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September 21, 2025
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9月4日はわの会のイベントで横浜市歴史博物館に行きました。
もう何十年も横浜市に住んでいるのに初めて行きました。
ここは横浜市の一大プロジェクト「港北ニュータウン」ができた際に、
その一部としてできた博物館で、
なんと博物館でありながら、大棚杉山神社遺跡と言う遺跡を壊して、
その上に立てたと言ういわくつきの歴史博物館です。
大棚杉山神社遺跡は弥生時代中期の集落跡でたくさんの住居跡が有りました。

まぁでも横浜市は文化遺産よりも都市開発を優先してきた経緯があるので仕方ありません。
港北ニュータウン付近には沢山の遺跡が有り、
縄文時代や弥生時代の遺跡が有るのだから、
そこに居た人達の子孫はどこかに消えたわけではなく、
生活様式を変えて同じ場所にいたはずで、
そう言う意味では古墳時代にはたくさん古墳が造られたはずなので、
この付近はかっては古墳があったはずだと思うのだけれども、
道路の建設や国鉄・私鉄が通るたびに全部壊されて、今は残っていないのかなと思う。

まぁそれはそれとして、わの会で歴史博物館に行くと聞いて調べていたら、
すぐ近くに大きな遺跡を含む公園(上の地図の大塚遺跡と歳勝土遺跡)が有ると分かったので、
歴史博物館を「その1」、遺跡公園を「その2」として調査して書くことにした。
今日はその1で歴史博物館。

博物館は9月8日から2か月ちょっと設備改修工事で休館になるので、タイミングが良かった。
また通常の常設展示に加えて、夏休み中と言うことで企画展も開かれていた。
この企画展の説明をしてくれたおじさんがものすごく優秀な人で色々と参考になった。

まずは常設展示。
時代ごとに区分されて輪のようになっており、原始時代から近現代まで順に見学できる。


実際の写真はこんな感じ。


常設展はきれいなお姉さんが丁寧に教えてくれた。
おかげで今まで知らなかった色々なことが分かり面白かった。
例えば横浜の町の主要な部分は埋立てられてできたらしい。吉田新田と言う。


上が埋立てた時の様子で、下はそれに対応する現代の地図。
えー!JR京浜東北・根岸線と大岡川及び中村川に囲まれた釣鐘状の部分って海(湾)だったの?
多分現代の横浜市民の95%は知らないと思う。
関内駅の西側のほぼ全域じゃん。
県庁や旧市役所部分は海の中じゃん。
ちょっと面白かった。

同様に金沢区もかなりの部分は埋め立て地である。
その模型が置いてあった。


今、海として残っているのは室の木と野島の部分から瀬戸神社までの細い部分で、
瀬戸神社から能見台や手子神社は完全に陸地化しており、
南側も九覧亭から三艘はもう陸地。
比較の為にほぼ同じ角度から俯瞰したgoogleEarthでの風景を載せる。


海は細くしか残っていない。中央下の川と海で挟まれた四角い部分は全部海だったのか。
全部埋立てたんだなぁ。人間ってすごい。

上行寺の入口に「舟つなぎの松」と言うのがあるのだけれども、
何でこんなところ(完全に陸地の中)に有るのに「舟つなぎの松」と思っていたが、
上の写真(六浦地形復元模型)を見ると、その訳が分かる。
ここまで海だったんだなぁ。
ちなみに「舟つなぎの松」はこれ。但し今の松は(前の松は枯れたので)新しい松。


そしてこの模型を見ていて、面白いことに気がついた。
昔の鎌倉街道(六浦道)って尾根の上を通っていたのか。
てっきり谷戸(尾根に挟まれた谷の部分)を通っていたのだと思っていた。
だって京浜急行逗子線だって谷間の部分を走っているもの。


そして気がついたのは「朝比奈切通」。鎌倉街道(六浦道)は通っていないじゃん。
じゃぁ朝夷奈三郎義秀が一晩で切り開いたと言う伝説は何だったのか?
また吾妻鏡に載っている北条泰時が「六浦道」を改修する時に自ら率先して工事に参加したと
書かれているのは間違いなのか?

実は古代には鎌倉から笹下や弘明寺へ向かうには白山道を利用していたのである。
六浦道の方は海が有るせいで、(一応瀬戸橋は有ったらしいが)不便で利用しづらかった。
それで朝比奈切通を経由して白山道へ抜ける経路を開発しようとしたらしいのである。
つまり六浦道そのものの改修ではなく、六浦道の不便さを解消する改修と言う意味らしい。
ちなみに当時の鎌倉道は「鎌倉に至る道」と言う意味で、
横浜市内にも「鎌倉道」は上の道、中の道及び下の道の3本が有ったらしい。


なんかこれって勘違いしている人が多いような気がする。
Wikiの「朝比奈切通」を見ても、
「鎌倉時代に造られた鎌倉七口とよばれる里道のひとつで、
 鎌倉から三浦半島を横断する六浦道(むつらみち)にある切り通しである。」
と書いてある。
間違っているじゃん。六浦道は通っていないじゃん。
Wikiって結構ウソが多いからなぁ。

まぁそれはそれとして、金沢の物ではないが江戸時代の船を再現して置いてあった。


日本の船って舵の部分を色々と工夫しているなと思う。
舵には(方向を変える時には)船の全重量がかかるので強力な支持構造が必要だし、
海の中に舵を浸けなければいけないので水が浸入しやすいから、
相当に工夫しないと実用にならない。
なので重要な部分なんだけれども良くできていると思う。
ただこの模型は帆柱が太すぎないか?
確かに太い方が安全だけれども、後ろに見える船の絵と比べても太いような気がする。

平子氏の系図と説明が有ったのが気になった。
平子氏は本牧から磯子あたりの領主で、鎌倉時代の一族である。
北条氏や三浦氏などの坂東平氏が土地の名前を苗字として平氏の姓から変化したのに対し、
何故平子氏は「平」の字を残したのかが気になっているのだけれども、
古文書などを調べても分からない。そもそも素性が分からない。


最後に僕が一番驚いたのは、上郷深田遺跡の出土品が置かれていたこと。
ここにこれが有るのに何故金沢区は「金沢区の地名の由来」に変なことを書いているのかと思う。

金沢区役所は金沢区の地名の由来を、
関靖先生(元金沢文庫の文庫長)が書いた「かねさわ物語」に、
畠山重忠が秩父から鉄鍛冶達を連れて来て、彼らがここに住んだからと書いてある
と書いてあるのが根拠だとしている。
でも関先生は「かねさわ物語」には2説候補をあげており、
1つは畠山重忠が連れて来た鉄鍛冶説で、
もう一つはそれ以前からここで鉄を製造していたから
そう書いている。
ただ先生は(執筆当時)それ以前にここで鉄を製造していたと言う証拠が無いから、
畠山重忠が連れて来た鉄鍛冶説を有力としただけである。
当時まだ小柴層の存在や上郷深田遺跡は発見されていなかったので、先生としてはやむをえない。
でも今では小柴層も上郷深田遺跡も調査されて存在が認められているのである。
何故、勝手に関先生が2つの説が考えられると書いているのを捻じ曲げているのかと思う。
金沢区役所はひどいことをしていないか?関先生をないがしろにしていないかと思う。

畠山重忠説は、北条義時が畠山重忠を滅ぼしており、
それなのに北条実泰・実時は金沢流北条氏を名乗っている。
自分達が滅ぼした人物が元になっている土地の名前を、
自分達の一族の名前の中に含めたりするだろうか?
そんな恥知らずなことを誇り高い武士がするはずが無いと思う。
趣味が悪すぎるのではないか?
徳川家の子孫が「秀頼」と言う名前を付けるだろうか?
そんな恥ずかしいことはしない=金沢と言う名前は使わないと思う。

なので、僕は畠山重忠が鉄鍛冶を秩父から連れて来たのは、
ここでは昔から良質な鉄が採れて、秩父よりも便利なので、
ここで鉄を生産したかったからだと思うし、
畠山重忠が初めてここで鉄を発見したのではなく、それ以前昔から鉄が採れたんだと思っている。
その事は「かねさわ物語」にも「長浜で鉄滓が見つかった」と書かれており、
関先生もそれをふまえて「それ以前からここで鉄を製造していたから」と書いているのである。

それを裏付けるのが栄区の上郷深田遺跡であり、飛鳥から平安時代くらいの遺跡である。
金沢区の地層である「小柴層」には良質の砂鉄が含まれており、
それ故に栄区の鍛冶ヶ谷をはじめとして金沢区の釜利谷や氷取沢等製鉄に関わる地名が多い。
円海山周辺ではどこでも砂鉄が採れたのである。
小柴層の分布を示す資料が見つかったので載せる。

これを見ると、
鍛冶ヶ谷、上郷深田遺跡、円海山、氷取沢(火取沢?)、(地図には無いが)釜利谷(鎌利谷?)そして
柴は製鉄に使う火の燃料と考えると、全て製鉄に関わる用語が地名になっている。
地図を見ると金澤一帯が小柴層状に一直線に並んでいるのが分かると思う。

古代における砂鉄の分布のその中心が上郷深田遺跡であり、発掘調査で色々と発見されており、
僕はいちど見たいと思っていたのだが、それが今回歴史博物館で見つかった。


金沢区役所の人もこれを見て、ちゃんと勉強して欲しいと思う。
地方のお役所の人は机にしがみついて勉強しないのが欠点だと思う。

常設展はこれくらいにして、次は企画展に行った。
ここで説明してくれた方はものすごく優秀で、詳しく、
企画展は夏休みと言うことで(当日は9月4日なので夏休みは終わり企画展も終了間際)、
彼が頑張って考えた子供向けの展示がたくさん有った。
でも子供向けかと言うとそれだけではなく、大人が見てもうなづける物が多かった。
まずは顔付の土器が面白かった。


ちょっと気持ちが悪いけれども面白い。
こんなのが有ったんだ。
普段使うには邪魔だけれども、祭祀の時には良いのかもしれない。

例えば僕ならば「盟神探湯(クガタチ)」に使うなと思った。
盟神探湯(くがたち)は、古代日本で行われていた神明裁判のこと。
ある人の是非・正邪を判断するための呪術的な裁判法(神判)である。
対象となる者に、神に潔白などを誓わせた後、
探湯瓮(くかへ)という釜で沸かした熱湯の中に手を入れさせ、
正しい者は火傷せず、罪のある者は大火傷を負うとされる恐ろしい裁判である。

ただ熱湯に手を入れてやけどするかしないかは根性の問題なので、
本当はそれだけでは正しいかどうかは分らないけれど、
実は実際に手を入れる前の表情の変化や態度で判定するならば、
迷信深い古代人ならば、手を入れる熱湯の入った壺に(神様の)顔が有った方が、
悪いことをした人間はためらうだろうし、
悪いことをしていない人間は神様が守ってくれると信じてためらわないだろうから、
実際には手を入れる前に分かると思うから。
なので、壺に顔がついていると判定がし易くなると思うのである。

またもう一つ面白かったのが「楯を持つ人」の埴輪である。


これを見て僕は富雄丸山古墳の楯の形をした鏡を思い出した。
これである。


この楯は当然戦いに使われたのではなく祭祀に使われた物である。
なのでさっそく説明をしてくれた先生に質問してみたら、
「あれは鏡だからなぁ」と仰って、それ以上は何もおっしゃらなかった。

祭祀の変化が鏡の形状の変化になって表れているのだと思う。
古代の国は「祭祀王」と「統治王」の二人が国を協力して治めていた。
最も古い時代には「祭祀王」が強く、或いは「祭祀王」しかいなかった。シャーマンである。
農業が普及して富が蓄積されるようになると、リーダー的な「統治王」が必要になる。
それで「祭祀王」と「統治王」が協力して治めるのだが、
どちらが偉い?と言う話になるともめるので、
通常は女性の「祭祀王」と男の「統治王」が組み合わされ、夫婦や兄妹の組み合わせだった。
邪馬台国でも卑弥呼と弟の組み合わせだったらしい。

ところが国が大きくなると「祭祀王」は実務には適さないので権力的に弱くなってくる。
恐らくこの頃に「祭祀王」と「統治王」の一本化が試みられ、
大王は男がなるようになっていったのだろう。
鏡が楯型になったのはこの段階なのだと思う。
それまでの丸い鏡に対し、男らしい楯の形をした鏡が考案されたのだと思う。
違うかなぁ?

そうそう、先生には「日本ではいつごろから楯が使われなくなったのですか?」とも聞いた。
でも明確な答えは無かったが、これは今でも結論が出ない日本の社会の特徴であるから、
答えが出ないのは仕方ないと思う。
これについては僕も色々と考えていくつかの理由を考えてはいるが、
僕自身もそのどれが本当かはまだ分からない。
難しいから。

その2では歴史博物館の向かい側に有る遺跡公園を見て来る予定です。





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最終更新日  September 23, 2025 02:16:28 PM
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