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《どんな社会も人間の識別を必要とする。ただ識別の方式が多様であれば、それなりに「公平」が保証される。人間はすべて同じというあの形式平等だけが進めば、多様な生き方が失われ、単一の尺度に基づく人間差別が裏で進行する》(西尾幹二「競争回避 日本の文明病」:『日本の教育 智恵と矛盾』(中央公論社)、p. 61)
我々には、人それぞれ「個性」があり、何がしかの「違い」がある。つまり、「平等」ではない。にもかかわらず、人は皆、平等でなければならないなどと抽象的な「正義」を振り翳(かざ)して、事ある毎に「差別」だ、「差別」だと言い立てるのは社会活動を麻痺させるだけである。大事なのは、人と人との「違い」をどう扱うのかということであり、「公正」さが求められるということだ。
《人間はみな同じという形式平等が進めば人間は多様さを失い、同類は頂点を目指して競い合うのが常であるから、横に拡がらず、垂直の単純な物理的な運動が始まる。下位は自分よりさらに下位のものをその存立の必要上欲求する。自分の優越感を正当化するために、つねに自分より下位のものを押し下げると共に、自分より上位のものを無意味に権威づける》(同、 p. 64 )
平等主義は、醜悪な上下争いを誘発する。それを権力によって抑圧するのが共産主義である。
《「平等」はある一定の限界を越えると社会的効率を阻害するし、幸福を破壊するものなのだ。社会は円滑に運営されて行くためにはどれだけ必然的に「不平等」であることが必要であるか。言い換えれば、社会の効率が一定水準で維持されるためには、人間はどれだけ多様で、個性的で、分業し合って生きて行くことが必要であるか。今そういうことを考えなければならない時代だ》(同、 pp. 65f )
「格差」を抑え込むために競争することを嫌えば、社会の活力が殺がれてしまうだろう。だとすれば、一定の「格差」は許容されてしかりということになる。問題は、どの程度の「格差」を認めるのかということであるが、それは何らかの計算式で計算できるようなものではない。「格差」の許容範囲は、社会の慣習や慣例、人々の仕来りや習わしといった文化によって定まると言うしかない。要するに、平等と格差の平衡点はどこにあるのかと言えば、それは「伝統」の中に宿るということになろう。
つまり、伝統から外れなければ、「公正」さは保たれようが、伝統に背けば、平等と格差の平衡が崩れ、不平等感が増すということだ。
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