アンの人生をともに歩むことで大いなる感動を得られるのは、 ①
アンの知的な世界観が魅力的だからなのではないでしょうか。高尚で、気高いよろこびを知ることの意義深さを、アンは教えてくれるように思います。そして、 ②
アンほど「哲学の得意な」かしこい娘でも、自分がほんとうに愛しているのはだれなのかということに関しては、おろかしいほどわかっておらず、 ③
運命の女神に助けられなければ、さとりをひらくことができないのです。
第40章『A Book of Revelation』については、妹の翻訳比較記事でもさんざん取り上げて話してますが、掛川訳の『天啓の書』という解釈が強烈というか、罪深いというか…。掛川さんは“ヨハネの黙示録”を否定しているわけではなくて、あくまで“聖書の黙示録”と言われても日本人には受け止め方がよく分からないと思うので、“黙示録”を“天啓の書”と日本人のイメージしやすい形に言い換えただけだと思うんですよ(もちろん、“天啓”という解釈であればこの不可思議なシーンも納得できる!という、誘導の意図も込めた上での言い換えだと思いますが)。 そして、この“天啓”という言葉が強烈で、その後の翻訳家様たちがおおよそ掛川訳の解釈を前提に据えて、“神の啓示を受けるシーンである”という認識に立たれている傾向が見て取れます。 …個人的に率直な見解を言うと、“掛川訳の登場で、本作の解釈が本編には描いてないものを堂々と語る、明後日の方向に行ったな”と思っています。
近年の松本訳・河合訳のいずれの本にも言えることですが、本編の引用・パロディの話をたくさん語られるのですが、とにかくこの第40章『A Book of Revelation』…直訳すると『ヨハネの黙示録』については言及を避ける。“天啓”や“神の啓示”という解釈で押し通そうとする&“黙示録”という単語を濁そうとする。「ヨハネの黙示録」と言ってしまうと、やはり真っ先に出てくるのは“世界終末”の方のイメージなので、解釈筋から外れるからだと思います。
ちなみに私たちの解釈としては、『黙示録』の章は、アンちゃんが一度世界の終末を体験⇒生まれ変わり、新しい世界を生き始める「人生最大の転換点」として描かれているものと認識しています。 “ギルバートの死”に直面する夜の独白シーンは、突如「世界の終わり」が突き付けられた時に、アンちゃんが自身の内側からあふれ出る大後悔を叫んでいるシーンなので、『A Book of Revelation』は『黙示録』と直訳し、世界終末論のイメージを纏った言い回しでなければ意味がないと思っています。