれている戦艦。今でも猿島に渡る港部分に「現物」が残っている。あの銅像は東郷平八郎さんだな。次は徳寿院なんだけれども、坂がきついので今日はン下から眺めるだけだそうだ。正解だと思う。登っても疲れるだけ。次は中里神社の予定だったんだけれど、ここは省略。そして今日のメインである龍本寺に向かう。龍本寺は、鎌倉時代に日蓮聖人が生誕の地である房総半島から鎌倉をめざして、三浦半島へ舟で渡った際に滞在した米ヶ浜(かつての深田村。現在の横須賀市米が浜通深田台周辺)に建立された、御浦法華堂(三浦法華堂)を前身に持つ寺院である。近隣では、「米ヶ浜のお祖師さま」と呼ばれて親しまれているらしい。立宗·布教のために旅立って以降、日蓮を開山に仰ぐもっとも古い寺院のため、日蓮宗最初の霊場とも言われている。(一般的には、日蓮宗最古の寺院は、鎌倉の妙本寺とされている)現在の龍本寺は、海岸線からはだいぶ離れた内陸の切り立った高台の上に建っているが、明治前期まではこのすぐ下まで海が迫っていて、この海岸は「米ヶ浜」と呼ばれていた。日蓮は、海路で米ヶ浜に到着すると、海岸にあった岩窟の中で37日間に渡って祈願した後、鎌倉へと旅立って行ったと伝えられている。龍本寺の崖下には、この岩窟の跡とされる場所が今も残っていて、「お穴さま」として親しまれている。今回はそこまでは行けなかったのでネットから写真をお借りして載せる。日蓮が鎌倉をめざして三浦半島へ船出した際、嵐のため、舟底に穴があいて海水が侵入してきたと言われている。この時、日蓮がお題目を唱えると、一時に風波が静まり、舟底の穴もふさがっていた。これは、舟底の穴に「アワビ」が密着していたためと伝えられている。その後、日蓮を乗せた舟は、現在の東京湾に浮かぶ「豊島(現在の猿島)」にたどり着いた。すると1匹の白猿が近づいてきて、日蓮の衣の裾を引いて、陸の方を指した。日蓮は白猿が指した陸の方へ再び船出したが、浅瀬の海岸だったため、進みかねていました。そこヘー人の男が現われると、日蓮を背負って米ヶ浜の岸辺までお連れしたと言われている。(公卿村=現在の三春町の石渡家の先祖で石渡左衛門尉なのだそうだ)この男の足から血が流れているのを見た日蓮は、人々が「サザエ」の角で傷つくことがないようにお題目を唱えた。それ以降、この辺りで獲れる「サザエ」には角がなくなったと伝えられている。これらの、日蓮を救った「アワビ」と「サザエ」は龍本寺の寺宝として大切に護られてきている。また龍本寺の本堂の彫刻には、寺名にも含まれている立派な「龍」が彫られている。そしてよく見ると、この龍は「角なしサザエ」を握っているのが見える。でも「あわび」はどこにあるの?龍本寺には芸術的な彫刻が多いので、見ると楽しい。そして今回不思議に思ったのは本堂の屋根飾り。日蓮宗の紋が有るのは当然なんだけれども、その下に三浦の紋が有るのは何故?調べてみると、上の方に書いた、日蓮を背負って足から血を流した人物は石渡左衛門尉で、彼は日蓮により法華経に帰依して、ここに法華堂を建て、それは御浦法華堂と呼ばれたらしい。地名の御浦と三浦一族の関係がどうなのかは分からないが、これが三浦の紋が有る理由かもしれない。最後は諏訪神社にお参りした。ここの狛犬は両方とも口が開いている。通常の神社では、狛犬は左右で阿吽の形をなし、右側の狛犬は口を開けた阿形で物事の始まりを示し、左側の狛犬は口を閉じた吽形で終わりを示し、合わせて「始まりから終わりまで」つまり森羅万象を表しているのだけれども、最近はそのような難しいことを考えるのは流行らず、両方とも口を開けた阿呆な狛犬が増えているのだそうである。ちょっと嘆かわしいけれども、時代の流れなので仕方ないのかも?そんな感じでわの会のイベントは終了しました。
December 11, 2025
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前回(11月19日)に4バンドDSPラジオを買って改造した時に、似たようなFM・AMの2バンドラジオが有って、これは多分同じDSPラジオICを使っているなと思い、だったら改造も同じようにできるだろうから、いつか買って改造しようと思っていたら、ついつい気持ちに負けて買ってしまった。これである。そしてアリエクの販売ページにありがちなシステムなんだけれども、同じページで複数の商品を販売していて、間違えて別な商品を買うミスを犯しやすいのだけれど、今回も間違えてしまった。(上の写真は3個の商品を合成している。)一番上のFM・AM2バンドDSPラジオを買うつもりで、一番下の半田付けしていない液晶表示付きFMラジオを買ってしまったのである。あわてて、仕方ないのでもう一回一番上のラジオを追加して買った。まぁ、真ん中の完成品液晶表示付きFMラジオを買わなかっただけましかも?ただ一つだけ良いことが有った。回路図が販売ページに載っていた。前回の4バンドラジオの際には無かったのだけれども、これがあると助かる。左下にバンドセレクト用のスイッチ回路が有るのが分かる。前回の4バンドラジオはこのAM部分にスイッチをもう一個付けて、バンドセレクト用の抵抗を3個(AM用はスイッチ取付の為に外すので3個)付けてAM-SW1-SW2を切り替えられるようにしていたのである。つまり全くこれとよく似た回路だったのである。なので、今回も改造は簡単で、左下のFM部分の63.4Ωを237Ωに換えるだけである。さっそく改造開始。改造途中の写真で、63.4Ωを外したところ。63.4Ωを外した部分の2つのハンダランドが光っている。63.4Ωの抵抗の下に、あらたに取り換える274Ωの抵抗が有る。本当は237Ωなんだけれども、買うのに失敗して誤って274Ωを買ったのが余っているので、悔しいけれどもこれを使う。274Ωの抵抗が2倍くらい大きく見えるが、電池のリード線と比べてみると小さい。これが2012タイプつまり2.0mmX1.2mmの大きさである。なので、元の63.4Ωは1608タイプ、つまり1.6mmX0.8mmの大きさである。簡単に言えばシャープペンシルの芯の太さである。ルーペがなくては作業ができない。少し大きさが違うが、ギリギリ使える。(あとから気がついたんだけれども、 周囲が広いので1/8Wくらいの普通の抵抗でも使えそうな気がする。 外す方は上に書いたように両端にかかるくらいに半田を盛ってやれば、 半田と一緒にとれるので簡単だから、 新たに取り付ける抵抗は半田付けが簡単な1/8Wタイプの方が良いかも? リードをクニャって曲げれば半田付けは簡単になるし、周囲が広いので邪魔にならないし。)外す時にはこれぐらい小さいと、チップの上に半田を乗せると一気に両端に半田がついて、半田と抵抗が一緒にはずれて取れるので簡単。ただ新しいのを付ける際は片側づつ付けるのだが、1端は簡単に付けられても、もう1端を付ける際には熱が最初の半田付け箇所にも伝わって、もたもたすると、最初に半田付けした方も溶けて取れてしまうので、さっさと素早く作業するのがこつ。まぁ、半田付けさえ上手く行けば結果は出る。試しに聞いてみるとちゃんと76.0-108.0MHzが受信できている。前回は自作のSGもどき(実はFMトランスミッター)で電波を飛ばして目盛を付けたが、今回は面倒くさいので、実際の放送を聞きながら目盛を付けたので、目盛は放送局の周波数が書いてある。80→80MHz FM東京 ちゃんと日本バンドになっている。82.5→82.5MHz NHK東京84.7→84.7MHz FM横浜90→90.5MHz TBS 90.5と書くべきだったんだけれど面倒くさかった。93→93.0MHz ニッポン放送 松田好花ちゃんを聴かなくっちゃ。である。なお書いていないけれど、途中の91.6MHz文化放送や92.4MHzラジオ日本なんかも当然入る。感度は結構いい。残念なのは音声ボリュームが無い事なんだけれども、これは半固定抵抗を外してつければ簡単に改造できる。ただ、ボリューム回路が単純に電圧を分配しているだけなので、変化量が直線的ではなくボリュームの80%-100%位しかきかない。なので今回は面倒くさくなって改造していない。でもAGCが綺麗に効いているので、最大音量になるニッポン放送で適量に合わせると他の局も同じ位の音量になるので差し支えない。そしてせっかく(間違って)買ってしまったので、液晶表示付きFMラジオも作ってみた。結論を言うと265円にしては良いラジオだと思う。感度は良いし、何よりも液晶表示付き。でも、87.0-108.0MHzなのが欠点。FM横浜が聞こえないじゃん。まぁでも作ってみた。アルコールで清掃する前なので半田ペーストでよごれて汚い。下のICがDSPラジオICのRDA5807で、左のICは液晶を表示したりDSPラジオICを制御するPIC(マイコン)である。左端に4つ穴が有るが、部品は無い。通信用の端子だと思う。と言うことは上手くシリアル通信ができれば、日本バンドに改造できるかも?将来的に期待できる。なので、値段からして不満はない。完成品はこんな感じ。ただ最初は使い方が分からなかった。スイッチの名称からして右の2つがボリュームで、左端がPOWER、そして左から2つ目と3つ目はスキャン用だとは分かるのだが、1局だけ見つけるのは簡単なんだけれども放送局の保存が上手く行かなかった。よく商品のページを見ていたら英語の説明が見つかった。下の方に、google翻訳を使って日本語訳を載せてみた。するとなんとなく使い方が分かってきた。どうもこんな感じ。まずは電波環境が良さそうな所(我家なら南側ベランダ)で電源スイッチを入れる。その後、2秒間電源スイッチを長押しする。すると自動的にスキャンが始まり、放送局が自動的にP00-P63に記録される。放送局が記録されたら、選局はV+で一つ上の局、V-で一つ下の局を選べるようになる。V+とV-は長押しするとボリュームアップとボリュームマイナスとして使える。PR+とPR-ボタンは手動選局の場合に使うボタンで、自動選局で漏れてしまった弱い電波の局を探す際に使うボタンである。保存された放送局は電源を切っても消えない。まぁこれが分かると感度はそこそこ良いので使えるかなと思った。
December 10, 2025
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例によって危険を顧みずアリエクの中を探検中。アリエクは相当に注意して購入しないとワナがいっぱい。でも圧倒的に安いので、僕には魅力的なので、ラジオを探している。その中で、面白いDSPラジオを見つけた。安い。668円と言うと「安い!」と思うかもしれないけれど、たまに「ワナ」が有るので注意。送料が商品よりも高い場合が多いのだ。これは商品を安く見せるテクニックで、「携帯が1円」と言いながら、実は後の通信料でお金を回収しているのと同じ。商品の代金と送料を合わせて判断する必要がある。僕の場合、孫の誕生日プレゼントの「子供でも作れる電動の恐竜のおもちゃ」と合わせて買ったので、結果的に安かった。但し中華のラジオは中国とアメリカのFMバンドに合わせているので87.5MHz以下が入らない。実は日本のFMバンドは世界の中では異端児で、少数派。なので仕方ない。日本の通信の世界は異端児が多い。例えば携帯電話。よく「ガラケー」と言うのは、実は「ガラパゴス携帯」の略である。日本の携帯が日本独自の仕様で、海外の携帯の中の異端児だったのを、ガラパゴス島の生物のように、世界の他の地域から切り離された独自の物として皮肉った言い方である。まぁそれでも結果的にワイドFMを上手く使えるようになったので、良かったのかもしれない。仕方ないので改造する。まずは分解。おぉー!DSPラジオICはAKC社のKT0936だ。愛天堂の得意分野だな。データシートが手に入る。(データシートは愛天堂ではなくネットから入手)調べると他のAKC社のDSPラジオICと同様に抵抗で判別してBAND決定するタイプ。こんな感じ。例によって画像を右クリックして出るメニューから「新しいタブで新しい画像を開く」で別タブに画像を開けば大きな画像で見られる。目の悪い人ならば、右上の設定メニューでさらに画像を大きくできる。FMは63.4Ωを273Ωに換えるだけで日本バンドになる。(抵抗の場所は1枚目の画像)但し、抵抗はSMD(表面実装型)の上に一番小さいタイプなので半田付けが難しい。写真を見ると抵抗が赤と黒のリード線よりも細いのが分かると思う。半田付け初心者には無理かも?<後日追記>今日見たらデータシートには273Ωではなくて237Ωって書いてあるなぁ。もうジーサンだから目まで悪くなってる?でも動作しているからいいか。結構いい加減でも動くんだなぁ。AM(MW)はそのままでOK。SWも使わない人はそのままで良いのだが、ラジオNIKKEIがSW1の一番端っこなので使いにくい。SWバンドが広すぎてボリュームをちょっとずらしただけで聞こえなくなる。なので、僕は(どっちみち使わない)SW2を5.55~6.60MHzに変更した。(ラジオNIKKEIは6.055MHzなのでダイヤルは中央付近になり、幅は広くなる。)上の図で言えばSW47からSW7に変更したのである。これならば十分広いし、周波数ステップが5kHzなのでシビアーに周波数を合わせられる。ただ使う抵抗がかなり特殊で、愛天堂だけでなく秋月や千石及びマルツにも無い。仕方ないのでアリエクで探したら、273Ωは無かったけれども274Ωが有った。仕様書には273Ω誤差1%と書いているので274Ωでも使えるかなと思い買ってみた。その結果FMは76~108MHzを聞けるようになった。おぉー!FM東京とFM横浜が聞こえる!しかもこのラジオ感度が良いかもしれない。市販の安物ラジオなんか足元にも及ばない感度だと思う。FM放送は僕の電波環境の悪い部屋でも10局くらい聞こえる。南側のベランダならば静岡や千葉の放送局も聞こえるので20局は入る。しかも感度が良いので「スケルチ(雑音除去機能)」が効いて、放送局の無い部分が無音になる。AM(MW)放送も関東の放送局は全部入る。ただ、周波数を表示する液晶やLEDが無いので、自分で手書きで目盛を書かなくてはならないのがキズ。上の写真は自作のSGもどき(実は単なるトランスミッター)で電波を飛ばして、その受信周波数を頼りに手書きで周波数目盛を書き込んでいるところ。細い油性マジックで書けば綺麗になるのだろうけれども、僕はジーサンなので、細い字を書くのが苦手。汚いのは仕方ない。まぁでも使えるならばいいか。ただ残念なのはボリューム。半固定ボリュームなので固定しているのと同じ。とても使いにくい。なので交換することにした。愛天堂で新しいボリュームを買って、接着剤で付ける予定。ただ、愛天堂に行くのが年末もしくは来年の年始になるので、それまでは配線のみやっておき、とりあえず半固定ボリュームを付けておく。ちなみに上の写真でも使っているけれど、イヤホンではなくヘッドホンやハイレゾイヤホンをお勧めします。音が全然違うから(特に低音と高音部)。そんな感じでアリエクで買った4バンドDSPラジオの日本バンド化がうまくいった。<後日追記>ボリュームを付けてみた。実は半固定抵抗は500Ωで、目いっぱい回しきった状態で、ちょっとでも回すとすぐに音が消える。ボリュームの機能をはたしていない。じゃぁAKC社のデータシートの模範回路はどうなっているのか見ると、模範回路図にはボリュームがついていない。アリエクのこのラジオはどうやっているのかなと思ったら、なんと音声出力をボリュームで分割しているだけだった。まぁひどいもんである。恐らく正解はこの音声出力をアンプにつないで、そこでボリュームを効かせるのだと思う。でも面倒くさいので、愛天堂で買ってきた1個10円のボリュームを付けてみた。で、どうなったかと言うと、回路図を見ると分かるように本来10kΩを付ける部分に500Ωの半固定抵抗を付けていたのが、愛天堂の1個10円のボリュームは5kΩなので、多少は改善されて、少しは音量の変化が感じられるようになった。でも僕の耳では回転角度100%から90%の間で変化が分かるだけで、90%以下は聞こえない。ただ100%から90%の間では変化しているので、耳の良い人には聞こえるのかもしれない。恐らく最初の半固定抵抗の状態では、耳の良い人はうるさくて使えないと思うので、100%から90%でも音量が変化するだけましになっていると思う。回路図はこんな感じ。(電源部分や選局部分は省略している。必要ならばデーターシートを見て欲しい。)このラジオは実はSWは高周波増幅回路(トランジスター1石)が付いている。でも非同調なのであまり役に立たないのかなと思うが、一応ラジオNIKKEIは受信できた。あとお隣や中華のラジオも聞こえた。(聞きたくないけれど)ちゃんとSWを聞くにはちゃんとしたアンテナとアースが必要だと思う。完成品はこんな感じ。FMバンドを87.5-108MHzから76.0-108MHzに変更したので、周波数目盛をマジックで書いてある。みっともない汚い字だけれど、無いよりはまし。あとSW2もラジオNIKKEIが聞けるようにしたので、6.055(MHzは略)を書いている。ボリュームは愛天堂の1個10円のボリュームは金属のツメが付いているので、電池ケースに穴を開けてツメを差し込んで固定している。まぁ値段からするとこんなものかな?ケースの加工がうまい人ならばケースに入れるとカッコ良くなると思う。でも僕はセンスが無いので無理。
November 19, 2025
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11月6日のわの会は藤沢市の遊行寺に参拝しに行きました。藤沢市は既何回も訪問しているのですが、遊行寺の本堂は初めてです。ルートはこんな感じです。藤沢駅は、この日JR東海道線が乱れており集合が大変でした。東海道線は品川から川崎付近は、東海道線・京浜東北線・横須賀線・湘南新宿線・京浜急行が同じ所を走っているせいで、よく止まります。踏切が多くて重なっているからです。日本の頸動脈なので、そろそろ改善して欲しいものです。最初は庚申堂へ向かいます。関東はあちこちに町の角々に庚申堂塚が有ります。上の写真に書かれているように、関東の庶民は庚申信仰に厚く、あちこちで庚申構が行われていたようです。厄払い的な意味が強いのですが、想像するに徹夜で集まっていたので、お祭り的な意味合いも強く、信じる人達のつながりを元にした頼母子講的な面も有ったのだと思います。脇には庚申塚が並び、奥には庚申供養塔が有ります。元々は庚申信仰は中国の道教の教えなので、それが何故庶民に広く伝わったのかは分かりませんが、寛文13年と言えば徳川家綱の時代です。確かこの頃、あの千姫が亡くなったはずなので、戦国時代も遠くなりけり的な時代だったのではないかと思います。本堂の木造青面金剛と両脇侍立像は庚申の年にしか公開されないので、次に公開されるのは2040年です。仕方ないのでネットから写真をお借りして載せます。何故か、猫のようなお顔をしてらっしゃる。そして微妙な位置に手を合わせた仏様?がおられる。どんな宗教的な意味があるのでしょうか?庚申堂の先には江の島道との合流地点に道標が有ります。江の島の弁天信仰は、1182(寿永元)年に源頼朝が文覚上人に命じて、ここに弁才天を勧請したことに始まります。道標は杉山検校が建てたもので、元は48基有ったらしいのですが、現存するのは12基です。ちなみに杉山検校は江の島で修行し、鍼の施術法の一つである管鍼(かんしん)法を創始した方です。管鍼法とはストローのような管を使って鍼をうつ方法で、正確に簡単に鍼をうてます。道標を後にして次は船玉神社に行きます。ここの説明板を見て、やっぱりと思ったのは鎌倉時代の船の話。鎌倉は砂浜なので、船を着岸できる港が造れず大変だったと思うのだけれど、現実的にはどうしていたんだろうといつも思ってた。材木のように濡れても良い物で、船に積み下ろしを必要としないものは、砂浜でも大丈夫だけれども、積み下ろしが必要な物は桟橋を作らなければ着岸できない。海は潮の満ち引きが有って深さが変わり、あるいは水平方向に相当奥行きが無いと桟橋は実用にならないのだが、海では波に洗われるせいで「洗掘」と言うのが起こり、桟橋の柱周辺は波で削られて、江戸時代くらいまではちゃんとした桟橋は造れなかった。ではどうしていたかと言うと、川岸を使っていたのである。川であれば、流れは有るが「寄せては返す波」が無いので洗掘は問題にならず、潮の満ち引きも上下方向(深さ)の話はあるが、水平方向の話は無いので、小型の船ならば港として使えるのである。でも当時の鎌倉の砂浜ではダメだった。それで北条泰時は「和賀江島」を造ったのである。でもやはり不便だったので、実際は六浦が鎌倉の外港として活躍したのである。それでここの案内板を見て、実際は砂浜ではなく川(ここは境川)を使ってたんだなと思った。船玉神社の狛犬は面白い。日本の他の地方では狛犬はたいてい天邪鬼など「悪い奴」を踏んでいて、それ故に結界を守る力の強い存在なのだけれども、関東では何故か愛嬌があって、優しい。ここの狛犬はなんと「てまり」を転がして遊んでいる。もう片方は子供の獅子を踏むのではなく「撫でて」いる。金沢区の手子神社の狛犬も子犬を踏むのではなく見下ろしていたが、関東の狛犬はちょっと違うなと思った。船玉神社をあとにして次は感応院。感応院は建保6年(1218年)道教律師の開山で、開基は源実朝です。中に入って右に行くと三島明神が有ります。この三島明神は源頼朝が「富士の巻狩り」の旅程の厄除けにここに三島明神を勧請したのが起源。そう言えばNHKでやってた頼朝殿の13年では、「富士の巻狩り」で頼家に巻き狩りで手柄を立てさせようとみんなで苦労した様子が描かれ、いつの世も親ばかと言うのは有るんだなと思ったのだけれども、もう一つ、曽我兄弟の敵討ちも「富士の巻狩り」で起こったんだよな。あれは北条時政の陰謀だったと言う話だけれども、時政はもうこの頃から頼朝暗殺を企んでいたんだな。ちなみにこの三島明神のお堂は回転できるように作られているのだそうだけれども、今は鎖でおおわれているのでダメ。感応院の次は遊行寺橋へ行く。この橋を渡って昔の人は江の島弁天を目指したらしい。なので、昔はこの橋のたもとに「江の島弁財天一の鳥居」が有ったらしい。橋を渡ると奥にふじさわ宿交流館が有る。中では藤沢の歴史や名物を紹介している。江戸時代の藤沢ってけっこう繁盛してるじゃん。交流館を出て元の道に戻って先に進むと遊行寺惣門が有る。遊行寺の惣門は他のお寺とは違い屋根が無い冠木門である。何故、他のお寺と形状が違うのだろうかと疑問に思って調べたけれども分からなかった。でもふと思ったのは、ここは東海道が通り、分かれて江の島弁財天へ行く所であり、遊行寺橋のたもとには一の鳥居が有ったらしいので、もしかすると山門と言うよりは鳥居を意識して造った門なのかも知れないなと思った。あくまでも想像で何の根拠もないけれど。惣門の傍らには大きな聖堂の灯籠が有る。500名もの寄進者が居たと言うのもすごいなと思う。惣門を「入ると緩やかな坂になっており、この坂はモミジ坂と言うらしい。モミジ坂を登ると遊行寺境内に入る。境内中央にはものすごく大きなイチョウの木が有る。写真では分かりづらいと思うが、本当に大きい。そして本堂に向かう。遊行寺は時宗総本山である。写真右の一遍上人が開祖で、創建は正中2年(1325年)なので今年は700年である。一遍上人は伊予の豪族河野通広の次男で延応元年(1239年)の生まれ。36歳の時に修業中に熊野権現の念仏賦算の神託を受けた。「往生はただ”南無阿弥陀仏”によってなされる」と悟りを開き、「信不信を問わず、浄不浄を嫌わず」を信条に、「決定往生六十万人」の御札を渡すことが「仏門の道」と知ったと言う。40歳の頃より「踊念仏」を始めた。参考に京都国立博物館の「京都旅籠」をお借りして載せる。うーん???盆踊りのルーツかな?本来は本堂で御講話が聴ける予定だったんだけれども中止になったので本堂の見学。僕は宗教はまったくわからないので仕方ないけれど、浄土真宗に比べて質素な感じがする。本堂を出て右に行こうとして、面白い物を見つけた。なんとお寺の境内におみくじと絵馬が有る。何で???と思っていたら、次に行く所の関連かもしれないと気づいた。宇賀神社である。いわゆる銭洗い弁天である。奥にちゃんと硬貨を洗う場所が有る。さっそく500円玉を洗って、差し上げた。遊行寺の境内はものすごく広い。宇賀神神社の先には放生池が有る。放生池と言うのは、その発想は放生会に有ると思うが、元々はインドの思想で、中国・朝鮮経由で日本に伝わった、殺生を諫める宗教行事。眼前の六道を輪廻する衆生であり、代々の父母でありわが身であるとする考え方である。つまり我々は、天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の「六道」と呼ばれる6つの世界を常に転生し続けており、その行き先は常に生前の善悪の多寡に因るとされる思想である。だから、今目の前にいる獣や魚は数年前に亡くなった両親が、ちょうど畜生道に有り、人間道を生きる我々に何かを語りかけているのかもしれず、大事にしなければいけないと言うことである。昔はそんなことは信じなかったけれども、僕も年をとると何故かそのことが分かるようになってきた。そしていよいよ長生院に向かう。長生院奥には小栗堂が有る。実は写真には撮らなかったけれども、右手には十勇士の墓と馬の鬼鹿毛丸の墓も有る。鬼鹿毛丸(おにかげまる)は小栗判官の乗っていた馬である。応永30年(1423年)小栗満重(常陸国小栗十四代城主)は足利持氏に謀反を起こし攻められる。家来十人とともに落ちのびる途中横山大膳の館に泊まった。ところが、盗賊大膳は照手姫をつかって満重に毒酒を飲ませ財宝を奪おうとした。照手姫の密告によって満重は命を助けられたが、家来十人は毒殺された。満重は鬼鹿丸という馬で遊行寺に逃れ上人に助けれ、のち横山一党を破る。照手姫は満重が亡くなった後、遊行上人を頼って満重と家来の霊をとむらい、長生尼となって余生を過ごした」とされている。それがここらしい。照手姫は金沢にも縁が深く、金沢八景近く六浦の侍従川は照手姫の侍従が身を投げたところから名前が付けられた川である。彼女のお墓はここに有ったのか。無事に遊行寺まで見てまわり、来た道を引き返して藤沢駅で解散した。途中藤沢駅そばのやなぎ通りで面白いのを見つけた。島倉千代子は美人と言うよりもかわいい人である。可愛いのだけれども幸が薄く、何度も男にだまされて財を失い捨てられて。でも頑張って生きてます。そう言う感じの人だった。昭和の歌手はストーリー性が有るなぁ。ということで、わの会は終了した。
November 11, 2025
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ここまで学者先生や研究家たちが魏志倭人伝の卑弥呼や邪馬台国の記述について書かれた、色々な推理や解釈について、変だなと気がついたことを書いてきた。今日はその5として卑弥呼=日の巫女なのか?と言う解釈について書く。邪馬台国=宮崎説の僕の立場としては、当然、卑弥呼=天照大御神であり、天照大御神とは人間の名前ではなく、神格化された高貴な巫女様のことなので、当然、卑弥呼=日の巫女であるはずなのだけれども、では、卑弥呼の死後(男王を経て)あとを継いだ壱与は、卑弥呼ではないので日の巫女ではなかったかと言う疑問が生ずるし、僕も悩んできた。でもやっとその答えが出た。「壱与」は本当の人名で「卑弥呼」のように役職名(日の巫女)ではなかったのだと思う。「壱与」は13歳で女王になった。でも幼くて力が無くて大変だったと思う。それなのに何故倭国の動乱が収まったか?それは魏から来た「張政」が後見役として19年間も彼女が一人前になるまで倭国に居たからだ。魏志倭人伝にも、「復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與」と書いてあるから。政と言うのは張政である。張政が「ガンバレよ」と壱与に告げて励ましたと書いている。壱与は張政が中国に帰る時に見送りを付け、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹を貢いでいる。魏の皇帝に貢いだのではない。張政に貢いだのである。よほど感謝したのでろう。原文にはこう書いてある。「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹」なので卑弥呼とは違い、壱与は張政などの記録によりその本名が中国側にも伝わっており、それが魏志倭人伝にも書かれていたのだと思う。実は卑弥呼を天の岩戸にこもる前の天照大御神で、壱与を天の岩戸から出て来た天照大御神と考えると、ものすごくつじつまが合う。古事記や日本書紀を読むと天岩戸前後で天照大御神の行動と立場が変わるのである。天の岩戸にこもる前の天照大御神は独裁的で、何でも自分で決めて怒る。でも天の岩戸から出て来た天照大御神は一人では何でも決めず、高御産巣日神や思金神と相談し、しまいには思金神が主導権を握っている。例えば須佐之男命と天照大御神の誓約の話や月読命が保食神を殺した場面くらいまでは、高御産巣日神や思金神は出ておらず、天照大御神が全て自分で対応している。なのに「国譲り」の場合は、神々を集めたのは天照大御神単独ではなく、高御産巣日神と天照大御神が共同して天の安の河の河原に八百万の神々を集め、どの神を葦原中国に派遣すべきか問うたと書かれている。そして天若日子を派遣することを決定したのは思金神と八百万の神々である。つまり天岩戸前後で天照大御神の性格と立場が変わっているのである。僕は現実主義者なので、イザナギがイザナミの死後に会いに行った場所は古墳であり、イザナギは死後腐敗した伊邪那美を見て驚き、殯屋に有った桃や自分の頭の櫛を投げて払い、古墳から逃げたのだと思っている。何故なら古事記には、イザナミのいる黄泉の国から現世に逃げかえる場面で、「逃來猶追到黄泉比良坂之坂本時取在其坂本桃子三箇待擊者悉逃进也」と書かれているからである。意訳すると、(逃げて来てさらに追いかけて黄泉比良坂の坂本(坂の登り口)に至った時に、 そこに有った3個の桃を待ち構えて投げつけたところ追手はみんな逃げてしまいました。)つまり逃げて来て坂の登り口に着いたのだから、イザナミが居た所は黄泉比良坂の上であり、地下の国のはずなのに坂の上に有ると言うことは、イザナミが居た所=黄泉の国は、古墳の頂上にある石棺などの施設だとしか考えられない。また、その登り口に桃(厄除けなど使者を弔う場所に置かれた)が有るのだから、そこは造出などの古墳の祭祀が行われた場所しか考えられない。つまり現実的に考えると、イザナミは古墳に葬られており、イザナミを恋しがったイザナギはもう腐敗し始めていたイザナミを見て恐れ、あわてて古墳の斜面を転がりおちたと思えるのである。天照大御神の天岩戸も同様で、天岩戸と言うのは古墳の石棺のフタであり、亡くなった天照大御神(卑弥呼)は石棺に納められており、そこに姿を現したのは天照大御神を引き継いだ新しい日の巫女だと思うのである。それは卑弥呼の宗女つまり親類の少女=壱与であり、卑弥呼の宗女なので、若い頃の卑弥呼そっくりだったのだと思う。つまり天岩戸と言うのは新旧の卑弥呼の交代・引継ぎの様子なのだと思う。そしてそれを演出したのは高御産巣日神なのだけれども、それは壱与を助けて倭国の動乱を鎮めた魏の張政だったのだと思う。張政は19年も日本に居たので、日本で壱与のお姉さんあたりを嫁にもらい、そして生まれたのが思金神であり、思金神は高御産巣日神=張政が中国に帰った後も、壱与を助けて倭国を治め、卑弥呼を殺した狗奴国の男王=素戔嗚は朝鮮に追い払われたのだと思う。そう考えると日本の神話は現実の出来事を書いているのだと思う。ただ、口伝だったので、しかも神様と言うことにしたので、上手く伝わらず、神話になったのだと思う。壱与が卑弥呼とは違い「本名である壱与」が魏志倭人伝に残ったのは、張政が帰国後に詳細を残したせいで、倭人から聞いて役職名の卑弥呼=日の巫女だけしか残らなかったいわゆる卑弥呼とは違い、魏志倭人伝の編者である陳寿にもちゃんと伝わったせいだと思う。
November 8, 2025
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ここまで学者先生や研究家たちが魏志倭人伝の卑弥呼や邪馬台国の記述について書かれた、色々な推理や解釈について、変だなと気がついたことを書いてきた。今日はその4として魏志倭人伝における「會稽東治之東」の解釈について書く。世の中の学者先生や研究家たちは「會稽東治之東」を、「東治」は「東冶」の誤りだとして、勝手に書き換えて読む。日本の学者先生や研究家達は、自分が理解できないと「原文」を勝手に書き換えて読むのは、およそ学問とはかけ離れた、恥ずかしい行為である。「僕が頭が悪いのはお母ちゃんのせいだ」と言う子供と行動原理が同じである。悪いのは自分ではなく人のせいだと言うのである。「会稽東治」だと「会稽の東部地域の治所」と解釈し、現在の江蘇省蘇州市辺りとなる。一方、「会稽東冶」だと「会稽郡東冶県」という解釈で、福建省福州市辺りとなる。両者は南北で約580キロメートルも離れている。大きな違いである。googleMapで見てみる。「会稽郡東冶県」と解釈した場合は確かに太平洋の海上に邪馬台国が位置してしまう。よく「魏志倭人伝はいいかげんだ」と主張する学者先生や研究家の言う根拠である。自分達が理解できないと相手が悪いと言う子供の原理である。どうしてこうなったかと言うと、一つは現実によく名前の似た「会稽郡東冶県」があるせいで、これが無ければ間違いは起こらなかった。もう一つはバカな学者先生の独特な発想によるものである。先生は「会稽郡東冶県」が呉の領地であることに着目して、魏の人達が戦っている呉を牽制する目的で、魏と交流が有る倭国を「会稽郡東冶県」つまり呉に近い所に偽装して、呉に警戒させようとしたと考えたのらしい。バカだなぁと思う。魏略のように「魏」のことを書いた本ならばそんな仮想的な理論も考えられるが、魏志倭人伝は「三国志」の一部分で、当然魏だけではなく呉や蜀についても書かれている。つまり呉の地理や状況も(意外に)公平に書かれているのである。三国志ではないが、これをエンターティメント的に書いた三国志演義に至っては、なんと魏ではなく蜀(というか諸葛亮孔明と劉備)を主人公にしている。魏に有利に書くと言う発想は無いのである。そもそも魏志倭人伝(三国志)が完成したと言われる280年頃には魏は滅亡している。魏は西晋に禅譲して、魏の一部の人達は残っているが既に無いのである。呉の方はまだ残っているが、相続争いの結果弱体化しており、これも280年には滅亡する。つまり倭国の位置を偽って呉を牽制する意味が無くなっている。当然三国志を書いた陳寿もそんな必要性は感じなかったのである。最初に戻って「会稽東治」を「会稽の東部地域の治所」と解釈する意味を考えてみる。これは原文を見ればすぐに分かる。(原文)男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫夏后少康之子封於會稽斷髪文身 以避蛟龍之害今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里當在會稽東治之東(意訳)(倭国の)男子は大人も子供も、皆、黥面文身(いれずみ)している。昔から倭国の使者は中国に来ると、皆、自ら大夫と称す。夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、それにより蛟龍の害を避けていた。今、倭國の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み、文身は亦以って大魚、水禽を厭(はら)う。ただ現在は稍(しだい)に以って装飾となっている。諸国の文身は各(それぞれ)に異なり、左にあったり右にあったり、或いは大きかったり或いは小さかったりして尊卑差有り。その道里を計るに、まさに会稽の東の(夏后少康の子の)治めた所の東に在るべし。意訳を読めば分かると思うけれども、きっかけは倭人の入れ墨をする風習が何を元に始めたかということを、中国南部の会稽あたりでもそうであることを元に書いているのであるが、その説明に際して、そう言えば倭国の女王国の有る位置もここの東になるなと気がついて、それを書いているのである。つまり元になったのが「夏后少康の子」の話で有り、その領地の東だと読めるのである。(学者先生は漢文を上手く読めないので、 直前に書かれている「夏后少康之子封於會稽」の「會稽」と、 後ろの「當在會稽東治之東」の「会稽」の関係が読めないのだと思う。)ちなみにWikiの「少康(夏)」を見ると次のように書かれている。「呉越春秋」越王無余外伝によると会稽に封じられ越王勾践の祖となった「無余」がいる。この「無余」のことを陳寿は書いているのだと思う。本文とは関係ないが日本の学者先生は変にプライドが高いので、古代とは言え日本人が入れ墨をしていたはずは無いと主張するけれども、それは、入れ墨は野蛮人の風習と考えるからで、上の魏志倭人伝の原文でも分かるように古代では中国南部の人達も刺青をしていた。今でも中国の芸能として伝わる変面などを見れば中国人も入れ墨をしていたことが分かる。また江戸時代の浮世絵や歌舞伎を見ても普通に入れ墨をしている。なので変な事では無いのである。そして古代日本人は(特に武人は)入れ墨をしていたことが古事記を読んでも分かる。神武天皇が東征を終えて、奥さんたちを探している場面である。(原文)爾大久米命以天皇之命詔 其伊須氣余理比賣之時見其大久米命黥利目而思奇歌日阿米都都 知杼理麻斯登登 那杼佐祁流斗米爾大久米命答歌日袁登賣爾 多陀爾阿波牟登 和加佐祁流斗米故其孃子白之仕奉也(意訳)その後、大久米命は天皇の命に従い、その伊須気余理比売を召した時、(伊須気余理比売は)大久米命の黥(いれずみ)した鋭い目を見て、怪しく思い歌いました。胡蔫子鶺鴿 千鳥ま鵐何故黥ける利目(この1行は歌であり、下がその意訳)胡鷰子(あめつばめ)鶺鴿(せきれい)千鳥(ちどり)あら頬白(ほおじろ)かしらどうしてそんな黥(いれずみ)した鋭い目なの?それに、大久米命は返歌しました。乙女に 直に逢はむと吾が黥ける利目(この1行は歌であり、下がその意訳)あなたのような乙女と会おうとして、こんな黥の鋭い目なのですよ。このようにして、その令嬢は「お仕え致しますわ。」と申し上げました。つまり伊須気余理比売が恐れたように、この時代の武人は入れ墨をして怖い顔をしていた。これは魏志倭人伝では、川に住む蛟竜(姿が変態する竜種の幼生:現実には龍はいないので水難のこと)の害を避けるその為に入れ墨をしていたのだが、時代が下ると装飾になって行ったと書いている。日本でも同様に、かっては倭人も相手を恐れさせる目的で入れ墨をしていたが、既に神武天皇の時代には装飾で「かっこよく」見せる為の物となっていたと言うことだと思う。まぁそんな感じで、学者先生や研究家達は、この「會稽東治之東」を勘違いして読んでおり、自分達が間違えたとは言えないので、魏志倭人伝はいい加減だと主張するのだと思う。
October 28, 2025
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多くの学者や研究者が、邪馬台国=女王国と勘違いしているが、実は邪馬台国と言う言葉は魏志倭人伝の中では1回しか出てこないし、他は全て「女王国」と書かれており、極端な話をすれば、邪馬台国と言う言葉と女王国と言う言葉は15文字しか離れておらず、そんなに近くにあるのに両者を「気まぐれ」や「誤って」混在することはあり得ず、魏志倭人伝の編纂を行った陳寿は明らかに「邪馬台国」と「女王国」を使い分けており、いわゆる「邪馬台国所在地論」は実は「女王国所在地論」なのだと(その2)で書いた。邪馬台国の所在地は色々な学者や研究者が、日本中に比定しており、いまだに決定打が無いのは何故だろうか?近畿説を唱える人達の根拠が全く根拠になっていないのは(その1)で書いた。北部九州説を唱える人達の根拠についてはまだ書いていないが、近畿説も北部九州説も「原典を書き換えなければ成立しない」ひどい状況である。学問として「原典を書き換える」のは正しいことなのだろうか?いや本当に真実が「原典を書き換えないといけないもの」ならばそれも選択肢の一つだろうが、近畿説や北部九州説を読むと、そうは思えない。そう言うつもりで(その1)で近畿説を否定したのだが、北部九州説も同じだと思う。論理的な議論が尽くされていないと思う。何故「論理的な議論がなされていないか?」と言うと、原典を訳した人は大勢いるが、原典を解読した人が少ないせいだと思う。よく「魏志倭人伝は信用できない」と言う人がいるので、その根拠を読んでみると、単に自分の説に都合が悪いからと言うのがほとんどである。例えば「魏の里程は1里=300~400mのはずなのに魏志倭人伝は70~80mで書かれている」と主張する人の根拠を見てみたら、直接的に「魏の里程は1里=300~400m」と書かれた書物は無く、大月氏国への行程の説明で使われた里程がそうだからと言う人がいるが、これは魏の里程ではなく大月氏国の里程かもしれず、大月氏国への行程の記録と倭国への記録は対等の立場なので、ただ単に近畿説の立場の人が自説に都合の悪い1里=70~80mを否定したいだけだと思う。「魏志倭人伝を読むと魏の里程は1里=70~80mであった」と言えるのではないだろうか?また偉い先生が一寸から計算で求めたと言うのも実際は推論だけで、別の人で紀元前2世紀に書かれた周碑算経から1里=76mと計算するひともいるので、偉い先生だからと言って、無理やり魏志倭人伝にそれを押し付けるのは間違っていると思う。そもそも魏志倭人伝に書かれた行程の距離は現実の地図に合っているのである。つまり「単に難癖をつけているだけ」だと思う。どうしてそうなっているかと言うと、上に書いたように訳しただけで解読してないからである。ここで一つ例を挙げてみよう。世の中の学者先生や研究者達は、帯方郡から邪馬台国への行程を、帯方郡→狗邪韓国→対海國→一大(壱岐)國→末蘆国→伊都国→奴国→不彌國→投馬國→邪馬台国(女王国)と考えている人が多い。本当にそうだろうか?実はこれが間違いで、そのせいで近畿説は「南と東を間違えた」と原典を書き換えるし、北部九州説は「距離を間違えた」と原典を書き換えているのではないだろうか?世の中の学者先生や研究者達は魏志倭人伝が「切り張りが多く」、「前後関係がつながっていない」と言う人が多く、これが魏志倭人伝がいい加減だと言う話になる。ほんとうにそうだろうか?僕は違うと思う。世の中の学者先生や研究者達は漢文が読めず、魏志倭人伝を日本語に訳してはいるが、現代の本と同じようにスラスラとは読めていないのだと思う。漢文の特徴は、漢字がずらずらと並び切れ目が無く、語順が日本語とは違う。その為に日本語に訳す時には適当に切れ目を入れて、レ点や一二点を付けて語順の補正を行って「読み下し文」を作る。単に短い文を「訳す」だけならばこれで済む。でも、長い分と言うか本の場合は「章」も考えるべきなのに、魏志倭人伝を章だてした人を見たことが無い。そのせいで、本来別の章である、「帯方郡から不彌國まで」の行程と、「投馬國」及び「邪馬台国」への行程を一緒にしている。「帯方郡から不彌國まで」の行程と「投馬國」及び「邪馬台国」への行程では、文章の書き方や語順が全く違っている。「帯方郡から不彌國まで」の行程は「里」で書いており、文章の語順も「実際に歩いて行ける」行程になっているのに、「投馬國」及び「邪馬台国」への行程は「日数」で書いており、文章の語順は「誰かに聞いた場合の」行程になっている。この事はみんな気がついているのに、それを解読していない。どう考えてもこの二つは元になる資料が違っていると考えるべきであり、全く異なる資料に基づいた二つの行程を何故つないでしまうのかと思う。全く異なる資料を基に書いたのだから、別の話で有り、つないではいけないのではないかと思う。二つをつないでしまうのは、漢文が切れ目が無い為にそのまま続けて読んでしまうからだと思う。続けてはいけないのである。実際の漢文(陳寿の時代の物ではなく後世の物だが、僕の主張は分かると思う。)を載せる。では「章」が分かれているとして、どう読めるのか?実際に魏志倭人伝を章だてしてみた。「魏志倭人伝」第1章 本邦使者達から聞いた倭国への道(不彌國まで) 帯方郡から倭国の中心地までの行程と、倭国の主要国の様子及び重要人物第2章 過去の倭人によるヒアリングに基づいた倭国周辺部の主要国(女王国や投馬國) あまりに遠方なので本邦使者も訪れてはいないが過去に残された資料により、 名前だけは記載できる国々と、 遠方だが多少は分かる投馬國、狗奴国及び邪馬台国の王が住む女王国の様子と重要人物第3章 倭國の風俗(倭地であって邪馬台国では無いのに注意) 食生活や装束をはじめとした風俗について、また動植物をはじめとした自然について 気候や宗教的なこと及び家族生活並びに生産品 大陸への渡海や鉱物等第4章 倭國の政治・軍事及びカーストについて 倭國の社会一般について 例えば家族構成や身分の構成と対応 一大率の存在第5章 最近の倭国 卑弥呼が倭王になった経緯や狗奴国との争いの状況 倭国以外の国の存在 魏への朝貢の状況と魏からの返礼 張政の派遣と卑弥呼の死そしてその後 台与について及び張政の帰国こんな感じになると思う。でも漢文は切れ目が無いので、本当にこの章だてで良いかと言うと自信はないが、まぁ間違ってはいないと思う。で、本題に戻ってちゃんと章だてしたらどうなるかと言うと、帯方郡から不彌國までは中国の使者が不彌國まで行った際の記録である。対して投馬國と邪馬台国は、古い資料恐らくは後漢の時代に渡って来た奴国の使者に聞いて書かれた記録で、それ故に倭人にとってまた後漢にとって重要な国だけしか書かれていなかったので、魏志倭人伝には、誰かから聞いたような書き方で残っている。陳寿は、それに最新情報である卑弥呼と戦っている狗奴国を独自に追加したのだと思う。と言うことは、帯方郡→狗邪韓国→対海國→一大(壱岐)國→末蘆国→伊都国→奴国→不彌國で第1章は終わり、そこまでと投馬國及び邪馬台国は連続しておらず、第2章の「帯方郡→投馬國」及び「帯方郡→邪馬台国」は並列だと読めるのである。実は過去の学者先生や研究家もうすうすは気がついていた人もいる。古田先生達である。ただ古田先生たちは何故「帯方郡から不彌國まで」と「邪馬台国や投馬國」は連続していないかを上手く説明できていなかった。「章」と言う概念を思いつかなかったからである。そのせいで古田先生は「水行10日」だけならばともかく「陸行1月」を朝鮮半島内からにして、無理を重ねて理論破綻してしまう。魏志倭人伝には狗邪韓国から対海國(対馬)に渡る際に「初めて(海を)渡る」と書いている。つまり朝鮮半島の中で陸行を始めると「初めて渡る」ことにはならないのである。最適な理論は昔からの先生方の主張の中に有る。昔の先生方は、「千里と言うのは概念的なもので実際の距離ではなく1日で行ける水行距離」と主張していた。ものすごく参考になる。この昔の先生方の理論を参考にすると、帯方郡から狗邪韓国へは水行7000里なので、7日の行程である。狗邪韓国から対海國(対馬)までは1000里なので1日、対海国から一大(壱岐)国までも1000里なので1日、一大國から末蘆国までも1000里なので1日。これらを合計すると10日。つまり水行10日は帯方郡から末蘆国つまり九州に上陸するまでの距離なのである。とすると末蘆国から陸行で1月で行ける場所が「帯方郡から水行10日陸行1月」となり、「女王国(先生方の言う邪馬台国)」になる。すると、帯方郡からの行程なので、伊都国や不彌國を経由するとは限らず、(もちろん伊都国や不彌國経由でもかまわない)伊都国や不彌國の位置に縛られることなく、上陸地点から陸行で1月歩いて行ける場所ならどこでも良いと言うことになる。例えば大分の宇佐でも良いし、熊本のどこかでも宮崎のどこかでも良いと言う事。投馬國についても水行10日で末蘆国に着いて、上陸せずにそこからさらに水行10日の場所なら合計水行20日になるので、末蘆国付近から水行10日で行ける場所ならどこでも良いのである。例えば出雲でも良いし、四国も大丈夫。宮崎の西都原でも良いのである。とすると魏志倭人伝は今まで「章」と言う概念を思いつかなかったせいで読めなかったが、ちゃんと漢文を(訳すだけでなく)解読してやれば、結構正確に書かれた文書なのだと分かるのである。漢文が読めてなかっただけ。そして近畿説の人をいじめて申し訳なかったけれども、この考えが正しいならば近畿説が復活する。古代とは言え中国の技術力は当時既に三角測量も「指南魚」も存在しており、「南と東を間違える」ことは考えられないが、第2章が倭人から聞いた記録ならば、倭人にはその技術力が無かったかもしれない。倭人なら「南と東を間違える」可能性は有るのである。だって1万2千里もはなれた国だから。中国の船ならば構造船なので水行1000里は1日だけれども、倭人の舟(船ではない)ならば丸木舟か準構造船なので1日では無理。季節や時間及び海流の様子を見ながら進むので潮待ちの時間を考慮するとずっと時間がかかり、方位だって倭人には知る方法が無く、地元の山ならば南と東は分かるけれども、遠く離れた初めて見る山では方位は分らず、方位を誤認する可能性は有るのである。極端な話だが、上陸地点は末蘆国ではなく下関かもしれない。そして倭人の舟だと瀬戸内海は危険なので、広島や岡山、大阪を陸路で陸行1月かけて纏向まで行ったのかもしれない。近畿説の復活である。なので、第2章が後漢の時代に倭国の書者から聞いた記録だったのならば、近畿説は復活するなと思う。(北部九州説の古田先生の説が近畿説の復活につながるなんて皮肉だな)近畿説の人にうらまれなくて良かったな。
October 14, 2025
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昨日は邪馬台国論の中でとても大事なんだけれども世の中の学者先生や研究家が考えないことについて過去に書いたことの整理と新たに推理したことを一つ例を挙げて書いた。それにしても、例として挙げた論理学的な考え方の基礎を知らない学者先生が、「纏向が3世紀後半の遺跡なので邪馬台国である考古学的証拠」だと考えているのは、ちゃんと勉強していれば、高校の数学1の教科書にさえ載っていることなので、すぐに間違いだと分かることだから、もう少し勉強して欲しいなと思うのだけれども、今日はその2つ目の例題。よく魏志倭人伝に書かれた帯方郡から邪馬台国の行程について、間違った推理をしているのを見かける。良い例が「南と東を間違えた」と言うものである。その根拠を読んでみると、論理的に破綻したものが多く、自説に会わないからと言うものが多い。例えば一番ひどいのが、李氏朝鮮の地図を元に論理を展開するものである。この李氏朝鮮の地図は、実は中国の古い地図の(朝鮮に都合が良い)一部分を切り取った物である。下に元になった中国の古い地図を乗せる。混一彊理歴代国都之図と言い明の時代の地図である。李氏朝鮮の地図は恐らく日本よりも朝鮮が上に在り、大きいのが気に入って使ったのだろう。ちゃんとした知識が無い学者の場合、地図は上が北だと信じているので、「南と東を間違えたので朝鮮に有った帯方郡から見て近畿は南になる」と考えるのだろう。でも地図の上が北と言うルールはこの時代には無い。宗主国である中国を上にして書いただけ。つまり上は西である。例えば海南島やベトナムは、地図で上が北ならば中国の下側に在るはずなのに左に書かれている。つまり学者先生の理論(上が北)ならば中国の西側にベトナムが有ることになる。論理的じゃないなと思う。これを現代の地図を90度回転したものと比較すればすぐに分かる。日本が正確に書かれていることが分かる。中国の海岸線と韓国についてはちょっと変形しているが、朝鮮半島が異常に大きいことを考えると、そこに理由が有って変形しているのではと思う。うーん。日本って大きいんだなぁ。朝鮮て九州から大阪くらいしかないじゃん。李氏朝鮮の地図を作った朝鮮人の気持ちが分かる。愛国心が有ったんだ。でも事実を曲げるのは良くないと思う。そもそもこの地図は明の時代の地図なので、遣隋使や遣唐使なんかが情報を与えており、比較的正確だったはず。例えば日本の中に赤い点が描かれており、そこには「ヤマシロ」と書かれている。でも何で九州と四国が無いんだろう?「ヤマシロ」と書かれていることと何か関係が有るのだろうか?と言うことで、この地図をもって「南と東を間違えた」と言う学者先生は非論理的なのである。南と東を間違えたと主張する学者先生にはもう一つの言い分がある。壱岐から九州の末蘆国に着いた中国の使者が伊都国へ向かう魏志倭人伝の記述である。原文はこう書かれている。「東南陸行 五百里 到伊都國」末蘆国(現在の唐津市呼子=名護屋あたり)から東南に陸行すると伊都国に着くと書かれている。そこで地図を見ると名護屋から伊都国つまり今の糸島市はほぼ東である。(九州の地理に疎い学者は末蘆国を唐津市と考えて東北だと考えるが、 唐津や糸島は砂浜なので、 古代では潮の満ち引きや風雨を避ける等を考えると大きな船は寄港できず、 対馬海峡の潮の流れを考えると小さい丸木舟や準構造船では命がけの航海になり、 中国の偉い使者がそんな冒険はするはずが無いので、 海が深く周囲を島でおおわれて港を容易に造れる名護屋で降りたと考えるのが妥当である。 現に後世の神功皇后や豊臣秀吉の朝鮮出兵も博多湾ではなく名護屋からである。 魏志倭人伝でも倭人はちゃちな舟で航海するのでまじないをするとバカにしている。)なので、ちゃんと漢文である魏志倭人伝を読めないと、このような誤解を招く。でもそれは数行後の投馬國や邪馬台国への行程の記載を読めば、簡単に解決する。ようは「方位を示す言葉」がどこにかかっているかである。投馬國への行程はこのように書かれている。「南至投馬國 水行二十日」投馬國は南に在り、そこへは水行20日で行ける。英語を中学校で習った際にはグラマー(英文法)を教えてもらったと思う。例えばSVOC構文と言うのは、S(Subject=主語)、V(Verb=動詞)、O(Object=目的語)及びC(Comprement=補語)である。末蘆国から伊都国への行程の記述と、投馬國への行程の記述ではSVOCの順番が全く違う。末蘆国から伊都国へは、(主語を略して)方角-動詞-距離-目的地の順番である。対して投馬國へは、方角-目的地-動詞-距離の順番である。それぞれについて方角はすぐ後の語にかかっている。つまり末蘆国から伊都国の方の「東南」は「陸行」にかかっており、投馬國の方の「南」は「投馬國」にかかっている。なので、末蘆国から伊都国の方の「東南」は歩き出す方角であり、投馬國の方の「南」は投馬國の有る方角を示しているのである。そう考えると答えはすぐに分かる。末蘆国から伊都国への行程の記述は歩き出す方向を示す記述で伊都国の方角を示すものではない。もし伊都国への方角を示したいのならば、書き方は「東南至伊都国 陸行五百里」と書かなければいけないのである。そして、それが理解できれば名護屋から東南に歩き出して五百里行くと、書かれている通りであることが分かる。このことを誤解している学者先生は漢文(文法)をよく理解していない先生なんだと思う。ここで今回色々と調べていて分かったことなのだけれども、科学的にもこの時代に「南と東を間違える」ことはあり得ない。そもそも人類が方位と言うものを認識したのはおおよそ紀元前4000年前くらいだと思う。何故人類が「太陽神」や「北極星」を神様やあるいは神様の居る所と考えたかと言うと、農業や航海に置いては方位と言うのは最も大事なことだからである。農業では、太陽の昇る位置から季節を知り、田植えや麦を蒔く時期を知る。その時期を間違えるとお米や麦は育たず、収穫できないからである。秋にお米の種もみを蒔いても冬に枯れるだけであるし、日本では時期を間違えると梅雨や台風で稲はダメになってしまう。航海はそれこそ周囲には海しか無いので方位を間違えると生死に関わる。魚釣りだけならば沿岸部分だけを航海するので、まぁ間違えても痛いだけで死なないが、朝鮮半島まで行こうとすれば、目標になる島を見失えば死ぬ。特に黒潮や対馬海流に飲み込まれると、方位を見失いほぼ死ぬ。その時に頼りになるのは太陽と北極星だけだが、太陽は時間と共に移動するので、方位に関しては正確な時間を知る必要がある。この為に古代の人は必死に方位とその方位を知る手段を探して来た。「山あて」と言う言葉が有って、古代の人は特徴のある山を方位の目印にしてきた。なので、よほどのことが無ければ「中国の使者」を案内する案内人は方角を間違えないのである。また2世紀頃に「指南魚」が開発された。卑弥呼の時代の少し前である。日本船舶海洋工学会のページから画像をお借りして載せる。確かに、現代でも「指南」と言う言葉を使うじゃん!つまり3世紀には既に「指南魚」が使われており、南と東は間違えようが無かったのである。いやぎりぎり卑弥呼の時代には間に合っていないのでは?と言う人には、その後の中国の古代の書が、方位に関して一切訂正していないことをもって反論できると思う。むしろ隋書くらいからは「倭国は百済・新羅の東南3000里」と書いてあり、もう福岡付近としか読めなくなっているくらいだから。「南と東を間違えた」と言う事の整理がついたら、本来の整理事項である「女王国と狗奴国の位置関係」の話を整理する。まずは魏志倭人伝の当該部分の原文を載せる。なお、大事な部分は太字で大きい字で書いている。「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸 自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 (途中略 斯馬國から奴国まで21国) 次有奴國 此女王境界所盡 其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里意訳すると、南に行くと邪馬台国に至る。女王の都とする所である。水行10日陸行1月で行ける。官は伊支馬と言う。その次は彌馬升と言う。その次は彌馬獲支で、その次は奴佳鞮と言う。7万戸と言う規模である。女王国よりも北には その戸数や道のり(行程)はだいたいの所は書けるが、その傍国(傍らの国)はあまりに遠くて情報が無く、詳しく知ることはできない。(傍国について名前を書けば)斯馬國が有る。(途中烏奴國まで19国略して傍国は21国)次は奴国である。この奴国が女王の境界の尽きる所である。其の(この其のが奴国なのか女王国なのかが議論になるが)南に狗奴国が有る。男の王様となっている。その官は狗古智卑狗と言う。(狗奴国は)女王には属していない。(帯方)郡から女王国に至るには1万2千里あまり有る。ここで大事なのは狗奴国の位置を示す「其南有狗奴國」の「其」である。従来学者先生と研究者たちはこれを「女王国」と考えて来た。はたしてそうだろうか?僕は「自郡至女王國 萬二千餘里」が狗奴国の後に書かれていることに着目した。もし「其」が女王国を指すならば、「女王國以北」の話は奴国の所で終わっているので、「自郡至女王國 萬二千餘里」は奴国の記述のあと、つまり「女王境界所盡」の所に書かれるはずである。「女王境界所盡」は終わっているのだから、狗奴国は関係ないはずである。ところが実際は「自郡至女王國 萬二千餘里」は狗奴国の後に書かれている。狗奴国に関して「女王境界所盡」の話が終わっても、「女王國以北」の話が終わっていない証拠である。つまり狗奴国は女王国には属さないが女王国の北側に在るのである。なので、狗奴国の記述のあとに「自郡至女王國 萬二千餘里」と書かれているのである。これで狗奴国と女王国の位置関係の決着はついた。ただこの話は実は学者先生と研究者が悪いのではなく、魏志倭人伝を書いた陳寿さえも完全には理解していなかったのだと思う。今は既に残っていない魏略にもこの辺の記載が有ったようだが、実は魏志倭人伝ほど詳しくは無く、ちょっと変な記述になっていたらしい。そのことは翰苑(かんえん)の当該部分を見ると分かる。翰苑は後漢書や魏略を元に書いたらしく、少し魏志倭人伝とは違っているが、僕でも分かる間違いだらけである。いや、議論するような間違いではなく、単純な間違いばかり。右クリックして出てくるメニューから「新しいタブで画像を開く」を選ぶと別タブで拡大可能。「うーん」と思うのだけれども、倭国は楽浪郡から1万2千里と書き、女王国は帯方郡から1万2千里だと書いてある。九州説の人は大喜びで手を叩くかもしれない。楽浪郡は帯方郡よりも若干北側に在ったので、それを考慮すると女王国は倭國のちょっと南側、つまり倭国の中心を伊都国と考えると女王国は朝倉や筑後(山門)付近になるからである。しかも女王国の南に狗奴国が有ると書いてある。ただ、女王国を「女国」と書いているし、狗奴国の王は「女男子王」と書いている。ちょっとケアレスミスが多くていまいち信じがたい。何よりも「郡より1万2千里」と言う記述の位置が「何でここに書いてある?」と言う状態である。だから翰苑の作者は、魏略や魏志倭人伝の内容をよく読んだわけではなく、「魏略を写した」状態に近く、魏略は魏志倭人伝と同じ古い資料を参考にしながら、自分の解釈で傍国等を省略したのだと思う。そしてそのせいで「邪馬台国」と「女王国」の関係は分らなくなってしまい、真実から遠く離れてしまったのだと思う。(「邪馬台国」と「女王国」の関係は後述)しかしもう一つ大事な話が有る。邪馬台国と女王国の関係である。学者先生と研究者たちは、自分達には解決できない問題なので、臭いものにふたをしてきた。でもそれでは根本的な問題である「邪馬台国はどこにあったか」や「女王国位はどこにあったか」と言う問題は解決しないのである。ほとんどの学者先生と研究者たちは、魏志倭人伝はいい加減だから書き間違えたとか、気分の問題で気まぐれに書いたと、自分達の理解不足をごまかして来た。2~3年前にNHKの特番で、邪馬台国について九州説と近畿説の人達の議論が有った。その時に女性の学者先生が「女王国は~」と言おうとしたのに、他の研究者にさえぎられてしまった。彼女はこの時に「邪馬台国」と「女王国」について話したかったのかもしれない。どの世界でもそうだが、特におじいさんたちが多い歴史の研究の世界では女性は可哀そうである。彼女はせっかくの発表の機会を失ってしまった。なので、代わりに僕がここに真実を書く。世の中のおじいさん先生が考えているように「邪馬台国=女王国」ではない。みんなが「邪馬台国はどこにあったか」と議論しているのは、「女王国はどこにあったか」と言う議論の間違いである。驚くべき事実だが、魏志倭人伝の中に「邪馬台国」と言う言葉は上に書いた「南至邪馬壹國」だけである。他はすべて「女王国」と書かれている。その上に「邪馬台国」と言う言葉と次の「女王国」と言う言葉は41文字しか離れていない。41ページではない。41行でもなく41文字である。そんなに近い場所に「邪馬台国」と「女王国」が書かれているのだから、魏志倭人伝の中で陳寿は「邪馬台国」と「女王国」を使い分けているとしか考えられない。多分NHKで女性の学者はそれを主張したかったのだろう。気の毒である。では「邪馬台国」と「女王国」を何故使い分けたかったのか?それは「邪馬台国」は女王国と斯馬國及び奴国などの傍国すべてを含んだ連合国家だったから。そしてそのせいで、女王国以北の話をする際にこれを邪馬台国と書くと、邪馬台国の北側に邪馬台国が有ると言う変な文章になってしまうからである。つまり魏志倭人伝に書かれた女王国以北の傍国は「邪馬台国の内部の国の説明」なのである。これと同じようなことは現代でもあるし、それを現代人の僕達は何も不思議には思わない。だから魏志倭人伝の時代でも、事情を知っている人は納得して受け入れたと思う。現代における例とは、例えば中央高速八王子付近の道路標識である。八王子は既に東京の中なのに「東京まで○○km」と書いている。八王子も東京だろうと思わず突っ込んでしまうけど。要は現実的な「東京都」と概念的な東京の違いである。だから邪馬台国の中の「女王国」と「斯馬國」は、東京都の中の「千代田区」と「台東区」みたいな感じで、邪馬台国の中の説明なので「邪馬台国」と言う言葉が使えないのである。だって邪馬台国は女王の都とする所と言うのは、東京とは霞ヶ関の有る所で間違いないのだけれども、霞ヶ関の有る「千代田区」と上野公園が有る「台東区」の位置関係を説明するには、東京と言う言葉が使えないのと同じである。そう考えると、実は学者先生や研究者たちが悩んできた7万戸もの規模の邪馬台国はどこにあったかが解決する。女王国以北の傍国も「邪馬台国」なのだから、もし宮崎や鹿児島が邪馬台国だった場合には、ほぼ九州全域が邪馬台国なのである。また邪馬台国の7万戸と言うのが対馬や壱岐や伊都国が千戸単位なのに比べて異常に大きいのも、邪馬台国の構成国が22ヵ国以上有るので、一か国辺りは3000戸程度と計算され、そのうちの奴国は2万戸も有るので、もっと少ない2000戸でも良いのである。当時のお米の生産量等から考えても現実的な数字だと思う。こう考えてみると「邪馬台国」と「女王国」の関係を知るのは大事なことだと思う。吉野ヶ里を邪馬台国と考えるのも、朝倉付近を邪馬台国と考えるのも、山門あたりを邪馬台国と考えるのも、みんな正しい。連合国の一部なのだから。だから僕の「邪馬台国はどこにあったか」と言うタイトルも、本当は「女王国はどこにあったのか」なんだなぁと思う。でも面倒くさいから変えないけれど。<後日追記>YOUTUBEを見ていたら、僕の推理とは逆の見方をする人がいた。邪馬台国≠女王国と言うのは、原文を見ると「邪馬台国」と言う言葉と「女王国」と言う言葉は41文字しか離れていないので、あり得ないと言う立場は同じなのだが、魏志倭人伝の中の伊都国の記述「丗有王 皆統屬女王國」と言う部分から、また邪馬台国への行程記述の「南至邪馬壹國 女王之所都」と言う部分と合わせて、女王国の中に伊都国や邪馬台国が有り、邪馬台国は女王の居る所と読んだようである。一見正しいのだけれども上に書いたように女王国と女王国の傍国の位置関係が変になってしまう。なので誤りである。上では原文を書かなかったので信用されないかもしれないので原文を載せる。「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國(以降略)」ここで女王国を邪馬台国や伊都国等を含む連合国とすると、女王国の一部である伊都国等の「其戸數道里可得略載」が女王国の以北に有ると言う、とても変な文章になってしまう。原文によれば女王国と伊都国は別の国でなければおかしいのである。なので、連合国は「邪馬台国」であり、女王国や伊都国はその構成國なのである。じゃあ「属する」と言うのは「含む」の意味ではないのか?そうである。「属する」には「含む」と言う意味意外に「ある勢力に従う(従属する)」と言う意味が有り、例えば現代の世界情勢で言えば、「ベルラーシ」は「ロシア」とは別の国であるが、ロシアに属すると言えるのである。そうそう、狗奴国が良い例だと思う。狗奴国は女王国と戦っており、明らかに女王国(が連合国だったとすると)には含まれず別の国なので、わざわざ「女王国に属さない」などと書く必要は無いのに、「属さない」と書かれている。これは女王国(が連合国だったとすると)に従わない」と言う意味だからだと思う。そう考えると連合国の名前が「邪馬台国」であり、女王国と伊都国などはその構成国で、伊都国は同じ邪馬台国の中で女王国に従う国だったのだと思う。
October 10, 2025
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邪馬台国の研究に際して、とても大事なんだけれども、世の中の学者先生や研究家が考えない事がたくさん有る。そのうちのいくつかは今までの僕のブログの中で解明したんだけれども、最近いくつか、まだ書いていないことに気がついたので書くことにした。その前にいくつか既に書いたことについて整理する。一つ目は世の中の学者先生や研究者たちは、その内容から「理系」の方より「文系」の方が多い。そのせいで「論理的な考え方」ができない方が多い。ひどい学者先生になると「歴史はロマン」などと開き直ってしまう先生さえもいる。そのせいで、議論は論理的なものよりもロマンティックなものが多い。アマチュアの場合はそれが楽しいので良いのだけれども、それでお給料をもらっている(ひどい場合は税金からもらっている)先生はダメだと思う。一つ例を挙げると、「纏向は3世紀半ばの遺跡だから邪馬台国の遺跡である」と言うのを考古学的証拠と言う人である。論理学的に考えるとひどい間違いである。論理学では、これについて高校の教科書で習う。但し、高校の学科には「論理学」は無いので「数学1」の一分野として習う。文部科学省で定めた学習指導要領を見てみる。但し手に入ったのが少し古くて平成30年版。赤いアンダーラインに書いてある様に、内容は数学だけではなく「社会の事象などから設定した問題」について応用できる。ここで文系の人達は「命題」、「必要条件」、「十分条件」及び「包含関係」と言う用語を(本当は高等学校で習うので知っていると思うのだけれども)知らない可能性も有るので、定義を書く。(Wikiなどを参照)命題:論理学において判断を言語で表したもので、真または偽という性質(真理値)をもつもの必要条件:ある事柄を成り立たせるために不可欠な条件十分条件:ある事柄が成立するために、その条件が満たされれば、 結果が確実に成立する可能性が高い条件包含関係:ある集合が別の集合の部分集合であるときに成り立つ関係「纏向は3世紀半ばの遺跡だから邪馬台国の遺跡である」と言うのは、「魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の年代は3世紀半ばである」と言う「真」である命題であるの逆の命題である。包含関係が完全に一致しない場合、逆の命題は必要条件にはなりえず、十分条件にしかならない。従って成立する可能性は有るが「真」ではない。特に包含関係が小さい場合は逆に「偽」の可能性が高くなる。例えば「纏向」の場合、魏志倭人伝では冒頭に「倭国はもとは百余国有ったが、今では交流が有るのは30ヵ国程度」と書かれている。つまり包含関係を見ると、邪馬台国は百余国のうちの1国でしか無く、命題が成立する可能性は1%しかない。つまり0%ではないが「考古学的証拠」である可能性はたった1%なのである。(但し、ほぼ0%しか無かった近畿説が、 1%とは言え「可能性が上がる」のは十分条件の十分条件らしさではある。。)これを「考古学的証拠が有るので纏向は邪馬台国の遺跡である」と言う、学者先生や研究家は高校生からやりなおした方が良いと思う。これは三角縁神獣鏡についても同じである。正始元年と書かれた三角縁神獣鏡が有ったとしても、正始元年と書かれた理由が、例えばある国の王の即位記念だったり、争っていた国々が同盟を結んだ印だったり、色々な可能性が有るので、包含関係を考えると、その色々な理由の数(例えば100の理由)のうちの1つでしか無く、これも「真」である可能性は1%くらいしかないのであり、とても邪馬台国である証拠にはならない。まずは「必要条件」を探さなければ「考古学的証拠」にはならないと思う。過去のブログでもそのことは書いたんだけれども、ちょうど良い「証拠」が無かった。なので平成30年版ではあるが、学習指導要領が見つかって良かった。文部科学省のものだから。まぁ過去のブログの話は置いておいて、今回書きたい新しいことを書く。それは「神武東征」の証拠を見つけたかもしれないと言うこと。つまり卑弥呼の時代には九州に有った邪馬台国が段階を経て近畿に移動したかもしれない証拠。まずは魏志倭人伝を見てみよう。倭国の大きさについて書いている。「参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里」意訳してみると、倭地を考えてみると、遠く離れた海中の島々の上にあり、離れたり連なったり、巡り巡って五千余里ほどである。と書いている。1里に対する考え方が色々と有るので「絶対値」に関しては議論が有るだろうが、既に分かっている物と比較して考える「相対値」であれば信頼がおけるので、魏志韓伝に書かれた同様の部分を見てみる。「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里 有三種一日馬韓二日辰韓三日弁韓辰韓者古之辰國也」意訳すると、韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。およそ四千里四方。三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。辰韓はいにしえの辰国である。これをgoogleMap上に書いてみる。なお、倭国は伊都国や対馬・壱岐を含むので結構位置が固定される。韓は東西は海だし、南は倭に接している。<後日追記>こうして地図に魏志倭人伝の行程を落として見ると、歴史学者や研究者の罪は重いと思う。近畿説の人がよく主張する、1里=300~400mと言うのはどうやっても魏志倭人伝の行程には適合しない。逆に魏志倭人伝は全部の行程で1里=70~80mで統一されている。例えば帯方郡(上の地図の左上ソウルのちょっと上あたり)から狗邪韓国への行程は、魏志倭人伝には南へ行ったり東へ行ったりして(つまり海岸線に沿って)水行で7000里と書かれているが、地図上で約500km~550kmなのでピッタリである。狗邪韓国から対馬までも1000里と書かれているが、約70~80kmなのでピタリである。しかも魏志倭人伝だけでなく後漢書や隋書及び旧唐書等に書かれた里程もそれに合っている。どの書物に魏の里程は1里=300~400mなんて書いてあるんだと思って調べたら、直接的に300~400mと書いた書物は無い。日本の一部の偉い先生が、1寸から(想像して)計算して推理しただけで、事実として確認できる中国の書物は無いのである。しかもそれも、紀元前2世紀に書かれた「周碑算経」と言う本に基づくと、逆に1里=76mと算出されるのである。唯一大月氏国への行程だけは1里=300~400mと読めるが、これだって「魏の里程」ではなく「大月氏国の里程」かもしれず、そして上にも書いたように魏志倭人伝以外の中国の古い本も全て1里=70~80mで統一されているし、地図に合っている。つまりそれを唱えているのは近畿説のグループだけで、中国側はそんなことは言ってはいない。「魏の里程は魏志倭人伝に基づくと1里=70~80mだった」と言っても良いような気がする。大月氏国への行程と倭国への行程のどちらを信用するかと言えば、倭国なのでは?後日追記終わり<さらに後日追記>ここまでの話だと邪馬台国近畿説は100%消えるが、それでは申し訳ないので、今までとは違った視点で見た場合には近畿説も有りうると言う話をこのシリーズ(その3)で書く。お楽しみに。やっぱり倭国って九州じゃんと思うけれど、今日はちょっとそれは置いておいて、神武東征の話。隋書倭国伝に次のように書かれている。「倭国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中 依山島而居」意訳すると、倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在り。山島に依りて居す。と書かれている。倭国の首都を福岡県の付近とするとまさに百済・新羅の東南で、海と陸を経て3000里だと思う。確かに1里の絶対値については議論があるかもしれないけれど、方4000里や方5000里との比較で(相対値として見ると)けっこう正確である。つまり隋の時代までは倭國の中心は福岡県付近に有ったと言うことである。(女王国宮崎説の僕としては倭國の中心が福岡県と言うのはちょっと抵抗があるが、 逆に魏志倭人伝の時代だけが、 卑弥呼が女王に共立された為に一時的に宮崎に移っただけで、 その他の時代には倭國の中心は福岡の辺りだったと考えれば他の色々な事実とも合うので、 隋の時代には福岡付近に倭の中心が有ってもおかしくは無いのかなとも思っている。)やっぱり纏向じゃありえないじゃん。でも唐の時代には白村江の戦に負けた後には、唐の郭務悰は天智天皇に会いに大阪まで来ている。これは唐側の文書でも書かれており、日本書紀の記述とも一致している。と言うことは、隋の時代までは九州に倭国の首都が有り、白村江の戦い後には倭国は無くなり日本国の首都が近畿に有ったことになる。旧唐書に倭伝と日本伝が別々にあり、「日本国は倭國の別種である」と書かれているのだから、白村江の戦の前には九州の倭国と近畿の日本国が有ったのに違いない。ならば、纏向は「日本国」の祖先の国なんだろうと思う。それは何か?「晉書」宣帝紀に「東倭重譯納貢」と書かれている。西暦240年つまり正始元年である。卑弥呼が魏に使いを送ったのが景初3年(239年)で、その返礼が有ったのが240年である。中国では漢の時代から唐の時代までたくさんの史書が書かれており、「倭」や「卑弥呼」に関しては相当に研究されており、この「東倭」が倭国のことであれば、また納貢したのが卑弥呼ならばそう書くはずである。それをわざわざ「東倭」と東を付けているのは、倭ではなく倭の東に有った国だからであり、東倭は、帝位に就いていなかった司馬懿(宣帝は晋朝初代武帝で司馬炎による追号)に朝貢している。恐らく卑弥呼が魏に朝貢したのに対抗して、司馬懿に朝貢した別の国だと思われる。(司馬懿と書くと難しい漢字なので知らない人も多いと思うけれど、 字が仲達(ちゅうたつ)だと書くとすぐにピンと来る人は多いだろうと思う。 有名な「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の仲達である。 彼は魏の大尉(総司令官)を努め、 本来は魏の東方(遼東=朝鮮半島のつけねあたり)地方を治めていた 現在で言えば知事のような地位であった公孫淵父子が起こした反乱を鎮め(景初3年頃)、 蜀漢を諸葛亮孔明の死後に屈服させた。 曹操の子で献帝からの禅譲を受け魏の皇帝となった曹丕の信頼が厚く、 黄初7年(226年)、曹丕が崩御し、その子の曹叡が皇帝に即位したが、 その曹叡も景初3年(239年)司馬懿が遼東から帰還する最中に病に倒れて、 ものすごい権力闘争の後に曹一族を滅ぼし、 彼の死後に孫の司馬炎が魏より禅譲を受けて正式に皇帝となると、 祖父の司馬懿を高祖宣帝と追号した。)東倭は公孫淵父子を滅ぼした司馬懿にすばやく使者を送るほど外交や政治に敏く、卑弥呼に劣らない賢い王が治める国だったのだろう。つまり九州に有った倭国に対して、近畿には東倭が有ったのだと言うことである。そしてここからが僕の新しい想像(推理)なんだけれども、魏志倭人伝に書かれた難升米は、(なんしゅうまいと読む人が居るけれども、 音に漢字をあてる場合には2音に漢字1字はあてないので)「なすめ(なんすめ)」と読み、「奴のすめ」と名乗ったのを、中国人が誤って「難升米」と言う漢字をあてたのだと思う。「奴のすめ」とは何か?奴は奴国のことで、「すめ」は統べる(すべる=支配する)の古い言葉なんだと思う。この言葉は後世の「天皇=すめらみこと」までつながる言葉だと思う。(コトバンクによれば「天皇を敬い尊んでいう語。すべらみこと」と書いている。)難升米は奴国の支配者で、王は卑弥呼だったので王は名乗らず「すめ」と名乗ったのだと思う。そして重要なのは難升米もしくは彼の子孫が現皇室の祖先で、神武天皇の先祖は難升米なんだと思う。卑弥呼は生涯独身だったのだから、子供はいない。なので、難升米は卑弥呼の弟で神武天皇のひいおじいさんだったのである。そう日本神話に出てくる月読の命なんだと思う。(日本神話ではスサノオの命は暴れて、天照大御神が武具を持って迎え討つ事になっているので、 僕は卑弥呼が天照大御神、狗奴国の王がスサノオで難升米は月読の命だと考えています。)そして彼が名乗った「すめ」は一族の主の名前となり、後世の天皇につながるのである。子孫の神武天皇は東倭を滅ぼし、近畿に「日本国」を建国して天皇になるのである。(今までの歴史学者は、 何故この時代に倭ではなく日本、王ではなく天皇(すめらみこと)を名乗るようになったか、 ちゃんと説明できていないが、この推理が正しければその理由が説明できる。 難升米が卑弥呼のせいで王を名乗れず、 倭ではない日本にあっては「すめらみこと」が王を示す名前だからである。)なので、しばらくは倭国と日本国は九州と近畿に両立するが、天智天皇や天武天皇の時代に「倭国」と王は無くなり、「日本国」と天皇ができるのである。つまり神武東征は実際に有ったことで、難升米の曾孫の神武天皇が東倭を滅ぼして日本を建国したと言うのが神武東征だと思う。違うかなぁ。今日はここまでにして、明日は別の「新しい発見」を書く。
October 9, 2025
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アリ・エクスプレスの「クセ」にも慣れて来たので、BluetoothFMラジオを買いました。アリエクの「クセ」とは色々と有るのですが、ワナっぽいのが多く、例えば多いのは「送料詐欺」です。外国から送って来るので郵便料金よりも高いのは当然ですが、明らかに商品価格を安く見せる為に、商品価格を低くして送料でカバーするパターンが多いです。たまに恐ろしいくらい高い送料の場合が有ります。次に注意しなければいけないのは、同じページの中に複数の商品を掲載する場合が多く、これって何でこんなに安いの?と思ったら、それはケースの値段で、ケースと本体は別売りで、ケースの値段で申し込むとケースだけが届いたりします。またグレードの違う類似商品を複数載せて、商品説明は高い商品の説明なのに、混乱して安いグレードの商品を申し込んでしまい、思った物と違う商品が届いてがっかりしたりします。僕も最初の一回は引っかかり、偉く安いなと思ったFMラジオが液晶表示無しの物が届き、よくそのページを見てみると、安い液晶表示無しと高い液晶表示付きが同じページに有り、選択を間違えると液晶表示無しが届く仕組みになっていたのでした。まぁでも「仕組みが分かっていなかったお前が悪い」と言われると確かにそうで、悔しかったのでもう一回液晶表示付きを頼むとちゃんと液晶表示付きが届いたので、売り手が悪いのではなく、システムを理解していなかったと考えるしかないなとあきらめた。まぁそんなことも有って購入には慎重になっていたんだけれども、ようやくシステムにも慣れ、日本では買えない色々なラジオが買えるようになりました。で、表題のBluetoothFMラジオを買ったのがこれ。値段的には満足で、日本では買えないくらい安いのだけれども、やはり言葉が分からないせいで、ちょっと失敗した。いや僕にとって失敗であって、普通の人には失敗ではないので念のため。僕は耳が聞こえなくて、我が家はマンションなのでスピーカーでは大きな音が出せず、ヘッドホン付きのラジオじゃないといけないのだけれども、これってヘッドホンが使えないのである。ヘッドホン端子のようなのが写真に写っていたので買ったのだけれども、そのヘッドホン端子のようなものは、なんとアンテナジャックだった。うーんと思ったが仕方ない。普通の人にとっては正常な商品なんだから。まぁでもそれ以外はむしろ立派な商品です。カッコいいLEDが音量に合わせて広がるように点灯します。小音量では中央の紫だけ点灯し、中音量だと青が点灯、大音量だと緑まで点灯します。音量に合わせてLEDが広がったり狭まったりするのはカッコいいです。部屋のインテリアには最高だと思います。ただこれがヘッドホン端子がついていない原因なんですよね。実はスピーカーの裏にマイクがついており、それで拾った音を増幅してLEDの点滅に利用しているのです。なのでヘッドホンにするとLEDが点滅しない。まぁだからヘッドホン端子が無いのは仕方ないのです。それ以外は不満はありません。Bluetooth5.0が使えるし、FMラジオは87.5~108.0MHzですがそこそこの感度です。僕の部屋(電波が入りにくい部屋)でもinterFM(89.7MHz)、TBS(90.6MHz)、文化放送(91.6MHz)、ラジオ日本(92.4MHz)そしてニッポン放送(93.0MHz)がきれいに入ります。またUSBメモリー等のMp3も再生できます。ただ説明書が英語なので操作方法が最初は分からなかった。Vol+とVol-が長押しならボリュームで、ちょい押しだとFMの選局やMP3の曲送りです。まぁ使っていると分かるんだけれども、最初は戸惑います。FMはオートスキャンで勝手に放送局を見つけてメモリーに記憶して、Vol+とVol-で次の放送局や前の放送局に移動します。だから普通の人には立派な商品です。耳の聞こえない僕に向いていないだけ。そうそうアンテナジャックはこんな感じ。付属のテレスコピックアンテナ(日本で言うロッドアンテナ)を差し込みます。ちなみに電源はUSBで(USB-丸型PINケーブル)が付属します。つまり普段は市販のスマホ用のアダプターを使うのですが、旅行やキャンプに持って行くならばリチウムイオン電池が使えます。スピーカーは(マンションでは使えないけれど)3W+3Wなのでそこそこ大音量です。次はどんなラジオを買おうかな。
October 8, 2025
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10月2日はわの会のイベントで金沢区釜利谷を歩いた。このルートは僕がわの会に加入したすぐ後に一回行ったルートなんだけれども、今回は禅林寺の和尚さんのお話が聞けると言うことで、再度のルートとなった。ちなみに前回のブログはこちら。横浜市金沢区わの会2回目のイベントに参加しました。今回のルートはこちら。この地図は国土地理院の地図で、過去の地形が分かるようになっている。地図中のグレーの部分はかっては海だった部分でなんと今回通ったルートは勝手の海の中。有名な金沢八景の「小泉夜雨」の絵の船が往来している部分である。ちなみにこの辺が「小泉」だったと言うのは、上の地図の中に「小泉」バス停があることからもかる。ここからは少し南になるが、六浦から朝比奈に至る途中には小泉家の跡が有る。いまでこそ横須賀を本拠地にしているけれど、小泉純一郎一族の出自は金沢区だったんですね。そして御先祖様はこの小泉(こずみ)だったのかもしれない。ここ手子神社から大道は白山道(はくさんどう)で結ばれており、縁が感じられるので。ルート最初の部分の宮川は上でも書いたけれどかっては海の中。17世紀に永島祐伯による開拓が行われるまでは平潟湾から続く入り江であったが、埋め立てられ、現在は区役所や金沢警察署、商業施設などが立地し、金沢区の行政・商業の中心となっている。主要部分の町名はこの地を開拓した永島祐伯の雅号に因み「泥亀」と言う町名。この宮川の土手部分にはかって桜並木が有り、親しまれていたらしい。小学校の教師をしておられた角田武夫さんと言う方が描いた「金沢百景」と言う絵の中の「大川堤」と言う絵を見ると、金澤山をバックに桜並木の川の堤が描かれ、その解説によると紅白の幕を張りめぐらした茶店が出て大変にぎわったと書かれている。でも悲しいことに今は桜並木は失われ、学校の中に少しだけ残っているけれど面影は無い。代わりに宮川が整備された際に、あらたに植えられた栗の木等が見られる。ものすごい量のいがぐり。子供達が食べたのかなぁ?ここを少し上流に行くと手子神社が有る。わの会のテキストによると、手子神社はかっては皆手子神社と呼ばれており、祭神は大山祇命。瓊瓊杵尊の奥様のお父さんですね。細川陸奥守家臣の伊丹左京亮経貞が瀬戸三島明神を富ヶ谷に勧請したのが始まり。社殿前には寛文11年(1672年)銘の石燈籠型庚申塔が有る。ただ、どれがそうだか、僕は耳が悪くてよく分からなかった。代わりに享保2年(1717年)の物。左側を見ると享保2年とはっきりと読める。境内については前回のブログで書いたので省略するが、普通は天邪鬼等を踏みつけている狛犬が、ここでは踏みつけているのではなく、(本来天邪鬼が居る位置にいる)子犬を優しく見ている。手子神社らしい。手子神社をあとにして、釜利谷小川アメニティを通る。ちょっとだけ涼しい。小川の中には沢山アメンボとニナ(巻貝)がいる。アメニティは8年の工期をかけて1993年に完成。このアメニティの下には元の宮川が暗渠として流れている。いわゆるアメニティは、川の源流近くで自然の景観が残されている場所を、水があふれないように対策を行い、周辺環境との調和を配慮した整備事業のこと。いやこんな所の狹い川は溢れないだろうと言うのは自然の脅威を知らない人である。僕のおじさんの家は長崎の水害で、傍に有ったたった幅3mくらいの川があふれて流された。山が貯えた水が突然流れ出すと、普段はチョロチョロとしか流れていない小川が牙をむいて家さえも流すのである。こういう事業は大切だと思う。アメニティを過ぎて自性院につく。自性院は永正年間(1500年頃)の創建で本尊は聖観世音菩薩。伊丹三河守が幼くして亡くなった2人の子供の菩提を弔う為に創建したらしい。手子神社も伊丹一族が建てたらしいが、伊丹氏はこの付近の名門。今でも子孫がいるらしい。境内には宇賀山王社がある。(入口は別にある。)元は付近の坂本に有ったらしい。それを霊夢を見た大久保主水忠行の奥さんが祀らせたらしい。なお、忠行は神田上水の元小石川上水を開削した功により、家康から「主水」を許されて、家康から主水を「モント」と発音するように命じられたらしい。「門戸」のシャレ?最後は禅林寺。境内には柿の木が有り、たくさん実がなっていた。鳥はいないのか、全然食べた形跡が無かった。もしかして渋柿?禅林寺は明応の創建(1493年頃)で、本尊は薬師瑠璃光如来(元本尊は華厳会釈迦如来立像)鎌倉公方足利持氏により創建されたらしい。ここも手子神社同様に伊丹左京亮経貞が荒廃していたのを再興したらしい。ここには安永9年(1780年)に家康の御神影と御道具が下賜され、坂本村の村民だけが参拝を許されていたが、現在は毎年4月17日の家康の命日に一般人も参拝可能。そして今日のメインである住職のお話が本堂で始まったが、僕は耳が聞こえないので、仕方なく御本尊を眺めていた。最後は坂本のバス停で解散した。距離的にちょうどよく、お天気も暑すぎない日で、気持ち良かった。
October 6, 2025
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10月1日のNHKのSONGSは斉藤由貴・南野陽子・浅香唯の3人だった。斉藤由貴が歌う「卒業」はよく「タイムマシンソング」と言われるが、本当にそうだと思う。彼女が歌うのを聴いていると、自然とあの頃に戻っている気がする。いやあの頃と言っても斉藤由貴が歌っていた頃ではなく、僕が高校生の頃のこと。誰でも「あの頃」って有るのだと思うのだけれども、僕は「あの頃」がたくさん有って、高校生の頃も「あの頃」だし、大学生で毎週2回可愛いお嬢さんの家に家庭教師に行ってた時もあの頃だし、東京に出て来て毎日のように色々な女の子を乗せて国道20号線を走った頃も「あの頃」だし、仙台に転勤になって難しい上司に色々と難題を与えられた頃も「あの頃」だし、名古屋に転勤になり偶然知り合った奥様と遊んだり、飲み屋のお姉さんと遊んだのも「あの頃」。新潟に転勤になって知り合った高校生の女の子と遊んだのも、北海道に転勤になってたまたま知り合った女の子と楽しんだのも「あの頃」。広島と言うか呉で一緒に遊んだ女の子とウサギ島に行ったのも「あの頃」。何回も死にそうになって苦しんだけれども、楽しかったなぁ。そう言うのが斉藤由貴の「卒業」や水越恵子の「Far away」を聴くと蘇る。だから歌って言うのは不思議だと思う。単に音符を並べただけのものじゃないなぁ。ところで斉藤由貴や南野陽子や浅香唯はデビュー40周年なのだそうだ。1985年組。えー!デビューしたのが18歳だとしたら、もう58歳?(斉藤由貴は1966年9月10日生まれなので先月59歳になったらしい)もうお婆ちゃんじゃん。でもSONGSを見てると30代でも通用しそうな若さ。来年は60歳だよ。もはや人間じゃないと思う。たしか一般男性の方と結婚して去年頃離婚したんじゃなかったっけ?娘さんがいたはずなので、そろそろ孫が生まれるころ?もう一回くらい人生を楽しめそう。SONGSを見てて思ったけれど、彼女はよく「魔性の女」的なことを言われるけれど、分かるな。彼女は美人なだけじゃなくて頭が切れる。なので、「魔性の女」に見えるのだと思う。同じ「魔性の女」でもよく問題を起こすH末さんとは別の意味で「魔性の女」なんだなと思う。吉永小百合様もそうだけれども、頭の切れる美人はいくつになっても大好きだなと思う。
October 4, 2025
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横浜市の歴史博物館の道路を挟んだ向かいには大塚・歳勝土遺跡公園があり、歴史博物館から陸橋を渡って行ける。ただ、歴史博物館に行かずに遺跡公園に行くには、市営地下筒センター北駅の出口から別の陸橋を渡って行った方が近いので念のため。公園内には大塚・歳勝土遺跡と旧長沢家住宅(復元)が有る。上の案内図の赤い字の現在位置と書かれた方がセンター北駅に近い陸橋から来た場合で、右上にはみ出すように書かれた歴史博物館とも歴博通りにかかった陸橋経由で行ける。昨日のブログで歴史博物館は9月8日から設備工事で2か月間強休館だと書いたが、遺跡公園は休まずに開かれているので大丈夫。僕は歴史博物館側から陸橋を渡って行ったのだが、訪れる人が少ないのか、陸橋に付属する階段は草ぼうぼうで「ちょっとなぁ」的な感じである。まぁ横浜市は文化面が非常に弱く、予算が少ないので仕方ない。入って最初に大塚遺跡に行った。大塚遺跡は「環濠集落」なので周囲は柵と環濠に囲われており、入ってすぐ左には、その柵の切れ目から「邑」に入る橋が再現されている。(僕は「村」と「邑」を区別するタイプの人なのですみません。 邑は周囲を壁、城壁、濠でかこまれた聚落のことで、 単に人の集まり住んでいる所である村とはちょっと意味合いが違います。 邑は規模の大きさを除けば「国」に近いかもしれません。)邑に入る為の橋なので、環濠の上にかかっているだけではなく、日本のお城で言えば「虎口」のような感じになっています。邑に入る人はここに立った衛兵にチェックを受けて、武装解除され、許可を得た人間だけが入れますし、戦争時にはここを通る敵兵は、周囲の周濠には(当時は水が満たされているので)渡れず、大軍だとしても一度に通れる人数が制限されるので、防御しやすくなります。なので、この再現木橋はけっこう忠実に作られていると思います。周囲の柵と環濠も(環濠は少し浅いと思うのだけれども)再現されていました。ただ、ちょっと残念なのは「逆茂木」が無いことです。このままでは敵兵は柵に足場をかけて容易に乗り越えます。なので、通常は「逆茂木」と言うとがった木を地面に埋め込んで、柵を乗り越えても飛び降りることができないようにして、侵入を防ぎます。(飛び降りることができなければ、柵によじ登った敵兵は弓矢の餌食です。)<後日追記>ここで気になるのは「環濠集落」だと言うことは、付近に「攻め込んでくる相手国」がいたと言うこと。それって発見されていないけれど、同程度かより大きな敵国が付近に有ったと言う事。ここの遺跡は弥生時代中期の遺跡らしいのだけれども、弥生時代中期の遺跡は奴国をはじめとした九州北部だけじゃなく、日本中あちこちに「環濠集落を必要とする邑=集落」が有ったと言うことじゃん。弥生時代中期にこの規模の邑が関東でもあちこちに有ったということは、これでは今の邪馬台国論のように「大きな国が有った」とか言うのを根拠にあげているのは、もはや意味が無いなと思う。纏向遺跡が3世紀半ばの遺跡だとしても、それより100年以上前に、関東でさえもこれほどの邑が有ったのならば、纏向遺跡は邪馬台国ではなく、別の大きな国の都だとしても何の不思議は無いと思う。つまり「3世紀半ばの遺跡」であることは邪馬台国の証拠にはならないじゃん。むしろ魏志倭人伝に書かれた「倭国には100ほどの国が有り」、「そのうち中国と交易関係にある国が30国」も有ったと言うのが信憑性を増すなと思う。学者先生の「邪馬台国はここにあった」と言うのはもはや誰も信じないだろうなと思う。中に入るとこんな感じで、竪穴式住居や高床式倉庫が復元されています。結構広くて、吉野ヶ里遺跡には及びませんが登呂遺跡(田圃部分を除く)よりも大きいです。上の写真で橋のすぐそばには住居跡が有ります。この説明文が、ちょっと違うなと思いました。一番変なのは奥の2つの溝を「通路」としていることです。通常の住居では、普通は邑の中の通路側に入口を作ります。現代の住居でも玄関は道路に面して作るのが普通です。説明文のように2つの溝が通路ならば、邑の通路とは反対側に玄関があることになります。また、かまどは通常は屋内では通行の邪魔になるので奥の方に作ります。説明文のように2つの溝が通路ならば、玄関のすぐ前にかまどが有り邪魔で仕方ないと思います。なので、論理的に考えれば玄関の位置が逆です。恐らく2本の溝は環濠の方向に向かって伸びているので、この付近は地下水位が高いことから、住居の中に水が染み出やすく、その水を環濠に流す排水溝だと思います。それは別の住居の復元家屋の中と説明文を見ても分かります。この住居を見ると屋内に溝が円形にめぐらされており、そこから周囲に3本の溝が延びています。排水溝だと思います。登呂遺跡等の他の地域では屋外に溝が掘られ、その溝の内側に住居が造られるのですが、ここは地下水位が高く、地面から水が沁み出す地質なのだと思います。それに対する対策だったんだと思います。なので、一番上の写真の住居跡には家屋の外の溝と家屋の中の溝が2本(2重に)有り、非常に珍しい形になっているのだと思います。歴史家や考古学者は古代のことには詳しいのですが、一般的な庶民の生活や普通の感覚には疎いので、気がつかなかったのでしょう。その隣にはこの邑における標準的な家屋が復元されています。かまどは奥の方に有るのが分かります。なお、最初の住居跡の説明板のもう一つの(誤りとまではいかないけれど)変なのは、貯蔵穴です。多分説明が足らないのだと思います。いくら古代でも食料を地面に直接置かないと思います。汚いとか言う話よりも、衛生的な(食中毒などの病気対策)話や虫からの隔離です。恐らくこの穴には土器を差し込んで貯蔵したのだと思います。なので「貯蔵した」のは正しいのですが、「土器を使って貯蔵した」が正確なのです。当時の土器は底が尖っています。何かで支えないと倒れます。この穴は土器を差し込む穴だったのです。邑にはリーダーがいます。そうでないと他の邑から襲撃されたり、邑の中の秩序は保てません。その邑の長の家がこれです。何か大きいだけでイマイチだなぁ。もっと特徴は無かったのかなぁ?吉野ヶ里や三内丸山では首長の家は何か有ったような気がする。邑には収穫した農産物などを収めておく倉庫が有ります。高床式倉庫です。吉野ヶ里の高床式倉庫は板壁だったなぁ。あそこは2世紀の遺跡のはず。ここはそれよりも古いのかなぁ?台風なんかをワラの壁で防げるのだろうか?泥棒もいるだろうし。ちょっと違うなと思った。大塚遺跡をあとにして、次は歳勝土遺跡へ行く。ここは方形周溝墓である。方形周溝墓は関東に多い「お墓」である。歴史博物館に有った「子供の土器棺」はここに有ったらしい。土器の棺と言えば九州の甕棺が有名で、他の地域には甕棺は無かったと言うのが考古学者だが、子供の土器の棺(甕棺)が有るのならば、見つかっていないだけで大人の物も有っておかしくは無いような気がする。それとも何らかの(例えば宗教的な)理由で九州以外では造られなかったのであろうか?いつか研究してみよう。子供の甕棺が有ったのならば有ってもおかしくは無いと思うのだけれども。<後日追記>調べたら教育委員会の調査報告書に、すぐ南の地区から「壺棺」が出土したと書かれていた。やっぱり出土していたんだ。じゃぁ甕棺は九州のお墓の特徴じゃないじゃん。「壺」と「甕」の違いは厳密には「首の大きさ」なんだけれども、人間の埋葬に使うならば芸術品じゃないので、どちらでも同じだと思う。単なるこだわりだな。つまり甕棺は九州のお墓の特徴ではなく日本中のどこでも行われていたもので、地域によって形状の違いはあるが、それは単なるこだわりと言えるのだと思う。ここでは方形周溝墓の中に木棺が有ったことが確認されている。そうか、ここは吉野ヶ里等に比べて比較的後世の集落なので、お墓ももう甕棺は卒業して棺の時代だったのか。甕棺→石棺→木棺と言う具合に変化したらしいので、もう木棺の時代の遺跡なのか。近畿でも古い時代は石棺だけれども、平安時代くらいには木棺になっており、仏教の伝来以降は火葬が増えて、持統天皇以降は皇室でも火葬になったみたいだからなぁ。歳勝土遺跡をあとにして旧長沢家住宅に向かう。昔の家は居心地が良いと思う。九州のおじいちゃんの家はこんな感じだった。藁葺きで縁の下にニワトリを飼っていた。便所が外に有り、牛たちのいる先に有って、夜中に行くのは怖かった。家屋の中も昔のまま。九州のおじいちゃんの家にも囲炉裏が有って、みんながそこに集まるのだけれども、床が板敷で、床下は風が抜けるので寒く、僕らは火鉢の有る座敷で遊んでた。天井裏は無い家も多かったけれども、おじいちゃんの家は天井裏に色々な物を置いていて、噂では大きな青大将が居たらしい。家屋を復元しているだけではなく、昔の農家で使われていた器具類も展示されている。おぉー!「とうみ」だ。火鉢も有る。関東にも有ったんだなぁ。これは便利な機械で、米からもみ殻やゴミを除く場合の必需品。今どきの子供達に見せても意味不明だと思う。そうそう忘れてた。玄関を入ってすぐの土間には大きなお釜が有った。この大きさならば10人以上のお米が焚けそうだな。この家はお百姓さんだったみたいなので、人手が必要だから、沢山の家族が居たんだろうな。そんな感じで、大塚歳勝土遺跡公園を見てまわりました。
September 22, 2025
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9月4日はわの会のイベントで横浜市歴史博物館に行きました。もう何十年も横浜市に住んでいるのに初めて行きました。ここは横浜市の一大プロジェクト「港北ニュータウン」ができた際に、その一部としてできた博物館で、なんと博物館でありながら、大棚杉山神社遺跡と言う遺跡を壊して、その上に立てたと言ういわくつきの歴史博物館です。大棚杉山神社遺跡は弥生時代中期の集落跡でたくさんの住居跡が有りました。まぁでも横浜市は文化遺産よりも都市開発を優先してきた経緯があるので仕方ありません。港北ニュータウン付近には沢山の遺跡が有り、縄文時代や弥生時代の遺跡が有るのだから、そこに居た人達の子孫はどこかに消えたわけではなく、生活様式を変えて同じ場所にいたはずで、そう言う意味では古墳時代にはたくさん古墳が造られたはずなので、この付近はかっては古墳があったはずだと思うのだけれども、道路の建設や国鉄・私鉄が通るたびに全部壊されて、今は残っていないのかなと思う。まぁそれはそれとして、わの会で歴史博物館に行くと聞いて調べていたら、すぐ近くに大きな遺跡を含む公園(上の地図の大塚遺跡と歳勝土遺跡)が有ると分かったので、歴史博物館を「その1」、遺跡公園を「その2」として調査して書くことにした。今日はその1で歴史博物館。博物館は9月8日から2か月ちょっと設備改修工事で休館になるので、タイミングが良かった。また通常の常設展示に加えて、夏休み中と言うことで企画展も開かれていた。この企画展の説明をしてくれたおじさんがものすごく優秀な人で色々と参考になった。まずは常設展示。時代ごとに区分されて輪のようになっており、原始時代から近現代まで順に見学できる。実際の写真はこんな感じ。常設展はきれいなお姉さんが丁寧に教えてくれた。おかげで今まで知らなかった色々なことが分かり面白かった。例えば横浜の町の主要な部分は埋立てられてできたらしい。吉田新田と言う。上が埋立てた時の様子で、下はそれに対応する現代の地図。えー!JR京浜東北・根岸線と大岡川及び中村川に囲まれた釣鐘状の部分って海(湾)だったの?多分現代の横浜市民の95%は知らないと思う。関内駅の西側のほぼ全域じゃん。県庁や旧市役所部分は海の中じゃん。ちょっと面白かった。同様に金沢区もかなりの部分は埋め立て地である。その模型が置いてあった。今、海として残っているのは室の木と野島の部分から瀬戸神社までの細い部分で、瀬戸神社から能見台や手子神社は完全に陸地化しており、南側も九覧亭から三艘はもう陸地。比較の為にほぼ同じ角度から俯瞰したgoogleEarthでの風景を載せる。海は細くしか残っていない。中央下の川と海で挟まれた四角い部分は全部海だったのか。全部埋立てたんだなぁ。人間ってすごい。上行寺の入口に「舟つなぎの松」と言うのがあるのだけれども、何でこんなところ(完全に陸地の中)に有るのに「舟つなぎの松」と思っていたが、上の写真(六浦地形復元模型)を見ると、その訳が分かる。ここまで海だったんだなぁ。ちなみに「舟つなぎの松」はこれ。但し今の松は(前の松は枯れたので)新しい松。そしてこの模型を見ていて、面白いことに気がついた。昔の鎌倉街道(六浦道)って尾根の上を通っていたのか。てっきり谷戸(尾根に挟まれた谷の部分)を通っていたのだと思っていた。だって京浜急行逗子線だって谷間の部分を走っているもの。そして気がついたのは「朝比奈切通」。鎌倉街道(六浦道)は通っていないじゃん。じゃぁ朝夷奈三郎義秀が一晩で切り開いたと言う伝説は何だったのか?また吾妻鏡に載っている北条泰時が「六浦道」を改修する時に自ら率先して工事に参加したと書かれているのは間違いなのか?実は古代には鎌倉から笹下や弘明寺へ向かうには白山道を利用していたのである。六浦道の方は海が有るせいで、(一応瀬戸橋は有ったらしいが)不便で利用しづらかった。それで朝比奈切通を経由して白山道へ抜ける経路を開発しようとしたらしいのである。つまり六浦道そのものの改修ではなく、六浦道の不便さを解消する改修と言う意味らしい。ちなみに当時の鎌倉道は「鎌倉に至る道」と言う意味で、横浜市内にも「鎌倉道」は上の道、中の道及び下の道の3本が有ったらしい。なんかこれって勘違いしている人が多いような気がする。Wikiの「朝比奈切通」を見ても、「鎌倉時代に造られた鎌倉七口とよばれる里道のひとつで、 鎌倉から三浦半島を横断する六浦道(むつらみち)にある切り通しである。」と書いてある。間違っているじゃん。六浦道は通っていないじゃん。Wikiって結構ウソが多いからなぁ。まぁそれはそれとして、金沢の物ではないが江戸時代の船を再現して置いてあった。日本の船って舵の部分を色々と工夫しているなと思う。舵には(方向を変える時には)船の全重量がかかるので強力な支持構造が必要だし、海の中に舵を浸けなければいけないので水が浸入しやすいから、相当に工夫しないと実用にならない。なので重要な部分なんだけれども良くできていると思う。ただこの模型は帆柱が太すぎないか?確かに太い方が安全だけれども、後ろに見える船の絵と比べても太いような気がする。平子氏の系図と説明が有ったのが気になった。平子氏は本牧から磯子あたりの領主で、鎌倉時代の一族である。北条氏や三浦氏などの坂東平氏が土地の名前を苗字として平氏の姓から変化したのに対し、何故平子氏は「平」の字を残したのかが気になっているのだけれども、古文書などを調べても分からない。そもそも素性が分からない。最後に僕が一番驚いたのは、上郷深田遺跡の出土品が置かれていたこと。ここにこれが有るのに何故金沢区は「金沢区の地名の由来」に変なことを書いているのかと思う。金沢区役所は金沢区の地名の由来を、関靖先生(元金沢文庫の文庫長)が書いた「かねさわ物語」に、畠山重忠が秩父から鉄鍛冶達を連れて来て、彼らがここに住んだからと書いてあると書いてあるのが根拠だとしている。でも関先生は「かねさわ物語」には2説候補をあげており、1つは畠山重忠が連れて来た鉄鍛冶説で、もう一つはそれ以前からここで鉄を製造していたからそう書いている。ただ先生は(執筆当時)それ以前にここで鉄を製造していたと言う証拠が無いから、畠山重忠が連れて来た鉄鍛冶説を有力としただけである。当時まだ小柴層の存在や上郷深田遺跡は発見されていなかったので、先生としてはやむをえない。でも今では小柴層も上郷深田遺跡も調査されて存在が認められているのである。何故、勝手に関先生が2つの説が考えられると書いているのを捻じ曲げているのかと思う。金沢区役所はひどいことをしていないか?関先生をないがしろにしていないかと思う。畠山重忠説は、北条義時が畠山重忠を滅ぼしており、それなのに北条実泰・実時は金沢流北条氏を名乗っている。自分達が滅ぼした人物が元になっている土地の名前を、自分達の一族の名前の中に含めたりするだろうか?そんな恥知らずなことを誇り高い武士がするはずが無いと思う。趣味が悪すぎるのではないか?徳川家の子孫が「秀頼」と言う名前を付けるだろうか?そんな恥ずかしいことはしない=金沢と言う名前は使わないと思う。なので、僕は畠山重忠が鉄鍛冶を秩父から連れて来たのは、ここでは昔から良質な鉄が採れて、秩父よりも便利なので、ここで鉄を生産したかったからだと思うし、畠山重忠が初めてここで鉄を発見したのではなく、それ以前昔から鉄が採れたんだと思っている。その事は「かねさわ物語」にも「長浜で鉄滓が見つかった」と書かれており、関先生もそれをふまえて「それ以前からここで鉄を製造していたから」と書いているのである。それを裏付けるのが栄区の上郷深田遺跡であり、飛鳥から平安時代くらいの遺跡である。金沢区の地層である「小柴層」には良質の砂鉄が含まれており、それ故に栄区の鍛冶ヶ谷をはじめとして金沢区の釜利谷や氷取沢等製鉄に関わる地名が多い。円海山周辺ではどこでも砂鉄が採れたのである。小柴層の分布を示す資料が見つかったので載せる。これを見ると、鍛冶ヶ谷、上郷深田遺跡、円海山、氷取沢(火取沢?)、(地図には無いが)釜利谷(鎌利谷?)そして柴は製鉄に使う火の燃料と考えると、全て製鉄に関わる用語が地名になっている。地図を見ると金澤一帯が小柴層状に一直線に並んでいるのが分かると思う。古代における砂鉄の分布のその中心が上郷深田遺跡であり、発掘調査で色々と発見されており、僕はいちど見たいと思っていたのだが、それが今回歴史博物館で見つかった。金沢区役所の人もこれを見て、ちゃんと勉強して欲しいと思う。地方のお役所の人は机にしがみついて勉強しないのが欠点だと思う。常設展はこれくらいにして、次は企画展に行った。ここで説明してくれた方はものすごく優秀で、詳しく、企画展は夏休みと言うことで(当日は9月4日なので夏休みは終わり企画展も終了間際)、彼が頑張って考えた子供向けの展示がたくさん有った。でも子供向けかと言うとそれだけではなく、大人が見てもうなづける物が多かった。まずは顔付の土器が面白かった。ちょっと気持ちが悪いけれども面白い。こんなのが有ったんだ。普段使うには邪魔だけれども、祭祀の時には良いのかもしれない。例えば僕ならば「盟神探湯(クガタチ)」に使うなと思った。盟神探湯(くがたち)は、古代日本で行われていた神明裁判のこと。ある人の是非・正邪を判断するための呪術的な裁判法(神判)である。対象となる者に、神に潔白などを誓わせた後、探湯瓮(くかへ)という釜で沸かした熱湯の中に手を入れさせ、正しい者は火傷せず、罪のある者は大火傷を負うとされる恐ろしい裁判である。ただ熱湯に手を入れてやけどするかしないかは根性の問題なので、本当はそれだけでは正しいかどうかは分らないけれど、実は実際に手を入れる前の表情の変化や態度で判定するならば、迷信深い古代人ならば、手を入れる熱湯の入った壺に(神様の)顔が有った方が、悪いことをした人間はためらうだろうし、悪いことをしていない人間は神様が守ってくれると信じてためらわないだろうから、実際には手を入れる前に分かると思うから。なので、壺に顔がついていると判定がし易くなると思うのである。またもう一つ面白かったのが「楯を持つ人」の埴輪である。これを見て僕は富雄丸山古墳の楯の形をした鏡を思い出した。これである。この楯は当然戦いに使われたのではなく祭祀に使われた物である。なのでさっそく説明をしてくれた先生に質問してみたら、「あれは鏡だからなぁ」と仰って、それ以上は何もおっしゃらなかった。祭祀の変化が鏡の形状の変化になって表れているのだと思う。古代の国は「祭祀王」と「統治王」の二人が国を協力して治めていた。最も古い時代には「祭祀王」が強く、或いは「祭祀王」しかいなかった。シャーマンである。農業が普及して富が蓄積されるようになると、リーダー的な「統治王」が必要になる。それで「祭祀王」と「統治王」が協力して治めるのだが、どちらが偉い?と言う話になるともめるので、通常は女性の「祭祀王」と男の「統治王」が組み合わされ、夫婦や兄妹の組み合わせだった。邪馬台国でも卑弥呼と弟の組み合わせだったらしい。ところが国が大きくなると「祭祀王」は実務には適さないので権力的に弱くなってくる。恐らくこの頃に「祭祀王」と「統治王」の一本化が試みられ、大王は男がなるようになっていったのだろう。鏡が楯型になったのはこの段階なのだと思う。それまでの丸い鏡に対し、男らしい楯の形をした鏡が考案されたのだと思う。違うかなぁ?そうそう、先生には「日本ではいつごろから楯が使われなくなったのですか?」とも聞いた。でも明確な答えは無かったが、これは今でも結論が出ない日本の社会の特徴であるから、答えが出ないのは仕方ないと思う。これについては僕も色々と考えていくつかの理由を考えてはいるが、僕自身もそのどれが本当かはまだ分からない。難しいから。その2では歴史博物館の向かい側に有る遺跡公園を見て来る予定です。
September 21, 2025
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ずーっと以前に愛天堂に遊びに行った時に買った★EASY版★フルバンドDSPラジオキット [K-443A]を作りました。でもこれってもしかすると正規版の [K-443A]じゃないのかもしれません。何故なら回路図上は同じなのに見た目が違うから。愛天堂のホームページはこんな感じです。でも出来上がったのはこんな感じであちこち違います。バーアンテナは僕がラジカルインダクターが(感度が落ちるので)嫌いで変更しましたが、ホームページのK-443と大きく違うのは、アンテナがSMAコネクターであること。まぁこれは愛天堂のお姉さんがテレスコピックアンテナでは感度が低いので、より良い製品にしようと頑張ったのでしょう。ただ、プリント基板があちこちホームページの物と違っています。ホームページのプリント基板はこんな感じ。スイッチの位置が違う。バリコンの上のコンデンサーが470から471に変わっている。回路図上は471です。前述の通りアンテナがSMAタイプからテレスコピックアンテナに変わっている。このことから考えると、もしかして僕が買ったK-443は今愛天堂で売っているK-443を設計する試作品かも?そう言えば、これって福袋に入っていたかも?そうかぁ、だから安かったのか。なら文句は言えない。ようはジャンク品だな。そしてこれを鳴るように頑張って作って見ろと言う愛天堂のお姉さんの挑戦状だな。そう思って頑張って作ってみることにした。まずははっきりと分かっている470のコンデンサーは471(部品的には471が入っていた)で、テレスコピックアンテナは(テレスコピックアンテナ用ジャックは入っていたが)つかないので、リード線アンテナにした。バーアンテナは手持ちの1次側が400µHのバーアンテナを1次側だけ使って取り付けた。また、同梱されている青や緑のLEDは3Vでは点灯しない。(不良ではなく仕様なので仕方ない)僕はFM用に入っていた緑を赤に変えた。これで鳴るはず。参考に秋月で売っている青色LEDのデータシートを載せる。赤色LEDが通常必要とする電圧が2.6Vなのに対して、3.1Vである。新品の乾電池ならば2本で3.1Vをクリアーできるかもしれないが、ちょっと使うと電圧は3.0V以下に減少すると思うので使えなくなると思う。(ちなみに僕は孫達がおもちゃに使って古くなった電池を使っているので、 通常2本で2.8Vくらいしかない。)鳴らなかった。電流を測ると1mAも流れていない。そう言えばスイッチの位置がホームページの物とは違っていたな。調べてみたら、電池のマイナス側がどこにもつながっていない。えー!回路図を見るとこれはアースにつながっているようなのでアースにつなぐと動いた。動くと電流はボリュームによって変わるけれども概ね40-60mAで正常みたい。ただ感度は微妙。FMはRDA5807を使った多くのFMラジオよりも悪い。けれどもニッポン放送(93.0MHz)は入るし、10局くらいは入る。でもRDA5807を使ったラジオなら20局は入るんだよな。まぁ使えるけれども最高では無いと言う感じかも。MW(AM)は6石スーパーよりは感度が良い。でもこれはバーアンテナをラジカルインダクターから大きな物に変えたせいかも?まぁそんな感じで愛天堂のお姉さんの挑戦はなんとかクリアーして鳴るようになりました。でも、何も知らない人がこれにあたったら怒るかもしれない。でも、僕は秘密を探るのが大好きなコナン君のファンなので、かえって楽しかった。FMは前段にRFアンプをつけると20局聞こえるようになるかな?いつか挑戦してみよう。但し、このK-443と同様にDSP-443タイプのDSPラジオICを使うラジオは、手先の器用で無い人やお年を召して目が悪くなった人にはお勧めできません。何故なら最大の難関が、バリコンの中の電極に半田付けをすることだからです。一応バリコンの内部構造のフイルム等には影響の無いようにバリコンはMax状態(左回しに回しきった状態)で半田付けをしますが、それでも半田ごてがあたりそうになりますし、半田付けが上手く行かないと(イモ半田やてんぷらだと)ラジオは鳴りません。拡大するとこんな感じ。そして出来上がったのがこんな感じ。結構大変です。
September 18, 2025
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9月8日未明と言うか深夜は久しぶりの月食だった。ネットニュースによれば3年ぶりらしい。最初は見る予定ではなかったんだけれども、せっかくなので見ることにした。ただ、方角が悪く、南西の方角なので、僕のマンションの縦軸方向になり見えない。外に出て道路まで歩けば見えるのだけれども、暑いのでおっくう。なので、屋外階段の踊り場から見ることにした。概ね1時半から始まり、3寺12分頃が最大、皆既月食は2時半から4時くらいらしい。見ようと思ったのが3寺頃だったので、3時半くらいから屋外階段に出てみた。おぉー!月がうっすらと見えるけれど、丸いのに暗い。屋外階段なので、人が来ると迷惑だから望遠鏡は使えない。仕方ないので単なるカメラだけで撮影する。暗いので焦点距離を合わせ辛い。もちろんオートフォーカスは使えない。若干ノイズっぽいが(低レベルアマチュアの僕には)気になるほどでもない。月食の最大時を過ぎているので、上の方が少し明るくなっている。テレビなんかだと上下が逆になるので、多分テレビでは下が明るいはず。しばらく眺めていたら、階段の上からひょこっと女の子が顔を出して来た。高校生くらいかな?手にスマホを持っているので月食を写していたのだろう。今どきは男の子よりも女の子の方が理科が好きなので、女の子でも結構興味を示す。まぁでも夜は危ないよ。4時半を過ぎると周囲が明るくなってくるので、その前に部分月食を撮ることにした。部分月食になると結構明るいので、手動でも焦点距離を合わせることが可能になる。もちろんジーサンなので目が悪いので昼間のようにはいかないけれど。上の写真に比べると相当に明るい。なので、地球の影がハッキリと分かる。右下の地球の影の部分にうっすらと何か見える。月の表面の模様(クレーターによる模様)で、通常の満月ならばウサギの耳の部分かな?正確には分からないけれど、多分そんなところだろう。えー!三日月や半月の時にはウサギさんは見えないじゃん!そう思ったけれども、これには理由が有る。三日月や半月は「太陽の光が当たっていない」ので、明るい部分と暗い部分のコントラスト比が激しく大きいのに対し、月食は「陰になっている」ので、コントラスト比はそれほど大きくないのである。部分月食は「半影の範囲」に有る状態なのである。上の図で言うと半影月食の状態だったんだと思う。暗い部分も「光が当たっていないのではなく半影部分だった」ので薄く明るいのだと思う。ちなみにネットニュースで出ている写真にも同じ状態の写真が有る。ネットからお借りした。恐らく望遠鏡で写したのだと思う。その為に逆さまになっている。この写真も明るい部分とうっすらと影になっている部分が有る。僕のカメラって優秀なのかも?最近の子供は理科に興味が無いと言われているけれど、さっきの女の子は将来大学に行って理科系の学科に進むのかな?そして月食を見た時にむさくるしいジーサンがいたことを思い出してくれるとうれしいな。
September 9, 2025
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実はわの会は7月はトルコとギリシャに行ったせいで、8月は座学でDVDを見る回だったのを時間を間違えて欠席してしまったので、このブログもお休みしている。でも間が空くのは気分的にいやなので、イベントには本当は参加していないけれど、「妄想したこと」を書くことにした。あくまでも妄想で、夢に見たようなものなので確たる証拠は無いけれど、日本中のどの先生も書いたことが無いと思う内容なので面白いと思う。鎌倉時代に突入する一連の出来事では、「平家物語」等の物語によって、源氏と平家の戦いだと思われている。本当だろうか?きっかけとなった保元の乱と平治の乱を調べてみた。まず保元の乱であるが、これは皇室の皇位継承や摂関家の内紛から発生した政変である。朝廷が「後白河法皇」方と「崇徳上皇」方に分かれ、それぞれに摂関家と武士達が従って、当時としては珍しく武力による衝突が始まった。 後白河法皇一派 崇徳上皇一派摂関家 藤原忠通 藤原頼長 藤原通憲(信西)武家 源義朝 源為義 源頼政 源為朝 平清盛 平忠正 他 他見て分かるように、皇室も摂関家も武家も綺麗に2つに分かれており、源氏と平家の戦いにはなっていない。続けて起こった平治の乱は、ここで力をつけた平清盛が信西と組んで後白河法皇を利用してのし上がった戦いである。平家一門はこれ以降、「平家に有らざるものは」と言う感じでのし上がる。摂関家 藤原忠通 藤原信頼 信西 藤原惟方 藤原経宗武家 平清盛 源義朝 平重盛 源季実 平経盛 源重成 他 他ここではもう源氏方は保元の乱で弱っていながらも義朝は皆を率いて戦っており、はっきりと平家と源氏の戦いになっている。そして尾張に逃げた源義朝は長田父子に裏切られて殺されたが、頼朝たち幼かった子達は清盛の母の池の禅尼の助命により助かる。で、伊豆に流された頼朝が平家を滅ぼしたと言う話である。でも本当に頼朝が平家を滅ぼしたのであろうか?実は平清盛を滅ぼしたのは「病気」である。また、京から平家を追い出したのは源(木曽)義仲である。落ちのびる平家を壇の浦で滅ぼしたのは源義経である。頼朝は見ていただけである。僕は頼朝は平清盛の母である池の禅尼に助けられた経緯も有り、平家は朝廷から追い出すだけで滅ぼすことまでは考えていなかったのではないかと思っている。また屋島や壇の浦で平家を滅ぼしたのは、北条や三浦及び畠山等の武士つまり坂東平氏である。「ひよどりごえ」の戦いではそれを命じた源義経が有名であるが、馬を担いで降りて見せた畠山重忠だって大事な役割を果たしている。他の武士達は彼を見て大丈夫だと思い決心したのである。彼がいなければ、皆は命令に従わなかっただろう。つまり平家を滅ぼしたのは(平家を除く)平氏だったのである。源平の戦いと言うよりは平・平の戦いだったと言う側面が強い。しかもその後、頼朝は源(木曽)義仲や源義経を殺している。源義仲の子と頼朝の娘の大姫は恋仲だったらしい。義経は腹違いとは言え弟である。これって源・源の戦いでは?そうそう頼朝は別の弟の源範頼や阿野全成も殺している。「源平の戦い」じゃないじゃん。じゃぁ頼朝は何がしたかったのか?実は頼朝のお母さんは熱田神宮の大宮司である藤原季範の娘である。藤原季範の母親は「尾張氏」の末裔で尾張の国司である藤原氏と対立していたらしい。尾張は天武天皇が戦いを起した際には天武天皇を助けている。継体天皇が戦いを起した際には継体天皇を助けている。つまり天皇家に内紛が起こった際にはよく介入して、天皇家内の争いを助けている。これは神武天皇の時代からそうで、高倉下(尾張の祖)は神武天皇を助けている。尾張は天皇家の敵役(あるいは黒衣)なのではないだろうか?後世の織田信長や秀吉・家康も尾張(付近:岡崎とか)の出身で、彼等により天皇家は日本の支配者ではなくなっている。頼朝も本来の目的は天皇家の打倒だったのではないだろうか?そしてそれは承久の乱で達成される。鎌倉幕府を倒そうとした後鳥羽上皇は沖ノ島に、順徳上皇は佐渡島に流される。頼朝(はもう死んでいるので実際は北条政子)はやり遂げたのである。(但し北条や三浦は平将門の時のように関東の独立を考えていたのかもしれない。 そのせいで朝廷と戦わずに独立だけを考えていたのだが、 朝廷側が許さずに承久の乱をけしかけて来たので、 北条政子にはっぱをかけられて行きつくところまで行ってしまった。)まぁでも源(木曽)義仲と源義経は平家を滅ぼしたかったのかな?でも義経は天皇家に味方しようとした。だから頼朝は尾張に配慮して義経を殺したのではないだろうか?すべては尾張が糸を引いていたのではないだろうか?何の根拠もない妄想だけれども、そう考えたのである。それは何故そう思ったのか?実は称名寺の「楊貴妃の玉簾(たますだれ)」のことを知ったからである。もちろんこれが「楊貴妃」の物だとは思っていない。でも、これは称名寺の三重塔に有った秘宝らしい。そして伝説によれば鎌倉時代に熱田神宮から送られた物なのだそうだ。何故熱田神宮から贈られたのか?頼朝と熱田神宮の間には何が有ったのか?そう考えたら上のこと、つまり鎌倉幕府が開かれたのは、源平の戦いの結果ではなく、頼朝が天皇家から日本を奪い返そうとした結果なのではないか?そう思ったのである。違うかなぁ?そしてこれには理由と言うか原因が有る。北条や三浦の母方の祖先(父方はもちろん平氏)は、古代にヤマトタケルノミコトがここを攻めた時に連れて来た人達の子孫なのではないだろうか?戦争と言うのは国を奪うことが一番の目的である。攻めて相手の国を打ち負かして終わりではない。国を奪ったのであれば、一部は祖国に帰るのだが、残りはそこに住みつくのだと思う。横須賀と言う名前は愛知県の東海市にも有る。彼らが愛知(尾張)から連れて来た地名なのではないだろうか?そして六浦の古名(和名類聚抄地名に載っている)「鮎浦」と言うのは、新編武蔵国風土記に「鮎ではなく鮐(ふぐの古字)」と書かれており、僕もそう思っていたのだが、実は新編武蔵国風土記も僕も、和名類聚抄地名に書かれたフリガナを見てそう思ったのだけれども、それは和名類聚抄地名にフリガナを付けた人が「海に鮎はいないだろう!」と考えたせいで、「フクラ」と言うフリガナは、その人の勘違いだったのかもと思ってしまった。それはここ三浦半島の人が尾張から来た人達の子孫ならば魚の話では無いのである。<後日追記>倭名抄を載せたので、ついでに新編武蔵國風土記の該当部分も載せる。例によって小さくて見づらいので、画像を右クリックして出るメニューから、「新しいタブで画像を開く」を選ぶと別タブで大きな画像で見ることができる。僕もフリガナを見てそうだよねと思ったんだけれども、もしかしたら間違いかもしれない。また上の新編武蔵国風土記の中にも書いてあるが、そもそも和名抄のフリガナ「布久(フク)も誤っているような気がする。これって「フクラ」ではなく「クシラ」と書いてはいないか?称名寺貝塚からはクジラの骨が出土しており、昔は東京湾にも鯨が入り込んでいたらしい。もし「フクラ」ではなく「クシラ」だった場合には「鮎浦」はどう言うことになるのだろう?例えばこの「鮎浦」は単に音をあてただけで、元は「あゆら」だったのではないだろうか?そして和名抄のフリガナは「鮎浦」を書写する際に、海に鮎はいるはずないのに、これって本当は「鯨浦」じゃないのかなと思いながら書いたのでは?その場合色々な考え方ができると思う。以上後日追記終わり。愛知県の「あいち」は昔熱田神宮付近まで海が迫っており、ここを「あゆち」と呼んだことに始まる。これは万葉集にも載っている。万葉集巻三の高市黒人(たけちのくろひと)の歌「桜田(さくらだ)へ鶴鳴(たづな)き渡(わた)る年魚市潟(あゆちがた)潮干(しおひ)にけらし鶴鳴(たづな)き渡(わた)る」と言う歌が元になっている。桜田と言うのは熱田神宮近くの地名で、年魚は鮎のこと、ここに書かれた年魚市潟(あゆちがた)が愛知の名前の由来である。但し、あゆちは鮎の音を使ってはいるが、魚の鮎のことではなく、「あゆ」は本来は「吾湯」と書かれるもので、水が勢いよく流れる様子を言う古語である。なので万葉集の歌は「潮干(しおひ)にけらし」と書かれているのである。ここのことは日本書紀の神代部分にも有り、いわゆるヤマタノオロチ退治の部分である。<日本書紀神代抜粋>そこで素戔鳴尊は大蛇に、「あなたは恐れ多い神様です。おもてなし申し上げます」と言われた。そして、八つの甕の酒を、八つの口に入れた。そのうち蛇は、酒を飲んで眠った。素戔嗚 尊は剣を抜いて斬りつけた。すると尾を斬るときに剣の刃が少し欠けた。割いてご覧になると、剣が尾の中にあった。これを草 薙 剣と名づけた。これは今、尾張国の吾湯市(あゆち)村にある。すなわち熱田の祝部がお祀りしている神がこれである。この名古屋の「吾湯市」の様子が昔の六浦に似ているのではないだろうか?六浦と言うか泥亀も含めて、ここは(埋立てる前は)大きな湾と言うか干潟になっていて、下の古代地図と現在の地図を比較した写真の左側のように湾が広がり、潮の満ち引きに伴ってここ全ての海水が細くなった(写真の青い字「急流だった!」と書いた)部分を通るので、勢いよく潮が流れていたのである。だから「あゆうら」と昔の人は呼んだのではないだろうか?つまり和名類聚抄地名にフリガナを付けた人はそのことを知らなかったので、海には鮎はいるはずが無い。この字は「鮐」の字なんだろうと「フクラ」とフリガナを付けたのである。なお上の写真は画像の上で右クリックして出るメニューから「新しいタブで画像を開く」を選ぶと、別のタブで大きな画像を見られるので参考に。そしてここ三浦半島に尾張の人達の子孫が居たのならば、称名寺に熱田神宮の秘宝が有ってもおかしくはないし、源頼朝は熱田神宮つまり尾張の為に天皇家を没落させたのではないだろうか?そうならば北条や三浦も手を貸すのが当たり前だし、用が済めば頼朝一族を殺してしまうのも分かるような気がする。恐らく今までの人は誰もこれに気がついていないと思う。妄想だけれども違うかなぁ?
August 30, 2025
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愛天堂のAMスーパーラジオキット [K-7613Z]は面白いキットで、実はよく似た [K-7613X]と言うのも有る。何が違うのか?調べてみたらほとんど変わらない。でも、基板をよく見るとXはイヤホンジャックの部分が無い!何故か?実はK-7613Zのイヤホンは2.5mmタイプなのである。昔は2.5mmタイプのイヤホンはよく使われていたが、最近はどこにも売っていない。なので、Xの方は素直にイヤホンをあきらめたのである。いや、3.5mmのイヤホンジャックを付ければ良いのでは?実は穴の位置とボリュームの位置の関係で、PJ-307のような普通の3.5mmのイヤホンジャックは狭くておさまらない。なので諦めたのだと思う。まぁ無理して新しい基板を設計するのは大変だと思う。でも僕は耳が悪いし、我が家はマンションなのでスピーカーは使えない。なので僕は縦長の3.5mmタイプのイヤホンジャックを取り付けた。ただ、このイヤホンジャックは古いので現在同じ物は売っていない。写真はOSC出力をICの5番ピンから取って周波数のカバー範囲を調整している所。この段階で重大事件が発生した。実はこの基板は最初の写真を見ると分かるようにK-7613Xに比べると古くて弱い。あまりいじくっていたせいで、銅箔がはがれて、イヤホンへの配線が銅箔から抜けていた。ただ見た目では分からず、最初は何が悪いのかが全然分からなかった。こういう時は「シグナルインジェクター」が活躍する。シグナルインジェクターは簡単に言えば無安定マルチバイブレーターで、矩形波を発生する発振器なのだが、矩形波はフーリエ解析すると無数の高調波を含んでいる。その為に出力は低周波では基本波そのままで信号源として使えて、高周波部分では無数の高周波成分が高周波信号源(言ってしまえばノイズ)として使える。これを上手く使えば故障点が分かるのである。信号の最終出力を例えばスピーカー(やイヤホン)から聞いて、信号源をスピーカー(やイヤホン)から順番に源流にさかのぼって行けば、聞こえる所までは正常で、聞こえなくなった所の直後が故障回路である。なので、今まで聞こえていたのが聞こえなくなった場合などは、故障点を調べるのに重宝する。シグナルインジェクターの回路図はこんな感じ。ただ電気的な部分よりも、いかに使いやすい形にするかが苦労する。特に電源から長い電源線が出ていたら邪魔でしょうがないし、細かい部分に差し込むので細い出力端子が必要になる。なのでこんな感じで作っている。写真にも書いたけれど意外に重要なのは測定端子の加工である。すぐに錆びる。錆びて接触が悪くなると使いにくい。なので、僕は半田メッキをしている。これの出力波形はこんな感じ。発振器と言えば普通はきれいな矩形波の方が理想的なんだけれども、シグナルインジェクターとしては汚い方が高調波成分が多いので使いやすい。普通の人、耳の良い人ならばこれを使って各所に信号を入力して、スピーカー(又はイヤホン)から音が聞こえなくなる所が見つかれば良いのだけれども、僕は耳が聞こえないので仕方ないのでオシロをスピーカーに並列につなぐ。そしてこのK-7613Zの場合はICの足の部分が測定端子を差し込みやすいので、回路図を見ながらチェックして行く。特に重要なのは、12番ピン=スピーカーの直近=ここで聞こえなければC4が悪い。まずは12番ピンを見るとこんな感じ。波形がメチャメチャなので、心配したが、奥さんに聞いてもらうと音としては同じらしい。実はこれは予想可能なことで、出力をインピーダンスの低い所につないだせいだと思う。まぁ奥さんがOKをくれたので次に行く。次は14番ピン。ここはIF(中間周波数)の最終段で検波前の部分。なので、周波数を見ると元々のシグナルインジェクターの出力周波数に近い。そして結構な出力が出ている。ここに信号入力したら、検波によって多少信号は弱まるけれども、ここの後ろの低周波増幅段で大きく増幅するので、当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。ちなみにここならば、僕でも音が聞こえる。次は2番ピン。ここはANTからの入力とOSCで発振した両方の電波が混合されたあと、つまりIF(中間周波数増幅段)の入口の部分。本来ならばIFTにより455kHzしか通らないはずなんだけれども、矩形波にはその辺の高調波も含まれているので、それが信号として増幅されてスピーカーに流れる。ここも僕の耳でさえも聞こえる。最後は6番ピン。ここはバーアンテナからICへの入力部分。つまりここに信号を入力して音がすれば(放送局の電波が受信できるかは別として)、ラジオとしては半分は大丈夫な状態。ここにシグナルインジェクターの出力を入力して音が聞こえるならば、ダメなのはOSC回路部分である。つまりOSCがちゃんと必要な電波を発振していないので、455kHzが発生せず、ラジオとして機能していない(残り半分がダメ)状態である。まぁ、OSCが機能しているかいないかは、ICの5番ピンからOSCでの発振出力が出ているので、ここを調べれば分かるのではあるけれど。こんな感じなのでシグナルインジェクターを上手く使えば、ラジオのどこが故障しているかが簡単に分かるのである。原理さえ理解できれば、他の電気機器例えばオーディオアンプなんかにも使える。オーディオアンプでも要は音が出なくなったら、その直後の回路がダメなのだから。そんなかんじなので、愛天堂のK-7613Zは無事に動いています。
August 20, 2025
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アリエク(AliExpress)で面白いラジオを探していて、安くて実用性が有りそうなAM/FMラジオを見つけました。BS208HAFです。さっそく買ってみました。1476円です。色はちょっと安っぽいので不満があるのですが、実際に安いので仕方ないと言う話もあります。(送料を除くと635円です。)何よりも2バンドラジオです。ただFMもステレオじゃなくてモノラルなのが不満ではあります。まぁ、さっそく作ってみます。中国製ですが、アメリカ向けに英語の説明書も入っています。でも僕は英語も苦手なので、絵で分かる回路図や写真が頼りです。回路図はこんな感じです。写真を右クリックして出るメニューから「新しい画像を別のタブで開く」を選ぶと、大きな画像で見られます。右上の設定で拡大もできるので、特に左下の実体配線図が参考になるかも?ラジオICは愛天堂でも売っているCD2003で東芝のTA2003の互換品です。愛天堂ではこれを使ったケース付きFMラジオきっと [K-FM2003A]も売っています。(但しFM部分しか使っていない。)歴史が有って確実なラジオICです。ここでせっかく作るのならと、スケベ心がむくむくと起き上がります。このラジオはFMバンドは88~108MHzなんだけれども、せっかくだから日本で使えるように78~95MHzを受信できるように改造しよう。愛天堂のZX-2051でつちかったノウハウが有るので大丈夫。ただZX-2051とはコイルがちょっと違うんだよなぁ。(ZX-2051のOSCコイルは4.5回巻きだったのにこれは3.5回巻き)まぁやってみよう。と言うことで上の写真左上にも書いてありますが、C1は30pFを47pFに、C9は18pFを33pFに、C11は15pFを30pFにしました。ただ少し大きかったようで、3個コイルをそれぞれの広げるはめになりました。でも、広げる分には調整可能なので良いのかも?狭めるのは無理だから。こんな感じです。この程度の広げ方なら対応可能です。写真を見ると右側にイヤホンジャックが有ると思います。このラジオはスピーカー専用です。でも我が家はマンションなのでスピーカー禁止。仕方ないのでドリルで穴を開けてつけました。でもイヤホンはお奨めできません。ぼくは耳が悪いので大丈夫なのですが、このラジオは通常ならばICの出力だけで十分にイヤホンや小スピーカーを鳴らせる出力なのに、それをさらに3石のトランジスターで増幅しているので、ものすごい音量で鳴ります。なので耳の良い普通の人はイヤホンだとボリューム最小でも耳が痛くなると思います。なので、元々はスピーカー専用なのです。AMは簡単な調整で、下はNHK第一(954kHz)から上はラジオ日本(1422kHz)まで、きれいに入ります。低い周波数の方はバーアンテナ、高い周波数の方はトリマーコンデンサーで、トラッキング調整をします。セラミックフイルターを使っているので中間周波数は無調整です。これが初心者には親切だと思います。初心者はたいていせっかく受信できているラジオを、IFTをいじくってダメにしますから。FMは多少調整が必要です。これはメーカーが悪いのではなく、元々88-108MHzだったのを77-95MHzにした僕が悪いので、仕方ありません。自作のFMトランスミッター(FMワイヤレスマイク)低周波変調回路付きを使います。写真ではすぐ近くに置いていますが、電波は強いので実際は2mほど離して調整します。デフォルトで若干は聞こえているはずなので、最初は周波数範囲の調整をします。自作FMトランスミッターの周波数をいじくって写真のように上が94MHz下が77MHzにします。上の写真では最初は95MHzにしていたのですが、感度の調整中に94MHzになってしまいました。調整は上の写真の中にOSCと書いたトリマーとコイルL3で行います。トリマーを中心の状態でコイルの方を先に広げてやった方が簡単です。周波数範囲が決まったら、次は感度の調整です。AMと同様に低い方の周波数でL2を広げて最大感度に持って行きます。上手く行ったら高い方の周波数で上の写真のANTろ書いた方のトリマーをいじくって調整します。最後にBPF(バンドパスフイルター)の調整です。FMトランスミッターを85MHzくらいにしてL1を広げて最大感度になるようにします。このラジオICにはFMの前置増幅器が有ります。昔のラジオで言えば「高周波増幅回路」です。ただ、昔の高周波増幅回路はそれ用の同調回路がついていたのですが、さすがにポリバリコンはFM用に3連バリコンなんてありません。なので、広範囲に増幅することになりますが、その同調回路としてBPFがついているようです。すると、このラジオは電波の状況の悪い僕の部屋でも5局くらいは入ります。前回作ったZX-2051と同じかちょっと感度が良いようです。南側のベランダなら20局以上入ります。運が良いと静岡や千葉のFMも入ります。AMも上でも書いたようにNHK第一からラジオ日本で全部入ります。入って欲しくない韓国や中国の放送も入ります。完成するとこんな感じです。上の方に見えるのは英語版の説明書です。英語が読める人ならば役に立つと思います。完成して気がつきましたがLEDが無いです。チューニング用のLEDが有る分、ZX-2051の方が良いかな?こんな感じで完成です。ただ音がボリュームをしぼっても大きいんだよなぁ。まぁ聞こえないよりはいいか。
August 16, 2025
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前回の、久しぶりに愛天堂に行ったらZX-2051が有ったので買ってみました。(その1)では、なるべくオリジナルを使うと言うことで、バーアンテナはオリジナルの物をつかったが、記事の中で、同じ長さでインダクタンスが小さいBT330DEなら使えるのじゃないかと思い、そう書いたのだけれども、言いっぱなしだとダメなので、検証することにした。幸いにして愛天堂に行った際に「予備として」もう1台買っておいたから。BT330DEも愛天堂で買ったのだけれども、こんな感じである。1をC、2と3をつないでb、4をaとして使えばオリジナルのバーアンテナと同様に使えると、そう思ったからである。上にも実力値を書いたが、実測してみたら愛天堂のホームページに書いてあるのよりも小さい。でも、これは測定器の誤差や個々の個体差も有るので、まぁ誤差の範囲である。まずはT2。LCRメーターでは0.269mHと表示されているが、実はこのLCRメーターは僕がいじくりすぎて多少小さく表示される。何もつけない状態で-0.009mHが表示されたりするのである。(-0.009mH=-9µHです。)なので、多分実力値は280µH位だと思う。同様にT1を測る。T1は40µH位である。これを使うにはT2とT1を直結するのだが、同じフェライト棒に2つのコイルを巻いた場合、その巻き方により加算されたり、減算されたりする。加算される巻き方を「和動接続」、減算される巻き方を「差動接続」と言う。まずは和動接続してみる。写真にも書いた通り、T2=280µHとT1=40µHに相互インダクタンス60µHの2倍が加算されて440µHくらいになる。次に差動接続してみる。いやー、学校で習ったそのままなのがうれしい。T2=280µHとT1=40µHを加算した320µHから相互インダクタンス70µHの2倍が減算されて、180µHになる。和動では60µH、差動では70µHと書いたので10µHの差が有るが、そもそもこのLCRメーターは何もつながない状態で-0.009mHを示し、10µHくらいの誤差が有るので、多分相互インダクタンスMは60~70µHくらいなのだろう。ただ和動接続するにしても440µHでは少なすぎる。なので、余ってぶらぶらしている巻線を順方向に追加で巻いてみた。その上で和銅接続すると巻線は4か所で2~3回づつ、つまり10回巻き数が増えて、540µHに増えた。LCRメーターで確認しながら「増える方向に」巻かないと逆効果なので注意。キットの部品を改造するのは、僕の得意技である。また前回はFM部分も日本バンドに対応させる為に、ANTのRFコイルであるL1とOSCコイルのL2にバリコンと共に並列に接続された、C3とC4を15pF→30pFにしたが、大きすぎてL1とL2を少し広げなければならなかった。今回はC3とC4は24pFにしたら、ちょうど良かったみたいで、L1もL2もほぼそのまま(少し広げたけれど)で周波数範囲も感度調整も上手く行った。なお、L2は愛天堂の回路図では5.5Tになっており、L1は4.5Tだけれども、元の中国での部品一覧及びSONYのデータシートを見ると逆で、L2が4.5T,L1が5.5Tなので注意が必要である。その結果けっこう上手く行ったので、前回の(その1)と並べてみた。写真は右クリックして出るメニューから「新しいタブで画像を開く」を選択すると、別タブで大きな写真が見られるので、参考に。写真の中にも書いたが、BT330DEはオリジナルコイルよりも太い。なので、インシュロック(基盤に取付用の白いプラスティック紐)はフタを閉める際に邪魔。なので、頭部分を切り取って接着剤で固定している。実際に受信してみたが、FMは前回の(その1)も今回の(その2)もともに約77.0~95.0MHzくらいをクリアーしており、感度は結構いい。AM(MW)は前回の(その1)は低い周波数部分が入らなかったが、今回の(その2)は全て受信できるうえに感度がメチャメチャ上がった。入らなくても良い中国や韓国の放送まで入るし、受信環境が最悪の僕の部屋の中でさえ、ニッポン放送やラジオ日本が入る。奥さんに言わせると、字が汚くて見づらいので10点だと言うことだが、ラジオとしては100点だと思う。愛天堂のお姉さん、安心しても大丈夫ですよ。セラミックフイルターはちゃんと良品で使えているし、バーアンテナをBT330DEに変えて(少し巻き数を増やして)、FMのRF及びOSCの同調回路のコンデンサーC3とC4を24pFにすればものすごく良いラジオになります。多分、元々の980円+バーアンテナ320円+セラミックフイルターとコンデンサー100円と、お姉さんのおこづかい100円を加えて1500円でも売れると思います。
August 14, 2025
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宮崎には北の方に高千穂峡が、南の方に高千穂の峰が在り、どちらが古事記や日本書紀に書かれた「高千穂の峰」なのか争っていて、観光地としての高千穂峡の方が知名度が高いので、何も知らない人は、天孫降臨の地は高千穂峡の方だと勘違いしている人が多い。古事記の該当部分を見るとこうなっている。天孫降臨の場面である。<原文>天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣<意訳>筑紫(九州)の日向国の高千穂の素晴らしい山に天降りされました。ここだけを読むと確かに「高千穂峡」と「高千穂の峰」どちらでも正しいと読める。ところが、続きが有る。<原文>於是詔之此地者向韓國眞來通笠紗之御前而朝日之直刺國夕日之日照國也故此地甚吉地詔<意訳>この国は韓の国に向かい、往来するのに(多分舟で行く際に)適した笠紗の岬があり、朝日が直接差しタ日が明るく照らす土地なので、この国はとてもよい土地だなぁと仰った。高千穂峡近くには韓の国に関わる地名は無く、笠紗の岬も無い。両者が有るのは高千穂の峰の傍である。高千穂峡も朝日が直接差しタ日が明るく照らす土地ではあるが、それは宮崎はどこでもそうである。これだけでは決着はつかない。なので日本書紀の当該部分を見る。但し、日本書紀はけっこう本格的な漢文で難しいので、意訳文を載せる。<意訳>天津彦火瓊瓊杵尊は、日向の日の高千穂峯に降られて、膂央の胸副国(瘦せた土地の国)を丘続きに求め歩いて、浮渚在平地に立たれ、国主である事勝国勝長狭を召されて尋ねられた。事勝国勝長狭は、「ここに国があります。お好きなようになさってください」と答えた。また、日本書紀は別の文書も一書として載せており、それにはこう書かれている。日向の襲の高千穂の、扼日の二上峯の天浮橋に至り、「浮渚在平処」にお立ちになって、膂央の空国を、丘続きに求め歩いて、吾田の長屋の笠狭の崎に着かれた。ハッキリと「襲の高千穂」と書かれている。古事記の国生みの場面で、イザナギとイザナミが生んだ九州には4つの国が有り、「筑紫の国」、「肥の国」、「豊の国」及び「熊襲の国」である。同じ古事記の中の話なので、襲の高千穂は古の熊襲の国である。また「笠狭の崎」は「吾田の長屋」である。和名類聚抄地名では吾田とは現在の「薩摩国阿多郡」である。どうしてもプライドが許さない歴史学者は、天津彦火瓊瓊杵尊が高千穂峡に降り立って、良い国を求めてさまよって(丘続きに求め歩いて)、吾田の長屋の笠狭の崎に着いたのだと主張するが、そもそも日本書紀には「峯」と書かれており「峡」とは書かれていない。一部の学者は二上峯が高千穂の峰には無いと主張するが、現地で霧島山系を眺めればすぐに分かる。高千穂の峰と韓国岳は上の写真の瓊瓊杵尊が降り立った方角から見れば完全に「二上峯」である。そしてプライドの高い学者は日本書紀の「空国(からくに)」をむりやり「そらくに」と読むが、古事記と合わせて読めば「韓国(からくに)と読むのは明白である。「空」も「から」である。では、ここから韓国が見えるのであろうか?古くは異国全般を「韓」と呼んだ。この韓国岳のふもとには「えびの」市がある。市のホームページでは、その名前の由来を「すすきの蝦(えび)色」に染まった野だとするが、そんな理由なら全国の野原は全部「えびの」である。そうでは無いと思う。この付近の古い伝説や言い伝えには「隠れ里」が多い。ぼくはここには中国や韓国から、戦乱を逃れて来た渡来人が多く住んで居たのだと思う。例えば熊本県葦北郡には百済人が多く住んで居て名前が残る「百済来村」が有る。僕はよく「日本伝説体系(南九州)」を読むが、鹿児島から宮崎には「隠れ里」伝説が多い。例えば鹿児島県肝属郡高山町(きもつきぐんこうやまちょう=今は合併して肝付町)や、姶良郡霧島町、川辺郡知覧町等に隠れ里伝説が残っている。なので、えびすに渡来人が隠れて住んで居ても何の不思議もないのであるが、もしえびのに渡来人の集落が有ったのならば、「えびの」は「戎(えびす=渡来人)の野」なのではないかと言う気がしてくる。もしそうならば、天津彦火瓊瓊杵尊が韓国岳からえびのを眺めて、「この国は韓の国に向かい」と仰っても何の違和感も無いのである。つまり高千穂の峰が天孫降臨の地だと言う裏付けは多いのである。では何故宮崎県北部に「高千穂峡」が有り、そこが天孫降臨の地であると主張する人が居るか?それは、元狗奴国の子孫達が本来邪馬台国の神話であった天孫降臨の神話を、自分達のものとして奪おうと考えたからである。なので、熊本から大分にかけて存在した狗奴国に近く、本来の天孫降臨の地から離れた高千穂峡を作り上げたのである。「高千穂峡を作り上げた」と言うのは現地に行って見ればすぐに分かる。高千穂峡は観光写真でも流れ落ちる滝で有名であるが、あの滝は人工の作り物の滝である。つまりいかにも神秘的な所と言う雰囲気を出す為に造られた物なのである。高千穂峡に有る「天の岩戸」も同様に作られたものなのだと思う。何故そのようなことをしたか?全ては狗奴国の子孫が王権を奪回して天皇家にもぐりこんだ時に始まったのだと思う。それはいつか?応神天皇の時代である。古事記や日本書紀にも書かれている通り、神功皇后と竹内宿祢は仲哀天皇の2人の子を殺し、自身の子の応神天皇を天皇の位につけている。仲哀天皇が九州で死んだ時の様子はあまりにも怪しくて、仲哀天皇は「神を疑って逆らって」、琴を弾いているうちに(何故か)死んでしまう。しかも2人は仲哀天皇の2人の子、麛坂皇子と忍熊皇子と戦って殺す。何でそうなったのか?神功皇后の父は息長宿禰王、母は葛城高顙媛であるが、母の葛城高顙媛は新羅から来たアメノヒホコの子孫である。息長宿禰王の御先祖様には丹波道主がおり、丹波は新羅の第4代の王「脱解尼師今」の故郷である。つまり神功皇后は新羅の王家と縁が深い。なので日本書紀を読んでも仲哀天皇に対して「新羅とは戦ってはいけない」と主張している。神功皇后と竹内宿祢が仲哀天皇を殺したのではないだろうか?なので、仲哀天皇の子の麛坂皇子と忍熊皇子は敵討ちと考えて神功皇后を待ち受けて殺そうとした。ところが、神功皇后には意外な味方がついていた。それが狗奴国の子孫達なんだと思う。狗奴国の子孫達にしてみれば、邪馬台国の子孫の仲哀天皇の子の麛坂皇子と忍熊皇子を殺し、神功皇后と応神天皇を助ければ、今度は自分達が倭国の中心になれるからである。なので、応神天皇と神功皇后は狗奴国の中心であった熊本や大分を中心とした九州に、例えば宇佐八幡宮のように祀られた神社が多いのだと思う。勝った神功皇后と応神天皇の子孫は天皇家を継ぎ、その五代後の継体天皇が現皇室の御先祖様である。継体天皇が天皇になった際にも謎が多い。先代の武烈天皇は異常なくらいメチャメチャに書かれている。いやしくも天皇がそんな行いはしないと思うくらいである。本当に子供がいなかったのだろうか?本当は狗奴国に王座を奪われた邪馬台国の子孫達が復活しそうになって、戦争にはならなかったが、皇室内で非情な戦いが有ったのではないだろうか?そのせいで継体天皇は19年も都には入れずさまよっている。継体天皇は仁賢天皇の皇女の手白香皇女を奥さんにもらって事態を収拾している。手白香皇女は邪馬台国側の人で、狗奴国側の継体天皇と邪馬台国側の手白香皇女が夫婦になることにより、狗奴国側と邪馬台国側が妥協したのではないだろうか?そして、その子孫の推古天皇までが狗奴国の子孫なんだと思う。その証拠はあるのか?実は物的証拠が残っている。継体天皇の真陵である今城塚古墳や、推古天皇の初陵である植山古墳の石棺は、熊本の馬門石でできていたと確認されている。何故わざわざ熊本から石棺を運んで来たのか?先祖代々の霊を祀る為である。熊本と言えば狗奴国。大分は熊本から近畿に至る経路。神功皇后の時代には熊本から大分が狗奴国の子孫の治める地だったのだと思う。狗奴国王のスサノオは朝鮮(恐らく新羅)に追放されたのだけれども、その子孫は、神功皇后と応神天皇の時代に再度日本の中心に戻って来たのだと思う。そして邪馬台国を消し去ろうと考えたのである。ただ、人々の頭の中に残る神話は消せなかった。なので、狗奴国に近く、実際の位置とは違う高千穂峡に偽の天孫降臨の地を作り、邪馬台国は神話の中に隠そうとしたのだと思う。そのせいで、古事記や日本書紀には邪馬台国について何も書かれておらず、神話の中にだけ、ほのめかす程度に天照大御神やスサノオのことが書かれているのである。また、その事を感じさせる別の証拠がある。隋書倭国伝である。この本は「推古天皇の時代に来た中国の使者が会ったのは男で、奥さんやお妾さんがいた」とか、倭國の王の名は「俀王姓阿毎字多利思北孤」と書いており、「アメのタリシヒコ」だとされ、これが聖徳太子だとか、蘇我馬子だとか色々と言われている本である。その中で、こう書かれている。<原文>俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中依山島而居魏時譯通中國三十餘國 皆自稱王夷人不知里數但計以日其國境東西五月行南北三月行各至於海地勢東高西下 都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也<意訳>俀国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在り。山や島に寄添うようにして暮らしている。魏の時、中国に訳通するは三十余国。みな王を自称す。夷人は里数を知らず。ただ日を以って計る。その国境は東西五月行、南北三月行にして、それぞれ海に至る。地勢は東が高く西が低い。邪靡堆(ヤマト)を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(ヤマタイ)である。つまり近畿の奈良が邪馬台国だと教えられている。そりゃそうだと思う。私達は狗奴国の子孫なんですよとは口が裂けても言えないと思う。このせいで今でも歴史学者達は邪馬台国近畿説を支持するのだと思う。でも文章をよく読んで欲しい。「俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中」つまり「百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在り」と、魏志倭人伝とは方位と距離が変わっている。また、「其國境東西五月行南北三月行各至於海」と、南北は恐らく九州であろうから、東西はその比率から考えて伊勢湾まで有ると分かる。とすると、魏志倭人伝の時代の情報とは違うのである。魏志倭人伝では「南へ南へ」と進むのに、ここでは「東南」とされている。邪馬台国から邪靡堆(ヤマト)へと移っている。但し、推古天皇の影武者(聖徳太子?)は本当のことは言えないので、「そうなんです。ここが魏志倭人伝に書かれた邪馬台国なんですよ」と嘘をついているのである。もし邪馬台国ならば「邪靡堆」ではなく「邪馬台国」で良いんじゃない?ここまで書くと「高千穂の峰」と「高千穂峡」が宮崎の南の果てと北の果ての2か所にある理由が、分かったと思う。狗奴国の子孫の推古天皇の時代に本当の邪馬台国を消し去り、自分達狗奴国の子孫こそ天孫だとごまかそうとしたのである。だから古事記や日本書紀には邪馬台国や卑弥呼が載っていないのだと思う。<後日追記>「百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在り」と言うのは、この使者が推古天皇の時代の使者なので、会ったのはその時代の天皇、ならば奈良まで来たと考えたのだが、そうではなくて、百済、新羅の東南、水陸三千里と言うことは北九州ではないだろうか?魏志倭人伝を読むと、帯方郡から朝鮮半島の南端狗邪韓国まで7000里と書いている。その計算で行くと、百済や新羅から3000里なんてせいぜい九州の北部。もしかすると、中国の使者が会ったのは「九州王朝の天皇」なのかもしれない。もしそうならば、男だとしても何の問題も無く、名前の「アメのタリシヒコ」と言うのは、天(アメ)の足または帯(両方ともタラシ)彦なのかもしれない。仲哀天皇だって「帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)」だから「たらし」だし。そもそも天孫(天からたらし=降りて来た=彦=男)なのかもしれない。もしそうなら大変なことだなぁ。それって推古天皇の時代まで、中国の使者が来る日本の中心は北九州で、奈良の大和は「近畿地方事務局」だったと言うことだから。そうか、だから白村江の戦いの時は斉明天皇も九州まで来たのか。九州の本社が負けたら奈良の近畿地方事務局だって大変だからなぁ。そして唐に負けて九州王朝が滅んだので、奈良の近畿地方事務局が、倭から日本に名前を変えた日本の都になったのか。<さらに後日追記>上の後日追記は隋書倭国伝なのであるが、さらに同じような内容が旧唐書や新唐書にも書かれており、その中にも「アメのタリシヒコ」について書かれており、特に新唐書では、その正体が分かる書き方をしている。但し、実はまだ自分では意訳さえもできておらず、ここに載せられる状況ではない。ちょっとだけ他の人が現代語訳したのを引用する。<引用>日本國の官位には十二等級(冠位十二階)があり、国王の姓は阿毎(あめ又はあま)氏である。その国王が自ら言うには、初代の国王は天御中主(あめのみなかぬし)と名乗り、彦瀲(ひこなぎさ)に至るまで、およそ三十二代とされている。(古事記によれば「ひこなぎさ」とは天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこ ひこなぎさ たけ うがやふきあえず の みことのことである。)彼らは皆、尊(みこと)を尊称として、筑紫城に存在していた。(そして)彦瀲の子の神武(じんむ)が継ぎ立ち、あらためて天皇を名乗り、大和州に移り住んでその地を治めた。(神武東征のこと?)神武の次を綏靖(すいぜい)と云い、その次は安寧(あんねい)、その次は懿德(いとく)、その次は孝昭(こうしょう)、その次は天安(孝安~こうあんの間違い)、その次は孝靈(こうれい)、その次は孝元(こうげん)、その次は開化(かいか)、その次は崇神(すじん)、その次は垂仁(すいにん)、その次は景行(けいこう)、その次は成務(せいむ)、その次は仲哀(ちゅうあい)となる。仲哀が死んだあと、開化の曽孫女(そうそんじょ~ひ孫むすめ)の神功(じんぐう)を王とした。その次は応神(おうじん)、その次は仁德(にんとく)、その次は履中(りちゅう)、その次は反正(はんぜい)、その次は允恭(いんぎょう)、その次は安康(あんこう)、その次は雄略(ゆうりゃく)、その次は清寧(せいねい)、その次は顯宗(けんそう)、その次は仁賢(にんけん)、その次は武烈(ぶれつ)、その次は継体(けいたい)、その次は安閑(あんかん)、その次は宣化(せんか)、その次は欽明(きんめい)である。(ちゃんと歴代天皇の情報を一部に間違いはあるが概ね把握している。)欽明の十一年は、梁(りょう)の承聖(しょうせい)元年(552年)にあたる。その次は海達(敏達~びんたつ)、その次は用明(ようめい)となる。また言うには、多利思北孤(たりしひこ)の代理として来朝したのは隋の開皇(かいこう)末(600年)にあたり、そのとき初めて(大和王朝は)中国と国交を通じたのである。(つまりその前は倭国王朝?)その次は崇峻(すしゅん)となる。その崇峻が死んで、欽明の孫女の雄古(推古~すいこ)が継いだ。その次は舒明(じょめい)、その次は皇極(こうぎょく)となっている。(中国側は天皇の相続は「親から子へ」が当たり前と考えているので、 日本側が「親から子でない」場合は相続関係が変になっている。)こうしてみると、多利思北孤(たりしひこ)とは用明天皇じゃん。ただ、日本側の時間とは少しずれており、日本側の時間では推古天皇になるんだけれど、まぁ、遠く離れた国だし、古代の話だから、ちょっとしたズレは仕方ないのかな?でも、本当にそう?
August 12, 2025
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久しぶりに愛天堂に行ったら、FM/AM 2バンドラジオのZX-2051を見つけたので買ってみた。但し、どうもお姉さんが改良中みたいなので、この記事を読んでもすぐには買わないで、お姉さんが改良を終えてから買ってあげて下さい。そうしないと上手くいかなくて鳴らないとお姉さんに迷惑がかかるから。お姉さんが改良中だと思ったのは、以前このZX-2051を買った際に鳴らないと不思議に思って調べたら、セラミックフイルターが壊れていて、それが原因で交換したら直ったのだけれども、今回愛天堂で見つけたZX-2051は交換用のセラミックフイルターが付いていたから。右下が交換用に付いていたセラミックフイルターで、右上が(もしかしたら不良品かもしれない)オリジナルのセラミックフイルター。もう見ただけで壊れそうな感じ。そうこのセラミックフイルターは足が折れて取れやすく、取れなくても内部の接続が切れている場合が有るみたいなのである。お姉さんがせっかく苦心して改良しているので、交換用の新しいセラミックフイルターの特性を調べてみた。まずは10.7MHzの状況。ちょうど10.7MHzじゃなくて少しずれているけれど、信号の発生器が自作の物で、バリコンは指で回しているので精度が出せません。ごめんなさい。なお、写真は右クリックして出るメニューから「新しいタブで画僧を開く」を選ぶと、大きな画像を別タブで見られます。つぎにバリコンを少し回して、10.7MHzよりもちょっと上の周波数にずらしてみる。フイルターの威力により信号は低減している。そして僕の指で回しているせいで精度は出ないけれども、これ以上回すと信号は消えてしまう。次は10.7MHZよりも下の方にしてみる。こちらもセラミックフイルターの威力で信号はぐっと下がる。また、もう少し周波数を下げると信号は消えてしまう。ラジオの中間周波数はこのようなセラミックフイルターを使うことにより、10.7MHzの信号だけが大きく増幅されて、必要な信号のみが取り出せるようになるのである。愛天堂のお姉さん大丈夫ですよ。交換用のセラミックフイルターは優秀です。なおかつお姉さんが改良中だと思ったのは、右下のAM用のセラミックフイルターが455kHzで、通常の中国のラジオの465kHzじゃないこと。愛天堂に置いてあるラジオ用の周波数カウンターや秋月の周波数カウンターは、日本向けなので中間周波数が455kHzなんだけれども、元々の中国のラジオ用の465kHzだとうまくつかないから、お姉さんは改良中なんだと思う。お姉さんのおかげでFMはなんとかなりそうなんだけれども、実はこのラジオ、AM用のバーアンテナがバリコンに合ってない。このラジオのバリコンは可変容量が140pF(つまり諸々の容量を含めて150pFくらい)X2の等容量バリコンなんだけれども、通常は600µHくらいがちょうど良いのに900µHもある。上の写真はコイルを端に寄せているので886µHだが、中央に近づくと900µHをはるかに超える。なので、僕はどうするかと言うと通常の使用方法(a-c間を使う)をあきらめて、足を読みかえて(a-b間)を使う。つまり中間タップを利用して、そこにバリコンをつなぐ。ただそれでも大きいので、なるべくコイルを端に寄せて、なおかつバリコンのトリマーを抜く。で、最初にお姉さんが改良するのを待ってから買った方が良いと書いたのはこれのせいである。多分お姉さんが何らかの方法でクリアーすると思うので、買うのを待った方が良いのである。この状態だとNHKのように低い周波数は受信できない可能性が有る。(言葉足らずで誤解を与えるので説明すると、 現状だと周波数の高い方が受信できない。大体1400kHz以上は受信できない。 その場合僕は色々な工夫をこらして無理矢理受信周波数を上にずらすのである。 すると逆に下の方の周波数が受信できなくなってしまうのでこう書いている。)まぁ僕はNHKが嫌いなので、1242kHzのニッポン放送と1422kHzのラジオ日本が入れば良いので、なんとか調整可能なんだけれど。(バーアンテナのインダクタンスが大きいと高い周波数側は同調可能周波数が下がるので、 調整が難しいので、結構大変です。 ちなみに900µHのままだと1300~1400kHz以上上にはなりません。 なお700µHの状態でも、後日ニッポン放送が最大になる状態で受信周波数を調べたら 660~1450kHzでした。 受信周波数はOSCコイルとOSCトリマーで決まるので、 受信感度を犠牲にすればカバー範囲は広がるのですが、 ANT回路がバーアンテナのせいで広がらないのでニッポン放送の感度が落ちてしまいます。 なので、素直に諦めて660~1450kHzで妥協したのです。)簡単な計算なので、エクセルで計算してみました。基板の持つ容量やトランジスターの入力容量及びトリマーの半分を合わせて15pFと見ています。だいたい600µHくらいが最適だと思いますが、700µHでもトリマーを最小に抜けばギリギリ大丈夫だし、550µHでもトリマーで調整可能な範囲だと思います。もし予算に余裕が有るならば、バーアンテナを適当なのに変えれば良いと思います。長さが5cm以下で、インダクタンスが600µHくらいなら良いと思う。例えば愛天堂ならば「BT330DE」なら290円(税込み319円)なので、コイル端子の2と3を直結して「b」として、4を「a」、1を「c」として使えば良いと思う。スペースが5cmしかないので他のバーアンテナを使う場合は要注意。さっそく組み立てる。半田付けは高さの低い部品からするのが基本。なので最初はラジオ用ICから半田付けする。この半田付けが一番のキモで、これがイモ半田になってしまうとラジオは鳴らない。器用な人はICの足を1本1本半田付けできるけれども、僕はもう年をとって目が見えないので、まとめて半田付けする。最初に簡単な端っこの1本だけ半田付けして、固定できたら溶かした半田を流すようにして、片側づつ全部の足に半田を付ける。何故このようにするかと言うと、一つは年寄りなので目が見えないからなんだけれども、もう一つは1本1本半田付けすると、足と基板の温度差が発生しイモ半田になる可能性が有るからである。半田付けが上手く行かない場合は、だいたい足だけとか基板だけに半田がついていて、上から見ると両方が半田付けできているように見えてできていない。半田付けが予熱が大事なのはこれを防ぐためである。なので、僕は上のように半田を流す。すると温度を与える時間が長いので、足と基板が均等な温度になり半田が乗りやすい。ただ問題は、その半田を落とす作業。これは溶けた状態で机などにたたきつけるのだが、緑色のレジストがうまく働くと、レジスト部分には半田はつかないので足の部分にだけ半田が残る。大事なのはたたきつける力の加減と角度である。角度が悪いと溶けた半田が他の銅箔部分にくっついてしまう。この辺が慣れだと思う。上手く行くと奇麗に足の部分だけに半田が残る。足2本に半田がまたがってしまっている場合は、綺麗に清掃した半田ごてを軽くあてて引っ張るようにすると、半田は半田ごてにくっついて引きづられて行き、2本の足にはそれぞれ半田が残って独立する。まぁこれも慣れだと思います。終わったらアルコール等で綺麗にして、ルーペでブリッジ(2本の足が半田でつながること)がないか確認する。今回の製作では珍しく一発でFMが鳴るようになった。但し、お姉さんがそこまで改良するか不明だけれども、このラジオは元々が中国やアメリカ向けなので、受信範囲が88-108MHzである。これを何とかしなければいけない。コイルを自作する方法も有り、前回はそうしたのだが範囲がひろが有りすぎて調整が難しい。なので前回の経験を活かしてバリコンの並列容量を変えることにした。変えるのはC3とC4で現在は15pFである。これを30pFに変える。すると何故かうまくいってしまった。L1とL2のコイルが少し広がっているのは調整した結果。これは一つのコツでコイルを先にトリマーが中間点位の状態で上手く行くように調整すると、微調整をトリマーでできるのでやりやすいのである。逆でもいいのだけれども、コイルを調整するのは金属や人間が触ると変化するので、上手く行ったと思っても調整用のドライバーを離した瞬間に動くので難しいのである。トリマーは一般的にドライバーが接触する真ん中はアースなので、若干は変化するけれどもコイルほど難しくはないのである。なお、写真の中に「コイル部分は固定しない」と書かれているが、これは正確にはバーアンテナは右側の方だけインシュロック(固定用プラスティックひも)で固定、コイル部分はトラッキング調整時に左右に動かすので固定しないと言う意味である。念の為。最初にも書いたし、上の写真にも書いているけれども、AMバーアンテナの半田付けは足を読み替えないといけない。上の写真のようにa-b間をバリコンにつなぎ、b-c-間をラジオICへの出力にする。以上で製作は完成なんだけれども、この後の張政がもっと大事なんである。市販のラジオでは調整してあるので感度が良いが、自分で作ったラジオは最初は感度がものすごく悪い。それが調整すると数十倍も感度が上がっていくので楽しい。多分アマチュアがラジオを作る際に一番感動するのは、この調整によって自分でも分かるほど感度が上がっていく時だと思う。ただ、これは両刃の剣で、調整して感度が上がると言うことは、逆に言うと失敗すると感度が落ちると言うことで、失敗するとせっかく聞こえていたラジオが聞こえなくなる場合も有るので、そこは怖い所でもある。僕はAMAZONで買ったFMトランスミッター(FMワイヤレスマイク)に自作の変調器(実は単なる低周波発振器)をマイクの代わりにつけて、FM調整用の発振器にしている。発振器は0.1MHZ単位で周波数を変えることが可能で50-108MHzまで変えられるので、FMラジオの調整には最適である。これを使ってラジオの目盛に合わせて、その時の周波数を記録してラジオに書き込んだ。すると概ね77-95MHzが受信できた。また同時にRF側もこれを使って受信感度が最大になるように調整する。すると受信環境が悪い僕の部屋でも5局くらい受信可能で、ベランダで受信すると20局くらい(NHKが多い)受信可能だった。なお蛇足ですが、ケースを閉める際は注意が必要です。アンテナへの配線が長いので、ケースを閉める際にバリコンやバーアンテナの上にこのリード線が乗っかって、ケースを閉めるのを邪魔するので、力まかせに閉めるとケースが壊れます。なので、リード線がバリコンやケースに乗っかっていないのを確認して閉める必要が有ります。けっこう良いラジオかも?
August 8, 2025
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