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先生は、しゃべりのプロであるはずです。異論はあるかもしれませんが、少なくとも、しゃべってナンボのはずです。 でも、本当にそうでしょうか?と、寅さん自身が、反省したことがあります。 寅さんの科学実験は、できれば2時間欲しいのです。それでも、ときどき、いや、いつもオーバーしてしまう。常に反省の日々です。 「寅さんの実験は、たっぷり時間がなくちゃ、味わえないよ。」と自分で妙に納得なんかしていました。しかし、先日、テレビ・ラジオを舞台にしゃべるアナウンサーの話を聞きまして、いかに甘いかを感じました!プロのしゃべり手と一般の人との最大の違いは「時間」を念頭に置いてしゃべるかどうかだということです。 授業にも、もちろん、時間はあり、「おおよそこの時間感覚で」といった常識的な構想はもって臨んでいますよね。 しかしテレビ業界のように「残り8秒でまとめてください」とフロアーディレクターがいきなりカンペを出す、という切迫した状況はそうそうないはずです。 先日聞いた話では、出された指示が「今日の振り返りと感想トータル13秒で締めて!」。こんなことに驚いているようではテレビの仕事はできないのです。一方で、「中継先、準備が間に合わない。3分つないで!」という突然の注文もある。 もちろん、ただつなぐのでは視聴者が逃げるので、それなりに「ひっぱる(興味を引き付ける)話題」を繰り出さなければプロではない。逆に3分の予定が、1分しゃべったところで急に「現場OK、中継呼んで!」のカンペがカメラの横に出される、というのも日常茶飯事。「しゃべりの基本は起承転結です」などと、悠長なことを言っていたら、翌日から誰も仕事を振ってこなくなるんです。しゃべったその瞬間から興味をそそる話題を繰り出し、しかも長さは、いか様にも調整できなければならない。 「あと1分あればうまくおさまったのに」などという言い訳は、まるで通らないし、そんなたわごとを言うものは2度とテレビ局には呼ばれない。「おれの芸は最低10分聞いてもらわないと面白さが伝わらない」と言っていたら、今のテレビ業界でで起用される可能性は極めて少ないのです。話芸を育てるには、ヒドイ環境だ、と憤ることもあるかもしれない。でも、逆に、こういうシビアな中でこそ、話芸は磨かれてくるのかもしれない。学校の教室の「お客さん」は、寄席のお客さんでも、テレビの視聴者でもありません。逃げませんし、客は、黙ってこちらの話しを聞かなければなりません。そういう中で、話芸を磨くのは、逆に難しいのではないでしょうか?これを克服するには、「このことを生徒に話すのに、本当に10分も必要だろうか?」「生徒は10分間も飽きずに聞いてくださるだろうか?」「自分が聞かされる側だったら、退屈な部分はないだろうか?」というように、自問自答するしかない。先生は、授業で話しをする際、自ら制約を自分に課すしかない。「話とは、話し手の先生が納得するためでなく、生徒にとって理解しやすいように"伝導率"を高めるものだ」という意識を高める必要があると思います。 「授業とテレビの生放送を一緒にするな」と言う前に1度、生徒からアンケートをとってみてはどうでしょうか?とっても勇気の要ることだけれど、これをしなければ、教室の王様である先生に、裸であることを、指摘してくれる人はいないのだ!そして、意外にも、生徒は遠慮無く指摘してくれるもんです。プロはみんなキビシイ評価されてるんです。先生も今から、しゃべりのプロ目指して頑張ろう! 寅さんは、まず「時間」を意識したしゃべりを心がけてみます。その第一歩として、ストップウォッチを使ってみます。
2008.04.28
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まだ、時間があるので続けます。「芸」にも、たしかにピンキリがあります。教室で、演じたい芸は、やはり頭を使わなければ楽しめない芸ですね。そこにこそ、学問という芸の魅力があるわけです。たとえば、話しをするプロ中のプロ噺家を考えてみましょう。落語は音ではなく頭を使って楽しみますよね。脳細胞がずいぶん活動してます。落語は、ずいぶん制約の多い芸です。何せ正座で、下半身を動かさずにいなければなりません。さらに、教材ならぬ、道具も使わいません。黒板もありません。教科書もない。(といっても扇子と手ぬぐいは使いますけど・・・)それでいて、すべてのシチュエーションを演じているのです。かえって、その制約のお陰で、普通の演劇やドラマではお話にならないことでも、落語にすると面白くて笑えるものも多くあるわけです。例えば愛宕山の話は映画でしても面白くないでしょう。出演は、たった一人なのに、1人で何人もの人を演じることができます。そして、ここが大切なのですが、それを聴く客の心の中に、自分の中でもう1人の自分を投影し、創り出すことができます。創りだされたもう1人の自分が冷静になって、冷静さを失っている方の自分に諭すことさえできます。 これも、イメージの共有化のもたらす魔法の一部です。このように、教室には劇場どころか、全世界、全宇宙を投影することができるのです。おっと時間です。また。
2008.02.19
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寄席や芝居を見に来るお客さんは、観る姿勢ができています。(さあ、笑うぞって)しかし、学校の教室に来る生徒は、(普通の健全な?お子たちの場合)ぜ~んぜん、できていません。そこで、先生は、客としての姿勢から、怒鳴らなければなりません。 でも、これって、禁じ手だと思うんです。芸人として。あっ、うっかり、芸人という言葉を使ってしまいましたが、寅さんは、先生の本質は、芸人だと (心の底で、密かに)つぶやいてます。そう、ひそかに! 一般の企業で、消費者にセールスをするとき、こちらを振り向かない客を怒鳴りますか?「なんで、こっちを向かないんだ!」「姿勢が悪い! ピンの背を伸ばして!」と怒られながら、商品を買うでしょうか? セールスマンは、こう教育されるはずです。「お前達は、芸者や!」「おとこ芸者や!」「お客様を笑わせてこい!」「笑ってもらってなんぼや」(なぜか、関西弁イントネーションになる、純粋東北人寅さんだっちゃ。) よく教職員が社会で研修を受けるってありますよね。先生がエプロンをして、レジに立ったり。あれで何を学ぶんでしょう? 一番学んで欲しいことは、この世は、芸人が社会を動かしているってことです。(これは、寅さんだけの願いか・・・・・・) 一般企業でも実力者は、み~んな芸人なんですよお。わかりますよね、お父さん! 先日、オバカキャラのスザンヌさんのお母さんのコメントがネットに出てましたが、見ました?全然、後悔してませんね。娘があのように育ったことを。人々に笑いと希望を持たせることができる娘を誇りをもって語っていました。そうなんです。学歴よりも、明るいキャラの方が、世渡りにはずううっと役に立つのです。私は、親の鑑ではないかって思っちゃいました。普通、できの悪い娘を、けなして悪いイメージを植え付けます。でも、勉強に不向きな子って、実際問題、いっぱいいるわけでしてその子たちが、存在価値が社会でないかって言ったら、全然、心配無いわけです。その子の本来の良さを輝かせれば。(これは、ちょっと脱線か) 学校の先生は、すべからく、高学歴で、規範意識が強い。さらに「先生」と言われてしまう。この「先生」という言葉、罪ですよね。寅さんまで、「先生」と言われると、その気になってしまってもっともらしいことをしゃべりだしちゃいます。 これは、人生観の違いから、仕方がないかもしれないけど、本当に子どものことを考えたら、接する大人は、心の鎧を脱いだ方が絶対いい。絶対に幸せになる。鎧を脱げば、どんな堅物先生でも芸人になれます。 学級崩壊は、鎧に対する抵抗か、あまりにも下手な芸人に対する「芸人替えろ!」のコールか、どっちかだと思います。 芸人、芸人と言ってますが、いかに芸が教育上大切か、別の記事で書きたいと思います。「芸」と言ってバカにする人はいないでしょうね。日本の芸能をバカにするんですか?クラシックだって、芸ですよ。 かく申す寅さんも修行の身ですが、芸人寅さんは、黒マントを着るのは当然で、着ぐるみだろうが、どんなキャラだって厭いません。ありがたく扮させていただきますよ。
2008.02.19
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前からの続きです。授業への応用です。 とにもかくにも、安心感です。自分が批判される心配はない。恥をかく不安がないと、安心させることが最も重要です。いつ、指名されるかわからない緊張感で引っ張るのは、私は反対です。 その上で、みんなの関心を一点に引き込まなくてはなりません。ここが最も難しいところで、最大に智恵と汗が必要なところです。逆に言えば、ここさえクリアできれば、80%成功したようなもんです。 これは、常識を少しは覆すものでありたいし、また、それでいて、誰でも見ただけで、すぐに意味がわかるものでありたい。できれば、子どものイタズラ心をくすぐるものでありたい。 それを提示したら、教師は、それについての問題意識を説明した上で、生徒の考えや思いをどんどん引き出します。ここで、ふざけた発言をする子や、態度で反抗する子がいると思いますが、まず、発言については、どんなにアホな発言でも丁寧に受け止めて、板書していくことをオススメします。自分の思いを受け止めてくれるか、試しているんですから。それから、態度で表現してくる子に対しては、こちらも、アクションや表情で、返事をしてやりましょう。もちろん、明るいリアクションで。向こうが指鉄砲を撃ってきたら、撃たれましょう。 こちらから、逆襲して撃つ必要はありませんが、投げてきたものは、受け止めるべきです。 私は、ここでの、多くの先生方の反応ヘタさに、地団駄を踏みます。無反応なんです。ふざけを押し殺そうとします。ふざけこそ、授業を作るお宝のエネルギーなのに。え?どんどん、つけあがる?つけあがらせればいいのです。ただし、生徒の思いを必ず、黒板に表現していくこと。目の前に、自分たちがどのようにふざけているのか、何がおかしいのかを、はっきり見えるように描き出すことです。そうすると、不思議なことに、落ち着いてきます。 そして、その勢いで、肝心のテーマについて意見をどんどん出させるのです。あんな、ふざけたことでもいいんだから、ボクのバカな意見だって、いいのかもしれない、と思わせるのです。バカな意見、アホな意見こそ、授業の本質なのです。それを引き出せれば、バンザイです。実は、そこで、どの子もひっかかってるんです。それを心の中で押し殺してるんです。押し殺したままで、さらに新しい情報が入るわけがありません。 教師が意見を言う必要はありません。子どもたちは、自分で意見を言っているうちに自分で気づいていくのです。 新たな情報というのは、意見を出し尽くした後でないと、入っていきません。「もう、言うだけ言ったなあ」、その上でわからないとき、はじめて受け入れられるのです。 その意味で、子どもたちのサンドバッグとなるテーマこそ一番の主役です。それは、モノであり、ただのイメージであるかもしれません。あるときは、ケーススタディかもしれません。 そうして、先生の技量は、出てきたメッセージをどう受け止めて、板書に表すか?です。できるだけ図解がいいでしょう。イラストもいいでしょう。どんな子のちょっとした意見も取り入れてやってください。これが腕の見せどころです。 だから、先生は、七転八倒です。生徒に転がされてる感じです。 あえて、何も教える必要がない場合が多いです。それでいて、「いっぱいいいことを教えてもらった」と生徒は必ず思っています。 また、普段から、子どもたちと、イメージ遊びをしているのは、と~っても有効です。学問って、もともとイメージ遊びなんですから。このやり方も後ほど、私の知ってる範囲ですがご案内します。 パソコンの側にティッシュの山ができました。本当に休みます。 今日の話しは、子どもの心をつかんでいる先生は、とっくの昔に使っている技術だと思います。失礼いたしました。
2008.02.18
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鼻水ズルズル、ハクションの連続「何のために学校に来たのか」と、ひんしゅくを買っている寅さんです。今日は、もうコタツに入って、何もしないで寝ようっと。 と、その前に、書こう、書こうと思ってたことを書いて、スッキリしたいと思います。 子どもは誰でも、じゃない、人は誰でも、自分が求めていないことを「教えられること、教育されること」が大嫌いなんです。当たり前と言えば、当たり前ですよね。 もし、私が韓国語を切実に習いたいと思って、講師のところに行ったら、そりゃ、目の色を変えて学びます。マーケティングのあの先生の話を聞きたい、と思えば、あらゆる行事をキャンセルして聴きにいきます。 ところが、学校の授業は、ほとんどの場合子どもたちに望まれたものではありませんね。そこに本質的な矛盾があります。 子どもがあくびをすると怒りますが、大人の私たちのだって、どうでもいい研修会で長時間机に座っていて、あくびをしない方が無理というものです。まして、自己コントロールの難しい子どもたちです。 子どもたちは、とっても敏感です。「教育」されていると感じると、急に頭の働きにブレーキがかかります。フタをされた脳みそに、情報を流し込むのは、至難の技です。 ですから、勝負は、子どもたちに、いかに意欲を喚起させるかいかに「勉強」と感じさせないかにかかっているのです。(今回、これの根本的な是非については、問わないことにしましょう。)今日は、まず、2の「勉強」と感じさせない方法について考えてみたいと思います。 まず、思い浮かぶのが、ゲームや遊びにしてしまう、っていうことです。これを不謹慎だ、とか、ごまかしだ、と嫌う向きもあるでしょうが、私は、そもそも学問も遊びなんだから、不謹慎だ、と言うほうが、学問の本質に対して、不謹慎だと思います。でも、同じ遊びでも、表面だけの底の浅い遊びと、深い、哲学にも触れるような遊びがあります。できれば、後者を目指したいものです。 ところで、私が、今回、一番気づいて欲しいのは、ワクワクする劇場空間での脳みその使われ方です。普通の場合、つまり、いやらしく「教育的」でない限り劇場の観客は、「教育」されているとは思っていません。 先生に指名されて、恥をかく心配もありません。もし、眠かったら寝ることも可能です。 注意は、演劇の内容に向かってあり、客席の私に注意を向ける人はいません。安心して、鼻くそをほじくっていられます。 教室でも、関心が、「私」に来るのか、それとも、問題意識が集中したある「対象」に向かうのか、で、生徒の脳みそに、大きな影響を与えます。つまり、自分が裁かれる立場にあると自己防衛にばかり、血液が使われて、問題の対象について考える方向には向かわないのです。 その上で、演劇は、イメージの共有化を図ります。漫才コントなんか典型ですが、みんなである共通のイメージをもっていないと話しが通じませんね。イメージ遊びの楽しさに引き込みます。みんなで同じイメージを共有できたという体験だけでもこりゃ、とっても楽しいものです。 そして、さらに、ここに大きな仕掛けがあるのですが、イメージを膨らますプロセスには、自分の思いが、どんどん投入されているのです。ですから、いつの間にか、舞台にいるのは、役者や先生ではなく、自分自身がそこに立って問題に直面しているのです。 さらに、うまい芝居では、お客との間が最高です。お客のちょっとした反応に、敏感に対応してみせるのです。客が俳優を操作している雰囲気を作っていきます。もちろん、相互作用ですが、客の側は、批判される心配のない位置にいるのが特徴ですね。 それで笑わせている間に、ふと、その役者が見せる本気や苦悩、そして涙に、思わずホロっときてしまうのです。そして、生涯の感動の一作を見終えるのです。 これを授業に置き換えたら、どうなるのか、次に考えてみたいと思います。
2008.02.18
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お陰様で、起き出すことができました。風邪は、固い体を柔らかくする効果もあるようですが、同じく、固いアタマも柔らかくしてくるんじゃないかなあ。思い浮かんだことを書きます。 学校の教師業で悩んでおられる先生、教師というイメージを疑ってみては、どうでしょうか? 崩してみてはどうでしょうか? たとえば 教師は、利口にならなくてもいい。教師は優等生になる必要はない。教師は、完璧にやろうとしないで、がんばるのではなく、生徒を含めたチームの一員として、生徒をサポートするコミュニケーションをタイミング良くすればいいんだ、って。 普通、教師は生徒よりも良い情報を出して、生徒より目立って、自分がいかにすばらしいかを、生徒に見せつけなければならない、と考える先生、多いんじゃないでしょうか? これは、客観的に見ると、不健康な精神状態ですよね。なぜ?こういう人は、自分のことしか考えられていないからです。 パートナーとしての生徒を見失い、生徒も仲間の教師も、敵や批評家に見えてくるのです。 そうすると教育活動が、「恐怖の場」になります。当然ですが、恐れは教育の障害です。 そういう人は、現在を見ないで、未来ばかり見ています。未来・失敗・人の目を「恐れる」→ クリエイティブな発想はできないのです。 自分で自分にプレッシャーを与えすぎないようにすることが肝心です。つまり、ガンバリすぎないことです。 生徒と一緒の場で、今の瞬間に「出会う」ことができるようにするんです。 生徒は、良きにしろ悪しきにしろ、いろんなメッセージを発しています。反抗的な態度もメッセージなのです。 生徒に立場で見ると 自分のメッセージを無視する人とは、誰だって、一緒にやるのは難しいと感じますよね。 人は、恐怖があると、相手をコントロールしたいと本能的に感じてしまいます。相手のメッセージを邪魔したり、無視したりします。繰り返しになりますが、教育現場では、ガンバルのではなく、むしろクリエイティブであろうとすることが大事だと思います。 いろいろな先生がいらっしゃいます。(善し悪しは別として)がんばることが生き甲斐の張り切り先生自分だけが正しいと思っている自信満々先生自分の考えを自分で否定・批評・評価してしまい自分に自信がもてない先生生徒をコントロールして、すべてを自分の思い通りにしたい演出家のような先生ただただ目立ちたいだけの先生生徒が創ったアイデアをぶち壊してしまう先生協調性はあるが、自分の意見が無い、もしくは表現できない先生考えすぎて行動ができない先生ネガティブな発想ばかりする先生逆に、ポジティブな発信ができる先生いつもユーモアを失わない先生生徒の世界に飛び込んでいく先生 コミュニケーション論から考えると、 良いコミュニケーターは、相手が必要とするメッセージを発して、「相手」を素敵に見せる人です。 授業をするときは、生徒を「天才」だと思いましょう。「天才」から出てくるメッセージは、自分が考えもつかなかった素晴らしいものだと、思いましょう。「天才」に興味を持ち、「天才」のアイデアを尊重することです。 天才の皆さんにアイデアが無かったら、そのとき初めて、教師が自分のメッセージを発することができるのです。 これから、教育をコミュニケーション活動だと見た場合の演劇空間としての授業論を考えてみたいと思います。
2008.02.16
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公務員である先生は、突出してはいけない。もちろん、金銭にからめない。 しかし、人的資源が生命線である日本で、人財としての教師たちは、石油資源以上のものだ。 学校間競争が激しくなってる。教師を取り締まるのではなく、埋もれた才能を世に出すべきだ。定年まで隠しているなんて、国賊だ! 教師がスターになったって、スターが教師になったっていいじゃないか?え?ダメ? たしかに、スターという単語には、語弊がある。いわゆるテレビでおなじみのスターのマネをしては意味がない。人には、それぞれ、違った才能があるのだ。誰かのマネをしてたら、永遠にスターにはなれない。 雑用を無くし、教師に時間的余裕を与えよう。 生徒にとって、自分を殺している教師を見るよりも、自分の人生を最大限、輝かしている姿を見る方が、幸せだ。 社会には、壁がある。しかし、実は、蜃気楼のようなことが多い。既に、輝いている人もいっぱいいる。 どうか、教師という仮面や衣装の下に隠されてきた宝物を輝かしてください。 芸術家の評論をする先生が、実は、アートの天才だったりします。 「自分に打ち克つ」「自分と戦う」「身を捨てる」という誤った信念を捨てましょう。内面に、本当はすでに持っている、不思議さと驚きに満ちた、自分の才能を取り出すのには、上に薄く積もった、常識というホコリをぬぐえばいいだけなのだ。
2007.10.21
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昨日は、大したことを書いたつもりもないのですが、アクセス数の記録(寅さんにとって)を作ってしまいました。 「図々しさ」とは、とても誤解を生む言葉ですが、私の心にストンと落ちたのです。実績をあげ、成功する先生と、はっきり言って、自分を追い詰めてしまう先生の違いを見つめてると表面的な穏やかさや、激しさとは別の、もっと深いところで図々しさをもっているかどうかの違いが、決定的だと気づいたのです。 その延長線の話ですが、先生は、親に対しても先生なのです。先生であるべき、とか、仕事だという浅いことではなく、必然的に、親にとっても「先生」なのです。親は、生徒なのです。 さらに、地域社会にとっても、「先生」なのです。 よく、謙虚な先生は、親に対して低姿勢で、ご意見ごもっともという方がいます。また、地域に帰れば、単なる一市民として、目立たぬようにすることをモットーとしている人、市民よりも、小市民ぽく生きている人を見かけます。 もちろん、新任の先生なんか、自分よりも人生経験豊富な人ばかりが、周りにいるわけです。「先生」なんておこがましい、とお思いでしょう。 しかし、これは、たいへんな誤解と、自分に対する冒涜です。 いかに新卒、新任であろうと、先生の魂は、世界を包み込んでいるんです。知識や技術は拙くても、心意気だけは、社会全体を手のひらに乗せて、愛情をもって、包み込むことはできるはずです。 本当は人間だれでもできるのです。しかし、特に「先生」という立場になった人は、立場を生かして、本来のあなたの真の力を発揮すべきです。 これは、人が生きるという主体性の問題です。環境・外界をどう認識するか、です。 外に支配され、制限を加えられていると見るか、(たしかに、客観的にはそうです)主観的には、世界どころか、宇宙を手のひらに乗せているか、の違いです。 いいですか、地域にとっても学校は、学校なのです。校長先生は、地域の校長先生なのです。保護者も心の奥では、先生に、先生らしくなって欲しいのです。 先生、あなたが、先生という職業を選んだときから、あなたの奥の素晴らしさは、さらに奥の人類の叡智と結びついて、光り輝くことを望んでいるのです。その光は、どんなに若い人でも持っています。正に、時空を越えているのですから。それを制限しないで、放射してください。親にも、地域住民にも、放ってください。 本当に、文字通り、あなたが地球を救うのです。 生徒に、そういうスーパー先生として接してやってください。これこそ、生徒への最高のプレゼントです。 これって、最高に図々しいでしょう?でも、最高に謙虚でもあると思います。自分のちっぽけな知識に頼らないで、自分を生かしている大いなる力と運命に頼っているのですから。
2007.10.21
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ほとんどの先生は、図々しい保護者に悩んでいると思います。それに対して、ほとんどの先生は、謙虚に、しかし、距離を置いて対処しています。 先生の社会性の無さが、指摘されています。社会に出ないで、ダイレクトに教職員になった人が大半なんで、距離感がつかめないのかもしれません。それで、おっかなびっくり、謙虚につきあっています。 しかし、寅さんが見るところ、先生という人種は、人が良すぎるのが問題です。もっと図々しく、つきあった方がよっぽど社会性が高まると思います。 なぜなら、世間は、図々しさで形成されているから。たとえば、社会では、セールスするにも、売り出しするにもコマーシャルするのも、図々しさを発揮してます。ご近所づきあいだって、図々しい人こそ、リーダーです。 これから、学校が地域社会を取り込んでいかなければなりません。その際、遠慮は、本当に禁物です。十中八九、断られるのは、当たり前、何ともないのです。そんなの、顔にハエがとまったくらいの感じで、へっちゃらでお願い続けるのです。 これこそが社会性です。丁寧な文書を回して、しかるべき人に礼儀を尽くしてというのは、はっきり言って、どうでもいいのです。 生徒や保護者とのつきあいも、もっと図々しくなるべきだと思います。家庭に口だしすべきでないと、思われるかもしれません。とんでもない。どんどん口だしして、摩擦を起こす人こそが、良い先生と見られます。生徒も、暴論でも、バリバリ叱ってくれる先生を求めています。 もし、保護者の気持ちを大切にし、生徒の揺れ動く気持ちに添っていたら、ノイローゼにならない方がおかしい。ノイローゼになって、学校を休むことこそ、とんでもない迷惑です。良心的な先生ほど、心を病んでいます。 「良心的」の意味づけをチェンジしましょう。アホな要求をしてくる保護者には、「それはアホだ」と言いましょう。迷惑をかける生徒には、鬼になりましょう。天使になる必要はありません。閻魔になればいいのです。地域社会へのお願い、教育委員会へのお願いは、中年のおばはんの図々しさ、電車での席取り、バーゲンでのつかみ取り式で、世間があっけに取られている間に、決めてきましょう。「学校に協力するのは、当然だ」と固く信じましょう。協力させるのは、あなたのためなんだ、うれしいだろう、感謝しろ、というスタンスこそ、真面目な教育機関の姿だと思います。 追伸、それから、先生同士でも、 図々しく、気楽に同僚の先生に バリバリお手伝いを頼める人が良い職員です。 校長先生にも、かしこまらずに図々しいお願いができる人 こういう先生こそ、良い職員です。
2007.10.20
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古中は、明日、中間テスト。今頃、一夜漬けをしているかな? 試験と言えば、記憶ですが・・・・・・ 大人は、自分の子どもの頃を棚に上げて、記憶の貯蔵は、人間の意志でどうにでもなると考えてしまいますが、それは、違うんだそうですよ。 記憶の貯蔵は、いやでも自動的になされているようなのです。逆に、記憶をパソコンのように、デリートすることもできないのです。では、なぜ、思い出せないのか? それは、感情と結びついてないからです。感情が貯蔵の場所を決めるようなのです。 不安・緊張の体験は、忘れられません。また、楽しい感情もそうです。 親や先生にとって、子どもの感情を揺り動かさない言葉は、教育をしているのではなく、情報を伝えているだけのようです。 感情を揺り動かす授業や教材を使うと、子どもは、より、じっくり考えるようになり、優先的に特別の貯蔵庫にしまわれます。 感情を込めない言葉は、「教育的な記憶」として貯蔵されないのです。 大声で叱るより、強い感情を呼び覚ますこと自体に集中した方が良いようです。
2007.10.08
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先生の授業力がアップすれば、本当に学力は上がるのでしょうか? 学力低下の危機感から、教師の資質、特に授業力が問われだしています。もちろん、わかりやすく、統率のとれた授業がいいに決まっています。と、当然のことを言ったようですが、ヒネクレ者の寅さんは、「ちょっと待った!」 です。 授業力と学力は、それほど大きな相関関係をもっていないんじゃないかな?特に、目先の短期の学力ではなく、長期的な学力となると「良い授業」を受けた子が、将来、本格的に伸びる保証は少なくなると思うのです。いかがでしょう? 教師の教え方がうまくなれば、子どもが変わるというのは、大人次第で、子どもはどのようにも変わるという大人の傲慢が潜んでいないでしょうか?子どもの主体性への尊敬が感じられないのです。 長期的に見れば、子どものやる気・意欲が圧倒的に影響するんじゃないでしょうか?それも、受験などの恐れや利益追求のためではなく、その学問そのものが好きかどうかです。 そのやる気、言い換えれば興味・関心は、わかりやすい教え方で、育まれるものでしょうか? 確かに、わかる喜びは、あるでしょう。しかし、わかったものが好きになるとは限りません。逆に、わからないけれど、面白そうということも、十分にありえます。いや、かえって、わからないからこそ、勉強したいと思うものです。 もし、わかりたくもないのに、わからせられる、という押しつけを感じたら将来、自分から学ぼうという気持ちは、抹殺されてしまいます。 「わからない権利」「勉強嫌いな権利」もあると思うのです。基本的人権として、憲法で保証されていると思うのです。それがあるから、「勉強する権利」 も発生するのです。 そして、好奇心は押しつけることが、理論上できません。自発的だからこそ、好奇心なのですから。もちろん、好奇心を点数化して、評価対象にすることもできません。もし、一定の基準で、評価をしてしまったら、それに合わせて、無理矢理演技をする子どもを作ってしまい、それこそ、悲惨な結果を招きます。 好奇心は、環境を整えてやるのみで、ひとりで育つのを待つしかないのです。そして、その環境のひとつに、教師の学問に対する姿勢があるのです。その教師がいかに、学問を楽しんでいるか、好きでたまらないか、が大きなファクターになるんじゃないでしょうか? 日本は、まだまだ、勉強のモチベーションとして、恐れか、利益(進学・就職)しか、発想できていないのが残念で恥ずかしい現状です。こんな動機付けで、子どもたちをリードできると考える大人たちの人間理解の薄さは、あきれるしかありませんね。 子どもでも、本物の人物なら、そんなエサで動かないでしょう。そんな動機付けばかりする大人を軽蔑するでしょう。 受験成功のみで勉強している子ばかりが作る日本の社会、そして将来。想像しただけでも、身震いがします。 もう一度、大学入学後や社会へ出てからの学力の追跡調査をして何が良い影響を与えてきたのかを見極めたいものだと思いますね。 先生方が、授業改善をするのは、たいへん素晴らしいことです。しかし、それによって、学問の生命を失っては、元も子もないと心配しています。少々、荒っぽい授業でも、雑な組み立てでも、生命の通った先生の姿勢にこそ、子どもは感動し一生の財産にするのです。
2007.10.02
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最近のイジメ問題の報道を見て、どう思われますか?私は、なぜか、以前、身を置いていた酒販業界をフラッシュバックしてました。中小の酒屋のオヤジが、自分たちの努力不足を棚に上げ、免許制の自由化に反対していた姿を。もっともらしい理由はいくらでもつきます。しかし、現実は、対面販売じゃないと未成年者が手をだしてしまうから。中小の店の生活権の問題。日本の伝統文化の問題。すべて、茶番でしたね。大型店でお酒も買えて、圧倒的に便利になりました。安くて品揃えもいいし、明るいスーパーのレジを通ってお酒を買うのに、未成年者は、恥ずかしくて、買い物かごにお酒は入れられません。対面販売というなら、薬屋さんでもお酒を売り出しています。だいたい、自動販売機でお酒を売っていたのは、一般小売店です。この酒販組合を中心とした業界が崩壊したのは、タイタニックの沈没くらいのスピードでした。 学校も組織疲労が、はっきりと表れています。もう、小手先で直せる次元じゃないと思います。社会が許さないでしょう。個々の先生がどうのこのという問題じゃなく、巨大なタイタニックが沈没しようとしています。その沈没するとき発生する渦巻きに、否応なく、すべての先生が巻き込まれます。これから、先生方は、自分の救命胴衣をしっかり準備して、荒海に放り出されても生きていける用意をしなければならないとものすごく直感します。努力の方向を学校を飛び抜けたレベルに置いておかないとこれからは、いけないでしょう。学校の論理に捕らわれては、後手後手になります。これからは、進むも地獄、動かぬも、地獄です。どうせ、地獄なら、進んで行った方が、収穫があり、未来が開けます。(共感いただけました方は、クリックをお願いします。)今日の運勢は、恋愛運が最高だとウキウキしてたら、メールに、「お誘い I LOVE YOU」がいっぱい来てた。
2006.10.17
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親や教師が権威を振り回しても、子どもは勉強をしません。テレビゲームや漫画にどうして、あれほど集中できるのか?→→→ 面白いからに決まっています。反対に、なぜ勉強にあきてしまうのか?→→→ つまらないからに決まっています。本来、子どもは興味をもったときの集中力は、すさまじいものをもっています。それこそ、食事もノドを通らず、ふとんの中でも、眠れません。そもそも学問は、好奇心の結晶なのです。学校は、それを提供してくれる、ディズニーランドよりワクワクするところなのです。どうすれば、理想の姿になれるのか、シリーズでまとめたいと思います。まず、学校の授業の達人のワザから、ヒントを盗んでください。同じところを教えていても、先生によって、授業方法がすごく違います。 もちろん、生徒の反応も。 この、生徒の反応の良いものだけを、ピックアップして、情報の共有化をすれば、すごいノウハウになるはずです。(残念ながら、現状は、タコツボ状態ですし、 良い授業の基準が、「先生にとって都合の良い反応」になっています) 補助をさせていただくと、いろんな先生の授業を比較体験できちゃうのが、最高においしいところです。 教育委員会の仕事や、ボランティア講師でいろんな学校へ行くときも、寅さんは、堂々と見学させてもらっています。礼を尽くせば、どこでも見せてくれます。ぜひ、授業参観をいっぱいしましょう。自分だけの。ポイントは、難しい顔をしないで、ニコニコしていることです。 どうせ、謝礼は、雀の涙なんですから、研究させてもらうメリットくらいないと、ね。 その中から、寅さんが見つけ出した、「法則」を、素朴にまとめてみました。その基本編です。 まず、さっきも言いましたが、できる先生には2種類ありましてて、効率良く教科書を「教えて」いくことがうまい先生と、子どもの心をつかむと言うか、心に沿って進めていくのが、うまい先生に、二つに分かれると思います。 (もちろん、どちらも下手な先生もいます)どちらも、車の両輪です。しかし、あえて、私は、子どもの心に沿う形のみを追求します。その上での話ですよ。まず、低学年や未就学児に対しては、必須なことです。高学年でも、本当は必要なんですが。授業に変化があります。おや、いつもと違う、というのが、どこかにあります。次に、先生の声や音です。大きな声というのじゃなくて、面白い声をもっています。変化のある声です。間の取り方が絶妙です。沈黙のセリフを巧みに使っています。声ばかりでなく、音の出るグッズも使います。音の変化ばかりでなく、先生や、モノがよく動きます。とにかく、動きに変化があります。激しく動いたり、シーンとしたり。次に、生徒に声を出させます。思いっきり、いろんな声を出させる仕掛けをしています。声を出すと、生徒は集中するんですね。歌やリズムを、授業の中に組み込んでしまいます。歌いながら、算数や国語をしてしまいます。立ったり座ったりする機会を多く作ります。いわゆる集中と発散が、何度も繰り返されるのです。授業全体にリズムがあります。子どもたちに挑戦させます。ハラハラドキドキの場面を作ります。競争させます。低学年でも、グループでの競争も有効なんですね。子どもたちは、「先生の」お話が好きです。もちろん、読み聞かせも、とっても好きですが、本をもたないでの、先生だけの、とっておきの物語は、何てったって、一番です。私は、授業をすべて、先生のお話にしてしまって、その中に、算数や国語を入れてしまったらいいのに、と思うくらいです。お話で、空想の世界を飛び回らせます。冒険の世界に飛び込ませます。私もつい、その続きを知りたいために、そのクラスを訪問してしまいます。そして聞いた話を、他のクラスで、思わずしゃべってしまいます。何か、今まで知らなかった、新しいことを知るときは、子どもたちの眼が輝きます。単純なことなんです。おうちの人や、友達に自慢できるネタを知ることは、脳みそに、がっちりインプットされるんですね。冒険は、お話の世界ばかりでなく、授業自体を冒険にします。とにかく、結果がわからないことに、挑戦させるのです。どっちとも言えないことに、予想して、トライさせます。次は、微妙な差ですが、大きなことです。全体に、達人は、生徒に指示・命令をあまり出しません。自主的に選んで、進んでいる、自分がやりたいからしている、と子どもに思わせています。嫌がることを無理してさせません。好んでやりたがることの延長線の中に、うまく忍び込ませます。ですから、最初は、みんなが好きなことから始めます。簡単にできることから、始めて、調子を出します。誉めて、おだてて、難しいことに挑戦させます。今日は、ごく一般的な、当たり前?のことを、まとめてみました。でも、これを実行できてる先生は、少ないです。同じ先生でも、日によって、調子が違います。私の実験授業でも、取り入れていきたいと思っていることです。明日は、もっと作戦的、戦略的なことを書きたいと思っています。おつきあいいただいて、ありがとうございます。…… つぶやきコーナー ………学校の名札は、どうしてああも、つまらないのでしょう。もっと、自慢できるバッチができないのでしょうか?学校の電話の応対は、どうして、ああも、暗いのでしょうか?明るい、心がウキウキする声で、話してくれないものでしょうか?一般の会社では、電話の受け取り方は、真剣に研究していますよ。サラ金でさえ、ア○ムとか、プロ○スなど、お話してみた~い、と思わせるような仕組みを作っています。そして、学校に電話する人は、一般企業にも電話しているのです。ですから、比較してしまうのです。社会全体が暗いなら、目立たないのですが、周りが明るくなっているのですから、学校の暗さが際立つのです。学校の廊下には、どうして、生徒の作品しか飾ってないのでしょう。廊下や通路はずべて教材です。生徒の目につくものは、すべて、何か語っていなければなりません。学校という建物自体が、メッセージを放っているのです。廊下の壁に何気なく飾られた壁画は、学校の大切なメッセージを伝えなくては。遊具でも、校庭の花壇でも、メッセージを織り込むことができるし、現に、織り込まれているのです。何をメッセージとして伝えているでしょう?そもそも学校は、何を伝えたいのでしょう。そのテーマに沿って、すべてのものに、物語を語らせましょうよ。何気ない、小さなモノこそ、雄弁な演説家です。百人の先生より、潜在意識への染み込ませ方がうまいのです。トイレに置いた可憐な花が、「心の教科書」より心に響きます。あなたの子どもの、小さなバッチや名札には、どれだけの「思い」が込められているでしょうか?よかったら、ブチっとお願いします。人気blogランキング
2004.12.12
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もし、あなたが、スーパーにチョコレートを買いに行ったのに、「ゴボウが体に良いから、まず、ゴボウを買いなさい」、としつこく言われたらどう思いますか? 私の体のことを真剣に心配してくれる、ありがたいお店だと感謝するでしょうか? 同じことを、学校はしているのではないでしょうか?生徒や保護者の気持ちを無視して、売りたいものの押し売りになっていないでしょうか?生徒の気持ちを聴く、と言うと、子どもに迎合するのか?と言う言葉がすぐ聞こえます。昨日の「ディズニーランド」という言葉にも、「迎合」「甘やかし」を感じた人も多いかと思います。決して、ディズニーランドは、「迎合」していません。しっかり、自分の伝えたいことを、徹底して伝えています。ゲストを下品に迎え入れたりしてはいません。それでいて、高収益を出しているのです。ディズニーランドでは、徹底して、ゲストの声を大事にしています。スーパー・グリーターや、スーパーバイザーが、ゲストの生の声を楽しく拾い集めています。そして、それを日々、全体で生かしてして使っています。たとえば、ポップコーン売場で、地図を求める声が聞こえたら、そこに地図を置くのです。人間は、人間のことがわからない動物なのです。相手のことがわかるなんて、傲慢この上ないのです。そもそも、子どもの気持ちがわかる大人って、本当にいますか?親でさえそうでしょう?第一、自分の本当の気持ちさえ、わかっていないのではないですか?そうなんです。人間は、顕在意識で思っていることと、潜在意識で、実際に行動していることとは、差があるのが普通なのです。ですから、表面的な調査をいくらしても、ほとんど意味がありません。学校評価などと言って、「アンケート調査」してますね。あれを見て、笑ってしまいませんか?人間を何だと思っているんでしょう?正直な思いを引き出そうとしているとは、到底思えません。人間は、よっぽど安心感のある場でないと本音は言わないものです。子どもを人質に取られていながら、しかも、最初から限られた設問で、固い難しい言葉で、タダ丸をつけるだけ?そんなんで、あなたの心の内を伝えられていますか?学校への思いを、ぶつけられましたか?あれは、保護者の気持ちを聴きたいというものではなく、逆に、聴きたくないというサインとしか受け取られないでしょう。あんなお飾りのアンケートをするくらいなら、保護者の行動そのものを追跡調査した方が、よっぽどマシです。何人、学校を訪問しましたか?どこに立ち止まりましたか?何人学級懇談に残りましたか?校長室に何人入りましたか?職員室に何人入りましたか?その行動結果こそが、正直な解答なのです。学校に来ない親を、単純に批判していませんか?その心のヒダを調べようとしていますか?このたび、後任で来た先生の感心したところは、子どものハートにピタっとくるアメとムチを使い分けていることです。一つは、早く休み時間にするご褒美。良い子だったら、早く休める。良い子だったら、面白いお話が聞ける。良い子だったら、連絡帳にいっぱい褒めの言葉を、その場で書いてもらえる。などなど。悪い子だったら、逆になります。たったこれだけのことで、見違えるような静けさになるのです。商売でもそうですが、お客の心は、お客が緊張して話す言葉の中には決して存在しません。そんな上っ面を信用して行動したら、とんでもない、損失を出してしまいます。意識しない、何気ない、ポロっと出した言葉、何気ない行動、これに潜んでいます。そのヒントをさらに、しつこく掘り下げていって、はじめてお宝の情報鉱脈にぶつかるのです。全力を上げて、客ににじり寄って初めてつかめるのに、最初から、気持ちをつかもうなどとの意識がなければもう、無理無理。学校運営を本に頼っているの?文部科学省の指導マニュアルどおりにすすめればいいんですか?なあんて、思っている校長先生、まさかいませんよね。そんな先生は、まず、小説でも読んで、人間ってどんな生き物か、勉強してから学校に来てください。第一ですよ、本当に客の立場に立っていたら、学校の玄関、あんなに入りづらい雰囲気にしておくでしょうか?職員室や校長室。それに受付は、あんな風にしているでしょうか?これは、不審者対策とは、また別問題です。不審者対策にも実質、全然なっていませんが。「迎合」ということを心配する人に聞きたいのですが、子どもの本当の願いとは何でしょうか?ただ、遊び続けることだと思いますか?それは、とんでもないことです!!!子どもは、「良い人間」になりたいと思っているのです。どんな悪たれのガキどもでも、心の底では、良い人間になりたい、よりよい生き方をしたい、と願っているのです。その心の声を聴けないようでは、本当の訴えを聴けないようでは、まず、その時点で教師は失格です。学校へのクレームは、学校を良くする羅針盤です。口うるさい保護者は、学校の宝です。これを本当に理解している先生や学校のみが、成長できるのです。
2004.12.10
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タイトルの言葉は、聖書のマタイ25:40のイエスの言葉です。ちっちゃい、無分別の子は、実は、神様の化身だというのです。私は、これが、教育の(子育ての)根本だと思っています。学校に困った子を受け入れられる許容範囲というものがあるとすれば、どこからが限界なのでしょうか。 たとえ、組織として限界であっても、先生個人の内面においては、限界というものが、あってはならないと思っています。 このことは、以前に、私が塾において犯してしまった間違いへの、痛烈な反省を込めて、学校の現場で学ばせてもらっていることです。 教育の現場で、先生の疲弊が激しいです。皮肉でも何でもなく、尊敬すべきマジメな先生が、次々に倒れています。そして、教育現場を離れていきます。 実は、私も、(マジメかどうかは別にして)昨年、心が疲れておりました。疲れると、心の許容範囲も狭くなります。 どうすれば、神様の理想を実現できるのだろうか、と疑問を解くために、学校に入りました。 そうして、ほぼ確信としてもてた結論があります。 それは、上に立って、指導しないこと。クラスの誰よりも一番下に身を置くことです。 先生は、指導者ではありません。奉仕者であり、召使いであり、生徒に仕えるものです。尊敬や威厳は、先生側で意識するものではありません。身を低くする先生を見て、生徒や周囲が勝手に、尊敬するのです。 問題児は、神様からのプレゼントです。 「彼よりも、もっと身を低くしなさい」という、ハードルの基準を下さったのです。本当は、限りなくゼロになるべきなのですが、まだまだ修行が足らないので、「おまえには、まず、このくらいで練習してみるのが良かろう」と、お情けで、一番適当なハードルをくださったのです。 身を低くすること。これを苦行だと思いますか? もし、そう思うのなら、あなたは、人間関係づくりの楽しさを全然わかっていない、または、味わったことのない、可哀想な方です。 身を低くすることは、最も楽で、楽しくて、喜びあふれることです。神様は、人間の幸せのために、「身を低くせい!」とおっしゃっておられるのだと思います。 身を低くするとは、イタズラッ子に対して、「コノヤロー」なあんて思わないことです。こんな元気な子と接することができて、うれしいな。ありがたいな。と思う心です。 自然にそういう思いが湧いてくるから、不思議です。他の先生が顔をしかめて、苦々しく思っているそばで、私は、ほほえむことができるようになってきたと、我ながら驚いています。 当たり前ですが、子どもは敏感に反応してくれます。 私は、小さな出来事の中に潜む、すばらしい一瞬に、感激する回数が増えてきたと思います。 自分を低く、低くすればするほど、心に柔軟性が出てくるようです。そして、適切な対応ができるようになるのです。何より、「切れる」ことがほとんどなくなりました。 ぜひ、試してみてください。本当に奇跡が起こりますよ。 つづけて聖書の言葉です。マタイ18章。そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。 「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも、悔い改めて、子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。 また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。 …… あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。 …… もし、だれかが百匹の羊をもっていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけない出しょうか。 そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。 …… 「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエスは言われた。「七度まで、などとは私は言いません。七度を七十倍するまでと言います。」※※※いかがでしょう。私は、この言葉は、単なるたとえだと思っていました。しかし、教育現場で、これは文字通り、このままが真実だとわかりました。ぜひ、この喜びを多くの方に伝えたいのです。 実業界において、私は先輩方に、「男芸者になれ」と厳しく指導されました。人を喜ばすためなら、道化師でも、芸者にでもなれ、ということです。そして、これは、手段というだけではなく、ビジネスの精神の神髄であるとも。 ですから、私は、実験教室において、かぶりものを付けたり、コスチュームを考えたりするのは、全然厭いません。な~んでもします。 子どもたちよりも、身を低くする人が、大人に対して、身を低くできないはずがありません。 どんな、バカ先生でも、アホ校長でも、(誰と言っているのではありません)どんな最悪の学校でも、置かれた環境で、一番身を低くして仕えればいいのです。 そして、それが最も能力を発揮する道だと思います。 周囲にバカにされても、煙たがられてもいいのです。ニコニコ笑っていられます。生徒にさえ、バカにされても、口のききかたは、注意しますが、心の中では、笑っていられます。 PTAや地域と、学校をつなぐ線は、こういう心が不可欠だと思います。それぞれが、権威と正義をもっている間をとりもつには、誰か一人でも、バカ役がいれば展望がでてくると思うのです。 最後に、もう一度、イエスの言葉です。「この小さい者たちのひとりにでもつまづきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。」 私も、その一人でした。 少しでも、ご恩返しをしたいと思うのです。 最後の最後に、この場を借りて、御礼を申し上げます。 昨日、古川第二小学校の科学クラブに、パレットおおさきの松浦主事に、来ていただき、とってもステキな宇宙の話と画像を見せていただきました。 たった一時間のために、並々ならぬ準備をされたこと、存じ上げております。 30名のクラブ員ともども、あらためて感謝申し上げます。 また、実現のために、実質、骨を折ってくださいました。遊佐係長さん、所長さん、ありがとうございます。そして、補助員の私の出しゃばった提案を、快く受け入れてくださいました、校長先生、藤田先生、ありがとうございました。 つくづく私は恵まれた環境にいると思います。(ゴマスリ、スリスリ。いや、違いますよ! 本心です。!!) ありがとうございました。このようなチャンス、他の学校でも、ぜひ、参考にしてもらうように、すすめてまわりたいと思います。
2004.11.27
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ありがたいことに、意外なほど、学校の先生が私の日記を読んでいてくださることがわかってきて、うれしいやら、身の引き締まる思いのフーテンの寅です。(寅さんが、身が引き締まって、どうするんだ!?) そこで、寅さんの素朴な疑問シリーズ?として、部外者が、学校に入って見た???を、時々書いていきたいと思います。同意する、しないは別にして、何かのヒントにしていただければ幸いです。 私が、学校に行くと、校庭に入った瞬間から、子どもたちが話かけてきます。自転車を押していくんですが、入り口まで、ずうっとついてくる子もいます。私が遅刻しそうなときは、さすがに、ヤバイので、ごめんね、と言って先を急ぐのですが、そうでない限りは、もう、校庭にいる時から、今日の子どもたちの様子がつかめるくらいです。 職員室で挨拶をしてから、すぐに、1年生4クラスをずら~っと挨拶にまわります。目的もなくぶらつくんですが、どこでも、話しかけられ、そのクラスにとどめおかれます。次のクラスに逃げ出すのが、たいへんです。(ま、私もたいていは、「おみやげ」をもっているからなのですが) そこでも、子どもたちは、競争で、いろんなことを話してくれます。家であったこと。休み中にでかけたこと。家族のこと。ケンカしたこと。友達の情報。もらったプレゼントのこと。新しく考えたクイズ。中には新しいパンチやキックを披露してくれます。 授業中、全然手を挙げない、ぼ~っとした子も、結構話してくれます。前日、てっきり先生や私に叱られた子も、ケロっとして話しかけてくれます。 休み時間もそうです。私は休み時間がメインの仕事だと、私の内では、とらえていますので、100%に近く子どもたちの中にいます。 給食時間は、どのクラス、どのグループと一緒に座るかで、ひと騒動です。順番に回るんですが、ときどきイレギュラーで動かなくてはならないので、子どもたち同士、ケンカになったりさえします。それだけ、一緒にすわって話をしながら食べるということに、魅力を感じているのでしょう。 帰りも、「一緒に帰ろう」という子でひっぱりだこになります。これまた、自転車を引きながら、いろんな子と話をしながら帰るのが、何とも言えず、子どもたちは好きなんですね。 「自分の家に寄って行け」「先生の家に連れていけ」と、いつもせがまれます。もちろん、これは、しっかり根回しをしてからでないと、実行できませんが、ときどき、できるだけするようにしています。 私は、自分の自慢話をしようとしているのではありません。私の特殊な立場や、弊害も認識しておかなくてはなりません。 職員室で先生方と打ち合わせをする時間が、少なすぎると反省しています。 生徒の家庭と近づきすぎるのは、時に、先生の方針を飛び越えて情報を伝えてしまうこともあり、危険なこともあります。 商売柄、売名行為にとらえられるかもしれません。 それら、すべてを認めた上で、あえて感じるのは、その学校に限ったことではなく、現在の学校のシステムそのものに対してですが、<<生徒と雑談する価値をどのくらいの重要さに位置づけているのか>>ということです。 学校の先生は、本当に忙しいです。会議・打ち合わせがいっぱいあります。限られた授業時間に教えることがいっぱいあります。休み時間は、次の準備でほとんどいません。給食時間も、連絡帳書きで食事もまともにできないくらいです。 しかし、子どもの心は、呼吸と同じで、出すものを出さなければ受け入れることはできないのではないでしょうか? 子どもは、みんなが、「先生、私を注目して」と訴えかけています。だから話を聞いてもらうことが大好きです。その裏側には、話を聞いてもらえないこと、つまり、精神的に無視されることを、生理的に嫌悪しています。話を聞いてもらえないことは、気持ちを向けてもらえないことと受け取ってしまいます。 話を聞いてもらえないとあきらめているとしたら、もう、すでに、心に大きな壁ができていると思っていいはずです。 授業も生活指導も、先生を心理的に受け入れなければ、有効に機能しないことは明白です。それなのに、学校の政策上で、子どもと話しをする時間が、どこにもなく、偶然にできた時間におしゃべりをちょっとしていることに、愕然とするのです。 話をするというのは、学級会や朝の会での発言を促すのではないことは、ご理解いただけると思います。 実際的には、何か仕事をしながら、生徒の話をきくということにならざるを得ないでしょう。そして、それだけでも大きな効果はあるでしょう。 しかし、真剣に、真正面から、歓談する時間をとるに越したことはないと思います。給食の時、自分の机で食べる先生が多い中、できるだけ生徒の中に入ってとっている先生がいらっしゃいます。さすがだな、と思います。 雑談をするというのも、実は、とっても難しく、訓練がいるのですよ。先生や親は、子どもの顔をみると、話を聞いている先に、生活指導をかぶせてしまいがちです。大人の意見や「正解」をもちながら子どもの話を聞いてしまいます。これでは、子どもは、話たがりません。また、大人も子どもの理解につながりません。 まず、大人の方が、真っ白の気持ちで臨み、話を聞きながら、どうしても次から次ぎに浮かんでくる、大人の「正解」を捨て続ける努力が必要なのです。これは、本当に修行が必要です。 しかし、そうしないと、子どものメッセージは受け取れません。 私が、これほど、話を聞くことにこだわるのは、私自身が恩師に話しを聞いてもらって、それだけで変身をしたからです。私の場合は、何と1昼夜ですが、いや、それ以上でした。私は世の中に、これほどまでに私と向き合って下さる方がいるなんて信じられませんでした。今でも、思い出しただけで涙が出ます。先生のありがたい話も覚えてはいますが、それより何より、こういう先生がいる世の中が、うれしくて、生きるパワーがわき出してきました。そして、先生のためにも、何としても頑張ると固い決意をしたのです。 窓際のとっとちゃんも、まず校長先生に、話を延々聞いてもらって心を開きましたね。あそこを読んだり、読み聞かせたりするたびに、私は今も涙が出ます。 学校の仕事は忙しいのは、重々承知の上ですが、優先順位の再検討を切にお願いしたいと思います。 話は変わりますが、昨夜、はてなランドにおいて、はてなクラブの運営委員会が開かれました。お忙しいところお集まりいただきありがとうございました。これで、年末年始も楽しみになってきました。 それから、私の同級生である、長谷川良昭君が、はてなクラブの運営のヒントになれば、ということで、いっぱい資料をもってきてくれました。その中には、ボランティアを申し出て下さっている方々のリストもあります。 本当にありがたいことです。世の中、暗い面はありますが、だからこそ、明るい面が輝いて見えるのでしょう。 ありがとうございます。
2004.11.22
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