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2月早々から、いよいよマンション大規模修繕が始まります。先週はベランダに置いてあるものを撤去せよとのことで、疲れました。やれやれです。植木などは全て下に決まったとこに移動。これまで植木をいじる度に、日当たりがあまり良くないものですぐ枯れて、その土が山のようにあります。これどーすんの。マンションの決まった所に捨てていいことになって、やれやれ。ベランダに置くロッカーも解体。そこから懐かしいものが出てきました。動くかな、、、、動きました。すごいものです。もちろんバッテリは不可ですが、ごみ袋に入れてあったとは言え、最悪な環境だったはず。営業時代に使ってたものです。当時はカラーなんて超贅沢。ノートブックを持ってるたけでも、注目されましたねえ。180は液晶が綺麗で、その安価版が160でしたっけ?OSはMAC OS 7。懐かしいです。最後に「バイバーイ」なんて言うソフトを入れて、遊び心たっぷりでしたね。ウイルスはMACの世界ではやって、Windowsには関係なかったですね。大規模修繕と話がそれましたが、、、、大掃除にはなりますね。つい捨てられなくて。
2007年01月31日
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まだ発売したばかりだから、やむを得ないと言えばそうなんですが、XPの時はどうだったかなあ。対応ドライバ等が出来るのに、そこそこ時間はかかったとは思いますが、新製品には対応するが、その一つ前のバージョン以前は、買って下さいとか、少し厳しい状態ですね。わたしはWindows2000をずっと使っていて、なんとXPは触れたことないんです。今回は買うつもりですし、新しいパソコンを必要としているのですが、少し状況を見るよりしかたないなあと、考えてます。昨日も書きましたが、現在の各社のVista対応情報をまとめてみました。 Adobe社の対応状態 BHA社の対応状態 NTT東日本社の対応状態 ロキシオ社の対応状態 シマンテック社の対応状態 I・O DATA社の対応状態 BUFFALO社の対応状態 EPSON社の対応状態 キヤノン社の対応状態 エーアイソフト製品の対応状態 トレンドマイクロ社の対応状態これは、私個人が使用しているソフトに関して調べた結果です。こうしている間にも更新されていることと思います。更に、調べないといけないことが出てくることと思います。その時はまた書きます。
2007年01月31日
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きのうテレビで紹介してたのですが、すぐに出て来ずでした。書込みもして頂いてるし。ですが、やっと見つけました。2006年10月18日に既にやってたとこがあるんですねえ。びっくり。ニンテンドーDSが教材にユニーク授業だそうで。。。。高くつきそうだ
2007年01月30日
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これはとても気になっていたのですが、少し深刻です。Adobe Acrobatでさえ「Ver7及びそれ以前のバージョンには対応しません」とはっきり書かれてます。最新Ver8については専用パッチを用意するとあります。げげーです。互換モードがあるとは何かで読んだことがあるのですがいやーショックですねえ。
2007年01月30日
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いよいいよVistaですね。発売は明日からですが、あちこちの店でみれますね。6年Windows2000を使いましたから、今回は購入します。メモリはアエロを使うなら1Gとありますが、それ以上結局いるんでしょう。グラフィックボードも慎重にせざるを得ないですね。2月中には今度はノートブックにしたいとこです。。OFFICEもスタンダードでないとPowerPointは無いんですし。
2007年01月29日
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まだ結婚して、子供もいない時代の話です。ですから、脳出血前です。1996年1月19日です。くたくたに疲れて会社から帰って、気がついたら病院の緊急治療室?というのかなとにかくその中で、わたし大声してました。それで意識は戻りました。疲れてたのですぐ寝たのは覚えてます。その後、わたしは意識はないのですが、大騒ぎしたそうです。全身痙攣発作を起こし、脱臼をおこして、一人で大声で、脱臼したまま、なにやらうなってうろうろしてたようです。妻はどうすることも出来なくなり、救急車を呼んだそうです。救急車は度々お世話になってましたが、このときは。。。。。。。で、救急隊の方が来ても、病院に連れていくにも、私がおとなしくしないし、困りはてた救急隊の方は応援を呼ぶことにしたそうです。これを、今でも妻にマネされてます。たいへんやったんやでって。救急隊の方は連絡したそうです。「収容困難。収容困難。応援求む。応援求む。」ってすぐに消防自動車にポンプ車、すごい台数がきたそうです。はずかしい。。。。で、病院に入って、整形の先生がなんとか、肩を入れようとすると、「痛いわい。なにするんじゃ。わーーーー」って先生にかぶりついてたそうで。うそやと妻に聞いたら、先生に聞いてみろ。聞きました。「あんた痛がりやね」っと言われたことありました。意識なかったんで。。。いずれにせよ改めて「救急隊の方、先生、すみませんでした。」
2007年01月29日
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いやいやすごいものですね。やっと年末に息子に買ってやることができました。えらーくならんで、、、、買う権利を得るために。すごいものですね。抽選は当たり前、番号を呼ばれた時、「17番のかた。いらっしゃいませんかあ」いるよいるよ。貰えるんではないんですよね。これから買うんですよね。ふーん。今度はある学校の教材に使うなんてテレビで紹介されてました。あらりゃーですわ。あんまりゲームばっかりするから、イマ取り上げてあるんです。「9時までだよ」って言っても返事もしない。。。。困ります。
2007年01月29日
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今日、いやもう昨日になってるのですね、うれしいコメントも頂きがんばろう!と思っております。ありがとうございます。幸いクモ膜下出血は軽く、脳血管撮影でもたいしたことはありませんでした。今は年2回のMRIと採血。診察は年4回です。薬の量が多いので、肝機能障害を見るためですが特に異常ありません。不定期に眩暈や、体調を崩すことはありますが、痙攣は起こってません。脳のむくみも大きくはなっていません。これは、ガンマーナイフで異常な脳血管が消失したためと思われます。先生も今は変わりましたが、「病気といい関係を」ですね。家族に感謝!みんなに感謝! です。
2007年01月28日
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こんな私ですが、すこしづつ仕事みたいなことが出来るようになりましてね。いっしょの会社におられた先輩が、会社を起こして「よかったらやってみない?」って。うれしかったですねえ。一番うれしかったのは、CD製作をさせてもらったことですね。Directorを勉強していくつか製作させてもらいました。ただ、言葉に難があり、また聞取りがうまくいかないんですがそれも配慮して仕事が出来るようにしてくれました。有難い話しです。一方で痙攣は1999年当時、薬もコントールできてない状態でしたから、迷惑もかけました。かなり。2000年になってやっと薬もコントロールができつつあったのですが、2001年6月11日淡いクモ膜下出血を起こしました。Directorの仕事だし、はりきってましたが、自分の制御できる範囲を超えてしまったんですね。夜遅くにまでやらない、しんどくなったらすぐ止めると妻からも言われてたし、この先輩からも。この日は土曜でした。疲れて一人テレビを見てると、あの脳出血の時みたいにじわじわ痛みが走りました。あれーこれまずいんじゃないーーーーけど、さほど痛くなく収まり、良かった良かったと思ってました。ですが、少しいやな感じがあったので、念の為、病院に行きました。元気だったすよ。だから先生も「あなたはどうしてほしい?」って先生から聞いてきました。元気だし、けど気になるし。。。。。そこで先生に「軽くCTでもどうでしょう?」って聞きました。先生は「うん、それいいね。」MRIは精度は高いけど、高いしすぐに割込むのは難しいし。で、結果、先生じーとフィルムを見て、しゃべらないの。「悪いけどちょっと気になるからMRIしよう。」でした。普通割込みは出来ないんですが、即検査になり、「やっぱり薄く出てるから入院ね」でした。なんか脳出血、脳梗塞、クモ膜下出血してフルコースみたいでした。
2007年01月27日
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最初はデパケンRと痙攣がきそうな時用にデパケンを持ってました。しかし、これではコントロール出来ないとのことで、ヒダントールとテグレトールに変更、さらに追加にエクセグランを追加になりました。このエクセグランが合わず妙な現象がでました。少しづつ、身体に異変がでるんです。異変というのは、だんだんいらいらでもないんですが、いてもたってもおられなくなるんです。その前に一度診察を受けてます。もう少し様子を診ることになりました。8/17 夜にこのいてもおられない現象、どう説明すればいいのか、、難しいのですが、焦燥感というか、ピークになり朝まで我慢して診察を受けたところ「変なのがよくわかる。入院しよう」になりました。25日まで入院しましたが、何故か退院。「おれまだへんだよ」って言っても病院というところは顕著な異変がないと追い出されるんです。また入院すると病棟の責任者は婦長になるようで、よほどのことがない限り2週間がリミットでしたね。案の定、25日の強制退院(あえていうなら)日、私は駅で痙攣を起こしました。救急車もそのままほっておくと、空いてる病院に搬送するので、普段から紹介状はもっているので、しゃべれる言葉で病院名を救急隊の方に話、病院も了解したので、出てきた病院に搬送されました。まもなく2回目の痙攣。痙攣は日に2回は異常なんです。痙攣することで、この疲れのようなものを放電するわけです。しばらくして、疲れがまた貯まると痙攣という放電をするわけです。25日から9月11日まで入院。合計1ヶ月の入院となり、合う薬を調整しました。その間、補う薬はないので度々、痙攣を起こしてようやく退院となりました。でもこの先生とっても腕のいい先生なんですよ。具体的には書けないけど、日本で一番難しい大学の医学部をでられて、そういう人って、だいたい鼻が高いですよね。けどこの先生は6人部屋で再入院した私に「今回の退院してまた入院などあってはならない。わたしに責任にあります。申し訳ないです」って。出来ないですよね。すばらしい先生だった。今わたしは薬は日にヒダントール25mg 12錠テグレトール200mg 3錠マイスタン10mg 2錠を毎日飲みます。
2007年01月26日
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脳梗塞による失語症になって、退院後からリハビリに通いましたが、日記を妻とつけるようにしました。左に私自信で書いたコメント、右にはそれに対する妻からのコメントです。わたしは、書きたいことがあっても、文章にならないんです。当時。これでも新規開拓の営業でしたから、その違いはよく感じました。リハビリもこの病気になって毎日行ったのも、早くなるだけ訓練しておかないと、ある程度のところまできたら、それ以上の回復は見込めないと知ったからです。一般的にはそうです。脳梗塞後の「めまい」を抑える、ケタスという薬も今は飲んでません。検査入院も入れて8回しました。しばらくは痙攣が落ち着かず、いろんな薬を試しました。その中に私に合わないのがあったんです。この手の薬は効果が出るのも、1ケ月くらいかかりますが、抜くのもそれくらいかかります。麻薬中毒者ってきっとこんなんだろうとおもいました。次回はそこからかきます。薬名の最後にRってついてるのありますよね。あれはじわじわ効いてくる薬を表してます。その代わりに長い間薬の効果があります。即効性を望むならRの無い薬。もちろん医師の指示なしに飲むのは止めたほうがいいです。
2007年01月25日
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下の写真は、入院して間もなく少しでも回復させようと、妻が確かカルタのようなものを買って来てくれてベットで練習した時のものです。リハビリにはこのような教材で行われました。これを見ると右上はリハビリの先生の字ですね。かかった時間を書いてくれてますね。これを見るとほとんど正解できてるようですが、後で書けなかったものを、「これは「あひる」ね」といった感じで、練習したと思います。数字はだめだったですね。九九はさっぱり忘れてるというか、出てこないというか。。。割算なんて論外。それに聞取り。もと通りにはなりません。それは分ってました。だいたいはしゃべれるのですが、自分にとって新しい固有名詞、がきついですね。「こんにち」「さようなら」「今日きたんだけど」とかはいいんです。会話にならないんです。こんなことがありました。郵便局に「書留速達」をとりに行ったんですが、「書留速達」ってどうやっても出てこない。局員さん「???」ですよね。変な言葉は発するんだから。その頃痙攣もまた頻発していました。しかし、私はとても良かったんだと思います。軽くて。パソコンも多いに練習になりました。
2007年01月24日
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診断の結果、ガンマーナイフ治療の結果、予測外に脳梗塞による失語症になったようです。確か先生と入院にあたって、今の状態を調べるべく、私は「しゃべりたいんだけど、うまくしゃべれなくて」と言いたかったのですが、言葉にはなってなかったですね。しゃべりたい事があっても、言葉にはならないんです。「うーわー@@@▲???」です。でも脳出血の時ほど、自分は落ち着いてたです。連休前だったので、詳しい検査等は連休後だったように思います。こうなったら、なるようにしかならないんしょう。私は意識もあるし、入院するベッドまで歩いて行ったですから。連休後、まず眼が正常に見えてるか、最初に検査しました。左後部は眼、方向感覚、言語に影響出やすいところで、また手術も難しいところです。幸い眼には異常はありませんでした。コントロールする脳に影響がでたら、いくら眼を良くしても見えないでしょうからそれだけは、避けたかったので、セーフ。診察では「気ながに回復するよう訓練を」といった内容のことを言っておられたかな。いい先生でしたよ。先生は最大限に治療をして下さったのですから、ちと悪い方にでたかなという程度にしか思ってません。医師という職業も大変だと思います。最大限の治療をして頂いたと思っております。けど、もし、視力を失ってたら、私のような小心者はパニックしてたでしょう。リハビリが始まりました。数字、方向感覚、聞取りに影響がありました。それは今も同じです。レベルは違います。当時とは。妻はショックだったでしょう。でも表はニコニコと精一杯してくれました。ありがたいものです。口ではなかなか言えないのので、、、、恥ずかしいような。
2007年01月23日
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ガンマーナイフを受けて、営業から内勤に変わることを引継ぎにまわってました。なんとか仕事はやってましたから。1997年の仕事収めの日、突如、わたしのいた事業部が日本市場から撤退するので来年から来なくてもいい、と、告げられました。失業です。はー?です。全部英語で書いてあるの。。。。。外資ってこんなもんか、です。でも少し、自分にとっては身体を休めたいというのもあったのでにっこり笑って言ってくれた妻にとても助けられました。その時赤ちゃんが出来たことがわかりました。5月には元上司の紹介で、次の会社も内定しましたし、約2.5倍の退職金も得ることができました。次の会社もこれまでと同じ金額を支払ってくれることになりましたし。ただ私の病気のことは知らせてません。しかし、私の身体には異変が起こっていました。痙攣が度々でるようになりました。「脳にむくみが見られ3ヶ月の安静」を告げられました。6月から出社になってるのに困った。。。そして4月最後の日。朝です。「さあごはんでもつくるか」と言ったはずなのに明らかに言葉になっていない。右手足に若干違和感も感じる。左に患部があると右にでるんです。すぐ病院に行きMRI撮影が行われました。「これは、脳梗塞なんですよ。」脳梗塞による失語症と診断されました。先生も予測外だったようです。
2007年01月22日
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脳出血で入院してこのようなことが説明されました。「出血場所は頭左奥にある5cm大の脳動脈奇形。生きて上で非常に大切な個所でメスを入れることは難しい。入れてると大きな後遺症あるいは植物人間になることもある。現在ガンマナイフという開頭手術をせずに治療する設備もあるがどうする?」といったようなことでした。1997年にこの機械が日本にあったのはごく数台でした。コバルトを使用するので、言ってみれば原爆みたいなもので、患部に向けて被爆させるわけです。わたしとしては、治療にあたっては痛みも無いし、薬をのみつづけないといけないのは同じだからお願いすることにしました。一旦退院、1ヶ月後にこのガンマナイフに再入院しました。退院してからの妙な感じ、うまく階段が歩けない、度々吐き気が来たりことは昨日書いた通りです。奇妙な具合でした。そして再入院。ガンマナイフ前日、先生が少し心配してました。ガンマナイフには特殊なヘッドギアの様な金属をかぶるのですが、私の頭が大きいから入るかどうかわからなかったのです。そして当日。 もう絶対、2度とガンマはしないと心に誓いました。ヘッドギアのようなものをつける為、大工の様な工具を持って先生、部長先生はじめ皆さん待ってました。固定する為、直接ネジを頭に埋め込むんです。麻酔は6本使いました。あんな痛みは初めてでした。ポロポロ涙は出るし、身体は震えるし。もういやですね。普通ならそんなに痛いものではないはずなんです。私の場合、ヘッドギアが大きさがぎりぎりで、もろ神経の上にネジをしたからです。部長先生の言葉覚えてます。「もう1本麻酔してあげなさい」でも痛い、いくらやっても。まずMRI、脳血管撮影後、私の異常な脳血管をうまく消せるか検討に相当時間かかりました。「完全に消すには大きすぎるけど、やろう」ガンマーナイフそのものは全く痛くありません。6ヶ月後に放射されたところの髪が無くなりました。そして、、、、
2007年01月20日
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泣いたのはその時だけなんですよ。意識もありましたし。とりあえずICUに入ることになりました。看護婦さんが妻に電話をしてくれて「ICUに入っておられます」って言ってるのが聞こえました。でも意識無くした訳でもなく、先生に言って「妻が心配するので自分の声でしゃべりたい」と言ったら了解してくれ、一安心。その夜、いままでにない痙攣が起こりました。右足だけかってに動き止めれない。息苦しく幻覚も見えました。痙攣を起こすとこれまでも様々な形で現れます。経験した人でないと解らないと思います。これまでの痙攣とは、あきらかに違うタイプでした。翌日はMRIで、脳血管撮影を行いました。2回目なのでどんなことをするのかは解ってました。足の付け根にある動脈から頭部内に造影剤を流し脳内の血管がどうなっているのか調べるわけです。局部麻酔を使います。造影剤を流す時、熱く感じたり、時には痛みを伴うこともあるので、初めてやった時は、頭が動かないようにテープで固定された記憶があります。局部麻酔を使用するのでそんなに痛みは感じませんが、苦痛なのはその後です。動脈に細いチューブを入れてるので、完全に固定され最初は重石になるものを置かれて、全く動けなくなります。少しづつ解除されますが1日かかります。入院は約1週間だったと思います。病院にいる時は自分でも、これなら普通にやってるねと思ってましたが、退院して初めて自分の身体に異変を感じました。階段がうまく歩けない。宙に浮いたような感じ。左に患部があったので右手足に異変を感じました。
2007年01月19日
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途中からになりますが、ここから書いたほうが分り易いかもしれないので、少しだけ紹介を書き、後は私が人生変わるなと感じたときの事から書きます。当時、私は営業でした。新規開拓が主です。もともと大阪人で大阪で3年、名古屋で2年、東京で約6年働きました。東京本社での勤務には私には厳しかったかもしれません。すでに難治性てんかんと左頭頂葉動脈奇形であることはわかってましたが、入社以来安定しており、東京に来るまでは忘れてました。大阪時代は実家から勤務だったので通勤に1時間30分程度でしたので、よくカプセルホテルにはお世話になりました。飲めない酒も必要でしたし、身体がぎしぎし言ってるのは感じてました。東京でのいろんな事は、また書きます。消防自動車にはしご車、おおさわぎになったこともありますし。痙攣でね。さて、脳出血した時です。わたしは土曜日でしたが月報をつくる為、会社におりました。パソコンをたたいていると、じわじわーと頭が痛くなりやがて我慢出来ないほどの痛みが襲ってきました。普通の痛みではないなと思いつつ、とにかく横になりたくなりうなってました。やがて少しづつですが痛みが柔らぎ、とにかく帰ることにしました。その時、右足に違和感を感じていました。なんとなく思うように動かない。へんなの。とにかく寝ることだ、月曜には治ってると思ってました。月曜になっても違和感はとれないまま会社に行きました。変な現象が起こりました。自分では意識ないのですが、人にどんどんぶつかるんです。「すみませーん」とあやまって。午前は社内にいましたが午後は営業。そのまま出ました。おかしい。交差点でかばんを一旦置いたのですが、ごく普通に忘れてる自分。。。。これは、そのうち動けなくなる、しゃべれなくなる、今の内に担当医に連絡したほうがいいと電話しました。うまくしゃべれたのでほっとしました。先生は「救急車を呼べ」と言ってましたが、「タクシーにはまだ乗れます」と言えてこれまたほっとして。すぐCTになりました。ここでも妙ことが起こりました。検査技師さんが「靴とって寝てください」わたし今でも覚えてますが、その靴をCTの診察台に置いたんです。もうおかしくなってたんでしょうね。検査技師さん「こんなとこに靴置いても仕方ないでしょ!」と起こられたのを覚えてます。撮影後起きようとすると「ちょっと待って!動かないで!」もしかしたら、、、、でした。個室で説明してくれました。「実は脳出血起こしてるんだよ」って。動脈奇形からの出血でした。なんでたか、予測はついてたのに、とても泣いている自分がいました。とうとうやってしまったんだって。また書きます。なれないものでうまく書けてないところ多々あると思いますが、すみません。
2007年01月19日
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やっと書けるようになったです。人間いろいろあるものですね。これから自分の経験したこと、参考になったこと、不定期に体調は崩れるのでその日記としても書いていきたいと思います。でも私は幸運だったと思います。
2007年01月18日
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