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深耕は篤農の代名詞、一寸でも深く鍬を入れる努力の積み重ねが土を作る。現代は機械で耕す。馬力の大きな機械を使えば、たやすく深耕できる。しかし重たい機械による踏圧の加重と深耕はいたちごっこ。このいたちごっこは抜けられるのか?雑誌「現代農業」06年10月号は「耕し方で畑が硬くなる」という特集記事を掲載。その一部「重たい機械の下の硬い土プラウなしでも根は張るか?」で北海道の事例を紹介して、プラウ耕をやめた畑とした畑の小麦とアズキの根の張り方の写真を比較している。写真を見れば一目瞭然、やせ薬の使用前・使用後の比較写真のようなもので、プラウ耕をやめた畑の根の張り方の方がプラウ耕をした畑よりも断然優れている。本当だろうか?記事にはこう書いてある。「北海道大学の相馬尅之先生によるとプラウ耕をすると土壌の間隙が極端にすくなくなるという。一度ロータリで軟らかくした土は、機械の踏圧で締まり、その土をプラウで練り返すように下層に入れると、下層の間隙は激減、間隙がなければ水は通らず、当然根も伸びることができない。だからプラウ耕はしないほうがいいという」67.p同じ趣旨の記事は、06年の1月号、8月号でも取り上げている。「プラウ耕をやると土壌の間隙が極端に少なくなる」という指摘は、意表をつく鋭い観察だ。一般にプラウ耕の跡は、硬く締まった土が掘り返され、下層にまで空気が入り、土は全体に盛り上がり、土壌の間隙は明らかに増えたように見える。確かに大きな間隙は増えるかも知れないが、これは一時的なことで、この後ロータリやハローをかけて砕土をした場合、土壌の微細の小間隙の総量は増えるのか減るのか?土壌水や植物の根にとって意味のある間隙は、プラウ耕で天地返しされたときに出来る大間隙ではなく、微細な小間隙である。上記の指摘は、機械の踏圧で固められ小間隙のなくなった表土を、繰り返しプラウ耕で下層の土と入れ替えていくのだから畑全体の間隙は極端に少なくなるという趣旨だろう。僕自身、かねてからプラウ耕が有効かどうかは時と場合によると考えている。秋起こしのプラウ耕は翌春まで放置し、霜に当てて土塊を崩すので有効だが、9月にジャガイモの跡地にプラウをかけると、機械の踏圧と乾燥が重なったような場合、がちがちの土塊が表に出てしまって、箸にも棒にもかからない。また小麦の刈り跡にソバを播いているが、プラウ耕で鋤込んだ後にソバを播種すると、ソバの生育が極端に悪い。小麦の残カンの分解に伴う窒素飢餓現象なのか、分解時のガスによる根腐れなのか、両者の複合的な結果なのか判然としないが現在はプラウ耕をやめて、パワーディスクで浅く処理した後にハローで整地してソバを播いている。今年はジャガイモの跡地も、一部の畑はプラウ耕をやめて直接ハローで整地してから小麦やナタネを播いてみた。一方、雑草対策という点ではプラウ耕をやるとやらないでは、最初から比較にならない。では、雑草対策も含めて総合的に土作りという観点からプラウ耕はやめたほうが良いのかどうなのか?雑誌「現代農業」の記事は、まるでプラウ耕をやめたほうが作物の根張りが良くなるかの一面的な書きぶりだ。「良い」となると、そればっかりを奨める「ばっかり記事」が時に目につくけれど、確かに分かり易くてよいけれど、時と場合を忘れれば手痛いしっぺ返しを受ける。「有機農法」(ロデイル、人間選書55、農文協、1987刊)の初版は1945年に出版された。この本の意義について訳者(一楽照雄)は「訳者あとがき」でこう書いている。「すでに四半世紀以上を経た古い著書であり、アメリカ人がアメリカの農民によびかけたものであるから、ふつうなら今日の日本ではほとんど役立たないはずであるが、この本はけっしてそうではない」「一昨年(1971年)秋、われわれが、わが国現代の農法を反省し、あるべき農法を探求するため相互研鑽の組織として有機農業研究会を発足させるとともに、その活動計画のなかに、本書を邦訳して出版することの促進をふくめたのであった」この本の第五部「よい農法とわるい農法」の第二章で「プラウで耕起することの可否」という問題を扱っている。これを見ると、プラウ耕の可否という問題は古くて新しい問題のようだ。次のような書き出しで始まっている。「オクラホマ大学新聞が最近出版したE・H・フォルクナーの『耕人の愚』という書物は、農民がモルドボード・プラウを使用することを激しく攻撃している。この書は出版会にセンセーショナルな反響を引きこし、新聞や雑誌の論調の多くは好意的であった。”悪辣なプラウを打倒せよ-現代農業の呪いを”というのである」これに対して、ロデイルはこう書いている。「『耕人の愚』はプラウのかわりにディスクやハローを推奨しているが、私はその理論と実際は無分別なものであると考える。有機農法に関心を持つ多くの人々は、彼の理論を受け入れるのに熱心であるかに見えるのであるが、これは多分、プラウが増産本位の人工的な現代の商業的農業と結合しているとの潜在意識によってであろう。しかし、つぎのことはしっかりと心にとめておくべきであろう。すなわち、この有益な器械は、ある特定の場合には災難を引き起こすかもしれないが、その他のばあい、とくに肥料として堆肥が使われているところでは、安全かつ能率的な器具である」乾燥地農業のような特定の地域では、プラウ耕が危険な場合がある。しかし普通の、平均的な地域ではそんなことはない。フォルクナーの説を確かめるために実施に試してみた。すなわち「六エーカーの土地に冬小麦を植えたが、その二分の一はプラウで起こし、他の半分はディスクとハローだけを使った。プラウを使用しない区域は土壌中に雑草をすき込むために、よけいなディスクの使用によって、余分な労力を必要としたのである。結果は、プラウを使用しないところでは全くダメで、雑草が多く茂ってしまった。プラウで耕したところは、新しい雑草の種が下にやられ、上まで伸びてきたときには、小麦がすでに伸びているのであった。プラウを使わないところでは、雑草が作物よりも早く出てきて、その結果は他の三エーカーの区と比べて、非常に貧弱な株立ちであった」「われわれはこのプラウ無用論を1943年に野菜園で試みたが、雑草に関する限りでは、結果は惨憺たるものだった。雑草は極端に多く発生して、作物を見分けることがほとんどできないほどであった。この雑草を除草するのに投じた労力によって、作物は経済的に引き合わなかった」土壌の間隙に関しては、次のようなことを書いている。「土壌の理想的な状態は、ゆるくて通気がよく膨軟な状態である。わたしはプラウを使っているところをあとからつけていって、土壌が引き上げられ、それから落ちるのを何度も見たことがある。もしもこのことが土壌をゆるくし、空気の流通をよくするのでなかったら、何がそれをするのか考えられないわけである。プラウをいれることをしないで、二三回分余分にディスクを入れるならば、トラクターを入れるのよりも重い圧力を土地に加えることになるだろう」毛管現象に関して、次のように書いている。「フォルクナー氏のおもな論点のひとつは、地表の青物類がすき込まれると、土壌水分の毛管現象が破壊されるということである。すなわち、このような有機物は多くの水分を下部からも上部からも吸収するので、防壁のような作用をして、水が毛管現象で下部から表面に達するのを妨げるというのである」「たとえ毛管現象がフォルクナー氏の主張するような要因であるとしても、有機農法で取り扱われる農場の土壌には、いちじるしい利点がある。このような土壌の生物学的生命が活動をはじめる。有益な土の微生物はプラウが使われた直後に、正常な状態に復興するため、働きはじめるだろう。有機質が多いところには、細菌、菌類および藻類が非常に多く存在していて、すき込まれた青物類を分解するだろう。ここではミミズがまた重要な役割をはたす。彼らはふんを地表に排泄するために、青物類を突き抜けて、地表に達する穴を一エーカーにつき何千もあける。これらの穴は下部から水を引き上げ、雨水を上から地中に滲み込ませる。土壌に際立った生物学的生命があれば、精巧な弾力性や軟らかさと、不都合な環境下にも物事を進行させる能力があることが分るであろう」最後に心土耕起に関して、サブソイラーとプラウの効果について、次のような引用をしている。「農耕の中から得た知識で、私は次の二つのことが分った。すなわちプラウがなくては農耕はできないということと、プラウの価値はそれを使う前にあらかじめサブソイラーで耕起することによってのみ得られるということである」
2010/12/23
深耕は篤農の代名詞、一寸でも深く鍬を入れる努力の積み重ねが土を作る。現代は機械で耕す。馬力の大きな機械を使えば、たやすく深耕できる。しかし重たい機械による踏圧の加重と深耕はいたちごっこ。このいたちごっこは抜けられるのか?雑誌「現代農業」06年10月号は「耕し方で畑が硬くなる」という特集記事を掲載。その一部「重たい機械の下の硬い土プラウなしでも根は張るか?」で北海道の事例を紹介して、プラウ耕をやめた畑とした畑の小麦とアズキの根の張り方の写真を比較している。写真を見れば一目瞭然、やせ薬の使用前・使用後の比較写真のようなもので、プラウ耕をやめた畑の根の張り方の方がプラウ耕をした畑よりも断然優れている。本当だろうか?記事にはこう書いてある。「北海道大学の相馬尅之先生によるとプラウ耕をすると土壌の間隙が極端にすくなくなるという。一度ロータリで軟らかくした土は、機械の踏圧で締まり、その土をプラウで練り返すように下層に入れると、下層の間隙は激減、間隙がなければ水は通らず、当然根も伸びることができない。だからプラウ耕はしないほうがいいという」67.p同じ趣旨の記事は、06年の1月号、8月号でも取り上げている。「プラウ耕をやると土壌の間隙が極端に少なくなる」という指摘は、意表をつく鋭い観察だ。一般にプラウ耕の跡は、硬く締まった土が掘り返され、下層にまで空気が入り、土は全体に盛り上がり、土壌の間隙は明らかに増えたように見える。確かに大きな間隙は増えるかも知れないが、これは一時的なことで、この後ロータリやハローをかけて砕土をした場合、土壌の微細の小間隙の総量は増えるのか減るのか?土壌水や植物の根にとって意味のある間隙は、プラウ耕で天地返しされたときに出来る大間隙ではなく、微細な小間隙である。上記の指摘は、機械の踏圧で固められ小間隙のなくなった表土を、繰り返しプラウ耕で下層の土と入れ替えていくのだから畑全体の間隙は極端に少なくなるという趣旨だろう。僕自身、かねてからプラウ耕が有効かどうかは時と場合によると考えている。秋起こしのプラウ耕は翌春まで放置し、霜に当てて土塊を崩すので有効だが、9月にジャガイモの跡地にプラウをかけると、機械の踏圧と乾燥が重なったような場合、がちがちの土塊が表に出てしまって、箸にも棒にもかからない。また小麦の刈り跡にソバを播いているが、プラウ耕で鋤込んだ後にソバを播種すると、ソバの生育が極端に悪い。小麦の残カンの分解に伴う窒素飢餓現象なのか、分解時のガスによる根腐れなのか、両者の複合的な結果なのか判然としないが現在はプラウ耕をやめて、パワーディスクで浅く処理した後にハローで整地してソバを播いている。今年はジャガイモの跡地も、一部の畑はプラウ耕をやめて直接ハローで整地してから小麦やナタネを播いてみた。一方、雑草対策という点ではプラウ耕をやるとやらないでは、最初から比較にならない。では、雑草対策も含めて総合的に土作りという観点からプラウ耕はやめたほうが良いのかどうなのか?雑誌「現代農業」の記事は、まるでプラウ耕をやめたほうが作物の根張りが良くなるかの一面的な書きぶりだ。「良い」となると、そればっかりを奨める「ばっかり記事」が時に目につくけれど、確かに分かり易くてよいけれど、時と場合を忘れれば手痛いしっぺ返しを受ける。「有機農法」(ロデイル、人間選書55、農文協、1987刊)の初版は1945年に出版された。この本の意義について訳者(一楽照雄)は「訳者あとがき」でこう書いている。「すでに四半世紀以上を経た古い著書であり、アメリカ人がアメリカの農民によびかけたものであるから、ふつうなら今日の日本ではほとんど役立たないはずであるが、この本はけっしてそうではない」「一昨年(1971年)秋、われわれが、わが国現代の農法を反省し、あるべき農法を探求するため相互研鑽の組織として有機農業研究会を発足させるとともに、その活動計画のなかに、本書を邦訳して出版することの促進をふくめたのであった」この本の第五部「よい農法とわるい農法」の第二章で「プラウで耕起することの可否」という問題を扱っている。これを見ると、プラウ耕の可否という問題は古くて新しい問題のようだ。次のような書き出しで始まっている。「オクラホマ大学新聞が最近出版したE・H・フォルクナーの『耕人の愚』という書物は、農民がモルドボード・プラウを使用することを激しく攻撃している。この書は出版会にセンセーショナルな反響を引きこし、新聞や雑誌の論調の多くは好意的であった。”悪辣なプラウを打倒せよ-現代農業の呪いを”というのである」これに対して、ロデイルはこう書いている。「『耕人の愚』はプラウのかわりにディスクやハローを推奨しているが、私はその理論と実際は無分別なものであると考える。有機農法に関心を持つ多くの人々は、彼の理論を受け入れるのに熱心であるかに見えるのであるが、これは多分、プラウが増産本位の人工的な現代の商業的農業と結合しているとの潜在意識によってであろう。しかし、つぎのことはしっかりと心にとめておくべきであろう。すなわち、この有益な器械は、ある特定の場合には災難を引き起こすかもしれないが、その他のばあい、とくに肥料として堆肥が使われているところでは、安全かつ能率的な器具である」乾燥地農業のような特定の地域では、プラウ耕が危険な場合がある。しかし普通の、平均的な地域ではそんなことはない。フォルクナーの説を確かめるために実施に試してみた。すなわち「六エーカーの土地に冬小麦を植えたが、その二分の一はプラウで起こし、他の半分はディスクとハローだけを使った。プラウを使用しない区域は土壌中に雑草をすき込むために、よけいなディスクの使用によって、余分な労力を必要としたのである。結果は、プラウを使用しないところでは全くダメで、雑草が多く茂ってしまった。プラウで耕したところは、新しい雑草の種が下にやられ、上まで伸びてきたときには、小麦がすでに伸びているのであった。プラウを使わないところでは、雑草が作物よりも早く出てきて、その結果は他の三エーカーの区と比べて、非常に貧弱な株立ちであった」「われわれはこのプラウ無用論を1943年に野菜園で試みたが、雑草に関する限りでは、結果は惨憺たるものだった。雑草は極端に多く発生して、作物を見分けることがほとんどできないほどであった。この雑草を除草するのに投じた労力によって、作物は経済的に引き合わなかった」土壌の間隙に関しては、次のようなことを書いている。「土壌の理想的な状態は、ゆるくて通気がよく膨軟な状態である。わたしはプラウを使っているところをあとからつけていって、土壌が引き上げられ、それから落ちるのを何度も見たことがある。もしもこのことが土壌をゆるくし、空気の流通をよくするのでなかったら、何がそれをするのか考えられないわけである。プラウをいれることをしないで、二三回分余分にディスクを入れるならば、トラクターを入れるのよりも重い圧力を土地に加えることになるだろう」毛管現象に関して、次のように書いている。「フォルクナー氏のおもな論点のひとつは、地表の青物類がすき込まれると、土壌水分の毛管現象が破壊されるということである。すなわち、このような有機物は多くの水分を下部からも上部からも吸収するので、防壁のような作用をして、水が毛管現象で下部から表面に達するのを妨げるというのである」「たとえ毛管現象がフォルクナー氏の主張するような要因であるとしても、有機農法で取り扱われる農場の土壌には、いちじるしい利点がある。このような土壌の生物学的生命が活動をはじめる。有益な土の微生物はプラウが使われた直後に、正常な状態に復興するため、働きはじめるだろう。有機質が多いところには、細菌、菌類および藻類が非常に多く存在していて、すき込まれた青物類を分解するだろう。ここではミミズがまた重要な役割をはたす。彼らはふんを地表に排泄するために、青物類を突き抜けて、地表に達する穴を一エーカーにつき何千もあける。これらの穴は下部から水を引き上げ、雨水を上から地中に滲み込ませる。土壌に際立った生物学的生命があれば、精巧な弾力性や軟らかさと、不都合な環境下にも物事を進行させる能力があることが分るであろう」最後に心土耕起に関して、サブソイラーとプラウの効果について、次のような引用をしている。「農耕の中から得た知識で、私は次の二つのことが分った。すなわちプラウがなくては農耕はできないということと、プラウの価値はそれを使う前にあらかじめサブソイラーで耕起することによってのみ得られるということである」
2006/09/25
「普代村に来るとき営農モデルのようなものは持っていましたか」「農業をやろうと決めたときは、漠然と三つの形を考えていた。自給的に作物を作って、生活の資は別に求める。本格的に百姓をやる。両者の中間的形態。実際にどの形態というのは住む場所や条件である程度限定されるから、入植地を決めてからくらいの考えだった。農業と限定しないで普代村で暮らしていけるか?と考えてみれば、考え方にもよるけれど海の幸・山の幸に恵まれ、自然に恵まれ、都会では考えられないような贅沢な生活が出来る。これ自体が立派な資源で、これを資本化・商品化できれば経営対象になるね。一般的にはこれを機会と捉えれば、都会の百姓志望の人達に機会を提供するという経営の可能性もある。いわゆる団塊の世代の田園回帰現象が、これから5-10年というスパンで起きてくると考えているけれど、こういう人を対象に農業体験の機会を提供するという仕事はある。東京の全国農業会議所という所は新規就農者の相談や就農斡旋なんかをやっているけれど、十数年前にそこに行ったときの話では、例えば電話相談が千件あったとすると、その内から窓口まで来て相談するのは一割程度、その中で実際に就農するのは一人か二人いるかどうかだと話していた。ということは新規に農業を始める人間が一人いれば、その数百倍の百姓志望者がいるということだ。実際に百姓になってしまうだけの決心は付かないけれど、機会があれば百姓の真似事はしてみたいと云うことだろ。また団塊の世代を対象にしたアンケートでは、退職後は田舎に住みたいという希望者が5-6割に及ぶそうだけれど、これが全部農業志望ではないとしても、自然と接する機会を求めているということだろ。自然に接する色々な体験を提供すしうる自然資源という点では、我々は確実に恵まれている。そういう意味での機会や可能性は沢山あると思うね。人の敷いた軌道に乗っかってホウレンソウやリンドウ、キュウリなどハウス栽培をやるのも経営には違いないし、取り敢えずは生活面では安心だけれど、面白みはない。自分で仕事を作り出して行く創造性がなければ経営は成り立たない。創造性の余地が広いほど経営としての面白みはあるけれど、不安定性は増大する。逆になれば逆だね。どのへんの所で妥協して、というか手を打って生きて行くかは、自分の能力や生活スタイル、考え方で選択すれば良いことだ」「しかしこれじゃ、ある意味では雲を掴むような話だ。でも、現実にここで5-6町歩で生活できるような営農スタイルというと、ハウス経営を一部取り入れていかないと無理だろう。ハウスを含めた複合的経営を上手に運営して行くには、ある程度、ハウスを専門的に見られる人間が必要だから、共同経営だとか家族経営でないと難しい。一方、畑作だけで生活して行くには10町歩でも困難だろうね。現実的には、いまの僕にはそんな程度のことしか云えないけれど、この地で頑張っていれば、ここの自然資源とそれを利活用するノウハウそのものが商品になりうる可能性はあると思うよ」「それから最後に、君達は二人で共同経営を考えているの、それとも別々?....まだ決めてない、そう。比ゆ的な話で云うとグループ登山と単独行は、同じ登山でも本質的に違うというくらいに違う。グループ登山は、体力と協調性があればなんとかこなせる。しかし単独行というのは、体力や協調性ではどうにもならない。特に冬山の単独行は、些細なミスが死につながりかねないし、グループなら補い合えるところも、全部一人で処理しなければならない。いざという場合の退却路とか逃げ道は考えておくけれど、骨折しとか動けないとかになれば、それも役立たない。昔からの共同体に外部からやって来て、農業をやるということは単独行に似たところがある。村落共同体という意識が強いところも、弱いところもある。同じ村の内部でも部落によって差がある。単独行であるにもかかわらず、周囲との協調性の如何によっては色々な制約を受ける場合がある。一方、単独行だと云っても地域ぐるみの生産にのって、例えばホウレンソウのハウス栽培をやればグループ登山みたいなもんだ。そいうものと別に自分なりの営農スタイルを築いていこうと思えば単独行にはなるけれど、共同経営者がいれば、グループ登山にもなりうる。僕は、どっちが良いとか、どっちを選ぶべきだとは云わないけれど、同じ登山のように見えて、両者は本質的に違うというくらいに違う能力が必要だということは云える」
2006/07/24
(またまた続き)「ジャガイモの作付けを5反歩にするときも、5町歩に拡張するときも、思い起こして見ると販売をどうするかは考えていなかったね。当時、この地域にもジャガイモを作っている人はいたし、何十年も前は岩手県は結構なジャガイモの生産地だったから、今でもちょっとした空地があれば必ずジャガイモを植えているくらいジャガイモ作りは盛んだ。一方、ジャガイモを出荷販売している百姓は二三反歩も作っていれば大生産者なんじゃないの。その当時はそんなことも知らなかった。実際に、破格というくらい高値で売れたね。翌年もそうだったし、5町歩に拡張して三年目の秋に盛岡青果市場、青果業者、岩手生協、山形生協の関係者が揃って契約栽培の話に見えた。そのときの話は、実は2年前から注目して大量に扱わせていただいているんだけれど、これからも岩手生協・山形生協で共同購入したい。これを検討するに際して、東京銀座のレストランの一流シェフと大田市場の青果担当者に試食して貰ったところ、「これは美味い」「大田市場に8月9月に出回るジャガイモではトップだ」とお墨付きを貰ったとかで、是非、契約販売したいというわけ。それでOKして、今日に至るわけだ。だから実を云うと、僕はジャガイモの販売に関しては何も苦労はしたことがない。その他の小麦、ダイズ、ソバなどの穀物は、産地とか銘柄によって、そんなに大きな価格差のない作物だから、どのくらいの収量があれば、どのくらいの収入と計算できる。というわけで僕は自分では、あんまり販売について苦労したことがない。強みは見方を変えれば弱みでもあるから、これは僕の弱点だね。今まで話した点とも考え合わせて、何故そういうことが可能だったかを考えてみると、まず規模が桁違いに大きい。一人でぐるみ生産をやっているようなものだ。ジャガイモ、小麦、ダイズ、ソバのどれをとっても、北海道を除けば、個人生産者としては大きい。小麦とかダイズ、ソバとかの生産者会議なんかに参加すると、個人では僕がトップで、2番目は5、6反歩という規模になるわけだ。ダントツのトップだったから目立つね。次に言語明晰というと変だけれど、岩手の百姓はもの言わぬ農民というくらいに喋らない。喋っても一度聞いただけでは何を云いたいか分らないくらい持って廻った話し方をする。要するに僕は目立つ、居るだけで嫌でも目立つ。この点は良し悪しだね。それからジャガイモの品質もダントツだ。こういう点が有利に作用したと考えてよいと思う。いつでも有利に作用するかどうか、それは社会的な諸条件との組み合わせで決まることだから分らないよ。社会的条件といえば、地産地消という流れも有利に作用したね。こういうことを色々思い合わせると、こうなるのが運命だったのじゃないかというくらい様々なマイナス条件が、プラスに作用した。一年の予定で研修に行った農家から一ヶ月で戻ってきた。この人は大根で農林水産大臣賞を貰った人で「私のところに来た以上は大根作りでは困らないようにしてやる」と話していたから、もしここに一年間居たら、アッサリ大根作りを止めたかどうか分らない。戻って一ヵ月後に二人の百姓が止めて20町歩以上空いてしまったのも普通ならショックだ。ジャガイモの大生産者がたった一人というのも心細い。そもそも右も左も分らない新規就農者が数年で数十町歩の百姓になるなんてこと自体考えられない。機械の操作をやっと覚えられれば充分というくらいの期間だもんね。これらの機会は、当然だけれど機会という名札をつけて転がっているわけじゃない。これを機会と見るか、機会に変えられるかは、人次第だ。昔は、秋から年末にかけて先進地研修なんてのがあって、農業先進地として評判の地域に研修に行ったけれど、そこで皆がもらす感想は間違いなく、俺たちとは条件が違うと云って、呆れて帰って来るというものだ。この程度の感想しか持てないとすれば、間違いなくどんな環境にいても機会はゼロだ」話の順番としては、この話の後、「するとsimohei さんは儲けているわけですか?」(その5)という質問になった気がする。今回で終わりと思ったが、次回を最終回にする予定。
2006/07/23
(前回の質問に対する話の続き)「何を作っても良いし、販売できないことはないけれど、実際に農業で生活して行くにはどうしたらよいかとなると(営農モデル)選択幅は狭いね。5年位前なら、僕もある程度イメージを描けたし、例えば5-6町歩も借りれば100万や200万くらいの実収入を得られるくらいのモデルは考えられた。一つ一つそういうものが消えていったというか、食潰していったというか心細いね」「さて、僕がどうやっているかだけれど、ジャガイモの他に小麦、ソバ、ダイズ。それから緑肥と云って畑作りのためにヒマワリ、ナタネなどを作っている。元々は全部、ジャガイモ作りのためにやっていることで、最初は売れれば儲けものくらいに位置づけていた。ジャガイモは、入植した年に1畝くらい、翌年5反歩、三年目に5町歩作付けした。当時は、特に見通しを持っていたわけでもないから、作れば売れるくらいにしか考えていなかった。だから今まで話したことはみんな後知恵で、当時はその程度の知恵もなかった。それが却って良い場合もあるかもしれないね。ジャガイモを始めたのは、大根が駄目ならジャガイモだくらいのことかな。好きでね、売れなければ自分で食って生き延びればよいんだという乱暴な考えだ。周りの人は、僕のことを何十手先まで考えて緻密な計画を立ててから行動する人間と思っているけれど、そういう面もあるけれど方向だけ見極めて突っ走る面もある、ジャガイモもそれかな。尤も、ジャガイモで行くと決めてからは、物凄く勉強した。まず北海道の農文協という出版社に北海道でジャガイモ栽培のことならこの人に聞けという経験と実力のある人を紹介してくれと頼んで、その人に会いに行った。これが入植した年の秋、北大の農学部の先生だった。他にジャガイモの主産地の普及所とか農協、研究所。最後に先生のところ、行く前にその先生の論文は全部読んだ。関連する栽培書もほとんど読んだ。ちょっと脇に逸れるけれど、新規就農したいという人に限らないけれど、勉強しないね。呆れてしまう。仮にも経営だよ、自分の経営対象とする作物のことも知らないでどうするんだというくらい知らない。僕が、最初に研修で行った百姓は、農業は勉強じゃないと繰り返し云ってたけれど、僕はその度に農業は科学だと言い返した。勉強しただけじゃ仕方ないけれど、勉強しなければ始まらないということだ。勉強したことを実践出来るには10年の経験が必要だということもあるけれど、勉強すれば直ぐ分かることに10年も試行錯誤を繰り返す必要はないだろ。その境目は微妙だけれど、自分が勉強しない言い訳にそんな尤もらしい事を云うなということだ。で、元に戻って、ジャガイモを始めた。5反歩のときは半ば手作業、播種から管理・収穫まで全部玩具みたいな機械だ。朝6時にこっち端から植え初めて、向こう端にまで植えて返ってきて2列植え終わると夕刻6時だ。そんなことを20日間かけてやった。今だと播種機で30分で終わる仕事だ。収穫作業は、当然、この何倍も辛いよね。こんなことは、この先10年、20年と続けられないなと思った。普通はそこで諦める、というか止める。ぼくは機械化しようと考えた。播種から収穫まで全部機械化してやっていける採算点を調べて、最低5町歩程度は必要だとわかったので、翌年5町歩に拡張した。5町歩で4-5年に一回の作付けには20町歩以上の作付けが必要だということで、ジャガイモのお付き合いで小麦、ソバ、ダイズを導入した。当時、畑はなんぼでも空いていた。最初の年は5月に研修先から戻ってきたけれど、6月に二人止めて(新規就農者じゃない)20町歩以上ガラッと空いてね、当時は事業計画年度内で村でも県営開発農地を空けておくわけに行かないからと500万円くらいの村財政で、秋に空いた畑を起こして、何か(と云っても小麦くらいしかなかった)播こうということになった。誰が、実際にやるかということで、最後に偶々僕にお鉢が廻ってきた。自給800円じゃやってられないと皆が断ったらしいんだ。僕はトラクターはただで乗り放題、その上給料もらえるなんて破格だというので飛びついた。この年と翌年で、延べ百町歩くらいは耕したかな。これがその後の経験にも自信にもなったね。簡単に云うけれど、普通なら数十年かかるからね。後から周りの人間は、simohei だけうまい事やったとグズグズ云ってるけど、初めは馬鹿くさいと皆が断ったんだよ。というわけで20町歩以上やれる機会はあったわけだ。その意味では物凄い幸運でもあったけれど、その機会を活かす能力も必要だね。あるいは機会は、最初から転がっているわけではなく、それを活かす能力があって初めて機会になりうるということかな」
2006/07/22
「ホウレンソウ以外は駄目だとすると、simohei さんはどうやって販売しているんですか」「そういう細かい話の前に、農業で生活して行くとはどういうことかという話をしておこう。分かり切ったことのようで、全く経験のない人は僕もそうだったけれど、勘違いするんだ。例えばジャガイモを年間を通して食べたいというので植えたとする。一人100キロもあれば充分かな、何株必要かというと、多少、余裕を見て150株前後植えればよい。必要面積は30平方メートルもあれば余すくらいだ。一方、ジャガイモで生計を立てようと思ったら、すべてが順調に行ったとして、少なくとも3町歩くらいは必要だから千倍は栽培しなければならない。しかも自分で食べる分には外見が悪かろうが、小さすぎようと大きすぎようと構わないが製品として販売するにはそうはいかない。ウッカリすると大根を百本植えれば百本売れるなんて勘違いし兼ねないけれど、そんなことは全くない。つまり製品歩留まりという問題がある。これが農業では、自然条件その他で安定しない。露地に較べれば施設栽培は比較的安定するにしても、工場生産とは全く違う。次に時期の問題がある。例えばコーンやカボチャを普通に播種して栽培すると出荷は9月、10月になる。ところが盆前に出荷すればある程度利益はあるけれど、それ以降では赤字を覚悟したほうが良い。幾ら美味いと云っても自分で市場を開拓しない限り駄目だ。時期の問題は、どの野菜にもあって、しかも経営的にプラスになる時期の栽培は色々難しい。大雑把な云い方をすれば、野菜には旬があるけれど、そして旬に出荷するのが作るうえでも、栄養的にも、美味しさからいっても、一番良いけれど、経営的には成り立たない。更に産地の問題がある。市場の側から考えてみれば分かるけれど、集荷した野菜を売れば良いなんてものじゃない。そんなことをやっていては生き残れない。どの野菜を、いつ、どこから、どのくらい集荷するという年間計画をたてて行動する。もち論、地方市場の中には、周辺地域の百姓が三々五々持ち寄った野菜を取引しているところもある。地方市場だって、それだけでは運営していけない。生産者側から見れば、ある時期に、まとまった量の野菜を継続的に出荷できるようでなければ半端物扱いされる。そこで地域ぐるみ・農協ぐるみまとまって生産し集荷・選果・出荷しようという対応になって行く。久慈地域で、ある程度、名の通ったものはホウレンソウ、キュウリ、リンドウ(花)、乾燥椎茸。産地ということになれば、ある程度のプレミアムがつく。話では、最近は久慈地方のホウレンソウは市場評価が下がって、マイナスプレミアムが付くそうだね。そうなれば「俺のホウレンソウは..」と云ったって駄目だ。生産者コードである程度差はあるかもしれないが、農協清算の時点でどう処理されているか、これは全然僕なんかには分からない。ともあれ、これらのものを地域計画にのって作っていけば、ある程度の年間収入を想定出来ないことはない。しかしこれはこれで問題がある。普代村の開発農地ではかつては大規模土地利用型農業ということで大根、キャベツ、加工人参などを作ってきたけれど、大根が駄目になり、キャベツは誰も作らなくなり、加工人参も風前の灯という状態だ。今年は、加工人参に対する村の財政支援がなくなるということになったら、いままで3人で6-7町歩作付けしていたのが、ほんなら止めると二人が云い出した。残る一人はこうなれば止めるからね、僕は人参は作っておいたほうが良いと考えたから、僕が少しお手伝いして五反歩くらいやろうかと話を持ちかけたら、「ほんならまあ、俺も」と続けることになって3町歩程度は作付けすることになった。変な話だけれど、この話を見れば分かるように”連れション”のようもので、経営計画を独自に立てている、あるいは立てられる人は殆どいない。こういう土壌の上にぐるみ生産は成立している。話が脇に逸れたけれど、かつては和野山の開発農地は大規模土地利用型が中心だった。ところが色々な理由で作付けするものが、ひとつひとつ消えて行って、今では僕以外はハウス栽培中心という格好に代わって行った。13年前、僕がここに入植したとき、色々な可能性のひとつとしてハウスを建てるのはどうかという話をしたときは風が強くて駄目だと言下に否定された。50センチ掘り下げて建てたらどうかとか、ネットを建てたらどうかとか、色々云ったけれど阿呆扱いされたね。ところが数年前に村が音頭を取って百棟単位のホウレンソウの大ハウス団地を作るとか云いだしたから、僕は大笑いしてやった。こんな計画こそ、大阿呆そのものでね、結局、この計画も消えたけれどね」
2006/07/21
のんびり書いているうちに、「対話」から三週も経って、最初の印象も薄れてきた。あと二、三回程度で「対話」シリーズは終わりにする。「普代村でやめて行った人たちの理由は何ですか?」「それは明白だ。農業で生活できないと見切ったからだよ。なぜ生活できないか、というと理由は色々だ。僕なりに分類すると、作付け計画を全部100%収穫・販売しても最初から生活できるはずのない計画しか立てられなかったのが二例、要するに趣味の園芸の域を出なかった例だね。次にどう逆立ちしても管理・収穫できない作付け計画を立てたのが一例(これは同時に家計支出が収入に見合ってもいない例、あるいは欲望を先行させて現実的計画を立てられなかった例)、最初から農作業は体力的・能力的に無理ですと諦めて三ヶ月程度でやめていったのが二例、キャンプの野外生活の延長だくらいの夢を描いて夢破れたのが一例。僕はこの人たちに酷く冷淡だけれど、最初から駄目なものを受け入れたに過ぎないと考えている。このうち何とかなる可能性があったのは二番目の例の人だけだね。40歳代の五人家族の夫婦者で、農業の本場・北海道から本職の百姓が来たという鳴り物入りで入植してきたからね、可笑しかったね。当時、県営開発農地の入植者は僕はもち論のこと、他の人たちも途中からの転職者だったからね。農協や役場の担当者は大喜びだったね。僕は、大方、夜逃げでもなければ、本場北海道から何で態々こんなところに来るよといったけれど、誰も耳を貸さなかったね。まあ、それはともかく、その気があればやっていける可能性のあったのはこの家族だけだ。やめて普代村を出て行く何ヶ月か前に奥さんが、普代村で農業を続けて行きたいのだけれどと云って、僕のところに相談に来た。年間の生活費は幾らだと聞いたら400万円は必要だという。とりあえず200万円に減らせと云った。もっと必要だという。そうかも知らんが、取り敢えず農業で実収入を安定的に200万円上げられるまでは、それで行くしかない。あんたの経営規模で200万円程度なら何とか計画は立つけれど、それ以上は考えられないと話した。他にも色々細かいことは話したけれど、煎じ詰めれば、200万円じゃ生活できないというから、それじゃ止めるしかないねという話になった。この話が、どれほど影響があったか僕には分からないが、間もなくして止めて出て行った。こういう例からやっぱり農業は大変だと考える人がいるけれど、それは多少違うと思うね。農業、特に畑作農業で生計を立てて行くのは困難だという点は根底にあるけれど、農業という環境、過疎地という環境、厳しい自然環境、自分の生活環境と色々な要素の、どれかに適応できないということで挫折して行くからね。また最初から、自分で勝手に良い夢だけ見てそれが実現できないから挫折したというのもあるが、それは自分で勝手に蹴躓いているだけだ」「するとsimohei さんは儲けているわけですか?」「儲けているか?儲けているかというのは考え方で、いろいろに解釈出来るけれど、どう解釈するにせよ儲けてはいないね。言葉の正確な意味で、生き残っているというのが最も妥当だね。夫々の作物で全滅の憂き目に何度もあっている。明白に気象災害・天災といえる壊滅的被害はダイズで一回、ソバで一回、小麦で二回、その他に気象条件などによるジャガイモ、麦、ソバ、ダイズなどの減収が何回も、それだけで千五百万円から二千万円はドブに捨てるように畑に投げてきたからね。こいうのが一切なければ、かなり儲かったかもしれないね。特にこの三年間は、どれも駄目というくらいに酷い。その前まではダイズが駄目なときはジャガイモが良いとか、ジャガイモが駄目なときはソバが良いとか、何かかにかが良くて助かってきたけれど、最近はどれも駄目という状況が続き、去年なんかはどん底だよ。取材に来た雑誌記者にこの話をしたら、そこからどうやって立ち直ったか聞かせてくださいと意気込んじゃってね...。立ち直ってなんかいないさ!立ち直っていけるという元気が出てきただけだと応えた。こんな状態で僕が生き残っているのは物質的にも精神的にも、ひとえに妻のお陰だ。精神的というのは励ましてくれるとか、そんなんじゃないよ。僕に絶対的な信頼をおいているということだ。僕は、一般には物すごく意志強靭な人間と思われているけれど、反面、至って淡白な面があるからね、駄目なら野垂れ死にするだけだという気構えはいつも持っているから、全くの孤独だとすればそんな気力は湧いてこないかもしれない。でも、仮にそんな人間しか残っていけないとすれば、それは尋常ではないね。一方、ぐるみ生産にのって、例えばホウレンソウのハウス栽培をやっていれば、取り敢えずはそれなりの生活は保障されるという面もあるから、自分勝手だといえないこともないね。ただ、それは僕の考えているような農的な生活とは違うということだ」
2006/07/19
13日から15日までは小麦刈り取りに集中し、16日から18日の三日間はどうやらカクランとやらで、殆ど寝ていて、更新できなかった。 閑話休題を何回も続けるのも気の利かぬ話だが、便宜的な表題だから仕方ない。さて、なぜ手厚いフォローが問題になりうるか? 僕の経験した二つの例で説明する。 簡単に「ぐるみ生産」と呼んだものは、「主産地形成」政策によるものだ。この政策の功罪はいつかきちんと総括しなければならないと思っている(このブログでも何回か扱っているが、とりあえず「連作障害」を参照)。 普代村の開発農地の大規模土地利用型農業は、大根産地としての「名」を獲得することで成立した。しかし間もなく大根の連作に伴う障害が発生し、大根の質は落ちる、製品率・出荷率は下がる、市場評価は下がる、取引値は下がるという状況で、大根経営は困難になってきた(この間の事情は「何を作ったらいいか?」を参照)。その間の村・普及所・農協・研究機関などの一体となった手厚いフォローとその問題点は、04年3月と4月の「連作/輪作」と題する8回の連載で書いた(参照)。要点を摘記すればよいが、病み上がりのせいか、いまはその気力が湧かない。関心のある方は自ら読んで、それなりに問題点を摘記していただければ有難い。次に岩手県全体で「県ぐるみ」でキャベツの大主産地に育てようという政策に係わるものだ。詳しい経緯は知らないが、多分、米の減反政策を進めるため米に代わる作物としてキャベツの大産地に育てようという発想が生まれたのだろう。キャベツの価格安定制度を初め様々な政策的フォローが実施された。当時、県久慈振興局レベルで和野山の県営開発農地で、キャベツの作付け面積10町歩を目標にしたとか。そのため様々な政策支援が実施された。和野山の県営開発農地の半分は、当時は僕が使っていたから、僕がキャベツ生産に参加しなければ10町歩の目標は達成されそうにない、ということではないかと解釈しているが県振興局農政課長が「どんな支援でもしますよ。キャベツを作ってもらえないか」と相談を持ちかけてきた。僕自身は・「ヤマセ地帯」で、葉物生産は安定しない・降雨量が少なく、充分に大きな玉に育たない・赤土の粘土土壌で、恒常的な潅水は馴染まない・繰り返し殺虫剤を使用しなければ製品にならない葉物野菜は作りたくない・僕の輪作体系の中に合理的に組み込まれないなどの理由で、全くキャベツ生産に取り組む意志はなかった(個人的には盆明けと春の作付けは、殺虫剤その他の資材は全く必要ないので作っている)。事実、育苗装置、畝立て成型機、自動移植機、灌漑施設などが用意され(1500万円は下らない)、僕を除く4人が6-7町歩のキャベツ生産に取り組んだ。その後、二年三年たつと一人やめ、二人やめ、結局、4-5町歩作付けしていた一人が5年ほど続けただけで、県の価格安定制度が財政的に底をつき、この支援がなくなるとともに最後の一人もやめてしまった。この最後の一人は「どうだった?」と聞いたところ、「くたびれもうけだ」と応えた。その真意は分からぬが、傍目に計算するところ薬剤費・人件費で、殆ど儲けはなかったと見積もっている。まさに「くたびれもうけ」!!もち論、岩手県の中にはキャベツの主産地として残ったところもある。この政策の全部が失敗したわけではない。少なくとも和野山の県営開発農地では定着することなく5年で消えてしまった。千数百万円を投じた機械装置は機械倉庫の片隅で遊んでいる。村・普及所・農協レベルでは、どういう総括をしたか聞いたことはないが、僕自身は適地適作を無視した一律農政の失敗だと考えている。しかもこのような失敗を通して、百姓は独立経営としての責任も自覚も自己採算という経営者としての最低限の条件さえ養うどころか、それを失わせる結果になっている。
2006/07/19
就農後のフォローという点では、まず就農一年目には研修制度が用意され、その間の生活費として月10万円程度は支給されるような仕組みがあった。その後、この支給制度は就農後1-2年で止めてしまう場合は無駄金になるということで、例えば5年間農業を続けた場合は返却しなくても良いといったような仕組みに変わった。僕の場合、大根を中心にした土地利用型農業をやるとすれば県立農業大学校か高冷地園芸センター(県立研究機関)または県下随一の大根農家という三つの選択肢を示され、百姓仕事の実際を一部始終経験するのが一番と、大根農家に一年間住み込みで研修を受けながら、合い間を見て高冷地園芸センターに好きなときに顔を出すということにして貰った。(この間の経緯は「素人百姓奮戦記」で触れた。これも書き半端だな!)この研修期間後も、新規就農者に限らず一般農家を対象にして、普及所・農協による様々な技術的フォローが行われている。これは「その4」で指摘した町ぐるみ・村ぐるみ・農協ぐるみの共同生産・共同出荷と関係するけれど、普代村では毎月一回程度、部落毎にホウレンソウ栽培の技術指導会が開かれているようだ。昔、大根栽培が盛んだったときはほぼ毎月、大根栽培農家の協議会が開かれ、普及所・農協のみならず県農業試験所、振興局農政部なども参加して協議をやっていた。「ぐるみ生産」とは何か?現在の青果物市場の大手消費者は大手スーパーだ。スーパーの青果物販売を見れば分かるように、例えば年間を通して大根を過不足なく販売するには全国の主要な大根生産地からの入荷量を計画的に押さえておかなければならない。何月から何月はどこの産地、何月から何月はどこの産地という入荷計画を立て、特定の「産地」は、その計画に沿って共同生産・共同出荷をする。こういう共同生産・共同出荷のルートに乗らないで独自の生産をしようと思えば、独自の販売ルートを自分で開拓するか、二束三文の値で農協市場経由で販売するか、自己消費するか、そんな道しかない。というわけで、普代村を含む久慈管内では何百戸という農家がホウレンソウのハウス栽培に取り組み、共同出荷することで「大産地」として成立している。この手の「ぐるみ生産」に乗っておれば、様々な技術的フォローも受けられるし、価格安定制度のような財政的支援を受けたり、色々、便宜を受けられる。しかし「その1」で書いたように「地域ぐるみというのは、生きていくには便利だけれど、経営としての自由度は少ない」この点に関しては「フォローがまるでない」ことが問題なのではなく、時に手厚いフォローが与えられていることが問題なのだ。(続く)
2006/07/13
「対話/その4」に関連してメールを頂いた。役場や普及所、いわば新規就農者を呼ぶ側の「責任」についてだ。普及所は、新規就農に関しては直接の当事者ではないが、当然側面から支援する業務をやっている。例えば就農モデルを作る場合、普及所が中心になるだろうし市町村によっては農政担当・普及所・農協などの三者協議会のような所で作成している場合もあろう。役場のやりかたは、作物つくりで言うと、ただ種を買ってきてばらまいただけというような感じがしてきました。土作りくらいはしたかも知れませんが、そのあとのフォローがまるでなくて、あとは取り入れを待つだけ。待っていたらさっぱり収穫が無かったなんてことと同じような。「役場」側から見れば、この批判は、何を勝手なことを云ってるんだ(とは立場上、公然と反論できないのが辛いところだろうが)ということになるかな。「土つくり」という点では、「その2」に書いたように、普代村には新規就農者を迎える上で、至れり尽くせりというくらいの好条件が揃っていたし、「そのあとのフォロー」も手厚いフォローがあったと考えている。その意味では、「その4」で書いたことが、メールのような読み取り方をされたとすれば、それは僕の本意ではないというか、多少違う。具体的に云えば、県営開発農地のような公共事業には、一般的には受益者負担金がある。総額でいくらになるか知らないが、何十億円という受益者負担金を村が財政から支払っている。もしこれを地代として耕作者から徴収すれば、反何万-十数万円にもなり、これに見合った収益の挙げられる畑作経営はもち論、野菜作やウス栽培など考えられないから、村全体で百数十町歩にのぼる県営開発農地(現在でも二十町歩ほど空いているが)は、確実に雑草だらけの雑地に変わっていたはずだ。(参照「日本に農業はいらないか/その10」)尤も、県営開発農地はダム建設工事の付録で、当のダム建設はコンブ・ワカメを洗浄するために大量の淡水を必要とし、その用水確保が主要な目的であった。すなわち漁業振興が主要な狙いで、それだけではダム建設許可が危ぶまれたため、表向きダムの目的を多目的ダムとし、県営開発農地の灌漑施設としてダムが必要だと謳ってきた。要するに県営開発農地が主目的で、そのためにダムが必要というのではなく、ダムが主目的で、ダム建設計画を具体化するために県営開発農地が計画された。その意味で県営開発農地はダム建設工事の付録だ。しかし計画から20年以上、いざダムが完成してみれば、漁業者が日々の必要を指を咥えて待っているはずもなく、灌漑施設を前提にした農業計画は最初から白紙で、ダム完成の暁には早晩、無用の長物と化すに決まっていると判断するに、特別の知恵は必要ないはずだ。(この間の経緯に関連した記事を、本末転倒の「安定した営農」/番外編以下三編で扱っている)県営開発農地の受益者負担を地代に転嫁すれば、借り手がいないことが最初から分かりきっていたから村の財政負担としたのだが、その経緯がどうであれ農業者にとって相当な恩恵であったことは間違いない。以上は地代の問題。つぎに「その2」で書いたように、「軽トラック一台で来て、極端に云えば、翌日からでも農作業が出来るという、そんな条件が揃っていた」。そのために必要な機械設備はどう少なく見積もっても億単位の投資が必要で、これは個人で農地を借り、個人で機械設備に投資し営農を開始しなければならない場合に比較して、どう割引したところで破格に有利な条件と云うべきだ。以上は、就農者を迎えるための条件整備のための投資。次に新規就農者に対する直接・間接の財政的・物質的支援は全国の市町村とも様々なアイデアを絞っており、一人当たり4-5百万円は下らないのではないか。(続く)
2006/07/12
「止めていった人たちの話を、役場や普及所で聞いても、なぜ止めていったのか分からない。経験の蓄積がないというか、どうしたら失敗しないかというマイナスのノウハウの蓄積が全くないんですよ」「本当は役場や普及所のほうが俺たちに責任があるはずなんだけれど、話を聞いてみると農家の皆さんのほうが熱心で、親身になって相談に乗ってくれるんですよ。なんか逆じゃないか、農家の人は俺たちと関係ないし、全然、責任ないんですよね」「新規就農で農業を始めて、上手くいかないからといって、役場や普及所が責任を取るとして、どういう責任の取り方が出来るかね?条件を整えるというのが行政の責任で、それを生かすも殺すも個人の責任だからね。役場や普及所が、あんまりはっきりしたことを云わないのは責任があるからで、逆に農家のほうがはっきりものを云って、責任を負っているように見えるのは、むしろ責任がないからだ。農家は後から責任を追及される心配はないけれど、役場や普及所はウッカリしたことを云えば、後から責任を追及されるからね。実際に就農して、制度的な支援をしてくれるのは農家じゃなくて役場や普及所だよ」「一般的にはそういうことだけれど、役場も普及所もサラリーマン化したと云えば良いのか、仕事としてはそれなりにやるけれど、それ以上には決して踏み込もうとしない恨みはあるね。役場も普及所も三年交替で担当部署が次々変わるから、いちいち踏み込んで係わっていては身が持たない面があるのかな。必ずしも無責任とは考えないけれど、自分の対象としている仕事に関心というか、良い意味での好奇心を持っていないのじゃないかとは思うね」「ノウハウの蓄積という点に関しても、普及所はもち論、役場の担当者だって、止めていった人たちのことは直接には知らないし、何か記録があったにしても通り一遍のことしか書いていないだろうし、過去の記録を勉強してこれからの仕事に役立てようなんて考える人間は皆無だと断言して間違いないね。仮に当時の担当者に聞いたところで、止めていった人たちの生活、経営状態、何を考えていたか、何が問題だったのか、具体的には何も知らないはずだ。最初から、経験なんか蓄積されるシステムになっていない」「それから市町村が、新規就農者を募集するときは、ただ漫然と募集するわけではなく、それなりの就農モデルのようなものを用意している。例えば前に話した岐阜のトマトのハウス栽培とか、普代村の大規模土地利用型農業とか現在のホウレンソウのハウス栽培とか。こういう就農モデルがどうやって作られるか、その内情は具体的には知らないけれど、現在の市場システムと農家の経営規模の下では町ぐるみ・村ぐるみ・農協ぐるみの共同生産・共同出荷をやっていかないと経営が成り立たないという事情があって、久慈管内ではホウレンソウの売り上げ目標なんぼ、売上高なんぼのハウス農家をなんぼ等の目標を立てて、普及所も役場もそれに協力する。新規就農者の募集もそれに応じてやる。あるいはトマトの共同選果施設を作った、これを何年で償却するには何戸のハウス農家が必要だから不足分を外部から募集しようとか、県営開発農地が空地になっているから外部から募集しようとか、それなりの政策目標がある。この場合政策目標が中心だから、新規就農者の経営がどういう状態だなんてことを分析することは、最初から役場や普及所の手に余る仕事なのさ。仮にもそれを分析した結果、政策目標のほうが間違っていたなんて結論は、逆立ちしたって出せないからね。普代村では昔は、県営開発農地では大規模土地利用型農業を謳っていたけれど、それがいつの間にかホウレンソウのハウス栽培に代わったけれど、その間にどういう総括がなされ、どういう経緯で変わったのかなんて聞いたって誰も答えられないし、そもそもそんな不躾な質問をする奴は、居るとすれば僕くらいなものだ。ところが僕が入植した当時は、開発農地は風が強いからハウスなんかとても立てられるもんじゃないと言下に否定されたからね、笑えるね」
2006/07/10
「農家の皆さんに会ってお話を聞くと、皆さん、大変だ大変だと云うんですよ。だけど顔は笑っていたり、それほど大変そうな顔をしてないんですね」「そんなの時候の挨拶みたいなもので、大した意味はないね。”農業はどうですか?いやー、大変です”なんて会話は、最初から質問にも回答にもなってない。百姓は、小なりと云えども経営者なんだから、給料を貰って生活する者に較べて大変なのは当たり前で、自由だとか自然の中で暮らせるとか云うけれど、自由に自然の中で暮らすことほど、時に孤独で、不安で、辛くて、切ないことはないよ。試しに孤立無援の吹雪の山で、独りで一週間もビバークしてみれば、嫌というほど思い知らされるさ。食糧がふんだんにあるかどうかで、気持ちの余裕はずいぶん違うけれども...。まあ、これは極端な例としても、経営が大変なのは当たり前だ。しかも農業は、大方、小規模零細企業か個人経営・家族経営だから、これに伴う困難、プラス自然条件に左右される不安定さ、プラス社会的諸条件に伴う困難と、いろいろある。もう少し具体的に云えば、米作農業と畑作農業では全然違う。野菜作と畑作でも違うし、都市近郊農業と普代のような僻遠地というか過疎地での農業も違う。また普代は漁業が基幹産業の村で、百姓は二百数十戸あることになっているけれど、出荷農家は40-50戸、そのほとんど全部はほうれん草のハウス栽培で、それ以外の大規模経営というと3-4人しかいない。ある意味では、僕なんか大都会と離れた過疎地で、その中でも周りとはかけ離れた孤立無縁の農業をやっているようなもんだ。それでも4-5年前までは大規模土地利用型農業を村では謳っていたから5-6人はいたけれど、一人止め、二人止めで、今では土地利用型というと二人しかいない。こういう状態に伴う独自の困難もある。一口に大変だと云っても、その中身は千差万別で、大方はいま云ったような様々な要素を、いろいろな割合で、ごた混ぜにして大変だと云ってるんだろうね。”何がどう大変なんだ”と改めて聞かれれば本人もハタと困ってしまうのじゃないかな。単なる愚痴みたいなもので、何も語っていないに等しい。尤も、10年ほど前に県の新規就農募集のポスターに、女優さんか、可愛い娘さんが管理機を押している姿を大写しにして、あなたも明日から経営者というキャプションが踊っている、そんなものがあったね。こういう阿呆なポスターを、堂々と張り出していたところを見ると、農業経営なんかチョロイもんだという考え方が、農政関係者の中にはあったのかも知れないね。このポスターに何人が引っかかり、そのうち何人が生き残っているのか知らないけれど、新規就農者を迎えるために一人何百万円かの予算を使ってるはずだ。こういう馬鹿げた募集で、どれだけドブに金を捨てるようなことをやったのかね。大変だ、大変だというのも、こういう阿呆な真似を戒めるくらいの意味はあるね」「それから、もうひとつ。新規就農でやってる人は、みんなそれなりの大きな決断をして、自分の選択として農業を選び取った人達だ、要するに好きでやっている。大変だと云っても、大方は自然相手の仕事で、人間関係に伴うゴタゴタ、妬み・嫉み、恨み・辛み、好きだ・嫌いだ、気に食わない、そんな感情が入り込む余地が比較的少ないよね。海や大空、宇宙の広大さに思いを馳せて、自分の考えていることのちっぽけさに気付いたなんて話しがよくあるでしょ。百姓は、自然に接する機会が多い分、それだけ人間が大らかなのかも知れないね。そういう意味では、狂ってるんじゃないかと思うような事件が頻発する世の中で、多少とも人間性を取り戻すには、自然と接するということが本源的なことだと僕は考えるね」
2006/07/08
(昨日の続き)「歓迎されないような処には行きたくない、歓迎される処に行こうということで、最終的には北海道か岩手に絞り込んだ。しかし北海道は、50町歩以上の経営規模を提案している処が殆どで、1ヶ所だけハウスと畑作との複合経営で2町歩を提案している町があったけれど二股かけてやれる自信はなかったし、50町歩という規模は途方もないものに思えて、結局北海道はボツ。岩手では、三ヶ所、見て廻ったけれど、ある程度まとまった面積の畑を借りられる、農業機械類はひと通り揃っている、住む家が用意されていると三拍子揃っていたのは普代村だけだった。他は、水はけや日当りの悪い休閑地の畑や休耕田で1町歩を借りるには何ヶ所にも分かれるとか、山間地の急斜面の耕作放棄地とか、そんなものしかなかった。その点、普代村は、軽トラック一台で来て、極端に云えば、翌日からでも農作業が出来るという、そんな条件が揃っていた」「普代村のどこに惹かれたといえば、まさにこの点だね。軽トラック一台できて、翌日からでも農作業が出来る、こんな好条件を提供している市町村は、全国どこを探してもないのじゃないかな」「13年前に、僕は文字通り軽トラック一台でやってきた。尤も、引越しに埼玉との間を一週間に二度往復したから延べ二台かな。当時は、ニ町歩しか畑は空いていなくてニ町歩借りたけれども、最初は、それでも随分広いと思ったね」「当時、村は大規模土地利用型農業というモデルを、一応は提供していた。大根、ゴボウ、キャベツなどの作物を中心に町歩単位のやや広い畑を利用した経営で、それに必要な機械類はひと通り揃っていて、農協の管理する機械銀行から時間いくらで借り出すシステムになっていた」
2006/07/05
「作業日誌」(06/06/30参照)に書いたように、先日、新規就農希望の若者が二人見えた。若者はもち論、そもそも人と会う機会が滅多にないものだから、まして就農希望の若者とはここ数年会ったことがないものだから、2-3時間も話し合ってしまった。といっても、殆どは僕が喋っていたが、その対話の記録。当然、時間的経過を追って書いてはいない、思い出すまま・気の向くままだ。メモを取ったわけではないし、一部、別の機会の会話も入っているし、ここまで踏み込んで話をしなかった内容も含まれているから、実際には、若者との対話に仮託したフィクションといったほうが良いかも知れない。若者に見せて校正を依頼すれば、「俺達は、こんなことを云わなかった・聞かなかった」と云うかもしれない。しかし僕が自分の発言として書いたものはすべて事実と経験に基づくもので、フィクションはなにひとつ含まれていない。仮に当の若者の眼に触れれば、当日の言葉足らずの面の補足と理解していただきたい。夕刻近く「農業委員会から紹介されました」と云って若者が二人、作業場に入ってきた。「新規就農で、普代村に見えたそうで、その体験談をお聞きしたいと思いまして...」「僕に会えって...?農業委員会は、なんで僕を指名したのかね、聞いてみた??」「いえ、特に聞いていませんが、新規就農募集のパンフレットを見せて頂いたら載っていましたので」「成る程、それで何が聞きたいの?」「普代村に、縁があったわけでもないのに、何故、普代村に来たのかと思いまして..」「そんなこと聞いてどうするの?」「どういう点に惹かれたのかと思いまして..」「実は、農業をやろうと決めてから、新規就農者を募集している全国の市町村の中から60ヶ所くらいを選んで手紙を出したんだ。そのうち20ヶ所くらいの役場、普及所、農業委員会から返事が来て、手紙のやり取りをしたり、実際に会ったりした。地域によって中心窓口になる所は、役場だったり、普及所だったり、農協や農業委員会だったり色々だね。実際に会ったのは熊本、鳥取、岐阜、岩手(3ヶ所)、北海道(2ヶ所)」「全体としての傾向は南の方は、来るなら来ても良いよという程度で熱がない。その点、北の方は熱心だったね。是非来て欲しいという意欲が感じられた。担当窓口の担当者の個性や熱意によっても当然差はあるはずだけれど、それでも北と南ではハッキリと差があった。それだけ北の農業環境は厳しく、南は相対的に裕福なんだと僕は理解した」「新規就農者を募集している市町村の内経営モデルのようなものを用意していたのは4-5ヶ所、特にこれといってハウスのトマト栽培を薦められたのが岐阜。一応、栽培体系は確立していて、都市近郊農業で決まった市場もある、何棟のハウスをやればどのくらいの収入があって、収益率はどのくらいと計算できる。そういう意味では技術さえキチンと習得すれば、ある程度、生活は保障される。しかし僕は農業をやりたいというより、自分の後半生は自然の中で暮らしたい。都会には、もう僕の居場所はないし、やりたいこともない。田舎で、自然の中で、自然を相手に暮らしていくには、農業をやるしかないということで、農業をやるというのが動機だからね。生涯をハウスの中でトマトを採って生きていくなんて出来るはずがない。生活を保障したいなら都会にいれば良いし、遥かに効率的に保障できる。そういうわけでハウス経営は、全然、やる気がなかった」「最近数ヶ月間に、7-8ヶ所(5-6ヶ所と云ったかな?)廻ったんですが、どこも同じようなパターンでホウレンソウを薦められました」「それは、そうだろ。久慈管内はホウレンソウ一本槍みたいなもんだし、他にキュウリとか花とかあるけれど、ホウレンソウで売上なんぼというのが目標だからね。ホウレンソウが良いというより、他にこれといって薦められるものがないということだね。農協はそれでも良いかも知れないけれど、10年-20年というスパンで考えてみれば、ホウレンソウの経営に将来性があるとは考えられないね。別段、そんな先の見通しにたってやらなくとも、状況次第で転換を考えても良いけれど、ハウスの中で、生涯草取りをやって暮らしたいと思うかい?とても若い男に向くような仕事じゃないね。ここには、いままでに新規就農で7人来て5人は辞めて出ていった。二人だけ残っていて、一人は僕、もう一人は夫婦で50棟くらいハウスでホウレンソウをやっている。40歳くらいだけれど、自分はハウス内を耕したり、タネを播いたりだけやってるね。ホウレンソウの収穫とか草取り、選別・調整・袋詰めのような作業は奥さんが中心になってオバサン達を雇ってやってる。こういう形態なら考えられるけれど、それには数十棟の経営が必要だし、そうなると転換が難しいね。地域ぐるみというのは、生きていくには便利だけれど、経営としての自由度は少ない」
2006/07/04
もともと、この「耕す生活」は、僕の農生活を通していろいろ考えたこと・感じたことの記録、「百姓の知恵袋」の準備作業や更新記録、僕のWEB全体の案内板などの性格を持っていた。「作業日誌」が農作業の記録とすれば、「耕す生活」は脳作業の記録というわけだ。中でも「百姓の知恵袋」の充実を、いちばん重視していた。 農閑期中に、偶々、土壌微生物関係の連載を書きはじめ、いまはその機会と余裕がなくなって休止するとともに、ほかの作業まで休止してしまった。「百姓の知恵袋」は、冒頭の序にも書いてある通り、もとはメーリングリスト「百姓の森:見聞録」の一環として始められた。目指すところは、序に過不足なく書いてある。実際には共鳴者はいても、実際的な協力者はほとんどいなかったし、一方、メーリングリストは時とともにジリ貧に陥るのみ。僕自身の経験はもち論、知識や関心も広大な「百姓の知恵」の大海の一滴に過ぎないものでそれこそ「無謀な暴挙」に過ぎなかったとは分かっている。とはいえ、完全に放棄したわけでも諦めたわけでもない。 百姓の大層を占める現役の百姓が、農作業の傍らネットを駆使して農業技術や農業文化に思いを致すとは、ほとんど期待してはいない。これから定年退職を迎えるいわゆる「団塊の世代」の中の田園回帰組や意外に多い若者の中の農村志向・自然志向派などの百姓予備軍は、逆に最初からネットを駆使して農業技術の獲得・習得に努めるのではないか。 しかしそれこそ「情報の洪水」に押し流され・溺れないためには羅針盤は、益々、重要になると考えている。 メーリングリスト「百姓の森:見聞録」は、その前文を読んでみれば分かるように、当初は確かにそのような羅針盤になろうと努めていた。しかし「百姓とそれに関心のある者が寄り集い、実りある実態を創出するために情報を発信し、また収集して、これを余すところなく公開する」と謳いながら、ほんの一握りの内輪の仲間同士のメール交換に満足し、更にその仲間内でさえ、情報を発信するのは僅か数名に留まる他愛もないサークルに留まっている。「相互の触発発奮をエネルギーとして、百姓の文化を昂揚させることを目的に、情報伝達手段としてインターネットを主軸において、広範に活動展開する」と宣言しながら、僅か数十名のサークル内でいつまでも「非公開」で活動することに満足している。 もち論、そうならざるを得ないのはメンバーだけの責任ではない。 しかし看板と実態とのこれほどの乖離、大言壮語の意図とみみっちいサークル根性との遊離、狙いの壮と自己満足の愚、それに気付きもしない精神の鈍磨、気付いても手を拱いて流れに任せている精神の退嬰、これはほかの何処に責任があるわけではない。 というわけで、僕は「百姓の森:見聞録」を止めた。これに伴って、あちこち書き直さなければならない点はあるが、今のところ実害はないので放置してある。さて、ここで改めて仕切りなおし、土壌微生物関係は次の農閑期まで休止を続けるが、ぼちぼち再開してみようか。
2006/07/01
○有機物の分解に伴い微生物相は遷移する。簡単に言えば、これは対象となるエサが分解に伴い変化し、また先行する微生物活動の結果、環境条件(温度、酸素、湿気、pHなど)が変化するためである。この分解によって最終的には二酸化炭素と水と無機化合物になるが、これを畑の外で一挙に火をつけてやるのが燃焼、ゆっくり余り温度を上げずにやるのが堆肥化、畑の中で更に時間をかけてゆっくりやるのが有機物のすき込み。燃焼に微生物活動は介入しないが、後の二者は微生物の繁殖活動。畑との関係では、燃え残りの灰を撒くことは無機化合物を供給することになるし、堆肥または有機物は、その分解レベルに応じて、それぞれの微生物相とその生育環境をセットとして供給することになる。畑環境の中で、これがどのように遷移するかが最大のポイント。○有機物施用で土壌病害を減らせるかという問題は、この考え方を適用すれば有機物の分解レベルに応じた「微生物相と生育環境」が病原菌の活性化にプラスになるかマイナスになるか、中立的かによって異なる、といえるのか。○作物の栄養代謝と有機物施用の効果「有機物も、作物を健全な栄養状態で育てるという効果が大きい。最近、有機物の効果として、微生物活性を高め、病原菌を抑制するという側面が強調されているが、むしろ有機物の本来の効果は、根張りをよくし、肥料の効き方がゆっくりと長く続き作物を丈夫に育てることが主である。...乾燥豚糞の施用は、同じフザリウム病に対して、キュウリでは発病を抑えるのに、ダイコンでは助長する。これは、作物に種類によって体内の栄養代謝が異なり、キュウリでは豚糞の肥効が抵抗性を高めるのに作用したのに対し、ダイコンでは窒素の効きすぎなどでマイナスに働くためと思われる」(「土壌病害をどう防ぐ」から、111、31.p)・これは病原菌の活性と作物の抵抗性(栄養代謝)の両面から考えなければならぬことを示唆している。○窒素過多による抵抗性の劣化「窒素過多になると作物の体内成分として水溶性窒素が増加し、根からの糖、アミノ酸などの分泌物がふえる。とくに純(絶対)寄生性や根系生息性の病原菌は、この根からの糖、アミノ酸などの分泌物に直ちに反応し、胞子の発芽が促され根面に向かってくる。さらに窒素過多の作物は軟弱に育ち、侵入しようとする病原菌の酵素によって植物の細胞壁が分解を受けやすくなり、植物の抵抗性が弱くなる」(同前、27-28.p)・窒素過多による栄養生理の乱れによる生成物が病原微生物の活性を高める側面と物理的抵抗性の喪失との両面。前者については代謝機能の乱れが病原微生物を特異的に活性化するような相関関係があるのか・窒素過多で軟弱に育つとは、どういう意味か(作物生理の立場から見ると、どういうことか)○有機態窒素の吸収「作物は、有機態窒素を直接吸収し、同化することができる。しかし、土壌中の有機態窒素は、一般に吸収される前に土壌中で微生物の働きで無機化されるから、実際問題として作物が有機態窒素を直接利用することは比較的少ないと思われる」「植物はアンモニア態、硝酸態、尿素のほか、アミノ酸も直接吸収利用することができる。無菌栽培したイネ幼植物の実験では、無機態窒素の変わりに単独のアミノ酸を用いた場合はグルタミン酸、γ-アミノ酪酸は無機態窒素に近い効果があったが、グリシン、フェニルアラニンの場合は生育が劣った」(「作物栄養・肥料学」文栄堂出版、1994)・比嘉さんの有機態窒素も吸収しうるという指摘は容認されるが、ここでの記述を見ればそれ以上に積極的意味があるかどうかは必ずしも確認できない。○有機物の分解レベルに応じて微生物相が遷移するということは、当然、有機物の種類に応じて(一般的にはC/N比に応じて)繁殖する微生物相が異なることを意味する。従って、畑の微生物相を多様化する目的のためには、C/N比の異なる様々な有機物を組み合わせてすき込むことが良いといえるか。例えばムギの残カンはそのまま刈り倒し、跡にソバ、ナタネなどを混播きしてソバの刈り跡にすき込むなどの方法は有効か。○微生物相によって土壌の型を分ける比嘉さんの考え方は、有機物の分解に伴い微生物相が遷移するという問題をどのように捉えるのか。例えば遷移パターンをあるていど類型化して捉え、ある種のパターンに収めるような管理法を採用するということは可能かも知れないが、このへんが比嘉さんの考え方のポイントのような気がする(よく分からない)。○「有機物の分解力と植物の生産性の関係」図が、「有機物をどう使いこなす」に掲載されている。それによると微生物の活動適温は30-40度で、この温度域で有機物の分解が最も著しくなる。一方、植物の活動適温は20-30度。この図によれば「土壌中の有機物分解力と植物の生産力は25度付近でバランスが取れている。この温度より高いと有機物分解力が植物生産力を上回り、土壌中に有機物が蓄積しない。逆に25度以下では植物の生産力が有機物の分解力を上回り、その差が有機物として土壌中に蓄積され、腐食となってゆく」(同書、77.p)この図を、季節的変化・地域的(緯度・高度)変化で読み替えると、どういうことが考えられるか。○「土壌中に微生物が定着しうるかどうかは、その土壌条件が、目的とする微生物に適した生活の場を与えてくれるかどうかにある」(同書、170.p)・作物の地域特性や季節性と土壌微生物との間に、なんらかの相関関係があるとすれば、これを無視した作物栽培には代謝系に何らかの変異をもたらしても不思議はない。これと作物の病害虫害との関係。・作物の種差と微生物相のあいだには関係があるのか。○根圏微生物の定着に及ぼす環境因子として1.微生物の相互作用2.根の分泌作用3.土壌の物理的・化学的条件4.作物体の栄養条件が指摘されている。(同書、171.p)こういう方面から問題を考える視点と比嘉さんの考え方との整合性、または視点の転換はどのように捉えればよいのか。
2006/02/20
これからは図書館も利用できなくなるし、脳作業より農作業のほうが忙しくなるので、手元の本から、更に考えてみたいと思うテーマを前後脈絡なく、思いつくままにメモ風に列記しておく。○前回引用した「根圏微生物を生かす」に、有用根圏微生物の競合作用を利用するという指摘がある。・「有用」という点について明確な考え方があるのか。更に進んで根圏微生物相について、望ましい根圏微生物相とそれを実現する具体的な技術についての方策はあるのか○「環境保全型農業大事典」に「根圏微生物相の多様性と土壌病害」というテーマで、次のように書いている。「筆者らは、普通畑の作物根系伸長発達と根圏微生物フロラとの関係を、有機・無機連用圃場と農家圃場で追跡し、根の伸長発達が根圏の糸状菌フロラの多様性と密接な関係にあることを見出した。...糸状菌フロラの多様性指数には作物間種差が見られ、ジャガイモ>秋播コムギ>テンサイ、ダイズ>アズキ、インゲンマメの順であった。この順序は作物の連作耐性の大きい順序ともよく一致し、連作障害の出にくい作物ほど、その根圏には多様性に富む糸状菌フロラが形成されていた」(2巻、43-44.p)。・糸状菌フロラの多様性と根系の発達にはプラスの相関関係があり、根系が発達しているほど連作耐性がある。これを作物間種差を超えて一般化できるのか○一般的には微生物相は多様で、豊富なほど良いとされている。逆に土壌病害の発生した圃場の微生物相は単純で、貧相だといわれる。単純で、貧相だから病原微生物が特異的に増殖しやすい条件が形成されたのか、逆に病原微生物の増殖の結果として単純化し、貧相になったのか。・単純で、貧相な微生物相を形成する生化学的要因と病原微生物の増殖にはどういう関連があるか。○土壌病害の発生した圃場に有機物を投入すれば(エサを供給し)、所期の微生物相を回復出来るのか。一般的に有機物の投入は予防的にばかりではなく、事後的にも(一種の治療薬的効果)利用できるのか。・「環境保全型..」は「有機物による土壌病害の抑制」というテーマで、こう書いてる。「根活力増強や土壌病害の抑制に、根圏微生物生態系の安定性、根圏微生物的緩衝能が少なからず関与していることが伺える。そして堆厩肥施用は微生物的緩衝能の増大に有効でありこれが良質の堆厩肥が示す土壌病害軽減効果の主たる要因と推定される」(2巻、49.p)・一方、「有機物をどう使いこなすか」は「土壌病害は有機物施用で減らせるか」というテーマで、こう書いている。「効果は様々だが、傾向として軽減効果は作物によって異なり、果菜類では軽減しやすく、葉菜類では軽減となったり促進したりで、根菜類では促進になるようである。有機物施用により土壌の微生物は同じように変化しているにもかかわらず、軽減効果が作物の種類で異なるということは、病原菌と拮抗菌だけの関係だけで片付かないことを意味している」31-32.p○有機物施用には限界がある。「土壌の窒素肥沃度を長期的に維持するのに望ましい堆肥施用量は1-2トン/10アール」で、むやみに有機物を入れて養分過剰状態にしてしまうと、有機物施用をやめてもすぐには養分放出はとまらない。(同前、34-35.p)○有機物のタイプと利用法。C/N比によって有機物のタイプを20以下、20-50、50以上に分類し、その窒素発現の型を四通りに分けている。すなわち1.はじめから窒素を土中に放出する2.はじめは土中の窒素を吸収するが、比較的早く窒素を放出する3.土中の窒素吸収は1-2ヶ月続くが 、後期には放出する4.はじめからゆるやかな窒素の吸収が起こり、持続する。(同前、140-150.p)○土壌のタイプによる有機物の分解特性この場合の土壌タイプは物理化学的性質による分類で、「土壌の種類により有機物分解力に差があるものの、環境条件(温度、水分など)によって、その差が明確な場合も、また明確でない場合もある」(同前、82-88.p)○土壌微生物に対する一般的な考え方は、・土壌の形成における微生物の役割・物質循環・食物連鎖における土壌微生物の役割・根圏における植物と微生物との不可分のつながりなどを述べた後に、このように重要な役割を果たしているから、土壌微生物はいろいろな種類のものが沢山いるほどよい、というに留まっているように思われる。どのような微生物群が優勢かによって土壌を、腐敗、浄菌、発酵、合成の型に分類し、明確な目的を持って微生物群を育てていこうという比嘉さんの意見は、非常にユニークなものである。この場合、有機物のタイプ(C/N比)、土壌のタイプ(物理化学的性質)などは後景に押しやられるが、土壌微生物を主体に考え、それを制御することは可能なのか。○植物の耐病性のしくみについて「環境保全型..」に1.物理的抵抗要因(細胞膜の石灰化、クチクラ層の厚さ、イネいもち病の抵抗性に見られる茎葉部へのケイ酸の蓄積)2.生化学的抵抗要因(植物体内の各種病原菌抵抗性物質、植物と微生物の相互作用によって植物側に蓄積される低分子の抗菌性物質=ファイトアレキシンまたはフィトアレキシン)3.耐病性と栄養生理(窒素過多による耐病性の低下、イネの場合のケイ酸化による耐病性の強化)、が指摘されている。(2巻、61-65.p)○植物と土壌微生物の相互作用植物根から分泌される各種有機物は土壌微生物を養っている。土壌微生物から植物に対する積極的貢献の最大のものは空中窒素の固定だが、個別的・具体的な関係についてまとめること。土壌酵素、植物ホルモン、その他○自然の森林には肥料がいらない。この森林の生態系からの類推で無肥料で畑作物を育てるという考え方がある。あるいは化成肥料や農薬の散布によって様々な毒素が土壌に蓄積され、それが自然の持つ本来の生産力を損ねているという考え方。「森林では、単なる物質の循環だけでなく、物質の分散と集中がくり返し起こり、あらゆる生物がその過程のどこかにかかわって共生しながら生きている。森林の中に集積される物質は、森林が破壊されるまでその中にとどまり、小循環をくり返している。このような自己完結型の循環は、人間が作物を収奪し、施肥によって補っている耕地の場合とは全く異質なものである」(「作物と土をつなぐ共生微生物」51.pから)・この異質性を前提にして、森林の生態系から何を学べるか。○菌根菌と耐病性「細菌や放線菌に比べると、植物に共生する真菌の数は格段に多く、植物の約80%がなんらかの形の菌根を持っている。...一般には根の細胞への菌糸の入り方によって内生菌根、外生菌根、内外生菌根および擬菌根の四つに大別している」(同前、86.p)マツの苗畑で菌根菌が充分に共生している場合、立ち枯れ病が防がれる例について「菌根菌は若い吸収根に侵入するという点で、病原菌に近い生態的地位を持っている。したがって、病原菌がつく前に菌根菌が感染して吸収根を菌鞘でつつんでしまうと、病原菌は侵入できなくなる。実際、菌鞘の上に病原菌のフザリウムの菌糸がはっていても侵入できず、対じ培養によっても菌根菌が病原菌を抑える例が知られている。また、たとえ病原菌が根の中に侵入したとしても、ハルティヒネットが形成されておれば、それ以上拡大できず病気が抑えられる」(91.p)一方、VA菌根菌が病原菌の侵入から植物の根を守るという考えは「外生菌根のばあいと同様多くの研究者によって支持されているが、定説はまだない。作物の種類、土壌条件、養分のレベル、病原菌と菌根菌の組み合わせがまちまちで、研究の結果が一致しない。これまでの結果では、地上部の病気、例えばサビ病やウドンコ病の発生はVA菌根の有無と無関係か、むしろ増加するといわれている。これに反して根の病害の場合には抑制効果があるという例が多い」(108.p)、ちなみにVA菌根菌は内生菌根の代表格である。○連作障害とVA菌根○共生微生物のいない環境(水耕栽培)「植物はその起源から今日まで、微生物が群がる土の中に根を張って生きてきた生物である。土に育つ植物にとって微生物との共生はきわめて本質的性質であり、自然の生き方であることを忘れてはならないだろう」(213.p)・植物工場では、土壌微生物との関係はどうなのか、無菌培養?○拮抗微生物総合防除とは言いながら「環境保全型..」では、拮抗微生物は生物農薬として、要するに対症療法的に利用するにとどまっている。比嘉さんの言う微生物群による土壌の型という考え方から拮抗微生物の役割を考えるとどうなるか。
2006/02/19
農文協から「環境保全型農業大事典」(2005刊)2分冊が出ている。1巻は「施肥と土壌管理」、2巻は「総合防除・土壌病害対策」、共に800ページ余の大冊で、もう熟読している暇もない(そろそろ岩手に戻るので)。2巻の中の「病害虫抵抗性のしくみ」を扱った部分と「土壌病害をどう防ぐ」(講座「微生物段階の土つくり」4巻、小川奎、1988刊)の2冊を中心に、微生物活動と土壌病害との関係について、最近の知見をまとめておく。1984年の農水省野菜試の調査では、野菜連作障害の原因別分類(881例)の約85%が病害によるもの(72)・病害らしいもの(12.6)、病害の内土壌伝染性病害は約61%、空気伝染性病害が11%を占めている(「環境保全型農業大事典」39.p、1978年の調査は「連作障害対策」に掲載)。土壌病害の蔓延する社会的背景は、前に書いた(参照:輪作・連作/改めて思うこと)。要約すれば畑作の衰微、野菜作へのシフト、産地化に伴う単一野菜の連作などが、主な内容である。これに伴って、次のようなことが指摘されている。土壌病害は本来は、風土病的性格のものだが、広域的性格を帯びてきた。また主要野菜から地域性の強い野菜まで、さらにムギ類、サツマイモ、ジャガイモ、ダイズ、ラッカセイなどの普通作物にも例外なく発生している。病気の種類は多様化し、土壌病菌の代表のフザリウム菌やバーティシリウム菌ばかりではなく、不定性病原菌と呼ばれる病原性の弱い菌が連作障害の原因になっている(「土壌病害をどう防ぐ」15.pから)。苗や種子による媒介、作物および土壌の耐性または緩衝性の劣化などが伺える事実である。土壌病害の特徴は、1.待機型(病原菌のいる畑に限って発生し、特定の宿主作物が現れるまで休眠状態の耐久体で待機している)2.蓄積型(ひとたび発生すると、病原菌は蓄積され容易に減らない)3.被害が重篤(根部や導管部が犯され、枯れ死などの被害を受けることが多い)と指摘されている(同前、18-19.p)。「植物病理学」の立場から見れば「病原体が特定の植物に感染するのは、たまたまその病原体がこの植物の養分をエサとして生長するように進化してきたため」で食物連鎖の一環とみなされる(参照: 「食物連鎖の関係」を考える )。一方、根圏微生物という立場から見れば、土壌伝染性病原菌は決して特異なものではなく、根圏微生物の一部、特にその中でも根の内部で生育する内部根圏微生物の一種と見られている。「根圏微生物を生かす」(木村真人、講座第2巻、農文協、1995刊)のなかで「土壌病害が簡単に防げないわけ」というテーマで、次のように書いている。ダイコン萎黄病の菌がダイコンの根の細胞内に侵入する過程は内部根圏微生物の増殖過程と同一で、「根粒菌、菌根菌と同じように土壌病原菌が根内部で生育することから、この病原菌を内部根圏微生物の一部とみなすことができる。ただ前者が根粒菌の場合のように、宿主と微生物が相互に利益を享受しているのに対し、後者では病原菌が宿主に寄生し、発病・枯死を引き起こす点が異なっている。この内部根圏微生物のなかには、根粒菌や菌根菌、病原菌のほかに、ある種の微生物のように、宿主の生育条件が不良になった場合にはじめて病害を引き起こす微生物まで、各種の幅広い微生物が含まれている」(121.p)要するに、土壌病原菌が根圏微生物として特異的なものでないとすれば、土壌病原菌のみを特異的に阻止できる対策はない。したがって「土壌病害の場合、薬剤で病害を完全に阻止できる例は少なく、防除は生態的防除に重きを置かざるを得ない」(120.p)では生態的防除とは何か?「これら病原菌の生態的制御のためには根圏環境を健全な状態に維持し、有用根圏微生物の競合作用を利用することがぜひ必要」(122.p)と書いている。これは、僕には連作障害を出さないような作物つくり・土つくりと読み取れる。経営的にはいざ知らず、技術的な連作障害対策はただ一つ、連作をしないこと。連作を続けながら連作障害対策をいろいろ模索することは、基本的に見当違いな努力としか考えられない。「輪作って、なに?/2」でも引用したように、大久保さんの提案、すなわち輪作の基本的機能を「畑における水」と捉えた上で、1.地力維持に必要な有機物生産量の多い作物、いわゆるイネ科作物を基幹とし、2.養分吸収特性の異なる作物、3.跡地に残す養分量が異なる作物、4.根系分布の異なる作物、5.共通の土壌伝染性病害のない作物を選んで組み合わせる、ことが作物つくり・土つくりの基本技術ではないか。仮に野菜作中心の経営であっても、以上のような輪作の基本的機能を組み込んだ緑肥利用、間作・混作を取り入れた栽培の工夫が不可欠ではないのか。連作障害がいったん出てしまえばどうするか?土壌病害が原因だとすれば、宿主となる作物の栽培をやめるのが、一番手っ取り早い方法だろうけれど、それだけでは不十分だ。病原菌微生物がいろいろな競合関係を乗り越えて優勢になりうる・または宿主細胞に侵入して寄生しうるなんらかの生態的アンバランスがあるのだろうから、それを矯正することが不可欠だ。「病原菌の定着した畑で連作を続けると、一般的には発病率がだんだん高くなる」と指摘されている(「土壌病害..」25.p)。その主な要因として三点指摘されている。1.病原菌の蓄積「病気に罹った作物では、病原菌が繁殖して無数の胞子を形成する。枯れ死した作物遺体は土壌中に埋没され、多くの微生物の分解を受ける。その過程で、大部分の胞子は拮抗微生物の攻撃を受けて死滅する。それでもかなりの胞子は耐久体となり、土壌中で越冬し、翌年の伝染源として蓄積される。アブラナ科ネコブ病菌は、羅病根のこぶ1グラム当たり約10億個休眠胞子を形成する。このように羅病作物上での病原菌の再生産量の多さは想像を絶するものがある」ここで色々なことが想像される。・病原菌の繁殖の第一条件は宿主作物があることだが、気温・湿気・pH・養分・好気的または嫌気的条件など病原菌の繁殖条件を考慮すること・病原菌は単独で繁殖しているわけではない。競合または拮抗微生物との競争で生きているわけだから、後者の生存が有利になるような条件を整える・輪作の場合は、病原菌の密度と休眠期間の長さを考慮すること2.病原力が強くなる「連作をつづけても病原菌密度は無限に増え続けるものではなく、フザリウム病菌などは、土壌に応じて一定の飽和菌密度があることが認められている。ところが、連作回数を異にする土壌に、同じ数のフザリウム病菌をそれぞれ接種すると、連作回数の多い土壌ほど病気の発生も多い。寄生作物を栄養源として育ったフザリウム菌の厚膜胞子は、非寄生作物で育ったものに比べて内容物に富み、病原力が高いことが、インゲンネグサレ病、タマネギカンプ病、イチゴイオウ病などで認められている。このように、連作条件下で増殖、蓄積した病原菌は、活力に富み、同じ菌数であっても発病率が高い」・連作は、病原微生物を特異的に有利な条件で培養しているようなもんで、一般的には連作とともに発病可能性はたかくなるのは当然。のみならず病原菌自体の耐性が強化される。3.作物の抵抗力が弱まる「連作土壌では、輪作土壌にくらべて微生物の種類が単純になる傾向がある。連作によって根系が縮小して吸肥力が減少する。これに加えて、肥料分の過剰蓄積や微量要素の不足など養分バランスの不均衡が生じ、根の機能が損なわれやすい環境にある。根の機能低下は作物の栄養代謝を撹乱し、病気に対する抵抗力を弱める」(引用部分は同前25-26.pから)
2006/02/18
「ちょっと気になること」で触れた講座「微生物段階の土つくり」(農文協)は、・土壌微生物とどうつきあう・根圏微生物を生かす・有機物をどう使いこなす・土壌病害をどう防ぐ・実例追求・新しい土壌管理の5分冊で構成されている。このほかに「土壌微生物の基礎知識」は、5分冊全体から主要ポイントを80余のテーマに絞って、各2-3ページで簡単に解説したもの。いままで「土壌微生物の基礎知識」と「土壌微生物とどうつきあう」の2冊に主に付き合ってきた。土壌微生物って、農業には切っても切れない大事な役割を果たしているらしいなと思えば、他の何を読まなくとも(ノウハウ本など脇に退けて)、せめて「基礎知識」くらいは読むべきだ。何を書いてきたか?土壌微生物とはどんなものか、その簡単なスケッチを基礎に、我々は作物栽培を通して土壌に働きかけているが、実は土壌微生物という目には見えない世界を介して作物に働きかけているのだということを書いてきた。言い換えれば、土壌は機械で耕転し、栄養剤のように肥料を与え、病気が出れば薬剤を投与して、それで我々の望みのままの作物を生産できる無機質の野菜工場のようなものではない、ということを書いてきた。これは土壌の本質的性質である。化学肥料や農薬を使ったから、それで即土壌が死んでしまうとか、逆に有機物や有機質肥料を使っているから、それで土壌にやさしい土作りだとか、そんな生やさしい戯けたものではない。しかし「あれかこれか」式の機械的理解というものは、大方、この戯けたレベルに留まっている。なぜ戯け(タワケ)ているか?作物を栽培するという行為そのものが、程度の差はあれ外部世界から土壌微生物世界に対する働きかけである。例えば「持ち込まず持ち出さず」が自然農の原則だという考え方がある(原則ではなく、そういう姿勢だという反論もあるが、そんなものは反論ではなく単なる言葉遊びだ)。作物を栽培して収穫するという人為的行為を前提にして、「なるべく持ち込まず持ち出さず」という姿勢を云々すること自体、僕には滑稽な錯誤にしか見えない。問題は、作物栽培を通して外部世界から与えた撹乱行為(耕起・不耕起、無肥料・有肥料、化成肥料・有機肥料、農薬・無農薬は程度の差に過ぎない)が土壌と土壌の微生物世界にどのような変容をもたらし、累積し、作物と土壌微生物との交互作用にどのような変容をもたらすかを解析することだ。前に「生命とは代謝機能を媒介に遺伝情報を自己複製していくもの」だと書いたが、このレベルで考えれば、土壌微生物と作物と人間の代謝機能の交互作用と遺伝情報にどのような変容と累積効果をもたらすか解析することだ。前回、病害虫を含む各種障害の原因は代謝系の乱れにあるとか、各種のストレスで代謝系に狂いが生じた場合、代謝の整合性がとれずに多量の中間的な還元物質を生成するようになるとか(アンモニア酸化細菌と亜硝酸酸化細菌のバランスが崩れて、土壌中に亜硝酸が蓄積する例、参照:硝化作用)、有機物が還元状のガス(炭化水素、硫化水素、アンモニア、その他)に変化し、空中に放出される腐敗型の土壌だとか、これらの比嘉さんの考え方が非常に魅力的な発想だと書いたのは、そのためだ。代謝機能の正常な流れを、我々はバランスと捉えている。比ゆ的に考えれば、ある程度のバランス感覚は誰でも備えている。それなしには生きていけないから。しかし時代と共に環境と共に、個人であれ民族であれ、バランス感覚を失ってしまう場合もある。類似のことは自然界にも当てはまる。通常は、ある程度のバランスの喪失は復元される。というよりも実際の過程は静態的バランスではなく、動態的なバランスで、喪失、回復、過剰回復(逆の喪失)、回復の繰り返し。言い換えれば均衡を崩しながら均衡を取り戻す過程が実際のバランスだろう。自然界にカタストロフィがあるということは、時に動態的バランスの過程である種の異常累積が起こり復元ポイントを超えてしまうことがあるという事だろう。時間レベルに差があるにしても、自然界にも人為的行為にも等しく累積効果はある。「持ち込まず持ち出さず」という考え方は、自然界の代謝機能にできる限り人為的な撹乱要因を持ち込まないとの「配慮」だろうけれど、物質循環・食物連鎖の生態的環から人間を取り除けないとすれば、人為的撹乱を取り除くことは不可能。「なるべく」とか「そういう姿勢」とかの戯言は人間レベルのお喋りで、微生物レベルの撹乱作用にどれほどの関係があるのだ?百姓の主な関心は、作物栽培に限れば・作物の収量を高めること、・病害虫を防ぐこと、・品質を向上させること、にあるだろうか。経営的視点を加えれば別の関心もあるが、これは対象外とする。作物の収量の、主な制限要因は窒素である。というわけで窒素の過剰供与が起こり、窒素の代謝に異常な偏りが起こり、結果として病害虫被害やらまずい野菜が蔓延している。窒素肥料の増量供与で収量を高めることと病害虫を防ぐ・品質を向上させることとは、ある点を越えれば二律背反に陥る。これは化成肥料を使おうと、有機質肥料を使おうと同じこと。次回は、土壌病害に話題を移す。
2006/02/17
前回の続き。第3章の土壌管理を中心とした部分からの摘記。○代謝系の乱れ代謝系の乱れは、病害虫を含む各種障害の原因となる。従来、代謝の流れの中に人為的なエネルギーの添加は困難とされてきたが、アミノ酸や各種の有機物および糖類の葉面散布の効果が確認されるようになって以来、この考え方は根底から否定されている。81.p○根の活力を左右するのは根圏微生物酵素の活性は有効な酸素量と高い相関にあるが、有効な酸素量は根圏の微生物によって大きく異なっている。土の中に腐敗分解型の微生物が優先すると、根の界面の酸素量が不足し、また各種の還元物質による酵素の不活性化とあいまって根の機能を著しく低下させる。一方、土に発酵合成型の微生物が優先すると、土の中の酸素の消費量が減少するばかりではなく、各種の有害な還元物質を合成の基質(エサ)に利用するため、生理化学的には酸素を供給された形となる。従って各種のアミノ酸やホルモンやビタミンなどの生理活性物質の合成が容易に行われるようになり、その結果が根の活力に結びついている。89-90.p○水質の重要性水の本質的な働きは、無機の世界と有機の世界をつなぐ役割である。すなわち、無機体と生命体をつなぐあらゆる分野で水の存在が必要である。太陽のエネルギーを有機のエネルギーに転換する場の電子は、基本的にはすべて水に由来するものであり、この作用を抜きにしては生命体のエネルギー授受は不可能である。次に重要なことは、物質の分解や溶解および吸収に関与する諸々の作用である。水の持つ水素結合力や酸化還元反応の程度は、物質の有害、無害、有用化の程度を決定し、蘇生と崩壊の方向を定める根源的なものと結びついている。微生物の活動もすべて水素の授受のあり方で腐敗になったり、発酵に変わったり、合成に変化したりしており、水素や酸素との関係において固有の性質を保っている。第三は、熱収支に関する環境保全効果であり、水の存在は極端な環境圧から生命体を守る役割がある。100-101.p○使用する水質のよしあしが根の活性、養分の溶出や吸収、病害虫の発生や抑制、環境適応性などに深く関与している。104.p○土壌管理の要点浄菌・発酵合成型の共生バランスがうまく取れるような土壌微生物管理が土壌管理の基本である。この原則で管理すれば、土壌は、土壌の化学性や物理性、物理化学性に関係なく、また強酸、強アルカリ土壌や砂地、重粘土壌など、本来、全く性質の異なる土壌でも数年以内には大差のない状態になってくる。112.p○有機物利用といえばこれまで完熟堆肥の施用が原則とされているが、いずれも未熟有機物の分解過程における有害な作用を回避するためである。一般には腐敗過程を経て腐熟させたものが多い。腐敗過程においては多量のガスやエネルギーが放出されるため、腐熟終了後は腐食などの分解困難な低カロリーの有機物しか残っていない。従ってエネルギーの有効利用の立場から考えると、完熟した堆肥は燃えカス同然であってきわめて無駄が多い。そのため堆肥施用による肥効を高めるには大量の投与が必要となってくる。この点からいえば、有機物は未熟のほうがよいということになり、土壌が発酵合成型になっていれば、生の有機物の害はなく大きな効果が得られることになる。114.p○土壌中の微生物は多種多様であり、数の面から見れば天文学的な数値となっている。そのような現実が人工的に培養した微生物の参入を拒否するように誤解されがちであるが、腐敗、浄菌、発酵、合成のそれぞれのグループ内で競合する例はまれである。強いて言えば、腐敗型のなかの病原性グループ対そのほかのグループの対決である。浄菌、発酵、合成のグループは、むしろ連携プレーするものが多く、その成果が安定的になった土壌が浄菌力の強い発酵合成型土壌となる。具体的には微生物資材を良質の有機質肥料や堆肥または堆肥材料と混和し、ゼオライトや木炭のような多孔質でイオン交換力のある無機質改良材も併用して、ボカシにして施用することから始めるほうがよい。124.p○植物は各種の代謝系が正常に回転している場合は自己に有害な還元物質をほとんど生成せず、病害虫抵抗性も強く旺盛な生育を示す。しかし、各種のストレスで代謝系に狂いが生じた場合、代謝の整合性がとれずに多量の中間的な還元物質を生成するようになる。このような状況は一種の自家中毒症に類するものであり、生存不適な生理的条件である。病害虫のほとんどは、このような還元物質によって誘引され、その物質を基質(エサ)にして増殖する仕組みになっている。自然界における還元物質の大半のものは、悪臭を発し細胞や酵素活性を著しく低下させる作用がある。135.p○緑肥の活用有機物は完全に無機化しなければ吸収されないという考え方に基づくなら、緑肥作物は単一のものでよいが、有機エネルギーのリサイクルを前提とするなら発酵合成型の微生物を利用する場合は、材料の多様化はきわめて重要である。たとえ発酵合成型の微生物を使用しなくても、有機質の素材が多様であれば、微生物相は多様化し、それなりの効果が現れてくる。緑肥作物を多様化する場合、通常はイネ科とマメ科の混播が行われるが、効果を確実にするにはすじ状に播種する必要がある。同じ科に属するものは、生長に極端な差がなければ相互に群落形成を促進する効果がある。植物はそれぞれの特有な根圏微生物相を形成する能力があり、複数群落にすればするほど、その相互効果は大きくなる。154.p○土壌を常に発酵合成型に管理することができれば、未分解の有機物は多ければ多いほど多収となる。そのような場合は、炭素率は特に重要ではなく、有機炭素の絶対量が問題となる。すなわち、土壌の微生物相が発酵合成型になっていれば、窒素の合成系も連動しており、特に窒素分の多いものを必要としない。155.pその他、雑草対策、無耕起栽培、育苗技術、品質向上対策、土壌の簡易診断法などについて書かれているが、これらは省略する。簡単なまとめ。1.腐敗、発酵、合成という視点から微生物相を捉え、またどの微生物相が優先するかによって土壌を分類するという発想は基本的に優れている。2.個々の具体的記述、例えば代謝系の乱れとか、浄菌・発酵合成型の共生バランスがうまく取れるような土壌微生物管理とか、水の持つ水素結合力や酸化還元反応の程度は、物質の有害、無害、有用化の程度を決定するとかの記述については、(非常に魅力的な発想と感ずる反面)生化学的な具体的分析がないこともあって、曖昧さを感ずる。3.土壌の管理技術・栽培法についての具体的提案は、筆者の基本的な考え方に対する賛否のいかんに係わらず示唆に富んでいる。
2006/02/16
比嘉さんの考え方の眼目は、この本の副題および前回の土壌分類からも分かるように発酵合成型の土壌に変換すること、あるいは発酵合成型・浄菌型の菌類が優勢になるような土壌微生物相を作ること。従って、第2章は「発酵合成型の土壌と作物生産」、第3章は「発酵合成型に向けた土壌管理・栽培法」となる。2章および3章から基本的な考え方を浮かび上がらせる特徴的な記述だけを摘記する。さらに具体的な内容を期待する方は、同書を熟読してください。○微生物相の形成は、目的とする微生物が土壌に定着した場合に起こるが、ある特定の種類だけを突出させることは困難であり、生態的に群として定着させることがポイントである。35.p○グラム陰性菌には病原性のものが多いのに対して、グラム陽性菌には抗生物質を生成するものが多く、有用菌の代表格とされる乳酸菌や有用放線菌群の大半のものはグラム陽性菌である。47.p○乳酸生成菌は40度以下の条件で、米ぬかや油粕、魚粉などの良質の有機物で微好気的に培養すると爆発的に増殖する性質がある。このようにして増やしたものを10アールあたり30-50キロ程度施用すると、有害なグラム陰性菌嫌気性菌を抑制することが可能になる。栽培の更新や追肥のたびに、乳酸生成菌が増殖するような管理を続けると原核微生物界は浄菌および有効発酵力を有するようになる。しかし乳酸生成菌にばかり頼ると有機物の分解が促進され、地力が著しく低下する恐れがある。49.p○酵母はビタミンやホルモンなどの生理活性物質の生成能力が高く、植物の成長促進に対し顕著な効果が認められている。55.p○菌根菌はすべて絶対共生菌で、植物の根に菌糸を差込み有機養分をもらうかわりに、植物の根が吸収できないような微量のリン酸、不溶性のリン酸や他の無機養分を吸収して植物に与えている。なかでもVA菌根菌は汎用的で、最も重要視されている。木炭との併用効果は著しいものがあり、無化学肥料栽培の強力な可能性を有しており、また病害の抑制効果もかなり高いことが明らかになっている。58-59.p○土壌の劣悪化・老朽化とは、極端に腐敗型になっている場合である。そのような土壌は有機物を施用しても、その有機物が還元状のガス(炭化水素、硫化水素、アンモニア、その他)に変化し、空中に放出される際に作物の根を害するばかりではなく、それらの物質の二次代謝による酵素阻害物質の生成のために生育が著しく抑制されるという悪循環を抱えている。60.p○特に窒素を中心とする化学肥料の多用は土壌中の有機物の分解を急激に促進するため、結果的には土壌中の微生物相を片寄った貧弱なものにする。そのため腐敗分解型の微生物が常に優先しやすい状況となる。61.p○土壌に投入された未分解の有機物を、高温もガスも発生せずに発酵的に分解すると同時に、分解過程で出来る有害な還元物質を合成的に有効利用する系を発酵合成型土壌と称している。土壌中における生の有機物の分解は腐敗型が普通である。従って発酵微生物の処理を行っても、部分的には腐敗の系が残っている。従って、有機物の有効利用を考えると発酵型の微生物のみでは充分でなく、合成型の微生物を連動させる必要がある。65.p○自然の微生物は腐敗分解を中心に浄菌・発酵・合成系のバランスの上に成り立っている。一般的には常に腐敗の系が優先する状況にあるが、分解が進めば浄菌のレベルにまで到達する。完熟堆肥施用の有機農業は、このレベルにとどまっている。従って有機農業が、有機物を分解しきって得た無機の窒素源を利用する腐敗分解に立脚している間は、食糧生産に対する本質的解答を出すことは不可能である。71.p○現在の腐敗分解を前提にした農業技術体系では、あらゆる面で限界がある。この問題の解決には、エントロピー(汚染)の発生しない系、またはエントロピーを合成的に回収する系を成立させ強化する必要がある。結論的にいえば、この条件に最も近づいているのが発酵と合成の世界の組み合わせである。発酵とは有機物の有機的可溶化であり、その可溶化された有機物を植物生産の系に取り込めば、汚染を最小限度に抑えた形で生産を強化することが可能となる。73.p○これまでの文献は、作物の養分吸収に際しては、有機物が無機化して初めて吸収されると記されているものが大多数を占めており、有機のままでも可溶化され吸収されると述べた例は、きわめて少数派である。したがって、発酵微生物や合成微生物によってつくられた可溶性の有機物も、無機化されなければ吸収されないと考えている専門家も少なくない。しかしココナッツやトマト、バナナなどを培地に利用した無菌の組織培養でも明らかなように、可溶性の有機物はかなりの速度で植物に吸収される性質がある。特に窒素は、無機態か有機態かによって品質や収量に著しい差異が認められる。無機の形で吸収される窒素は、アミノ酸を経てタンパク質になるまでに多量の糖類を必要とする。窒素過多の弊害はそのために生じるものであるが、当初からプロリンやメチオニン、その他の有効アミノ酸の形で吸収される窒素は、糖類を消費する必要はきわめて低率である。その結果、光合成産物の収支は著しく改善される。75.p以上は前半部、以下は次回に紹介する。簡単に注釈を入れておく。グラム陽性・陰性菌の違いは「土壌の微視的構造」で触れたように細胞壁の構造の違いによる分類だが、それがどういう生態的な特質につながるのか僕には分からない。炭化水素は、CnHm(この場合n、mは1対4の割合で、いろいろな数値が当てはまるという意味)という形式の有機化合物で、ほとんどの化合物は炭化水素の水素を他の原子や基(同じ化学的性質を示す原子の集合体と思えばよい)で置き換えた形式をしており、その意味で有機化合物の骨格といえる。ある種の炭化水素は大気中のオゾンと反応して光化学スモッグの原因物質になる。土壌生化学や植物生理学の分野で炭化水素についての言及は始めてみたような気がする。これがどんな役割を果たすのか分からない。ちなみに炭水化物は炭化水素のHを(H2O)で置き換えた形式をしており、別物だから間違えないように。最後の作物は有機態のままでも養分を吸収しうるという意見を含めて、全体として僕には初耳のことが多く、いまの段階ではなんとも評価する能力はない。但し、前回も触れたように作物栽培の視点から微生物を分類し、微生物生態の特徴によって土壌を分類しようとの考え方(まかり間違えばとんでもない見当違いの可能性もゼロではないが)は出色の慧眼だと思う。
2006/02/15
呼吸について酸素呼吸、硝酸呼吸、硫酸呼吸がある。また外部から酸素などを取り入れて有機物を分解し生体エネルギーを取り出しているのが呼吸とすれば、化合物同士の酸化還元反応内部の生成物で有機物を分解し生体エネルギーを取り出しているのが発酵である。呼吸、発酵を書いたついでに、ややわき道に待避する感もあるが、ここで「発酵合成型の土と作物生産」という視点から微生物の農業利用を積極的に提唱している比嘉照夫さんの「微生物の農業利用と環境保全」(農文協、1994刊)を、何回か取り上げてみよう。比嘉さんの基本的考えは「人為的な微生物施用」が必要かつ可能だという点にある。この考え方は「微生物利用」という点で「森の生態系に学べ、自然に学べ」という、ある種の自然志向派的な考え方に通有するかに見えながら、「人為的」という点で相容れないようだ(参照:「へえ、知らなかったね!!」)。比嘉さんは、こう書いている。「土壌微生物の世界は地上部の世界よりもさらに複雑である。有用な微生物の発生のチャンスは、森林の生態系と同じように、偶然性に支配されている。植物にも色々の種類があり、それらがゼロから完全な生態系を形成するには、数百年の単位を必要とする。そのうえさらに、その植物が食用として利用できるか否かは、また別の選択の問題である」25.p環境保全型農業の研究とともに微生物利用は始まっている。しかし依然として化学肥料や農薬の使い方と同様、対処療法的発想が中心である。「微生物の応用の基本的条件は、期待されるべき役割を持った微生物があるレベル以上の密度となり、その生成物が生産にプラスに作用するレベルに達して初めて、その効果が現れるという前提がある。したがって、いかなる有効な微生物でもこの条件を無視すると効果が全くなく、特に化学肥料や農薬と同じように機械的な試験方法には全くなじまない性質がある」26.p微生物を農業に積極的に応用するにあたって、比嘉さんの考え方の独創性は、次の点にある。「土壌微生物の同定、分類については未知の分野が無限的である。このような状況で土壌微生物相から土壌を分類することは暴挙と受け取られかねない面もあるが、作物の生産という立場から土壌微生物相を管理するとなると、一つの目安が必要となってくる。この場合の基本的考え方は、微生物の側に立つのではなく、人間の側に立った管理上の分類という点である。このような概念が成立すると、微生物は地上部の作物と同じような観点で管理する必要があり、どのレベルまで管理が可能であるか否かによって、その成果が異なってくる」28.pいままで僕が書いてきた微生物の生態についての簡単なスケッチは、すべて「微生物の側」からみた分類であり、生態である。また土壌そのものについては、ここではほとんど触れていないが(この点については、「講読の部屋」の中の「土壌・肥料学の基礎」や「はじめに土あり」を参照)理化学的性質から見た分類である。微生物相による土壌の分類という発想は、微生物の農業利用の立場からは不可避に見えるにもかかわらず、画期的である。繰り返し書いているように、物事は視点を変えれば180度転換して見えることは珍しくない。考え方の柔軟性・独創性とは、どれほど視点を変換しうるか、どれほど異なった視点に柔軟に対応しうるか、どれほど物事の表層から離れて本質に接近できるかにかかっている。さて、比嘉さんの視点。「土壌中には様々な微生物がいるが、大きくは分解と合成の系に分けられる。分解の系は酸化分解と発酵分解に大別され、発酵分解はさらに有用発酵(単に発酵と呼ぶ)と有害発酵(腐敗と呼ぶ)とに分かれる。一方、合成の系は窒素同化と炭素同化に分けられる。一般には、発酵と腐敗を混同しているむきも少なくない。”堆肥を自然発酵させる”という言葉に見られるように、本来は腐熟とすべきものを発酵として表現している例が多いためである。腐敗とは...有機物の分解過程で微生物活動によって多量のエネルギーをガスや熱として放出し、植物や動物にとって有害な中間物質や酵素阻害物質を生成し、急速に無機化する系のことで、無害になるまで長時間熟成させることを腐熟と称している。これに対して発酵とは、微生物活動によるエネルギーの放出はきわめて少なく、酸化分解の20分の一程度のエネルギーで、不溶性の有機物を比較的短期間に可溶化(吸収される状態)する有機物の有効化(加工)の系のことである。一方、合成とは、これらの分解物を基質に、窒素固定や光合成などで外部のエネルギーを取り込むことである」「酸化腐敗、発酵、合成の系は...土壌中では同時進行の形をとるが、どの系の比率が高いかによって、土壌のよしあしが決まってくる」28-30.pここまでのところで、僕は比嘉さんから物凄く多くのことを学んだ。1.これからの農業には微生物学と発酵学は不可欠だとは、前から考えていた。しかし、どのようにという点は曖昧だった。特に微生物学については、余りに多様で複雑な世界の制御はいかにしたら可能か、明確な視点を持っていなかった。2.この点、比嘉さんは微生物の側から見た分類ではなく、作物栽培という視点から土壌の微生物相を捉えるという視点、あるいは微生物相によって土壌を分類するという視点を提起している。3.このような観点から、土壌を酸化腐敗、発酵、合成という系で捉えるという視点を導入した。2は、僕は今まで考えたこともなかった。1と3は、自分が漠然と考えていたことを明確に定式化してくれたことで、一挙に「方向が見えた」という感じのものだ。腐敗、発酵、合成の系は、概念的には明瞭に区別できるが、田畑での実際の過程は複雑で入り組んだものであり、相互に入れ替わる可能性の高いものである。「有機物の生成は、極論するとプラス電子の取り込みであり、崩壊はプラス電子の放出である。その主導的な役割をなしているのが水素イオンである。その水素イオンが酸素と結合して水に戻れば特に問題はないが、硫化水素や炭化水素、その他悪臭を発する腐敗物質(還元物質)に変わるところに諸悪の根源がある。これに対し、たとえば、...土壌が水素イオンを吸着し、さらに光合成細菌など合成型の微生物が優位に働いて、これらの腐敗物質を糖などに合成する系が強く働けば、生産性の高い土壌になる。土壌管理や有機物の有効利用や地力の維持増進のためには、還元状の水素、すなわち植物に有害な炭化水素や硫化水素を嫌気的に取り込んで植物に有用な物質を合成し、しかも根などに酸素を給与する光合成細菌のような不完全光合成菌のほうが好都合である」31.p僕が、ここで重要だと思うのは、呼吸とか発酵とかを酸素という電子受容体の側から見てきたのを180度転換して、水素という電子供与体の側から見ようという視点の転換である。腐敗、発酵、合成の連動のしかた、またどのような微生物が主体になるかで、土壌は次のように分けられる。1.腐敗型土壌「土壌中の糸状菌の中のフザリウム占有率が高く(15-20%以上)、窒素分の高い生の有機物を施用すると悪臭を発し、ウジが発生したり様々な害虫が集まったりする。..無機養分が不溶化し土壌は固く物理性も悪い。水田ではガスの発生が著しい」2.浄菌型土壌「抗菌物質などを生成する微生物が多く、土壌病害虫がでにくい土壌を浄菌土壌という。ペニシリンやトリコデルマ、ストレプトマイセスなどの活動が強く糸状菌のなかのフザリウム占有率が5%以下になった土壌で病害虫の発生が極めて少ない。窒素分の高い生の有機物を入れても腐敗臭はなく、分解後は山土の表土の臭いがする」3.発酵型土壌「乳酸菌や酵母などを主体とする発酵微生物が優先している土壌で、生の有機物を施用すると香ばしい発酵臭がして、コウジカビが多発する。フザリウム占有率も5%以下で耐水性団粒形成能が高く、土壌は膨軟となり無機養分の可溶化が促進される。土壌中のアミノ酸、糖類、ビタミン、その他の生理活性物質が多くなり、作物の生育を加速的に促進する」4.合成型土壌「光合成細菌や藻菌類、窒素固定菌などの合成型の微生物が優先している土壌で、水分が安定していると、少量の有機物の施用でも土壌は肥沃化する」(以上は33-34.p)
2006/02/14
硝化菌にしても脱窒菌にしても特定細菌の固有名詞ではない。条件的嫌気性細菌とか窒素固定細菌とかの名称を固有名詞とは勘違いしないだろうけれど、硝化菌などは間違いかねないので念のため。脱窒菌については、「変幻自在の様態」の脱窒菌の項で書いたことで充分とは思うけれど「呼吸」という視点から、再度、見直してみよう。呼吸は、普通の言葉では、酸素を取り入れて、二酸化炭素を吐き出すことを云う。これを生化学(生体内の化学変化を扱う)の言葉で言い換えれば、生体が分子状酸素(O2)を最終電子受容体として有機化合物を二酸化炭素(CO2)、水(H2O)、アンモニア(NH3)などの無機化合物にまで酸化的に分解し、生体に利用可能な形でエネルギー(これをATPという。参照:「エサ・栄養物とは何のこと? 」)を蓄えることを呼吸という(平凡社「世界大百科事典」から)となる。最終電子受容体という言葉が難しいだろうか。そういうときは言葉に捉われず、何が起こっているのか、具体的内容を想像すればよい。ここでは有機化合物、すなわち炭素を骨格にした高分子の化合物が酸素という強い結合力を発揮する分子の介入で、いったんばらばらに分解され、酸素と炭素、酸素と水素という単純な結合に組み替えられてしまう。例えば巨大な構造物も燃やせば(高熱と炎を発する酸化作用だ)一片の灰になってしまうことを思えばよい。分子レベルの世界では、酸素のこういう役割を「最終電子受容体」という符丁で表現すると理解すればよい。何でそんな難しい言葉を使うのか、と云うなかれ。数学記号を見れば分かるように、その記号がなければ百万言を費やさなければならない概念も、記号(符丁)のお陰でどれほど簡略化され、理解を助けていることか。但し「最終電子受容体」の意味を正確に認識するには、化学結合の力とはどのように働くか、電荷移動相互作用とはなにか、などを学ばなければならないが、生化学における呼吸の意味を考えるには、当面、そんなことはどうでもよい。さて「呼吸」だ。無酸素条件の下で最終電子受容体として分子状酸素の代わりに硝酸塩を使うのが脱窒だ。というわけで硝酸と豊富な有機物があり、一時的にでも嫌気的条件が生まれれば脱窒現象は普遍的に発生する。土壌粒子や土壌水分の状態、有機物の偏りなどによる微生物の局所的な偏在で部分的な無酸素条件が発生すれば、脱窒はすぐにおきる。「畑でも脱窒は問題になる。水田に比べて好気的で酸素が多いとはいえ、有機物をたくさん施用すれば、局所的に無酸素条件がつくられる。しかも畑では硝化作用が活発なので、窒素肥料をたくさんいれれば、硝酸もたくさん作られる。そのうえ有機物を施用すれば、畑といえども脱窒は激しくおきる」(「土壌微生物とどうつきあうか」54.pから)ちなみに最終電子受容体として硝酸塩の代わりに硫酸塩を使って「呼吸」をしているのが硫酸還元菌(硫酸を還元して硫化水素を発生する。水田でワラや根っこを大量に埋め込むと硫酸還元菌が異常増殖し、発生した硫化水素が土壌中の鉄分と反応して硫化鉄ができて真っ黒になることがある)、また外部から酸素や硝酸・硫酸などの最終電子受容体を供給しないでも、化合物間のやり取りで酸化還元反応が進み、ATPが生成される場合を発酵という。「土壌中の細菌の大部分は、酸素がなければ発酵で、酸素があれば呼吸でエネルギーを獲得してという具合に、両条件で生活できる。こうした菌を条件的嫌気細菌と読んでいる。土壌細菌の大部分がこのタイプで、ほかにも酵母もそうである」「畑では排水不良土壌や多量の降雨直後には発酵だが、それ以外は呼吸といえる。ただし、これは平均的に見たときの話であって、土壌構造は複雑なため、嫌気的な部位と好気的な部位がつねに共存し、それぞれの部位で発酵と呼吸が別々に行われているのである」(同前、51-52.pから)実際は、呼吸+発酵+脱窒である。これで分かるように、学ぶということは物事を機械的に覚えることではなく、様々な具体的条件のもとで、具体的にどういうことが起きているのか・進行しているのかを自ら考える能力を養うことである。学んで覚えるだけに終始すれば想像力は枯渇するし、学ばずに想像力だけに頼れば妄想力に堕する。さて、以上の知識を前提とすれば、土壌生化学の次のような記述も比較的簡単に理解できるだろうか。「真正細菌、古細菌そして真核微生物にいたる広い範囲の微生物に脱窒能があり、土壌中に広く分布している。....一般に未耕地よりも耕地に多い。なお水田では、湛水土壌の表層部で硝化が起こり、また生じた硝酸イオンが嫌気的な土壌の内部に入っていき脱窒が起こる。また根圏に特に多く分布し、根圏での脱窒能は非根圏の10-数十倍に達する。脱窒細菌の大きな特徴は、通常、通性嫌気性であるため最終電子受容体として、窒素酸化物以外にも分子状酸素も利用でき、しかも酸素のほうを優先的に利用するため、酸素の存在下では脱窒能を行わないことである。一般に、土壌中で脱窒が起こるためには温度やpHなどの一般的条件のほかに、酸素の欠乏、電子受容体になる窒素酸化物の存在、電子給与体になる有機物の存在の三条件を満たすことが必要である。...脱窒は、アンモニア揮散とともに、植物に不可欠な窒素を土壌から奪うことによって、作物生産力を減少させる。特に熱帯地方では、硝化も脱窒も速く、窒素肥料の損失が大きい。一方、地球化学的にみれば、脱窒は地球の陸上で化合態窒素が不断に利用できるために不可欠である。なぜならば、溶解性の高い硝酸塩は土壌から溶出され、最終的に海洋に運搬されるため、海洋における脱窒がなければ、地球上の窒素はやがて海洋に集積し、陸上には生命が存在しなくなるからである。また高濃度の硝酸イオンは有害であるため、飲料水としての淡水を維持するためにも脱窒は重要である」(「土壌生化学」130.pから)参考:真正細菌、古細菌については「生命と地球の歴史」岩波新書でも読めばよいが、とりあえず「古細菌とその面白さ」などでもよい。
2006/02/13
「アンモニア態窒素と硝酸態窒素/窒素循環について若干の補足」で触れたように、植物も動物も高濃度のアンモニウムイオンには適応できないが、植物は高濃度の硝酸イオンに対しては適応性がある。ということはアンモニウムイオンからは有毒作用を受けるが、硝酸イオンは有毒作用を受けることなしに、ヒトの肥満と同じように体内に硝酸イオンを溜め込んでしまうということだ。ヒトは過剰な栄養分を摂れば脂肪に変形して蓄えるが、植物では通常はアミノ酸に変形されるが、過剰に摂取された栄養分(硝酸態窒素)はそのまま蓄積されるということだろうか。一方、ヒトや動物には硝酸イオンは有害作用(参照:地下水の硝酸性窒素汚染とは?)を果たすから、過剰施肥に陥りやすい条件の下で育てられたある種の肥満症の野菜類は要注意だ。アンモニウムイオンや硝酸イオンは、土壌中では土壌溶液に溶け込んだり、粘土鉱物などに吸着されたりしている。電気的にアンモニウムイオンはプラス、硝酸イオンはマイナスで、前者は土壌粒子に吸着され安いが(粘土鉱物の表面はマイナス電気を帯びているから)、後者は土壌溶液に溶け込んで雨水などとともに地下水に流出しやすい傾向があるとされる。アンモニア態にせよ、硝酸態にせよ、無機態窒素だ。土壌微生物の95%以上は有機物を栄養源にしているのにたいして、無機物を栄養源にする微生物はわずか数%しかいない。硝化菌、イオウ酸化菌、鉄酸化菌、硫酸還元菌、水素酸化菌、メタン酸化菌などの細菌類が主なもので(化学合成独立栄養菌という。参照:土壌微生物の分類上のまとめ )、割合は少ないとはいえ、作物栽培には不可欠の役割を果たしたり、逆に有害作用をもたらしたりしている。いわゆる硝化菌は、アンモニア酸化細菌と亜硝酸酸化細菌に大別され、それぞれアンモニアを亜硝酸に、亜硝酸を硝酸に変換(アンモニアを酸化する)することで代謝活動を行っている。このほかに「アンモニアを直接に硝酸に酸化する細菌および糸状菌・酵母」(この部分は「土壌生化学」126.pから)も僅かに知られている。この一連の過程を硝化作用という。「水田では、表層の酸化層およびその下の還元層の酸化的な局所で、酸化菌が働いている。なお、一般に、硝化作用の旺盛な畑土壌は健全など土壌と考えられている。これは硝化菌が環境条件の変化に敏感であるため、土壌の硝化能の大小はその土壌の理化学的諸性質の総合作用を反映するものと理解されているためである(要するに、ヒトで云えば胃腸が健全で消化吸収能力が充分に発揮される状態だと思えばよい、引用者注)。硝化菌の世代交代は8時間から数日と遅く、土壌や水系に広く分布しており、硝化菌によって、硝化塩は土壌中での植物の成長に役立つ主要な窒素源となる」(同前、126.p)硝化作用は、通常、二段階に分かれて二群の硝化細菌によってバランスよく行われているが、ある種の条件の下でこのバランスが崩れて、有害な亜硝酸が蓄積する場合がある。その一つは「中性からアルカリ性の土壌にアンモニア肥料や窒素分に富む易分解性有機物(例えばナタネ粕など)を施用した場合」で、土壌溶液中にアンモニウムイオンのほかに大量のアンモニアが蓄積して亜硝酸酸化細菌がアンモニア中毒に冒され、アンモニア酸化細菌とのバランスが崩れ、土壌中に亜硝酸が蓄積してしまう場合(この部分は「土壌微生物とどうつきあう」60.pから)。もう一つはハウス土壌の亜硝酸ガス障害の例で酸性条件で発生する。「アンモニア肥料や油粕のような易分解性で窒素分にとんだ有機質肥料を施用すると、アンモニウムイオンが硝化されて、硝酸が生じて、土壌pHが低下する。pHが5付近まで低下すると、二群の硝化細菌を硝化作用はともに低下するが、相対的に亜硝酸酸化細菌の活性がより低下する」(同前、61.pから)。このため亜硝酸が酸化されずに、そのまま蓄積してしまう場合。湛水状態の水田は、図式的にいえば表面の酸化層(好気的条件)とその下の還元層(嫌気的条件)とに分かれる。「水田で窒素肥料(基肥)を土壌表面にだけ混ぜただけの場合、窒素(アンモニア)は酸化層で硝化菌に酸化される。硝酸が還元層に移行すると、脱窒菌が硝酸呼吸を行いながら有機物を分解する(参照:「変幻自在の様態」のなかの脱窒菌の項)。こうして脱窒反応が活発になり、窒素の損失が大きくなる。そのため水田では窒素肥料を全層施肥といって土壌の深いところまでかき混ぜて施用する。下の還元層には硝化菌がいないので、アンモニア肥料が硝酸に酸化されることがなく、したがって脱窒もおきない」(同前、53.pから)
2006/02/12
新しいことを学んだり、新たなことに注意を集中していると、ついつい前のことを忘れてしまいがちだから、多少、前に戻ろう。所詮、百姓仕事は行きつ戻りつ、試行錯誤の連続と割り切ればよい。土壌中の窒素の形態は「アンモニア態(NH4)または硝酸態(NO3)」(参照、窒素循環について若干の補足)だ。分子記号を見れば分かるように、これは有機物ではない。繰り返すが有機物とは炭素と炭素が鎖のように結合して、その周辺に酸素、水素、窒素、カルシウム、カリ、リン、硫黄などの各種原子をくっつけた複雑な構造物だ。炭素を含む化合物で(参照、無機物と有機物)、生命体の基礎部品と思えばよい。こういう構造物がどうやって出来るか、どういう力で原子どうしが結合しているか、なぜ炭素が骨格になるのか、骨格とはどういう意味か、生命体の基礎部品とはどういう意味か、こんなことを更に深く知りたいと思えば、基礎化学、有機化学、生命化学を勉強すればよい。化学合成肥料が投入された直後をのぞけば、土壌中の無機態の窒素は、有機物が分解されて無機化されたものが全部だ。この場合、有機物には様々なものがある。「有機農業」を云々する人の一部には、「堆肥が有機物だ」と思ったり、「家畜糞尿を有機物」と取り違えたり、「有機肥料なら有機物だ」を即断したり、要するに外部から投入する肥料形態で有機とか無機とか云々している一知半解がいる。さて土壌中の有機物には様々な形態がある。植物の残かん、落葉、枯れ枝、草、緑肥、根の剥離物、根からの分泌物、生きてるもの・死んだものを含めて土壌動物・微生物、鳥獣虫微生物の排出物、要するに(有機物は生命起源とは限らないが)生命起源のほとんど全部のものが有機物だ。土壌微生物の95%以上が「有機物からエネルギーと栄養分を獲得している」(参照、有機物の分解過程)が、この微生物の代謝活動の結果として有機物は無機化され、初めて植物根が吸収利用できる形態(無機態)に変換される。この有機物から栄養分とエネルギーを取り出すやり方で、微生物はいろいろに分類される。ここで再度、「土壌微生物の分類上のまとめ 」を読んでいただければ、前よりはスッキリ頭に入るはずだ。有機物の無機化される実際の過程は、ここで書いてるほど単純なすっきりした回路で進むわけではなく、幾重にも入り組んだ回路や副回路があるが、それは我々にはどうでも良い。「無機化して作物が利用できるのはどのようにして」という視点から重要なのは、1.有機物のC/N比(参照、農地での窒素循環の一例 )2.アンモニア態・硝酸態窒素の土壌中での様態C/N比は、概ね20を境に、分解にかかる日数と土壌中に窒素を吐き出すか、土壌中から窒素を奪い取るかの別れ道になる、とは前に書いた。自然界の実際の過程は何でもそうだが、学んだことがそのまま機械的に当てはまるなどと早とちりしないように。気温、pH、土壌の種類、鋤きこみ深さ、耕運の仕方、様々な条件の組み合わせで、いかようにも変化する。前には、有機物をあらかじめ堆肥化するのは、微生物の分解しやすいように低分子化するためだということを指摘した。今回は、新鮮有機物を畑に投入した場合の問題点をまとめておく。1.ピシウム菌の害「緑肥のように水溶性の糖に富む新鮮有機物を施用すると、水溶性の糖を利用して糖糸状菌が10日以内に急激に増殖してくる。ピシウム菌は土壌中で卵胞子という大きな胞子で耐えているが、水溶性の糖に反応して発芽し、幼根に侵入して根の壊死させる。通常は、三週間以内に爆発的増殖は完了するので、緑肥混和から三週間たってから、播種や移植をすれば、ピシウム菌の害は回避できる」(「土壌微生物の基礎知識」70.pから)ピシウム菌による害は、「ピシウム菌」で検索すれば、いろいろ出てくる。取りあえずタキイの「芝・緑化・緑肥」を参照2.有害物質の生成植物体内では他の成分と結合して無毒化しているものが、微生物に分解される過程で遊離して有害化す場合がある。「代表的なものはフェノール性酸で、...その害は新鮮有機物と根の接触部分であらわれ、根が褐色になって生長しなくなる」(同前、70.p)3.窒素飢餓これについては、すでに簡単に触れた(参照、農地での窒素循環の一例)但し、これらの害は一時的なもので、概ね3-4週間で解消する。今回は、「アンモニア態・硝酸態窒素の土壌中での様態」を書くつもりで書き始めたが、もう充分に長くなってしまったので、これは次回に。
2006/02/11
いろいろな本を引用してきたけれど、ほとんど全部、図書館から借りた本だ。僕の「耕す生活」の根城は岩手にあって、いまは埼玉の暖地で冬眠中だ。埼玉にきた時はこんなものを書く予定はなかったから、手元に本がない。埼玉県立図書館とさいたま市立図書館の本をざっと検索したら(つくづく凄い時代になったもんだ。ほんの5年ほど前までは、日本のネット社会のホームページに見るに値するサイトは皆無だった、といっても過言ではない。尤も、まだ欧米に引っ張られての発展途上国だけれど)使える本が沢山でてきた。しかもリクエストすると、巡回バスで2-3日で最寄図書館に届けてくれる。三館ある県立図書館の場合は、各館で蔵書の分野別の収集をして、リクエストがあると融通しあっている。このシステム自体は前からあったが、ネットを利用できるようになって、格段に便利かつ迅速になった。こんなシステムこそ、村にまともな図書館もない岩手の僻地で利用できるようにして貰いたいもんだと思うけれど、利用者の絶対数を考えれば無理だな。この点、ネット図書館とか、ネット講義とかになれば、一挙に僻地問題は解消する。この点でも日本は極度に消極的だったけれど、確実に窓は広げられている。2-3年前にオックスフォードやプリンストン、マサチューセッツなどの大学がネット上で大学の講義を無料公開すると発表したとき、「神秘の帳」に閉ざされてこそ大学の権威は守られるとばかりに日本の大学は仰天したけれど、それではなけなしの権威も最期の底を尽きかねないと最近になって、欧米の大学の後追いをする動きを見せている。多分、若手が古手の閉鎖主義を打ち破っての快挙ではないかと想像する。ともあれ、日本のWEBサイトも、なかなか捨てたもんではなくなってきた。以上は余談。 -------------------------------------「土壌微生物生態学」を返却する期限が来た。今日は別のことを書く予定だったが、最後だからこの本から引用する。ノートを作っておけばよいが、そんな暇はないし、いま書いてるものがノートのつもりだ。「土壌と微生物の切っても切れない関係」の一節で、編者の一人は次のように書いている。「最近、植物が吸収する窒素、リン、カリウムなどの無機栄養分のほとんどは、じつは一度土壌微生物により吸収され微生物細胞を構成したものが、微生物が死滅した際に土壌中に放出されたものであることが分かってきた(丸本、1984)。つまり、土壌中の微生物は植物養分の貯蔵庫としても働いているのである」(同書、7.p)僕の見るところ、「つまり」の前と後で書いていることは、いささか別の問題を扱っている。前で書いていることは、化学合成肥料などの無機質肥料も、その「ほとんど」は、いったんは微生物の菌体として有機態に変換されたものが、死滅して後に再び無機化されて植物根に吸収されることが分かってきたと理解した。前にも書いたように、無機質肥料といえども、全部が無機化された状態で植物根に吸収されるわけではなく、実は半分以下。残りは菌体に取り込まれたり、その過程でガス化して揮散したり、あるいは地下水に流亡する。(しかし実はそうではなくて)「無機栄養分のほとんどは、じつは」菌体に取り込まれ有機態に変換されることが、最近、分かってきたという意味で書いているものと理解した。一方、「つまり」の後で書いていることは、そのまま「土壌中の微生物は植物養分の貯蔵庫」ということ。これは、窒素固定菌による生物的窒素固定が高等植物の代謝活動には不可欠だという点を考えれば、ある意味では常識で、「最近」分かってきたことではない。要するに「つまり」の前と後では、別のことを書いている。「つまり」はつまらない。ところが、この同じ本の別のところに別の筆者が、こう書いている。「近代農業は環境に負荷を与えているといわれる。その一つに化学肥料の多量投与があり、施用される窒素肥料や農地に還元される家畜排泄物によって地下水が硝酸塩で汚染され、作土にリン酸が集積し始めている。化学肥料の多量投与による環境汚染は、作物が吸収できる以上の肥料成分を施肥することに起因するので、環境負荷を低減するためには肥料成分の作物による利用率を改善する必要がある。化学肥料の代替物として堆肥など有機質肥料を施用した場合、有機物に含まれる植物栄養素は土壌微生物によって無機化されたのち作物に吸収利用されるが、この無機化の速度は遅い。微生物の活性化のためには易分解性有機物が必要であり、作物根からの分泌物はこの有機物として機能する(微生物に利用される有機物のうち35%が微生物菌体に取り込まれ、残りは代謝に消費されるという)。つまり有機質肥料を施肥する場合、肥料成分を吸収するためには化学肥料の場合と異なり微生物を介した植物から有機物への働きかけが必須である」(同書、44.p)さて、何が問題か??1.「無機栄養分のほとんどは、じつは一度土壌微生物により吸収され微生物細胞を構成したものが」の「ほとんど」だという事実そのものに疑問を感ずる。2.仮に1の「ほとんど」が事実とすれば、44ページで書いている「作物が吸収できる以上の肥料成分」は菌体に取り込まれず、地下水への流亡という問題がなぜ起きるのか理解できない。3.また無機質肥料と有機質肥料の違いとして書いている「有機物に含まれる植物栄養素は土壌微生物によって無機化されたのち作物に吸収利用されるが、この無機化の速度は遅い」という事実が意味をなさないことになる。4.44ページの下線部分の前と後のもの、イ.肥料成分の作物による利用率を改善する必要と、ロ.肥料成分を吸収するためには化学肥料の場合と異なり微生物を介した植物から有機物への働きかけが必須、両者を表現を変えて書き分けてはいるが、内容的には具体的にどういう違いがあるのか?まあ、4は内容的に曖昧なだけで、矛盾しているわけではない。しかし1-3は、無機栄養分と「ほとんど」の取りようによっては、確実に矛盾している。編者は、この点に矛盾を感じなかったのか、僕の理解の仕方がおかしいのか、編者はただ原稿を集めるだけで全体を統一するほどの権限がないのか、さて、いずれに問題ありや??ちなみに(丸本、1984)の意味は、「土壌のバイオマス」(博友社、1984刊)のなかで、丸本卓哉さんがそう書いている、ということ。あいにくこの本が入手できなかったので、同じ丸本さんが書いた「土壌生化学」(朝倉書店、1994刊)の中の第三章「微生物バイオマス」を読んでみた。少なくとも僕の理解する限り「土壌中の微生物は植物養分の貯蔵庫としても働いている」という意味のことは書いてあるが、「植物が吸収する窒素、リン、カリウムなどの無機栄養分のほとんどは、じつは一度土壌微生物により吸収され微生物細胞を構成したものが、微生物が死滅した際に土壌中に放出されたものであることが分かってきた」という意味のことは、どこにも書いてない。まして「ほとんど」とは。但し、「植物が吸収する窒素、リン、カリウムなどの無機栄養分」を有機物が微生物によって分解された結果としての「無機栄養分」の意味なら理解できないこともないが、それでは単なる同義反復ではないのか。
2006/02/10
前にも「土壌・肥料学の基礎」(参照「講読の部屋」)に関連して「土壌学の教科書に限らないけれど、なぜ、日本の専門家諸氏はこうまで無味乾燥で詰まらない教科書しか書けないのだろうかと感心してしまうほど、味も素っ気もない本を書くが....」と書いたことがあるけれど、その対極にあるような教科書から、窒素循環に関して補足しておく。テイツ&ザイガー編著「植物生理学」(第3版、培風館、2004刊)は、学部及び大学院生用の教科書だけれど、植物の栄養生理を本格的に学びたいと思ったら、ハウツーものの本など捨てて、こういう教科書を熟読玩味することをお勧めする。眺めているだけで楽しくなるような教科書で、こんな素敵な本を書ける先生に直接ついて学べる学生は幸せだなと思う(何も、日本の教科書に偏見を持っているわけではないし、例外だってあるけれど)、これは余談。・「工業的に固定された窒素のうち無機態肥料として使われる割合がどの程度か分からないが」と書いたが、国連食糧農業機関(FAO)の2001年統計によれば、世界中で工業的に生産される窒素肥料は8千万トン以上だそうだから、ほぼ全量ということになる。・また稲妻による窒素固定と窒素酸化物の光化学反応による硝酸化で1.9千万トン(約4倍の見積もりになってるのは何故か)・生物的窒素固定が1.7億トンで、全体としては約2.7億トンほど(同書、259.p)。大まかな推計値で、推計方法によって、かなり変動する数値と心得ておけばよい。肥料や生物的窒素固定に由来する窒素の土壌中での形態は、アンモニア態(NH4)または硝酸態(NO3)で、このように窒素が酸素(O)と結合するか、水素(H)を失った場合に、これを酸化といい、逆に酸素を失うか、水素と結合した場合を還元という。言い換えれば、還元態または酸化態としてのみ土壌中に保持され、分子状の窒素としては直ちに大気中に揮散してしまう。さて「アンモニウムイオンや硝酸イオンは、窒素固定あるいは土壌中の有機態物質の分解によって生成し、これらのイオン(通常、分子化合物は電気的な力で結合しており、安定した結合状態では電気的に中性だが、酸化または還元されプラス、またはマイナスの電気を持った状態をイオンという:引用者注)は植物や微生物の間で激しい獲得競争の対象となる。この競争に勝つために、植物は土壌溶液から出来るだけ早くこれらのイオンを獲得する機構を発達させてきた。施肥後のような高濃度の窒素を含む土壌では、根によるアンモニウムイオンや硝酸イオンの吸収量は植物の同化能力を超えている場合があり、このような場合には植物組織内にこれらのイオンが集積する。植物は、高濃度の硝酸イオンを貯蔵することができ、また害作用を受けることなく硝酸イオンを組織から組織へと輸送することが出来る。しかし、もしも家畜やヒトが高濃度の硝酸イオンを蓄積している植物を口にすると、メトヘモグロビン血症という病気にさらされる危険がある。....硝酸イオンと異なり、高濃度のアンモニウムイオンは(光合成や呼吸の電子経路を撹乱することで:引用者注)植物自身にも動物にも害作用を及ぼす」(同書、259-260.p)肥料として、アンモニア態と硝酸態とを使った場合の違いの一例として、「根表面のpHは施肥によっても変わり、硝酸態肥料とアンモニア態肥料では根面のpHが違ってくる。例えば、pH6.4の土壌で栽培したコムギの根圏土壌のpHは6.8で、土壌よりも0.4ほど高い。この土壌に窒素で10アール当たり16.8キロのアンモニア態肥料(硫安)を施用すると、根圏土壌のpHが6.1に低下し、硝酸態肥料(硝酸カルシウム)を施用すると、根圏土壌pHが6.9に上昇したという例がある。pHが一単位違うと水素イオンの濃度は10倍違うわりであり、微生物の活動にかなりの差が出ることがある。病原菌では、病気の出方に差が出ることがある。酸性土壌で猛威を振るう病原菌、たとえば、キュウリ・メロン・スイカのつる割病、トマト・ゴボウの萎ちょう病などのフザリウム病、リゾクトニア病や菌核病では、アンモニア態肥料で病気が激化し、硝酸態肥料で多少軽減される....など」(「土壌微生物の基礎知識」100-101.p)
2006/02/09
食物連鎖と窒素循環は、同じ事柄を別の側面から眺めた光景と云ってもよい。生き物というレベルで見れば食物連鎖といえるし、それを栄養物・更には分子化合物というレベルまで分解していけば、窒素循環という側面が見えてくる。生物的窒素固定と非生物的窒素固定の割合が、ほぼ2対1だという数字に皆さんは、どんな感想を抱いただろうか?生物的窒素固定の割合が意外と多いことに驚いたか、それとも意外と少ないことに驚いただろうか?ところで人が、初めて人工的にアンモニアを作ったのが18世紀末、ハーバー=ボッシュ法による工業的製法が確立したのが20世紀初め。それ以前は何十億年にもわたって、地球上の全生命の代謝活動に不可欠の窒素は、もっぱら生物的窒素固定に依存していた。しかも大気中の約八割を窒素が占めているにもかかわらず、いまのところ窒素固定細菌以外のどんな生物にも、空中窒素を体内に取り込み代謝活動に利用できる能力はないと考えられている。一方、動植物の身体構成の最大割合を占めている炭素にしても、高等動物は大気および土壌中の炭素を体内に取り込んで代謝活動に利用できる能力を持っていない。かくて動物は植物に依存し、植物は窒素固定細菌に依存しなければ代謝活動を維持できない。従って、地球規模の窒素循環とは、生命活動という姿をかりた物質循環と言い換えて良いのではないか。この窒素循環において、われわれ人が果たしている役割は、穀物・野菜・果物・肉などの高分子化合物を取り入れて、やや低分子の化合物として排出するだけである。かつては、この低分子の化合物(簡単に云えば糞尿)を、そのまま土壌に戻したか、あるいは半年なり一年なり腐熟させた後に土壌に還元したけれど、現在では大掛かりな工業的迂回路を作り、幾重にも入り組んだ化学的副回路を経由して、結局は土壌に戻している。 参考:この近代的迂回路を垣間見たい方は、「講読の部屋」の「ウンコに学べ!」を 参照されたし。近代的迂回路の奇妙さを筆者は、次のように皮肉っている。 「もしわたしが壺に放尿しその壺の水を飲んだら、誰もがわたしを「気違い」という だろう。もしわたしが工学技術の粋を尽くして尿を池に運び、汚した池のその水を飲む のだといってまたも技術の粋を尽くした浄化装置を取り付けたら、人々は何というだろ うか。「これは大変な気違いだ」というだろう。....ところがこれを真面目に行って いるのが現在の水洗トイレと下水道のシステムだ。」もしも我々が、環境保全型の農業(我々は、結局は、農業を通してしか代謝活動に不可欠な炭素も窒素も取り込むことは出来ないのだ)を真剣に考えるなら、「地球に優しい生活」を実践したいのなら、微生物の代謝活動に直接依存するもっと簡便な方法で、自分の排出物を土壌に還元する方法の開発にとり組まなければならない。農業者などの個人的努力で、これを実現するとなると、なかなかシビアな選択が避けられない。一方、田畑に有機物を積極的に投入しなければならないのは、近代的迂回路・化学的副回路を通して、「ウンコ」を田畑の外に持ち出してしまい、炭素・窒素の地球上の大循環の外には排出出来ないものの、田畑を中心とした小循環の系外に排出して、炭素・窒素循環の流れに偏頗な偏りを引き起こしているためだ。ところで、ウンコとは何か?我々が、自分の体内に取り入れた高分子の有機化合物を、酵素の力をかりて分解し、消化吸収器官の細胞が吸収した残りかす。分解できずに大きいままで細胞が吸収できなかったか、吸収能力を超えていたか、いずれにせよやや低分子化した有機化合物。前回の最後に、無機質肥料にせよ有機質肥料にせよ、いったんは微生物回路を経由して無機化されなければ植物根には吸収できないと書いた。なぜか?高分子の有機化合物は、要するに大きすぎて細胞膜の穴を通過できないと思えばよい。有機化合物は、炭素と炭素が鎖状につながって、その周辺に酸素、水素、窒素、リン、カルシウムなどをくっつけた構造をしている。その構造物がでか過ぎて細胞膜を通過できないから、炭素の鎖を切り離し、細胞膜(植物では、その前に細胞壁がある)を通過できる程度の小さなばらばらの化合物に変換する必要がある。その過程が無機化であり、炭素の鎖を切り離す鋏の役割を果たしているのが酵素であり、土壌微生物である。
2006/02/08
動植物の身体の9割以上、ほとんど全部を占めるのは酸素、炭素、水素の三大元素。例えば人体の構成元素は酸素61、炭素23、水素10と、これだけで94%をにあたる。やや視点を変えて構成分子としてみれば生体重量の60%は水。次いでタンパク質18、脂肪15、糖質7。一方、トウモロコシの水分を除いた乾物重量の対比では炭素44、酸素44、水素6。生体比では酸素80、炭素9、水素10。これらの三大元素は、植物は大気と土壌中から得られるし、人間を含む動物も植物を通して間接的に大気と土壌中から獲得している。これらの三大元素を除くと、人間では窒素2.6、カルシウム1.4、リン1.1(生体比)、トウモロコシでは窒素1.46、リン0.2、カリ0.9、カルシウム0.2(乾物比)と、いずれも窒素が最大比を占めている。人間の生体の18%はタンパク質である。アミノ酸の種類と構成割合でいろいろなタンパク質があるが、構成元素はほぼ一定でおおよそ炭素53、水素7、酸素23、窒素16である。一方、植物の乾物中、含窒素有機物の占める割合は5-30%で、それらの物質の窒素含量の平均は16%である。従って植物組織の対乾物重量のうち少なくとも0.8-4.8%は窒素で構成されている。 参考:植物中の構成元素などは「植物生理学大要」(田口亮平、養賢堂、1994刊)から 人体の構成元素などは、人体における必須元素とその存在割合、生理学などから 窒素は容積にして大気中の78%を占めている。ところが生物は窒素固定菌などごく一部の細菌をのぞいて大気中の窒素を直接には利用できず、「固定された窒素」のみが利用可能である。従って地球上の生命活動にとって微生物を介しての窒素循環は極めて重要である。「土壌微生物生態学」に、地球規模の窒素循環の推計値が載っている。それによると、年間2-3億トンの空中窒素が固定される。その内訳は雷の放電で固定され、雨で地表にもたらされる量が500万トン、工業的に固定される量が8千万トン、1.15-2.15億トンが生物による空中窒素の固定量と推定されている(62.p)。工業的に固定された窒素のうち無機態肥料として使われる割合がどの程度か分からないが、大雑把に生物的窒素固定と非生物的窒素固定の比は、およそ2対1と見なされている。実際に生物的窒素固定を担うものとして知られているのは細菌のみで、1.土壌中で単生し、窒素固定を行うもの(一部の藍藻、シアノバクテリアとも云う)2.植物の根圏に生息し、窒素固定を行うもの3.植物の体内に侵入し、そこで窒素固定を行うもの(エンドファイト窒素固定菌の仲間)4.植物と共生して窒素固定を行うもの(根粒菌、フランキア、シアノバクテリアなど)(以上は同書65-70.p)、以上の四通りに分けられる。 参考:シアノバクテリアについては、シアノバクテリアのサイト(画像と説明) エンドファイトは、最近、「エンドファイトを利用した環境調和技術の開発」という視点 で注目されている。やや専門的説明は「窒素固定微生物の共生工学」を参照。 「根粒菌の共生的窒素固定」には、「新・土の微生物」第2巻(博友社、1997刊)をもとに 根粒菌、フランキア、シアノバクテリアの共生の仕組みなどについて専門的な解説・画像 が載っている。このうち特に重要で、かつ最も研究されているものは根粒菌で、「土壌生化学」(朝倉書店、1994刊)によると、「マメ科植物に細胞内共生する根粒菌による窒素固定量は、全生物窒素固定量の約半分にも及ぶ。根粒菌はマメ科植物に対して、窒素肥料のないときにきわめて重要な窒素源になる。世界中で2.5億haのマメ科植物が栽培され、年にヘクタール当たり平均140kgの窒素を固定すると算定されている」119.p「水田は畑と比べて地力維持力が著しく高いが、これは生物窒素固定が主要な要因の一つである。この水田の生物窒素固定に一般的に寄与している細菌は、根圏窒素固定群もしくは表層土壌中のシアノバクテリアであると推定されている」120.pまた作物栽培における、生物窒素固定の一般的な重要性について、「作物の生態生理」(文永堂出版、1988刊)は、次のように書いている。「ふつうわが国の耕地の作土には、無機態窒素は、施肥時をのぞけば数十kg/10a以下というわずかな量しか存在していない。この無機態窒素は、水田ではアンモニアが、畑では硝酸が主体である。アンモニアは土壌コロイド....によく保持される。しかし、硝酸は土壌コロイドに保持されにくい。一方、同じ作土には数百kg/10aという莫大な量の有機態窒素が存在し、無機態窒素の貯蔵庫の役割をしている。土壌の有機態窒素の約半分はタンパク態であり、その他の窒素の多くは複雑な化合状態にあるものと見られている。タンパク態窒素は本来、微生物によって容易に分解されるものである。しかし土壌中のタンパク態窒素は....粘土鉱物やアルミニウム、鉄などの無機成分と結合、または吸着状態にあって、微生物の分解を受けにくいとされている。....作物の吸収窒素を見ると、集約多肥農業下にあるわが国でさえ、イネでは吸収窒素の大半が、またふつう畑作物では半分近くが貯蔵庫である土壌の有機態窒素の無機化、すなわち地力窒素に依存している」100.p改めて注意しておくが、無機態の化学合成肥料でも無機態窒素として吸収されるのは当初の投入量の半分以下、残りは土壌微生物に取り込まれた後、分解され無機化して吸収される。一方、有機質肥料は、しばしば誤解されているように有機態のまま吸収されるわけではない。いったん土壌微生物によって分解されて無機化された後でなければ作物には吸収されない。この点では無機質肥料であれ、有機質肥料であれ、本質的な相違はない。
2006/02/07
ARG(ACADEMIC RESOURCE GUIDE)という素敵なメールマガジンが発行されている。学術分野のWEBサイトを取り上げ、優れた先駆的な試みを積極的に紹介する一方、お座なりで、中味のないサイトを叱咤激励する注文をつけている。同誌に、去年掲載された記事で、僕が見逃していたものに「国立歴史民俗博物館」の「古代中世都市生活史(物価)データベース」というのがある。同博物館の公開に際してのプレスリリースには、次のように書いてある。8世紀から16世紀頃までの代表的な史料から37,253件のデータを抽出し、京都を中心に、西は九州から東は関東までの、物の値段やサービスの価格(労賃など)についての記録を集成したもので、たとえば以下のような項目で検索ができます。 食料、衣服、食器、武具、材木、畳、不動産、仏事、造営、運賃、工賃・・・もともとは研究者用に作られたデータベースだが、【使い方の例】を参考に、いろいろ検索してみると、実に楽しい想像をたくましく出来る。大化の改新、荘園成立、武士の登場、鎌倉幕府成立...などと政治経済社会の上っ面だけをなぞって来た歴史の背後に、庶民のどんな生活が息づいていたかを感じ取るよすがになる。まずは年号と品目別の「大分類」だけを選んで、いろいろ検索して、楽しんで見ることをお勧めする。
2006/02/07
「土壌微生物とどうつきあうか」の第4章の一部「農地における養分の循環と微生物」の中でスウェーデンのオオムギ圃場の窒素循環の様態を例示している。(同書、148-150.p参照)大雑把な特徴を指摘しておくと、まず、無機態窒素の外部からの投入量が・無機態窒素肥料を1haに120キロ投入、・雨や雪に溶けた窒素分が年間3キロ(日本の実測値は10-18キロ)これに対して・脱窒によるガス化で揮散した分が60キロ(脱窒については「変幻自在の様態」参照)・地下水などへの流亡は27キロ・オオムギが根から吸収した窒素量が182キロ元肥として与えた窒素は、ムギのような生育期間の長い作物では前半に効果があるだけでしかも投入量の40-50%程度しか吸収されない。残りは微生物菌体に取り込まれたり、その過程で脱窒を受けて揮散したり、雨水に溶けて地下水に流亡したりする。単純に、外部投入量(123キロ)とオオムギの吸収量+流出量(269キロ)を比較すると、146キロが地力窒素によって供給された分に相当する(地力については「土壌微生物の推定量」を参照)。実際の窒素循環の過程はもっと複雑で、土壌中の循環には幾重にも入り組んだ中間過程があるが、大雑把な窒素循環の流れだけを捉えれば、そういうことだ。地力窒素の実態は、作物残渣、施用有機物、土壌有機物、土壌生物の遺体などが微生物によって分解される過程で放出された無機態窒素である。この分解過程での無機態窒素の放出には、大きく分けて二つのルートがある。1.微生物が酵素を使って有機物を分解し、余分になった窒素がアンモニア態として直接に排出されるルート。2.微生物が有機物を分解し、その窒素を使って、いったん菌体を合成し、盛んに微生物が増殖したのち、それらがやがて死んだのち別の微生物に分解されて無機態窒素として放出される迂回ルート。1と2のルートとの違いは、土壌中の・または施用された有機物の窒素含有量の差によって生じる。すなわち有機物の窒素含有量が相対的に高い場合には1のルート、相対的に低い場合には2の迂回ルートを通じて無機態窒素が放出されて、植物根によって吸収される。具体的には、有機物の炭素と窒素の比率、いわゆるC/N比で表され、概ねC/N比が20より低い場合は1のルート。20より高くなるにつれて2のルートにより多く傾いていく。というわけで、レンゲ・クローバー・アルファルファその他の緑肥の茎葉、鶏糞など窒素含有量の高い有機物を鋤き込んだ場合には、速やかに窒素分が放出されてくる。これに対してムギワラ、モミガラ、ダイズやコーンの茎根、オガクズ、バークなどを鋤き込んだ場合には、これらの有機物が分解されるにつれて、土壌中にすでにある無機態窒素が菌体合成に利用され、作物との間で窒素の奪い合い(いわゆる窒素飢餓現象)を引き起こすことになる。C/Nの高い有機物を、あらかじめ堆肥化して畑などに投入する意味は、微生物が比較的に分解しやすい形態(低分子の有機物)の有機物に変えてやる点にある。参考:各種有機物の化学的特性
2006/02/06
「土壌」とは何か、という問題は触れてこなかった。土壌微生物の住みかとしての、土壌の微視的構造を考えるにあたって、「講読の部屋」の「土壌・肥料学の基礎」(H.D.フォス/養賢堂/96年3月第7版)を参照していただけると有り難い。土壌の物理的・化学的性質を理解することは重要である。しかし生物的作用がなければ、土壌は決して今日見るような生物的培地にはなり得なかったことを理解することは、一層重要である。「土の世界の住人」のなかで、あたかも土の世界を無機的な化学工場・野菜製造工場かのようにみなす考え方を批判したが、「講読の部屋」で触れた土壌の機能主義的理解に対する批判と併せて熟考していただけると幸いだ。また土壌団粒の形成や微生物の活動と団粒形成は、今回のテーマと重なり合っている。土壌は、固体・液体・気体の三相からなっていて、望ましい状態の作土の約半分は空隙で、通常は空隙はほぼ1対1の割合で、水と空気で占められている。この状態を想像するには例えば、ゴマと米粒とアズキとダイズとウズラマメのような大小さまざまな粒子が乱雑に寄り集まってソフトボール大の塊りになった状態を考えればよい。粒子の集まり具合によって大小さまざまな隙間が出来るが、この隙間は水の分子を保持できるかどうかによって、非毛管孔隙と毛管孔隙とに分けられる。非毛管孔隙とは重力によって水は下に流されてしまって保持できないような比較的大きない孔隙のことである。このような土壌の団粒の大きさや構造、固体・液体・気体の三相の割合などは、決して固定的な状態のものではなく、気象条件、植生、作土層の耕し方、土壌生物の生息状況などによってたえまなく変わるものである。また土壌の団粒構造を形成する凝集力は、土壌粒子の電気的・化学的な力、土壌微生物の分泌物などによるものである。「石英のような砂粒だけでは団粒は出来ない。鉄やアルミニウムなどの無機化合物のコロイドや微小な粘土鉱物は、土壌中で電気的な力や化学的な力に凝集する。これらの無機の凝集体に有機物が接着剤として働いて、石英と結合させる。このときの有機物としては、微生物の菌体自体、微生物が分泌する粘質な多糖類、あるいは腐食酸のようなものがある。腐食酸よりも微生物の分泌する多糖類のほうが、団粒化には有効である。特に食べやすい有機物を土壌に加えて微生物を繁殖させると、菌体自体と菌の分泌する多糖類が増加して、団粒化が促進される。一般に団粒形成能が最も強いのはカビ、ついで放線菌、ついで細菌の順序である」(「土壌微生物とどうつきあうか」129-130.p)土壌団粒を微生物の住みかという視点から見ると、これまた団粒の中の孔隙を二つに大別出来る。「比較的小さな孔隙の団粒内部と、比較的大きな孔隙の団粒外部に分けられる。団粒内部と団粒外部の特徴は次のようにまとめられる。団粒内部は、1.主に細菌の住み場所であり、2.乾湿に伴う水分変動が比較的少ないので、乾燥に弱いグラム陰性細菌が高レベルで比較的安定している、3.外部からの毒物も浸透しにくい、4.嫌気的になりやすく、脱窒が起こりやすい。団粒外部は、1.細菌、カビ、原生動物などの共通の住み場所であり、2.水分変動が激しく、乾燥時にはグラム陽性細菌やカビが優先し、3.農薬などの浸透によって微生物が死滅しやすく、4.好気的代謝が行われる」(同124.p)グラム陰性、陽性細菌の違いは、グラム染色液という特殊な液で染色したときに色のつく細菌(陽性)と色のつかない細菌に大別したもので、細胞壁の構造の違いに由来するもの。グラム陽性細菌は細胞壁が厚く、乾燥に強いのに対して、グラム陰性細菌はその逆。以上で、作物の耕作培地として土壌の団粒構造が、いかに大事か分かるだろうか。団粒構造が失われれば、土壌の空隙は失われ、作物の根及び土壌微生物の活性を高めるに不可欠な水・空気の相が失われる。すなわち土壌は、まさにその半分が空隙によって占められているからこそ生きているとも云えるか。
2006/02/04
職のあるところ・仕事のあるところの周辺に人口密集地が形成されるように、エサのあるところ・エサの供給される周辺に土壌微生物の密集地が形成される。土壌微生物の9割以上は有機物をエサに腐生生活を送っている。「腐生」生活の対語は寄生または共生で、生体から栄養分を横取りしている。これに対して腐生菌は、有機物の遺体・剥離・分泌物などをエサにしている。というわけで大方の土壌微生物にとって、植物または作物の根の周囲はエサの宝庫であり、彼らにとって特別な場所である。ここを根圏土壌と呼び、その外側の非根圏土壌と区別している。植物の根からは、たえず様々な物質が供給されている。すなわち「植物から根を通して根圏土壌に与えられる物質には、根の呼吸による二酸化炭素や通気組織によって運ばれる酸素などの気体、根の伸長に伴って脱落する根毛や根冠細胞、根から分泌されるムシラーゲや酵素たんぱく質のような高分子物質、アレロパシー物質、フラボノイドのような二次代謝物質、そして有機酸、アミノ酸、単糖などの低分子化合物などである。これらの分泌物の量と組成は根圏の条件、すなわち土壌の硬さ、嫌気と好気、水分条件、地温などによって変動する」(「土壌微生物生態学」38.p)これらの分泌物は、光合成物質の一部、または副産物だが、その量はコムギ、オオムギ、トウモロコシなどの3-4週齢で18-25%に相当する(同前、37.p)。ある物質は、植物を土壌環境から保護したり、または土壌環境に適応したりするのを助けている。例えばムシラーゲは、根から分泌される粘質物で、根冠細胞に蓄積されたデンプンから合成され、根の先端付近の表皮細胞から分泌される。根はムシラーゲの中に鞘に包まれたように伸びていくので、土壌と根との摩擦が和らげられる。硬い土壌では分泌量が増加し、また乾燥土壌ではムシラーゲと土壌の混合物が水分の損失を抑える役割を果たしていることが知られている(同、38.p)。その他にもリン酸が鉄分と結合して不溶化し、可給態のリン酸に乏しい土地でも良く生育するラッカセイは、根から鉄と結合して不溶化したリン酸を溶かすような物質を分泌している例、アルミニウム過剰害のある酸性土壌に耐性を持ったコムギの根からアルミニウムと結合して無害化するようなタンパク質が分泌されている例、などが知られている。一方、糖、有機酸、アミノ酸などの比較的分解しやすい低分子化合物には多くの微生物が群がり集まっている。ここを根圏と呼んでいるが、その範囲は根の周辺数ミリ程度である。根からの距離によって微生物の密度が、どのように変わるかを計算した推計値があるが、「土壌や作物の条件によって計算値は変わってくるが、ごく普通の標準的条件の場合、根表面の微生物密度(面積当たり菌体数)を100とすると、0.3ミリ離れた所ではわずか1となり、1.8ミリ離れると0.2に過ぎなくなる。そして、非根圏土壌の微生物密度の2倍の微生物が存在するのは、根面からわずか0.7ミリまでの範囲である」(「土壌微生物とどうにつきあうか」102.p)根からの距離に応じて、極めて不均一に分布していることが分かるが、根表面全体に広く分布しているかというと、これまた微生物で被われている根面は根面積全体の5-15%程度に過ぎない(同103.p)といわれる。次に土壌全体の中で、根圏土壌と非根圏土壌に生息する微生物量を比較すると、コムギの幼植物21日目の例では根圏に比べて非根圏には7-27倍、収穫期のオカボの例では約2倍、ハクサイでは約145倍(同108-109.p)などと推計されている。以上のような微生物の不均一な分布、また根圏土壌の微生物と非根圏土壌の微生物との関係や比率の相違などが、作物栽培にどのような意味を持つのか・持たないのか、そもそも植物根から分泌される有機物は、単に土壌の微生物を一方的に養っているに過ぎないのか、それともより積極的な意味があるのかなどについては、ほんの一部が分かっているに過ぎない。
2006/02/03
いままでのところは、簡単な自己紹介のようなもの。太古の時代からの生き物だけあってその身体に地球の歴史を刻印し、各時代にそれなりの必然性を持って誕生すると同時に、お互いに何らかの関連性を持って生活してきた。変幻自在とも見えるその様態は、数十億年の地球の歴史の大変動を生き抜いてきた強かな生き様の、遺伝子に刻まれた証なのかもしれない。一見、なんの関連性のないように見えるものでも、ただ我々には見えないだけで、実際には切っても切れない不可避的なつながりがあるのかも知れない。科学は、当然のことながら、見える世界だけを見ているのであって、見えない世界は見ていない。科学の眼を通して見ると、時にすべてが見えているかに錯覚することがあるが、実際には見えない世界のほうが広大かつ遼遠であっても不思議はない。別段、これは反科学でも、科学不信でもない。人間の認識とは、そうしたもんだという常識を語っているだけだ。従って、ある時期の認識をもとに見通しを語ることは一向に構わないが、常にそれは根底から疑いうる可能性があることは承知しておくに越したことはない。否や応とにかかわらず、この強かな生き物と向き合っている。「耕す生活」が、土を相手にする作業である限り、土の世界の住人である土壌の微生物を無視できないのは当然のこと。まして全住民の立ち退きを迫ったり、全住民の大量虐殺を図ったり、自分に都合の良い住民だけの居住を認めたりなど、自分と作物だけを見据えた勝手気ままを図れば、必ず深刻なしっぺ返しを被るのは当たり前。しかしこの当たり前が見えずに、あたかも土の世界を無機的な化学工場・野菜製造工場かのようにみなしてきたのが、ある時期までの現代農業といっても過言ではない。「土壌微生物とどうつきあうか」(講座「微生物段階の土つくり」の1、農文協、1988刊)の一節「邪魔者になった微生物」の中で、西尾さんは次のように書いている。「かつて北海道大学の石塚名誉教授は、世界の農業を養分供給の側面から、土壌依存農業、肥料依存農業、施設農業の三つに分けた。...要するに土壌依存農業から肥料依存農業になるほど、施肥技術の高度複雑化を必要とし、逆に微生物活動への依存は不要になるということである。今日のわが国の農業は概括的に見れば、肥料依存度の高い土地利用型農業を軸に、施設農業がこれを補完しているとといえよう。農業全体からみれば補完的とはいえ、施設農業は経営面積の小さな農家が高い農業所得を得るものとして発展している。こうしたわが国の農業は、土壌微生物活動に依存していないと思えるであろう。高度経済成長期を境として肥料や土壌改良剤の投入量が増加したのに伴って、わが国では一時期だが、土壌微生物は不要どころか邪魔者扱いされたのである」16-17.pさて、基礎的・一般的なことは、そろそろ切り上げて、これからは具体的な話にぼちぼち移って行こうか。
2006/02/02
前回の最後の一節「2の構造上の分類を除けば、他の分類は概念的なもので、実際の微生物は環境に応じて条件的に変容させうるものが少なくない」の解説をしよう。・「構造上の分類を除く」のはなぜか?細胞核を持つ・持たない、細胞壁を持つ・持たない、光合成色素を持つ・持たないという分類は、何億年・何十億年というレベルの地球史的進化による環境変化に伴う生命の進化の歴史を刻み込んでいる。従って、数ヶ月・数年・数十年・数百年のレベルのタイムスパンで変化する住環境に応じて条件的に変容させうるものではない。構造が環境に適合しなければ、単に絶滅するだけだ。事実、これまで何度かの「大絶滅時代」を経験している。(参照:「百姓の知恵袋」のトピックス・生物多様性の減少の「大絶滅に関するまとめ」)・「他の分類は概念的なもので」とは、どういう意味か?無機物をエサにするか・有機物をエサにするか、光エネルギーを利用するか・利用しないか、有機物本体をエサにするか・有機物に寄生または共生するかなどを、考え方として、微生物の構造上の分類に対応する分類基準とする、という意味だ。無機物をエサにするには、無機物から有機物を構成するシステムを持っていなければならないし(これは生命体の基本システムだけれど)、有機物をエサにするにはいったん無機物に分解するシステム(分解酵素の合成)が付加されなければならない。光エネルギーを利用するには光合成色素が前提になる。要するに構造上の進化の状況に応じて、利用できるエネルギーや利用できるエサの種類や取り込み方は違ってくる。・ところが「実際の微生物は環境に応じて条件的に」代謝や形態を柔軟に変容させて生き延びている。さて、その様態の一部を見てみよう。条件的嫌気性細菌。嫌気性細菌のなかには酸素があると生きていけない絶対嫌気性細菌がいる。現在ではそれは少数派で、大部分の嫌気性細菌は酸素がなければ発酵系で生活し、酸素があるときは呼吸系で生活している。細菌以外でこのような両刀使いの生活が出来る微生物は酵母である。酵母はカビの仲間だが、カビ特有の長い菌糸を作らず、カビの胞子を独立して増殖しているような形をしている。カビは細菌から進化したが、酵母はまだ細菌的性質を残している。脱窒菌。基本的に絶対好気性細菌で呼吸系で生活している。ところが酸素のない条件下でも、硝酸があれば、硝酸を酸素代わりに使って呼吸系で生活を続けられる。このとき硝酸は窒素ガスか亜酸化窒素ガスになって、土壌から大気中に散逸する。例えば有機栄養の脱窒菌は、畑に有機物が多いときは呼吸系で有機物を分解して、酸素を消費する。酸素がなくなって嫌気的条件になっても硝酸があれば、硝酸を使って呼吸系で有機物の分解を続け、このときに脱窒がおきる。畑には、普通に硝化菌がいて、たえず硝酸が作られている。(「土壌微生物の基礎知識」から、40-41.p)窒素固定細菌。ある種の窒素固定細菌は培地中で分子状窒素のみを窒素源にして培養すると、繊維状細胞の一部を窒素固定に係わる酵素を含む細胞として分化させるが、培地中に充分なアンモニア態窒素があると、このような細胞の分化は起きない。線虫捕捉菌。菌類の中に線虫をエサにするものがいる。いろいろな方法で線虫を捕まえるが、線虫捕捉器というトリモチのようなものを作って捕らえるものがいる。ところが培地中に充分な栄養があると線虫捕捉器を作らず、培地中の栄養源が乏しくなってくると初めて線虫捕捉器を形成する。休眠体。大部分の土壌微生物は生物起源の有機物を利用する従属栄養生物である。これらの微生物は土壌中に充分な有機物が供給されると活発に増殖する。しかしやがて有機物が枯渇して乏しくなってくると、耐久体を作って、一種の冬眠体制に入る。ある種の細菌は、供給された有機物が枯渇し始めると、内生胞子(芽胞ともいう)という細胞を母体となる栄養細胞の中に形成する。内生胞子は熱や放射線、化学薬品に対して強い耐性を持っていて、やがて母細胞から放出されて休眠期に入り、土壌中で何年も生き残って、次の有機物の供給があるとその刺激で発芽して母細胞(栄養細胞)になる。菌類の中には、栄養条件が悪くなると、菌糸の細胞壁が肥厚して、貯蔵物質を充満した厚膜胞子を作ったり、菌糸がからみ合って硬いかたまり状になった菌核を作るものがある(「土壌微生物生態学」から168-169.p)。土壌病害の原因になる植物寄生性の線虫は、宿主になる植物があればそれに寄生するが、宿主がなくて乾燥状態におかれると、発育を休止して、休眠状態に入り、自然状態で数年から十数年は生存し、宿主が入ってくると休眠から目覚めて活発に増殖する。(「植物病理学概論」から、138.p)遺伝情報のやり取り。細菌は、同種または異種の細菌間で、種の壁を越えて遺伝子をやり取りすることで、例えば農薬などに対する薬剤耐性を獲得することがある。その伝達方法はイ.細胞同士が接合して、トンネルのようなものを通して遺伝子を交換したり、ロ.裸の遺伝子を別の細菌が細胞内に取り込んだり、ハ.細菌寄生性のウイルスを介して遺伝子を交換したり、という方法が知られている。(「土壌微生物生態学」から、170.p)こうなると、ある種の細菌が特定農薬に薬剤耐性を獲得した場合、まったく使用したことのない細菌に対してもその特定農薬の効用はなくなる可能性が出てくる。以上は、現在、研究され、分かっている土壌微生物の生態のほんの一例であって、実際には分かっていないどころか、研究対象にさえなっていない広大な未知の分野が広がっている。「土壌微生物生態学」の編者あとがきに「この重要で興味深い研究分野がいまだ学問としてあまりに未成熟な状態にある現状にあ然とする」と書いておられる。
2006/02/01
土壌微生物を、それぞれの場面でいろいろに分類してきた。これをちょいとまとめておくと、1.エサや栄養物のとり方で四つに分けた。 イ.光合成独立栄養菌(または光無機栄養微生物)、 ロ.光合成従属栄養菌(有機栄養微生物)、 ハ.化学合成独立栄養菌(化学無機栄養微生物)、 ニ.化学合成従属栄養菌2.構造によって六通りに分けた。 イ.細胞核を持っていないか(原核生物)、持っているか(真核生物) ロ.細胞壁を持っているか(細菌、菌類、藻類)、持っていないか(原生動物) ハ.光合成色素を持っているか(独立栄養菌)、持っていないか(従属栄養菌)3.有機物をエサとする微生物のうち、有機物の無機化の条件によって二通りに分けた。 イ.無機化に酸素が必要(好気性微生物、呼吸系) ロ.必要ない(嫌気性微生物、発酵系)4.エサとする有機物のなにを利用するかで二通り(または三通り)に分けた。 イ.動植物の遺体や分泌物を利用(腐生菌) ロ.動植物の生体に寄生または共生(寄生菌、共生菌)こういう分類というのは、覚えようなどと詰まらんことを考えると、面白くもないし・頭が痛くなってくる。どういう視点から、こういう分類をするのか。なぜそういう視点が生まれるのか、必然性はあるのか、ほかの視点はないのか。分類は条件的なものか、絶対的なものか。こんなことを、あれこれ考える材料にすれば良い。尤も、考えるにもある程度の知識は必要だが...。生命とは、遺伝情報を代謝機能を通して自己複製する構造物だ、と考えてよい。遺伝情報を脇に置いておけば、要するに構造と代謝が基本だと分かる。代謝と構造は不可分で、それは生命の発生した環境によって決まる。なにによって構造を作るか、なにをエサとして取り込めるか、取り込んだエサを構造に同化できるにはどういう構造が必要か。これらが遺伝情報を担う物質の組成や構造とともに解明されることが、少なくとも生命が何かを理解するには必要不可欠だ。原始地球の初期生命について、現在では、次のようなことが分かっているようだ。「39億年前の岩石に含まれる炭化物が、地上最古の生命化石の痕跡だとしよう。その岩石は玄武岩質枕状溶岩の真上の縞状鉄鉱層に伴って出現する。このような産状は、原始生命が原始海洋の形成とともに海水というバリアーによって有害な宇宙線から守られて誕生し、中央海嶺の上のブラックスモーカーと呼ばれる熱水噴出孔の煙突に張付いて、熱水からエネルギーをもらい、生活していたことを示している」24.p「28-27億年前、地球磁場が急に強くなり、地球は強い磁場バリアに囲まれるようになった。そのバリアーに守られて、生物は浅い海にまで浮上し、太陽エネルギーを利用して光合成をすることが出来るようになった」25.p(「生命と地球の誕生」から)・最初の生命体は、光の届かない深海で、無機物を材料に、熱水のエネルギーから誕生した。すなわち熱エネルギーを直接に利用して、無機物を有機物に変換する構造と熱耐性の仕組みを持っていた。・次の段階で、光合成色素を持ち、光エネルギーを利用して、無機物または有機物から、自分の身体を合成できる生物が発生した。最初の原核生物がどのようにして生まれたか、原核生物から真核生物への進化がどのように進んだか、これらのことはほとんど分かっていないが、2の構造上の分類は、地球の進化に伴う生命進化の過程に対応していることだけは、ほぼ明らかである。真核細胞内の小器官に関しては、もともと独立して機能分化して存在していた複数の原核生物が共生し、単一の・より大型で・複雑な構造を持つ真核生物に進化したのではないかという、いわゆる共生説が有力視されている。この類推で云えば、無生物視されている遺伝情報とタンパク質だけを持った特殊なウイルスが何ものかに寄生し、タンパク質合成能を獲得したことが最初の生命体の始まりとは想像できるが、これは僕の勝手な妄想に過ぎない(現在、このような過程が再現され、無機物から新たな生命が発生することはないが、それは原始地球の条件が失われてしまったことで説明できる)。構造上の進化に対応して、エサに利用できる栄養物が決まるが、それはまた地球環境の変化に伴う無機物・有機物の蓄積に規定されており、細胞の構造上の進化とエサとして利用できる無機物・有機物とは、ある種の共進化の過程を経て形成されたのだろう。嫌気性・好気性細菌の分化も、光合成無機栄養菌の繁殖によって酸素の蓄積が進んでから初めて現れてきたもので、それ以前はすべて嫌気性・発酵系の細菌ばかりだったとは、容易に想像できる。今日の土壌微生物の分類は、以上のような地球進化に伴う生命進化の過程に概ね対応しているが、これらの微生物の後裔は、現在では土壌環境のいろいろな条件に対応して棲み分けているし、かつ居住環境の変化に順応して代謝や形態を柔軟に変容させて生き抜いている。従って、2の構造上の分類を除けば、他の分類は概念的なもので、実際の微生物は環境に応じて条件的に変容させうるものが少なくない。
2006/01/31
昨日は・現在の土壌微生物の95%以上は、基本的には人間と同様に、植物の合成した有機物からエネルギーと栄養分を獲得している、と紹介した。今日はまた・有機物の無機化といえば、有機化合物を分解して炭素、また炭素化合物を追い出すこと、と書いた。この二つは、基本的に同じことを書いている。一方は、食物連鎖という視点から観察し、他方は化学変化の過程として解析したものである。土壌の分解系という視点から、食物連鎖の関係を具体的に見ると、次のようになる。「地上部の植物系や消費者系から土壌に供給された有機物は(引用者注1)、微生物の代謝による異化作用、土壌動物の粉砕作用、物理的な溶脱作用という三つの作用を受けて重量や養分の含有量が変化していく。これら一連の過程を分解系における有機物の分解過程と呼ぶ。土壌の分解系において、有機物の一部分は難分解性物質(土壌有機物、引用者注2)として堆積するが、土壌生物による分解に伴って最終的には水や二酸化炭素、養分物質(窒素、リン、カルシウム、カリウムなど)、その他の無機物質に変化する。この過程を分解による有機物の無機化と呼ぶ。無機化に伴って、有機物からエネルギーと養分物質が放出される」(「土壌微生物生態学」99.p)(注1)動植物の遺体、植物根などから剥離、浸出する各種有機物、動植物の糞尿など(注2)細胞壁に含まれるセルロースやリグニン、葉っぱのクチクラ層に含まれるクチンやワックスなど。有機物をエサにする土壌微生物群は、大きく二つに分けられる。・動植物の遺体や分泌物を利用する腐生菌・動植物の生体に寄生または共生する寄生菌や共生菌前に触れたことのあるアーバスキュラー菌根菌は共生菌の仲間。
2006/01/30
無機物をエサにする微生物と、有機物をエサにする微生物とがいる。ところで無機物、有機物とは何だろうか?意外と自明のことのように扱われ、ほとんど説明なしに使われている場合が多い。例えば「土壌微生物の基礎知識」の最初の各章は、微生物ってどんな生きもの、微生物は何を食べ・どう増えるか、有機物を分解する微生物、有機物施用と微生物...と続くが、無機物と有機物の説明がどこにもない。次のような書き出しで始まっている。「46億年まえ、誕生した火の玉の地球がしだいに冷え、表面が約300度になったとき、突然水蒸気が豪雨となって降りそそぎ、海ができた。まだ地球には酸素がなく、海はマグマから出るイオウや鉄などを含む強酸性で高温の水だった。その海で化学反応によって少しずつアミノ酸や核酸などの有機物が合成され、有機物は油滴のように集まって濃縮された。やがて油滴から最初の生命が誕生した。約40億年前のことである。最初の生命体は増え続け海に蓄積されていた有機物を食べつくした。誕生したての生命は早くも危機を迎えた。この危機を乗り越えたのは、海に溶けているイオウなどの無機物を利用してエネルギーを獲得し、二酸化炭素の炭素から有機物を合成できる細菌の出現であった。酸素のない嫌気的条件で活躍したこの細菌の子孫は、深海やマグマの噴出し口や温泉の熱気の中に今なおいる。この嫌気性細菌は進化していった。そして35億年前になると、光のエネルギーを利用して光合成を営み、二酸化炭素から有機物を合成して、酸素ガスを放出する細菌が出現した。この種の細菌の仲間の一つがラン藻である」10-12.pすなわち原始的地球で、有機物が無機的に合成され、次第に蓄積し、これら有機物の油滴から最初の生命が誕生し、有機物から有機物が合成された。次いで酸素のない嫌気的条件で無機物から有機物を合成する細菌が生まれた。やがてこの細菌の中から光エネルギーを利用して二酸化炭素から有機物を合成する細菌が現れた。光合成反応の副産物として酸素が排出され、蓄積されるとともに酸素呼吸型多細胞生物が生まれてきた。このように原始地球のきわめて早い段階で、今日の土壌微生物群の栄養物摂取の型がすでに出揃っていた。この辺の話は「生命と地球の歴史」岩波新書が手ごろかな。さて、それで無機物と有機物の違いはなにか?昔は、有機物は生命(=有機体)によってのみ生み出される固有の物質とみなされていた。ところが生物の基本物質であるアミノ酸が実験室で無機的に合成されることが実証されるとともに有機物を生命に結びつけることができなくなった。現在では、二酸化炭素や炭酸塩などの単純な炭素化合物を除いた炭素を含む(高分子)化合物を有機物といっている。なぜ炭素か?炭素は、簡単に炭素と炭素と手をつないだように大きな鎖状の炭素化合物を作りやすいからだ。それで、有機物の無機化といえば、有機化合物を分解して炭素、また炭素化合物を追い出すこと。例えば、動植物の遺体を燃やせば、二酸化炭素と水が発生し、後にはいくらかの無機物質が残る。逆に言えば、高温で酸化すると有機物の骨格になっていた炭素の鎖状の化合物がバラバラに解体して酸素化合物(二酸化炭素は、炭素の酸化物だ)に変わってしまう。炭素の鎖を切って、酸素の化合物に変換するには大量のエネルギーが必要になるので、外から高温にして熱を供給してやる。無機物の有機化といえば、炭素または単純な炭素化合物を結びつけて複雑な炭素化合物を作ってやること。炭素そのものを創りだすことは出来ないから、炭素はあるということが前提だ。この場合にもエネルギーは必要だが、例えば植物の体内では光エネルギーを使って、相対的に低い温度で炭素化合物(炭水化物のこと)を作ることが出来る。われわれが、実験室で無機物を有機化するのは大変だが、生体内では日常的に・かつ能率的に行われている。ATPは、そのためのエネルギーを供給する。
2006/01/30
土壌微生物は、なぜ土の中を住みかにするか?そこが彼らのエサや栄養物を獲得する場だから。いままで簡単に、エサとか栄養物と書いてきた。エサ・栄養物とはなんだろうか?代謝機能によって、生体を構成し、また生体を構成するエネルギーや運動エネルギーを取り出すもとになるのがエサだ。前に「食物連鎖の関係を考える」のなかで、微生物は光と無機物、有機物からエネルギーを取り出すが、その組み合わせ方で四つのタイプに分かれることを書いた。このときに利用する無機物や有機物は色々だが、細菌から人間などの高等動物にいたるまで現存する地球上の生物はすべて共通に、エネルギーをアデノシン三リン酸(ATP)という物質で蓄えている。例えて云えば、一般に、エンジンとかストーブとかガスコンロなどは、ガソリン・灯油・薪・炭・ガスなどの物を燃やして(=高温で酸化させて)熱エネルギーを直接に取り出して利用しているが、生物は無機物・有機物から酸化(あるいは還元)反応によって取り出したエネルギーをATPとして蓄え、そこからエネルギーを取り出して利用している。人間は、ご飯やパンや肉、野菜・果物などを食べて(普通、この形態をエサという)、炭水化物、たんぱく質、脂肪などの栄養分を摂取して(この形態を栄養物という)、そこから生体を作る化学物質や運動エネルギーなどを取り出している。しかし食品として食べた炭水化物、たんぱく質、脂肪などがそのままの形で利用されるわけではない。いろいろな分解酵素で、いったんは小さな分子に分解されて、体の各組織に吸収され(消化吸収)、さらに何段階かの化学変化を経てエネルギー源になるATPをつくって、エネルギーを蓄えている。車はガソリンなどの燃料で動いているが、人間はATPを燃料に運動エネルギーや生体を構成するエネルギーなどを得ている。人間や動物は、空気中の窒素や炭酸ガスを利用して、自ら栄養物を体内で合成できないから、他の動植物を食べて、そこから栄養物を取り出している。こうして食べる・食べられるという食物連鎖の関係が作られる。そのおおもとは全部、光エネルギーと炭酸ガスから炭水化物を合成する植物に依存している。では土壌微生物の世界ではどうか? 事情は、地上世界とほぼ同じ。「現在の土壌微生物の95%以上は、基本的には人間と同様に、植物の合成した有機物からエネルギーと栄養分を獲得している」(「土壌微生物の基礎知識」28.p)有機物を分解してエネルギーなどを取り出すときに酸素を必要とするか(好気性微生物)、必要としないか(嫌気性微生物)で、大きく二つに分けられ、前者の化学変化の過程を呼吸系、後者のそれを発酵系という。またエサとして有機物を必要としない残り5%の微生物は、硝化菌(細菌)、亜硝酸酸化菌、硫酸還元菌、イオウ酸化細菌など。畑や水田で、または堆肥の製造過程で、作物の無機肥料の利用を助けたり、有毒な硫化水素を発生させたり、プラスまたはマイナスの役割を果たしている。このように代謝機能に、無機物・有機物を利用する、有機物を自分で合成する・他の有機物を利用するなどいろいろあるが、また取り入れた栄養分を分解する化学変化の過程にも違いはあるが地球上の現存する全生物は、共通してATP としてエネルギーを蓄えている。ここまでで、地球上に現存する生物は細菌から人間にいたるまで、すべて共通の二つの特徴があると分かる。1.DNAという四つの塩基物質からなる化合物によって遺伝情報を伝達している2.ATPという化学物質を合成し、エネルギーを蓄えているみなさんは、この単純な事実に感動を覚えないだろうか?何十億年という地球の歴史を通じて、微細で単純な構造の生命から大きく複雑な構造の生命まで、様々な生命体を生み出してきた。その生命とは代謝機能を媒介に遺伝情報を自己複製していくもので、様々な形態を持ってはいるが、すべて二つの単純な化学物質に還元できる。人間の意識が、生命活動の中にどのように位置づけられているのか知らないが、われわれの意識はDNA もATP も解析できる、それにもかかわらず一毛の生命も作り出すことはできない。この生命の玄妙さに不思議な感動を覚えないだろうか??
2006/01/29
土壌微生物は、土の中にどのくらい住んでいるか?細菌と菌類については、推定の個数を書いておいた。色々な本にいろいろ書いてあるけれど、元をたどれば全部一緒。最近の日本の本は「微生物科学第4巻、生態」(柳田友道、1984刊)に行き着く。ということは、元が間違えれば、みんな間違えるということ。情報というのは、その情報がどうやって得られたかを含めて考えなければ、その真意のほどは判定できない。例えば、細菌と菌類をまとめて同定し(簡単に云えば、そのもののが何者かを判定すること)計量できる研究者がいるのか?「土壌微生物生態学」の「編者あとがき」にこんなことが書いてある。「土壌生態系における微生物と土壌動物の関係が密接不可分なことは...自明のことであろう。しかし、この自明のことが研究の場ではなかなか実践が難しい。土壌動物学者にとって菌類や細菌の種類を同定することは、オーケストラのピアノ奏者が鍵盤をキーボードに変えてコンピューターのプログラミングに挑むよりも困難であろう。一方、土壌菌類や土壌細菌の研究者にとって、土壌動物は巨大すぎて、思考の枠に収めきれないのかもしれない。ことは土壌動物の研究者と土壌微生物の研究者の間の問題だけに限らない。同じ土壌微生物学者でも、土壌細菌の研究者は土壌菌類には関心が薄いように見える。また、土壌菌類の研究者にとっては土壌細菌は縁の遠い存在のように意識されているようだ。それは、両者の大きさや生理的な性質の違いにより、実験手法が大きく異なるためであり...」部外者は、土壌微生物といえば、一括りにしてみんな一緒と思っている。ある視点からすればそれも悪くない。しかし視点を変えれば、それは無茶苦茶な発想ともいえる。細菌の細胞と菌類の細胞は、時に体積にして1000倍もの相違がある。微生物の中には、一個の細胞で一個の独立した生命もあれば、複数で一個の生命もある。時に寄り集まって一個の生命体のようになったり、ばらばらに分かれて独立して機能するものもある。こんなものを全部まとめて一括りにして研究し、微生物の量を推定するのだから、その推定方法によって自ずから差異が出る。どの推定方法が適切かは、さまざまな条件によって変化する。だから土壌微生物の研究者だからといって、必ずしも他の研究者の推定を批判できる能力を持っているわけではなく、言い換えれば鵜呑みにせざる得ぬ場合が多いということ。誤解のないように書いておくが、別段、何かの研究にけちをつけているわけではない。専門研究というものは、その分化が余りにも進んでしまえば、他からの批判の余地が比例的に減少し批判的に検証される機会が少なくなっていくということ。情報(微生物の推定量も一つの情報だ)というものは、出所の明らかでないものや出所のたどれないものは信用せぬこと、また無批判的に覚えるべきものではなく、批判的に考える材料にすべきものという、まあ、これは余談だ。さて、それで微生物の量だが、これは普通重さで計っている。人は数で数えるが、まったく不均一なもの、例えばノミとネズミと人とゾウを一緒くたにして数を数えることに違和感を覚えないか?そんなわけで微生物の量は数を数えるより、重さで計っほうが適切かもしれぬ。「普通の畑には、10アール当たり約700キロの土壌微生物がいる。もちろん、エサとなるわらなどの有機物の量で異なるが、平均すると、約700キロである。このうちの70-75%をカビ、20-25%を細菌が占め、ミミズなどの土壌動物は通常5%以下である。畑には水が少ないので、微笑藻類や原生動物が少なく、カビと細菌が大部分を占め、カビが最も多い。カビは水分の乏しい場所でも増殖できるうえに、エサとなる植物根や収穫残渣に多量に含まれる難分解性のセルロースやリグニンなどの多糖類を分解する能力に優れているからである」「畑の700キロの菌体の約80%は水である。...水を除いた140キロのうちの70キロが炭素、11キロが窒素である」(「土壌微生物の基礎知識」24.pから)ところで、ここでカビと書いているのは菌類のこと。ざっと9割以上が菌類と細菌ということになる。前に「植物寄生病の約8割が菌類に主因がある」と引用した。存在量に比べて土壌病害に占める菌類の責任はやや重いことになる。ウイルスや線虫が主因になるものは、1割以下としても作物によっては、軽視してよい理由には、まったくならない。ちなみに、最近の研究では「1ヘクタールの肥沃な畑の表層15センチの土壌中には、乾燥重量にして5トン以上の細菌と菌類がいる。また、筆者らの研究によっても、発達したスギ天然林の表層40センチの土壌中には、1ヘクタール当たりの乾燥重量に換算して5トンの細菌と菌類が存在することがわかっている」(「土壌微生物生態学」6.pから)すなわち、生体重量25トン、10アール当たりに直せば2.5トンという。これを使って炭素と窒素の量を推定すると各250キロ、40キロとなる。土壌中のいわゆる菌体窒素は11-40キロ程度あることになる。これは通常、地力といわれている。ところで微生物は「小さいことは...」で書いたように、増殖速度も世代交代も早い。水、空気、エサ、温度、pHなどの土壌条件によって急激に変化する。また一口に土壌と云うけれど、いつか触れるように植物根の周囲数ミリの根圏土壌とそのさらに外周の非根圏土壌とでは土壌微生物の生息条件は、異世界というほどに違っている。というわけで土壌中には、どこにでも均一に土壌生物が生息しているわけではないし、均一な密度で存在するわけでもない。当然のことながら、エサの好みがあろうし、住みかの好みもあろうし、住環境の好みもあろう。ということは、これらの条件が変われば、微生物相も密度も変わる。
2006/01/28
土壌の中を住みかとする生き物は、大きくグループ分けすると細菌類、菌類、藻類、原生動物(ゾウリムシ、アメーバ、ミドリムシなど)などの顕微鏡下の微生物、及び土壌動物(ミミズ、トビムシなど)である。細菌類と菌類の相違は、すでに書いた。藻類は、真核・単細胞で、光合成色素を持っており、太陽エネルギーを利用して無機物から有機物を合成できる。一方、原生動物は、真核・単細胞で、この点では菌類・藻類と同じだが、細胞の周囲を細胞壁で覆われていない。ここまでで細菌類から原生動物まで、次のような違いがあることが分かる。・細胞核を持っていないか(原核生物)、持っているか(真核生物)・細胞壁を持っているか(細菌、菌類、藻類)、持っていないか(原生動物)・光合成色素を持っているか(独立栄養菌)、持っていないか(従属栄養菌)植物細胞と動物細胞の最も大きな相違は、細胞膜の外側に硬い外壁のような細胞壁を持っているかどうかで、この点では、細菌から高等植物まで共通である。細胞壁があるか、ないかで、細胞の外側から栄養物を取り入れる方法が違ってくる。「細胞壁を持つ生物は、この壁が障害になって、外側にある塊り状のエサや水に溶けない高分子の物質をそのまま細胞の中に取り込むわけにはいかない。そこで細胞の内側で合成した酵素を外側に分泌し、エサを酵素によって低分子化ないし無機化してから(要するに、酵素によって切断し、細かく分割する:引用者注)、水とともに細胞の中に吸収する」一方、細胞壁を持たない原生動物の仲間たち、「アメーバの細胞膜は柔軟で、他の細胞を包み込んで、そのまま体の中に取り込んでから消化することもできる。原生動物の繊毛虫になると、単細胞ながら口を持ち、小さなエサを口から細胞の中に取り込んで、消化する」(「土壌微生物の基礎知識」から)なお「土壌微生物の基礎知識」(西尾道徳、農文協、1989刊)は、一昨日触れた講座「微生物段階の土つくり」5分冊(農文協)全体の「基礎的部分を一冊にまとめ、しかも難しいデータを使わずに、できるだけ模式的にわかりやすく解説」(同書、まえがき)したもので、約80のテーマについて、基礎から実践的応用まで各2-3ページにコンパクトに書いあり、お勧め。参考サイト:微生物について微生物に関するリンク集で、藻類画像データ、微生物図鑑、土壌微生物写真館などいろいろ面白い画像が見られる。
2006/01/27
細菌は、その言葉からして菌類の仲間ではないかという誤解が、時にあるから書いておく。菌類から見れば、細菌の仲間と見られるのはいい迷惑だ。どのくらい迷惑かといえば、菌類から見れば細菌はバーバリアン。未分化のいまだ文明以前の化け物のようなものだ。細菌は、いわゆる膜構造に包まれた細胞核というものを持たない。細胞核は、生命の設計図を記した遺伝情報を蓄える金庫のようなもので、菌類や原生動物などの下等生物から高等動植物に至るまで、その生体構造の複雑さのいかんにかかわらず共通に、遺伝情報を細胞核の中に持っている。ところが細菌は、遺伝情報を持たないわけではないが、特定の構造化された膜内(細胞核)には持たず、ただ細胞内に散在する形式で持っている(というと語弊があるな。裸でむき出しのままあると云えばよいかな)。発生史的にみれば、構造を持たないより、構造を持っているほうが高級に見えるから、菌類から見れば、自分は人間をも含む真核生物の仲間だが、細胞核を持たぬ細菌は原核生物の仲間で、質的に決定的な相違がある。地球上に生命が誕生したのが、約40億年前とされているが、原核生物は35億年前に発生したのに対して、真核生物はやっと21億年前に発生したばかりで、一個限りの単細胞生物からより複雑な構造体を持つ多細胞生物にいたっては、たかだか10億年の歴史しか持っていない。ウイルスとなると、細胞も持っておらず、遺伝情報とたんぱく質を持っているだけの身軽さで、それゆえに自己増殖することはできないが、他人(宿主)の細胞内に寄生して、他人のタンパク質合成能やエネルギーを利用して自己増殖を図っている。だからウイルスは、細菌から見ても自己増殖機能を喪失した根っからの寄生者。農耕民からみた略奪経済に依存するバーバリアンそのもの。下には下があり、上には上がある。自己増殖機能を持たぬウイルスが生物かという疑問は、当然、生命の定義からすれば生まれるが、それは定義の持つ避けられぬ内在的矛盾だ。一見、自己増殖機能をもたぬのは、生存競争においてきわめて不利に見えながら、きわめて有利に働いている。独立の代謝機能を持たないから、代謝機能を絶つことでウイルスを絶つことはできず、ウイルスの代謝機能を絶とうと思えば、宿主ごと代謝機能を絶つ以外にはない。「角を矯めて牛を殺す」方式。それゆえウイルス感染症には、細菌に対する抗生物質のような特効薬は見当たらず、免疫療法だけが、唯一の対処療法になっている。一方、植物には免疫機構はないから、ウイルス媒介役の昆虫・細菌もろとも殺す以外に対策はない。さて、土壌微生物の数だが、1gの土壌中に1000万とも、1億とも、10億とも、いろいろ云われる。同定法も分からぬものが多いから「数え切れない」くらい多いというのが、一番正確だが、それでは科学の名に恥じるから、取りあえずの推定はある。「土壌中の微生物、特に細菌の数については、植物遺体や鉱物粒子との、また生細胞と死滅細胞との識別が困難なこともあり、まだまだ正確な数は分かっていない。土壌の性質や測定法にもよるが、1gの乾燥土壌当たり100万-10億個の細菌が存在すると考えられる。 菌類については、1gの乾燥土壌当たり10万個の胞子と、10-100mの菌糸が存在する。大人の片方の手の平は乾燥重量にして約100gの土壌をつかむことができるので、肥沃な土壌の場合には、1000億個の細菌と数十kmの菌糸をひとつかみできることになる」(「土壌微生物生態学」から)ついでに触れておくと、「植物の寄生病の約80%は菌類が主因となり、約10%は細菌、さらに残りの約10%はウイルス、ウイロイド、ファイトプラズマ、線虫、寄生性高等植物などが主因となっている」(「植物病理学概論」から)。
2006/01/26
独学の悲しさで、行き当たりばったりに教科書や研究書、基礎や応用の本を読んでいるから、暗夜に見える星(=自分の耕作地の土つくり)を唯一の頼りに大海に乗り出した海図のない航海のようなもんで、ある程度の方向が見えているだけで、正確に自分のいる位置が見えているわけではない。当然のことながら、全体を見通して何かを書いているわけではなく、いま学んでいることと、いままでに学んだことから、整合的に考えられることを書いている。いつでも過去に自分の書いたことを振り返りながら考えてはいるけれど、考えて書いているというより書くことで考えている。だから自分の向かっている方向は正しいのかという、そこはかとない不安は常につきまとっている。いま手元に、土壌微生物を扱った三冊の本がある。1.土の微生物、土壌微生物研究会編、492.p、博友社、19812.土の微生物学、服部勉・宮下清貴共著、170.p、養賢堂、19963.土壌微生物生態学、堀越孝雄・二井一禎編著、229.p、朝倉書店、20031.は学会の総力を挙げた当時の土壌微生物研究の到達点を示す研究書。「はじめに」で、土壌微生物研究会は発足以来20年、かなりの盛況を迎えている、その大きな原因は三つあると、次のように書いている。「第一に工業廃棄物、都市廃棄物ならびに農薬などによる環境汚染が進行し、汚染除去に土壌微生物の役割が有効であろうと期待されたこと。第二に土壌中の物質代謝にかんする研究は農業生産を挙げるために土壌化学的側面から大いに研究され、一応の整理のついた段階に達し、次の段階への発展を目指すには微生物面の研究と結合して研究する重要性が改めて認識されたこと。また連作障害の深刻化などで、物質代謝以外の側面でも農業において土壌微生物への関心が高まったこと。第三に一般微生物学の発展に支えられて、新しい技法が、土壌微生物の研究にも応用され、世界的に見て、60年代間での停滞期からの脱出が可能になりつつあること」とはいえ研究に専心従事できる研究者は50名に満たないお寒い現状だと続く...。ということは、入門的教科書を除けば、この分野のやや専門的な本の出版はほとんど望めないことを意味する、需要が少ないので。2.と3.は、おそらく学部の入門的教科書。土壌微生物の世界の概観をスケッチして、各論研究の第一歩とするのが目的だが、「土の微生物学」では、第三章土の住み場所と微生物フロラ(フロラは、一般に植物相と訳されているが、ここでは微生物群の様相と思えばよい)と第五章植物と土の微生物で、土のタイプ(森林、草地、畑、水田)に応じた微生物相、植物の根圏・葉圏での微生物との関係、寄生・共生、植物病原菌などの問題を扱っている。尤も、「畑土」で書いてあるのは、「堆肥重視の技術条件では、アンモニア生成細菌やセルロース分解細菌が土の肥沃度を支える細菌として、また硝化細菌や脱窒細菌が肥沃を悪くする細菌として重要となる。化学肥料偏用の条件では、土壌固有型細菌または低栄養細菌と呼ばれるグループの減少と脱窒細菌の異状な増大が特徴的となる」くらいなもので、ここから何か実践的意味を汲み取るのは至難の技。3.は最新の土壌生態学の教科書。「はじめに」で編者は「最新のデータに基づき、土壌、土壌環境、根と微生物の関係、有機物の分解系、食う食われるの関係、拮抗と共同、微生物の数量と種類の研究法などについて微生物世界の相互関係の面白さをビビッドに伝えることを主眼に置き網羅したものである」と書いている。13人の研究者の共同著書で、かなり専門的内容を最新データに基づき、面白く書いているのだが、土壌の団粒構造と微生物生態との関係とか土壌タイプによる微生物生態の特徴というテーマがなぜかスッポリ抜け落ちている(あちこちに散見はできるが)。三冊の本を比べると、研究書と入門書という違いはあるが、「土と微生物」では、土壌微生物の微視的住み場所、森林・草地土壌、畑土壌、水田土壌の物質変化と微生物に各1章をあて、全体で約150ページ、やや三分の一を占めている。これに土壌微生物と植物根の相互作用を分析した高等植物と微生物やマメ科植物と根粒菌、また農薬と土壌微生物など、直接、農業分野とかかわる問題を扱った部分を含めると490頁の内やや400頁を占めていた。それが「土の微生物学」では、170頁の内80頁ほど(土壌タイプによる微生物の様態については4頁)、「土壌微生物生態学」では、土壌微生物生態と農業とのかかわりという意識は抜け落ちて、土壌一般における微生物生態が扱われ、特殊事例として農耕土壌が時に対象になっているという内容かと見受ける。この20年余の変化が、何によるか、僕にはわからない。研究手法の細密化による土壌微生物生態の研究の深化に伴い、主要な関心が「森から木」に移ってしまったのか、農業の比重低下に相応した関心の移動なのか、環境学という広い立場からのアプローチに変わったのか、単に関心がないだけか、その各々が何らかの比重で関わっているのか、それはわからない。なお「土と微生物」は、「新・土と微生物」として各200頁ほどの10分冊の小冊子として1996年から2003年にかけて改訂出版されている。これは「植物の生育と微生物」を扱った2巻以外はまだ見ていない。以上は、土壌微生物学の基礎的な本で、農業分野の応用的な本では講座「微生物段階の土つくり」5分冊(農文協)とか、自然と科学技術シリーズの何冊か(農文協)など10冊程度はあるけれど、これらは、まずは基礎を固めたうえで、ぼちぼち取り上げていこうかと考えている。尤も、行きつ戻りつは常態だが...。
2006/01/25
「量は質に転化する」は弁証法哲学の有名な命題の一つで、昔のインテリ学生なら知らぬ者はないほどの常識だが、いまどきそんな命題ははやらない。命題を覚えたからといって、社会的事象や自然の事象を見通せるわけではないが、与えられた事象をよりよく理解するには役に立つこともある。「土壌微生物生態学」(朝倉書店、2003刊)の序章に「小さいことの意味」と題して、次のように書いてある。「微生物の特徴は小さいことである」などというと、わかりきったことを言うな、馬鹿にしているのかと、叱られそうである。ところが、「小さい」ということに微生物が自然界で大きな仕事をなしうる根本的な理由が、さらにこの地球環境で40億年間栄えて秘密が隠されている。2.pサイコロを思い浮かべてみればわかりやすいが、サイコロの表面積は一辺の長さの二乗に比例し、体積は三乗に比例する。というわけで物体は小さいほど、表面積と体積の比は大きくなる。小さいものほど体積に比べて表面積が相対的に大きくなり、大きくなるほど表面積は小さくなる。ネズミはゾウに比べて体温を奪われやすい。地球に比べてダルマストーブは熱を発散しやすい。「単位面積あたりの表面積が大きいということは、環境との接触面が広いということを意味する。環境との接触面が広いと、環境中の温度や湿度など変化したときにその影響を受けやすく、細胞内の代謝活性を一定に保つことが難しくなるというデメリットがある。しかし一方、環境との接触面が広いということは、当然のことながら、水・酸素・栄養分などを外界から細胞内に吸収するための面積が広いということでもある」「細胞の表面積が広いということは、単に栄養分を吸収するのに都合が良いだけではない。それと同じくらいに重要なのは、細胞内に蓄積した老廃物の廃棄にも都合が良い、ということである。...細胞内の老廃物をうまく処理できないということが、老化や疾病などの原因になる」2-3.p心の憂さも、脳内に取り入れたクソ情報の老廃物をうまく処理できないためかな。とすればクソ情報の処理システムの回路を作ることのほうが、情報を取り入れることよりも大事ということになる。「体の小さい微生物は効率的に水・酸素・栄養分などを吸収し老廃物を廃棄できるので、細胞内の代謝活性が大型の生物に比較して非常に高い。例えば、菌類の呼吸活性は静止時のマウスの4-40倍、細菌のそれは40-1200倍である。代謝活性が高いために増殖速度も非常に早くなる」4.p直接、関係があるわけでは必ずしもないけれど「ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学」中公新書を読むと、小型動物に比べて大型動物の寿命は長いように見えるけれど、仮に心臓の鼓動数を時間単位とすれば、大差のないことがわかる。(参考)
2006/01/24
前に「耕す生活」のHomeの中で「農業は、工業から独立して自分の足で立てばよい。そうすれば必ず新しい視界が開かれる、と考えている」と書いたことがある。これは工業製品を使わないとか・拒否するとか、そんなことを提案してるわけではない。工業社会で、そもそもそんなことは現実的ではないし、現代社会で工業を拒否することも不可能だろう。しかし工業の単なる付属物に成り下がってしまった農業を、自然との協業を通して自立した産業として再生することは不可能だとは考えていない。微生物学や発酵学、さらには遺伝子工学の進歩が、その梃子になりうると考えている(尤も、これらの技術が一握りの多国籍企業に独占されてしまう可能性もないではないが...)。ところで比嘉照夫さんの「微生物の農業利用と環境保全」(農文協、1994刊)を読んでいたらこんなことが書いてあった。「農業は自然まかせではなく自然と対応する経済行為である。したがって、圃場の造成はもとより、各種の基盤整備や栽培作物もすべて人為の水準である。このような見解にたてば栽培環境の構成要素である微生物の世界も人為的なレベルで制御されても不思議ではないが、それらの考えは自然主義者や自然農法、および有機農法を志向している人々からは拒絶的な反応が強い。その裏には微生物はどこにでもいるという単純な考えに立っており、有機物さえやっていれば良い微生物が自然に増えるという安心感があるためである」18.p有機農業や自然農法では土壌微生物の積極的活用を考えているのかと思いきや、そうじゃないんだと再認識!!尤も、自然農法志向には、求道者風からぐうたら風まで、各自おのおの個性的で千差万別だから、何があっても驚かないが、なるほど「自然界から学べばよいだけ」というお気楽もその類かと、これまた改めて納得。
2006/01/23
食物連鎖の関係について、消費者・分解者という認識は、かなり昔からあったが、最近(多分、土壌微生物学の研究が盛んになってからだろうけれど、研究者でないのはもち論、系統的に勉強しているわけでもないから正確にいつ頃からかは知らない。多分10年とは遡らないかな)生食連鎖・腐食連鎖という概念を導入して陸上生態系の物質循環を理解しようとする研究が進んでいるようだ(そのうち、どこかで紹介する)。「消費者系において、植物の光合成活動により生産された有機物は、生食連鎖を構成する昆虫などの生物により利用されるが、その量は植物による有機物生産量の数%から10%程度と少ない。その結果、生産された有機物の大部分は未利用の枯死有機物として土壌の分解系に供給され、土壌の腐食連鎖を構成する微生物や生物に利用される」(「土壌微生物生態学」朝倉書店、2003刊)すなわちバイオマスの9割以上は、土壌微生物によって分解され、物質の再循環過程を構成し、したがって土壌微生物の働きなしには陸上生態系は直ちに崩壊する。植物と土壌微生物の関係は、大部分は腐食連鎖の関係で、ごく一部の微生物が植物との間に共生・寄生の関係を持っている。平凡社の世界百科事典には、寄生とは「生物の相互関係のうち片害作用の一つ。他種の生物の身体にすみつき相手を殺さずに栄養として利用することというのが普通の定義で、寄生するものを寄生者 parasite、寄生されるものを宿主または寄主 host と呼ぶ」と書いてある。草食の動物は、この定義に当てはまっても寄生とはいわないと但し書きがある。例えば作物の茎・葉・根や実に昆虫が幼虫を生みつけ「殺さず」にエサとして利用しても、これは寄生とは云わないということ。エサとして利用するにも、植物本体を利用する場合と植物の栄養分の一部を横取りする場合がある。植物本体を利用されれば、その部位と面積によっては、徳川将軍と百姓の関係のごとく「生かさず殺さず」という有難くもない状態になりかねない。一方、生物間の相互関係のうち「ふつうには、二種間で両方または一方が利益を受けて、どちらも害を受けないような関係」を共生というとか。植物と微生物との関係となると、なかなか微妙。微生物が植物を栄養として利用する場合も、昆虫のように植物本体をかじるわけではなく、細胞内外から栄養分を横取りする。横取りされても害を受けるとは限らず、代謝活動を活発にしてプラスに作用するかもしれない。最近のように栄養分の過剰摂取で肥満を気に病むむきには寄生虫でも養って体重調整を図ったほうが良いかもしれない。そうなればこれは共生関係か??「笑う回虫」博士のように「寄生虫を排除したためにアレルギー疾患が増えたのではないか」と考えるむきもあるから(尤も、これにはこんな反論もある)、寄生・共生の関係は条件的・相対的ともいえる。まして土壌微生物世界のこととなると五里霧中の状態(僕がではなく、研究の現状が)。とはいえ、植物と微生物は進化の過程で、互いの有利な点を生かし不利な点を補いあう共生関係をつくってきたとみなされている。「土を培地とする植物と土の中で生活する微生物は共に生存のための栄養分をめぐる厳しい生存条件下に常に置かれている。光合成で二酸化炭素固定を行う植物にとって重要なのは無機養分である。一方、窒素固定微生物は窒素栄養が不足した環境で優位に生存できるし(自ら空中窒素を固定して利用できるから:引用者注)、土の中に菌糸を伸ばす糸状菌は、土の中の低濃度の栄養分を呼吸することができるが、そのためには固定された炭素(有機物)を必要とする」(「土の微生物学」から)このような共生関係の中で、わずかに研究されているのがマメ科根粒菌と菌根菌である。
2006/01/23
視点を変えてみれば物事がまったく違った様相を呈することは、日常生活でも珍しくはない。勝ち組の最たる英雄に見えたライブドアの実態が、単なる虚業の王様に過ぎなかったと悲哀の涙を飲まされた人は少なくないだろうか。栄養摂取の関係から見ると「病原体が特定の植物に感染するのは、たまたまその病原体がこの植物の養分をエサとして生長するように進化してきたため」で、それは「食物連鎖の一環であって、生物界ではごくありふれた現象」(参照「作業日誌」)であると聞かされたところで、植物の病気対策にならないことは、株価の上げ下げは株式市場のありふれた現象であって、それがなければ取引は成立しないと聞かされても、ライブドアで大損した人の慰めにはならないのと一緒だ。エサとする・エサとされるという食物連鎖の関係は、さらに一般化すれば物質循環の一環だがそこに生命という不可思議なものを介在させると、初めて食物連鎖という新たな視点が現れる。生命は、一般に、次の三つの性質を持つものとされている(生命科学の入門書にはどこにも書いてあるが、例えば「生命と地球の歴史」岩波新書は手ごろかな)。1.ある境界をもって内界と外界に分けられる(形態)2.外界と物質やエネルギーのやり取りをする(代謝)3.自己複製する(繁殖)例えばエンジンや発電機は1と2の性質を持っているが、エネルギーのやり取りによって自己複製はしない。幽霊は形態を持っているが、一般には2と3の性質を持たない。生命は形態を持つと同時に代謝機能によって自己を複製する。人間が生きているということは、人間を構成する細胞が自己複製能力を持っているということだが、細胞の個々の構成要素も外界からエネルギーを取り入れることで、絶え間なく自己複製している。種の個々には繁殖をやめてしまうものもあるが、種として繁殖(自己複製)しない種はない。生命が、外界と物質やエネルギーをやり取りする関係を代謝というが、生体を作る代謝を同化、エネルギーを取り出す代謝を異化といって区別している。代謝機能が損なわれれば病気になり失われれば死にいたる。人間は、食物を摂取して代謝機能を維持しているが、その植物は別の植物からではなく太陽から微生物を媒介にエネルギーを摂取している。では微生物は、どこからエネルギーを取り出す?「微生物の利用するエネルギーには、二種類ある。光エネルギーと栄養物の酸化・還元作用で放出される自由エネルギーとである。光エネルギーを利用する微生物を光合成菌、エネルギー物質の酸化還元反応の自由エネルギー利用する微生物を化学合成菌という。また化学合成菌には、無機物からエネルギーを獲得する場合と有機物から獲得する場合とがある」光合成菌、化学合成菌とも炭素源として有機物を必要とするかどうかによって独立栄養菌(有機物は必要なし)と従属栄養菌に分けられ、それぞれ光合成独立栄養菌、光合成従属栄養菌、化学合成独立栄養菌、化学合成従属栄養菌などと呼ぶ。(「土の微生物学」養賢堂、1996刊)アーバスキュラー菌根菌のなかで、寄生・共生という言葉を無造作に使ったが、以上の関係を踏まえて、次回は寄生・共生という関係をさらに考えてみよう。
2006/01/22
逍遥ついでに、もう少しお喋りしておこう。例えば、北米の農業を解説したこんな地図があるが、この地図を眺めただけでは中々イメージが浮かばない。どんな地形なのか、乾燥地帯なのか、湿潤傾向なのか、風の流れはどうなのか、周囲の地形はどうなのか、市街地との距離や関係はどうなのか、いろいろ気になることはあるけれど、そんなイメージはさっぱり浮かばない。ところが、この地図とグーグル・マップスとを併用して、衛星画像で確認してやれば、かなりの具体的イメージを描くことができる。アメリカ・カナダの国境地帯にまたがる春小麦地帯の畑の大きさ、広がり具合など手に取るようにわかる。またカナダ東部のプリンス・エドワード島は有数のジャガイモ生産地だが、その畑の広がりぐあい・大きさなどイメージできる。あるいはブラジルのマットグロッソやアルゼンチンのパンパは、どんなところだろう??と思えば、たちまち空中遊泳の気分を味わえる。だからどうなの?といわれればどうしようもないが病み付きになりそうだ。アメリカ・カナダなどを見るには、グーグル・マップス英語版のほうが、地図と衛星画像を重ね合わせて見られるデュアル機能があって便利だけれど、検索は英語でないと受け付けない。
2006/01/21
地図のサイトはいろいろあるけれど、近頃、グーグル・マップスにすっかりはまっている。日本語版を開くと、まず拡大縮小図の下から五段目の日本全図が表示される。地名で検索することもできるし、地図上で一点をダブル・クリックして中心部に焦点を合わせ、それから拡大することもできる。この地図の凄いところは・連続的に拡大縮小できること・世界中どこでも自在に移動でき、表示できること・表示地図の衛星画像を表示できること五段目では日本全図だが、三段目にすればユーラシア大陸、オーストラリア、アメリカ大陸とアフリカの一部がカバーされ、一段目では地球全体がカバーされる。地図と衛星画像の表示には、自ずから精粗があって、アメリカ、カナダ、イギリス、日本などは実用レベルだが、他の地域の地図は全然だめ。それでも衛星画像はかなり精細に見られる。例えば、東京都心なら東京駅も霞ヶ関ビルも警視庁も見分けられるし、岩手県普代村でも僕の借りている畑は一つ一つ区別して、その植生まで見分けられるほどくっきり見える。秋田県大潟村の畑の広がり具合も歴然とわかるし、同じように山形県庄内地方の水田地帯、北海道十勝地方の畑作地帯など一目瞭然に見られる。まったく同じ感覚で、フロリダに飛んだり、北京や平壌、モスクワ、サマーワ、ヨーロッパの穀倉地帯、フランス・ドイツの畑作地帯と自在に移動して、その衛星画像を見られるところが凄い。何時間逍遥していても見飽きないほど楽しい地図だ。まずは自分の家と畑が見えるかどうか、どんな風に見えるかお試しください。
2006/01/20
たまたま1月19日付の米国農商務省発行のARS News Serviceが、アーバスキュラー菌根菌の話題を取り上げているので、簡単な要約と関連記事を書いておく。高等植物の根の細胞の内外に寄生し、共生関係を成立させている菌を菌根菌という(共生関係に注目して共生菌ともいう)。「俵谷圭太郎研究室」のWEBサイトに「菌は植物にリン酸などの養分を輸送し、植物は菌に光合成産物を供給することにより、共生が成り立ちます。菌根は陸上植物の80%以上の種に形成されます」と書いてある。アーバスキュラー菌根を形成する菌をアーバスキュラー菌根菌という(かつてVA菌根菌と呼ばれたが、ARS NewsにはAM菌根菌arbuscular mycorrhizal (AM) fungiと書いてある)。この菌の役割について、俵谷さんは、次のように書いている(同上)。○リン酸吸収の促進:土の中のリン酸(phosphate)は外生菌糸により吸収され、ポリリン酸として菌糸内を移動し、樹枝状体で宿主の細胞に輸送されます。外生菌糸により表面積が増大し、このため菌根を形成した植物のリン酸吸収量が増加すると考えられています。一方外生菌糸が有機態のリン酸や難溶性のリン酸を吸収するという報告もあります。○微量要素吸収の促進:銅、亜鉛などの微量要素の吸収を促進します。○水ストレス耐性の増大:外生菌糸の伸長により水分を吸収する表面積が増加し、干ばつなどの水ストレスへの耐性が増大します。○病害耐性の増大:菌根が形成されている根に対しては一部の病原菌が感染しにくくなります。○植物ホルモンの生産:菌根が花芽形成の促進に関与している可能性があります。○植生の維持:土の中に張り巡らされた菌糸のネットワークにより宿主植物同士が結ばれ、互いの生育を助けます。ところが厄介なことに、「アーバスキュラー菌根の形成はリン酸質肥料や農薬の多投により抑制されることから、我が国の畑では菌根がほとんど形成されていない植物も珍しくありません」という状態(以上は引用)。これは自然の生態的役割を充分に引き出すには、化成肥料や農薬の施用は抑制すべきだという根拠にはなりうる。さてARSニュースは、概ね次のように書いている。最もありふれた菌根菌のアーバスキュラー菌根菌は大部分の作物の根に寄生し、主にリン酸の吸収を助けている。また耐病性を強化し、土壌浸食に対する安定性を高め、土壌空隙を保持して通気性・透水性を維持し、土壌中の有機物を集積して、土壌を肥沃にしている。残念ながら、アーバスキュラー菌根菌の土壌中の菌密度は現代農業の結果として衰微している。一方、化成肥料や農薬をほとんど、またはまったく使わない有機農業のような農耕法においては、その生産性に重要な役割を果たしている。家庭園芸では有益菌を摂取した苗を購入することもできるが、農業者が必要量の菌根菌を購入して、圃場に投与することは、経営的に不可能だ。ARSの研究チームは、土着の菌根菌や非土着の菌根菌を外部から摂取してアーバスキュラー菌根菌を大量増殖して、農耕土壌で安価に使えるような研究を進めている。アーバスキュラー菌根菌の生態を研究して、宿主植物がなくともコロニーを形成できるような方法を探っており、菌根菌を農業生産に実践的に活用できると期待している。日本語の参考サイトを紹介しておくと有機農業における役割を分析したものに・オーガニック農業は、炭素を大気中から隔離して土壌中の栄養物にする共生菌について簡単に説明した・素晴らしき共生菌の世界輪作における菌根菌の動態と作物栽培への効果を分析した・輪作におけるアーバスキュラー菌根菌の動態と作物の生育に関する研究共生システムの確立を分析した専門的論文に・アーバスキュラー菌根における物質代謝と輸送次のサイトは、マツタケの研究に特化したものだが、菌根菌の一般的理解にも役立つ・マツタケの研究
2006/01/20
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