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源氏物語〔2帖帚木 ははきぎ2〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語2帖帚木の研鑽」を公開してます。嵯峨(さが)天皇の皇子、源融(みなもとのとおる)の左大臣の子息たちは宮中の御用をするよりも、源氏の宿直所への勤めのほうが大事と考えていた。そのうちでも宮様腹の中将「頭中将の実母(左大臣の正妻)」は最も源氏と親しくなっていて、遊戯をするにも何をするにも他の者の及ばない親交ぶりを見せた。大事がる舅の右大臣家へ行くことはこの人もきらいで、恋の遊びのほうが好きだった。結婚した男はだれも妻の家で生活するが、この人はまだ親の家のほうにりっぱに飾った居間や書斎を持っていて、源氏が行く時には 必ずついて行って、夜も、昼も、学問をするのも、遊ぶのもいっしょで、謙遜もせず、 敬意を表することも忘れるほど仲よしになっていた。五月雨がその日も朝から降っていた夕方、殿上役人の詰め所もあまり人影がなく、桐壼も平生より静かな時に、灯りを灯していろいろな書物を見ていると、置き棚にあったその本を取り出した。それぞれ違った色の紙に書かれた表面を覆っている手紙の殻の内容を頭中将は見たがった。無難な所を少しは見せてもいい。見苦しいのがあるからと源氏は言い、見苦しくないかと気になさるのを見たいのですよ。平凡な女の手紙なら、私には私相当に書いて下さるからいいんです。特色のある手紙で、怨みを言っているとか、ある夕方に来てほしと書いて来る手紙で、そんなのを拝見できたらおもしろい。
2024.06.02
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源氏物語〔2帖帚木 ははきぎ1〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語2帖帚木の研鑽」を公開してます。源氏物語2帖帚木(ははきぎ)を研鑽。桐壺帝が命名した光源氏、すばらしい名で、青春を盛り上げてできたような人と想像できる。また自由奔放な好色生活が想像されるが、実際はそれよりずっと質素な心持ちの青年だった。その上恋愛という一つのことで後世へ自分が誤って伝えられるようになってはと、異性との交際を極力内輪にしていたのであるが、ここに書く話のような事が伝わっているのは世間のうわさからおもしろがって広まる。自重してまじめな風体の源氏は恋愛風流などには疎かった。好色小説の中の交野の少将(中納言なる人物が交野の鷹狩りが縁で大領の娘と契るが、以後訪れないため娘は投身自殺をはかるという物語)には笑われていたであろうと思われる。中将時代にはおもに宮中の宿直所に暮らしていた時、たまにしか舅の左大臣家へ行かないので、左大臣は光源氏が別に恋人を持っているかのような疑いを受けていた。舅の左大臣は世間にざらにあるような好色男の生活はきらいであった。まれには風変わりな恋をして、たやすい相手でない人に心を打ち込んだりする欠点はあった。梅雨のころ、帝の謹慎日が幾日かあって、帝の傍に仕える大臣は家へも帰らずに皆宿直する。こんな日が続いて、源氏の御所住まいが長くなった。大臣家ではこうして途絶えの多い婿君を恨めしくは思っていたが、やはり衣服その他贅沢を尽くした新調品を御所の桐壼へ運ぶのに飽きることはなかった。
2024.06.01
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源氏物語〔1帖桐壺24〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1帖桐壺の研鑽」を公開してます。申の刻(午後四時)に源氏の君が参った。上で二つに分け、耳の所で輸にした童形の礼髪を結った源氏の顔つき、少年の美、これを永久に保存しておくこ とが不可能なかと惜しまれた。理髪の役は大蔵卿で、美しい髪を短く切るのを惜しまれた。帝は御息所がこの式を見たならばと、昔を思い出すことで堪えがたく、悲しみを抑えていた。加冠が終わり、いったん休息所に下がり、そこで源氏は服を変えて庭上の拝(大饗の儀式)。参列の諸員は皆小さい宮人の美に感激の涙をこぼす。帝はまして自制できない感情があった。藤壼の宮を迎えて以来、紛れていることもあった昔の哀愁が今一度に蘇った。まだ小さくて大人の頭髪の形になることは、その人の美を損ねないかという懸念もあるが、源氏の君には驚くほどの新彩が加わって見えた。加冠の大臣には夫人の内親王との間に生まれた令嬢があった。東宮から後宮にと望んだが受られず返辞を躊躇していたのは、初めから源氏の君の配偶者に疑っていたからである。大臣は帝の意向をも伺った。それでは元服したのちの彼を世話する人もいることであるから、その人と結ばれたらと仰せだったから、大臣はその実現を望んでいた。今日の侍所の座敷で開かれた酒宴に、親王方の次の席へ源氏は着いた。娘の件を大臣がほのめかしても、きわめて若い源氏は何とも返辞をすることができなかった。 帝のお居間のほうから仰せによって内侍が大臣を呼びに来たので、大臣はすぐに御前へ行った。 加冠役としての下賜品はお傍の命婦が取り次いだ。白い大袿に帝の服が一襲(一つに重ねた)で、 これは昔から定まった品である。酒杯を賜わる時に、次の歌を詠まれた。「いときなき初元結ひに長き世を契る心は結びこめつや」
2024.05.28
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「やすら殿の所へ行っていた」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。九十段の一大納言法印が召し使っていた乙鶴丸が、やすら殿という者とねんごろになり、常に行き通っていた所、ある時乙鶴丸が外出して帰ってきたのを、法印が、どこへ行ってきたのと質問すると、やすら殿の所へ行っていたと言う。そのやすら殿は、俗人か法師かとまた質問されて、袖をすり合わせて、どうでしょうか。頭を見ませんでしたとお答えした。どうして頭だけ見えなかったのだろう。九十一段の一赤舌日(しゃくぜちにち)という事は、陰陽道には問題にしないことである。昔の人はこれを忌み嫌う事はしなかった。何者が言い出し始めたのか。この日ある事は、最後まで成し遂げられる事はないと言った。
2023.06.22
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源氏物語〔1帖桐壺25〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1帖桐壺の研鑽」を公開してます。杯を賜るついでに、 いたいけな宮が初めて髪を結ぶ元結には末長い寿ぎ(ことほぎ/祝いの言葉を唱えて神に祈る)の気持ちに娘との末長い縁の願いをこめたであろうの元結の礼に結婚の祝福のご趣向もあって大臣をはっとさせていた。大臣の女との結婚にまで話が及び、天皇が綴る和歌は大臣を驚かした。「結びつる心も深き元結ひに濃き紫の色しあせずば」と返歌を奏上してから大臣は、清涼殿の正面の階段を下がって拝礼をする。左馬寮の御馬と蔵人所の鷹をその時に賜わった。そのあとで諸員が階前に出て、官等に従ってそれぞれの下賜品を得た。この日の饗宴の席の折り詰めの料理、籠詰めの菓子などは皆右大弁の命令により作った物である。一般の官吏に賜う弁当の数、一般に下賜される絹を入れた箱の多かったことは、東宮の元服の時以上であった。夜源氏の君は左大臣家へ婿になって行った。この儀式にも善美は尽くされた。 高貴な美少年の婿を大臣はかわいく思った。姫君のほうが少し年上であったので、年下の少年に配されたことを、不似合いに恥ずかしいことに思っていた。この大臣は大きい勢力を持った上に、姫君の母の夫人は帝の同胞だったが、あくまでもはなやかな家である所へ、今度また帝の愛子の源氏を婿に迎えたのであるから、東宮の外祖父で未来の関白と思われている右大臣の勢カは比較にならぬほど気押されていた。
2024.05.29
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「〔25〕七日の御産養(うぶやしない)―九月十六日」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。小大輔(こたいふ 中宮の女房 素性未詳)、源式部(げんしきぶ 中宮の女房 加賀守源重文の娘)、宮木(みやぎ)の侍従(中宮の女房 素性未詳)、五節(ごせち)の弁(中宮の女房 中納言平の惟仲の養女)、右近(中宮の女房 素性未詳)、小兵衛(こひょうえ 中宮の女房 左京大夫源明理の娘)、小衛門(こえもん 中宮の女房 素性未詳)、馬(中宮の女房)、やすらい(中宮の童女 素性未詳)、伊勢人(やすらいの注記の混入か)など。端近くに座っていたのを、左の宰相の中将(源経房 道長の妻明子と兄弟)と殿のご子息の中将の君(教通 十三歳)が誘い出されて、右の宰相中将兼隆(かねたか)に棹をささせて、舟にお乗せになる。一部の女房たちは船に乗らないでそっとぬけて残ったが、やはりうらやましいのだろうか、池のほうに目をやっていた。真っ白な白砂の庭に、月の光が照り返し、その月光に映えて女房たちの白装束の姿や顔つきも、風情がある。北の陣に牛車がたくさん停めてあるというのは、内裏の女房が来たからだ。藤三位(左大臣師輔の娘繁子)をはじめとして、侍従の命婦(素性未詳)、藤(とう)少将の命婦(藤原能子)、馬の命婦(『枕草子』の「猫の乳母」と同一人だろうか)、左近の命婦(素性未詳)、筑前の命婦(後に彰子に従い出家した)、少輔の命婦(素性未詳)、近江の命婦(素性未詳)などであると聞いた。
2024.01.11
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源氏物語〔1帖桐壺26〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1帖桐壺の研鑽」を公開してます。左大臣は何人かの妻妾から生まれた子供を何人も持っていた。内親王腹のは今蔵人少将であって母宮との間には蔵人の少将の位にとても若く見目よい方がいて年少の美しい貴公子であるのを左右大臣の仲はよくないが、その蔵人少将をよその者に見ていることができず、大事にしている四女の婿にした。これも左大臣が源氏の君を大切がるのに劣らず右大臣から大事な婿君として、かしずかれていたのはよい一対のうるわしいことであった。源氏の君は帝が傍を離しにくくしているので、ゆっくりと妻の家に行っていることもできなかった。源氏の心には藤壼の宮の美が最上のものに思われてあのような人を自分も妻にし たい、宮のような女性はもう一人とないであろう、左大臣の令嬢は大事にされて育った美しい貴族の娘とだけはうなずかれるがと、こんなふうに思われて単純な少年の心には藤壼の宮のことばかりが恋しくて苦しいほどであった。元服後の源氏はもう藤壼の御殿の御簾の中へは入れていただけなかった。琴や笛の音の中にその方がお弾きになる物の声を求めるとか、今はもう物越しにより聞かれないほのかなお声を聞くとかが、せめてもの慰めになって宮中の宿直ばかりが好きだった。五、六日御所にいて、二、三日大臣家へ行くなど絶え絶えの通い方を、まだ 少年期であるからと見て大臣はとがめようとも思わず、相も変わらず婿君のかしずき騒ぎをしていた。
2024.05.30
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源氏物語〔1帖桐壺21〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1帖桐壺の研鑽」を公開してます。臣下の列に入れて国家の柱石にすることがいちばんよいと決めて、以前にもましていろいろの勉強をさせた。大きな天才らしい所が現われてくると人臣にするのが惜しいという気持ちになったが、親王にすれば天子に変わろうとする野心を持つような疑いを当然受けそうにお思われた。上手な運命占いをする者に尋ねても同じような事を言うので、元服後は源姓を賜わって源氏の何がしにしようと決めた。年月がたっても帝は桐壼の更衣との死別の悲しみを忘れることができなかった。慰みになるかと思い美しいと評判のある人などを後宮へ召いたこともあったが、結果はこの世界には故更衣の美に準ずるだけの人もないという失望を味わうことになっただけである。そうしたころ、先帝桐壺帝の従兄あるいは叔父君桐壺帝の父か兄の第四の内親王で美しいことをだれも言い、母君の后が大事にしている方のことを、帝のそばに奉仕している典侍は先帝の宮廷にいた人で、后の宮へも親しく出入りし、内親王の幼少時代も知り、現在でも顔を拝見する機会が多く帝へ話した。お亡れになった御息所の容貌に似た方を、三代も宮廷にいた私すらまだ見たことがないのに、后の宮様の内親王様だけがあの方に似ていることにはじめて気がつき、とても美しい方です。もしそんなことがあったらと大御心(おおみごころ)が動いて、先帝の后の宮へ姫宮の入内のことを懇切に 申し入れた。后は、そんな恐ろしいこと、東宮のお母様の女御が並み外れな強い性格で、桐壷の更衣が露骨ないじめ方をされたと話はとん挫していた。
2024.05.25
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源氏物語〔1帖桐壺23〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1帖桐壺の研鑽」を公開してます。桐壺更衣によく似たあの方と親しくなりたいという望みが心にあった。帝には二人とも最愛の妃であり、最愛の御子であった。帝は藤壺へ彼を愛してあげなさいと言い、不思議なほどあなたとこの子の母とは似ていると言った。失礼だと思わずにかわいがってやってください。この子の目つきや顔つきがまたよく母に似ていますから、この子とあなたとを母と子と見てもよい気がしますなど帝がおとりなしになると、子供心にも花や紅葉の美しい枝は、まずこの宮へ差し上げたい、自分の好意を受けてという態度をとるようになった。現在の弘徽殿の女御の嫉妬の対象は藤壼の宮であったからそちらへ好意を寄せる源氏に、一時忘れられていた旧怨も再燃して憎しみを持つことになった。女御が自慢にし、ほめられてもおいでになる内親王方の美を遠くこえた源氏の美貌を世間の人は言い現わすために光の君と言った。女御とし て藤壼の宮の御寵愛が並びないものであったから対句のように作って、輝く日の宮と一方を申していた。源氏の君の美しい童形を変えたくないように帝はおぼしめしたが、いよい よ十二の歳に元服をさせることになる。男子が成人になったことを社会的に承認し祝う通過儀礼の儀式の元服式の準備も何も帝御自身で指図された。前に東宮の元服式を紫宸殿であげた時の派手やかさにせず、その日官人たちが各階級別々にさずかる饗宴の仕度を内蔵寮、穀倉院などでするのは公式の仕度で、十分でないと仰せがあって、華麗をきわめたものにした。清涼殿は東に面しているが、庭の前の座敷に玉座の椅子が置かれ、元服される皇子の席、 加冠役の大臣の席がそのお前に出きていた。
2024.05.27
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源氏物語〔1帖桐壺27完〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1帖桐壺の研鑽」を公開してます。新夫婦付きの女房はことにすぐれた者をもってしたり、気に入りそうな遊びを催した り、一生懸命である。御所では母の更衣のもとの桐壼を源氏の宿直所にお与えになって、御休息所に侍していた女房をそのまま使わせておいでになった。更衣の家のほうは修理の役所、内匠寮へ帝が命じて、非常にりっぱなものに改築された。もとから築山のあるよい庭がついた家であったが、池なども以前よりずっと広くされた。二条の院がこれである。 源氏はこんな気に入った家に自分の理想どおりの妻と暮らすことができたらと思って始終嘆いて溜息をついていた。光の君という名は鴻臚館を訪れた高麗人が、源氏の美貌と天才を褒め名付けた言われている。光源氏の母の桐壺更衣が他界したのは光源氏が3歳の時である。私の母が他界したのは3歳半の時で入水し引き上げられ自宅へ送り届けられた実母の生前の姿は断片的にしか記憶がない。顔は全く記憶がなく私が36歳の時の33回忌で母の顔写真を始めて見た。この事からも桐壺更衣に似た帝の妃の藤壺に心惹かれる表現は小説の世界だからなのだろう。源氏物語1帖桐壺はこれで終り、明日よりは光源氏17歳からの源氏物語2帖帚木(ははきぎ)を研鑽し公開していきたいと思います。
2024.05.31
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「平和的なデモに多くの死者」 「中国上海写真ライフ」では、新疆ウルムチの写真を公開しています。 下記の記事は2009年7月7日01:30のニュースから抜粋。私はまだ5月末に新疆ウルグイ自治区にいた。その時には平穏なウルムチの風景が撮れている。中国・新疆ウイグル自治区ウルムチで多数の市民と、武装警察が衝突した騒乱で、新華社通信は6日、150人が死亡、1000人が負傷し1800人を拘束と伝えたが、実際には400人以上が死亡し中国側で人数規制しているよう?死傷者数はさらに増える見通しであり、更に、1949年の建国以来、当局が認めた少数民族の、騒乱では最大級の規模とみられる。昨年3月のチベット暴動では死者約20人を出した。 新華社によると、ウルムチで5日夜にあった騒乱では、バスやタクシーなど約260台の車両が焼かれ、約200軒の商店が破壊された。地元警察当局は騒乱に関与した疑いで数百人を逮捕。この中に少なくとも12人の扇動者がおり、さらに約90人の行方を追っているという。 今回の騒乱は海外の者が指揮し国内の者が行動を起こした、典型的で計画的、組織的な暴力・破壊・略奪事件と断定した。 広東省の工場でウイグル族の出稼ぎ労働者が襲われた事件や、民族的な差別に抗議するため、約1万人が5日夜、ウルムチの4カ所で平和的なデモをしたが、参加者が武力鎮圧を受けた。 私は青海から藍州(敦煌)へ、そして今回デモ鎮圧で多数の、死傷者が出た新疆ウルムチやカシュガル方面へ旅をした。ウルグイ人の若者とも一緒に食事をした後、彼らの神聖な、モスクへも案内され、写真も撮らせて頂いた。新疆では石油が取れる事でも有名で写真は石油採取機であり、このような風景は8キロに渡り、まだまだ石油が取れる。少数民族の人達が中国の国旗を手に掲げているにもかかわらず、そのデモを武力で鎮圧し多くの死傷者を出した事に対して、真相を必ず明かして報道して頂きたいと願うものである。
2009.07.07
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「上海豫園旅情47」質問--楽天ブログ以外にブログを書いてますか?楽天だけ・他に一つ・他に二つの三択。「皆さんからのコメント」楽天だけです。何もやっても三日と続かない私が、不思議にこのブログだけは4年近く続いています。楽天と、ほかに1つエキサイトで書いてます。ほとんど内容は楽天と同じ、もう少し詳しい、アンチャン王子のお散歩日記です(2001年開始)楽天だけで精一杯です。まだ自分の思うように、書けてない、表現できてないというのが現実です。質問--日本語の他に勉強している言語がありますか?日本語だけ・他に一つ・他に二つの三択。二つとも、問題ではないので回答は有りません。皆さんからのコメントは画像の下にあります。(豫園に限らず中国では屋根の先が反っている)Englishを学習しています。日常会話を話す事と、聞き取ることを主体として学習しています。一時、ハングル語をと思いましたが、難しくて・・・無理でした。日本語以外の勉強はしておりません。-----ここまで------上下の画像は、中国の屋根の反り返った光景を、更新したものですが、このような光景は日本にもある。その殆どの建築技法や設計方法は中国から、伝来したものである。一般の民家にもこの反り返った屋根の形を、取り入れている所もあるが、全般に寺や廟に多い。質問--中国の屋根の反り返りは何を模ったものか?中国の鳳凰の羽根・龍の尻尾・釈迦の手の平の三択。(豫園に限らず中国では屋根の先が反っている)
2006.08.04
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「遺体も凍ったまま登山家の目に映る」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。エベレストを目指す登山家の栗城史多(のぶかず)を知ったのは5年前の事。8167m・ヒマラヤの登頂シーンをインターネットで生中継した登山家だ。2009年単独エベレスト登頂で9本の指に凍傷を負い第2関節から切断した。2012年エベレスト西稜登頂で両手・両足・鼻に重度の凍傷を負ってしまった。この時点で手の指9本の大部分を失うがエベレスト登頂目指しネット配信。2018年5月21日午後3時にエベレスト下山途中の栗城が遺体で発見と発表。下山を始めたが無線連絡に反応しなくなり撮影隊が息絶えた栗城さんを発見。右手親指以外の両手9本の指を失ってもエベレスト登頂を目指していた。facebookには栗城(くりき)さんから多くの勇気や挑戦する姿をありがとうと。栗城さんは午前10時頃体調悪化で7400m地点から下山を始めたと配信した。午前0時にエベレストの苦しみも困難も感じ感謝しながら登ってますと配信。「栗城史多さんが最後に配信した亡くなる15時間前の音声facebook」2015年秋エベレスト登頂に5度挑戦するも残り700mの8150m地点で下山。2016年1月NHKで「5度目のエベレストへ挑戦ー栗城史多」の番組も見た。エベレストで単独撮影する方法も話していたが3倍の時間が掛かっている。マイナス30度のエベレストで遭難した遺体も凍ったまま登山家の目に映る。216人もの命が絶たれ150人の放置されたままの遺体は登山家の道標になる。生きて帰って来る事を誓ってたが栗城史多さんは残念な結果になってしまった。栗城史多さんの遺体回収が出来るかどうか分からないがチームは挑戦してほしい。7200m付近のキャンプ地だが栗城史多さんのご冥福をお祈り申し上げます。
2018.05.22
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源氏物語の女性たち3「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「紫式部が書いた源氏物語に登場する女性たち」末摘花(すえつむはな) 常陸宮(ひたちのみや)の姫君。契りを結んだ翌朝大きな赤鼻の醜女だったことを知る源氏だったが末摘花とは生涯関り続けた女性の一人。 美男美女ぞろいの源氏物語の中では異色の不美人である。源氏は彼女の困窮ぶりに同情し、また素直な心根に見捨てられないものを感じて、彼女の暮らし向きへ援助を行うようになった。名前の末摘花はベニバナのこと。源典侍(げんのないしのすけ) 桐壺帝に仕える高齢の女官。登場人物の一人の通称。年配だが色好みの高級女官として「紅葉賀」では五十七歳「葵」「朝顔」に登場する。先祖は皇族に連なる家の出身。琵琶を得意とし、趣味、教養、家柄、能力等、女官として申し分のない女性だが、年に似合わぬ色好みで有名であった。夫は修理大夫(すりのかみ)。朧月夜(おぼろづきよ) 右大臣の6番目の娘。弘徽殿女御の妹で朱雀帝の尚侍(ないしのかみ)。朧月夜は自ら光源氏と逢う機会をつくり、五十四帖「若菜」で光源氏と大恋愛するが、朧月夜は光源氏の実の兄である時の天皇に嫁ぐはずだった。光源氏との恋愛が発覚し白紙に。朧月夜の父は光源氏の政敵であり、光源氏は京都から須磨へ移り住むことに。朝顔の姫君(あさがお) 桃園式部卿宮(ももぞのしきぶきょうのみや)の娘、斎院。源氏に求婚されたが拒み通した。藤壺の死去と同じ頃、源氏の叔父の桃園式部卿宮も死去した。その娘、朝顔は賀茂斎院を退いていたが、若い頃から朝顔に執着していた源氏は、朝顔と同居する叔母女五の宮の見舞いにかこつけ頻繁に桃園邸を訪ねる。朝顔も源氏に好意を抱いていたが、源氏と深い仲になれば、六条御息所と同じく不幸になろうと恐れて源氏を拒んだ。六条御息所(ろくじょうのみやすどころ) 先の春宮妃。教養高く優雅な貴婦人だが、源氏への愛と恨みから怨霊となって女君たちに呪い祟る。光源氏の最も早い恋人の一人で、東宮の死後、年下の光源氏と恋愛関係に陥るが、美しく気品があり、矜持の高い彼女をやがて持て余し、逢瀬も間遠になる。源氏にのめり込む御息所は、源氏を独占したいと思いと年上だという引け目、自分を傷つけまいと本心を押し殺す。強い嫉妬のあまり、生霊として源氏に関わる女性を殺す。
2024.05.04
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源氏物語〔1帖桐壺16〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1帖桐壺の研鑽」を公開してます。勿体なさをどのように始末してよいやら。こうした仰せを承っても愚か者はただ悲しいとばかり思われる。「荒き風防ぎし蔭の枯れしより小萩が上ぞしづ心無き/厳しい世間の風当を防いでいた母君の桐壺の更衣が亡くなってから、若宮のことが心配で気がかり」というような、歌の価値の疑わしいようなものもあるが、悲しみのために落ち着かない心で詠んでいるのであるからと寛大に御覧になり、帝はある程度はおさえていなければならぬ悲しみであると思うが、それが困難なようだ。はじめて桐壼の更衣の上がって来たころのことなどまでが心の表面に浮かび上がってきてはいっそう暗い悲しみが帝の心を痛めた。その当時しばらく別れているということさえも自分にはつらかったのに、こうして一人でも生きていられるものであると思うと自分は偽り者のような気がするとも帝は思われた。死んだ大納言の遺言を苦労して実行した未亡人への酬いは、更衣を後宮の一段高い位置にすえることで、そうしたいと帝はいつも思っていた。今となっては何もかも皆夢に終わって、未亡人に限りない同情をされてた。しかし、桐壺更衣はいなくても若宮が天子にでもなる日が来れば、故人に后の位を贈ることもできる。それまで生きていたいとあの夫人は思っているだろうという仰せがあった。命婦は贈られた物を御前へ並べた。これが唐の幻術師が他界の楊貴妃に会って得て来た玉のかんざしであったらと、帝は甲斐ないこともお思いになった。
2024.05.20
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