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《北朝鮮の国民統制思想が「主体思想」と呼ばれていることに象徴されるように、文脈によって規定されていない“主体性”の帰結として、民族や国民・国家全体が1つの方向にまとまっていくということは十分ありうる。いくら第三者が、「それは独裁だ、不自然だ!」と言っても、当人たちが「主体的に決めた」と言い張れば、どうしようもない。「主体性」が、他者から教え込まれるものでないとすれば、当人が自発的に身に付けた「主体性」に文句を付けるわけにはいかない。
さらに言えば、「主体性」が「自然に生じてくる」ものだとすれば、各人が自分の生まれ育った環境、つまり、風土や文化、言語の中で培われ、“自然”とその人物の「アイデンティティの基礎」となっているものにコミットする選択を「主体的」に行なったとしても不思議はない。そのような“アイデンティティー”は、後から取って付けたまがい物だと歴史家や社会学者が批判しても、本人にとって“自然”であれば、「主体的決断」の帰結であることは――主体性はもっぱら自発的に生じてくる――認めざるを得ない》(仲正昌樹『「不自由」論 』(ちくま新書)、 pp. 139f )
中身を問わない〈主体性〉など、それが主体的になされるのであれば、たとえ罪を犯すような場合であっても、取り敢えずは良しなどという馬鹿げた判断にもなりかねない。
《答申は、別の箇所で、「美しいものを美しいものとして感じ取り、それを表現することができる力は、人の有する普遍の価値で」あり、「特に、日本人は、古来より自然を愛(め)で慈(いつく)しみ、豊かな文化を築いてきた」と、極めてソフトで“自然”な形で、郷土愛へと導いている》(同、 p. 140 )
ここで言う〈郷土愛〉は、〈愛国心〉と同じではないことに注意が必要である。〈郷土愛〉とは、生まれ育った土地に対する自然な愛着というものであるが、〈愛国心〉となると、国家という抽象的存在が対象であるから、何某か人工的な印象操作が必要とされることになろう。〈愛国心〉が過剰となり、「ナショナリズム」となって排他的意識が生じるのはそのためである。
《「麗(うるわ)しい国土」の賛美から愛国心へと持っていくのは、19世紀以来ナショナリズムの常套(じょうとう)手段であり、戦前の京都学派や日本浪漫派にもそういう傾向が強く見られた。そのようなものは、近代的「主体性」とは無縁のように思えるが、エクリチュールによる媒介抜きの“自然”を前提にするのであれば、「郷土愛に基づく主体性」を論理的に否定するのは難しい。
「自然な主体性」の言説には、そうした、どっちにころぶか分からない危うさがあるのである》(同)
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