「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2011.04.04
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カテゴリ: モンテネグロ
「モンテネグロ旅日記」 Montenegro 記録として・・・(辞書ウィキペディアさまより)・・・特に長いので読まないで下さい♪



モンテネグロは、

ヨーロッパ南東部、バルカン半島に位置する国。

セルビア・モンテネグロを構成する2つの共和国のうちのひとつであったが、

2006年6月3日に独立を宣言した。

モンテネグロ政府公式ウェブサイトでは首都は行政機関所在地であるポドゴリツァ(旧称チトーグラード)とされるが、モンテネグロ憲法によると

首都はツェティニェである。

   国名について・・・



自国では「黒い山」を意味するツルナ・ゴーラ(Црна Гора、Crna Gora)と呼ぶ。

モンテネグロ(Montenegro)とはヴェネツィア語による名称で、

意味は同じく「黒い山」である。

公式の英語表記は、Montenegro。

日本語での表記はモンテネグロ。

2007年10月の新憲法制定に伴い、

それまでのモンテネグロ共和国

(Република Црна Гора、Republika Crna Gora)から共和国が外された。


歴史

言語的、文化的にはセルビア人との違いはほとんどない。

宗教も同じ正教会だが、セルビアで主流のセルビア正教会の他に、

マケドニア正教会とセルビア正教会に併合されたモンテネグロ正教会も復活して存在する。

1990年代後半から経済的・政治的利害の相違、

セルビア人中心の国家運営に対する不満などから独立運動が盛んになり、

自分をセルビア人とは別個のモンテネグロ人と考える人が増えつつある。

これには、古代モンテネグロ人の祖先が、

南スラヴ人とは別個のイリュリア人だった可能性も背景にある。

1516年にツェティニェ家による神政政治が確立した。

これがモンテネグロが独自に持った最初の国家形態である。

ツェティニェ家はその神政政治という性格から叔父から甥へと主教座が継承され、

オスマン帝国のスルタンに朝貢を続けながら国家を存続させた。

ツェティニェ家は1852年に世俗的な公へと転化し、モンテネグロ公国が成立した。

これを契機として宗主国オスマンとの武力衝突に発展し、

ロシア帝国の支援を仰ぐことになった。

1878年、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約、

ベルリン条約でオスマン帝国からの完全な独立を承認された。

1905年に憲法が制定されて、

モンテネグロ公はモンテネグロ王と規定しなおされ、

国号はモンテネグロ王国になった。

公国および王国の初代君主はニコラ1世で、1918年までその地位にあった。

北をオーストリア・ハンガリー帝国、

南をオスマン帝国に挟まれる地政学的条件を背景として、

モンテネグロはロシアとの協調を対外関係の機軸とした。

第一次世界大戦では、

セルビアに対していくらかの援助を行った。

このためモンテネグロは

オーストリア・ハンガリー帝国に占領されることになり、

ニコラ1世はフランスへと亡命した。

その後モンテネグロはセルビア軍によって占領され、

1918年に成立したセルビア・クロアチア・スロベニア王国(のちユーゴスラビア王国)に取り込まれた。

以後はユーゴスラビアの中の一地域となった。

ニコラ1世とその子孫はモンテネグロ王位を請求し続けたが、実らなかった。

第二次世界大戦でユーゴスラビアは

イタリアとドイツによる侵攻を受け、分割された(ユーゴスラビア侵攻)。

モンテネグロはイタリアの占領下に置かれ、

傀儡国家モンテネグロ王国の統治下に置かれた。

しかしパルチザンの抵抗の結果、

1944年に枢軸軍は撤退し、

モンテネグロは再びユーゴスラビアに復帰した。

建設されたユーゴスラビア社会主義連邦共和国においては

連邦を構成する6つの共和国の一つモンテネグロ人民共和国、

1963年からはモンテネグロ社会主義共和国として存続した。

1991年から始まったユーゴスラビア紛争においても

モンテネグロ共和国はセルビアと歩調を合わせており、

最後までユーゴスラビア連邦共和国から離脱しなかった。

1997年の選挙でミロ・ジュカノヴィッチが大統領に就任した頃から、

分離独立の示唆が行われて来ていた。

1999年のコソボ紛争でもセルビアの行動を非難し、アルバニア難民の受け入れに努めた。

コソボ紛争後、

通貨や関税に関してセルビアから独立し、徐々に独立の動きが強まっていった。

これに対して欧州連合は

モンテネグロの独立がヨーロッパ地域の安定に必ずしも好影響を及ぼさないという立場から、

モンテネグロとセルビアの仲介に動き出した。

こうした欧州連合の努力により、

2003年2月には

3年後の2006年以降に

分離独立の賛否を決める国民投票を実施できるという条件付きで

国家連合セルビア・モンテネグロが成立した。

新国家は

セルビア・モンテネグロ内で圧倒的にマイノリティーであるモンテネグロに対して

セルビアとの間に最大限の平等を保障していたが、

それでもモンテネグロは共同国家の運営に対して非協力的であり、

モンテネグロ独自の外交機関、軍事指揮系統を有していた。

このため連邦国家としてのセルビア・モンテネグロはほぼ有名無実の状態になっていた。

2006年5月21日に、

セルビアからの分離独立の可否を問う国民投票が実施された。

欧州連合は、

セルビア・モンテネグロでなければ欧州連合への加盟を認めないという立場を取っていたが、

投票の直前には「50%以上の投票率と55%以上の賛成」というハードルに切り替えた。

一方で独立支持派は

「モンテネグロの独立こそが欧州連合加盟への早道」であるとするキャンペーンを展開した。

投票の結果、投票率86.5%、賛成55.5%で欧州連合の示した条件をクリアした。

2006年6月3日夜(日本時間4日未明)に

独立賛成派が国民投票の結果に基づき独立を宣言した。

6月5日にはセルビアもセルビア・モンテネグロの継承を宣言して、

モンテネグロの独立を追認した。

6月12日には欧州連合がモンテネグロに対する国家承認を行った。

これにより国際的にモンテネグロの独立が認められた。

両国の独立により

6つの共和国から構成されていたユーゴスラビア社会主義連邦共和国は完全に解体した。

6月28日には国際連合に加盟した。

現大統領はフィリップ・ヴヤノヴィッチ、現首相はイゴル・ルクシッチ。

2007年10月に新憲法を制定し、国名をモンテネグロ共和国からモンテネグロに変更した。

・・・・・・・・・・・・・以上(辞書ウィキペディアさま参照・・・・・・・

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最終更新日  2011.04.04 14:58:54
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