当時はシュガー・ベア・ハリス(Sugar Bear Harris)などのリングネームを名乗り、大型の黒人ヒールとして売り出された。1980年4月25日にはアラバマ地区でオレイ・アンダーソンからNWAサウスイースタン・ヘビー級王座を奪取している[5]。同年下期からはビッグ・ジム・ハリス(Big Jim Harris)の名前でドイツやイギリスなど欧州に定着。1980年9月から10月にかけてハノーバーで開催されたトーナメントでは、日本から遠征していたキム・ドクや大仁田厚とも対戦している[6]。当時の日本のプロレス専門誌では「まだ見ぬヨーロッパの強豪」として報じられたこともあった。
1984年7月からはWWFに初登場[13]。フレッド・ブラッシーを覆面探検家キム・チーとのダブル・マネージャーに迎え、アンドレ・ザ・ジャイアントとの抗争アングルが組まれるが、待遇面の不満から短期間で離脱している[14]。その後はビンス・マクマホンの全米侵攻に対するNWA&AWA連合軍(Pro Wrestling USA)の主力メンバーとなり、1985年7月6日に開催されたグレート・アメリカン・バッシュの第1回大会ではマグナムTAのNWA USヘビー級王座に挑戦[15]。AWAゾーンではサージェント・スローターやジェリー・ブラックウェルと抗争し、リック・マーテルが保持していたAWA世界ヘビー級王座にも挑戦した[16]。また、同年8月にはジャイアント・キマラとしてジャパンプロレスに初来日。当時はカブキやロード・ウォリアーズの出現でペイントレスラーが全盛だったこともあり、日本でも注目を集めた[17]。