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「夢の中」に戻りまして…付け合わせは紅い福神漬けに、ふくふくと蜂蜜色したラッキョウ。どっちにしようか、ラッキョウだ。カレーとご飯をこれでちょっと落ち着かせて。うーん、真久部さんのカレー、やっぱり最高。牛すね肉もとろけそうなほど煮込んである。辛いんだけど、奥の方に甘味が隠れてて、和らげられた辛さがまたマイルドに刺激的で。爪を隠した辛さにやられて、白いご飯が美味しくってたまらない。箸休めならぬスプーン休めの、冷えたトマトとさらし玉葱のサラダも最高。オリーブオイルを使ったドレッシングはもちろん手作り。勧められるままにお代わりもいただいて、デザートの、新鮮な桃を細かく切って混ぜ込んだプレーンヨーグルトもきれいに平らげてしまう。お腹満足の火照った身体を冷たい麦茶でなだめながら、ふと息を吐く。──はー、俺、何であんなに動揺してたんだろう、たかが似たような本を見つけたくらいで。それにしても……いや、今は満腹で何も考えられない……それがとても有り難い──。「ごちそうさまです。美味しかったです!」お皿を下げに台所に消えていた真久部さんが戻ってきたので、改めてお礼を言う。きっと、自然に笑顔になってる。「どういたしまして。何でも屋さんはいつも本当に美味しそうに食べてくれるから、振る舞い甲斐がありますよ」にっこりと、古猫の笑み。お昼は素麺で済ませました、みたいに涼し気な顔してるけど、この人も俺と同じくらいがっつりカレー食べてた。いつも思うけど、本当に見かけによらないというか、見かけ通りじゃないというか。「ところで、今日は何だか|影《・》|を《・》|背《・》|負《・》|っ《・》|て《・》|い《・》|た《・》|け《・》|ど《・》、何かあったんですか?」嫌なことでもあった? と問われ、俺は困ってしまった。誰にでもある、日常の嫌なこと。コンビニのレジ前で横入りされたとか、電車のシートでぼーっとしてたら、隣でスマホいじってた人が勝手に覗いてると勘違いして睨んできたりとか、ベビーカーの子供が落としたぬいぐるみを拾って渡そうとしたら、暴言とともに引っ手繰られたりとか──。「いえ、大したことは、何も。ただ──」ただ、何だっけ……? そう、続けて落とし物を拾っただけなんだ。そのうちの一つが、三度も俺の前に現れたから戸惑っただけで……同一人物、いや、同一本ではなく、単純に同じタイトルの別の本かもしれないし、常識的に考えたらそうなんだろう。だけれども、そんなものがあちこちに……、まるで俺に見つけてほしいかのように落ちてる意味がわからない。一度目は何も思わず交番に届けて、二度目は不思議に思いながらもやっぱり交番に届けて、そして三度目の今日は……。「実はですね……」一昨日からの落とし物について、俺は語ってみた。標準装備の胡散臭い笑みを薄く浮かべたまま、店主は黙って聞いてくれている。「百万円のほうはいいんですよ、落とし主とは警察で会えたし、喜んでたし、この件はすっかり解決しています。でも、あの本のほうは……、三回目に見つけたときは、さすがに怖くなって拾わなかったんですけどね……」放置とはいえ、自転車の荷台に置いてあるように見えたから、誰かがそこに置き忘れたんだと思うことにしたんです、と付け加える。「そういうことですか……。だから駅前で見掛けたとき、あんなに顔色が悪かったんだねぇ」真久部さんはうなずいて、そんなことがあったら気味悪く思っても仕方ないですよ、と同情を示してくれる。「何でも屋さん、まるで何かに追いかけられているのかと思ったくらい、何度も後ろを振り返りながら歩いてるから、どうしたのかと思ったけれど。とにかく、放っておくと赤信号で交差点を渡ったりしそうだったから、まぁとりあえず、|ここ《慈恩堂》に連れてきたというわけですよ」ちょっとコンビニへ、って出掛けていて良かった、と続ける。「お昼の時間帯は基本的にお仕事入れないようにしてるんでしょう? 時間があるなら、ゆっくりしていってください。──うちの店よりも、そのよく分からない本のほうが怖いみたいだしねぇ?」そんなことを言って、趣味の悪い古猫の笑みを一段と深めてみせる。「……」止めて! 言われてみれば確かにそうだったけど! 意識するとダメっていうか!……古時計の音に重なる、かすかな水しぶきの音。聞き取れないほどと思えるのに、秒針たちの合い間を縫って、木霊のように響いてくるような……。古道具の影から立ち上る、陽炎のような気配はゆらゆらと、目ではなく心が錯覚を起こすように、不可思議な何かがふわりと|解《ほど》けてどこかに溶けて消えてゆく──。『見ない見えない聞こえない。全ては気のせい気の迷い』慈恩堂店番時の極意、今こそ心に宿せ! ……店番はしてないけど。だけど、真久部さんの言うことも本当だ。俺、ここの店番するより、あの|落とし物《本》見つけるほうが怖い──。つづく…
2026年03月05日
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前回更新後あたりから、胃をやられてました……。途中ですが、久しぶりに<俺>の日常話を。これ、書き始めたの、一月だったんですよ……。凍りついたアスファルトの上を、排気ガスが生き物のように這い回る。信号待ちの交差点、ぼんやりと眺める冬の蜃気楼。錯綜するヘッドライト。右折車が対向車の切れ目を狙っている。襟元、見えない冷気が忍び込む。ネックウォーマーに顔を埋めるようにして耐える。凍えた手に、手袋は役に立たない。ただただ悴んでいる。大型トラックのヘッドライトに照らされて、雪が散る。息が凍る。信号はまだ変わらない。黄色点滅、あと少し。寒くて、寒くて──闇の中、雪が凝って花になっていくさまをじっと見ている。風に散らされた雪が、数えきれないほどの花に凝る。あれ? 雪じゃない。あれは雪じゃない。花だ。白い梅の花。道路わきの古木がたくさんの花を咲かせている。昼もここを通ったのに、ちっとも気づかなかった。こんなにも寒いのに、お前は春を忘れていなかったのか。 な忘れそ 春な忘れそ梅の木が教えてくれている。春を忘れるなと。どんなに寒くても、必ず春は来るのだと。大寒の、こんな寒い日に突然逝ってしまったお得意さん。まだそんな年じゃなかった。寒がりで、冬は苦手だと言っていた。『今日も寒いねえ』そんな会話をしていたのは、ほんの数日前のことだった。『今年は特に寒いように思いますよ。春はいつ来るんでしょうね』両腕を擦りながら俺が嘆くと、梅が咲かないとね、と彼は笑った。『故郷の里では、梅が咲いたら春なんだ。 野山がいっせいに花に包まれて、蝋梅に連翹、木瓜の花、桃に桜も加わって』『それは見事な光景でしょうね。いいなあ、花盛りの春かあ』『紅梅より白梅が先に咲く。だから故郷では白梅のことを春の灯と呼ぶんだよ。 暗い冬の終わりを告げる春の灯……』ここに春があるよと、白梅の灯した明りに励まされて花たちが咲き、互いに励まし合いながら冬を押しのけ春を広げていくのだと、そんな昔話があるのだと教えてくれる。『春のともしび。なんか、素敵ですね』『だからかな、俺は花の中でも白梅が一番好きなんだ。 冬の闇に春が灯ると、心にも春が灯るような気がする。あたたかくなって──』そう呟いたときの彼からは表情が抜け落ちて、とても虚ろに見えた。漠然とした不安に襲われて、俺はつい彼の名を呼んでいた。『どうかしたかい、何でも屋さん』不思議そうな顔。『……いえ、何でも』『そう? ──ああ、久しぶりに旅に出たいな。梅が咲いたら旅に出よう 春を追って旅に出るんだ』雪のちらつく鈍色の空を見上げた彼の、磨き上げた水晶のような透明な瞳。ここではない遠いどこかを見るような……自分の命が潰えるときを知っていたのか、それとも──。いや、彼は寒い冬に春の灯を見つけて、励まされて咲く花たちを見るために旅に出たんだ。きっとそうだ。浅い春の訪れとともに去った人。出会いも別れも、いつも突然だ。だけど──。 な忘れそ 春な忘れそ忘れないよ。
2026年03月04日
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