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February 20, 2025
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一昨日の何故「古事記」と「日本書紀」があるのか?(その14)古事記の序?によって、
いわゆる通説の古事記の序が実は古事記の序ではなく、
日本紀講筵(にほんぎこうえん)の場において、
太安万侶の子孫の多人長が、日本書紀の漢文の中の古代の語の読み方や発音の説明に、
古事記を使うに際して、古事記の由来を説明するのに、
自身の家に伝わる元明天皇への上奏文を見せて説明したことを、
生徒が「序」として古事記と共に記録したものを、
後世の歴史家が誤って読んでしまったのが、全ての誤解の始まりだと書いた。

そしてそれが本当ならば、世の人達が言う古事記本文は古いが序は新しく、
古事記は偽書ではないか?と言うのは、
古事記が悪いのではなく、ちゃんと読まなかった後世の歴史家が悪いのだと分かると書いた。

そもそも偽書の疑いが有るような物を、
日本紀講筵のような太政大臣以下の公卿や官人が出席し熱心な講義・意見交換が行われる場で、
当時の日本の最高峰と思われる先生が使うはずはなく、
いやしくも太政大臣以下の公卿や官人達ならば、そのことは知っているはずなので、
偽物ならば気がつくだろうと思うので、
まずここで使われた古事記は元明天皇に奏上されたものと同じだろうと思う。

では、古事記とは何か?
僕は日本紀講筵の記録である弘仁私記を読んでいるうちにふと気がついた。
「日本書紀講筵」ではなく「日本紀講筵」なのではないか?
そう、日本書紀と日本紀の2つの呼び方があるのである。
それも当初から。
通説では日本書紀は日本書紀と呼ばれたり、日本紀と呼ばれたと学者先生は言っている。

まず肝心の日本紀講筵であるが、弘仁私記の原文を見ると「日本書紀」と書かれている。
<原文>
夫日本書紀者、日本國、自大唐東去万餘里、日出東方、昇於扶桑、故云日本。古者謂之倭國
<訓読>
夫れ日本書紀は、日本國、大唐より東に万餘里去り、日の出る東方、扶桑(ふそう)の昇る、
故に日本と云う
つまり、明らかに日本書紀だと分かる。
じゃぁ、日本紀じゃないの?
実はこの日本紀講筵の時代に既に、日本書紀と日本紀が2つ有ったのか、
あるいは日本書紀を日本書紀と言ったり日本紀と言ったりしたのかと言う混乱が見られる。
この事については後世の学者の間でも色々と議論が有り、解決していない。

でも僕はこれは古事記が日本書紀完成後に世の中から消えたのに関係が有ると思う。
日本紀講筵の場で日本書紀を習うのに参考書として使われたのにである。
もしかして古事記こそ「日本紀」になれなかった日本紀候補なのでは?
候補であって日本紀になれなかったので世の中に日本紀が残っていないのでは?

それを調べるには良い本が有る。
万葉集である。
万葉集は8世紀末に大伴家持により完成したと言うのが通説になっている。
橘諸兄と言う説も有るが、万葉集は実は一気に作られたのではない。
巻1はどうも(内容や書きぶりから)持統天皇や柿本人麻呂の時代に作られたらしい。
巻3から巻15は元正天皇や大伴家持の時代にできたらしい。
巻20までの完成品が上に書いた8世紀末の大伴家持の時代である。
ただ、その当時大伴家持は事情により犯罪者扱いだったので世の中に出たのは9世紀初め。

で、その万葉集の中に「日本書紀」と「日本紀」両方が出てくる。
幸讃岐國安益郡之時、軍王見山作謌 集歌5の左注
右、檢 日本書紀 無幸於讃岐國。亦軍王未詳也。
「日本書紀」である。
額田王下近江國時謌、井戸王即和謌 集歌17の左注
右二首謌、山上憶良大夫類聚歌林曰、遷都近江國時、御覧三輪山御謌焉。
日本書紀 曰、六年丙寅春三月辛酉朔己卯、遷都于近江。
これも「日本書紀」である。

ところが、
麻續王聞之感傷和謌 集歌24の左注
右、案 日本紀 曰、天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯、三位麻續王有罪、流于因幡
えぇー!「日本紀」じゃん。
幸于紀伊國時川嶋皇子御作謌 或云、山上臣憶良作 集歌34の左注
日本紀 曰、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇幸紀伊國也
これも「日本紀」。
幸干吉野宮之時、柿本朝臣人麿作歌 集歌38の左注
右、 日本紀 曰、三年己丑正月、天皇幸吉野宮
これも「日本紀」。
石上大臣従駕作謌 集歌44の左注
右、 日本紀 曰、朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰、浄肆廣瀬王等為留守官
これも「日本紀」。
藤原宮之役民作謌 集歌50の左注
右、 日本紀 曰、朱鳥七年癸巳秋八月、幸藤原宮地
これも「日本紀」。
皇子尊宮舎人等慟傷作謌廿三首 集歌171の左注
日本紀 曰、三年己丑夏四月癸未朔乙未薨
これも「日本紀」。
柿本朝臣人麿獻泊瀬部皇女忍坂部皇子歌一首并短歌 集歌194の左注
右或本曰、葬河嶋皇子越智野之時、献泊瀬部皇女歌也
日本紀 曰、朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑、浄大参皇子河嶋薨
これも「日本紀」。
或書反歌一首 集歌202の左注
右一首類聚歌林曰、檜隅女王、怨泣澤神社之歌也
日本紀 曰、十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、後尊薨
これも「日本紀」。
うーん時系列じゃないな。
でも使い分けている。
何で?

左注なので、既に日本紀講筵等が終わっている時代である。
と言うことは「日本書紀」≠「日本紀」と言うことでは?
じゃぁ日本紀とは何だろう?
そこで思いつくのが、古事記=日本紀候補と言うことである。
但し、古事記=日本紀ではない。
多人長も古事記を日本紀とは言っていないし、
古事記真福寺本でも分かるように、日本紀ではなく「古事記」と書かれている。

じゃぁ僕が何で古事記=日本紀候補と思うのか?
万葉集の編纂者が大伴氏であり、彼が死後なのに犯罪者扱いだった理由である。
万葉集は延暦2年(783年)ごろに大伴家持の手により完成したとされているが、
延暦4年(785年)、家持の死後すぐに大伴継人らによる藤原種継暗殺事件があり、
家持も連座したために、
万葉集という歌集の編纂事業は平城天皇即位後の恩赦により家持の罪が許された
延暦25年(806年・大同元年)以降にようやく完成したとされている。
暗殺事件は延暦4年(785年)9月23日夜なんだけれども、
大伴家持はその直前の8月28日に死んでいる。
しかし首謀者だったとされて、官位をはく奪されたのだ。

この事件そのものは皇族(早良親王)によるものなので、直接の関係は無いのだが、
裏には藤原氏による他氏排斥があったんではないかと思っている。
つまり大伴家持は藤原氏が嫌いだったんだと思う。
そして「日本書紀」は正史で藤原氏に都合よく書かれており、
「日本紀」は藤原氏以外の他氏族の重要な歴史が書かれていたのではないかと思う。
それは大伴氏を始めとした藤原氏以外の他の氏族の拠りどころだったのでは?
つまり古事記は「日本紀候補」だったのだけれども、藤原氏により葬り去られたのでは?

よく日本書紀と古事記の大きな違いとして出雲に関する記述が少ないことが指摘されるが、
これは出雲の時代から続く他氏の拠りどころを消し去る意図が有ったのではないだろうか?
日本書紀を作る意味は国家の正史を作ることに有ったのだと思うけれども、
それにかこつけて、藤原氏は他の氏族の歴史を消し去ろうとしていたのではないだろうか?

その事には梅原猛先生の「古事記」を読んでいて気がついた。
先生の本を引用させていただく。

え?古事記は推古天皇まで書かれているのではないの?
実はちゃんと事績が書かれているのは継体天皇まで。
その後は系図のように親子関係が書かれて、あとはお墓の位置が書かれているだけである。
いや梅原猛先生が省略したのでは?

そんなことはなく、確かに先生は無駄な部分と考えた系図のように親子関係やお墓の位置は
省略しているが、原典にも事績は書かれていない。

参考までに武田祐吉先生の古事記から、推古天皇紀部分だけ抜粋するとこんな感じ。
<訓読と言うか読下し文>
〔推古天皇〕

三十七歳天の下治らしめしき。
(戊子の年三月十五日癸丑の日崩りたまひき。)
御陵は大野の岡の上にありしを、後に科長(しなが)の大陵に遷しまつりき。
えー!中身が何もない。
だから古事記が叙述性があることを重視した梅原猛先生にとっては、
系図的な説明などどうでも良いことなので、簡潔に省略したのか。

よく「欠史八代」と呼ぶ第2代綏靖天皇 - 第9代開化天皇までの8代の天皇と同様に、
事績が書かれておらず、系図的な親子関係やお墓の位置だけ。
欠史八代の天皇はそのせいで実在性を疑われているが、
安閑天皇から推古天皇も実在しなかった?
いやそんなことはない。
この時代は重要な時代で、書くべきことは山ほどあったはず。
例えば推古天皇の時代だけを考えても「聖徳太子」がいない。
つまり冠位12階や17条憲法が無い。
遣隋使や新羅征伐が無い。
太安万侶の時代には既に詳細な記録が有ったはずである。
では何故書かれていないのか?

恐らくは太安万侶の位が低かったのが原因だと思う。
継体天皇までの記載は「帝紀」と「旧辞」によったので無事だったのだろう。
でもそれ以降は恐らく書こうと思ったことが書けなかったのだ。
つまりつまり冠位12階や17条憲法や遣隋使や新羅征伐が無いのは、
それを行った人が違うか、内容が違うのだろう。
邪魔をする人達(藤原氏?)がいて書けなかったのだ。

そのせいで古事記はなかなか完成できず、元明天皇の時代についに催促された。
太安万侶はあきらめて、その部分はやっつけ作業を行ったので、
古事記には安閑天皇から推古天皇までがちゃんと書かれていいないのだ。
その結果、怒り狂った元明天皇が突っ返した?
(多分元明天皇は太安万侶に藤原氏に都合の良い古事記を作らせたかったのだろう。
 でも他氏族の抵抗が激しくて太安万侶では書けなかったのだ。)
そのせいで古事記は日の目を見なかったのだろう。
元明天皇は仕方ないので舎人親王以下に再度日本書紀の編纂を命じたのだろう。
(日本書紀編纂メンバーが舎人親王以下そうそうたるメンバーなのは、
 藤原不比等と持統天皇の思惑で、他氏族を黙らせると言うのが一番の目的だったのだ)

実は古事記は天武天皇から命じられたスタートから元明天皇への奏上までの時期が分かっており、
日本書紀は完成の時期(720年)だけしか分かっていない。
日本書紀のスタートは後世の人が推測しただけなのである。
よく日本書紀は天武天皇が命じて作られたと言うが、
天武天皇が崩御された686年に舎人親王は10歳である。
天武天皇が10歳の舎人親王に日本書紀の編纂を命じたと考えられるか?
無理だと思う。
他の人物に命じるだろう。
多分それは太安万侶だったのだ。
つまり古事記の編纂を命じたのは元明天皇で、
そのせいで4か月でできたと言うことになっているが、
元明天皇は「命じた」のではなく「催促した」のだろうと思う。
他の事は詳しく書いているのに、
続日本紀にも日本書紀にも編纂の経緯が書かれていないのは何故?
(太安万侶が元明天皇に✖をくらったせいだろう。)

だから僕は天武天皇に命じられてスタートしたのは日本紀つまり失敗したけれども古事記で、
それがダメだったので新たにスタートして完成したのが日本書紀なんだと思う。
元明天皇が命じた時には、古事記を編纂する為に資料はほぼ集まっており、
太安万侶が地位が低くて書けなかっただけで、
藤原不比等が交通整理をして、都合の悪いことを手直ししたら、
あとは中国人の先生と日本の学者達が書けば良いので、なんとか作業は進み、
藤原不比等が亡くなる直前の720年に完成し、舎人親王が提出したのだと思う。
続日本紀にはほんの数行、ただ舎人親王ができた物を提出したとしか書かれていない。
あれだけの大事業が完成したことを書くのだから、
経緯や概要くらい書かれていてもよさそうなのに、何も書かれていないのは、
実は古事記と日本書紀の成立の裏には藤原氏と他の氏族の暗闘が有ったせいじゃないかと思う。

誰か偉い先生がこの部分を解決してくれないかな?
古事記と日本書紀の違いを書いた本や学説はたくさんあるのだけれども、
両方がほぼ同じ時期に作られた理由と経緯を書いた本が無いから。
僕の推理が正しいのではないだろうか?





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最終更新日  February 22, 2025 04:19:49 AM
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