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楽器の演奏やスポーツなどで本番で舞い上がってしまい、練習の成果が出せないことがあります。これは脳仕組みを理解すれば納得できます。そして改善の糸口が見つかります。初めての曲を楽器で練習する場合、大脳の前頭前野が盛んに活動しています。アルトサックスでいえば、どこを押えていくのか(運指)は、前頭前野との対話そのものです。小節毎に区切って繰り返して練習していきます。次に小節をつなげて演奏出来る範囲を伸ばしていきます。そのまま練習を続けていくと曲りなりに全体を通して吹けるようになります。しかし、この段階ですぐに本番に臨むというわけにはいきません。なぜなら、前頭前野が盛んに「お節介」をやきに出てくるからです。「お前本当に大丈夫か」といわれれば、やっと吹けるようになったばかりで、予期不安でいっぱいですので、演奏どころではないというのが実情です。「継続は力なり」という言葉がありますが、さらに練習を繰り返して完全な状態に仕上げなければ、不安に押しつぶされてしまいます。ユーグレナ社長の出雲充氏は、459回の練習をくり返せば成功確率は99%に高まるといいます。200回の練習では成功確率70%、300回の練習では80%、400回の練習では90%と説明されています。そういう目標がはっきりしていれば、挑戦する意欲が湧いてきます。(1日1話、読めば心が熱くなる365人の人間学の教科書 致知出版社 藤尾秀昭監修 45ページ参照)このとき、脳内では面白いことが起こっています。ここでは、複雑なことは省いて肝心なことだけを説明します。練習を繰り返すことで、前頭前野主導から「大脳基底核」と「小脳」へ指示・命令系統の権限移譲が行われているのです。前頭前野が主導しているときは、「この指をこう動かして、次はあそこを押さえて・・・」一つ一つの動作確認を意識的にコントロールしています。この時は前頭前野がフル回転して、とても疲れやすく、しんどいばかりです。反復練習をしていると、そのパターンが「一連の流れ」として大脳基底核の線条体に徐々に書き込まれていきます。ひとたび演奏が始まると、線条体が「いつもの演奏を始めます」と合図を出すと、同じ基底核の「淡蒼球」などを介して運動野、側頭葉などに指令・命令が届きます。運動野、側頭葉などの主導で末端の筋肉などの器官を動かしているのです。ここで注目したいのは、前頭前野からの指示命令で手先が動いているわけではないということです。前頭前野が監視作業を止めて、休養に入っている時の方が成果が出やすいのです。練習が十分であれば、「自動モード」で最高のパフォーマンスを上げることができます。本番で成功を目指す場合は、前頭前野を休眠状態にさせることが欠かせないのです。前頭前野が「お節介」をやきに出てくるようでは失敗する可能性が高くなります。もう一つ興味深い事実があります。練習を何度もくり返すと、ニューロンの軸索にオリゴデントロサイトが巻き付いてきます。これは、ミエリン化と言われています。軸索を太くすることは、パフォーマンスに大きく影響します。軸索が太くなると、高速かつ強力に情報を飛ばすことができるようになるのです。よくあの人は頭がよい、機転が効くなどと言いますが、生活の習慣化、練習の繰り返しによって、軸索のミエリン化が進み、脳の活動レベルの高速化が起きているのです。最大で100倍の速さになるそうです。高速光ファイバーのイメージです。東大に入った人が言うには、いろんな参考書や問題集を幅広く学習するよりも、各教科で信頼できる1冊の参考書と1冊の問題集を擦り切れるくらいまで繰り返し学習する方が効率的だという。これは大脳の仕組みや働きを理解すれば納得できる話です。本番でいつもしどろもどろになって、練習の成果が出せないという人はぜひ参考にして取り組んでみてください。
2026.05.16
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立命館大学名誉教授の白川静氏のお話です。学問には、「志あるを要す、恒あるを要す、識あるを要す」という言葉があります。これは中国の有名な曾国藩という人の家訓にある言葉です。①「志あるを要す」は、目標や目的を明確にするということです。②「恒あるを要す」は、同じことを難度もくり返してやるということです。本などでも一回読んだから内容があらかた分かったというのは問題です。白川氏は、同じ本を何回も読む。重要なところ、いいなと思うところは書きながら読む。そして読み終わったときに書いた紙を復元してみる。それを2から3回やると本当のことを覚える。読んだことを自分の身につけるためには、繰り返さないといかん。そして要約して肝心要のことは球の中に打ち込んでおく。すると、後でその見出しの部分を打てば、ある程度ぱっと広がって内容が出てくる。これが大事なんです。③「識あるを要す」は、価値判断ができなければいけません。愚にもつかないようなことを一生懸命覚えても何にもなりません。知識は断片的では役に立たないのです。一つの面積、できれば立体的、構造的になるのがよろしい。「識あるを要す」というのは単に分別するということではなくて、自分の持っている過去の知識体系の中に、それをどのように組み込むかということなんです。単なる部分は消えてしまうが、全体の中の部分であれば、忘れることはない。この話は、難しいところがあります。さらに深耕してみたい。①森田理論学習の目的は、まず神経症を克服することです。それ以上に大切なことは、神経質性格者の人生観を確立することです。このような目標を設定すると、学習への取り組み方が変わってきます。②そのためにこれはという本を何度もくり返して読む。最低10回を目標にする。理想的には擦り切れるくらいまで読み込む。たとえば、神経症を治すためには、「実践森田療法」「森田療法のすべてが分かる本」(いずれも北西憲二先生)をお勧めしたい。神経質性格者の人生観を確立するためには、「森田正馬全集5巻」をお勧めしたい。これは分厚い表紙がついていますが、分冊にして実用書として活用していくことをお勧めしたい。これはと思ったところは項目別にノートに整理していく。項目別に分類する作業は、頭の中が徐々に整理されます。折に触れて、テーマに沿って読み返すと、自分の考え方がまとまってきます。これが神経質性格を活かした人生観の確立に役に立つのです。これの作業を3年、5年、10年と続けて、日常生活に応用していくと味わい深い人生を送ることができるようになります。③森田理論を生活や仕事、人間関係や子育ての中で応用・活用していくという視点を持っておく。森田理論学習と実践・応用は車の両輪です。バランスがとれていると、力強く前進させることができます。森田理論を深耕しているだけで、生活面の変化がほとんどないというのは、苦しみが解消されることはありません。森田の学習会に参加して、他の参加者の応用・活用例を教えてもらい自分の生活に取り入れていくのが有効です。
2026.05.14
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漁師の山田重太郎氏のお話です。最近の漁師は高性能な魚群探知機や他の船の無線情報を重視して、自然現象や魚が持っている特性などを軽視している。なかにはどこに漁船が多く集まっているかに注意や意識を向けている人もいる。するとみんなが一斉に同じころに集まり、結局魚を取り合うことになり思うような漁獲量が得られないと嘆くことになる。昔の漁師は自然の変化を読んで船を出していたという。例えば、この時期にこの花が咲けば潮の流れが変わり、沖に花かつおが来るなどといった。山田氏は自然を師と仰ぎ、水温や潮の流れなど、漁に出た時の周囲の状況を丹念に記録しているという。その結果分かったことは、時々鳥が群れているときがある。その下には必ず魚がいる。イカの子どもが生まれて群れだすとマグロが追いかけてくる。漁師の間ではシャチは疫病神のように言われているが、シャチはマグロを追いかけているのです。シャチの先回りをすることができると、マグロが面白いように釣れるのです。研究を続けるうちに、私はマグロの行動パターンが分かるようになりました。マグロは後ろから追いかけていっても釣れるようなものではありません。マグロは住みやすく食料の豊富なところに集まってきます。マグロの通り道にエサをくり返しまいていると、船の音を聞くだけでマグロが追いかけてくるようになります。マグロをペットのように手なずければ、向こうから集まってくるのです。すべての生き物は生きながらえるために学習します。その習性を研究して、それを活用した漁法を「山田式漁法」と言います。常識にとらわれない私の漁法を見て、最初の頃は「あいつ、頭がおかしくなったのではないか」と言われました。しかし私はなにを言われようと、「今に見ていろ」と研究を続けました。そのうち運や勘に頼ることなく、計算で確実に釣れるようになりました。好、不調の波がなく、いつ漁に出ても成功するのです。(1日1話、読めば心が熱くなる365人の人間学の教科書 致知出版社 藤尾秀昭監修 95ページ参照)今の世の中、情報があふれかえっています。フェイクニュースもたくさんあります。自分の目で確かめないで、情報を鵜呑みにして後で後悔するというのは避けたいものです。森田の原点に立ち返って、現地に出向いて、その情報の裏をとることが欠かせないと考えます。
2026.05.13
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木野親之氏のお話です。私は松下幸之助氏の名代として東方電気(現・松下伝送システム)の再建に取り組むことになりました。ところがこの会社は、マーケットはないし、設備もなければ、有為な人材もいない・・・。悪条件ばかりそろっていて、会社が存続しているのが不思議なくらいでした。その悪条件を書き出してみると、B4版の用紙に3枚になりました。3枚の用紙を持って松下さんのもとへ報告に行きました。それを見て「大変やな」と言ってもらえると思っていたのです。ところが、「悪いところはこれだけしかないんか。もっとあったらよかったのにな」と平然としていました。唖然としている私に、「きみなあ、この悪いところ一つずつ直していったら、その欠陥が全部財産になるんやで。その3枚の紙はきみの師匠だよ」東方電気では問題が次から次へと出てきます。松下氏は「困っても、困らんこっちゃで。困るというのは、きみの外側の問題やろ。その外側の問題に自分の心が左右されてはいけない。どんなに困る問題が起きても、自分がしっかりしていれば困ることはないはずだ」と申されました。(1日1話、読めば心が熱くなる365人の人間学の教科書 致知出版社 藤尾秀昭監修 115ページ)人は誰でも一見して解決困難な問題を抱えると、やる気が失せて、できない理由を色々と考える生き物のようです。暇を持て余して、満たされない心を刺激的、享楽的な欲望を追い求めることで癒そうとするようになります。さらに自己嫌悪、自己否定で苦しむようになります。そんなときは、この松下幸之助氏の話は参考になります。まず、目の前に立ちはだかっている障害物をすべて明らかにする。それらは神様から自分に与えられた課題や宿題と受け取る。私にはそれらを解決する能力があるから出されているのである。つぎに解決すべき問題を次の項目に従って区分けする。①今のやり方ではできない。②一人ではできない。③難しくてできない。④今の時期はできない。時期尚早である。⑤モチベーションが低くてできない。⑥複雑すぎてできない。⑦能力的に無理である。⑧資金不足でできない。⑨人材不足でできない。⑩生産手段が不足していてできない。原因が明らかになれば対策が立てられる。しだいに意欲が出てくる。優先順位をつけてできるものから順次手をつけていく。たとえうまくいかなくても、「努力即幸福」は味わうことができる。
2026.05.15
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2017年4月号の生活の発見誌に河野基樹先生の記事があった。河野先生は、対人恐怖症の精神科医であった。1996年に直腸癌を発症され、 58歳で逝去された。亡くなる直前まで、講演を続けておられたのが印象的である。点滴を打ちながら講演されていた。頭が下がる思いである。この文章の最後に、河野先生のお父さんの詩集の中から次のような詩を紹介されている。夜がふけるのは朝がはじまるため冬が来るのは春を迎えるため悲しみは喜びのさきぶれ失望は希望の道しるべ太陽はどこでも明るくまわっている。神経症に陥った時は、アリ地獄の中にはまりこんだようなもので、将来に希望が見いだせず、悲観的な気持ちになります。この詩は、最悪の状態に陥ったとしても、時間の経過とともに、状況は自然に変化してくるということを言われていると思います。私たちは、素直にその変化に身をゆだねることが大切になります。深夜で辺りが真っ暗になると誰でも不安でいっぱいになります。でも必ず朝が来て辺りが明るくなるということがわかっていれば、将来に希望が持てます。その不安な嫌な気持ちを払拭しようとしていると、せっかく朝が来てもその不安な気持ちだけは無くなるどころか増悪してきます。不安な気持ちに対してやり繰りしたり逃げたりしないで、じっと持ちこたえるということが大切なのだと思います。河野先生は、 「森田理論は症状をとるために学ぶのではなく、私たちが社会生活をするために、神経質者はどういう心構えで仕事をすればいいのかということを学ぶのが生活の発見会であり、集談会であると私は考えています」と言われています。私もそう思います。森田療法が神経症を克服するという考え方は、間違いのないところですが、神経症の治療法に関しては薬物療法、その他心理療法が30種類もあるといわれている。だから神経症の克服は、その人に応じて、その人に合った治療法を選択して組み合わせるべきだと考えます。しかし、神経質者、発達障害、愛着障害などを抱えた人たちに対して、生涯にわたって生きる指針となる考え方を示しているのは森田理論だけだと考えています。またそれ以上に自然と人間のかかわり方、人間関係の在り方について、明確な一つの方向性を打ち出しているのは森田理論以外に有効な理論は今のところ見つかっていない。また、河野先生は、森田理論学習だけに取り組んでおられる人は、進歩が遅いとも言われています。実践という言葉を大事にして、体を動かして、行動に移しておられる人の立ち直りは早い。必ず理論と実行が伴わないといけないのだといわれています。集談会から次の集談会までの1ヶ月の間に、日常生活を自分はどのように送ったかという答えを持って出席し、次の1ヶ月はどのような事を日常生活の中で実行するかをはっきりさせて生活に取り組んでいく。自分の考え方や行動のどこが間違っていたのか、先輩の意見やアドバイスを参考にして修正をしていただきたいのです。それには1ヶ月ぐらいの期間がちょうど良いのではないかと思います。これもその通りだと思います。森田理論を学習している人は、理論と行動の2つの車輪をつけて日々生活しているわけです。ステップアップすれば、もう少し大きな車輪に付け替える。同じ大きさの車輪に付け替えながら生活するということが大切です。理論の車輪だけを大きなものにして、行動の車輪を小さいものから大きなものに付け替えないということになると、行動の車輪の周りを森田理論の大きな車輪が空回りするようになります。こうなると生活を前進することができなくなります。観念化が進行しすぎると、むしろ弊害のほうが大きくなります。
2017.05.04
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トヨタ自動車相談役の張富士夫氏のお話です。トヨタでは「なぜ?」を5回繰り返す訓練のほかに、現場ではもう一つ、「見たか?」という言葉も教わりました。何かある度に「見たか?」と問われる。実際にものを見ないでアイデアを出したり、批判したりすると厳しく叱られるので、「見たか?」という言葉を自分に投げかけながら意見をいう習慣が養われました。失敗から学ぶことの大切さも教わりました。現場では失敗しても怒られることは全くありませんでした。「おまえが最初から成功するなんて、誰も思っていないから、思い切ってやれ。ただし、失敗したときには必ず原因をチェックしろ。そしてまずいところはすぐ直せ」というわけです。そういう姿勢で取り組むと、現場の仕事は随分忙しくなるものです。(1日1話、読めば心が熱くなる365人の人間学の教科書 致知出版社 藤尾秀昭監修 30ページ)森田先生も「見つめよ」と言われています。目の前の物を見つめていると感じが動き出す。例えば鉢植えの植物が水きれを起こしている。このままでは枯れてしまうかもしれない。すぐに水をやろうという展開になります。上司などから指示・命令されてする仕事は、どうもやる気が出ないという経験は誰でも持っておられると思います。これは、「見つめる」「感情が動き出す」「行動に移る」という流れではなく、有無を言わせないで行動することを強制されているのです。無理なく行動に移行するためには、「見つめる」「感情が動き出す」というプロセスを踏む必要があるということです。また、目の前の物を観察しないで、頭の中で判断して行動するととんでもない間違いを犯してしまうことが多くなります。観念中心の行動は、先入観、決めつけ、思い込み、早合点で拙速に行動することになるので始末が悪いのです。私たちの頭のなかには、雑多な成功体験や失敗体験が記憶として蓄積されています。同様の問題が出たときは、それらを基にして条件反射的に行動しているのです。ここで問題になるのは、失敗やミスの体験です。1回でもマイナス体験を持っていると、それが予期恐怖となり、積極的、挑戦的な行動が抑制されてしまうことです。過去のミスや失敗は次の成功のための反省材料として活かすべきものです。自己否定や尻込みの材料として活用していると将来の展望は開けてきません。ミスや失敗に学んで、同様のミスや失敗を避けるためにどういう点に気を付けたらよいのか。どういう対策を立てて実行すればよいのか。自分一人で無理な時は誰に相談すればよいのか。どういう協力を取り付ければよいのか。ミスや失敗を自己嫌悪、自己否定、隠蔽、ごまかし、責任転嫁の材料にするのではなく、そこから何を学び次の成功に結び付けるためにはどうすればよいかを考えることが肝心です。
2026.05.11
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プロ野球やサッカーが開幕しました。贔屓のチームの勝ち負けは自分の精神状態に大きく影響します。勝てば心ウキウキ、喜びいっぱいで幸福感で満たされます。その日のスポーツ番組ははしごしてすべてを見る。翌日の朝刊は真っ先にプロ野球蘭をみる。これは脳内をドーパミンやβエンドフィンが駆け巡っている状態です。その日と翌日くらいまでは、至福の時間を過ごすことができます。ずっとウキウキワクワクの状態が続けばよいのですが賞味期限は短いのが特徴です。勝負事には負けがつきものです。贔屓のチームが負けた時は、憤懣やるかたない気持ちを抱えることになります。悲しみ、嫌気、怖れ、批判、怒りなどで埋め尽くされることになります。その日のスポーツ番組は見ない。ニュースなどを観ていてスポーツ番組になるとすぐにチャンネルを変える。翌日の新聞のスポーツ欄は見ないようにする。脳内をノルアドレナリンやコルチゾールなどが駆け巡っている。イライラして腹立たしい気持ちになる。自分一人でイライラしているのならまだ救いがありますが、そのネガティブな気持ちを周りの人にぶちまけて悪影響を与えている。僅差の試合展開の場合、打ち込まれて負けることを怖れて、ほかの番組を見ている。可愛さあまって、憎さ100倍のような感じです。時々途中経過をチェックして、今日は勝ちそうだという見込みが立ったときは、改めてゆったりと視聴する。途中戦況が悪くなるとまた別の番組に切り替える。この状態は、純粋に試合内容を楽しむというのではなく、勝つか負けるかその結果のみに関心があるのだ。こういう人はBS放送で朝放送の大リーグのドジャースの試合の方が安心して見られる。それは生まれなからのドジャースのファンではないので、勝ち負けは度外して、大谷翔平などの日本人選手の活躍を純粋に楽しむことができるのだ。こうなると、一種のプロ野球観戦依存症に陥っているとみたほうが妥当ではなかろうか。依存症には、薬物、アルコール、ギャンブル、ニコチン、セックス、ネットゲーム、ネットでの買い物、仕事などがあります。程度の差はあれ依存対象にどっぷりとつかって、ドーパミンを出し続けてめくりめく快感情を享受したいのである。プロ野球を見て一喜一憂してしまうのはどう考えたらよいのでしょうか。感情の法則では、どんな不快な感情でも天気と同じ自然現象であり、意志によってコントロールできるものではない。イライラや不平不満、悲しみや不安や恐怖などの不快な感情は自然服従するしかないと言われています。感情の法則1を活用して、不快な感情を味わい尽くすことが必要になります。気を紛らわせることを考えて不快感情を刺激しているとますます増悪して、心身とも疲弊してしまいます。耐えがたきを耐えて、日常茶飯事に目を向けて生活を前に進めて行くことが肝心だと思います。新しい行動を開始するか、別の状況や環境下に体を移動させると、新しい感情が生まれることを忘れてはならないと思います。そうすれば、いつかは勝ちゲームで大いにウキウキ、嬉しい気持ちを楽しむことができます。
2025.04.26
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森田先生は「君子は和して同ぜず、小人は同して和せず」と言われています。君子の例として西郷隆盛を挙げておられます。西郷隆盛は、薩摩藩内や明治政府内において、様々な意見を持つ人々がいる中で、感情的に対立するのではなく、大局を見据え、協調的な態度で臨もうとしておられました。しかし、自分の信念を曲げてまで他者に迎合することは決してありませんでした。征韓論における彼の主張や、西南戦争に至るまでの経緯を見ても、自分の正義や理想を貫き通そうとする強い意志が感じられます。西郷隆盛は自分の意見を持たずに周りに流されたり、表面的な同調だけをするような人物ではなかったようです。西郷隆盛は、自分の確固たる意志を持ちながらも、相手の立場や気持ちを理解し、尊重しようと努めた人だったようです。自分の考えとは違っていても、話し合いによってみんなの意見がまとまれば、自分が先頭に立って行動をする。まさに男のなかの男のような人です。彼の魅力は、その二つの要素が矛盾することなく共存し、高い次元でバランスがとれていた点にあるのかもしれません。ここで「君子」を「森田の修養の進んだ人」人に置き換えて考えてみたいと思います。森田の修養の進んだ人は、「和して同ぜす」、森田の修養が進んでいない人は「同して和せず」の傾向が出てきます。森田の修養が進んでくると、相対立していることが目の前にあるとき、両面観の立場から検討していくことができる能力を獲得した人だと言えるのではないでしょうか。例えば、森田先生のところに入院していた患者が、うさぎ小屋の掃除をしていた時、野犬が飛び込んできてうさぎを噛み殺してしまったという事件がありました。ここで修養の進んでいる人と進んでいない人の違いが如実にでます。修養の進んだは、「わあ、可愛そうなことをしてしまった。玄関の戸をきちんと閉めておけばこんな悲惨な事にはならなかった」と思うでしょう。修養の進んでいない人は、「これは入り口の造作が悪かったら起きたことだ。私の責任ではない」と思って言い訳、弁解、責任転嫁、自己保身に走ってしまう。修養の進んだ人は、森田先生と共に悲しむということになります。以後二度とこんなことが起きないように工夫をするでしょう。修養の進んでいない人は、森田先生から叱られないように自己防衛のことばかり考えます。にもかかわらず、森田先生から大目玉を食らうことになります。今後うさぎ小屋の掃除は懲り懲りだといってうさぎ小屋に近づくことがなくなります。この時に、「ああ、かわいそうなことをしてしまった」という初一念の感情をしっかりと受け止めていたら次の展開はまったく違っていたはずです。森田の修養で最初に湧きあがってきた感情を大切に取り扱うということが身についていたら、その後森田先生から罵倒されることはなかったはずです。
2025.10.21
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森田先生は、 「初一念」について次のように説明されている。我々がものに驚き、あるいは喜ぶ時、その刹那には、我そのままであるが、ハッと我に返る時、それが初一念である。同じく花もしくは恋人に対して、自分がそのうちに同化した時、我そのままであって、現在にハッと振り返る時、初一念である。この自分そのまま、すなわち純主観が、本来の真であるというのではないか。自分の頭の重さを知らず、今の自分は夢ではないかという思いのない時に、それが本来の自分であって、生の力のベストに活動するところではないか。 (森田全集第7巻 274ページより引用)「純な心」の学習をする時、 「初一念」という言葉が出てくる。私はほぼ同じ内容であると思っている。しかし両方とも普段の生活には聞き慣れない言葉である。森田先生が言われている「初一念」とは、物事に接したとき、最初に湧き上がってくる感情のことである。直感、第一に感じる気持ちのことである。普通は、それらが湧き上がってきた途端に、様々な理屈などの夾雑物などが入り込んでくる。それらは「初二念」「初三念」などと言われている。森田理論では、「初一念」は、観念や理想が入り込まない人間本来の素直な感情であると言われている。ここに重点を置いて、日々の暮らしを紡いでいけるとすれば、葛藤や苦悩が少なくなり、とても楽に生きることができる。もちろん神経症とは無縁な生活となる。理論で説明すると、こういうことだが、とてもわかりにくいかと思う。具体的なたとえ話で説明するとわかりやすい。例えば中学生ぐらいな自分の娘が、何も連絡もしないで夜10時ぐらいになってもまだ家に帰ってこないとする。すると、親は何か事件にでも巻き込まれたのではないかと、とても心配する。友達の家に電話をしたり、交番に駆け込んだりする。その後、娘が何食わぬ顔で帰宅した。すると、親は烈火のごとく娘を叱りつける。それを聞いた途端、娘はごはんも食べずに、自分の部屋にこもってしまう。このときの親の「初一念」は、娘のことが心配で、いてもたってもいられないという気持ちである。しかしその気持ちは、娘が帰ってきた途端にどこかに吹き飛んでしまう。自分勝手で親をイライラさせた娘に対して、むらむらと湧き上がってきた怒りの感情を直接娘にぶつけるという行動に出ることがある。自分のイライラした感情を払拭するために、とっさにとった行動である。これには、子供は親を困らせるようなことをしてはならないという「かくあるべし」が含まれている。これは「初二念」に基づいた行動である。森田理論では、こんな時は「初一念」を思い出すことが大切であるという。「お父さんとお母さんは、あなたがいつまでも帰ってこないのでとても心配していたのよ。でも、何事もなく無事に帰ってきてくれてとても嬉しい」 「これからは遅くなるときはせめて連絡だけは忘れないようにしてほしい」これは森田理論学習の中でもよく出てくる「純な心」「私メッセージ」の対応である。私たちはいつも「かくあるべし」的言動が多いので、何かあった時は今の「初一念」はなんだろうと振り返ってみる癖をつけていくことが大切になる。それが日常生活の中で実践できるようになると、あなたは「森田の達人」にかなり近づいていると言える。
2017.09.07
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森田先生のお話です。昭和6年に、余が喘息で、今にも死ぬかと、あえぎ苦しんだ時、久亥と(森田旅館の女中取締りをしてくれている)坂井サンとが、余の両側に付添って居て、余が「アア苦しい。もう助からん」とか、・・・セッパ詰まった苦悩の時に、坂井サンは、余の手を握って、「マアどうしよう、どうしよう」といって泣き出したのである。ちょっと外面的に考えると、気の弱い病人は、他からその心を引立て・力ヅケてやらなければならないように思われる。しかしそれは単なる技巧であって、真情ではない。素朴な真情ほど、世に有難いものはない。余はこの時、非常な安楽と・心強さとを覚えた。誇張していえば、余はこの坂井の気合術によって、ホッと助かったといいたいほどである。病人に対して、いたずらに虚偽のカケヒキをするよりも、共に憂い・共に悲しむということの真情に及ぶものはない。(森田全集 第7巻 久亥の思い出 759ページ)瀕死の森田先生を目の前にして、普通はどんな対応をするでしょうか。「先生しっかりしてください。弱気になってはダメですよ」「絶対に助かりますよ。頑張ってください。私がついていますからね」「きっと多くの入院生も回復するのを待っていますよ」「今お医者さんを呼びましたからね。安心してくださいね」これに対して坂井さんは「純な心」で対応されていますね。先生を何とか助けたいという気持ちよりも、先生と同じ気持ちになって右往左往しておられます。医者でもない坂井さんができることは、先生の側にいて、おろおろして泣き出すことだけです。余計なことをすると、先生の症状はますます悪くなっていく。どうすることもできないパニックに陥った時、「もっとがんばれ、決してあきらめるな」と言われても、「もうそんな力はない。無茶を言わないで。そっとしておいてほしい」というのが本音かもしれません。対応策が見つからなくて、相手の側にいて、相手と一緒になっておろおろしているのが相手にとっては一番心がやすらぐのだと思います。解決策が見つからないときは、おろおろして態度を保留にするしかありません。その方がよい結果をもたらすというお手本のような話です。これは集談会で初参加がいる場合、是非とも応用したいことです。苦しい症状に対して拙速に森田的なアドバイスしないようにする。「よくいらっしゃいましたね、今まで苦しかったでしょうね。もう少しだけ詳しく教えてくださいね」どうしたらよいものかと、態度を保留にすることは意識すれば誰でもできます。田舎のとんど祭り
2024.01.28
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森田先生の「不即不離」という考え方を人間関係の面からとらえられている人が多いと思います。人間関係はそのときの状況によって引っ付いたり離れたりしています。つまり臨機応変に適度な距離感を保ちながら付き合っているわけです。このバランスが崩れると、一方ではベタベタした依存関係に陥ります。他方では、天涯孤独な人生を送ることになります。ひっつきすぎず、離れすぎずの人間関係が無難です。必要に応じて付き合ったり、離れたりするのが人間関係の極意でしょう。さて距離感を意識するという意味では、人間関係以外にもあります。感情との関係・・・不安や恐怖といった感情にとらわれ過ぎず(即)、かといって無視したり抑圧したりするのではなく(離)、それらの感情を「あるがまま」に受け入れつつ、「なすべきこと」に手を出していくということです。自然に服従し、境遇に柔順が森田の考え方です。生の欲望との関係・・・所有欲、支配欲、食欲、飲酒などの欲望を際限なく求め続ける(即)のではなく、かといってすべての欲望を抑圧(離)するのでもない。基本は生の欲望の充足に邁進する。しかし「我唯足知」の言葉のように欲望の暴走には歯止めをかけることが大切です。対象との関係・・・仕事や趣味などに熱中しすぎる(即)のではなく、適度な距離を保ち、心身の健康、人間関係など他の事とのバランスをとる(離)ことが重要です。このように「不即不離」とは、あらゆる対象とのかかわりにおいて、固執せず、かといって切り離さず、主体的に適切な距離感を保つという、より普遍的なあり方のことを言います。森田理論の中に、精神拮抗作用、両面観、主観的事実と客観的事実、迷いの内の是非は是非ともに非なりという言葉がありますが、これ等の言葉が意味するところは、すべてのものごとには相反する2つの面があり、そのバランスを意識して調和を図るという事になります。6月29日(日曜日)ジャガイモの収穫をしました。ちょっと小ぶりですが家で食べる分には支障はありません。ミニトマト、ナス、ピーマン、シシトウ、カボチャがすくすくと育っています。田舎へ帰り自家用野菜の手入れをするのがとても楽しみです。また、農作業で汗をかいた後のビールが格別です。
2025.07.01
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元WBC世界ライト級チャンピオンのガッツ石松氏のお話です。おれはチャンピオンになるまでに11回負けて、5回引き分けているんですよ。引き分けは負けと一緒だから16敗もしているボクサーが世界チャンピオンになった例はないんですよ。その後世界チャンピオンを5度も防衛しました。普通1、2度負けると、おれにはボクシングの素質はないと思ってあきらめてしまいますよ。目標を見失って底辺の世界でただ食いつないでいく生活に甘んじてしまうでしょう。おれは「お前なんか、モノになるわけがない」と言われてバカにされ続けたけれども、じっと時期を待っていたんだよ。イメージとしては桜の木のようなもんだ。開花の時期が来ればみんながびっくりするくらいの花を咲かせて感動させるだろう。おれもいつかボクシングの世界で満開の花を咲かせる希望を持ち続けてきたんだ。ガッツ石松氏は、15歳で東京に出てきてから、いろんな仕事をされている。ネジ屋から始まって、弁当屋、喫茶店、酒屋の御用聞き、アイスクリームの配達、牛乳屋、印刷屋、ガラス屋、ラーメン屋、バーのマスターなど22、3種類の仕事をした。いわゆる底辺の仕事を転々としながら、ボクシングで世界チャンピオンになるという夢は貪欲に追い求め続けていったということだ。普通の人があきらめてしまう逆境をはねのけて、目的を果されたことが素晴らしい。(1日1話、読めば心が熱くなる365人の人間学の教科書 致知出版社 藤尾秀昭監修 100ページ参照)ガッツ石松氏は、反骨心旺盛で自分の夢を貪欲に追い求めていったということがよく分かります。失敗は反省して二度と同じ過ちは繰り返さないという教訓として次に活かしてきた。夢や目標を持って生活をするということは、人間として生きている限り、絶対に必要なものだということを教えてくれているような気がします。このことを森田では生の欲望の発揮と言います。それがなくなってしまうと、姿かたちは人間であっても、もはやまともな人間とは言えない。私は目標という点では、短期目標(その日の目標、週間目標)、中期目標(1~3年間の目標)、長期目標(生涯目標)の3つを持っていることが肝心であると思っている。短期目標は、規則正しい生活とルーティーン作業の習慣を作り、凡事徹底で取り組んでいくと達成できる。中期目標は、年の初めに日記などを見て大まかな目標を立てる。生涯目標はライクワークである。仕事でも趣味でも何でもよいと思う。目標が明確な人は、注意や意識が外向きになり、神経症で苦しむことは少なくなります。
2026.05.12
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集談会にはいろんな人がやってくる。うつ病、心身症、躁うつ病、パーソナリティ障害(人格障害),アダルトチルドレン、不安障害、依存症、不登校、引きこもりなどである。生活の発見会の森田理論学習は、神経症と器質的な病気が合わさっている人も一緒に学習している。生き方や考え方の誤りを学びたい人は受け入れている。ただし、器質的病気を持っている人はそれなりの配慮が必要である。特に「うつ」の人に対して森田的アドバイスは禁物であるという。我々生活の発見会の会員は「うつ」の予備知識も持っておく必要がある。一応学習はしているが確認しておきたい。斎藤茂太著 「躁と鬱」中公新書から対応策を紹介しておきたい。1、 今の苦しみや能力の低下は、病気によっておこっているもで、「本質」ではないから、必ず治るものであることを本人に納得させる。2、 とにかく休ませること。ただ、いきなり会社を休ませると、今頃会社ではどうしているだろう。自分が休んだために、上司や同僚に迷惑をかけているのではないかと、かえって罪の意識が強くなるから、会社の上司や親しい同僚等と十分連絡をとってやすませるという「根回し」をすること。上司から、「キミ、よくなるまで安心してゆっくり休みたまえ」とひと言いってもらえれば最高である。3、 自殺念慮がある場合には、自殺しないよう約束させること。4、 病的な状態にあるときは、退職、離婚、退学等の人生の重大決定をさせてはいけない。うつ的なときは、往々にして辞職願等をだしがちであるが、病状が好転したあと、かならずはげしく後悔するものだ。5、 うつ状態を元気づけてやろうと、無理に、旅行、ドライブ、観劇、運動などに連れ出してはいけない。ただ患者を疲労させるだけである。病状がよくなれば、おのずと運動、外出などしたくなるものである。6、 統合失調症は、レクリエーション療法や作業療法が必要だが、うつ病の場合はなにより休養を優先させたほうがよい。7、 「しっかりしろ」「頑張れ」「なにをぐずぐずしているのだ」「君も男だろ」などなど、激励の言葉は自信喪失、自己卑下など逆効果をもたらす。ああしろ、こうしろなどの指図のしすぎも同様である。8、 本人に同情することは必要だが、本人に同調して一喜一憂、周囲のものが大騒ぎするのはよくない。過度の情緒的密着的家族は、病気の回復を遅らせ、再発を招く。9、 ただし、やさしく、おだやかに、本人のいうことに耳を傾けることは大いに結構である。10、 病院からもらってきた薬を、早く効かせようと思って、指示以上の多量をのませるなど勝手な行動はいけない。必ず医師と相談してからにすること。11、 安易な見舞客はできるだけ断わる。会社の同僚等が、見舞にきて、元気づけようとしてにぎやかに騒いで行ったあと病状が悪化、それがきっかけになって自殺したというケースもある。
2013.08.31
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石原加受子さんは、人間関係は自分中心から出発することが大切であると言われています。他人中心から出発すると問題だらけになると言われているのです。その順番を間違えると、人間関係は葛藤や苦悩を抱えるようになると言われているのです。今日は人間関係における自分中心心理学を取り上げてみたいと思います。私たち人間には、次々とさまざまな感情、気持ち、欲求が湧き起こります。それに基づいて、他人とかかわることになります。これは他人への配慮を欠き、自己中心的な行動のように見えますが、そうではありません。石原さんは、人間関係で一番大切なことは、自分の素直な感情、気持ち、欲求などを明確にして対応していくことだと説明されています。ここでは自分の感情や意志や欲求が宝物のように大切に扱われています。これは森田理論でいうと、最初に湧き上がってくる感情、第一次感情、直観、初一念と言われるものです。いわゆる「純な心」として説明されている部分です。森田理論を学習した人は、「純な心」の体得は悲願と言ってもよいものです。「かくあるべし」を骨抜きにさせて、「事実本位」に近づく手段となるものだからです。「純な心」の大きな特徴は、きちんと掴まえようという意志を持たないと、すぐに消え失せてしまうということです。見逃してしまうと、「純な心」に基づいた対応はできなくなります。「純な心」を見失うと、単にそれだけでは済みません。さらに大変な事態に直面することになるのです。見失った途端、その問題ある事象を観念で解釈するようになるのです。人間は高度に発達した大脳を持ち、言葉を使う生きものです。記憶力も高度に発達しています。一旦初一念を掴みそこなうと、その隙間はすぐに別のもので埋められてしまいます。その隙間を埋めにやってくるものが曲者で始末に悪いものなのです。これをずばりいうと、理屈や知識や情報などです。その他、一般常識、規範、規則、習慣、法律、ルール、風習、しきたりなどが我が物顔で侵入してくるのです。今までの人生で身につけた観念の世界で満たされてしまうのです。森田でいう「かくあるべし」が前面に出てきて、他人との対応に当たるようになるのです。これが人間関係に暗い影を落とすのです。「かくあるべし」で他人に対峙すると、他人を上から下目線で見てしまいます。決して対等ではない。力の強いものが弱いものを攻撃するようになります。相手を自分の考えに同調させる。自由に相手をコントロールしようとします。相手を攻撃し、喧嘩になってもそれは仕方がない。とにかく相手に勝つことが目的になります。ここで負けると、逆に相手に主導権を取られてしまう。この状況に至ることは、最悪と考えるようになります。相手の話を聞かない。理解しようともしない。受容と共感とはほど遠くなる。実際には、批判、非難、否定、叱責、攻撃、説得、指示、命令、強制、抑圧、脅す、一喝する、見下す、無視する、からかう、悪評を立てる、大声でわめくようになります。これに対して、当然相手は猛反発してきます。そしてついに双方が戦闘状態に入ります。緊張状態にあるときは、まだよいのですが、少し気弱になった時、或いは自分を援護してくれる人がいなくなった時は極めて危ない。そのとき相手が、本気モードに入り、どんどん軍備を増強し、援軍を引き連れて現れたときはひとたまりもない。すぐに仲間内から追い出されてしまいます。あとはひっそりとなりをひそめて、生き永らえることぐらいしかできなくなってしまう。それは社会的な死を意味します。人間は群れから離れて単独で生きていくことはできません。ぎりぎり生きていけるとしても、味気ない人生になります。どこで歯車がかみ合わなくなったのかと反省しても、すでに時遅しということになります。この最悪のパターン陥らないようにする事が必要です。そのヒントは森田理論が示してくれています。森田理論では、最初に湧き上がってくる自分の素直な感情、気持ち、欲望をきちんと掴まえましょうと言っています。それがするりと滑り落ちてしまうようでは、とても人間関係の改善には向かいません。森田では「初一念メモ」を持ち歩いて、素直な感情、第一次感情、直観をきちんとキャッチするという実践があります。それを参考にして、「自分の感情、気持ち、欲求ノート」のようなものを持ち歩いて、絶えず自分を見つめるという作業を続けるのです。これが習慣になるまで取り組むことです。また、その体験を集談会で発表して、アドバイスをし合うことが有効です。つぎに、自分の素直な感情、気持ち、欲望を相手にどう伝えるかという課題に取り組むことになります。こういうプロセスを大切にすると、絶えず相手の思惑に神経をとがらせて、言い争うということが避けられると思いますが如何でしょうか。
2021.09.04
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不安神経症の人と対人恐怖症の人は人間関係の対応方法がかなり違うように思います。不安神経症の方は突然死の恐怖が襲ってきてパニック状態になります。その時誰かが付添ってくれていれば安心できます。そのためには普段から他人が喜ぶようなことを見つけて実行している。不安神経症の人は明るく、人付き合いが比較的上手です。対人恐怖症の人は他人から評価される、一目置かれる存在になることに関心が高い。不安神経症の人のように人と仲良くして交流することを楽しむという気持ちは希薄です。そういう意味では自己中心的な人達です。対人恐怖症の人は本音の部分に他人が怖いという気持ちを持っているように思います。良好な人間関係を築いて維持するという側面が弱いように思います。反面一人で過ごすことは苦になりません。人生の楽しみ方を自分なりに見つけている。一つのことを掘り下げて、名人の域に達している人もいます。しかし他人との接触を完全に断って仙人のような生き方はできません。人間は社会的な生きものですから多かれ少なかれ人間関係がつきものです。では対人恐怖症の人はどんな気持ちで人と付き合っていけばよいのでしょうか。私は森田の不即不離をお勧めします。必要なときに、必要に応じて、必要なだけの付き合いをするということです。必然的に浅くて広い人間関係を目指すことになります。その前提に立って、どんなことに注意すればよいのかを考えてみました。1、笑顔での挨拶を欠かさないように心がける。2、しゃべりすぎないように心がけて、相手の話をよく聞く。3、約束や責任をきちんと果たす。ドタキャンはしない。3、弱点や欠点、ミスや失敗は隠さない、ごまかさない。4、相手を非難、否定、叱責、拒否、強制、無視しない。5、不平や不満、腹立たしさをすぐに相手にぶっつけない。6、「ありがとう」「助かります」という言葉を使うようにする。私たちは釣りバカ日誌のハマちゃんのような陽気でまわりの人を和やかにする能力は持ち合わせていません。でもこれくらいなら実行可能なのではないでしょうか。人間関係は20対60対20の法則があると聞きました。これは馬の合う人20%、馬の合わない人20%、どちらでもない人60%という意味です。肝心なことは、どちらでもない人を敢えて敵に回さないように心がけることです。潤滑油の切れた歯車を無理やり回転させるようなことは痛々しい。これだけ心がけるだけで人間関係で大きく躓くことは避けられます。
2024.06.03
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2024年11月号の生活の発見誌に興味深い記事がありました。ASD(自閉スペクトクラム症)の子どもは同じことを繰り返したり、確認行為をすることがあります。この場合は、自己嫌悪感や自己否定感は伴いません。ですから知的障害を抱えたASDの子どもの場合、治療意欲があるはずだと決めつけて対応するのは間違いということになります。脳の発達障害のために確認行為をしているという認識を持っておく必要があります。寛容な気持ちで許容してあげることが大切になります。これに対して、強迫性障害の確認行為の場合は、本人が「こんな行為はばからしい」と自覚しています。しかし確認行為をしないと精神的に苦しくなるので、やむなく確認行為を続けているのです。強迫性障害を抱えている人は、なんとか克服したいという気持ちを持って治療に取り組んでいるのです。森田に適応するのは強迫性障害を抱えて苦しんでいる人です。こういう方は、症状の成り立ちを学習して、不安との付き合い方を変えていく必要があります。そのためには森田理論学習が役に立ちます。ASD(自閉スペクトクラム症)は範囲が広く、百人百様の様相を示しています。ですから、ASDの人を分析して全ての人に当て嵌めようとしても無理だと思います。私の場合、程度は比較的軽いのですが、高機能自閉症、アスペルガー症候群がよくあてはまっています。対人関係が不器用である、社会性の欠如、衝動的な行動をとることがあるなどが当てはまっています。これは脳の発達が普通の人のように健全に育っていないことがよく分かりました。脳の発達は10項目くらいありますが、同じように健全に発達しているわけではない。誰でも凸凹あり一様に発達しているわけではない。この考え方は自分は異常ではないかと思っていた私によっては救いでした。(アスペルガー症候群 岡田尊司 幻冬舎新書)私の対人恐怖症の根っこにはASDの問題を抱えていたのだと自覚しています。そのことが理解できたおかげで、親の教育やしつけを過度に責めることがなくなりました。また自分自身の人格や性格に問題があって対人恐怖症で苦しんでいるわけでもないと思えるようになりました。発達障害で社会適応できていなかったのだ。脳の発達障害は治すことができないので、この状態のままなんとか問題行動を少なくして、人生を楽しんで生きていければよいと考えるようになりました。
2024.12.23
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昨日の続きです。私が外証を整える上で最も重視しているのは、起床時間を6時20分に決めて実行していることです。もう14年になる。不思議なことに最近は目覚ましが鳴らなくても自然に目が覚めるようになった。起床時間が一定になると1日のスタートダッシュが可能となります。3月になると窓を開けて、太陽の光を体一杯に浴びることにしている。それから布団を収納し、着替えをして、このブログの作成に取り組んでいる。6時30分から8時まではブログの作成に充てている。その後は簡単な朝食をとる。そして洗面や歯磨きなどをする。新聞にざっと目を通した後は、一人一芸に取り組む。ストレッチ、ドジョウ掬い、傘踊り、100歳音頭の踊り、皿回し、カラオケ「男人生九十九坂」、南京玉すだれの練習をしている。その後11時過ぎまでは、明日の投稿材料を求めて本を読んでいる。それが早く終わればkindle電子本の作成に取り組んでいる。11時10分からは、オカリナとアルトサックスの課題曲の練習に励んでいる。本番であがらないためには、ひたすら練習を459回続けることと学んだ。これを信じて練習に真剣に取り組んでいる。昼ご飯を食べた後は、12時20分には125ccのバイクで仕事に出かける。1時から5時までの4時間、マンションの管理人の仕事をしている。仕事はルーティーン作業を淡々とこなしている。問題点や課題はないか探しながら取り組んでいるので、マンネリになることは少ない。最近発見したことで嬉しいことがあった。大量のカラスがやってきて解放廊下に糞をしていた。管理人仲間に相談すると、釣りで使うスジを張ると効果があるという話を聞いた。早速これをとり入れてみると、カラスが警戒してやってこなくなった。管理会社に報告したところ、早速指導員がやってきて写真を撮っていった。もう一つ最近取り組んだことで、良かったことがありました。マンションは時々内装工事があります。内装業者は千差万別で居住者に迷惑をかけないように細心の注意を払う施工業者もいれば、そんなことはお構いなしで杜撰な仕事をする業者もいます。そこで12点に渡り注意喚起の文章を作成した。他の管理人や管理会社の人たちの評判がよく、改装工事のときの提出書類の一つとして採用されることになった。その後5時30分過ぎには帰宅するので、自分が抱えている問題に取り組み、6時30分から晩酌を兼ねた食事をしている。その後は11時過ぎまでは自由時間である。ビデオに録画した番組を見たり、you tubeの視聴やネットマージャンなどをやっている。ときには疲れて仮眠をとることもある。私は外証を整えるために一番大切なことは、規則正しい生活習慣をつくることだと思っています。そして毎日同じ時間に同じルーティーン作業を確立することだと思います。これの利点は、「この次に何をしようか」と前頭前野で考える必要もなく、淡々といつもの作業が進んでいくことです。前頭前野をフル回転させる必要はありません。生活リズムがよくなります。神経症でイライラすることは少なくなると思います。
2026.05.09
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西田文郎さんのお話です。女子のプロゴルファーは全国に620名ほどいる。そのうちトーナメントに出られるのは100名ほどの選手である。女子プロがトーナメントに出場するには、シード選手以外は、まず地区予選を勝ち抜き、統一予選会に出場する権利を得なければならない。統一予選会に出場できた120名の選手中、上位30名がトーナメントに出場できる。1995年のことだがプロ7年目の川波由利プロがいた。前年も統一予選会に出場することはできたが、どうしても上位30名に入れなかった。プロゴルファーとはいえ年間獲得賞金は150万円にも達しなかった。そんな川波プロがメンタルトレーニングを受けるために西田氏の研究所に来たそうだ。そこでスポーツ選手専用の「メンタルチェック」「モチベーションチェック」を受けた。結果は、「願望を描けず、夢を持てない状態」という結果が出ていた。プロゴルファーとは名ばかりで、6年間も鳴かず飛ばずでは、自信を喪失して、落ち込んでしまうのも当然だろう。西田氏は思考回路を変えることを指導した。ネガティブで悲観的な防衛系神経回路を封印して、ポジティブな前向きな報酬系神経回路が作動するようにした。脳の中をドパミン、アドレナリン、βエンドルフィンであふれさせる指導をした。西田氏はやる気の脳、運やツキを呼び込むための脳の仕組みを説明して指導したのだ。その結果、川波プロは半年後、念願の予選会突破を果たした。それも1位通過だった。新聞にも「プロ7年目の川波由利がトップで統一予選会クリア」と紹介されたという。そしてその年、年間獲得賞金がなんと2500万円に達した。さらにシード権も獲得してしまうほどの活躍を見せた。すごいとしか言いようがない。たった半年で、なぜ彼女は急速に変わったのか。プロ7年目にしてゴルフの技術が急に向上したのか。むろん、そんなことはありえない。気の持ちようが変わったのだ。それまでの運やツキのない脳が、運やツキのある脳に変わった。西田氏のメンタルトレーニングで、「できない脳」が「できる脳」に変わったのである。「今年も惜しいところで涙を呑むのではないか」という悪い予感が、「優秀で統一予選会を突破できる」というよい予感に置き換えられ、トッププロの仲間入りを果たすところまで、彼女はしっかり予知してしまったのだ。その予感は、脳に蓄えられた過去の記憶データからくる。「できなかった」という不快な記憶データを多く持っていれば、当然、「できない」を予感する。自己防衛的な心配や不安が入り込んでいるから、緊張・萎縮して、できることもできなくなる。「できる」という快の記憶データに書き換えれば、やる前からウキウキワクワクしてくる。そのウキウキワクワクする予感が、報酬系神経回路をさらに活性化し、能力をぐんぐん引き出し、実際にできてしまうのだ。西田氏は過去のネガティブで悲観的な記憶データの変換は決して難しくないという。記憶データがポジティブで前向きに変われば、「失敗するかも」という脳を、「成功するかも」という脳に変えることができる。にわかには信じがたいが、数多くの実績が有効性を証明しています。その点については明日以降の投稿をご覧ください。(ツキの大原則 西田文郎 現代書林 66から77ページ要旨引用)
2021.12.16
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「純な心」は森田先生の造語です。聞きなれない言葉です。この言葉が理解できないと、森田の核心部分に近づくことは難しいです。一般的には自分の感情や気持ちに素直になることと捉えている人が多いようです。それは間違いではありませんが、なにかつかみどころがないような感じです。分かったようで実はよく分からないという人が多いようです。ということは日常生活の中で活用するための手掛かりがつかめない。「純な心」の理解は、2017年9月7日に「初一念という意味」で投稿しています。これを読めばすぐに理解していただけるものと思います。改めまして再度投稿してみます。「純な心」を理解しようと思えば、「初一念」から入った方がよいと思います。ここから入るのが「純な心」をより正確に理解できると思います。「初一念」も難しい言葉ですが、別の言葉に言い換えれば理解しやすいと思います。森田先生は、「初一念」について次のように説明されている。我々がものに驚き、あるいは喜ぶ時、その刹那には、我そのままであるが、ハッと我に返るとき、それが初一念である。同じく花もしくは恋人に対して、自分がそのうちに同化した時、我そのままであって、現在にハッと振り返るとき、初一念である。森田先生が言われている「初一念」とは、物事に接したとき、最初に湧き上がってくる感情のことを言われているのです。言い換えれば素直な感情、直感、最初に湧きあがってくる感情のことです。これは初期段階のほんの一瞬に湧き上がってくる感情です。意識して掴まえないとすぐに忘却の彼方へと消え去ってしまうという特徴があります。そしてすぐに、理屈、観念、理想、先入観を含んだ感情が湧き上がってくる。これは「初二念」「初三念」と言われています。人間は大脳が高度に発達したために、良くも悪くも、無意識的に理屈、観念、理想に重きを置く生き物に進化してきたのです。「かくあるべし」という観念の世界から現実の不安、恐怖、違和感、不快感などをコントロールしようとしているのです。それが人間に精神的な葛藤や苦悩を招き寄せているのですが、その自覚がないのがもどかしいところです。森田では「初一念」を意識して掴まえて、そこを出発点にして対応していきましょうと言っているのです。ここが理解できたら、実際の実例で裏付けをとるとよいと思います。問題が起きた時怒りの感情が湧いてくることがあります。例えば母親が子供に「早く風呂に入りなさい」と言ったとします。子どもは炬燵に入り込んで転寝をしていて親の指示に従おうとしません。時間が経つほど、親のイライラはどんどん膨れ上がり、そのうち怒りへと変わっていくでしょう。そして親子喧嘩を始めることになります。その時親が意識しているのは怒り、腹立ちだと思います。このとき怒りの前の「初一念」思い出すことができれば対応が変わります。このときの初一念は「悲しみ」「落胆」「無力感」のようなものだと思います。自分の思い通りにならない現実を目の前にして心の痛みが湧き上がってきたのです。もしその気持ちにきちんと向き合うことができれば、親子の対立は回避できるかもしれません。9月7日の投稿では中学生の女の子の帰宅の例で説明しています。父親が連絡もしないで帰宅した子どもに怒りを爆発させましたが、怒りの裏に隠れていた初一念は、「かわいい子どものことが心配で仕方がないというイライラ」でした。このことが意識できれば、子供を叱責することは抑えられたと思われます。森田先生は、皿を落として割った時のエピソード、野良犬に兎をかみ殺されたエピソードで「純な心」について説明されています。言わんとされていることは全て「初一念」の感情のことです。「初一念」から出発すると、隠蔽やごまかしや責任転嫁はなくなるはずだと言われています。「純な心」を理解して生活に応用できるようになると、人間関係はすぐに好転します。是非とも自分の体験で確かめてみて下さい。
2023.11.13
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ある調査によると人間は毎日6000回考え事をしているという。別の調査によると12000回から60000回も思考している。回数はともかく人間は毎日多くの考えごとをしていることになります。ブルース・リプトン博士は私たちの行動や思考の95%は潜在意識によってコントロールされていると言われています。この潜在意識は親や養育者によって7歳までに作られるが、その70%はネガティブなものだと言われています。私たちは自由に思考していると思っていますが、その思考は潜在意識の影響を受けて、消極的、非生産的、非創造的になりがちという事になります。感情はネガティブな思考の影響を受けて否定的なものになりやすい。これを野放しにしておくと、後悔や罪悪感、将来不安、自己否定、他人否定、運命や境遇の否定で苦しむことになります。マインドフルネスで有名な精神科医の藤井英雄先生は、ネガティブな思考や感情が湧き上がってきたときに、それを客観化して改めて検討してみることが有効だと言われています。客観化するためには、自分の分身を作るのが効果的です。自分以外にもう一人の自分を作るということです。私は「専属アナウンサー」と呼んでいます。ネガティブな思考をしているときや不快な感情が湧き上がってきた時、専属アナウンサーに現場に急行してもらって、現場から実況中継をしてもらうようにしています。その際、私情をはさまず事実だけを伝えてもらうようにしています。すると少し冷静になり、一方的にネガティブな思考や不快な感情に振りまわされなくなります。その後で客観的に分析や洞察を深めるようにしています。これは森田でいうところの自覚を深めるということです。事実に基づいて妥当的な考え方をしているか。先入観、決めつけ、思い込み、早合点していないか。一方的でネガティブな断定をしていないか。両面観で見ているかなどです。
2025.06.18
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観念優先の態度を事実優先の生活に切り替えるために!その8、直観、第一の感情、初一念の感情を大切にする。純な心の体得。「純な心」という言葉は、森田理論学習の中で頻繁に出てまいります。聞きなれない言葉ですが、「かくあるべし」を含まない、素直な感情のことだと理解するとよいでしょう。人間は、物事や出来事に遭遇した場合、先ず、「ハッとした」「びっくりした」「驚いた」「心配になった」「嫉妬した」「不安になった」「どうしよう」などという一次感情が発生します。しかしこれらは、一瞬で「かくあるべし」を含んだ第2次感情で吹き飛ばされてしまいます。これに翻弄されて苦しんでいるのが、よくありがちな人間の姿です。理論学習の中では皿を床に落として割った話が出てまいります。自分の不注意により取り扱いを誤って皿を床に落とした。そのとき、最初は「しまった。どうしよう」と思わず拾い上げてくっつけてみる。ところが、しばらく経つと、接着剤でくっつけて何事もなかったかのように細工をしてしまおう。見つかる前に、すぐにゴミとして出してしまおう。そうだ、いいことを思いついた。弁償すればこの不始末は帳消しできるはずだ。気が楽になった。第一、こんなところに無造作に放置していたのが悪い。誰だこんなところに置いていた人は?つまり他人に責任転嫁することを考える。最後には、注意力散漫な自分自身を責めてしまう。人間は大脳の前頭前野が高度に発達しているので、事実を事実のままに素直に認めることができなくなっているのです。このようなさまざまな隠蔽工作をするようになるのです。それが人間の葛藤や苦悩を作り出しているのです。森田理論は、最初の素直な感情、直観、初一念を見逃さないで大切に取り扱いましょうと言っているのです。この場合は、すぐに事の顛末を森田先生に報告する。すると高価の皿だった場合は、「ばかもの」と叱責されるかもしれません。それは嫌な事ですが受け入れるしかありません。あるいは、森田先生と一緒になって「残念なことをした」とお互いに嘆くことになるかもしれません。でも元に戻すことはできません。それよりも、壊れた破片がそのあたりに散乱しているわけですから、とても危険なわけです。新聞を濡らして細かくして床一面にまいて、小さな破片まで取り除くことが大切になります。事実をそのままに認めてしまうと、つぎに問題解決に向かって行動することが可能になります。事実をごまかしていると、それがいつ森田先生にばれるかもしれないという不安でいつまでもビクビクしなければならなくなります。すると目の前の仕事が上の空になって、いつもは難なくできることで思わぬ不覚を取ってしまう。もう一つ例を出して説明しましょう。学校の遠足で二人の男の子が行方不明になった。先生方は手分けをして探し回ったが、見つからないで時間ばかりが過ぎていく。警察に連絡して捜索依頼をお願いしようと考えていた時、二人の男の子が何食わぬ顔で帰ってきた。その時の先生の対応。「どこへ行っていたのよ。勝手な行動をしてはいけないとあれほど注意していたでしょ」と叱り飛ばした。こういうときは、最初の素直な感情を思い出して対応することが大切ですというのが森田でお勧めしていることです。「先生たちはあなたたちがいなくなったのでとても心配していたのよ。でも何事もなく帰って来てくれてうれしい」この方法をとると、子供たちは、素直に事の顛末を話してくれるでしょう。それが教訓となって、今後の他人を配慮した正しい行動につながるのです。「純な心」の体得は一人では無理です。集談会などを利用して身につけましょう。なぜならば、その必要性も感じていないし、その理屈も森田理論で学習しないと知らないままで時間だけが過ぎていきます。私はこの体得のためのシートを作ってみんなで話し合うようにしています。まず出来事を書き出します。例えば夫がこんなまずい料理は食べられないという。最初の素直な感情を書きます。「ええ、ショック。味付け間違えたかな。確かにしょっぱいな」「ごめんね。味付けを変えてみるからビールでも飲んで待ってて」つぎに、「かくあるべし」を含んだいつもの対応について書き出します。「そんな言い方はないでしょ。私だって仕事で疲れているのよ。少しは手伝ったらどうなのよ。皿も出さないで、寝っ転がってテレビを見ていたくせに。そんなにまずいのなら食べなくていい。私一人で食べるから」どんどんエスカレートして口げんかに発展した。最初の素直な感情はきちんと掴まえないと、すぐに忘却彼方へと飛び去っていく運命にあるのです。それをきちんと掴まえて、それを出発点として発言できる人は、それなりの素晴らしい能力を獲得した人ということになります。森田理論学習ではこういう人を数多く世の中に輩出させていこうと考えているわけです。それが事実優先の生活に近づいていくのです。実に簡単なことですが、習慣化することは難しい。一生かかっても身につけることができない人がほとんどです。森田理論を学習しているあなたにはその挑戦権が与えられているのです。
2021.07.20
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それでは、「条件反射制御法」の実際についてみてゆきましょう。たとえば、人を見ればつい悪口を言ってしまうという「癖」を治したければ、「私は今、人の悪口を、言わない、大丈夫」と言いながら、最初に胸に手を当て、つぎに離して拳を作り、その後、親指を拳に握りこむ等の、簡単で特殊な動きをします。これをすることで、「ハマり」行動を意識、その精神活動の一部が作動し、大脳が刺激を受けます。この言葉付きの動作を「制御刺激」と呼びます。初めのうち、「制御刺激」をすると大脳は刺激を受け、「ハマり」の行動に向かって「第一信号系」の反射連鎖が作動します。しかし、「制御刺激」は意識的に行っているので、その「ハマり」行動を成功させません。失敗させるのです。定着していたある行動を司る「反射連鎖」を作動させ、しかし、失敗させることを反復するのです。そうすると、失敗する行動は進化を支えないので、徐々に弱まっていきます。そのうち、「制御刺激」をすると「ハマり」行動が止まる合図となります。つまり「ハマらない」条件付けができます。以後は、「ハマり」行動への「欲求」が生じても、条件付けされた「制御刺激」をすることで「欲求」が数秒で消え去るようになるのです。信じられないかもしれませんが、1日に20回以上、この作業をすれば、ほとんどの人は2週間ほどで、「制御刺激」とその後の「反応」が脳に条件付けられます。1日20回、「制御刺激」を行うわけですが、「制御刺激」と次の「制御刺激」まで、20分以上の間隔をあける、というルールがあります。つぎに注意点について説明します。1、「ハマり」行動をやめたいという希望や誓い、念じるものにはしません。「私は今、飲みに行きたくない、大丈夫」とか、「私は今、確認行為をしないようにしよう」とか、「私は今、キレませんように」はダメです。2、「制御刺激」の言葉は、自分が「ハマり」行動ができない環境にいることの確認、少なくともそれをしていない事実を確認するものにします。たとえば、「私は今、ガスの元栓の確認行為をしない、大丈夫」「私は今、アルコールは飲まない、大丈夫」「私は今、キレない、大丈夫」などです。3、もっともドキッとする「言葉」を探し、キーワードに選びます。「私は今、暴言をはかない、大丈夫」よりも、「私は今、上司であるAさんに暴言をはかない、大丈夫」の方がベターです。4、不安や心配ごとにとらわれている時よりも、比較的ほっとしている時間に「制御刺激」をすることです。ご飯を食べた後やきれいな景色を見ている時、友達から優しい言葉を言われたとき、犬と散歩している時、などです。5、「制御刺激」の言葉には、「私は」「今」「大丈夫」を必ず入れるようにしてください。6、「制限刺激」を行うときは、必ず目を開いて行ってください。第一ステージは以上です。ここでは要点のみを紹介しました。病院で治療として行う場合は、疑似と呼ばれる第二ステージ、想像といわれる第三ステージ、維持といわれる第四ステージがあります。ここでは詳細の説明は割愛します。くわしくお知りになりたい方は、下記の書籍をお読みください。(「やめたいのにやめられない 悪い習慣 をやめる技術」 小早川明子著 平井愼二監修 フォレスト出版)神経症で苦しむような人は、不安にとりつかれて生の欲望の追及は抑圧されるといわれます。しかし、その反動なのかどうかわかりませんが、ギャンブル、アルコール、ネットゲーム、過食、罵詈雑言、風俗などにはまる人も多いように思います、本能的な衝動的な行為に振り回されることがあるという自覚のある人は、その対策をしっかりと立てておかないと、森田以前のところで足もとを掬われてしまうということになりかねません。
2021.10.18
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森田の特殊用語「純な心」の説明と活用方法についての投稿です。「純な心」は、素直な感情、直感、第一に湧きあがった感情と理解しても構わないと思います。森田ではこの感情を大切に取り扱いましょうといっているのです。どうしてこれらの感情を大切に取り扱うのか。それは観念主導で事実を否定することがなくなり、精神的な葛藤や苦しみが消えてなくなるからだと思います。ただし、言うは易く実行は難しいというのが実感です。なぜ身につけることがそんなに難しいのか。それは、何が素直な感情、直感、第一に湧きあがった感情なのかが分かりにくいことです。また、その感情はよほど意識していないと、すぐにかき消されてしまうということです。つまりすぐに「かくあるべし」を含んだ感情に置き換わってしまうのです。このあたりがきちんと理解できると、これからの人生に大いに活かすことが出来ます。たとえ話でご説明しましょう。会社で忙しく働いている管理職の男性です。今日は子供の誕生日です。奥さんからいつもお仕事で遅くなるけど、今日くらいは早く帰って来て子供の誕生日を祝ってあげてねとお願いされました。そうだな、せめて今日くらいは家庭サービスをしようと決めていました。定時で仕事を終わろうとしていたところ、部下が仕事で大きなミスをしてしまいました。当然上司としてその対応に当たらなければなりません。それを放置して帰宅してしまうと上司としての資質が疑われます。その板挟みの中で、感情が高ぶり部下をきびしく叱責してしまいました。このようなことはよく起こります。こんな時こそ「純な心」の活用のしどころです。この事例をもとにして「純な心」整理してみましょう。ここでは怒りの感情が湧き上がりました。この怒りの感情は一次的な感情でしょうか。ここが間違いやすいところです。一次的な感情とは違うと思います。では怒りの感情が湧き上がる前の本当の一次感情は何か。「ええ、嘘だろう。困ったな。どうしたらいいんだ」という気持ちでしょう。解決策が全く思い浮かばない。切羽詰まって追いつめられた感情のことです。この人は、この感情に身を委ねることが大切だったのです。この感情をしっかりと味わい尽くすということです。ところが実際には、この段階を無意識のうちにスキップしてしまったのです。一次感情をスキップすると、「かくあるべし」を含んだ二次感情がすぐに出てきます。二次感情は先入観や決めつけと親和性があります。是非善悪の価値批判をします。そして息をつくまもなく、間違いの多い対応策を選択してしまうのです。二次感情は、このままでは定時で帰ることはできない。妻や子供との家庭サービスの約束が守れない。下手をすると得意先を失うかもしれない。自分の上司から叱責されるようなことになるかもしれない。この原因を作った部下が憎い。腹が立って、勢いのままひどい言葉で罵声を浴びせてしまった。部下との信頼関係は一挙に崩れてしまいます。一呼吸おいて一次感情を大事に取り扱った場合は、その後の展開が全く違ってきます。「ええ、嘘だろう。困ったな。どうしたらいいんだ」という気持ちです。部下を叱りつける前に、部下が仕事で大きなミスをしたというけれどもいったいどんなミスだったの。ミスの内容を詳細に調べるだろうと思います。ミスの内容によっては、上司である自分が動かなければならない場合もあるでしょう。得意先に出向いて謝罪が必要なのか。電話で済むのか。製造部署に緊急対応を依頼することが必要な場合もあるでしょう。あるいは、部下に適切な指示をして事なきを得る場合もあるでしょう。または、他の人や他部署の人に処理を依頼する場合もあるでしょう。場合によっては、明日の対応になるかもしれません。最悪すぐには対応できない場合もあるでしょう。対応策をいろいろと検討して方針を決定することができます。場合によっては妻や子供に謝らないといけなくなるかもしれない。なんとか処理できれば、少し遅れるかもしれないが何とか間に合うかもしれない。少なくとも部下を罵倒することは避けられたはずです。一次感情を大切に取り扱うことが出来る人は、森田理論を学習してその意味がよく分かっている人だと思います。ただし、これを身につけることは容易ではありません。立ちはだかる障壁が大きいからです。これは仲間同士切磋琢磨して身に付けるものだと考えています。
2022.04.20
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登山家の小西浩文氏のお話です。1996年秋、私は標高8848mのエベレストの無酸素登頂に挑みました。パートナーはロブサン・ザンブ―という高地民族の男性でした。標高7500mの斜面を登っていた時、私たちの遥か上、標高8000mの地点で大雪崩が発生したのです。幅200mもある見たこともない巨大な雪崩が、時速数100キロという信じられないほどのスピードで目の前に迫ってきました。私は間一髪で一命を取り留めましたが、ロブサンは大雪崩に巻き込まれて帰らぬ人となりました。しかし今思うと危険を知らせる予兆があったのです。それはロブサンが6500m地点で、私に5300メートル地点にあるベースキャンプに引き返して、仕切り直さないかと提案してきたのです。ロブサンはかすかな予兆を感じていたのだと思いますが、私はそれを拒否しました。そのあげくの大惨事です。私のこの辛い経験を通して言えるのは、すべての事象には必ず何らかの前触れがあるということです。それは多くの場合、微かな兆しのようなもので、気づかずに終わってしまうことが多くあります。しかし、その兆しをキャッチすることは危機管理の上ではとても重要なのです。そして、もちろんそれは登山に限った話ではありません。(1日1話、読めば心が熱くなる365人の生き方の教科書 藤尾秀昭監修 致知出版社 271ページ)これは森田理論にも関係のある話です。感情の法則3に「感情は同一の感覚に慣れるに従って、にぶくなり不感となるものである」とあります。湯船につかるとき、初めは熱いと思ってもしばらく経つと適温と思うようになります。湯船から出るころには少しぬるいと感じることもあります。これは感情の法則3を生活の中で応用する方法を教えてくれています。すばらしいひらめきや思いつきも、何もしないでそのまま放置していると、時間の経過とともに忘却の彼方に飛び去って消えてなくなります。そうなると、感情の法則3は宝の持ち腐れとなります。細かいことに気づかない人と何ら変わらないということになります。神経質者は高性能レーダーを標準装備しているようなものです。それを有効に活用するためには、最初の小さな気づきを見逃さないようにすることが肝心です。面倒くさいと思ってもメモしておくことです。走り書きでも構いません。ヒントがあればすぐに思い出します。神経質性格のプラス面をとことん活かすことが我々の取り組むべきことだと考えます。
2025.04.12
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「純な心」とは、理屈や理性、常識や「かくあるべし」から出発するのではなく、自分の素直な気持ちや感情から出発して行動したり、発言する事だと思います。分かりやすく言うと、物に接して最初に浮かんだ感情、直感、初一念などを重視して生活することです。この「純な心」の大切はみんな知っている。しかしこれを生活に応用することは難しい。それは「純な心」は一瞬で消えてしまうからである。湧き起ったことすら分からないほど早く通り過ぎてしまう。そういう自覚を持って初一念と初二念の見極めをしないといけないのではないでしょうか。たとえば中学生ぐらいの女の子が夜の10時ごろに帰宅したとします。親として瞬間的に湧いてくる感情は、「大丈夫だろうか、なにかあったのだろうか」と心配になります。ところが娘が帰ってきて出る言葉は、「今何時だと思っているんだ、遅くなるときは家に連絡しろ。家族に心配かけるのもいい加減にしろ。」などです。理由も聞かず親の不快感を一挙に娘にぶっつけてしまいます。こんな場合最初の瞬間的に湧き起こった感情を思い出して対応することが大切です。あとからでてきた感情は「かくあるべし」ですから無視することです。これを前面に出して叱責、強制、指示、命令することは将来大きな禍根を残すことになります。次に初二念を無意識に、初一念と間違って理解していることがあります。例えば交差点で相手が目の前で急に右折してきたとします。直進者が優先なのにという気持ちがあるので、相手の行動に腹が立ちます。この時腹が立ったというのは、初一念だと思っています。はたしてそうでしょうか。この時最初に感じたことは「危ない。ぶつかってしまう」でした。間一髪間に合って、「ああ事故にならなくてよかった」でした。でも腹が立った感情が強すぎて、初一念は跡かたもなくなっています。この腹が立ったことだけを初一念だと思って、怒りを相手にぶちまけたとしたら、大喧嘩になったでしょう。反対に相手に血の気が引くようなぞっとした気持ちを思い出して、びっくりした気持ちを相手に伝えたとしたら大喧嘩に発展することは少なくなるかもしれません。「純な心」を生活に定着させるためには、「私メッセージ」から出発することが有効です。「あなたメッセージ」から出発すると、人間関係はうまくいきません。自己弁護や言い訳、他者非難、指示、命令、叱責などの言動が多くなるからです。「あなたメッセージ」には「かくあるべし」が入っているのだと思います。例えば学校で生徒が脚立に立って展示物をとりつけている時に、足を踏み外して転落しそうになった。その時の先生の発言。「あなたメッセージ」では、先生が生徒に向かって「不注意にも程がある。すぐに降りろ」と叱った。「私メッセージ」では、「先生は君が転落するかと思ってとても恐ろしかった。」などの発言になります。「私メッセージ」は森田で言う「純な心」からの対応です。森田では、最初に感じた感情(「純な心」)から出発して、次に理知で調整して行動することを勧めています。このことも大切なことです。そうしないと欲望の暴走が起きて、欲望が欲望を生み続けることになります。欲望が独り歩きして、他人の都合や環境破壊等にお構いなしに突っ走ることになります。自己中心的な行動は車のブレーキを活用するように制御されてこそ自他ともに活かすことになります。ですから「純な心」の学習は、その前提として、精神拮抗作用を学んでまずは調和を図ることが大事だと思います。
2015.03.24
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次のようなマイナス感情で苦しんでいることはありませんか。①過去の失敗や不祥事を思い出しては後悔し罪悪感で苦しんでいる。②将来のことを考えては悲観的になり、積極的に挑戦することを躊躇してしまう。③他人との人間関係で絶えず対立が生まれて苦悩している。④自分の境遇や運命を恵まれた人と比較して卑下している。⑤自分の性格、容姿、能力、行動力について自己嫌悪、自己否定している。このような考えがふと浮かんでくるときのことを考えてみると、注意や意識が「今、ここ」にないことがわかります。意識がうわの空となって、過去や未来、他人や自分の境遇への不平不満、自己嫌悪・自己否定に向かっている状態です。心が「今、ここ」から離れて空中をさ迷っているような状態です。①から⑤の葛藤や苦しみから逃れる方法について考えてみました。まず、意識がうわの空になっている自分に気づくことが肝心です。その次に、「注意や意識」を「今、ここ」に振り向けていくというのはいかがでしょうか。どうすればそんなことができるのか。2つあると思います。①昼間活動している時・・・この時は目の前のことにきちんと注意を向けます。そのときに、何か気づいたことはないか、発見したことはないか、問題点や課題、改良点や改善点、興味や関心が持てたことはないかなどに注意を払います。そういう意識を持っていると、注意や意識がより「今、ここ」に向かいやすくなります。②夜寝ていて目覚めた時・・・この時心は内省的になっていますので、次々とネガティブな思考や感情が湧いてきます。この時はマインドフルネスのエクササイズを行う。マインドフルネスというのは注意や意識を「今、ここ」に集中するエクササイズです。そんなことは面倒だという人に役に立つ本があります。精神科医の藤井英雄先生の「1日10秒マインドフルネス」(大和書房)という本です。この本には12個のマインドフルネスが紹介されています。気に入った人はいくつかを習慣化するとよいでしょう。
2025.06.16
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タモリは2008年赤塚不二夫の葬儀の時に弔辞読みあげた。その中に「あなたはすべての出来事と存在を、あるがままに前向きに肯定し、肯定的に受け入れる人だった。」と言っていました。それを端的に表した言葉が「これでいいのだ」です。赤塚不二夫は新潟県の生まれ。小さい時から絵が得意で、中学を出ると映画の看板を書く仕事に就いた。その後漫画家として成功した。やりたい仕事を持っていた。酒が好きであった。自宅へ人を呼んでは夜遅くまで宴会を繰り返していた。そのため肝臓を壊して入退院を繰り返していた。また人を集めてはバカ騒ぎが好きであった。ギャグも好き。とにかく面白いことはなんでもやってみる。破天荒であったのです。女性も好き。自分を性の探究者だなどと言っている。赤塚さんは2度結婚している。一度目の奥さんには家や土地の財産をすべてわたして、娘の養育費も了承したという。その奥さんは再婚しても、赤塚家にやって来ては茶飲み話や相談ごとに付き合ってくれるという。人の悪口を言わない。これ以上のお人よしはないぐらいな人である。とにかく世話好きで困った人をみると放っておけない。家出人や浮浪者まで面倒をみている。また赤塚さんの自宅をホテルがわりに使用して、中にはジャージなども置いて自由に食ったり飲んだりしている人が何人もいる。タモリ、所ジョウジ、鳳啓介師匠、青島幸夫、由利徹、たこ八郎、稲川淳二などの知り合いがいる。金や物には全く執着しない。それらはみんなが楽しく使うためのものとして考えていたようだ。赤塚さんは、自分のやりたいことをやりたいように存分にやってきた人だ。そのために身体を壊し、人にだまされることもあったが、生の欲望の発揮から見ると、とてもうらやましい生活をした人だと思う。
2013.07.17
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私は生きていく上で大切なことが2つあると思っている。一つは自分にとって自分が最大の理解者であること。味方になってあげること。どんなに劣等感があっても、どんなに弱みを持っていても、ミスや失敗をしても常にバックアップ体制をとってあげること。決して後ろから石を投げつけたりしない。最前線で戦っている自分に対して、できるだけしっかりと援護射撃ができること。そんなことは当たり前だという人もいるかもしれない。私の場合は、自分という一人の人間の中に二人の自分がいた。片方の自分が、現実でのたうちまわっている別の自分を、常に厳しく監視していて、是非善悪の判定をおこなっていたのである。こんな不幸なことはない。この世の地獄である。人からはどんなに批判的に見られてもいい。でも自分だけはどんなに厳しい状況になっても総力を挙げて自分の味方になってみよう。いたわり励まして、支えていこうと決めたのです。もう一つは、私は対人恐怖症になって仕事で躓いた。どうしても人間関係をうまく築くことができないで苦しんできた。でも今考えれば、これは神様が自分に対して与えた課題、宿題だったのではないかと思う。神様はそうした問題を自分に与えて、どのように対応するのだろうかじっと見ておられるのではなかろうか。これは人間に生まれてきたからには誰にでも与えられていると思う。例外はありえない。私の場合、人生の大半は苦しみの連続であったが、やっと森田理論に出会い解決の糸口を見つけ出した。まだまだ完全に解決したとは思えない。さらに修養を積んでいく必要がある。でも未来には明るい光が見えてきた感じがする。森田でやっと、神様が自分に課した課題や宿題を解決する道筋が見えてきたのです。これが私にとっての生きる意味だったのではなかったのかと思えるのです。このことに気がついたというのがうれしいのです。
2013.09.02
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私は30年以上森田理論学習を続けてきて、自分の生きづらさの問題点に気がついた。それは大きく分けると4つあった。1 、対人恐怖症のために予期不安があると、人前から逃げるという習性があった。2、対人関係では、勝ち負けにこだわり、いつも相手と張りやってきた。負けず嫌いが他人に向けられていたのである。3 、自分の感情、気持、意志を押さえつけていた。いつも他人の言動に振り回されてきた。4 、 「かくあるべし」が強く、今あるものや自分や他人を否定しながら生きてきた。これらは森田理論学習のおかげで少しずつ改善できてきた。今では生きていてよかった。神経症は辛いものであったが、神経症になったからこそ今がある。神経症になってよかった。神経質性格に生まれてきてよかったと心の底から思えるようになった。1番であるが、「欲望と不安」の単元が役に立った。不安には大きな役割があることがわかった。さらに不安だけを問題視するのではなく、生の欲望と不安のバランスをとる生き方が大切なのだということがわかった。その方向で努力し、日常生活が充実し、 一人一芸の習得で毎日が充実している。2番目であるが、これはなかなかしぶとい。修正は不可能なのではないかと思う時もある。他人が自分のことを非難したりするとすぐに戦闘モードになる。相手の意見を価値判断なしによく聞く。それに対して自分の意見を述べる。双方にある意見の違いをはっきりさせる。そしてその溝が少しでも埋められればよしとする。勝ち負けにこだわるよりも、不全感は残っても、人間関係をぶち壊さないことが肝心だと思っている。3番目であるが、他人の言動に振り回されるばかりだと、自分の生きる楽しみはなくなる。つらくなるばかりだ。他人の言動に右往左往するのではなく、まず自分の感情、気持、意志を見つめることが大切だと思った。自分はどのように感じているのか、自分はどのような気持ちになっているのか、自分はどのように考えているのか、自分はどのようにしたいのかを前面に押し出して生きていくように方向転換をした。そこで役に立ったのは、 自分の素直な感情を、小さいうちにどんどん外に吐き出していくことだった。自分の感情、気持ち、意志、五感、身体感覚を外に向かって吐き出すことに力を入れてきた。どんなことがあっても、自分の心と体は自分自身が守らなければならない。自分は自分の最大の味方である。自分を粗末に扱うことだけはなんとしても避けたい。4番目であるが、 「かくあるべし」を少なくする生き方が重要であることがよくわかった。「かくあるべし」の反対は、現実、現状、事実を素直に受け入れて、そこを出発点にして目線を一歩上に上げて生きていくことである。今まで生きてきた中で頑固な「かくあるべし」が身に付いているので、とても難しい挑戦であった。しかし森田理論学習のおかげで、生活態度はその方向に向かっている。ここでは、事実には4つの事実がある。その事実を正確に把握する。事実は両面観で多面的に見る。事実を見ないで、是非善悪の価値判断をしない。事実は具体的に赤裸々に取り扱う。「純な心」を体得する。私メッセージを使って発信する。
2019.01.21
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森田でいう「純な心」は、混じりけのない、純粋な心のことではありません。素直な心、第一に感じた感情、初一念のことです。出来事に直面して、最初にハッとした感情のことを言います。中学生の娘がいて、帰宅が遅いと、誰でも何か事件に巻き込まれたのではないか心配になります。何とか無事に帰ってほしい。これは当然純な心です。ところが、同時に別の感情も沸き起こってきます。家に連絡もなしに勝手に遊びまわっている娘に対してやり場のない怒りも湧き上がってきます。家に帰ってきたら、そのイライラ感を何とか払しょくさせないと気が済まない。そんな感情です。深夜娘が帰宅したとき、心配する気持ちはいつの間にか忘却の彼方へと飛び去っています。この感情をしっかりと捕まえておいて、娘に伝えることはできていますか。「お父さんとお母さんは、あなたが帰ってこないので、心配でしかたなかったのよ。でも何事もなくて、帰ってきてくれて安心した」これが言える人は、「純な心」の意味がよく分かっている人です。こうすれば、娘と親の信頼感はどんどん深まっていくことになります。子供は親を信頼し、大人になっても親を大切にするようになります。そうでない人は、親子とは名ばかりで、没交渉となります。ところがこの将来に展望が開けるこの素晴らしい感情を無視する傾向が強いのです。そして、自分たちに心配をかけた娘に対して、有無を言わせずに、怒りをぶちまけてしまうのです。娘の言い分を聞けばまだ救われます。いきなりの叱責では、娘もやりきれません。一旦壊れた親子の関係は、修復することが困難になります。そういうことが何回か重なれば、親子の断絶となります。親子の人間関係、特に父親と子供の人間関係がぎくしゃくしてしまうのはここに原因があります。これは「純な心」の活用方法が間違っているのです。どんな極悪犯人にもそうせざるを得なかった理由があると言います。盗人にも3分の理があるというものです。これを活用して、マイナス感情を吐き出す前に、相手の言い分を聞いてみることを心掛けたいものです。これは、怒りの感情をいきなり爆発させないで、間をとるということです。間をとれる人は、人間関係が破滅しない。感情の法則にあるように、どんな感情も口に出せば一山駆けのぼります。怒りの感情が刺激を受けて、ますます増悪するのです。自分には抑制することのできない暴れ馬となって疾走するのです。間を置くと、怒りの感情は多少抑えられます。その時に、もう一つの「純な心」を思い出すようにするのです。「そうだ、娘のことが心配で仕方なかったのだ」この感情に気づくようになった時、親子の関係、夫婦の関係、友人や職場の人間関係は大きく改善できるでしょう。これを会得するには、森田理論による努力が必要です。
2020.10.19
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対人関係の悩みはつきません。良好な人間関係作りに失敗すると、仲間、会社、社会から排除される可能性があります。他人から邪魔者扱いされたまま、独りで生きていくことはできません。そのようなことにならないように、自分の素直な気持ちを押さえて、できるだけ相手に合わせて生活している人が多いのではないでしょうか。そのように心掛ければ、確かに衝突することは少なくなります。しかしその弊害は大きいものがあります。自分の素直な欲求、欲望、意思、思考、感情、気持ちを抑圧して、相手のことを優先的に考えているわけですからストレスがたまります。本音、潜在意識、無意識を無視ないし軽視して、建前、顕在意識、意識を優先するという事は、観念の世界で考えた「かくあるべし」を自分に押し付けていることではないでしょうか。神経質者は他人から「かくあるべし」を押し付けられると反発しますが、自分自身に対してあるいは他人に対して絶えず「かくあるべし」を押し付けています。相手のことを第一優先順位として考えるのではなく、自分のことを第一優先順位として考えないと葛藤や苦悩は収まらないと思います。他人の事を忖度する前に、自分のやりたいこと、やりたくないことを常に優先して考えていくということです。たとえば、仕事が体力的にも、精神的にきついので辞めて転職したいと思ったとします。その気持ちを無視していると毎日が辛いばかりだと思います。心身ともにストレスだらけとなります。ただし先の事を考えないで、退職してしまうと生活に困ることになります。ストレスを減らして、生活にも困らないようにする方法を考える必要があります。この場合仕事を辞めて生活することが可能かどうかが問題になります。配偶者が安定した仕事についている場合はなんとかなるかもしれません。蓄えが十分ある、両親と一緒に住んでいる場合も融通が効くかもしれません。やりたい仕事の目途が立っている場合も何とかなるかもしれません。自分の素直な気持ちにしたがって退職したが、その後の生活の目途が立たないというのは考えものです。将来大きな問題を抱え込まない範囲で、できるだけ自分の欲求、希望、意思、思考、感情、気持ちを大事にして生活してゆきましょうということです。この場合、注意や意識が仕事ばかりに向いていると辛いばかりだと思います。仕事はそこそこ適当に最低限の仕事をこなすというのは如何でしょうか。昇進は望まない。ライバルと張り合わない。ノルマぎりぎりの仕事をする。できるだけ残業はパスする。会社では最低限の人付き合いに留める。つまり自分の自由時間をたくさん作り、その時間を充実させる。家族との生活を楽しむ。子どもとの時間をたくさん作る。趣味を生かした生活をする。趣味を活かした人間関係を大事にする。親戚、同級生、OB会、親しい友人との人間関係を大事にする。資格試験に挑戦する。ボランティア活動に取り組む。公民館活動に取り組む。ペットとの生活を楽しむ。等々。頭の中が仕事と仕事上の対人関係で満杯というのは、バランスが崩れていると思います。ストレスで身も心もボロボロになることは避ける必要があります。自分のやりたいことや好きなことを別に持っていることが、仕事にもよい影響を与えると思います。
2025.06.17
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「治らずして治る」という言葉は、なんともすっきりしない言葉である。禅問答のような言葉である。第三者から見ると、神経症が「治っている」ように見えるのだが、本人にしてみればすっきりとしない。まだ治ったとは思えないという状態のことだろうか。手足の骨が折れたとき、ギブスを取り付けてじっとしていると骨がくっついて、元のように動かせるようになることを想定しているのであろうか。そもそも神経症というものは、不安や症状を取り除きたいと思っているうちに、気がつくといつの間にかアリ地獄に落ちていたというようなものです。観念上の悪循環、行動上の悪循環で仕事や日常生活に支障が出てきます。自分で意識しないうちに徐々に進行していくので厄介です。神経症が治るというのは、アリ地獄の底から地上に這い出ることを言います。これは口で言うは易く、実行困難です。自分一人でなんとかなることはありません。仲間の助けが必要になります。時には精神科医、臨床心理士の力が必要になります。運よく地上に這い出すことができたらどうなるか。不安や症状にとらわれやすいという神経質性格が、急に外向的性格に変わり、不安や症状に振り回されなくなるということではありません。不安や症状にとらわれながらも、目の前のなすべきことを何とかこなせるようになってきたということです。この状態は不安にとらわれながらも、「本当に苦しいよね。つらいよね。でも仕事や生活を放置していくわけにはいかないから、それらはいったん棚上げにして最低限必要なことだけをやっていこう」という段階に変化してきたということです。この状態は、第三者から見ると、「そんなのあたりまえのこと、普通の人はみんなそうしているじゃない」ということになります。ことさら、症状が治ったとか、治らないとか議論しているのはおかしいということになります。神経症の場合は、葛藤や苦悩が大きいので、どん底にいた時の苦しみを10とすると、いまはどれくらい軽減されたと考えます。行動力が回復してくると、葛藤や苦悩が軽減してきます。苦しみが9、8、7・・・と減少してきます。その減少した部分が実は治ったということなのですが、素直には納得できない。それは不安や神経症に振り回されないで、完治することをイメージしているからです。心配性という神経質性格は一生ものですから、そんなことはあり得ないことなのですが、目標が高すぎていつまでも苦しんでいるということになります。第三者から、「これ以上治さなくてもいいんじゃない」と助言されても、そんなことは受け入れられないのです。「万が一再発したどうなるの。責任を取ってくれるの」という気持ちなのです。「治らずして治る」というのは、完全に治らなくても、仕事や日常生活が何とか回るようになった時点で神経症の克服宣言をしましょうと言っているのです。そして、ここからが大事なことですが、神経質性格には、他の性格者には見られない類まれな優れたプラスの特徴があります。プラスの側面を大いに評価して、神経質性格として人生90年時代を乗り切る人生観を確立していくことに邁進していくことがより大事になります。そのためには森田理論学習を継続することです。これを一人でやっていてもあまり顕著な効果は望めません。幸い森田には自助組織生活の発見会があります。地方には集談会があります。それだけでは物足りない方には、現在はネットを通じで様々な学習会や交流会が開催されています。これを活用すれば全国の仲間と家に居ながらつながります。ちなみに私は地元集談会の他、4つのZOOMの学習会に参加しています。井の中の蛙が、大海に飛び出たようなものです。全国の人と交流ができて嬉しいかぎりです。
2025.10.11
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新渡戸稲造は「武士道」で日本人の心のありようを紹介している。武士道の精神を取り戻さないと人類は破滅に向かうという人がいます。どういうことでしょうか。今日はこの問題を取り上げてみました。江戸時代の「士農工商」という身分制度の下では、武士は支配者の立場にありました。支配者は権力を持ち、他人を自由自在にコントロールできるようになります。支配者が自分たちの物欲や欲望を満たすために、自分たち以外の人々をないがしろにするようになると、搾取される被支配者は苦しくなるばかりです。極限に達すると被支配者が支配者を攻撃するようになります。人類は人間同士が争い、戦争をくり返してきました。にもかかわらず、大国や大国の為政者は自分たちや自国の利益の最大化を求めて他国に戦争を仕掛けるようなことばかりを繰り返しています。いまや多くの国が核を持っていますので、攻撃を受けた国が突然苦し紛れに核の使用に踏み切ることは十分に考えられます。為政者たちの欲望の暴走が始まると、制御機能が麻痺して、その結果人類の将来は悲惨なことになることは容易に想像できます。その解決のヒントは日本人が培ってきた「武士道」の思想の中にあります。武士道の中に「活人剣」と「殺人刀」という言葉があります。「活人剣」とは、悪を制し、人びとを守り、より良い社会を作るために振るわれる刀のことです。「殺人刀」とは、自分の欲望や支配欲のために、他人を傷つけ、屈服させるための刀のことです。武士道の精神には、欲望の暴走は何としても抑制する必要がある。為政者は欲望の制御力を持ち合わせる必要がある。武士道の「仁」というのは、相手のことを思いやるという意味があるそうです。「仁」の気持ちを持っていない人が、為政者になることはきわめて危ない。「殺人刀」は人類の将来にとっては危険極まりないものだという考えです。この考え方は森田理論の中の「精神拮抗作用」という考え方に近い。人間には欲望が起きれば、その行き過ぎに制御をかける機能が備わっているというものです。しかし欲望に弾みがついてしまうと、制御機能は働かなくなります。ブレーキが壊れた車に乗って、坂道をアクセル全開で疾走しているようなものです。現在の為政者の多くの人が壊れたブレーキの車に乗ってかじ取りを行っているように見えるのですが如何でしょうか。森田理論には「物の性をつくす」という考えもあります。所有物、物、自然、己、他人、時間、お金など、それぞれが持っている潜在能力以上のものを引き出して、世のため、人の為に大いに活用し合えることをめざします。それぞれに居場所が与えられて、生きがいを持って生活できるようになります。そういう世の中を作りましょうというのが「武士道の精神」なのです。欲望が暴走し、タガが外れた現在の為政者に、武士道の精神でリーダーシップを発揮してくださいと言っても無理な話です。そういうことが分かっている人が、草の根運動で拡散していくしかないように思います。
2026.03.06
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