別ヴァージョンの人間史 by はやし浩司

別ヴァージョンの人間史 by はやし浩司

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2005.10.08
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あのM号の内部が、報道機関によって、
紹介された。それを見て、私の頭の中の
神経細胞は、ショートした。

バチバチと……。

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 新潟県の新潟港と、K国のG港を結ぶ、貨客船がある。M号という、あの船である。そのM号の内部が、テレビで先日、公開された。

 新潟港からG港へ向う、船の中。場面は、夕食の後の団欒(だんらん)の時間になった。まず、K国の女性接客員たちが、歌と踊りを披露する。チョゴリ、チマをきて、例によって例のごとく、どこか不自然な笑みを浮かべながら……。

 が、そこまでは私にも理解できる。しかしそのつぎの場面になったとき、私の頭の中の神経細胞が、ショートした。

 返礼に、というわけでもないのだろうが、在日朝鮮人大学校の女子学生たちが、歌を歌い始めた。にこやかに笑いながら……。が、その歌詞に、私は驚いた。

 「♪敵が……崩壊する。敵が……崩壊する」と。

 彼女たちの言う「敵」というのは、言うまでもなく、この日本やアメリカをさす。

 もっとも彼女たちは、戦時中に朝鮮半島から強制連行されてきた、韓国人やK国人の、3世とか4世である。「君たちは、日本人だ」と言えば、「そうではない」と答える。しかし「君たちは日本人ではない」と言うと、血相を変えて怒りだす。

 どこかよく理解できない人たちである。

 だから、そういう女学生たちが、「♪敵が……崩壊する」と歌ったところで、何も、おかしくない。それに、彼女たちが、何をどう歌おうが、それは彼女たちの自由。(しかしそういう場で、そういう歌を歌うのもどうか?)

 しかし私が理解できないのは、このことではない。

 彼女たちは、日本に住んで、日本で教育を受けている。日常的に、K国の日常も、伝え知っているはず。一方、今どき、韓国やK国に敵意をもっている日本人は、いない。「嫌い」という人は多いかもしれないが、「敵」ではない。

 それに今の日本に、そしてアメリカに、K国を侵略する意図など、毛頭ない。頼まれても、断るだろう。そういう日本の姿勢や、日本人の心情を、彼女たちが、知らぬはずがない。

 さらにここにも書いたように、K国の実情も、そのつど、日本に伝えられている。K国にはないかもしれないが、この日本には、報道の自由もあれば、言論の自由もある。ほんの少しだけ常識を働かせれば、(それは日本の常識かもしれないが)、日本が今、どういう国であるか、わかるはず。K国が今、どういう国か、わかるはず。

 にもかかわらず、「♪敵が……崩壊する」と。

 もし本気で、彼女たちが、日本やアメリカの崩壊を望んでいるのなら、どうしてこの日本に住むことができるのか。「住んではいけない」と言っているのではない。私なら自己矛盾を起こして、とても、日本には、住めないだろうということ。

 こうしたK国の人たちの独特の心情について、(韓国の人たちの心情にも共通しているが……)、「それは教育によるものだ」と説明する人がいる(「文藝春秋」・11月号、某外務審議官)。

 しかし教育だけで、そういう心情になるものなのだろうか。私は、彼女たちをして、そうさせる、もう一つ別のファクターがあると思う。

 そのファクターというのは、(貧しさ)というファクターである。

 彼女たちは、日常的に、K国、つまり自分たちの母国の貧しさを、見ている。報道番組でも、よく紹介されている。そういう(貧しさ)を見ながら、その落差を、彼女たちは、日本やアメリカのような豊かな国に対して、「矛盾」と感じているのではないか。

 それはちょうど、借金に追われ、その日の生活をするだけで精一杯という人が、金持ちに札束を見せつけられるようなものである。「うらやましい」と思う前に、そして自分たちの貧しさを嘆く前に、その金持ちに対して、反感を覚える。

 つまり彼女たちは、日常的に、日本やアメリカの豊かさを見せつけられながら、それを(反感)に、転化しているのではないか。

 そのあたりまで、踏みこまないと、彼女たちの心情を理解することができない。

 テレビのレポーターは、あえて何もコメントをつけなかった。つけたくても、できなかったのだろう。監視の目も、ある。日本の報道機関が、M号に乗船できるということだけでも、たいへんなことなのだ。

 しかし言いたいことはわかった。その場面を見ていた、私たちに、それが伝わった。だから、私の頭の神経細胞は、ショートした。バチバチと。恐らく、それを見ていた、多くの日本人も、そうではなかったか。

 ……それにしても、私は改めて、意識とは何か、考えさせられた。私たちがもっている意識というのは、絶対的なものではないということ。同時に、彼女たちがもっている意識が、まちがっているということでもないということ。

 意識というのは、そのつど、つくられる。変化する。そしてこうした意識が、そのときどきに応じて、その人をウラから操る。

 その女学生たちが、あまりにも明るい笑顔で、かつ楽しそうにその歌を歌っていたので、よけいに、強く、私は、そう思った。
(はやし浩司 作られる意識 ゆがめられる意識)





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Last updated  2005.10.08 12:02:50


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